吉川版「武蔵」には、基本的な時代考証が缺如している。これは明白な事実である。
ところが、小説生産の前段階としての考証に不足があるというそうした本来の欠陥を、これまた、小説家は、小説と歴史、虚構と史実を混同するなと主張しつつ、塗りつぶせるというわけである。
むろん歴史小説の常道として、吉川英治『宮本武蔵』の「武蔵」そのものにしても、お通=小野於通や沢庵=沢庵宗彭〔たくあん・そうほう〕と同様に、宮本武蔵という実在の人物を借りて、話を面白くしただけのことである。そこで、小説は史実ではない、それを混同するな、ということは、吉川英治自身が語っている。
おもしろいことに、吉川英治の『宮本武蔵』に出てくる「本位田又八」の子孫という人物が、新聞紙上で抗議を表明したのである。自分の先祖をあんな人物に描いてけしからん、というわけである。これに対し、
《こゝでちょつと、朝日新聞の學藝欄で抗議された帝大の本位田祥男氏に物申しておくが、あなたは小説と歴史とを混同してをられる。又、史實といふものを、よほど信仰的に思ひすぎてをられると思ふ。この前の拙稿でも露骨にいつた通り、史書そのものからして實に玉石同盆といふ厄介なもので、滅多に鵜呑みにすると、苺と思つて石を噛む事が少くない》(『随筆宮本武藏』 離郷 付本位田又八 昭和十四年)
この帝大の本位田祥男なる人は学生から「又八、又八」といってからかわれたらしい。この「迷惑」に対し、吉川はお気の毒だと言いながら、いまのごとくやりかえしているわけである。
小説と史実とを混同を混同するな。――これは吉川英治がいつも言わなければならなかったことなのである。言い換えれば、彼の小説は現実世界で迷惑や実害を生むほどの影響力があったとも言える。ただし、それはこの本位田教授のみではなかったのも確かであった。
《さういふ正史面からの武藏研究と、小説宮本武藏とが、いつか一般の人の武藏観に錯雜と混同してゆく惧れがある。これは大いに私の罪である。私はいつかそれを正しく區劃整理しておく義務がある。そこで随筆武藏は、もつぱら、その責任を果たすために書いたとしておけば、いちばん無難な理由にはなる》(『随筆宮本武藏』 再版はしがき 昭和二十五年)
小説が事実とは違うと目くじらを立てるのも無益な異議申立てだが、於通と沢庵という他の人物の借用はまだしも、武蔵の出自について吉川が怪しい説を採択したのは、宮本武蔵の伝記について、世間に根拠なき謬説を信じさせた点で「罪」なことをしたのである。
しかし、いまの問題は必ずしもそれほど単純なものではない。以下の点は、吉川英治に限らず、全ての「歴史小説」「時代小説」とその作家に関わる問題であるから、少し立ち入ってみる。戦後、吉川版武蔵への、いわば「反措定」として、多くの武蔵小説が出現したが、問題は同様である。
吉川はこう言っていたはずなのだ。
《小説は必ずしも史實を追つてゐない。たゞ古人の足あとをたよりに、その内面のこゝろへ迫つてみるしか爲すすべはないのである。殊に、武藏のやうな史料の乏しい人物をとらへて、書くといふことは、土中の白骨へふたゝび血液を通はせてみようとする所業にもひとしい。よほど盲目か不敵かでなければ思ひ立てた仕事ではない》(『随筆宮本武藏』 序 昭和十四年)
なかなか不敵な物言いである。むろん小説家はそれでよいのだ。まさに、「事実」ではなく「真実」を、である。真実(truth)と事実(fact)とはちがうものだ。小説家の仕事は、史実を探究することではなく、人間の「真実」を探求することなのだ。
したがって、吉川の言い回しが古臭いとしても、これはこれで、今でも通用するポジションである。
だが、そこまで吉川は言って、次のようにフォローする。
《敢て不敵になつて、書きはしたが、小説が讀まれゝば讀まれるほど、作家の創意と、正傳の史實とが、將來、混考されてゆかれさうな惧れがある。
薔薇を植ゑた者が、自ら薔薇を刈るに似てゐるが、小閑の鋏で、あちこち、少し史實と創意の枝とを剪定して、この一輯を束ねておくことにした。
文学的信念が小説にはないからだらうと。友よ、笑ふ勿れ。この不敵者にも、多分な臆病がある。
大衆は大智識であるからである。
それと、自分の景仰する古人に對して、當然な、禮としても、私は畏れる》
(『随筆宮本武藏』 同前)
要するに吉川は、虚構に依拠する小説家として大見得を切ったけれど、よけいなことをしてしまうのである。『随筆宮本武藏』がその産物であった。
作家が史実を主張し始めるとき、ある意味で臆病風が吹いて敗北しているのである。それによって「文学的信念がない」という批判も受けよう。
しかし彼は、「大衆」と「古人」に対し臆病だという。言い換えれば、それら両者に誠実であること。それを言いたいようだが、その「古人」はいざ知らず、「大衆」を「大智識」ともちあげて、さながら「お客様は神様」。俺の「武蔵」には大衆の人気がバックについている。文句あるか、というぐあいである。
こうして『随筆宮本武藏』が世に出ることになった。そうしてこんどは、「吉川武蔵」がいかに史実性を有するかを主張することになる。
《――私は、前にも、幾度か云つている。史實として、正確に信じてよい範圍の「宮本武藏なる人の正傳」といつたら、それはごく微量な文字しか遺つてゐないといふ事を――である。それは、むかしの漢文体にでもしたら、僅々百行にも足りないもので盡るであらう。
こゝには、その正味に近い史料に據つたゞけの小傳をまづ掲げておく》
(『随筆宮本武藏』 彼の略史傳)
と前置きして吉川が書きはじめるのは、
《現在、岡山県英田〔あいだ〕郡讃甘〔さぬも〕村大字宮本といふ所が、彼の生れた郷土である。
いま、村に記念碑が建つている。そこが、むかしの家祉〔いへあと〕だといふ。
文學博士三島毅氏が、碑銘を。また元の熊本藩主細川護成氏が「宮本武藏生誕地」と題字をかいてゐる。川をへだてゝ、讃甘~社(むかしの荒卷~社)の森と相對し、四顧、山ばかりしか見えない。今も、靜な山村である。清流吉野川だけが、四世紀前も、つい昨日のやうに、變りなく、流れてゐる》(同前)
という話なのであった。「その正味に近い史料に拠っただけの小伝」が、まさにこれなのである。
なぜ、吉川がそう言えるのか。それは、武蔵に関する確実な史料が極めて少ないからだ。吉川は「漢文にすれば百行」というが、たしかにそんなものかもしれない。宮本武蔵の養子・伊織が、武蔵十回忌に建てた小倉の武蔵碑(北九州市小倉北区赤坂)にしても、碑文本文はわずか十八行である。じっさい、この史料の乏しさ、その現実が美作産地説他の謬説珍説を産み出す母体なのだと言える。
吉川はこう書いている。
《武藏の離郷前後の事では、彼の郷土にゆくと、いろいろ云ひ傳へられてゐる口碑はある。しかし、傳説的価値以上の根據はない。厳密に、史實として、篩にかけると、たとへ二天記や小倉碑文に書かれてある事項でも、どの程度の眞實性があるかといふ事になる。けだし「史實」といふことになれば、決して、さう生やさしく、鵜呑みにしてよいものではない》(同前)
まさに、このかぎりにおいて吉川は正しい。どんな史料でも、その史料そのものの吟味と批判が実行されなければならない。キリスト教の聖書に対してさえこの種の史料批判はなされている。
したがって、それは史実を探究する歴史家の職業的倫理に関わると言える。ところが、吉川は、この史学の急所を捕えて、逆に自説の根拠とする。――史料がほとんどないではないか、それなら五十歩百歩、わが説を否定する側にも根拠はないのだ、と。
しかしながら実は、ここが分岐点なのである。つまり、この地点で倫理的でなくなるか、それとも、まさにこの地点から一層倫理的になるか、その違いなのである。
多くは前者のポジションへ流れる。そしてまた、そこが無数の素人説の培養器でもある。その結果、支配的な「通説」が構成され、議論の余地を剥奪してしまう。その弊害が宮本武蔵にも及んでしまって久しいのである。
吉川英治の武蔵伝資料は、固有な何かがあるのではなく、上記の顕彰会本『宮本武蔵』の収録記事に拠ったものである。史実ということになれば、その根拠史料そのものの吟味検証、つまり史料批判がなされなければならない。しかし、それは抜きにして、これが史実だというわけである。
吉川英治が、史実として信じてよい宮本武蔵の「正伝」は、僅か百行にも足りない、と述べたのは、顕彰会本『宮本武蔵』に全面的に負ったかぎりのことである。何の事はない、僅か百行にも足りないのは、吉川英治自身が信じる武蔵産地美作説の根拠史料のことであった。
吉川曰く、たとえ二天記や小倉碑文に書かれてある事項でも、史実ということになれば、決して、生やさしく鵜呑みにしてよいものではないと。かように尤もらしいことを云うが、十八世紀後期に肥後の武蔵流裔が書いた『二天記』と、武蔵十回忌に養子伊織が建立した武蔵碑の碑文(小倉碑文)を同列に置くことが、そもそもの誤りである。
初歩の史料批判すらなしえないおのれの無知をもかえりみず、史実として信じてよい宮本武蔵の「正伝」は、僅か百行にも足りない、と大見得を切る。それは、人気作家に往々にしてある、自身の分をわきまえぬ振舞いである。錯覚による誇大と謂うべし。
ようするに、吉川英治は顕彰会本『宮本武蔵』の収録記事以外に、ロクに武蔵史料を探索しもせず、史実として信じてよい宮本武蔵の「正伝」は、僅か百行にも足りないと述べて、あたかも自分は悉皆探査した者のごとき身ぶりをしているが、それは世間への瞞着にすぎなかったのである。
しかし我々は、「史実にあらず、ゆえに価値無し」とするのではない。歴史小説が文学なら、その文学性において真実を追求するのが任務である。優れた作品におけるその真実性はだれも否定できない。鴎外の『渋江抽齋』もまた、史伝のスタイルをとった歴史小説である。
ただ、「歴史小説」はある意味で「啓蒙」的なジャンルである。スタイルそのものも啓蒙的である。それによって歴史小説はあたかも史実を教えるかのごとく振舞っている。また、作家も、これがまったくの虚構だと受けとられたら、読者は見向きもすまいという不安がある。そうして作品の随所に、そうした啓蒙の仕掛けを仕組むというわけだ。
もとより、現実は虚実皮膜一枚である。
我々の世界はメディアが異常に発達して、いわば人々はヴァーチャルな世界に住んでいる。昔の人間が伝説や講談本を事実と錯覚したことを笑えるものではない。我々の世界もそれと同様な錯覚世界であり、イリュージョンの世界である。
またそうした現実そのものが虚構を基盤にしている世界では、史実がどうの、事実がどうの、と言い掛けることは「クール」ではない。そんなこと、どうだっていいじゃないか、面白ければいいのだ、というわけだ。ここでは、史実も事実も、いわば「消費材」である。
ところが、我々のポストモダンな時代のこうした状況に達するもっと以前に、歴史小説の分野で、そんな史実の消費がなされてきたのは確かである。そして言えば、吉川英治の『宮本武蔵』こそ、そうした我々のヴァーチャルな世界を予告する消費財だったということである。
したがって、あえて史実を生真面目に探究してみようという我々のここでの試みは、そうした時代の流れに棹さし、抵抗することであるかもしれない。そして、吉川英治自身の言葉を換骨奪胎してそれを流用すれば、我々が言うのはこうだ。すなわち、
「あなたは小説と歴史とを混同しておられる」
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