宮本武蔵 資料篇
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 Q&A   史実にあらず   出生地論争   美作説に根拠なし   播磨説 1 米田村   播磨説 2 宮本村 

[資 料] 泊 神 社 棟 札 Go back to:  資料篇目次 




泊神社の位置



泊神社



泊神社棟札 上書
 泊神社(兵庫県加古川市加古川町木村)には、武蔵養子の宮本伊織(1612〜78)による撰文を記した棟札が保存されている。すなわち、伊織が、故郷の氏神である泊神社の社殿を、自身の兄弟たちとともに再建した折のものである。これは承応二年(1653)五月の日付をもつ。
 見たところ、棟札はおよそ高さ五尺五寸・幅一尺六寸ほどの一枚板に、墨書されたものである。棟札は本殿と舞堂のそれぞれ各一枚、ともに同じ大きさ、同じ内容の棟札である。
 ふつう棟札は、造営記録として、願主や作事奉行人、あるいは大工棟梁などの名を記すが、この棟札はそれだけではなく、一面に伊織の表白文を記載する。これは棟札としてはあまり例のない体裁である。
 その文章が表白文であるところをみるに、宮本伊織は九州にいて、小倉城主・小笠原家の老職にあったから、落成式には出席せず、代読されたものであろう。その表白文を、社殿再建の記念として棟札に記し、小屋裏に掲げて保存されたものらしい。
 この泊神社棟札の記事は、武蔵を「父」とする宮本伊織が一人称(「余」)で述べる文章であり、しかも武蔵死後最初のテクストである。したがって、申すまでもなく、武蔵研究史上、この泊神社棟札の価値は極めて高い。現在までのところ、武蔵関係史料では、第一級の一次史料である。その史料的価値は、同じく伊織が翌承応三年(1654)に豊前小倉郊外の山上に建てた武蔵碑(北九州市小倉北区赤坂 手向山)にまさるとも思われる。我々はこれを「伊織棟札」と呼んでいる。
 しかし、これが宮本武蔵に関連して、世間に注目されるようになったのは、戦後のことである。昭和三十五〜六年頃、この神社が社殿屋根の修復工事をした際、これを地元新聞などが取り上げたりして注目されるようになったのである。
 ところが、この泊神社棟札が戦後になってはじめて「発見」されたかのように書く武蔵研究書が散見されるが、それは、むろん誤りである。もとより棟札の所在は、地元播磨では以前から知られており、郷土史家の中にはそれを見ている者もあった。しかも、大正五年(1916)刊行の『印南郡誌』には全文が収録され、活字化までされているのである。
 そういう地元の事情もよく知らずに、これを、近年の武蔵研究者が、昭和三十五年頃に「発見」された新史料と錯覚しているのには、困ったものである。この棟札の「発見」に関する一件については、この棟札の存在を知らなかった一研究者が、昭和三十五年という時点でこれを見つけたというにすぎない。ようするに、無知の露呈である。
 しかも、大正期に棟札全文が活字化されていた以上、戦後のこの「再」発見それ自体には、研究史上の何の意義もない。それをことさらに宣伝したがるのは、史料認知の事情を知らぬという恥の上塗りになるから止めた方がよい、と忠告しておく。
 従来、この棟札の原文につき、写真図版を掲載したものはあったが、示された翻刻テクストがどれも不完全、しかも誤記の尠なからぬものであった。それらが武蔵関係書に収録されて、誤写が流伝している以上、我々はとうてい看過拱手しているわけにはいかなくなったのである。
 また、近年、「この棟札の記事により、武蔵が印南郡米田村に生れたのは明らかだ」という珍説が出てきたが、それはむしろ、この棟札の第一級の史料的価値を貶めるものに他ならない。こうした謬説を正すためにも、この伊織棟札の全文を厳密に読解する必要がある。
 ここでは、棟札現物と照合して校訂した棟札全文(原文漢文)を提示し、その読み下し、そして現代語訳を示し、あわせて、棟札全文の詳しい註解を附す。
 この校訂及び読解の作業は未だかつて為されたことはないという点で、さしあたり諸家の武蔵研究に資するという意義があろう。
                  (平成十五年一月十五日 播磨武蔵研究会 )


 【原 文】
・棟札撰文は漢文で、文字は11行にわたって楷書で書かれている。文中、□は字間スペースを示す
・文中、特殊な漢字をunicodeで記述しているため、文字が「?」と表示されるケースがある。その文字は[しんにゅう+台]という漢字、読みは「タイ」、訓は「いたる」である。



〔第1行〕  余之祖先人王六十二代自□村上天皇第七王子具平親王流傳而出赤松氏迨高祖刑部大夫持貞時運不振故避其
〔第2行〕  顯氏改稱田原居于播州印南郡河南庄米堕邑子孫世々産于此焉曽祖曰左京太夫貞光祖考曰家貞先考曰久光自
〔第3行〕  貞光来則相継屬于小寺其甲之麾下故於筑前子孫見存于今焉有作州之顕氏神免者天正之間無嗣而卒于筑前秋
〔第4行〕  月城受遺承家曰武藏掾玄信後改氏宮本亦無子而以余為義子故余今稱其氏余比結髪元和之間信州生仕小笠原
〔第5行〕  右近大夫源忠政主于播州明石今又從于豐之小倉也然□木村□加古川□西宿村□船本村右下に添書西河原村」〕□友澤村□稲屋村□
〔第6行〕  古新村□上新村□米堕右下、中嶋と鹽市の右に添書内又□今在家村□小畠村□奥野村□北河原村」〕□中嶋□鹽市 □今市□總十七邑之氏神奉號□泊大明神矣故老傳云所奉勧請紀伊□日
〔第7行〕  前神也而米堕又別崇□菅神焉近歳二社共殆頽朽余與一族深嗟之故一奉祈君主家運榮久一欲慰父祖世々之先
〔第8行〕  志而謹告家兄田原吉久舎弟小原玄昌及田原正久等俾幹匠事而今已得新二社焉夫神之威嚴人之得之於天無一
〔第9行〕  不具所謂心稱誠道是也爾則縱雖不祈而神護可知矣雖然常人之質皆掩天徳而不能如其初肆純一懇丹祈運継志
〔第10行〕  仰冀神人有感通哉其玄昌以小原為氏者攝州有馬郡小原城主上野守源信利其嗣信忠生余母一人而無男天正之
〔第11行〕  間属播州三木城主中川右衛門大夫麾下到高麗戰死焉故 母命俾玄昌継其氏云時承應二癸巳暦五月日宮本伊織源貞次 謹白

泊神社本社棟札

【読み下し】
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 余の祖先、人王六十二代・村上天皇第七王子、具平親王より流伝して、赤松氏に出づ(1)。高祖〔赤松〕刑部大夫持貞に迨〔いた〕りて、時運振はず、故に其の顕氏を避け、田原に稱を改め、播州印南郡河南庄米堕邑に居し、子孫世々、此に産せり(2)
 曽祖、左京太夫貞光と曰す、祖考、家貞と曰す、先考、久光と曰す。貞光より来りて、則ち相継て小寺其甲の麾下に属す。故に筑前に於て子孫、今に存るを見る(3)

 作州の顕氏に神免なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを、武藏掾玄信と曰す(4)。後に宮本と氏を改む。亦た無子にして、以て余、義子と為る。故に余、今其の氏を稱す(5)
 余、結髪の比、元和の間、信州生仕の小笠原右近大夫源忠政、播州明石に主し、今又、豐の小倉に従ふ也(6)
 
 然れば、木村・加古川・西宿村・船本村・(西河原村)・友澤村・稻屋村・古新村・上新村・米堕・(内又 今在家村・小畠村・奥野村・北河原村)・中嶋・鹽市・今市、総じて十七邑の氏神、泊大明神と號し奉れり。故老の傳へ云ふ所、紀伊日前神を勧請し奉る也。而して、米堕、又別に菅神を崇れり(7)
 近歳、二社共に殆ど頽朽す。余、一族と深く之を嗟く。故に、一に君主の家運榮久を奉祈し、一に父祖世々の先志を慰まむと欲す(8)

 而れば謹みて告ぐ。家兄・田原吉久、舎弟・小原玄昌、及び田原正久等、匠事を幹せしめて、今已に新二社を得たり(9)
 夫れ、神の威嚴、人の之を天に得るに、一として具らぬ無し。所謂、心稱誠道、是なり。爾れば則ち、縱ひ祈らずと雖も、而して神護知る可し。然れども、常人の質、皆、天徳を掩ひて、其の初の如く肆に純一懇丹なる能はず。祈運し志を継ぐ。仰冀ば神人の感通有らんか。(10)

 其の玄昌、小原を以て氏と為すは、攝州有馬郡小原城主・上野守源信利、其嗣・信忠、余を生せる母一人にして男無く、天正の間、播州三木城主・中川右衛門大夫麾下に属し、高麗に到りて戰死せり。故に、母命じて、玄昌に其氏を継がせしむ、と云ふ(11)
 時に承應二癸巳暦五月日、宮本伊織源貞次、謹白(12)
【現代語訳】


 私の祖先は、六十二代・村上天皇の第七王子、具平親王より流伝して、赤松氏の出である。高祖〔赤松〕刑部大夫持貞の代になると、時運がふるわなかった。故に、その顕氏〔赤松〕を避けて、田原に改称し、播州印南郡河南庄米堕邑に住み、子孫代々ここに産まれた。
 (私の)曽祖父は、左京太夫貞光といい、祖父は家貞といい、父は久光という。貞光以来、そのまま相継いで、小寺それがしの摩下に属してきた。故に、筑前に子孫がいま存在するのを見るのである。

 作州の顕氏に神免なる者があった。天正の間、あと嗣ぎが無いまま、筑前秋月城で亡くなった。その遺を受け家を継承したのを、武蔵掾玄信という。(武蔵は)後に宮本と改氏した。また子が無かったので、私が義子(養子)となった。故に、私はいまその氏(宮本)を称している。
 私が結髪(元服)した頃、元和年間に信州から出た小笠原右近大夫源忠政*を、(私は)播州明石において主人とするようになり、そして今も、(忠政に)従って豊前の小倉にいる。

 さて、木村・加古川・西宿村・船本村・(西河原村)・友澤村・稻屋村・古新村・上新村・米堕・(内又〔枝邑〕 今在家村・小畠村・奥野村・北河原村)・中嶋・鹽市・今市、総十七邑の氏神を、「泊大明神」という名で呼び奉っている。故老の伝えにいうところでは、紀伊の「日前神」を勧請し奉っているのである。そうして、米堕〔村〕は、また別に「菅神」を崇っている。
 近年、二社ともに、ほとんど頽朽してしまった。私は一族と深くこのことを嗟く。故に、一つには君主の家運栄久を奉祈し、一つには父祖世々の先志を慰めたいと思う。

 そこで謹んで告げる。家の兄・田原吉久、弟の小原玄昌と及び田原正久等、社殿造営工事を完成せしめて、今すでに新しい二つの社殿を得たのである。
 それ、神の威厳〔みいつ〕は、人がこれを天に得ようとすれば、一つとして欠けるところがない。いわゆる「心称誠道」とは、このことである。なれば則ち、たとえ祈らずといえども、そのようにして神護は知ることができるのである。しかれども、常人の質は皆、天の徳をむしろさえぎって、その初めのごとく、ほしいままに純一で赤心からの願いであることはできない。(ゆえに)祈運し志を継ぐ。神と人の感通があってほしいと乞い願うのである。

 その玄昌〔田原貞隆〕が小原を氏とするのは、摂州有馬郡小原城主・上野守信利の後嗣ぎ信忠には、〔兄弟姉妹が〕私を生んだ母一人で、男子が無く、〔信忠は〕天正の間、播州三木城主・中川右衛門大夫の麾下に属し、朝鮮に到って戦死してしまった。故に、母が命じて、玄昌にその氏〔母の実家〕を継がせたという。
 時に承応二年(1653)五月日、宮本伊織源貞次、謹んで白す。

 
  【註 解】

(1)余の祖先
 まずは、宮本伊織の実家・田原氏の系譜を述べる。すなわち、田原氏は赤松末葉であり、ゆえに村上源氏の系統である。
 村上天皇は、いわゆる「村上源氏」の系譜の発端。村上天皇は皇統六十二代。延長四年(926)生、康保四十六年(967)歿、醍醐天皇の第十四皇子。母は太政大臣藤原基経の娘穏子〔おんし〕。皇后は藤原安子(師輔女)、他に藤原芳子(実頼女。宣燿殿女御)・源計子(広幡御息所)・徽子女王(斎宮女御)・荘子女王(代明親王女)など美女才媛の女御御息所を揃え、多くの子女をなしたという。憲平親王(冷泉天皇)・守平親王(円融天皇)・保子内親王(藤原兼家室)・選子内親王・具平親王などの父。
 天暦五年(951)には梨壺に撰和歌所を設け、源順・清原元輔らを召して万葉集の訓点と『後撰集』の撰進に当たらせる。歌合の典範として後世重んじられた天徳四年(960)内裏歌合をはじめ、多くの歌合を主催した。『村上天皇御集』あり。
 赤松氏およびその末流は「村上源氏」の系譜に連なる。フォーマルには「源」を名のる。ただし、伊織が「源貞次」と称するのは、別項解説のようにやや意味が違う。
 具平〔ともひら〕親王は、応和四年(964)生、寛弘六年(1009)歿。村上天皇の第七皇子。母は代明親王女、荘子女王。右大臣藤原師房の父。三人の女子はそれぞれ関白頼通・敦康親王・関白教通の室となる。「前中書王」兼明親王に対し「後中書王」と称される。通称「千種殿」。
 清少納言・紫式部の同時代人で、慶滋保胤に詩文を学び、管弦・書道・陰陽道・医術などにも秀でたという。『本朝麗藻』『和漢朗詠集』『本朝文粋』などに詩文を残す。和歌にも造詣深く、家集『六條集』(具平親王集)がある。
 人麻呂・貫之の評価を巡って藤原公任との論争が有名。これがきっかけとなり公任の『三十六人撰』が編まれたという。それゆえ、伊織の三十六歌仙奉納も意義深い。
 ちなみに、具平親王は当地印南郡に縁がある。具平親王神社と具平塚がある(現・加古川市野口町)。『播磨鑑』に、「在坂元村ト平野村ノ間、大道ノ南一段高キ土地、村上天皇ノ皇子具平親王ノ陵也。世人是ヲ朱見塚ト云」とある。

 さて、赤松氏のことである。
 赤松氏諸伝によれば、村上天皇の皇子具平親王の子師房が源姓を賜り、師房五世の孫師季が播磨に配流され、同国作用庄に土着したのが始まりとする。師季の子季房の代になって勅免され、播磨を領有して白旗城に拠ったという。季房−季則−頼範−則景−家範と続いて、この家範のとき、はじめて赤松氏を名のるようになったとする。「赤松」は作用庄の南端の赤松村を名乗りとするらしい。
 家範から久範・茂則を経て則村に至る。則村は有名で、周知のように法号が「円心」、元弘・建武の内乱のとき護良親王の令旨を受けて、御醍醐天皇方として戦功があったが、恩賞が作用庄のみであったため不満、足利尊氏の反逆に与したという。ともあれ円心は足利尊氏に与し、尊氏の再起東上に際しこれを播磨に迎えるとともに、楠木正成を湊川に破った。室町幕府が成立するや、円心則村には播磨守護職、長子範資は摂津守護職となり、赤松氏は有力守護にのしあがった。
 
法雲寺 円心堂
赤松円心像

赤松氏守護領国

 円心没後、三男則祐が後嗣、以後、この則祐の系統が本宗家となる。則祐の嫡子義則は播磨・備前の守護を継ぎ、侍所頭人に就任、京極・一色・山名らと並ぶ四職の一となった。明徳二年の山名氏清の乱後は美作守護職も手中にし、播磨から美作に勢力を拡大した。義則の時代、赤松氏支配の最大領域を実現した。播磨・備前・美作の、いわゆる播備作三国守護を、赤松氏本来の領分とするのは、これ以来である。
 義則が没すると満祐が継いだ。ときの足利将軍は義教である。この義教の専制に脅威を感じた満祐は機先を制した。将軍義教を自邸に招き、宴の最中に殺害した。嘉吉元年(1441)の、いわゆる「嘉吉の乱」である。
 満祐は将軍を殺したが、そのまま播磨に退き、城山城に拠って細川・山名ら幕府軍と戰うが敗北、自害して果てた。ここで赤松宗家は滅び、強大な赤松氏も衰退してしまった。しかしその後、遺臣らが満祐の弟義雅の孫政則を盛り立て、赤松氏再興を許されて旧勢力を取り戻すことに成功した。
 戦国期には、義祐のとき家臣・浦上氏と不和、信長に通じたが、永禄十二年浦上宗景と戦って没落する。天正年中の羽柴秀吉播磨侵攻のときは、播磨の赤松氏一統は敵味方に分かれた。晴政の孫、置塩城主・則房は信長方についていたが、政秀の子広英は龍野城に降伏した。
 赤松氏の多くは新興の織田方に屈し従ったが、三木城に拠る別所長治・長水城の宇野政頼・上月城の赤松政範らは毛利氏と結んで最後まで抵抗した。しかし抗戦した各城も、天正八年にいたるや、全て落城、ここに、足利幕府以来、播磨に勢力を張った赤松氏とその一党による支配は壊滅した。
 赤松氏の歴史については、本サイトの[サイト篇]赤松村他に所載の各論に詳しいから、それを参照されたい。  Go Back




*【村上源氏略系図】

 ○村上天皇―┐
  ┌――――┘
  ├広平親王
  │
  ├冷泉天皇 ┌[源]成信
  │     │
  ├致平親王─┴[源]致信
  │
  │     ┌[源]憲定
  │     │
  ├為平親王─┼[源]頼定
  │     │
  │     ├[源]為定
  │     │
  │     ├[源]顕定
  │     │
  ├円融天皇 ├[源]教定
  │     │
  ├昌平親王 └[源]敦定
  │
  ├具平親王─┬[源]師房→
  │     │
  └永平親王 └頼成




具平親王神社
兵庫県加古川市野口町古大内



*【赤松氏略系図】 諸伝個々異同あり

○師房─顕房─雅兼─定房─┐
 ┌───────────┘
 └定忠─師季─季房─季則┐
 ┌───────────┘
 └頼則┬為助
    │
    ├頼景─頼重─範重→
    │
    ├則景───────┐
    │         │
    └将則┬為頼    │
       │ 宇野 小寺 │
       ├景俊 江見  │
       └範重 佐用  │
 ┌────────────┘
 ├家範┬久範┬茂則┬則村─┐
 │赤松│  │  │ 円心
 │  └長範└光則│   │
 │        └円光 │
 ├景盛 上月      │  │
 │         敦光 │
 ├景能 間島 大田   別所
 │     中山     │
 └有景 櫛田        │
 ┌────────────┘
 │     ┌[満祐]
 │     │
 ├範資┬光範┴満弘─教弘→
 │  │
 │  ├師頼─頼康─範親→
 │  │
 │  └師範─範康─満範→
 │
 ├貞範┬顕則┌満則┬貞村
 │  │  │  │
 │  └頼則┤  └貞祐→
 │     │
 │     └持貞─家貞
 │  ┌義房      
 │  │
 ├則祐┼義則┬満祐─教康
 │  │  │
 │  │  ├祐尚─則尚
 │  │  │
 └氏範│  ├義雅─性存
    │  │    │
    │  ├祐之 政則
    │  │
    │  ├則繁─繁広→
    │  │    ↑ 
    │  └則之┌満直 
    │     │
    ├満範─満政┴祐則 
    │
    ├義祐─持家→有馬
    │
    └持範─持祐




*【赤松氏略系図・続】

 義雅─性存─政則
 ┌───────┘
 ├義村┬晴政─義祐─則房
 │  │
 ├真龍└政元─政範
 │
 └村秀―政秀┬広貞
       │
       └広秀
 
(2)高祖刑部大夫持貞、時運振はず
 ここは、田原氏の元祖が赤松持貞だという伝説を語る。
 持貞は赤松円心則村の曾孫にあたり、赤松氏庶流の春日部家系統。赤松持貞は、ある意味で不運な人であった。
 「嘉吉の乱」よりも前の話である。
 応永三十四年(1427)義則が没したとき嫡子満祐は45歳で、すでに父に代わって侍所所司を勤めていた。義則時代の勢力をまるごと継承するはずであった。ところが将軍義持は、満祐の家督相続を承認せず、逆に、赤松氏本拠地の播磨国守護職を満祐から召しあげて将軍御料所とし、その代官を赤松持貞に預けることを通告した。
 これに対し満祐は義持に決定の取り下げを請うたが許されず、京都の屋形を焼き払って抗議し下国した。義持は、そこで美作・備前の守護職も剥奪、美作は持貞の一族に、備前は赤松満弘に与えた。幕府は満祐追討のため播磨に進軍、赤松氏同士の戦いとなるようであった。
 だが事態は意外な展開となって、急転、そして解決した。
 赤松持貞は義持の寵をうける側近であったが、義持の側室との密通事件が表沙汰になり、窮地に立った彼は自殺してしまった。応永三十四年十二月のことである。
 他方、満祐はこれを機に謝罪して許され、播磨はじめ三国の守護職を安堵された。義持には有力守護を同族同士潰し合いさせる意図があったようである。
 これが、満祐の「嘉吉の乱」の前段の事件だった。事実か陰謀かは知れないが、ようするに、持貞は密通事件の汚名を着て死んだのである。棟札にいう「時運振はず」とは、この事件を指すはずである。ところが、面白いのは、棟札記事にはそんな認識がないことである。この「時運振はず」は、嘉吉の乱で赤松宗家が衰退した一件と混同しているようである。
 持貞は赤松嫡流ではなく、円心二男貞範に発する傍系の人である。貞範の系統はその居城も、赤松根拠地(赤穂郡千種川流域)の白旗城ではなく、姫路東方の庄山城(現・姫路市飾東町庄)である。
 この庄山城は、姫路城の最初の城主赤松貞範が貞和五年(1349)に築いたもので、貞範は平山の姫路城よりもこの中世山城型の庄山城に拠ることにし、姫路城は家臣の小寺頼季に守らせた。貞範没後は顕則(頼則)が嗣いで、一説に、次は持貞へと続いて、その後は持貞の甥の貞村(満貞の子)へ移るという。
 この赤松貞村が将軍足利義教の近侍した寵臣で、そして嘉吉の乱の原因になった。足利義教は赤松満祐から播磨・備前・美作の三国守護職を剥奪して貞村に与えるという気色になり、嘉吉元年(1441)、赤松満祐は足利義教を殺害した。満祐は京都から播磨に下国し、坂本城に籠城、その後木山〔城山〕城で一族が集結し籠城した。これに対し山名氏など幕府方の大軍が攻め寄せ、この戦闘で満祐は敗北して自刃し、赤松宗家は滅亡する。この時、赤松氏も二手に分かれて戦い、赤松貞村は満祐追討に加わっている。
 かくして、赤松持貞が拠ったというこの庄山城は、赤松氏の興亡においてまさしく因縁の城なのである。ただし、持貞がこの庄山城に拠ったらしいという情報を提供すると、粗忽な者が、それみろ田原氏が持貞子孫だという証拠はそれだ、と言い出しかねないので、誤解を先に制しておけば、庄山城は貞村の居城になり、持貞系統は消滅したという事実があり、持貞子孫は家貞以後は不明である。

 さて、赤松持貞を「高祖」、始祖とする田原氏起源を記すこの棟札の記事には、こういう背景がある。持貞を「赤松刑部大夫」と記すが、赤松諸系図では「越後守」である。刑部大夫であった時期もあるが、系図としては「越後守」としなければならないところである。また、持貞の子・家貞を「田原中務小輔」と記すが、赤松諸系図では家貞は幼名慶松丸、中務少輔、しかし家貞以下の続嗣はない。あるいは家貞を持貞の子ではなく、弟とする系図もあり、いづれにしても、家貞のポジションは確定できない。
 この田原氏起源記事は、持貞の代になると、時運がふるわなかった――ようするに失脚した――故に、その顕氏を避けて、田原に改称し、播州印南郡河南庄米堕邑に住み、子孫代々ここに産まれた、とする。「顕氏」とは勢力のある名族の氏。ここでは赤松氏を指す。この「赤松」の名を避けて、「田原」に改称したというのである。
 とすれば、持貞は「女事」(姦通スキャンダル)で応永三十四年に京都で自殺したのではなく、本当は生きていて、播磨へ下って、この印南郡の一村に住んで、「故あって」赤松から田原へ改氏したというわけだ。荒唐無稽な記事である。自害したはずのこの持貞を生かして、京都から連れて来て、「高祖」とするからである。
 つまり、これは、播磨美作に多い持貞子孫伝説のひとつなのである。この赤松持貞は、各地に事跡をのこす伝説的人物である。すなわち、京都で死んだはずの持貞は、なお生きて各地にあって家々の祖となっている。作州にも同様の事跡がある。かくして、この田原氏伝承の始祖持貞も、そうした貴種流離譚の人物なのである。
 したがって、これは伊織が聞いて育った田原氏起源伝説であって、この記事は持貞始祖伝説を書きとめたにすぎない。これは貴種流離譚の一種であるから、信憑性如何云々以前の話である。それゆえ、これは事実ではない、虚偽記載だと目くじらを立てる必要はない。伝説は伝説として尊重すべきなのである。
 しかしながら、これを系図化したものをみて、現代人がこれを史実として主張するとなると、話はちがってくる。伝説を伝説として読む、という作法を知らないからである。
 興味深いことに、伊織子孫が十九世紀半ばに作成した小倉宮本家系図は、この田原氏起源伝説をそのまま取り込んだものである。これは起源部分が、「宮本氏」系図ではなく、「田原氏」系図になってしまっているところが、おもしろいのである。系図というものは、こういう接木をする例が多いのだが、これは伊織子孫が、宮本家元祖たる宮本武蔵の出自について、何も情報をもたなかったことを意味する。その結果、起源の空白を田原氏起源伝説で埋め、しかも宮本武蔵を田原氏にしてしまったのである。こういう系譜操作は、しかし異例のことではない。よくあることなのである。

 播州印南郡河南庄米堕邑に居し、子孫世々、此に産せり、とある。
 印南郡河南庄米堕邑は、現・兵庫県高砂市米田町米田。米田町は戦前米田村から米田町になったものだが、さらに昭和三十一年の市町村整理で、高砂市と加古川市に分割編入された。ゆえに加古川市にも米田町の名がのこる。『播磨鑑』の著者・平野庸脩の住所「平津村」は、現在加古川市の米田町の内である。
 さて棟札によれば、持貞子孫が代々この米墮村に産れたというのだが、その「世々」というのは実は不明である。小倉宮本家系図でも、赤松持貞−田原家貞−某−某−田原貞光−家貞−久光(伊織の父)とあり、家貞以下の二代が連続して「某」であって不詳である。
 おそらく田原氏は、伊織には曽祖父以前の名さえわからない、そういう家系だったということだ。しかも、赤松末流とはいえ、「田原」という氏は赤松衆諸家にその名がない。となれば、伊織棟札が記すほどにはそう古い家系ではない。おそらくは、伊織の曽祖父・貞光あたりが始祖なのである。
 地元播磨の史料を参照してみると、『播磨鑑』には、「米田村に宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す」とある。
 これによれば、どうも、田原家は代々米田村に住んでいた、というのではなさそうである。伊織の父の甚兵衛久光が、三木合戦別所落城の後、この米田村へやって来て住むようになり、伊織が生まれたとする。「元三木侍」とは、三木合戦で敗残し浪人していたということだろう。
 つまり、地元では、「貞次さんは出世して偉うなったが、親父はもと三木侍で、三木で別所が負けた後、三木からこの村へ流れて来て住むようになり、それで貞次さんが生れたのだよ」という話なのである。
 子孫世々、此に産せり、というなら先祖代々の土地である。とすれば、奇妙なことに、この地には伊織は父祖の墓を建てていない。伊織(とその兄弟)は、播州三木(吉祥山本要寺)と京都伏見(深草山宝塔寺)といった「外地」に墓を建てている。伊織たち田原兄弟は、なぜこの印南郡米田村に墓を建てなかったのか。その答えは明かである。それはつまり、この地が田原氏根拠地ではなかったからである。
 それでは、伊織の実家・田原氏の由来地、この「田原」というのは、どこなのか。おそらく伊織の田原氏は、前述の如く、もともと印南郡米田村ではなく、加古川を遡った三木ゾーンの方の一族で、別所氏麾下にあったのではあるまいか。というわけで、我々の所見では、田原氏出自比定地を、加西郡田原村(現・兵庫県加西市田原町)とするのである。
 この地は、加古川を遡って支流・万願寺川がさらに支流・下里川と分岐するあたりである。この加西・河東・三木の諸郡一帯は別所氏の支配地であった。『播磨鑑』によれば、この田原村にも構居があった。そこを拠点とするファミリーが田原氏を名のったことは想定できる。
 また『播磨鑑』による情報では、伊織の母親にしてもその近辺の加東郡垂井荘あたりの出で、伊織も弟もそちらの方で生活していたらしい。これは後で伊織の母のことに関連して述べたい。  Go Back


*【赤松氏略系図・続】

赤松則村円心
┌────┘
├範資┬光範┬満弘─教弘─元久
│  │  │
│  │  └[満祐]
│  │
│  ├師頼─頼康─範親
│  │
│  └師範─範康─満範

├貞範┬顕則┌満則┬貞村─教貞
│  │  │  │
│  └頼則┤  └貞祐─元祐
│     │
│     └持貞─家貞
│  ┌義房      
│  │
├則祐┼義則┬満祐─教康
│  │  │
│  │  ├祐尚─則尚
│  │  │
└氏範│  ├義雅─性存─政則
   │  │
   │  ├祐之
   │  │
   │  ├則繁─繁広
   │  │    ↑
   │  └則之┌満直 
   │     │
   ├満範─満政┴祐則 
   │
   ├義祐─持家─元家─則秀
   │ 有馬
   └持範─持祐┬祐利─則実
         │
         └祐定─義充
           広瀬



赤松氏播磨古城及び水軍


庄山城址 姫路市飾東町庄










小倉宮本氏系図 始祖部分



*【小倉宮本氏系図】(抜粋構成)

 赤松刑部大夫 田原中務小輔
 持貞────┬家貞───┐
       │     │
       └政顕   │
 ┌───────────┘
 │      田原右京大夫
 └─某─某──貞光───┐
 ┌───────────┘
 │田原甚右衛門
 └家貞────┐
 ┌──────┘
 │田原甚兵衛 大山茂左衛門
 ├久光───┬吉久
 │     │
 │     ├貞次 宮本伊織
 │     │
 │     ├某 丑之助 早世
 │     │
 │     ├某 小原玄昌法眼
 │     │
 │     │田原庄左衛門
 │     └正久→
 │
 │宮本武蔵  宮本伊織
 └玄信────貞次→[宮本家]

(伊織の父の弟が宮本武蔵で
この叔父の養子になったとの説)





加西郡田原村の位置


田原城址 兵庫県加西市田原町
 
(3)曽祖左京太夫貞光と曰す、祖考家貞と曰す、先考久光と曰す
 曽祖は曽祖父、祖考は祖父、先考は父。「考」は、字源的には「老」に同じだが、亡父のことをいう。ちなみに、これに対し「妣が国」という「妣」は漢語では亡母である。
 ここで伊織は、曽祖父の貞光、祖父の家貞、父の久光の名を出しているわけだ。貞光の「左京太夫」の根拠は不明。むろん、それより三代前の、持貞の子という家貞の「中務小輔」は、有馬系図等にこれを記載するからまだしも、これを「田原」姓とするところは、まさしく改竄系譜であるのだが、伊織が聞いた家系伝説では、すでにそういうことになっていたのだろう。
 《孝子宮本氏貞次等敬建》とある、伊織が建てた京都伏見の深草山宝塔寺の墓碑によれば、内祖父の田原甚右衛門家貞は天正五年丁丑〔ひのと・うし〕(1577)歿、父の久光は、島原の乱の翌年の寛永十六年己卯〔つちのと・う〕(1639)まで生きて六十二歳で亡くなった。すると、久光の生年は天正六年(1578)になり、その父・家貞の没年の翌年である。受胎と出生の間のズレはあるから、父が死んで翌年その子が出生することはありうる。ところが、家貞室である内祖母の歿年は、なんと天正元年(1573)なのである。すると、伊織の父・久光はだれから生まれたのか。
 それはまだよいとしても、問題は、宮本家系図が宮本武蔵を田原家貞の二男とすることである。家貞の没年と武蔵の生年を照合してみれば、これはありえざることである。すなわち、『五輪書』の記述(寛永二十年、年つもりて六十)から逆算すれば、武蔵の生年は天正十二年である。武蔵を田原氏の出だとする小倉宮本家系図では、天正十年である。それにしても、これは誰が見ても変だということになる。つまり、
   (祖父)家貞の没年   天正五年(1577)
   (父) 久光の生年   天正六年(1578)
   (叔父?)武蔵の生年  天正十二年(1584)
 ようするに、伊織の父・久光は家貞の子の可能性がまだあるが、もし武蔵が家貞の子だとすれば、それは死者が受胎させる「奇蹟」でもないかぎり、ありえないことである。
 つまり、武蔵の出自が田原氏で、家貞の次男だと記す、九州小倉の宮本家系図は、「孝子」たる始祖・伊織の建てた墓碑によって否定されるのである。もっとも、小倉宮本家系図じたいは、武蔵没後約二世紀の後世の制作にかかるものであり、もとより伊織の時代のオリジナル、原本は存在しない。そして、この泊神社棟札には、伊織の父・久光の記事はあっても、久光の弟が宮本武蔵だというような荒唐無稽な記事は存在しない。これを改めて確認しておくべきである。

 では、この田原氏、どんな家であったのか。これについて、《貞光より来りて則ち相継で、小寺其甲の摩下に属す》という。曽祖父・貞光以来、代々、小寺氏の麾下に属した、ということである。其甲(それがし)とは、「某」に同じ。ここでは儀礼的な曖昧化表現である。
 小寺氏は赤松党の有力一族。赤松氏祖・季房の孫頼範の四子将則を遠祖とする。将則の曽孫頼定の次子・頼季のとき小寺氏を称した。この頼季は護良親王の熊野落ちに関わった小寺相模守である。
 播磨の姫路城の原形となる城は、赤松円心の子・貞範が姫山に築いたらしいが、政則の代に赤松宗家は姫路より奥の置塩城(現・姫路市夢前町)を本拠とした。それゆえ姫路の城は出城・支城にすぎないのだが、のちに小寺氏の居城として与えられ、以後数代これに拠った。その後小寺氏は勢力を伸張して、中播磨の国人らを勢力下におさめた。永正十六年(1519)、この城から東に一里ばかり離れた場所に新たに城を建設して城替えし、この御着城(現・姫路市御国野町)を拠点とした。
 この御着城時代の小寺氏の家老で、姫路城を預かったのが小寺職隆〔もとたか〕、その「子」が後世有名な黒田官兵衛(如水)である。ただし、『黒田家譜』の記事と異なり、播磨の旧記では、官兵衛は、多可郡黒田庄の黒田重隆の子・孝隆であり、小寺職隆の「猶子」となったとある。官兵衛の出自は播磨黒田氏であるが、小寺職隆の家督を継いで「小寺」官兵衛を名のった。
 当時、御着城主・小寺政職〔まさもと〕は中播磨に勢力があった。ところが東から織田勢、西から毛利勢が押し寄せると、播磨の領主たちは皆、織田か毛利かの二者択一を迫られるようになった。
 置塩城に拠る赤松宗家の則房は織田方に与した。小寺政職も家老・官兵衛の言を容れ、いったんは織田方についた。毛利軍五千を千の兵で撃退し、信長から感状を与えられた。しかるに、東播磨三木城の別所長治や摂津有岡城の荒木村重が信長に叛旗を翻すに及び、小寺氏も同調して毛利方に寝返った。その後、秀吉の三木城攻めで播磨戦争の帰趨が明らかになり、天正八年(1580)御着城も落ちるや、政職は英賀城へ落ちのび、その後備後鞆へ去った、あるいは行方知れずになったという。
 のち、小寺政職の子・氏職〔うじもと〕は、かつての家臣・官兵衛の黒田家に仕え、子孫は黒田家臣として存続した。すくなくとも、伊織はこういう経緯を承知していたはずである。
 ところが、伊織末孫による小倉宮本家系図には、伊織の曽祖父・貞光が「小寺官兵衛孝高公麾下」とある。つまり、伊織の曽祖父がなんと官兵衛の麾下に入っていたとするのである。だがむろん、これはまず年代的に合わない。伊織の曽祖父なら、官兵衛の「父」小寺職隆の代であろう。
 しかし、もし小寺氏時代の官兵衛に仕えたとすれば、田原氏はまさに黒田家家臣の中でも譜代中の譜代である。そうであれば、なぜ、官兵衛から長政への過程で大発展する「勝ち組」の黒田家に従って九州へ行かなかったのか。なぜ、父親の田原甚兵衛久光は、播州の米田村などに居て、伊織がそこで生れたのか、ということになる。
 むしろ棟札の記述にある「小寺其甲」とは、御着城主である主家の小寺氏の方であろう。小倉宮本家系図が、伊織の曽祖父を有名な黒田如水の麾下にしてしまったのは、明らかに後世の改竄である。
 しかし同時に、この棟札では、伊織実家の田原氏は、祖父以来小寺氏麾下というが、これも恠しい話である。というのも、小寺氏の勢力圏は飾東郡にほぼ納まる範囲であり、印南郡の米田あたりには及んでいない。むしろ『播磨鑑』によれば、三木城の別所長治の麾下にあり、田原氏は「三木侍」であったとすれば、三木の別所氏麾下に属するものであって、小寺氏側ではないからである。したがって、小寺官兵衛麾下は云うに及ばず、小寺氏麾下というのは、明白な誤伝であると断じうる。
 いづれにしても田原氏は、この秀吉播磨制圧の結果、敗残組になったようだ。『播磨鑑』に「元三木侍」とするわけである。それは、田原氏墓所が、印南郡米田村にはなく、まさに三木本要寺にあったことと相応する。田原氏本地は三木郡にあり、それゆえ後に、伊織ら兄弟が三木に父祖の墓を造っているのである。別所麾下の「三木侍」でなければ、墓所を三木に設けるわけがない。

 曽祖父以来、小寺の摩下に属してきたというのは、如上の問題があるが、では、筑前に子孫がいま現に存在する、というこの記述の方はどうか。伊織の場所は、このとき九州の小倉である。しかし、伊織の小倉は筑前ではなく豊前、とすれば、子孫のだれが筑前にいたのか。
 秀吉の播磨制圧後、戦功のあった小寺官兵衛は揖東郡に一万石を与えられ、またその後さらに宍粟郡に三万石を与えられた。この家勢膨張の過程で、官兵衛は、播磨の「負け組」武士団を自身の組織に組み入れた。それゆえ、三木落城後、田原氏一族に官兵衛麾下に入った者もあったはずであろう。官兵衛から息子の長政へ承継される時期に、伊織の親族で、黒田家配下となり、のちに九州へ随って行って黒田藩家臣となった者があったはずだ。
 ちなみに、伊織の弟の小原玄昌(貞隆)の子・貞利も医師になり、玄格と名のって法橋の位を得た人であるが、元禄元年(1688)に福岡黒田家の分家・秋月黒田家の侍医になっている。筑前に所縁があったと推測される。
 天正八年の三木合戦で負け組になった者たちも、多くが黒田家に吸収されて、九州へ行ったのである。その中に、伊織の父の従兄弟や又従兄弟らがいなかったわけではあるまい。
 しかしながら、伊織の曽祖父の子孫たる田原氏で、そうした黒田家家臣になった者があるのか。我々はその有無を確認することも把握することもできていない。あれほど播磨出身者を列挙する黒田家分限帳にさえ、尠なくともそれらしき名はないのである。この点は、むしろ地元九州における今後の研究に期待したい。



伊織兄弟が建てた父祖の墓
本要寺蓑谷墓地 兵庫県三木市



伊織兄弟が建てた父祖の墓
宝塔寺 京都市伏見区深草


*【宝塔寺墓誌】(伊織の祖父母)
内祖父 慈性院宗円日久霊
      天正五丁丑三月六日
内祖母 清光院妙承日寿霊
      天正元癸酉五月十日
外祖父 善正院宗立日建霊
      天正十五丁亥正月十三日
外祖母 常光院妙立日了霊
      元和九壬亥二月十五日
        孝子宮本氏貞次等敬建

*【宝塔寺墓誌】(伊織の父母)
印南郡河南庄 田原久光
    寛永十六年己卯十二月十九日
 慈父 正法院道円日受霊 六十二歳
小原城主源信利女
    承応元年壬辰十二月二十八日
 慈母 理応院妙感日正霊 六十六歳
        孝子宮本氏貞次等敬建





*【播磨伝承黒田家前史】
 
   多可郡黒田村住
 ○黒田下野守重隆―孝隆
           ↓猶子
  小寺美濃守職隆=官兵衛孝隆
    姫路城主


*【小寺氏系図】
 
○頼季―景治―景重―職治┐
┌───────────┘
└豊職―政隆─則職┬政職┬氏職
         │  │
         │  └正則
         │
         └職隆┬則隆
            │
            └=孝隆







秀吉侵攻前の播磨居城図





小寺氏居城御着城址碑
兵庫県姫路市御国野町







九州と播磨
 ところで、伊織はこのように、『播磨鑑』謂うところの「元三木侍」田原甚兵衛(久光)の子で、まさしく武士の子なのだが、後世の肥後系武蔵伝記『武公伝』には、有名な「泥鰌伊織」のエピソードを記している。後継の『二天記』もほぼ同内容である。肥後系武蔵伝記は、異例に長いスペースをとってこの伝説を記している。
 すなわち、武者修行中の武蔵が、出羽国の正法寺ヶ原という所で、ある少年と出会い、泥鰌を貰い受ける。その後、道に迷って一夜の宿を頼み込んだ草家が、偶然にもこの少年の家であった。ところが武蔵が寝ていると刃物を研ぐ音がする。安達ケ原みたいな話だが、聞くと、少年の家では、少年の父が死んだところだった。少年は遺体を埋葬しようとしていたが、ただ一人ではあまり大きすぎて運べない。そこで少年は、父の屍体を切断して運ぼうとしていたという。武蔵は、それには及ばぬと、埋葬を手伝ってやり、この少年に感心して、これを養子にした。それが伊織だという。
 これは伊織を「出羽国正法寺村」の産とする説である。伊織は遠い辺境の出羽国、しかもそのまた山奥の貧農の子にされてしまった。ところが、これが大正期以来戦後まで、長く信じられた説であった。肥後系伝記に依拠した明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の所説が支配的通説になっていた。森鴎外も短編「都甲太兵衛」で、出羽に「正法寺」という地名があるのを聞いたとして、この説を受け売りしている。顕彰会本に拠った吉川英治の説を批判した森銑三さえ、泥鰌伊織伝説を疑わなかった。泊神社棟札はすでに大正期、『印南郡誌』に翻刻されていたのだが、世間の見方はこの史料に対し半信半疑で、むしろ地元でさえ、信憑されることがなかったという有様である。
 それで、武蔵伝記研究の一環としてこの伝説を検証するため、我々もその昔、出羽の古地図を漁ったことがあるが、出羽国にはどこにも「正法寺村」というものがなかった。出羽には正法寺村はない。それで結局、これは遠い九州で形成された実体なき後世の伝説であると、我々は結論づけたのである。
 それでも、いかに荒唐無稽な実体なき伝説とはいえ、その「正法寺村」という具体的な名には何か理由があるかもしれない。そう思い直してみると、なるほど、播州三木郡に「正法寺村」が存在したのである。美嚢川が加古川本流に合流するあたりが、その「正法寺村」であった(現・三木市別所町正法寺)。
 伊織所縁の播州三木郡に「正法寺村」があったということは、この泥鰌伊織の伝説にその名を提供した可能性もある。伝説というものは無関係な説話素を組み込んで成長するものだが、何らかのきっかけで、肥後で形成された泥鰌伊織伝説に、この「正法寺村」が紛れ込んだものかもしれない。そういう可能性をここで指摘しておきたい。
 肥後には泥鰌伊織という後世有名なった伝説が生じたが、それに対し、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、伊織は商人の子だという説のあることを記す。これも同様に、根拠なき伝説である。
 これらは、ようするに、伊織の器量を見込んで養子にした武蔵は、すぐれた人物鑑識眼をもっていたという主題の逸話なのである。それゆえ、物語上の必然から、伊織は武士の子ではなく、遠い辺境の貧農の孤児であったり、商人の子であったりしなければならないというわけだ。これは『丹治峯均筆記』が記す、造酒之助が西宮の馬子だったという話と同類である。伊織にしても、後世の伝説が、自分を出羽産や商家の子にしてくれるとは夢にも思わなかっただろう。
 こういう九州の荒唐無稽な伝説に対して、『播磨鑑』の記事は、武蔵が伊織の器量を認めて養子にしたという点では同じだが、播州地元史料の方は潤色がなく、伝説変形はない。むろん、泊神社棟札には、田原甚兵衛久光を父とすると伊織自身が明記している。それにもかかわらず、かつて武蔵研究において、泊神社棟札も『播磨鑑』の記事も知らぬという弊害は、この伊織の出自まで及んでいたのである。これを不十分ながら認知しえたのは、ようやく戦後の、綿谷雪の仕事であった。  Go Back

* 【武公伝】
《宮本伊織ハ出丁正法寺ノ産也。父某、農業ヲ廃シ浮浪人ト也。正法寺村ヨリ參里外、山陰ノ曠野ニ在。不毛地、其所ニ小草屋ヲ造テ、潜ニ是ニ住居シ、曠野ヲ開テ畠トシ、今日ノ飢ヲ扶ク。男女二子在。女ハ同邑某ニ嫁シ妻モ亦没シ、彼男児ト父子二人ナリ》
* 【二天記】
《伊織父ハ正法寺村ノ者ト雖モ、本衷B最上家ノ浪士ニテ、此ニ住テ自然ト農夫トナレリトモ云ヘリ。伊織武藏ノ養子トナリ、宮本ヲ號ス》


出羽国正法寺村?


播磨国正法寺村


播磨国細見図 正法寺村

* 【丹治峯均筆記】
《伊織ハ商家ノ子トイヘリ。豊州小倉ノ城主、小笠原右近將監忠貞〔忠真〕公ニ勤仕セリ。武州、或時、御物語ノ序ニ、「某シ子ヲ守リ、差上可申。打込ニ被召仕候而ハ御用ニ立ガタシ。御側ニ被召置、御家老衆ヘ何ゾ御内用等之取次ヲモ被仰付候ハヾ、畢竟御用ニ相立可申」由申述》
 
 (4)作州の顕氏神免
 この部分が、武蔵研究において焦点となる最も重要な記事部分である。この泊神社棟札という第一級史料の面目はここにあると言える。
 さて、順に行ってみよう。まず、「作州」は美作国、現在の岡山県東北部。ここでいう「神免」は、新免のことである。
 ただし、この「神免」を、「新免」の誤記だとみなす綿谷雪*のような理解は、いただけない。無知によるナイーヴな誤解である。
 すなわち、泊神社棟札のこのケースで新免を「神免」とするのは、神事などに関わるさいの、一種の「ハレ」の修辞的書記法である。こうしたグラマトロジーについて知らないから、「神免」を誤記だと誤解する。素人考証家が陥りやすい陥穽とはいえ、後の連中まで同様の無知を継承反復しているのは、情けない事態である。
 因みにいえば、この泊神社棟札と同年の承応二年(1653)、寺尾孫之丞が柴任三左衛門美矩に与えた五輪書相伝証文がある。そこには、「~免玄信公」とあって、武蔵直弟子が「神免」という表記を用いているのである。このように、宮本伊織と寺尾孫之丞という武蔵に関係の深い人物が、同じ年に、「神免」と書いている。この件は、従来武蔵研究において指摘されたことのないポイントだが、「神免」という表記に関する知見として、ここで諸家に注意を喚起しておく。
 さて、この新免氏、その祖は藤原北家・徳大寺実孝(1293〜1322)に出たとする。実孝は失脚し美作に流離してきて死んだ、実孝の子・則重のとき、勅免を得て新免氏と称するようになった、というのが家伝である。実際には、徳大寺実孝には子の徳大寺公清(1312〜60)がいて、従一位内大臣である。家は安泰で潰れもしていない。したがって、これは美作の貴種流離譚であるが、その伝説によって新免氏は藤原姓を名のる。実孝を元祖とするからである。そして武蔵が「新免武蔵守藤原玄信」と、藤原姓を名のるのは、このように、新免氏の元祖が徳大寺実孝だからである。
 実孝の子・則重は粟井(現・岡山県美作市粟井)に居城し、その子・長重は小房城(現・岡山県勝田郡勝田町久賀)に移ったという。則重の子が長重というが、むろん、ここにはかなり年代が開いている。新免長重は則重の子というより、則重の子孫というべきである。新免長重は播磨の赤松氏に属し、そのころには新免氏は美作東部の国人衆の中で頭角を現したようである。
 この新免氏のことだが、系譜上赤松氏と連節する局面もある。赤松系譜の一つによれば、赤松円心則村→貞範→顕則→満貞→家貞と続き、中務少輔家貞は宇野新三郎、播州宍粟郡・作州吉野苫北二郡・備前和気郡などに領地を有し、播磨の鷹巣城、美作吉野郡の高山・小原城主であったという。そんな大きな領域を得たというのは伝説訛伝であるが、その宇野新三郎家貞の義子に、三郎貞重あり、自身の実父が新免氏であったことから、貞重は新免氏に改めて、明応二年(1493)竹山城(現・岡山県美作市下町)を築き、そこへ移ったという。これは新免側の伝説で、新免貞重を宇野新三郎家貞と関係づけるものである。
 新免氏は衰微したとき、隣接の播州宍粟郡の宇野氏を頼った。この宇野氏は赤松衆の有力一族だが、宇野氏は本来は赤松氏より古い。宇野氏から赤松氏が派生したのである。そういう宇野氏は播州宍粟郡にあって、美作東部に勢力を伸ばしていた。新免氏は宇野氏の麾下に入り、貞重の代で新免家を再興したというところである。
 その後、戦国期には美作東部のこの地域も、尼子、毛利、浦上らの勢力伸張により、有為転変があった。新免氏は宗貞のとき、尼子勢に敗れ、領地を失った。のちに浦上氏を下克上して備前・美作を制覇した宇喜田直家のとき、新免宗貫が父の失地を回復する。宗貫は播州宍粟郡長水山城の宇野政頼の三男で、新免氏の養子に入った人である。


宇喜多氏家士分限帳(写本)

(同右) 慶長3年調 新免伊賀守3650石

 新免宗貫は、慶長五年の関ヶ原合戦には、宇喜多秀家麾下で参戦したらしい、というのがもっぱらの通説だが、その関ヶ原合戦前年の宇喜多騒動で、新免宗貫が家老戸川逵安らとともに宇喜多家を離脱している。戦後の全国的な領地再編で、新免宗貫は東作の領地を失って退転。しかし彼はその後、戸川逵安の斡旋で、筑前福岡へ栄転した黒田家に迎えられ、二千石を与えられ、新免氏の子孫は、黒田家家臣として九州で存続した。
 宮本武蔵が死の直前、肥後で『五輪書』を書き始めたとき、「生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六十」と記したとき、その「藤原」の名のりの由来は、上述の如く、新免氏元祖という徳大寺実孝が藤原北家の人であることによる。
 ようするに武蔵のフォーマルな名のりは、むろん新免氏である。しかも、村上源氏の赤松というより、本来この藤原実孝以来の系譜に連なるとするのである。
 ところで、上掲の田原氏先祖の記事に関連することで、ひとつ指摘しておくことがある。
 新免氏の系譜によれば、中務少輔家貞は実は満貞の甥で、宇野新三郎。とすれば、家貞は宇野氏へ養子に入った。この家貞は延徳三年(1491)卒、五十六歳。つまり生年は永享八年(1436)である。持貞の自殺は、応永三十四年(1427)である。ゆえに新免氏の系譜によるかぎり、家貞は持貞の子ではない。別人である。
 しかるに、他の赤松氏諸家系図では、家貞は頼則の子、つまり持貞の弟とするものがあり、もちろん持貞の子とするものもある。ようするに家貞のポジションは不定であるが、伊織棟札の田原氏系譜は、家貞を持貞の子とする伝承によって、起源部分を構成したものらしいと知れる。
 作州新免氏がはっきりしているのは、竹山城に拠った貞重・宗貞・宗貫の三代である。それ以前のことは伝説以外に明らかではない。

 さて、棟札のいまの記事に立ち入ってみるに、ここに登場する「神免」が、翌年伊織が豊前小倉郊外に建立した武蔵碑に記す《父新免、無二と号す》の新免無二である。
 その小倉碑文には、将軍足利義昭の命で、新免無二が「扶桑第一兵術者」吉岡と対戦して勝ったことも誌す。伊織は一方ではこういう情報をもっているのに、この棟札では「作州の顕氏神免なるものあり」と記すのみであるのは、これが田原氏に関する銘文であるためだけではなく、神文として修辞上の省略だからだ。
 それは自身の養父・宮本武蔵の記述に関しても同様である。具体的に何も言わないのが、このケースでの一種の文章作法なのである。
 では、この新免を名のる無二の出自如何というに、まさに作州の顕氏・新免を名のっていたという以外に明かではない。それゆえ問題は、新免氏を名のっていたから美作人だ、と決めつけるわけにもいかない、ということである。
 それというのも、美作側史料の記事には、「新免無二」という名の人物は存在しない。十九世紀前期の『東作誌』のいう平田無二(武仁)は、むろん新免無二とは無関係の別人である。それよりも、ここで諸氏が知っておくべきは、当時の戦乱の中で、美作の人々が播磨へ流れてきていたという状況があることだ。
 たとえば、類似例は「黒田二十四騎」の菅六之助正利(1567〜1625)の家である。菅氏は新免氏以上の美作の顕氏だが、菅六之助の家は父祖の代に播磨に流れて、揖東郡越部に居ついた。菅六之助はそこで生まれ、育った。菅氏はまさしく作州の「顕氏」だが、このように播州人である菅氏もあったのである。
 それゆえ、新免氏を名のっていたから美作人だ、と決めつけることはできないのである。父祖の代、時期は不明だとしても、新免無二の家も、これと同じく、美作を退転して播磨へ流れてきた家であろう。新免氏の末裔は今でも播磨にある。
 菅六之助が「新免無二助」に剣術を学んだという伝説もある(菅氏世譜)。新免無二と菅六之助の関係を語る伝説だが、これにより、おおよそ、新免無二がどのあたりにいたか、見当がつくというものである。伝説の真偽ははともかく、新免無二は「播州人の新免氏」で、播磨西部の揖東郡あたりに居て、この菅六之助や宮本武蔵の一族と近い環境にいて、お互いに知遇であった可能性がある。
 後出記事のように、武蔵は新免無二の家を相続することになるのだが、なぜ、武蔵は無二の新免家を嗣ぐことになったのか、どこにどういう機縁があったのか、それは、こんな伏線を想定すれば話の筋道がつくのである。
 新免無二が、菅六之助や宮本武蔵の一族と近い環境にいたとすれば、『丹治峯均筆記』にいう、無二は黒田如水の弟・兵庫助利高(1554〜96)の与力だった、という筑前黒田家中の伝説とも符合する。新免無二は播磨で黒田勢に参加し、また天正十四〜五年、黒田勢が九州へ行って転戦したとき、九州へ行ったのであろう。




* 綿谷雪 『考証武芸者列伝』
  (三樹書房 昭和57年)
本書で自身が書いているように、綿谷は棟札現物をみておらず、それゆえ敵役の福原浄泉(美作説の論客)を相手に、泊神社棟札に対し珍解釈を演じている。




*【寺尾孫之丞相伝証文】
《令伝授地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候》




徳大寺実孝公墓
岡山県美作市粟井



*【新免氏略系図】

徳大寺実孝新免則重……長重┐
  ┌────────────┘
  │竹山城
  └貞重┬宗貞=宗貫─長春→
     ├貞弘 ↑作州退転後
     └家貞 │仕黒田長政
 長水山城    │
 宇野政頼┬光景 │ 
     │   │
     ├祐清 │
     │   │
     ├宗貫─┘
     │
     ├宗祐
     │
     └祐光

赤松則村─貞範┬頼則┬満則─貞村
       │  │
       │  └持貞
       │  
       └顕則─満貞─家貞






竹山城址付近現況
岡山県美作市





関ヶ原合戦図屏風 部分












* 【小倉碑文】
《父新免号無二、爲十手之家。武藏受家業、朝鑚暮研思惟考索、灼知十手之利倍于一刀甚以夥矣。雖然十手非常用之器、二刀是腰間之具、乃以二刀爲十手理其徳無違、故改十手爲二刀之家》










黒田二十四騎出身地図






* 【丹治峯均筆記】
《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族、父ハ宮本無二ト号ス。邦君如水公ノ御弟、黒田兵庫殿ノ与力也。無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟数多アリ。中ニモ青木條右衛門ハ無二免許ノ弟子也》

 ところで、伊織棟札によれば、この神免=新免無二は、天正年間に、筑前の秋月城で死去したという。秋月城は、現在の福岡県朝倉市域にあった。城址のある秋月は小さな城下町、国の重要伝統的建造物群保存地区になっており、往時の面影は今も町並みや史跡に残る。
 この地の前史として言えば、すでに建仁三年(1203)、原田種雄が古処山に依拠し秋月の姓を受けたという事蹟があり、その後秋月氏は筑前守護少弐氏・大友氏の支配下で所領を維持した。秀吉の九州攻略のおり、天正十三年(1585)島津氏の麾下で、対秀吉戦の一翼を担ったが、同じく天正十五年(1587)、秋月城を大軍に攻められ降伏、秋月宗全と子の種長は、秋月家重代の宝「極紫の茶壷」を秀吉に贈って赦されたとの伝説がある。慶長五年(1600)の関ヶ原役では西軍から東軍に寝返って生き残り、高鍋藩三万石を与えられたという。
 関ヶ原の戦後、筑前国主五十余万石に封じられた黒田長政は、秋月城に叔父の黒田直之(官兵衛弟)を置いた。直之は熱心な切支丹信者で、この頃の秋月では切支丹信仰が栄えたという。
 長政は死去の時に、所領の内五万石を三男の長興〔ながおき〕に分封するように遺言した。これに従って嫡嗣・黒田忠之は、秋月の五万石を弟の長興に分知した。長興は寛永三年(1626)に将軍に拝謁して大名に列し、これにより筑前黒田家支藩の秋月黒田家が成立した。
 伊織棟札によれば、天正年間に、新免無二は筑前の秋月城で死んだということだが、それは、天正十五年(1587)の秋月城をめぐる戦いで死んだものか、あるいは、そういう戦闘とはまったく関わりなく、たんに歿地が秋月城であったということか。伊織棟札ではその死の背景は不明である。
 ところで、「新免(新目)無二」の名を記載する史料に、慶長年間の黒田家士を記した分限帳がある。この文書には、無二は組外の百石取り、豊後中津以来の譜代、あるいは「武州師父」「播州人」だ、「一真」だという記事もある。ようするに、この文書は、慶長年間の黒田家士のメンバーリストなのだが、実際には、十八世紀に編纂されたものである。『丹治峯均筆記』には武蔵の父無二の記事があるので、黒田家中には無二に関する伝説があったことが確認できる。黒田家士の分限帳にはそういう後世の伝説が組み込まれている。したがって、後世作成の分限帳記事を根拠にして、新免無二が慶長年間まで生きていたと結論できない。
 この点につき、むやみに黒田家分限帳を信用する説も少なくないが、諸家が思い込んでいるほどこの分限帳に信憑性があるわけではない。これよりもはるか早期の、泊神社棟札の記事に、天正年間に筑前秋月城で死んだとある以上、それを採らねばならない。武蔵が新免を名のる機縁となったこの新免無二に関する、身元の明確な記述としては、この泊神社棟札と比肩するものは小倉碑文しかない。これを改めて確認すべきである。
 そして、それよりも泊神社棟札の記事において重要なことは、「無嗣」で死んだ、つまり後嗣が無いまま、この人物が死んだという記事である。
 つまり、武蔵は新免無二の「生前」に養子になっていたとすれば、「無嗣」で死んだと書かない。「無嗣」で死んだという以上、武蔵は新免無二の「生前」に養子になったのではない。これは死後相続にほかならない。――これが、伊織棟札のこの記事を読むポイントである。
 無二は後嗣が無いまま死んだのだから、これは新免無二の家がいったん絶えたということである。そして、その絶えた家を相続して再興したのが武蔵だということになる。
 天正年間に彼が死んでいるとすれば、天正は二十年で終るから、武蔵はまだせいぜい七〜八歳の児童である。武蔵は、無二の生前、この「父」に会っていたかどうかもわからない。いつどのようにして武蔵がこの新免なる「父」から受遺承家したのか、不明である。ただし、家を相続できるのは、ふつう成人後であるから、それは早くても武蔵十六歳の頃、とみることができる。
 とすれば、武蔵は新免無二の兵法家を相続する資質資格はどうか。それは『五輪書』冒頭の自序部分にある、十三歳のとき新当流有馬喜兵衛を破り、また十六歳で但馬国秋山という兵法者を打倒したという記事と照合すればよい。まさに武蔵は、早熟の兵法天才として、新免無二の兵法家を相続する資質資格を、このときまでに完備していたのである。
 それゆえまた、新免無二と武蔵をリンクする人脈がそこになければならないのだが、これは、おそらく播磨から豊前へと移住したした人々の中にそれを求めることができるはずなのだが、これについては、上述の如くさまざま可能性があって、今後の研究課題である。

 以上、この第一級史料が我々に伝えてくれたのは、武蔵が、新免無二の義子だったこと、しかも、無二は後嗣なくして死んで、武蔵はその家を相続して再興した、ということである。こういう記録は、翌年の小倉碑文にもなく、むろん他の二次史料にはない。まさにこの伊織棟札の最大の面目である。
 さて、伊織棟札は《遺を受け家を承くるを、武蔵掾玄信と曰す》という。この「武蔵掾玄信」が、『五輪書』に記名の新免武蔵守玄信、つまり宮本武蔵である。
 ここでいう「武蔵掾」は職名擬似官位、中世以降、職人・芸能人など地下の者が名のった。また近世以降では、この慣習は、「竹本筑後掾」や「豊竹越前少掾」など浄瑠璃の大夫の名に残った。
 周知の如く武蔵が名のった職名は、『五輪書』では「武蔵守」である。これについて、武蔵は不当にも大名が名のる「武蔵守」を僭称したとの愚かな錯誤を申し立てる論者が後を絶たないが、それは無知によるものである。「武蔵守」は職名の一つであり、職人ならこれを名のったのは、上記の「○○掾」の例と同儀である。
 たとえば、この泊神社の神職は、近世中期でさえ「伊賀守」を称したらしい。寛延元年から翌二年にかけて(1748〜49)一万人が蜂起した播磨大一揆を記した「滑甚兵衛實記」によれば、この一揆で、播磨一帯の大庄屋十七軒と庄屋その他五十軒以上が、一揆勢の打壊しに遇ったが、その打壊しに遇った中に「泊神社神職伊賀守〔姓不詳〕」という記録があるによって、それが知れる。この泊神社神職「伊賀守」が大名でないのは申すまでもない。
 そしてむろん、戦国時代には「○○守」を称する者は無数にいた。彼らは朝廷から「○○守」を任命されなくても、慣例として擬制職名のそれを名のっていた。作州竹山城主新免氏のケースでも、当主は「新免伊賀守」。以下、数百石クラスの親族家老連に「新免備前守」「新免備後守」「新免伊予守」などを名のる者らがあり、「○○守」を名のるのは大して珍しいことではない。彼らは朝廷から「○○守」に任命されたわけではない。また、たとえば「伊賀守」を名のる者は全国には他にも多数いたはずだから、「○○守」は排他的な名ではない。
 伊織棟札の「武蔵掾」は、「新免武蔵守」という武蔵の名のりを承知した上で書いている。「掾」は、守・介・掾・目の第3等官だから、それゆえ「武蔵掾」とした伊織は、武蔵の本来の職名「武蔵守」を二等格下げしていることになる。これは神殿の儀礼上、「武蔵守」を憚って謙退したものである。あるいは、故人に「掾」と贈位する慣習ありという説もあるが、我々は確認していない。とにかく、これは武蔵を「武蔵掾」と記した唯一の史料なのである。
 また、小倉手向山武蔵碑(小倉遺文)では、「武蔵守」でも「武蔵掾」でもなく、たんなる「武蔵」である。これは、伊織が「孝子」、つまり父を亡くした息子という身内の立場で碑を建てたものであるから、謙退して「武蔵」と記したのである。
 このように、五輪書、泊神社棟札、小倉碑文と、三つの史料に呼称の差異があることは、その背景と条件を知らねばならない。武蔵研究にはこれまで無知な論説が多すぎたのである。 Go Back





筑前秋月城の位置




秋月城址 福岡県朝倉市秋月






中津城址 大分県中津市



* 【五輪書】
《生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也》






(左)楠家本五輪書 新免武蔵守玄信
(中)泊神社棟札 武蔵掾玄信
(右)小倉武蔵碑 新免武蔵玄信

 
 (5)後に宮本と氏を改む
 新免無二の家を嗣いだ武蔵は、後に「宮本」に改氏したということである。申すまでもなく、これは伊織棟札という一次史料が語る重要な証言である。
 まず、「宮本」を名のったのは武蔵の代からであって、それ以前は武蔵の氏姓は「新免」氏である。武蔵が義子となってその家を嗣いだ「父」の氏は、「新免」であっても「宮本」ではありえない。したがって、「新免無二」という人物は実在したが、諸説にある「宮本無二」や「宮本無二之助」「宮本無二斎」という「宮本」姓をもつ人物は、少なくともそれが武蔵の「父」であるかぎりは、実在しないということになる。
 「宮本無二之助」の早期例は、筑前の海事文書『江海風帆草』(吉田重昌編・宝永元年(1704)序)である。そこには、武蔵の父は「筑前国宮本無二之助」で、武蔵は筑前産だという伝説を記す。十八世紀初頭には、すでにこんな伝説が生じていたのである。同じ筑前の武蔵伝記『丹治峯均筆記』(立花峯均著・1727年)は「宮本無二」とするが、これは明らかに『江海風帆草』にみられる筑前の伝説の影響を受けている。
 泊神社棟札の伊織の証言では、「宮本」を名のったのは武蔵の代からである。それゆえ、新免無二が「宮本」を名のるわけがない。新免無二を「宮本」姓にした文書は、それを知らずに作成された、後世の作成物である。武蔵の代から「宮本」姓を名のるようになったという泊神社棟札の記事が重要なのはそこである。
 今日混同されることが多いのは、当理流免許状(目録)の「宮本無二助一真」である。これら免許状の「宮本無二助」の原型になったと想定しうる、鉄人実手流の青木鉄人系統の文書(円明実手流家譜并嗣系)にみえる「宮本無二之助一真」(1570〜1622)は、河内(現・大阪府)の人で、父祖の円明流とは別に道を自得して当理流を号したことになっているが、新免無二とは世代も異なり、明らかに別の人物である。
 しかも、「宮本無二之助一真」の甥でその跡を嗣いだ「宮本武蔵守正勝」(1596〜1675)は播州揖東郡生れで、後に豊前の岩流を打ち負かしたというから、明らかに武蔵をモデルにした人物なのだが、生歿年からすると世代が合わない。ようするに、「宮本武蔵守正勝」は武蔵を、「宮本無二助一真」は無二を、それぞれモデルにした人物らしいが、言うまでもなく説話素の変形が大きく、架空の人物になってしまっている。五輪書や小倉碑文とは無関係のところで形成された後世の伝説である。
 つまりは、「宮本無二之助一真」を新免無二と同一視するためには、この「宮本武蔵守正勝」を新免武蔵守玄信と同一視しなければならない。それができないようであれば、「宮本無二之助一真」を新免無二と同一視することはできない、というのが理の当然としての結論である。
 肥後系武蔵伝記『武公伝』は、「新免無二ノ介信綱」が当理流を号したことを記す。その後継本『二天記』も同様である。当理流伝書は、『二天記』の豊田景英の言及があるから、十八世紀後期には九州でそれらが出回っていたものとみえる。
 当理流目録は、上記のように新免無二をモデルにした「宮本無二之助一真」が九州へ伝播して、流書に物質化されたものである。むろん後世製作の偽書である。したがって、これに依拠して、「宮本無二助一真」は実在した、当理流目録に慶長年間の目録日付があるから無二は慶長年間まで生きていた、という説があるが、それらはいづれも妄説である。
 また、小倉の武蔵碑には「父新免、無二と号す」とあり、あくまでも「無二」は号である。「無二之助」のような俗名の類いではない。「無二之助」「無二ノ介」は、宮本武蔵を「武蔵之助」にしてしまう歌舞伎台本や読本の傾向と同じ、巷間俗説による名である。
 したがって、新免無二を「新免無二ノ介信綱」にしてしまう肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』は、誤伝というべきである。この名が新しい伝説生成による二次的産物であることは明らかで、このケースは当理流伝書を見知っているから、その「宮本無二助」を新免姓に修正したものである。ことに十九世紀半ばの小倉宮本家系譜にみえる「新免無二之助一真」は、当理流の「宮本無二之助一真」を改竄したものにすぎない。伊織子孫は、小倉碑文の「父新免、無二と号す」と記された意味を失念している。
 なお、ここで注意すべきは、伊織棟札では、新免氏を嗣いだ武蔵の実家の氏名〔うじな〕はわからない、ということである。武蔵は、後嗣なく死んだ「神免」(新免無二)の家を継いだ。このポイントで、武蔵の実家は新免氏ではないと知れる。つまり、棟札の記事から読み取れるのは、
     「?」 → 「新免」 → 「宮本」
というプロセスだけなのである。それ以上のことは不明である。このこと以上に踏み込むには、傍証が必要であるが、我々は他に確かな史料をもたないのである。
 さて、棟札記事は、武蔵にもまた子がなかったので、伊織が義子となったという。伊織は田原氏から武蔵の養子となって、「宮本」をなのるようになったのである。宮本伊織貞次である。どんな経緯で養子になったのか。
 『播磨鑑』には、赤石〔明石〕の御城主小笠原右近侯〔忠政〕が、宮本武藏という天下無双の兵術者を召抱えられ、客分にしておいでだったが、この伊織がその家〔小笠原家〕に仕えていたところ、伊織が生れつき器量すぐれた性質であるため、武蔵は養子にした云々、とある。これが伊織十六歳の時であるという。
 伊織棟札が書かないところを『播磨鑑』は書いている。それによれば、伊織が武蔵と遭遇したのは、明石時代、出仕してまもなくである。
 伊織末孫が作成した小倉宮本家系譜によれば、寛永三年(1626)十五歳のとき明石の小笠原忠真(忠政)に出仕したという。ところが、いつ武蔵の養子になったか、その記録は小倉宮本家伝書にはない。伊織が武蔵の養子になって、明石に宮本家が創設されたのだが、伊織末孫にはその創業の時期さえ不明なのである。これも、小倉宮本家系譜の起源に関するきちんとした伝説がなかったことを意味する。ここは、地元史料である『播磨鑑』の伊織十六歳説を採っておくべきであろう。
 そこで問題は、伊織棟札に武蔵の代から宮本を名のるようになったいうが、では、武蔵はいつから「宮本」を名のるようになったのか、ということである。
 これに関しては言えば、伊織が武蔵の養子になる以前、つまり、同じ播州の姫路で、養子三木之助を本多家に出仕させ、知行を得た時分であろうと思われる。
 三木之助は、水野日向守勝成(1564〜1651)の家臣・中川志摩之助の三男で、武蔵がこれを養子にした。三木之助の名のりは「新免」ではなく「宮本」である。そのことからすれば、武蔵が宮本を名のるようになったのは、姫路宮本家創設の時以来であろう。すなわち、養子三木之助を本多家に児小姓として出仕させ、やがて三木之助が成人して七百石の知行を給されるようになった時期、とすれば元和の半ば頃と思われる。
 武蔵は、姫路に宮本家を創設したが、その「宮本」の名は、姫路から近い自身の産地、つまり揖東郡宮本村に因むものであった。  Go Back








* 【江海風帆草】
《爰に又宮本武藏といふもの、父名筑前國宮本無二之助といふものゝ子にて、筑前の産なり》

* 【丹治峯均筆記】
《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族、父ハ宮本無二ト号ス》




生駒宝山寺蔵
当理流免許状 奥田藤右衛門宛
慶長2年霜月吉日
宮本無二助藤原朝臣一真発行




* 【武公伝】
《武公、父ハ新免無二ノ介信綱。即チ十手二刀ノ祖タリ。號トシテ當理流ト云》
* 【二天記】
《武藏父、新免無二之介信綱ト云フ。劍術ヲ得、當理流ト號ス。十手二刀ノ達人也》




小倉宮本家 宮本氏歴代年譜
新免無二之助一真ノ為養子








* 【播磨鑑】
《宮本武藏  揖東郡鵤ノ邊〔鵤ノ庄〕宮本村ノ産也。若年ヨリ兵術ヲ好ミ、諸國ヲ修行シ、天下ニカクレナク、則、武藏流ト云テ、諸士ニ門人多シ。然レトモ、諸侯ニ仕ヘス、明石ニ到リ、小笠原右近将監侯ニ謁見シ、其時、伊織ヲ養子トシ、其後、小笠原侯、豊前小倉ニ赴キ玉フトキ、同伴シ…》
《宮本伊織  印南郡米田村ノ産也。宮本武藏、養子トス。舊蹟ノ部ニ委ク記ス》
《其後、伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯 に、宮本武藏と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておはせしが、此伊織其家に召遣はれ居たりし処に、器量すぐれたる生れ付故、武藏養子にせられ、後、豊前小倉へ御所替にて御供し下られける時…》

*【吉備温故秘録】
《宮本三木之助 [中川志摩之助三男にて、私ため實は伯父にて御座候] 宮本武藏と申者養子に仕、児小姓之時分、本多中務様へ罷出、七百石被下、御近習に被召出候。九曜巴紋被付候へと御意にて、付來候、御替御紋と承候。圓泰院様〔忠刻〕寛永三年五月七日御卒去之刻、同十三日、二十三歳にて御供仕候》
 
 (6)余、結髪の比
 ここの記事は、現在小笠原家家老としてある自分のことを、伊織が語る。すなわち、――私が結髪〔元服〕した頃、元和年間に信州から出た小笠原忠政を、播州明石において主人とするようになり、そして今も、忠政に従って豊前の小倉にいる、と。
 小笠原忠政(忠真・1596〜1667)が、信州松本八万石から播州明石十万石へ転封したのは、元和三年(1616)、二十二歳のときである。この年、忠政は将軍上洛の供奉を命じられ、松本から出向、二条城でこの増封を申し受け、即、明石に入部したのである。だから、「元和之間」というこの部分の記述は正しい。
 伊織が小笠原家に仕えるようになったのは、結髪のころという。結髪とは、童髪・前髪ではなく髪を結う年になった頃、すなわち、元服した頃、という意味。
 小倉宮本家系図には、慶長十七年(1612)播州印南郡米堕邑(米田村)生れ。寛永三年(1626)播州明石で忠眞公の御近習として奉仕、時に十五歳とある。したがって、十五歳で小笠原家に出仕したのであるが、これは伊織棟札の、元和年間に小笠原忠政が信州から移封され明石城主になった、その後、結髪〔元服〕した頃、自分は小笠原忠政に明石で仕えるようになった、という記事と符合する。
 それ以下の、そして今も、忠政に従って豊前の小倉にいる、というのは、承応二年(1653)伊織四十二歳の話だから、そういうことになる。小倉宮本家系図によれば、寛永八年(1631)執政職とあり、これは若年寄に昇進したということらしい。年齢は二十歳である。同九年(1632)忠政に従って豊前小倉に移る。ここで采地(知行)二千五百石。寛永十五年(1638)の有馬陣(島原役)において戦功あり、帰陣後千五百石加増で都合四千石の知行を得た。慶安三年(1650)忠政に従って肥後熊本へ行った。これは細川家が当時陥っていた転封分知の危機を救うためである。
 以上が、泊神社棟札に至るまでの伊織の履歴概要である。したがって、棟札記事はいかにも謙退して省略して記した記事である。

 ところで、ひとつ不審なのは、棟札に記す伊織の主人・小笠原忠政の名である。棟札には「小笠原右近大夫源忠政」と記す。しかし忠政は、寛永二十一年(1644)三月に忠真〔ただざね〕へ改名したのである。
 混乱を避けるために言えば、「忠政」は十一歳のとき将軍秀忠からの命名で、のちに四十九歳、江戸参府中「忠真」に改名した。我々の武蔵研究で「忠真」ではなく「忠政」名を用いるのは、このように改名時期が遅いためである。武蔵と関係する期間その大半は「忠政」であったので、「小笠原忠政」と呼んでいる。(「忠政」名は他にも少なくない。小笠原忠政の舅は本多忠政、森蘭丸の弟で美作に入部し最初の津山城主になったのが森忠政、というぐあいである)
 ところで、棟札記事が、承応二年(1653)という段階で伊織が一人称で書いた文章だとすれば、すでに九年前に「忠真」に改名しているから、ここは「忠政」ではなく「忠真」と書くべきところである。
 しかしながら、これはある意味で伊織棟札の記名の方が正しいのである。というのも、「小笠原右近大夫源忠政」とは、忠政が明石城主であった当時の名であり、それを伊織はわざわざここに書いたのである。
 小笠原忠政が「右近将監」を称するのは、侍従に叙任された寛文三年(1663)六十八歳のときである。侍従、右近将監が忠政の極官だから、通例は、「小笠原右近将監忠真」と記す。
 しかしそれは、寛文三年以後のこと。したがって承応二年には忠政は、まだ「右近将監」ではなく「右近大夫」である。他方、「忠真」に改名したのは、寛永二十一年(1644)四十九歳の時である。ゆえに承応二年(1653)にはすでに「忠真」である。
 それにもかかわらず、伊織はわざわざ「小笠原右近大夫源忠政」と記す。それは何故かといえば、これが忠政が明石城主であった当時の名であったというのが、我々の見るところその理由である。承応二年当時、播磨の人々に知られていたのは、「忠政」という旧名である。伊織はそれを汲んで、地元になじみのある「忠政」と書いたのである。
 このあたり、棟札の文章を綿密に読まねば、これを書いた伊織の配慮も感知できないことになるので、後学諸君には注意を要する点である。また、故郷の人々へのこういう配慮をみれば、伊織以外には書けない文章だとも言える。

 さて、忠政のこの小笠原氏、伊織の主筋だから、少し述べておけば、こうである。――甲斐源氏の加賀見遠光の次子・長清が、甲斐中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したのが始まりという。源頼朝に従って戦功を挙げ、『吾妻鏡』に小笠原長清・長経父子の記事がみえる。承久の乱でも、武田氏ともに幕府軍の中山道の大将である。元弘の乱では、はじめ新田義貞に従うが、そののち足利尊氏方となって戦功を挙げた。
 そのころは小笠原政長の時代、信濃守護として伊那郡の松尾が居城である。のち、戦国期の本拠は林城であった。
 深志流小笠原と松尾流小笠原の両系に分かれたのは長基の時である。松尾家は信嶺の時代、武田信玄に属したが武田氏滅亡に際し信長方に降った。その後は家康に従い、下総二万石の大名である。
 一方、嫡流である深志家は、長時の代に武田信玄とたびたび戦っている。天文十九年、信玄との戦いで長時は本拠林城に敗北。そして幾度か失地回復を企てたがいずれも敗れて、ついに天文二十二年、信濃桔梗原の合戦に敗れて没落した。その後は、摂津芥川城にいたが、信長方に攻められて敗走、越後に上杉謙信を頼り、最後には会津の葦名盛氏に寄寓したが、家臣に殺されたという。
 しかし長時の子・貞慶〔さだよし〕と孫・秀政が、信長、ついで家康に仕えて、小笠原氏を再興する。秀政は家康に認められて、家康の長男・故岡崎三郎信康の長女(峯高院)を正室に迎える。関ケ原の後、大名になった秀政は古河藩を経て、慶長十八年に故地の信州松本に入封。ところが慶長二十年(元和元年、1615)の大坂夏の陣で、秀政と長男・忠脩は戦死してしまう。
 次男・忠政は重傷を負ったが生き残った。この忠政が松本藩小笠原家を相続したのである。忠政の生年は慶長元年(1596)、当時小笠原家が下総古河を治めていたころ生れた。母は家康の孫娘だから、忠政は曾孫というわけだ。
 大阪夏の陣の翌年、元和二年、当時桑名藩主だった本多忠政の娘と結婚、とはいえ、これは、兄忠脩の妻であった兄嫁・亀姫を引き継いだのである。そして翌元和三年、忠政は、大坂の陣後の大名配置転換で、信州松本から播州明石へ転封となった。同時に、岳父・本多忠政は、姫路城主となった。つまり、本多忠政を姫路に、その女婿・小笠原忠政をその東隣の明石に、という播磨の配置である。
 このとき、明石藩は新設であり、また姫路西隣に龍野藩を新設して、本多忠政二男の本多政朝に龍野城に拠らしめた。かくして播磨一国支配した外様の池田家を播磨から排除して、しかも姫路城を中心に本多という譜代大名とその女婿・小笠原忠政で固める、という大坂陣戦後処理が完成するわけである。
 明石に入部した小笠原忠政は、幕命で明石城建設に着手。元和三〜四年の城郭および城下町の建設の最中、武蔵が明石の建設に関与したのである。その約十年後、伊織は武蔵と遭遇するというのが、ここでの経緯である。
 『播磨鑑』には前記のように、「伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯に、宮本武蔵と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておはせしが、此伊織其家に召遣はれ居たりし処に」とある。



明石城址
兵庫県明石市


*【小倉宮本家系図】
《貞次 宮本伊織
實ハ田原久光二男。母ハ小原上野守源信利女。慶長十七壬子十月廿一日生於播州印南郡米堕邑。寛永三丙寅於播州明石奉仕于忠眞公之御近習[于時十五歳]。寛永八辛未執政職[廿歳]。同九壬申従于公移于豊前小倉。於此采地二千五百石。同十五戊寅二月従于公肥州有馬浦出陣。于時侍大将[此時廿六歳]惣軍奉行兼。傳曰、城攻之日筑州太守黒田忠之侯、於忠眞公御陣營、貞次被召出、此度之働御褒詞之上御指料之御刀[備前宗吉]賜之。同年自肥州御皈陣之上御加恩千五百石。都合四千石ヲ領ス。慶安三庚寅従于公往于肥後州熊本》



福聚寺蔵
小笠原忠真像


泊神社棟札「右近太夫源忠政」



*【小笠原氏系図】

 小笠原
長清─長経─長忠─長政─長氏┐
  ┌────────────┘
  └宗長─定宗─政長─長基┐
 ┌────────────┘
 │深志流
 ├─長秀─持長─満宗─長朝┐
 │┌───────────┘
 │└貞朝─長棟─長時─貞慶┐
 │┌───────────┘
 │└秀政┬忠脩─長次→
 │   │
 │   ├忠政─長安→
 │   │
 │   ├忠友
 │   │
 │   └重直
 │
 │松尾流
 └─政康─光康─家長─宗基┐
  ┌───────────┘
  └信貴─信嶺─信之→



信州松本城 長野県松本市


(大坂役後の播磨)
姫路城主:本多忠政
龍野城主:本多政朝
明石城主:小笠原忠政
 小笠原忠政には、甥があった。大坂の陣で死んだ長兄・忠脩〔ただなが〕の子、長次〔ながつぐ〕である。忠政は兄嫁・亀姫を妻にし、兄の子・長次を養育した。本来なら長次が小笠原宗家を継嗣するところだが、手前勝手にできないのが幕藩体制である。
 忠政はこの兄の遺児を盛りたて、寛永三年(1626)には姫路藩西隣の六万石龍野城主にすることに成功した。実は、寛永元年(1624)に忠政は、自分はもうそろそろ引退し、嫡流・長次に家督を戻したい、と幕府に申し出た。忠政はこの甥を手元において養育してきたが、長次はその年十歳である。この忠政の隠居願に対し、偶然もあって幕府は以下の措置で対応した。
 まず、本多家に異変があった。つまり長子忠刻が病死したのである。このため、龍野城主であった二男政朝を本多忠政嗣子として姫路城へ戻した。それで空いた龍野領を、小笠原長次に譲ったのである。こういう変換方式は本多・小笠原の両家が密接な関係で一体でなければなしえない。かくして、小笠原長次は寛永四年(1627)に龍野城へ入城、小笠原忠政は自身の明石藩を分封するわけでもなく、甥の長次に新知を獲得せしめたのだが、これは、忠政の岳父・本多忠政の政治的手腕に倚ったとみるべきであろう。
 小笠原忠政は、寛永九年(1632)、豊前小倉へ転封のうえ、十五万石に加増、九州鎮護の役を任ぜられる。栄転である。家臣宮本伊織もそれに従って、小倉へ移住したのである。
 同時に長次も豊前中津へ、そして八万石に加増。豊後杵築と豊前龍王にも忠政の兄弟が入部した。豊前を中心に小笠原一族で固めたことになる。
 小倉宮本家系図では、「寛永三丙寅於播州明石奉仕于忠眞公之御近習[于時十五歳]。寛永八辛未執政職[廿歳]。同九壬申従于(忠眞)公移于豊前小倉。於此采地二千五百石」とある。
 伊織は十五歳のとき出仕、二十歳で家老職に就き、豊前小倉移封の結果、采地二千五百石という知行を得たということである。この記事には大方の疑義が示されているところであるが、必ずしもそうではない。
 また、すでに見たように、同系図には「同十五戊寅二月従于(忠眞)公肥州有馬浦出陣。于時侍大将[此時廿六歳]惣軍奉行兼。傳曰、城攻之日筑州太守黒田忠之侯、於忠眞公御陣營、貞次被召出、此度之働御褒詞之上御指料之御刀[備前宗吉]賜之。同年自肥州御皈陣之上御加恩千五百石。都合四千石ヲ領ス」とある。
 つまり、小倉移封五六年後の島原の乱のとき(寛永十五年、1938)、二十七歳の伊織は「一備ノ士大将」、一翼の侍大将を勤めた。注記として、隣藩の黒田忠之が、戦功の褒美に、佩刀の備前宗吉を伊織にくれたという伝説を記す。そして、帰国したのち、加増千五百石、合計四千石になったという。これが宮本伊織家の知行の由来と根拠である。
 他方、『播磨鑑』には、上掲のように、「此伊織、其家に召遣はれ居たりし処に、器量すぐれたる生れ付故、武蔵養子にせられ、後、豊前小倉へ御所替にて御供し下られける時、折節、しま原一揆蜂起の節、彼戦場へ召連られ軍功有、其賞として三千石を賜はり、無役にて小笠原家に被仕。其後、宮本伊織とて家老職になさる」とある。
 これは、明石で伊織が小笠原家に仕えていたのを武蔵が養子にし、その後、豊前小倉転封にしたがって九州へ行き、そしてその後の島原一揆のとき、軍功あって、その論功行賞で三千石を受け、「無役」という特別待遇で小笠原家に仕えたということになる。
 コンテクストからすれば、伊織は三千石を給されて、まず無役で仕え、その後、家老職になったということになる。これは、伊織が明石藩時代に二十歳で家老になった、という宮本家系図他の史料とはかなり異なる記事である。しかし、あくまでも、これは地元播磨の口碑伝説なのである。それを『播磨鑑』は採取したということである。
 なお、このとき戦場で、武蔵は日向延岡城主・有馬直純と書状のやりとりをしたらしく、有馬側に武蔵の書状が残ってそれが現存している。それによれば、有馬直純から伊織の軍功について褒め称える書状でも来たとみえ、それに応じるように、武蔵は「せがれ伊織」について書き、お返しのように有馬父子の働きについて言及している。  Go Back

*【小笠原本多両家略系図】

 小笠原秀政―┬忠脩戦死
       │  │
       │  ├長次
       └忠政
         ├―忠雄
         ││
        ┌亀姫
        │
 本多忠勝┬忠政┼忠刻
     │  │
     │  └政朝―政長
     │
     └忠朝─政勝─政利




豊前小倉城
慶長13(1608)細川忠興時代完成
北九州市小倉北区






秋月藩島原陣図屏風
上・出陣図 下・戦闘図
秋月郷土館蔵



吉川英治記念館蔵
有馬直純宛武蔵書状
 
(7)木村・加古川・・・・今市、総十七邑
 泊〔とまり〕神社と米田天神社についての言及である。
 まず、泊神社の氏子の村々を列記する。これらの村々は、加古川下流東西両岸および中洲にある。印南郡は、加古川東岸の地も含んでいた。現在は、兵庫県加古川市と高砂市の両方にわたる地域である。加古川は、かつては東加古川と西加古川に分流していた。今日では、加古川本流に拡幅整理され、西の流れは埋め立てられて細流になっているため、風景は当時を偲ぶよすがさえない。
 ここでは、計十七ヶ村の名がある。記述順に行くと、木村・加古川・西宿村・船本村ときて、西河原村を添書きにし、友澤村・稻屋村・古新村・上新村・米堕を数えて、添書きに「内又」を記す。これは一本に「枝邑」と記すから、本村ではなく新開地としての枝村である。それを添書きにしたのである。これは、今在家村・小畠村・奥野村・小河原村の4村を数えている。そして、中嶋・鹽市・今市。以上で、合計十七村ということになる。
 このうち、正保国絵図で対応するのは、加古川東岸の木村(六五〇石)・加古川村(七八九石)・友澤村(三四六石)・稻屋村(九二五石)の四村、東西加古川に挟まれた中州の古新村(八七石)・新村(七一石)、中嶋村(三二四石)・今市村(一一二石)の四村、そして加古川西岸の米田村(五四六石)・塩市村(二九〇石)の二村、合計十ヶ村である。
 泊神社の村名リストと比較してみると、東岸の友澤村の前の添書にある西河原村は枝村である。西宿村・船本村の名は見えない。この2村はおそらく、川渡しの運輸交通関係の、村高のない天領の宿村であろう。
 中州の4村をみると、古新村・上新村、中嶋・今市、これはすべて対応する。新村を上新村と書くのは、下流海岸部に新村があるので、上新村としたものであろう。これは米田村の新村である。後世の寛延2年の印南郡細見図では、「ヨネシン」と書いている。
 西岸の米田・鹽市、これも正保国絵図に対応する。棟札で米田の後に添書で記している今在家村・小畠村・奥野村・北河原村の四村は、どれも米田村の枝村である。このうち、今在家は米田の西側、小畠・奥野は米田と塩市の間にあり、小畠が川岸にあり、奥野はその北側にあったようである。明治あたりまでは田畑の中にそうした枝村のかたちでポツポツとあったらしい。
 以上を整理すれば、泊神社を氏神とする諸村は次のような構成であろう。

本 村 (東岸)木村・加古川・友澤村・稻屋村 (中州)古新村・上新村、中嶋・今市 (西岸)米堕・鹽市
宿 村 西宿村・船本村
枝 村 (船本村)西河原村
(米田村)今在家村・小畠村・奥野村・北河原村

泊神社関係諸村
正保国絵図より作成




印南郡細見図 部分 寛延2年



米田村の枝村
 『播磨鑑』によれば、伊織子孫は今も、小倉より江戸へ往来の節は、泊神社へ使参することがあるという。伊織の棟札から百年ほどしても、そのような関係があったらしい。
 小倉宮本家の伊織子孫、宮本貞章が系図作成の折に資料としたものか、天保十二年(1841)の系図覚書にこの棟札の文章が引用されている。その折にだれかが棟札を写したものであろう。それが宮本家に伝わって、貞章がそれを書写したものらしい。
 それによると、泊神社の氏子の村々を列記したはよいが、村の数を「十二邑」と記している。それをみると、本村十二ヶ村は記録しているが、添書きされた枝村の分が抜けている。これはどうしたことか。おそらく、棟札が懸かっている神殿小屋裏は暗いので、字が小さくて読み取れなかったようで、書写した者が割愛したものとみえる。そうしてこんどは、十二ヶ村しか列挙していないのに「總十七邑」とあるのは、書写の間違いだろうということで、引用者が減数訂正してしまったらしい。
 このように不正確な書写だが、これが正しいのだとする説もある。というのは、本来棟札には十二ヶ村しか記載はなかったが、地元の人々が五ヶ村を追加し書き加えたのだろうという推測で、添書きして小さく書いてあるのは、その証拠だというのである。
 すると、当時の棟札が残っているから、それに、その「十二邑」の文字を「十七邑」に書き換えた痕跡があるはずである。ところが、それはない。棟札は最初から「十七邑」と書かれていたのである。
 この説の主張者は、本村と枝村の扱いの区別を知らないようである。同じ氏子の村々でも、親子の区別をして課役負担も違ったから、こういう書分けになる。それを知らないから、珍説を披瀝することになる。とにかく、何やかや珍説を呼ぶのが、この泊神社棟札なのである。
 とはいえ、今日の翻刻者でさえ、この本村と枝村の書分けを無視して、村名を列記している。すると、「内又」とか「枝邑」とか書いた棟札の記事が正しく再現されないことになる。そういう杜撰な翻刻が跡を絶たないので、我々のテクストでは、わざわざ棟札写真を並べて、翻刻文を掲げているというわけである。
 加えて言えば、この伊織による一人称の文章は、その内容からすると、上棟式ではなく落成式の際の表白文である。それを再建記念の棟札の一面に記したのである。言い換えれば、この棟札は九州で製作されて、そこから運ばれてきた、のではない。棟札ならそんなことはしない。棟札は工事現場の地元で作成するものである。したがって、本来棟札には十二ヶ村しか記載はなかったが、地元の人々が五ヶ村を追加し、小文字で書き加えたのだろうという推測は、もとより成り立たない。
 これも、泊神社棟札にまつわる近年の珍説の一つである。

 さて、これらの村々、総十七邑の氏神が泊大明神。社記によれば、神代に伊勢神宮御神体の一つ、鏡がここに泊まり着いたことに由来するという。祭神は、天照大神・国懸大神〔くにかかすのおおかみ〕・少彦名神〔すくなひこなのかみ〕。国懸大神は紀州の神、少彦名神は出雲の神である。
 社殿は、承応二年(1653)、宮本伊織とその兄弟が造営寄進した当時のもの。拝殿の方は、昭和五十四年(1979)に改築されたものである。伊織寄進の三十六歌仙図絵馬(市指定文化財)や大燈籠などが保存されている。
 『播磨鑑』が採録した、その社記はこうである。原文は漢文だが読み下せば、「上古、高天原ニ於テ、天照太~、天石窟ニ入(玉ヒ)磐戸ヲ閉テ而閉テ幽ニ居(玉フ)。爾レハ乃、六合〔クニ〕常闇〔ヨコヤミ〕ニシテ、晝夜分タス。群レル~、愁ヒ迷テ手足ヲ罔措スル。時ニ高皇産靈神〔タカミムスヒノカミ〕之息〔ミコ〕・思兼~〔オモヒカネノカミ〕、深ク思ヒ遠ク慮リ、議シテ曰ク、宜ク太玉命〔フトタマノミコト〕ニ、諸部神ヲ率ヒ、和幣〔ニキテ〕ヲ造シメ、仍テ、石凝姥~〔イシコリトメノカミ〕ニ、天香山銅ヲ取テ、以テ日像之鏡ヲ鋳シム。初度〔ハジメ〕、鋳ル所、少シトテ意ニ合ハスシテ、乃チ海ニ入ル。是レ則チ、當國狭長田御崎〔サナカタノミサキ〕ニ出現坐スナリ。爰ニ一古木有リ(俗、呼ヒテ曰ク、阿乎幾〔アヲキ〕)南ニ流水有リ、御手洗河ト號ス。茲ニ因リ、此地ニ瑞寶殿〔タマノミアラカ〕ヲ建テ、檍原泊大明~ト號ス也。故ニ邑~戸ノ人、河涯〔カハキシ〕ニ臨ミ、解除〔ハラヒ〕修ス(月次、或ハ四氣有リ)。誠ナル哉、日向ノ小戸ノ橘之檍カ原之古風、之ヲ傳フル者歟。虚第昔之~代、既ニ萬世ニ到テ癈レサレハ、奇ナル哉。~明ノ徳、苟モ不窮ニ傳フレハ也」。
 というわけで、檍原〔アハキハラ〕泊大明~という名があったというわけで、解除〔ハラヒ〕の起源はここ、日向ノ小戸ノ橘之檍原之古風はここに由来するか、との社記である。これは神鏡漂着譚である。それにしても、海に捨てられた失敗作が流れ着いたというのがおもしろい。
 そのほかに『播磨鑑』は、播磨風土記の神宮皇后の記事を引用している。つまり朝鮮半島制圧のため難波津から出発した皇后の軍船団が、風雨のため播磨大津の的形に漂着。そこから皇后はこの神社に来て歌を遺した。神宮皇后伝説の一つである。
 いずれにしても、「泊」というのは、ここが河口の湊だったのであろうと推測しうるが、実際に「韓泊」という河口港が存在したのである。













泊神社棟札「總十七邑」
















泊神社
兵庫県加古川市加古川町木村
 さて、古老の言い伝えでは、ということで、泊神社は紀州の「日前神〔ひのくまのかみ〕」を勧請したものだという伝説を記す。国懸大神〔くにかかすのおおかみ〕の名がそれである。社伝に秦川勝が社殿を建て、更に国縣大神を勧請したという。
 泊神社のある土地を現在でも「木村」というが、これは紀州の日前神勧進由来から「紀伊村」→「木村」となったもののようである。
 紀伊国一ノ宮日前国懸〔ひのくまくにかかす〕神宮(現・和歌山市秋月)がその本地であるが、この日前・国懸はむろん2神であり、それぞれ、日前神宮・国懸神宮と社殿も別である。日前神は鏡、国懸神は戈である。ところが、日前・国懸とも全く同様式で同じ大きさの社で二つ並んであるのが、興味深いところである。
 この二宮配置は、向かって左に日前神宮、右に国懸神宮があり、何れも南面する。本来、両宮は「日前に坐ます国懸神社」ともよぶべき一神社で、二座の神であった。しかるに、天照大神の神話が付会され、国家神的性格をもったとき、伊勢の内宮・外宮の制に倣い日前と国懸を冠する二神が成立したという解釈もある。しかし、この双子の社殿には、もっと神学的な意味がありそうである。
 『日本書紀』に、「時に高産霊の息思兼命といふ者有り、思慮の智有り。乃り思ひて白して曰さく、「彼の神の象を図し造りて招祷ぎ奉らむ」とまをす。故、即ち石凝姥を以て治工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり」とある。周知のごとく、『古事記』にも同様の記事がある。
 神宮社記では、このとき鋳造られたのが、伊勢神宮の八咫鏡、日前神宮の日像鏡、国懸神宮の日矛鏡であるという。『日前国懸両大神宮本紀大略』には、「神鏡ハ則チ日前大神也」「日矛ハ則チ国懸大神也」とある。神武東遷の時、この像を、紀伊國造家始祖・天道根命が受け、日前神宮の日像鏡、国懸神宮の日矛鏡のそれぞれ神体となったという。
 ようするに、後代、この泊神社周辺では日前・国懸二神の混同があったもののようである。また、さらに貞和四年(1346)の『峯相記』の伝説記事によれば、日前神は「日向大明神」になっている。つまり紀州の神ではなく、日向の神である。
 この日向大明神は容顔美麗な女神で、元正天皇の養老年中、日向の国から石船に乗り、多くの侍女を引き連れて賀古の浦に到着した。これを見て高御倉大明神(近くの高御倉の神)が、夜な夜な日向の女神たちに通うようになった。生石子大明神(近くに生石神社がある)はひどく嫉妬し、日向大明神を加古川対岸の日岡山へ、また侍女たちを泊明神他へ遷座せしめたという。
 いずれにしても、「客神」であったことにはかわりはない。

 つぎに、米田天神社である。米田村では、泊大明神とはまた別に、「菅神」、つまり菅原道真の北野天神を祀っていた。これは現在の「米田天神社」のことである。神社の場所は、高砂市米田町米田である。
 ただし、この神社については、『播磨鑑』には、注意すべき記事がある。それは泊大明神の次にある「天満宮」の記事である。
 『播磨鑑』には、《俗誤りて、天満宮ト崇ム。實ハ、五條天~、則チ少彦名命也》というから、「天神社」がいつのまにか菅原道真の天満宮(天神)と間違われてしまったものらしい。伊織棟札も「菅神」と書くわけである。近隣に曽根・的形といった天満宮があるが、播磨海岸部には天満宮が極めて多いのが特徴である。それで間違ったものらしいが、平野庸脩は学者らしく、これをきちんと訂正しているのである。
 また、なぜ少彦名〔すくなひこな〕命なのか、不明であるが、この神が大国主命の分身であったという出雲神話からすれば、次のようなことが注意されるのである。
 『播磨鑑』によれば、これは「内宮」と呼ばれる。つまり、前述の紀州の日前国懸神宮のように、まったく双子の形態ではないが、概念的には川の両岸で泊神社と対をなすものと考えられていたらしい。ここが内宮なら泊の方は外宮である。
 それも、「此社、元來、泊大明神建立ノ古宮ヲ此地ニ曳遷ス。宮本伊織殿、建立也」というわけである。泊神社の造営寄進にあたって、古い元の社殿を、米田村まで曳いて行って遷移したというのである。
 つまり伊織は、泊神社を新築するだけではなく、出身の村に神社を一つ造営していたのである。それは、すなわち、双子の神社だからであろう。泊神社と同じ年に同じ三十六歌仙扁額も同時に奉納しているのである。
 この神社には、泊神社の伊織棟札と同文の棟札があったという。その他、甲冑・田原家関係文書も奉納されていたというが、すでに逸失されているとのことである。
 しかし、泊神社の旧社殿を曳いて移築したという話だが、泊と米田の間には加古川という大きな河川がある。どうやって曳いて行ったのだろう。興味深い逸話である。  Go Back






日前国懸神宮 双子の神社
上:日前神宮 下:国懸神宮




国懸神宮本殿
和歌山市秋月








米田天神社
兵庫県高砂市米田町米田
社殿は伊織当時のものではない




米田天神社の祭礼
播磨の浜手は祭が盛んな地域
神輿を「やったい」(屋台)という
 
 (8)近歳、二社共に殆ど頽朽す
 近年、泊大明神と米田にある神社の二社ともに、老朽してほとんどボロボロになってしまった。つまり、伊織の関心は、加古川東岸の泊神社だけではなく、西岸の米田村の「天満宮」にもあった。
 泊神社の造営に際し、伊織と弟の小原玄昌が、この米田の天神にも、三十六歌仙板額36枚を奉納している。またそれよりかなり先、正保三年(1646)に伊織は、ここに鰐口を寄進している。武蔵が死んだ翌年である。
 「鰐口」というのは、神社の参詣者が神前や仏前で綱を振ってガラガラと打ち鳴らす円形扁平銅器。中空で下方に横長の裂け目があり、そこから鰐口という。
 これらのうち、三十六歌仙板額は現在の米田天神社に保存されている。また鰐口は神社隣の神宮寺所蔵である。
 ようするに、伊織は泊神社造営に関わる以前に、出身地米田村の「天満宮」に何かと関わっていたようである。
 伊織が納めたこの鰐口は青銅製口径一尺三寸、それには、まさしく、
  「於豊州小倉小笠原右近大輔内 宮本伊織朝臣藤原貞次敬白
   正保三暦丙戌九月吉日本社再興願主」
とある。伊織は、社殿再興の願主となっているのである。
 二社ともに、老朽してしまった。そこで、伊織は謂う、《余、一族と深く之を嗟く》。
 一族というのは、ここでは、伊織の実家の田原甚兵衛久光の四男子(三男は早世)のことだろう。伊織は次男である。久光は京都深草山宝塔寺の墓碑では、寛永十六年(1639)卒、六十二歳とある。
 田原吉久。伊織の長兄。宮本家系図では「大山茂右衛門吉久 系別ニアリ」と記す。長兄が田原氏を嗣いだということではないようである。
 小原玄昌。伊織の弟。四男・貞隆。「玄昌」は医師たる名号。京で医を学び、後に典薬寮から法眼の位を受けたという。
 田原正久。伊織の弟。五男。京都深草山宝塔寺の墓碑に、孝子四名の「田原吉久 田原久次 宮本貞次 小原玄昌」とあって、この「田原久次」であろう。宮本家系図では「田原庄左衛門正久」と記す。この末弟だけが米田村に残り田原氏を嗣いだものか。
 このように、兄弟の離郷分散があって、それゆえ氏神社再建に田原兄弟の思い入れもあったのであろうが、いづれにしても田原氏は、米田村に大きく根を張った家ではなかったようである。
  《君主の家運榮久、父祖世々の先志》
 君主とは、むろん伊織の主、小笠原忠政(忠真)のことであろう。忠政はこの年、五十八歳である。しかし、泊神社は地元村々の氏神である。異国の領主の家運栄久を祈るというのでは具合が悪かろう。
 ところで、父祖世々の先志を慰まむ、とあるが、奇妙なことに、この地には伊織は父祖の墓を建てていないのである。前述のように、伊織(とその兄弟)は、播州三木(吉祥山本要寺)と京都伏見(深草山宝塔寺)といった「外地」に墓を建てている。
 こうしてみるに、「君主の家運榮久、父祖世々の先志」とは修辞的措辞であろう。伊織自身の主家や先祖といったエゴセントリックな話ではなく、ここは万人普通の話とみなすべきところである。  Go Back

 
 (9)今已に新二社を得る
 而れば謹みて告ぐという、ここは神に対する告知文である。造営工事が済んで、新しく神の社ができましたよ、という報告である。
 田原吉久、小原玄昌、田原正久という伊織の兄弟については、前出。泊神社の社殿造営工事には、吉久、玄昌(貞隆)、正久という兄弟らが関与していることがわかる。
 「新二社」というのは、本工事の泊神社社殿と、米田村の神社である。米田村の社殿は、泊神社のものを曳いて行ってリフォームしたものであることが、前出『播磨鑑』の記事でわかる。  Go Back

 
 (10)夫れ、神の威厳、人の之を得るに・・・・
 祈願文である。
 それ、神の威厳〔みいつ〕たるや、人がこれを得ようとすれば、天に一つとしてそなわらぬことはない。いわゆる「心称誠道」とは、このことである。だからこそ、祈らずといえども、そのようにして神護は知ることができるのである。しかれども、常人の質は皆、天の徳をむしろさえぎって、その初めのごとく、ほしいままに純一で赤心からのものであることはできない。祈運し志を継ぐ。こいねがわくば、神と人の感通があってほしい――というような内容である。
 ここで注意したいのは、《雖然常人之質皆掩天徳而不能如其初肆純一懇丹》(然れども、常人の質、皆、天徳を掩ひて、其の初の如く肆に純一懇丹なる能はず)とある部分である。こういう時代精神の反省、クリティシズムは、生半可の知識人には書けない――というよりも、信仰の在処や根拠を疑いつつも神社を再建するというアイロニーの開示されるところであり、この一文の書き手の知の質を推測せしめる。  Go Back



伊織寄進の鰐口
米田天神社隣 神宮寺蔵




三十六歌仙扁額
(壬生忠岑)
米田天神社





深草山宝塔寺 総門
京都市伏見区



宮本伊織と小原玄昌の
連名墓 宝塔寺










泊神社本殿
 
 (11)其の玄昌、小原を以て氏と為すは
 この玄昌は、棟札表書に、願主として源貞次(伊織)ともに「舎弟玄昌」として名を列ねる。小原玄昌と名のって医師として出世したこの弟のことを、伊織はぜひ書き遺しておかねばならないと考えたのであろう。以下、伊織の弟・貞隆が、小原氏の後嗣になった経緯を述べる。
 京都深草の宝塔寺には、伊織・玄昌二人連名の墓がある。この兄弟は特殊な感情で結ばれていたのかもしれない。後述のごとく、『播磨鑑』によれば、玄昌は母の実家のある河東郡垂井庄池尻村で生まれたとある。また伊織もそこにしばらく居たという。この兄弟は幼い頃、母の実家のある土地でいっしょに育てられたものらしい。
 この玄昌について『播磨鑑』は記述している。
  「加東郡垂井庄池尻村ノ産。任法眼被加典薬寮。延寶比ノ人也」
とあるのが、それであり、法眼に任ぜられ典薬寮に加えられたという。医家として、けっこうな出世である。自身医師であった平野庸脩が、地元出身の知名人に玄昌を列するわけである。延宝年間というのは一六七三〜一六八一年だから、だいたい年代は合う。
 そこで、《摂州有馬郡小原城主・上野守源信利、其嗣・信忠》とある。
 この小原城は、現・兵庫県三田市大原にあった大原城と比定しうる。「小原」は「大原」であろうか。『播磨鑑』には、「大原上野守信利」とある。玄昌についても「大原玄昌」である。
 この大原城の大原氏の方は、早くも文永年間(十三世紀)にその名が見えるが、天正年間、摂津を制覇する荒木村重によって滅ぼされた。この大原氏が、いついかにして「小原」と名のるようになったか、不明。とはいえ、「おおはら」→「おはら」の遷移転化は稀ではない。
 信利は秀吉の九州攻略の前哨戦(田川郡香春岳の城攻め)で、豊前で戦死。小原家系図によれば、信利の歿年は天正十五年(1587)である。
 嗣子の小原信忠は、秀吉の朝鮮出兵に参加して戦死した。小原家系図によれば、信忠の歿年は文禄元年(1592)である。つまり、日本では「文禄の役」、韓国では「倭乱」と呼ばれる侵略戦争だった。
 棟札記事では、《余を生める母一人にして男無く》というから、朝鮮の役で死んだ小原信忠には、伊織を生んだ母一人しか姉妹がなく、男兄弟はなかったということ。この母は、三木の本要寺箕谷墓地に現存する墓碑によれば、承応元年(1652)十二月二十八日歿、享年六十六歳である。つまり、泊神社造営の前年である。名は知れぬが「理應院」という院号である。
 ところが、後世の小原家系図では、信利の子を一男二女とし、伊織の母・理応院を次女にしている。伊織の棟札記事では、「余を生める母一人にして」とあるから姉があるはずもない。しかもこの姉なる承応3年歿で、理応院より長生きしているから、早世者ではない。これはどういうことであろう。後世の誤伝であろうか。疑議を提起しておきたい。
 ところで、伊織の母は、自身の実家の父祖墓を、播州三木の本要寺(現・三木市本町)に建てている。それは彼女が三木生れだったからである。伊織も、この播州三木の本要寺に両親の墓を建てたのである。この寺は、三木合戦で残った寺で、秀吉が最後の本陣とした。別所長治の首検分がされた寺だという。
 このあたり、「元来、三木侍」への伊織のこだわりが感じられる。
 それとともに、伊織の母の出身が、『播磨鑑』にあるように加東郡垂井荘であり、三木とその周辺は彼ら母子に縁のあった所とみる理由がなくもない。
 すなわち、この伊織の母親なる人について、『播磨鑑』は「加東郡垂井荘宮ノ脇村ノ人也」と別伝を示す。これは、泊・米田二社の棟札を見ていた平野庸脩が、地元の言い伝えを客観的に記録したという傍証になるが、さらに続けて、
  「依之、伊織も久敷、宮ノ脇村に被居由」
とする。伊織は加東郡垂井荘の村で育ったのである。そして、もう一つ、玄昌についても、前記引用のごとく、
  「加東郡垂井庄池尻村ノ産」
と記述している。玄昌は印南郡米田村の生まれではなく、加東郡垂井庄で生れたというのである。何か事情があって、伊織や弟・貞隆(玄昌)はそちらで育ち、あるいは生まれたらしい。こういう情報は、『播磨鑑』以外では得られない。平野庸脩が地元、米田村隣村の人だからである。
 伊織の母なる人の実家という、この加東郡垂井荘宮ノ脇村は、住吉神社のある現在の小野市垂井町宮ノ下あたりである。三木城から北へ六キロほどのところである。池尻村はそれより手前の、小野市池尻町、「市場」という神戸電鉄の駅東方の山際にあった。
 あるいは『播磨鑑』には、また伊織の「弟に(實は甥也)宮長清兵衛と云人有」として、この人の宿願で、三十六歌仙の絵馬和歌その他が奉納され、「今、垂井荘内氏宮の神庫に藏め、宝物とす」とある。
 伊織は泊神社の造営に当り、米田ばかりではなく、この加東郡垂井荘の(たぶん)住吉神社にもこれを奉納したわけだ。おそらくここが、母の実家の氏宮であったからだろう。









小原氏本地・摂津有馬郡大原
兵庫県三田市大原






吉祥山本要寺
兵庫県三木市本町




伊織兄弟による父祖の墓碑
三木市本町 箕谷墓地



*【播磨鑑】
《此伊織殿、母は加東郡垂井ノ荘宮ノ脇村ノ人也。依之、伊織も久敷、宮ノ脇村に被居由》





母の里・垂井庄

住吉神社
兵庫県小野市垂井町
印南郡の泊神社から6年後、三十
六歌仙図絵馬を伊織らが奉納した



三十六歌仙図絵馬 小野小町
住吉神社


三十六歌仙図絵馬 箱書
住吉神社

 ところが面白いことに、その絵馬が現在ある住吉神社の箱書きによれば、宮脇村出身で小倉藩家臣の大原重政という名の者が、寛政八年(1796)に奉納したという。どうしてこういうことになったか、経緯はわからないが、寛政八年とすれば、『播磨鑑』より後のことで、何か事情があってこの大原重政なる者がこれを手に入れ、神社に奉納(もしくは返納)したということになる。大原という名からすれば、おそらく伊織の母の縁者の子孫であろうか。
 むろんこの絵馬は、泊神社のものと同じ絵師・甲田重信の作である。そして万治二年(1659)の日付があるところからすれば、伊織は泊神社造営の六年後、「垂井荘の氏宮」へ奉納したのである。とすれば、彼の母親は、加東郡垂井荘の人だという『播磨鑑』の記事が裏づけを得るのである。


 秀吉の三木城包囲戦は、天正六年(1578)から天正八年(1580)までの二十二ヶ月に及んで、城主・別所長治と一族は切腹自害して、別所氏の城主時代は終焉した。
 その後、天正十三年(1585)に三木城主になったのは、中川秀政(1569〜1593)である。
 秀政の祖父・重清は、摂津国稲田城に拠り、池田城主の池田勝正に属した。元亀元年(1570)摂津一円制覇をめざす荒木村重に攻められて降り、以後村重に属した。翌年、高槻城の和田惟政を討って、茨木城主となり六万石を領した。
 重清の子・清秀も荒木村重に属したが、同時に信長に仕えた。天正六年(1578)、村重が本願寺や毛利氏と結んで信長に背くと、最初は村重に従ったが寝返って信長方についた。
 ちなみに言えば、高山父子と荒木村重の線もあってか、中川清秀は熱心な切支丹として知られ、幼少から十字架を離さなかったという。その名残りが、中川氏の家紋「中川久留子」と呼ばれるものである。
 天正十年(1582)信長が本能寺で横死すると、清秀は、秀吉に属して光秀方殲滅に戦功があった。だが翌年の賤ケ岳合戦で、柴田勝家与力の佐久間盛政に急襲されて討死した。
 この清秀の子が秀政である。彼は信長に仕え信長の女婿ともなった。父の死後、中川氏を相続し、天正十三年(1585)、秀吉は秀政を播磨国三木城主とした。その後、朝鮮の役に加わり、文禄二年(1594)戦死した。
 秀政には子がなく、中川氏を叔父(父の弟)の秀成が継いで、翌文禄三年、播磨国三木城から豊後国岡城に転じた。秀成の後は弟秀成が継いで、その後代々、豊後竹田藩を領して明治維新にいたる。この中川氏が拠った岡城は瀧廉太郎の「荒城の月」の舞台とされる。
 中川氏が九州に去った後、三木郡の領主は顔ぶれが転々した。慶長元年(1596)に、 但馬の豊岡城主・杉原家次が三木郡を領するが、慶長五年(1600)の関ヶ原の後は、その戦功で姫路城主となった池田輝政の家老、伊木清兵衛忠次が三木郡を領する。
 そして、元和三年(1617) 、小笠原忠政が明石へ入部、同時に三木郡を領域とした。以後、三木郡はおおむね明石城主の領地となってしまう。かの戦国大名別所氏の本拠地は、無城の属領と化したのである。
 忠政が元和五年(1619)に完成させた明石城は、廃城にした各地から建設資材を集めたが、三木城からも石材等建設資材を取って行った。だから現在の三木城址にはほとんど城らしい痕跡が残っていないありさまで、それほど徹底して破壊したのである。
 もともと、明石には三木城主・別所氏の支城として砦が築かれていたらしい。だから、三木と明石の関係は、まったく逆転してしまったのである。
 切支丹大名・高山右近が、天正十三年(1585)に摂津高槻から明石に転封すると、まず明石川の河口に城を構築した。小笠原忠政が最初に入城したのは、この船上〔ふなげ〕城だった。船上城が海辺に建つ古典的な城構えであったことから、船上城を移設するかたちで、新たに現在の明石城を新設したのである。城の縄張りは忠政の岳父・姫路城主本多忠政が行なったともいう。
 新たな城の場所は柿本人麿の塚だった。この人麿塚を東の山に移設して、その跡に新城を築いたという乱暴な話である。城が完成すると、それまで三木にいた小笠原忠政は明石に入城した。それとともに城下町を整備し、続いて明石の浜に堤を築き湊を完成させる。
 余談になったが、伊織はこの明石城主・小笠原忠政に仕えた。とすれば、播州三木及び三木城に関して、伊織にはかような因縁があるわけである。
 《高麗に到りて戦死せり》。伊織の伯父にあたる小原信忠は、文禄の役で、主人・中川秀政と共に彼の地に死ぬ。これによって、小原家は武家として断絶する。しかし、このように、後に伊織の弟・貞隆が、母の命で、その実家の養子に入って小原家を嗣いだ、伊織の弟・貞隆が医師になって小原玄昌と称した。
 伊織棟札によれば、信忠が、前述の中川秀政の麾下に入ったのは天正年間というが、時期は不明である。中川秀政が三木城主として転封されたのは天正十三年(1585)である。おそらく小原信利・信忠父子は、それ以前から中川氏に属していて、中川秀政に従って三木へ移ったのであろう。さしあたりは、そういう我々の見当である。
 しかし、ここで留意すべきことがある。伊織の母(理応院)は、墓誌によれば承応元年六十六歳歿だから、彼女は父信利が死んだ年(天正十五年・1587)に生れたことになる。そして、兄信忠が文禄の役で死んだとすれば、六歳の時(1592)兄を失ったということになる。
 伊織の外祖母・常光院(理応院の母。元和九年(1623)まで存命だった)は、幼い娘を連れて、三木の近くの垂井庄に身を寄せたと思われる。それが、伊織母について、『播磨鑑』の《此伊織殿、母は加東郡垂井ノ荘宮ノ脇村ノ人也。依之、伊織も久敷、宮ノ脇村に被居由》というところである。伊織は祖母が居た母の実家で暮らしたこともあるようである。この加東郡垂井庄宮脇村に居た彼女を妻にしたのが、「元来、三木侍」の田原甚兵衛久光、つまり伊織の父である。
 『播磨鑑』の上記記事では、伊織は祖母が居た母の実家でしばらく暮らしたこともあるようだが、弟の玄昌については、加東郡垂井庄池尻村の産とある。とすれば、宮ノ脇村に居ついていたわけでもなく、母は池尻村へ移ってもいたのである。ようするに、田原甚兵衛との結婚は、彼女の生活を安定させるものではなかったようである。
 伊織の棟札はいう、《母命じて、玄昌に其氏(小原氏)を継がしむ》。伊織の弟・貞隆(玄昌)が、小原氏の後嗣になったのは、つまりは母の命であったということ。この母は、実家が嗣なく途絶する運命にあるをみて、息子の一人・貞隆にそれを継がせた。
 しかし、どうであろうか。伊織棟札の通りだとすれば、伊織の母の実家・小原氏は、結局、もう武家として再興できなかったのである。  Go Back


三木城址・別所長治句碑
「今はただ恨みもあらじ諸人の
命にかはるわが身と思へば」
兵庫県三木市上ノ丸町



三木合戦軍図 部分
兵粮攻め城内に明石から鯛が届く
別所家霊廟 法界寺蔵
三木市別所町東這田




明石城巽〔たつみ〕櫓
高山右近の船上城を移築



明石城坤〔ひつじさる〕櫓
こちらは伏見城を移築という
兵庫県明石市




平壌城戦闘図 部分
韓国国立博物館





宮脇村と池尻村
 
 (12)承応二癸巳暦五月日
 承応二年(1653)の五月。小倉宮本家系譜の、伊織は慶長十七年(1712)の生まれという説をとれば、伊織は四十二歳である。武蔵が死んだのは、正保二年(1645)だから、この泊神社棟札の日付けはその八年後ということになる。武蔵に関する最早期の史料であり、しかも宮本伊織が一人称「余」で書いたもの、まさに、武蔵伝記研究における第一級の史料なのである。
 ほとんどが伊織実家の田原氏のこと、あるいは泊神社を氏神とする地元のことを書いた記事なのだが、この「余」(伊織)が自分のことを述べるところで、天正年間九州で死んだ「神免」や、伊織の義父「武蔵掾玄信」の名が出てくる。
 これが、武蔵について言及した最初の史料である。そのことを改めて確認しておくべきである。伊織は翌年、小倉に武蔵の記念碑を建てる。その碑文がいわゆる小倉碑文である。ほぼ同時期ながら、泊神社棟札は一年早いということになる。
 しかし、この棟札における武蔵に関する記述は、ご覧の通りごくわずかである。ところが、近年、何を間違ったか、「この棟札によって、武蔵が播磨の印南郡米田村で生れたことが証明される」という、これまた極め付けの珍説が流行している。もちろん、棟札には、武蔵が米田村産だなどと、そんなことは一言半句も記されていない。
 伊織子孫が作成した小倉宮本家系図その他諸文書には、武蔵を、伊織の祖父・田原甚右衛門家貞の二男と記す。これは後世の妄説である。もし武蔵が、祖父の二男なら、伊織にとって叔父にあたる。しかも自分は武蔵の養子になったのである。それなら、伊織はそのことをこの棟札に書いたはずである。しかし、伊織は書いていない。それは当然である。武蔵は、伊織の父の弟ではなかったからだ。
 伊織ら兄弟は、田原氏の父祖の墓碑を三木に建てている。その田原家墓所には武蔵の墓はない。それも当然である。武蔵は伊織の父の弟ではなかったからだ。伊織ほどの者が、自身の「父」にして叔父でもある親の墓を、田原家墓所に建てぬ道理がない。
 ようするに、小倉宮本家の系譜のうち、武蔵に関する記事は明らかに後代子孫の作為である。十九世紀半ば、まもなく幕末という頃、伊織子孫が系図系譜を作成したのである。武蔵記事に関して、それを捏造とは言わぬが、口碑伝説を文書化したのであろう。もうその頃には「宮本武蔵」は世間では大衆的ヒーローであった。
 この泊神社棟札についても、伊織子孫はひとつ珍説を記録している。「宮本家由緒書」によれば、この棟札の文章を書いたのは、法雲和尚だということである。法雲和尚といっても、九州人以外はなじみがないかもしれない。小倉小笠原家菩提寺・広寿山福聚寺第二世であり、黄檗宗即非和尚の法嗣である。この人は後世地元では有名な高僧、その人物が泊神社棟札の撰者だというわけである。そんな偉い坊さんが書いたのなら、有り難いものだということになろう。
 ところが、この泊神社棟札の承応二年(1653)、その法雲和尚、つまり法雲明洞(1638〜1706)は、まだ十六歳の小僧であった。もちろんまだ、師匠の即非和尚にも出会っていない。小倉には広寿山福聚寺の影も形もない。ようするに、泊神社棟札を、地元小倉の伝説的高僧に関係づけたいのだが、それには無理がある。史的関係を無視した後世の伝説の類いである。
 この法雲和尚は、豊前でよほど人気のあった人物のようで、実はあの小倉碑文は法雲和尚が書いた、という伝説もあった。しかしそれは小倉宮本家の子孫が書かぬことで、まったく別人の話である。
 こちらは、近世の思想史では有名な三浦梅園(1723〜89)の著作『歸山録』(安永七年)にある話で、梅園が豊前中津の友人から聞いた話としてそれを記している。これは宮本家由緒書よりも60年ほど前の書物であるが、「宮本家由緒書」には、法雲和尚が小倉碑文を書いたという話は出ないから、この伝説は、十九世紀半ばの小倉ではすでに消滅していたということらしい。家伝作者は惜しいことをしたものである。肥後には春山和尚撰文説あり、小倉碑文の我田引水は、豊前・肥後両方にあったということである。
 ともあれ、宮本伊織が一人称「余」で書いた泊神社棟札が法雲和尚撰文だとは、これまたこの棟札にまつわる珍説のひとつであろう。小倉宮本家の文書は、そういう意味で珍説の倉庫である。開けば次々に興味深い説が出てくるが、残念ながら、武蔵に関しては僻説ばかりである。その最たるものは、やはり、宮本武蔵を田原氏系譜に我田引水したことであろう。
 以上、余談になったが、泊神社棟札のその後、という話題である。




伊織建立の小倉武蔵碑
北九州市小倉北区赤坂




田原氏墓碑
兵庫県三木市本町 箕谷墓地



*【宮本家由緒書】
《持貞より貞次迄血脈相続之次第、承応二年癸巳暦五月、貞次氏神泊大明神二社建立之時、棟札之銘貞次神納有之。其文章之写ニ系図歴然也。此文章貞次之意ニして法雲和尚被記之》






*【歸山録】
《近頃又雙島志なる者有て出づ。武藏岩流の始末を記せり。我因て其實説を問ふ。玉淵微笑して、廣壽山法雲和尚の撰する武藏の碑文を出して示す。予悦んで思ふ。此一隅を反して三隅を知らば、童蒙野史を読む者取舎する所を知て、學道の葛藤に惑はざらんと、取て書尾に記す》

伊織寄進の石燈篭 神社本殿背面にあり

伊織寄進の三十六歌仙扁額
 泊神社再建に際して、伊織は、大きな石燈籠を寄進した。同時に、亡父母名義の石燈籠2基も寄進したようである。銘文によれば、いずれも同じ年、承応二年の三月である。
 これらは神社本殿背後にある。珍しい配置である。我々の所見では、これは、父祖の故地・三木郡の方向に建てたということである。伊織はどこまでも「元三木侍」の子なのである。
 そして、泊神社本社(本殿)棟札上書にはこうある。

泊大明神米堕天神宮両社歌仙賛
御門跡公卿之御筆跡也即毎一枚之
裏書名乗等有之也
 
願主  源貞次
     舎弟 玄昌
 
田原家傳記與當社米堕天神宮別書入納畢

 ここには、泊神社と米田天神社に、三十六歌仙扁額を奉納したこと、それは門跡公卿の筆で、一枚ごとに裏書名のりなどがあることを記す。
 また、左に一行あるのは、「田原家伝記、当社と米堕天神宮に別書入納し畢んぬ」、つまり「田原家伝記」なる文書を別に書いて、当社(泊神社)と米田天神社に、納入したことを記録している。二社に納入したというこの別書、「田原家伝記」は、現在までのところ発見されておらず、我々は未見である。おそらく、それには、この棟札記事より詳しい家伝が記されていたのであろう。もしそれが後世に残っておれば、武蔵を田原甚右衛門家貞の二男にしてしまう、小倉宮本家系譜のような後世の作為の余地もなかったであろう。
 社殿再建の願主は、田原四兄弟のうち、「源貞次」すなわち宮本伊織と、「舎弟玄昌」すなわち、弟の小原玄昌。伊織は小倉小笠原家家老、玄昌は典薬寮医師となって、この二人はともに出世した。
 棟札本文末尾には、こう記されていた。
    「宮本伊織源貞次、謹みて白す」
 文中「余」という一人称は伊織である。この文章をみればわかるが、これはたんに棟札のために書かれたのではなく、まさに落成式に神前において読み上げられた表白文である。神社再建を記念して、それを棟札にして後世に遺したのである。
 宮本伊織源貞次、謹みて白〔まを〕す、とある。これによって、宮本家に養子に出た伊織が、田原兄弟の代表となっていることがわかる。伊織は二男で、長兄・吉久があるにもかかわらず、である。これは伊織が兄弟中の「出世頭」だったからだろう。
 この「宮本伊織源貞次」名に関説して言えば、正保三年(1646)に米田天神社に伊織が納めた鰐口に、

 「於豊州小倉小笠原右近大輔内 宮本伊織朝臣藤原貞次敬白」

と記されている、その名に注目すべきである。
 すなわち、この時期には、伊織はまだ、
  「藤原貞次」
なのである。これに対し、この泊神社の伊織棟札では、名のりは、
  「源貞次」
に変化している。「藤原」姓から「源」姓へ、これはどういうことであろうか。
 前述のように、「藤原」は徳大寺に由来するという新免氏の系譜を意味する。一方、「源」は村上源氏たる赤松の系譜を示す。武蔵は新免無二の家を嗣いで新免を名のり、ゆえに「藤原」玄信を称した。正保三年、つまり武蔵の死の翌年、米田天神社の鰐口に「藤原貞次」と記したのであってみれば、このときまでは、伊織自身が、さして深く考えもせずに、武蔵の「藤原」姓をそのまま引き継いでいたのである。おそらく、武蔵自身が、宮本家の位置づけについて、それが藤原か源氏か明確にしていなかったのであろう。その種のことには、武蔵はさして関心がなかったとものとみえる。
 しかるに、米田天神社の鰐口(正保三年)の「藤原貞次」から、泊神社棟札(承応二年)の「源貞次」への変化。この七年のこの間に、伊織の出自認識に何らかの変化があったとみえる。伊織が、兵法の家「新免」氏ではなく、武蔵故郷の宮本村にちなんだ「宮本」氏を名のる以上、遅かれ早かれ彼我の区別はつけなければならない。その時期が、この泊神社再建と小倉の武蔵碑建立のときであった。
 伊織が翌年建立した小倉武蔵碑の碑文には、武蔵は播州の英産、赤松末葉だと記す。武蔵の生家は播州揖東郡の武家、とすればこれは龍野赤松氏系統の赤松末葉であろう。新免家ではなく宮本家を嗣いだ伊織は、赤松末葉として、村上源氏の末流である。ここで、伊織は、「藤原」貞次ではなく、「源」貞次なのである。
 そのように、武蔵死後、伊織が宮本家当主として、出自認識を整理し改めたのは、この泊神社再建と小倉の武蔵碑建立という事業に至るまでのことである。播磨には赤松末葉の家系はそれこそゴマンとある。伊織実家の田原氏もそういう家伝をもつ。この「赤松末葉」への復帰は、つまりは伊織の播磨への心情的回帰を意味する。故郷の神社を再建する気になったのも、その一端であろう。
  「播юヤ松末流、新免武藏玄信二天居士碑」
というのが小倉の武蔵碑のタイトルである。以上のことから、この「播州赤松末流」という語句を武蔵碑のタイトルに掲げた伊織の心情を思いやることができよう。
 伊織が小倉に建碑した宮本武蔵碑は赤坂山(手向山)の山上にあり、その西麓に小倉宮本家墓所がある。そこには、ひときわ背の高い、変った意匠の伊織の墓碑がある。墓石左下に「前の宮本伊織、源貞次」との俗名刻字がある。主家の小笠原家は、その後安泰で転封もなく、そのまま小倉城主で続いた。伊織子孫の宮本家も老職として小倉で存続した。








泊神社棟札上書 部分











伊織寄進の鰐口
米田天神社隣 神宮寺蔵








播磨関係地図




宮本伊織の墓 小倉宮本家墓所
「前宮本伊織源貞次」の俗名刻字


小倉宮本家墓所 北九州市小倉北区赤坂 手向山西麓
 最後に、泊神社の伊織伝説をあげておこう。
 すなわち、伊織の当時、泊神社の近くに土橋があり、その下に龍が住んでいた。この龍が、泊神社へ参詣に来る人々を脅かすので、みな困り果てていた。泊神社を再建した宮本伊織は、この龍を退散させるために、狩野探幽の弟子である甲田重信(つまり、泊神社三十六歌仙扁額の絵師)に相談した。重信は妙案があるとして、泊神社の社殿の天井一面に、玉を奪い合う雌雄の龍を描いた。ところが、これでは龍の被害は納まらなかった。甲田重信の師・狩野探幽はこれを聞いて、自ら泊神社へ出向き、弟子重信の描いた龍の絵に加筆した(黒枠で囲み、龍の口に紅)。すると、それきり、龍は現れなくなった――という伝説である。
 この龍の絵は実在したが、昭和三十年頃に剥がれはじめ傷みが激しく、結局焼却してしまったとのことである。残念ながら我々も、これを実見していない。
 『播磨鑑』の十八世紀半ば、すでにそうだったが、地元では、伊織は伝説の人となって生きつづけたということなのである。  Go Back



宮本伊織署名花押
長岡佐渡守宛書状



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