さて、上記引用部分を現代語訳すれば、
《作州の顕氏で神免なる者があった。天正の間、あと嗣ぎが無いまま、筑前秋月城で亡くなった。その遺を受け家を承けたのを武蔵掾玄信という。〔玄信は〕後に氏を〔新免から〕宮本と改めた。また、子が無いため私が義子〔養子〕になった。ゆえに、私は、今その氏〔宮本〕を称するのである》
ここから、いくつか重要点を拾っておこう。
「作州の顕氏に神免なる者があった」。――この「神免」、つまり「新免」である。この棟札の翌年、伊織が小倉に建碑した武蔵のモニュメントの碑文には、
《播чp産、赤松末葉、新免之後裔、武蔵玄信》
とある。ここでは武蔵は、播州英産、赤松末葉、そして新免の後裔と記されている。つまりその「新免」である。
美作の国人に新免氏がある。新免氏は元祖を徳大寺実孝とするので姓は藤原。武蔵が、『五輪書』に記すフォーマルな名のりは「新免武蔵守藤原玄信」だが、その「藤原」姓は新免氏の由来から来ている。
新免家記によれば、実孝の子・則重の代から新免氏を名のった。則重は粟井(現・岡山県美作市粟井)に居城し、その子・長重は小房城(現・岡山県津山市勝田町久賀)に移ったという。則重の子が長重というが、むろん、ここにはかなり年代が開いている。新免長重は則重の子というより、則重の子孫というべきである。
戦国時代、美作東部のこの地域も、尼子、毛利、浦上ら諸家の勢力伸張により、有為転変があった。新免氏は貞重のとき、明応二年(1493)竹山城(現・岡山県美作市下町)を築き、そこへ移った。宗貞の代に、尼子勢に敗れ領地を失った。のちに宇喜田直家が浦上氏を下克上して備前・美作を制覇したとき、新免伊賀守宗貫が父の失地を回復する。宗貫は播州宍粟郡長水山城の宇野政頼の三男で、新免氏の養子に入った人である。
新免宗貫は、慶長五年の関ヶ原合戦には、宇喜多秀家麾下で参戦したらしい、というのがもっぱらの通説だが、その関ヶ原合戦前年の宇喜多騒動で、新免宗貫が家老戸川逵安らとともに宇喜多家を離脱している。戦後の全国的な領地再編で、新免宗貫は東作の領地を失って退転。そうして結局、九州筑前で黒田家に身を寄せた。
新免宗貫は、筑前下座郡に知行二千石を給された。そして筑前で死んだ。しかし、三奈木で存続した子孫が書いた筑前新免氏系譜でも、宗貫の歿年歿地は不明である。
他方、宗貞弟の貞弘の系統は地元吉野郡で存続し、のちに『東作誌』が採取した新免氏諸文書を残した。新免家記に「平田無二」という人物が登場することは、すでに前章で述べたごとくである。
さて、泊神社棟札には《有作州之顕氏神免者》とあるばかりである。翌年の小倉碑文では、《父新免、号無二。爲十手之家》とあって、こちらの記事はもう少し具体的である。つまり武蔵の「父」新免は、無二と号し、十手の家をなした、というわけである。
播磨の神社棟札の記事であり、新免無二のことは作州新免氏の出だというくらいのことで、具体的なことは書かないのである。ところが、この武蔵「父」について、小倉碑文にはない重要情報が泊神社棟札には記されている。以下、それを見ることにする。
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【左の当該部分の原文】
《有作州之顕氏神免者。天正之間、無嗣而卒于筑前秋月城。受遺承家曰武藏掾玄信、後改氏宮本。亦無子而以余為義子。故余今稱其氏》
*【新免氏略系図】
○徳大寺実孝―新免則重……長重┐
┌────────────┘
│竹山城
└貞重┬宗貞=宗貫─長春→
├貞弘 ↑作州退転後
└家貞 │仕黒田長政
長水山城 │
宇野政頼┬光景 │
│ │
├祐清 │
│ │
├宗貫─┘
│
├宗祐
│
└祐光
竹山城址周辺現況 美作・因幡・播磨の三国結節点
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