(5)豊前小倉へ御所替にて御供し下られける時
小笠原忠政は播州明石から豊前小倉へ転封、国替えになった。これが寛永九年(1632)のことである。武蔵は四十九歳、伊織は二十一歳である。
この配置転換にともなって、小笠原家の家臣である宮本家は、明石から撤収して小倉へ移る。伊織はむろん、「父」の武蔵も、九州へ移住した。ここから伊織と武蔵の、つまり宮本家の九州時代がはじまるのである。
そして、《折節、しま原一揆烽起の節》とある。切支丹宗徒の一揆による天草島原の乱は、小倉転封の五、六年後の寛永十四、五年(1937〜38)である。
この叛乱に対し、幕府は早速上使を派遣した。最初は、百姓づれの一揆とみて、当事者である寺沢・松倉に鍋島を加えたあたりで鎮圧しようとした。ところが原城の一揆衆の抵抗が強固で、結局、近隣諸大名を総動員して、十数万の布陣となった。小笠原忠政は江戸出府中であったが、急遽帰国し、出陣は二月という後発組ながら、小笠原一門計約一万の軍勢を率いて、原城包囲に加わった。
本書の記事は、《彼戦場へ召連られ軍功有》と進む。この「彼」というのは文脈から伊織であろう。いづれにしても、武蔵と伊織は小笠原家中にあって、島原の乱の戦場へ往き、参戦したものらしい。
寛永十五年二月の原城陥落直後と推測される、武蔵の有馬直純宛の書状が残っている。それによれば、「せがれ伊織」に軍功があったようで、他方、武蔵は一揆勢の投石で負傷したという。武蔵には珍しい負傷もあったらしい。武蔵は五十五歳、伊織は二十七歳である。
筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、伊織子孫の小倉宮本家文書よりも詳しい伝説記事があって、島原役のとき武蔵も小笠原隊で出陣したが、忠政の要請で、忠政甥の小笠原信濃守(長次)に附いたという。これは、大いにありうることで、武蔵は小笠原長次を子供の頃から知っているのである。実際、小笠原家の史料では、小笠原長次の旗本に宮本武蔵の名を記した出陣記録もある(小笠原文庫)。
島原一揆鎮圧の軍功ということは、小笠原家としては重要な功績となる。『播磨鑑』では、その報償として、伊織に三千石が与えられたという。しかもこれは「無役」というから、役目のないポジションで、それだけの高禄を食んだということになる。これは播磨側の伝説である。
このあたりは事実かどうか知れない。ただし、忠政の明石入部が元和三年(1616)だから、小笠原忠政と武蔵との関係が明石時代の初期からだとすれば、かれこれ二十年になる。島原の役の軍功で伊織(つまり宮本家)に三千石ということだが、そういう長い関係からすればこの高禄もそう不自然ではないかもしれない。
《其後、宮本伊織とて家老職になさる》。老職は重役である。結局、伊織は、小倉小笠原家中で高いステイタスを獲得した。これでみると、伊織は、島原役後に三千石の知行を得ることになったのであり、家老職に就くのはさらにその後である。
以上が、播磨での言い伝えの概略である。ところで、他方、伊織子孫の小倉宮本家系図によれば、伊織は二十歳で執政職(家老)に就いたという。伊織二十一歳の時、小倉へ転封だから、その前年である。このころはまだ家老という言葉はなくて、年寄といった。まずは、若年寄になって、重役である老職のメンバーに加えられたということだろう。
しかし、伊織は二十歳で家老職、そんなことがありうるのか、というような声が昔からあった。
年齢のことを言うのではない。親が早死にして家督相続で、代々家老職の家を若年者が嗣ぐということはありうる。しかし、その場合でも、将来の家老の席は約束されていても、まず組頭あたりからスタートするのではないか。
しかし伊織は新参家臣であり、十五歳で仕官したのである。それが二十歳で老職。小笠原家なら譜代の老職家がいくつかある。伊織がいくら器量がすぐれ、しかも武蔵の養子だからといって、そんな抜擢がありうるものなのか。このあたり、不審である、というわけである。
むろん、周知の如く、井原西鶴の『男色大鑑』に明石の殿様の寵童譚があることから、推測を重層させて小笠原忠政と宮本伊織の男色関係を云々する説もある。
だが、そういう説を書く者らに言っておきたいが、当時少なくとも男色関係は珍しいものではなく、いわば「ノーマル」な関係で、後世の『葉隠』の時代まで「戀」はホモセクシャルな恋愛であった。『独行道』の「恋慕の道」がヘテロセクシュアルであるとしかみえない近代の眼では、この「恋慕の道」が衆道であることは思いもよるまい。
男色が、リベラルな現代よりもはるかに「ノーマル」なセクシュアリティでありえた、そういう時代では、主君と男色関係にあるだけでは、出世の理由にはならないのである。
さて小倉宮本家系図では、寛永九年小笠原家が豊前小倉に移って、ここで采地二千五百石とある。つまり、伊織が知行二千五百石となったのは、寛永九年あたりであって、島原役よりも以前である。
かくして、伊織は十五歳のとき出仕、二十歳で老職に就き、豊前小倉移封の結果、采地二千五百石という知行を得たということである。また同系図では、寛永十五年二月(忠眞)公に従って肥州有馬浦に出陣。そのとき侍大将で、惣軍奉行を兼ねる。筑前福岡城主・黒田忠之が、戦功の褒美に、佩刀の備前宗吉を伊織に贈与したという伝説も記す。そして帰陣の上、加増千五百石、都合四千石を領す、とある。これが宮本伊織家の知行の由来と根拠である。
他方、すでにみたように『播磨鑑』では、武蔵が明石で伊織を養子にし、その後、小倉転封にしたがって九州へ行き、そして移封の後の島原の乱のとき、戦功あって、その行賞として三千石を得て、そしてしばらく「無役」のまま仕えたが、後に、「伊織」という名を与えられ、家老職になったということになる。小倉宮本家の系図家譜では、いつから伊織が「伊織」名を称するようになったか、不明である。
これは、伊織が明石時代の二十歳で執政職(家老)になった、という小倉宮本家の系図家譜等の史料とはかなり異なる記事である。『播磨鑑』の記事によれば、まず島原役で軍功を挙げて高禄の報賞を獲得し、それを基盤として宮本家は藩内に抬頭し、伊織は家老になった、それは少なくとも島原役の後だとする。
九州から遠い播磨の伝承なので、伊織の九州時代のことは、『播磨鑑』の記事では確かではないとすべきであろう。しかし、小倉宮本家の初代伊織に関して、子孫の情報は詳しいものではないから、確かなことは言えない。『播磨鑑』の記事が小倉宮本家文書よりも一世紀早いということも、考慮しなければならないだろう。
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武蔵伊織関係地図

島原陣図屏風戦闘図

有馬直純宛武蔵書状
*【丹治峯均筆記】
《寛永十四年ヨリ翌十五年ニ至テ、肥州原ノ城ニ賊徒楯篭リ、西國ノ諸將、人数ヲ引テ嶌原ニ至、原之城ヲ責ラル。武州、其時ハ小笠原右近将監殿御頼ニテ、御同姓信濃守殿、御若輩ユヘ、後見トシテ出陣セラル。初終、鎧ハ著玉ハズ、純子ノ廣袖ノ胴著ヲ著シ、脇指ヲ二腰サシ、五尺杖ヲツキ、信州ノ馬ノ側ラニ居ラル。城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ来ル石ヲ、「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏セラレシト也》
*【小倉宮本家系図】
《貞次 宮本伊織
實ハ田原久光二男。母ハ小原上野守源信利女。慶長十七壬子十月廿一日生於播州印南郡米堕邑。寛永三丙寅於播州明石奉仕于忠眞公之御近習[于時十五歳]。寛永八辛未執政職[廿歳]。同九壬申従于(忠眞)公移于豊前小倉。於此采地二千五百石。同十五戊寅二月従于(忠眞)公肥州有馬浦出陣。于時侍大将[此時廿六歳]惣軍奉行兼。傳曰、城攻之日筑州太守黒田忠之侯、於忠眞公御陣營、貞次被召出、此度之働御褒詞之上御指料之御刀[備前宗吉]賜之。同年自肥州御皈陣之上御加恩千五百石。都合四千石ヲ領》

井原西鶴『男色大鑑』 早大図書館蔵

小倉城
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