武蔵の出身地はどこか
出生地論争に決着をつける

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播磨説(1) 印南郡米田村  Back   Next 

 かくして美作説が否定されるとき、残るは播磨説であるが、第一の説、すなわち印南郡米田村(現・兵庫県高砂市域)説については、どうか。
 この説は、近年もっとも確証あるものとされつつある。しかし本当はどうなのか。我々はこれを厳密に検証してみなくてはならない。

 この説を根拠づける史料は、泊神社(現・加古川市加古川町木村)の棟札であるという。(むろん、この説が本当に棟札の記事に依拠しているのかどうかは、後ほど明らかになるだろうが)
 伊織は当時、豊前小倉・小笠原家老職にあったが、実家・田原氏の兄弟たちと一緒に、故郷の泊神社社殿を再建し、三十六歌仙扁額や石灯籠などを寄進した。承応二年(1653)のことである。
 そのときの棟札が残っている。棟札とは建物の造営のとき、その経緯を板札に記し、棟木や小屋束に打ち付けて、後代の記録としたものをいう。宮本伊織がどういう出自であったかは、この棟札に一人称で書かれている。
 それによれば、伊織は、播磨の赤松氏末流、田原氏の出身である。すでに小倉の小笠原家家老にして四千石知行の身分に出世していた伊織は、故郷の地の神社再建のスポンサーになったのである。
 泊神社の伊織棟札には、武蔵に関する記述がある。すなわち、武蔵に子がなかったので、伊織が義子(養子)になったとある。だから伊織は、宮本武蔵の家を嗣ぐ者である。同時に伊織は、武蔵の「父」なる人についても記している。
 
《作州の顕氏神免なる者有り。天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承るを武蔵掾玄信と曰す。後に氏を宮本と改む。亦た、無子にして、余、以て義子と為る。故に、余、今其の氏を称す》(原文漢文)
 
 これが、現在までのところ、もっとも早期の一次史料の記事である。これに次ぐのが伊織が翌年建てた小倉の武蔵碑の碑銘(「小倉碑文」北九州市小倉北区赤坂 手向山公園)であるが、他はすべて二次的史料である。

泊神社(往時は、泊大明神)
兵庫県加古川市加古川町木村




泊神社棟札
文は漢文で伊織の自撰


[資料篇]   泊神社棟札 
 さて、上記引用部分を現代語訳すれば、
《作州の顕氏で神免なる者があった。天正の間、あと嗣ぎが無いまま、筑前秋月城で亡くなった。その遺を受け家を承けたのを武蔵掾玄信という。〔玄信は〕後に氏を〔新免から〕宮本と改めた。また、子が無いため私が義子〔養子〕になった。ゆえに、私は、今その氏〔宮本〕を称するのである》
 ここから、いくつか重要点を拾っておこう。
 「作州の顕氏に神免なる者があった」。――この「神免」、つまり「新免」である。この棟札の翌年、伊織が小倉に建碑した武蔵のモニュメントの碑文には、
   《播чp産、赤松末葉、新免之後裔、武蔵玄信》
とある。ここでは武蔵は、播州英産、赤松末葉、そして新免の後裔と記されている。つまりその「新免」である。
 美作の国人に新免氏がある。新免氏は元祖を徳大寺実孝とするので姓は藤原。武蔵が、『五輪書』に記すフォーマルな名のりは「新免武蔵守藤原玄信」だが、その「藤原」姓は新免氏の由来から来ている。
 新免家記によれば、実孝の子・則重の代から新免氏を名のった。則重は粟井(現・岡山県美作市粟井)に居城し、その子・長重は小房城(現・岡山県津山市勝田町久賀)に移ったという。則重の子が長重というが、むろん、ここにはかなり年代が開いている。新免長重は則重の子というより、則重の子孫というべきである。
 戦国時代、美作東部のこの地域も、尼子、毛利、浦上ら諸家の勢力伸張により、有為転変があった。新免氏は貞重のとき、明応二年(1493)竹山城(現・岡山県美作市下町)を築き、そこへ移った。宗貞の代に、尼子勢に敗れ領地を失った。のちに宇喜田直家が浦上氏を下克上して備前・美作を制覇したとき、新免伊賀守宗貫が父の失地を回復する。宗貫は播州宍粟郡長水山城の宇野政頼の三男で、新免氏の養子に入った人である。
 新免宗貫は、慶長五年の関ヶ原合戦には、宇喜多秀家麾下で参戦したらしい、というのがもっぱらの通説だが、その関ヶ原合戦前年の宇喜多騒動で、新免宗貫が家老戸川逵安らとともに宇喜多家を離脱している。戦後の全国的な領地再編で、新免宗貫は東作の領地を失って退転。そうして結局、九州筑前で黒田家に身を寄せた。
 新免宗貫は、筑前下座郡に知行二千石を給された。そして筑前で死んだ。しかし、三奈木で存続した子孫が書いた筑前新免氏系譜でも、宗貫の歿年歿地は不明である。
 他方、宗貞弟の貞弘の系統は地元吉野郡で存続し、のちに『東作誌』が採取した新免氏諸文書を残した。新免家記に「平田無二」という人物が登場することは、すでに前章で述べたごとくである。
 さて、泊神社棟札には《有作州之顕氏神免者》とあるばかりである。翌年の小倉碑文では、《父新免、号無二。爲十手之家》とあって、こちらの記事はもう少し具体的である。つまり武蔵の「父」新免は、無二と号し、十手の家をなした、というわけである。
 播磨の神社棟札の記事であり、新免無二のことは作州新免氏の出だというくらいのことで、具体的なことは書かないのである。ところが、この武蔵「父」について、小倉碑文にはない重要情報が泊神社棟札には記されている。以下、それを見ることにする。

【左の当該部分の原文】
《有作州之顕氏神免者。天正之間、無嗣而卒于筑前秋月城。受遺承家曰武藏掾玄信、後改氏宮本。亦無子而以余為義子。故余今稱其氏》







*【新免氏略系図】

徳大寺実孝新免則重……長重┐
  ┌────────────┘
  │竹山城
  └貞重┬宗貞=宗貫─長春→
     ├貞弘 ↑作州退転後
     └家貞 │仕黒田長政
 長水山城    │
 宇野政頼┬光景 │ 
     │   │
     ├祐清 │
     │   │
     ├宗貫─┘
     │
     ├宗祐
     │
     └祐光



竹山城址周辺現況
美作・因幡・播磨の三国結節点
 泊神社棟札には、神免(新免無二)は「天正の間、無嗣にして、筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを、武蔵掾玄信と曰す」とある。この部分の記述要点は、
(1) 新免無二の歿年は天正年間、歿地は九州の筑前秋月城である
(2) この新免無二は、「無嗣」のまま死んだ
(3) 武蔵は、その遺された家を受け継いだ
である。この三点は無二・武蔵に関する重要なポイントだから、正確に読んでおかねばならないところである。
 ではまず、第一点目の無二歿年のことである。歿年が天正年間のことだとすると、武蔵の「父」たる新免無二は、それ以後の慶長年間には生きていない。それゆえ、慶長年間の無二の事蹟を伝える各種史料の記録とは、両立不可能な記事である。
 たとえば、黒田家士の分限帳(「福岡藩仰古秘笈」明治年間写本、九州大学蔵)がある。それらには、いづれも慶長年間の分限帳の体裁である。すなわち、「慶長六年正月中津より筑前江御打入之節諸給人分限帳」には、百石の給人として「新免無二」の名があり、その名に「武州師父」と付記がある。あるいは、「慶長七年諸役人知行割同九年知行書附」に「新目無二」とあり、「慶長年中士中寺社知行書附」には百石の知行で「古御譜代/新免無二/一真 播磨人」という記事がある。
 この黒田家史料には、新免無二には慶長九年(1904)までの記録があり、これに拠るかぎりにおいて、少なくともその時点まで無二の生存が確認されることになる。
 あるいは、二木謙一によれば、豊後日出藩主・木下延俊(1577〜1642)の「日次記」、慶長十八年(1913)の日録には、兵法を遣う「無二」なる者の名が見え、延俊に仕えたと読める記事があるという。これは慶長十八年、したがって少なくともそこまで「無二」なる者は生存していたことになる。
 これらについては、別に論及があるから、ここでは述べない。ただ、黒田家分限帳は、オリジナルは存在せず、明治の写本であるし、無二に関しては十八世紀以後と見なすべき記述がある。また、日出城主・木下延俊の慶長日記の「無二」が新免無二のことか、といえば、それを同定する根拠はない。ようするに、無二が慶長年間まで生きていたという根拠史料とはなしえない。
 結論を言えば、新免無二が「天正年間に筑前秋月城で死んだ」という伊織棟札の記事を覆す有力な史料は、まだ出ていないのである。それゆえ武蔵の養子であった伊織の記述を、プライマリーな情報として扱うわけである。



筑前秋月城の場所



秋月城跡 福岡県朝倉市秋月


 さて、伊織棟札記事の次なる重要点は、武蔵の「父」となる神免(新免)は「無嗣」のまま死んだ、ということである。武蔵は、無嗣で死んだ新免無二の家を嗣いだというのである。とすれば、武蔵は、無二の実子ではなく、その遺を嗣いで「新免」の家を継承した者だったのである。
 武蔵が無二の実子ではなく義子だったという事実は、武蔵の「せがれ」伊織による泊神社棟札だけが記す特別な情報である。後世の武蔵伝記は、どれも武蔵が無二の義子だったことを知らずに書いている。それゆえ、棟札のこの記事は、他の追随をゆるさない第一級の証言史料なのである。
 ただし、この一節はさらに注意深く読み込んでおく必要がある。すなわち、新免無二は「無嗣」にして死んだという点である。伊織棟札に関説した論は多いが、この「無嗣」なる文字は、従来の武蔵研究において看過されてきたのである。
 この「無嗣」という記事から、どのようなことが導けるであろうか。まず第一は、もし無二が生前に武蔵を養子にしていたら、こんな記述はありえない。義子であれ、後継者たる嗣子がいるからである。
 無二が「無嗣」で死んだとすれば、この相続は、ダイレクトな継承ではない。無二が死んでいったん絶えた家を相続し再興したということであり、明らかに死後相続で「絶家再興」というべきである。
 したがってこの相続は、無二が武蔵を家の後継者として指名して死んだ、武蔵が適齢になってそれを承諾して家を嗣いだということでもない。それならやはり「無嗣」ではない。親族等周囲の関係者が、無二の死によって絶えた兵法の家=新免家を武蔵に継承させた、ということなのである。絶えた家を再興することは稀ではない。
 したがって、武蔵は無二の新免家を継承した相続者だが、いわゆる「養い子」の意味の養子ではない。この点は、注意を向けられるべきであろう。武蔵は無二の「養い子」になったのではなく、したがって無二に養育されたのでもない。
 後世の武蔵伝記は、武蔵が無二の実子ではなく義子だという事実を知らず、また、無二が後嗣なく死んだということも知らない。それゆえ、たとえば筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』は、武蔵少年時の無二と武蔵の悪しき父子関係を具体的なシーンにした逸話を記しているが、もとよりそれは、後世になって発生した説話である。





泊神社棟札
「神免者天正之間無嗣而卒」

 改めて整理すれば、無二と武蔵の関係のポイントは、
 ・無二の生前、無二と武蔵の養子関係はない(無二は無嗣で死んだ)
 ・無二の死後、武蔵は無二の家を嗣いだ(遺を受け家を承けた)
ということである。このあたりは厳密に認識を確立しておかねばならない。「養子」というから、余計な誤解誤認が生産されたのである。
 現在、武蔵は、無二の生前その「養子」になって、無二に養育されたという説が、一般に興行されているが、それは誤りである。そんなことは、泊神社の伊織棟札には記していない。無二は無嗣で死んだと明記しているのである。
 武蔵産地は米田村だと主張する者の中には、この泊神社棟札の記事を知らないのか、武蔵は播磨から美作へ行って無二の養子になった、という妄説を強弁する者がある。ようするに、美作説と米田村説という両立不可能な二説を足して二で割った話なのだが、武蔵が播磨米田村から養子に来たなどという、そんな馬鹿げた史料は美作のどこにもない。美作説では、武蔵は美作産、平田武仁(無二)の実子なのである。武蔵に養子に来られても、美作では対応のしようがない。武蔵が播磨から美作へ行って無二の養子になったとするのは、受取り先のない、根拠なき妄説強弁というべきである。
 泊神社棟札の記事を再確認すれば、無二が無嗣で死んで、いったん断絶してしまった家を、武蔵が嗣いで、それを再興したということだ。しかし家を嗣ぐとなると、その年齢はむろん幼児ではなく元服以後、したがって当時の慣習からすれば、相続は武蔵十六歳前後あるいはそれ以後としなければならない。とすれば、慶長四年(1699)以後のことであり、当然これは天正以後のことである。そしてこの頃が相続時期だとすれば、無二が死んで十年以上後のことであろう。
 さらにこのことから、武蔵はいつから新免氏を名のるようになったか、それが割り出せる。言うまでもなく、それは新免無二の家を嗣いだときである。したがって、武蔵が無二の名跡を継いで、「新免武蔵守」をフォーマルな名のりとするようになるのは、慶長四年以前ではあるまい。
 武蔵は『五輪書』で、このあたりのことは何も書いていない。ただ、十三歳のとき有馬喜兵衛を、十六歳のとき但馬国秋山某を、それぞれ打ち負かしたことを記すのだが、これはどちらも「新免以前」の武蔵であったということになる。とすれば、この二つの勝負が「新免以前」の初期武蔵の特記すべき事件ということで、『五輪書』に書いたものであろう。
 したがって、以上のことから、棟札記事が示す重要なポイントは、武蔵が児童の頃(天正年間)、無二が九州で死に、その後武蔵は成人して、断絶した新免無二の遺家を嗣ぎ、継承者となったということである。








武蔵産地マップ








【五輪書】
《生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち》(地之巻)
 棟札の翌年、伊織が建立した小倉の武蔵碑(小倉碑文)には、こうある。
 
《父新免、無二と号し、十手の家を為す。武蔵、家業を受け、朝鑚暮研す》(原文・父新免号無二為十手之家武蔵受家業朝鑚暮研)
 
 父新免、無二と号す、である。しかし、小倉碑文は「父新免」と記すのみである。そこから、小倉碑文以上の武蔵情報をもたない後世の武蔵伝記は、武蔵は新免無二の実子だと錯覚したのである。
 もちろん、すでに見たように、「美作産の宮本武蔵」は平田武仁の「実子」である。この点だけでも、武蔵は美作生れというのは後世の伝説にすぎないことが知れるのである。
 また、この《武蔵受家業、朝鑚暮研》の部分も、《受遺承家、曰武蔵掾玄信》という泊神社棟札の記事と関連させて読むべきだろう。つまり、上述のように、無二が無嗣で死に、新免家は断絶した。後に、武蔵がその家の相続者となって、その「十手之家」の家業を嗣いだのである。
 無二の家業であるこの「十手」に関しては所見が我々にあるが、本論とは直接関連がないので述べない。関心のある向きは、本サイト所収の関連論文を参照されたい。
 ところで、この「家業」という語に注目してみれば、これは職人としての武芸者の家のことであり、家を相続するとは、家業・家職を嗣ぐことである。このとき、これは絶家相続でも一向構わない。家名あるいは家業の株(権利)を取得継承したということである。
 このとき、職人としての武芸者の家職ということに留意すれば、その職名も相続するわけだから、武蔵の「新免武蔵守」という職名も、無二の「十手の家」の職名だったようである。
 小倉碑文によれば「無二」は号である。たしかに「無二」は、二つと無し、無双の意だから、号以外にはない。その号がたぶん有名だったから、通称になっているのである。
 その「無二」という号に関していえば、「無二之助」「無二之介」などという名が後世の文書に登場するが、これは「無二」が号だとすれば、本来ありえない名である。つまり「二天」と号した武蔵を「二天之助」とするに等しい操作である。ここには、武蔵を「武蔵之助」にしてしまう演劇台本と同じ通俗的操作が働いているのであり、後世の巷間伝説成長過程で生まれた名である。
 ともあれ、「無二」は号で「武蔵守」は職名だから、武蔵が嗣いだ無二の名跡には「新免武蔵守」という職名があったとみなしうる。とすれば、武蔵の職名「新免武蔵守」の由来は、武蔵が「遺を受け家を承け」た新免無二の家にあったということである。
 これらの諸点はすべて従来論じられたことがないもので、今後の研究課題であろう。ただ、「新免武蔵守」については、これを不当僭越な官職名だという愚論がいまだに横行している。このようなお粗末な段階であるから、武蔵の職名「新免武蔵守」についての我々の問題構成それ自体が、武蔵研究の現状レベルからは隔絶したものであることは言うまでもない。
 晩年の無二は、黒田勢の周辺にいたとすれば、九州にいた。筑前秋月城で死んだとすれば、中津から福岡まで黒田家に従って行ったというのではない。それより以前のことである。
 いづれにしても、無二の晩年である。無二の新免家は天正年間に九州にあった。とすれば、武蔵はまだ幼い。まだ播磨を出ていまい。無二の死後、遺を受けて家を相続したというから、武蔵は無二と一度も会っていない可能性すらある。
 播磨から九州豊前へという黒田家の展開過程で、多くの播州人と同様、少年武蔵も何らかの縁があって、九州へ流れていったものか。武蔵は少年時代、作州の村で育ったとする点で、「美作宮本村説」や近年の「播磨米田村説」は論外だが、実はこのように、播州育ちどころか、九州育ちの可能性もある。あるいは、すでに十三歳や十六歳で、相当の武芸者を破った天才少年として、故郷播磨で兵法者・故新免無二の「十手の家」を嗣いだとも考えられる。ただ、ここは、そのような一連の蓋然性として語りうるのみである。



伊織建立の武蔵碑
北九州市小倉北区赤坂



[資料篇]   小倉碑文 






*【円明実手流家譜并嗣系】
宮本無二之助藤原一眞 字虎千代丸。後に武藏守と改む。一真ハ前武藏守吉元の実子なり》
*【二天記】
《武藏父、新免無二之介信綱ト云フ。劍術ヲ得、當理流ト號ス。十手二刀ノ達人也》
*【小倉宮本家系図】
《玄信 爲新免無二之助一眞養子、因号新免。後改氏宮本》






新免無二関係地図
 では、武蔵はどこで生まれたのか。播州のどこなのか?――以上の新免無二に関する検討をふまえて、ここから、米田村出生説検討の本題に入る。まず、そもそも、泊神社棟札はこれをどう語っているか。
 ところが、伊織の棟札記事は、武蔵はどこで生まれたのか、それを記していないのである。ここは諸氏の注意を喚起しおきたいポイントである。伊織の棟札は、武蔵の産地について記していない。
 近年、泊神社棟札の記事よって武蔵の出自産地がわかる、という説が世間に流布されているが、それが妄説であることは、当の棟札をみれば明白である。
 武蔵が田原氏にルーツをもち、伊織と同じ印南郡米田村に生まれた?――そんなことは、泊神社棟札の伊織は一言も書いていない。
 もし武蔵が田原氏であれば、この棟札に伊織はそれを記していたはずである。伊織は曽祖父の名まで明記している。もし武蔵が伊織の祖父家貞の二男、つまり叔父だとすれば、あのような棟札の系譜記事にはならない。武蔵の名は、伊織父と同様に、必ず親族系譜の中に記されたであろう。
 奇怪な妄説が流布されつつある今日では、これは特に強調すべきポイントだ。我々は、こうした「書かれていない」という事実に注目すべきである。武蔵をそのように記さないのは、この棟札が関わる地域、すなわち泊神社を氏宮とする加古川両岸のこの地域では、武蔵が田原氏で米田村産だなどという出鱈目な話はなかったからである。

 泊神社棟札には、武蔵の産地について何も書いていない。また、武蔵は米田村の産だという伝承は、播磨には存在しない。すると、武蔵は米田村の産だという説は、何を根拠にしてそれを主張するのか。――その根拠は、実は、地元播磨の史料ではなく、遠い九州の小倉宮本家子孫が書いた系譜なのである。
 では、小倉宮本家系譜に、武蔵を田原氏とするのは、いかがなことか。錯誤があるのは、まさにここである。そこで、以下、小倉宮本家系図を中心に吟味してみたい。それも、できるだけ精密に、である。

 一般に系図は、常に書き直されるものであり、たえず改竄の余地があるため、おおむね二級史料として扱う。だからまず、史料批判の基本的手続きとして、この系譜はいつ作製されたか、を知る必要がある。
 この点では、現存宮本家系譜伝書は、伊織よりずっと後世の子孫の作製物である。つまり、十九世紀半ばの天保後期〜弘化年間のものであり、武蔵関係史料としては最も後発的な部類である。この点はまず押さえておくべきポイントである。
 次に問題は、その系譜の起源部分だが、これを伊織自身による記述だとする証拠はない。
 伊織自身は、泊神社棟札で、武蔵が田原氏だと書いていない。無二→武蔵→伊織という三代の義子関係を述べているにすぎない。作州顕氏の神免(新免)という者が無嗣で死んだ、その家を嗣いだのが武蔵、その武蔵も子がなかったので、余(伊織)を武蔵の義子にしたと。また、武蔵の代で「宮本」と改めた、それで余(伊織)は今その宮本氏を称している、というわけだ。
 とすれば、伊織の宮本家は、武蔵がそう名のったように新免氏の系譜でなければならない。すなわち、上掲新免氏系図にあるごとく、藤原北家・徳大寺実孝の子、新免則重から発する系譜がそれである。武蔵のフォーマルな名のりは「藤原玄信」であった。
 この点、赤松持貞にはじまる小倉宮本家系図には重大な問題がある。無二以来、武蔵は新免氏であるはずなのに、持貞を祖とする田原氏系譜になってしまっている。
 これは、田原氏系譜を宮本家起源部分に取り込んだ結果生じた矛盾である。つまり、伊織が宮本氏から田原氏に「復氏」したわけではないのに、伊織の実家田原氏を、宮本家先祖にしてしまった。その結果、新免の系譜は跡形もなく消去されてしまったのである。
 このような操作は、系図では決して珍しいことではない。むしろ多くがそれである。宮本家のケースでは、伊織子孫がこんな「系譜」を発明したのだが、何れにしても後世の作物たることは、内容より先に、系図の体裁・形式からしても明白である。
 というのも、我々が最初、この小倉宮本家系図の写真図版を見て、ただちに感じたのは、これはいかん、系図としての体裁がなっていない、ということであった。
 たとえば、宮本家なら、伊織が養子になった「宮本」武蔵を初代とすべきはずなのに、宮本家系図では、武蔵はその創設者にふさわしい場所にはいない。つまり、一般に系図では、初代の武蔵が伊織よりも上に配置され、武蔵→伊織と縦に順序されるものだが、この宮本家系図では、武蔵の位置は、なんと伊織の下に配置されており、いわば転倒した配置関係にある。見たところ、いかにも「取って付けた」ような扱いである。
 というよりも、むしろ、この系図の体裁を見るかぎりにおいて、武蔵とその記事部分は、いかにも後から押込んだ格好である。そして押込まれたボリュームに押されて、武蔵から伊織へのラインが、見ての通り「斜め」なのである。こんな斜線の走る系図は例のない珍物であろう。
 おそらくこれは、伊織実家の田原氏系図が原型で、田原甚右衛門家貞→甚兵衛久光→伊織ら兄弟と順次するものであり、本来は宮本武蔵の記事は存在しなかったのである。しかるに武蔵の事項を割り込ませた結果、伊織の記事部分が、矩形ではなく歪形化した、ということのようである。




伊織寄進の石燈籠
泊神社 兵庫県加古川市









*【小倉宮本氏系図】(抜粋構成)

 赤松刑部大夫 田原中務小輔
持貞────┬家貞───┐
       │     │
       └政顕   │
 ┌───────────┘
 │      田原右京大夫
 └─某─某──貞光───┐
 ┌───────────┘
 │田原甚右衛門
 └家貞────┐
 ┌──────┘
 │田原甚兵衛 大山茂左衛門
 ├久光───┬吉久
 │     │
 │     ├貞次 宮本伊織
 │     │
 │     ├某 丑之助 早世
 │     │
 │     ├某 小原玄昌法眼
 │     │
 │     │田原庄左衛門
 │     └正久→
 │      
 │宮本武蔵  宮本伊織
 └玄信────貞次→[宮本家]




持貞始祖の宮本家系図 部分
赤線は武蔵の位置



黄色枠は武蔵記事部分

武蔵記事部分がなければ…
 もし伊織時代からの原本であれば、このような不恰好な作図ではないだろう。この不体裁は、起源部分をいじった後代の改竄を示しているが、その上、素人の製作物たることを隠していない。専門の系図作成者ならこんな体裁の整わない系図は作らない。その内容より先に、この系図のグラフィックな体裁が、後世の捏造であることを図らずも証言しているのである。
 このように体裁を構わぬ一種の無神経さは、内容に関しても同様であるらしい。それはたとえば、干支年記載の誤記に現れている。
 伊織の祖父・甚右衛門家貞の歿年を「天正五丁巳」と記すが、天正五年だとすれば、これは「丁丑」の誤りである。伊織の実父・甚兵衛久光の歿年を「寛永十六己巳」と記すが、寛永十六年だとすれば、これは「己卯」の誤りである。また、伊織の弟・小原玄昌の歿年を「貞享二乙巳」とするが、これも誤りで、貞享二年は正しくは「乙丑」である。

小原玄昌

甚兵衛久光

甚右衛門家貞















*【宮本家系図の干支誤記】

祖父・甚右衛門家貞
 天正五年 (誤)丁巳→(正)丁丑
実父・甚兵衛久光
 寛永十六年 (誤)己巳→(正)己卯
実弟・小原玄昌
 貞享二年 (誤)乙巳→(正)乙丑
 云うまでもないが、京都深草宝塔寺に田原家墓碑がある。それを見れば、家貞は天正五年「丁丑」、久光は寛永十六年「己卯」と、それぞれ正しく干支が刻字されている。したがって、これは系図を作成した者の誤記である。
 しかも、この系図の干支記載の間違いは、伊織の祖父・甚右衛門家貞、実父・甚兵衛久光、実弟・小原玄昌の記事に見られる。不思議なのは、歿年干支を間違われたこの三者が、伊織と縁が薄い傍系人物ではなく、まさに、祖父であり、実父であり、また実弟であって、むしろ逆に、伊織にとって最も縁の深い親族だという点である。
 小原玄昌は伊織の実弟だが、播州三木や京都深草の墓碑に、あるいは播州加古川の泊神社棟札に、それぞれ伊織と連名している人物で、田原氏先祖の件について、伊織兄弟の中でもとくに縁が深い。
 このように、伊織にとって最も縁の深い親族の三人に、これ見よがしの干支記載の誤記があるということからすれば、そこに、この系図作者による何らかのメッセージを読み取ることもできそうだが、そうした憶測は我々の流儀ではない。
 実際は、こうした干支記載の誤謬は、系図作成者が杜撰にも年数計算を間違ったことによるにすぎない。計算の間違いは、他にもあって、たとえば、島原の乱、切支丹一揆の折の伊織の年齢である。伊織は慶長十七年(1612)生れ、彼が有馬原城で軍功を挙げたのは寛永十八年(1638)、つまり、このとき伊織は二十七歳である。ところが、小倉宮本家系図には「此時廿六歳」と記す。
 ここまで年数計算の間違いが多発する系図というのは、他に見たことがない。まったく、大らかな粗雑という他ない。ただそれよりも、むしろ問題は、こうした一連のことはすべて、系図原本=オリジナルの不在を物語る証拠である。
 かように始祖部分の伊織の父祖の歿年記事さえ誤るとは、些細な瑕疵のように見えるかもしれないが、実は根本的な徴候と言うべきものである。それはつまり、この系図が後世の制作物というだけではなく、依拠すべき確かな系図原本が本来存在していなかった、という事実を示すものである。



*【田原家親族系図】

  田原甚右衛門
 ○家貞────┐
 ┌──────┘
 │田原甚兵衛 大山茂左衛門
 └久光───┬吉久
       │
       ├貞次 宮本伊織
       │
       ├丑之助 早世
       │
       ├貞隆 小原玄昌
       │
       │田原庄左衛門
       └正久
 したがって武蔵の生年に関しても、小倉宮本家文書のみ武蔵生年を「天正十(壬午)年」とするのであるが、結局それも単に、「十二年」をどこかで「十年」に書き写し間違えたのであろう。伊織の祖父や父や弟に関し干支年記載に誤りのあるこうした記録であってみれば、それも案外なことではない。
 たしかに系図作製においては、こうした過誤は本来ありえぬことである。だが、小倉宮本家系図のケースでは、それは伝承の途中で累積した誤謬の結果というよりも、系譜を作製した後代子孫の粗忽な所為なのである。
 あるいはまた、武蔵記事の部分について言えば、諱(いみな)であるはずの「玄信」に「ゲンシン」と余計な振仮名をしてみたり、法名だといって、「兵法天下無雙赤松末流武蔵玄信二天居士」とするのも、小倉の武蔵碑を見てのことであろうが、不正確な記述である。小倉武蔵碑にはそんな居士名はない。「新免武蔵玄信二天居士」である。
 ようするに、系図には「赤松末流武蔵玄信」と記して、肝心の「新免」の文字が抜けている。これでは、「赤松末流の武蔵玄信」、ようするに武蔵の氏「新免」を書き落としているのである。小倉碑文には、
   「赤松末流新免武蔵玄信二天居士」
と記してある。ようするに、宮本家系図は、近所にある小倉碑文をさえ正確に写していない。
 このようなことから、この系譜作成者には、小倉碑文に記されている武蔵の名のり=新免氏の何たるかが知られておらず、しかも、「赤松末流武蔵玄信二天居士」という「新免」の二字を欠く奇妙な居士名記載に、ひたすらその「新免」を消去したいという願望が露呈しているというべきであろう。
 少なくとも、伊織時代の泊神社棟札および小倉碑文によるかぎり、小倉宮本家系譜の起源部分は、新免無二→武蔵→伊織と順序するもので、オリジナルはそういう新免氏系譜であったはずである。しかし、小倉宮本氏末裔の段階で、ある理由があってこの新免氏系譜を不適切として廃棄したのであろう。その代わりに作製されたのが、現存宮本家系図のごとき田原氏起源の系譜なのであるが、上述のように、いかにも体裁の整わない素人の系図作成の迹を露呈しているだけではなく、内容にも杜撰な誤りが多い。
 すなわち、史学上の手続きとしての史料批判の結論として言えば、小倉宮本家系図は、作成年代が新しいだけではなく、内容・形式とも問題を露呈しており、とうてい信をおくべき史料ではない。したがって、これを根拠資料とみなす立論は却下されるであろう。

 ともあれ、播州の泊神社に遺った棟札の伊織撰文によれば、新免無二の家を継いだ武蔵が、氏姓を「新免」から「宮本」に変えたということである。これによってみれば、武蔵は最初「宮本」ではなかった。つまり、
     「新免」 → 「宮本」
というのが、伊織棟札による武蔵の氏姓変遷である。しかし同時に、この「新免」を名のる以前、つまり武蔵の実家の名を、伊織は記さないのである。つまり、棟札から知れるところは、
     「?」 → 「新免」 → 「宮本」
ということである。ところが、小倉宮本家系図は、この「?」の前史の位置に、田原氏を措定したものである。まさしくそのために、中間の「新免」は、宮本家系図において一種の《vanishing mediator》となってしまったというわけである。



宮本家系図 武蔵部分
右は小倉碑文の居士名

 この、「新免」から「宮本」へという氏姓変遷の問題に関して、既述のごとく、奇妙な現象がある。それは、武蔵の「父」を宮本氏とする伝承である。たとえばこの点について、武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」(丹治峯均筆記所収)の冒頭に出てくる次の記述は、いかがか。
《新免武蔵守玄信ハ播州之産。赤松ノ氏族。父ハ宮本無二ト号ス。邦君如水公之御弟黒田兵庫殿ノ与力也…》
 ここでの問題は、「父ハ宮本無二ト号ス」とあるところである。これによれば、武蔵は父の代から「宮本」だということになってしまう。これは、小倉碑文の《父新免、号無二》という記事の不正確な変態であるばかりではない。さきの伊織棟札の記事と矛盾する。すなわち、棟札には、
  《遺を受け家を承るを武蔵掾玄信と曰す。後に氏を宮本と改む》
とあった。武蔵がのちに「新免」から「宮本」へ改氏したということである。すると、『丹治峯均筆記』の「父ハ宮本無二ト号ス」というのは、明らかに後世の伝説形成とみなすべきである。むろん、『丹治峯均筆記』には、武蔵が無二の実子ではなく、無二の死後、新免家を再興した義子だという情報もない。
 こうした「宮本」無二なる名は、「宮本」武蔵が有名になって、武蔵が宮本氏ならその父も宮本氏だとする遡及的構成(retroactive construction)によるものである。したがってこうした事後的構成を有する言説を、我々は伝承の二次的過程とみなすのである。
 「新免」無二ではなく、無二を「宮本」氏にした諸伝は、まさにその点において、信憑性を欠く伝説資料とみなすべきである。言うならば、武蔵は「宮本」だからその父は「宮本」無二だという憶説であり、子から父へという単純杜撰な遡及的構成なのである。
 『丹治峯均筆記』所収の武蔵伝記(兵法大祖武州玄信公伝来)は、享保十二年(1727)の日付を有する文書である。この時期になると、すでに武蔵伝説はさまざまに語り伝えられていたのであろう。
 たとえば、立花峯均の兄・立花実山が関与した『江海風帆草』は、宝永元年(1704)の序を有する文書で、その限りにおいて『丹治峯均筆記』より古い。編者の顔ぶれからすると、実際にはこの文書は元禄以前の成立である。これには、巌流島決闘の記事に関連して、《爰に宮本武蔵という者あり。父は筑前国宮本無二之助といひし也。筑前の産也》という文言がある。つまり、筑前では、武蔵の父「宮本無二之助」は筑前国の人であり、その子・宮本武蔵は筑前産だという巷間伝説まであったのである。そういう環境で記述されたのが、『丹治峯均筆記』だということは念頭におかねばならない。
 『丹治峯均筆記』には、慶長五年(1600)、無二と武蔵の父子は和解して、武蔵は黒田如水の軍勢に参加したとする。これは黒田家中の伝説である。かくして、この種の説話記事が鵜呑みにされて、一般に信じられているのは、無二が天正年間に死んだのではなく、その後も生きていたということである。しかしながら、それは新免無二本人ではなく、まさに「宮本」無二という伝説上の人物なのである。

福岡市図書館蔵
兵法大祖武州玄信公傳來
(丹治峯均筆記)


福岡県立図書館蔵
江海風帆草 巌流嶋記事

 再度言えば、伊織棟札によれば、武蔵が「後に氏を宮本と改む」である。そうである以上、むろん無二は宮本氏ではない。言いかえれば、「新免」無二は実在したが、諸説のいうような「宮本」無二なる者は実在しなかったのである。
 まして、肥後細川家中二家で出た「宮本無二斎/藤原一真」「宮本无二助/藤原一真」名の当理流目録(免許状)などは、偽書たるは明らかである。というのも、姓「藤原」を名のる以上は、氏はフォーマルな「新免」でなければならず、「宮本」姓を使用することはありえない。もし無二が出す免許状ならば、名は「宮本」無二ではなく「新免」無二である。このことを知らずに作成しているところをみれば、これは後世捏造の偽書である。
 これは円明実手流系譜にある「宮本無二之助一真」がそのオリジンであろう。この段階ですでに、無二は「宮本無二之助」なのである。ただし、当理流目録を信憑する論者らが知らないのは、この「宮本無二之助一真」(1570〜1622)を継いだのが、甥の栗原虎之助、つまり「宮本武蔵守正勝」(1596〜1675)、これが武蔵をモデルにした後世伝説による空想の人物だということである。
 具体的なことは本サイト所収他論攷で述べられるであろうが、この「宮本武蔵守正勝」を武蔵と同一視できなければ、「宮本無二之助一真」なる空想の人物を、新免無二と同一視することなどできない。「宮本無二之助一真」を新免無二と混同する近年の傾向についていえば、それは、ようするに史料批判もできずに特定史料に依拠するという倒錯的事態である。
 当理流目録のような偽書が出回ったのは、「宮本」武蔵の父なる「新免」無二が、「宮本」無二になった後のことである。つまり、そういう誤伝が発生した後のことである。しかも、《新免武蔵藤原玄信》と小倉碑文にあるように、武蔵が「藤原」姓だということは知られていた。そこで、この偽書は、無二を「藤原一真」として、尤もらしくしたつもりなのである。
 しかし、無二や武蔵がなぜ藤原姓を名のったのか、それをすでに知らない時代のことであるから、「新免」の文字を入れ損なって「宮本」としてしまった。そこで、偽書作為の馬脚を露わしているという次第である。

 そこで興味深いのは、小倉宮本家系図の記事である。
 泊神社棟札の伊織の撰文に、武蔵が新免の家を嗣いだと記してあるのに、この宮本家系図は新免氏の系譜を一切欠いているばかりか、武蔵の「父」の無二はどこにも存在場所を与えられていないのである。このことは、系譜というもののあり方からすると、ごく初歩的な誤りをおかしているわけである。
 武蔵のフォーマルな氏姓は藤原姓新免氏である。しかも宮本家系図は、《新免無二之助一真の養子と為り、因て新免を号す。後に氏を宮本と改む》(原文漢文)と記すから、武蔵のフォーマルな系譜が新免氏に由来することを知っている。ところが、宮本家の系譜から、武蔵がその家を嗣いだ新免氏の系譜を抹消してしまった。その結果、系図が体をなさないことになった。
 それだけではない。上記当理流免許状の「宮本無二斎/藤原一真」「宮本无二助/藤原一真」で知れるように、無二が「藤原一真」というフォーマルな名乗りをしていたという説を取り入れたものか、宮本家系図では、「新免無二之助一真」と記している。そうして、ここでは、無二は「新免」、世間一般の「宮本無二斎」「宮本無二之助」という誤伝と張り合っているが、その反面で、それに影響されているのである。
 言い換えれば、「新免無二之助一真」と記す宮本家系図は、武蔵は新免無二の家を継いだという伊織以来の言い伝えは保存しているものの、当時流通したらしい「宮本無二之助一真」という誤伝を否定しきれていない。「無二之助一真」説を取り込んでいるのである。
    「宮本」無二之助一真 → 「新免」無二之助一真
 つまり、「新免無二之助一真」の方が、「宮本無二之助一真」を媒介にして、それよりも後で発明された名である。
 これは、口碑伝説の取込み(incorporation)であって、美作産地説の依拠する古事帳文書が、「新免無二」とは決して記さず、「宮本武仁」「宮本無仁」と書いていたり、また作成された系図が、宮本武蔵「政名」やら宮本「無三四」という名を取込んでしまうことと、そう大差のないことである。系図というものはたえず「現在」に影響され、つねに改竄の余地があるものなのである。
 ようするに、この「無二之助一真」の一件に関して言えば、小倉宮本家系図のオリジナルは存在せず、しかもその作成時期がかなり遅い、という別の証拠でもある。



安場家本当理流目録
巻末記名部分



*【安場家本当理流目録】
 (巻末記名部分)
   開山 天下無雙宮本無二斎
            藤原一眞 (印)
     水田無右衛門殿 參
 慶長三年黄梅廿四日
 (印字は「天下無雙宮本無二助十」)

*【朽木家本当理流目録】
 (巻末記名部分)
   天下無雙宮本无二助
           藤原一眞 (花押)
 慶長拾弐年九月五日
  友岡勘十郎殿






*【宮本家系図】
《爲新免無二之助一真養子、因号新免。後改氏宮本》



 以上、小倉宮本家系譜をできるだけ厳密に吟味してきたのだが、およそこのような吟味を試みた研究が従来なかったのである。厳正に吟味し指摘すべき問題点は指摘する、という客観的な検証が行われなかった。この点、武蔵研究史は汚点を残したことになった。
 改めて我々の所見を明らかにすれば、この小倉宮本家系譜文書を根拠史料とするには、いかにも難点瑕疵が多すぎる。その作成時期が新しいというだけではなく、さまざまな作為と誤謬を含むところから、これはいわゆる「オリジナルなきコピー」(copy without original)の類いとみなす以外にはない。
 つまり、自身は写しだ(原本は失われた)という位置づけだが、実は、もともとその写しには原本など存在しないのである。そのようなものが、「オリジナルなきコピー」である。
 かくして、武蔵産地米田村説=田原氏出自説なるものは、泊神社棟札に依拠するどころか、たんに九州の小倉宮本家伝書に拠った説に過ぎない。しかもその宮本氏の系譜たるや、我々の分析の結局するところ、原本なき写し、後世の制作物という他ないものであった。

 「新免」玄信は、自身の代になって「宮本」氏を称する。しかし、その「宮本」が、小倉宮本家系譜を作成した末孫にはまったく不明で、位置づけをもたないのである。
 とすれば、武蔵の代になって改氏したという、その「宮本」という名はどこに由来するのか。
 ここで、その氏の名が、「宮本」であって、「田原」でも、あるいは地名の「米田」でもないことに注意を喚起しておきたい。伊織自身が背負うことになった宮本姓だが、この点についても、泊神社棟札の伊織は何も記していない。
 ようするに、武蔵はどこの出身か、伊織は何も書かないのである。書かないのは、不明だったからではなく、書く必要がなかったからだ。棟札が設置された地域=播州では、それは自明だったからである。


宮本氏歴代年譜


 この点に関連して云えば、もう一つ、――これはある意味で決定的な問題だと思えるが――「墓」のことがある。
 つまり、伊織は武蔵の墓碑とも言うべきモニュメントを、豊前小倉に建立している。ところが、伊織は武蔵の墓を田原家の墓所に設けてはいないのである。
 伊織は父祖墓建立に不熱心だったかというと、まったくその逆である。むしろ、熱心に造墓する方だった。すなわち、播州三木の本要寺、京都深草の宝塔寺に、兄弟とともに田原家父祖の墓を建てており、それが現存するのである。
 播州三木に田原家墓所があるのは、この地域(加古川中流域)が田原氏ルーツの地であるからだ。決して沿海部の印南郡米田村がそのルーツでないことは、「元来、三木侍」という『播磨鑑』の記事によっても知れるところであるが、まさに田原家の墓所がこの三木の地にあるのを見てもそれがわかる。三木本要寺の宗派は日蓮宗である。また、京都深草の宝塔寺に墓所を設けたのは、同じ日蓮宗の縁によるだろうし、ここが法華宗の名刹だからである。これはおそらく、伊織弟の小原玄昌の線であろう。
 ところが、このどちらの墓地にも、武蔵の墓は存在しないのである。
 もし小倉宮本家系図にあるごとく、武蔵が田原氏の出で、伊織の祖父の息子であるならば、武蔵の墓一つ建てていないのは、不審なことではないか。なぜ、この義父でありかつ叔父(父の弟)である血縁人物の墓を、「孝子」たる伊織が、実父母の墓に並べて建てていないのか。
 すなわち、この墓の一件を要するに、武蔵が田原氏でなかったから、伊織は田原家の墓所に武蔵の墓を造らなかったのである。事実は、まさに、そういうことではないか。
 伊織は養子となって武蔵から宮本家を嗣いだのだが、武蔵その人は田原家の者ではない。だからこそ、武蔵の墓は田原家の墓所には存在しないのである。

 そしてさらに一点、粉砕的事実がある。それは、京都深草の宝塔寺に伊織と兄弟ら建てた墓碑に関連してのことである。
 まさに「孝子宮本氏貞次等敬建之」とあって、伊織を代表者として建てたのが、田原兄弟の両親及び祖父母の墓碑である。そのうち、彼らの祖父母の墓誌にはこうある。

播州三木の田原家墓所
本要寺蓑谷墓地 兵庫県三木市



京都深草の田原家墓所
深草山宝塔寺 京都市伏見区



「孝子宮本氏貞次等敬建之」左脇に
内祖父慈性院(家貞)の命終日
「天正五丁丑三月六日」


 この墓誌によれば、彼らの内祖父・慈性院宗圓日久、すなわち田原甚右衛門家貞の歿年は、天正五年(1577)である。その死没年は播州三木の田原家墓碑も同様であるが、これは重要な記録である。というのも、武蔵の生年との照合ができるからである。
 では、これに対し、武蔵の生年はいつだったか?――それは、武蔵が『五輪書』自序部分に記す寛永二十年(1643)に「年つもりて六十」という記述があり、そこから逆算して、武蔵の生年は天正十二年(1584)と特定できる。
     田原家貞の没年   天正五年(1577)
     宮本武蔵の生年   天正十二年(1584)
 つまり、武蔵が生れるなんと七年前に、「父」たるべき田原家貞は死んでしまっているのだった。釈尊の神話的伝説では、彼は母胎にあって十年、そして遂に生れて「唯我独尊」を発語したわけである、剣聖宮本武蔵ほどの存在が、母胎に七年住するも不思議ならんや、と主張する場合は別だが、七年前に死んだ死者から子が生じる道理がない。とすれば、武蔵が田原家貞の子であろうはずがない。
 すなわち、伊織ら兄弟が建てた墓碑こそが、小倉宮本家系図の記事を否定し、同時に田原氏出自説を否定しているのである。
 とはいえ、小倉宮本氏系図の当該部分を切り出して右に示すように、系図そのものが、そうした甚右衛門家貞の歿年(天正五年)と武蔵の生年(天正十年)の矛盾を、露呈したままにして記載しているのである。
 これは一体どういうことなのか。
 たんに系譜作製者の杜撰さを示すものなのか、それとも、武蔵記事を田原氏系図に押し込んだまではよいが、武蔵生年を天正十二年から天正十年へと二年先送りしたのがせいぜいで、作為はもはやそこまで、結局、辻褄の合わせようがなかった、ということであろうか。紙に書く文字はいつでも書き換えられるが、さすがに墓石に刻まれた文字までは改竄できないからである。
 周知のごとく、美作説の根本的欠格事由の一つに、武蔵の「父」平田武仁の歿年と武蔵の生年との隔差が挙げられる。すなわち、武蔵の生年が天正十二年であるのに対し、すで見たように、平田武仁の歿年はその四年前、つまり天正八年(1580)なのである。
 まさしく、これと同様の欠格性を田原氏出自説も有するのである。
 とすれば、印南郡米田村説(田原氏出自説)は、自説に固執するかぎり、美作説と同様に、辻褄合わせのために墓誌の歿年を誤記と決めつける、例の倒錯に陥らざるをえない。平田武仁と田原家貞、いづれの場合も、武蔵の「父」と仮託された人物は、自身の歿年を否認される運命にあるものらしい。




*【五輪書】
《時、寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拜し、觀音を礼し、佛前に向。生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十》(地之巻)






武蔵は天正十年生、家貞は同五年歿
系図のこの自己矛盾を解きうるか

 さて、我々はここまで、米田村産地説が根拠とする史料を、吟味し検証してきたわけだが、ここで、以上の議論のプロセスを要約するところに到ったと思われる。これまでの吟味経過を要約するならば、こういうことだった。
 
(1) 宮本伊織は泊神社棟札において、自身の出自実家を、印南郡米田村の田原氏として明記している。
 
(2) ところが、この棟札には武蔵の出身地が記されていない。したがって、この棟札に依拠するかぎりにおいては、武蔵産地は判明しない。
 
(3) 九州小倉の宮本家伝書のごとく、武蔵を伊織祖父・甚右衛門家貞の二男とする系譜があるが、これは後世の作製物であり、しかも内容形式ともに史料批判に耐えるものではなく、根拠資料としての要件を有しない。
 
(4) 「孝子」たる伊織が、田原家の父祖の墓所に武蔵の墓を造っていない。
 
(5) 小倉宮本家系譜が武蔵の「実父」とする田原甚右衛門家貞は、武蔵が生れる七年前に死んでいる。
 
 もとより、地元播磨には、武蔵出自を印南郡米田村の田原氏とする伝承は存在しない。したがって、物事の道理からする結論を言えば、武蔵は田原氏で印南郡米田村産だとする説は、根拠を闕く謬説なりとして却下されるべきであろう。
 いまや新たな「通説」になりつつあるこの米田村説は、泊神社の伊織棟札を根拠とすると称するのだが、我々が公正かつ客観的に評価すれば、実はその依拠のしかたが足りない。不徹底なのである。
 まさに遠い九州で醸成された誤伝に依拠しているようでは、泊神社棟札が根拠だとは決して言えないのである。棟札にあくまでも依拠するならば、
  「武蔵が米田村に生まれたとは、一言も書かれていない」
という事実を認める以外にはない。しかも、それは小倉宮本家系譜においても同様である。こちらも、武蔵は田原家貞の二男だという僻説を記すものの、武蔵が印南郡米田村に生まれたとは一言も書いていないからである。つまりは、この米田村産地説は、それが依拠する根拠史料に「書かれていないこと」を空想しているにすぎない。結局のことろ、米田村説は、まさに美作説にも劣らぬ妄説だというべきである。
 以上のことは同時に、武蔵米田村出生説に傾こうとする近年の傾向趨勢に、ストップをかける必要があることを意味する。
 なにしろ、地元・米田天神社の前に、平成元年に建立された「宮本武蔵・伊織生誕之地」碑は、なんと百トンの巨石、そればかりか、その碑銘は肥後熊本城主だった細川氏の子孫、細川護貞氏(第十七代当主)の筆である。
 しかし、その先々代、細川護成氏が、明治四十四年、武蔵美作産説のご当地(岡山県美作市宮本)にある武蔵生誕地碑のために揮毫したという因縁があるわけだから、細川家はこれで、異なる生誕地二ヶ所に、文字通り「お墨付き」を与えたことになる。まことに、因果なはなしである。
 百トンの石碑の重み、それを削り出してここへ運搬した人々の莫大な労苦。それに対して、この米田村武蔵出生説は、まことに根拠のない、羽毛のように吹けば飛ぶような空想僻説。その極端なアンバランスこそ、ここに露呈されている見どころというべきかもしれぬ。
 改めて云えば、印南郡米田村、それは宮本伊織が生れた村である。武蔵を産んだ土地ではない。武蔵がここに生まれたと、そう思いたい気持はわかるが、伊織が生まれたというだけで、十分ではないか。なぜ、それでは不足なのかね。それ以上踏み外せば、我田引水を専らとする美作説の二の舞だろうに。武蔵産地米田村説を信奉する人々は、よくよく考え直してみることだ。



米田天神社
兵庫県高砂市米田町米田




宮本武蔵・伊織生誕之地碑
平成元年 細川護貞筆



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