(12)兵術の達人有り、名は岩流
この達人岩流が、いわゆる「佐々木小次郎」のモデルとなった兵法者のことであるのは、言うまでもない。そして武蔵と岩流の決闘の記事も、この小倉碑文が最初の史料なのである。
しかし、すでに述べたように、武蔵自身の『五輪書』には、吉岡の名が出てこないと同じく、岩流の名もない。それゆえ武蔵がこれほど有名な英雄にならなければ、後人は岩流のことを知らず、岩流の名とて残らなかったであろう。岩流は武蔵に敗れたことによって名を残したのである。
しかし岩流のことは、やはりよくわかっていない。岩流の名を「小次郎」とするのは、のちの肥後系伝記『武公伝』の、「巖流小次良ハ富田勢源が家人にて、天資豪宕壮健無比」云々の記事であり、またこれよりあとの『二天記』の、
《岩流小次郎と云剣客アリ。越前宇坂の庄浄教寺村のなり。天資豪宕壯健たぐひなし。同国の住・富田勢源が家人に成り、幼少より稽古を見覺え長ずるに及て勢源が打太刀を勉む》
という記事である。彼の名を「佐々木」小次郎とするのは、同じ『二天記』註記の、
《岩流は佐々木小次郎と云、此時十八歳の由なり。英雄豪傑の人なりとて武藏も是を惜みしとなり》
という部分である。しかし、両者より約半世紀前に書かれた筑前系伝記『丹治峰均筆記』では、武蔵を十九歳とし、
《巌流は流義の称号なり。津田小次郎と云ふ。長府の者なりとかや》
とあって、岩流は「津田小次郎」というのが、小次郎の名の早期史料である。また、元禄二年(1689)の『沼田家記』に、
《或年、宮本武蔵玄信、豊前へ罷越し、二刀兵法の師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕り、是も師を仕候。双方の弟子ども兵法の勝劣を申立て、武蔵小次郎、兵法之仕相仕候に相究》
とある。小次郎名の例は諸史料に出ているが、これのもとになったのは、下関周辺の地元伝説であろう。ただし、これも小倉碑文以後に発生した巌流島伝説である。小倉碑文は京都の吉岡一門について、「清十郎」「伝七郎」他の通り名を記録しているのだから、もし「小次郎」という名が当時知られていたら、それを記したであろう。
さて、筑前系武蔵伝記『丹治峰均筆記』は、小次郎を長州の産としたり、決闘を武蔵十九歳のときするなど、肥後系武蔵伝記とはかなり系統の違う異伝ヴァージョンである。それより二十年以上前の筑前の海事文書『江海風帆草』には、この決闘は武蔵十八歳のときで、相手は「上田宗入」という兵法者である。この筑前の伝説は、肥後の伝説よりもさまざまな点において古型を保っているから、巌流島決闘は武蔵十代の事蹟とみることができる。
したがって、肥後系武蔵伝記のように、これを慶長十七年、武蔵二十九歳のときの出来事とするのは、肥後で後世発生したローカルな伝説である。小倉碑文には吉岡と戦った二十一歳上洛の記事の後に、この岩流との決闘を配置するから、少なくともこれは武蔵二十代のことであろうともいえるが、碑文の記述順序は必ずしも年代順ではない。小倉碑文は「ここに兵術の達人有り」とのみして、武蔵の年齢を記載しないから、必ずしも武蔵二十代のとはなしえない。むしろ、関門海峡を臨む手向山の山頂に建碑されたこの武蔵碑のことだから、ここにわざわざ地元の武蔵事蹟として、とくに附記したのである。
他方で、肥後系伝記にあるように、もし岩流が富田勢源の家人で弟子なら、彼はすでに当時高齢である。武蔵の相手にはならない。しかし他方、『二天記』注記のごとく十八歳の小次郎という伝承もある。かほどまでに、岩流の年齢も定まらないのである。
歌舞伎や浄瑠璃の「佐々木巌流」は悪役の豪傑だが、そうでなくとも、武蔵の相手だからというのか、岩流には豪傑のイメージが早くからあったようだ。小倉碑文にもある三尺の白刃とは長い太刀である。これを抜刀するには、長大な腕臂をもちうる身長がなければならぬ。武蔵は身の丈六尺、当時では巨躯の人であったようだが、岩流はそれを上回る巨人であったということになる。「物干竿」(本朝武芸小伝)という程の大太刀を振るう岩流というのは豪傑の典型であり、この点で、富田勢源の弟子で、したがって当時高齢の老人というイメージは色褪せる。
日夏繁高の『本朝武芸小伝』には、右掲のような説話を拾っている。負けを覚悟で舟島に乗り込む岩流というパセティックな像である。これは、判官贔屓、敗者への心情的加担からする伝承であろうが、後世の暴力的悪役の岩流という演劇的イメージとは対蹠的な像として、珍重すべきエピソードである。
ここでも決闘の堅い約束という話が出てくるが、小倉碑文にある「堅く漆約を結ぶ」の、「漆約」というのもそれであろう。ただし、語釈上のことで言えば、この「漆約」が何であるか、従来不明で解いた者がいないのであるが、我々はこれを、文書に漆判〔うるしばん〕を押した当時の民俗と関係があると考えている。
漆判はもとは奈良晒などの繊維製品の検査印である。漆判ならいつまでも消えない。そこから、堅い契約の証しとして漆判を契約書に押印したので、そこから堅い契約を漆約と呼んだのではないか、というのが我々の推測である。
こうした厳密でフェアな決闘という伝承のある一方で、やはり、「汚い」武蔵という伝説もあったらしい。たとえば、天明三年(1783)の古川古松軒の『西遊雑記』にみえる赤間関の採集記事がそれである。
それよりもっと早期のものでは、元禄年間に成ったという『沼田家記』の右掲の記事がある。「延元様」というのは巌流島の決闘当時、細川藩家老で門司城代であった沼田延元、彼が残した日録を子孫が編纂したというのがこのテクストであって、むろん本人の著述ではなく、後の付会もあろう。
これは正確な写しがあまり流布していない史料なので、念のため本文を右に掲げ、その内容を逐語的な訳で以下に明らかにしておく――。
延元が門司にいたある年、宮本武蔵玄信が豊前へ来て、二刀兵法を教えていた。その頃、小次郎という者が岩流の兵法を教えていた。双方の弟子共が師の兵法の優劣を申し立て、武蔵と小次郎が試合をすることに決まり、豊前と長門の間の彦島(後に巌流島)で対決した。双方とも弟子は一人も連れてこない約束で試合をしたところ、小次郎は打ち殺されてしまった。というのも、小次郎方はかねての約束通り弟子は一人も来なかったが、武蔵側の弟子たちはやって来て、隠れていた。小次郎は武蔵に打ち倒された後、息を吹き返したが、武蔵の弟子たちが集まってきて小次郎を打ち殺してしまったのである。このことが小倉へ伝わると、小次郎の弟子たちは一味して〔徒党を組んで〕、是非とも武蔵を討ち果たそうと、大勢で舟島へ押し渡ってきた。このため武蔵は、難を避けて門司へ逃げてきて、ひたすら延元の庇護を求めたので、武蔵を城中にかくまった。それで、武蔵は助かったのである。その後、武蔵の身柄を豊後へ送ることになって、石井三之丞という馬乗りに、鉄砲の者たちを付けて、道中を警護したので、無事に豊後へ送り届け、武蔵の親無二斎という者に渡した。
――ということで、この記事は前出『武芸小伝』と一部照応するところがある。『沼田家記』によるかぎりでは、武蔵は小次郎を倒して勝ったが、彼を絶命させたのは武蔵の弟子らであり、そのため悶着が生じて、武蔵は門司城代の沼田のもとに避難せざるをえなくなり、さらに、当時細川家所領だった豊後へ身柄を護送された、という話である。
武蔵の身柄を受けとったのは、無二斎という名の人物である。これが『沼田家記』のいうように武蔵の父新免無二であったとなると、この逸話は伝説の閾を出ない。むしろ、小次郎に心情的に加担した地元長門の伝説祖形を反映しているという点で、上記の『江海風帆草』や筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』と照合しつつ読まれる必要がある。ただし、地元長門の伝説祖形では、門司城主は武蔵の応援団で、いわば敵役である。『沼田家記』の記事は肥後時代になって書かれたもので、自身が敵役になっていることを知らない、後世の伝説である。
ともあれ、この巌流島の決闘は、早期から諸伝異説の花ざかり、少なくとも長州及び北九州の地方的伝説には多様なものがあったらしい。小倉碑文の記事は、その中でも最初期のものとして、極めてシンプルな内容を記すのみである。巌流島決闘に関しては、本サイト[坐談武蔵]に詳細な検討がなされているので、それを参照されたい。
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巌流島(船島)望見 手向山山上から

佐々木巖流(岸柳) 武稽百人一首
*【本朝武芸小伝】 《中村守和曰く、巌流、宮本武蔵と仕相の事、昔日老翁の物語を聞きしは、既に其の期日に及びて、貴賎見物の爲、舟島に渡海する事夥し。巌流も船場に至て乗船す。巌流、渡守に告げて曰く、今日の渡海甚し、いかなる事か在る。渡守曰く、君知らずや、今日は巌流と云ふ兵法遣、宮本武蔵と舟島にて仕相あり、此の故に見物せむとて、未明より渡海ひきもきらずと云ふ。巌流が曰く、吾其の巌流なり。渡守驚き、さゝやいて曰く、君巌流たらば、此の船を他方につくべし、早く他州に去り給ふべし、君の術神のごとしと云ふとも、宮本が党甚だ多し、決して命を保つこと能はじ、と。巌流曰く、汝が云ふ如く、今日の仕相、吾生きむことを欲せず、然りと雖、堅く仕相の事を約し、縦ひ死すとも約を違ふる事は勇士のせざる處なり、吾必ず船島に死すべし、汝わが魂を祭りて水をそゝぐべし。賎夫と雖其の志を感ずとて、懐中より鼻紙袋を取出して渡守に与ふ。渡守涙を流して其の豪勇を感ず。既にして舟、船島につく。巌流、舟より飛下り武蔵を待つ。武蔵も又爰に来りて、終に刺撃に及ぶ。巌流精力を励まし、電光の如く稲妻の如く術をふるふと雖、不幸にして命を舟島にとゞむとなり》
*【西遊雑記】
《赤間ヶ関にて土人の云ひ傳へを聞しに、板本に記せしとは大に異なり。岩龍、武蔵の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時、浦のものとも岩龍をとゝめ、武蔵の助門人を数多引具し先達て渡れり。大勢に手なしといふ事有り、一人にて叶ふまじ、今日はひらに御無用なりといふ。岩龍が曰、士は言さはまず、かたく約せしなれば、今日渡らさるは士の耻るところ也、若し大せいにて我を討は耻辱はかれにぞあるべけれといふておして島に渡る、はたして門人の士四人與力して終に岩龍討る、初止めし浦人岩龍が義心にかんし墳墓を築しよりかくは稱することゝなれり、虚實は知らざれども土人の物語のまゝを記して後の考へとす、或人また宮本の子孫小倉の家中に在り、武蔵の介墓もありて、岩龍島に相對せりと云》
*【沼田家記】 《延元様、門司に被成御座候時、或年、宮本武藏玄信、豊前江罷越、二刀兵法の師を仕候。其比、小次郎と申者、岩流の兵法を仕ひ、是も師を仕候。双方の弟子共、兵法の勝劣を申立、武藏・小次郎、兵法之仕相を仕候ニ相究、豊前と長門之間ひく島に出合(後に巌流島と云ふ)、双方共ニ弟子壱人も不参筈ニ相定、試合を仕候處、小次郎被打殺候。小次郎方ハ、如兼約、弟子壱人も参ず候。武藏方は弟子共數人参、隠居申候。其後、小次郎蘇生致候得共、彼弟子共参合、後ニも打殺申候。此段小倉江相聞へ、小次郎弟子共、致一味、是非とも武藏を打棄と、大勢彼島へ参申候。依之、武藏難遁門司江遁、延元様を偏ニ奉頼候ニ付、御請合被成、則城中ニ被召置候ニ付、武藏、無恙運を開申候。其後、武藏を豊後へ被送遣候。石井三之丞申馬乗ニ鉄砲之共ども御附被成、道を敬護致し無別条豊後へ送届、武蔵親無二斎と申者ニ相渡申候由に御座候事》

巌流島から門司城
[坐談武蔵] 伝説としての巌流島決闘
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