宮本武蔵 資料篇
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[資 料] 宮本武蔵遺蹟顕彰会編 『宮本武蔵』 Go back to:  資料篇目次 




宮本武藏の墓 「東の武藏塚」
熊本市龍田弓削






顕彰会本『宮本武藏』
初版本 明治42年

 肥後熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会は、明治三十九年(1906)県内有志によって結成され、翌年には武蔵の遺墨遺品の展覧会を開催、明治四十四年(1911)には、当時忘れられ荒れ果てていた龍田村弓削の武蔵塚を整備するなど、実際的顕彰活動を行なった。
 なかでも明治四十二(1909)年、本書を刊行したことは最大の意義ある事業であった。おそらく当事者の思惑を超えた大きな影響を各方面に与えたのである。
 本書刊行の時期の状況は、日露戦争において勝利をおさめた日本人が過剰な自信を抱くに至り、国粋思想が隆盛した頃である。それまで旧弊遺物としてしか見えなかった前近代的な伝統の再評価が始まり、ことに「武士道」というものの再発見に到るのである。本書の序にもこうある。
 《思ふに物質的文明の進歩は、動〔やや〕もすれば人心を浮薄ならしめ惰弱ならしめ、併〔あわ〕せてかゝる貴重の武士道をも輕視し、かゝる偉人の蹟〔あと〕をも顧みざらむとするごとき傾向無きにあらず、これ大〔おおき〕に寒心すべき事なり、今や〔宮本武蔵〕先生の本傳成れり、世のこれを讀むもの、先生の眞相を知ると共に武士道の由來する處を考へ、自ら省み求むることあらば、また世教振作の一端とならざらむや》
 明治末期のこうした思想状況のなかで、「偉人」武蔵の再発見がなされ、この顕彰会本『宮本武蔵』が登場したことに注意したい。
 それと同時に、従来、講談や浄瑠璃といった大衆芸能のなかで有名だった武蔵像の「偽を正して眞を顕はさむ」としてその実像を確立し、虚構の武蔵ではなく史実の武蔵を発見しようとする、近代的な知の欲望の出現を確認しうるのである。
 本書は、肥後の宮本武蔵遺蹟顕彰会に委嘱を受けた国文学者・池辺義象〔よしかた〕(1861〜1923)が執筆したものである。池辺は熊本生れで、父は細川藩士、東大卒、宮内省図書属、一高(当時はまだ第一高等中学校の時代)教授、フランス留学などのキャリアをへて、当時京大で教えていたらしい。
 編述者としての池辺の「例言」によれば、本書執筆の資料は池辺本人によるもののほか、顕彰会のメンバーが収集提供した資料もあるようである。しかし、池辺が美作の現地をフィールドワークした形跡はない。それを行なったのは、顕彰会発起人に名を連ねる原田宣義のようである。その折に現地の史料を採取し、これを京都の池辺にもたらしたのである。
 武蔵が「生国播磨」と明記しているにもかかわらず、あえて美作出生説をとった本書の成り立ちは、いづれ明らかになるだろうが、本書の参照資料を一覧するに、やはり平野庸脩の『地志播磨鑑』が漏れている。というのは、本書執筆の明治四十一年には、まだ『播磨鑑』の刊本が出ていない。『播磨鑑』の刊行は明治四十二年、まさに顕彰会本『宮本武蔵』の刊行と同年だったのである。すなわち、池辺は『播磨鑑』刊行とすれ違いに本書を執筆したのであった。
 おそらく池辺は播州出身の井上通泰と通交があったはずだが、文化年間の『東作誌』は知っていても、それより半世紀は早い『播磨鑑』を知らなかったのであろう。この事実は、本書・顕彰会本『宮本武蔵』の結論に重大な偏向を与える結果になった。かくして、
 《かくのごとくして編述已に畢〔おわ〕りたりと雖も、顧れば雜説紛糾或は判斷を誤りたるもあらむか、且は文章拙くして意を貫くこと能はざらむか》
という池辺の謙遜は、実は謙遜しておいてよかったのである。しかし、末尾に池辺のいう再版改訂は結局なされなかったのである。というのも、本書は意外にも世間にウケてしまったからである。
 ともあれ、客観的に評価すれば本書の史的意義は少なくない。すなわち、ただちに以下の諸点を挙げうるであろう。
(1) 武蔵に関する近代的評伝の嚆矢となった一書であり、五輪書や小倉碑文をはじめ諸資料を収録しているため、最初の武蔵資料便覧として機能したこと。
(2) 当時まだ一般に知られていなかった九州の武蔵伝記、肥後の『二天記』や筑前の『丹治峯均筆記』等を世に出したこと。
(3) とくに肥後系武蔵伝記『二天記』を前面に出し、それを中心に武蔵物語を再編したこと。ために爾後、世間では『二天記』が武蔵伝の正典たる過大なステイタスを得るようになったこと。
(4) 武蔵の出自に関し、当時世間の意表をつく武蔵を美作産とする異説を立て、それまでローカルな伝説でしかなかった美作の武蔵伝説を世に知らしめたこと。
(5) その美作出生説は難の多い仮説にすぎないが、後半部の武蔵伝が信憑されたため、その前段の美作産地説も同時に信奉され、以後の武蔵論に多大な影響を与えたこと。
 かくして本書は、武蔵資料便覧として長く活用された。また、本山萩舟以下、多くの作家が、本書一冊によって武蔵小説をものしたのであった。
 にもかかわらず、本書が決定的な限界を有するのは、『二天記』や『丹治峯均筆記』の九州ローカルな伝説を、事実と錯覚してそれを鵜呑みにしてしまったことである。そのため、武蔵老年期の記事はありえても、武蔵壮年期の播磨時代の事蹟が欠落し、いわば数十年の空白をもつ不完全な伝記となった。(本書が依拠した『二天記』その他の近世武蔵伝記については、本サイト資料篇「武蔵伝記集」で読解研究が公開されるので、それを参照されたい)。
 他方、本書では、武蔵の産地出自について、五輪書の「生国播磨」に異を立て、美作説を試みているが、成功しているとは云えない。さしあたりその難点を言えば、以下の如くである。
(1) 本書が採用した美作資料はごくわずかなものである。つまり地元の『東作誌』に依拠し、あるいは美作に現地踏査をして系図等史料を発掘収集しているのだが、根拠資料として十分ではない。
(2) 当地事情不通のため史料批判をなしえず、恣意的な資料操作がみられる。
(3) それら資料に依拠して立論しているが、誤読・誤認が少なくない。
(4) 武蔵は美作産という結論を急ぐあまり、しばしば粗雑な憶測を重ねている。
 それゆえに、本書の所説には厳正な評価をなして、その問題点を明確にしておく必要があった。しかるにこれまで、本書に対して、そうした試みをなされたことはなかった。ことに、その武蔵の出自及び産地に関する説については、それに無批判に盲従するか、あるいは批判があったとしても、それは外在的な論評しかなかった。
 かくして、本書の所説について、美作の資料をもとに、改めて内在的な批判を行う必要があるのは申すまでもない。そのため、ここでは、本書の武蔵伝のうち、武蔵産地あるいはその出自説の部分に限って、検証することにする。
 読者には、本稿を読む前に、本サイト[資料篇」の吉野郡古事帳および東作誌の読解研究を閲覧されることを推奨する。それらの研究を土台にして、以下の本稿の分析があるからだ。
 さて、本書筆者・池辺義象は、いかにして武蔵の産地出自を語りえたか。以下、本書の武蔵伝の武蔵産地出自説のうち、焦点となる関連部分を採取し、それに評注を加えて研究資料とする。明治末の文章ゆえ、とくに現代語訳はしなかった。
 また、本書、宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』は、一般的な「宮本武蔵」という題名であり、他と区別するためには、「宮本武蔵遺蹟顕彰会」を冠するとそのタイトルが長いので、従来の慣例に従って、「顕彰会本武蔵伝」あるいは、たんに「顕彰会本」と表記していることも、あらかじめ断わっておく。


顕彰会本『宮本武藏』
明治四十二年 初版奥付




顕彰会本『宮本武藏』第三版
金港堂 大正七年







覆刻版・顕彰会本『宮本武藏』
熊日出版 二〇〇三年


 
    第二章 武藏の祖先及生地

 花笑ふ處鳥謡ひ、水清き處月宿る、物各々その因縁あり、白鳥は烏を孕まず、虎は羊を生まず、武藏は一世の偉人なり、二刀兵法の元祖なり、いかでその基く處なからむ、(1)
傳ふる處に據れば武藏はもと播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流、平田氏に出づ(2)、明應文龜の頃、平田將監といふものあり(3)、劔道及十手の術に通じ(4)、美作に來り吉野郡竹山城主新免氏に仕へ、下荘村に居住す(5)、新免伊賀守宗貫厚くこれを用ゐ、文武の師範とし、遂にその氏を與ふ(6)、子武仁父の跡を嗣ぎ(7)、新免及平田を稱し又平尾と稱し(8)、無二齋と號す、殊に十手の術を極め、性頗る剛勇なり、宗貫また厚くこれを用ゐたり、[平田氏系圖](9)
武仁の名漸々聞ゆると共に、京都将軍義昭公、ことにこれを召し、その剣道の師範役たる吉岡憲法と勝負を決せしむ、互に三度を限らせしが、吉岡一度利を獲、武仁兩度勝を制せり、公これを賞して、武仁に日下無双兵術者の號を賜ひぬ、これよりその名大に顯はれたり[二天記異本誌碑文](10)
初め新免家の家老に、本位田外記之助と云ふものあり、宗貫これを悪み、窃に無二齋に囑して殺さしめむとす、〔中略・この部分『東作誌』による記事引用〕無二齋その首を打取りぬ、宗貫大にその功を賞したれども、是より後無二齋は反て一家中の妬を受け家に籠居せりといふ(11)、かくて後無二齋は同郡宮本村に移住し、此の地に歿せり(12)、武藏は即ち當時武勇の聞ゑ高かりしこの無二齋の子なり、その剛勇なる基く所あるを知るべし[摘取新免家侍覺書、東作誌、及碑文](13)

 
 【評 注】

 (1)花笑ふ處鳥謡ひ、水清き處月宿る
 白鳥は烏を孕まず、虎は羊を生まず、とは一見ジョークのような、なかなか愉しい書き出しである。しかしまるで実録物小説のごとくであり、当時の国文学者に似合わない通俗的な文章である。
 さて、偉人伝のはじまりだが、武蔵の家系及び出生地を扱うこの第二章が、本書の焦点となる部分である。  Go Back

 
 (2)武藏は…平田氏に出づ
 伝えるところによれば、とは言いながら、これが最初にずばりと提示された本書の結論である。「播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流、平田氏」とは要領を得ない話だが、「平田氏に出づ」というからには、根拠史料は平田氏系図であるらしい。
 では、その平田氏の系図はどうなっているのか。しかし平田氏系図なるものは一つではない。地元研究者・福原浄泉によれば、こうである。

川上村平田系図

  菅原姓 宮本 平田 原
人皇第九十七代光明院御宇
        大職冠二十八世
徳大寺大納言直孝卿  新免之祖─────────┐
                        │
┌末 包 菅原之姓西播ノ銘家          │
│  武芸小伝ニ宮本者西播ト有書写ノ誤卜可見也 │
│十手家 正暦幹正ヨリ引カ不詳         │
└平田将監 明応文亀ノ頃───────────┐│
  新免七條少輔則重者直孝卿ノ嫡男粟井郷ニ居住││
  後竹山城宮本者十手刀術二秀家老職     ││
  釆地下庄ノ内宮本中山也          ││
┌──────────────────────┘│
│日下開山                   │
├宮本武仁正家 後無二斉───────────┐│
│ 真源院一如道仁居士天正八年四月二十八日  ││
│ 光徳院覚月樹心大姉於真佐         ││
│┌─────────────────────┘│
│├女子 平尾与右ヱ門江嫁           │
││ 月松妙永禅定尼慶長十六年十一月二十四日  │
││日下開山                  │
│└宮本武蔵政名───────────────┐│
│  正保二酉年五月十九日豊前小倉卒     ││
│  玄信二天居士              ││
│┌─────────────────────┘│
│└宮本伊織                  │
│  二代之記録別ニ有之            │
│                       │
└宮本武助正常────────────────┐│
 武仁ノ弟 妻者新免弾正娘也         ││
  無戯論院入阿幽真居士           ││
   文禄二年三月十四日           ││
  真月院入阿慈海大師【大姉?】       ││
   慶長七年七月七日            ││
┌──────────────────────┘│
│正常五代孫                  │
├光清 幼名小十郎 平田次郎兵ヱ        │
│ 森美作守中将殿津山へ入國ノ節御宿      │
└光将 平田与左右ヱ門 下町平田氏ノ祖也    │
┌───────────────────────┘
└新免藤右ヱ門 川上岡屋敷居住─────────┐
  境内ニ正家ノ墓有之             │
  妻者無二ノ娘(宮本平田系図ニヨル)     │
                      以下略
宮本村平田系図


末包 西播の銘家江川の長者──┐
               ├────────┐
徳大寺大納言実孝卿──────┘        │
菩提寺城主有元佐高女              │
┌───────────────────────┘
│宮本、平田、原姓                
└平田将監───────────────────┐
  新免七條少将則重の家老職 釆地下庄邑の内宮本│
  中山 文亀三年十月二十一日卒 武専院一如仁義│
  居士 仝人妻新免氏娘 知専院貞実妙照大姉  │
  永正二年七月十五日卒            │
┌───────────────────────┘
├平田武仁正家 竹山城家老職──────────┐
│ 真源院一如道仁居士 天正八年四月二十八日卒 │
│ 川上村岡屋敷五十三才 霊陽院義昭公の時於  │
│ 帝都与吉岡扶桑瑞一者決勝負勝利得此号給記録 │
│ 有之略 妻者宇野新次郎宗貞ノ娘於政 天正十 │
│ 二年三月四日卒 四十八才 光徳院覚月樹心大姉│
│┌──────────────────────┘
│├女 平尾与右ヱ門に嫁す 鶴壽院月照妙永禅定尼
││ 慶長十六年十一月二十四日
│├女 川上岡新免藤右ヱ門に嫁す
│├次郎太夫 順嘉宗心禅定門
││     万治三年十一月十三日八十三才
│└宮本武蔵政名 扶桑第一吉岡及佐々木厳流撃殺す
│  六十余度の真剣勝負し名誉別記に載之爰に略す
│  正保二年五月十九日熊本城下に卒す
│  賢正院玄信二天居士
└宮本武助正常─────────────────┐
  竹山城落城後農夫となる 邑里人宇称宮本の殿 │
  と云 文禄二年三月十四日卒 無戯論院入阿幽 │
  真居士 妻は新免弾正娘 慶長七年七月七日卒 │
  真月院観阿慈海大姉             │
┌───────────────────────┘
└平田六郎左ヱ門 原六郎左ヱ門小十郎──────┐
  慶長十六年八月十六日 清浄院一智宗順居士  │
  妻竹田若狭守娘 宝寿院真伝永照大姉 元和元年│
  四月七日                  │
                      以下略
 細部については他論攷に譲るとして、要点は、本書・顕彰会本武蔵伝が言うところの「衣笠氏」は、この二つの平田氏系図のいづれにおいても祖系ではないことだ。
 つまり平田氏の系譜は、一つは新免氏の祖である徳大寺実孝に発すること、それから、「末包」という「西播の銘家江川の長者」、播州佐用郡末包村の家系であるらしい。末包氏由緒書によれば、その氏祖は、大職冠内大臣鎌足の末子である。「善実故之有播磨国に誕生、時の人藤童殿と相唱其地に閑居、持統帝七癸己年正月二十一日病死、則霊社有之候」とある「藤童殿」である。
 とすれば、前者の徳大寺はむろん、後者からはまさに藤原氏始祖の末子を享けるというわけである。赤松でも、またその枝流である衣笠でもないのである。
 これをようするに、確実なのは、顕彰会本の著者は、平田氏系図を見ても内容を理解できていないのである。それが「伝えるところによれば」である。系図の先祖も理解できないで、「衣笠氏の支流、平田氏」だと書いているのである。では何を見て、「衣笠氏の支流、平田氏」だと主張するのか。
 この言説の典拠は美作の古記録ではなく、矢吹正則の『美作畧史』(明治十四年・1881)であろう。それには、政名は武蔵と称す、宮本村の人で、その先祖は赤松氏の族、衣笠氏より出る、播磨平尾村に住し平尾を以て氏とし、政名に至ってまた邑名宮本を以て氏となす、その父太郎左衛門、新免宗貫に属し、十手の術を以て世に聞え、新免無二斎と号す、とある。
 この『美作畧史』は、「平尾太郎左衛門」が新免無二斎だという憶測から、この説を展開しているのだが、さらにこの書のリソースは正木輝雄の『東作誌』所収の一文書、後に言及する平尾氏總領代々書付なる文書であろう。あるいはそれより古い古事帳文書には、他で触れたように無仁の妹が衣笠九郎次郎なる者の妻だという記事がある。武蔵が衣笠氏だという胡乱な話はどこにもない。
 ところで、この平田氏は、播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流というが、ちなみに衣笠氏そのものは、別所氏の支流である。初代祐盛、応仁の乱に赤松政則につかえて軍功が多く、但馬勢合戦のみぎり衣を下賜されたのを笠印にして戦ったところから、政則の命で姓を衣笠と改氏したという話があるが、それでは時代が合わない。赤松則村は敦光の兄である。

端谷城址
神戸市西区櫨谷町寺谷



衣笠氏等関係地図
 衣笠氏は元来備前の和気郡本庄村衣笠(現・岡山県和気町)の出という。播州揖保郡松山(現・姫路市林田町)に拠り、祐盛の子・範弘の代から明石郡端谷〔はせたに〕城(櫨谷または栃之木谷とも、現・神戸市西区)の城主となる。三木合戦では範景が討死、端谷の衣笠氏はこれで滅んだが、範景の弟・衣笠久右衛門(因幡守景延)は、のちに黒田二十四騎の一人として筑前黒田家中で三千石知行。寛永八年(1631)歿、享年七十九歳、兄と違って半世紀も長生きした。また、範景子の政次の系統は、美作に移って諸村に衣笠氏として残り、また従兄弟の氏綱の系統は播州姫路に存続した。
 ようするに、平田氏の祖を衣笠氏だというのは、明らかな謬説なのである。それは、『美作畧史』の矢吹が『東作誌』の記事を誤読した結果でしかない。『東作誌』の正木は、平田氏と平尾氏を弁別して書いている。しかるに、『美作畧史』は、平田無二と平尾太郎左衛門を同一視することによって、平田氏と平尾氏の分別を混乱せしめた。それだけではない。平尾氏起源伝説に婿として出てくる衣笠九郎次の記事から、根拠もなく、平尾氏の先祖が衣笠氏とみなしたのである。その結果が、「其ノ先赤松氏ノ族衣笠氏ヨリ出ヅ」である。
 しかし、さすがに『美作畧史』でも、平田氏先祖が衣笠氏だというバカなことは書かない。これは、顕彰会本の作者の踏み外しである。
 平田氏の家紋は梅鉢である。梅鉢家紋、すなわち菅家系統である。系図では始祖を藤原氏としながら、家紋はそれをあからさまに裏切っているのである。末包を菅原之姓・西播ノ銘家として辻褄を合わせようとするのは、系図自体が新しいせいで、むろん上述のように、末包は藤原氏であって菅原ではない。
 かように錯雑があるのは、むろん出自から遠く離れた後代に系図を新調しているからだ。ようするに、この系図そのものは新しい。それに加えて、後にみるように平尾家と伝承内容が矛盾しているのである。
 ともあれ、平田氏と衣笠氏の先祖は無関係である。顕彰会本のこの謬説の起源は、『美作畧史』の憶測にあった。顕彰会本の作者はそれを誤読し、事情不通のためさらによりいっそう踏み外して、その誤謬を拡大したのである。それが、本書の「衣笠氏の支流、平田氏に出づ」という記述の背景である。
 爾後、この「衣笠氏の支流、平田氏に出づ」が、後続の他書に反復され、一斉に唱和されるようになる。だが、その根元を明かせば、顕彰会本の作者の、事情不通によるたんなる誤読に始まる。  Go Back



美作吉野郡・播磨佐用郡

*【美作畧史】
《政名[撃劍叢談、義恆ニ作ル]武藏と稱ス、宮本村[吉野郡]ノ人ナリ、其ノ先赤松氏ノ族衣笠氏ヨリ出ヅ、播磨平尾村ニ住シ、平尾ヲ以て氏トス、政名ニ至テ、又邑名宮本ヲ以テ氏ト為ス》




*【衣笠氏関連略系図】
 
○頼則―則景―家範―久範┐
┌───────────┘
└茂則┬円心[則村]→赤松嫡流
   |
   │   別所
   └円光―敦光―敦範―持則┐
┌──────────────┘
│      三木城
└持祐┬祐則┬則治─則定─就治→
   │  │
   │  ├則正 安積
   │  │
   │  │利神城
   │  └光則─治光─治定→
   │
   ├祐利―則実 
   │
   └祐定┬祐光 
      │
      └衣笠祐盛─┐
 ┌──────────┘
 │端谷城        
 ├範弘┬範景┬政盛―政由
 │  │  │
 │  └景延└政次―政直
 │
 └範氏―氏綱―氏永―憲泰




*【東作誌所収平田氏系図】
 
 菅原姓系図
○平田將監─────────┐
┌─────────────┘
├平田武仁──平田武藏掾二天

└平田武輔─────────┐
┌─────────────┘
├平田次郎左衛門
│ 宮本屋敷に住す。子孫多し
└平田次郎大夫
  子孫多し。下町村平田の祖





梅 鉢 家紋
美作管家のシンボル
 
 (3)明應文龜の頃、平田將監といふものあり
 平田家系図では、この平田将監が武蔵の祖父だとする。ところが、この平田将監という人物がはっきりしない。
 順に言えば、まず彼は明応・文亀のころというから、西暦で云うと一五〇〇年前後の人である。平田氏系図に将監を新免則重の家老とする。このあたりの伝記は新免家記によるしかないが、新免則重は応永二十七年(1420)八十六歳卒だから、明応・文亀のころという将監が則重の家老であるには無理がある。その嗣・貞重は大栄三年(1523)卒。それなら可能性はあるが、系図では新免則重の家老だというのだから、いかんとも為しがたい。時代が混乱している。
 さらに問題の第二点は、平田将監とその子・平田武仁とのリンクである。平田氏系図では将監は文亀三年(1503)の歿である。そんな時代に死んだ人物が、武蔵の祖父であろうか。
 単純に計算すればよい。平田氏系図では武仁は五十三歳で死んでいるから、その生年は享禄元年(1528)となる。武仁が生れる二十五年も前に将監は死んでいる。このあたりの話は極端に面妖だから、平田氏系図によって、将監・武仁・武蔵の世代リンクを整理すると、こうだ。
    将監(祖父)の没年  文亀三年(1503)
    武仁(父)の生年   享禄元年(1528) 父死後二十五年の出生
    武仁(父)の没年   天正八年(1580)
    武蔵の生年      天正十二年(1584) 父死後四年の出生
 このように、将監→武仁→武蔵のリンクには隙間がある。武蔵が生れる前に「父」は死んでいるし、またその「父」が生れる前に「祖父」は死んでいる。つまり、この三世代、いずれも子が生れる前にその父は死んでいるわけだ。なんともミステリアスな家系である。
 いづれにしてもこの平田氏系図という史料、美作説の根拠史料なのだが、信憑するには内容があまりにも杜撰なのである。それとともに、この系図によって将監・武仁・武蔵の系譜を主張する美作説は根本的な欠格性を有する。
 もちろん、この説を主張し始めたのは、『東作誌』でも明治の『美作畧史』でもない。まさに、明治後期に作成された平田氏系図である。美作の事情を知らぬ顕彰会本の作者は、その新造の説に乗ってしまったのである。
 『東作誌』は、武蔵の父として平田無二(武仁)の名を出し、平田氏系図を資料として採取して掲載しているが、本文にはこの平田無二(武仁)の父が平田将監だとは書いていない。また『美作畧史』は、平尾氏の伝承に依拠しているので、これも平田将監の名は出ない。
 顕彰会本の作者は、それらとは違う明治新作の平田氏系図の部分的な写しを見たらしい。これは上掲のごとく、川上村と宮本村の二本がある。これがどこまで仕上がっていたか不明だが、とにかく『東作誌』や明治十四年の『美作畧史』にはまだなかった記事内容の系図である。
 その記事からすると、顕彰会本の作者は、主として川上村平田氏系図から情報を得たらしい。となると、明治後期の作物に拠った話で、これはとても信憑するに値しない。しかも顕彰会本の作者は、平田将監先祖の徳大寺実孝や菅原之姓末包の記事はまったく無視して、平田氏は衣笠氏だという珍説を展開したのである。
 かくして、顕彰会本の錯誤の見極めがつく。著者は、明治新作の平田氏系図を見たが、その内容を十分理解できなかった。しかし、そこに記された平田将監以下の記事をつまみ食いして、事情不通の珍説を展開したという次第である。  Go Back

 
 (4)劔道及十手の術に通じ
 これは、川上村平田氏系図の、《宮本者十手刀術ニ秀》という記事によったものである。『東作誌』の記事には、平田将監に関する記事はない。
 しかしこの系図記事で奇怪なのは、平田将監を「宮本」とするところである。宮本村平田氏系図でも、「宮本、平田原姓」とするから、どうも平田将監の原姓が宮本氏だとする説が、明治後期に平田家では出てきたらしい。
 しかし、これは古事帳に「宮本武仁(無仁)」とあって、その親なら「宮本氏」だろうということである。しかし、本サイトの吉野郡古事帳読解研究によれば、これは平尾氏起源伝説に、宮本武蔵が外挿されただけのことである。これが廻り廻って、平田氏系図に取り込まれ、ついには明治後期には、先祖の平田将監まで宮本氏になってしまったのである。
 むろん、川上村新免氏が伝えた新免家記には、平田将監なる者は登場しない。明応文亀の頃というから、その時代にはどうかと見るに、新免家記には「平田無二」しか出てこない。平田将監は存在しないのである。平田氏のどの世代で将監の伝承が出てきたか、興味あるところではある。
 しかも、平田将監が十手刀術に秀でていたとあるのは、明治の記事である。「十手の家」という話は、そもそも小倉碑文に出たが、『東作誌』以来それは美作でも語られるようになり、それも、もうこの時代まで来ると、平田武仁の父が十手の達人なのである。荒唐無稽と云うべし。  Go Back




*【新免家記】
《時に應永廿七年八月廿一日ニ、新免七条(少將)則重、八十六歳ニ而卒ス。大海寺殿暗光と云》




*【川上村平田氏系図】
《平田将監 明応文亀ノ頃
新免七條少輔則重者直孝卿ノ嫡男、粟井郷ニ居住、後竹山城。宮本者十手刀術ニ秀、家老職。釆地下庄ノ内、宮本・中山也》
《日下開山 宮本武仁正家 後無二斎。真源院一如道仁居士、天正八年四月廿十八日。光徳院覚月樹心大姉於真佐》
《日下開山 宮本武蔵政名
正保二酉年五月十九日豊前小倉卒。玄信二天居士》

*【宮本村平田氏系図】
《平田将監 宮本平田原姓
新免七條少将則重の家老職。釆地下庄邑の内宮本・中山。文亀三年十月二十一日卒。武専院一如仁義居士。仝人妻新免氏娘、知専院貞実妙照大姉、永正二年七月十五日卒》
《平田武仁正家 竹山城家老職
真源院一如道仁居士、天正八年四月二十八日卒、川上村岡屋敷五十三才。霊陽院義昭公の時、於帝都与吉岡扶桑瑞一者決勝負、勝利得。此号給記録有之略。妻者宇野新次郎宗貞ノ娘於政、天正十二年三月四日卒、四十八才。光徳院覚月樹心大姉》
《宮本武蔵政名 扶桑第一吉岡及佐々木厳流撃殺す。六十余度の真剣勝負し、名誉別記に載之、爰に略す。正保二年五月十九日熊本城下に卒す。賢正院玄信二天居士》
 
 (5)吉野郡竹山城主新免氏
 この平田将監は吉野郡竹山城主新免氏に仕えたという。竹山城は、新免伊賀守貞重(1471〜1523)が創めて拠った明応二年(1493)以来、慶長五年(1600)まで一世紀以上新免氏の居城であった。下庄村は竹山城の南にあって、宮本はその下庄村の内にあった。ちなみに宮本村が分村独立するのは、武蔵死後のことである。
 平田将監は、竹山城主新免氏に仕え、下荘村に居住す。そこまではよいとして、他方平田氏系図では、平田将監は新免七條少輔則重に仕えたというが、則重が粟井郷に居住し、後に竹山城に居たとするのは、誤りである。竹山城主新免氏は、貞重以来のことだから、「明応・文亀」の頃という話の前後で明確なように、将監が仕えるとすれば、この新免貞重とすべきであろう。平田氏系図では時代の認識が混乱しているのである。
 ところで、ここに一つ、顕彰会本には奇妙な記事がある。それは、平田将監が、《美作に來り》と記すところである。となると、平田将監はどこから美作へ来たのか、ということになる。
 もちろん、顕彰会本が依拠した平田氏系図には、平田将監がどこか他国から美作へ来たという記事はない。すると、これもまた、顕彰会本の作者の踏み外しである。
 思うにこれは、平田氏系図の記事を誤読したものであろう。すなわち、そこには、直孝卿の嫡男・則重が粟井郷に居住し後に竹山城、とあるから、則重に仕えた平田将監もそれに従って竹山城下へやって来たと解釈したのである。しかるに、どうやら、この「粟井郷」を美作ではなく他国の村と勘違いしたものらしい。それで、平田将監は美作へやってきた、下庄村に住んだ、と書いたのである。
 このあたりは、顕彰会本の作者の事情不通のなせる錯誤であるが、ところが、話は以下ますます混乱するのである。  Go Back

 
 (6)新免伊賀守宗貫厚くこれを用ゐ
 ここまで来ると、謬説の暴走は、もはや手のつけようがなくなる。
 先ほど見たように、平田氏系図では、将監を新免則重の家老とする。それは世代的にありえない。ところが、この顕彰会本は、これをずっと年代を下げて、将監が新免宗貫に用いられたとするのである。けれども、それでは年代を下げすぎるのである。
 新免宗貫の「父」宗貞の歿年は永禄元年(1558)、宗貫は、播州宍粟郡長水山城に拠った宇野氏が実家で、新免宗貞の婿養子になった人であるが、宗貞の死により家督を相続したとき、彼はまだ幼く、宗貞弟の新免備中守貞弘が後見となったという。
 しかるに、平田将監の歿年は文亀三年(1503)である。上記のように永禄元年(1558)にまだ後見が必要なほど幼なかった宗貫が、半世紀ほど前に死んだこの将監を、文武の師範として用いることができるわけはない。これでは、顕彰会本作者の池辺義象も、相当事情知らずであったと言わねばならない。
 さらには、《遂にその氏を與ふ》と記す。つまり、新免宗貫は、平田将監に新免氏を名のることを許したというわけだが、平田将監が新免氏を名のった、などという話は平田氏系図にはない。つまり、これは、顕彰会本の暴走である。
 顕彰会本の作者は、『美作畧史』を見ている。そこに、《其父太郎左衛門、新免宗貫ニ属シ、十手ノ術ヲ以テ世ニ聞ユ、新免無二齋ト号ス》とあって、武蔵の父・太郎左衛門が「新免」無二斎を名のったという記事がある。すると、平田将監が新免宗貫に仕えた、というそのあたりも含めて、記事を読むに粗忽な取り違えがあったものとみえる。『美作畧史』の新免無二斎の記事が、顕彰会本では、平田将監の事蹟に混入しているのである。
 それにしても、途方もなく杜撰な著述ではないか。こういう混乱を極めた胡乱な「研究」が、後に大いに世間に影響力を及ぼしたのをみれば、まさに悲惨な事態が生じたと謂うほかあるまい。  Go Back






*【川上村平田氏系図】
《平田将監 明応文亀ノ頃
新免七條少輔則重者直孝卿ノ嫡男、粟井郷ニ居住、後竹山城。宮本者十手刀術ニ秀、家老職。釆地下庄ノ内、宮本・中山也》




新免氏関係地図






*【新免氏略系図】

○徳大寺実孝─新免則重─┐
 ┌──────────┘
 ├長重─?─貞重─?─┐
 |          |
 └則隆        |
 ┌──────────┘
 ├宗貞=宗貫┬宇右衛門
 |     |
 |     ├半左衛門
 |     |
 |     └弥太夫
 |
 └貞弘─貞頼―貞時―貞次




竹山城を望む 岡山県美作市
 
 (7)子武仁、父の跡を嗣ぎ
 ここから、武蔵の「父」の話になる。平田氏系図によれば、平田将監の子が平田武仁正家である。
 この「平田武仁」は、どこから出たものか。宮本古事帳写では「宮本武仁」となっている。宮本と申す所に構の跡があり、その昔、宮本武仁が居たと申す者が居ります、という記事である。また、もう一つの下庄村古事帳写では、同様記事が「宮本無仁」が居たという話を書きとめている。
 ところで、他の地方では、新免無二の名を、「無二斎」「無二之介」「无ニ」として、「無二」を単純変形で遺すのに対し、不思議なことに、この作州の一地域では、このように「武仁」「無仁」という二種の特殊な書記法があったのである。そのことからすると、「むに」という名をもつ人物の当地の伝承は、自生のものではなく、ある時期、伝聞によってこの地域の伝承へ取り込まれた、という外来性の痕跡を示すのである。
 すなわち、おそらく「無二」という新免無二の名は、文字ではなく、「むに」という語音として伝えられたのである。この「む」「に」という平仮名は、「武」「仁」という漢字の崩しから生じる。それゆえに「むに」を「武仁」と書いて《過剰復元》してしまったのである。作州特有の「武仁」「無仁」という表記は、それらの名が自生ではなく外来性の事後的産物たることを証言するわけである。
 「無仁」の方は、一見したところ「無二」により近いとみえるが、そうではなく、おそらくこの「武仁」の修正版であっただろう。我々の所見では、先に「武仁」ができて、その後「無仁」が生まれたのである。しかし、「仁無し」とはひどい名を拵えたものである。
 ともあれ「武仁」「無仁」いづれではあっても、「無二」の本来の意味、すなわち二人と居ない唯一の存在、ナンバーワンのオンリーワンという意味内容が伝わらず、その音という形式だけが伝播したのである。そこから、「武仁」「無仁」というこの美作ヴァージョンの《父の名》は、シニフィエを缺くシニフィアンとして、自由に浮遊した結果を示すのである。
 ところで、他方、新免家記には「平田無二」という人物が、百年にわたり合戦に出陣した記録がある。『東作誌』には、その新免家記に拠ったものとみえて、平田無二は新免家に属して、驍勇万人に卓越し軍功は比類なく、刀術の達人で、延徳三年(1491)の栗井近江守景盛吉野郡乱入事件以来、戦功は際立ち算えきれない、と記している。かくして『東作誌』では、すでに延徳三年に合戦に出陣していた平田無二が、武蔵の父である。その平田無二が天正十二年(1584)に武蔵を生した。まさに、荒唐無稽な話である。
 さて、古事帳の「宮本武仁(無仁)」が、いつから平田氏系図の「平田武仁正家」になったのか不明である。だが、少なくとも当地初期史料の古事帳の記事にはない氏名であって、いづれにしても後世の作物であることは明白である。  Go Back




宮本村古事帳写

*【宮本村古事帳写】
《此村之内、宮本と申所ニ構之跡有り、いにしへ宮本武仁居と申者居申候。其子武蔵迄ハ右之構ニ居申候。是ハ天正より慶長迄之間之処ニ被存候》

*【下庄村古事帳写】
《下庄村宮本在家中ニ、構屋敷跡御座候。三拾間四方ニ見へ申候。古宮本無仁住居仕候》




*【東作誌】
《平田無二、新免家に屬して、驍勇万人に卓越し軍功無比類刀術に達せり。延徳三年、栗井近江守景盛吉野郡亂入以來、戰功際立ち不可算》
 
 (8)新免及平田を稱し又平尾と稱し
 以上のように混乱してきた顕彰会本の記述は、ここに来て、まさしく混乱そのものを示す。それが、「新免及平田を稱し又平尾と稱し」という表現である。
 これはまさに混乱した言説である。そんなことを書いた資料は美作には存在しない。美作では、平田氏系図には「平田武仁」であり、平尾氏文書では、平尾太郎右衛門が「宮本無仁」と号したとある。諸資料それぞれ異なる。ただそれだけなのである。それを横断して、新免も平田も平尾もすべて称したというのは、まったくの謬説である。
 ここへ来てもう一つ加わった平尾氏というのは、平田系統と並立する、武蔵末孫を主張する家系である。その平尾氏系図を、『東作誌』に拠って示せば以下のようなものである。また、右掲は、平尾氏起源伝説を語る古事帳の筋目である。

○平尾民部大夫───────────────┐
  住作州吉野郡小原庄照田         │
┌─────────────────────┘
├平尾五郎左衛門尉─────────────┐
└平尾新四郎                │
┌─────────────────────┘
├平尾五郎大夫
└平尾大炊介頼景──────────────┐
  下庄千原の構に盾籠る明應八年己未竹山勢押│
  寄て大に奮ひ戰ふ頼景縣傳八と戰ひ新免治部│
  左衛門が放つ矢に中り終に同人に首を得らる│
  墓所鍋谷山にあり            │
┌─────────────────────┘
├太郎左衛門────────────────┐
│                     │
└彌十郎                  │
┌─────────────────────┘
└與右衛門正重───────────────┐
  元和六年七月二十日死 月峯院松翁壽觀  │
┌─────────────────────┘
└九郎兵衛景貞───────────────┐
  明暦二年八月二十二日          │
┌─────────────────────┘
└七郎左衛門忠宣──────────→ 以下略
   以上森家系圖改の時書上の寫也

 これで気づくのは、この平尾氏系図では、宮本武仁(無仁)も武蔵も登場しないことである。関係が生じるとすれば、それは右掲下庄村古事帳の筋目記事である。それは、平尾与右衛門は衣笠九郎次郎の子、母は宮本無仁妹とする筋目である。したがって、それは外戚のことであって、宮本無仁が「平尾」を名のるわけがないのである。
 いちおう整理のために、平田・平尾の両方の系譜骨子を並べて記してみよう。
















*【下庄村古事帳による筋目】

宮本無仁――宮本武蔵

└ 無仁妹
   │
   ├――与右衛門―九郎兵衛
   │
 衣笠九郎次郎


*【宮本村古事帳による筋目】

宮本武仁武蔵姉―(子)┐
     |       |
     └宮本武蔵   |
 ┌―――――――――――┘
 |姉孫
 └与右衛門┬九郎兵衛
      |
      ├七郎左衛門
      |
      └仁右衛門

【東作誌所収平田氏系図】

菅原姓系図
○平田將監─────────┐
┌─────────────┘
├平田武仁──平田武藏掾二天

└平田武輔─────────┐
┌─────────────┘
├平田次郎左衛門
│ 宮本屋敷に住す。子孫多し
└平田次郎大夫
  子孫多し。下町村平田の祖
【東作誌所収平尾氏系図】

○平尾民部大夫───────┐
┌─────────────┘
├平尾五郎左衛門尉─────┐
|             |
└平尾新四郎        │
┌─────────────┘
├平尾五郎大夫───────┐

└平尾大炊介頼景──────┐
┌─────────────┘
├太郎左衛門────────┐
|             |
└彌十郎          │
┌─────────────┘
└與右衛門正重─九郎兵衛─→
 こうしてみると、両氏はまったく別系統の家系である。詳細は他の論攷に譲るとして、この二つの系譜のうち、平尾氏系図の方が古い型である。平田氏系図の方は、生歿年に隙間のある平田将監・平田武仁の父子とか、「平田武藏掾二天」という奇怪な名を導入していることからすれば、後世特有の混乱が窺える。
 上記の平田・平尾の二系統をよくみればわかるが、両方の子孫ともに、武蔵には直接関係がない。つまりその始点をみれば、平田氏では武仁の弟・武助の系統が子孫。平尾氏では本来は、無仁・武蔵とも関係はないが、古事帳の伝説では、武仁妹の子もしくは武蔵姉孫の平尾与右衛門が元祖である。平田武助と平尾与右衛門、この二人を媒介にして、それぞれ「平田武仁」あるいは「宮本無仁」とつながっているという構図である。
 平尾氏起源伝説を記す古事帳の段階までは、平尾氏でも宮本武仁(無仁)は外戚である。ところが次の段階の平尾氏總領代々書付になると、宮本無仁を平尾氏に取り込むようになった。宮本無仁が実は平尾太郎右衛門だとするわけである。これは古事帳より新しい段階の設定である。
 したがって、顕彰会本が、無二斎は平尾氏を称したというのは、『東作誌』所収の平尾氏總領代々書付の記事をみているらしい。しかし、それは「平尾太郎右衛門」である。顕彰会本の作者は、杜撰にも、平尾太郎右衛門を平田武仁と混同しているのである。
 もとより、顕彰会本の考証は、以上のような経緯を検証するわけでもない。むしろ、事情不通によって胡乱な論説を張るばかりではなく、それ以前の美作説よりも退行したレベルの議論である。
 つまり、武蔵の「父」武仁(無仁)の氏は何であったか、となると、地元の伝承は、すでに収拾のつかないほど錯雑しているから、たとえば『東作誌』の正木輝雄なら、疑を残すとして判断停止である。『美作畧史』の矢吹正則なら、平尾氏の伝承を取って、平田武仁のことは捨てている。
 しかるに、顕彰会本では、諸資料諸説併記して疑を残すということでなく、また、ある説を採って他を捨てるという裁決でもなく、新免も平田も平尾もと、あれもこれも取り込んで、その矛盾すら問題にしない。
 ここで、留保を捨てた美作説が出現したのである。少なくとも、『東作誌』の正木にあった客観性はすでに失われている。しかし、こんな杜撰な美作説を成したのは地元の人物ではなく、まさに外部の人間、顕彰会本の著者・池辺義象であった。そのことに注意すべきである。当地の事情に不通ゆえに為し得た謬説である。  Go Back

 
 (9)平田氏系圖
 無二斎と号す、とあるのは、『武芸小伝』以来の話だが、『東作誌』はそれを引き、また『美作畧史』を通じてそれが伝々して平田氏系図に及び、そこでも、「日下開山、宮本武仁正家、後無二斎」と記している(川上村平田氏系図)。顕彰会本の「無二斎と号す」は、他でもなく平田氏系図によるとしておく。
 ただし、「殊に十手の術を極め、性頗る剛勇なり、宗貫また厚くこれを用ゐたり」というのは、顕彰会本著者の「空想」による作文である。平田氏系図にこの記事があるわけではない。
 以上の諸注によってその一端が明らかな如く、顕彰会本が参照した平田氏系図は、明治後期の作成による新しい記事が多い。ことに、平田将監→平田武仁正家→宮本武蔵政名なる系譜を記す平田氏系図は、史料批判に耐えない素材である。
 顕彰会本の編述者・池辺義象は、あろうことか、これに全面的に依拠してしまったことにより、取り返しのつかない誤りを繰り返すことになる。少しでも年代確認をすれば、すぐに判明するような初歩的な誤謬さえ気づかない。
 顕彰会本のこうした瑕疵は、当時の歴史学の水準からすれば、やむなしとみることはできず、池辺のような国文学者ではなく、まともな史学者に執筆を委嘱していたら、結論はまったく異なったものとなったであろう。少なくとも、平田氏系図に全面的に依拠してしまうような愚は避けられたであろう。しかも、池辺は現地の歴史地理の事情に通じた者ではない。杜撰な誤認が多々みられるところからすると、彼が委託されて行なったこの顕彰会本の執筆作業自体、かなりいい加減な請負仕事だったとわかる。
 なお、武仁が新免伊賀守の家老であったという事実は、新免家侍帳には本位田氏ほかの名はあっても、無二に相当する名は確認できない。この伝説は、明治後期の作物である平田氏系図の記事に発するものである。したがって現在でさえ、武蔵の父は新免家家老なりという説を述べて憚らない論者が多く存在するが、それはまったく根拠のない説だと明言しておく。  Go Back










*【平尾氏代々書付による筋目】

○平尾太郎右衛門
    宮本無仁―┐
 ┌―――――――┘
 ├宮本武蔵
 │
 └武蔵姉
   ├――平尾与右衛門┐
 衣笠九郎次      │
 ┌――――――――――┘
 └九郎兵衛―七郎左衛門
 
 (10)吉岡憲法と勝負を
 これは、ようするに足利将軍義昭が、代々師範の吉岡と新免無二を対戦させ、無二が三回のうち二回勝った、そこで「日下〔ひのもと〕無双兵法術者」の号を与えた、という説話である。原典は小倉碑文にみえる記事である。『東作誌』は、『武芸小伝』からの孫引きで全文を収録している。ただし、顕彰会本の筆者は、『東作誌』のそれではなく、一転これを「二天記異本誌碑文」によって書いたのである。
 「二天記異本誌碑文」とは、二天記異本が掲載している小倉碑文ということである。しかるに、顕彰会本のいう「二天記異本」は具体的に何を指すのか不明である。ただし、これはおそらく『武公伝』を指すものとみなしうる。(このあたりは、本サイト[資料篇]宮本武蔵伝記集の『武公伝』解題を参照されたい)
 『東作誌』ではなく、その「二天記異本」掲載の小倉碑文を見たということだが、たしかにそれは、顕彰会本がここに記す文章に現われている。
 それは、「公これを賞して、武仁に日下無双兵術者の號を賜ひぬ」という部分である。この「日下無双兵術者」は、小倉碑文原文では「日下無双兵法術者」と記している。『東作誌』は孫引きだが、これを「日下無双兵法術者」と正しく引用している。
 これに対し、肥後で伝写された小倉碑文は、「兵法術者」を「兵術者」と誤記している。顕彰会本の著者は、その誤記を間違いなく「正しく」転写している。これによって、顕彰会本は、これを『東作誌』によらず、肥後に伝わった「二天記異本」に拠ったことが確認されるというわけである。
 顕彰会本は、「武仁の名漸々聞ゆると共に、京都将軍義昭公、ことにこれを召し、その剣道の師範役たる吉岡憲法と勝負を決せしむ、互に三度を限らせしが、吉岡一度利を獲、武仁兩度勝を制せり、公これを賞して、武仁に日下無双兵術者の號を賜ひぬ、これよりその名大に顯はれたり」と書いているが、はじめの「武仁の名漸々聞ゆると共に」と、おわりの「これよりその名大に顯はれたり」は、小倉碑文はじめどこにも存在しない文章であり、これは顕彰会本作者の「空想」による作文であり、いわば「小説化」の部分である。
 ともあれ、顕彰会本では、ようするに、こんな強い武仁を父にもったのだから、武蔵は生れつきすでに非凡な材質を備えていたと著者は言いたいのである。それが、この章冒頭の、
 《白鳥は烏を孕まず、虎は羊を生まず、武藏は一世の偉人なり、二刀兵法の元祖なり、いかでその基く處なからむ》
という話なのである。武蔵は強い。その理由は? 彼の父親もすごく強い武芸者だった。なるほど、それでわかった――という「納得するための儀式」が、伝記というものの本質なのである。それゆえ、「父」という存在は、文字通り、理由であり根拠であるものとして措定(前提)《(presup)pose》されるのである。いわば、前提となる根拠こそが、遡及的に措定されているのである。  Go Back




小倉武蔵碑
北九州市小倉北区赤坂


*【小倉碑文】
《先是、吉岡代々爲公方之師範、有扶桑第一兵法術者之号。當于霊陽院義昭公之時、召新免無二与吉岡令兵術決勝負。限以三度、吉岡一度得利、新免兩度決勝。於是令新免無二賜日下無双兵法術者之号》
 
 (11)本位田外記之助
 新免宗貫が家老の本位田外記を無二(武仁)に暗殺させたという事件である。『東作誌』によれば、
《天正十七年、新免宗貫密意を以て本位田外記之助を討べき由を無二に命ず。外記之介は無二が刀術の高弟なり。殊に彼實に罪無きにより無二固辭すと云へども宗貫更に不聽、故に止む事を得ず諾して本位田が方へ使を馳せて曰、「明日兵法極意を可傳授、我年老ぬ旦夕も不可猶豫必定駕を枉らるべし」と。外記の助喜て刻を不違して趨く。其日無二か親の忌日にて龍道寺[下町なり]中務坊と云ふ無二が親族の僧齋〔トキ〕に來るにより、無二密に事の由を通じ「己れ老人なり、外記は壯年の大力剛勇なり。仕損せば力を戮せ給はるべし」と語る中に、外記之助來る。酒茶を出し常談畢て後、外記之介兵法の極意を問ふ。無二則別の間へ通し、帯劔邪魔になるとて口の間に拔置く所を無二外記之助か手を取り「如此とる」と云て締る。外記「餘り締り過きる」といへば、無二云く「諚意ならば汝を召捕る」と云ふにより、外記例の剛力を出して捻ち合ふ所、中務坊鎗を入れ外記之助胸先へ突込二繰三繰したり返すにより、さしもの外記の助弱る所を、無二無慙なから本位田が首を取る。外記の助が父駿河守は是より粟井庄へ退去す。無二は本位田を討により一家中の妬を受るにより、是より籠居すと云ふ。死去の年月不知。墓所宮本屋敷の上、地~〔チジン〕山と云に古き石碑あり》
 無二の「死去の年月不知」とあるのが注目されるが、その点はさておき、『東作誌』の正木輝雄は、その内容からして、この記事を新免家記を参照して書いたものと思われる。新免家記の方は右掲のごとくである。対照すれば、原典が新免家記だと知れる。
 この本位田外記之助暗殺事件は史実として確認できない。しかし、当地で人口に膾炙した伝説らしく、新免家記以外にも見える記事である。なかでも、『佐用郡志』(大正十五年・1926)には、同郡石井村石井字青木の構の記事に関して、興味深い異伝を示す。すなわち、
《本構は菅家の一族小守治郎太夫なる者、寛正年中(寛正は誤りにて康正ならむか)山名宗全に属し(山名宗全時代は嘉吉年代なり)此処に居り後此地に卒す。其子右近赤松政則に仕へて(政則は応仁時代)佐用郡内を領し、其子勘四郎其子勘左衛門、作州小原城主宇野家貞に臣事す。其子勘四郎、石井村を食客す。後、筑前福岡に戦死す。勘四郎に二子あり。長子を小守勘右衛門、次子小守何助と云ひ、皆竹山の城主新免宗貞に仕へ上石井村を領す。初めてこの構の段に転居す。何助、家を去り因州に漂泊す。素より武術あり、専ら武道を以て営む。時に天正十六年なり。新免の家老本位田外記之助、主の怒に触る。宗貫、勘右衛門に命じ、何助をして外記之助を討たしむ。慶長五年、宗貫宇喜田黄門に属し、関ケ原に敗れ去て筑前福岡の黒田氏に仕へ、何助随って彼の地に在りて死す》
 一応注意を喚起しておけば、この石井村は播磨国の村ではなく、美作国吉野郡の村である。明治期に、中山村と同じく石井村も兵庫県に編入され、佐用郡内の村になったので、「兵庫県」佐用郡誌にこの記事があるわけである。しかし、明治の県境線引き変更以前は、石井村は美作国吉野郡の村だということを念頭におかれたい。
 さて、上記の記事にこうあるからには、本位田外記暗殺事件は、無二ではなく、この「小守何助」が実行者である。事件は天正の十六年と十七年と違いがあるが、こうした別の伝説が近隣の村に存在することは知っておいてよい。本位田外記暗殺事件は、新免宗貫に関する口碑として異なるヴァージョンで存在したのである。
 この本位田外記暗殺事件は、当時の新免家のミクロな権力関係を研究すれば、いつか真相はわかるかもしれない。ただし石井村に、《宗貫、勘右衛門に命じ、何助をして外記之助を討たしむ》と、こうもはっきりした口碑が殘っているとすれば、この暗殺事件がかりに現実にあったとしても、それは小守勘右衛門・何助兄弟によるもので、「無二」は無関係。これは事件の功業の小守家への我田引水であろう。
 ところで、顕彰会本では、本位田外記之助の首を取ったのは、「無二斎」である。新免家記の「平田無二」でも、『東作誌』の「無二」でもない。平田氏系図の「平田武仁」改メ無二斎なのである。
 ところが、平田武仁となると、この事件より九年前に死去しており、これはまったくの無関係である。前記のように平田氏系図では、平田武仁の没年を天正八年(1580)とする。とすれば、天正十七年に武仁は本位田外記を殺せない。この点も知られてよいポイントである。
 顕彰会本には、「宗貫大にその功を賞したれども、是より後無二齋は、反て一家中の妬を受け、家に籠居せりといふ」とあるが、これも踏み外しのある小説化である。
 本来は、新免家記の「無二儀、外記を討により、家中より妬ミ申に付、引込む」という記事である。『東作誌』も、「無二は、本位田を討により一家中の妬を受るにより、是より籠居すと云ふ」とあって、ほぼそのままである。
 ところが、顕彰会本は、「宗貫大にその功を賞したれども」と余計なことを書いて、宗貫が賞賛したが、家中の妬みを受けてと、話を変えてしまう。
 もともと新免家記の「妬み」は、嫉妬ではなく、遺恨・怨嗟の意である。前後の記述からすると、新免家記の記事は、外記之助に同情的であり、宗貫のやり方に批判的である。それは新免家記が新免氏傍系の作であるからだ。そのスタンスからすると、平田無二は外記之助を殺したが、家中の怨嗟を受けて、引っ込まざるをえなかった、という話なのである。新免家記の説を享けた『東作誌』でもそれは同じである。
 ともあれ、顕彰会本の記述は、典拠に照らせば、誤読に加えて恣意的な歪曲がある。それをよく知っておく必要がある。  Go Back



*【新免家記】
天正十七年伊賀守、弥以本位田外記之介事宿意俄ニ付、平田無二登城仕候へと御使立により、無二登城仕る。宗貫奥間にて無二に諚意にハ、「本位田外記事常々武功をおもてに立、我侭をいふ事きつくはいに候間、其方近日ニ打取可申」と宣ふ。無二行當りて申上けるハ、「外記事ハ、武功忠戦の者にて、殊ニ私とハ師弟の儀ニ候間、他人被仰付候様ニ」と申上るといへ共、御承引なく、再三に重なるに付、是非なく御請を申、則外記之介方へ吏を遣りて、「明日私宅へ御出可有之候、兵法極意相傳申度候、我等老後ニ及、明日をもしらず」といふてやるにより、外記喜て、明朝可参と返事す。明朝ハ無二方親の忌日にて龍通寺より中務坊といふ無二が親族の出家、齋に来るにより、耳を引、外記之助打事を語る。無二申けるハ、「我等老人なり、外記ハ若盛の者、大力也。仕損じてハ悪し」と語る。中務坊が言、「拙者助太刀打可申」と言。無二申ハ、「仕損じ候砌たのむ」といふ處へ、外記之肋来り、座敷へ通る。互に四方山の物語をし、茶酒杯を出し、盃取かはして、「昨日被仰下候極意可承」といふによりて、「さらばあれへ」と無二申、外記之助通る所ニ、無二申けるハ、「脇さし妨になる」といふにより、口の間に抜く所に、無二、外記が手を取つて、「加様にとるぞ」としむる。外記之助いふやう、「あまりしまり過ぎる」といへば、無二申ハ、「諚意にて貴方を取る」といふにより、外記之助大力を出して、ねぢあふ所に、例の中務坊鑓を入、外記之助胸先をつき、二くり三くり返すにより、さしもの外記之助よハる所を、無二不便ながら外記が首を取。外記之助親駿河守ハ、外記が事を聞て、粟井庄に落行、居住す。無二儀、外記を討により、家中より妬ミ申に付、引込む》





播磨美作国境地帯
石井村も中山村も美作国吉野郡





本位田外記の墓
岡山県美作市
 
 (12)無二齋は同郡宮本村に移住し、此の地に歿せり
 ここで「無二斎」という名をもって呼ぶのは『武芸小伝』や『撃劍叢談』に例があるが、、前述のように、ここでは明治新作の川上村平田氏系図の記事によるらしい。
 その無二斎は、宮本村に移住し、そこで歿したという。この話はどこから来たのか、出所が不明である。顕彰会本が依拠した川上村平田氏系図には、そんな記事はないし、宮本村平田氏系図では、宮本村ではなく、むしろ川上村岡屋敷で死んだと記している。したがって、これは顕彰会本作者の踏み外しである。
 『東作誌』には、《死去の年月不知、墓所宮本屋敷の上、地神山と云に古き石碑有り》と記している。墓所は宮本屋敷の上、地神山という所に古い石碑がある、という記録である。そうすると、顕彰会本の作者は、おそらくこの記事を見て、墓石があるのだから、無二斎はこの宮本村で死んだと解釈したらしい。
 しかし、墓碑は後年どこにでも設けられるものである。戦後武蔵神社を創設したとき、小次郎の墓も造ったが、それを見て、小次郎は作州宮本村で死んだと誤解する者はいまい。それと同じく、墓所をもってこれを歿地とみなすことはできない。
 宮本村平田氏系図では、平田武仁の歿地を川上村岡屋敷とするから、顕彰会本はそれを取るべきであった。しかるに、無二斎は、宮本村に移住し、そこで歿したとするのは、恣意的な空想である。
 上記のように『東作誌』には、「死去の年月不知」とする。宮本屋敷の上の山に古い石碑があるというのだが、『東作誌』の正木はこれら墓碑刻字を確認していないようである。これは、平尾氏先祖の墓所だともいうから、だれの墓だか確認していないのである。したがって、この『東作誌』の記事をもって、それを平田武仁の墓だというわけにもいかない。
 今日、宮本に平田家墓所があり、そこに平田武仁夫婦と武蔵の碑があるが、これは明治新造の墓碑である。『東作誌』に、宮本屋敷の上の山に古い石碑があるという、その墓所ではない。
 川上村・宮本村の兩平田氏系図では、平田武仁の没年を天正八年(1580)とする。これは両方に共通している。これは位牌によってそう記したわけであろうが、『東作誌』は「死去の年月不知」と書いている。となると、『東作誌』の時代には、まだ平田武仁の没年を天正八年(1580)とする話はなかったかもしれない。
 しかし、『東作誌』の正木が「死去の年月不知」と記すのにも理由があった。というのも、正木が依拠しているのは、新免家記の「平田無二」なのであり、平田氏系図の「平田武仁」ではない。平田将監→平田武仁という系図の不都合は、正木も認識していたらしく、平田系図は略図を収録したにとどまる。
 新免家記には、上に見た天正十七年の本位田外記之助殺害に、平田無二が働いたことを記して、その後家中の妬みを受けて引っ込んだと記すが、平田無二の登場はそれで終りではない。さらに、文禄元年、朝鮮で新免勢が戦った記録にもその名が出てくる。平田無二には、戦死記録もないから、『東作誌』の正木は、「死去の年月不知」としたのであろう。
 もちろん、もっと以前の古事帳段階では、宮本武仁(無仁)が宮本構に居たというだけで、そこで死んだとも何とも書いていない。ただ、「居た」というだけである。
 それゆえ、時代が下がるにつれて、話の枝葉が繁ってくるのだが、明治末期に顕彰会本が書きつけた、無仁斎は宮本村で歿したという記事は、その伝説末端で生じた創作なのである。繰り返していえば、顕彰会本に、無二斎は宮本村で死んだとするのは、そもそも典拠なき空想にすぎない。
 なお、もう一点付け加えるとすれば、作州のこの無二斎伝説は、一次史料によって転覆されることである。というのも、播州加古川の泊神社に遺された伊織の棟札によれば、この無二齋に相当する新免無二は、「筑前秋月城に卒す」とあって、九州で死んだのである。むろん美作で死んだのではない。
 美作で死んだ平田武仁=無二斎とは、この事実を知らずに空想を開花させた、ローカルな伝説なのである。このあたり、顕彰会本は、武蔵の父・無二に関して史伝上の決定的な瑕疵を有する。  Go Back

 
 (13)武藏は…この無二齋の子なり
 最後にここで、顕彰会本の筆者は、この記事を書くにあたって摘取した典拠を示す。ひとつは、「新免家侍覚書」。これは、川上村新免氏の伝書であろう。『東作誌』はそれを書写収録している。
 それから、『東作誌』。これは顕彰会本の基本文献である。顕彰会本は「新免家侍覚書」と独立して記しながら、『東作誌』から引用している。
 もう一つ挙げているのは、「碑文」である。これは小倉碑文以外にないから、「武藏は即ち當時武勇の聞ゑ高かりしこの無二齋の子なり」という部分が、小倉碑文に拠ったとするところであろう。
 顕彰会本は、武蔵を「無二斎」の実子とみなす。それは、平田将監・武仁・宮本武蔵という三代の実子関係を主張する平田氏系図に依拠する限り、そういうことになる。この点、上記伊織棟札の、武蔵は無嗣にして卒した新免無二の死後、その家を継承したとする記事と相違する。
 つまりは、新免無二が九州で死んだのも、武蔵が無二の実子ではないことも知らない、そういう環境で発生発展したのが、美作の武蔵伝説なのである。
 武蔵産地美作説では、武蔵実子を疑わない。ここから多くの矛盾が生じるのだが、『東作誌』の正木と違って、後世の美作説は、史料を客観的に見て疑あるは疑を残す、ということを知らない。まさに、妄信というべき世界に入ってしまうのである。
 この顕彰会本の筆者は、その妄信への扉を開いたというべきである。ただ、史料操作の杜撰なこと、当地の事情を知らないこと、それが妄信形成の原動力になったものとみえる。  Go Back




*【宮本村平田氏系図】
《平田武仁正家 竹山城家老職
真源院一如道仁居士、天正八年四月二十八日卒、川上村岡屋敷、五十三才》



川上村の武仁の墓 美作市川上



武蔵と父母の墓 美作市宮本
左が武蔵、右が武仁と於政

 
按に、武藏の出生地及その年月に付ては大に疑ふベきものあり(1)、東作誌、新免家侍覺書等を総合し、及作州英田〔アイダ〕郡宮本村の古蹟口碑等を參考すれば、疑ひも無く作州にて出生せしものなること本文のごとし(2)、その證は、現に英田郡(古の吉野郡)讃甘〔サノモ〕村大字宮本に武藏屋敷跡存し(もとは三十間四方にして石垣ありしを寛永十五年公命にて取壊したりと云ひ傳ふ)(3) その族類も残りて、武藏の事を口碑に傳ふること多きのみならず(4)、現に裔孫なる平田善兵衛、平田藤藏あり、その藤藏方には寫しながら[原本は火災にかゝれりと云ふ]系圖を藏せるに(5)、武藏の母の名をも記し(一族宇野新次郎貞氏の女)(6)、旦つ武仁の弟に武助と云ふありて、その裔は今に武藏より與へられたりといふ枇杷の木刀を傳へ居れるあり(7)、且つ元禄二年四月に宮本村庄屋甚右衛門より、大庄屋又兵衛に書上たりといふ書によるに、宮本武仁其子武藏宮本村に浪人し居り、遂に落付て在名を以て宮本を氏とせしこと見え、又武藏の姉を衣笠九郎次郎の妻とし、その子に平尾與右衛門といふもの生れしことなど詳に見えたり。(8)
 

 【評 注】

 (1)武蔵の出生地及その年月
 ここから以下は、小文字で版組したもので、本文に対する補註の部分である。
 まず、武蔵の出生地とその生年については、「大に疑ふベきものあり」とする。
 この場合、大いに疑うべき出生地とは、むろん武蔵が「生国播磨」と書き、小倉碑文に「播州英産」と誌す、播磨出生説に関することである。もう一つの出生の年に関しての疑念は、五輪書の記事、寛永二十年に「年つもりて六十」と記すことから逆算しての、武蔵生年を天正十二年(1584)することについてである。
 本書顕彰会本武蔵伝の武蔵の出自に関する問題は、ここまでの記述個別の読解で見た通りである。それはさておくとして、かくして顕彰会本の記述は、以下、問題の根幹に達するのである。それを検証しておくべきであろう。  Go Back

 
 (2)疑ひも無く作州にて出生
 武蔵の出生地は、播州ではなく作州である、これは疑いがないとする。『東作誌』や新免家侍覚書等を「総合」し、地元の宮本村の古蹟・口碑等を参考すれば、そうだと云うのである。
 むろん、顕彰会本の著者は、史料批判ぬきで上記の限られた諸資料に依拠する。しかし、『東作誌』や新免家侍覚書等の文書は、後世編修のものであり、史料的価値の低い二級資料である。また、地元宮本村の古蹟・口碑等といっても、物証・証拠として依拠するには、はなはだ恠しいものである。
 しかるに、論者は、そのあたりの基本的問題を素通りしてしまう。そうして、武蔵が作州で生まれたという証拠があるとして、以下列挙するのである。  Go Back





 
 (3)武藏屋敷跡
 吉野郡宮本村(現・美作市宮本)にあった構居遺蹟。『東作誌』の正木が現地に入ったとき、すでに「宮本武蔵屋敷」と呼ぶようになっていたらしいが、さして古い名ではない。古事帳では、
  《下庄村宮本在家中ニ、構屋敷跡御座候》(下庄村古事帳)
  《此村之内、宮本と申所ニ構之跡有り》(宮本村古事帳)
とあって、とくに名のある構居ではない。宮本構とでもいうべき遺跡である。むろん、「武蔵屋敷」というより「宮本屋敷」というのが正しい。したがって、「武蔵屋敷」という伝説があるからといって、それを証拠とするわけにはいかない。
 上記古事帳文書には、この構屋敷遺蹟に関する報告記事がある。
《此村之内、宮本と申所ニ構之跡有り。いにしへ宮本武仁居と申者居申候。其子武蔵迄ハ右之構ニ居申候。是ハ天正より慶長迄之様ニ被存候》 (宮本村古事帳)
《下庄村宮本在家中ニ、構屋敷跡御座候。三拾間四方ニ見へ申候。古宮本無仁住居仕候。構石垣ハ天草一亂之時分、御公儀御意ニテ取崩申候。則、無仁筋目當所ニ御座候。書上ケ申候》(下庄村古事帳)
 すなわち、宮本に遺る構居にまつわる伝説を、古事帳がこのように書き記している。顕彰会本が、「もとは三十間四方にして石垣ありしを寛永十五年公命にて取壊したりと云ひ傳ふ」というのは、口碑ではなく、下庄村古事帳の記事である。
 古事帳文書については、本サイト資料篇の「吉野郡古事帳」のページに詳しいのでそれを参照されたい。  Go Back

 
 (4)その族類も残りて、武藏の事を口碑に傳ふること多き
 「武蔵屋敷」が伝説化した物証なら、武蔵の族類だと主張する係累も生きた物証である。彼らは武蔵族類だという口碑を伝え、また体現しているのである。
 むろん、こうした口碑がいつ形成されたかが問題であるが、古事帳文書を見るかぎり、当時すでに、宮本構には武蔵伝説が存在し、また「武蔵末孫」「無二筋目」があるということである。このかぎりにおいては、『東作誌』より早い時期に武蔵伝説が当地に形成されていたのである。
 しかるに、古事帳の「元禄二年」の日付が信憑性があるか、となると、それが写しである以上、はなはだ疑わしい。むしろ、十八世紀後期に作成された仮託文書の可能性がある。これも、本サイト資料篇の「吉野郡古事帳」のページに詳しいのでそれを参照されたい。
 ただし、顕彰会本の作者は、『東作誌』が収録した文書を見ているだけだから、宮本構にまつわる古事帳の伝説が、平尾氏起源伝説として発生したこと、それゆえ当然、平田氏とは無関係であるということを知らない。平尾・平田の弁別もなく、それを混同してしまっているから、そのことを認識すらしていない。  Go Back

 
 (5)寫しながら[原本は火災にかゝれりと云ふ]系圖を藏せるに
 現に裔孫なる平田善兵衛、平田藤蔵あり、とするから、案の定、ここで平尾氏ではなく平田氏へと話がズレる。この系図は平尾氏の系図ではなく、平田氏の系図のことである。写しではあるけれど、系図が保蔵されているとする。
 平尾氏系図に比して平田氏系図は後発資料で、新しい時代の製作物である。明治末の今、「原本は火災にかゝれり」とあるように系図原本はない。この系図原本が何を指すのか、どの段階の原本を指すのか、不明である。『東作誌』は平田氏系図を収録しているが、それを謂うのであろうか。
 宮本構にまつわる平尾氏起源伝説を記す古事帳二本共に、こうある。
《武蔵牢人之節、家之道具、十手・三ツくさり・すやり、家之系図、姉孫与右衛門ニ渡し置候由、六拾年前ニ九郎兵衛代ニ焼失仕候》 (宮本村古事帳)
《宮元武蔵九拾年已前、当国出行仕候。其時分、家之道具・系図・証文等、与右衛門ニ渡シ、其後、九郎兵衛請取、此者耕作勝手ニ而、宮本村ヨリ拾丁斗下へ罷出、農人仕居申候。六拾年已前ニ、火災ニ右道具焼失仕候》(下庄村古事帳)
 この与右衛門は、平尾与右衛門である。平尾氏は、元祖の与右衛門が、宮本武蔵から家督を譲られたというのが、その起源伝説である。そのとき与右衛門は、武蔵から証文その他道具も渡されたというから、それが物証なのだが、それを与右衛門の子の九郎兵衛の代に焼失してしまったというのである。
 とすれば、武蔵に関する物証は、そもそもの最初から当地には存在しないのである。これは二つの意味がある。
 ひとつは、初代平尾九郎兵衛(明暦二年卒)のときに、すでに物証は存在しなくなったこと。古事帳の記事は当地の初期武蔵伝説を記すが、その段階ですでに物証の不在が証言されているのである。
 もう一つは、この喪失もまた伝説の一要素であること。つまり、この喪失説話が発生して、失われたものが過去に実在していたと強調できるようになる、喪失を物語ることによって実在を保証するのが伝説の常套である。物証の喪失を語って伝説はループを閉じて完結する。
 これが古事帳の平尾氏起源伝説であり、当地の初期武蔵伝説はこういうものである。
 しかしながら、平田氏の方は、この伝説初期の段階では、宮本構とはまったく無関係である。平田の名も出てこない。むしろ、平田氏伝承の「平田武仁」は、古事帳の「宮本武仁」の影響から後世生じた名である。オリジナルではない。古型は新免家記の「平田無二」である。
 平田氏の武蔵伝説は最も後発のものである。『東作誌』の時代に系図においてそれらしきものが確認できるのみである。以後、明治後期までに、平田氏の武蔵伝説開発は大いに進行したらしい。
 そんなわけで、顕彰会本に、焼失してしまったという平田氏系図原本は、もしそれが存在しても、十九世紀始めを遡るものではない。かなり後発の資料であろう。初期には存在しない系図が、後に出現するわけだ。そしてこれも焼失して、写しだけしかないという状況になる。つまり、
   (1) 口碑の文書化
   (2) 文書原本の焼失
   (3) 写しのみの存在
 ところが、このプロセスは、原本なき複製を主張するが、実は、文字通り「原本なき複製」、原本を一度も持ったことのない複製、というのが実態なのである。
 美作における武蔵伝説の祖形を示す古事帳文書が証言するがごとく、物証は何も存在しない。現実には口碑伝説しか存在しないのである。ましてや、最も後発の平田系の伝承なら、物証があったとしても、後世の作物なのである。
 もとより問題は、顕彰会本の作者が、以上の経緯を知らずに、平田氏系図に依拠したことである。いわば謬説への踏み外しの始終は、まさにそこにある。  Go Back





宮本構址 昭和30年代




宮本村古事帳写



下庄村古事帳写








「元和九年ニ武藏末孫」
「姉孫与右衛門」
宮本村古事帳写




「宮元武蔵九拾年已前ニ」
下庄村古事帳写

 
 (6)武藏の母の名をも記し
 この部分は、宮本村平田氏系図に、《妻者宇野新次郎宗貞ノ娘於政 天正十二年三月四日卒四十八才 光徳院覚月樹心大姉》とある記事のことである。川上村平田氏系図には、《光徳院覚月樹心大姉、於真佐》と記すのみである。
 武蔵の母の名を記しているといっても、顕彰会本の作者が見たのが、平田氏系図のような明治新造資料では、話にならない。十九世紀はじめの『東作誌』では、武蔵の母の名など、どこにも記していない。
 この武蔵の母につき、福原浄泉の示す宮本村平田氏系図には、「宇野新次郎宗貞」の女とある。顕彰会本は「宇野新次郎貞氏」の女である。つまり、明治末には、顕彰会本が引用した宇野新次郎「貞氏」だったのが、さらにその後書き換えられて、宇野新次郎「宗貞」に変化したものらしい。
 これについて云えば、宮本村平田氏系図に「宇野新次郎宗貞」とあるのは、不審である。「宗貞」とあるからといって、もとよりこれを新免宗貞とは同一視できない。宗貞が宇野氏を称したとも、新次郎を名のったとも、そんな記録はないからである。新免家記の系図では、宗貞は、弥十兵衛、弥大夫、左衛門尉がその名である。
 これは「貞氏」を後に「宗貞」に改竄したため生じた不具合である。しかし、この改竄の効果は、武蔵の母は新免宗貞の娘だ、という謬説を生産したことにあった。その結果、今日でさえ、いまだにこの謬説を反復している者があるのは、周知のごとくである。明治末には、宇野新次郎はまだ「貞氏」だったことに注意すべきである。
 この平田武仁の妻は於政、光徳院覚月樹心大姉。今は宮本の平田家墓地に、夫と連名の一つ墓に名を刻まれている。新造墓である。  Go Back

 
 (7)武仁の弟に武助と云ふありて、その裔は…
 武仁の弟に宮本武助正常なる人物をもってくるのは、平田氏系図である。むろん、平尾氏系図にはない名である。まだ古事帳が記す無仁筋目にも出てこない。この武助の子孫が、宮本村平田家である。
 この「武助」は、『東作誌』が収録した平田氏系図に、「武輔」という名で出てくる。おそらく、系図に武蔵を取り込んでしばらくして、もっと説得力のありそうな系譜が欲望されるとき、この「武仁の弟」が発生したのであろう。他方、下庄村古事帳には、「無仁妹」というのが出てきて、その子が平尾氏元祖の与右衛門である。
 つまり、ここがポイントなのである。「無仁妹」なり「武仁弟」なり、それはいづれも兄の家督を相続する傍系の発生のようにみえるが、実はこの傍系が正系なのである。言い換えれば、宮本武仁(無仁)→宮本武蔵の父子一式を外挿した結果、それが傍系になっただけである。もともとこの傍系は、「正系なき傍系」なのである。
 本来は、平田武助には兄などいなかった。しかし子孫が、兄を、そして甥を授けてくれたのである。なぜ、武助に兄と甥が必要なのか。それは、平尾氏起源伝説同じく、宮本武蔵から家を譲られたとの伝説を生じたためである。ただ、平田氏系図は後発のものらしく、平尾氏起源伝説を反復模倣しているのである。
 川上村平田氏系図では、武仁は「平田」武仁ではなく、「宮本」武仁であり、しかも武助まで、「宮本」武助である。これは、「宮本武蔵家」の相続人であるから宮本氏だという一種の主張である。
 それは、古事帳のような古い段階で、すでに平尾氏に現われていた。武仁(無仁)は、宮本武仁(無仁)である。平田でも平尾でもない。この点は明確である。そして、元祖与右衛門は、宮本(宮元)武蔵から家を譲られた、それで、宮本(宮元)与右衛門なのである。川上村平田氏系図は、この点でも平尾氏起源伝説を反復模倣している。
 この「宮本」姓は、川上村平田氏系図にあって、宮本村平田氏系図にないものである。そこで、本来は平田氏だから、この部分をわざわざ「宮本」に書き換えたところからすると、川上村平田氏系図の方が宮本村平田氏系図よりも新しいのだろう、とみなす者があるかもしれないが、必ずしもそうではない。
 両家とも武助の直近子孫で、すでに系図上に食い違いがある。ということは、系図作成は古い時代のことではなく、近い時代にそれぞれで作ったということである。古い系図があれば、こんなことは生じない。それだけに、平田氏系図は随分新しい系図なのである。
 平尾氏のケースでは、元祖部分は、与右衛門→九郎兵衛という父子であって、これは諸本一定している。つまり、これが一定しているということは、古い時代にその系譜が定まったということである。
 これに対し、平田氏系図では、武助とその子が一定していない。武助の直近子孫で系図上に食い違いがあるということは、別の面でみれば、そこが平田氏起源だということである。言い換えれば、武助が元祖なのだが、これは伝説上の元祖である。
 言い換えれば、武助は、平尾氏元祖の与右衛門のような明確なポジションにはない。むしろ、その曖昧なポジションからすれば、どういうわけで彼が武仁の弟なのか、まだ伝説が安定していない段階なのである。平尾氏起源伝説のように、元祖与右衛門は宮本武蔵から家を相続した、という明確な伝説がない。
 こうしたことは、平田氏の武蔵伝説が後発のもので、まだ十分熟成していないことを意味する。『東作誌』の正木輝雄が現地に入って調べた時、すでに、武仁→武蔵の父子を取り込んだ系図があった。また、武仁弟の武助の名もあって、その子孫がいることも記載されている。しかし、それ以上の具体的な伝説がなかったものと見えて、正木はこれを収録しても、とくに何の注釈もしていない。つまり、その段階では、平田氏には語るべき材料がまだなかったのである。
 平田氏系図の内容をみると、両家系図とも、『東作誌』以後、急速に内容が充実したものと思われる。それゆえ、川上村平田氏と宮本村平田氏の系図のうち、どちらが古型かという問いは愚問であろう。
 ただし、川上村平田氏系図の「宮本」武助という記載を見て気づくのは、これが口碑を系図化したもので、少しは古いのではないかと思わせるところである。伝説の初期は、宮本武蔵との関係づけに重心があり、それゆえ武蔵の「父」も宮本氏でなければならぬ。「平田」武仁ではなく、「宮本」なのである。しかもそれだけではなく、叔父の武助まで「宮本」武助にしてしまう。
 これは伝説初期の「はずみ」であり、やむにやまれぬドライヴがかかった痕跡である。それは、平田氏系図に武蔵を取り込んだとき発生した逸脱であって、「宮本武仁」だけではなく「宮本武助」としなければ納まらなかったのである。
 平尾氏起源伝説を記す古事帳のケースも、それを刻印している。「宮本(宮元)与右衛門」とするからである。しかし、こちらは伝承が古くて、平田氏系図のように新しいものではない。与右衛門→九郎兵衛という父子で元祖部分が安定しているからである。
 しかし、平田氏の方は後発のものだから、「武仁弟」という伝説がまだ熟していない。「武仁弟」がどういうわけで武蔵と関わりがあるのか、語るべき内容をもっていなかったのである。それゆえ具体的な伝説ぬきで武蔵族類となったが、平尾氏のように起源伝説を欠くため、たとえ「宮本」武助としても、影が薄い元祖なのである。









平田武仁夫婦の墓
岡山県美作市宮本









*【東作誌所収平田氏系図】

菅原姓系図
○平田將監─────────┐
┌─────────────┘
├平田武仁──平田武藏掾二天

└平田武輔─────────┐
┌─────────────┘
├平田次郎左衛門
│ 宮本屋敷に住す。子孫多し
└平田次郎大夫
  子孫多し。下町村平田の祖








*【川上村平田氏略系図】

○平田將監─────────┐
┌─────────────┘
├宮本武仁正家┬女
│      │
│      └宮本武蔵政名
└宮本武助正常───────┐
┌─────────────┘
├平田次郎兵衛光清

└平田与左右衛門光将 下町








*【宮本村平田氏略系図】

○平田將監─────────┐
┌─────────────┘
├平田武仁正家┬女
│      │
│      ├女
│      │
│      ├次郎大夫
│      │
│      └宮本武蔵政名
└平田武助正常───────┐
┌─────────────┘
└平田六郎左衛門──────┐
┌─────────────┘
└平田次郎大夫─平田次郎兵衛
 かくして、平田氏系図に記す「武仁弟」の武助という存在も、子孫から「宮本武助」という名を与えられたりして、はなはだ迷惑を蒙っていると言わねばならない。ただし、彼を平田(宮本)武仁の弟するから不都合が出来するのであって、もともと平田武助には、兄などいなかった、武蔵とかいう甥もいなかったとすれば、問題は霧消するのである。
 平田氏系図によれば、武助卒年は文禄二年(1593)である。宮本村平田氏系図も同じ卒年を記す。ところが、こちらは変なことを書いている。武助は、竹山城落城後農夫となる、とするのである。文禄二年に死んだ者が、いかにして慶長五年の竹山城落城後に農夫になりうるのか。これも、武助末孫による混乱した伝説である。
 ところで顕彰会本は、武助に絡んでというか、平田氏起源伝説を一つ、明治末の時点で拾っている。つまり、武蔵から授かったという枇杷の木刀を、武助の子孫が、今に伝えているという話である。これは、『東作誌』にはない話だから、それ以後、どこかから湧いて出た武蔵遺品らしい。
 武助が上記のように文禄二年(1593)卒だとしたら、だれがその木刀を武蔵から授かったのか、それもよくわからない伝説である。先祖から伝わる木刀があって、武蔵から授かった木刀だという伝説があるというだけである。
 武蔵から木刀を授かったという類似の話は、周知の如く、すでに『東作誌』にある。
《相伝ふに、宮本武蔵武者修業に出立の時、森岩彦兵衛中山村の鎌坂まで見送る時、武蔵突たる杖森岩に与へて離別を告ぐ、則ち木剣なり。外に武蔵が念ずる観音の小像もありしが、近年紛失したりと云。森岩は至て旧家なりと云へり。
  木刀一本  森岩長太夫家蔵
  宮本武蔵政名所持 長さ三尺六寸五分 厚み一方は四分五厘
  一方は二分五厘 正中に稜あり 此処にて厚き五分
  上下とも端丸くして首尾相同じ
  枇杷の木なり、色黒く大いに煤付て古びたり》
 この森岩彦兵衛が武蔵からもらったという枇杷の木刀は、明治の頃まで森岩家に所持していたが、森岩家が生活不如意になって下庄村千原家にわずか米一石で売り払い、これが千原家ではいつのまにか紛失してしまった、ということらしい。だからこの「物証」も存在しないわけだ。
 しかし、『東作誌』では聞いたこともない武蔵の木刀が、明治末の今、どうして平田家に伝わっているのか、途中で湧いて出たとしか言いようがない代物である。これは、『東作誌』にも記録された森岩家伝来の枇杷の木刀に対抗する伝説事物である。伝説は、説話素を借用して再生産するし、具体的な事物となって物質化するものである。顕彰会本の作者は、これをナイーヴに信じて、武蔵の物証とするのである。
 ようするに、平田氏は、平尾氏起源伝説のように与右衛門が家督を譲られたというのではなく、木刀一本だけの関係である。平田系武蔵伝説における武蔵との関係は、かようにも稀薄なのである。そして、平田氏系図には、『東作誌』以後とすべき表徴が多すぎる。  Go Back










平田家旧蔵
美作伝武蔵木刀
ただし森岩彦兵衛木刀とは無関係




中山村への鎌坂峠
 
 (8)元禄二年四月に宮本村庄屋より大庄屋に書上たりといふ書
 これは、古事帳のことではない。これは「平尾氏總領代々書付」という文書で、『東作誌』所収のものがある。
 これを引っ張り出したとき、実は顕彰会本の筆者は大混乱に巻き込まれてしまうのだが、それを言う前に、まずは、この文書の内容を知っておかねばなるまい。(詳しくは本サイト資料篇「東作誌」読解研究参照)
 これによれば、平尾民部太夫の子孫、太郎右衛門が浪人して、宮本へ住むようになり、その在所名をもって「宮本無仁」と称するようになった、という話である。
 すなわち、ここにあるのは、平田将監の子・平田武仁ではなく、平尾五郎左衛門の子・太郎右衛門が宮本無仁だという話である。
 しかし顕彰会本は、これが平田氏ではなく、平尾氏の伝説であることを明確にせず、平田氏系図との矛盾にも触れない。地元にある資料なら何でも取り込もうとすると、こうした矛盾する異伝に混乱することになる。ところが、著者は素知らぬ顔で(というか、そもそもよく解っていないのか)この混沌を素通りしてしまう。
 それに、下庄村古事帳では、無仁の妹が衣笠九郎次郎の妻になって、その子が与右衛門なのだが、宮本村古事帳では、与右衛門は武蔵の姉孫である。そうして新しい伝説形成を示すこの平尾氏總領代々書付では、与右衛門は、武蔵の姉の子へ変化しているのである。むろん、古事帳記載の伝説では、宮本武仁(無仁)の父が誰それとも記さない。古事帳の平尾氏起源伝説では、そんなことはまだ関心にはなくて、ただ、宮本武蔵から家を相続したということに伝説の中心がある。
 平尾氏總領代々書付は元禄二年の日付をもつものの、宮本村および下庄村古事帳の二文書よりは後世の作である。平尾太郎右衛門を、古事帳の宮本無仁と同一視するのがその特徴だが、もともと平尾家に無縁な武蔵を、何が何でも自家系図に取り込もうとすると、こういう二次的作為に陥る他ないのである。
 これは、九州の小倉宮本家系図でもみられる同じ構造的作為である。すなわちこの宮本家系図では、始祖・伊織の実家・田原氏を起源に取り込むだけではなく、伊織を養子にした武蔵まで田原氏に取り込んでしまっている。平尾氏總領代々書付が証言するのは、こういう「取り込み」は系図では例外的なことではないということだ。
 顕彰会本は、『東作誌』所収の平尾氏總領代々書付に言及する。しかし、これが平田氏の「平田武仁」ではなく、平尾太郎右衛門だという記述を無視する。まったく系統の異なる武蔵伝説を混同して憚らない。
 しかも、武蔵の姉を衣笠九郎次郎の妻とし、その子に平尾与右衛門が生れたということまで、記しながら、平田氏系図との矛盾を明らかにしない。平尾与右衛門が武蔵の姉の子なら、どうして、平田氏系図は、武蔵の姉が平尾与右衛門の妻になったと書いているのか。そこに一言あるべきを、そういう肝心な矛盾は看過して気づかないのか、あるいは頬かむりして無視したのか、いづれにしても平尾氏總領代々書付への参照が、自説を破綻せしめることさえ気がついていないである。
 平田氏系図が「武蔵姉」を設けたのは、平尾氏總領代々書付の反復模倣のようにみえる。しかし、これは『東作誌』に平尾氏總領代々書付によって「武蔵姉あり」とする記事があるから、『東作誌』経由の伝説発生なのである。
 平田氏の方も「武蔵姉」を設けた。しかし、この試みは失敗する。すでに平尾氏の伝説に「武蔵姉」が存在するからだ。この「武蔵姉」の使い方がまずかったというしかない。
 宮本村平田氏系図を見ると、新造系図らしく、川上平田氏系図の段階とは違って、武蔵に姉や兄が増員されている。次郎太夫は、『東作誌』段階では武助の子だったのが、武仁の子へ繰り込まれ、武蔵の兄になっている。
 そして奇怪なことに、平田氏系図ではともに、武蔵の姉が、なんと平尾与右衛門の妻である。初期伝説を示す古事帳では、無仁妹が平尾与右衛門の母(下庄村古事帳)、あるいは武仁の娘(武蔵の姉)が与右衛門の祖母(宮本村古事帳)である。これを改訂したのが、古事帳より新しい平尾氏總領代々書付で、そこでは与右衛門の母は武蔵の姉である。
 平田氏系図では、平尾与右衛門を武仁の女婿に取り込んだ。ところが、そこで、ほとんど滑稽な矛盾撞着を生じた。平尾氏の伝承では、与右衛門の母は武蔵の姉である。平田氏系図では、与右衛門の妻が武蔵の姉である。それでは与右衛門は、母を妻にしたことになってしまうのである。
 むろん、武蔵伝説の初期以来、平尾氏の伝説には、与右衛門が宮本無仁の娘を妻にしたなどという話はない。後期平尾氏伝説の總領代々書付では、宮本無仁の娘は、衣笠九郎次郎の妻であり、与右衛門を生んだのである。与右衛門は武蔵姉の夫ではなく、息子なのである。かくして、後発の伝説ゆえに平田氏系図は、余計な混乱を引き起こしている。
 以上のことからすれば、平田氏系図に依拠することはできない。内容を分析すれば後発新造の記事である。顕彰会本はその武蔵物語に平田氏系図を採用することによって、そもそもの最初から階梯を踏み外していたのである。
 そのうえ、顕彰会本の作者は、平田武仁と平尾太郎衛門(宮本無仁)を恣意的に混同している。むろん、平田武仁は平田将監の子であり、平尾太郎左衛門は平尾民部太夫の子孫である。両者を混同するのは、平尾氏と平田氏を混同するに等しい。
 しかしながら、顕彰会本の作者は事情不通と不注意から混同したのであるが、その結果は、後続の美作説論者たちに波及し、資料間のこの矛盾に対し、それをあたかも臭い物に蓋という具合に、隠蔽してしまうという流儀となった。
 こうした美作説通有の症状に対して言えば、彼らが依拠する史料の貧しさを指弾するのみでは、その固着した病弊は寛解しない。武蔵伝説の初期段階、すなわち古事帳の平尾氏起源伝説に立ち返って、いかにして美作で武蔵伝説が発生したか、その根源を押さえることにしか解決の道はないのである。  Go Back



*【平尾氏總領代々書付】
《赤松圓心三代平尾民部大夫。此人、赤松没落後、播州東本郷平尾村に浪人、在名を名乗り、平尾民部大夫と云ふ。其以後作州小原古町村の内庄田と申所に住居、英多吉野を領す。其子五郎左衛門、其子五郎左衛門、其子太郎右衛門と申、此時に下町竹山城の新免伊賀守領分成に付、以後宮本へ浪人仕居侯、故在名を以て宮本無仁と申候。其子武藏と申、此親子共に望有之に付、武藏姉と衣笠九郎次と妻合、家を繼し、其子與右衛門と申、其子九郎兵衛、其子七郎左衛門》


*【下庄村古事帳による筋目】

┌宮本無仁――宮本武蔵

└ 無仁妹
   │
   ├―与右衛門―九郎兵衛
   │
 衣笠九郎次郎


*【宮本村古事帳による筋目】

○宮本武仁┬武蔵姉―(子)┐
     |       |
     └宮本武蔵   |
 ┌―――――――――――┘
 |姉孫
 └与右衛門┬九郎兵衛
      |
      ├七郎左衛門
      |
      └仁右衛門



*【川上村平田氏略系図】

○平田將監─────────┐
┌─────────────┘
├宮本武仁正家┬女 平尾与右衛門嫁
│      │
│      └宮本武蔵政名
└宮本武助正常───────┐
┌─────────────┘
├平田次郎兵衛光清

└平田与左右衛門光将 下町


*【宮本村平田氏略系図】

○平田將監─────────┐
┌─────────────┘
├平田武仁正家┬女 平尾与右衛門嫁
│      │
│      ├女 新免藤右衛門嫁
│      │
│      ├次郎大夫
│      │
│      └宮本武蔵政名
└平田武助正常───────┐
┌─────────────┘
└平田六郎左衛門──────┐
┌─────────────┘
└平田次郎大夫─平田次郎兵衛




*【平尾平田両氏関係図】

○平尾太郎右衛門
    宮本無仁―┐
 ┌―――――――┘
 ├宮本武蔵
 │
 └武蔵姉
   ├―平尾与右衛門―九郎兵衛
 衣笠九郎次   │
         │
平田武仁正家┬武蔵姉
       │
       └宮本武蔵政名 

 
又同郡大野村川上といふ處に、無二齋夫婦の墓ありて(1)、無二齋なるは正面に眞源院一如道仁居士、傍に天正八年四月廿八日とし、妻なるは同石面に光徳院覺月樹心大姉、左傍に天正十二年十二月四日とし、又右横面に平田武仁少輔正家、同左横面に同人妻於政、施主平田又右衛門とあり、この墓石は死歿當時に建てしものにはあらざれども、無二齋夫婦の墓たることは疑を容れず(2)、たゞいぶかしきは、二天記に武藏の生を天正十二年三月とせることなり、八年に死したる無二齋がいかで十二年に武藏を生まむ、況んや武藏は幼少の時父に從ひて家業を習へりといへるをや、さればこの年代は孰か誤ならざるべからず(3)
又按に津山矢吹金一郎氏武藏の生地及年齢考に云く(4)
武藏正保二年六十二歳ニテ死ストスレバ、天正十二年ノ誕生ナリ、六十四歳ニテ死ストスレバ、天正十年ノ誕生ナリ、無二齋死亡後ノ子トナリ、事實ニ相違ヲ生ズ、無二齋小倉碑文中、將軍義昭公ノ召ニ因テ、吉岡ト技ヲ試ミ、遂ニ日下無双兵術者云々ノ條ニアル如ク元龜年間、既ニ世ニ出テ、作州ノ傳モ元龜天正年間、宇喜多氏ノ驍將新免氏ニ属シテ、各所ニ轉戦シ功勞アリシコト、又天正十七年宗貫ノ命ヲ受ケ、無二齋、本位田外記之助ヲ討取シ時、吾年老ヌ云云ト述ベシ等参照スレバ、老年ナガラ天正十七年マデ生存セシコト疑ナキガ如シ(5)、故ニ天正十年、又ハ十二年ニ武藏ヲ生シヤモ計ラレズト雖ドモ、武藏幼ニシテ父ノ業ヲ承ケシコト各書ニ記録アレバ、少ナクトモ十歳位マデハ父生存セシコトモ亦疑ナキガ如シ、サスレバ無二齋ノ天正八年死亡ト、墓石ニ記セルハ、恐クハ天正十八年ノ誤ナランカ(6)、武藏天正十二年ノ誕生トシ、無二齋天正十八年ノ死亡ト假定セバ、武藏七歳ノ時父ニ永別シ、慶長五年十七歳ノ時、九州ニ赴キシコトヽナリ、小倉碑文、石田治部少輔謀叛之時武藏勇功佳名云々ノ時、方ニ十七歳ナリ、當時兩親ハ既ニ死亡シ、傳來ノ家記武具ヲ親戚ニ托シテ、出發セシハ十七歳ノ時ナリ、是等ノ行爲ヨリ推測セバ、或ハ天正十二年ノ誕生トスルモ誤ナランカ(7) 
武藏ノ年齢熊本ノ傳六十二歳又ハ六十四歳ノ確證ナケレバ、或ハ天正初年ノ誕生ニシテ、正保二年七十歳前後ニテ死亡セシモノナラン、果シテ然ラバ父死亡ノ時十五六歳ニテ、家督相續ヲナシ、關ケ原役後、主家九州ニ仕ヲ求ルニツキ、武藏モ亦九州ニ赴キシトキ、二十五六歳ナリ、關ヶ原役武功アリシナド參照セバ、最モ事實ニ適切ナルガ如シ(8)
如上ノ推考ヲ以テ、忌憚ナク断案セバ、武藏誕生ハ、天正初年ヨリ十二年マデノ間ニ相違ナキヲ以テ、當時無二齋ノ居所、即チ美作國吉野郡宮本村ニ出生セシコト疑ナク、又年齢モ、天正初年ノ誕生ニテ、正保二年ニ至テ七十歳前後ナルコト蓋疑ナカルベシト認定ス(碑石ハ長文ナルニ係ハラズ、生年月及年齢ヲ省略セシハ、當時既ニ事實判然セザリシモノト思料ス)(9)
以上の説による時は、武藏はその生年月は明ならざれども、作州産なることは誰も疑を挿まざらむ(10)、然るに武藝小傳、二天記等には、播州人と傳へ、旦つ小倉なる武藏の碑文にも、播州英産とし、五輪書の序にも、生國播州ノ武士と記せり、碑文は、武藏歿後九年に、義子伊織が建てしものにて、文は武藏の親友肥後國泰勝寺春山和尚の筆に成り、五輪書は武藏自筆の物今に存せり、或は疎漏ありともいひ、自筆の書に、自分の生國を誤るべくもあらず、蓋し二天記、武藝小傳等に、播州人と記せるも、その基く處はこゝにあるべし(11)
然るに、この頃、播磨佐用郡平福村々長田住貞氏方傳來の系圖(12)を得たるによれば、武藏の母は、別所林治といひし人の女にして、初め美作の平田武仁に嫁して、武藏を生み、後離別して播磨に歸り、田住政久に再嫁せり、この時武藏は幼少なりしが故に、いはゆる率子〔ツレコ〕となりて、田住家に養はれ、こゝにて人と爲れるよしありて、同家には武藏の過去帳もあり(担しこの過去帳は死を聞きて、跡にて作れるものたるべく證とするに足らず)、この村は、美作と境を接せる處なれば、かく互に往來せしなるべし、これを正傳とする時は、かの大野村の墓なる無二齋の妻於政は、無二齋の後妻にして、武藏の實母にあらず(13)、又武藏は幼にしてかく母に連られ來りしが故に、後に美作の父のもとに歸り、劍道など修業せしも、みづからは播磨の人と思ひ居りしにや、又祖先の系は、本播磨赤松の支族なるが故に播州の武士と記せるにや、猶よく考ふべし、(14)
 

 【評 注】

 (1)無二齋夫婦の墓
 前段からの註記の続きである。以下は、武蔵の「父」の没年に関する問題を論じる。
 ここで「大野村川上」というのは、明治中期以来の新しい呼称であり、それ以前は吉野郡川上村である(現・美作市川上)。この村は、宮本からすれば西に一里ほど離れた場所である。吉野川支流の川上川沿いで谷筋もちがう。ここに川上村平田家の系統があった。前に示した系図を参照されたい。
 『東作誌』にこうある――平田次郎左衛門は白岩玉蔵坊と領地の争論があった。訴訟結果は白岩の負けとなった。それで白岩は遺恨に思い、平田を夜討ちにした。白岩弥次郎・宗次郎の兄弟は、平田父子以下家内十一人を切殺した。次郎左衛門の妻は二才の男の子を懐に抱いて、勝田郡富坂に逃れた。殺された平田父子十一人を一穴に埋めた。そばに梨の木が一本あり、どの梨の実も皆傷があるというので「きず梨」という、と。
 この墓は岡屋敷の下、旧道の傍にある。その墓の脇に、平田武仁少輔正家と妻の墓があるわけだ。  Go Back

 
 (2)無二齋夫婦の墓たることは疑を容れず
 顕彰会本は、宮本村平田氏系図の記事を見て、こう書いたものらしい。川上村平田氏系図にはその記事はないが、宮本村平田氏系図には、無仁の歿地を川上村岡屋敷とする。
 宮本村の墓に比べて、こちらの墓は冷遇されている。もし平田武仁がこの川上村岡屋敷で死んだというなら、こちらの墓はもっと尊重されるべきだが、宮本村の明治に整備された墓の方が本物と錯覚されているのである。
 この川上村の墓は少し変っていて、坐像が乗った台座に墓誌が記されている。というよりもむしろ、墓石が失われ、代りにこの地蔵坐像を乗せたものか。これを建てた「平田又右衛門」は不明だが、子や孫というよりも、おそらくかなり後代の子孫なのだろう。
 この記事のように、平田武仁と妻の墓誌が記されているはずなのだが、今では刻字はもう判然としない。右横面に「平田武仁少輔正家」とある側に、おそらくもう一人の施主名があるはずなのだが、顕彰会本はそれを無視している。というか、著述者・池辺はこの墓碑を実見もせず、伝聞で書いているわけだから、欠落に気づかないのも当然であるが。
 また顕彰会本は、「妻なるは同石面に光徳院覺月樹心大姉、左傍に天正十二年十二月四日とし」と書いている。だが、この卒日は「天正十二年三月四日」の誤りであろう。あるいは、そもそも妻女の歿年は記されていないかもしれない。  Go Back

 
 (3)八年に死したる無二齋がいかで十二年に武藏を生まむ
 さて問題は、平田氏系図では、武仁の没年が天正八年(1580)となっていることである。
    真源院一如道仁居士 天正八年四月廿八日卒
 これは、川上村と宮本村両平田氏系図ともに同じ記録をもつ。
 しかし、これでは、武蔵が生まれるより四年前に武仁が死んでいることになる。この問題を、顕彰会本の作者は、検証してみようというわけである。
 この点は、平田武仁を武蔵の実父とする美作出生説の最大の弱点である。これを解こうとする論には、以後の美作説すべてにも見られる共通の特徴がある。では、顕彰会本の論法では、いかにしてこの難問を回避しうるのか。  Go Back

 
 (4)津山矢吹金一郎氏武藏の生地及年齢考
 津山、矢吹金一郎とあるのは、津山の人、矢吹正巳(1853〜1930)である。明治四十五年の作陽古書刊行会版『新訂作陽誌』の校訂者である。明治三十五年、津山町長に選ばれるなどした、地元津山の名士であるとともに、著書論文多数あり、鶴山公園の整備、作楽神社等社寺の再建に奔走するなど、郷土文化の研究保全のため尽力した。
 『美作畧史』の著者・矢吹正則は彼の父である。父子二代にわたって美作郷土史の開拓に貢献した。それと同時に、父正則以来の、武蔵美作出生説の主唱者であり、このように顕彰会本の武蔵伝に資料的根拠を与えた。
 我々はこの「武藏の生地及年齢考」という論文は未見である。しかし内容は以下の引用部分によって知れるであろう。顕彰会本は矢吹の所説に依拠するため、以下これをかなり長く引用している。  Go Back




岡山県立図書館蔵
周辺関係地図
美作国絵図 明和年間







平田武仁夫婦の墓
岡山県美作市川上




同上 台座
刻字はほとんど判読できない
 
 (5)天正十七年マデ生存セシコト疑ナキガ如シ
 まさに武仁が天正八年に死んだとすれば、武蔵は父死亡後の子となってしまう。これは事実とは食い違いを生じるわけである。この自己矛盾を美作説は解かねばならない。
 武仁が天正八年以後も生きていたという助け舟は、『東作誌』が記す本位田外記暗殺事件である。この事件は天正十七年である。
 しかしすでに述べたように本位田外記暗殺事件には異伝があって、石井村の小守家の何助が実行者だという。となると、無二が本位田外記を殺したという『東作誌』の記事を採択する根拠が稀薄である。
 しかのみならず、『東作誌』の正木が典拠とした新免家記には、文禄元年の朝鮮に平田無二は姿を現わすのである。これではますます、新免家記の「平田無二」と、平田氏系図の「平田武仁」は別人である。両者を同一視することは事実上不可能である。ようするに、武蔵の「父」に関する延命工作は決め手を欠くのである。  Go Back

 
 (6)天正十八年ノ誤ナランカ
 武藏が少年の頃父から業を承けたということは各書に記録のあるところだから、少なくとも武蔵が十歳くらいまでは「父」は生きていなければならない。だから、天正「八年」は「十八年」の誤りではないか。矢吹の論文はそんな憶測を述べる。
 しかしながら、少年武蔵が父から兵法を学んだという記録の書とは、何を指して言うのか。そんな文書は一次史料には存在しない。
 天正「八年」は「十八年」の誤りだろうという矢吹の所説は、「平田武仁延命策」とでも言うべき工作だが、その後の武蔵美作出生説のすべてが継承することになる症例である。あたかも、プロクルステスの寝床のごとく、自身の謬説の方寸に合わせて、資料を加工しようとする。本当に加工されない前に、美作の資料を保全する必要があるほどである。
 ところが、そもそも武蔵を実の子とするから、こうした平田武仁延命工作が必要になってくるにすぎない。
 たとえば、プライマリーな武蔵史料として宮本伊織による泊神社棟札(兵庫県加古川市)があるが、そこには、新免無二が、筑前秋月城で、「無嗣」にして死んだとする。無嗣ということは、実子であれ養子であれ、嗣子はなかったということである。したがって、武蔵は無二の実子でもなければ、無二の生前に養子になっていたのでもない。それが、泊神社棟札のこの記事のポイントである。
 ようするに、美作で発生した伝説は、武蔵が新免無二の実子ではないことを知らなかった。また、そういう情報の届かない無縁の地域だからこそ、武蔵を「平田武仁」の実子にしてしまったのである。言い換えれば、武蔵を実子にしてしまうこと自体が、当地が武蔵とは無縁の地だったことの何よりの証拠である。  Go Back

 
 (7)天正十二年ノ誕生トスルモ誤ナランカ
 ここで矢吹正巳が言っているのは、平田武仁が天正十八年死亡と仮定しても、武蔵が天正十二年生れだとすると、その武蔵の生年は遅すぎるという話である。
 武蔵が天正十二年生れだとすると、武蔵七歳で父と死別、慶長五年十七歳の時九州に行ったということになる。小倉碑文で、石田治部少輔(三成)謀叛之時武藏勇功佳名云々とある時、つまり関ヶ原合戦のおり十七歳である。この時には父も母も既に死亡していて、伝来の家記武具を親戚に托して出郷したのは十七歳の時となる。これだと年齢が若過ぎやしないか、という話なのである。
 こういうストーリーそのものがすでにフィクションなのだが、それは一応脇において、矢吹の述べるところをみよう。すると、こんどは、武蔵が天正十二年に生まれたということさえ、誤りではないか、と言い出すのである。武仁を十年延命しただけでは不足で、武蔵の生年も「改訂」する勢いである。いよいよ話は荒唐無稽になっていく。矢吹の憶測は続く。  Go Back


平田武仁夫婦の墓
真源院一如道仁居士
天正八年四月廿八日
岡山県美作市宮本



 
 (8)天正初年ノ誕生ニシテ、正保二年七十歳前後ニテ死亡
 話がだんだん牽強附会の様相を呈しはじめる。
 矢吹は、武蔵が六十二歳または六十四歳で死んだという「熊本ノ傳」には確証がないとする。だから、天正十二年ではなく天正の初め頃の生れで、七十歳前後で死去とすれば、慶長五年の関ヶ原合戦のとき二十五、六歳であり、離郷し戦功を挙げたとなって、辻褄が合うではないか、という話である。
 この「熊本ノ傳」、さしあたり『二天記』がそれだが、卒年六十四歳説となると、肥後系史料の何を指すのか、云っている事が不明である。
 ともあれ、矢吹の所論では、武蔵はもっと早く生れた「はず」だ、ということである。五輪書に「年つもりて六十」とあるのは、何かの間違いだろうと。
 注目すべきは、ここで、その後の美作説の路線が敷設されたことである。その倒錯は、次のような段階を踏んで進む。
(1) 平田武仁を延命させる
(2) 武蔵の生年を先送りする
(3) 五輪書自序の記述を偽作とする
 まさに倒錯的歪曲だが、これと同じ論法を運用すれば、そもそも五輪書に「年つもりて六十」と書いた武蔵は、おそらく老人性痴呆か何かで、すでに自分の生国も年齢も解らない朦朧状態にあったのであろう。そうでなければ、自分の生国を播磨と間違え、年齢を十歳ばかりも間違えるはずがない。しかしそれにしても、不思議なのは、五輪書がそんな痴呆症の瘋癲老人の書いたものとは見えないことである。とすれば、武蔵の著述というこの五輪書、実は武蔵の弟子の誰かによる後世の贋作ではないか…。といった具合に、後代の美作説ではその倒錯がますます展開していくのである。むろん矢吹の段階では、美作説論者もそこまで愚かではない。第二段階どまりである。
 ここで平田武仁の没年を十年遅らせ、その上武蔵の生年を十年ほど繰り上げる、そうすれば事実と適合するという矢吹の主張は、五輪書に「年つもりて六十」とある記事まで否定するもので、言ってみれば、牽強附会の暴論以外の何ものでもない。
 矢吹のいう「事実」とは、武蔵は慶長五年頃には年齢二十代半ばでなければならない、という当為であるにすぎない。しかしこの当為にはむろん何の根拠もない。自説に都合のよい「事実」なのだが、それは事実を曲げても正当化すべきものとなる。まさに倒錯と謂うべし。  Go Back

 
 (9)蓋疑ナカルベシト認定ス
 おいおい、そんなことを勝手に「認定」してもらっては困るよ、というところである。
 とりわけ「武藏誕生ハ、天正初年ヨリ十二年マデノ間ニ相違ナキヲ以テ、當時無二齋ノ居所、即チ美作國吉野郡宮本村ニ出生セシコト疑ナク」というのは、まったく訳がわからない論法の文章である。生年の特定が出生地の特定に連動するとは、ほとんど理解を超絶した論理である。
 ここで「碑文」とあるのは、承応三年(1654)建碑の小倉碑文のことである。この碑文が長文であるにもかかわらず、武蔵の生年や歿年齢を省略しているのは、当時すでに事実がよく判らなくなっていたからだろうと思うのは勝手だが、それは事情を知らぬと云うべきである。
 むろん、享年を記さない墓碑はいくらでも例がある。ありすぎるほどで、生年を知りたい史家を嘆かせるのである。しかも、この武蔵碑の頭冠部には、「天仰實相圓満兵法逝去不絶」の十二文字を記す。この武蔵碑が、たんなる墓碑ではないということは、一目瞭然である。通常の墓石のように、享年を記さなかった理由もわかるというものである。享年不記としたのは、「逝去不絶」の文字が示している。
 建碑は武蔵没後わずか九年の十回忌、しかも、他人ではなく、長年連れ添った養子の伊織による建碑。伊織が武蔵の年齢を知らなかった、というのはまさにありえざる話である。  Go Back




「生国播磨」「年つもりて六拾」
吉田家本五輪書






旧国制地図











天仰實相圓満兵法逝去不絶
小倉宮本武蔵碑 頭冠部
北九州市小倉北区赤坂
 
 (10)作州産なることは誰も疑を挿まざらむ
 以下、矢吹所論の引用を離れ、再び池辺義象記述の本文にもどる。
 顕彰会本編述者の池辺義象は、武蔵の生年不明という矢吹の説を容れ、作州産なることは誰も疑を挿まざらむとする。このあたりの論法は暴走しているだけに興味深い。
 生年は不明、それでも産地は明らかで疑う余地はない。しかしこの話は、まったく逆立ちしてしまっているのである。
 だれがどう見ても、明らかなのは、寛永二十年に「年つもりて六十」とある五輪書の記述から導かれる生年であって、不明なのは、武蔵を「生国美作」にしてしまう強引な牽強附会である。
 こうした話の転倒は、およそ論者の出発点が、産地は絶対に美作でなければならないという前提から、そして言わば不条理なトートロジーから、生じるものである。この循環論法の特徴は、前提と結論の区別も見境もないということにある。
 そして五輪書を武蔵の著述としながら、そこにある記事を否認する美作説の倒錯した論法は、まさにこの顕彰会本の骨頂であり、それを爾後の美作説論者は継承し反復することになる。  Go Back

 
 (11)自筆の書に自分の生國を誤るべくもあらず
 郷土史家の矢吹正巳とは違って、池辺はもう少し客観的に見ているらしい。武蔵を播州産とする史料は多く、それらを無視できない。とりわけ、五輪書に「生国播磨」と明記されている以上、美作説の直面する難局はここに極まる。
 ここで、顕彰会本が、武蔵「自筆」の五輪書が現存するという、その五輪書とは細川家本(現・永青文庫蔵)のことである。むろんこの自筆説は間違いである。自筆書簡の筆跡に照らせば、現存五輪書はいづれも武蔵自筆ではなく写本である。だが、当時は蒙昧にも、細川本五輪書が武蔵自筆だと信じられていたのだから、この誤りは顕彰本の著者だけのことではない。
 とはいえ、武蔵自筆本が現存しないとしても、五輪書が武蔵の著作である以上、その「生国播磨」の四文字は否定できない。とすれば、絶体絶命、美作説に残された手はあるのか。  
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「生国播磨」 細川家本五輪書
 
 (12)播磨佐用郡平福村々長田住貞氏方傳來の系圖
 五輪書の「生国播磨」の四文字は、美作説にとって乗り越えがたいハードルである。しかし、顕彰会本は思いがけないところから、このアポリアを克服する方策を見い出す。
 それが、この播磨佐用郡平福村の村長、田住貞氏方伝来の系図、すなわち、いわゆる田住氏系図なのである。
 佐用郡平福村(現・兵庫県佐用町平福)は、宮本村や中山村とちがって、播磨国側にある村で、別所氏居城の利神〔りかん〕城の城下の町、また因幡街道の宿場町であった。  Go Back

 
 (13)武藏の母は別所林治といひし人の女
 田住氏系図に依拠するこの説は、顕彰会本の「新説」である。
 ここにいう別所林治〔べっしょ・しげはる〕は、別所静治の二男で、兄が定道である。佐用別所氏は播州三木城の別所氏の支族で、当地の利神城に拠った武家である。秀吉の播磨制覇に対し、上月城主赤松政範は毛利氏に与して抵抗したが落城、上月城は秀吉軍の手中に落ちた。このとき上月麾下の別所定道も同様に戦ったが、結局降伏、人質を出して、利神城はそのまま差し置かれた。その後、定道に替わって弟の林治が利神城の城主となり、天正六年(1578)播磨諸城主が再び秀吉に叛旗を翻すと、それに呼応した。これに対し、上月城の山中鹿之介の軍が利神城に攻め寄せ、林治は籠城するも敗走、宍粟郡長水山城主・宇野政頼(新免宗貫の実父)を頼って落ち延び、さらに天正八年(1580)五月長水山城落城とともに、その後は行方知れずとなったという。
 別所林治の兄・定道は、田住家系図によれば、田住氏初代である。文禄二年卒。その子が田住政久、実は播磨国揖東郡の神中城主・大国半左衛門正俊の息子で、田住定道の養子になった人だという。しかし、播磨国揖東郡の神中城というのも、大国半左衛門正俊も、播磨側では確認できない。
 それはともかく、この田住政久は寛永十八年(1641)九十六歳卒というから、天文十五年(1546)の生れということになる。とすれば、武蔵が生れた頃、すでに三十九歳という人である。
 そして、田住家系図によれば、この別所林治の女が武蔵の実母。のち平田武仁と離縁し、田住政久に再嫁したということである。つまり、記事は、
  《女子 始嫁平田武仁、故有後年再嫁田住氏政久室ト爲ル》
 こちらが正しいとすれば、美作側資料の平田氏系図にある武仁の妻・於政は、後妻で、武蔵の生母ではないということになる。ところが、系図墓誌によれば、於政は天正十二年三月に死去している。とすれば、武蔵の生母は、天正十二年武蔵が生れるか否かの時に、離縁して再嫁し、そしてこの後妻於政は嫁すや早々に死亡したのか。そんな妻なら子もあるまいに、正室として墓をともにすることがあろうか。平田氏系図の於政を後妻だとみなすのは、かなり無理のある話である。
 一般にこの「田住政久室」は、率子〔よしこ〕とされているが、実は名は不明である。だから、顕彰会本が記すように、「率子」は「連れ子」のこと。「率子」に「よしこ」とフリカナまでしている近年の武蔵本は、滑稽な錯誤を演じているのである。
 ともかく、武蔵は連れ子だから、乳幼児だろうと、生れてはいたのである。だから、この「武蔵実母」は天正十二年以後に田住政久の室になった。とすれば、天正十二年三月に死去した、美作の於政の立場がない。ようするに、美作の平田氏系図と播磨の田住氏系図とは相互に矛盾し、両立不可能である。となると、田住氏系図の「武蔵実母」伝説は、美作の伝説から派生して佐用郡平福で醸成された、別個の武蔵伝説と見た方が妥当であろう。
 念のため、この「田住政久室」という女性について検証してみよう。
 まず、別所林治の子供だが、武蔵の母になるような女子が彼にあったとは思えない。男子も同様で、成人した子があったのではない。豊福氏系譜によれば、利神上洛城のとき別所林治の息子・三壽丸は二歳、作州に落ち延びて小原田九郎右衛門の養子となり、後に豊福九郎右衛門と名のり作州側の豊福氏の祖となる。この人の墓誌では、
    松心院大誉宗禅居士
      寛永五年六月八日卒
とある。つまり、寛永五年(1628)まで、利神城落城からその後半世紀生きていたのである。
 三壽丸に兄あり、その子も千代丸という幼名である。父と運命をともにしたらしい。この千代丸と三壽丸の間に女子がある。この子は千代丸の妹だから、まだ幼女であろう。天正八年のこの幼女が、天正十二年に、まさか武蔵を産めるはずはない。
 他方、田住家の菩提寺正覚寺の過去帳によれば、この田住政久室の女性は、
    寛大院華屋栄樹大姉
      慶安元年七月五日卒
となっていて、慶安元年(1648)の死亡である。つまり、利神城落城から七十年後まで生きていた。とすれば、その父林治の没落とき幼女であっただろう。しかも、武蔵の没年が正保二年(1645)だから、彼女は武蔵よりも長生きしていたわけである。
 したがって、田住家系図の、田住政久に再嫁したという女姓が、この別所林治の娘だとすれば、彼女を武蔵の生母とするには、以上のような年齢上の決定的な難点があるわけだ。それゆえ、我々の所見では、田住氏家譜によって、彼女を武蔵生母とするわけにはいかないのである。現存田住家系図は明治期の作成であり、この伝説の取り込みはさして古いものではなかろう。  Go Back



利神城とその周辺



利神城址 兵庫県佐用町




田住家 佐用町平福



平福郷土館蔵
田住家系図



*【利神城別所氏略系図】

○別所光則―治光―治定―静治┐
 ┌――――――――――――┘
 ├田住定道=政久 実大国正俊子
 │
 └別所林治┬千代丸
      │
      ├女子 武蔵実母?
      │
      └三壽丸


 
 (14)みづからは播磨の人と思ひ居りしにや
 ようするに、顕彰会本の憶測は、幼い武蔵は、再婚した生母に連れられて、隣国の播州平福村へ行ってそこで育った。後に作州宮本村の実父の元へ帰ったが、幼少の頃育った土地が播州であったから、自分は播州人だと思っていたのではないか、という話である。
 あるいは、祖先の系統がもともと播磨赤松の支族だったから、播州の武士と記したのであろうか、という憶測もついでに記している。
 五輪書の「生国播磨」の四文字の課す難問は、これで解決されたであろうか? この露骨な詭弁には大笑いである。武蔵は主観的に播州人だと思っていた、だから「生国播磨」と書いたのだとするのは、まったく説得力のない詭弁である。それよりも、武蔵が痴呆症の瘋癲老人になっていたから、そんな錯覚を抱いたのである、とする方がまだしも説得力があろうというものだ。
 この説得力のない詭弁は、以後の美作説論者が継承する論法だった。吉川英治もこの顕彰会本の一説をそのまま繰り返している。
《序文中、生国播磨の武士とあるのは、母方が播磨なので、云ったものか。祖先赤松氏の支流なることを云ったのか、どちらかであろう》(『随筆宮本武蔵』 五輪書と霊巌洞窟)
 上記の顕彰会本の部分と対照させてみるといい。引用も明らかにせず、あたかも自説のごとく、吉川はこの推理を述べているのである。
 それはさておき、顕彰会本の著者は、猶よく考ふべし、と書いている。まさにまだ考えが足りないのである。結論として云えば、顕彰会本の難問回避の試みは成功したとは言いがたい。むしろ逆に、平福に助けを求めるその方策は失敗し、倍加する難点を抱えてしまう結果になっている。
 つまり、田住家系図の、田住政久に再嫁したという女姓は、まだ幼すぎて武蔵を産むわけにはいかない。そして、顕彰会本が引用した前記の矢吹金一郎の所説によれば、武蔵の生年は「天正初年」でなければならない。しかし、そうだとすれば、武蔵は自身の生母よりも年上になってしまう(!)。要するに武蔵の生母をめぐる問題は、武蔵の生年変更を阻止するのである。とすれば、こんどは、武蔵は「父」の死後四年経って出生したミステリアスな息子だということになる。
 これは同時に、美作説の前提、武蔵は美作産だという前提が、そもそも最初から誤りだったのだ、というところへ波及する問題なのである。  Go Back

 
又按に、武藏の幼名はもとはタケゾウと唱へしを、後にムサシと改唱したりといふ(1)、これを武藏守として記せるもの多きはその流を汲む人々、武藏の國名なるよりその守のやうに誤り思ひて尊稱せしものにて、決してその國守に任ぜられたるにはあらざることは、碑文位牌等に守の字無きにて知るべし(2)、又その姓は赤松の支族なるが故に源といふものあり、作州の傳説には菅原とせるもあれど、これも位牌に藤原とあるを正しとすべし(3)、按ずるに新免氏は徳大寺家の後裔といへば藤原姓なること當然にして、武藏も新免氏を冒せるが故に藤原を名乗りしなるべし(4)
 

 【評 注】

 (1)武藏の幼名はもとはタケゾウ
 宮本武蔵は幼名を「たけぞう」といったというのは、吉川英治の小説『宮本武蔵』で展開された設定であり、この影響力が大きかったので、現在でも、たいていは武蔵は最初「たけぞう」だったと思い込まれている。
 そうして、いつの間にか、
    「たけぞう」 → 「むさし」
という発展・改名が信じられてしまうのである。ところが、そんな説はたんなる小説の設定だと笑ってはおれない状況である。
 しかしながら、これを吉川英治の不当な発明として指弾する論者もあったが、それは事実とは違う。この顕彰会本の記事を見ればわかるように、これは昔から存在した説であり、決して吉川の発明ではないのである。ただ、吉川はこの顕彰会本の記事を見て、武蔵の幼名タケゾウなりというアイディアをパクっただけである。
 この説はあまりにもお粗末な俗説だったので、採択する者はほとんどいなかったが、吉川英治がこの説をパクった小説が馬鹿売れすると、こんどは多くの人々が武蔵の幼名タケゾウなりという説を信じるようになったのである。これもまた典型的な一つの倒錯であった。
 しかしながら、他方で、武蔵の幼名はタケゾウだというのは、まったくの俗説で、本当は「辨之助」が正しい幼名だという説があり、こちらの方は現在でもほとんどの研究者が主張するところとなっている。ところが、これもまた幼名タケゾウ説と似たような粗雑な俗説なのである。
 武蔵の幼名が辨之助だという説は、一次史料の記録にはどこにも存在しない。後世の伝記説話で出現する話でしかない。これを十分頭に入れておく必要がある。
 とはいえ、こんな初歩的な注意を読者に喚起しなければならないほど、一般の武蔵研究は現在でも低レベルを彷徨っているという状況であるわけだ。
 幼名辨之助説の発生構造をみるに、すなわち、まずは、
   「武蔵」 → 「武蔵坊辨慶」
という自由に浮遊する連想があり、この「弁慶」を媒介にして「辨之助」が発生すると言う順序である。つまり、
   「武蔵」 → 「武蔵坊辨慶」 → (辨) → 「辨之助」
という展開である。この媒介する文字「辨」が、一種の《missing link》(失われた環)であり、《vanishing mediator》(消えた媒介者)なのある。
 ところが、これも完全に消滅したものではなく、思いがけず痕跡を遺すこともある。たとえば、播州の『佐用郡志』には、武蔵の幼名「傳」という説を採取している。この傳(でん)が辨(べん)の音韻論的浮遊を示すシフトであるのは、「b」音列が「d」音列に転化しやすいという播州方言の傾向を知れば、これまた当然の言語学的事象なのである。
    「べん」 → 「でん」
 かくして、武蔵の幼名が辨之助だという説は、「武蔵」から「辨之助」が発生するという順序を逆立ちさせた倒錯であり、あまりにもナイーヴな信憑という点では、武蔵幼名タケゾウ説と大差ないのである。
 このことは、現在、幼名「辨之助」説が支配的通説になっている状況では、とくに強調して言わねばならないことなのである。  Go Back

 
 (2)武藏守として記せるもの多きは
 これは、顕彰会本の珍説の一つである。宮本武蔵の「武蔵守」という名のりについてのことである。
 すなわち、これを武蔵守として記す史料が多いのは、武蔵の流れを汲む人々が、「武蔵」という国名から「武蔵守」と誤認して武蔵を尊称したからだ、という話なのである。名の順序は、つまり、
    武蔵 → 武蔵守
ということだと推測しているのである。武蔵は「武蔵守」とは自称しなかった、と著者は考えたのである。
 ところが、事実はそんな無知な解釈の推察するようなことではない。五輪書の記事によれば、武蔵のフォーマルな名のりは「新免武蔵守藤原玄信」である。藤原は姓で、玄信は諱。そして武蔵守は職名である。この「新免武蔵守」は、新免無二の名跡で、武蔵が新免無二の家を相続したときその名跡を継いだのであろう。「新免武蔵守」という名のりは中世的慣習である。
 この武蔵守は一例だが、こういう擬似官位は、武蔵の当時、武士であれ職人であれ、実に多くの人間が使用していた僭称慣習なのである。和泉守、伊賀守、伊勢守等々なんでもござれであり、また、武芸者や刀工その他職人には「○○守」と称する例は多い。
 近い例では、美作国吉野郡竹山城主の新免家中でも、当主の新免伊賀守をはじめ、家老連中まで、新免伊予守、新免備中守、本位田駿河守と称していた(新免家侍帖・東作誌収録)。新免家の領域石高からして、彼らはおそらく知行数百石程度の武士であろう。むろん、彼らが国主だったわけではない。事実、戦国時代には全国に「○○守」と称する者は無数に存在したのである。
 ところが、徳川の世になって、政治的支配秩序が確立されると、そうした官位自称が不法な僭称ということなってしまった。そのうちこの慣習が廃れると、もとの意味は忘れられ、こんどは武蔵がなぜ「武蔵守」を名のっていたのか理解できなくなる。それがすでに江戸中期のことだった。
 武蔵のケースは、江戸時代初期なので、「○○守」と称する中世的慣習を残していた。当時の書状など見るに、人々は彼を「武州」と呼んだ。「武蔵」とは呼ばない。「武州」というのは武蔵守の意である。ただし、息子である伊織のような身内の者は、他人に対して武蔵のことを言うばあい、「武蔵」と呼んだ。これは身内だからである。
 小倉の武蔵碑に伊織が「孝子敬建焉」と記すとき、この碑は亡父の墓碑だということだが、そこでは「新免武蔵玄信」としている。これも、伊織が身内だからである。「武蔵守」とするのを謙譲して「武蔵」と記したまでである。他人による撰文なら、「新免武蔵守玄信」というフォーマルな名を記したであろう。
 したがって、碑文位牌等に「守」の字が無いと顕彰会本が指摘するとき、「碑文」は小倉碑文のことだから、「守」の字が無いのは当然である。
 ところで、「碑文」は小倉碑文だとして、武蔵の「位牌」とあるが、それが胡乱な話である。武蔵の位牌というものは、十八世紀中期の記録しかない。それは後世のものであり、末流後人が勝手に作成した代物である。武蔵の遺志を承けて、伊織は位牌など作ってはいない。
 話をもどせば、「武蔵守」は足し算で生れた新名ではない、ということだ。であるからして、「武蔵守」という名のりに関して、顕彰会本の池辺の解釈は、名称慣行に関する無知を晒しており、完全に間違っている。これを書いたのが池辺義象という国文学者で日本法制史の著述もある学者であってみれば、我々はその史学上の無知に呆然として驚く以外にはない、という始末なのである。
 しかしながら、もっと劣悪なのは、「武蔵守」というのは後世の武蔵流末による尊称だというこうした顕彰会本の無知を、いまだに反復している連中のあることである。無知は反復され模倣される。感染するのである。  Go Back





武蔵坊弁慶像
和歌山県 田辺駅前



姫路城薪能奉賛会
観世流能楽 安宅
武蔵坊弁慶が勧進帳を読む




歌舞伎 勧進帳
元禄15年(1702)江戸中村座初演




永青文庫蔵
「新免武蔵守藤原玄信」
細川家本五輪書



*【竹山城侍帳】(小守家文書)
  家老  本位田駿河守
  二家老 本位田外記之助
  三家老 新免伊予守
  後見  新免備中守

*【新免家侍帖】(東作誌)
  伊賀守宗貫 高五千石
   吉野郡の内吉野保 讃甘庄
   大原保大野庄 東粟倉庄
   領之始山王城主後竹山城主
  長臣 本位田外記之助
     新免伊予守
  後見 新免備中守
     本位田駿河守



小倉武蔵碑 墓誌部分拓本
新免武藏玄信二天居士碑
正保二乙酉暦五月十九日於
肥後國熊本卒/于時承應三
甲午年四月十九日孝子敬建焉
 
 (3)藤原とあるを正しとすべし
 これは、宮本武蔵の「藤原玄信」という名のりに関してのことである。
 ただし、武蔵の氏〔うじ〕に関して、赤松末葉だから村上源氏、すなわち源姓だとしたりする例は、美作以外には聞かない。武蔵の兵法者としてのフォーマルな名は、「新免武蔵守藤原玄信」であり、そのかぎりにおいて、藤原姓以外にはない。
 他方で、顕彰会本のいう「作州の伝説」に属することなのだが、菅家の紋章「梅鉢」を用いる平田氏が、武蔵の「父」に平田武仁を配役する以上、武蔵は菅原氏出自となってしまうわけだ。
 いくら美作説を採るとはいえ、さすがにこれでは不味いということなのか、顕彰会本は、これを「伝説」として却ける。そこで、武蔵の氏は、源氏でも菅原氏でもない、藤原氏が正しいとして、以下の話になる。  Go Back

 
 (4)新免氏は徳大寺家の後裔
 作州の新免氏は、藤原氏徳大寺実孝の後裔である。これは史実としては信憑性はないが、要約すれば、新免氏の起源として語られる、こういう説話がある。
 ――太政大臣藤原実基の子・大納言実孝が、当時西園寺公宗謀叛事件に連座し後醍醐天皇の忿りにふれ、作州吉野郡粟井庄に流された。実孝はその地で菩堤寺城主有元佐高の娘を妻とし、粟井中村に住み、一子則重を生して、遂に帰京ならず此の地に卒した。則重は幼名徳千代丸、十五才の時上洛し、時の帝より父徳大寺実孝の罪を赦され、同時に武家となって「新免」の姓を賜り、従五位叙任、「新免七条少将則重」と号した。時に将軍足利義詮に勅許あって、美作国の内、広山庄吉野保粟井庄大野保四ヶ所を賜って美作へ帰り、粟井城を築いて居住、後に小房城に移った…。
 これが新免氏起源である。「新免」の名の由来は、則重が父実孝の罪を赦免されたということによる。命名説話として話はいささか出来すぎだが、ようするに貴種流離譚の一種である。実在の徳大寺実孝には、美作に流罪され同地で歿したという事実はない。
 それでも、家伝では、新免家の祖は藤原北家の徳大寺実孝、ゆえに新免は藤原氏である。武蔵は無二の新免家を相続した。ゆえに武蔵は「藤原」を名のった――已上訖。
 これについては、顕彰会本の記述は正しい。しかし、源氏や菅原氏という「作州の伝説」は、顕彰会本によってかくも容易に切り捨てられもするのである。それはいかがなものかと、思ってみもするのである。  Go Back




*【新免氏略系図】

徳大寺実孝新免則重…長重…┐
  ┌────────────┘
  │竹山城
  └貞重┬宗貞=宗貫─長春→
     ├貞弘 ↑作州退転後
     └家貞 │仕黒田長政
 長水山城    │
 宇野政頼┬光景 │ 
     │   │
     ├祐清 │
     │   │
     ├宗貫─┘
     │
     ├宗祐
     │
     └祐光





新免氏関係地図

 
又按に宮本氏系圖によれば(1)、伊織は武藏の養子なれども、その實は、田原久光の二男とし、實母は小原上野守源信利の女とし、慶長十七年十月廿一日、播州印南郡米堕邑の産とし、寛永三年十五歳に於て、小笠原忠眞に奉仕すとせり、田原久光とは、田原左京大夫貞光の孫にて、赤松持貞の後、小原信利は、攝津有馬の城主なり(2)、これによれば、武藏も本は田原氏にて、田原家貞の子田原久光の弟にして、新免無二齋の養子となり居れども甚だ信し難し、思ふに伊織を無名なる浪人の子とせる二天記を厭ひての作ならむか、或書には伊織を以て商家の子とせるもあれど採らず。(3)
 
 【評 注】

 (1)宮本氏系圖によれば
 この部分は、第三章になる。表題は「武者修行を志す」とある。
 ここでいう宮本氏系図は、武蔵の養子・宮本伊織の子孫が作った小倉宮本家の系図である。伊織以下子孫は豊前小倉で存続した。それゆえ宮本氏系図は、九州で伊織末裔によって十九世紀半ばに作成された系譜である。
 伊織は播州印南郡米田村生まれ、田原氏が出自である。主君小笠原忠政との関係は、彼が明石城主時代に仕えるようになったことに始まる。これ以前より宮本武蔵は小笠原家と親近しており、明石で伊織は武蔵と遭遇して、養子縁組をしたものらしい。
 ところが、九州の現存宮本家系図は、その播州起源部分に重大な作為の跡を遺している。すなわち、宮本家は伊織が武蔵の養子になったことから始まるのだが、奇怪なことにこの宮本家、伊織の実家・田原氏の系譜をまるごと取り込んでしまった形なのである。
 つまり、「新免武蔵守藤原玄信」を名のるところの武蔵であってみれば、あくまでも新免氏をフォーマルな氏〔うじ〕とするもので、前述のようにそれが「藤原」を名のる理由でもあるのだが、宮本家系図は、それを一切払拭し、代りに赤松持貞を始祖とする田原氏を取り込んでしまっている。宮本家系図は、養子伊織の実家田原氏系譜によってその起源を乗っ取られているわけである。これは注目すべき系譜操作であると言わねばならない。
 九州の宮本家子孫は、姓は宮本氏であっても、武蔵よりも養子伊織の出自を回復してしまったのである。九州の小倉宮本家の実質的な始祖は、武蔵ではなく、伊織だったからだけではなく、宮本家系図は武蔵自身をその田原氏の出身としてしまう。すなわち、武蔵は伊織の祖父・甚右衛門家貞の二男、つまり伊織の父・甚兵衛久光の弟、なのである。まさにこのユニークな操作は、他の武蔵史料にはみられないものである。言い換えれば、あまりにも杜撰な捏造物なのである。
 この系譜操作は後世の作為であるがゆえに一貫性を欠く。すなわち、伊織の祖父・甚右衛門家貞の歿年は天正五年(1577)である。しかるに、伊織の「叔父」武蔵の生年を天正十年(1582)とするのである。
 この天正十年武蔵出生とは、宮本家系図以外には見当たらない記事であり、この系図には干支の間違いも散見されるから、粗忽の所産である。そうであるにしても、実父没後五年の出生とは、あからさまに系譜としての一貫性を欠く事実であり、まさしくこの余計な操作こそが、後世の捏造たることを自ら証言してしまっているのである。
 ことほど左様に、事実、現存小倉宮本家系譜類は、武蔵死後二世紀を経た、弘化年間(一八四〇年代)の作製である。したがって史料としては極めて成立の遅いもので、武蔵の出自に関するかぎり史料的価値の低い二級史料なのである。
 我々の期待は、武蔵伊織時代のオリジナル資料の出現にある。そうでなくとも、これに到る途中のもう少し古い段階の宮本家系図が出てくれたら、ということである。もしそれが出れば、いかにしてこんな系譜操作が発生したのか、そのプロセスを探る資料になろうが、残念ながらそれはまだ出ていない。
 ともあれ、史料批判をする能力さえなく、この九州で構成された誤伝にナイーヴに依拠して、武蔵は播州印南郡米田村の産なりとする説が、現在流行している状況である。この珍現象は、しかし、武蔵研究に関するかぎり、嗤って済ませるものではないのである。  Go Back

小倉宮本家系図

*【小倉宮本家系図】(抜粋構成)
武蔵を甚右衛門家貞の二男とする

 赤松刑部大夫 田原中務小輔
 持貞────┬家貞───┐
       │     │
       └政顕   │
 ┌───────────┘
 │      田原右京大夫
 └─某─某──貞光───┐
 ┌───────────┘
 │田原甚右衛門
 └家貞────┐
 ┌──────┘
 │田原甚兵衛 大山茂左衛門
 ├久光───┬吉久
 │     │
 │     ├貞次 宮本伊織
 │     │
 │     ├某 丑之助 早世
 │     │
 │     ├某 小原玄昌法眼
 │     │
 │     │田原庄左衛門
 │     └正久→
 │
 │宮本武蔵  宮本伊織
 └玄信────貞次→[宮本家]


 
 (2)伊織は武藏の養子なれども
 以下、顕彰会本は宮本氏系図批判を展開する。
 まずは、伊織が田原久光の二男で、母は小原上野守源信利の女、慶長十七年(1612)播州印南郡米堕邑の産、寛永三年(1626)十五歳のとき小笠原忠眞に仕えるようになったこと、父の田原久光とは田原左京大夫貞光の孫で、赤松持貞の後裔であり、小原信利は攝津有馬の城主なり、という記事を拾うわけである。
 これは、宮本家系図の記事写しを、池辺義象が見ていることを示す。また、小原信利は攝津有馬の城主なり、という記事についても、同系図の伊織弟の小原玄昌法眼の部分に、
《外祖父、摂州有馬城主小原上野守源信利》
とある記事を見ていることを示す。ところが、小原信利は攝津有馬の城主なり、という宮本家系図のこの部分の記事は、明らかに誤記なのでである。摂津有馬城は天正七年(1579)落城の時、有馬氏の有馬加賀守が城主である。これはどういうことかといえば、同じ宮本家系図の、伊織の父・久光の記事には、その室を、
《室ハ摂州有馬郡小原城主上野守源信利女》
と記す。彼女は、田原甚兵衛久光の妻であり、伊織や小原玄昌の実母である。ここでは、「摂州有馬郡小原城主」と正しく記している。しかるに、池辺義象が、よりによって「摂州有馬城主」という誤記の方を拾ってしまったのは、いささか不審とすべきである。
 ともあれ、ちなみにいえば、この小原城は、摂津有馬郡にあった大原城(現・兵庫県三田市大原)とみなしうる。しかし「小原」は「大原」であろうか。『播磨鑑』には「大原上野守信利」とある。玄昌についても「大原玄昌」である。「大原」と「小原」に互換性があるらしい。
 この大原城の大原氏の方は、早くも文永年間(十三世紀)にその名が見えるが、天正年間、摂津を制覇する荒木村重によって滅ぼされたのである。その荒木氏も織田軍によって播州の別所氏とともに滅亡する。では荒木氏に潰されたはずのこの大原氏が、いついかにして「小原」になるのか、それもまた不明なのである。
 小原氏系図によれば、信利は秀吉の九州攻略に黒田如水麾下で参戦、天正十五年(1587)豊前で戦死。また嗣子の小原信忠は、秀吉の朝鮮出兵に参加して戦死した。小原氏系図によれば、信忠の歿年は文禄元年(1592)である。
 ともあれ、小原信利は摂津有馬の城主なり、という宮本家系図の誤伝を、顕彰会本がその通り反復していることから、いちおう、編述者・池辺はこの系図の正確な写しを手に入れていたことがわかる。  Go Back




*【小倉宮本家系図】
《貞次 宮本伊織
實ハ田原久光二男。母ハ小原上野守源信利女。慶長十七壬子十月廿一日生於播州印南郡米堕邑。寛永三丙寅於播州明石奉仕于忠眞公之御近習[于時十五歳]。寛永八辛未執政職[廿歳]。同九壬申従于公移于豊前小倉。於此采地二千五百石。同十五戊寅二月従于公肥州有馬浦出陣。于時侍大将[此時廿六歳]惣軍奉行兼。傳曰、城攻之日筑州太守黒田忠之侯、於忠眞公御陣營、貞次被召出、此度之働御褒詞之上御指料之御刀[備前宗吉]賜之。同年自肥州御皈陣之上御加恩千五百石。都合四千石ヲ領ス。慶安三庚寅従于公往于肥後州熊本》
 
 (3)二天記を厭ひての作ならむか
 以上のように、顕彰会本の池辺は宮本氏系図の内容を一通り見ている。そこには、宮本武蔵が、田原甚右衛門家貞の子であり、田原久光の弟で、新免無二之助一真の養子となったという記事がある。
玄信 宮本武蔵
  天正十[壬子]年生
  爲新免無二之助一真養子、因号新免、
  後改氏宮本。以善劔術、著於世。
  正保二[乙酉]五月十九日、於肥後國熊本卒。
  享年六十四。法名
  兵法天下無雙赤松末流武藏玄信二天居士
 こうした記事を見て、顕彰会本は過剰に反応するわけである。しかし、これは変だという直観は間違いではないが、これを「二天記を厭ひての作ならむか」というのは過剰な反応と言わざるえない。
 その『二天記』には例の泥鰌伊織の説話がある。武蔵が出羽国で拾った孤児、それが宮本伊織だという話である。顕彰会本はこの泥鰌伊織の支持者のようだから、ことのついでに、資料として一読しておこうか。
 それだけではなく、これは、日本書記のスサノヲや常陸風土記の筑波山富士山伝説を嚆矢とする「宿借り」をめぐる説話論的系列において読めば、なかなか興味深い説話なのである。


小倉宮本家系図
武蔵常陸ヨリ出茶j至ル。出茶m内正法寺原ト云處ヲ通ル。路ノ傍ニ十三四ノ童、泥鰌ヲ小桶ニ入テ持ツ。武藏是ニ向テ、其泥鰌ヲ少シ所望スベキヨシヲ乞フ。易キコトナリト桶ヲ差出ス。武藏云、「吾餘計ニハ無用ナリ。少シ得テ足ヌ」ト手拭ヲ出テ包ントス。童笑テ曰ク、「旅人ノ適々所望セラルヽニ、是何ゾ惜ンヤ。桶トモニ持行キ玉ヘ」ト云テ、不顧シテ去ル。武藏怡然トシテ受之。次日武藏曠野ヲ經過シ、不覺錯テ宿ヲ不得、日既ニ暮ヌ。往クコト三里許リ有リ、後ニ返レバ四五里ナラデハ村坊ニ不遇、如何セント思フニ、遙ニ山陰ニ火ノ光ヒラメク。是家有リト思ヒ、火ヲシルベニ漸クタドリ着キ見レバ、小キ艸屋一軒アリ。内ニ音ヅルレバ、アヤシキ童出デ「如何ナル人ゾ」ト云。武藏、「旅行ノ者ナルガ、不条内ニテ、宿ヲ不求得、既ニ日暮テ如何トモ爲ガタシ。何トゾ一夜ノ宿ヲ借ン」ト云フ。童云、「此ノ狭キ艸屋、殊ニ我一人居リ粮ダニ無ク、客ヲ容ルヽコト不諧」。武藏又云、「旅行ノ事ナレバ。如何ナル體ノ所ニテモ不苦」ト頻リニ請フ。童ツクヅクト見テ、「其元ハ前日泥鰌ヲ乞ヒシ人ニアラズヤ」。武藏驚キ、「ナルホド其者ナリ」ト云。童、「サラバ内へ入玉ヘ」ト。武藏座ニ着ク。童小鍋ノ下ヲ焚キ、柴茶ヲ出サントス。其生資聰明俊俏ナリ。武藏云、「如何ナル人ナレバ、幼年ニテ爰ニ居ルヤ。父母ハ如何ニ」ト。童云、「我等正法寺村ト云處ノ産ナリ。父農業ヲ癈シテ、此ノ野外ニ居住シ、又父母歿シ、一人ノ姉モ此ノ處ヨリ二里外ノ農家ニ嫁セリ」ト云テ、粟飯ノ少シ有シヲ出シ、「夜陰秋風冷シ。客ハ休ミ玉ヘ」トテ、童モ次ノ間ニ入リヌ。武藏不審ナガラモ、ソコニ寝タリ。草蟲聒耳〔耳にかまびすしく〕、白露袖ニ結ブ計ナリ。夜半過比ニ、刃ヲ磨ク音切々トシテ枕ニ響キ、睡覺ヌ。依テ思フ、「扨コソ盗賊ノ餘黨ニテ、曲者ヨ。吾熟睡ヲ待チ、害スルヤ」トテ、不思欠伸ス。時ニ童聞テ、「客ハ何故ニ睡眠セザルヤ」。武藏云、「刃ヲ磨音耳ニ障リテ不快。ウチ覺タリ」。童笑テ云、「客ハ剛強ナル顔ツキニ不似、臆病ナル人哉。假令我等利刀テ以テ殺サントスルモ、此ノ小腕ニテ如何程ノコトヲセンヤ」。武藏云、「サアラバ何故刀ヲ磨クヤ」。童云、「何ヲカ包可申。我父死スルコト昨日也。是ヲ後ノ山亡母ノ墓ノ傍ニ埋メント思ヘドモ、我持行事能ハズ。ツクヅク思フニ、我一荷ノ物ハ擔フニヨリ、此ノ刀ヲ以テ父ノ死體ヲ兩段ニ斬テ一荷トナシ、擔ヒ行埋メン」トナリ。武藏聞テ其言ヲ偉トシ、其ノ志ヲ感ジ太ダ稱歎シ、「吾幸ニ止宿セリ。二人シテ葬ルべシ。憂ルコトナカレ」ト、死體ノ肩ヲ武藏負ヒ、足ヲ童抱テ山ニ行、亡母ノ墓ト一所ニ埋メ、石ヲ立テ誌トシ、家ニ皈レバ夜既ニ明タリ。童懇ニ云、「我孤リ頼母シゲナシ。客ハ暫ク逗留シ玉ヘ」ト。武藏不便〔不憫〕ニ思ヒ、「汝一人此ニ居住センヨリ、吾ニ従テ來ラバ、随分取立べシ」ト。童云、「客ニ從ヒ何方ヘモ参ルベケレドモ、一生奴僕ノ身ナラバ、参ルマジ。武士トナリ、鎗ヲ把リ馬ニ跨ル身トモナラバ、行ベシ。左ナクバ、此ノ地ニ孤居シテ、自由一生ヲ過サンガマサレリ」。武藏云、「吾ニ從ヒ來ラバ、望ノ如クナサン」ト肯フ。童喜ビ面ニ見〔現〕レ、「然ラバ付參ルベシ」ト、彼一腰ヲサシテ進ム。武藏云、「何方ヨリモ故障ノ事ハ無キヤ」。童云、「何方ヨリモ故障ナシ。姉モ有ト云ドモ、久ク音信ヲ絶ス。此事告ルニ不及。又此艸屋我等父子ガ造リタル家ナレバ、何方ヨリモ無構。但シ跡ニ残スモ無益ナリ」ト、火テ放テ焼棄ツ。武藏ニ從テ去行、夫ヨリ國々ヲ繰經囘シ、豊前小倉ニ留ル。後ニ小笠原家ニ仕へ、誠ニ夙志ノ如ク、鎗ヲ把リ馬ニ跨ル身ト成リ、子孫相續シテ、今ニ豐城ノ諸士ノ冠タリ。宮本伊織ト號ス。
伊織父ハ正法寺村ノ者ト雖モ、本衷B最上家ノ浪士ニテ、此ニ住テ自然ト農夫トナレリトモ云ヘリ。伊織武藏ノ養子トナリ、宮本ヲ號ス。又宮本次郎太夫ト云シモ、武藏ノ親族ニテ無二ノ門弟ナリ。當理流稽古有テ、相傳ノ卷物ミエタリ。是ハ豐前ニ於テ忠利公三百石賜リ、召抱ヘラル。宮本家ノコト爰ニ不記。
 以上のような説話で、伝説形式を具備している。そもそも宮本伊織という人は播磨にも泊神社参拝者を妨害する龍の民話として伝説を残し、いわば説話論的人物たる条件を備えていたもののようである。
 なお、顕彰会本が「或書には伊織を以て商家の子とせるもあれど採らず」とある、この「或書」とは、いわゆる『丹治峰均筆記』〔兵法大祖武州玄信公伝来〕のことであろう。
 なお、上記引用の、「宮本次郎太夫」「當理流」その他の記事を含む注記部分については、他の論攷で扱われるであろう。「豐前ニ於テ忠利公三百石賜リ召抱ヘラル」というのは、これは「宮本次郎太夫」のことなのである。ただし武蔵の親族というこの「宮本次郎太夫」の件は確かな話ではない。
 このあたりについては、いづれ本サイトで公開される『武公伝』『二天記』読解研究において詳述されるであろう。
 結局のところ、顕彰会本は、小倉宮本家系図の伊織も、丹治峰均筆記の伊織も却下して、何の根拠もなく『二天記』の泥鰌伊織を採った。ところが、そのために、少なくとも戦前戦後までは、この影響力のある書物が採択した泥鰌伊織譚が、伊織出自の通説でさえあったのである。
 しかし、顕彰会本の云うところ、小倉宮本家系図が伊織を田原久光の二男とするのは、「思ふに、伊織を無名なる浪人の子とせる二天記を厭ひての作ならむか」とは、まったく非道な話である。たしかに、武蔵を田原家貞二男にしてしまうのは、宮本家系図の珍新説というべきだが、伊織が田原甚兵衛久光の子だということは、地元『播磨鑑』の記事が傍証している事実である。
 また、承応二年(1653)、播磨印南郡の泊神社再建にあたり、伊織がその故郷の氏宮の棟札に、祖父が田原家貞、父が田原久光だということを書いたとしても、それは「二天記を厭ひての作」ではない。『二天記』はそれより百数十年後の作だから、伊織は、そこに記された自分に関する荒唐無稽な珍説を見ることはできない。
 ようするに、無知蒙昧というほかないのだが、顕彰会本の著者にとって、宮本家系図において指弾すべき最大の問題は、武蔵は田原家貞の子だと書いていることだったのである。つまり、それでは、武蔵自身が五輪書に記す「生国播磨」になってしまうからである。
 かくして、爾後百年にわたる珍事の幕開けとなる。顕彰会本のこの路線は継承されたばかりか、妄説の度合いは深まった。周知の如く、やがて、伊織は出羽で拾われた孤児なのに、播磨の武家の子だと出自を詐称したとか、「生国播磨」と書いた五輪書は武蔵の作ではないとか、そんな具合に、美作説論者は倒錯の行き着く果てまで行ってしまったのである。  Go Back










泊神社棟札 承応二年(1653)

*【泊神社棟札】
《余之祖先、人王六十二代自村上天皇第七王子具平親王流傳而出赤松氏。迨高祖刑部大夫持貞、時運不振。故避其顯氏、改稱田原、居于播州印南郡河南庄米堕邑。子孫世々産于此焉。曽祖曰左京太夫貞光、祖考曰家貞、先考曰久光。自貞光来則相継、屬于小寺其甲之麾下。故於筑前子孫見存于今焉。有作州之顕氏神免者。天正之間、無嗣而卒于筑前秋月城。受遺承家曰武藏掾玄信、後改氏宮本。亦無子而以余為義子。故余今稱其氏》



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