むろん、山田治朗吉も森銑三も、史料の時代的制約があって、武蔵を播州宮本村とする以外は、話はかなり胡乱なものである。武蔵「父」新免無二についても、泊神社棟札を知らないから、武蔵の実父だと思い込んでいる。かれらは播磨宮本村説の先達とはいえ、我々との間の研究レベルの落差は大きい。
では、武蔵「父」新免無二は、どういう出自の人だったのか。
むろん、『東作誌』のような後代発生した伝説による美作側資料では何もわからない。作州の「平田武仁」を新免無二と同一視する謬説が、今なお存在するが、これには根拠がない。無二が新免家の「家老」だった、武蔵は播州から美作へ行って新免無二の養子になった、とかいう話に至っては、『東作誌』にすら記事のない、近代の空想の産物である。
それよりもむしろ、無二は播州にいたのではないか。そう考えることも可能である。西播東作を席捲した戦闘のあった天正五〜八年(1577〜80)あたりに、無二の新免家が播州へ退転して来て、小寺(黒田)官兵衛の麾下に入った可能性がある。官兵衛は、当時、秀吉から揖東郡や宍粟郡に領地を与えられ、新興豊臣大名になった。
もう一つの可能性は、無二の「新免」が作州在新免氏ではなく、播州にいた新免氏ではないかという点である。たとえば、黒田二十四騎の菅六之助正利(1567〜1625)は播州生れだが、その家は本来、菅原道真末裔という美作の顕族菅氏一党である。それが祖父の代に美作から播州龍野の近所の揖東郡越部へ移った。『菅氏世譜』(貞享四年・貝原益軒序、明和七年・加藤一純増補)によれば、こうである。
《父は七郎兵衛と號、諱は正元、後に剃髪して一翁と稱す。天滿天神の苗裔なる故に菅を以て姓とす。其先祖は美作の國の人なり。菅四郎佐弘、同五郎佐光、同又三郎佐吉などゝいひし者、後醍醐天皇の為に忠戦有し事、太平記にも記せり。是皆正元の先祖也。正元の父何某、美作の國を去て播磨國に來り、越部の邑に在て近邊を切随へ、小城を搆て住めり。正元も父の跡を續て其家盛なりしが、後に家門衰へ、嫡子正利を黒田孝高公に預け、其身ハ播州に留り住す。天正十五年、正利は孝高公に從て豊前へ下りける》
菅六之助正利の家は、祖父の代に播磨へ流れてきて、(揖東郡)越部村に居ついた。菅六之助はその家に生れた。つまり菅六之助の家は「播州の菅氏」である。こういう例もあるわけである。
したがって、無二の「新免」も、本来は作州だが、菅氏と同じように本国を退転して、播州へ移ってきた家だった可能性がある。このかぎりにおいて、後世の伝説にあるごとく、無二は「播磨人」とするのは、結論だけ取ってみれば間違いではない。今日でも新免を名のる家が播州にはある。したがって、新免を名のるからといって、実際は、作州生まれとはかぎらないのである。
すでに綿谷雪が紹介していたことだが、『菅氏世譜』によれば、菅正利は身の丈六尺二寸の大男で、「新免無二助」に剣術を習い、その後疋田文五郎(豊五郎)にも学んで、新免無二と疋田の二流の奥義を究めたという。
『菅氏世譜』は新免無二と菅六之助の関係を示す珍しい資料である。これは、『黒田家譜』と同年の文書である。しかも貝原益軒が序文を書き、甥の好古が編纂したというものである。早期の無二関係記録(貞享四年)であるが、むろん後世の伝説記録である。ただ、無二が播州時代の黒田勢と関係があったことを示唆する点、注意されるところである。
菅六之助が官兵衛のもとに出仕したのは、天正九年(1581)十五歳のときである。当時、秀吉の播磨制圧が完了し、功のあった官兵衛が、揖東郡に一万石の知行を得たばかりである。あるいは新免無二も揖東郡あたりにいて、官兵衛の与党になったのかもしれない。
いづれにしても、無二はその後、官兵衛以下黒田勢が豊前へ移るとともに九州へ行ったらしいのだが、無二の新免家がいかなるものであったか、不明である。これについては、泊神社棟札の伊織は何の記述もしていない。
ただし、筑前黒田家中には、新免無二についての伝説もあったようである。立花峯均の『丹治峯均筆記』所収「兵法大祖武州玄信公伝来」によれば、無二について、
《邦君如水公ノ御弟、兵庫助殿ノ与力也》
と記す。兵庫助利高(1554〜96)は、播州姫路生れ、小寺職隆二男。義兄官兵衛に付いて播州時代以来戦歴がある。天正十五年(1587)の豊前入国後は一万石、高森城主となった。無二はこの兵庫助利高の与力(外部協力者)というから、黒田家家臣ではない。ただし、新免無二は、伊織の棟札記事によれば、天正年間に筑前秋月城で死んだ。とすれば、それは秀吉の朝鮮役以前のことであり、無二は黒田勢と同道で九州へ来ていたが、それもまもなく死去したことになろう。
これに対し、もう一つ、黒田家中での無二伝説を示す史料があって、黒田家士の分限帳に新免(新目)無二の名がある。これは慶長年中の所属家臣のメンバーリストなのだが、もとよりオリジナルではなく明治の写本であり、その内容も無二に関しては後世の記入が明らかな記事である。ようするに、無二が黒田家臣になったという証拠にはならない代物である。
また上記の筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、関ヶ原合戦の時期まで無二と黒田家との関係を示す記事があるところをみると、新免無二の伝説は黒田家中で、武蔵の名とともに成長したようである。黒田家中には吉田実連以下の筑前二天流の道統があった。
ただし、播磨の地縁を考えれば、新免無二は、播磨で黒田家周辺にいたのであろうし、また、天正十五年(1587)の黒田家豊前転封の際に九州へ行った可能性がある。無二と黒田勢との関わりは、おおむねありうべきこととして認めてよいだろう。
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*【日本剣道史】 《武藏の祖先は播州赤松氏の族で、新免伊賀守と謂て、揖東郡林田の城主であつた。武藏の父は其苗裔で、宮本無二之助一眞と呼んだ》

菅六之助正利像

菅氏世譜
*【菅氏世譜】 《正利ハ、新免無二助に劔術をならひ、其後、疋田文五郎にも學び、二流に達して奥義を究知れり。長政公筑前に入國し給ひて後、何國の者なりしにや、劔術之名人とて、長政公に仕へん事を求て來れる者有り。正利に命じ福岡の城本丸におゐて、木刀にて仕あひをさせられしに、三度打合て三度共に正利勝けれバ、劔術者恥かしくや思ひけん、其後ハいずく共なく逐電したりとなん。正利ハ身の長六尺二寸有り、力群に勝れたり。天性勇猛の質有るのみならず、仁愛の心ふかく、忠義の志淺からず。智恵才力も人に超たりしとかや》

黒田如水像
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