宮本武蔵 資料篇
関連史料・文献テクストと解題・評注

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 Q&A   史実にあらず   出生地論争   美作説に根拠なし   播磨説 1 米田村   播磨説 2 宮本村 

[資 料] 水南老人講話 『宮本武蔵』 Go back to:  資料篇目次 


京都岡崎公園

武徳殿 明治32年完成
京都市左京区聖護院円頓美町
 京都岡崎の平安神宮の西隣、疎水に近い一角に、寺社いづれとも形容のつかない意匠の和風建築がある。近代の所産ながら明治の遺跡として重文指定を受けている建物である。これは「武徳殿」という名、大日本武徳会の演武場施設として、明治三十二年(1899)に竣工したものである。
 そもそも大日本武徳会は、日清戦争の勝利に酔う尚武の気運の中、明治二十八年(1895)に発足した民間団体で、日本に伝統的な武道を再興し、武術教育によって青少年の精神を鍛錬せんとする、京都に起った運動である。あれほど欧米崇拝に傾斜した明治の精神は、日清戦争勝利を契機としてナショナリズムへ志向を反転するのだが、まさにその徴候(symptom)の一つが京都の大日本武徳会の発足であった。
 大日本武徳会は、発起人には京都府知事以下、京都の名士が名を連ねているが、その名の通り全国組織をめざし、総裁に小松宮彰仁親王を戴いた。主たる事業として演武場(武徳殿)の建設、武徳祭と演武大会の開催、武芸講習、武器収集、武芸史出版、機関誌(武徳誌)刊行などを掲げ、広く全国に会員を募り、その運営費用は会費と有志の寄付でまかなうものとした。ようするに民間から勃興した武道再興運動である。


楠 正位



南禅寺正的院
京都市左京区南禅寺福地町




武徳會誌 第1号
明治43年1月
 この大日本武徳会の発起人に名を連ね、団体発足後は役員(常議員)として深く関与した者の一人に、楠正位(1844〜1918)がいる。彼は三河の碧海郡高岡村の生れ、尾張藩士であった。幕末のテロリズムの時代には白刃の下をくぐることもあったらしい。廃藩置県による尾張藩の整理にあたって事務方として働いた。その後、三十歳のとき司法省に任官して、以後判事・検事として各地に転勤し法曹界で生きた人である。大日本武徳会の発足時には、京都地方裁判所検事正であった。のち同裁判所所長となり、明治三十三年の退官時には(形だけ)大審院判事の肩書になっている。
 楠は退官すると官舎を出て、南禅寺正的院(現・京都市左京区南禅寺福地町)に移り住み、大日本武徳会本部の活動に老後を献げることになる。武術教員養成所の監督をつとめるかたわら、「水南塾」という私塾を開いて講義をするようになる。周知の『武士道』の著者・新渡戸稲造は、一高校長になる前、京都帝大教授の時期があり、そのころ大日本武徳会の常議員に就任している。同じ時期、楠も常議員で活発に大日本武徳会の活動をしていた。
 楠正位は和漢の造詣学識があり、武道家というよりも啓蒙家と謂うべく、その活動は講義や執筆にあった。大日本武徳会は明治三十九年以来、機関誌『武徳誌』を毎月発行していた。楠も同誌に「武芸講話」(のち改題して「武術系統講話」)を連載した。『武徳誌』はいったん廃刊され、明治四十三年から新しく『武徳会誌』と名を改めて再出発した。楠はこの機関誌の編集監督になり、評議員には内藤虎次郎(湖南)らが名を連ねる陣容である。
 さて、この『武徳会誌』の第一号から第二十号まで、二十回にわたって「講話・宮本武蔵」が連載された。筆者は「水南老人」、つまり水南塾の主、楠正位である。
 この連載講話をここで採り上げるのは、武蔵研究史において無視すべからざる座標を有するがゆえである。すなわち、
(1) 「余が見た伝書」という形態だが、この紹介により、断片情報ながら、現在行方不明の文献の記事内容を推測しうること。
(2) 前年出現して世間の武蔵観に大きな影響を与えるようになった、宮本武蔵遺蹟顕彰会版『宮本武蔵』(明治四十二年)に対する異説を提示したこと。
(3) 武道家相手の講話であり、見切りの話など技術解説を含む具体的な視点があること、あるいは仕官に挫折した武蔵というイメージをはじめて提起したこと。
(4) ここで提示された観点は、大正・昭和を通じて、以後の武蔵論あるいは武蔵小説に多大な影響を与えたこと。
 今日まで生産された武蔵論または武蔵小説は、この水南老人講話に依拠するものが少なくない。しかも、それらが二次的、三次的産物なので、著者も意識もせずに水南老人講話の所説を受け売りしているケースも多い。したがって、それら諸説の淵源たるこの講話にまで遡行し、その所説を解析し、そこに含まれる誤謬を指摘し、その史料としての評価を明確にしておく必要がある。
 ここでは本連載講話から武蔵関連伝記部分を抽出収録し、同時に評注を加えて資料とするものである。原文は明治期の文書で、例によって句読点処理はほとんどないが、提示テクストは、読者のために適宜句読点を挿入してある。それをお断りしておく。


  講話 宮本武藏(一)

 余の武術系統講話は、久く武徳誌に連載せられたが、客冬十二月を以て柳生宗冬の小傳を畢つたから、先づ一と憩みと云ふ處だが、武徳誌の廃刊に引續いて本部より會誌を發行することゝなつては、責任上まさか休息しても居られぬので(1)、曾て武術教員養成所で講演した宮本武藏の小傳をと思つたが、熟く考へると、武藏の事跡は他の武術家よりは比較的能く世に傳はつて居る。就中二天記の如きは最明確である(2)。然るに池邊義象君は、熊本に在る宮本武藏遺跡顯彰會の嘱託を受けて、宮本武藏と題する一書を編輯せられ、客年既に發行となつた。其書を閲讀するに、二天記と二天記の異本とを考覈〔かうかく〕して夫を経〔たていと〕とし、顯彰會の蒐集に係る材料と同君の閲覧せられた諸書とを緯〔よこいと〕として編輯せられた者と思はれ、中々精密に行届て、武藏の傳に於て殆ど遺憾なしと言つてよい。しかし其材料の大半は九州地方に出た者で、武藏が特殊の愛顧を受けた本多家及同家の家臣で武藏の教を受けた者の傳書杯は、餘り採録せられて居らぬやうに見江る。隨て滄海の遺珠がないにも限らぬ(3)。余は黒田家・小笠原家・本多家・有馬家等、武藏に關係ある諸家の傳書遺聞等を調査して見たいと思ふが、筆硯多忙の爲め其遑がない。只以前から拔書して置た者や、傳聞中確賓と信じて居る者が、幾詐かある(4)。因て武藏の傳全部を講話する重複を避け、武藏傳(池邊君編輯以下同じ)に就て、批評すべき點ある者は批評する、異傳ある者は考異とする、全く採擇せられなかつた者は拾遺として、お話することに致しませう。是は余が多きに誇る譯ではない。武藏の如きは、武者修行其他の爲め足跡殆ど六十餘州に遍しと云ふ程であつたのだから、余が講話を畢る頃には又々隠れて居る事跡が諸方より顯れて來るであらうと思はれる(5)

 
  【評 注】

 (1)武徳誌の廃刊に引續いて本部より會誌を發行
 上述のように、大日本武徳会の月刊機関誌『武徳誌』(明治三十九年六月創刊)があり、楠正位はそれに「武芸講話」(のち改題して「武術系統講話」)を連載した。『武徳誌』は明治四十二年十二月でいったん廃刊され、明治四十三年(1910)一月から新しく『武徳会誌』と名を改めて再出発した。楠はこの機関誌の編集監督になり、また水南老人の筆名で、講話「宮本武蔵」を連載するのである。ここは連載にあたり、そのあたりのことを前説として語っているわけである。   Go Back
 
 (2)武術教員養成所
 武術教員養成所は、大日本武徳会の教育機関である。その開設は明治三十八年(1905)十月で、武術の術科と一般教養として国語・漢文・地理・歴史・数学・英語などの学科を教え、修業期間は一年ないし三年である。しかし明治四十四年(1911)九月には廃止された。修業生の顔ぶれをみると、その後の剣道界の指導者たちの名があり、それなりの役割を果たしている。しかしまた、思うほど学生は集まらず、目的に適わなかったのかもしれない。
 楠正位は、武術教員養成所で指導に当たった。養成部監督の彼が担当したのは、学科の方で、武術史を教えた。その中には武蔵に関する講義もあったようだ。
 ところで、他の有名剣豪の事蹟はほとんどが茫漠として、明確な伝記すらない。それに対して、巷間英雄になってしまった武蔵の伝記となると、かなり詳しいものがすでに知られている。たとえば、肥後の『二天記』(安永五年・1776)などがそれである。
 しかも、本講話の前年、明治四十二年には、まったく新しい武蔵伝記が登場してきたのである。   Go Back
 
 (3)池邊義象君は宮本武藏遺跡顯彰會の嘱託を受けて
 肥後熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会は、明治三十九年(1906)県内有志によって結成され、翌年には武蔵の遺墨遺品の展覧会を開催、さらに明治四十四年(1911)には熊本近郊龍田村弓削の武蔵塚を整備するなど顕彰活動を行なった。なかでも明治四十二年(1909)、宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』を刊行したことは最大の意義ある事業であった。本書は、『東作誌』(あるいはむしろ、矢吹正巳の所説)に依拠しつつ、武蔵を美作産とする新説であるが、当事者の思惑を超えた大きな影響を世間に与えたのである。
 池辺義象〔よしかた〕(1861〜1923)はその著者で、当時京都帝大教授であった。同じ京都に本部を置く武徳会の活動をしていた楠正位は、池辺義象をよく知っていたであろう。
 明らかに楠正位のこの講話は、前年刊行された顕彰会本『宮本武蔵』に対抗して連載開始された。楠のスタンスは、池辺の武蔵伝記の功績は認めるものの、滄海の遺珠がないにも限らぬと、やや批判的である。ようするに、顕彰会本『宮本武蔵』の材料の大半は、九州地方に出たもので――というか、特殊肥後的なもので――、武蔵が播磨で親近した本多家や、同家家臣で武蔵の教えを受けた者の伝書などは、採録されていないように見える、というわけである。
 別の「武蔵」を、楠正位はイメージしているのである。   Go Back
 
 (4)武藏に關係ある諸家の傳書遺聞等
 別の「武蔵」を、楠正位はイメージしている。では、そうした楠正位の知見情報の範囲に入っていた伝書とはいかなるものか。
 楠は、黒田家・小笠原家・本多家・有馬家等、武蔵に関係ある諸家の伝書遺聞等を調査してみたいと思う、というから、これら諸家に武蔵関係資料があることは把握しているらしい。
 黒田家とは九州筑前で大大名になった黒田家で、これは始祖・如水はじめ重臣家臣らが多く播州出身ということもあって、武蔵所縁の武士団である。小笠原家は、忠政(忠真)が明石時代以来、武蔵と関係があり、とくに家臣・田原貞次(宮本伊織)が武蔵の養子になったという深い縁がある。本多家の方は、播州姫路と龍野に城主として入部したころから、武蔵と縁があり、また武蔵の養子・三木之助が本多忠政の嫡子・忠刻に仕え、忠刻死亡に際し殉死した、という縁がある。有馬の方は、島原乱の折の武蔵書簡が現存しており、有馬直純と交友のあったことが知れるが、その他に資料があったものか。いづれにしても楠が列挙しているのは、これら諸家に武蔵関係資料がありと把握していたからであり、またその一部を見ていたからである。
 新たに入手したものではないが、以前から拔書しておいたもの、伝聞中確実と彼が信じているものが、いくらかある、という。これによって、楠正位は顕彰会本とは違うソースをもっていると云えたのである。しかしながら、彼が閲覧しえた資料の肝腎なものは明らかではない。この点は追って記すであろう。   Go Back
 
 (5)批評すべき點ある者は批評する
 「武蔵伝」という書物があるのではない。この講話の中で「武蔵伝」とあるのは、宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』所収の武蔵伝記のことである。
 「宮本武蔵」というタイトルを有する書物は多い。それで後年、同書は「顕彰会本」と略称されようになるが、水南老人講話は同書刊行の翌年のことゆえ、まだそんな略称はなく、これを「武蔵伝」としたのである。我々は慣例により「顕彰会本」として扱う。
 楠正位のこの講話は、前年刊行された顕彰会本『宮本武蔵』に対抗して連載開始されたのである。楠正位は、同書について「批評すべき點ある者は批評する、異傳ある者は考異とする、全く採擇せられなかつた者は拾遺としてお話することに致しませう」と語る。池辺義象らが知らぬ資料も知っているとの自負から、こういう話になる。
 しかも当時は、武蔵関連資料が発見される可能性が大いにあった。それで、「余が講話を畢る頃には又々隠れて居る事跡が諸方より顯れて來るであらうと思はれる」という、未知の資料発掘に期待を寄せもしたのである。   Go Back





水南老人講話 宮本武蔵
連載第1回冒頭
武徳會誌第1号 明治43年1月











顕彰会本『宮本武藏』
金港堂 明治42年


  講話 宮本武藏(一)

 武藏傳(1)には、武藏の祖父平田將監が、美作國英田郡(舊吉野郡)竹山城主新免〔にいみ〕伊賀守宗貫に仕へ、下莊村に住し又新免氏を與へられたので、其子武仁も新免を名乘つた、新免家は浮田の部下に屬した者である、武仁の無二齋は後に同郡讃甘村大字宮本に住し武藏も此地に生れた者としてある(2)。其考證は平田氏の系譜等に依り綿密に出來て居て、疑を容れる餘地はないやうであるが、只無二齋及武藏が黒田家との關係を叙すること、稍簡疎なるの憾がある(3)
 余が見た傳書には(4)、無二齋は村上源氏赤松持貞の裔田原久光の子で(5)、初め宮本無二之助と稱し後新免氏を繼で無二齋と稱した(6)、住所は播磨國揖東郡宮本村で(7)三木の城主別所小三郎長治に屬して居たが(8)、十手の名人で二刀流を始めた(9)、別所家滅亡の後別所の浪人は多く黒田家に仕へた、無二齋の親族田原六之進、新免伊賀守、山崎茂兵衛等皆黒田家に仕へた(10)、無二齋は黒田官兵衛孝高の弟兵庫助利高の所望に依り事あるときは利高に與力する事になつた、是より無二齋は黒田家に出入した(11)、其重臣の舟曳刑部とは最懇意であつた事や、野口佐助・久野四郎兵衛抔、多數の人が無二齋の教を受けた事が書てある(12)
 
  【評 注】

 (1)武藏傳
 上述のように、「武蔵伝」という書物があるのではない。この「武蔵伝」というのは、顕彰会本『宮本武蔵』の武蔵伝記を指す。  Go Back
 
 (2)武藏の祖父平田將監が…
 この部分は、顕彰会本の所説の要約である。武蔵の祖父・平田将監が美作国吉野郡の竹山城主新免伊賀守宗貫に仕えて、同郡下荘村に住し、新免氏を与えられたので、平田将監の子・武仁も新免を名のったこと。新免家は浮田(宇喜多)の麾下に属したこと。平田武仁は(新免)無二斎であり、後に同郡讃甘村宮本に住し、武蔵もこの地に生れた者とする云々。
 もとより、本サイト[資料篇]の諸論文を参照してもらえば、判明することだが、顕彰会本の武蔵伝記は誤謬と憶測の所産である。
 この短い要約中でさえ、決定的な瑕疵がみられる。たとえば、平田将監が竹山城主新免伊賀守宗貫に仕えたというが、平田将監は新免宗貫が生まれる前に死去しているから、新免宗貫は将監の亡霊以外に召し抱えようがない。それに第一、平田将監はその子・平田武仁が生まれる二十年以上も前に歿している。そんな克服しがたい矛盾を有する平田家系図に依拠したのが、武蔵産地美作説である。
 我々が確認しうるのは、十九世紀初め、正木輝雄が吉野郡諸村を廻って民間伝承を収集したとき、武蔵が平田武仁という人物の子としてこの地に生まれたという「伝説」があった、という事実にすぎない。  Go Back
 
 (3)無二齋及武藏が黒田家との關係
 講話の主・水南老人は、やんわりと顕彰会本『宮本武蔵』の伝記を批判している。これは同書の著者が、彼の知人であり、しかも京都帝大教授の池辺義象であったこともある。当時の帝大教授の権威たるや、笑ってしまうほど尊大なものであった。
 それともう一つ、同書が近代的な評伝の実証的体裁をとっていることである。宮本武蔵はすでに講談や浄瑠璃といった大衆芸能のなかで有名だった。そういう通俗武蔵像の「偽を正して眞を顕はさむ」として、その実像を確立し、虚構の武蔵ではなく史実の武蔵を発見しようとする、そういう身振りが新しいものだった。その点を楠も認めざるえない。
 もちろん彼は、池辺義象が検分しえた美作関係資料を見ていない。刊本の『宮本武蔵』を読んだだけである。したがって、その武蔵産地美作説を批判する材料をもたない。また美作地方史の知識がないから、「明應文龜の頃、平田將監といふものあり」という記事と、平田将監が新免宗貫に仕えたという記事の、露呈した矛盾を裁断する決定的な手段ももたない。
 そういう情報制約があるので、楠正位は、「無二斎と武蔵が黒田家と関係があった」という事実が疎かになっているではないか、としか云えないのである。
 もう一点注意してよいのは、楠が、先には本多家関連資料に言及し、ここでは黒田家関連資料に言及していることである。どうやら、彼が把握しているのは、本多家と黒田家の周辺資料のようである。  Go Back

  (4)余が見た傳書には
 ここで「余が見た傳書」が出てきた。待ってました、というところである。というのも、楠正位が実見したという伝書は、少なくとも明治末には現存していたらしいが、現在不明で確認できない武蔵資料断片であり、それゆえ我々はこれを楠正位からの伝聞としてのみ、在らしめることができるからである。
 そこでこの「余が見た傳書」に対する我々のスタンスは、次の二点に関わる。すなわち、(1)これが何を語っているか、その記事内容の確定、(2)その記事内容の史料としての評価、である。この二つの作業を通じて、楠正位が依拠した「余が見た傳書」を、武蔵研究において位置づけすることができる。
 言うまでもないが、大正・昭和を通じて従来は、この楠正位の「余が見た傳書」と彼の所説について、無批判に引用する例が多かった。しかしながら、これを放置しておけば、いつまでたっても武蔵研究の進展に滞りがある。したがって、楠正位が依拠した「余が見た傳書」に対し、史料としての評価をきちんとしておく必要がある。  Go Back




*【顕彰会本・宮本武蔵】
傳ふる處に據れば武藏はもと播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流、平田氏に出づ、明應文龜の頃、平田將監といふものあり、劔道及十手の術に通じ、美作に來り吉野郡竹山城主新免氏に仕へ、下荘村に居住す、新免伊賀守宗貫厚くこれを用ゐ、文武の師範とし、遂にその氏を與ふ、子武仁父の跡を嗣ぎ、新免及平田を稱し又平尾と稱し、無二齋と號す、殊に十手の術を極め、性頗る剛勇なり、宗貫また厚くこれを用ゐたり、(平田氏系圖)
 武仁の名漸々聞ゆると共に、京都将軍義昭公、ことにこれを召し、その剣道の師範役たる吉岡憲法と勝負を決せしむ、互に三度を限らせしが、吉岡一度利を獲、武仁兩度勝を制せり、公これを賞して、武仁に日下無双兵術者の號を賜ひぬ、これよりその名大に顯はれたり(二天記異本、誌碑文)
 初め新免家の家老に、本位田外記之助と云ふものあり、宗貫これを悪み、窃に無二齋に囑して殺さしめむとす、〔中略・この部分『東作誌』による記事引用〕無二齋その首を打取りぬ、宗貫大にその功を賞したれども、是より後無二齋は反て一家中の妬を受け家に籠居せりといふ、かくて後無二齋は同郡宮本村に移住し、此の地に歿せり、武藏は即ち當時武勇の聞ゑ高かりしこの無二齋の子なり、その剛勇なる基く所あるを知るべし(摘取新免家侍覺書、東作誌、及碑文)。

  (5)無二齋は田原久光の子
 楠正位のいう「余が見た傳書」にはどんなことが書いてあったか、その記事内容如何――というわけで、以下順次検分していこう。
 まずは、「無二齋は村上源氏赤松持貞の裔田原久光の子」だとある。これは、最初から、まったく驚愕の内容である。
 ここで「田原久光」とあるのは、泊神社棟札や『播磨鑑』など播磨史料では、田原甚兵衛久光のことであり、宮本伊織の父である。そうなると、無二斎つまり新免無二は、宮本伊織と兄弟であり、しかも武蔵は無二斎の子らしいから、武蔵は伊織の甥になってしまう。世代順序が間違っているのである。
 京都や播州三木にある墓碑の歿年・年齢から計算すれば、田原甚兵衛久光の生年は天正六年(1578)である。ようするに、生年からすれば新免無二の子の世代であって、世代がまったく逆さまである。
 「余が見た傳書」の話は、のっけから大混乱である。ただし、これも、遠い九州の、たぶん筑前の伝説とすれば、致し方がないことではある。というのも、同じ筑前系伝説による史料に、同類の世代混乱があるからだ。
 つまり、それは筑前新免氏系譜の記事である。本サイト[資料篇]筑前新免氏系譜のページを参照されるとよろしいが、その筑前新免氏系譜によれば、――則種(作州吉野郡竹山城主・新免伊賀守宗貫)の家臣・宮本無二之丞は、十文字の鎗術の名人、赤田ヵ城において、無二之丞一人で敵七人と対戦し、十文字の鎗で勝利を得て、この功業により則種から新免の姓氏を許されたと云い伝えている。無二之丞の息子・新免伊織は、細川越中守忠興公に仕えた。その子・武蔵は剣術で有名になった。それによって武蔵流の剣術が世間に伝来した――という話である。
 こちらの話では、武蔵は伊織の息子で、世代順序は、
     宮本無二之丞 → 新免伊織 → 新免武蔵
という次第である。楠正位の「余が見た傳書」では、これが、
     田原久光 → 宮本無二之助 → 宮本武蔵
という順序であり、宮本伊織は田原久光の子であるなら、武蔵の養子・伊織は武蔵の叔父だということになる。それよりも、宮本無二之助=無二斎が足利義昭の命で吉岡憲法と対戦したとあっては、これは田原久光出生(天正六年生れ)以前のことである。まさしくこれは、父母未生以前のことである。
 また「余が見た傳書」では、武蔵は田原久光の孫になるから、天正六年生れの田原久光が七歳のとき、つまり天正十二年(1584)に、この孫が生れたということになる。文字通り、大混乱なのである。  Go Back
 
 (6)初め宮本無二之助と稱し後新免氏
 このあたりから、「余が見た傳書」の馬脚が露顕してくる。
 まず、新免無二を「宮本無二之助」とするのは、宮本武蔵の父親なら「宮本」姓だろうという憶測から生じたもので、武蔵が無二の実子ではなく、義子だという事実を知らない。しかも、新免無二を「宮本無二之助」とするのは、九州ローカルの伝説の特徴であることは、本サイト所収の諸論攷で示されていることであるが、そのことからすれば、楠正位の「余が見た傳書」の所在は筑前黒田家周辺文書だろうと、見当がつく。
 武蔵は新免無二の十手の家を相続して、新免氏を名のるようになったが、泊神社棟札によれば、宮本姓を名のるようになったのは、武蔵の代からである。新免無二を宮本姓とする説は、それじたい二次的な伝説の指標に他ならない。したがって、「余が見た傳書」の説は、新免と宮本の順序を倒錯した謬説である。いいかえれば、
    宮本無二之助 → 新免無二斎
とするのは、新免氏に関する知識がないところから、無二が称した「新免」の扱いを誤った結果である。新免氏に関する知識がないという点も、九州ローカルな伝説の特徴である。伝説そのものが通った変形プロセスは、
    新免無二 → 宮本無二之助
という順序であるが、伝説のポジションからすれば、最初は宮本無二之助で、後に新免無二としなければならないのである。これが伝説の遡及的構成における倒錯の形態である。  Go Back
 
 (7)住所は播磨國揖東郡宮本村
 これはまた、意外なところで「揖東郡宮本村」が出てくる。
 新免無二斎の住所は、なんと播州の揖東郡宮本村だというのである。しかし、こういう話が出てくるプロセスは、だいたい見当がつくはずである。
 つまり、子の生地はおおむね父親の住所である。ところで、武蔵は生国播磨、しかも揖東郡宮本村の産である――こういう情報から、無二斎の住所は播磨国揖東郡宮本村となったものである。したがって、
    武蔵の産地 → 無二斎の住所
という移行が、伝説に内在的なプロセスである。これは、武蔵の姓氏が「宮本」なら、父・無二も「宮本」無二であるはずだ、という憶断と同軌である。しかし、それは無二が武蔵の実父であった場合のこと、実際には無二は実父ではないから、無二を宮本姓とすることも、また、その住所を武蔵産地に同じとすることもできない。
 以上のことを見極めたうえで、次の点を確認しておく必要がある。
1) 楠正位の「余が見た傳書」の背景にある伝説は、武蔵の産地は播磨国揖東郡宮本村だという情報を織り込んでいること。
2) 武蔵の産地は播磨国揖東郡宮本村だという情報は、播磨地方史料である平野庸脩『播磨鑑』によって確認しうること。
3) しかし、楠正位の「余が見た傳書」の伝説は、正確な情報をもたず、武蔵が播磨生れなら、無二斎(実父と誤認)も播磨生れとする憶測の線上で展開したらしいこと。
4) ただし、新免氏傍系は西播磨へ流入しているから、実際には新免無二も播磨住人、あるいは播磨生れである可能性は否定できないこと。
5) 楠正位の「余が見た傳書」の伝説は、無二斎が田原久光の子であるとして、宮本伊織実家・田原氏の情報を取込んでいるが、その取込みにおいて混乱があり、遠い九州(ここでは筑前黒田家中周辺)で展開した伝説であるらしいこと。
 さて、一応これら諸点を確認しておくとして、楠正位は、この「余が見た傳書」の記事により、新免無二斎も武蔵も播磨生れとする説を示したのである。これが、顕彰会本『宮本武蔵』の武蔵産地美作説と真っ向から対立するものであることは明らかである。楠にとって池辺の説は納得できないものであったから、この長期連載講話を開始したのである。  Go Back
 
 (8)三木の城主別所小三郎長治に屬して居た
 この別所長治(1555〜80)の三木別所氏は、戦国末期、東播磨に大きな勢力を張った家である。「播磨東八郡之守護」(天正記)ということからすれば二十万石の戦国大名である。しかし秀吉の播磨制圧に最後まで抵抗し、天正八年(1580)三木城落城のさい切腹した。
 ところで、無二斎が揖東郡宮本村住の武士ならば、別所長治に属したというのは誤りである。その住所からすれば、龍野城の赤松広秀麾下でなければならない。揖東郡は西播磨、三木は東播磨、場所がまったく異なる。「揖東郡宮本村」という情報に余計な目配りをするから、馬脚を顕してしまうのである。こういう矛盾に、楠正位の「余が見た傳書」は気づいていないし、またこれを矛盾とするほどの情報もないようである。
 しかし、こんな矛盾を冒してしまうのにも、理由がないわけでもない。というのも、楠正位の「余が見た傳書」は、無二斎を田原久光の子とするからである。『播磨鑑』によれば、宮本伊織の実父・田原甚兵衛久光は「元三木侍」である。つまり、田原氏は三木城主・別所氏の麾下にあった。とすれば、無二斎を田原久光の子とする「余が見た傳書」の伝説が、無二斎を別所長治に属したとするのも、このかぎりにおいては筋が通っているわけである。ただし、世代が混乱しているのは、回復不可能な瑕疵であるが。
 しかしながら、ようするに、これは宮本伊織の実家・田原氏の伝承が混入して発生した九州の伝説である。小倉宮本家伝書では、新免無二の痕跡は跡形もなく抹消されているが、楠正位の「余が見た傳書」を伝説異本と見れば、九州における伝説の分岐経路が推測しうるであろう。  Go Back


京都深草の田原家墓所
深草山宝塔寺 京都市伏見区
伊織と兄弟が建立した両親墓(中央)

*【宝塔寺墓誌・伊織の父母】
印南郡河南庄 田原久光
    寛永十六年己卯十二月十九日
 慈父 正法院道円日受霊 六十二歳
小原城主源信利女
    承応元年壬辰十二月二十八日
 慈母 理応院妙感日正霊 六十六歳
        孝子宮本氏貞次等敬建


*【筑前新免氏系譜】
《則種ノ家臣宮本無二之丞ハ、十文字ノ鎗術ヲ胆練セリ。於赤田ヵ城、無二之丞一人ニテ敵七人ニ出合ヒ、十文字ノ鎗ヲ以勝利ヲ得タリ。依之則種ヨリ新免ノ氏ヲ許スト云伝フ。無二之丞男・新免伊織ハ、細川越中守忠興公ニ仕フ。其子武蔵ハ、劔術ニ名ヲ得タリ。是ヨリ武蔵流ノ劔術、世ニ伝来セリ》











*【泊神社棟札】
《曽祖、左京太夫貞光と曰す、祖考、家貞と曰す、先考、久光と曰す。貞光より来りて、則ち相継て小寺其甲の麾下に属す。故に筑前に於て子孫、今に存るを見る。作州の顕氏に神免なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを、武藏掾玄信と曰す、後に宮本と氏を改む。亦た無子にして、以て余、義子と為る。故に余、今其の氏を稱す》(原文漢文)

















播磨鑑
平野庸脩自筆題箋







播磨武蔵関係地図





*【播磨鑑】
《米田村に宮本伊織と云武士有。父を甚兵衛と云。元来、三木侍にて別所落城の後、此米田村え來り住居して、伊織を生す》

  (9)十手の名人で二刀流を始めた
 九州小倉の武蔵碑(北九州市小倉北区赤坂)の碑文には、「父・新免は無二と号し、十手の家をなした。武蔵はその家業を受け、朝な夕な研鑚し考え抜いた結果、彼が明白に知ったのは、十手の有利性は一刀のそれに倍すること、それも、はなはだ大きな差があるということである。そうだとはいえ、十手は常用の武器ではない。これに対し二本の刀は、腰廻りの常備の道具である。とすれば、二刀をもって十手の真理とするとしても、その長所に違背することはない。ゆえに、十手の家を改めて、二刀の家としたのである」という記事がある。
 この武蔵碑本文の《武藏、家業を受け、朝鑚暮研》という記事については、播磨印南郡の泊神社(兵庫県加古川市木村)にある棟札の記事と勘合して、武蔵は無二の「十手の家」を、無二の死後に相続承継したとしなければならない。つまり、兵法者は一種の職人だから技術は家業としてあり、その名跡が継承される。武蔵は、継承者のいないこの「十手の家」の名跡を、何らかの縁で相続したということであろう。
 無二と武蔵の「親子」関係は、職人の世界の擬制的な親子関係と同類である。新免無二は武蔵の「父」であるが、あくまでも擬制的な親子関係における父である。
 ともあれ、無二の十手の家に関しては、小倉碑文が初出史料であり、そこから種々の伝説が展開した。しかしながら、無二斎が十手の名人というのはまだしも、二刀流を創始したというのは、異説とみてよい。小倉碑文は、武蔵が無二の十手術をベースにしながら二刀流を発明したというのみで、無二の二刀流には言及していない。ただし、後の無二流に、二刀術があったのは事実である。
 『丹治峯均筆記』所収の武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公傳來」冒頭に、無二の記事があり、そこに、
  《無二、十手ノ妙術ヲ得、其後二刀ニウツシ、門弟数多アリ》
とある。とすれば、無二斎は十手の名人で二刀流を始めた、というのは、「余が見た傳書」の記事文言ではなく、楠正位の言葉である。とすれば、ここでの「余が見た傳書」は、筑前黒田家中の『丹治峯均筆記』らしいと、見当がつくのである。
 もう一つ付け加えれば、十手術は新免無二の発明でもないし、二刀術は武蔵の発明でもない。十手術も二刀術も他に前例がある。ただし、武蔵がその二刀術に到るについては、無二の十手術が媒介となったことは事実であり、武蔵の二刀術における独創はそのプロセスにあった。  Go Back
 
 (10)別所の浪人は多く黒田家に仕へた
 楠正位が紹介する「余が見た傳書」の記事内容をみると、別所氏以外の諸城主の名が見えず、三木城の別所氏が播州全域を支配していたとの錯覚があるようである。
 むろん、別所氏は東播磨八郡が領域で、無二や武蔵に関係のある西播磨には、赤松諸家や宇野氏、あるいは小寺氏など、別所氏とは異なる領主が割拠していた。この辺りの知識の欠乏を見れば、「余が見た傳書」の記事が、播磨から遠い九州、それも筑前ローカルの伝説に依拠したものと知れる。
 そこで、筑前黒田家中と思しき名が以下に並ぶのである。順次それらを検討してみよう。
 まず、「田原六之進」の名がある。この人が無二斎の親族だというのは「余が見た傳書」の記事というより、楠正位の解釈であろう。無二斎が田原氏だ(田原久光の子)というのだから、この田原六之進は無二斎親族だという解釈になる。ただし、田原六之進その人の事蹟は不明。泊神社棟札の宮本伊織によれば、田原氏の者がいま筑前にいるとのことであり、田原六之進も、そのこととおそらく関連する。宮本伊織の父・田原久光の伯父や従兄弟が、黒田家中に入ったのであろう。
 次に、「新免伊賀守」。これは、作州吉野郡の竹山城主だった新免伊賀守宗貫のことである。本サイト諸論攷でおなじみの人物だから、ここでは説明を要しないが、新免宗貫は播州宍粟郡長水山城の宇野政頼の三男で、作州吉野郡の新免氏へ養子に入った。備前の宇喜多氏に属し、慶長五年の関ヶ原戦後、領地を退転、その翌年、筑前で黒田長政に仕えるようになった。知行は筑前下座郡に二千石である。
 その次に「山崎茂兵衛」という名がある。これはおそらく山崎茂右衛門のことで、そうだとすれば、新免宗貫の次兄・宇野祐清(天正八年に戦死)の息子である。新免宗貫にとっては実家の兄の子、つまり甥にあたる。山崎姓は、宍粟郡宇野氏の本拠地(現・兵庫県宍粟市山崎町)の地名である。
 ここで、注意しておきたいのは、事蹟不明の田原六之進は別にして、新免伊賀守も山崎茂兵衛も「別所の浪人」ではないことである。こちらは、西播磨宍粟郡の宇野氏であり、とくに新免伊賀守宗貫は、宇野氏から新免氏へ養子に出て、美作吉野郡の竹山城主である。別所浪人とはまったく筋が違う人々である。  Go Back
 
 (11)黒田官兵衛孝高の弟兵庫助利高
 無二斎は、黒田官兵衛の弟・兵庫助利高(1554〜96)の与力となった――この記事の出所は特定できる。上述の如く、『丹治峯均筆記』所収の武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公傳來」冒頭に、無二の記事があり、そこには、
  《邦君如水公ノ御弟、黒田兵庫殿ノ与力也》
という記事がある。したがって、前に出た「無二斎は十手の名人で二刀流を始めた」という話と、この、「黒田官兵衛孝高の弟兵庫助利高の所望に依り事あるときは利高に與力する事になつた」という話は、どちらも『丹治峯均筆記』がネタ元であり、楠正位のいう「余が見た傳書」は、この部分に関するかぎり、『丹治峯均筆記』だと特定しうる。
 しかし、『丹治峯均筆記』が、たんに「邦君如水公ノ御弟、黒田兵庫殿ノ与力也」とするところを、「黒田官兵衛孝高の弟兵庫助利高の所望に依り、事あるときは利高に與力する事になつた」という話にしてしまったのは、楠正位の拡大解釈である。楠正位のいう「余が見た傳書」の記事と、彼の想像との相違は、往々にしてこんなものである。
 したがって、この事例からすれば、楠正位が「余が見た傳書」の記事だというその文言は、必ずしも正確な引用ではなく、彼の要約と解釈が混じりこんでいる。他の部分は典拠が不明であるだけに、彼の「余が見た傳書」の紹介記事には一定の留保が必要だ、という我々の見方も理解されるであろう。  Go Back
 
 (12)多數の人が無二齋の教を受けた
 この記事は、『丹治峯均筆記』にはなく、楠正位の「余が見た傳書」は別の資料である。
 文中、「其重臣の舟曳刑部とは最懇意であつた」とある「舟曳刑部」は、船曳杢左衛門近正の息子・茂次であるらしい。杢左衛門は、新免宗貫が養子に入るとき、播州長水山城の宇野政頼から宗貫に付けられて行った側近の一人である。その後新免家を離れ、宇野政頼の元へ戻ったが、それも離反して、敵方小寺(黒田)官兵衛の麾下に入った。船曳刑部は杢左衛門の二男で、五百石。この系統から九州に船曳氏を存続するようになった。一方、杢左衛門の長男は左衛門尚信といい、播州に残って子孫は船曳本拠の大内谷(現・兵庫県佐用郡三日月町)に続いたという。
 船曳刑部が黒田家中重臣だったとは云えないにしても、この船曳刑部は別の所にも名を出している。それは筑前新免氏系譜中の記事である。
 これによれば、新免宗貫は宇兵衛・七兵衛という二人の息子を九州へ同道して黒田家に仕えさせたようだが、父宗貫の死後、兄の宇兵衛は肥後へ去り、弟の七兵衛は筑前に残ったものの、召放ち(解雇)となる。重臣黒田美作が彼を拾ったが、困窮していたのか、黒田家中の小林甚吉と船曳刑部が七兵衛に扶持米五口を送って生活を助けた、小林甚吉と船曳刑部は新免旧臣である、という話である。
 黒田官兵衛は播州で、秀吉から揖東郡と宍粟郡に計四万石を与えられたのだが、そのとき、宇野旧臣も黒田勢に組織された。楠正位のいう「無二斎」はべつにして、実際の新免無二は、この船曳刑部と同じく宇野氏周辺にあったが、黒田勢に与力するようになったもののようである。
 また文中の「野口佐助」は、黒田二十四騎の野口佐助(1559〜1643)であろう。出身は加古郡野口村(現・兵庫県加古川市)で、筑前入国後は三千石、百人組を預かる。子の八右衛門の代になると五百石になったが黒田家中にあった。「久野四郎兵衛」は、久野四兵衛(1545〜1592)のことらしく、とすればこれも黒田二十四騎の一人。久野氏は播磨国加東郡金釣瓶城〔現・兵庫県小野市〕に代々拠った家、四兵衛の父・重誠〔しげかね〕が黒田官兵衛の「父」職隆〔もとたか〕に仕えたというから、古参の家臣である。四兵衛は官兵衛に少年時から小姓として仕えた。豊前入国後五千石を与えられたが、文禄の役で朝鮮で死亡。嫡子の重義は石垣原の戦で戦死、弟の重時が家督を継ぎ、筑前入国後は六千石、以後久野家は黒田家中老として存続した。
 無二は、『丹治峯均筆記』に兵庫助与力とあるように、黒田家周辺にいたらしいが、それは播州時代のことである。黒田勢が九州豊前へ移住して、無二も九州へ行ったが、無二の九州時代は長くはない。泊神社棟札によれば、天正年中に筑前秋月城で死んだとあるからである。久野四兵衛は文禄の役で戦死した人だから、彼らを教えた無二が天正年中に死んだというのは時期は適う。要するに、無二と黒田家の縁は主として播州時代のことで、九州時代は長くても数年であろう。
 ところが、黒田家の記録では、慶長期の分限帳に新免無二の名を記載している。となると無二は慶長年間まで生きていたということになるが、しかし黒田家分限帳は後世の記入があるから、当初の記事そのままではなく、無二に関する記録の信憑性は低い。したがって無二を中津以来の古譜代とする分限帳の記事もあやしい。武蔵の「父」無二は、黒田家中では伝説の有名人だったので、黒田家との関係を強調する伝説が無二を延命させたものとみえる。  Go Back




宮本武蔵武蔵顕彰碑
北九州市小倉北区



*【小倉碑文】
《播рフ英産、赤松の末葉、新免の後裔、武藏玄信、二天と号す。想ふに夫れ、天資曠達〔くわうたつ〕にして細行〔さゐかう〕に拘らざるは、蓋し斯れ其人か。二刀兵法の元祖爲り。父・新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼〔あらたか〕に知れり、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきと 。然りと雖も、十手は常用の器に非ず、二刀は是、腰間〔やうかん〕の具なり。乃ち二刀を以て十手の理と為すも、其の徳違ふこと無し。故に、十手を改めて二刀の家と爲す》(原文漢文)










播磨古城図




長水山城址
兵庫県宍粟市山崎町







丹治峯均筆記
兵法大祖武州玄信公傳來
















*【筑前新免氏系譜】
《本府ノ直仕、小林甚吉・船曳形部(刑部)両人ヨリモ五口ノ扶持米ヲ送ラル[此両人ハ、則種播州ニテノ家臣ナリ]》







姫路周辺黒田二十四騎出生地




  講話 宮本武藏(七)

 余が見た傳書には、無二齋を以て久光の子としたのもあつた(1)。年代其他の考證よりして、この論斷も一應理由ありと思はれるが、田原や小原の考證は姑〔しばら〕く舍〔お〕き、余が見た傳書には、作者の所謂宮本系圖と稍相似て、しかも夫より確實と思われる者がある(2)。八五郎の伊織は、播州國印南郡米田村の郷士岡本甚兵衛の二男で(3)、母の姓氏は書てないが別所長治の家臣の娘で、武藏の従妹に當る者である。三木落城の後、娘の父が米田村に住したので、甚兵衛に嫁した。武藏は、甚兵衛の妻・即八五郎の母との縁故はあり、甚兵衛もまた武藝を好むだので、度々甚兵衛を訪ふて其家に滞留した。其内、八五郎が幼少より骨格が逞〔たくまし〕く才氣もあるのを見て、特に寵愛した。八五郎も亦能く武藏に懐〔なつ〕いた處から、武藏は終に八五郎を所望して養子にした(4)
 八五郎が成長した頃、小笠原家より武藏を召抱たしとの相談があつた。武藏は仕官の望なしとて堅く斷つたが、再三再四の懇望に武藏も其恩命に感じ、「自分は最初より御答せし通り仕官の望は御座りませぬが、私の養子に八五郎と申す者があつて、夫はまだ若年ではあり、藝術も未熟でお間には合ひますまいが、若し小禄にても此者を御召抱下さるゝならば、私は後見として時々參り何なりとも御用を承りませう」と答へたので、小笠原家に於ては夫にて満足だと云ふことで、八五郎を新地三百石で抱へられた。其處で武藏も約束の通時々小笠原家に行き、殿のお相手をしたり家中の人々に刀術の指南をもしたが、其後八五郎は追々立身して、名を伊織と改め、終に家老職に陞〔のぼ〕り、禄四千石を賜はるに至つた(5)。此話は、本多家の家臣で武藏の流れを汲む人が、武藏の事蹟を調査するとて、元禄十三年に態々米田村に出張し、岡本甚兵衛の子孫に逢つて聴取た處を書た者だとある。其時岡本家は土地の大庄屋を勤めて居たが、今は小倉の宮本家は伊織より三代目で幸左衛門と稱し猶四千石を頂戴して居る。道が遠いので疎遠にはなるが、寒暑の見舞状抔は互に致して居るとの事も書添えてある(6)
 この聴取書の大意は、史實と認むべき價値があるかと思はれる、隨て前にも話した通。黒田家・本多家・小笠原家、又は米田村に就て、武藏に關する事蹟を精査したならば、武藏の傳は一層精確に至るであらうと思はれる(7)
 
  【評 注】

 (1)無二齋を以て久光の子としたのもあつた
 これは前出の「余が見た傳書」の話で、無二斎つまり新免無二は、田原甚兵衛久光の子だという伝説のことである。しかし甚兵衛は、宮本伊織の実父である。そうなると、新免無二は、宮本伊織と兄弟であり、しかも武蔵は無二斎の子だというから、武蔵は伊織の甥になってしまう。この黒田家中で出たらしい伝書の説では、関係人物の世代順序が混乱しているのである。  Go Back
 
 (2)余が見た傳書
 この話の前段で、「武蔵伝」すなわち顕彰会本『宮本武蔵』の武蔵伝記が、『二天記』の泥鰌伊織(本講話では「泥鰌武蔵」)伝説を採択したり、またそれに関連して、小倉宮本家系図に言及してこれを却下する一段を引用している。
 「年代其他の考證よりして、この論斷も一應理由ありと思はれるが、田原や小原の考證は姑〔しばら〕く舍〔お〕き」云々とあるのは、「武蔵伝」が言及引用した小倉宮本家系図の記事内容にかかわるが、楠正位は小倉宮本家系図を見ていないから、論評を避けている。(この小倉宮本家系図については、本サイト各所の別論攷を参照されたい)。
 その上で、楠正位は、小倉宮本家系図に類似した資料があるとして、以下、その紹介に取り掛かる。楠正位が紹介するこの「余が見た傳書」は、前出のものと別の、本多家中で出た伝書である。   Go Back
 
 (3)伊織は、播州國印南郡米田村の郷士岡本甚兵衛の二男
 「八五郎」は、宮本伊織の幼名もしくは初名とされて、爾後多くの武蔵評伝や武蔵小説に登場する名である。それはこの楠正位の論文から出たものである。だが、これに根拠があるわけではない。後世の伝説である。ここには伊織の名が「田原貞次」であったという情報もない。
 さて、問題は、伊織が「播州國印南郡米田村の郷士岡本甚兵衛の二男」という、その岡本姓である。これは他に見ない事例である。
 もとより、伊織が一人称で出自を記した泊神社棟札(兵庫県加古川市)には、岡本姓の記事は一つとしてない。したがって、田原甚兵衛を「岡本」姓とするこの伝書記事は、明らかに後世の伝説によるものである。それゆえまた、以下の記事内容も疑わしい。  Go Back
 
 (4)武藏の従妹
 記事を順に追ってみよう。――伊織の母の姓氏は書かかれてないが、別所長治の家臣の娘で、武蔵の従妹にあたる者である、三木落城の後、娘の父が米田村に住したので、甚兵衛に嫁した――という話である。
 当時の女性が名を残していないのは慣習にすぎないが、これは伊織の母の姓氏を知らない伝説である。伊織の母が大原(小原)氏だという記事はここにはない。したがって、この「余が見た傳書」における伊織に関する情報は、すでにかなり怪しくなった段階のものである。
 伊織の母が大原氏だということは、十八世紀半ばの地元史料『播磨鑑』が認識している情報である。したがって、この「余が見た傳書」の成立時期は、それよりもかなり遅いであろうと、目星をつけることができる。
 伊織の母は、『播磨鑑』によれば、三木城に近い加東郡垂井荘の宮脇村の人である。伊織も久しくその村に居たということである。伊織の産地は印南郡米田村だが、伊織の弟・玄昌について、『播磨鑑』は、これを「加東郡垂井庄池尻村ノ産」とする。弟の産地は加東郡垂井庄である。だから、伊織兄弟は、何か事情があって、印南郡米田村ではなく、母の実家のある加東郡垂井庄の村で育ち、あるいは生まれたのである。
 伊織の母の実家は、もともと摂津有馬郡の大原氏だが、荒木村重に滅ぼされて退転し、中川氏麾下に入ったようである。播州三木の別所氏が滅亡し、その後中川氏が三木城に入城。そのとき、大原氏も三木へ来たらしい。泊神社棟札によれば、朝鮮の役で当主が戦死し、男子なく、武家としての大原氏は断絶したが、伊織の母はこれを再興するため、息子の一人に家名を嗣がせ彼を医師にして立身させた。それが伊織の弟・大原玄昌である。
 したがって、この「余が見た傳書」が、彼女を別所長治の家臣の娘だとするのは、伝説の混乱がある。しかも、この伊織の母が、武蔵の従妹だという。彼女は、三木城主・別所長治の家臣の娘だというから、そうすると、この従兄妹たちの父同士が兄弟なら、武蔵の出自は、伊織の母の実家・大原氏なのか。武蔵は三木侍の子で、その出身地は三木であったのか。このあたりまで来ると、もはや、ほとんど珍説の部類である。
 ところが楠正位は、新免氏が別所氏の麾下にあったという謬説を信じている様子で、前出の「余が見た傳書」と、ここで引いている「余が見た傳書」との記事内容を、三木城主・別所氏を蝶番として関連付けられるのではないか、と期待しているようである。
 さて次の話になるが、武蔵は伊織を養子にした。これは事実である。ところが、この「余が見た傳書」では、こうだ――武蔵は、甚兵衛の妻(伊織の母)との縁故があり(つまり従兄)、甚兵衛もまた武芸を好んだので、度々甚兵衛を訪うてその家に滞在した。武蔵は伊織(八五郎)を寵愛しその器量を認めて、養子にした、云々。
 これは当の岡本家の武蔵伝説というべきもので、原型は、「武蔵が伊織を養子にした」という事実である。それが、では、「どういう縁で武蔵は伊織を養子にしたか」という理由の説明から、それは伊織が親族だっただろうから、という説話的展開になる。つまり、伝説の伝承過程では、事実はそのままでは放置されない。武蔵が伊織を養子にしたという事実が、親族関係によって解釈される。語りはすでに解釈によって侵食されているのである。さらにそこから、武蔵は伊織の親族だという説話上の反転(inversion)が生じ、それに尤もらしい尾ひれが付く、というなりゆきである。すなわち、この反転は、
  (1)伊織は「武蔵の親族」である
  (2)武蔵は「伊織の親族」である
という順序である。この基本形ができると、武蔵の出自そのものが、伊織の実家・田原氏周辺に引き寄せられる。この「余が見た傳書」のように武蔵が伊織の母の従兄になったり、あるいは、小倉宮本家系図のごとく、武蔵が甚兵衛の弟、伊織の叔父になってしまうわけである。こういう説話上の構成及び展開は、十八世紀末から十九世紀にかけて生成されていったものと思われる。というのも、少なくとも十八世紀半ばの『播磨鑑』所収の伊織情報には、そんな話はまだ現れていないからである。  Go Back










*【顕彰会本・宮本武蔵】
《按〔あんずる〕に、宮本氏系圖に依れば、伊織は武藏の養子なれども、其實は田原久光の二男とし、實母は小原上野守源信利の女とし、慶長十七年十二月二十一日播州印南郡米堕邑の産とし、寛永三年十五歳にて小笠原忠眞に奉仕すとせり。田原久光とは田原左京太夫貞光の孫〔そん〕にて赤松持貞の後〔こう〕、小原信利は攝津有馬の城主なり。是に依れば、武藏も本は田原氏にて、田原家貞の子田原久光の弟にして、新免無二齋の養子となり居れども、甚だ信じ難し。思ふに、伊織を無名なる浪人の子とせる二天記を厭ひての作ならむ》





播磨武蔵関係地図






伊織の母の実家
播州加東郡垂井庄




*【播磨鑑】
《此伊織殿、母は加東郡垂井ノ荘宮ノ脇村ノ人也。依之、伊織も久敷、宮ノ脇村に被居由》(印南郡)


*【泊神社棟札】
《其の玄昌、小原を以て氏と為すは、攝州有馬郡小原城主・上野守源信利、其嗣・信忠、余を生せる母一人にして男無く、天正の間、播州三木城主・中川右衛門大夫麾下に属し、高麗に到りて戰死せり。故に、母命じて、玄昌に其氏を継がせしむ、と云ふ》

  (5)小笠原家より武藏を召抱たしとの相談があつた
 以下は、伊織が小笠原家に仕官する話である。まず、小笠原家より武蔵を召抱えたしとの相談があった。武蔵は仕官するつもりはなしと堅く断わったが、再三再四の懇望に、武蔵は代わりに、養子の伊織を召抱えてもらいたいと要望して、伊織が召抱えられた、ということである。
 これは、伊織養子が先か、仕官が先か、という例の問題と絡む。つまり、伊織は武蔵の養子になっていて、その後、小笠原忠政に召抱えられたのか、それとも、伊織はすでに明石の小笠原家に召抱えられており、武蔵が小笠原家の客分になったとき、その縁で、伊織は武蔵の養子になったのか、という問題である。
 後者については、『播磨鑑』にその例がある。――武蔵が明石にやって来て、小笠原右近将監侯に謁見した。その時、伊織を養子とし、その後、小笠原侯が豊前小倉に転封されるとき、同伴した。あるいは、伊織十六歳の時、赤石〔明石〕の御城主小笠原右近侯が、宮本武蔵という天下無双の兵術者を召抱えられ客分にしていたが、この伊織がその家〔小笠原家〕に召つかわれていたところ、伊織が生れつき器量すぐれた性質であるため、武蔵が養子にした。のち、豊前小倉へ国替のため、伊織をお供にして下った、云々。
 ようするに、『播磨鑑』のような地元史料では、伊織が武蔵の親族で、それを武蔵は養子にした、という話は一言もないし、逆に、武蔵が明石の小笠原忠政の客分になったとき、たまたまそこに伊織が家臣として居り、武蔵はそれを養子にした、というわけである。
 このように、伊織は武蔵の親族ではなく、小笠原忠政が仲介して武蔵の養子になった、ということの方が、もっともらしいのだが、後世の伝説では、順序は逆になる傾向がある。  Go Back
 
 (6)本多家の家臣で武藏の流れを汲む人が…
 さて、この「余が見た傳書」の出所である。伝書のタイトルさえあきらかではないが、楠正位によれば、これは、本多家の家臣で、武蔵の流れを汲む人が、武蔵の事蹟を調査するため、米田村に出張し、岡本甚兵衛の子孫に逢って聴き取った話だという。この「本多家の家臣で、武蔵の流れを汲む人」が何者なのか、この講話の範囲では不明である。
 それに対し、その調査時点が明記されていて、元禄十三年(1700)であるという。忠臣蔵で有名な、浅野内匠頭が江戸城御殿松の廊下で吉良上野介を切った事件の前年である。当時近隣の本多家といえば、姫路城主・本多中務大輔忠国である。
 しかるに、本多忠国に仕えた「武蔵の流れを汲む人」という条件で該当するのは、まずは、本多家中の武蔵流相伝者であろう。武蔵流は、武蔵→石川主税→楠田圓石→国分九郎右衛門真恒→国分九郎右衛門真昌…と次第するもので、元禄十三年というと、この国分九郎右衛門父子、真恒あるいは真昌の世代であろう。
 この元禄十三年以前に、柴任三左衛門美矩が本多忠国に召出され仕えていた時期がある。そのとき、「古流」として、石川主税以来の武蔵流が本多家中に存ったわけである。
 楠正位によれば、これは本多家中の資料らしいから、姫路以後、流転した後に、三河岡崎に腰をすえた本多家の家中の伝書であろう。本多家中には、上記のように、武蔵→石川主税→楠田圓石…という道統が存続して、武蔵流と称し、明治まで三河で門流が残った。ただしこちらは、伝書内容を見るかぎり、かなり変形を蒙った武蔵流である。それゆえ、武蔵と伊織のことも、本多家流転過程でかなり伝説の変形があったようである。
 それとは別に、興味深いのは、伊織の小倉宮本家の子孫の記事がみえることで、小倉の宮本家は伊織より三代目で幸左衛門と称し、なお四千石を頂戴して居る、とある。
 宮本家系図によれば、この幸左衛門は、伊織貞次→又右衛門在貞→幸左衛門実貞と順次する系譜の三代目である。伊織の嫡男・源左衛門貞信は二十六歳で死亡、そのため伊織は、兄大山茂右衛門吉之の息子を養子にした。これが二代目の又右衛門在貞である。三代目の幸左衛門実貞は、早世した源左衛門貞信の子で、伊織の孫にあたる。幸左衛門で家督を直系に戻したのである。元禄十三年当時は、この幸左衛門の代である。  Go Back
 
 (7)史實と認むべき價値があるかと
 この「余が見た傳書」は史実として認めるべき価値があると、楠正位はいう。しかしながら、そんなわけにはいかない。前記の如く、記録には元禄十三年というアンカーが打ってあるようだが、以上順次検分したような内容からすれば、おそらく十九世紀の作であろうと思われる。
 武蔵を、伊織の母の従兄とするのは、小倉宮本家系図ほど極端ではないが、それでも、伊織を養子とするには武蔵の親族であろうという解釈が、伝承の中でいつのまにか本文へすり替わったものである。楠正位が提示した第一の「余が見た傳書」の混乱振りよりはマシと言えるが、それでも、伊織の母の姓氏を知らず、伊織実父を「岡本」甚兵衛とするなど、地元でフィールドワークしたとも思えぬ内容である。
 結論を言えば、史実として認めるべき価値はない。ただし、それは本講話の内容によるかぎりでであって、楠正位の「余が見た傳書」が実見できれば、もう少し違ったテクスト分析ができるかもしれない。  Go Back


*【播磨鑑】
《明石ニ到リ、小笠原右近将監侯ニ謁見シ、其時、伊織ヲ養子トシ、其後、小笠原侯、豊前小倉ニ赴キ玉フトキ、同伴シ》(附録)
《其後、伊織十六歳の時、赤石の御城主小笠原右近侯 に、宮本武藏と云天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にておはせしが、此伊織其家 に召遣はれ居たりし処に、器量すぐれたる生れ付故、武藏養子にせられ、後、豊前小倉へ御所替にて御供し下られける》(印南郡)




明石城址






姫路城天守閣






小倉宮本家墓所
北九州市小倉北区赤坂




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 【 要 約 】

 本講話で、楠正位が提示した「余が見た傳書」は二種類あって、一つは、筑前の黒田家中で出たらしいもの、もう一つは播州の姫路城主や龍野城主をつとめたことのある本多家の、後世三河へ居着いた後の伝書で、武蔵流を伝承した本多家中から出たらしいものである。
 第一の「余が見た傳書」の記事内容は、どうであったか。再度診てみよう。
(1) 無二斎は、村上源氏赤松持貞の末裔・田原久光の子。
(2) はじめ宮本無二之助と称し、後に新免氏を嗣いで無二斎と称した。
(3) 無二斎の住所は、播磨国揖東郡宮本村。
(4) 無二斎は、三木の城主・別所小三郎長治に属していた。
(5) 無二斎は、十手の名人で二刀流を始めた。
(6) 別所家滅亡の後、別所の浪人は多く黒田家に仕えた。無二斎の親族田原六之進、新免伊賀守、山崎茂兵衛等、みな黒田家に仕えた。
(7) 無二斎は、黒田官兵衛の弟・兵庫助利高の所望により、事あるときは利高に与力することになり、これより無二斎は黒田家に出入した。
(8) 無二斎は黒田家重臣の舟曳刑部とは最も懇意であった。
(9) 野口佐助・久野四郎兵衛(二人とも黒田二十四騎の武将)など、黒田家中の多くの人が無二斎の教えを受けた。
 以上に明らかなように、第一の「余が見た傳書」の記事内容は、無二斎(新免無二)の情報である。しかるに、無二斎の住所は播磨国揖東郡宮本村とするところは、《武蔵は揖東郡宮本村産》とする地元播磨の情報に拠ったものであろうが、無二斎を田原久光の子だとする、その内容からすると、小倉宮本家系図と同時期あるいは少し後の新しい作物で、伝聞が変形されて、このような話になったものであろう。
 また、無二斎は三木城主・別所長治に属していたというのは、田原氏が「三木侍」であったというあたりから出てくるものであろう。何しろ無二斎を田原久光の子だとするのだから、そういうことになってしまうのである。しかしながら、さらにまた、美作の新免氏が三木別所氏に属したという錯覚もあるようなので、二重の誤伝をくぐって出た話である。
 新免無二と黒田家の縁は、おそらく小寺(黒田)官兵衛が揖東郡や宍粟郡など西播磨に領地を得たのが契機であって、東播磨の別所氏を媒介することは事実上ありえないことである。この点でも、この第一の「余が見た傳書」の内容は、播磨を知らぬ無縁の地で末孫が形成した伝説とみなしてよいのである。
 『丹治峯均筆記』には、無二が黒田兵庫助利高の与力になったと記事があり、これはこれで一定の信憑性があるが、野口佐助、久野四郎兵衛、それに舟曳刑部との関係については、この伝書以外には知らないが、黒田家中の個別諸家譜にそんな記事があったのかもしれない。
 以上のことから、この第一の「余が見た傳書」の無二斎情報のうち、少なくとも前半の諸項目はまったく信憑性を欠くもので、依拠するにあたらない。九州筑前の黒田家中で生まれた伝説であり、伝書成立は、おそらく十九世紀半ばを遡ることはあるまい。
 次に、第二の「余が見た傳書」はどうか。
 こちらは、武蔵養子の宮本伊織を媒介にした情報である。これも、整理してみれば、以下の通りである。
(1) 伊織は、播州印南郡米田村の郷士・「岡本」甚兵衛の二男。
(2) 伊織の母の姓氏の記載はないが、別所長治の家臣の娘。
(3) 伊織の母は、武蔵の従妹である。
(4) 三木落城の後、彼女の父が米田村に住した縁で、「岡本」甚兵衛に嫁した。
(5) 武蔵は、親戚ということもあって、岡本家にしばしば滞在した。
(6) 武蔵は、従妹の息子である伊織を養子にした。
(7) 武蔵に小笠原家より召抱えたいとの話があったが、武蔵はこれを断わり、代わりに養子の伊織を仕官させた。
(8) 以上の話は、本多家の家臣で武蔵の流れを汲む人が、武蔵の事蹟を調査するため、元禄十三年に米田村へ出向き、「岡本」甚兵衛の子孫に逢って聴取った話であると、伝書に記している。
(9) 調査者が逢った「岡本」甚兵衛の子孫は、大庄屋をつとめており、小倉の宮本家三代目の幸左衛門と、寒暑の書状のやり取りていどの付き合いはしている。
 すでに各項目は個別に見たが、ここで整理をすれば、甚兵衛の「岡本」姓、これは明らかな間違いであろう。伊織出自に関しては泊神社棟札が一次史料なのだが、それを見る限り、甚兵衛は田原氏であり、岡本姓ではありえない。したがって、元禄十三年に聴取調査をしたというが、すでにその時点で、話はあやしいのである。
 『播磨鑑』には、伊織の係累子孫が当時米田村にまだいるとあるから、元禄十三年よりも後に米田の田原氏は存続していた。したがって、大庄屋の岡本家なるものも田原氏分枝なのかもしれないが、伊織の母の出自を知らないとあっては、調査者はあらぬ対象に話を聴いてしまったということかもしれない。後年の『播磨鑑』の方がよほど情報は正確である。したがって、あるいは順序は逆で、この聴取調査そのものが実はもっと後世の伝説で、話の中で元禄十三年という時点に仮託されたものかもしれない。
 次に、この第二の「余が見た傳書」の最も突出したポイント、すなわち、《伊織の母は武蔵の従妹》という一点。これについては、そういう伝説が元禄十三年時点で存在した、ということかもしれないが、『播磨鑑』はそれを収録していない。もし、かような伝説があれば、米田隣村住人・平野庸脩のことだから、むしろ積極的に収録したであろう。それゆえ、伊織の母は武蔵の従妹という伝説が存在したことは、地元播磨では確認できないのである。
 この記録者は、本多家の家臣で武蔵の流れを汲む人であるという。この第二の「余が見た傳書」は、本多家中から出たもののようだが、この人物は、本講話によるかぎり、不詳である。元禄十三年時点というと、姫路城主・本多忠国の家臣とまでは特定できる。しかし、本多家は、ずっと姫路城主であったのではない。諸国各地を転々して、この時期たまたま姫路城主であったにすぎない。したがって、幕藩期一貫して九州筑前にあった黒田家とは事情が違う。本多家関係の播州資料は残りにくいのである。それは姫路藩についても言えることで、十八世紀半ばの江戸時代前半までは、城主が頻繁に交代している。入転封がはなはだしい。したがって、藩政記録はじめ史料も残りにくいという事情がある。
 それゆえ、この聴取調査が元禄十三年時点のものだ、という点は珍重したいのだが、《伊織の母は武蔵の従妹》という一点も含めて、武蔵伝説という以上のものではない。しかもその伝説が、転封ごとに各地を動いた本多家中の伝書を媒介にしているとなると、足元のあやうい史料だと言わねばならない。
 《伊織の母は武蔵の従妹》という伝説も含めて、武蔵が伊織の親族だという説は、少なくとも十八世紀半ばの『播磨鑑』にはないもので、これはおそらく十九世紀の伝説生成であろう。かりに元禄十三年というアンカーが打ってあるとしても、しばしば文書記事が年データを仮託するのは通例で、このケースでも、元禄十三年調査という記事そのものが伝説である可能性もある。
 本多家は姫路以後、越後村上、三河刈谷、下総古河、石見浜田、各地を転々して、明和六年(1769)に三河岡崎に居着く。武蔵以来の兵法は、武蔵流として本多家中で伝承された。おそらく、この第二の「余が見た傳書」は、その三河武蔵流の伝書であろう。ただし、上記のように、それはかなり伝説変形を蒙った後の内容である。したがって、断片にそれらしき説話素があるが、全体として荒唐無稽な伝説となっている。
 しかしながら、たとえどんなものでも、失われた資料は実見したいものである。我々は楠正位の講話を通してしか、二つの「余が見た傳書」の内容を瞥見できないのだが、もしこれらが再発見されるなら、また別の読み方も可能である。その可能性は武蔵研究の開口部として残しておきたいと考える。



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