武蔵の出身地はどこか
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史実にあらず――吉川武蔵の虚構  Back   Next 

 昔の講談ならいざ知らず、とはいえ、小説にも虚構があってあたりまえである。だれも小説の内容をそのまま事実だとは思うまい。だが、武蔵物に限って言えば、問題は、そうした武蔵小説を読んだ人々が、虚構を史実として受け取ってしまうことである。
 それだけではない。国民に広く読まれたベストセラー小説が、いつのまにか史実を支配するようになってしまうのである。歴史上実在した人物の場合、それでは不都合なことが生じる。
 地方によっては、町おこし・村おこしの手段として、「観光化」を推進するという方策に出るところがある。身も蓋もない言い方をすれば、観光客がおとす金が目当ての観光化推進策だが、そのためには名所旧跡だけではなく、「有名」な歴史上の人物もネタになる。
 そうして、地域のあちこちに施設を建設し記念碑を建立して、これを旧跡とする。ところが、いかに立派な観光施設を整備したところで、その根拠や典拠は、怪しいものである。
 研究者にとってそのことは言うまでもないはずなのだが、ところが、実はそうではない。ここが問題なのである。虚構と史実、この二つのものの関係は、前者が後者を決定するという関係にある。まさしく虚構が「遺蹟」さえ生産するのである。我々は、その典型例として宮本武蔵を挙げることができる。
 虚構は「史実」の母体である――もし宮本武蔵が、そうした「有名」な歴史上の人物だとすれば、近代においてそれを決定的にしたのが、吉川英治の小説『宮本武蔵』である。
 この小説は、戦前の昭和十年(1935)から四年間、朝日新聞紙上に連載され、作者・吉川英治も編集者も、意外なほどの人気を博し、本として刊行されるやベストセラーになった。戦時体制下のことである。
 
《武蔵のときでも、掲載前に朝日からタイトルで問題が出ました。学芸部の醐醍院氏から電話で、「どうも申上げにくいんだけど、宮本武蔵じゃという社内の幹部会の声なんですが」と暗に題材を更えてほしいような口吻なんです。「それはきっと講談の宮本武蔵を連想されてるんでしょうが、少し変って書きますから、まあそれにしておいて下さい」と、まあ何とかそこを云張って、とにかく始めたものでした。それが僥倖にあんな長くつづくことになつたんですよ》
(吉川英治『折々の記』 戦後版)
 
 これを見るかぎりでは、「宮本武蔵」は当初朝日新聞社内では歓迎されなかったらしい。それ以前の「立川文庫」等の講談筆記本や、大衆向け時代小説では、主人公は邪気のない武闘派の英勇豪傑、ただし艱難辛苦のプロセスをたどって、ついには父親の仇を討つ懲悪的義人だった。そのパターンが確立して典型化していたので、「また武蔵か」という感がだれしもあったのである。
 これに対して、吉川版「武蔵」は、つまり我々の云う「吉川武蔵」は、そうした旧態依然の講談本風武蔵像を完全に一新してしまう、いわば斬新なものだったようである。
 どこが斬新だったかといえば、一般に評論で述べられているのは、武蔵をだれにも共通の等身大の個人として、人生に苦悩し剣の道を探究する「求道的人物」として描いたことだという。しかし、それでは踏込みが足りない。
 吉川武蔵のどこが斬新だったか。まず第一は、敵討〔かたきうち〕、父の仇討ちという江戸時代以来の武蔵物文芸のテーマを抹消したことだ。このテーマはパターン化された勧善懲悪として、近代に入って貶められてきたが、大衆文化の領域ではまだまだ人気があった。それを吉川版「武蔵」は一掃した。
 しかし、そうなると、主人公のアグレッシヴな闘争性向には理由がなくなってしまう。懲悪敵討というテーマは、主人公の殺人的暴力に社会的「理由」を与え、報復行為として承認できるものだった。そして主人公の殺害行為に同一化することによって、読者もしくは観客は自身の暴力欲動を発散することができた。この報復的懲悪的殺害というパターンは、周知のごとく、現代の大衆文芸でも延命している。
 懲悪敵討というテーマを欠く殺害行為は、いわゆる「理由なき殺人」に等しい。誤解の沸立つことを承知の上で云えば、吉川武蔵は、そうした「理由なき殺人」、理由もなく他人を殺害したいというスリリングな欲動を、時代小説に持ち込んだ。それが斬新なところ、近代小説たるゆえんである。
 ただし、いわゆる「純文学」ならそれもありうるが、「理由なき殺人」そのままでは、大衆小説にならない。そこで、大衆が主人公に同一化できるモチーフが必要である。
 それが、旧態依然の武蔵物語が必ず具備していたモチーフ、つまり「主人公が艱難辛苦して目的を達成する」というプロセスである。この艱難辛苦して目的を達成するというプロセス・モチーフがあれば、読者大衆は主人公に同一化できる。そして、この「努力」のプロセスが、「求道」と呼ばれ、「理由なき殺人」さえも合理化する。手段が目的を正当化するというより、手段が目的と化すのである。
 吉川武蔵において特徴的なのは、「艱難辛苦して目的を達成する」というモチーフが、精神修養のプロセスへ変換されたことである。いわば、懲悪敵討の等価代理物が、精神修養である。懲悪敵討の報復的暴力を受け入れない者でも、精神的求道なら受け入れるという奇妙な合理化が可能になった。それは、プロセスが内面化したからである。かくして主人公=読者の「理由なき殺人」は「理由」(reason)ではなく、大義(cause)を獲得する。ただし、それは社会的理由ではなく、個人的大義である。この内面化した構造の意味で、吉川武蔵はモダンなのである。
 ただし、作家の方はかなり屈折している。
 
《自著の宮本武蔵などについても、とかくその闘争性と封建的なる点を批評家にあげつらわれるが、ぼくは由来臆病者で少年頃から体は小さいし弱いし喧嘩は嫌いでしたこともない。剣道などといっても竹刀に手をふれたことさえないのである。ただ武蔵の中にある野性なら、それはまだ封建色のそつくりしていたぼくの少年時代の社会環境と家庭事情とが、否みようもなくぼくを培っていたものだし、ぼく自体の持っていたものには違いない。横浜ドックの一年半の重労働などいま思えばそれであった。武蔵ではないが生きるためにはどうしても非人間的な歯がみをしなければならなかったのである。もしそういう運命のサイクルに会つていなかつたら、武蔵は書いていなかつたろうし、書いてもああした武蔵にはなつていなかつたろうと思う》(同前)
 
 ようするに、吉川武蔵の作家側からするモチーフは、ニーチェ流にいえば、ルサンチマン(ressentiment)である。「生きるためにはどうしても非人間的な歯がみをしなければならなかった」という、いわば貧苦の出身たる吉川の個人的性格や経験の投影物として、「吉川武蔵」は生まれた。ゆえに、最初から「吉川武蔵」には強いバイアスがかかっていた。
 吉川英治は、「ぼくは由来臆病者で少年頃から体は小さいし弱いし喧嘩は嫌いでしたこともない。剣道などといつても竹刀に手をふれたことさえないのである」と言うが、少なくとも、そういう人間が、武蔵を書いてしまうような時代になっていたということだ。吉川英治は、無邪気な武闘派ではなく、いわば文字通り「弱き者」として、従来の豪傑英雄武蔵を解体したのである。
 貧者という社会的弱者、文弱という肉体的弱者、その二重のルサンチマンを抱いて報復に及んだのが、吉川武蔵である。その意味では、この小説そのものが一種の「敵討」だったのである。吉川武蔵は、「敵討」という旧式なテーマを一掃したが、メタレベルではこのテーマを反復していたということである。




武蔵生誕地碑 明治四十四年
三島毅撰文 細川護成字筆
岡山県美作市宮本







『宮本武蔵』初版本 昭和十一〜十四年
大日本雄辨會講談社











繪本二島英勇記
享和三年




佐々木岸柳宮本武蔵繪本英雄美談
明治十九年









吉川英治(1892〜1962)
 ところで、ここで注意すべきは、小説『宮本武蔵』は昭和十年連載開始という戦争期の作品であり、しかもその、いわば社会がもっとも暴力化しようとした時代に、大衆的人気を博し、ベストセラーになった小説であることだ。
 その意味で、吉川武蔵は戦時体制下の社会の産物なのである。戦争は社会の内在的暴力を発露できる機会であり、しかも、平時なら犯罪でしかない殺人と破壊は、むしろ逆に英雄的行為として賞賛されるという、まさに非常事態なのである。
 殺人暴力への欲動は、敵を殲滅すべしという懲悪の大義を得て、やましさをのりこえ、大いに発露される。このとき吉川武蔵が、ある種の「戦争美学」として機能した事は言うまでもない。
 ちなみに、いま引用した『折々の記』についていえば、戦後版『折々の記』では、戦前版の同書(昭和十七年)の諸稿はその痕跡もなく抹消されていて、書物の題名だけしか連続性はない。見事な過去の(罪の)抹消ぶりというより、吉川英治の戦後転向を如実に示す書物である。
 戦時中、吉川英治はどんな論説を書いていたのか。
 
《花に棲む鳥は花を蹴ちらす。われ等はややともすると狎れる。人間の性能である。宏遠な天業の大範と祖~人の恩惠は忘れがちになつて、その道統から發達した現状の物質的文化の動きや色や音響の方のみ多くを囚はれがちになり、それを基調とする輸入文化や學問の小智は、國家の母胎も、民族的本性を反省するに遑なく、唯、現代の機械的組織のみを論議するのであつた。われ等をして天祖なき光輝なき他の白色民族と同視して、祖~人の建國精神をも喪失した國民となして、惑説を囁いて熄まない。(中略)
 人類の棲む世界のどこにこの天業的建國があつたか。天惠的國家があるか。物質科學基本の他の民族の将来に幸福と光輝があるか。見ずや、それ等の米、英、露、幾多の列強が今日の精~的枯渇のさまと、科學的破産の醜しい狼狽ぶりを。
 理論にのみ「我」を陶酔させるな。常に民族性のつよき本身であれ。國體は空漠として彼方にあるものではない。「我」すでに國體の一分子であることを思へ。
 (前略)國體を認識するといふことの極致は、要するに、
    國體の心そのものが自分の一身
 になることに極まるのである。研究するとか考察するとかなど問題ではない。身に體することだ。古事記、日本書紀を讀まなくとも、唯ひとつの精~を一身に堅持してさへ居れば、野に耕すも、鐵槌を打ちふるふも、都塵と山澤に汗して働くも、すでに、皆國體を身に體してゐる人といへるのだ。天祖の眷属の末たる者であり、天皇の赤子として、太陽の下、この國の上に、恥しくない「我」なのである》(『折々の記』 昭和十七年)
 
 なるほど、形式はそれ自体物語る。雄弁な証言者である。この騒々しい国体論者の文体が、そっくりそのまま、小説『宮本武蔵』の文体であることは、もっと注目されてよい。
 ともあれ、小説『宮本武蔵』がベストセラーかつロングセラーになって、吉川英治は「国民的作家」となった。さらにこの小説は、戦前の新しいメディアであったラジオ放送にものった。昭和十四年(1939)にNHKラジオで、徳川夢声による吉川英治『宮本武蔵』の朗読がはじまり、夢声の話芸とともに、「武蔵」は国民的ヒーローになったのである。
 そして映画も制作されており、これは右掲のごとく戦前戦後かなり数が多い。同タイトルで映画本数が多いもので、これに匹敵しうるのは「忠臣蔵」くらいであろうか。それにしても、あの溝口健二が敗色濃い昭和十九年に「武蔵」を撮っていることが注目される。





吉川英治『折々の記』 昭和十七年




従軍記者・吉川英治
昭和十二年 天津にて






*【戦前戦後の武蔵映画】
    (監督/武蔵役)
昭和11年(1936)「宮本武蔵」滝沢英輔/嵐寛寿郎
昭和12年(1937)「宮本武蔵」尾崎純/片岡千恵蔵・「宮本武蔵風の巻」石橋清一/黒川弥太郎
昭和15年(1940)「宮本武蔵」三部作 稲垣浩/片岡千恵蔵
昭和17年(1942)「宮本武蔵決戦般若坂」佐伯幸三/近衛十四郎・「宮本武蔵一乗寺決闘」伊藤大輔/片岡千恵蔵
昭和18年(1943)「宮本武蔵二刀流開眼」「宮本武蔵決闘般若坂」伊藤大輔/片岡千恵蔵
昭和19年(1944)「宮本武蔵」溝口健二/河原崎長十郎
昭和29年〜31年(1954〜1956)「宮本武蔵」「続宮本武蔵一条寺の決闘」「宮本武蔵決闘巌流島」稲垣浩/三船敏郎
昭和36年〜40年(1961〜1965)「宮本武蔵」「宮本武蔵般若坂の決斗」「宮本武蔵二刀流開眼」「宮本武蔵一乗寺の決斗」「宮本武蔵巌流島の決斗」内田吐夢/中村錦之介
 およそ不思議なのは、このように戦争期に大人気を博した「吉川武蔵」が、戦後もある時期まで一貫して読まれたことである。そうして吉川は多くの大衆小説を生産したが、むろんこの戦前の『宮本武蔵』が彼の代表作であり、それ以上の作物はついに生み出せなかったのである。
 しかし昭和三十五年(1960)、安保闘争で世情騒然たる年、吉川英治は文化勲章を受けたのである。かくして吉川は、大衆向け時代小説の作家として「国民的作家」たる栄誉に耀いたわけだが、それもまさしく「吉川武蔵」の功績によるのだった。
 このように国民的な人気を得た吉川版「武蔵」だが、むろん小説である以上、事実とは違う虚構がある。それが実は困ったことだったのだ。
 
《もちろん、宮本武蔵も史料といつては、ほとんど少なく、空想が大部分です。熊本で出版された「宮本武蔵顕彰会本」「小倉碑文」それらをあわせても、ほんとの史実は、漢文なら百行とはありません》(『折々の記』 戦後版)
 
 空想が大部分です、と本人が明言しているのだから、話にならないのだが、その一方で、吉川英治が「ほんとの史実」とみなしているらしいポイントもある。
 なかでも、「吉川武蔵」では、武蔵の生地を美作〔みまさか〕の讃甘〔さのも〕村宮本(吉野郡宮本村、現・岡山県美作市宮本)とするが、これは後述のように史実ではない。吉川英治が「宮本武蔵顕彰会本」というのは、明治四十二年刊行の『宮本武蔵』(宮本武蔵遺跡顕彰会編)のことだが、その本がネタ元の謬説流用である。
 この地が宮本武蔵産地だとみなされているようだが、武蔵自身が自著『五輪書』地之巻冒頭で、「生国播磨」、自分は播州生れだと明確に書いている以上、どう見ても、美作出生説は否定されるべき謬説である。
 ただ問題は、どうしてこんなことになってしまったのか、である。
 
《三年もの間、白鷺城の天守閣、開かずの間に幽閉された宮本武蔵は、暗黒の中で反省と思索を身につける。
 また一穂の燈火の下で万巻の書物を読んだ。
 今、人生修行と兵法鍛練の遍歴に出る武蔵を追って、彼を恋慕するお通も旅立とうとしている》(吉川英治『宮本武蔵』 花田橋の章)
 
 周知のごとく有名な一節である。《Bildungsroman》(ビルドゥングスロマン、修養小説、人格形成物語)としての吉川武蔵の面目である。
 さて有名な「花田橋の章」のこの一節について、史実上のことで一応注記しておけば、白鷺城(姫路城)の天守閣は、この小説の年齢の武蔵の時には、まだ影も形もなかった。姫路城天守が完成するのは、もっと先のことである。よくても、やっと工事に入った段階である。
 したがって、姫路城内で幽閉されシゴかれる武蔵の背景に、姫路城天守が聳え立っているシーンが、映画やTVで必ず出てくるが、あれは時代考証が間違っているわけだ。
 そして、その武蔵を花田橋で待ち続けたお通。――と来ては、これはどうにもならない。むろん、この花田橋が小川橋という実在の橋の間違いである、というのではない。
 実は、この当時、姫路城築城と同時に、この橋がかかっているはずの河(市川)そのものを大規模に拡幅する河川工事に着手するが、それに平行して行なわれる城下町の形成そのものが、まだなされていない。東面する寺町の配置整備が完成してはじめて、このルートが新しい街道になる。
 それ以前はこのあたりは氾濫原で、橋などなく、もう少し上流の今の高木橋あたりが、街道の渡河地点であった。だから、要するに、花田橋(実は、小川橋)が出現するのは、これまた後のことである。
 小説の中とはいえ、お通が武蔵に遇えないのは、実はこの小川橋を花田橋と作者が間違えていたからだ、間違った場所で待っていては会えないわけだ、というジョークがある。だが、これは訂正すべきであろう。つまり、そういうことよりも、むしろ実は、花田橋も小川橋も、そして白鷺城天守も、まだ存在しないのを作者が知らなかったから、お通は武蔵とすれ違いを演じざるをえない のだ、と。
 言うまでもなく、我々もお通と同様、武蔵とすれ違いを演じている。けれども、そういう「非在」の天守や橋について、そんな史実に注意を喚起するのは、親切だとしても余計なお世話なのである。じっさい、この「花田橋」相当地点にかかる新小川橋東詰には、姫路市というお役所が、公園整備をして、お通の銅像を建ててしまったのである。
 とすれば、まもなく新小川橋は花田橋と名を改めるかもしれない。その可能性があるのは、現実より虚構の方が力があるからだ。むしろ言えば、我々の現実は、一般に、虚構に依拠しているのである。
 そうしたお通の銅像を建てるくらいならまだしも、もっと大規模に「吉川武蔵」がリアライズされているのが、美作のご当地である。言ってみれば、ここは吉川武蔵版ディズニーランドなのだ。我々がこの土地に見い出すのは、小説の力である。虚構が現実と化す途方もない力の実例である。
 後ほど述べるように、吉川英治に限らず、歴史小説において、歴史は書き換えられるのである。「小説と史実を混同するな」と言いながら、虚構を史実として「教育」するのが、歴史小説なるものである。
 まだ存在しない白鷺城天守に武蔵を幽閉したり、非在の橋でお通を待たせたり――実は、吉川英治が武蔵の産地、出生地を、作州の宮本村にしてしまうのも、それと同じレベルの話なのである。つまりは、現実には存在しないフィクショナルな武蔵出生地なのである。


吉川英治 皇居にて
昭和三十五年文化勲章受賞




吉川英治の美作取材旅行
昭和十二年ころ
作者はこの小説を書く前にご当地
へ行ったことがない。事後の訪問







姫路城天守
兵庫県姫路市本町





お通の像
姫路市花田町 新小川橋東詰






「武蔵の里」 岡山県美作市
 吉川版「武蔵」には、基本的な時代考証が缺如している。これは明白な事実である。
 ところが、小説生産の前段階としての考証に不足があるというそうした本来の欠陥を、これまた、小説家は、小説と歴史、虚構と史実を混同するなと主張しつつ、塗りつぶせるというわけである。
 むろん歴史小説の常道として、吉川英治『宮本武蔵』の「武蔵」そのものにしても、お通=小野於通や沢庵=沢庵宗彭〔たくあん・そうほう〕と同様に、宮本武蔵という実在の人物を借りて、話を面白くしただけのことである。そこで、小説は史実ではない、それを混同するな、ということは、吉川英治自身が語っている。
 おもしろいことに、吉川英治の『宮本武蔵』に出てくる「本位田又八」の子孫という人物が、新聞紙上で抗議を表明したのである。自分の先祖をあんな人物に描いてけしからん、というわけである。これに対し、
 
《こゝでちょつと、朝日新聞の學藝欄で抗議された帝大の本位田祥男氏に物申しておくが、あなたは小説と歴史とを混同してをられる。又、史實といふものを、よほど信仰的に思ひすぎてをられると思ふ。この前の拙稿でも露骨にいつた通り、史書そのものからして實に玉石同盆といふ厄介なもので、滅多に鵜呑みにすると、苺と思つて石を噛む事が少くない》(『随筆宮本武藏』 離郷 付本位田又八 昭和十四年)
 
 この帝大の本位田祥男なる人は学生から「又八、又八」といってからかわれたらしい。この「迷惑」に対し、吉川はお気の毒だと言いながら、いまのごとくやりかえしているわけである。
 小説と史実とを混同を混同するな。――これは吉川英治がいつも言わなければならなかったことなのである。言い換えれば、彼の小説は現実世界で迷惑や実害を生むほどの影響力があったとも言える。ただし、それはこの本位田教授のみではなかったのも確かであった。
 
《さういふ正史面からの武藏研究と、小説宮本武藏とが、いつか一般の人の武藏観に錯雜と混同してゆく惧れがある。これは大いに私の罪である。私はいつかそれを正しく區劃整理しておく義務がある。そこで随筆武藏は、もつぱら、その責任を果たすために書いたとしておけば、いちばん無難な理由にはなる》(『随筆宮本武藏』 再版はしがき 昭和二十五年)
 
 小説が事実とは違うと目くじらを立てるのも無益な異議申立てだが、於通と沢庵という他の人物の借用はまだしも、武蔵の出自について吉川が怪しい説を採択したのは、宮本武蔵の伝記について、世間に根拠なき謬説を信じさせた点で「罪」なことをしたのである。

 しかし、いまの問題は必ずしもそれほど単純なものではない。以下の点は、吉川英治に限らず、全ての「歴史小説」「時代小説」とその作家に関わる問題であるから、少し立ち入ってみる。戦後、吉川版武蔵への、いわば「反措定」として、多くの武蔵小説が出現したが、問題は同様である。
 吉川はこう言っていたはずなのだ。
 
《小説は必ずしも史實を追つてゐない。たゞ古人の足あとをたよりに、その内面のこゝろへ迫つてみるしか爲すすべはないのである。殊に、武藏のやうな史料の乏しい人物をとらへて、書くといふことは、土中の白骨へふたゝび血液を通はせてみようとする所業にもひとしい。よほど盲目か不敵かでなければ思ひ立てた仕事ではない》(『随筆宮本武藏』 序 昭和十四年)
 
 なかなか不敵な物言いである。むろん小説家はそれでよいのだ。まさに、「事実」ではなく「真実」を、である。真実(truth)と事実(fact)とはちがうものだ。小説家の仕事は、史実を探究することではなく、人間の「真実」を探求することなのだ。
 したがって、吉川の言い回しが古臭いとしても、これはこれで、今でも通用するポジションである。
 だが、そこまで吉川は言って、次のようにフォローする。
 
《敢て不敵になつて、書きはしたが、小説が讀まれゝば讀まれるほど、作家の創意と、正傳の史實とが、將來、混考されてゆかれさうな惧れがある。
 薔薇を植ゑた者が、自ら薔薇を刈るに似てゐるが、小閑の鋏で、あちこち、少し史實と創意の枝とを剪定して、この一輯を束ねておくことにした。
 
 文学的信念が小説にはないからだらうと。友よ、笑ふ勿れ。この不敵者にも、多分な臆病がある。
 大衆は大智識であるからである。
 それと、自分の景仰する古人に對して、當然な、禮としても、私は畏れる》
(『随筆宮本武藏』 同前)
 
 要するに吉川は、虚構に依拠する小説家として大見得を切ったけれど、よけいなことをしてしまうのである。『随筆宮本武藏』がその産物であった。
 作家が史実を主張し始めるとき、ある意味で臆病風が吹いて敗北しているのである。それによって「文学的信念がない」という批判も受けよう。
 しかし彼は、「大衆」と「古人」に対し臆病だという。言い換えれば、それら両者に誠実であること。それを言いたいようだが、その「古人」はいざ知らず、「大衆」を「大智識」ともちあげて、さながら「お客様は神様」。俺の「武蔵」には大衆の人気がバックについている。文句あるか、というぐあいである。
 こうして『随筆宮本武藏』が世に出ることになった。そうしてこんどは、「吉川武蔵」がいかに史実性を有するかを主張することになる。
 
《――私は、前にも、幾度か云つている。史實として、正確に信じてよい範圍の「宮本武藏なる人の正傳」といつたら、それはごく微量な文字しか遺つてゐないといふ事を――である。それは、むかしの漢文体にでもしたら、僅々百行にも足りないもので盡るであらう。
 こゝには、その正味に近い史料に據つたゞけの小傳をまづ掲げておく》
(『随筆宮本武藏』 彼の略史傳)
 
と前置きして吉川が書きはじめるのは、
 
《現在、岡山県英田〔あいだ〕郡讃甘〔さぬも〕村大字宮本といふ所が、彼の生れた郷土である。
 いま、村に記念碑が建つている。そこが、むかしの家祉〔いへあと〕だといふ。
 文學博士三島毅氏が、碑銘を。また元の熊本藩主細川護成氏が「宮本武藏生誕地」と題字をかいてゐる。川をへだてゝ、讃甘~社(むかしの荒卷~社)の森と相對し、四顧、山ばかりしか見えない。今も、靜な山村である。清流吉野川だけが、四世紀前も、つい昨日のやうに、變りなく、流れてゐる》(同前)
 
という話なのであった。「その正味に近い史料に拠っただけの小伝」が、まさにこれなのである。
 なぜ、吉川がそう言えるのか。それは、武蔵に関する確実な史料が極めて少ないからだ。吉川は「漢文にすれば百行」というが、たしかにそんなものかもしれない。宮本武蔵の養子・伊織が、武蔵十回忌に建てた小倉の武蔵碑(北九州市小倉北区赤坂)にしても、碑文本文はわずか十八行である。じっさい、この史料の乏しさ、その現実が美作産地説他の謬説珍説を産み出す母体なのだと言える。
 吉川はこう書いている。
 
《武藏の離郷前後の事では、彼の郷土にゆくと、いろいろ云ひ傳へられてゐる口碑はある。しかし、傳説的価値以上の根據はない。厳密に、史實として、篩にかけると、たとへ二天記や小倉碑文に書かれてある事項でも、どの程度の眞實性があるかといふ事になる。けだし「史實」といふことになれば、決して、さう生やさしく、鵜呑みにしてよいものではない》(同前)
 
 まさに、このかぎりにおいて吉川は正しい。どんな史料でも、その史料そのものの吟味と批判が実行されなければならない。キリスト教の聖書に対してさえこの種の史料批判はなされている。
 したがって、それは史実を探究する歴史家の職業的倫理に関わると言える。ところが、吉川は、この史学の急所を捕えて、逆に自説の根拠とする。――史料がほとんどないではないか、それなら五十歩百歩、わが説を否定する側にも根拠はないのだ、と。
 しかしながら実は、ここが分岐点なのである。つまり、この地点で倫理的でなくなるか、それとも、まさにこの地点から一層倫理的になるか、その違いなのである。
 多くは前者のポジションへ流れる。そしてまた、そこが無数の素人説の培養器でもある。その結果、支配的な「通説」が構成され、議論の余地を剥奪してしまう。その弊害が宮本武蔵にも及んでしまって久しいのである。
 吉川英治の武蔵伝資料は、固有な何かがあるのではなく、上記の顕彰会本『宮本武蔵』の収録記事に拠ったものである。史実ということになれば、その根拠史料そのものの吟味検証、つまり史料批判がなされなければならない。しかし、それは抜きにして、これが史実だというわけである。
 吉川英治が、史実として信じてよい宮本武蔵の「正伝」は、僅か百行にも足りない、と述べたのは、顕彰会本『宮本武蔵』に全面的に負ったかぎりのことである。何の事はない、僅か百行にも足りないのは、吉川英治自身が信じる武蔵産地美作説の根拠史料のことであった。
 吉川曰く、たとえ二天記や小倉碑文に書かれてある事項でも、史実ということになれば、決して、生やさしく鵜呑みにしてよいものではないと。かように尤もらしいことを云うが、十八世紀後期に肥後の武蔵流裔が書いた『二天記』と、武蔵十回忌に養子伊織が建立した武蔵碑の碑文(小倉碑文)を同列に置くことが、そもそもの誤りである。
 初歩の史料批判すらなしえないおのれの無知をもかえりみず、史実として信じてよい宮本武蔵の「正伝」は、僅か百行にも足りない、と大見得を切る。それは、人気作家に往々にしてある、自身の分をわきまえぬ振舞いである。錯覚による誇大と謂うべし。
 ようするに、吉川英治は顕彰会本『宮本武蔵』の収録記事以外に、ロクに武蔵史料を探索しもせず、史実として信じてよい宮本武蔵の「正伝」は、僅か百行にも足りないと述べて、あたかも自分は悉皆探査した者のごとき身ぶりをしているが、それは世間への瞞着にすぎなかったのである。
 しかし我々は、「史実にあらず、ゆえに価値無し」とするのではない。歴史小説が文学なら、その文学性において真実を追求するのが任務である。優れた作品におけるその真実性はだれも否定できない。鴎外の『渋江抽齋』もまた、史伝のスタイルをとった歴史小説である。
 ただ、「歴史小説」はある意味で「啓蒙」的なジャンルである。スタイルそのものも啓蒙的である。それによって歴史小説はあたかも史実を教えるかのごとく振舞っている。また、作家も、これがまったくの虚構だと受けとられたら、読者は見向きもすまいという不安がある。そうして作品の随所に、そうした啓蒙の仕掛けを仕組むというわけだ。
 もとより、現実は虚実皮膜一枚である。
 我々の世界はメディアが異常に発達して、いわば人々はヴァーチャルな世界に住んでいる。昔の人間が伝説や講談本を事実と錯覚したことを笑えるものではない。我々の世界もそれと同様な錯覚世界であり、イリュージョンの世界である。
 またそうした現実そのものが虚構を基盤にしている世界では、史実がどうの、事実がどうの、と言い掛けることは「クール」ではない。そんなこと、どうだっていいじゃないか、面白ければいいのだ、というわけだ。ここでは、史実も事実も、いわば「消費材」である。
 ところが、我々のポストモダンな時代のこうした状況に達するもっと以前に、歴史小説の分野で、そんな史実の消費がなされてきたのは確かである。そして言えば、吉川英治の『宮本武蔵』こそ、そうした我々のヴァーチャルな世界を予告する消費財だったということである。
 したがって、あえて史実を生真面目に探究してみようという我々のここでの試みは、そうした時代の流れに棹さし、抵抗することであるかもしれない。そして、吉川英治自身の言葉を換骨奪胎してそれを流用すれば、我々が言うのはこうだ。すなわち、
  「あなたは小説と歴史とを混同しておられる」



竹山城址の山
岡山県美作市



吉川英治のスケッチ 竹山城址
『随筆宮本武蔵』所収





吉川英治『随筆宮本武蔵』
朝日新聞社 昭和14年






森鴎外『阿部一族』
岩波文庫版 (斎藤茂吉解説)
ちらりと武蔵を出した「阿部一族」。
他に初期の歴史小説「興津弥五右
衛門の遺書」「佐橋甚五郎」を含む





村上元三『佐々木小次郎』
講談社文庫版 平成7年
昭和25年朝日新聞夕刊連載
佐々木小次郎の像を大甘に塗替え
武蔵も影が薄いが終戦後のヒット作





山本周五郎『大炊介始末』
新潮文庫版 昭和40年
短編「よじょう」を収録。武蔵の偶像破
壊という点では、これが最初の決定版
初出:昭和27年週刊朝日





小山勝清『それからの武蔵』
集英社文庫版 昭和55年
昭和27年熊本日日新聞連載
巌流島後の武藏。「それからの」というのが一時流行語に。若い頃社会主義者で、その後柳田國男の弟子になり、そして破門されたという経歴の作者





五味康祐『二人の武蔵』
文春文庫 平成14年
昭和31-2年読売新聞連載
播州浪人岡本武蔵、作州浪人新免
武蔵、実は宮本武蔵が2人いたとの
大胆な前提による。その設定は無理
だが、あんがい面白い練達の作品





柴田錬三郎『決闘者宮本武蔵』
新潮文庫版 平成5年
昭和45-8年週刊現代連載
作州宮本村の牢人の子弁之助は
父の仇・平田無二斎に養育され
修行を積んでその無二斎を倒し
宮本武蔵と名のって…という佳作





藤沢周平『決闘の辻』
講談社文庫 平成1年
短編「ニ天の窟」収録。死の直前、衰
えた武蔵は挑戦者にいかに応じるか
初出:昭和57年小説現代



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