正木は、文化十二年(1815)正月に、隠居して家督を息子へ譲り、正木勝良(かつら)と名のった。現役の時も隠居後も、まさに、東作各地へ頻繁に出入りして、その地誌を書き続けていたのは、こういう人物だった。本書の宮本武蔵記事にある種のバイアスがかかっているのは、主君師範としての軍学師、兵学者だった正木というこの人物を念頭におくことで、理解しうるのである。
正木は文政六年(1823)に死去したが、生前、この「作陽誌東分」としての本書は、津山侯に提出されなかったようである。「勤書」あるいは「国元日記」の文政八年(1825)三月八日条に、正木の息子・正木兵馬(襲名)が、亡父の調査した「作陽誌東分」を差し出し、銀一枚下されたという記事がある。おそらく、正木死後数年たって、このようにして本書原本は献上されたのである。
つまり、生前、正木はこれを提出しなかった。とすれば、それは何故か。――しかし、この問いには錯覚があるようだ。言い換えれば、本書を公的な文書、「国書」と見誤っているのである。
本書は、漢文ではなく、和文で書かれた。それは、正木が本書序文に記すように、農夫にも読めるようにとの配慮である。要するに、正木はまず本書を、民間で読まれうる文書として編纂したのである。
正木はいう、「あなかしこ、国書と具へむおりもあらば、漢字正文に改め替て」と。もし国書として松平家に所蔵される機会があれば、その時は、国書らしく、漢文に書き改めたいというわけである。言い換えれば、本書は、公的な文書ではなく、あくまでも正木の個人的な著作であり、民間の人士に読ませるものであった。
したがって、正木が書いた段階では、本書はそのような位置づけであった。この点、錯覚があってはならない。
正木の死後、それも数年たって、息子兵馬が父のこの遺作を津山侯へ差出した。これが本書の正本で、津山松平家に収蔵された。その後、この書は死蔵されて、忘れられてしまう。というのも、本書が国書たる公的文書ではなく、正木の個人的著作だったから、その扱いも軽かったのであろう。
ちなみに、正木の死後差し出された本書原本は、現在も行方不明である。我々が確認した範囲では、現在、津山藩にあったという写本があり、また、別の写本もあるが、当地津山にあるのは、東作六郡全体ではなく、その三分の一ほどである。とくに、吉野郡や英田郡は全体が欠本している。とすれば、正木死後、津山侯に提出された「作陽誌東分」は、東作六郡全体とは限らない。その一部だった可能性もなきにしもあらず。
かくして、死蔵されていた本書が「発見」されるのは、正木の死後二十八年経った嘉永四年(1851)のことだった。江戸藩邸で儒官・昌谷〔さかや〕精谿がこれを発見した。しかし欠本散佚あり、この昌谷によって「修復」編集されたのが、「追補作陽誌」。今日我々がいうところの『東作誌』である。昌谷は、正木家はじめ民間にあった写本で、残欠を補ったのであろう。ようするに、昌谷精谿のこの作業によって、はじめて本書の存在が知られるようになったのである。
以上を要するに、本書は、家中新参の軍学師役・正木兵馬によって書かれた地誌である。それも、百数十年前の森家時代に編纂された『作陽誌』が、美作東分を欠くゆえに、それを追補する企画であった。しかるに、本書は、かつての『作陽誌』のような公的な地誌ではなく、あくまでも、編著者正木の個人的な著作である。正木はこれを、農夫にも読ませる意図をもって、漢文ではなく和文で書いた。本書は、そのように民間で読まれるべき著作であった。
正木は、本書を書くために、文化年間、廻村調査を実施した。文化十二年、隠居の年の序文があるから、その段階で一通り仕上がったようだが、その後も、正木は廻村調査を続行しているから、正木は改稿増補を続けていたもようである。したがって、改めていえば、文化十二年段階で本書が完成したとみなすことはできない。
もう一つ、重要なポイントは、正木が生前、本書を提出しなかったことである。本書の差出しは、正木死後数年たって、息子がそれを行ったのである。この点で、昌谷精谿が書いた「追補作陽誌」序文には事実誤認があるとみえる。昌谷は、正木本人が浄写本を献上したものごとく誤解している。しかし、実際は、本書の差出は、正木死後のことである。
正木がその生前、本書を津山侯へ提出しなかったことは、上述の通り、本書は正木の個人的著作であり、民間向けに書かれていたことと相応する。正木の仕事は、津山侯から御内用として調査費も支給されていたが、それは、国書地誌の編纂ということではなかった。そうである以上、正木本人は、これを津山侯へ差出すつもりはなかった。もし提出するとになれば、漢文体に書き改める必要があったのである。
もう一つは、本書が、正木には、まだ完成とは思えなかったかもしれないことである。もし完成していたら、私的な事業とはいえ、調査費の補助までうけていたのだから、当然差出したはずである。おそらく、民間向けに書いたことと、この未完成という両面で、提出の機会がなかったのであろう。
あるいは、息子が差出した父の遺作は、それがどの範囲のものだったか、東作六郡全体だったのか、それとも一部分だったのか、提出原本が行方不明で未見だから、それが知れない。全体を三十一巻にして整備して、「追補作陽誌」としたのは、嘉永年間の昌谷精谿の仕事なのである。それやこれや、本書については、まだ解明すべき諸点が残っている。
また、いうまでなく、文政八年の段階では、本書の呼称は「作陽誌東分」であり、もちろん「東作誌」というタイトルは、まだなかった。正木本人が本書を「東作誌」と呼んだのではない。嘉永四年の昌谷編修の段階でも、「追補作陽誌」という名であった。「東作誌」とは、後世の名づけである。この点も、誤認があってはならない。
さて、その後、写本で本書は伝えられたが、刊本としては明治十七年(1984)に、まず長尾勝明編とした『校正作陽誌』上中下三巻本が刊行され、明治末には作陽古書刊行会が矢吹金一郎正巳に校訂を依嘱して、大正元年に『校訂作陽誌』刊行、ついで大正二年(1913)『東作誌』も出版されたのである。
ここで興味深いのは、『東作誌』の校訂と刊行に深く関わった矢吹金一郎が、明治四十二年(1909)に、従前の自説をまとめて、「宮本武蔵伝」なる小冊子を発行していることである。言い換えれば、『東作誌』の校訂者と、宮本武蔵産地美作説の主唱者とは、まさに同一人物なのである。矢吹金一郎の曰く、
《宮本武蔵ハ美作國英田郡讃甘村大字宮本ノ人(舊吉野郡宮本村)父太郎左衛門同郡名族平尾氏ヨリ出テ同郡竹山城主新免伊賀守宗貫ニ屬シ城下ニ居リ平田無二ト稱ス》(宮本武蔵傳)
さても、このような場面に遭遇するとき、宮本武蔵遺蹟顕彰会本『宮本武蔵』の刊行もまた、明治四十二年四月であることからして、まさに、『東作誌』の刊行と宮本武蔵産地美作説とは、相互に深く関係し合っていたことに、改めて想到するのである。顕彰会本『宮本武蔵』の説は、矢吹金一郎の所説に全面的に依拠するものであった。かくして、明治末、『東作誌』と顕彰会本『宮本武蔵』の両者は互いに相乗効果をもたらし、「美作の宮本武蔵」をめぐって、何ごとか気運が盛り上がってしまったのである。
ともあれ、この明治末の気運を通過点にして、正木の東作地誌編述の試みは、現在に到るまで武蔵美作出生説の揺籃として、二世紀の長きにわたって機能し続けたのである。それだけではなく、吉川英治の小説『宮本武蔵』大成功の結果、妄説生産が跡を絶たないというありさまなのである。
したがって、いまや、要するに本書に何が書かれているか、何が書かれていないか、それを検分する時期にきている。当地を調査して、正木は、何をどう書いたのか、それを知っておくべきである。
ここでは、『東作誌』のうち吉野郡の、「宮本村之記」「下庄村之記」中の関係箇所原文と、その現代語訳を掲載し、そして評註を付して、参考資料として供するものである。
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勤書 正木兵馬 当該部分
*【勤書】
《同(文政)八乙酉三月八日。父勝良江、作陽誌東分仕立被仰付候處、同人存命中、取調置候旨ニ而、先達而差出候付、銀壱枚被下之候》

追補作陽誌序(部分)昌谷精谿撰 嘉永四年(1851)
*【追補作陽誌序】
《先輩正木翁、獨自發憤、以補此為己任。単身獨行、奔走四方、従事於茲。若干年終、以作為斯編。浄寫一本、以獻之於公府。留稿本於家、以為副本》

東作誌写本の題名

矢吹金一郎「宮本武蔵傳」 明治四十二年四月
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