【評 注】
(1)写し覚
これは、前出・宮本村古事帳(白岩家文書)の「ひかへ(控)」と同じことであろう。領主の津山城主・森家に提出した原本の写しを控え(副本)として保存したらしい。ただし、現存資料は写本であり、この点、前述のように、史料的価値はかなり減少する。ここでは、当該写本により、関連記事についてその内容を分析する。宮本村古事帳と記事が重複する点、ある意味で興味深い。
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(2)搆屋敷跡御座候・・・古宮本無仁住居仕候
これも、前出・宮本村古事帳の記事と一致する。搆の屋敷跡が宮本にあり、その昔、「宮本無仁」が住んでいたとの記事である。
ただし、こちらは、「下庄村宮本」の在家の中に、搆の屋敷跡があるということである。「下庄村宮本」とはつまり、独立した「宮本村」という扱いではない。この点注意を喚起しておく。
この下庄村古事帳は、宮本村古事帳とは同年のものである。したがって、同年の文書であるにもかかわらず、武蔵関連記事だけが重複している。これが注目されるところである。
下庄村古事帳では、この搆居の大きさが報告されている。すなわち、大きさ三十間(五五m)四方、つまり九百坪ほどである。この地方の搆居としては小規模とは言えないが、中規模どまりである。
周辺遺搆からすると、この搆居は、北を宮本川、西と南に掘割を設け、三方を堀と石垣で防ぎ、東に山を控えるという姿であったようである。播磨道からの侵略を防備する砦である。
下庄村宮本に搆屋敷跡があって、三十間四方というのは、古事帳の本来の記事であろう。これは宮本村古事帳が記さない記事である。ところが、宮本村古事帳と同じように、「むかし宮本無仁が住んでいた」という伝説を記す。
ここで出た名は「宮本無仁」である。このように武蔵の「父」に宮本姓を冠するのは、事情を知らない後世の伝説であることを示している。武蔵養子の宮本伊織が泊神社棟札に記したように、武蔵は新免無二の家を相続して新免氏になったが、宮本姓を名のるのは武蔵の代からである。したがって、新免無二が「宮本」を名のるはずがない。この美作の伝説は、武蔵の「父」は宮本姓ではありえないことを知らない環境で、発生しているのである。
なお、前述のように、宮本村古事帳の宮本「武仁」に、「たけひと」とルビをふる者があるが、それは却下すべき謬説である。下庄村古事帳の宮本「無仁」を、「たけひと」と読むことはありえないから、当時の呼び名は「むに」とすべきである。こうしたことは、ヴァージョンの異なる文書をつき合わせてはじめて判明するのである。
ただし、こちらの下庄村古事帳の「無仁」は「むに」の当て字なのだが、この文字はまずいし、ひどい。「無仁」となると、「仁なし」となるから、よほどの思想的意図がなければ、こういう逆説的な号はありえない。これはそういう意図のない無邪気な当て字であろう。その遷移経路は、
「無二」→「むに」(音韻伝聞)→「武仁」→「無仁」
ということであろう。新免無二の号は、美作の片田舎では後世こんな文字に化けていたのである。
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(3)搆石垣ハ天草一亂之時分、御公儀御意ニテ取崩申候
宮本搆の石垣に関する記事である。天草の乱の折に、「公儀」の命令で取り崩したという。これも宮本村古事帳には見られない記事である。
この天草一乱というのは、いわゆる天草島原の切支丹一揆のこと。寛永十四年(1637)十月に勃発したこの大規模な叛乱の鎮圧は、翌年(1638)二月末の原城陥落においてである。事件の原因となった島原城主・松倉勝家はどうなったか。彼は当地美作津山城主・森内記の江戸屋敷に身柄を預けられ、詮議の上死罪を命じられ、切腹したという。また切腹ではなく、斬首となったともいう。これはむろん異例である。大名なら、というより、武士なら切腹であろうが、そんなことも許されなかった。それほど深刻な大事件だったのである。
宮本搆居の石垣取崩しの現実的な理由としては、むろん治安対策である。この大事件で、諸国の内乱の芽を摘むという風潮が支配し、すでに無用のものとなったかつての地侍たちが依拠した城跡や搆居遺跡を、手当たり次第に破壊するという手段に出たものである。
それにしても、天草島原一揆の島原城主が森家に預けられ、死罪になったということは、美作の人々に他国にはない印象を與えたはずである。それが記憶口承されて、宮本搆居の石垣取崩しと「天草一乱」が結びついて伝承されたのかもしれない。
ただし、これが通例「有馬陣」と呼ばれ、原城の決戦が有名だとすれば、島原、有馬ではなく、ここに「天草一乱」とあるのは、いかにも事情不通のようにみえる。天草は寺沢家の領分であって、美作津山の森家が身柄を預かった松倉は島原城主であるから、ここは「有馬一乱」「島原一乱」とあるべきところである。しかるにここに「天草一乱」とあるとすれば、それはおそらく、この事件の当事者である松倉勝家が森家に預けられ死罪となったという事実を知らずに書いているのである。
宮本搆の三十間四方という規模と、石垣は取崩してあるという報告、これは申告の要点なので、この記事が本来の下庄村古事帳記事であろう。下庄村の報告文書なのに、宮本搆の記事があるのは、ここが下庄村の範囲だったからである。元禄期にはまだ宮本村は独立していなかったのが、この記事でわかる。
宮本村古事帳の本来の記事は、前に見たように、宮本屋敷の由緒はわからないということと、ケヤキの御神木の話である。
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(4)無二筋目当所ニ御座候
宮本の搆居に宮本無仁が住んでいたことから、当所、つまり下庄村宮本には、無仁の筋目(系統)が存在している、との報告である。
ここまでが、第一段である。一応確認しておきたいが、ここまで記事は、宮本搆に関する記事である。そして宮本村古事帳の伝説記事に照らして、無仁がその宮本搆で住んでいたことがあるという記事は、後の加筆である。むろん、武蔵がここで生まれたというような話ではない。昔、宮本無仁がここに住んでいた、と語ることによって、以下の無仁筋目の者に宮本搆の権利があるという話の成り行きである、
注意したいのは、こちらの下庄村古事帳の方は、宮本村古事帳のように「武蔵末孫」ということを言わず、「無仁筋目」と慎重な表現に留めていることである。宮本村古事帳の「武蔵末孫」は、下庄村古事帳の「無仁筋目」からの脱線のようにみえるが、元禄二年以後にそれぞれ独立に新興発展した伝説とみるべきである。
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宮本搆 三十間四方

宮本無仁・宮元武蔵・無仁妹 下庄村古事帳写

島原乱図屏風
*【幕府日記抄】
《十九日
一 松倉長門義、自去年九州嶋原徒黨令蜂起、剰常々無作法も数多依有之、御穿鑿の上、死罪被仰付候。
一 松倉長門弟右近ハ保科肥後守ニ御預、同三弥ハ内藤帯刀ニ御預也》(寛永十五年七月)
*【綿考輯録】
《江府にてハ、松倉長門守殿を森内記殿へ被預置、段々御僉議の上、七月十九日切腹被仰付。松平甚三郎殿改易被仰付》(巻五十)
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