(4)作州の顕氏神免
この部分が、武蔵研究において焦点となる最も重要な記事部分である。この泊神社棟札という第一級史料の面目はここにあると言える。
さて、順に行ってみよう。まず、「作州」は美作国、現在の岡山県東北部。ここでいう「神免」は、新免のことである。
ただし、この「神免」を、「新免」の誤記だとみなす綿谷雪*のような理解は、いただけない。無知によるナイーヴな誤解である。
すなわち、泊神社棟札のこのケースで新免を「神免」とするのは、神事などに関わるさいの、一種の「ハレ」の修辞的書記法である。こうしたグラマトロジーについて知らないから、「神免」を誤記だと誤解する。素人考証家が陥りやすい陥穽とはいえ、後の連中まで同様の無知を継承反復しているのは、情けない事態である。
因みにいえば、この泊神社棟札と同年の承応二年(1653)、寺尾孫之丞が柴任三左衛門美矩に与えた五輪書相伝証文がある。そこには、「~免玄信公」とあって、武蔵直弟子が「神免」という表記を用いているのである。このように、宮本伊織と寺尾孫之丞という武蔵に関係の深い人物が、同じ年に、「神免」と書いている。この件は、従来武蔵研究において指摘されたことのないポイントだが、「神免」という表記に関する知見として、ここで諸家に注意を喚起しておく。
さて、この新免氏、その祖は藤原北家・徳大寺実孝(1293〜1322)に出たとする。実孝は失脚し美作に流離してきて死んだ、実孝の子・則重のとき、勅免を得て新免氏と称するようになった、というのが家伝である。実際には、徳大寺実孝には子の徳大寺公清(1312〜60)がいて、従一位内大臣である。家は安泰で潰れもしていない。したがって、これは美作の貴種流離譚であるが、その伝説によって新免氏は藤原姓を名のる。実孝を元祖とするからである。そして武蔵が「新免武蔵守藤原玄信」と、藤原姓を名のるのは、このように、新免氏の元祖が徳大寺実孝だからである。
実孝の子・則重は粟井(現・岡山県美作市粟井)に居城し、その子・長重は小房城(現・岡山県勝田郡勝田町久賀)に移ったという。則重の子が長重というが、むろん、ここにはかなり年代が開いている。新免長重は則重の子というより、則重の子孫というべきである。新免長重は播磨の赤松氏に属し、そのころには新免氏は美作東部の国人衆の中で頭角を現したようである。
この新免氏のことだが、系譜上赤松氏と連節する局面もある。赤松系譜の一つによれば、赤松円心則村→貞範→顕則→満貞→家貞と続き、中務少輔家貞は宇野新三郎、播州宍粟郡・作州吉野苫北二郡・備前和気郡などに領地を有し、播磨の鷹巣城、美作吉野郡の高山・小原城主であったという。そんな大きな領域を得たというのは伝説訛伝であるが、その宇野新三郎家貞の義子に、三郎貞重あり、自身の実父が新免氏であったことから、貞重は新免氏に改めて、明応二年(1493)竹山城(現・岡山県美作市下町)を築き、そこへ移ったという。これは新免側の伝説で、新免貞重を宇野新三郎家貞と関係づけるものである。
新免氏は衰微したとき、隣接の播州宍粟郡の宇野氏を頼った。この宇野氏は赤松衆の有力一族だが、宇野氏は本来は赤松氏より古い。宇野氏から赤松氏が派生したのである。そういう宇野氏は播州宍粟郡にあって、美作東部に勢力を伸ばしていた。新免氏は宇野氏の麾下に入り、貞重の代で新免家を再興したというところである。
その後、戦国期には美作東部のこの地域も、尼子、毛利、浦上らの勢力伸張により、有為転変があった。新免氏は宗貞のとき、尼子勢に敗れ、領地を失った。のちに浦上氏を下克上して備前・美作を制覇した宇喜田直家のとき、新免宗貫が父の失地を回復する。宗貫は播州宍粟郡長水山城の宇野政頼の三男で、新免氏の養子に入った人である。

宇喜多氏家士分限帳(写本)
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(同右) 慶長3年調 新免伊賀守3650石
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新免宗貫は、慶長五年の関ヶ原合戦には、宇喜多秀家麾下で参戦したらしい、というのがもっぱらの通説だが、その関ヶ原合戦前年の宇喜多騒動で、新免宗貫が家老戸川逵安らとともに宇喜多家を離脱している。戦後の全国的な領地再編で、新免宗貫は東作の領地を失って退転。しかし彼はその後、戸川逵安の斡旋で、筑前福岡へ栄転した黒田家に迎えられ、二千石を与えられ、新免氏の子孫は、黒田家家臣として九州で存続した。
宮本武蔵が死の直前、肥後で『五輪書』を書き始めたとき、「生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六十」と記したとき、その「藤原」の名のりの由来は、上述の如く、新免氏元祖という徳大寺実孝が藤原北家の人であることによる。
ようするに武蔵のフォーマルな名のりは、むろん新免氏である。しかも、村上源氏の赤松というより、本来この藤原実孝以来の系譜に連なるとするのである。
ところで、上掲の田原氏先祖の記事に関連することで、ひとつ指摘しておくことがある。
新免氏の系譜によれば、中務少輔家貞は実は満貞の甥で、宇野新三郎。とすれば、家貞は宇野氏へ養子に入った。この家貞は延徳三年(1491)卒、五十六歳。つまり生年は永享八年(1436)である。持貞の自殺は、応永三十四年(1427)である。ゆえに新免氏の系譜によるかぎり、家貞は持貞の子ではない。別人である。
しかるに、他の赤松氏諸家系図では、家貞は頼則の子、つまり持貞の弟とするものがあり、もちろん持貞の子とするものもある。ようするに家貞のポジションは不定であるが、伊織棟札の田原氏系譜は、家貞を持貞の子とする伝承によって、起源部分を構成したものらしいと知れる。
作州新免氏がはっきりしているのは、竹山城に拠った貞重・宗貞・宗貫の三代である。それ以前のことは伝説以外に明らかではない。
さて、棟札のいまの記事に立ち入ってみるに、ここに登場する「神免」が、翌年伊織が豊前小倉郊外に建立した武蔵碑に記す《父新免、無二と号す》の新免無二である。
その小倉碑文には、将軍足利義昭の命で、新免無二が「扶桑第一兵術者」吉岡と対戦して勝ったことも誌す。伊織は一方ではこういう情報をもっているのに、この棟札では「作州の顕氏神免なるものあり」と記すのみであるのは、これが田原氏に関する銘文であるためだけではなく、神文として修辞上の省略だからだ。
それは自身の養父・宮本武蔵の記述に関しても同様である。具体的に何も言わないのが、このケースでの一種の文章作法なのである。
では、この新免を名のる無二の出自如何というに、まさに作州の顕氏・新免を名のっていたという以外に明かではない。それゆえ問題は、新免氏を名のっていたから美作人だ、と決めつけるわけにもいかない、ということである。
それというのも、美作側史料の記事には、「新免無二」という名の人物は存在しない。十九世紀前期の『東作誌』のいう平田無二(武仁)は、むろん新免無二とは無関係の別人である。それよりも、ここで諸氏が知っておくべきは、当時の戦乱の中で、美作の人々が播磨へ流れてきていたという状況があることだ。
たとえば、類似例は「黒田二十四騎」の菅六之助正利(1567〜1625)の家である。菅氏は新免氏以上の美作の顕氏だが、菅六之助の家は父祖の代に播磨に流れて、揖東郡越部に居ついた。菅六之助はそこで生まれ、育った。菅氏はまさしく作州の「顕氏」だが、このように播州人である菅氏もあったのである。
それゆえ、新免氏を名のっていたから美作人だ、と決めつけることはできないのである。父祖の代、時期は不明だとしても、新免無二の家も、これと同じく、美作を退転して播磨へ流れてきた家であろう。新免氏の末裔は今でも播磨にある。
菅六之助が「新免無二助」に剣術を学んだという伝説もある(菅氏世譜)。新免無二と菅六之助の関係を語る伝説だが、これにより、おおよそ、新免無二がどのあたりにいたか、見当がつくというものである。伝説の真偽ははともかく、新免無二は「播州人の新免氏」で、播磨西部の揖東郡あたりに居て、この菅六之助や宮本武蔵の一族と近い環境にいて、お互いに知遇であった可能性がある。
後出記事のように、武蔵は新免無二の家を相続することになるのだが、なぜ、武蔵は無二の新免家を嗣ぐことになったのか、どこにどういう機縁があったのか、それは、こんな伏線を想定すれば話の筋道がつくのである。
新免無二が、菅六之助や宮本武蔵の一族と近い環境にいたとすれば、『丹治峯均筆記』にいう、無二は黒田如水の弟・兵庫助利高(1554〜96)の与力だった、という筑前黒田家中の伝説とも符合する。新免無二は播磨で黒田勢に参加し、また天正十四〜五年、黒田勢が九州へ行って転戦したとき、九州へ行ったのであろう。
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* 綿谷雪 『考証武芸者列伝』 (三樹書房 昭和57年)
本書で自身が書いているように、綿谷は棟札現物をみておらず、それゆえ敵役の福原浄泉(美作説の論客)を相手に、泊神社棟札に対し珍解釈を演じている。
*【寺尾孫之丞相伝証文】 《令伝授地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候》

徳大寺実孝公墓 岡山県美作市粟井
*【新免氏略系図】
○徳大寺実孝―新免則重……長重┐
┌────────────┘
│竹山城
└貞重┬宗貞=宗貫─長春→
├貞弘 ↑作州退転後
└家貞 │仕黒田長政
長水山城 │
宇野政頼┬光景 │
│ │
├祐清 │
│ │
├宗貫─┘
│
├宗祐
│
└祐光
赤松則村─貞範┬頼則┬満則─貞村
│ │
│ └持貞
│
└顕則─満貞─家貞

竹山城址付近現況 岡山県美作市

関ヶ原合戦図屏風 部分
* 【小倉碑文】 《父新免号無二、爲十手之家。武藏受家業、朝鑚暮研思惟考索、灼知十手之利倍于一刀甚以夥矣。雖然十手非常用之器、二刀是腰間之具、乃以二刀爲十手理其徳無違、故改十手爲二刀之家》

黒田二十四騎出身地図
* 【丹治峯均筆記】 《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族、父ハ宮本無二ト号ス。邦君如水公ノ御弟、黒田兵庫殿ノ与力也。無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟数多アリ。中ニモ青木條右衛門ハ無二免許ノ弟子也》
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