十代の武蔵は、新免の兵法家を相続し、兵法者として自立し、同時にさまざまな流派の兵法者と試合をしていたようである。だが、いつだれと試合をしたか、それらの履歴はほとんど不明である。
そのなかでも例外がある。つまり、それが巌流島の決闘である。ただし、武蔵自身はこの決闘について一切何も記していない(1)。この決闘の初出史料は、決闘現場にほど近い、小倉郊外手向山に設置された武蔵記念碑の碑文である(2)。地元近隣での武蔵事蹟ということで、碑文に記録されたのであろう。
しかし、この決闘はあまりにも有名になりすぎて、多数の書物に書かれ、諸説にぎやかに繁茂して、情報がありすぎるのだが、この決闘については、実際は、ほとんど史実からほど遠い伝説の域にあると言える。
それというのも、18世紀半ばに、この決闘をハイライトシーンとする演劇(歌舞伎及び浄瑠璃)作品が登場して、それが大衆的人気を博し、武蔵の名を世間に知らしめるようになった。現代にいたる巌流島物人気も、そもそも18世紀における演劇作品の成功にその発端を得ている(3)。他方、読本〔よみほん〕に小説化され、これも大いに読まれた(4)。18世紀を通じて、武蔵物は父の仇・佐々木巌流を、巌流島で討ち果たす、という復讐物語になった。この仇討ちという説話パターンは日本人に人気のあったテーマであった(5)。
小倉の碑文では、この決闘の記事はごく簡潔なもので、武蔵の相手は「岩流」〔がんりゅう〕という名号のみ記されていて、その姓は記されていない(6)。ところが、巌流島決闘を演劇化するさいに、武蔵の相手として、「佐々木巌流」という名が創作された。「巌流」は小倉の碑文と同様としても、「佐々木」という姓は演劇作品の作者の創作である。したがって、武蔵の相手は「佐々木」だとするのは、18世紀の演劇作品を起源とするものであって、実際には、いかなる姓であったか不明である(7)。それゆえ、武蔵の対戦相手について、今日「佐々木小次郎」という名が広く知られているが、その「佐々木」姓には根拠はない(8)。
また、小倉の碑文では、この決闘が行なわれた年の記載がない。したがって、巌流島決闘がいつ行なわれたか、本来は不明である。これに対し、肥後系武蔵伝記では、武蔵29歳のときのイベントだとする(9)。また、筑前系の伝記では、この決闘を武蔵19歳のときのことだとする(10)。これは日本人の国民投票で多数決で決めるわけにもいかず、どちらとも決しがたいのだが、地元長門のローカルな伝説をもとにしているという点では、後者のほうに分がある。したがって、ここでは、巌流島決闘は武蔵十代の出来事、つまり19歳、1602年あたりの出来事だとしておく(11)。
武蔵はこの決闘で対戦相手・岩流を倒した。決闘の場所、巌流島は長門国下関(現・山口県下関市)の沖の小島である。もともと舟島という名であるが、地元の人々が敗者・岩流を追悼してこの島に墓を建て、以来この島を「岩流島」と呼ぶようになったという(2)。
武蔵自身が『五輪書』でこの決闘について記していないところをみれば、彼が六十数回行った決闘勝負の一つにすぎず、かれの兵法者としてのキャリアにおいて特記すべき事件ではなかったようである。巌流島決闘が特別な事件になるのは、上述のようにこれが18世紀半ばに演劇化されて世間で有名になって以来のことである。むろんそれは、武蔵本人とは無関係な、後世の人々のしわざである(12)。
(1) 『五輪書』地之巻。13歳の対有馬喜兵衛戦や16歳の対秋山戦は記すが、巌流島決闘の記事はない。
(2) 1654年宮本伊織が建碑した武蔵記念碑の碑文。通称「小倉碑文」。この碑文の記事が、巌流島決闘について記した最初の史料である。
(3) 巌流島決闘の演劇化作品は以下のものがある。――歌舞伎「姉小劍妹手槍敵討巌流島」(1737年)、人形浄瑠璃「花筏巌流島」(1746年)、人形浄瑠璃「花襷会稽褐布染」(1774年)。この系列の作品は敵討がテーマ、しかし武蔵をモデルとする人物が敵討をするのではなく、それを助ける脇役。主役は父の敵を討とうとする姉妹の女性たち。なかでも「花筏巌流島」の趣向は変っていて、巌流は悪役の仮面をつけた善玉という按配。
(4) 代表的な読本作品は、「絵本二島英勇記」(平賀梅雪作 1803年)。ここでは武蔵は「宮本無三四」という名で、二十歳前後の若者。無三四の実父は「吉岡太郎右衛門」。父を暗殺した親の仇=佐々木巌流を討つため、艱難辛苦して諸国を探し廻り、遂に巌流島で討ち果たす。このストーリーがあまりにも普及していたので、明治時代の人名辞典まで、その内容を真に受けて武蔵伝を記していたほどである。
(5) 仇討ちをテーマにした最も有名な作品は、「忠臣蔵」である。こちらは、主君の仇を旧家臣たちが討つというパターンで、1702年に江戸で起った実際の事件を題材にしている。演劇作品は、まず人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(二代目竹田出雲他作 1748年)により定型が形成された。これが大当りとなったので、同じ年の暮に「仮名手本忠臣蔵」は、同じ題名で歌舞伎作品として登場し、以来最も人気のある歌舞伎作品となった。かくして、巌流島決闘の演劇化と、「忠臣蔵」の成立が、まさに同時期なのであった。
(6) ただし、後年の文献だが、「巌流」は人名ではなく、流派名だという説もある。筑前の海事文書『江海風帆草』(立花重根序 1704年)と、それをうけた筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』(立花峯均著 1727年)。前者は、武蔵の対戦相手の名を「上田宗入」とし、後者は「津田小次郎」と記録する。「巌流」は人名ではなく流派名だというのは、実際に因幡鳥取にあり中国地方に広く行われていた「岩流」なる流派をそれと混同したものである。
(7) 「佐々木巌流」の起源は明らかである。巌流島決闘の最初の演劇化作品「敵討巌流島」で、宮本武蔵は「月本武蔵之助」、岩流は「佐々木巌流」という役名を与えられたのである。これは実名を避けるやりかたで、「忠臣蔵」で大石内蔵助が「大星〔おおぼし〕由良助」という役名を与えられるのと同じ方式である。したがって、歌舞伎「敵討巌流島」で岩流が「佐々木巌流」という名を与えられているとすれば、少なくともモデルの岩流は「佐々木」姓ではなかったことはたしかである。この「佐々木」姓は、フィクションであることの指示記号である。
(8) 「佐々木小次郎」の名を出して有名にしたのは、20世紀初頭の『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編 1909年)である。同書はいきなり「佐々木小次郎」という名を出すが、何の典拠も提示していない。同書が参照したであろう肥後系武蔵伝記『二天記』には、本文ではなく注記に、「佐々木小次郎」の名が伝聞情報として記されているが、種本の『武公伝』にはそんな記事はない。これは演劇の「佐々木巌流」が世間に普及した後の、18世紀半ば以降に発生した新しい異説である。
(9) 肥後系武蔵伝記の『武公伝』、『二天記』。武蔵29歳説は他にはなく、肥後のローカルな伝説である。記事に根拠はない。肥後系武蔵伝記は、巌流島決闘という事件を細川家に我田引水する傾向が顕著であり、また小次郎を富田勢源の弟子とするなど、のちの肥後時代に伝説形成された要素が多く、その内容は伝説祖形からかなり離れている。他の諸史料に比して信憑性を欠く記事内容である。
(10) 『丹治峯均筆記』。同じく筑前の海事文書『江海風帆草』では、巌流島決闘は武蔵18歳のときのことである。これら筑前系の史料の説話要素には、地元長門の伝説祖形を保存している部分があり、この点に関する限り、上記の肥後系武蔵伝記の伝説よりはいくらかマシである。
(11) 『江海風帆草』および『丹治峯均筆記』。とくに『江海風帆草』は元禄以前の文書なので、17世紀後期の巌流島伝説では、決闘時の武蔵は十代の若者であったことが確認できる。また、江戸時代から明治期までの読物でも、武蔵はかならず若者、敵役の「佐々木巌流」は中年のゴツい豪傑、と相場が決まっていた。この巌流が、名も「佐々木小次郎」に改まり、前髪の美形の若者に変身するのは、昭和になって以後のことである。
(12) それゆえ、武蔵ファンには気の毒だが、「巌流島決闘は、武蔵の兵法修行の総仕上げをなす最大のイベント、小次郎は武蔵にとって最強のライバル」、ではなかった。そういう設定は、明治末の『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編)の影響下に、小説家たちの頭のなかで発生した空想の産物であり、むろんまったく根拠はない。
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巌流島周辺地図

巌流島

佐々木巌流

花筏巌流島/花襷会稽褐布染

宮本無三四佐々木岸柳仕合之圖 一孟斎歌川芳虎筆

巌流島 武蔵小次郎決闘像
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