姓は源(あるいは藤原)。平田無二の子である。[『武芸小伝』ならびに墓誌(小倉碑文)に播州人とあるのは間違いである]。父・無二は、剣術と十手の達人である。武蔵が幼年の時、荒牧の神社〔現・讃甘神社〕で遊んでいて太鼓を打つ有さまを見て、二本のバチで左右の音が等しいのを感悟し、十手を二刀に替えた、空室に杵を釣っておいてこれを撃って錬磨したという。十三歳にして播州に行き、有馬喜兵衛と勝負を決し、但馬で秋山と勝負して打殺し、その後京都で吉岡に打ち勝ち、また豊前の舟島で佐々木巖流と仕合をして打殺した。およそ十三歳の時より勝負をなすこと六十回以上、自ら「日下開山神明宮本武蔵政名流」という。関ヶ原・大坂の役に戦功あり、寛永年中の島原一揆の時、細川家に属して〔戦場へ〕赴いた。正保二年五月十九日肥後熊本で死んだ。謚〔おくりな〕は玄信二天。 墓誌(略)
あるいはいう、武蔵が播州にいた時、夢想権之助という兵法遣いが尋ねて来て、仕合を望んだ。宮本〔武蔵〕は、そのとき楊弓の細工をしていた。権之助は「兵法天下一夢想権之介」と背中に書付けた羽織を着て、大きな木刀を携えていた。武蔵は楊弓の折れをもって立合って、権之助を動かせなかったということである。
〔正木の〕考えるに、武蔵の子は三人あった。嫡男の伊織は、細川侯に仕えて知行千石という。二男の主馬は小倉侯小笠原家に仕え、家老となり知行三千石という。三男の三木之助は、実は新免宇右衛門の子で、姫路侯本多家で知行七百石という[新免家系に詳しい]
武蔵の一弟子は高尾孫之進[二百石]、二弟子は高尾求之助[島原の役に戦功あり、表で使われ万事器用であったという]。古橋總左衛門[二百石で細川家の右筆。一二の弟子〔高尾孫之進・高尾求之助〕より剣術は劣る。江戸で死んだ]
武蔵に姉があった。衣笠九郎治という者を、平田無二が養子として、家を継がせた。委しくは平尾系図に見える。
武蔵の子孫が今もいる。現在の名は甚右衛門である。その家より分れて、立石村の左平次、下町村の與平治、みな宮本の子孫だという。
[増補] 武蔵は終生妻を娶らなかった。したがって実子がなかった。伊織・三木之助の如きは、みな義子〔養子〕である。〔武蔵の〕郷里にいる者も、またその族類の子孫がこれを継承しただけであって、ゆえに平尾・平田両方の諸氏をもって宮本武蔵の子孫ということができないのである。ところが、その住居祉に在住している平田氏は、代々無二齋と武蔵の霊牌を祀って今日に至っているのがみられるのである。