宮本武蔵 資料篇
関連史料・文献テクストと解題・評注

Home Page

 Q&A   史実にあらず   出生地論争   美作説に根拠なし   播磨説 1 米田村   播磨説 2 宮本村 

[資 料] 小  倉  碑  文 Go back to:  資料篇目次 

 九州小倉に、武蔵研究にとって重要な史料が存在する。それは、小倉城からおよそ五km東の、小倉と門司の境にある手向山(北九州市小倉北区赤坂)にある、宮本武蔵顕彰碑、巷間云うところの「小倉碑文」である。もっとも、「播юヤ松末流新免武藏玄信二天居士碑」と碑文にあるから、それが本来のタイトルだということにはなるが。
 この碑は高さ十五尺(四・五m)ほどの、かなり大きなものである。そして公園内に建っているから、誰でも(無料で)見ることのできる現存武蔵史料である。この点で、秘蔵されることの多い他の武蔵史料にはない特徴がある。まさに、もっとも重要な最古の武蔵伝記史料が、このようなかたちで現存することに、我々はもっと驚かねばならないはずだ。
 碑文自身の告知から知れるところであるが、この碑は、武蔵卒後九年の承応三年(1654)、つまり武蔵十回忌に、武蔵の養子・宮本伊織が建てたものである。伊織は小倉藩小笠原家の筆頭家老であり、領内のこの山を拝領していたから、ここに武蔵のためのモニュメントを建立したのである。
 武蔵が死んだのは、同じ九州の熊本に滞在中のことで、客死であった。最初は肥後に武蔵の墓が設けられたらしい。それに対してこちら小倉の武蔵碑は、武蔵のもう一つの墓であるということになる。肥州側からすればご当地のが正統の墓であり、小倉のは「権墓」、つまり本墓ではなく仮の墓、第二の墓である。しかしそれは肥後側の主張であって、伊織は肥後の墓を豊前小倉へ移転して、この武蔵墓を建立したのである。
 それに肥後系伝説の『武公伝』には、《寛永十七年[庚辰]之春、武公忠利公ノ召ニ應ジテ肥後ニ來[五十七歳]。其時小倉城外山上ニ壽藏ヲ営ミ、蹤ヲ遺シテ肥後ニ赴ク》とあり、また『二天記』もこれをうけて同様の記事を書いている。ようするに、武蔵は寛永十七年(1640)肥後へ行く前に、小倉のある山の上に、自分の「寿蔵」を建てた。寿蔵とは生前に建てておく自分の墓をいうから、武蔵はそのようにずいぶん用意のよいことをしていたというわけである。
 もちろんこれは肥後で後世発生した伝説にすぎない。承応三年に宮本伊織が武蔵碑をここに建立する以前に、武蔵は寛永十七年にすでに自身の寿蔵をここに造っていたというするのだが、後の行為を事前に反復させる説話論的操作がここに見られる。
 武蔵生前に小倉に寿蔵を設けていたということは、実際にはなきにしもあらずで、無下に否定はできないが、それを肥後行きと関係づけて、武蔵は小倉を去るにあたり、寿蔵を造営し、遺跡をのこして肥後へ赴いた、とするのは、まさに話が出来すぎているのである。
 それに、生前墓たる寿蔵が小倉にすでにあったのなら、細川家が肥後に武蔵の墓所を用意するようなこともなかったであろう。武蔵の遺骸を小倉の墓へ運んで埋葬するのが当然だからだ。したがって、武蔵が死んだとき、生前墓などどこにもなかった、としなければならない。
 そのような肥後の伝説はさし措いて、それでも、伊織がここに武蔵のモニュメントを建立するについては、これは何か特別な場所でなければならない、という話の成り行きにはなる。



宮本武蔵碑
北九州市小倉北区赤坂




肥後の「武蔵塚」
熊本市龍田町弓削


手向山公園案内図
 要点は以下のことである。すなわち、手向山は城外約1里の「境界」に位置し、しかも山が海に迫り要路を扼する地点にある。また方角は東北東で「鬼門」とはいえないものの、地形上それに相当する方位である。つまり、城市守護の要点が手向山なのである。これは肥後伝承の弓削村武蔵塚のポジションと照応するのは明らかである。
 宮本伊織がこの山に武蔵碑を建てたについては、そういう特別な意味があったと思われる。またもし武蔵が寿蔵を造ったとなると、小笠原忠政(忠真)の許諾を得たのはもちろん、むしろ境界にあって城市守護たる要所こそ武蔵墓地として与えられたものであろう。山頂にこの武蔵碑が建ってみると、さながらこの山全体が武蔵の墳墓という姿となり、後に武蔵山とも呼ばれたのである。
 小倉の碑が建った後、早期の文献では、正徳年間に成った日夏繁高の『本朝武芸小伝』に、この碑文を引用しているが、そこにはたしか武蔵墓誌とあって、これが武蔵の墓碑だという認識が、正徳の当時あったという証左である。
 この顕彰碑は、それゆえ単なる記念碑ではなく、武蔵の墓である。この石碑の下には武蔵の骨と鏡が埋まっているという話もある。しかし、この碑の運命も転変して、明治二十年には砲台建設のために、撤去されて他の場所に移された。それがようやく元の場所に帰ったのは、昭和三十八年のことである。
 現在は市の公園として整備されて「手向山公園」という。場所は小倉と門司の中間、国道三号線の「手向山公園入口」か、あるいはトンネル東の「手向山公園東」という交差点から山上へアクセスできる。山上には砲台跡があって、関門海峡に臨む。
 ここには、さる文士が建てた「佐々木小次郎」の碑といういかがわしい施設もある。ただし、巌流島(の一部)が見えるからといって、そのためにこの手向山に武蔵碑を建てたというのは今日の俗説である。そうではなく、この手向山が小倉城からすると特別な方角にある場所だからこそ、武蔵碑が存在するのである。
 伊織はこの武蔵碑を、承応三年(1654)、つまり武蔵卒後九年の十回忌を記念して建立した。石碑の様式のことをいえば、肥後の武蔵塚石塔は仏教式だが、この小倉の石碑はそうではない。おそらくは仏教的な個人墓を避ける、明らかに儒教的な祭祀の振舞いである。あるいは、武蔵その人は、「おれには墓なんぞいらん」という人だったと思われる。とすれば、この石碑はその頂部に大書された「天仰實相圓満兵法逝去不絶」なる文字のために建てられたのであり、その限りにおいて、伊織は武蔵の遺志と思想を十分に斟酌したのである。
 伊織は小倉に武蔵碑を建立する以前、慶安三年と四年の二回、肥後へ行っている。それは異例のことであるが、嫡嗣子幼少のため細川家存亡の危機に際し、親戚大名の小倉城主・小笠原忠真(忠政)がその後見人となってこれを助けた、その一連の支援活動に関連するものである。
 そのとき伊織も肥後へ同行したのだが、息子として亡父の墓参をしないはずもなく、肥後の武蔵墓に参ってそれを見た。そうして、おそらく肥後の武蔵墓にはあれこれ難点があって、これはいかんと思ったのであろう。結局それから間もなく、伊織は武蔵十年忌を機会に、武蔵の石塔を小倉に新設した。こんどは、如上のごとく武蔵の遺志と思想に相応する形態のモニュメントを造営したのである。





手向山の位置




熊本周辺の武蔵遺跡
 さても、武蔵研究において小倉碑文の意義は大きい。上述のように伊織は承応三年にこれを設置したが、その前年には、自身の故郷である播州加古川の泊神社、米田村の天神社の二社を、再建する願主になってこれを実現している。そのことは、本サイト[資料篇]の泊神社棟札のページに詳述されている。
 この時期の伊織の活動が、現代の我々に重要な史料を残したのである。武蔵史料としては、その泊神社棟札と並んで、この小倉碑文はまさに最初期の記録である。武蔵没後九年の史料である。その意味で、現存武蔵史料としては最も重要なものの一つである。
 それゆえにこそ興味深いのは、これが露出度の最も大きい資料であったにもかかわらず、文献に引用された文に誤写の多かったことである。前出の日夏繁高『本朝武芸小伝』は比較的正確だが、『二天記』以来誤写が目立つようになってしまい、戦後の地元郷土史家や教育委員会のテクストですら、このわずか千文字強の文章に対し正確ではなかったのである。それがようやく、正確を期しうるようになったのは、我々の武蔵研究プロジェクトを通じてのことであり、ごく最近のことにすぎない。





手向山宮本武蔵顕彰碑(小倉碑文)
Web上表記制約のため、一部文字に「事」「汝」など借字使用
 なお、この碑文の撰者そのものは不明である。これを建立したのは「孝子」とあって、すなわち武蔵の養子・宮本伊織以外に余人はいないが、それに対し、誰がこの碑文を撰したか、記されていない。しかるに、熊本の春山和尚の撰文だという肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』等の説がある。だが、これは肥後の伝説であって、慥かな証拠があるわけではない。巷間、いまだに春山撰述説を流している書物があるが、それは根拠なき憶説である。この点につき、とくに注意しておきたい。
 この碑文には撰者名は記されていないから、この碑文の撰者は不明、ということにしておくべきである。しかし、さらに踏み込んでいえば、特に撰者名が記されていないのだから、これは建立者である「孝子」伊織の文責とすべき文章なのである。伊織が依頼しただれか別人の撰文なら、通例はその撰者がたとえば「○○誌之」と記す。それが記されていない以上、特定の撰文者を探索してもそれは無駄なことである。
 この碑文研究の宿題はまだ残っている。それは、漢文原文の読下しに正確なものが未だ出現していないこと、それゆえ十分信頼しうる現代語訳も存在していないことである。それゆえ我々の作業は、まさしくその不足点に向けられたのである。
 以下は、碑文全文の読下し文と、現代語訳、及び註解を付して、我々の武蔵研究資料として公表されるものである。




小倉碑文拓本

  【読み下し】

兵法天下無雙

 播юヤ松末流新免武藏玄信二天居士碑(1)
 正保二乙酉暦五月十九日、肥後國熊本に卒す
 時に、承應三甲午年四月十九日、孝子、敬して焉を建つ(2)

[頭冠部遺偈]
天仰 實相 圓満 兵法 逝去 不絶
 (天は仰ぐに、實相圓満の兵法、逝去して絶へず)(3)

[以下本文]

 機に臨み變に應ずは良將の達道なり。武を講じ兵を習ふは、軍旅の用事なり。心を文武の門に游ばせ、手を兵術の場に舞はせて、名誉を逞しうする人は、其れ誰そ。播рフ英産、赤松の末葉、新免の後裔、武藏玄信、二天と号す。想ふに夫れ、天資曠達にして細行に拘らざるは、蓋し斯れ其人か。(4)


 二刀兵法の元祖と爲る也。父・新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼〔あらたか〕に知れり、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきと 。然りと雖も、十手は常用の器に非ず、二刀は是、腰間の具なり。乃ち二刀を以て十手の理と為すも、其の徳違ふこと無し。故に、十手を改めて二刀の家と爲す。(5)
 
 誠に武劔の精選なり。或は眞劔を飛ばし、或は木戟を投じ、北〔にぐ〕る者走る者、逃避する能はず。其の勢、恰も強弩を發するが如く、百發百中、養由も斯れに踰ゆる無きなり。(6)


 夫れ惟ふに、兵術を手に得、勇功を身に彰はす。方に年十三にして始めて、播юV當流有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決するに到り、忽ち勝利を得たり。十六歳春、但馬國に到る。大力量の兵術人、名、秋山なる者有り。又、勝負を決し、反掌の間に其の人を打ち殺す。芳声街に満つ。(7)
 
 後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ。彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ。(8)

 而後、吉岡傳七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す。(9)


 吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外、下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法なり。(10)
 
 是より先、吉岡代々、公方の師範爲り。扶桑第一兵術者の号有り。霊陽院義昭公の時に當り、新免無二を召し、吉岡と兵術の勝負を決せしむ。限るに三度を以てし、吉岡、一度利を得、新免、兩度勝ちを決す。是に於いて新免無二に、日下無双兵法術者の号を賜はらしむ。故に、武藏、洛陽に到り、吉岡と數度の勝負を決し、遂に吉岡兵法の家泯絶せり。(11)


 爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。(12)
 
 凡そ、十三より壯年迄、兵術の勝負六十余場、一として勝たざる無し。且つ定て云く、敵の眉八字の間を打たずば勝を取らずと。毎〔つね〕に其の的を違はず。古より兵術の雌雄を決する人、其の数を算ふるに幾千万なるや知らず。然りと雖も、夷洛に於て英雄豪傑の前に向かひ、人を打ち殺す、今古其の名を知らず。武藏一人に属するのみ。兵術の威名、四夷に遍く、其の誉れや絶えず、古老の口の今人の肝に銘じる所、誠に奇なるかな、妙なるかな。力量の早雄、尤も他に異れり。(13)


 武藏、常に言へり、兵術、手に熟し心に得て、一毫も私無ければ、則ち恐らくは、戦場に於て大軍を領し、又、國を治ること、豈に難からんや。豊臣太閤公の嬖臣・石田治部少輔謀叛の時、或は攝州大坂に於て秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名、縦ひ海の口、渓の舌有るとも、寧んぞ説き盡くさんや。簡略して之を記さず。(14)

 旃に加ふるに〔しかのみならず〕、禮樂射御書数文に通ぜざる無し。况や小藝巧業、殆ど為す無くして為さざる者無きか。蓋し大丈夫の一躰なり。(15)


 肥之後рノ於て卒す。時に自ら、「天仰實相圓満之兵法逝去不絶」の字を書し、以て言へり、焉を遺像と爲せと。故に孝子碑を立て、以て不朽に傳へ、後人をして見せしむ。嗚呼、偉なるかな。(16)
  【現代語訳】

兵法天下無双

 播州の赤松末流、新免武蔵玄信、二天居士の碑

 正保二年(1645)五月十九日、肥後の国熊本に卒す
 時に承応三年(1654)四月十九日、孝子(宮本伊織)
 敬して、これを建てる


[頭冠部遺偈]
天は仰ぐに、実相円満、完全な兵法は、時が過ぎ去っても絶えない、永遠である


[以下本文]

 機に臨み変に応じる(臨機応変)は、良き将の道に通達したることである。戦闘を工夫し武器に習熟するのは、軍隊兵士のなすべき事である。心を文武の両門に游ばせ、手を兵術の場に踊らせて、名も誉れも盛んな勢いである人、それは誰か。播州生れの優れた人物、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信である。彼は二天と号した。想うに、生れつき心が広く、こまかい物事にこだわらない大らかさをもっていたのは、まさにその人か。

 彼は二刀兵法の元祖となった。父・新免は無二と号し、十手の家をなした。武蔵はその家業を受け、朝な夕な研鑚し考え抜いた結果、彼が明白に知ったのは、十手の有利性は一刀のそれに倍すること、それも、はなはだ大きな差があるということである。そうだとはいえ、十手は常用の武器ではない。これに対し二本の刀は、腰廻りの常備の道具である。とすれば、二刀をもって十手の真理とするとしても、その長所に違背することはない。ゆえに、十手の家を改めて、二刀の家としたのである。

 武蔵はまことに武剣の精選たる存在である。真剣を飛ばし、あるいは木剣を投げて、逃げる者も走る者も、これから逃げ避けることはできない。其の勢いは、まるで強力な弩〔いしゆみ〕を発射するが如くで、百発百中、(春秋時代楚の弓の名人)養由〔ようゆう〕もこれに超えることはないほどである。

 思うに武蔵は、兵術を手中に獲得し勇功を体現したのである。まさに年十三のときが最初で、播州新当流の有馬喜兵衛なる者と進んで雌雄を決するに到り、たちまち勝利を得たのである。十六歳の春、但馬国に行く。大力量の兵術人、秋山という名の者があった。そこでまた、勝負を決し、掌を反すほどの間に、その人を打ち殺した。ために武蔵の名声が街に満ちるようになった。

 その後、武蔵は京都へ行った。扶桑第一の兵術(といわれる)吉岡なる者があった。武蔵は決闘を申し入れた。彼の吉岡家の嗣子・清十郎が、洛外の蓮台野で龍虎の威を争った。勝敗を決すというが、武蔵の木剣の一撃に触れて、吉岡は武蔵の眼前に倒れ伏して絶息した。一撃だけという約束があらかじめあったので、武蔵は清十郎の命まではとらなかった。彼の門生等が清十郎を助けて、板の上に載せて去り、彼は薬治温湯など治療を受け漸くにして回復した。そして遂に兵術を棄て、剃髪出家してしまった。

 しかる後、吉岡伝七郎が、また洛外に出て、武蔵と決闘することになった。伝七(郎)は、五尺余りの長い木剣を脇に持ってやって来た。武藏は、好機をとらえていきなり彼の木剣を奪い、これを撃った。伝七郎は倒れて地に伏し、即死であった。

 吉岡の門生たちは怨恨を抱き、密に語り合って云った、「兵術の腕では、とてもかなわない。作戦を練ろう」と。そうして、吉岡又七郎が、兵術に事寄せ、洛外の下松〔さがりまつ〕あたりに彼の門生数百人を集め、武器弓矢をもって一気に武蔵を殺そうと考えた。武蔵は常日頃、先を知る才能があり、この不正な策動を察知し、ひそかに自分の門生に云った、「おまえたちは関係ない人間だ。速やかにここを退け。たとえ、かの怨敵が群を成し隊を成すとしても、おれから見れば、浮雲みたいなものだ。どうして恐れることがあろうか」と。武蔵が多数の敵を蹴散らすのは、猟犬が猛獣を追いたてるのに似ていた。武蔵が威勢を誇示して洛中に帰ると、京都中の人が皆これを感嘆した。勇ましい勢い、優れた謀りごと、一人で万人に敵する者、これはまことに戦闘者として絶妙のことである。

 これより以前のことだが、吉岡は代々、公方〔足利将軍〕の師範であり、「扶桑第一兵術者」の称号があった。霊陽院〔足利〕義昭公の時のこと、(武蔵の父)新免無二を召し出し、吉岡と兵術の勝負を決すことを命じた。勝負は三度を限りにして、吉岡が一度勝利を得、新免は二度勝ちを決めた。このため、新免無二に「日下無双兵法術者」の号を授与させたのである。(そういうことがあった)ゆえに、(その子)武蔵は京都にやって来て、吉岡と数度の勝負を決し、その結果、遂に吉岡兵法の家は絶滅してしまったのである。

 ここに兵術の達人があった。名は岩流。武蔵は彼と決闘することを求めた。岩流が云った、「真剣で雌雄を決しようではないか」と。武蔵は答えて、「そなたは白刃〔真剣〕を揮って、その妙を尽くせ、おれは木剣を提げてこの秘を見せよう」と。両人は堅く漆判の契約を結んだ。長門国と豊前国の境界の海中に島があった。「舟嶋」という。両雄はここに同時に相会した。岩流は、三尺の白刄を手にやって来て、命を顧みず術を尽くした。しかし、武蔵は木剣の一撃で彼を殺した。その早いこと、電光さえも遅いほどであった。(岩流がこの島で倒された)ゆえに、人々は「舟嶋」を改めて「岩流嶋」と呼ぶようになった。

 およそ武蔵は、十三の歳から壮年まで、兵術の勝負を六十回以上して、一度として勝たざることはなかった。そして決まって云うのだった、「敵の眉、八字の間を打たなければ、勝ちを取らず」と。毎度、つねにその的を打ち違わなかったのである。昔より兵術の雌雄を決する人、その数を算えれば幾千幾万か知れない。とはいえ、都であれ地方であれ、英雄豪傑と真っ向から勝負して、人を打ち殺す、今の時代も昔もそんな人の名を聞いたことがない。それは武蔵一人に属するのみである。武蔵の兵術の威名は全国各地に遍く、その誉れたるや絶えず、古老の口伝の今人の肝に銘じるところである。まことに例のないすばらしいでことではないか。彼の力量の早熟してすぐれたところ、まさにこれが他と異なるのである。

 武蔵は常に言っていた、兵術を手に熟し心に得て、すこしも私心が無ければ、恐らくは、戦場に於て大軍を領し、また国を治ることは、決して難しいことではなかろう、と。豊臣太閤公〔秀吉〕のお気に入りだった石田治部少輔〔三成〕が謀叛した(関ヶ原合戦)の時、あるいは摂州大坂において秀頼公兵乱(大坂の陣)の時、その時の武蔵の勇功と佳名、これはたとえ海の口、渓の舌があっても、説き尽くせるものではない。ここでは省略して記さないことにする。

 それだけではなく、武蔵は、礼(礼法)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(書道)・数(算術)・文(詩文)に通ぜざるものはなかった。いわんや、ささいな芸、巧みな業、ほとんど無為にして為さざるものがなかった。たしかに、彼はすぐれた立派な人物の見本であった。

 (武蔵は)肥後国において死んだ。その時、自ら「天仰実相円満之兵法逝去不絶」という字を書いて、言った。これを遺像とせよと。ゆえに、孝子(私=伊織)は碑を立て、それによって不朽に伝え、後人に見せるのである。おお、何と偉大な人であったことか。


 
  【評 釈】

 (1)兵法天下無雙 播юヤ松末流新免武藏玄信二天居士碑
 碑文のタイトル部分である。本文の右方に誌す。
 「兵法天下無雙」は武蔵のタイトル(称号)である。天下に二人といないというのだから、これは、そうザラには使えなかったものらしい。当代随一と世間が認めるのでなければならない。でなければ、お笑いである。
 この碑は、宮本武蔵顕彰碑、頌徳碑と、俗に謂うところだが、それは勝手にそう呼んでいるまでのことで、碑文にあるように、
   「(播юヤ松末流)新免武藏玄信二天居士碑」
と呼ぶのが正しかろう。武蔵が死んだのは、正保二年(1645)五月十九日、これが建ったのは、承応三年(1654)四月十九日と正確な日付がある。その間、九年である。これを建てた「孝子」とは、宮本伊織である。
 ここにいう「二天居士」という記事から、武蔵が晩年使用した「二天」という号が居士号だと知れる。のちに十八世紀の武蔵諸伝記には、武蔵の法号が「二天道楽」だという説が登場するが、少なくとも小倉碑文の段階では、「二天」であって、「二天道楽」とは記されていないことに注意すべきである。
 さて、我々は武蔵を「宮本武蔵」と呼んでいる。ところが、ここにあるように、武蔵は「宮本武蔵」ではなく、フォーマルには「新免武蔵玄信」である。「宮本武蔵」はインフォーマルな通称である。
 この新免氏と宮本氏の呼称関係については、本サイトの別のページの諸論攷で論じられているので、それを参照されたい。ただし、以下のことは付け加えておくべきであろう。
 この小倉の武蔵碑建立の前年に再建なった、播州印南郡の泊神社(現・兵庫県加古川市木村)の棟札では、作州の顕氏・神免(新免)氏から、後に武蔵が宮本と氏を改めたと、伊織は記している。
 そのように改めたとすれば、この碑文でも「宮本武蔵」でよさそうなものだが、そうはならない。つまり、「宮本」はあくまでも通称・俗称なのである。肥後の武蔵の墓 とされている「東の武蔵塚」(熊本市龍田弓削)は、墓というよりも記念碑なのだが、そこにも「新免武蔵居士」の名がみえる。ようするに、フォーマルな「氏」(うじ)の名のりが必要だとすれば、「宮本」ではなく「新免」がそれだということになろう。
 周知の如く、そもそも『五輪書』には、
   《生国播磨の武士、新免武藏守藤原玄信》
とあって、これにも「宮本武蔵」の名のりはない。むしろ、藤原姓を称している。これは作州新免氏は始祖を藤原北家の徳大寺実孝することによる。「藤原玄信」という名のりは、武蔵自身がフォーマルな氏はあくまでも「新免」であると示しているのである。
 したがって、この碑文に、《播юヤ松末流、新免武藏玄信》とあるのを、「赤松末流の新免氏」だと記していると見るのは、明白な誤りである。事実は、新免氏は赤松氏とは系統が異なる。四姓分類で言えば、新免氏は藤原姓、赤松氏は村上源氏である。それゆえ、この「播юヤ松末流、新免武藏玄信」という記述は、新免氏のことではなく、武蔵個人を指している。新免武蔵玄信は、播州赤松末流だということであり、武蔵の出自が赤松末流の家だという以上のことではない。ゆえに、ここには、新免氏は赤松末流、赤松系統だ、とは書いてはいない。この点、誤解なきように注意すべきである。
 これとともに、もう一点、『五輪書』では武蔵の名のりが「新免武蔵守」だということがある。
 この「新免○○守」の事例は、則重・宗貫の新免伊賀守はいうまでもなく、新免同族だが家臣に新免備中守貞弘や新免備後守家貞の名がある。竹山城侍帳(小守家文書)には、家老・本位田駿河守、二家老・本位田外記之助、三家老・新免伊予守、後見・新免備中守とあり、また、『東作誌』が採取した新免家侍張にも同様の名がある。
 作州新免氏は領地五千石程度で、直属武士団が五、六十名という所帯の小領主、しかるに、その家老たちにこのように「○○守」が何人もいる。これが朝廷授与の正式官職だったと見る愚者はいまい。国人レベルの領主の家臣であって「○○守」と称する者は、当時日本全国にはそれこそ無数に存在したであろう。ようするにこれは、中世的な武家慣習なのである。
 この擬似官位は、近世に到っても職人に多い慣習で、大工や刀工には「○○守」を称する者は少なくない。ちなみに言えば、子どもの頃、「肥後守」という折り畳み式の小刀を使っていた人は、多かろう。この肥後守もかつてのブランドの名残である。
 したがって、武蔵がこの「武蔵守」を使用したとすれば、それはこの職名慣習によるもので、武蔵存命中はまだ使用の慣例があったものと思われるが、さてこの武蔵碑になると、「武蔵守」の官位呼称が抹消され、名は単に「武蔵」である。
 面白いのは、泊神社棟札の記事で、そこには何と「武蔵掾」とある。「守」から「掾」への2等級格下げがしてあるのだが、これは死者に「掾」という位を贈る慣習ともみえるが、このケースでは養子・宮本伊織による謙退表現であろう。小倉碑文もまた、身内の「孝子」伊織によるものだから、「武蔵守」を謙退して「武蔵」と呼んでいる。
 つまり、小倉碑文の「武蔵」は、孝子=伊織が父を呼ぶ身内の呼称である。武蔵の死の前後、伊織が熊本の家老重臣らと書状交信しているが、たとえば相手の長岡寄之は武蔵のことを「武州」と呼び、伊織は武蔵を「武蔵」と呼ぶ。「武州」というのは尊称で、兵法者武蔵のフォーマルな名跡「武蔵守」への配慮があるからであり、これに対し、伊織は身内の父親のことだから、謙退して「武蔵」と呼ぶ。そういう呼称の相違は呑み込んでおいた方がよい。
 これに対し、武蔵伝記では、筑前系の『丹治峯均筆記』は「武州」と呼び、また肥後系の『武公伝』は「武公」と呼ぶ。「武蔵」とは呼ばないのは、武蔵流兵法元祖への尊敬表示である。しかるに、肥後系の新世代の伝記『二天記』になると、もう呼称は今日の我々と同じ「武蔵」である。
 ただし、『二天記』のばあい、自流兵法元祖への尊敬がないのではなく、むしろこの書物が、流派内秘書としてではなく、公衆向けに書かれたからである。十八世紀後期の『二天記』の当時になると、すでに演劇や読本で「宮本武蔵」の名が流布していた。そういう通俗武蔵像に対抗して、武蔵の実像はこうだ、と示すために書かれたものの、そういう巷間定着した「武蔵」という呼称を後追いしてしまう。かくして、ある意味で、『二天記』はもう一つの実録物武蔵小説になってしまったのである。  Go Back

 
 (2)正保二乙酉暦五月十九日、肥後國熊本に卒す
 これは武蔵の死去年月日を記すから墓誌部分である。本文中に入れず、このように右下にこれを配置するのは、異例のことながら、この武蔵記念碑がやはり墓碑でもあることを示す。
 武蔵は、正保二年(1645)五月十九日、肥後国熊本で死去した。この武蔵死亡記事は、今のところ最初の史料である。筑前系の『丹治峯均筆記』、肥後系の『武公伝』など武蔵諸伝記は、いづれもこれに依拠している。
 この碑を建てたのは、承応三年(1654)四月十九日、武蔵死後九年、この年月日をみるに、ようするに十回忌法要に際してこれを建立したものらしいと知れる。しかるに、従来の武蔵研究では、小倉碑文は武蔵死後九年建立とばかり記して、これが十回忌のモニュメントだという認識を示した者がなかった。杜撰と謂うべし。
 さて、「孝子敬建焉」(孝子、敬してこれを建てる)とあるのは、この武蔵碑設置の施主自身の文言である。つまりは、武蔵の養子・宮本伊織の文言である。
 ただし、「孝子」というのは、世間に勘違いする向きもなきにしもあらずだが、自分は親孝行な子だと主張しているのではない。また、他人が、親孝行な子がこれを建てた、と書いたのではない。つまりは、亡き親の墓を建てる子が、自分のことを称するとき、「孝子」と記す習俗慣行があった。ここでは、「孝子」とは親に先立たれ親を亡くした子の意である。
 たとえば、宮本伊織が実家田原家の兄弟とともに、実父母の墓を播州三木に建てているが、その墓碑にはやはり、「孝子」と記し、その下にそれぞれの名を記している。つまり、
   (右側) 《孝子 田原吉久 田原久次》
   (左側) 《孝子 宮本氏貞次 小原玄昌》
 ここに「宮本氏貞次」とあるのは、宮本家の養子になった貞次、つまり伊織のことである。またちなみに、田原吉久は長兄で大山茂左衛門、田原久次は末弟の田原庄左衛門正久、小原玄昌は母の実家小原氏を嗣いだ次弟・貞隆である。
 これに関説していえば、この小倉碑文の末尾に、《故孝子立碑、以傳于不朽、令後人見。嗚呼偉哉》とあるところの「孝子」は、伊織が自分のことを称しているのであって、これは「ゆえに私はこの碑を立て…」の意味である。
 この小倉の武蔵碑建碑に先立つ前年に、伊織は播州の故郷の泊神社社殿再建事業の施主になって、その泊神社の棟札の表白文を記しているが、そこでは「余」という一人称で書いている。ところが、こちらの小倉碑文の方は、「孝子」という別の形式の一人称なのである。一人称が「余」ではなく「孝子」であるのは、小倉の武蔵碑が亡父(武蔵)の墓碑であることを意味する。
 したがって、伊織の「孝子」という語の使用から以下のことが知れる。すなわち、
(1) この武蔵碑は通常の記念碑・頌徳碑ではなく、武蔵の墓碑という性格をもつ施設だったこと。
(2) とくに本文末尾の「故孝子立碑」という文言に注目すれば、この「孝子」は一人称であり、それゆえ小倉碑文は形式上は伊織自撰文とみなすべきこと。
(3) したがって、小倉碑文について、(かりに代筆者・推敲者の存在があったとしても)伊織以外の撰者を想定するのは、誤りであること。
 かくして、改めていえば、小倉の武蔵碑に、伊織が「孝子」と記している以上、この巨大な石碑は、たんなる武蔵記念碑ではなく、武蔵の墓碑なのである。ところが、墓碑にしては異例のデザインであるし、墓らしくない石碑である。つまりは、そのように墓らしくない墓を建てた伊織は、たぶん常々武蔵から、「おれには墓などいらん」と言われてきた人のようで、ある種の妥協の産物として、こうしたユニークなデザインのモニュメントになったと解することができる。
 なお、付け加えておけば、問題は、この墓誌に「法名」と呼べる形式のものが記されていないことである。伊織が兄弟とともに播磨と京都に建てた実父母田原氏の墓には、「正法院道圓日受」「理應院妙感日正」と法華宗の法名がある。ところが、この墓誌にあるのは、
   新免武藏玄信二天居士碑
とあって、院号もない形式である。伊織は小倉小笠原家の家老であり、その宮本家の「父」なら、「○○院」と院号くらい付けてしかるべきであるし、それだけではなく、武蔵は世に知られた有名人である、そういう人物にしては、当時の習慣からして院号もないというのは不可思議なことである。
 このことからして、おそらく、武蔵には特別な思想があって、「おれには墓などいらん」と云って、法名も忌避したようである。そのため、伊織は「二天居士」と居士号の体裁で記すことによって、かろうじて法名に近いかたちを整えたにすぎない。
 そのため、後世に至って、誤解があって、武蔵の法名を「玄信二天」としたり、あるいは、どこから拾ってきたものやら「道楽」という文字を付けて、「二天道楽」などと記すものが現れたのである。
 それも、墓碑たるこの武蔵碑に、「法名」と呼べる形式のものが記されていないことに淵源する。しかし、それは伊織のせいというよりも、武蔵(の思想)に帰すべき事態である。言い換えれば、武蔵にはある特別な思想があって、墓も法名も忌避した。そのような世間の枠に収まらぬ「父」の思想との妥協の産物が、この小倉武蔵碑である。伊織にとって武蔵は、ある意味で、死後も手間のかかる「父」だったのである。  Go Back









泊神社棟札

*【泊神社棟札】
作州の顕氏に神免(新免)なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを武蔵掾玄信と曰す、後に宮本と氏を改む




武蔵塚墓碑 熊本市龍田町弓削



*【竹山城侍帳】(小守家文書)
 家老   本位田駿河守
 二家老  本位田外記之助
 三家老  新免伊予守
 後見   新免備中守

*【新免家侍帖】(東作誌)
 伊賀守宗貫 高五千石
  吉野郡の内吉野保 讃甘庄
  大原保大野庄 東粟倉庄
  領之始山王城主後竹山城主
 長臣  本位田外記之助
      新免伊予守
 後見  新免備中守
      本位田駿河守


新免氏居城 竹山城跡周辺
岡山県美作市


*【宮本伊織宛長岡寄之書状案】
《御同名武州、熊本より程近在郷へ御引込候而被居候處ニ、被煩成に付而医者共申付、遣薬服用養生被仕候へ共、聢験氣も無之ニ付而、在郷ニ而ハ万事養生之儀も不自由ニ可在之候間、熊本被罷出[御出候て]養生可然之由、拙者佐渡守[佐渡拙者]両人かたより申遣候へ共、同心無之候間…》(11月18日付)

*【長岡寄之宛宮本伊織書状】
《未辱尊意候へ共一筆致啓上候。然者同名武蔵煩申付而、養生之様子色々被為入御情被下候由承、恭次第可申上様無御座候。私儀不日罷越御礼等も申上度存候処、無據仕合御座候付而、存儘不罷成、背本意辛存候。武蔵儀常々御懇志御座候由承及候間、弥養生之御指図乍慮外奉憑存候。猶重而可得貴意候。恐惶謹言》(11月15日付)






小倉武蔵碑 墓誌部分拓本
正保二乙酉暦五月十九日於
肥後國熊本卒/于時承應三
甲午年四月十九日孝子敬建焉









田原家墓碑
中央が伊織の父母の墓
兵庫県三木市箕谷墓地
 
 (3)天仰實相圓満兵法逝去不絶
 碑文の上部に掲げられた偈の部分である。この十二文字は、二文字ずつ六行にして刻字されている。
 これについては、本文末尾に「肥之後рノ於て卒す。時に自ら書し、天仰實相圓満之兵法逝去不絶の字に於て、言を以て遺像と爲す」という記事のあるところからすると、武蔵自身の偈、遺偈である。しかも、碑文後文によれば、武蔵はこの言葉をもって「遺像」とせよと言い置いたらしい。
 まず、「天仰」は、後文に「於天仰」とあるごとく、天は仰ぐに、と訓む。意味は、天「を」仰げば、というのと同義である。漢文に忠実なら、語順を逆にして「仰天」と書かねばならない。しかし、「天を下におく」ことはできないから、このように「天仰」と書いて、天は仰ぐに、と読ませたのである。まことに日本的な語法である。
 そこで次に、この偈の訓みは、「天は仰ぐに、實相圓満、兵法、逝去して絶へず」とするも可であるが、後文には「實相圓満之兵法」とあるから、ここでは、
   「天は仰ぐに、実相円満の兵法、逝去して絶へず」
と訓むことにしておく。
 この偈の意味は、天に仰ぐに、実相円満、そのように完全な兵法は、時が経過しても絶えることはない、もっといえば、武蔵個人が死んでも、兵法は永遠不滅である――ということ。これに関して、「人に依るな、法〔ダルマ〕に依れ」とした釈尊の遺誡を想起させるものがある。
 「実相円満」というのが仏教語彙だが、他方「天」には儒教的な臭いもある。儒仏混淆したところが、当時の思想である。
 そうして「逝去不絶」。逝去は、ここでは時間が過ぎ去ること。「逝去不絶」は時が過ぎ去っても、永遠に不滅だという意味である。
 これにやや現代ふうな解釈をすれば、逝去は、目の前から去ること、消え去ること、消滅である。この消滅したものが、実は不絶、永遠のコンシステンシーをもつ。あるいは、消滅することによって永遠の実在となる、という空の弁証法である。空は無ではない、まさにリアルなもの(the Real)としての空である。
 ここから、最初の「天」が単に儒教的な「天」ではなく、大いに仏教的な「空」の思想に侵蝕された「天」であることが知れるのである。
 伊織は、この武蔵遺偈を上に掲げた石塔を建てることにより、例のない「父」の遺言にしたがった。ただしその結果、これは、たんなる記念碑でもなし、またあきりたりの墓碑でもなし、という特異な形態のものになった。その点は十分認識しておく必要がある。  Go Back

武蔵碑 頭冠部分
天仰實相圓満兵法逝去不絶
北九州市小倉北区赤坂


 
 (4)機に臨み變に應ずは
 以下は碑の本文である。全文にわたって、まことに高い調子で書かれている。こうしたテンションの高いモードは、顕彰碑・頌徳碑に共通のもので、この碑文だけのものではない。文体のこうしたハイテンションは、漢文ゆえに可能な調子と謂えよう。和文ではこうした調子は出ない。
 しかし同時に、漢文特有の白髪三千丈式があるわけで、それゆえに現代人をシラケさせる部分もなきにしもあらず、その分、割り引いて読むことになっている。顕彰頌徳は、最大限誉め讃えることにあるのだから、儀礼上それはそれでよいのである。
 さて、ここから碑文の本文に入るわけである。
 機に臨み変に応じる(臨機応変)は、道に通達した良将のなすこと。臨機応変は君子豹変と同軌の動きである。物事の一貫性を保つに汲々とするのではなく、状況を見て即座に変化に対応できる柔軟性がなくてはならぬ――と、まあ、そういうことであるが、たとえば、『孫子』は臨機応変を説いているが、実際には「臨機応変」の文字そのものはない。
 また、漢籍には「臨機応変」の文字はない。似たような語句は、「吾自臨機制変、勿多言」(南史・梁宗室上)や「料敵応変、皆契事機」(唐書・季勣伝)である。『南史』プラス『唐書』で、「臨機応変」という語句が出来あがったものらしい。
 むろん、武蔵の『五輪書』にも「臨機応変」の文字そのものはない。ただ、この臨機応変は、たしかに武蔵的なテーゼなのであってみれば、一般的な教訓というよりも、現実の戦場において勝つためのもっと具体的な戦略でもある。格好よくスマートに勝つとも思わず、名誉を保つために死も敗北も辞さない、というのではなく、逆に、いかなる手段をとっても勝つこと、あるいは、名誉は勝ってナンボの名誉であって、負ければ名誉も糞もない、というのが戦国の論理であり、武蔵の臨機応変テーゼもその延長上にある。すなわち、武士道の美学以前に武蔵のエトスはある。
 ところが、この碑文の論理はそれとは違う。臨機応変の柔軟性は、勝つための戦略的手段ではなく、天資曠達にして細行に拘らざる、そういう生れつき心が広く、こまかい物事にこだわらない大らかさ、という個人的な文脈で読み替えられてしまっている。これは、武蔵個人を顕彰するためとは云え、武蔵の臨機応変テーゼの修正主義的な変換である。
 ところで、すでに述べたことと重複するが、ここに武蔵の伝記上重要な記述が出てくることに注意したい。それは、
    《播чp産、赤松末葉、新免之後裔、武藏玄信》
という部分である。播州の英産とは、播州生れの優れた人物というほどの意味であり、赤松氏の末葉で、新免氏の後裔、武蔵玄信とある。
 赤松末葉で、新免の後裔という記事については既述の通りであるが、ここで重要なのは、武蔵を「播чp産」とする記述である。つまり武蔵は播州産だということである。これは『五輪書』に「生国播磨」とあるのと一致するわけで、とにかく、武蔵死後九年のこの史料において、『五輪書』にある「生国播磨」の記事を傍証するものが出ているのである。
 この点に関して言えば、本サイトの他のページに詳細に分析されているごとく、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』が提唱した武蔵を「作州産」とする異説は明白な誤りであり、そのことが改めて確認される必要があろう。『五輪書』及び最初期の伝記史料たるこの小倉碑文に明記されているにもかかわらず、武蔵作州産なりとする謬説が、いまなお生き残っているという倒錯的事態には、まさに驚きを禁じえないのである。
 なお細部にわたるが、付け加えて謂うなら、武蔵の名である。彼は二天と号したが、それは「号」であって、「諱」〔いみな〕は「玄信」。この諱を号と勘違いして、「げんしん」と読んで憚らぬ誤謬が後を絶たないが、玄信は諱である以上、和訓でと読まねばならない。
 すなわち、たとえば武田信玄の「信玄」は法号であるから、「しんげん」と読み、他方狩野派の狩野元信の「元信」は諱の扱いであるから、「もとのぶ」と読むのである。武蔵の「玄信」を「げんしん」と読んでしまうのは、号と諱、この二種の名の区別を知らないからである。この点、自身の誤りを知らぬ解説子たちに注意を喚起しておきたい。
 人名では「玄」字には、「はる」「つね「くろ」「とら」等さまざま読みがあるが、我々はこれを「もと」と読む。老荘の語義で、玄信を「もとのぶ」と読むのである。
 他方、「はるのぶ」というのは、肥後系武蔵伝記『武公伝』にそのルビをふった以外は例を見ない。それゆえ、根拠なく「はるのぶ」と読むのは、止めた方がよい。
 また、「武蔵」という名に関しては、武蔵自身の自称「武蔵守」を、子の伊織が謙退した名称であることは前述の通りである。他方で、武蔵は一貫してフォーマルには「新免武蔵守」だったのだが、彼の死後、たちまち後人が「守」の文字を、あるいはその伝統的慣行のステイタスを見失ってしまうのである。そういう時代の変化というものもある。  Go Back




宮本武蔵『五輪書』地之巻 冒頭
「生國播磨」の文字が見える




*【顕彰会本宮本武蔵】
《武藏はその生年月は明ならざれども、作州産なることは誰も疑を挿まざらむ。然るに武芸小伝、二天記等には、播州人と傳へ、旦つ小倉なる武藏の碑文にも、播州英産とし、五輪書の序にも、生國播州ノ武士と記せり、碑文は、武藏歿後九年に、義子伊織が建てしものにて、文は武藏の親友肥後國泰勝寺春山和尚の筆に成り、五輪書は武藏自筆の物今に存せり、或は疎漏ありともいひ、自筆の書に、自分の生國を誤るべくもあらず、蓋し二天記、武芸小伝等に、播州人と記せるも、その基く處はこゝにあるべし》
(註) この論は、五輪書について武蔵自筆原本とするなど、誤認があるが、それだけよけいに、五輪書に「生國播磨」とある事実に戸惑っている状態である。後世の者のように、小倉碑文を誤読はしてない。



武蔵生誕地碑 明治44年
三島毅撰文 細川護成筆
岡山県美作市宮本
 
 (5)二刀兵法の元祖
 武蔵といえば、二刀流元祖、それが通俗のイメージである。この碑文でも、すでにそんな扱いである。この点、誤解を生産する原因である。
 むろん、二刀を使うのは、なにも武蔵に限ったことではなかった。二刀流は他にもあったのである。しかし、この碑文は武蔵を「二刀兵法の元祖」としている。それは、林羅山の新免玄信像賛にもあるように、武蔵の生前すでに武蔵の二刀術、「二刀一流」が、あまりにも有名になりすぎたせいである。碑文はたんにそうした世説に便乗して記しているにすぎない。しかし、二刀流は武蔵を創始者とするというのは明白な誤認であり、後世の誤解の元祖となったのである。
 ここで、「新免無二」の名が登場する。
   《父新免、無二と号し、十手の家を爲す》
とある。我々が武蔵の「父」は、新免無二という名であるとするのは、まさにこの記事によるのである。この点に注意を喚起しておく。
 ただし、この記事のように「無二」が号であるとすれば、これは武蔵が「二天」を号したというのと同じことで、「無二之助」という俗名はありえない。それは武蔵を「二天之助」と呼ぶのと同じ仕儀であるからだ。この点では、無二を「新免無二之介」とする肥後系武蔵伝記は、明らかに後世の伝説による踏み外しである。
 新免無二は武蔵の「父」である。ただし、本サイトの諸論攷に明らかなごとく、この「父」は武蔵の実父ではなく、義父である。しかも、泊神社棟札の記事に拠れば、無二は天正年間に九州筑前の秋月城で死んだが、「無嗣にして卒す」とある。つまり彼には嗣子がなかったのである。
 もし無二の生前に武蔵が無二の養子になっているなら、この「無嗣にして卒す」という記事はありえない。ここから、武蔵は、無嗣断絶した新免無二の家を再興した、と我々はみなすのである。もとより、このように死後の相続再興であったことは、従来武蔵研究者の何人も気づかなかったことである。
 したがって、この小倉碑文の《武藏、家業を受け、朝鑚暮研》という記事については、厳密に読む必要がある。つまり、これは《武藏、朝鑚暮研して、家業を受け》ではないことだ。武蔵は無二の兵法家を相続してから、その十手術を朝夕鍛錬研究した、ということなのである。
 武蔵は無二の兵法家、つまり「十手の家」を、無二の死後に相続承継した。継承者のいない無二の「十手の家」の家業家名を、武蔵が何らかの縁で相続することになったということである。兵法者は一種の職人だから、家業の株をやり取りしたのである。武蔵の「新免武蔵守」という職名も、無二から受け継いだものであろう。
 それゆえに、無二・武蔵の「親子」関係は、職人の世界の擬制的な親子関係と同類である。新免無二は武蔵の「父」であるが、あくまでも擬制的な親子関係における父である。このことに注意して、この部分を読む必要がある。
 無二の十手の家ということに関しては、美作に興った「竹内流」という古武道の流派が現在もあり、その流派は十手も扱ったらしいから、無二の「十手の家」とこの竹内流とは何らかの縁があるのかもしれない――とは云えようが、ただし、これは証拠のない臆測である。十手は古くからの武器、当時広く行われていた武術の一つで、何びとも何流も、それを独占したわけではないのである。
 ところで、この小倉碑文によれば、武蔵は無二の家業を継承したが、研究工夫した結果、その十手を二刀に替えてしまったという。この武蔵二刀流起源潭は、出来すぎのきらいがある。けれども、武蔵死後そういう説話が出来上がっていたものらしい。
 十手はかなりスペシフィック(特種)な武器である。時代劇の捕物帖のような十手ではなく、この十手は相手の武器や身体を搦めとって制圧する武器で、弁慶の道具にありそうな熊手のようなものまである。戦場での武器は多様でありえたのである。
 武蔵がこの十手を二刀に替えたということは、そうした多様でありえた戦国の武器が、天下泰平、偃武の時代になって無用化し、剣というシンボリックな一物へと専一化する時代と対応していたのである。そういう意味で、十手から二刀へというこの改変譚は、歴史的遷移過程を反映したものであり、この二刀流起源潭は説話的次元に達しているのである。
 十手術は両手に武器をもつ。しかも、実際には、無二流にはすでに二刀術があった。したがって、無二は十手、武蔵は二刀、というように差異を強調しすぎると、事実を誤ることになる。
 かくして武蔵は、新免無二の兵法家の継承者となったが、時代状況のなかで、この十手の家を換骨奪胎、新免無二の多様な戦闘術はそのままに、実質たる中身を根本的に変更してしまったのである。そこが武蔵の独創であると云えば言えた、ということであろう。
 しかしながら、さしあたり確実なことは、武蔵流兵法には、十手(実手)術はきちんと伝承されていたことであり、それが棒杖術あるいは体術(柔術)といった格闘技とともに、武蔵の伝授した武芸に含まれていたことである。言い換えれば、少なくとも武蔵の教えは剣術だけではなく、こうした伝統的な武術も含まれていたのである。  Go Back



*【林羅山文集】
《旋風打連架打者異僧之妄語也。袖裏青蛇飛而下者方士幻術也。劔客新免玄信、毎一手持一刀、稱曰、二刀一流。其所撃所又指、縦横抑揚、屈伸曲直、得于心應于手、撃則摧、攻則敗。可謂、一劔不勝二刀、誠是非妄也、非幻也。庶幾進可以學万人敵也。若推而上之、則淮陰長劔、不失漢王左右手。以小譬大、豈不然乎》


*【武公伝】
《武公、父ハ新免無二ノ介信綱。即チ十手二刀ノ祖タリ》
*【二天記】
《武藏父、新免無二之介信綱ト云フ。劍術ヲ得、當理流ト號ス。十手二刀ノ達人也》


*【泊神社棟札】
《作州の顕氏に神免(新免)なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを武蔵掾玄信と曰す、後に宮本と氏を改む》


藤田文庫蔵
当理流伝書の十手図




円明流實手術 三學真
 
 (6)或は眞劔を飛ばし、或は木戟を投じ…百發百中
 武蔵はまことに武剣の精選たる存在である、といって、つづいて、真剣を飛ばし、あるいは木剣を投げて、逃げる者も走る者も、これから逃げ避けることはできない。其の勢いは、まるで強力な弩〔いしゆみ〕を発射するが如くで、百発百中、養由〔ようゆう〕もこれに超えることはないほどである、――と語るこのあたり、軍記物語の文体に似る。
 文中、「養由」とは、春秋時代楚の弓の名人のことで、そんな古代中国の人物の名が不意に出てくるようにみえるのは、現代の教養のしからしむるところで、実は、養由という名は、日本では鎌倉時代以来、もっとも有名な武人の名であった。たとえば、『保元物語』の為朝登場の賑やかな場面(巻之一)にも、張良と並んで養由の名が出てくる。いわば、張良や養由の名をもち出すのは、軍記物語のステロタイプのひとつである。
 ただし、小倉碑文のこの部分は、若干意表を突かれるところである。なぜなら、これを字義通りに読む限りにおいて、武蔵の二刀流は、真剣であれ木刀であれ、それを相手に投げて殺傷する武術であるもののごとくであるからだ。
 この点につき、一刀なら我が持つ剣を投げるなど、そんなことはありそうもないが、二刀ならそれもありうる、という以上のことではない。武蔵の刀剣術が百発百中で、弓の名人・養由以上だったとする。しかしこの投剣術のことは、『五輪書』にも、武蔵の他の兵法書にも記述のない事柄である。
 武蔵の二刀流において、こんな投剣術など本質的な技術ではなさそうだが、小倉碑文はこれをかようにまで特記するのである。この点、いかがなことか。
 おそらく、こういうことであろう――。
 武蔵自身は『五輪書』その他で、二刀をもつのは、それ自体に意味はなく、片手で太刀を扱えるようにするためだ、と記している。
《先づ片手にて太刀を振りならはせん爲に、二刀として、太刀を片手にて振り覺ゆる道なり(五輪書地之卷)
 そこからすれば、武蔵二刀流の通俗一般のイメージを裏切る記述であるが、いま一方で、碑文の記事を見る時、この投剣術は武蔵二刀流のもう一つの側面であり、『五輪書』その他に書かれない特徴を、思いがけず、こうした碑文が伝えるものとみなしてよいのである。
 後世の『撃剣叢談』(寛政二年)に、こういう話がある。――未来知心流は二刀流だが、武蔵の末流ではない。その極意の「飛龍剣」という太刀は、これは刀を右の手にさし上げて持ち、左の手で脇差を振りまわして敵に近づき、間を見て短剣を相手の顔面に打ちつけて、ただちに長剣で切って勝つ。この短剣を手裏剣に打つことは円明流、一方流、宝山流等、すべて二刀の極意、この技を伝えている、と。
 これによって見れば、武蔵流兵法も、この飛龍剣のように、脇差を相手の顔面に向けて投げつける手裏剣〔しゅりけん〕技もあったようで、『撃剣叢談』に円明流の秘奥に、真位有無二剣、手裡剣打様、多敵の位、実手取等々を数えているところである。したがって、小倉碑文の「真剣を飛ばし、木戟を投じ」という記事も、あながち意外ではないのである。
 しかし、『五輪書』において、脇差を相手の顔面に向けて投げつけるこの手裏剣技の記述はない。このことはどういうことなのか、なかなか興味深いところである。
 これは、二刀遣いも手裏剣打も、とくに武蔵独自のものでなかったということである。それは武蔵以前からあった技法であり、またとくに、無二の十手術・二刀術にあった手わざであろう。
 それゆえ小倉碑文が意外に正しいのは、「二刀兵法の元祖」としながらも、『五輪書』はじめ現存兵法伝書のどこにもない、こういう飛剣、手裏剣打という武蔵の芸術を記録しているからである。
 おそらく当時、無二流も武蔵流もすでに独り歩きをし、二刀の極意に手裡剣打を数え、またそれを教える者らがあったのであろう。小倉碑文の飛剣の記事は、そうした状況を反映したものである。  Go Back




*【保元物語】
《謀は張良にもおとらず。されば堅陣をやぶる事、呉子孫子がかたしとする所を得。弓は養由をも恥ざれば、天をかける島、地をはしる獣のおそれずと云事なし》(巻之一 新院御所各門々固めの事、付軍評定の事)





円明流兵道鏡 部分
たつの市立歴史文化資料館蔵
ここには手裏剣打はない



*【撃剣叢談】
《此流遣ひ方、表は、差合切、転変はづす位、同打落さるゝ位、陰位、□出、陽位、同はづす位、定可當等也。裏は、眼見色現、耳聞声出、鼻入香顕、舌鶯味分、心思触行、意悟法學等有り、秘奥は、真位、有無二剣、手裡剣打様、多敵の位、実手取、是極一刀、相太刀、不相太刀、直道位など云ふ傳有り》



鉄人流秘伝書 飛刀劔
 
 (7)方に年十三にして始めて…
 ここから以下、武蔵の決闘経歴の記述である。まずは、武蔵が少年時代、有馬喜兵衛、あるいは秋山という兵法者に勝ったという事蹟である。
 これについては『五輪書』に記述のある通りで、ほぼ同じ文言である。すなわち、
《我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち》(五輪書地之卷)
 これに対して、小倉碑文では、こう記されている。
《方年十三而始、到播юV當流与有馬喜兵衛者進而決雌雄、忽得勝利。十六歳春、到但馬國。有大力量兵術人名秋山者。又決勝負、反掌之間打殺其人。芳声満街》(方に年十三にして、始めて、播рフ新當流・有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決するに到り、忽ち勝利を得たり。十六歳春、但馬國に到る。大力量の兵術人、名、秋山なる者有り。又、勝負を決し、反掌の間に其の人を打ち殺す。芳声街に満つ)
 両者をひき較べてみると、『五輪書』は文飾のない事実記述のスタイルであるのに対し、碑文には文飾があって、増殖の跡がうかがえる。「忽ち勝利を得たり」「反掌の間に其の人を打ち殺す。芳声街に満つ」というあたりがそれである。
 顕彰のための文章だから、こういう文飾もありうるのである。ただ、武蔵は少年のころすでに、相当な兵法者を決闘で倒し、それによって有名であったのであろうとは推測しうる。
 『五輪書』には、「新当流有馬喜兵衛」とあって、それがどこの者とも書かないが、小倉碑文には「播州新当流有馬喜兵衛」と、有馬喜兵衛について「播州」と地名を冠している。これは伊織の伝聞であろう。播州とは播磨国、現在の兵庫県にあたる。但馬国は、日本海側の同県北部地域である。
 しかし、この播州新当流有馬喜兵衛、但馬国秋山という両人については、碑文には『五輪書』以上の情報はない。彼らの名は、『五輪書』の文言そのままだから、それを見て記したものらしい。
 となると、興味深い事実が浮上する。それは、この碑文撰述にあたって、宮本伊織は『五輪書』の中身を見ていた、ということになるからである。この五巻の兵書は、草稿のまま、寺尾孫之丞信正に遺贈された。そうすると、オリジナルは寺尾孫之丞が握っていることになる。しかるに、小倉碑文をみれば、伊織がその内容を知っていると推測しうる。おそらく伊織は、旧知の寺尾孫之丞からこれを得ていたのであろう。
 ところで、碑文のこの部分に関して問題がある。それは、原文の、
 《方年十三而始到播юV當流与有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》
 すなわち、「方に年十三にして、始めて、播юV當流・有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決するに到り、忽ち勝利を得たり」の部分をどう読むか、という問題である。
 武蔵諸伝記をみると、筑前系の『丹治峰均筆記』では、武蔵十三歳の時、新当流の兵法者有馬喜兵衛という者が播州にやって来た、という話である。これは小倉碑文をどう訓んだのか。それを、『丹治峯均筆記』が付録している小倉碑文の写しで確認してみると、《方年十三而始到播州新當流與有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》とあり、この部分はほぼ正確な写しである。とすると、その《到播州新當流與有馬喜兵衛者進而決雌雄》を、「播州に到りし新當流・有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決し」と読んだらしい。しかし、「播юV當流」をそのように分割して訓むのは無理がある。これは、「播юV當流・有馬喜兵衛なる者と」と読まねばならないところである。
 これに対し、肥後系伝記『武公伝』では、有馬喜兵衛は「播州の剣術者」ということになっている。後継の『二天記』も同じ。これはそもそも、肥後に伝わった小倉碑文の写しが間違っていたことによる。《方年十三而始同州與新當流有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》というのが、肥後伝来の小倉碑文の写しであった。これは、「方に年十三にして、始めて、同州新當流有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決し、忽ち勝利を得たり」ということで、小倉碑文の意味内容と大差がないのだが、書写の誤りは誤りである。
 かくして、どちらも決闘場所は播磨なのだが、筑前系は、有馬喜兵衛は播磨へやって来た異国人、肥後系は、有馬喜兵衛は播州の剣術者なのである。このように、小倉碑文の読み方から伝説差異は生じているのが興味深いところである。
 しかしながら、近年でさえ、これを誤読してしまう例が多いのである。どう誤読するかというと、たとえば、「方に年十三にして、始めて播рノ到る。新當流・有馬喜兵衛なる者と進みて雌雄を決し」と読んでしまうのである。これは《方年十三而始到播пB新當流「与」有馬喜兵衛者進而決雌雄、忽得勝利》と句点を打つらしいのだが、「与」(と)がそこにある以上、これは訓みを間違えているのである。その読みを再漢訳すれば、《方年十三而始到播пB「与」新當流有馬喜兵衛者進而決雌雄、忽得勝利》となるべき文章である。
 ようするに、こうしたレベルのごく初歩的な誤読なのだが、そうすると武蔵は、十三歳の時はじめて播州にやってきた、という話になってしまう。これが明らかな誤解釈であることは、武蔵の『五輪書』や、この小倉碑文そのものから知れることである。というのも、『五輪書』には「生国播磨の武士」とあるし、この碑文には武蔵を「播чp産」とするわけだから、武蔵が播州産であることは小倉碑文撰者の念頭にある。それゆえ、武蔵が十三歳の時はじめて播州にやって来た、などと書くはずがないのである。また、少なくとも、江戸時代の武蔵諸伝記には、武蔵が十三歳のときはじめて播磨へ行った、などという解釈はない。
 この誤読のように、「方に年十三にして、始めて播рノ到る」と読んでしまうと、武蔵は生れて初めて播州にやってきた、ところが播州英産と先に書く以上、この碑文自体が首尾一貫せず混乱しているという結論になる。しかもそこから、小倉碑文の記述自体の信憑性を疑うというところまで、話は飛躍するのである。
 これは、自身の誤謬を対象に押しつけるという倒錯であって、まことに横着な振舞いであった。まさにそれが、この碑文の迷惑するところであって、これは武蔵研究史上、きわめて愉快な笑い種になるエピソードなのである。こんな珍解釈が登場したのは、さして古いことではなく、実はこれには、武蔵が播磨産ではなく美作産だとする諸説の登場、という一件がからんでいるのである。
 すなわち、武蔵が作州産であるとすれば、この碑文の「播州英産」の文字は撰述者の混乱による誤謬であり、それゆえ、『五輪書』の「生國播磨」の文字も誤りであり、かろうじてこの小倉碑文の「方に年十三にして、始めて播рノ到る」という記事だけが正しいのである――という具合の逆立ちした話になって、武蔵美作産説の論者たちは、それこそ、鬼の首でも獲ったかのように、小倉碑文のこの文言箇処を示したのである。しかしながら、彼らが気づかなかったことが一つある。それは、そもそもこの部分を読み間違えるという初歩的誤謬を、自分自身が犯していることであった。
 こうしたことが本当は笑えないのは、いまだにこんな誤読を掲げて自らを省みない論者が少なくないという事態があるからだ。近年の武蔵伝記研究は、それほどお寒い状況をまだ払拭し切れていないのである。
 かような次第で、我々がここで提示したような読み方を明確に示したものは、今まで登場してこなかった。この点は強調しておくべきであろう。
 ようするに、こうした誤読生産による武蔵伝記研究の笑えない状況は、ここで、我々が明確にした読下しと現代語訳によって、終止符を打つことになる。今後、この読み方を踏まえずには、この記述箇処について、何事も語りえないであろう。  Go Back



九州大学蔵
吉田家本五輪書



播磨と但馬



有馬喜兵衛 武稽百人一首


*【丹治峯均筆記】
《十三歳ノ時、新當流ノ兵法者有馬喜兵衛ト云者、播州ニ来リ、濱辺ニヤラヒヲユヒ、金ミガキノ高札ヲ立テ、試闘望次第可致旨書記ス》






*【武公伝】
《慶長元年丙申季十參ノ時、始テ播州ノ劔術者新當流有馬喜兵衛ト勝負ヲ決シ勝之》
*【二天記】
《慶長元年丙甲三月十三歳ノ時、播州ノ劔術者新當流有馬喜兵衛ト云者ト、初メテ勝負ヲ決シテ勝之》











武蔵初決闘之地碑
兵庫県佐用町平福
ただし、ここがそうだという証拠はない






*【吉川英治の所見】
《小倉には、(中略)史料として重要な武蔵の碑文がある。文献としての古さだけからいえば、この碑文がいちばん武蔵の生前に近いのである。武蔵が死んで九年目に、養子であり小倉藩の家老であった宮本伊織が自身で建てたものであるから。――ところがこの碑文にさえ間違いや錯誤があって、僕らの採る文献価値は甚だ乏しい》(吉川英治『随筆宮本武蔵』昭和14年)
(註) むろんこの論者は、小倉碑文が武蔵を「播州英産」とするのを嫌っているのである。
 
 (8)扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り
 ここから以下、碑文の武蔵伝記は吉岡一門との決闘の記述となる。
 むろん、京都のこの吉岡、あるいは次の岩流(小次郎)との決闘のことは、『五輪書』など武蔵自身の記述にはないことである。『五輪書』には、相手の兵法者のの名としては、有馬喜兵衛と秋山、この二人の名が出てくるだけである。ところが、現代にまで伝わる武蔵の事蹟としては、京都の吉岡、舟島での岩流との決闘の方が有名であって、有馬・秋山の名はまず知られていない。
 したがって、『五輪書』の記述に現れた武蔵の意識と、後世の伝説との間には、こういう不均衡があることは知られてよい。
 武蔵にとって、吉岡、あるいは岩流との決闘という巷間有名になった事件は、有馬・秋山という人物相手の決闘ほどには重要でなかったのかもしれない。しかるがゆえに、有馬・秋山という人物は『五輪書』にその名を残されたのである。
 同時に知っておくべきは――この小倉碑文の吉岡と岩流の記事は、武蔵の決闘事跡としては初出史料であって、これより古いテクストは存在しない、ということだ。すなわち、武蔵伝説の最初の史料が、まさにここにあるのである。したがって武蔵について物語する者は、この小倉碑文の記事を、伝説の起源資料として慎重に扱わなければならない。
 さて、吉岡一門とのこの決闘については、『五輪書』に、二十一歳の時、京都へ出て、天下の兵法者と会って、数度決闘し、いづれも勝利したとあるだけで、吉岡の名さえ記さないが、この記事をそれと同定することができるという仮定の上で話を進める。ただし、それが小倉碑文この記事の通りであったかどうか、それは少しも慥かではない。ただ、この記事が嚆矢となって以後、武蔵伝説が開花し発展していくのである。
 他方、正徳年間の日夏繁高『本朝武芸小伝』には、右掲のように、当時すでにあった伝説をいくつか拾っている。日夏自身は伝説に対し客観的である。しかし、いづれにしても、武蔵死後、武蔵はますます有名になり、その結果多様な伝説の主体となっていくのである。
 また『丹治峯均筆記』によれば、武蔵が病気を理由に仕合を断わり、清十郎が再三試合を要求してきたので、武蔵は竹輿に乗って決闘場所まで出かけた、そうして、病気はどうだと覗き込む清十郎を、枕木刀で不意打ちに打ち倒した、という話がある。
 そこには明らかに、巌流島決闘譚においてと同様、京都の地元伝説の残響がある。すなわち、それは武蔵ではなく清十郎に心情的に加担した伝説で、武蔵は病気と称して仕合を避けようとして断わった、あるいは、臆して仕合を躊躇した、のみならず吉岡から再三要求されて仕方なしに現場へ赴くや、竹輿に乗って出る擬装をし、油断した清十郎を不意打ちにして倒した――といった内容であったはずである。『丹治峯均筆記』によって、我々は、京都の地元伝説の祖形をかろうじてうかがい知ることができるのである。このあたりは、[資料篇]宮本武蔵伝記集の丹治峯均筆記読解の別ページ論文に話を譲る。  Go Back

 
 (9)吉岡傳七郎
 吉岡清十郎に続いて、次に武蔵が決闘することになったのは、吉岡伝七郎という名の者である。これも、小倉碑文の記事が初出である。
 伝七郎を清十郎の弟とするのは、『武公伝』『二天記』など肥後系伝記だが、小倉碑文にはその旨の記載はない。また筑前系伝記『丹治峯均筆記』にも、伝七郎が清十郎の弟だとする記事はない。いいかえれば、吉岡伝七郎は清十郎の弟とするのは、後世の肥後ローカルな伝説なのである。したがって、伝七郎が清十郎とどういう関係にあるかは、保留すべき点である。
 清十郎との決闘地は蓮台野と記しているが、伝七郎との決闘地は「洛外」とあるだけで、具体的な場所を記していない。蓮台野が古来の墓地で、河原などと同様、いわば「無縁」の場所であることから、決闘地でもあったのであろう。
 かように、武蔵は吉岡の嫡子清十郎を倒し、ついで伝七郎も打ち殺したというのが、碑文の誌す武蔵伝説である。  Go Back




*【五輪書】
《二十一歳にして都へ上り、天下の兵法者に會ひ數度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし》




蓮台野現況 京都市北区紫野



*【本朝武芸小伝】
《又武蔵、吉岡と仕相の事、武蔵は柿手拭にて鉢巻す。吉岡は白手拭にて鉢巻したり。吉岡が太刀武蔵がひたひに当る。武蔵が太刀も又吉岡がひたひにあたるに、吉岡は白手拭故血はやくみえ、武蔵は柿てのごひ故しばらくして血見ゆるとなり。又一説有り。此の時吉岡は、いまだ前髪有りて二十にたらず。武蔵より先達て、弟子一人召つれ仕合の場に来り。大木刀を杖につきて武蔵を待つ。武蔵は竹輿にて来り、少しまへかどにて竹輿よりおり、袋に入れたる二刀を出して袋にて拭ひ、左右に携へて出る。吉岡大木刀を以て武蔵を打つ。武蔵是を受けるといへども、鉢巻きれて落ちたり。武蔵しづんで払ひ、木刀にて吉岡がきたる皮ばかまをきる。吉岡は武蔵が鉢巻を切りて落し、武蔵は吉岡が袴を切る。何れも勝劣あるまじき達人と、見物の耳目を驚かすとなり。又或説には、武蔵は二刀遺ひたれども、仕合の時はいつも一刀にて、二刀を用ゐず。吉岡と仕相の時も一刀なりと。想ふに正偽決しがたし。語り伝へは誤る事多しといへども、聞くにまかせて聊か記しぬ》

*【丹治峯均筆記】
《吉岡清十郎、洛外蓮臺野ニ於テ勝負ヲ決ス。武州、其日ニ至リ病臥、起居不安ノ由ニテ、断ニ及ブ。清十郎、頻リニ可致勝負旨、數度使ヲ走ラシム。武州竹輿ニ乘リ、大夜著ヲ著シ、場処ヱ至ラル。清十郎出迎、「病氣何分ノ事ニヤ」ト乘物ヲノゾク處ヲ戸ヲ押明ケ、風ト出テ、枕木刀ヲ以テ只一打チニ打倒シ、息絶ヌ。門生等、戸板ニ助ケ乘セテ持帰リ、藥ヲアタヱ漸ク復ス。遂ニ兵術棄テ薙髪ス》
 
 (10)吉岡又七郎
 吉岡一門との対決の第三場、武蔵が一人で、門生数百人を相手に勝ったという伝説記事である。
 清十郎・伝七郎二人を倒されて、怨みを抱いた吉岡門生が多勢を力に武蔵を殺そうとしたとの話である。「籌〔はかりごと〕を帷幄に運らす」とは、ようするに作戦を練るというほどのことである。『史記』に《夫、籌策を帷幄の中に運らし、勝を千里の外に決するは、吾子房に如かず》(留侯世家)、あるいは『漢書』張良伝に同様の一節があり、この文言は漢の高祖の臣・張良の名とともに、日本では相当有名なもので、ほとんどステロタイプ化した表現である。
 ここで出てくる吉岡又七郎は、清十郎の子であるという説が今日一般的だが、それもまた後世の肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』に拠ったもので、しかしその説に何か根拠があるわけではない。『丹治峯均筆記』にも、その関係を記さないから、又七郎の続柄は不明としておくべきである。
 ともあれ、武蔵が一人で吉岡門生数百人を相手に勝ったという伝説は、他には見当たらぬことである。これは武蔵側の伝説である。ただし小倉碑文にしても、相手の又七郎を殺した、何人切ったとは書いていない。武蔵は、多数の敵の包囲を切り抜けて逃走しおおせたということだけである。
 後世の『二天記』は、相手を数十人と割引いて記している。『武公伝』のいう数百人ではいかにも非現実的だと記者が考えたのかもしれない。
 しかし、それより先行する『丹治峰均筆記』では、まだこの数百人という数字を訂正していない。武蔵が一人で数百人を相手にしたという伝説は、早期にあったものらしい。
《吉岡ガ門人等、冤ヲ含ンデ密ニ相議シテ曰、兵術ヲ以テハ敵シ難シ、大勢取圍ンデ打果スベシトテ、吉岡又七郎、事ヲ兵術ニヨセ、洛外下リ松ノ邊ニテ會ス。門人等數百人、鎗薙刀弓箭ヲ取テ出向フ。武州ノ味方モ門人十餘輩アリ。中ニモ十七八歳ノ若者、一番ニ進ム。武州、跡ヨリ声ヲカケテ、カ様ノ場ニテタルメバ命ヲ墜スモノゾ、少モタルムナトテ、後ヨリ帯ヲ取テ、真先ニ推立進マル。彼者矢ニ當テ疵ヲ被ル。武州、門人等ニ曰、何レモ心閑カニ立退キ候ヘ、我等一人蹈留リ、大勢ヲ追拂ヒ、跡ヨリ可追付トテ、門人ヲ先ダテ、多敵ノ位ニテ打拂々々退カル。或三十、或五十、七十、八十、乃至百人ニ餘リ、彼方此方ニテ取圍ンデ、打テ掛ルヲ、追拂ヒ退ルヽトイヘ共、猶行先數百人打圍ム。武州、寺ヘ入リ、寺傳ニ退テ跡ヲ失ス。與力同心、追々驅來リ、漸ニ取シヅム》(丹治峰均筆記)
というわけで、碑文記事をベースにしながら、ディテールが増殖して、かなり説話化が進んでいる。肥後系伝記の『武公伝』『二天記』の方は、これについて、吉岡が人数を集め、武蔵にも門人があり、両方が衝突すると大事になるので、武蔵が我が門生を退かせ、自分ひとりで戦うことにした――という。これは、後世の講談解釈である。
 とにかく小倉碑文では、武蔵が、吉岡兄弟に勝っただけではなく、吉岡一門を壊滅させたとの伝説を語るのである。これは次に続く話になるであろう。  Go Back

 
 (11)吉岡代々公方の師範たり
 ここで話は一転、吉岡と新免無二の因縁話となる。この碑文によれば、武蔵の「父」無二は、かつて吉岡と戦ったことがあるとのことである。
 すなわち、将軍足利義昭が無二を召して、吉岡と勝負させ、無二が三回のうち二回勝った、そこで勝った無二が「日下〔ひのもと〕無双兵法術者」の号を受けたというのである。
 この一件について言えば、これも伝説という以上のことはない。順序としては吉岡兄弟の父が相手ということになろうが、親子二代の戦いという因縁話という設定である。これが武蔵が吉岡と対戦することの先例として措定される。つまり武藏の吉岡との対戦は《反復》だとするわけだ。それが、「故武藏到洛陽、與吉岡數度決勝負」の、「ゆえに」という接続詞である。
 しかしここに、説話の典型的な遡及的発生構造が認められる。すなわち、説話の構成としては、逆に読むべきであり、無二の吉岡との対戦は、武蔵の吉岡との対戦の《反復》である。先例こそが後の出来事の反復的措定なのである。
 しかもここで注意すべきは、この説話中の「日下無双」の号である。つまり「無双」は「無二」を反復する号であり、ここで抑圧されているのは、
  「日下無双の号を得て、無二と名のるようになった」
という一節である。これが抑圧されて見えなくなって、「無二」という名が独り歩きするようになったのである。しかし原型の吉岡対戦説話を語らなければならないから、「無二」と「無双」が居心地悪く並んでしまうのである。
 結論として言えば、説話発生の順序は以下のようなものであろう。
  (1) 武蔵が吉岡一門と数度対戦して勝った。(口碑的事実)
  (2) 武蔵の「父」が吉岡と三度対戦して勝った。(遡及的反復)
  (3) 武蔵の「父」の名は、「無双」「無二」である。(父の名の生成)
 無二が京都の吉岡に勝ったという伝説が初期の伝説、それから枝葉が付いたのは、武蔵在世中のことであろう。
 吉岡対戦説話の存在をみるとき、小倉碑文の時期において、無二伝説がすでに相当完成していたことが確認できる。これは、新免無二の兵法流派、無二流が、十七世紀半ばに実際に相当興行されていたことによる。それゆえ小倉碑文のような無二の対吉岡戦の伝説が存在したのである。
 おそらく、伊織は武蔵に聞いたこともあろう。だが、武蔵は新免無二の家を継いだが、無二は天正年間に死去しているので、直接の面識はなかった可能性がある。すでに武蔵の段階で、無二は伝説化された存在だった。伊織がそれを武蔵に確認しても、
   ――と、いうことらしいな。
というのが、武蔵の返事だったであろう。改めて云えば、すでに武蔵の段階で、無二は伝説化された存在だった。しかも、武蔵とは別に独立して、新免無二の兵法流派が、実際に興行されていたので、無二伝説は、その流派においても言い伝えられていたのである。
 後世になると、肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』などは、無二が「吉岡庄左衛門」と対戦したと、小倉碑文にない記事を載せる。ただし、「新免無二ノ介」という名やら、『二天記』の、彼が新免氏を名のるようになった次第の記事には、すでに作州新免氏のことが不明になった時代のしるしがある。かなり時代が下るテクストなので、これはまた当然の誤伝展開である。

 因みに言えば、吉岡は染物屋だったという伝承がある。孫引きだが、右の記事を読んでいただきたい。染色において本来黒色を出すのは難しい。そこで、始て黒茶色を染む、とあるのは、赤系の黒色はそれまで出せなかったということである。
 吉岡はもと染物屋の町人で、剣術をよくし兵法家になったということか。ところが他方で、『吉岡伝』のように、吉岡は染色の技術を、明の人・李三官に学んだという説もある。それは大坂の陣の後のことで、そうだとすれば初代憲法が染物屋であったとは言えない。
 そこから、今日では、吉岡は武蔵に敗北して兵法家を捨て、染色業に業態転換したという、これもまた臆説が現れることになった。これも証拠は何もない。ただ、十八世紀になると、吉岡については染色と兵法が常に並んで語られるようになった。
 ところで、染色業といっても図案というグラフィックなアートにかかわるもので、吉岡は美術工芸家だと見てよい。アーティストである。加賀では加賀友禅以前か、吉岡憲法が発明した黒染の「憲法染」が伝播し、艶を抑えたシックな感覚の「加賀憲法染」が生まれ、これが長く大正期まで続いたらしい。
 これに関連して言えば、桃山絵画を代表する画家・長谷川等伯の出身は能登で武家らしいが、当地の染色業・長谷川家へ養子に入った。そこで義父から雪舟派絵画の手ほどきを受けたという。上京して後は、画工を擁する絵屋として成功し、本阿弥家と肩を並べるほどの町衆に成り上がった。そうしてみると、染色業者・吉岡なる家にしても、おそらくは富裕な町衆であったのだろうし、同時にこれはアーティスト集団の一族であろう。
 『吉岡伝』は染物屋吉岡の由来記である。つまり、吉岡の末葉に染色業で成功した家が出て、自分たちの先祖は兵法の家吉岡だという家史を作成させたのである。したがって、武蔵当時の吉岡兵法家が染物と関係があったとみるのは、たんに物事の混乱にすぎない。
 小倉碑文では、武蔵は父無二の相手・吉岡の子である兄弟を破り、残る門生を蹴散らして、「吉岡兵法家泯絶」とする。ただし、吉岡建法(憲法)という剣術者が、慶長十九年に内裏で騒ぎを起し、雑色の者に斬殺されたという記録のあることである(駿府政事録)。これが、武蔵と戦って「共に達人にして、未だ勝負を分かざるなり」という吉岡の子・吉岡又三郎(本朝武芸小伝)だとすれば、吉岡兵法家はまだ存続していたのである。
 それゆえ、吉岡兵法家は「泯絶」したという小倉碑文の記述が誤りだ、と主張する粗忽者が方々に出ているが、これによってみれば、吉岡兵法家は武蔵に敗れていったんは「泯絶」したが、その後又三郎の代に再興したというところであろう。吉岡兵法家は、又三郎が禁中で狼藉事件を起こして殺された後も、依然として存続していることを付け加えておく。吉岡兵法家は、なかなかしたたかな家なのである。
 なお、付け加えていえば、『吉岡伝』をもって小倉碑文の記事に対応させる武蔵評伝があるが、それは誤りである。『吉岡伝』の「宮本武蔵」は、北国で有名な兵法者で無敵流を称し、越前少将忠直の家臣であり、実際の武蔵とは似ても似つかぬ架空の人物である。したがって、そこに登場する吉岡兄弟を、小倉碑文の清十郎・伝七郎と対応させるのも誤りである。
 以上、武蔵と吉岡の決闘譚は、小倉碑文が初出史料なのだが、少なくとも小倉碑文の段階では、最小限の情報しかないのであり、それに対し、後世になるほど武蔵伝記の話は細部にわたって具体的になる、という伝説通有の運動がみられるのである。  Go Back



宮本吉岡決闘之地碑
京都市左京区一乗寺花ノ木町



*【武公伝】
《因之吉岡ガ門弟冤ヲ含、清十郎ガ子又七郎ト事ヲ兵術ニ寄テ、洛外下松ノ辺ニ會シ、彼門生數百人、兵仗弓箭ヲ以テ欲害之。武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル》
*【二天記】
《依テ吉岡門弟恨ミヲ含ミテ、清十郎ガ子又七郎ト組シ、數十人兵仗弓箭ヲ携へ、下リ松ニ會ス。武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル》




吉岡憲法 武稽百人一首






令新免無二賜日下無双兵法術者之号
小倉碑文拓本








*【二天記】
《武藏父、新免無二之介信綱と云ふ。劍術を得、常理流と號す。十手二刀の達人也。將軍義昭公の御師吉岡庄左衛門兼法と云ふもの、洛陽の士、扶桑第一の剣術者なり。將軍の命に依て庄左衛門と無二と雌雄を決せしむ。庄左衛門一度利有て、無二兩度かちを得たり。因て無二に日下無双の號を賜ふなり。新免無二之介、劍術を修し得て自ら新免と改む。又、吉岡と勝負を決して日下無双の號を賜ふ、此時より新免と改むとも云へど未詳》

*【本朝武芸小伝】
《雍州府誌に曰く、西洞院四条の吉岡氏、始て黒茶色を染む。故に吉岡染と謂ふ。倭俗に毎事如法に之を行ふを憲法と称す。斯の染家吉岡祖、毎事此の如し。故に憲法染と称す。此の人劔術を得、是を吉岡流と称し、而して今に行はるゝなり》


色名・憲法染(けんぽうぞめ)
吉岡憲法による黒茶染の色
「吉岡染」ともいう



長谷川等伯 楓図
京都 智積院障壁画



本阿弥光悦 舟橋蒔絵硯箱
 
 (12)兵術の達人有り、名は岩流
 この達人岩流が、いわゆる「佐々木小次郎」のモデルとなった兵法者のことであるのは、言うまでもない。そして武蔵と岩流の決闘の記事も、この小倉碑文が最初の史料なのである。
 しかし、すでに述べたように、武蔵自身の『五輪書』には、吉岡の名が出てこないと同じく、岩流の名もない。それゆえ武蔵がこれほど有名な英雄にならなければ、後人は岩流のことを知らず、岩流の名とて残らなかったであろう。岩流は武蔵に敗れたことによって名を残したのである。
 しかし岩流のことは、やはりよくわかっていない。岩流の名を「小次郎」とするのは、のちの肥後系伝記『武公伝』の、「巖流小次良ハ富田勢源が家人にて、天資豪宕壮健無比」云々の記事であり、またこれよりあとの『二天記』の、
《岩流小次郎と云剣客アリ。越前宇坂の庄浄教寺村のなり。天資豪宕壯健たぐひなし。同国の住・富田勢源が家人に成り、幼少より稽古を見覺え長ずるに及て勢源が打太刀を勉む》
という記事である。彼の名を「佐々木」小次郎とするのは、同じ『二天記』註記の、
《岩流は佐々木小次郎と云、此時十八歳の由なり。英雄豪傑の人なりとて武藏も是を惜みしとなり》
という部分である。しかし、両者より約半世紀前に書かれた筑前系伝記『丹治峰均筆記』では、武蔵を十九歳とし、
《巌流は流義の称号なり。津田小次郎と云ふ。長府の者なりとかや》
とあって、岩流は「津田小次郎」というのが、小次郎の名の早期史料である。また、元禄二年(1689)の『沼田家記』に、
《或年、宮本武蔵玄信、豊前へ罷越し、二刀兵法の師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕り、是も師を仕候。双方の弟子ども兵法の勝劣を申立て、武蔵小次郎、兵法之仕相仕候に相究》
とある。小次郎名の例は諸史料に出ているが、これのもとになったのは、下関周辺の地元伝説であろう。ただし、これも小倉碑文以後に発生した巌流島伝説である。小倉碑文は京都の吉岡一門について、「清十郎」「伝七郎」他の通り名を記録しているのだから、もし「小次郎」という名が当時知られていたら、それを記したであろう。
 さて、筑前系武蔵伝記『丹治峰均筆記』は、小次郎を長州の産としたり、決闘を武蔵十九歳のときするなど、肥後系武蔵伝記とはかなり系統の違う異伝ヴァージョンである。それより二十年以上前の筑前の海事文書『江海風帆草』には、この決闘は武蔵十八歳のときで、相手は「上田宗入」という兵法者である。この筑前の伝説は、肥後の伝説よりもさまざまな点において古型を保っているから、巌流島決闘は武蔵十代の事蹟とみることができる。
 したがって、肥後系武蔵伝記のように、これを慶長十七年、武蔵二十九歳のときの出来事とするのは、肥後で後世発生したローカルな伝説である。小倉碑文には吉岡と戦った二十一歳上洛の記事の後に、この岩流との決闘を配置するから、少なくともこれは武蔵二十代のことであろうともいえるが、碑文の記述順序は必ずしも年代順ではない。小倉碑文は「ここに兵術の達人有り」とのみして、武蔵の年齢を記載しないから、必ずしも武蔵二十代のとはなしえない。むしろ、関門海峡を臨む手向山の山頂に建碑されたこの武蔵碑のことだから、ここにわざわざ地元の武蔵事蹟として、とくに附記したのである。
 他方で、肥後系伝記にあるように、もし岩流が富田勢源の家人で弟子なら、彼はすでに当時高齢である。武蔵の相手にはならない。しかし他方、『二天記』注記のごとく十八歳の小次郎という伝承もある。かほどまでに、岩流の年齢も定まらないのである。
 歌舞伎や浄瑠璃の「佐々木巌流」は悪役の豪傑だが、そうでなくとも、武蔵の相手だからというのか、岩流には豪傑のイメージが早くからあったようだ。小倉碑文にもある三尺の白刃とは長い太刀である。これを抜刀するには、長大な腕臂をもちうる身長がなければならぬ。武蔵は身の丈六尺、当時では巨躯の人であったようだが、岩流はそれを上回る巨人であったということになる。「物干竿」(本朝武芸小伝)という程の大太刀を振るう岩流というのは豪傑の典型であり、この点で、富田勢源の弟子で、したがって当時高齢の老人というイメージは色褪せる。
 日夏繁高の『本朝武芸小伝』には、右掲のような説話を拾っている。負けを覚悟で舟島に乗り込む岩流というパセティックな像である。これは、判官贔屓、敗者への心情的加担からする伝承であろうが、後世の暴力的悪役の岩流という演劇的イメージとは対蹠的な像として、珍重すべきエピソードである。
 ここでも決闘の堅い約束という話が出てくるが、小倉碑文にある「堅く漆約を結ぶ」の、「漆約」というのもそれであろう。ただし、語釈上のことで言えば、この「漆約」が何であるか、従来不明で解いた者がいないのであるが、我々はこれを、文書に漆判〔うるしばん〕を押した当時の民俗と関係があると考えている。
 漆判はもとは奈良晒などの繊維製品の検査印である。漆判ならいつまでも消えない。そこから、堅い契約の証しとして漆判を契約書に押印したので、そこから堅い契約を漆約と呼んだのではないか、というのが我々の推測である。
 こうした厳密でフェアな決闘という伝承のある一方で、やはり、「汚い」武蔵という伝説もあったらしい。たとえば、天明三年(1783)の古川古松軒の『西遊雑記』にみえる赤間関の採集記事がそれである。
 それよりもっと早期のものでは、元禄年間に成ったという『沼田家記』の右掲の記事がある。「延元様」というのは巌流島の決闘当時、細川藩家老で門司城代であった沼田延元、彼が残した日録を子孫が編纂したというのがこのテクストであって、むろん本人の著述ではなく、後の付会もあろう。
 これは正確な写しがあまり流布していない史料なので、念のため本文を右に掲げ、その内容を逐語的な訳で以下に明らかにしておく――。
 延元が門司にいたある年、宮本武蔵玄信が豊前へ来て、二刀兵法を教えていた。その頃、小次郎という者が岩流の兵法を教えていた。双方の弟子共が師の兵法の優劣を申し立て、武蔵と小次郎が試合をすることに決まり、豊前と長門の間の彦島(後に巌流島)で対決した。双方とも弟子は一人も連れてこない約束で試合をしたところ、小次郎は打ち殺されてしまった。というのも、小次郎方はかねての約束通り弟子は一人も来なかったが、武蔵側の弟子たちはやって来て、隠れていた。小次郎は武蔵に打ち倒された後、息を吹き返したが、武蔵の弟子たちが集まってきて小次郎を打ち殺してしまったのである。このことが小倉へ伝わると、小次郎の弟子たちは一味して〔徒党を組んで〕、是非とも武蔵を討ち果たそうと、大勢で舟島へ押し渡ってきた。このため武蔵は、難を避けて門司へ逃げてきて、ひたすら延元の庇護を求めたので、武蔵を城中にかくまった。それで、武蔵は助かったのである。その後、武蔵の身柄を豊後へ送ることになって、石井三之丞という馬乗りに、鉄砲の者たちを付けて、道中を警護したので、無事に豊後へ送り届け、武蔵の親無二斎という者に渡した。
 ――ということで、この記事は前出『武芸小伝』と一部照応するところがある。『沼田家記』によるかぎりでは、武蔵は小次郎を倒して勝ったが、彼を絶命させたのは武蔵の弟子らであり、そのため悶着が生じて、武蔵は門司城代の沼田のもとに避難せざるをえなくなり、さらに、当時細川家所領だった豊後へ身柄を護送された、という話である。
 武蔵の身柄を受けとったのは、無二斎という名の人物である。これが『沼田家記』のいうように武蔵の父新免無二であったとなると、この逸話は伝説の閾を出ない。むしろ、小次郎に心情的に加担した地元長門の伝説祖形を反映しているという点で、上記の『江海風帆草』や筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』と照合しつつ読まれる必要がある。ただし、地元長門の伝説祖形では、門司城主は武蔵の応援団で、いわば敵役である。『沼田家記』の記事は肥後時代になって書かれたもので、自身が敵役になっていることを知らない、後世の伝説である。
 ともあれ、この巌流島の決闘は、早期から諸伝異説の花ざかり、少なくとも長州及び北九州の地方的伝説には多様なものがあったらしい。小倉碑文の記事は、その中でも最初期のものとして、極めてシンプルな内容を記すのみである。巌流島決闘に関しては、本サイト[坐談武蔵]に詳細な検討がなされているので、それを参照されたい。  Go Back

巌流島(船島)望見
手向山山上から




佐々木巖流(岸柳)
武稽百人一首






*【本朝武芸小伝】
《中村守和曰く、巌流、宮本武蔵と仕相の事、昔日老翁の物語を聞きしは、既に其の期日に及びて、貴賎見物の爲、舟島に渡海する事夥し。巌流も船場に至て乗船す。巌流、渡守に告げて曰く、今日の渡海甚し、いかなる事か在る。渡守曰く、君知らずや、今日は巌流と云ふ兵法遣、宮本武蔵と舟島にて仕相あり、此の故に見物せむとて、未明より渡海ひきもきらずと云ふ。巌流が曰く、吾其の巌流なり。渡守驚き、さゝやいて曰く、君巌流たらば、此の船を他方につくべし、早く他州に去り給ふべし、君の術神のごとしと云ふとも、宮本が党甚だ多し、決して命を保つこと能はじ、と。巌流曰く、汝が云ふ如く、今日の仕相、吾生きむことを欲せず、然りと雖、堅く仕相の事を約し、縦ひ死すとも約を違ふる事は勇士のせざる處なり、吾必ず船島に死すべし、汝わが魂を祭りて水をそゝぐべし。賎夫と雖其の志を感ずとて、懐中より鼻紙袋を取出して渡守に与ふ。渡守涙を流して其の豪勇を感ず。既にして舟、船島につく。巌流、舟より飛下り武蔵を待つ。武蔵も又爰に来りて、終に刺撃に及ぶ。巌流精力を励まし、電光の如く稲妻の如く術をふるふと雖、不幸にして命を舟島にとゞむとなり》

*【西遊雑記】
《赤間ヶ関にて土人の云ひ傳へを聞しに、板本に記せしとは大に異なり。岩龍、武蔵の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時、浦のものとも岩龍をとゝめ、武蔵の助門人を数多引具し先達て渡れり。大勢に手なしといふ事有り、一人にて叶ふまじ、今日はひらに御無用なりといふ。岩龍が曰、士は言さはまず、かたく約せしなれば、今日渡らさるは士の耻るところ也、若し大せいにて我を討は耻辱はかれにぞあるべけれといふておして島に渡る、はたして門人の士四人與力して終に岩龍討る、初止めし浦人岩龍が義心にかんし墳墓を築しよりかくは稱することゝなれり、虚實は知らざれども土人の物語のまゝを記して後の考へとす、或人また宮本の子孫小倉の家中に在り、武蔵の介墓もありて、岩龍島に相對せりと云》

*【沼田家記】
《延元様、門司に被成御座候時、或年、宮本武藏玄信、豊前江罷越、二刀兵法の師を仕候。其比、小次郎と申者、岩流の兵法を仕ひ、是も師を仕候。双方の弟子共、兵法の勝劣を申立、武藏・小次郎、兵法之仕相を仕候ニ相究、豊前と長門之間ひく島に出合(後に巌流島と云ふ)、双方共ニ弟子壱人も不参筈ニ相定、試合を仕候處、小次郎被打殺候。小次郎方ハ、如兼約、弟子壱人も参ず候。武藏方は弟子共數人参、隠居申候。其後、小次郎蘇生致候得共、彼弟子共参合、後ニも打殺申候。此段小倉江相聞へ、小次郎弟子共、致一味、是非とも武藏を打棄と、大勢彼島へ参申候。依之、武藏難遁門司江遁、延元様を偏ニ奉頼候ニ付、御請合被成、則城中ニ被召置候ニ付、武藏、無恙運を開申候。其後、武藏を豊後へ被送遣候。石井三之丞申馬乗ニ鉄砲之共ども御附被成、道を敬護致し無別条豊後へ送届、武蔵親無二斎と申者ニ相渡申候由に御座候事》





巌流島から門司城


[坐談武蔵] 伝説としての巌流島決闘
     →  Enter 
 
 (13)兵術の勝負六十余場、一として勝たざる無し
 武蔵が十三の歳から六十回以上も決闘して、一度も負け知らずであったということ、これは『五輪書』に記すところである。
 しかし碑文の記事は、それより以上のことを語る。すなわち、それが「敵の眉八字の間を打たずば勝を取らず」と武蔵がつねに言っていたし、また、事実その通り眉間の的を外さなかったという記事である。
 この眉間の的というのが、武芸談において何やら格別の意味があるらしく、他の伝記史料でも少なからず見受ける話である。鉢巻の額に血が出た、褐色の鉢巻だったので、その打撃が確認できなかった、云々の話題である。しかし、これはいささか瑣末な話題のようでもある。
 武蔵の『五輪書』その他兵法書に、こんな眉間を的にするなどという話のないことからすれば、これは世間で生じた武蔵伝説であろう。武蔵が言うのは、敵の顔面を刺すという必殺攻撃であり、そうして敵の怯むところを打込むという攻め方である。敵の眉八字の間を打たなかれば勝ったとは言えないというのは、どちらかと言えばスマートさを称揚する勝ち方の美学に属するもので、非実戦的な話である。『五輪書』の武蔵の所論に拠るかぎりでは、こんな話を武蔵がしたとは思えない。
 碑文のこの部分は文飾旺盛で、武蔵を大いに賛美している部分である。他方、後世の武蔵伝記が、武蔵の事跡を多く伝えるのに対し、いかにもこの碑文の記事は具体的な名を記さない。たとえば右掲示の『二天記』の記事は、吉岡との対決以後、岩流との決闘までの間の武蔵事跡だが、小倉碑文によっては窺えないし、むろん『五輪書』にも記述のない話である。武蔵評伝が引用するこの逸話は、『二天記』の種本『武公伝』にもない記事で、十八世紀後期の肥後の伝説である。このことからすれば、武蔵伝説が時代を追って増殖していくという明らかな印象がある。
 しかし一方で、武蔵が二十代までに六十回以上も対戦したというのに、『丹治峯均筆記』の立花峯均が嘆く如く、武蔵の事跡伝承は指で算えるほどで、あまりにも少なすぎるという感がある。武蔵の対戦記録は、その大半が失われているのである。この事実は改めて認識される必要がある。
 他方、武蔵は六十回以上も決闘したかもしれないが、当時有名な剣客はほとんど相手にしておらず、どれも無名の兵法者ばかり、弱い相手としか武蔵は対戦しなかったのではないか――そういう話は昔からある。我々はこの手の批判には関心がない。武蔵の対戦記録は、大半が伝えられていないからだ。
 武蔵自身がその名を記録した有馬喜兵衛や但馬の秋山にしても、彼らがどんな者であったか知るにほとんど材料がない。巌流島決闘にしても、おそらく九州ローカルの伝説があって、偶然保存されたものであろう。何度も繰り返し言うように、この岩流との試合にしても、武蔵自身は何も語り残していないのである。
 武蔵は大した相手とは対戦していない――そういう批判は、武蔵が誰と戦ったか、具体的に知ってからでないと意味があるまい。むしろ、『五輪書』風之卷の他流批判からすれば、対戦はむしろ理論的闘争のようである。理論的な次元では、武蔵は他流一切を粉砕したのである。
 武蔵にとって兵法は剣術のみではない。実戦のリアルな殺し合いの場で勝つということからすれば、おそらく武蔵の眼には、当時有名な剣客の手業も児戯に類するゲームと見えたであろう。この狷介な思想家が遺したテクストは、不断にそのことを語っているはずだ。  Go Back

鎖鎌 銘くにかね作
寛文年間



*【二天記】
《一 同年、南都寶藏院覺禪坊法印胤榮の弟子に奥藏院ト云日蓮の僧あり。鎗術の達者なり。武藏彼僧に遇ひ、鎗術を試すに、僧鎗を以て立向ふ。武藏は短き木刀を持て立會相ひ兩度勝負をなすに僧利なし。依て武藏が技術を感賞して、院に停め饗應あり。其夜談話するに已に曙んとす。武藏走りぬ。
一 武藏伊賀國にて、宍戸何某と云者鎖鎌の上手也、野外に出て勝負を決す。宍戸、鎌を振出すを、武藏短刀を拔き宍戸が胸を打貫き立所に斃れしを進て討果す。宍戸が門弟等拔連れ各斬れ懸る。武藏直ちに大勢を追崩せば四方に逃去す。武藏悠然として引去る。
一 武藏江戸に至りし時、一傳流丸目主水が傳に波多野二郎左衛門と云人あり。武藏に對し刺撃の理を改作爲んことを請ふ。武藏其利を諭し技を改め一傳流と號す。波多野、後に入道して宗件と云ふ。技藝卓絶して世に其名有て門弟も多しとなり。
一 武藏江府に在りし時、夢想權之助と云者來りて勝負を望む。權之助は木刀を携ふ。武藏、折節楊弓の細工有りしが、直に割木を以て立向ふ。權之助會釋も無く打てかゝる。武藏一打ちに撃仆す。依て閉口して走る》
 
 (14)武藏、常に言へり
 このあたり、撰者は「わかりやすい武蔵」とでもいうべき線を狙って書いた、としか思えない文章である。この撰者が通俗的な教養しかもっていないというよりも、ある種、啓蒙家として書いたところであろう。
 兵法に習熟し無私になれば、戦場で大軍を率い、平時には国を治めることは難しくない――こんな俗耳に入り易く、誰でも言いそうなことを、わざわざ武蔵の教訓にするのである。武蔵はもっと重要なことを語っていたはずである。ただし、こういう論理は武蔵の世代のものでもない。天下泰平の世の教訓であるにすぎない。
 とはいえ、この碑文が、大げさに武蔵を讚えるところから、思いがけない別の暗示を得ることができる。それは、《豊臣太閤公の嬖臣〔へいしん〕・石田治部少輔〔ぢぶしやうゆう〕謀叛の時、或は攝州大坂に於て秀頼公兵乱の時》とある箇処である。ここでは、関ヶ原役も大坂の役も、明らかに徳川方の立場から書かれている。
 関ヶ原合戦のとき、武蔵が西軍の宇喜多麾下で働いたという説もあるが、それは明治末に発生した武蔵産地美作説から結果する謬説である。大坂の陣のとき、武蔵は豊臣方で戦ったという説もあるが、これも誤謬明白な憶説である。武蔵は、『丹治峯均筆記』にあるように、播州から出世した黒田如水に従って九州で戦いに参加していたとすれば、関ヶ原は参戦していないし、大坂の冬夏の役では、水野日向守勝成の与力で、これも徳川方であった。でなければ、その戦後、姫路城主本多忠政や明石城主小笠原忠政といった親徳川大名に、親近することもありえまい、というところである。
 ただし、いったい武蔵がこうした合戦にどんな具合に関わっていたのか、それは不明である。武蔵自身もそして伊織も何も記していないからだ。
 関ヶ原や大坂の合戦、その時の武蔵の勇功と佳名、これはたとえ海の口、渓の舌があっても、説き尽くせるものではない、ここでは省略して記さないことにする、と碑文は記すが、実は語るべき材料がなかったようである。武蔵は伊織にさえ、具体的なことは何も語ってはいなかったようである。  Go Back


関ヶ原合戦


出光美術館蔵
大坂夏の陣
 
 (15)禮樂射御書数文に通ぜざる無し
 次に碑文は、武蔵がそういう兵法者・武芸者であると同時に、「禮樂射御書数文に通ぜざる無し」という幅広い教養の持主だったとする。
 このうち「禮樂射御書数」は、古代中国で言っていた「六芸」〔りくげい〕のことである。士以上の階級の者の必須学修すべきものとされた諸芸である。禮(礼法)・樂(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(書道)・数(算術)がそれである。
 これを六芸とするのは『周礼』以来だが、前漢のころからは意味が変り、『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』の六経を「六芸」と称する例が出た。よく引かれるのは、董仲舒『春秋繁露』玉杯で、そこでは、この六芸(六経・六学)の偏りなき学習による徳性の涵養を勧めている。
 それはともかくとして、「禮樂射御書数文に通ぜざる無し」は、周礼の六芸に文(詩文)を加えて、「七芸」としたものである。むろんこういう表現は顕彰賞讃の修辞であり、たいていは割引いて読むのだが、武蔵の場合は、いまに遺る書画をみても多芸であったことが知られる。
 武蔵は、『五輪書』地之卷冒頭近く、
《兵法の理にまかせて諸藝諸能の道を學べば、萬事に於て我に師匠なし》
と書いている。狷介なポジションである。また、他では同じく地之卷後書に、「我兵法を学ばんと思ふ人は、道をおこなふ法あり」として、有名な九ヶ條をあげる中に、
《第三に、諸藝にさはる所》
とあったのが記憶されるところである。武蔵は「文武両道」という言葉の体現者であったとは云えるが、ただ彼には文武両道、それだけでは盡きない何かがあった。
 なお、一部解説書に、この「禮樂射御書数文に通ぜざる無し」という部分を、「禮樂、射御、書数の文に通ぜざるなし」と間違って読んでいるものが戦前から後を絶たないが、それは「六芸」のことを知らないためである。これを機に、諸氏に注意しておきたい。  Go Back

 
 (16)言を以て遺像と爲せり
 すでに見たように碑文上部に、「天仰實相圓満兵法逝去不絶」の十二文字が刻まれている。碑文に拠れば、これは、正保二年(1645)五月十九日肥後熊本で死去した武蔵が、死の直前に記した文字らしい。まさに「最後の武蔵」の言葉、遺偈である。
 これを上部に掲げて、顕彰頌徳文がその下にくるというのが、この碑の意匠である。言を以て遺像と爲す、ということに忠実であったわけだ。
 この宮本武蔵の記念碑、顕彰碑を建てたのは、「孝子」、宮本伊織である。この伊織については、本サイト他ページで詳しく論じられているので、ここでは贅言を要しない。

 「天仰實相圓満兵法逝去不絶」の遺偈に関連して、ひとつ考えておきたいことがある。それは、この小倉碑文には、かの有名な武蔵の『五輪書』に関する記述がないことである。それを不審に思う人もあるので、ここで若干補足しておこう。
 もとより「五輪書」は後の通称であり、本来は武蔵流内部で「五巻の兵書」などと言っていた、タイトルなき書巻である。これが有名になるのは後世のことで、小倉の建碑段階では世に知られたものではない。ここに記述がないのは当然である。
 『五輪書』の伝系がはっきりしている吉田家本では、寺尾孫之丞が柴任三左衛門に『五輪書』を相伝したのは、この手向山建碑の約半年前、前年承応二年(1653)十月二日である。『五輪書』と後に呼ばれる五巻の兵書が、広く世間に知られ写本も多数出回るようになるのは、まだ先のことである。したがって、承応三年建碑の時点では、伊織の念頭には五巻の兵書のことはあったとしても、それを後人のごとく武蔵の主著とすることはなかったのであり、それゆえ碑文に記載がないのである。
 今日の状況から見て、小倉碑文に、かの有名な武蔵の『五輪書』に関する記述がないことに不審を抱くのも当然であるが、当時のリアルタイムの経緯をみれば、まだ五巻の兵書は世に出ていないのである。
 その五巻の兵書は、そもそも武蔵が寺尾孫之丞に遺品として贈与した未完成の草稿文書であり、まだ寺尾孫之丞一人が握っているもので、武蔵流兵法の嗣系ではないらしい小倉の宮本伊織は、建碑の時点ではその全体は見ていないだろう。だが、上述のように、『五輪書』地之巻冒頭の自序部分を見ていないと書けない語句があり、伊織がすでにその一部の写しを寺尾孫之丞から手に入れていた可能性がある。
 これに関連して、ひとつ興味深い点がある。これもまだだれも指摘した者がいないので、ここで特に注意を喚起しておくが、上記の吉田家本はじめ筑前系『五輪書』空之巻にある相伝証文のことである。
 すなわち、承応二年(1653)十月二日、寺尾孫之丞は、門人の柴任三左衛門美矩に『五輪書』(地水火風空之五卷)を相伝した。そのおりの証文に、実は、この小倉碑文への言及がある。《実相圓満兵法逝去不絶、是は玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也》と。しかし、これには若干説明が必要であろう。
 というのも、明敏な読者ならすでに気づかれているだろうが、「実相圓満兵法逝去不絶」と記銘するのは、小倉の武蔵碑であり、いうところの「玄信公碑」とは、それにほかならない。しかしそうなると、前後関係が合わないのである。つまり、
    承応二年(1653)十月二日 寺尾孫之丞相伝証文
    承応三年(1654)四月十九日 小倉武蔵碑建碑
 半年先に豊前小倉に建つ碑文の内容を、寺尾孫之丞相伝証文が記しているのである。これをどのように考えるべきか。
 ひとつは、肥後の武蔵墓に、この「実相圓満兵法逝去不絶」という記銘があったという想定である。武蔵死後の伊織の礼状によれば、細川家が武蔵の墓所を肥後に設けることになっていたようである。したがって、武蔵の最初の墓は肥後に設けられたのだが、本サイト[資料篇]宮本武蔵伝記集の『武公伝』読解のページに解説されているごとく、これは熊本近郊の大江村に設置されたものと思われる。
 この肥後の武蔵墓に、すでに「実相圓満兵法逝去不絶」という記銘はあった。したがって、承応二年(1653)十月二日の寺尾孫之丞の相伝証文が謂うところの、「実相圓満兵法逝去不絶」と記した「玄信公碑名」とは、肥後の武蔵墓のそれであろうとみなしうる。
 それに対し、可能なもう一つの見方は、つまり、寺尾孫之丞は半年後に建碑される「玄信公碑」の中身を知っていた。また、知りうる立場にあったと。こちらの方が話は面白くなる。
 しかしながら、当然反問があるだろう。寺尾孫之丞は武蔵高弟とはいえ、肥後の人ではないか、彼が豊前小倉の「玄信公碑」の中身を事前に知りうるだろうか。
 それについて詳しくは本サイト別掲論考を参照していただくとして、寺尾孫之丞は武蔵と同様、どこにも仕官していない自由な身分、何らかのかたちで小倉の武蔵碑建設に関与した可能性は大いにある。
 また、武蔵が播州明石から小倉へ来て以来、武蔵に随仕した可能性がある。右の相伝証文にもあるごとく、「我等数年工夫いたし候所も」であれば、武蔵に数年(多年)学んだのだし、『丹治峯均筆記』にも寺尾孫之丞が「多年の功」を積んだとある。そうなると、寺尾孫之丞は五年どころか、少なくとも十年以上武蔵に隨仕した門弟だったのであり、とすれば武蔵小倉時代からずっと弟子だったことになる。しかも、小倉は寺尾孫之丞の故郷である。寺尾孫之丞は、小倉生れの小倉育ちなのである。
 加えて、寺尾孫之丞が武蔵に長く隨仕した門弟だったとすれば、小倉に新設される「玄信公碑」の中身を事前に知りうる立場にあっただろう。もっと云えば、寺尾孫之丞は、師匠武蔵の墓の移転事業に直接関わった可能性がある。それゆえ、相伝証文の「玄信公碑」への言及は時間的に不都合はない。逆に、「玄信公碑銘」すなわち小倉碑文に言及した最初の(しかも事前の)史料だという評価になる。
 ともあれ、以上素描したことがらは、「玄信公碑」建碑の周辺事情として、今後の研究に期待したい。

 武蔵は、「地水火風空」などと五輪塔をしゃれて、五巻の兵書を著述したのだが、この不可視の五輪塔はまだ一部の者しか知らなかった。いうまでもなく、五輪塔は墓石である。「孝子」宮本伊織による武蔵碑は、上述のように武蔵の墓碑でもあり、それは小倉郊外に現存する。かたや、かの不可視の五輪塔は武蔵流の相伝書として後世に伝わり、『五輪書』という名で現代に残る。
 最後にひとつ付け加えるなら、墓碑であるこの武蔵碑のその後のことである。この点につき、フェリーニの映画の一場面を思わせるような、なかなか興味深い逸話がある。それを吉川英治『随筆宮本武蔵』(昭和十四年)が拾っているので、ここで引用して参考に供したい。以下はその部分である。

午眠布袋図
宮本武蔵 午眠布袋図(部分)




海北友松 琴棋書画図(部分)









小倉武蔵碑 頭冠部遺偈
天仰實相圓満兵法逝去不絶










*【寺尾孫之丞相伝証文】
令伝受地水火風空之五卷、~免玄信公予に相傳之所うつし進之候。就中空之卷ハ、玄信公永々の病気に付テ所存之程あらはされず候。然ども四冊之書の理あきらかに得道候て、道理をはなれ候へバ、おのづから空の道にかなひ候。我等数年工夫いたし候所も、道利を得ては道利をはなれ、我と無爲の所に至候。只兵法はおのづからの道にまかせ、しづか成所うごかざる所に自然とおこないなし、豁達して空也。
実相圓満兵法逝去不絶、是は玄信公碑名にあらはしおかるゝもの也。能々兵の法を可有鍛錬也。以上
  承應二年十月二日 寺尾孫丞信正
                    在判

九州大学蔵
寺尾孫之丞相伝証文 部分
吉田家本五輪書




















五輪塔

 それらの事を今、私がこゝに云ひ竝べるよりは、小倉郷土會の主催にかゝる「武藏座談會」の席で、同地の郷土史研究家たちへ話した地元の古老向井氏の談の一節のはうが、遥かに分りよいし、實感も伴ふわけだから、(中略)無斷ながらこゝに引用さしていたゞくと。
 (向井老の談)
……あの碑を田向山から今の延命寺へ移轉いたしました當時、私はちやうど區長を務めてをりました關係から、知つとるだけの事をお話致してみますが、明治二十年にあそこへ砲臺を建設するために、碑を掘り出したのであります。それに使つた男が二人で、ひとりは金〔きん〕、ひとりは仙と申しました。
 座談會に出て話をせいといふお話がありましたので、昨日私は、その二人の家を訪ねて行つてみましたところ、二人共もう故人となり、そのうちの仙〔せん〕の息子に會ひまして、訊ねました所が、何も記憶がないが、その時拾って歸つたといふ一文錢を保存してゐると申しまして、此處に持参したものを貸してくれました。(錆となった古錢の破片二、三を示す)
 私もその當時の職掌がら、多少お世話もし、報告も受けてゐたわけでありますが、何でも碑の下を掘ったところ二つの大甕が現はれて、その一つの石ブタを開くと、大たぶさを結び、紋服を着た大男の遺骸が、澄んだ水に浸つてゐたが、外氣に觸れると間なく崩れたやうになつてしまつたといつて騒いだ事は、今にたしかに記憶してをります。何分、大きな墓石の事とて、移轉は大仕事でした。第一運搬する道から拵へてかゝつた位で、人夫も相當たくさん使ひました。當時女人夫は一日八銭、男が十二錢ぐらゐであったと覺えてをります……云々。
            ○
 甕は二つ出たとある。甕の一つには人間が這入つてゐたとして、もう一つの甕には何が這入つてゐたらうか。もしや武藏の遺品などではなかったらうか。有つたとしたら何うしたか。
 さう云つた席上の質問に對して、向井老が答へた所を綜合してみると、はつきりは覺えてゐないが、宮本家の子孫も親しく立會つた事ではあるしするから、遺品などが出たとすれば粗略にする筈がなく、これは多分確かと思ふが、新しい甕の中へ總てを収めて、移轉した延命寺山に建設し直す時、新規の場所の地下に埋〔い〕けたことゝ覺えてゐる――と云ふのである。
 それから又、先に出た古い大甕の處置に就ては、
 (向井老談)
――何か入つてゐたとは聞いてゐましたが、それが何であつたかは詳しく記憶してをりません。甕だけは、私が些細な代金で買取り、現に私の甥の家にあります。もう一つは當所の伊東家に保存してあるかと思ひます。
とも語つてゐる。
 私を案内してくれた朝日の支社の人たちも、その話は信じてゐるらしく、大甕を見た人の鑑賞に依ると、それは昔、水甕として使はれたこの地方でいふハンド甕と稱する種類の燒物だといふ事であつた。
            ○
 こゝでたゞ怪訝られるのは、遺品だけならよいが、大甕の中に紋服で端坐してゐたといふ人間の遺骸はいつたい誰か、といふ疑問である。
 武藏の終焉の地熊本には、武藏の遺品を葬つたといふ武藏塚がすでにある。また田向山の碑は、歿後九年後の物だし、掘起した人夫の話に「大たぶさに結つてゐた――」といふ事をその儘とすれば、それは晩年の武藏その人の結髪とは元より受けとれない。
 けれど小倉の地方には、武藏の遺骸は、歿後養子の伊織が迎へ取つて、田向山の菩提所に葬つたので、熊本のそれは分髪の墳墓であるといふやうな説も一部にある事はあるのである。
 細川家と小笠原家との姻戚關係だの、又、小倉の大淵和尚と、熊本の春山和尚との師弟關係だの――猶、武藏を養父とする宮本伊織が小倉藩の家老であつたなどの密接な點を考へてゆくと、いづれにせよ武藏の遺骸問題もなかなか、さう簡単にどこと斷定はできないものがあるやうに思はれる。

 話は以上のような内容だが、「小倉の大淵和尚と、熊本の春山和尚との師弟關係」などという吉川英治特有の誤認は別としても、明治期に移設されたこの武蔵の記念碑は、昭和三十八年元の場所に戻されたことを、付記しておきたい。七十五年の不在であった。
 この再移転の時、石碑の下から遺品が出てきた。骨壷と銅鏡一枚である。骨壷は武蔵の遺骨らしく、中に書付があったが文字は判読できない、銅鏡背面には「高砂」の文字が浮き彫りになっていて、また「天下一藤原義信」の銘があるという。
 骨壷の書付については、技術的問題が片付けばそのうち解読できるだろう。鏡の「天下一藤原義信」の銘に関して言えば、これは鏡作りの銘で、武蔵の名(藤原玄信)とは無関係である。
 さらに、鏡の「高砂」という文字については、これは『五輪書』でも武蔵が言及している謡曲「高砂」のことである。武蔵は能を舞う芸もあったらしいので、これは武蔵の遺品であろう。
 しかしこの「高砂」について、播州高砂(兵庫県高砂市)と関係づけ、これをもって武蔵の故郷が高砂だという証拠だ、という珍説があるが、それはむろん間違いである。論者の言うところをみると、どうやら印南郡米田村と高砂町とを混同しているのである。かつての米田が高砂市の一部になったのは近年のことである。それまでは米田と高砂は別の町である。
 ともあれ、ここは、武蔵は『五輪書』で謡曲「高砂」に言及するほどで、この曲を好んでいた、そこでだれかが鏡を遺品に入れた――それ以上の意味づけをする必要はない。
 ようするに、昭和の再移設・復帰のとき発見されたのは、骨壷と書付一枚、それに銅鏡――これだけである。もちろん大甕も紋服の大男も出るはずがない。
 しかしこれをもって、明治の移設時発掘されたという二つの大甕とその中身の話を、「怪談」として一蹴はできないのである。上記の向井老本人が大甕を買い取ったとすれば、その時確かに大甕は出たのであり、その中身の多くはこの時に逸失したものと思われる。そして残ったのが、骨壷と銅鏡一枚なのである。
 とすれば、明治の発掘時に発見されたという話の、大甕の中にいた大男の遺骸のことは、まだ片づいていないのである。武蔵に殉死した者があったという伝説はないが、実は武蔵歿後に死んだ者で、武蔵と「特別な関係」があって、小倉で武蔵の甕棺の脇に埋葬された者があったということか。このミステリーも、小倉碑文に関連した武蔵研究には無視できない素材なのである。
 なお、余談になるが、これに似た面白い話がもう一つある。これは、そもそも肥後の武蔵の遺骸はどうなったか、ということである。
 武富圮南*が撰述したという「玄信伝」なるものがあったらしく、その一部が引用されて残っていた。明治の漢学者・岡鹿門が自著『淡路游乗』に、岡田鴨里(頼山陽の高弟、淡路の学者)の『西游雑記』の「巖流島」一章を写し、そこに武富の「玄信伝」の一部も拾録していたのである。かようにも断片でしかないが、森銑三の曾孫引きでは、こういう話であった――。
 武蔵は病気で死に、霊巌洞に葬られた。義子伊織は、小倉侯(小笠原忠政)に仕えて家老となっていたが、特に武蔵の義墓を内裏(大里)に建てた。武蔵の遺体は、すでに肥後の霊巌洞に葬られていたので、この小倉の「義墓」には遺骸はない。天明年間(一七八〇年代)に霊巌洞の塚が崩れて、埋葬された髑髏が露出した。齋藤権助がこれを拾って持ち帰り、崇敬して所蔵した、云々。
 これによれば、武蔵の遺骸の埋葬場所は、最初は霊巌洞である。しかし歿後百四十年ほど後に、塚が崩壊して髑髏が出てきた。それを斎藤権助という者が拾って自分の物にしたということである。
 肥後で斎藤権助(権之助)といえば、斎藤芝山(1748〜1808)のことではないかと思うが、ともあれ、この伝説の最大の関心事、すなわち、この髑髏がその後どうなったか、記録は、ない。
 こんな伝説もあった、ということである。つまり、斎藤芝山にまつわるこの咄そのものが後世の伝説である。それというのも、武蔵百五十回忌の年(寛政六年)に、筑前二天流の大塚藤郷が肥後熊本へ旅行しているが、そのとき斎藤権之助に直接会って、武蔵の本当の墓はどこにあるかと尋ねている。ところが、斎藤本人は知らなかったのである。
 それゆえ、天明年間、霊巌洞の塚が崩れ埋葬された髑髏が露出し、斎藤権之助がこれを拾って持ち帰り崇敬して所蔵した、とやらの話は、はじめから事実ではない。その伝説が孫引きされて、上記のような「玄信伝」の記事になったのである。
 大塚藤郷は熊本へ来て、龍田の武蔵塚は武蔵の真墓ではないと聞いて、地元の事情に精通しているはずの斎藤にそれを訊ねたが、斎藤は知らない。埒が明かないので、次に師範役の山東佐十郎(彦左衛門)に会って尋ねると、それは極秘だが実は島崎村の霊樹院にあるということで、山東に案内されて大塚は霊樹院の墓地にそれを見た。寺僧の話だと、寺尾(孫之丞)信正が「報仇の者もやあらん」と慮って、信正父子が武蔵の遺骸を背負って此地に運び密かに埋葬したという(肥後紀行)。
 ようするに、大塚自身「駁雜紛々たるを散じがたし」と怪訝の感を抱かざるをえないのだが、武蔵死後一世紀半ともなれば、武蔵の墓の所在について、肥後では異説紛々たるありさまだったのである。というのも、実際は、武蔵十回忌にさいし、宮本伊織が「父」武蔵の墓所を豊前小倉へ移したのだから、すでにとうの昔に肥後には武蔵の墓はなかったのである。
 龍田であれ島崎であれ、あるいは八代であれ、肥後にあるのは、どれも武蔵の墓と呼べるものではない。武蔵の墓と呼べるものは、もっとも墓碑らしくない石塔であるところの、小倉の武蔵碑なのである。  Go Back


ハンド甕


武蔵碑埋葬銅鏡


宮本武蔵銅像
熊本市 武蔵塚公園



*武富圮南(ひなん)
幕末の漢学者、明治の旧雨社の長老
[文字化け]武富の名にunicode tagを使用しているので、「?」と表示されるケースがある。文字は「土+己」である。

*【玄信伝引用断片】
《病みて歿す。霊巌洞に葬らる。義子伊織、小倉侯に仕へて宰と為る。特に義墓を内裏に建つ。武蔵已に霊巌洞に葬られて、墓に主たる者無し。天明中塚崩れて、髑髏を出す。齋藤権助拾ひて帰り、崇敬以て蔵す。権助侠を以て聞ゆ。豪傑隊長たり》





*【肥後紀行】
《きゝおよぶ斎藤權之助こそ、此國にてハ武事に達し、易學左氏等にも委しきよしなれバ、かれに眞假の趣をきかばやと、權之助が許をたづねて對面し、其よし物語せしに、權之助もしらず。よつて當國にて二天流の師役たる山東佐十郎に尋ねきかせんとて、書簡を認めて招くに、程なく佐十郎、志摩是介同伴にて、入來る》
《事々を見聞、胸裏のうたがひにをいてをや、駁雜紛々たるを散じがたし。寺僧がいはく、先師六十余士に討勝玉ひしかバ、御設故報仇の者もやあらんと、信正遠慮あり。信正父子、竊に御骸を背負ひ、こゝに到り、住僧にも密結て埋葬し、大津馬場ハ徃來のしげき所ゆへ、假に御墓を儲て人にしらしむ。何れの比にや、龍田の御墓を發しものありしかど、空棺なりしとか》



 PageTop   資料篇目次   Next