
播磨鑑 自序 《宝暦十二壬午年仲龝 播磨州鹿兒散人 平野庸脩自序之》
【文献成立年代比較】
播磨鑑明石城記事…享保4年(1719)
丹治峰均筆記…享保12年(1727)
播磨鑑庸脩自序…宝暦12年(1762)
二 天 記…安永5年(1776)
東 作 志…文化12年(1815)
宮本家系図…弘化3年(1846)

播磨鑑当時の国郡地図

播磨鑑庸脩自筆地図

明石城坤〔ひつじさる〕櫓 京都伏見城を移築という


五色塚現況 兵庫県神戸市垂水区五色山

印南郡細見図(寛延2年) 部分 平津村と米田村は隣村

播磨鑑 伊織記事

播磨鑑 印南郡
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(1)『播磨鑑』の成立時期
平野庸脩がこれを完成したのは、残存書簡によればかなりの高齢。彼の生年歿年は不明であるが、貞享年間(一六八〇年代)生れと推定しうる。それゆえ、庸脩の得たリアルタイムの情報は、他に比してかなり早い。
『播磨鑑』の記述は長期に亘る。たとえば武蔵に関説する明石城の記事では、小笠原忠政(伊織の主)の明石入部以来の年数算定を享保四年(1719)の時点で行なっている。「御入部之年より享保四年迄、凡百四年ニ成」という具合で、忠政の明石入部から享保四年まで、およそ百四年になると書くのである。つまり、この記述の「現時点」は享保四年である。また、置塩城の赤松氏退転に関連して、享保二年を現時点として年数計算したケースもある。
流布された書誌学的解題によれば、『播磨鑑』は宝暦十二年(1762)に「書かれた」という。しかしこれは、誤りである。
『播磨鑑』に異本各種があり、「宝暦十二年」とは一本の自序に明記された宝暦十二年という記載を指しているだけである。『播磨鑑』には自筆異本が複数あり、また、記事には上記のように享保年間の記述時点まである。これは享保十二年(1727)の『丹治峰均筆記』よりもむろん早い時期である。
なぜこのように記述時点がさまざまあるかと言えば、『播磨鑑』は版本(出版物)としてではなく、自筆手稿本として存在したからだ。最初の出版は明治四十二年である。異本はいくつかあり、今なお定本とすべきものはない。献上本はそのなかの一本にすぎない。
興味深いのは、現在の我々がコンピュータ画面上でカット&ペーストするのと同じように、庸脩が自身の手稿を切り張りして稿本を作製していることだ。彼は死ぬまでその推敲追加作業をやめなかった。ある意味で『播磨鑑』は永遠のドラフト(草稿)なのである。(あるいは、浅野内匠守切腹と赤穂浪士討入の記事〔元禄十五年(1702)〕と、それに感じて庸脩が述した自作漢詩も掲載するところからすれば、あるいは赤穂浪士討入の元禄年間をもって最初稿とすることさえできなくはない)
それゆえ、献上本自序の年をもって『播磨鑑』の記述時点とみなす書誌学的解題は明白な誤りである。そもそも『播磨鑑』は完成していない。それは諸郡の記述の質量になお多寡濃淡があるからである。いわば本書は断片集成と呼ぶべきテクストであり、庸脩自身も自身を「著者」としてではなく「編者」とする。つまり、「編集 平野庸脩」と題簽に記すわけである。
以上の諸点を考えれば、『播磨鑑』成立は宝暦十二年なり、とする通説は廃棄されるべきである。
(2)近世播磨情報の宝庫
では、『播磨鑑』の記述内容はどうか。それは信憑するに足りる文献なのか。
答えはこうだ――少なくとも播磨地方史に関する限り、史学は、この文献に依拠せざるをえない、これ以上の文献は存在しない、そういう十八世紀前期の基本史料としてのステイタスをもつ、と言えば足りよう。
たしかに『播磨鑑』は著者がフィールドワークして採取記録した文書であり、しかもそれのみならず著者が参照する文献は極めて多く、著者の博覧強記ぶりを示す。これはようするに、著者が長年に亘って漁渉しうるかぎりの文献を参照して本書を書いたことを意味する。
したがって『播磨鑑』にのみ書いてあって他に傍証文献はない、とするのは誤りである。『播磨鑑』はむしろ文献引用集という性格の文書で、当時存在したであろう地方史文献はおそらくすべて参照されているのである。『播磨鑑』は逸失文献断片をも含む。
それゆえこれ以上の近世史料は他にはないのであるが、ようするに『播磨鑑』には当時の知識を総覧して書いている。文献記録や伝説口碑も採集している。したがって、今日の我々は、これを近世中期の播磨における情報の宝庫とするのである。
たとえば、先ほどの明石城の記事にしても、城や町の歴史・建築史はこの書物に依拠している。一例をあげれば、明石城築城の際、どこから建設資材を持ってきたか。伏見城(京都)や三木城(兵庫県)の城を壊して建築資材とした。こうした具体的なディテールを史実とする根拠は、他ならぬこの『播磨鑑』の記事なのである。
そういう意味で、歴史学は『播磨鑑』の記事に多くを依拠している。そのような書物であるから、『播磨鑑』に武藏や伊織の記事があるとすれば、当然無視できない。しかるに、たとえこの記事に関説したとしても、その重要性を説いた論は、これまでほとんど存在しなかったのが実状である。要するに『播磨鑑』の何たるか、それを知らぬことを露呈するような論しか出なかったのである。
(3)実証性・客観性
平野庸脩は文理両道の人である。井村菊水翁なる加古川の友人が『播磨鑑』に寄せた宝暦十二年の跋文に、こうある。――《茲に平津の荘に平野庸脩と云へる人あり。年比医を学び、且天文地理に志をよせ、或は風雅を好み敷島の道をしたひ、余力の時は、故事来歴に心をはこび、頃の年より播陽名所集録を著述せむと思ひはじむる事、誠に年あり》。
庸脩が医師であり、また大島喜侍から歴算学を学び、免許も与えられた数学・天文学者だったことはすでに述べた。こういう理数系の方面は、『播磨鑑』の記述ポジションにも現われている。ようは、実証性・客観性ということである。
平野庸脩の実証性を示す例として、明石郡垂水村の廟陵(五色塚古墳 現・神戸市垂水区五色山)の計測を挙げることができる。『播磨鑑』には歴史地理書だが、考古学的記事も少なからず、出土露頭事物を絵入りで示すこともある。
五色塚古墳のケースでは、一項を立てて詳しく記しているが、この前方後円墳の大きさについて平野庸脩が記した寸法は、近代になって大正期に古墳調査した計測データよりも正確だったという話もある。おそらくそれは数学的に割り出した数値であろう。
また、庸脩の記述の客観性ということは、例に挙げたついでに五色塚の記述でいえば、これが仲哀天皇の陵だという説を記録するとともに、遊女の墓だという伝説も併記する。どうみても五色塚古墳は遊女の墓とはみえない規模の古墳であり、天皇陵と遊女の墓とは極端な落差だが、そんな両極説を記録するのが、『播磨鑑』の記述の客観的ポジションである。
言い換えれば、情報の玉石混淆を知った上での客観的な距離がある。『播磨鑑』総体はあくまでも《value-free》な資料集としてある。平野庸脩は、これが事実だ、真実だとは主張しない。彼の時代、十八世紀に、これこれの文書記録、伝説口碑があったと知れる、そのような意味で客観的なスタンスで編纂された資料集である。
武蔵研究に関連することでは、『五輪書』に「生国播磨」とある。平野庸脩は『播磨鑑』に、宮本武蔵は揖東郡宮本村の産なり、と記す。上記五色塚古墳の例のように、天皇陵と遊女の墓という両極説さえ記録するのだから、もし当時、他に武蔵産地の伝説があれば、それも記したことであろう。しかし、庸脩は他の伝説を記していない。ということは、少なくともその当時、播磨には、武蔵産地を揖東郡宮本村以外の他所とする説は存在しなかったのである。
(4)平野庸脩は米田隣村居住の学者
それに加えて、平野庸脩は播磨印南郡平津村の人である。しかも代々平津村に住んできた。明治まで残った口碑によれば、平野氏先祖は、印南郡志方城主・櫛橋氏の麾下にあったが、天正八年三木落城により、伊藤氏・由井氏とともに平津村に来て居住したという。この伊藤・由井・平野の三氏は平津村の旧家だったということである。
したがって、平野庸脩は、この平津村の生れであり、子供の頃から周辺諸村の言い伝えに接していた人である。
ところで、平野庸脩が生れ育った平津村は、武蔵養子の宮本伊織が生れたという米田村の隣村である。『播磨鑑』は、宮本伊織のことを詳述しているが、それはとくに伊織が地元出身の名士であり、情報には事欠かなかったからである。
おそらく、平野庸脩は、子供の頃からこの地元出身の名士・宮本伊織のことは聞いていただろう。庸脩が子供の頃といえば、元禄期である。『播磨鑑』に記載する伊織に関する情報は、他の記事より早く、元禄期にまで遡るものがあろうというのが、その特殊環境である。
この『播磨鑑』の伊織関連情報に関しては、他の史料では絶対得られないディテールを含んでおり、庸脩の記事はもっとも信頼すべきものである。近隣に伊織の親戚も居たし、伊織の事蹟を記憶する古老も生存していたからである。
ことにこの点、すなわち平野庸脩が米田隣村・平津村の住人たることは、これまで何びとも強調したことがなかった重要な点である。この点を看過しては、武蔵研究における『播磨鑑』の意義は見ないも同然である。
近年、武蔵がその米田村に生れたという珍説が抬頭してきたが、それらは『播磨鑑』を書いた平野庸脩が米田村隣村の住人だったことを知らないが如くである。もし武蔵が米田村に生れていたなら、隣村の住人、平野庸脩がそれを『播磨鑑』に書かずにおくわけがない。そんな初歩的な認識すら欠落しているのが、武蔵米田村出生説である。
以上の諸点は、これまで十分認識されることがなかった。『播磨風土記』を読まず『峯相記』さえ知らぬ研究者に、播磨三史書の一たる『播磨鑑』の史的意義を認識せしめることは、もとより無理な話ではあるが、武蔵研究家たる者が本書を通読したことさえないという怠慢はいかなることか。
改めて強調して言えば、平野庸脩は地元居住の学者であり、しかもこの地誌を書くのに、壮年期以来生涯を費やし、死ぬまでエンドレスに改訂作業を持続している。むろん他に著述多数、当時の播磨のことなら、彼以上に知る存在はない。しかし残念ながら著書の多くは散佚したのである。それゆえ、幸運にも現存する『播磨鑑』は、「播磨の武蔵」に関して参照すべき地元史料なのである。
にもかかわらず、武蔵研究史を回顧すれば、『播磨鑑』について誤った通説・常識が支配し、あるいはこの貴重な地元播磨の史料を無視するという状況が続いてきたのである。それゆえ、我々はこの書物を再読し厳密に読解する必要がある。
ここでは、『播磨鑑』所収の武蔵関連記事を取り上げることにする。記事は以下に掲載するもののほか、テクスト研究の過程で順次追加の予定である。
以下、原文(ただし一部漢文は読み下し)を示し、その現代語訳、および評註を付して、諸家の参考資料としたい。
(平成十五年一月十五日 播磨武蔵研究会)
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