(5)無二齋は田原久光の子
楠正位のいう「余が見た傳書」にはどんなことが書いてあったか、その記事内容如何――というわけで、以下順次検分していこう。
まずは、「無二齋は村上源氏赤松持貞の裔田原久光の子」だとある。これは、最初から、まったく驚愕の内容である。
ここで「田原久光」とあるのは、泊神社棟札や『播磨鑑』など播磨史料では、田原甚兵衛久光のことであり、宮本伊織の父である。そうなると、無二斎つまり新免無二は、宮本伊織と兄弟であり、しかも武蔵は無二斎の子らしいから、武蔵は伊織の甥になってしまう。世代順序が間違っているのである。
京都や播州三木にある墓碑の歿年・年齢から計算すれば、田原甚兵衛久光の生年は天正六年(1578)である。ようするに、生年からすれば新免無二の子の世代であって、世代がまったく逆さまである。
「余が見た傳書」の話は、のっけから大混乱である。ただし、これも、遠い九州の、たぶん筑前の伝説とすれば、致し方がないことではある。というのも、同じ筑前系伝説による史料に、同類の世代混乱があるからだ。
つまり、それは筑前新免氏系譜の記事である。本サイト[資料篇]筑前新免氏系譜のページを参照されるとよろしいが、その筑前新免氏系譜によれば、――則種(作州吉野郡竹山城主・新免伊賀守宗貫)の家臣・宮本無二之丞は、十文字の鎗術の名人、赤田ヵ城において、無二之丞一人で敵七人と対戦し、十文字の鎗で勝利を得て、この功業により則種から新免の姓氏を許されたと云い伝えている。無二之丞の息子・新免伊織は、細川越中守忠興公に仕えた。その子・武蔵は剣術で有名になった。それによって武蔵流の剣術が世間に伝来した――という話である。
こちらの話では、武蔵は伊織の息子で、世代順序は、
宮本無二之丞 → 新免伊織 → 新免武蔵
という次第である。楠正位の「余が見た傳書」では、これが、
田原久光 → 宮本無二之助 → 宮本武蔵
という順序であり、宮本伊織は田原久光の子であるなら、武蔵の養子・伊織は武蔵の叔父だということになる。それよりも、宮本無二之助=無二斎が足利義昭の命で吉岡憲法と対戦したとあっては、これは田原久光出生(天正六年生れ)以前のことである。まさしくこれは、父母未生以前のことである。
また「余が見た傳書」では、武蔵は田原久光の孫になるから、天正六年生れの田原久光が七歳のとき、つまり天正十二年(1584)に、この孫が生れたということになる。文字通り、大混乱なのである。
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(6)初め宮本無二之助と稱し後新免氏
このあたりから、「余が見た傳書」の馬脚が露顕してくる。
まず、新免無二を「宮本無二之助」とするのは、宮本武蔵の父親なら「宮本」姓だろうという憶測から生じたもので、武蔵が無二の実子ではなく、義子だという事実を知らない。しかも、新免無二を「宮本無二之助」とするのは、九州ローカルの伝説の特徴であることは、本サイト所収の諸論攷で示されていることであるが、そのことからすれば、楠正位の「余が見た傳書」の所在は筑前黒田家周辺文書だろうと、見当がつく。
武蔵は新免無二の十手の家を相続して、新免氏を名のるようになったが、泊神社棟札によれば、宮本姓を名のるようになったのは、武蔵の代からである。新免無二を宮本姓とする説は、それじたい二次的な伝説の指標に他ならない。したがって、「余が見た傳書」の説は、新免と宮本の順序を倒錯した謬説である。いいかえれば、
宮本無二之助 → 新免無二斎
とするのは、新免氏に関する知識がないところから、無二が称した「新免」の扱いを誤った結果である。新免氏に関する知識がないという点も、九州ローカルな伝説の特徴である。伝説そのものが通った変形プロセスは、
新免無二 → 宮本無二之助
という順序であるが、伝説のポジションからすれば、最初は宮本無二之助で、後に新免無二としなければならないのである。これが伝説の遡及的構成における倒錯の形態である。
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(7)住所は播磨國揖東郡宮本村
これはまた、意外なところで「揖東郡宮本村」が出てくる。
新免無二斎の住所は、なんと播州の揖東郡宮本村だというのである。しかし、こういう話が出てくるプロセスは、だいたい見当がつくはずである。
つまり、子の生地はおおむね父親の住所である。ところで、武蔵は生国播磨、しかも揖東郡宮本村の産である――こういう情報から、無二斎の住所は播磨国揖東郡宮本村となったものである。したがって、
武蔵の産地 → 無二斎の住所
という移行が、伝説に内在的なプロセスである。これは、武蔵の姓氏が「宮本」なら、父・無二も「宮本」無二であるはずだ、という憶断と同軌である。しかし、それは無二が武蔵の実父であった場合のこと、実際には無二は実父ではないから、無二を宮本姓とすることも、また、その住所を武蔵産地に同じとすることもできない。
以上のことを見極めたうえで、次の点を確認しておく必要がある。
1) 楠正位の「余が見た傳書」の背景にある伝説は、武蔵の産地は播磨国揖東郡宮本村だという情報を織り込んでいること。
2) 武蔵の産地は播磨国揖東郡宮本村だという情報は、播磨地方史料である平野庸脩『播磨鑑』によって確認しうること。
3) しかし、楠正位の「余が見た傳書」の伝説は、正確な情報をもたず、武蔵が播磨生れなら、無二斎(実父と誤認)も播磨生れとする憶測の線上で展開したらしいこと。
4) ただし、新免氏傍系は西播磨へ流入しているから、実際には新免無二も播磨住人、あるいは播磨生れである可能性は否定できないこと。
5) 楠正位の「余が見た傳書」の伝説は、無二斎が田原久光の子であるとして、宮本伊織実家・田原氏の情報を取込んでいるが、その取込みにおいて混乱があり、遠い九州(ここでは筑前黒田家中周辺)で展開した伝説であるらしいこと。
さて、一応これら諸点を確認しておくとして、楠正位は、この「余が見た傳書」の記事により、新免無二斎も武蔵も播磨生れとする説を示したのである。これが、顕彰会本『宮本武蔵』の武蔵産地美作説と真っ向から対立するものであることは明らかである。楠にとって池辺の説は納得できないものであったから、この長期連載講話を開始したのである。
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(8)三木の城主別所小三郎長治に屬して居た
この別所長治(1555〜80)の三木別所氏は、戦国末期、東播磨に大きな勢力を張った家である。「播磨東八郡之守護」(天正記)ということからすれば二十万石の戦国大名である。しかし秀吉の播磨制圧に最後まで抵抗し、天正八年(1580)三木城落城のさい切腹した。
ところで、無二斎が揖東郡宮本村住の武士ならば、別所長治に属したというのは誤りである。その住所からすれば、龍野城の赤松広秀麾下でなければならない。揖東郡は西播磨、三木は東播磨、場所がまったく異なる。「揖東郡宮本村」という情報に余計な目配りをするから、馬脚を顕してしまうのである。こういう矛盾に、楠正位の「余が見た傳書」は気づいていないし、またこれを矛盾とするほどの情報もないようである。
しかし、こんな矛盾を冒してしまうのにも、理由がないわけでもない。というのも、楠正位の「余が見た傳書」は、無二斎を田原久光の子とするからである。『播磨鑑』によれば、宮本伊織の実父・田原甚兵衛久光は「元三木侍」である。つまり、田原氏は三木城主・別所氏の麾下にあった。とすれば、無二斎を田原久光の子とする「余が見た傳書」の伝説が、無二斎を別所長治に属したとするのも、このかぎりにおいては筋が通っているわけである。ただし、世代が混乱しているのは、回復不可能な瑕疵であるが。
しかしながら、ようするに、これは宮本伊織の実家・田原氏の伝承が混入して発生した九州の伝説である。小倉宮本家伝書では、新免無二の痕跡は跡形もなく抹消されているが、楠正位の「余が見た傳書」を伝説異本と見れば、九州における伝説の分岐経路が推測しうるであろう。
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京都深草の田原家墓所 深草山宝塔寺 京都市伏見区 伊織と兄弟が建立した両親墓(中央)
*【宝塔寺墓誌・伊織の父母】
印南郡河南庄 田原久光 寛永十六年己卯十二月十九日
慈父 正法院道円日受霊 六十二歳
小原城主源信利女 承応元年壬辰十二月二十八日
慈母 理応院妙感日正霊 六十六歳
孝子宮本氏貞次等敬建
*【筑前新免氏系譜】
《則種ノ家臣宮本無二之丞ハ、十文字ノ鎗術ヲ胆練セリ。於赤田ヵ城、無二之丞一人ニテ敵七人ニ出合ヒ、十文字ノ鎗ヲ以勝利ヲ得タリ。依之則種ヨリ新免ノ氏ヲ許スト云伝フ。無二之丞男・新免伊織ハ、細川越中守忠興公ニ仕フ。其子武蔵ハ、劔術ニ名ヲ得タリ。是ヨリ武蔵流ノ劔術、世ニ伝来セリ》
*【泊神社棟札】
《曽祖、左京太夫貞光と曰す、祖考、家貞と曰す、先考、久光と曰す。貞光より来りて、則ち相継て小寺其甲の麾下に属す。故に筑前に於て子孫、今に存るを見る。作州の顕氏に神免なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを、武藏掾玄信と曰す、後に宮本と氏を改む。亦た無子にして、以て余、義子と為る。故に余、今其の氏を稱す》(原文漢文)

播磨鑑 平野庸脩自筆題箋

播磨武蔵関係地図
*【播磨鑑】
《米田村に宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す》
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