【附録】
一 宮本武蔵の出生地考
剣聖宮本武蔵が逝いて殆ど三百年、今や武蔵の名は小説に、ラヂオに、映画に、演劇に、殆ど天下を風靡した概がある。この武蔵の出生地は、本人の書いた五輪書は勿論養子伊織の建てた小倉の墓碑にも、また二天記にも明かに播州人たることが記されてあるから播州人たるに相違はない筈である。然るにどうした訳か誤つて作州人として伝へられて居るのは遺憾である。武蔵が六十歳の時に書いた五輪書と云ふ兵法の極意を伝へた書には「生國播州の武士、新免武蔵藤原玄信、年つもりて六十」とあり、また二天記にも「天正十二年甲申暦三月播州に生る」と明記し、また武蔵の歿後、その養子伊織が建てた墓碑にも、「播州英産、赤松末葉、新免之後裔、武蔵玄信号二天」と記されて居る。更に宝暦十二年(武蔵歿後百二十年後)に播州の人平野庸修が著した播磨鑑には、「宮本武蔵、揖東郡鵤の辺宮本村の産也、若年より武術を好み、諸國を修行し、天下にかくれなく……明石小笠康將監に謁見し、其の時伊織を養子とし、其の後小笠原侯豊前小倉に赴かるゝ時同伴し、養子伊織に五千石を賜はり大老職」に挙げらると記して居る。
然るに明治四十二年熊本の武蔵遺跡顕彰会がその伝記を編纂するに当り、この播磨鑑は伝本の稀なる爲か参考せられなかった、そしてそれより五十年後の文化十二年作州で編纂せられた作陽誌の記事が、多少の疑ひを存しながらも採用せられて、斯く生地の誤りを伝へたのであつた。近く昭和二年岡山運輸事務所で編纂した「沿線誌集成」には
網干駅を西北に距ること約二十町、揖保郡石海村字宮本は、世に名高き宮本武蔵の出生地と云ひ伝へり、網干駅を西へ発し林田川に差しかゝる頃、北方五町余に見ゆる村落にして、今何等の古蹟なく、里人に問ふも知る人なし。
と記さるゝ如く、この宮本村は中国街道から少しく離れた純然たる農村で郷社石海神社(祭神舎人親王)がある外、武蔵に関する何等の資料も存在して居らぬ、とは云へ三百年の星霜は口碑・伝説など、凡て湮滅し去つたのではあるまいか、仮りにもし当時浪人などが來住したとすれば、豪農か或は神職の家などに寄食したかも知れないが、その何れもが今は他郷に移り、古文書なども散逸し去つた。
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作陽誌の記す處は、吉野郡讃甘庄宮本村の條に於て
宮本武蔵屋敷、三十間四方、石垣は寛永十五年天草一揆の節、自公儀命ありて取崩すと云々……武蔵父無仁以來此所に住す、至今歴代子孫住居す。
また作州英田郡大野村川上といふ所に、武蔵の父無二斎夫妻の墓があつて、父の墓の正面には眞源院一如道仁居士と刻し、傍らに天正八年四月二十八日とある。然るに二天記には武蔵の生年月を天正十二年三月生れと記されて居つて、父の歿後四年を経て生れたことゝなるの不合理を生じ、信憑すべきものではないらしい。或は墓碑の八年は十八年の誤りであらうとの説も出て居るが、これも怪しむべきことである。兎に角本人が全然作州生れだと称へなかつたのは何故であらうか。
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武蔵の養子伊織に就ては播磨鑑に「印南郡米田村に宮本伊織と云ふ武士あり、父を甚兵衛と云ひ、元三木侍にて別所落城の後、此の米田村へ來り住居して伊織を生む……十六歳の時明石の城主小笠原右近太夫侯に宮本武蔵と云ふ天下無双の兵術者を召抱へられ、客分にてありしが、此の伊織其の家に召使はれ居たりしに器量すぐれたる生れ付故、武蔵養子にせられ、後豊前小倉へ所替へにて御供し下られける……子孫ゆかりの者米田村にあり、其の後伊織氏宮たるによりて、泊大明神(加古川町木村)の社頭、拝殿、舞殿、舞台、門守等迄悉く建立有り、即ち石燈籠に作事の奉行人等銘彫現然たり、泊へは堂上家の歌仙三十六枚其の外珍物等を被寄附……又弟に大原玄昌と云ふ人有、此の人の石碑今三木町本要寺に有之」とある。この書の著者平野庸修は印南郡米田村の人で、宝暦十二年は伊織の歿年延宝六年から漸く八十余年に過ぎない。当時著者は少くも六十歳を越へて居つたと思はる。又この石燈籠や歌仙額は現に神社に在るから、この記述は十分に信憑せらるべきである。
然るに従来伊織を以て出羽國正法寺原で拾ふた奇童と伝へられ、これを疑ふものはなかつた、この説は二天記の記載に基くものであるが、同書は武蔵門人の子道家平蔵の話を豊田正剛が手記し、その孫の景英が安永五年に世に出したもので、武蔵の伝記資料としては信用せらるも、この伊織の記事にはどうも訛伝がありはせぬかと思はる、即ち伊織十三四歳は寛永の初年に当り、武蔵四十二三歳、既に巌流島に於ける佐々木小次郎との仕合ひに天下に名を轟かした後である。されば旅行には一定の目的と道筋がある。何を好んで山中に彷徨し無名の少年を拾ひ來るの奇行をなさんや、また徳川期に入りては系図など相当詮索の行はれた時代に於て、氏素性の知れない正法寺原の捨子が家老になつたなども怪しまざるを得ない、殊に他に顕然たる事実の立証すべきものが存するに於ておやである。
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泊神社は加古川駅を南に距ること約八町、境内千余坪、天照皇大神、國懸大神、少彦名神を祀り、近郷十ケ村の産土神である。而して承応二年宮本伊織に依つて改築されたと伝へられ、その記年号ある石燈龍と三十六歌仙の板額三十六面とが現存して居る。承応二年は武蔵のために小倉城下に墓を建てた前年に当り、当時の棟札なるものも保存せられて居る。
また伊織が寄進したと伝へらる、三十六歌仙の額は、竪一尺八寸横一尺二寸の板額で、人物は凡て狩野法眼探幽の門人甲田重信の絵、歌は常時の公卿十五人が数枚づつ書いて居る。
泊明神と川を隔つる米田村の藥師は法道仙人の建立と称せられ、こゝに伊織の納めた青銅顎口径一尺三寸のものがあつて、それには明かに「於豊州小倉小笠原右近大輔内。宮本伊織朝臣藤原貞次敬白。正保三暦丙戌九月吉日本社再興願主」と記されて居る。正保三年は承応二年よりは七年前に当る。
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こゝで少しく伊織の素性を調べよう。伊織の家系は赤松即ち村上源氏で、円心より四代目持貞の時に歿落して田原姓を名乗り、播州印南郡の米田村に住居し帰農したものである、そして伊織は持貞から五代目である、少年の時に藩主たる明石の小笠原侯に仕へることゝなつた。百姓の子がどうして藩主に仕へるに至つたか、それにはいろいろの伝説があつた、これが後年出世の端緒となり、やがて宮本姓を冒すに至った。吉川英治氏の随筆宮本武蔵にも、新宿武蔵野病院の田原博士が伊織の本家筋だとあるは、尤もな話である。伊織の父は田原甚兵衛久光、母は小原氏であつた、伊織の弟小原玄昌が母方の姓を襲いだのである。
京都深草の深草山宝塔寺は四脚門と多宝塔が室町期のもので特建となつて居る。この塔と本堂の間を東へ上り、右すれば西面して巨大な二基の位碑がある、それが伊織の建てた両親と祖父母との石碑で、それと直角に南面して伊織兄弟の墓がある、表に
妙法 宮本伊織貞次 小原法眼玄昌 墓
と刻まれ、側面に延宝六戊午三月廿八日、裏に六十七歳(伊織)、貞享二乙丑暦三月二十日、六十九歳(玄昌)とある。歿年から推測すれぱ伊織の生れたのは、慶長十七年武蔵が佐々木小次郎と巖流島にて試合した年で武蔵よりは二十八歳年少であつた。
宮本伊織にはこれ程確実な資料があり、その後裔も現存して居るが、それが世に誤つて伝へられ、またその養父武蔵の出生地が判然しないのを私は遺憾とするものである。
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