宮本武蔵 資料篇
関連史料・文献テクストと解題・評注

Home Page

 Q&A   史実にあらず   出生地論争   美作説に根拠なし   播磨説 1 米田村   播磨説 2 宮本村 

[資 料] 美  作  略  史 Go back to:  資料篇目次 


美作畧史 明治十四年(1881)
 本書『美作畧史』(全四巻)は、美作国の歴史を古代から幕末まで編年体で誌した史書。刊行は明治十四年(1881)である。著者は元津山城主松平家家臣の矢吹弓斎正則(1833〜1906)、美作郷土史研究の草分けの人である。
 この矢吹正則については、当方には委しい情報はないが、地元の人名辞典にはこうあった――。
《通稱弓治、弓齋と號す。天保四年勝南郡行信村(勝田郡北和氣村)に生る。劔を松尾慎六、次で江戸齋藤彌九螂に、砲を古市右近に、經史を信澤遊龜、馬場簡齋に受く。勤王佐幕の論沸騰に際し、溝山の藩論決せざるや。正則即ち藩士黒田成復、鞍懸吉寅、井汲唯一、藤本十兵衛等と諜り、文久二年十二月窃に京師に到り、上書して藩主の赤誠を表す。翌年正月勅書を藩主に賜ひ、成復、正則等守衛して歸る。正則擧げられて外事係となり、次で明治元年院庄舊蹟に児島高徳の奉祀を同志十二人と建議、翌年許を得て社殿造營、此年藩士となる。四年北條縣に出仕、九年退官、市誌の編纂に從ひ、後中山神社禰宜、西北條、東南條各郡書記等に任じ、二十九年十月九日歿す。年七十四。最も故實に通じ、山川都邑神社佛閣の變遷沿革を考證し、美作略史四冊、津山史一冊、貞享合鏡、森松平兩侯治績調書、發蒙私言、院庄作樂香各一冊等を編著刊行し、尚ほ森家全盛記、美作古簡集、~皇御世代記、土寇慨誌、中山、徳守、総社各社記等多くの遺著を家に藏す》(備作人名大辞典・昭和一四年)
 そして、『東作誌』校訂者である矢吹正巳(金一郎)は、この正則の長子である。矢吹父子二代にわたって収集した史料は、近世美作史料の随一、矢吹家文書として知られる。
 本書『美作畧史』第2巻、慶長五年の條に、武蔵の事蹟を記載する。武蔵伝記における美作説の初出は、岡山池田家の家臣、三上左太夫元龍による寛政二年(1790)の『撃剣叢談』であるが、まさに、武蔵美作産地説の具体的な形姿をもったものとしては、この矢吹説が近代では最初のものである。
 内容はおおむね文化十二年(1815)の正木輝雄『東作誌』に従っているが、矢吹なりの「新説」もある。この矢吹の説を先達として、明治四十二年(1909)の宮本武蔵遺蹟顕彰会本『宮本武蔵』が書かれ、かくして美作説は世に普及するところとなった。
 言うならば、『美作畧史』のこの一節は、美作説の言挙げであり、それが『東作誌』の未確定な方向を定め、顕彰会本『宮本武蔵』の所説へとリレーされたのであってみれば、これは、現在なお存続する美作説の原型とはいかなるものかを知るには、格好の文献である。ここでは『東作誌』読解の附録として追加し参考に供したい。
 以下、当該部分を摘出し、現代語訳と評註を附して、一覧に供する。

 【原 文】

是歳、吉野郡人宮本政名往九州(1)[武藝小傳。撃劍叢談。元禄期明細帳](2) 政名[撃劍叢談、義恆ニ作ル]武藏と稱ス(3)、宮本村[吉野郡]ノ人ナリ、其ノ先赤松氏ノ族衣笠氏ヨリ出ヅ、播磨平尾村ニ住シ、平尾ヲ以て氏トス、政名ニ至テ、又邑名宮本ヲ以テ氏ト為ス(4)、其父太郎左衛門、新免宗貫ニ属シ、十手ノ術ヲ以テ世ニ聞ユ、新免無二齋ト号ス(5)、政名幼ニシテ父ノ術ヲ承ケ、傍ラ畫ヲ善クス、年甫テ十三、特ニ心ヲ撃剣ノ術ニ用ヒ、播磨ニ学ブ(6)、業成テ天下ニ歴游シ、有名ノ士ニ逢ヒ、技ヲ試ミ術ヲ較ラブル六十與回、未ダ嘗テ一敗ヲ取ラズ、時人之ヲ日本無雙ト稱ス、其吉岡拳法ニ京師ニ勝チ、佐々木岩柳ヲ舟島ニ殺ス等、後世尤モ著稱スル所ナリ(7)、是年、宇喜多氏亡ビ、宗貫黒田長政[筑前国主]に仕ヘル、政名亦去テ九州ニ往ク(8)、[正保二年政名肥後熊本ニ死ス、子伊織小倉城主小笠原氏ニ仕ヘ、老臣ニ列ス](9)
 【現代語訳】

この年〔慶長五年(1600)〕、吉野郡の人・宮本政名は九州へ行った。[武藝小傳。撃劍叢談。元禄期明細帳] 政名[撃劍叢談は「義恆」としている]は武蔵と称した。宮本村[吉野郡]の人である。その先祖は赤松氏の一族・衣笠氏から出た。播磨平尾村に住し、平尾をもって氏とした。政名に至って、また邑の名・宮本をもって氏とした。その父・太郎左衛門、新免宗貫に属し、十手の術をもって世に聞え、新免無二斎と号した。政名は幼くして父の術を継承し、傍ら絵画に優れていた。年が〔元服の〕十三歳になってはじめて、とくに撃剣の術に専心し播磨に学んだ。修行が成就して全国各地を回り、名のある武士に逢って技を試み術を較べること六十余回、いまだかつて一度も敗けたことはなかった。時の人はこれを日本無双と称した。その、吉岡拳法に京都で勝ち、佐々木岩柳を舟島で殺すなどしたことは、後世の人がもっとも賞讃するところである。この年(慶長五年)、宇喜多氏が亡び、〔新免〕宗貫は黒田長政[筑前国主]に仕えた。政名もまた〔美作を〕去って九州へ往った。[正保二年(1645)、政名は肥後熊本で死んだ。子の伊織は小倉城主・小笠原氏に仕え、老臣に列した]
 
  【評 注】

 (1)宮本政名
 ここでは武蔵は「宮本政名」という名である。「宮本武蔵」ではないのである。このあたりは、妙におもしろいところである。
 この「宮本政名」という名の初見は、正徳四年(1714)の自序をもつ日夏繁高の『本朝武芸小伝』で、そこでは、
  《宮本武蔵政名は播州人にして、赤松庶流新免氏なり》
とする記事であろう。この日夏の書が典拠となって、その後、武蔵の諱を「政名」とする説が一般的になった。ところが、一次史料にはどれも「政名」という名は見当たらない。
 まず第一に、『五輪書』の名は、新免武蔵守藤原玄信である。次に、武蔵死後九年の承応三年(1654)に養子伊織が建てた小倉の武蔵碑にも政名(正名)の諱は書かれていない。新免武蔵「玄信」である。
 『東作誌』の正木輝雄は、小倉碑文に言及し、またそれだけではなくその全文を『武芸小伝』から引用もしているが、『美作畧史』はこれに言及しないばかりか、これを参照資料から除外し無視している点に注目される。文末に伊織への言及があるのは、小倉碑文は知っているよ、といったところであろう。
 このあたり、美作説としての党派性はあきらかで、それがおもしろいところである。こうした姿勢はこの矢吹正則においてはじめて見られるものである。
 いずれにしても、武蔵本人および養子の伊織に直接関係する一次史料に、この「政名」という名は存在しない。言うまでもなく、『武芸小伝』以後支配的なった後世の伝説の一種である。
 しかしながら、この江戸期に支配的であった名は、近代に入ってもおおむね継承され、堀正平や山田次郎吉という剣道史の「権威」においても採用され、少なくとも戦前までは大いに力のあった説なのである。
 しかるに、古事帳等、当地美作の史料には、むろん「宮本政名」という名はない。『東作誌』の作者正木輝雄は、『武芸小伝』に多く依拠しており、美作には以後、この『武芸小伝』に拠った記述がしばしば出てくる。現存平田系図に「宮本武蔵政名」とあるのは、おそらく明治期、この地元郷土史家である矢吹の「指導」によるものであろう。とすれば、余計なことをしたものである。
 また、ある時期、系図に「宮本無三四」という浄瑠璃・歌舞伎に使用される名さえあったというから、系図はその都度の「現在」を反映している生き物なのである。系図を検証するとき、常にこの点に留意することが必要なのである。  Go Back

美作畧史 関係部分
「宮本政名」とある
 
 (2)武藝小傳・撃劍叢談・元禄期明細帳
 この慶長五年(1600)という年、吉野郡の人・宮本政名は九州へ行った、という一文は、武芸小伝・撃劍叢談・元禄期明細帳といった文献によるという割註である。
 ところがこの一文、それらの文献に書いてあるのではなく、筆者がそこからつまみ食いをして、捏ねあげた解釈なのである。
 つまり、「慶長五年」という年については、ここで言う「元禄期明細帳」、つまり下庄村古事帳写の、九十年前に武蔵が国を出て行ったという記事である。だから、古事帳に「慶長五年」と書いてあるわけではない。
 古事帳には他に六十年前、二十年前という記述があって、九十年前といってもジャスト九十年前というわけでもなかろうに、元禄二年から逆算して「慶長五年」と確定してしまうのである。
 その次の「宮本政名」という名は、前述の日夏繁高の『武芸小伝』に拠る。「吉野郡の人」というのは『撃劍叢談』の記事にある。これは寛政二年(1790)の書で、こう記している。
《武藏流ハ宮本武藏守義恆が流也。武藏守は美作國吉野郡宮本村の産也》
 これが地元隣国、岡山池田家中の士による記述であることに注意する必要がある。そしてこれが、文化十二年(1815)の正木輝雄の『東作志』の現地調査以前の、当地の伝説を反映しているもののようである。
 かくして矢吹正則は、『武芸小伝』の《宮本武蔵政名は播州人》という部分のうち、「政名」を採って「播州人」を捨てる。これについて、何の断りもない。『撃劍叢談』の《美作國吉野郡宮本村の産也》を採って「武藏守義恆」を捨てる。これは後に記す。
 そうして、慶長五年に武蔵が「九州へ行った」というのは、後に再説するように、矢吹の新説部分である。
 かようにして矢吹による説は、資料断片を恣意的に接合して一つのストーリーを想像/創造するという形態をとった、武蔵伝記の嚆矢となったのである。ただし、それが「小説」とどれほどの差異があるか、むろんそこには懸隔はほとんどない。言い換えれば、これは、巷間流布した武蔵小説の刺激を受けた歴史小説なのである。  Go Back




*【下庄村古事帳写】
《宮元武蔵九拾年已前、当国出行仕候。其時分、家之道具・系図・証文等、与右衛門ニ渡シ、其後、九郎兵衛請取、此者耕作勝手ニ而、宮本村ヨリ拾丁斗下へ罷出、農人仕居申候。六拾年已前ニ、火災ニ右道具焼失仕候》


下庄村古事帳写
 
 (3)撃劍叢談、義恆ニ作ル
 矢吹正則は武蔵の諱を「政名」だと思い込んでいるので、『撃剣叢談』の「義恆」を採らない。むろんそれだけではなく、「武蔵守」を採らない。武蔵が称したのは、「武蔵守」ではなく「武蔵」だという言い分である。むろんそこでは、疾うの昔に武蔵が「武蔵守」を称したことは忘れられている。
 ここで『撃剣叢談』のいう「義恆」〔よしつね〕について若干解説すれば、これもまた恠しさという点では、「政名」に負けてはいない。
 これは、『撃剣叢談』の作者が、播州龍野の多田円明流伝書を見たのである。「義經」→「義恆」となったものであろうが、中間に「義輕」〔よしかる?〕という奇態な名もある。ようするに、
  「武蔵」→「武蔵坊」→「弁慶」→「義経」
という一種連想ゲームに似た展開プロセスなのである。伝説はこうした自由連想(free association)を通じて展開していくものである。これはまた、武蔵の幼名とされる「弁之助」についても同様で、
  「武蔵」→「武蔵坊」→「弁慶」→「弁」→「弁之助」
という展開プロセスなのである。現在でも武蔵の幼名は「弁之助」だといまだに信じている者がいる。伝説を信じてしまうそのナイーヴさには呆然とさせられる。
 ところがそんなナイーヴな言説でさえ、武蔵の諱を「義経」や「義恆」とする説を否定する。しかし「弁之助」も「義恆」も同じ連想の所産だということを知らない。
 宮本武蔵守義恆(義経)、これがまた、一種のジョークによって語られたまでよいが、そのうち、この署名をもった印可状などの文書が捏造されて出回るようになる。口碑の実体化である。そうすると、後世の者はこれをまた武蔵の別名だと錯覚することになる。
 ともあれ、『美作畧史』の筆者は、岡山の『撃剣叢談』を読み知っている。そこに武蔵を作州吉野郡の人とする記述を認めたはよいが、どうも「武蔵守義恆」に抵抗があったようで、正木輝雄が援用した『武芸小伝』の「政名」を支持しているのである。したがって、これについては、美作の伝説資料とは無関係な話である。  Go Back
*【撃剣叢談】
《武藏流ハ、宮本武藏守義恆[諸書に皆政名に作る。今古免状ニ依て改之]が流也。武藏守ハ、美作國吉野郡宮本村の産也。父ハ新免無二斎と号して十手の達人也》



歌舞伎 勧進帳
元禄15年(1702)初演
 
 (4)政名ニ至テ、又邑名宮本ヲ以テ氏ト為ス
 これもまた、矢吹の新説である。『東作誌』の正木輝雄はこんなことを云わないし、むろんそれ以前の美作伝説資料にもない話である。
 武蔵の出自を衣笠氏とすることは、この『美作畧史』をもって嚆矢とみなすべきであろう。正木の『東作誌』では、平尾氏の系図異本を収録し、あるいは、平尾太郎右衛門が娘を衣笠九郎次を妻合わせて家を継がせたとある「平尾氏總領代々書付」を収録するにすぎない。
 これを材料として、武蔵は衣笠氏出自という信じがたい飛躍的解釈が生じたわけである。すなわち、『東作誌』の正木が言っていないことを、想像力によって生み出してしまうのである。
 先に述べたように『東作誌』が収録している衣笠氏系図は、むろん史料批判をするまでもなく荒唐無稽のものであり、正木もそれを承知していて、こんな伝承もあるという形で載せているにすぎない。むろん『東作誌』所収の平尾氏系図にもその衣笠系異本にも、無二や武蔵の名は出て来ない。
 しかも、武蔵が衣笠氏だという話は『東作誌』のどこにもない。ところが『美作畧史』は、何をどう間違ったのか、平尾氏總領代々書付に、平尾与右衛門の父として出てくる衣笠九郎次の衣笠氏を武蔵の祖先にしてしまうのである。
 前述のように平尾氏代々書付には、平尾太郎右衛門は宮本無仁を名のったとか、衣笠九郎次の子・与右衛門が武蔵から家督を譲られた、というような近世平尾氏起源伝説が記されている。そこから、『美作畧史』は、平尾与右衛門が衣笠氏なら武蔵も衣笠氏だという、恐るべき杜撰な憶測によって、武蔵の祖先を遡及的に構成してしまったというわけだ。
 つまり『美作畧史』は、ここでも断片のつまみ食いで、「新説」をデッチあげているのである。
 ところが、次の、政名(つまり武蔵)に至って氏を「宮本」とするようになった、という説は、これまたどこにも存在しなかった矢吹正則の独創である。平尾氏總領代々書付には、平尾太郎右衛門が「宮本無仁」を名のったという伝説を記している。したがって、この資料によるかぎり、「宮本無仁」の代から宮本なのである。
 『東作誌』所収の史料、あるいはその原型となった古事帳文書では、武蔵の「父」は「宮本武仁」「宮本無仁」なのである。おおむね伝承は、武蔵の父が宮本村に居着くようになって「宮本」武仁(無仁)を名のるようになったというわけだが、これに対し、政名(つまり武蔵)に至って氏を「宮本」とするようになった、というのが『美作畧史』の説である。まさにこれは従前のどの資料にもない「独創的」な新説なのである。
 小説なら「独創的」であるのは美点かもしれないが、こういう伝記考証の論で「独創的」であるということは根拠を欠くということ、つまりは空想による捏造にすぎず、決定的な欠陥である。  Go Back
*【東作誌所収衣笠氏系図】

與右衛門正重
 一説に政家 本姓衣笠氏也
         世系如左
 赤松播磨守頼範七代孫
 播州端谷城主
○衣笠豊前守政綱──────┐
┌─────────────┘
└衣笠若狭守政重──────┐
  妻者赤松播磨守頼範五女 │
┌─────────────┘
│十一代孫
└衣笠五郎左衛門尉政氏───┐
┌─────────────┘
└衣笠新助政範───────┐
 播州上月太平山城主仕赤松家│
┌─────────────┘
└政春───衣笠虎松────┐
┌─────────────┘
└政家 衣笠與右衛門尉
    播州佐用郡平尾村住



*【平尾氏總領代々書付】
《赤松圓心三代平尾民部大夫。此人、赤松没落後、播州東本郷平尾村に浪人、在名を名乗り、平尾民部大夫と云ふ。其以後作州小原古町村の内庄田と申所に住居、英多吉野を領す。其子五郎左衛門、其子五郎左衛門、其子太郎右衛門と申、此時に下町竹山城の新免伊賀守領分成に付、以後宮本へ浪人仕居侯、故在名を以て宮本無仁と申候。其子武藏と申、此親子共に望有之に付、武藏姉と衣笠九郎次と妻合、家を繼し、其子與右衛門、其子九郎兵衛と申…》
 
 (5)其父太郎左衛門
 政名(つまり武蔵)の父は平尾太郎左衛門とするところは、前述の平尾氏總領代々書付では平尾太郎右衛門であるから、それとは違う。これは平尾氏系図に拠る。
 平尾太郎左衛門の父は平尾大炊助頼景で、『東作誌』掲載の平尾氏系図によれば、これは平尾民部大夫の孫で、明応八年(1499)に播磨上月から美作吉野郡へ侵略してきて、鍋谷山で敗死した人物である。
 明応八年(1499)に平尾大炊助頼景が死んだから、その子・太郎左衛門は少なくともそれ以前の生れである。この人物が、天正十二年(1584)生れの武蔵を生したとすれば、少なくとも九十歳近い年齢である。いかに絶倫とは申せ、この太郎左衛門は武蔵父とはなりえないであろう。
 ただし、むろん、平尾氏系図には太郎左衛門の子が武蔵だなどという記事はない。太郎左衛門の子は与右衛門正重なのである。
 では、他方の平尾氏總領代々書付の平尾太郎右衛門はいかがか。こちらの先祖は、平尾民部大夫という別人である。平尾民部大夫は、作州小原古町村の内庄田に住居し、英多・吉野の二郡を領した。その子は五郎左衛門、孫は五郎左衛門、曾孫が太郎右衛門。この太郎右衛門の時に所領が竹山城の新免伊賀守の領分になったため浪人し、宮本に住んだ。在所名をもって「宮本無仁」と名のり、その子を武蔵というとある。
 新免支配以前は平尾太郎右衛門氏が領主だったというわけである。話が平尾氏系図とはまるで違うが、この平尾太郎右衛門、竹山城主新免伊賀守に領地を駆逐されたということであれば、時代が合わない。
 この「新免伊賀守」は、小原城主・宇野家貞の養子になり、後に竹山城主となった新免伊賀守貞重(1471〜1523)のことであろう。新免貞重が小原城から竹山城へ居城を移すのは、明応元年(1492)のことである。したがって、平尾太郎右衛門が、竹山城主・新免伊賀守に所領を逐われて浪人した、というが、それでは時代が違うのである。それに、このあたりをまず支配したのは、新免貞重の舅、小原城主の宇野家貞である。となると、太郎右衛門の所領退転は竹山城主・新免伊賀守の代ではなく、もっと以前だということになろう。
 ともあれ、平尾氏總領代々書付の平尾太郎右衛門も、天正十二年生れの武蔵の父になりえないことは、先ほどの平尾氏系図の太郎左衛門以上である。
 しかしまた、『美作畧史』は、武蔵父の太郎左衛門は新免宗貫に属した、という。これでは、話はでたらめもいいところである。そんな話は、平尾氏関係資料にはない。
 『美作畧史』はこれの典拠を示さないが、話の内容からすると、この新免宗貫に属したというのは、『東作誌』に、武蔵の父として名を出す「平田無二」のことである。『東作誌』には、平田無二は新免家に属したとあり、また、無二が新免宗貫の命を受けて本位田外記之助を殺した逸話を記す。
 『東作誌』の正木はこれを新免家記から引いている。平田無二は新免家に属して、驍勇万人に卓越し軍功は比類なく、刀術の達人で、延徳三年(1491)栗井近江守景盛吉野郡乱入事件以来、戦功は際立ち算えきれないと記す。ようするに、この平田無二は、延徳3年以来百年にわたり新免家記に合戦記録のある超人的存在のようである。
 しかし、『東作誌』は、その新免家記の「平田無二」と平田氏系図の「平田武仁」の相違を曖昧にしたまま混同したようである。それでも、『東作誌』は「平田無二(武仁)」を語っているのであって、決して平尾太郎左衛門のことではない。平尾系の伝説については、《或云ふ、平尾五郎左衛門の子・太郎右衛門、宮本村に浪人して宮本無二と號す云々》として、異説扱いである。
 したがって『美作畧史』はここでもつまみ食いで、平尾氏系図から太郎左衛門の名を拾い、平尾氏總領代々書付の太郎右衛門からまた新免伊賀守のために浪人したという話を捨て、こんどは太郎右衛門を捨てて平田無二に乗り換えて、新免宗貫の家臣にしてしまう。
 これでは、平尾太郎右衛門は平田無二と同一人物ということになり、もう話は滅茶苦茶である。しかしこれと同軌の混同はその後の美作説では常套手段になる。
 しかしもっと重要なことは、本来の平尾氏系図には、無仁も武蔵も出てこないということである。この肝腎な点を、矢吹は無視して、ストーリーを創作するのである。
 改めて注意しておきたいのは、『東作誌』の正木輝雄は地元で資料を収集し、諸資料間の矛盾・不整合を指摘したに留まり、いづれが正しいのか判らないとしたことである。これはこれで正しいポジションなのである。正木は発掘者としての分を心得ていたのであった。
 正木以後は特に新発見はない。しかし、次の段階として始まったのが、素材を組立て一つの物語を形成すること、すなわち、考証という名の説話生産である。この位相は『美作畧史』で顕在化する。
 さて、太郎右衛門が十手の術をもって世に聞え、新免無二斎と号した、ということであるが、この「十手」のことは、先の『武芸小伝』に収録されている小倉碑文に依るものである。しかし、ここでも矢吹正則は典拠を示さない。一貫して小倉碑文を無視しているところが面白い。
 ただし、小倉碑文には「父新免、無二と号す」とあって、「無二斎」とはしない。この無二斎の名は、『武芸小伝』に「父號新免無二齋」とあり、これを受けて『東作誌』にも、その「無二斎」を記す。
 ただ、『美作畧史』の文章をみると、『撃剣叢談』に『武芸小伝』を承けて《父は新免無二斎と號して十手の達人也》とあるのも摘採したようである。むろん、『撃剣叢談』には、宮本武蔵守義恆が美作の吉野郡宮本村産だとはあっても、「平尾太郎左衛門」が新免無二斎と号した、などという珍説は、まだ発生していない。  Go Back


*【東作誌】
《平尾大炊介頼景 下庄千原の構に盾籠る。明應八年己未竹山勢押寄て大に奮ひ戰ふ。頼景縣傳八と戰ひ、新免治部左衛門が放つ矢に中り、終に同人に首を得らる。墓所鍋谷山にあり》


*【東作誌所収平尾氏系図】

○平尾民部大夫───────┐
  住作州吉野郡小原庄照田 │
┌─────────────┘
├平尾五郎左衛門尉─────┐
└平尾新四郎        │
┌─────────────┘
├平尾五郎大夫
└平尾大炊介頼景──────┐
┌─────────────┘
├太郎左衛門────────┐
└彌十郎          │
┌─────────────┘
└與右衛門正重




竹山城周辺現況
岡山県美作市



*【東作誌】
《平田武仁 赤松の餘類と云ふ。或云ふ、平尾五郎左衛門の子・太郎右衛門、宮本村に浪人して宮本無二と號す云々。平田無二新免家に屬して、驍勇万人に卓越し軍功無比類刀術に達せり。延徳三年、栗井近江守景盛吉野郡亂入以來、戰功際立ち不可算》




*【平尾氏總領代々書付】
《其子太郎右衛門と申、此時に下町竹山城の新免伊賀守領分成に付、以後宮本へ浪人仕居侯、故在名を以て宮本無仁と申候。其子武藏と申、此親子共に望有之に付、武藏姉と衣笠九郎次と妻合、家を繼し、其子與右衛門、其子九郎兵衛と申…》




*【東作誌】
《輝雄云、平尾・衣笠・宮本・平田等、系譜混沌として甚だ分ち難しとす。猶可考合》
《輝雄按ずるに、武藏が姓系、墓誌には赤松末流新免と見江、一本には平尾氏なる由を記し、又平田系圖を閲れは前に書る如し、孰か是なることを不知》


*【武芸小伝】
《宮本武藏政名者播州人、赤松庶流、新免氏也。父號新免無二斎、達十手刀術》

*【東作誌】
《武藏父無仁[本姓平田、或は武仁又は無二齋と書す]以來此所に住す。至今歴代子孫住居す》

*【撃剣叢談】
《武藏流ハ、宮本武藏守義恆が流也。武藏守ハ、美作國吉野郡宮本村の産也。父ハ新免無二斎と号して十手の達人也》
 
 (6)播磨ニ学ブ
 政名(つまり武蔵)は幼くして父の術を継承し、傍ら絵画に優れていたというのは、これも特にどこにも特定の典拠のない想像である。あるとすれば、『東作誌』所収の小倉碑文であるが、ここでも小倉碑文のことを曖昧にし典拠を湮滅している。
 『美作畧史』は、武蔵が幼い頃父の術を継承したとするのだが、父の術を継承したというのは、小倉碑文の「武蔵受家業」に対応するが、「幼い頃」となると、これもどこにも典拠のない話である。
 それよりも、実は根本的な問題がある。すなわち美作説における武蔵父の卒年問題である。すなわち平田氏系図や墓碑では、平田武仁は天正八年(1580)歿、これに対し武蔵の生年は天正十二年(1584)である。この隙間を埋める手段はない。したがって、『美作畧史』の著者は、『東作誌』のように平田武仁(無二)に軸足をおかず、異伝の平尾太郎左衛門の方へ重心をシフトさせるという操作をしている。平尾太郎左衛門なら歿年不詳だから、その点問題はない。
 しかるに、既述のように、平尾太郎左衛門の父は平尾大炊助頼景で、明応八年(1499)に播磨上月から美作吉野郡へ侵略してきて、鍋谷山で敗死した人物である。その子・太郎左衛門は少なくとも明応八年以前の生れである。この人物が、天正十二年(1584)生れの武蔵を生したとする説を信じる者もあるまい。この太郎左衛門は、その年代からして武蔵の父とはなりえない。その点を『美作畧史』は隠蔽して語らない。
 もう一つ『美作畧史』の奇妙な記述は「播磨に学ぶ」である。これも具体的な典拠史料はどこにもない。おそらく、これは小倉碑文によるものなのである。
 小倉碑文には、「まさに年十三にしてはじめて、播州新当流・有馬喜兵衛なる者とすすんで雌雄を決するに到り、忽ち勝利を得た」とある。とすれば、『美作畧史』の著者は、播州新当流の有馬喜兵衛と試合をしたとあるのだから、美作を出て播州へ行って兵法を学んだ、修行した、そういうことだろうと見たわけである。
 しかし、小倉碑文では、まさに年十三のときにはじめて決闘勝負をするに到った、その最初の相手が播州新当流の有馬喜兵衛だったということである。播州で学んだということではない。
 それでも、『美作畧史』の「播磨に学ぶ」は、後来の美作説論者よりもマシである。というのも、後続の美作説論者の中には、武蔵はこのときはじめて播州へ行ったと、小倉碑文に書いていると言い出すものが現われたからである。この誤読については、本サイトの小倉碑文読解研究を参照していただくとして、『美作畧史』の矢吹の段階では、美作説には、武蔵がこのときはじめて播州へ行ったなどという誤読は生じていない、そのことをここでは確認しておきたい。  Go Back





平田武仁夫婦の墓
天正八年の刻字がある
岡山県美作市宮本







*【小倉碑文】
《方年十三而始到播юV當流与有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》

*【東作誌所収小倉碑文】
《方年十三始至播州新當流與有馬喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利》
 
 (7)時人之ヲ日本無雙ト稱ス
 修行が成就して全国各地を回り、名のある武士に逢って技を試み術を較べること六十余回、いまだかつて一度も敗けたことはなかった。時の人はこれを日本無双を称した。その、吉岡拳法に京都で勝ち佐々木岩柳を舟島で殺すなどしたことは、後世の人がもっとも賞讃するところである。
 前項の続きだが、播磨で修行して、それが終って全国各地を試合をして回ったとする。どうしても修行が終らないと出発できないものらしい。
 無敗の武蔵、時の人はこれを「日本無双」と称した、とするのだが、これも典拠なき記述である。豊前小倉の武蔵碑は「兵法天下無雙」新免武藏玄信二天居士碑である。『東作誌』は「日下開山~明宮本武藏政名流」という『武芸小伝』の記事を引いて書いているが、時の人はこれを「日本無双」と称した、という記事はない。
 「日本無双」というのは一般的な称え言であるとすれば、それでもよいが、厳密に言えば根拠はない。小倉碑文に記す無二の称号「日下無双兵術者」との混同があるようである。
 なお、ここには「吉岡拳法に京師で勝ち、佐々木岩柳を舟島で殺す」とある。『東作誌』には、「京都で吉岡に打勝ち、また豊前の舟嶋で佐々木巖流と仕合して打殺す」とある。すると、これは『東作誌』とは別の文献に拠ったらしい。
 ようするに、「吉岡拳法」と「佐々木岩柳」という名の記載からする、これは『撃剣叢談』の記事のようである。
 ただし、『撃剣叢談』のスタンスは、「佐々木岩柳」という名については、姓名の是非を詳らかにせずと断わっているし、「吉岡拳法」の件も「又一説に」といって紹介しているだけである。こんな話もあるということである。
 それが、読者の『美作畧史』になると、吉岡拳法に京師で勝ち、佐々木岩柳を舟島で殺すと確言する。それは、『東作誌』に、「京都で吉岡に打勝ち、また豊前の舟嶋で佐々木巖流と仕合して打殺す」とある記事の、吉岡を「吉岡拳法」に替え、佐々木巖流を「佐々木岩柳」に書き換えたということである。ようするに、『美作畧史』の作者はこういう操作をやっているのである。  Go Back




東京都立図書館蔵
宮本無三四佐々木岸柳仕合之圖
一孟斎歌川芳虎筆



*【撃剣叢談】
《又一説有り、宮本武蔵、佐々木岸柳[姓名一事まゝにしるす。是非を詳にせず]仕合すべきに極りければ、(中略)勝負の日に至りしに、武蔵ハ輕捷無雙の男なれば、岸柳に十分に虎切をさせて飛上り、革袴のすそを切られながら、岸柳が眉間を打碎て勝たり。又一説に、武蔵ハ京都將軍の末、都に上り兵法所の吉岡拳法と仕合、打勝て天下一の號を将軍より下し賜はり、其名を日本に輝す由記せり。此拳法と勝負の時も、岸柳と仕合の時も、ともに一刀にて、二刀をば用ひざりしなど共云也。是等の説、実に然るにや》
 
 (8)政名亦去テ九州ニ往ク
 編年体の『美作畧史』であるから、「是年」というのは、冒頭の慶長5年だということである。ただし、武蔵が九州へ行ったというこのあたりも、『美作畧史』の「独創」で、むろん『東作誌』にもない記事である。
 この年、宇喜多氏亡び、新免宗貫が筑前の黒田長政に仕えた、というのは、関ヶ原役で西軍が破れ、宇喜多麾下の新免宗貫も、三代百年にわたって居城とした竹山城を退転して、九州へ流れたことを指す。
 『美作畧史』のこの記事は新免家記に依ったものであろう。それによれば、新免伊賀守(宗貫)は、竹山城を落去して、方々に身を寄せようとしたが、名島(小早川秀秋)が国を拝領したので、それもできず、父子とも家族を連れて筑前に下向した。筑前太守の黒田筑前守(長政)は同じ赤松氏族なので、それを頼って行ったという話である。
 新免宗貫は、播州宍粟郡長水山城主・宇野政頼の三男で、作州吉野郡の竹山城主・新免宗貞の婿養子になった人である。その宇野氏は、赤松氏と同じ祖先をもつ村上源氏であるが、赤松の氏族ではない。しかも赤松氏より古い氏族である。したがって、宇野氏を同じ赤松氏族だとするのは、播磨の事情を知らぬ妄説である。
 しかし、ここで注目したいのは、宇野氏の方ではなく、黒田氏が赤松氏族だという方の条りである。これが新免家記の根拠なき空想であるにしても、それが興味深い記事である。
 筑前福岡城主になった黒田氏は、通説によれば、近江佐々木氏を遠祖とする。それは『黒田家譜』の貝原益軒による説である。ところが、貝原益軒は『江源武鑑』を初出とする近江原産の虚説に依拠したにすぎない。
 播磨の旧記には、小寺官兵衛孝隆は、播州多可郡黒田村の黒田重隆の息子で、姫路城主・小寺職隆の猶子になったとある。実際、黒田官兵衛の実家は、代々多可郡黒田城主であった播磨黒田氏で、その元祖を赤松円光(赤松円心の弟)、氏祖を円光の子・黒田重光とする家系である。ゆえに播磨黒田氏は赤松庶流の氏族である。もとより、黒田家先祖は近江佐々木流だとする貝原益軒の説は、明らかに播磨の事情を知らずして書いた謬説である。
 したがって、新免家記に、筑前太守黒田氏が赤松氏族とするのは、播磨の伝承からすれば、それじたいは正しい。ただし、宇野氏を赤松氏族だとするのは、誤りである。
 ともあれ、小寺(黒田)官兵衛は秀吉から播磨宍粟郡に三万石を与えられていた時期がある。したがって、新免宗貫と官兵衛は、秀吉の時代、領地が、美作吉野郡と播磨宍粟郡で隣接していたことがある。新免宗貫は竹山城を落去して、身を寄せようと方々に工作したらしいが、それができなかった。小早川秀秋が、関ヶ原で寝返った功により、備前・美作の五十万石を与えられた。新免宗貫にはすでに場所がなかった。それで、黒田如水・長政を頼って行ったというわけである。
 筑前新免氏系譜では、黒田長政から戸川肥後守逵安を通じて召抱えたいと懇命があったので、筑前へ行ったという話である。これは出来すぎた話で、眉唾なのだが、戸川逵安が仲介したというのはなきにしもあらずである。
 宇喜田麾下で、新免宗貫は戸川逵安組に属した。筑前新免氏系譜に、嫡男宇兵衛某妻ノ父ナリ、とあるが、それは知れない。戸川逵安は関ヶ原役前年の宇喜田騒動で離反し、関ヶ原戦では、備前の手勢を引き連れて東軍についた。その軍功により、逵安は備中庭瀬に二万五千石を得た。新免宗貫がこの戸川逵安を頼ったということはありうる話である。
 しかし、戸川逵安は身上が小さいし、筑前で大大名になった黒田長政に、新免宗貫を斡旋したものであろう。筑前で一挙に四倍以上の家禄を得た黒田家では、家臣を急増員する必要があり、ちょうどよかったのである。
 慶長五年に新免伊賀守宗貫は領地を剥奪され、竹山城を退転する。しかしそのまま同年九州へ流れたかどうか、新免家記には、身を寄せようと方々に工作したらしいが、それができなかったとある。黒田長政をたよって筑前へ下向したとあっても時期の記載がないので、この年に行ったかどうか確証がない。筑前新免氏系譜では、新免宗貫が黒田家にありついたのは、母里太兵衛の斡旋があったともいうが、宗貫(則種)に采地二千石、御判物は慶長六年三月二十一日だという。しかしとにかく『美作畧史』の筆者は、新免宗貫がこの年筑前へ行ったことにしてしまう。
 そうして、さらに――これが肝腎なところだが――『美作畧史』の筆者は、このとき武蔵もまた九州へ去った、ということにしてしまう。これは、まさにそれまでどこにもない新説である。
 そうなると、武蔵は、新免宗貫に仕えていたという設定のようである。新免宗貫に仕えていたので、宗貫に従って九州へ行ったことにしてしまうらしい。
 ところが、政名(つまり武蔵)も九州へ往ったというのは、まったく根拠のない話である。大体、武蔵が新免宗貫の元に居たという記録史料はどこにもない。それがあるとすれば、後世改竄の明らかな新免家侍帳の記録しかない。
 ただし、武蔵は生涯だれの家臣にもなったことがないとすれば、もともと新免宗貫にも仕えたことはなかったのである。
 したがって、慶長五年に武蔵は九州へ行ったという記事は『美作畧史』作者の想像の産物で、言わば「小説」なのである。古事帳など地元史料では、武蔵出郷の時を記すが、具体的に九十年前と誌す下庄村古事帳(平尾家文書)の他は、出郷の年は明らかではない。むろん、新免宗貫が九州へ行った、武蔵もまた九州へ行った、などという話は存在しない。そういう漠とした隙間に、こうした空想が繁茂するのである。  Go Back




*【新免家記】
《新免伊賀守竹山城落去して方々身を寄るといへ共、名島拝領によりて叶かたく、父子共家族引具し、筑前太守黒田筑前守ハ赤松氏族たるにより、頼ミて筑前に下向す》
《黒田筑前守殿より新免宇右衛門領知三千石拝領して筑前に住す》



作州吉野郡と播州宍粟郡


*【播磨黒田氏系図】
 
○赤松円光―黒田重光―┐
 ┌─────────┘
 └重勝―重康─光勝─重貞┐
 ┌───────────┘
 └重昭─重範─重隆┬治隆
           │
           └孝隆


*【筑前新免氏系譜】
《慶長五庚子年、石田治部少輔三成ニ組シテ濃州ニ出陣シ、九月十五日於関ケ原ニ手勢ヲ励シ力戦ス。然レトモ関東ノ御武威ニ敵シ難ク、西方惣敗軍トナル。其砌、長政公ヨリ戸川肥州公ヲ以テ可被召抱トノ蒙懇命[戸川氏者則種嫡男宇兵衛某妻ノ父ナリ]。依之筑前御入国以後二男[宇兵衛・七兵衛]、家弟[常屋五郎左衛門]ト倶ニ、御当国ニ来ル。母利但馬某ノ取次ヲ以テ、則種へ於下座郡ニ采地二千石[御判物ハ、慶長六年三月二十一日ニ下シタマフ]、嫡男宇兵衛ニ三百石、弟五郎左衛門ニ五百石下シ玉フ》





美作畧史
明治14年(1881)

 
 (9)政名肥後熊本ニ死ス
 この割註は、正保二年(1645)の武蔵の死と、養子伊織の話を付記するかっこうである。
 ところが、『美作畧史』は一貫して「政名」なのである。このあたりは滑稽である。なぜなら、これは『武芸小伝』の誤りをそのまま反復しているからだ。
 武蔵が「新免武蔵守玄信」と『五輪書』に記しているから、「玄信」は武蔵の諱〔いみな〕であるのに、『武芸小伝』はこれを法名と誤認してしまっている。《正保二乙酉年五月十九日肥後熊本城下ニ於テ死ス。法名玄信二天》と記す。法名は「玄信二天」だとみなしたのである。
 これは小倉碑文に、
《播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士》
とあるのを、間違えて「玄信」は法名に違いないと思い込んだわけだ。むろん『武芸小伝』の著者は『五輪書』など見てはいないから、こういう誤解をするわけだ。そうして、「玄信」が法名なら、諱は「政名」だというぐあいに思考は展開する。しかし、こういう『武芸小伝』の誤りが、その後後人によって反復され、再生産され続けたのである。
 この誤りは『東作誌』でも反復され、
《正保二乙酉年五月十九日肥後熊本ニ於テ死ス。謚玄信二天》
とあって、『武芸小伝』の文字をほぼそのまま引き写している。また『美作畧史』はそれを受け売りしたわけである。
 次の記述、《子伊織、小倉城主小笠原氏ニ仕ヘ、老臣ニ列ス》とあるのは、『東作誌』の誤認を修正したという点で、矢吹の功である。というのも、『東作誌』には、武蔵の子は三人、嫡男の伊織は、細川侯に仕えて知行千石、二男の主馬は小倉侯小笠原家に仕え、家老となり知行三千石、三男の三木之助は、実は新免宇右衛門の子で、姫路侯本多家で知行七百石――というような荒唐無稽な誤伝がある。したがって、『美作畧史』は少なくとも、伊織については認識を改めている。
 しかし、この伊織記事もなかなか微妙な一文である。なぜなら、『美作畧史』の矢吹正則は一貫して小倉碑文を典拠としないからだ。『武芸小伝』の名を挙げるのに、それが拠った小倉碑文を無視する、なぜそうなのか。
 それは言うまでもなく、小倉碑文が武蔵を「播州英産」としているからだ。小倉碑文に言及すればこの記事に抵触する。その名を挙げずに、二次史料たる『武芸小伝』の名を挙げて、問題を回避しているわけである。
 すでに『東作誌』には、武蔵を播州人とすることは非なり、とする見解を正木が示している。矢吹はこの最初の言挙げの衣鉢を嗣いでいるのだが、この点からして、『美作畧史』の態度は微妙である。
 それにしても『美作畧史』には、伊織が老臣に列したと書いても、伊織が建てた小倉の武蔵碑について一言もない。これもまた、近代の美作説発生シーンにおける、なかなかおもしろいところでもある。 Go Back





小倉武蔵碑
北九州市小倉北区




*【東作誌】
《考るに、武藏の子三人あり。嫡伊織、細川侯に仕へて千石を知と云、二男主馬、小倉侯小笠原家に仕へ宰臣となり、三千石を知と云、三男三木之助、實は新免宇右衛門の子、姫路侯本多家七百石を知[新免家系に詳なり]》


*【小倉碑文当該部分】
兵法天下無双
播州赤松末流新免武藏玄信二天居士碑 正保二乙酉暦五月十九日於肥後國熊本卒 于時承應三甲午年四月十九日孝子敬建焉 (以上右下墓誌部分)
(以下本文) 臨機應變者良將之達道也講武習兵者軍旅之用事也游心於文武之門舞手於兵術之場而逞名誉人者其誰也播州英産赤松末葉新免之後裔武藏玄信號二天

  【 後  記 】

 以上、『美作畧史』の関連部分を読んだが、冒頭に述べた如く、こうした矢吹正則の方向づけは『東作誌』にはまだなかったもので、これが爾後の武蔵美作産地説の基本的ポジションとなったことは、改めて確認しておく必要がある。
 それは、現在ではだれももう『美作畧史』を参照言及したりしないほど、「常識」になってしまったポジションなのである。いわばイデオロギーと化した説なのである。
 我々にとって興味深いのは、美作説の形成過程である。文化年間の『東作誌』から明治の『美作畧史』へ、その間、地元では武蔵顕彰の機運が盛り上がっていたことは注目される。
 かくして矢吹は、そうした機運に根拠を与える地元郷土史家として現われ、美作説に考証の意匠を着せ、一つのストーリーを有する武蔵物語に仕立てたのである。そうしてみる時、『東作誌』の校訂は美作説の事業として必然であり、また事実そうであった。
 しかしながら、すでに見たように、『東作誌』には、伝承の混乱していること、物証なきことを明記し、またこの矢吹正則・正巳二代の校訂者でさえ、正木が遺したこの疑問を解決したいと思って、旧い記録を参照し、また実地調査したが、遂に解決を得なかったと記し、そして、各家の旧記系譜は、各家が焼失した後に各家において推測し作成したものであるとも明記している。
 ところが十九世紀の美作説論者において維持されていたそうした留保は、いつのまにか蒸散し、以後の美作説の展開に見るように、美作説には他にはない物証がある、との主張が臆面もなくなされるようになった。
 また世間でも検証抜きでこの美作説を受け売りする者らが雲蚊の如く発生し、美作説はまともな史料批判による吟味にさらされることなく、今日まで長く生き延びたのである。
 すでにこのサイトの各所で述べられているように、我々の所見では、美作説には根拠なし、である。それは、美作説の根拠となった『東作誌』を厳密に読解すれば明らかである。
 誤りはいかに反復されるか、再生産されるか、それは次の宮本武蔵顕彰会本『宮本武蔵』の読解において示されるであろう。


 PageTop   Back   Next    資料篇目次