以上、見てきたように、筑前新免氏系譜の始祖部分は、はなはだ心もとない記事しかない。則種(新免宗貫)の子にしても、彼らが「播州小原城」に生まれたとして、一貫して作州を播州と間違えているし、新免氏居城の竹山城の名も知らない。
しかし新免宗貫の子孫がその後どうなったか、これは美作の史料よりは筑前の史料に分があるはずである。
筑前新免氏系譜によれば、則種(新免宗貫)の子は、宇兵衛と七兵衛である。兄が宇兵衛、弟が七兵衛である。筑前新免氏は弟の七兵衛の子孫である。宇兵衛と七兵衛、両方とも「播州小原城」に生まれたことになっている。もちろん「播州小原城」など実在しない。
宇兵衛は、慶長五年に父・則種とともに筑前へ来て、黒田長政に仕えて、采禄三百石。父・則種没後は、遺領二千石のうち三百石を分与され、本知三百石と合わせて、計六百石である。
その後、宇兵衛は福岡から鞍手郡東蓮寺に移住した。つまり、黒田長政の遺志により、後嗣忠之は二人の弟、長興に五万石(秋月)、高政に四万石余(東蓮寺)を分知して、二つの分家を設立したのが元和九年(1623)。この折のことらしい。しかし宇兵衛は、後年故あって黒田家を致仕して、肥後へ行き、細川越中守の家臣となった。この子孫は今も肥後にあり、というから、宇兵衛の系統の新免氏は肥後にあったのである。このあたりは肥後側の裏付けをとっていないので、我々には確かではない。
この宇兵衛は字のみ記録されて、その名も諱も知れない。というのも、宇兵衛は長子ながら肥後へ去ったからである。筑前新免氏末孫には、歿年歿地を含めて以後の宇兵衛事蹟は、当然不明である。
さて、筑前新免氏は、弟の七兵衛種信の系統である。七兵衛も、いささか波乱の人生である。
慶長年間――何年かは不明――父・則種が死去すると、その遺領二千石は種信に相続させるという処置であった。ところが一年を経て、この二千石は、九百石減らされ、残る千百石は、七兵衛の伯父・五郎左衛門に五百石、兄・宇兵衛に三百石分与され、七兵衛は残禄わずかに三百石のみとなった。つまり、筑前新免氏は、宇兵衛が三百石増、五郎左衛門が五百石増であるが、七兵衛が三百石のみだから、全体として言えば、当初の合計二千八百石は千九百石へ減じられたということになる。
宇兵衛 三百石+三百石→六百石
五郎左衛門 五百石+五百石→千石
七兵衛 二千石→三百石
その後七年を過ぎ、七兵衛は故あって禄を召放された。つまり馘首されたのである。このため、筑前を立退いて、肥後へ行こうとした。細川忠興の家臣・伊道亀右衛門を頼ってのことだという。しかしこの「伊道」亀右衛門は「井門」亀右衛門の誤りであろう。井門亀右衛門家友は新免宗貫の旧臣で、宗貫が養子に入るとき、播州からついて来た、いわゆる新免六騎武者所の一人である。転変の後、関ヶ原役のときはすでに新免氏を離脱しており、赤松広秀の物頭で細川幽斎の田辺城を包囲した。そのおりの因縁で細川忠興に仕え、肥後にいたのである。
ところが、筑前新免氏系譜によれば、七兵衛が肥後へ去ろうと旅支度をしていると、黒田三左衛門一成から使者がきた。黒田一成は黒田家重臣である。摂津の有岡城主・荒木村重の家臣、加藤重徳の二男である。黒田官兵衛が有岡城に幽閉されたおりの縁で、官兵衛は加藤重徳の二男を養子に貰い受け、長政と兄弟同様にして育てたという。これが黒田一成で、のち戦功を重ねて、黒田家筑前入国後は、下座郡三奈木に知行一万六千石。黒田美作守である。
この黒田一成が、新免七兵衛が筑前を立退くのを留め、客分として迎えたという。筑前を立ち去るなとのことである。客分ながら、新免氏は筑前と薄皮一枚で首がつながったのである。これにより、下座郡城村に住むようになった。
さらに、小林甚吉・船曳刑部の名が見える。両人は黒田家にありついていた新免旧知の者らしい。本府ノ直仕というから、これは長政・忠之の家臣で、陪臣〔またもの〕ではない、ということである。
このうち小林甚吉は、おそらく小林甚右衛門の子孫、とすれば、これは知遇であるが新免家臣ではない。小林はもともと播州龍野城主に属した家で、中津時代以後黒田家に仕えた。一方船曳刑部は、船曳杢左衛門の息子である。杢左衛門は、新免宗貫が養子に入るとき、播州長水山城の宇野政頼から宗貫に付けられて行った側近の一人である。後新免を離れ宇野政頼の元へ戻ったが、離反し敵方黒田官兵衛の麾下に入った。船曳刑部は杢左衛門の二男で、九州に船曳氏を存続せしめた。長男は左衛門尚信といい、播州に残って子孫は船曳本拠の大内谷(現・兵庫県佐用郡三日月町)に存続したという。この小林甚吉と船曳刑部は旧縁の者で、彼らも七兵衛を扶助したものらしい。五口ノ扶持米ヲ送ラル、ということである。
ともあれ、この七兵衛の黒田家召放ちについては、原因は不明だが、想定しうるのは切支丹信仰との関係である。父の宗貫の代までは、まだ寛容に扱われたが、七兵衛の代になると、切支丹環境は厳しくなったものと思われる。これを拾い上げたのは、下座郡に領地をもつ黒田一成であった。
慶長十九年(1614)の大坂冬の陣のとき、七兵衛は黒田一成に従って上方へ行く。ところが、七兵衛は、忍んで大坂城へ入ってしまい、秀頼方についた。しかるに、入城以後は接戦が無く、同年十二月休戦となったので、包囲の諸侯も兵を返した。そのとき、七兵衛はまた黒田一成から懇命を受け、大坂城を出て、黒田一成に扈従して筑前へ帰り、再び城村に居住した。
大坂陣で七兵衛が城方へついた、というこのあたりの話は伝説じみているが、しかし、ありえない話でもない。というのも、黒田家は宇喜多旧臣を召抱えていたのだが、同じ頃、下座郡には明石道斎家臣の知行地があった。明石道斎とは、備前の宇喜多家家老で、知行三万三千石の明石掃部のことである。この明石掃部は新免宗貫よりも大物であるが、同じく黒田家に身を寄せていたらしい。この明石掃部が、黒田直之の近辺に住んでいたのは、同じ切支丹であるよしみからである。のち、明石掃部は姿をくらまし、やがて、十字架とキリスト像を先頭に掲げた異色の部隊を率いて大坂城へ入城する。大坂落城後、その後の掃部の行方生死は不明である。
切支丹と大坂陣ということでは明石掃部がその代表格だが、七兵衛は旧知の明石掃部に従って大坂城へ入ったのかもしれない。冬の陣は休戦ということで、籠城した浪人たちは多くが城を出た。このときに黒田一成の呼びかけに応じ、七兵衛は大坂城を出て筑前へ戻り、息子・弾之丞貫清とともに一成に召抱えられた。采地は百二十石、当初はもとの城村だったろうが、その後中嶋田村へ移る。これが筑前新免氏の居所となった。
島原の乱の寛永十五年(1638)、「肥州嶋原切支丹ノ門徒御誅伐ノ時」、七兵衛は黒田一成に属して原城攻めに加わったらしい。秋月周辺の切支丹状況も反転してしまっているのである。このとき、息子の弾之丞は、黒田一成の嫡子・一任に従って江戸にいたのだが、一任とともに戦場へ向かったという。この黒田一任は養子で黒田家に入った者で、実父は久野仁右衛門重時である。つまり一任は、久野四兵衛重勝(1545〜92)の孫にあたる。養子に入って黒田三左衛門の家と名を嗣いだのである。
息子の弾之丞は、黒田一任の麾下で原城攻めに参加し、戦死した。七兵衛は万治二年(1659)まで生きて、下座郡中嶋田村で死んだ。中嶋田村の田嶋原に葬った。晩年は新免休安と号していた。慶長年間に黒田家を召放されたとき、父の代からの附属した家臣はすべて暇を出したが、大原惣右衛門一人だけは、最後まで七兵衛に属したようである。
この七兵衛は父の宗貫とは違って、歿年月日も葬地も明らかである。筑前新免氏系譜が記録史料として読めるようになるのは、七兵衛の世代以後の記事に限られるのである。
七兵衛没後その采地百二十石は、次男・市右衛門貫種が嗣いだ。そしてこの系統が、筑前新免氏として受け継がれるのである。
もう一つ、新免宗貫の弟「常屋五郎左衛門」、つまり恒屋正友は、兄の遺領から五百石を分与されて都合千石。宗貫の息子、宇兵衛も七兵衛も召放ちを蒙ったので、むしろ正統はこちらなのだが、その後、恒屋の家は子孫断絶したという。詳しいことは不明だが、恒屋正友の系統は絶えたようである。
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*【筑前新免氏系図】
○宇野下野守則高┬山崎茂右衛門
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├新免弾正左衛門┐
│ 則種│
│ │
├常屋五郎左衛門│
│ │
└某 熊見 │
┌───────────────┘
├宇兵衛 東蓮寺、後致仕 肥後へ
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└七兵衛種信┬弾之丞貫清
│
└市郎右衛門貫種┐
┌────────────┘
└市郎右衛門種正─七兵衛種長┐
┌─────────────┘
└市郎右衛門種久─弾之丞
*【新免氏系譜】
《新免宇兵衛 播州于小原城生ス。母ノ姓不伝。慶長五年父ト倶ニ筑前ニ来リ、長政公ニ仕ヘテ采禄三百石賜フ。父則種卒シテ後、遺領ノ内三百石下シ賜ヒ、本領共ニ六百石ヲ領ス。其後高政公へ御附入トナリ、福岡ヨリ鞍手郡東蓮寺ニ移住セリ。後年有故テ仕ヲ辞シ、肥州ニ往テ細川越州公ノ家臣小ナル、子孫今ニ肥州ニ有リ》
*【新免氏系譜】
《種信 字七兵衛。播州小原城ニ生ス。慶長年中父則種卒後、遺領二千石無相違長政公ヨリ種信ニ相続セサセ玉ヒシカ、一年ヲ経テ先、命ヲ替テ二千石ノ内九百石ヲ減シ、叔父五郎左衛門ニ五百石、兄宇兵衛ニ三百石分与シ玉ヒ、種信ハ残禄纔カニ三百石ヲ領ス。其後七年ヲ過ギ、有故秩禄ヲ被召放、依之御国ヲ立退キ、細川越中守忠興公ノ家臣伊道亀右衛門[伊道氏ハ種信ノ父則種譜代ノ宰臣ニテ、大禄ヲ与へ慶長ノ初マテ従属セリ。其後関ケ原陣ニ西方敗走シ、則種沈臨(淪)ニ依テ暇ヲ遣シケレハ、忠興公ニ再ヒ仕ヘテ秩禄三千石ヲ賜フト聞伝ヘリ]ヲ便リテ、肥州ニ往ント已ニ旅粧ヲ儲ケシニ、一成公ヨリ高橋次左衛門・岩田勘左衛門ヲ両使トシテ[此両人ハ、則種御当国ニテ召抱ヘシ家臣ナリシカ、其後有故暇ヲ遣シ、一成公ニ奉仕セリ。斯旧好有ル故ニ、両人ヲ御使者ニ命セラレシナリ]出国ヲ留メ玉フノ懇命点止シ難クテ、其命ニ随ヒ御領内下座郡城村ニ居ヲ移ス。賓客ノ礼ヲ以御愛遇厚ク、且過分ノ苞米ヲ下シ賜フ。本府ノ直仕、小林甚吉・船曳形部(刑部)両人ヨリモ五口ノ扶持米ヲ送ラル[此両人ハ、則種播州ニテノ家臣ナリ]。
慶長十九甲寅年大坂冬ノ陣ニ、一成公ニ従属シテ彼地ニ至リ、忍テ城ニ入リ秀頼公ニ属ス。然ルニ入城以後ハ接戦無フシテ、同年十二月関東ト御和睦相整ヒ、諸侯囲ミヲトキテ凱旋ノ節、又一成君ヨリ懇命ヲ受テ、城ヲ出テ御同公ニ扈従シテ御当国ニ来リ、再ヒ城邑ニ居住シ、益御愛鱗厚ク、妻子枕ヲ泰安ニ置ク事畏ニ有難シ、斯累歳蒙御厚恩ヲシカハ、嫡男貫清ト共ニ御家臣ノ列ニ加リ、御恩ヲ報ント乞フ。公甚御感悦有リテ、主従御契約ノ印ニトテ、采地百二十石ヲ賜フ。其後中嶋田村ニ、亭宅ノ地及ヒ営作ノ糧ヲモ施シ玉ヒ、同邑ニ居所ヲ転セリ。寛永十五戊寅年肥州嶋原切支丹ノ門徒御誅伐ノ時、正月十五日一成公ニ属シテ彼地ニ向ク[嫡男貫清ハ一任公ニ従属シ、江府ヨリ直ニ肥州ニ向]、同年二月二十七日一任公御先登ノ時ハ、一成公ノ御陣ニ在シ故、志シヲ空フス。翌二十八日落城ノ日ハ、公連年ノ御報恩此時ナリト志ヲ励シ、前日貫清カ討死ノ哀傷ニモヒルマス、力戦シテ賊数人ヲ討捕リ疵ヲ蒙シ也。
万治二己亥年二月十六日、寿ヲ以テ下座郡中嶋田ニ卒ス。同邑田嶋原ニ葬ス。号新免休安[慶長年中ニ、長政公ヨリ種信カ秩禄ヲ召放サレシ砌ニ、父則種ヨリ附属ノ家臣モ都テ暇ヲ遣シ、大原惣右衛門一人属]》

島原乱図屏風

筑前国下座郡新免氏関係地図 福岡県甘木市周辺
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