
【辞書の宮本武蔵解説例】 《江戸初期の剣豪。名は政名、二天と号す。平田(新免)無二斎武仁の子。美作国または播磨国の生まれという。生涯六〇回の勝負に一度も敗れたことがなかったといわれ、巌流島で佐々木小次郎を倒したことは名高い。二刀による剣法を工夫し、「二天流」を創始、武道の奥義を説く「五輪書」を著した。絵画や彫刻にもすぐれ、「枯木鳴鵙図」などが伝えられている。(〜一六四五)》

*【Wikipedia英語版】
《Miyamoto Musashi (宮本 武蔵, Miyamoto Musashi) (c. 1584 - June 13 (Japanese calendar: May 19), 1645), also known as Shinmen Takezo, Miyamoto Bennosuke, or by his Buddhist name Niten Doraku, was a famous Japanese samurai,, and is considered to have been one of the most skilled swordsmen in history.》
*【Wikipedia独語版】
《Miyamoto Musashi (jap. 宮本 武蔵 Miyamoto Musashi; * 1584 in Miyamoto; † 13. Juni 1645 in der Hohle Reigendo), wird von vielen als der groste Samurai aller Zeiten betrachtet. Shinmen Musashi No Kami Fujiwara No Genshin, bekannter unter dem Namen Musashi Miyamoto, wurde im Jahre 1584 in einem Dorf namens Miyamoto in der Provinz Mimasaka, als Shinmen Bennosuke geboren. Sein Vater war der Samurai Hirata Munisai, der in erster Ehe mit Omasa verheiratet war, einer Frau aus dem Clan der Shinmen; ihm wurde erlaubt, den Clansnamen zu fuhren.》
*【Wikipedia仏語版】
《Musashi Miyamoto (武蔵 宮本 note), de son vrai nom Takezo Shinmen (Miyamoto etant le nom de son village de naissance et Musashi, une autre facon de lire les ideogrammes ecrivant Takezo), (1584 -19 mai 1645) est l'une des figures emblematiques du Japon et le plus fameux escrimeur de l'histoire du pays.》

有馬直純宛書状の署名
ほかに、こんなのもあるけど→ アンサイクロペディア
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――えーと、それでは(笑)。この武蔵サイトも、まもなく満五年になります。その間に、さまざまな研究公開が増補され、宮本武蔵関連として最大のコンテンツを有するサイトとなり、内容はこの通りハードなものですが、アクセスも相変わらず多く、宮本武蔵関連サイトの代表格になっております。まだまだ課題は多いということなのですが、何か一言。
C――明治の顕彰会本(『宮本武蔵』)に依拠した「吉川武蔵」流が支配的だったが、五年経ってみると、状況は少しは変った。このサイトへの反応をみると、この武蔵サイトが状況を変えたという。あまりそんな実感はないが、そんな評価があるところをみれば、これを始めた意義は一応あったということだな。
B――この武蔵サイトの趣旨は、武蔵研究の刷新向上にあるが、少なくとも、立ち上げの時の状況からすれば、変った、変えた、とは言える。
A――その当時、どういうレベルの状況だったか知りたい人は、この[坐談武蔵]の武蔵本合評会(第四回)をみればよい。八面六臂切りまくっているが、当時、世間の武蔵本は我々とはレベルが違いすぎた(笑)。
B――それを見て、面白かった、という感想がほとんどだが、しかし、我々は娯楽番組を提供するためにやっているのではない(笑)。
C――この武蔵サイトは最大のコンテンツということだが、現段階で分量はすでに単行本十冊はあるな。
B――出版物のようなハードコピーではなくて、インターネット上で研究を公開し、自由に閲覧できるシステムになった。これは明らかにメディアの革命で、そういう時代のベースというものがある。
A――我々もそれに便乗させていただいた。書物のような出版物の形態だと、それこそ何万円も支払わなくては、入手できない。これだけの質量の武蔵研究が、タダで閲覧できるなんて(笑)、よい時代になったと思ってもらわなくては。
B――出版要請もあるが、それはもう少し研究が進んでからだ。急ぐことはない(笑)。しかし、まだ過渡期なのか、本にしてくれ、書物で読みたい、という希望は多い。ハードコピーに依存する傾向はまだまだ強いな。
C――懸案の武蔵事典もある。武蔵に関する諸事項を整理し定義する仕事だね。これは当初から予告してあったが、やはりこれは作業の進展と並行するものだ。
B――物事の定義という本来からすると、妥当な定義は研究の結果もたらされるものだ。むろん不確定な要素が多いし、我々の間でもまだ意見の相違のある事項も多い。となると、まだこれは出せない(笑)。
――武蔵事典の話が出ましたが、数年前から日本語環境でも、ウィキペディア(Wikipedia)というWeb上の百科事典が普及してきました。これは、一般大衆がだれでも編集に参与できるという、いたって民主的なものでして(笑)、「宮本武蔵」という項目ももちろんあります。これをごらんになって、いかがでしょう。
A――宮本武蔵は圧倒的に記事量が多いし、関連項目も多い。しかるに、武蔵以外の他の兵法者・武芸者の項目は、まさに貧困。この隔差社会を何とかしてもらいたいものだ(笑)。
B――人気が宮本武蔵に偏りすぎておる。こういう均衡と公平を欠く偏向は、客観を旨とする百科事典としては根本的欠陥だな。
C――それも大衆的現象。まあ、けっこうなことではないか。世間の大衆が、現在の日本人が、武蔵をどう認識しているか、それがわかる。
A――英語版は、これはすごいな。武蔵は「シンメン・タケゾー」「ミヤモト・ベンノスケ」としても知られているだとさ(笑)。武蔵は播磨産としつつも、中身は吉川武蔵そのままじゃないか。小説と史実の見境いがない。
B――英語版は記事量は多いが、吉川武蔵がかなり暴走しておる(笑)。それはドイツ語版でも基本的に同じ。武蔵は美作国の宮本という村の産だし、例の「於政」まで出てくるぜ。フランス語版は記事量は少ないが、それでも武蔵の本名は「シンメン・タケゾー」だという(笑)。
C――他の兵法者、たとえば柳生宗矩は英語版にはあるね。『(兵法)家伝書』の翻訳があるから。ただし宮本武蔵ほど記事量は多くない。もちろん、フランス語版には、柳生宗矩はさすがに出てこない。
A――英仏語版にどれも「シンメン・タケゾー」という名が出てくるのは、どういうわけだ。だれが、こんなガセネタを教えたんだ(笑)。
B――外国語版の方は、武蔵への認識は、明治の顕彰会本の域を出ていない。少なくともあの解説知見は半世紀以上遅れておる。
A――例外は、日本語版を直訳しておる中文(中国語)版。日本語版ウィキペディアの宮本武蔵は、欧米版の宮本武蔵とはちがって、さすがに吉川武蔵じゃない(笑)。
C――よくは知らんが、日本語版でも最初は、吉川武蔵そのままだったそうだな。それからすれば、いちおう徐々に改良されてきておるということか。
A――現在出版されている百科事典や歴史辞典の類いをみると、笑ってしまうような「宮本武蔵」解説記事がある。それに対して、ウィキペディアのような素人が作る解説の方がまだマシという事態。これもまた、笑える光景ですな(笑)。
C――日本の百科事典や歴史辞典だって、執筆者をみると、武蔵研究に関して素人の連中が書いておる(笑)。だが、国民のマジョリティは吉川武蔵党だぜ。そういう意味では、百科事典の素人解説の方が「民意」を反映している(笑)。
B――だから、吉川武蔵を脱した解説がウィキペディアに登場しているとしても、それは、今のところ、声高なマイノリティの説にすぎない。サイレント・マジョリティの所懐は、ウィキペディアに反映されていない(笑)。ウィキペディアを字義通り民主的に運営すれば、吉川武蔵党が言説を支配するだろうな(笑)。
A――そうなると、宮本武蔵は、「美作国讃甘村宮本に生れた、二十九歳のとき佐々木小次郎と巌流島で決闘して勝った」という反動的な解説に回帰する(笑)。
C――そういう可能性は残っている。往々にして、「史実」は多数決で決まるものだ。イデオロギーとしての「史実」だね。しかし、真理は多数決で決まるものじゃない。それでも、やはり地球は回っている(笑)。
B――ただ、辛辣なことをいえば、ウィキペディアの宮本武蔵関連事項は、アマチュアの学芸会というありさまだな(笑)。これをみると、いろいろ武蔵本を読んで勉強しておるようだが、記述内容には胡乱で不正確な記事が多い。
A――たとえば、《現在、明らかに自筆とみなされている有馬直純宛書状・長岡佐渡守宛書状には「宮本武蔵玄信」と記し》云々と書いておるとか(笑)。
B――どこにそんな「宮本武蔵玄信」と署名があるか。照会問合せがあるから、この際言っておくが、書状本文署名は「玄信」で花押。現在の表装仕立では、切継ぎがあって表書右下に「宮本武蔵」だ。切継ぎ線を無視して、勝手に「宮本武蔵」と「玄信」を接合するなよ(笑)。
A――胡乱で不正確とはその類い。まあ、皆さんお勉強中なんだ(笑)。文責がないアマチュア流儀で、「といわれている」「とされる」「という意見もある」と書いておるが、だれがそんなアホなことを言っているのだと、ついツッコミを入れたくなる、「という意見もある」(笑)。
B――皆で寄ってたかって作っていくものらしいから、諸説並立という形態は避けがたいだろうさ。あちこち関連項目が増殖しているようだが、自分の本を参考文献に仕立てて自己宣伝の場にしておるやつもあるし。何でもありの、大らかで野放図な世界のようだ(笑)。
C――まあ、それがアマチュア世界というものだ。それはそれでいいんだ。まだ、初期段階でアナーキーな状態だね。他の、たとえば柳生宗矩等の項目記事と比較すれば、歴然としておるが、宮本武蔵の項目は、異常に活気があって乱雑、しかも異様に長い(笑)。恥をさらしている者もいて、ドタバタというところだろう。
――本サイトに寄せられた提案には、「ウィキペディア・ウォッチング」というのがあります。ウィキペディアはどんどん書き換えられる。だから、その宮本武蔵関連事項を監視して、その都度の記事について、本サイトで論評してもらいたいということでした(笑)。
C――それは、お笑い番組になるからねえ(笑)。この武蔵サイトでやらせれば、おもしろかろうというので、そんな提案があったのだろうが。しかし、たとえ善導のつもり、善意の誘導であっても、そんな介入はよくない。米帝のイラク介入と同じことだ(笑)。
B――愚行は放任すべし(笑)。我々のだれも、そんな娯楽番組を提供するほど暇人ではない。ウィキペディアは我々の武蔵サイトへの直リンクもしておるようだから、まあせいぜい勉強して、徐々に知識・認識を改善してもらおう。
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