坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

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他流の道をしらずしてハ、一流の道慥わきまへがたし。他の兵法を尋見るに、大きなる太刀をとつて強き事を専にして、其わざをなすながれも有。或は小太刀といひてみじかき太刀をもつて、道を勤むるながれも有。或ハ、太刀かずおほくたくみ、太刀の搆を以て表といひ奥として、道を傳ふる流も有。これミな實の道にあらざる事也。此巻の奥に慥に書顕し善悪利非をしらする也。我一流の道理、各別の儀也。他の流々、藝にわたつて身すぎのためにして、色をかざり花をさかせ、うり物にこしらへたるによつて、實の道にあらざる事か。又、世の中の兵法、劔術ばかりにちいさく見立、太刀を振ならひ身をきかせて、手のかるゝ所をもつて、勝事をわきまへたる物か。いづれもたしかなる道にあらず。他流の不足なる所、一々此書に書顕す也。能々吟味して二刀一流の利をわきまゆべきもの也。 (五輪書・風之巻)
09 武 公 伝 研 究 余 滴  Back   Next 
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――年の瀬も押し詰まりまして、本日はご多忙にもかかわらず、またお寒い中、恒例のごとく参集していただき、ありがとうございます。この「坐談武蔵」も今回で九回目。まだまだ話は尽きません。
――どうして、こんな寒くて忙しい時にやるのかね。
――まあまあ、文句を言わずにやりましょう(笑)。まず雑談になるが、今年のスポーツ界の話題は、いわゆる「不祥事」ですな。ボクシングの亀田ファミリーとか、相撲の朝青龍とか、時津風部屋のリンチ殺人とか。
B――時津風部屋のリンチは論外だが、亀田ファミリーや朝青龍を、ルール違反だと槍玉に挙げるマスコミのリンチは目に余る。
――亀田兄弟のワルガキぶりを、結構楽しんでいたはずなのに、スターに祭り上げて、その後これをみんなで寄ってたかって引きずり落とす、という例のリンチ・メカニズムだね。
A――それを、ワルガキぶりが許容範囲を超えたというので、叩き潰しにかかる。じゃ、どうなんだ、一時はあれほど亀田ファミリーの「ワル」のパフォーマンスに喝采しておったのは(笑)。
C――世間はそうそう寛容ではない。むしろ、たえず、みんなで槍玉に挙げてリンチできるスケープゴートを欲望している。その社会的メカニズムを扇動して食っているのがマスコミだぜ。朝青龍を袋叩きにした今回の件でも、たかが巡業をサボったというのが理由だ(笑)。
A――昔なら、巡業をサボって女遊びをしておる相撲はいくらでもいたし、それがアマノジャクな武勇伝として自慢話にもなっていた。ところが、朝青龍が巡業をサボって、母国モンゴルで少年サッカーに出て走り回っていたというので、非難囂々。これじゃあ、世間があんまり狭量だ(笑)。
B――だから、本当の理由は別にあるんだ。それはリンチ対象である亀田ファミリーや朝青龍に原因があるのではなく、この何となく苛立っている現在の社会感情だね、原因は。小市民的生活が苦しくなって、落ち目にさしかかった日本、この社会の底に蟠っているフラストレーションだね。
C――根底には差別があるね。朝青龍には外国人差別、亀田には不良=ワルへの差別。ようするに異質なものを排除する。
A――亀田バッシングには、被差別部落という差別のバイアスがかかった。
B――そして阿呆どもが、インターネットでそれを吹聴する。風評を拡大して喜ぶ。おい、おまえら、眼(ガン)を飛ばしただけで、ビビってチビるやつばかりなんだろ(笑)。
C――大笑いなのは、そういう社会的集団リンチを扇動する言説が正義の御旗を掲げることだ。横審(横綱審議会)とかいうわけの分からぬ委員会があって、朝青龍に対して「横綱の品格」云々を問題にする。そんな狭量な「品格」を問題にして、相撲界を抑圧することに血道をあげておる委員がいる。醜悪だね、あいつらは。
A――実際に、文字通り醜悪なご面相の委員もいるが(笑)。
C――ボクシングであれ、相撲であれ、それがどうして大衆人気を誘うんだ。とくにプロスポーツとなると、常人の域を超えた連中を戦わせて勝負させる。勝った負けたではなく、対戦格闘競技が本来もっている殺人的暴力、そこに露出する人間が戦うという暴力的シーンに魅了されているはずだ。
B――それだから、言うとだな、ようするに流血の喧嘩を見たいのだろ、ということ。スポーツマンシップというのは、アングロサクソン流の虚構なんだ。みんな、自分のアグレッションのはけ口を求めているだけなんだ。それを正直に言えよ、ということ。
C――その点で、亀田のオヤジは注目の人物だった。というのも、彼はこの社会において通じる言語がないということを体現したね。
A――このクソみたいな世間、どんなに有名になっても、世間は、やはり敵なんだ(笑)。
B――それは朝青龍のケースも同じ。通じる言語がない。何を言っても通じないから遮断していたよ。
C――ディスコミュニケーション。そういう意味で、学校のイジメと同じ構造メカニズム。社会の組織原理としての集団的暴力というものが、露呈したといえるね。
A――またまた不愉快な話だが、今年は防衛省トップのスキャンダルもありましたな。
B――ああ、れいの元次官君ね。おまえ、どうして腹を切らずに、おめおめと捕縛の縄につくのか。自衛隊の若者は泣いておるぞ(笑)。
A――志気に影響するどころじゃない。志気を挫いた。
B――昔なら、青年将校が血祭りに挙げたところだぜ。
C――しかし、接待ゴルフや焼肉屋や金品とか、ごく日常的な話だね。こちらのスキャンダルの槍玉は、異質性というより同質性だな。
A――というと?
C――世間のオヤジなら、だれでもあんなことをやっておる(笑)。下請けや取引先に、さんざんタカって、役得を享受しておるじゃないか。内心忸怩たる者は、おそらく百万は下るまい。
A――ウマイことやりおって、というところもある(笑)。賄賂というが、役人と袖の下は伝統的慣習。
C――脇が甘い。彼のやり方は、土建屋ならまったく合法だろうが、役人の世界であれをやっちゃあいかんな(笑)。
B――しかし、ゼネコンなら部長止まりの人材だぜ(笑)。役人の世界だから、トップにまで出世してしまった。
A――周囲は虚を突かれて、あれよあれよという間の出世だったという。しかし、監視が強くなって、政治家が軍備利権の甘い汁を吸えなくなった。その間隙をついた。あれが失脚して、わが世の春と喜んでいる連中が大勢いる。
C――しかし、防衛庁が防衛省に昇格したが、それを引っ張った者が、あれではね。文民統制というが、シビリアンの堕落は必然だ。まだ、みんな黙っておるが、軍は軍人が統制するしかない、という声も出ようよ。
B――トップが腐っておる。現場の兵士がいくらケナゲな志をもっていても、この汚染は頭から被っている。
A――いくら詭弁を使っても、自衛隊は軍隊なんだ。トップが腐っておれば、全体が腐る。
B――だから、本気で軍隊組織を健全化しようとすれば、そういうトップをテロるしかないというのが、昔の青年将校の論理だ。いまや、自衛隊三軍も、みんな事なかれ主義のいい子ちゃんになってしまったか(笑)。
C――今回のことで、一番の気の毒なことをしたのは、何も言わない第一線の兵士クラスだ。年末には、自衛隊のレンジャー部隊の若者諸君が、黙々と姫路城の石垣の掃除をしておった。見ると、つい、涙をチビりそうになったよ。
B――さすがに貴公も、年老いたな。
C――小便も近い(笑)。
































【辞書の宮本武蔵解説例】
《江戸初期の剣豪。名は政名、二天と号す。平田(新免)無二斎武仁の子。美作国または播磨国の生まれという。生涯六〇回の勝負に一度も敗れたことがなかったといわれ、巌流島で佐々木小次郎を倒したことは名高い。二刀による剣法を工夫し、「二天流」を創始、武道の奥義を説く「五輪書」を著した。絵画や彫刻にもすぐれ、「枯木鳴鵙図」などが伝えられている。(〜一六四五)》


Wikipedia


*【Wikipedia英語版】
《Miyamoto Musashi (宮本 武蔵, Miyamoto Musashi) (c. 1584 - June 13 (Japanese calendar: May 19), 1645), also known as Shinmen Takezo, Miyamoto Bennosuke, or by his Buddhist name Niten Doraku, was a famous Japanese samurai,, and is considered to have been one of the most skilled swordsmen in history.》

*【Wikipedia独語版】
《Miyamoto Musashi (jap. 宮本 武蔵 Miyamoto Musashi; * 1584 in Miyamoto; † 13. Juni 1645 in der Hohle Reigendo), wird von vielen als der groste Samurai aller Zeiten betrachtet. Shinmen Musashi No Kami Fujiwara No Genshin, bekannter unter dem Namen Musashi Miyamoto, wurde im Jahre 1584 in einem Dorf namens Miyamoto in der Provinz Mimasaka, als Shinmen Bennosuke geboren. Sein Vater war der Samurai Hirata Munisai, der in erster Ehe mit Omasa verheiratet war, einer Frau aus dem Clan der Shinmen; ihm wurde erlaubt, den Clansnamen zu fuhren.》

*【Wikipedia仏語版】
《Musashi Miyamoto (武蔵 宮本 note), de son vrai nom Takezo Shinmen (Miyamoto etant le nom de son village de naissance et Musashi, une autre facon de lire les ideogrammes ecrivant Takezo), (1584 -19 mai 1645) est l'une des figures emblematiques du Japon et le plus fameux escrimeur de l'histoire du pays.》




吉川英治記念館蔵
有馬直純宛書状の署名















ほかに、こんなのもあるけど→
アンサイクロペディア 
 Link 
――えーと、それでは(笑)。この武蔵サイトも、まもなく満五年になります。その間に、さまざまな研究公開が増補され、宮本武蔵関連として最大のコンテンツを有するサイトとなり、内容はこの通りハードなものですが、アクセスも相変わらず多く、宮本武蔵関連サイトの代表格になっております。まだまだ課題は多いということなのですが、何か一言。
C――明治の顕彰会本(『宮本武蔵』)に依拠した「吉川武蔵」流が支配的だったが、五年経ってみると、状況は少しは変った。このサイトへの反応をみると、この武蔵サイトが状況を変えたという。あまりそんな実感はないが、そんな評価があるところをみれば、これを始めた意義は一応あったということだな。
B――この武蔵サイトの趣旨は、武蔵研究の刷新向上にあるが、少なくとも、立ち上げの時の状況からすれば、変った、変えた、とは言える。
A――その当時、どういうレベルの状況だったか知りたい人は、この[坐談武蔵]の武蔵本合評会(第四回)をみればよい。八面六臂切りまくっているが、当時、世間の武蔵本は我々とはレベルが違いすぎた(笑)。
B――それを見て、面白かった、という感想がほとんどだが、しかし、我々は娯楽番組を提供するためにやっているのではない(笑)。
C――この武蔵サイトは最大のコンテンツということだが、現段階で分量はすでに単行本十冊はあるな。
B――出版物のようなハードコピーではなくて、インターネット上で研究を公開し、自由に閲覧できるシステムになった。これは明らかにメディアの革命で、そういう時代のベースというものがある。
A――我々もそれに便乗させていただいた。書物のような出版物の形態だと、それこそ何万円も支払わなくては、入手できない。これだけの質量の武蔵研究が、タダで閲覧できるなんて(笑)、よい時代になったと思ってもらわなくては。
B――出版要請もあるが、それはもう少し研究が進んでからだ。急ぐことはない(笑)。しかし、まだ過渡期なのか、本にしてくれ、書物で読みたい、という希望は多い。ハードコピーに依存する傾向はまだまだ強いな。
C――懸案の武蔵事典もある。武蔵に関する諸事項を整理し定義する仕事だね。これは当初から予告してあったが、やはりこれは作業の進展と並行するものだ。
B――物事の定義という本来からすると、妥当な定義は研究の結果もたらされるものだ。むろん不確定な要素が多いし、我々の間でもまだ意見の相違のある事項も多い。となると、まだこれは出せない(笑)。
――武蔵事典の話が出ましたが、数年前から日本語環境でも、ウィキペディア(Wikipedia)というWeb上の百科事典が普及してきました。これは、一般大衆がだれでも編集に参与できるという、いたって民主的なものでして(笑)、「宮本武蔵」という項目ももちろんあります。これをごらんになって、いかがでしょう。
A――宮本武蔵は圧倒的に記事量が多いし、関連項目も多い。しかるに、武蔵以外の他の兵法者・武芸者の項目は、まさに貧困。この隔差社会を何とかしてもらいたいものだ(笑)。
B――人気が宮本武蔵に偏りすぎておる。こういう均衡と公平を欠く偏向は、客観を旨とする百科事典としては根本的欠陥だな。
C――それも大衆的現象。まあ、けっこうなことではないか。世間の大衆が、現在の日本人が、武蔵をどう認識しているか、それがわかる。
A――英語版は、これはすごいな。武蔵は「シンメン・タケゾー」「ミヤモト・ベンノスケ」としても知られているだとさ(笑)。武蔵は播磨産としつつも、中身は吉川武蔵そのままじゃないか。小説と史実の見境いがない。
B――英語版は記事量は多いが、吉川武蔵がかなり暴走しておる(笑)。それはドイツ語版でも基本的に同じ。武蔵は美作国の宮本という村の産だし、例の「於政」まで出てくるぜ。フランス語版は記事量は少ないが、それでも武蔵の本名は「シンメン・タケゾー」だという(笑)。
C――他の兵法者、たとえば柳生宗矩は英語版にはあるね。『(兵法)家伝書』の翻訳があるから。ただし宮本武蔵ほど記事量は多くない。もちろん、フランス語版には、柳生宗矩はさすがに出てこない。
A――英仏語版にどれも「シンメン・タケゾー」という名が出てくるのは、どういうわけだ。だれが、こんなガセネタを教えたんだ(笑)。
B――外国語版の方は、武蔵への認識は、明治の顕彰会本の域を出ていない。少なくともあの解説知見は半世紀以上遅れておる。
A――例外は、日本語版を直訳しておる中文(中国語)版。日本語版ウィキペディアの宮本武蔵は、欧米版の宮本武蔵とはちがって、さすがに吉川武蔵じゃない(笑)。
C――よくは知らんが、日本語版でも最初は、吉川武蔵そのままだったそうだな。それからすれば、いちおう徐々に改良されてきておるということか。
A――現在出版されている百科事典や歴史辞典の類いをみると、笑ってしまうような「宮本武蔵」解説記事がある。それに対して、ウィキペディアのような素人が作る解説の方がまだマシという事態。これもまた、笑える光景ですな(笑)。
C――日本の百科事典や歴史辞典だって、執筆者をみると、武蔵研究に関して素人の連中が書いておる(笑)。だが、国民のマジョリティは吉川武蔵党だぜ。そういう意味では、百科事典の素人解説の方が「民意」を反映している(笑)。
B――だから、吉川武蔵を脱した解説がウィキペディアに登場しているとしても、それは、今のところ、声高なマイノリティの説にすぎない。サイレント・マジョリティの所懐は、ウィキペディアに反映されていない(笑)。ウィキペディアを字義通り民主的に運営すれば、吉川武蔵党が言説を支配するだろうな(笑)。
A――そうなると、宮本武蔵は、「美作国讃甘村宮本に生れた、二十九歳のとき佐々木小次郎と巌流島で決闘して勝った」という反動的な解説に回帰する(笑)。
C――そういう可能性は残っている。往々にして、「史実」は多数決で決まるものだ。イデオロギーとしての「史実」だね。しかし、真理は多数決で決まるものじゃない。それでも、やはり地球は回っている(笑)。
B――ただ、辛辣なことをいえば、ウィキペディアの宮本武蔵関連事項は、アマチュアの学芸会というありさまだな(笑)。これをみると、いろいろ武蔵本を読んで勉強しておるようだが、記述内容には胡乱で不正確な記事が多い。
A――たとえば、《現在、明らかに自筆とみなされている有馬直純宛書状・長岡佐渡守宛書状には「宮本武蔵玄信」と記し》云々と書いておるとか(笑)。
B――どこにそんな「宮本武蔵玄信」と署名があるか。照会問合せがあるから、この際言っておくが、書状本文署名は「玄信」で花押。現在の表装仕立では、切継ぎがあって表書右下に「宮本武蔵」だ。切継ぎ線を無視して、勝手に「宮本武蔵」と「玄信」を接合するなよ(笑)。
A――胡乱で不正確とはその類い。まあ、皆さんお勉強中なんだ(笑)。文責がないアマチュア流儀で、「といわれている」「とされる」「という意見もある」と書いておるが、だれがそんなアホなことを言っているのだと、ついツッコミを入れたくなる、「という意見もある」(笑)。
B――皆で寄ってたかって作っていくものらしいから、諸説並立という形態は避けがたいだろうさ。あちこち関連項目が増殖しているようだが、自分の本を参考文献に仕立てて自己宣伝の場にしておるやつもあるし。何でもありの、大らかで野放図な世界のようだ(笑)。
C――まあ、それがアマチュア世界というものだ。それはそれでいいんだ。まだ、初期段階でアナーキーな状態だね。他の、たとえば柳生宗矩等の項目記事と比較すれば、歴然としておるが、宮本武蔵の項目は、異常に活気があって乱雑、しかも異様に長い(笑)。恥をさらしている者もいて、ドタバタというところだろう。
――本サイトに寄せられた提案には、「ウィキペディア・ウォッチング」というのがあります。ウィキペディアはどんどん書き換えられる。だから、その宮本武蔵関連事項を監視して、その都度の記事について、本サイトで論評してもらいたいということでした(笑)。
C――それは、お笑い番組になるからねえ(笑)。この武蔵サイトでやらせれば、おもしろかろうというので、そんな提案があったのだろうが。しかし、たとえ善導のつもり、善意の誘導であっても、そんな介入はよくない。米帝のイラク介入と同じことだ(笑)。
B――愚行は放任すべし(笑)。我々のだれも、そんな娯楽番組を提供するほど暇人ではない。ウィキペディアは我々の武蔵サイトへの直リンクもしておるようだから、まあせいぜい勉強して、徐々に知識・認識を改善してもらおう。
A――しかし、小説家の方は、認識がかなり遅れているねえ。平成の世になっても、宮本武蔵は「美作国吉野郡讃甘村宮本」に生れた、と書き出す作家連中がいる。
B――讃甘村というのは吉川武蔵の口移しでしかないが、讃甘村という村名が武蔵の当時あったか。それだけでも話はズレておる。『東作誌』の時代でも讃甘庄という庄名はあるが、そんな讃甘村という村名はない。
C――それは明治の諸村合併政策の産物でできた村名だよ。明治二十二年(1889)だな、吉野郡の六ヶ村(西町村・今岡村・宮本村・中山村・下庄村・小原田村)を統合して新設した村だ。
B――そこで、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』が、「英田郡(古の吉野郡)讃甘〔サノモ〕村大字宮本に武蔵屋敷跡が現存する」と書いたのを、吉川英治以来反復しているわけだ。明治の村名を顕彰会本が書いたのは、我々がいま「現・岡山県美作市宮本」と注記するのと同じことだ。顕彰会本は、そういう意味で書いたのだが、小説書きはこれを武蔵当時の村名だと勘違いした。
A――それで、前にもどこかで言ったことだが、いまだに宮本武蔵は「美作国吉野郡讃甘村宮本」に生れた、と書くやつがいる。武蔵は明治生れか(笑)。
B――しかも、吉野郡に宮本村はまだなかった。吉野郡宮本村古事帳の記事によれば、宮本村は下庄村から分村して新しく設けた村だが、それが三十二年前だという。元禄二年からすると、それはむろん明暦年間。武蔵死後のことだ。
C――しかし、それより八十年ほど後の明和年間の美作国絵図をみると、どうだ、下庄村や中山村はあるが、宮本村はまだ存在していない。『東作誌』当時の美作国絵図(文政12年再板)なら、宮本村は出てくる。
A――すると、宮本村古事帳の現在=元禄二年は疑わしいな。宮本村古事帳の記事は、あんがい新しい。十八世紀後期の状況を反映している。
C――そういうこともありうる。『東作誌』の十九世紀はじめには、宮本村はすでに出来ていた。だが、明和年間の国絵図に出てないということは、少なくとも、十八世紀後期までは、宮本村はまだ分村成立していなくて、宮本村なる村名はなかったと確認できる。
B――ようするに、武蔵の生存期間中には、宮本村はまだ存在しない。それどころか、武蔵が死んで百年以上たっても、作州には宮本村は存在しないんだぜ(笑)。だから、『東作誌』の時代ならいざ知らず、天正生れの武蔵が「作州宮本村」産だということはできない。
C――だから、もういい加減に、「作州宮本村生れ」と書く愚かさに気づけよ、ということだ。
A――そうなると、『東作誌』が記録した美作の「宮本武蔵屋敷」なる伝説は、宮本村ができた後のことで、話はずいぶん新しいということになる。
C――現在、観光開発されて宮本武蔵ワールドになっているあのあたりが、いつから「宮本」というようになったか、それを調べてみることだ。
A――近代、讃甘神社に名を変えた荒牧大明神、この神社の創建時期ははっきりしない。
B――十九世紀の『東作誌』によるしかないが、実はこの神社、近くの山にあったが、天正の頃に兵火に焼かれた。それを寛文年間に現在地へ移したという話はあるがね。そうなると、天正当時はまだ「宮本」なんて地名はなかったかもしれんな。
C――神社がまだなかったとすれば、神社のそばを意味する「宮本」という地名は出来ない。古事帳のいう「宮本」武仁なんて人物も出ようはずがない(笑)。
A――美作の吉野郡に、「宮本」武仁の子・「宮本武蔵」なんて者も出てくるはずがない(笑)。
B――近年、さすがに武蔵は美作産だという説は後退したが、そんな旧説を維持しているのは作家くらいのものだろう。小説書きは不勉強だから、三、四十年前の武蔵本を参照しておる化石みたいなやつが、いまだにおる。(笑)。
C――この夏、ある作家と話をしておったら、武蔵小説を書きたいが、吉川武蔵のフレームを壊して新しいものを書きたいというんだ。それで、こっちは、「やってみな」というたのだが、新しいフレームについて、ご指南あれと頼むのさ。
B――だけど、作家連中の言い訳では、吉川武蔵のフレームを外して書くと、本屋が承知しない(笑)。だからしようがなくて、書いておると云うやつもいる。吉川武蔵のフレームを外すと読者がついてこない、読者にウケないようであれば出せない、というわけだ。
A――「大衆は大知識である」(笑)。
B――それで、武蔵小説は吉川英治の枠組みを外せない、そんな小説が生産されているという状態。一部を除いて、小説書きは時代遅れで、状況に追随する保守的なものだぜ(笑)。
C――だからね、吉川武蔵のフレームを壊したいという作家のために、座興で少し話をしてやったが、かなり難渋しておったよ。それほど固定観念の縛りがきつい。
B――明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の説は、百年も生きのびたわけだ。それを思うと、あの影響は強力だった。もちろん、その影響力を何層倍にもしたのは、吉川英治の小説『宮本武蔵』だが。吉川自身は、あれはフィクションなんだ、小説と史実を混同してもらっちゃ困ると書いておる。しかし、その実、『随筆宮本武蔵』で、ぬけぬけとそのフィクションを史実だと正当化している。
C――我々は野暮なことは言わない。小説は小説でいいんだ。その物語の世界には固有の真実もリアリティもあるべきだ。しかし、それが実際の武蔵という人物への認識を侵蝕するとなると、これは異議を申し立てる必要がある。吉川英治は、武蔵に関して、ほとんどの日本人の頭を洗脳してしまった。「虚構の支配」という主題では興味深いことだね。
B――もちろん、その虚構の支配は、吉川英治一個の問題ではない。メディアという社会的政治的な問題だ。吉川武蔵を、戦前戦後を通じて支持したマス(大衆)の存在がある
A――戦前は、精神修養の文脈で読まれて、「これで、御国のために死ぬ覚悟ができた」という読者の反応があったし、戦後はその向上路線が欲望の文脈で読まれて、どんなに出自が卑しく家庭が悲惨であっても、ここまで成り上がれるぞと、励まされたという話になる。精神修養でも欲望路線でも、どちらでも読める(笑)。
C――戦前と戦後は一八〇度反転したイメージがあるが、戦後の高度成長を支えたのは、戦中、昭和十五年までに構築された国民総動員体制、その一九四〇年体制が戦後になって効果を現したということだ。我々の実感だと、民衆の意識は、そう大して変化してはいない。
B――吉川武蔵が、戦前戦後を通じて大衆に支持されたというのは、戦中に構築された国民総動員体制が戦後になって現実化したということだ。精神の国民総動員体制は、軍事的なアジア侵略戦争でも、経済的な高度成長でも変らなかったのだよ。




*【顕彰会本宮本武蔵】
《按に 武藏の出生地及その年月に付ては大に疑ふベきものあり、東作誌、新免家侍覺書等を総合し、及作州英田〔アイダ〕郡宮本村の古蹟口碑等を參考すれば、疑ひも無く作州にて出生せしものなること本文のごとし、その證は、現に英田郡(古の吉野郡)讃甘〔サノモ〕村大字宮本に武藏屋敷跡存し(もとは三十間四方にして石垣ありしを寛永十五年公命にて取壊したりと云ひ傳ふ)》

*【宮本村古事帳】
《宮本村之儀、右ハ下庄村と一村ニ而御座候。卅二年以前ニ下庄・宮本之間ダニ大川御座候、高水之時分御用等指支申候ニ付、御断申上ゲ、弐ヶ村ニ罷成、只今宮本村と申候》



美作国絵図 明和年間
宮本村は記載なし




讃甘神社
岡山県美作市宮本











宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武藏』
金港堂 明治四十二年





吉川英治『宮本武蔵』 初版本
大日本雄辨會講談社 昭和十一〜四年




牧堂文庫蔵
武公伝



個人蔵
二天記





*【二天記凡例補記】
《此書武公傳と有しを二天記と改て、宇野惟貞に序を乞ふて全書と爲す者也。 豊田景英校》

*【武公伝】
《   合志郡妻越村在宅
  安永[丙申]年龝七月廿九日卒
  村上八郎右衛門源正之先生
   舎兄村上平内正勝云
      兵法四代爲師範
  法名
     兵法二天一流五代
    法誠院新満義得居士 》

*【二天記序文】
豐田氏三世、能學其技而淑諸人。今子俊、校父祖所記、欲以示人。亦善繼志述事者也》
――このサイトでは、ここ数年、『丹治峯均筆記』や『武公伝』という武蔵伝記の研究が公表されるようになっております。[資料篇]「宮本武蔵伝記集」に出ているものですね。この伝記研究は、従来の武蔵研究の群を抜くものとして高く評価されております。『丹治峯均筆記』と『武公伝』という武蔵伝記の研究が進んだ現段階で、とりあえず、そのあたりを――。
A――『丹治峯均筆記』と『武公伝』の読解研究によって、武蔵伝記に関して大いに視野が開けて、話はすでに未曾有のレベルまで来ている。だから、それについて解説が必要なのではないかと(笑)。
C――まあ、それは第一に、『武公伝』の書誌学的位置づけだね。従来の諸説と我々の所説とは、かなり開きがある。これまでの『武公伝』の解説では、三十年ほど前だと、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の段階どまりで、『二天記』は最古の武蔵伝だという妄説が再生産されておった。
B――顕彰会本の著者・池辺義象は、『武公伝』と『二天記』を混同した。池辺義象は、『二天記』は旧名が「武公伝」で、肥後八代の豊田正剛・正脩・景英、この豊田家三代の手を経て成ったという認識だ。
A――それは、『二天記』冒頭掲載の「凡例」に、豊田景英が附文して、本書は、もともと「武公伝」というタイトルだったが、それを「二天記」と改めて、宇野惟貞に序を乞うて全書とした、なんてことを書き付けたからだね。
B――そうすると、粗忽な誤認を生産する原因は、景英のその一文にあったわけだ。『二天記』は、『武公伝』という書物の題名を変えたにすぎないもので、内容は同じだろう、名前が違うだけだ、と。
A――『二天記』は『武公伝』と、文体も内容も違うから、これを同じ書物とはみなしえない。すると、どうして景英はこんなことを書いたの、ということになる。
C――もちろん、景英は、それまで関わっていた『武公伝』改訂作業をあきらめて、『武公伝』とは違う一書を新たに書き下したのだが、その書下しの新著のタイトルも、最初は『武公伝』という名を継いだものだったかもしれない。
B――それはありうることだろな。景英は、父・正脩がやり遺した武蔵伝記を仕上げるという意識があったのだから。
C――で、書下しの新著は『武公伝』というタイトルを襲名するつもりだった。ところが、たぶん、宇野惟貞に草稿を見せて、意見を聞いたのだろう。宇野惟貞は、首をひねった。この「武公」というのは、ちょいと具合が悪いな、読者を流派内部の人間に限定しない方がよかろう。もっと一般的な書物にしなければ、というあたりかな(笑)。
A――『武公伝』では、武蔵は一貫して「武公」だが、『二天記』の主人公の名は「武蔵」になっている。すると、『二天記』という題名にすると決めたときから、主人公名「武公」を「武蔵」に差し替えたのかな。
C――ただ、そうとばかりは言えなくて、『武公伝』に景英が増補したと思われる部分は、周到に「武公」という名を避けている。すでに、改訂増補の段階で、そうだったとすれば、「武公」という名は使わないと決めたのは、『二天記』という題名にすると決めたとき以後でもあるまい。
B――そうだな。そのあたりは問題が残るが。
C――景英が『武公伝』に書いた記事のほぼ最後のものは、れいの村上八郎右衛門の法名・忌日の記録だね。八郎右衛門は秋七月に卒だから、この記事はそれ以後に書かれている。他方、『二天記』が書き上げられ、宇野惟貞に序文をもらうのが冬十一月。この間の数ヶ月で、景英は『二天記』となる一本を書き下している。これは『武公伝』の内容を熟知していた景英のことだから、無理な期間ではない。
B――そして、一応『武公伝』として書上げたものを、たぶん、宇野惟貞に草稿を見せて、意見を聞いたのだろう。宇野惟貞は、もっと一般的な読者に読ませるものにした方がよいと助言したのだろう。
A――「宮本武蔵」は、当時、大衆文化の中でかなり有名な名になっていたからね。いかし、それは虚像だと。
C――「真説宮本武蔵」(笑)。じっさいは、そういう意識で書かれたものだろう。世間では一般に宮本武蔵を「武蔵」と呼んでいる、すると、今さら流派内部の呼称にこだわって「武公」「先師」でもあるまいと。そういう状況背景は考えられるな。
B――それと、豊田景英は、村上八郎右衛門の代見役として教えていた。景英は、二天一流村上派の門流だな。村上派では、すでに対外的には「武蔵」と呼んでいたかもしれない。
C――八代の学校は、文学稽古所の「伝習堂」と兵法稽古所の「教衛場」。その教衛場で師範代をつとめたということだ。学校だから、それまでの私塾の形ではない。そういう学校という空間での言語としては、流派内部の閉じた言語がオープンな性格に変る。そういう学校の言語空間の中で、閉鎖的言語が開かれていく過程で、「武公」という限定呼称は「武蔵」という一般的な呼称へシフトする。
A――それが『武公伝』と『二天記』のフレームの相違だということですな。
B――とにかくね、「武公伝」とあったのを「二天記」に改めた、つまり「武公伝」というのは『二天記』の前名だという意味のことを景英が書いている以上、これを虚言としないかぎりにおいて、景英の書下しの新著は、当初は『武公伝』というタイトルを襲名して書いたということになる。
A――景英の言を虚言としないかぎりにおいて、ですな。その仮定では、もとは「武公伝」だったタイトルを「二天記」に変えたというのは、自分の新著のことであって、本来の『武公伝』を指すものではない、ということになる。
C――ただ、それは善意の解釈であって、実際には、景英は『武公伝』をかなりの部分、改訂増補しかけている。そういう景英の意識としては、『武公伝』『二天記』の間はシームレスだったと見るべきだろう。時代に合わせて、新しいスタイルで書き直しただけだと。そこで、もとは「武公伝」だったタイトルを「二天記」に変えた、と書いたのだろう。
B――『武公伝』は家伝の書だからな。しかし、その一節を、明治の顕彰会本の池辺義象は誤解した。『二天記』は『武公伝』を改名しただけのものだから、『二天記』イコール『武公伝』だと。そうなると、『武公伝』はその固有のポジションを失う。
A――『武公伝』は自身の立場を失った。この世のどこにも定位をもたない、幽霊文書になってしまった(笑)。
B――そのように『二天記』イコール『武公伝』だとなると、明治になって、『二天記』に『武公伝』は書誌学的な位置を奪われたということだ。その結果、『二天記』は最古の武蔵伝記だという妄説に行き着いた。
A――あとは周知のごとく、近年まで、『二天記』は最古の武蔵伝記だという妄説が一般的だった。その後、それに対する修正説が出て、『二天記』は宝暦五年(1755)成立ということになった(笑)。
B――それは『二天記』冒頭の「凡例」の期日を見てのことだが、この「凡例」はどう見ても『二天記』ではなく『武公伝』の「凡例」だということを知らないからね、そういう珍説を興行することになった。『二天記』は宝暦五年(1755)成立と書いた武蔵本は、まだそのあたりにゴロゴロしておる。
A――それから次に、こんどは、いやいや、『二天記』とは別に『武公伝』という書物があるぞ、という再発見になった。
C――それで、ようやく、『二天記』イコール『武公伝』という図式が崩れて、『武公伝』に書誌学的なポジションが再交付されるようになった。『武公伝』は不遇な時代を乗りこえたというわけだ(笑)。
B――ところが、『武公伝』に書誌学的位置づけをしたのはよいが、『武公伝』の著者は「豊田」正脩、宝暦五年成立という珍説が生じた。これは、宝暦五年(1755)成立という事項を、『二天記』から『武公伝』へ奪還したつもりのようだが、『二天記』の景英奥書を読んでいないとみえる。
C――いうまでもなく、そこには、父・八水正脩は、『武公伝』を完成させずに病死してしまったと明記しておる。正脩は『武公伝』を死ぬまで書いていたが、結局未完成のまま、明和元年(1764)に死んでしまった。そうすると、『武公伝』が宝暦五年(1755)成立というのは虚説だということになる。
A――『武公伝』は未完成の書だから、一度も「成立」などしなかった(笑)。それから、よくあるのが、『武公伝』の著者は、「豊田」正脩だという謬説。
C――正脩が豊田から橋津へ改姓したのが、元文二年(1737)。宝暦五年よりも二十年近く前だ。だから、むろん宝暦五年には「豊田」正脩という名の人物は存在しないわけで、ここは「橋津」正脩としなければならない。
B――正脩の八水号の問題もあったな。景英が書いた豊田氏先祖附の記事だと、正脩が「八水」を名のるのは隠居後、すると隠居歿年の明和元年(1764)の号だ。宝暦五年(1755)に「橋八水」と署名することはない。だから、『二天記』冒頭の「凡例」の期日記名には疑義が生じる。けれど、この点は本サイトですでに何度も言及されているから、ここでは省略しよう。
――その件も含めて、本サイトの研究プロジェクトを通じて提起された未聞の問題は数多くあります。そのなかでも、やはり、『二天記』の著者・景英が『武公伝』の記事も書いていた、という点。これが本サイト読者諸君に大いにウケております(笑)。
A――武蔵本はだいたい読んでいる人たちだからね、そんな話は聞いたことはない、知らなかったというわけだ。
B――しかし、そんなことは『武公伝』を読めばわかることなんだ。我々の間では昔からそういう認識はあったが、それを公表したら、そんな反応が出たというにすぎない。
A――従来、武蔵研究書を書いて『武公伝』に言及してきた連中は、その書いている内容をみると、ようするに『武公伝』を読んでいないとわかる(笑)。
C――『武公伝』を読まず、読めず、というところだな。にもかかわらず、『武公伝』とは、なんて、解説を書いておる。この武蔵サイトが登場するまでは、武蔵研究はどうしようもないレベルだったのだよ。
B――ようするに、明治の顕彰会本以来、百年にわたる研究怠惰が続いたということだぜ。『武公伝』読解(本サイト[資料篇]宮本武蔵伝記集所収)の解題のページを見てもらえばよいが、『武公伝』と『二天記』に関する我々の当面の所見はそこに書いてある。
A――それでようやく、百年にわたる怠惰の罪、その負債は返済できたとね(笑)。


*【豊田氏先祖附】 景英
《私儀、御馬廻組ニて御式台御番相勤居申候処、安永元年正月御台所頭被仰付候、同二年九月御台所頭御断奉願候処被差免、御式台御番被仰候。同三年四月二天一流の師範村上八郎右衛門代見ニ被仰付、同年十二月為稽古料毎歳金子百疋被為拝領候。同四年九月奉願名を守衛と改申候、同九年五月二天一流の師役被仰付、御式台御番相勤居申候》(天明元年提出、豊田守衛名)






個人蔵
二天記 凡例



個人蔵
二天記 奥書

*【二天記奥書】
《已至父八水甫、以上去先師之世愈遠、夫人區説不分眞偽、不辨溢美、附会復滋多、於是採輯祖父所録、讀之、其信而明無有、若此者、因以爲、學此流者、不知先師之事、固不可也。況於聽誤以爲眞者乎。是以抄書其所録、加之以自所傳聞。書未成、會不幸病歿矣。景英傷其事不卒、且先師之跡茅塞焉。故謹校之。如其文猶未脱藁、唯取明事実耳。恐致毫釐過千里、是以不敢改之。幸我同志之人垂裁焉。
  安永[丙申]仲冬日
        豊田景英子俊書 》


*【豊田氏先祖附】 正脩
《明和元年五月隠居奉願候処、願の通被仰付、此間御役儀品々被仰付候処、出精相勤被遊御満足候旨ニて御紋付御帷子被為拝領、老病保養仕、折々教衛場武蔵流兵法稽古見締ニ罷出候様被仰渡、名を八水と改、同年十月病死仕候》


「宮本武蔵伝記集」→   Enter 


*【武公伝】
《寛永十八年[辛巳]二月忠利公ノ命ニ依テ、始テ兵法ノ書三十九箇条ヲ録シテ献之》
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス》

*【二天記】
《寛永十八年ニ命有テ、初メテ兵法ノ書三十五ケ條ノ覺書ヲ録シテ差上ラル》
《同五月十二日、寄之主、友好主へ、爲遺物〔遺物として〕、腰ノ物并鞍ヲ譲リアリ。寺尾勝信ニ五輪ノ卷、同信行ニ三十五ケ條ノ書ヲ相傳也。其外夫々ノ遺物アリ》


熊本市立博物館蔵
二天一流兵法三十五箇條
寺尾信行五法技解併ニ奥書
これも三十九ヶ条版兵法書



個人蔵
尾張円明流伝書
兵法三十五箇条目録と五搆之巻



個人蔵
時中流 諸流極意秘伝之巻
享保十六年




*【肥後兵法書の分化】

兵法三十九箇条┬五搆(五法)之巻
       |
       └兵法三十五箇条
C――今回は時間がなさそうだから、話を先に進めよう。何でもよいが。
――ひとつは、たとえば、『武公伝』に三十九ヶ条の兵法書というのが出てきます。『二天記』は三十九ヶ条ではなく、三十五ヶ条です。今日知られているのも、「兵法三十五箇条」という文書。これは、どういうことかと。
B――今日周知の「兵法三十五箇条」というのは、『二天記』の記事を採った明治の顕彰会本の影響だな。そこには三十五ヶ条版兵法書を収録している。それ以外にとくに理由はない。『武公伝』が早く世に出ていたら、そういうことにはならなかっただろう。実際に、三十九ヶ条の兵法書がたくさん残っているわけだから。
C――問題は、『武公伝』段階では三十九ヶ条なのに、『二天記』になると、どうして三十五ヶ条と言い出したんだ、ということだね。三十九ヶ条→三十五ヶ条と減数したのはどういうわけなんだと。
A――ところが、今日研究者の間で、三十九ヶ条は三十五ヶ条の増補版だという説がもっぱら。これはどこからくる誤認なんだと。
C――『武公伝』段階では三十九ヶ条、『二天記』になると、三十五ヶ条。この順序からすると、三十九ヶ条が先で、三十五ヶ条が後になる。このプロセスを無視して、三十九ヶ条は三十五ヶ条の増補版だというわけだが、それは謬説だとしか言いようがない。
B――『武公伝』段階で三十五ヶ条、『二天記』になると三十九ヶ条に増えた、そういうことなら増補説も根拠があるということになる。ところがそうではない。逆だ。となると、『二天記』の記事を頭から信じて、『武公伝』の三十九ヶ条という記事は無視するということだな。そうでもないかぎり、そんなアホなことは言えない(笑)。
C――祖父の正剛の段階でも三十九ヶ条、父の正脩の段階でも三十九ヶ条。それが、どうして、景英の代になって三十五ヶ条になったかというと、それは、他派が三十九ヶ条なのに、村上派の兵法書が三十五ヶ条だったから、というほかは理由はなさそうだ。景英は村上派門下だから。
A――景英は村上派の伝承に忠実だからね(笑)。
B――寺尾派と村上派の対立もあって、正統の寺尾派は完全版の三十九ヶ条を伝承したが、傍系の村上派は不完全版の三十五ヶ条を伝承する羽目になった。そんなことも考えられるが、そうじゃない。村上派は、三十九ヶ条を分割して、表五つ、五方の構え(五法)とその他を分けたようだ。
A――尾張円明流の伝書だと、「五搆之巻」というのが、独立してありましたな。
B――「兵法三十五箇条目録」と「五搆之巻」は別巻にしておる。この二巻でワンセットということだから、兵法三十五箇条だけが単独であるわけがない。
C――二巻ではなく、一巻のばあいは、表五つ、五方の構え(五法)の名を冒頭に列記して、後に三十五ヶ条を置く兵法書の構成。これは三河武蔵流でも同じ構成で、頭に表五つの名をおく。これがないと、武蔵流兵法書は完備しない。
B――逆に、兵法三十五箇条の巻物がなくて、五方の搆えの巻が単独で伝授されたケースもある。たとえば、越後の時中流などは、肥前の鉄人流に類似の伝承内容だが、五つの搆えの巻を独立して伝授しておる。
C――ああ、あれは諸流の秘伝要諦を列記して、それから、「五箇位」として五つの搆えを書いている。時中流ヴァージョンの五搆之巻だね。五輪書の相伝も、兵法三十九箇条の相伝もないが、武蔵の流派としては、五つの搆えの巻は欠かせなかったらしい。これは、五つの搆えの巻が流出して、青木休心を祖とする時中流にも取り込まれたということだな。
A――時中流は、円明流系統で、伝書にはあれこれ秘儀的な術名を満載しているが、老後の武蔵は、「五箇位」、搆えは五つ、と割り切っていたということは認識されていた。
C――老後の武蔵はね、というわけだ(笑)。他のケースだと、若狭小浜の武蔵流など、本多家中で明治まで存続した武蔵流兵法だが、伝書をみると「五法」の伝授があった。この「五法」は、五方の搆えのことだが、それは、『武公伝』に出てくる記事、橋津正脩が堤次兵衛から相伝をうけたという「五法」だね。肥後では、もともと、五方の搆えの相伝ということがあったらしい。
A――もちろん武蔵は、五輪書で、まず五方の搆えをマスターしろ、と言っている。
C――まず、五方の搆えの習得、それから次に…というわけだね。だから、三十九ヶ条兵法書を二つに割って、五方の搆えと三十五ヶ条の二つにする素地や背景は、はじめからあった。だけど、実際にそうしたのは村上派で、そこで、兵法三十五箇条というものができた。尾張や三河でも、「五七之巻」、三十五ヶ条だが、そうした肥後兵法書の他国への流出は、村上派伝書が元本だろう。
B――肥後村上派の「表五つ、プラス三十五ヶ条」という構成の文書は、表五つの部分と、そのプラス三十五ヶ条の部分がそれぞれ独立して流通するようになった。
C――十八世紀中期に村上派の勢力が大きくなって、以後は「三十五箇条」と呼ぶ方が主流になった。ところが、「三十五箇条」という表題をもつのに、中身は三十九ヶ条のままという伝書もある。タイトルだけ「三十五箇条」(笑)。
B――だから、その「三十五」という数の表示、「三十五箇条」というタイトルが支配的になったということだ。
兵法書三十九ヵ条 兵法書三十五ヶ条
  1 此道二刀ト名付ル事
  2 兵法ノ道見立所ノ事
  3 太刀取樣ノ事
  4 身ノカ丶リノ事
  5 足フミノ事
  6 目付ト云事
  7 五方ノ搆ノ次第
    一 喝咄切先返 中段
    二 儀段ノ搆 上段
    三 ウチヨクノ搆 右脇
    四 重氣ノ搆 左脇
    五 スイケイノ搆 下段
  8 間積ノ事
  9 心持ノ事
 10 兵法上中下ノ位ヲ知事
 11 糸カ子ト云事
 12 太刀ノ道ノ事
 13 打トアタルト云事
 14 三ツノ先ト云事

 15 太刀ニカハル身ノ事
 16 陰陽二ツ足ト云事
 17 劔ヲフムト云事
 18 陰ヲヲサユルト云事
 19 影ヲ動カスト云事
 20 弦ヲハツスト云事
 21 尾櫛ノヲシヘノ事
 22 拍子ノ間ヲシルト云事
 23 子バリヲカクルト云事
 24 枕ヲ押ユルト云事
 25 景気ヲシルト云事
 26 敵ニ成ト云事
 27 残心放心ノ事
 28 縁ノアタリト云事
 29 シツカウノツキト云事
 30 シウコウノ身ト云事
 31 タケクラヘト云事
 32 扉ノ教ヘト云事
 33 將卒の教ノ事
 34 有搆無搆ト云事
 35 場ノ次第ト云事
 36 多敵ノ位ノ事
 37 岩尾ノ身トナル事
 38 期ヲ知ト云事
 39 萬理一空ノ事
  1 此道二刀と名付事
  2 兵法の道見立処の事
  3 太刀取樣の事
  4 身のかゝりの事
  5 足ふみの事
  6 目付の事






  7 間積りの事
  8 心持の事
  9 兵法上中下の位を知る事
 10 いとかねと云事
 11 太刀の道の事
 12 打と当ると云事
 13 三ツの先と云事
 ☆ 渡を越すと云事
 14 太刀に替る身の事
 15 二ツの足と云事
 16 剣を踏むと云事
 17 陰を押ゆると云事
 18 影を動かすと云事
 29 弦をはつすと云事
 20 小櫛のおしへの事
 21 拍子の間を知ると云事

 22 枕の押へと云事
 23 景気を知ると云事
 24 敵に成ると云事
 25 残心放心の事
 26 縁の当りと云事
 27 しつかうのつきと云事
 28 しうこうの身と云事
 29 たけくらへと云事
 30 扉のおしへと云事
 31 将卒のおしへの事
 32 うかうむかうと云事


 33 いはをの身と云事
 34 期をしる事
 35 万理一空の事
A――しかし、今日「兵法三十五箇条」として知られて、岩波文庫にも五輪書の付録に入っているその三十五ヶ条版は、実際には三十六ヶ条。なんと、一つ多い(笑)。
C――三十九ヶ条にない条項が三十五ヶ条ヴァージョンには一つある。中ほどの「渡を越すと云事」というやつね。それを新しく入れたものだから、中身は三十六ヶ条になった。したがって、三十六ヶ条の中身をもつ、今日のいわゆる「兵法三十五箇条」はかなり新しいヴァージョンだな。
A――とすれば、それを原型なんぞとみなすわけにはいかない。今日の一部の所説は、話が逆なんだ。最新のものを最古のものと錯覚している。
B――そういうことになるな。三十五ヶ条が三十六ヶ条になったのは、その系統の伝承過程で変化があったということだね。だからだな、「三十五箇条」というタイトルは文字通り名目。
C――たぶん、「五」「七」の三十五だろう(笑)。いや笑い事じゃなくて、吉数の掛け合わせ。尾張円明流や三河武蔵流では、「五七之巻」と呼んでいた。
B――現在でも、法事なんかで四十九日を縮めるばあい、六・七、四十二日ではなく、三十五日にしたりする。
A――四十二ヶ条というのもありますな。
B――それは、五方の搆えを一ヶ条ではなく、五ヶ条として勘定するから、合計四十三ヶ条になるが、これも名は「四十二」になる。どうしても七の倍数にしたかったようだ(笑)。
C――「四十二箇条」という名が主流にならなかったのは、「五」「七」の三十五の方を吉数としたからだろう。しかしそれは、後人が縁起をかついでそうしたのだろうね。
A――そうすると、吉数に関係なさそうな「三十九箇条」が当初の数だということになる。
C――そういう結論になるな。ところで、『二天記』にも、三十五ヶ条ではなく、三十九ヶ条とするヴァージョンがあったな。
B――『二天記』写本にもいろいろヴァージョンがあってな、当会寄託の中の一本は、幕末の写本だが、「兵法ノ書三十九箇条」としている。
A――『二天記』写本のたいていは、三十五ヶ条。すると、それは単なる誤写本なのですかな。
B――ところが、そうとも言えず、他の記事にも相違箇所があって、それが『武公伝』の表現に類似しておるから、ひょっとしたら、『二天記』の初期ヴァージョンが回りまわってこの写本で残った可能性もある。
C――それは検討中だが、もしそれが『二天記』の初期ヴァージョンだということになると、景英は最初は、『武公伝』と同じく兵法の書を三十九ヶ条としていたが、後で三十五ヶ条に変更したということになる。あるいは、また、後の伝写過程で、どうしても三十五ヶ条にしたかった者が書き替えたとか。
B――まあ、そういうわけで、『二天記』に兵法の書を三十九ヶ条とするものがある。とすると、『二天記』の景英も、必ずしも最初から三十五ヶ条というわけではなかったということだな。
C――そういう可能性もある。これは重要なポイントだ。しかし、三十五ヶ条だ、三十九ヶ条だ、という前に、そもそもの話、五輪書に、兵法書を始めて書くと、武蔵が書いている以上、五輪書以前には兵法書は存在しないはずだ。
A――では、なぜ、武蔵が書いて細川忠利に進呈した「兵法三十五箇条」なんてものがあるんだ?(笑)
B――後世の仮託文書なんだよ、それは。武蔵が五輪書に、再三書いているのは、はじめて兵書を書くよ、ということ。この再三の「はじめて」を否定しないかぎり、「兵法三十五箇条」であれなんであれ、そんなものは武蔵は書かなかったというのが事実だぜ。
A――だいたい、『丹治峯均筆記』には、五巻の兵書(五輪書)以外に武蔵が別に兵法書を書いていたなどという記事はない。
C――もしそんなものがあれば、武蔵門流としては重要文書、柴任美矩は、立花峯均にそう言ったはずだよ。熊本に居た柴任がそんなものを知らないとすれば、柴任が居た承応年間には、まだ「兵法三十五箇条」なんてものは、この世に存在しなかった。
B――それと同じように、武蔵初期の「兵道鏡」なんてのも、武蔵は書かなかった。それは宮本武蔵守義輕という別人の作物か、そうでないとすれば、後世の仮託文書だ。
A――ようするに、五輪書に、あれほど武蔵が「はじめて書く」と何度も書いているのに、それがどういうわけか、無視されてきた。これも武蔵研究史のミステリーの一つですな(笑)。
C――それは、五輪書に「生国播磨」と書いているのに、どうしても武蔵を「生国美作」だと曲解していたのと同じだよ。五輪書をまともに読めない者が、依然として跋扈しておる(笑)。









龍安寺石庭 吉数七五三石組




個人蔵
二天記異本
兵法ノ書三十九箇條ノ覺書



*【五輪書】
《兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思ふ》(地之巻自序)
《右、一流の兵法の道、(中略)多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也》(地之巻後記)
《右、書付る所、一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のみ、書顕し置もの也。今始て此利を記すものなれば、跡先と書紛るゝ心ありて、こまやかには、いひわけがたし》(火之巻後記)

*【武公伝】
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之。序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ雌黄ヲ乞フ。春山、コレニハ斧鑿ヲ加フル寸〔時〕ハ却テ其素意ヲ失ン事ヲ愁テ、更ニ文躰法度ニ不拘、唯文字ノ差誤セル所マデヲ改換、且ツ義理ノ近似ナル古語ヲ引用テ潤色之ト也》
五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ》




個人蔵
二天一流兵法書序鈔
B――それから、次に行くと、『武公伝』にいう「五輪書序」という文書の問題があるな。
A――もしそうなら、五輪書に序文があったという話になる。
B――『武公伝』より早い志方半兵衛『二天一流相伝記』にも、五輪書を「序地水火風」の五巻と数えている。とすれば、十八世紀の中ばの一時期、肥後では、五輪書の序文というものがあったということだな。
C――もちろん、筑前二天流系統の五輪書、吉田家本五輪書には、序文は付いていない。吉田家本は、承応二年(1653)寺尾孫之丞→柴任美矩のラインだから、五輪書の最早期ヴァージョンの写本とみなしうる。それに付いていないということは、この「五輪書序」は、後世肥後で発生した文書、ということになる。
B――しかも『武公伝』によれば、これは泰勝寺の春山和尚が添削したという伝説のついたものだ。というわけで、『武公伝』にいう「五輪書序」については、伝説文書として無視してよかろうが、そこは一筋縄ではいかない。
A――「五輪書序」というこれは、いわゆる「二天一流兵法書」の序文ではないかと。
B――豊田正剛は、三十六歳のとき、「二天一流兵法書序鈔」という註解書(宝永四年・1707)を書いた。これが、『武公伝』のいう「五輪書序」なる文書ではないかということだな。これは、ある留保条件付きながら、同一視してよかろう。
C――すると、これが、一般に三十九ヶ条兵法書の序文になっておるのは、どういうことか(笑)。孫之丞系統の正脩なら、こういう話にはならない。『武公伝』のこの「五輪書序」というのは、正脩ではなく、景英段階での記入だろう。
A――ところで、その兵法書序文は、現在「五方之太刀道序」として残っている文書(熊本県立美術館蔵)と同類文書だという見立てができる。その五方之太刀道序と、豊田正剛の「二天一流兵法書序鈔」が注釈している文章はほぼ同じものですな。
C――五方之太刀道序は、文末に「因爲之序」(よって、これを序となす)と書いているから、何かの序文だが、最後に一行、「五方之太刀道」と書いておる。しかし、豊田正剛の「二天一流兵法書序鈔」には、「五方之太刀道」という文言について何も言及がない。だから、少なくとも正剛の段階では、「五方之太刀道」という一行はなかったとみなしうる。たぶん、この文書は新しい写本だ。
A――ところが、これが武蔵直筆の書だと言い出す輩がいる(笑)。
B――それは虚説もいいところだ。五方之太刀道序の原文を当たってみれば知れることだが、誤記がいろいろある(笑)。
熊本県立美術館蔵
五方之太刀道序
兵法書序文 五方之太刀道序
兵法之爲道、偶敵相撃利得于己、則三軍之場亦可移、何有町畦。而非面決戦、勝慮前定、有所待哉。其道可迪而不可離、其法可準而不可膠也。秘而不藏、辯而屡明、攻堅後節。洪鐘有撞、唯入堂奥而獲。
本朝中古、渉藝唱此法者、有數十家。爲其道、恃強而擅疎暴、守柔而嗜細利、或偏于長、好于短也。搆刀法託出數種、為表為。嗚呼、道無二致、何謬哉。鬻邪貪名之儔、舞法衒術、眩矅世人。勝其狭少、則所謂有術勝無術、片善勝無善。足云道耶、無所一取。吾儕、潜精鋭思、陳于茲而初融會矣。夫武夫、行坐常佩二刀。願其用之便利。故道根二刀、二曜麗天、法樹五用、五緯拱極。所以斡轉乎、歳運衝拒乎、突起也。爲搆、要有五法。時措有義、必非有操刀爲表奥。若夫一旦有故、則長短并挺。短非必長、則短而往敵。而短必亡、則徒手摶之。勝利無往不在吾也。至乃、尋不足而寸有餘。強可施而弱有設。皆欲不偏好、時執其中、而中者天下之正道也。我道斯規焉。或有間曰、庸有知與否乎。趙括蹶秦、留侯佐漢。有智無智相較、則何有魚目之唐突隋珠。抑古将有曰、劔一人敵、而不學撃萬、又隘局也。達己目之、萬陣勝北、完城陥潰。顯然相形、猶示其掌。咨、疇其爲小、又大也。凡習者、諄々然誘、能有旁達。非易而誥。其求之、釋曲趨正、日鍛月煉、勵己積功、則~而符會。目撃可存。周旋刑道、服闇不愆。他期無有噬臍。而後能得。儻有手技卓絶、騁百巧之變者、其技惟谷。傳人則猶拾瀋也。独吾道、得心應手、而必有爲百世師。亞此之後有言道。必從吾道也。道同一軌、何多哉。縱夫厭舊吐新、舎夷路踰回徑也。天鑑非誇而大。此道可言如茲。唯有誠心与直通耳。因爲之序

兵法之為道、偶敵相撃、利得于己、則三軍之場又可移、何有町畦。而非面決戦、勝慮前定、有所待哉。其道、而不可離。其法可準而不可膠也。秘而不蔵、辨而屡明、攻堅後節。洪鐘有撞、唯入堂奥而獲。
本朝中古、渉藝唱此法者、有數十家。為其道、恃強而擅疎暴、守柔而嗜細利、或偏于長、好于短也。搆刀法託出数種、為表為。鳴呼、道無二致、何謬哉。鬻邪貪名之儔、舞法衒術、眩矅世人。勝其侠少、則所謂有術勝無術、片善勝無善。足云道邪、無所一取。吾儕、潜精鋭思、陳于茲而初融会矣。夫武夫、行坐常佩二刀、願其用之便利。故道根二刀、二曜麗天。法樹五用、五緯拱極。所以斡轉乎、歳運衝拒乎、突起也。為搆、要有五法。時措有義、必非有操刀為表奥。若夫一旦有故、則長短并挺。短非必長、而往敵。而短必亡、則徒手摶之。勝利無往不在吾也。至乃、尋不足而寸有餘、強可施而弱有設。皆欲不偏好、時執其中、而中者天下之正道也。我道斯規焉。或有間曰、庸有知与否乎。趙括蹶秦、留侯佐漢。有知無知相較、則何有魚目之唐突隋珠。抑古将有曰、劔一人敵、而学撃万、又隘局也。達己目之、萬陣勝北、完城陥潰、顕然相形、猶示其掌。咨、疇其為小、又大也。凡習者、諄諄然誘、能有旁達。非易而誥。其求之、釋回趨正、日練月鍛、勵己積功、則~而符會。目撃可存、周旋刑道、服闇不愆、他期無有噬臍、而後能得。儻有手技卓絶、騁百巧之變者、其技惟谷、傳人則猶拾瀋也。独吾道、得心應手、而必有爲百世師。亜此之後有言道、必從吾道也。道同一軌、何多哉。縦夫厭舊吐新、舎夷路踰曲徑也。天鑑非誇而大。此道可言如茲。唯有誠心与直道耳。因爲之序

  五方之太刀道
(Web不表示文字) A:貝+色 B:言+巨
C――五方之太刀道序の誤記というのは、たとえば、《其道、可迪而不可離。其法、可準而不可膠也》という対句なのに、《迪而不可離》として「可」字を落としている。あるいは、《若夫一旦有故、則長短并挺。短非必長、短而往敵、而短必亡》とあるね、これは「則」字が抜けていて、《短非必長、短而往敵》とすべきところ。
B――他に誤字もある。「其求之、釋曲趨正」というところを「其求之、釋趨正」と書いたりしておる。他方、これは五方太刀道序の方が正しかろうという部分もある。兵法書序文の諸本は、《搆刀法、託出数種、爲表爲》とするが、これは、五方之太刀道序のように「為表為」とあるべきところ。兵法書序文の現存写本間には、他にもいろいろ相異も変異もあるが。
A――だけど、そのように、五方之太刀道序の文章が間違っていたり、正しかったりするというのは、なるほどたしかに、これまでだれも指摘しなかったことですなあ(笑)。
B――だから、それを我々が言ってやらなくてはならない。武蔵研究者を啓蒙し育成するというのが、本サイトの目的の一つである(笑)。近年、五方之太刀道序の翻刻文だといって出している例をみると、こんな短文なのに、六、七箇処も校訂が間違っているという杜撰なものだ。
C――ようするに、原文の誤りを正しく拾っていない。原文の誤りを看過しているところをみると、翻刻者が五方之太刀道序の現物を読んでいないのがわかる(笑)。ともあれ、明らかに誤写を含んでいるこの文書は、いうまでもなく後世の写本だね。
A――しかし、五方之太刀道序には、そんな誤記があるとしたら、もちろん武蔵直筆なんてことは、逆立ちしても言えない(笑)。
B――これが直筆なら、先師武蔵先生は、間違った文章を書いたが、それを後世の武蔵流末裔に訂正してもらったことになる(笑)。
C――ようするに、五方之太刀道序なる文書は、明らかに写本だよ。しかも、あまり質のよい写本とは言えない。
B――古体を模しておるが、書写した文章に誤写があるから、そこで馬脚が現われておる。そんな質のよくない写本を、武蔵直筆だなんてよく言うぜ。
A――これで、武蔵書筆作品がひとつ消えてしまった。嗚呼残念、お気の毒さま(笑)。




五方之太刀道序 異同部分

*【五輪書】
《一 兵法、他流の道を知る事
 他の兵法の流々を書付け、風の卷として、此卷に著はす所なり。他流の道を知らずしては、我一流の道慥に辨へがたし。他の兵法を尋ね見るに、大なる太刀を取て、強き事を專〔せん〕にして、其業をなすながれ、或は小太刀と云ひて、短き太刀を以て道を勤るながれ、或は太刀數多くたくみ、太刀の搆を以て、表と云ひ、奥と云ひて、道を傳ゆる流もあり。是皆、實の道にあらざる事、此卷の奥に、慥に書顯し、善惡理非を知らするなり。我一流の道理、各別の義なり。他の流は、藝に渡て、身すぎのためにして、色をかざり、花をさかせ、賣物に拵えたるによつて、實の道にあらざる事か。又世の中の兵法、劍術ばかり小さく見立て、太刀を振り習ひ、身をきかせて、手のかるゝ所を以て、勝事を辨へたるものか。何れも慥かなる道にあらず。他流の不足あるところ、一々此書に書顯すなり。よくよく吟味して、二刀一流の利をわきまゆべきものなり》(風之卷)

*【二天一流兵法書序鈔】
《此序玄信自序ストアリ、或疑フ、先生ハ播州ノ劔客新免無二ガ子ニシテ、少ヨリ兵術ヲノミ好ミ、長ニ及ンデ、斯方イヨイヨサカンニ修行シ、都鄙國々ヲ經回シ、是ヲ用テ生涯ノ業トセリ。然ニ此序多ク諸史ノ語ヲ引用、且文字畧来歴アリ。不知、何ノ暇アリテカ、此文藝ヲ爲ケン。蓋シ是他ノ学者ヲシテ偽作セシムル者ナラント。然レ共、余嘗テ私ニ聞之。先生肥陽ニ來テヨリ、泰勝寺ノ僧春山ニ参禅ス。而自此序ヲ作ツテ郢斧ヲ乞。春山、コレニ斧鑿ヲ加フルトキハ、却テ其素意ヲ失ン事ヲ憂テ、更ニ文躰法度ニ不拘、唯文字ノ差誤セル所マデヲ改換、且其義理ノ近似ナル古語ヲ引用テ潤色之ト。又先生ニ從テ方術ヲ習シ者ノ言ヲ聞ニ、其人トナルヤ、威儀重厚ニシテ、動作端正ナリ。毎ニ寂寞ノ中ニ處シテ、書畫或ハ聯歌ヤウノ事ヲ弄シテ、日ヲ過セシト也。因テ其作為スル五輪ノ書目ノ参學ニ於ル所、又古人ノ詩句ノ此道ニ意味ヲ可擬者アルヲ取テ書ル所ヲ見ルニ、筆力精研、文義惟肖タリ。故ニ知ヌ、他ノ手ヲ不假シテ、實ニ先生ノ沖襟ヨリ出デシ事ヲ。抑斯序ノ趣ヲ備ニ認得スル寸〔時〕ハ、則或ハ兵法ノ大小強弱長短邪正自他ノ分ヲ知事、或ハ吾兵法ヲ發揮スル事ノ由來ル所、或ハコレヲ師ニ傳ヘ習ヒ、且人ニ教導所、或ハ既往ノスギユキタルト未然ノイマダシカラザルト、皆是レ道ハ天下一理ナル事、凡テ吾道ノ體用心原精微ニ至マデ、自刄ヲ迎テ解ルガ如クナルベシ。如今余不敏ヲ不慚、聊其一二ヲ註スル。恐ハ、疎濶差繆ノ辜ヲ遁ル所ナキ事ヲ、閲者コレヲ訂正セバ、最モ亦萬幸ナラン》
C――しかし、その五方之太刀道序は無視しうるとしても、書写されてあちこちに伝わった兵法書序文の原型というものがあるとすれば、それは、武蔵が書いたものかもしれない、という可能性はあるな。
B――内容からすると、いかにも武蔵が書きそうな文章だ。《ああ、道に二致なし。何ぞ謬りをかさぬるや。邪を鬻〔ひさ〕ぎ名を貪るの儔〔ともがら〕、法を舞し術を衒ひ、世人を眩矅して、その狭少に勝つときは、則ち所謂、術あるは術なきに勝ち、片善は善無きに勝つ。道と云ふに足らんや。一つも取る所なし》とかさ(笑)。
C――五輪書風之卷だね。ただ、いかにも武蔵が書きそうな文章という、その「いかにも」があるね。過剰に武蔵的というあたりね、それがひっかかる。
A――それは今後の宿題ということにするとして、『武公伝』には、五輪書の序は、龍田山泰勝寺・春山和尚に雌黄(添削)を頼んだ、という伝説を拾っているが。
B――武蔵は五輪書序を書いて、その雌黄を春山に頼んだ。春山は、これに斧鑿を加えると、かえってその素意を失うことを心配して、文体法則には一切拘らず、ただ文字の間違っている所だけを改換し、そして意味の近似した古語を引用して、潤色したそうだ。――というようなことを書いている。これは肥後の武蔵伝記特有の春山和尚伝説だな。
C――この話は、豊田正剛が「二天一流兵法書序鈔」で書いているのと同じ話だから、正剛段階ですでにあった伝説だね。それを、景英が五輪書序の逸話に流用した。
A――しかし、おもしろいのは、その「序鈔」で正剛は、これが偽書だという説に対して抗弁していることだ。
C――序文偽作説というのは、この漢文の文章が、剣術修行に明け暮れていた武蔵の作文にしては文芸の教養がありすぎる、だれか学者の偽作だろう、ということだったらしいな。それに対し、豊田正剛が反証として挙げているのが、いま話に出た、春山和尚伝説。自分は、こんなことを聞いたことがある、といって、――武蔵はこの序文を書いて、その雌黄を春山に頼んだ。春山は、これに斧鑿を加えると、かえってその素意を失うことを心配して、少しだけ手を入れたという話を入れる。ようするに、こんな逸話があるのだから、武蔵がこの序文を書いたのは間違いない、というわけだ。
B――その伝聞も、《余曾テ竊ニ之ヲ聞ケリ》というのだから、反証材料にはならない。これは世間周知のことではないし、正剛以外には、あまりだれも知らないような秘話なんだ(笑)。
A――たしかに、それだと、反証材料にはならない。
C――たぶん、兵法書序文という文書が単独で流通しておったのだろう。豊田正剛は、それを武蔵著述と信じて、詳しい註解をやったのだね。豊田正剛は、「序鈔」冒頭に、《此序玄信自ラ序スト有リ》と書いておる。しかし、現存の兵法書序文諸写本は、《因爲之序》と結んでいるのが大半。これに対し、「序鈔」の引用文にのみ、《因自爲之序》とある。こちらの手元にある一本もそうだ。
B――豊田正剛が、《此序玄信自ラ序スト有リ》と書いている以上、正剛のヴァージョンは、《因爲之序》ではなく、《因自爲之序》と結ぶヴァージョンらしい。そうは言えるが、「序鈔」の引用文以外には、それを見ない。我々の知見の範囲外に、《因自爲之序》と結ぶヴァージョンがあるかもしれないが、これはネガティヴな留保だとしておく(笑)。
C――昔のことになるが、ある人物が、五輪書の序文は偽書だという話が書いてある、だから、「生国播磨の武士」云々のある五輪書の序文は偽書だと、云うわけさ。「ほほう」というわけで、そうして、よくよく聞いてみれば、それは二天一流兵法書序文、つまりこの漢文の文章のことを、五輪書地之卷冒頭の、武蔵が過ぎ越し方を回顧した和文の文章と混同しておった(笑)。
B――又聞きだから、どれという文書に直接当たってもいない。五輪書の序文というと、五輪書地之卷冒頭の自序部分と思い込んだ。アホな奴だった(笑)。
C――その序文なるものが漢文だということも知らない。昔も今も、そういうレベルの低級な話が多すぎる。
A――しかし、正剛が書いているような批判、つまり兵法書序文が偽書だという批判は、どこから出ていたのだろう。
B――それは肥後の武蔵流内部だろう。一番可能性があるのは、五輪書を相伝証拠物にしていた寺尾孫之丞系統だね。おれたちの相伝文書には、そもそも、そんな序文なんてないぜ。当流の相伝文書にないものが、どうしてあるんだ。そんなものは捏造文書に決まっている、というところだろうな。
A――志方半兵衛の『兵法二天一流相伝記』には、「序地水火風」の五巻構成で、空之卷の記載がない。寺尾=志方派の五輪書は空之卷を欠く。とすると、寺尾求馬助は、兄貴の孫之丞から空之卷を書写させてもらっていない可能性がある。
B――もし求馬助が、孫之丞から五輪書を相伝されていたとしたら、それこそ求馬助名の五輪書が多く残っていただろう。だから、もともと五輪書は求馬助には相伝されなかったとみた方がよい。五輪書はあくまでも孫之丞系統の聖典なんだ。
C――求馬助系統は、五輪書ではなく、三十九ヶ条兵法書を相伝していたのだろ。それでその兵法書を金科玉条にするために、これはもともと、武蔵が細川忠利に献上したものだった、という伝説を生じた。しかし、『武公伝』に、武蔵が末期に及んで、寺尾求馬助に兵法の書三十九ヶ条を相伝したというが、武蔵から求馬助宛の兵法書は、写本ですら残っていない。
B――だから、『武公伝』の記事は、あやしいわけよ(笑)。五輪書は孫之丞系統に握られている。こっちは何も証拠がない。そこで、求馬助系統で、三十九ヶ条兵法書は、孫之丞への五輪書贈与と同時に求馬助が頂戴した、という言い伝えを生んだ。これは対抗伝説だね。
A――筑前の二天流の方は、三十九ヶ条兵法書の伝承はあるの?
B――そんなことは聞いたことはない。筑前の系統では、兵法書といえば、五巻の兵書(五輪書)だけだろう。筑前系特有の「三箇の大事」は、口伝だろうし。
A――となると、柴任三左衛門美矩が、肥後を離国した段階では、まだ三十九ヶ条兵法書という文書はなかった。
C――柴任は、師匠の寺尾孫之丞から祖師玄信像や武蔵遺物の長刀などをもらって、国外へ持出している。細川忠利に献上したという、そんな曰くつきの兵法書が、もしかりに当時あったとしたら、当然その写しを得て、持出したはずだ。
B――ようするに、存在しないものは持出せないわけだ(笑)。筑前二天流では、寺尾求馬助も三十九ヶ条兵法書もまったく無視されておる。柴任が離国した後で、しだいに求馬助系統が自立してきたということだろうな。
C――というか、求馬助系統が自立するのは、孫之丞の死後で、求馬助の息子たちが育ってきたあたりだな。求馬助の門弟はさして多くない。
A――それで、三十九ヶ条兵法書に付録されておる求馬助の奥書ですな、続いてその話になるが、そこで求馬助が、武蔵から特別に評価されたという記事がある。
B――それを改めて読めば、こういう話だ。――武蔵が、「此書」、つまり三十九ヶ条兵法書だな、それを書いて、細川忠利に授与した。そういういわくを語って、次に自分と武蔵の関係を語る。「吾信行」、つまり求馬助だね、自分はこの道、武蔵流兵法を稽古して、先生の心源を移し得道したと。武蔵先生の曰く、「おれはこれまで千君万卒にこの道を指南してきたが、一人として真の道に達しなかった。真の道に透達しなければ、まことの伝授の顕われることはない。しかるに、信行は兵法の智賢く、一をもって十を悟る。その才能は万人に超えたるがゆえに、兵法の道理、自在を得た、これは珎なるかな、妙なるかな」と、求馬助を感賞なさった、と。
C――ちょっと、オイオイというところがあるがねえ。これを求馬助の一人称で語らせるか(笑)。
B――さらに続きを読めば、注目すべきこういう話が出る。求馬助は、この道を得道したが、尋ぬる者無し。――というから、あまり門弟になる者がいなかった。――入門してきても、真実の志がない奴ばかり。しようがないので、これを深く秘して、闇々として知らざるがごとく光陰を送ってきた、という。
A――とすれば、これはこれは、大抵のことではない(笑)。
C――以下は、通例の相伝証文のかたちだ。――ここに、この「師伝の書」を与える、世に稀なることだ、と記す。相伝相手は、兵法書諸写本は、当会所持の一本も含めて、たいてい安東正俊という者の名を挙げているが、熊本県立図書館蔵の「秘伝書」ヴァージョンだけは、これを息男・信形に相伝したかたちだ。佐助信形は求馬助の長男、嫡子だね。
B――あんがい、最初は、一子相伝のつもりだったかもしれない。四男の新免弁助(1766〜1701)となると、幼少どころか、この年、ご生誕なんだぜ(笑)。それはともかく、この「師伝の書」という表現で、求馬助がこれを武蔵から相伝されたということを示している。求馬助が武蔵から兵法書三十九ヶ条を相伝されたという『武公伝』の記事も、たぶん、この求馬助奥書によるのだろう。
A――さあ、それが問題ですな(笑)。この奥書の日付は、何年かな。
B――寛文六丙午歳とあるから寛文六年(1666)、中秋中旬とあるから、八月中旬。中秋の名月のころ(笑)。
C――求馬助は、元和七年(1621年)生れだから、この年、四十六歳だね。武蔵と死に別れたのが、二十五歳のとき。それから二十年以上経っている。この奥書を字義通りに読むかぎりにおいて、求馬助は、その間ずっと、相伝すべき門弟に遭遇せず、深く秘して、闇々として知らざるがごとく光陰を送ってきた。この兵法書三十九ヶ条、「師伝の書」も長年秘匿して、だれにも伝授しなかったということになる。
A――それだと、「求馬助、謎の二十年」ということになりますなあ(笑)。
B――しかし、そんなことがあるだろうか(笑)。兄貴の孫之丞は、まだ生きていて、「筑後殿」、つまり長岡直之(1638〜1692)や、山名十左衛門重澄(1646〜1721)といった大身の者を門弟にしたり、その他門人等多数、得道した連中には五輪書を相伝しておったころだ。
C――ようするに、この求馬助奥書の述べるところでは、求馬助が武蔵から伝授されて、二十年以上も世に出なかった「師伝の書」が、寛文六年になって、突如として出現したというかっこうだ。
A――皆が言うね。ええっ、そんな文書を、あんた、武蔵先生からもらっていたの?(笑)
C――しかも、この兵法書は、武蔵先生が、先君・忠利公に伝授したものと同じものなんだそうな。どえらいものが出現した(笑)。
A――どうして、そんな貴重なものを、秘匿しておったのだ?
B――いやいや、この二十年というもの、相伝すべき器量の弟子に相遇しなかったから(笑)。
C――まあ、冗談は抜きにして、この寛文六年(1666)中秋中旬の日付をもつ求馬助奥書以前に、兵法書三十九ヶ条の出現プロセスを語るものはない。そうすると、求馬助が秘蔵しておったという二十年の間に、この兵法書が懐胎され、そして誕生した、というラインが浮上してくる。
A――捏造文書だということ?
C――必ずしもそうとは言えない。五輪書はじめ兵法書の材料、素材要素はいくらでもあっただろう。ただ、
     ・武蔵がこれを細川忠利に献上した
     ・寺尾求馬助がこれを武蔵から相伝された
という、二つのポイントが、求馬助が秘匿し寝かせておいたという二十年の期間に、醗酵した粉飾の説話素だろう。
A――これだけ十分寝かせておいたし、そろそろ賞味してよかろうと、求馬助の「師伝の書」が登場した。しかし、そのミステリアスな二十年、求馬助は何をしておったのか。
C――そうはいっても、求馬助は仕官の身だぜ(笑)。公務があった。兄貴の孫之丞みたいに、牢人で自由な身というわけではない。
B――寺尾氏先祖附によれば、求馬助は寛永十三年(1636)に十六歳で元服、知行二百石拝領。有馬陣(島原役)で戦功あり。寛永十六年(1639)鉄炮十挺頭、それからずっとそのままだったが、綱利の代になって、寛文七年(1667)鉄炮二十挺頭、同十一年(1671)加増百石で、都合三百石、延宝七年(1679)鉄炮三十拾挺頭、そして貞享五年(1688)病死つかまつり候、というぐあい。隠居はせず、死ぬまで、生涯現役なんだ。求馬助が死んで、嫡男の佐助信形が、跡目を相続する。
C――少なくとも先祖附の記録では、求馬助が主君の兵法師範役を勤めたという記事はない。細川家における求馬助のキャリアは、もっぱら鉄砲隊長だね。求馬助系統は後世、求馬助についてかなり旺盛な伝説形成をしているが。
A――ともかく、求馬助は武蔵が死んでから二十年以上、兵法に関して事績はない。寝たふりをしていたのか(笑)。これもまた、従来、注意されず看過されてきたポイントですな。
B――そして四十代半ばになって突然、おれには師伝の書があると主張して登場してきたわけだ。しかも、後には息子の弁助に、武蔵の新免の名跡を継がせる。これも武蔵が生前に求馬助に許可したということになっておる。ようするに、求馬助系統の起源には不審な策動がみられる。

個人蔵
兵法書求馬助奥書

*【兵法書求馬助奥書】
《此書タル事、玄信先生、若年ヨリ此道ニ志シ、諸能諸藝ニ渡リ、其道々ニオヒテモ、兵法ノ道理ヲ以テ其道ノ得道ヲ得、天下ニ名ヲ發スル兵法者ニ打勝チ、其後日本國於所々ニ於テ、對兵法之達者、眞劔木刀ノ勝負六十余度ニ及ト云共、一度モ不失其利。イヨイヨ深遠ニ至ラント、朝鍛夕練シテ、歳五十ニシテ直通至極ニ到リ、是ヨリシテハ尋入ベキ理モナク光陰ヲ送ル。此時マデハ兵法ノ書タル事ヲ顕ハサズ。
 于茲、前肥之太守苧ム忠利公、此道数寄玉フ故、諸流ノ兵法稽古シ玉ヒテ、其比天下無双ノ聞へアル劔術ノ兵法、柳生但馬守一流ノ奥義ヲ極メラレ、恐ラクハ此理ニ誰カ如ク者アラント自撰シ玉ヒ、先生ト刀ヲクラベラルヽニ、一度モ理ナシ。因茲、初テ驚テ、兵法ヲ先生ニ尋玉フ。先生ノ曰、兵法ノ心、何レノ流ニヨラズ、至誠ノ道ハ、我ナス所ニ隨ハザレバ、眞道ニアラズ。公曰、吾不敏ナリト云共、此道ヲ傳受セント。因茲、初テ此書ヲ作、奉授與、公ニ兵法ノ道ヲ説。公幸ニ兵法ノ智在ニヨリ、即時ニ道理通達シ、吾若年ヨリ劔術ニ志シ、諸流ヲ試ミ鍛練セシ事、一ツモ眞ノ道ニアラズ。多年ノ修行、此ニ敗シ、無トスル哉ト、感ジ悦ビ玉ウ事不斜。
 然ニ吾信行、如何ナル宿縁ニテカ、先生ノ志シ他ニ異ニシテ、因深カリケレバ、此道ヲ稽古シ、先生ノ心源ヲ移シ得道ヲ得タリ。先生ノ曰、吾一朝ニシテ千君万卒ニ此道ヲ指南スト云共、一人モ眞道移ラズ。眞道移ザレバ、誠ノ傳受顕ス事ナシ。信行兵法ノ智賢ク、一ヲ以テ十ヲサトル。其器万人ニ超タルガ故ニ、兵法ノ通利自在ヲ得事、珎ナル哉、妙ナル哉ト、感ゼシメ玉フ。
 サレ共此道タル事、劔術ノ法ニ違ヒテ、スク人稀ニシテ、尋ル者無シ。尋ヌレ共眞實ノ志シヲ以テセズ。心ヲ心トスルノ道ナレバ、不隨人之心、言フベカラズ。鼻ヲ以テ口トスルニ不如ト、深ク秘シテ数歳ヲ經、闇々トシテ不知ガゴトク光陰ヲ送ル
 茲ニ息信形、安東之性平正俊ヲ友トシテ、多年兵法ヲ修習シ、此便利一生ニ得ン事ヲ願フ。眞實ノ志シ、吾是ヲ知レリ。志シノ切ナルハ必然トシテ至ル事アリ、何ゾ誤ント、兵法ノ眞理ヲ説顕ハシ、直通傳受ノ口傳、於指南一トシテ無残事相傳シ、已ニ令到至極之道。因茲、此師傳ノ書ヲ與フ。世ニ稀ナル所ナリ。万理一空非通無應ナレバ、名、号實相圓滿之兵法逝去不絶二天一流矣。
 寛文六丙午歳
   中秋中旬之日  寺尾求馬信行》




*【寺尾氏先祖附】
寺尾藤兵衛儀、寺尾佐助三男ニ而御座候。妙解院様御代、寛永十年二月十三歳ニ而被召出、十六才迄御側ニ被召仕、寛永十三年七月元服被仰付、御知行弐百石被爲拝領、有吉舎人組ニ而有馬御陳ニ罷越、手首尾宜御座候付、御帰陳之上、御花畑江被召出、爲御褒美黄金御時服被爲拝領、寛永十六年御鉄炮拾挺被成御頭候。妙應院様御代、寛文七年御鉄炮廿挺御頭被成、同十一年十二月御加増百石被爲拝領、延寶七年御鉄炮三拾挺被成御頭、貞享五年病死仕候》



*【丹治峯均筆記】
《武州門人数百人ノ内、肥後之住人、寺尾孫之丞信正一人、多年ノ功ヲ積テ當流相傳セリ》
《二天流兵法二祖、寺尾孫之丞信正ハ、細川家ノ家臣タリトイヘ共、其身ハ一生仕官セズ、熊本ノ城下近邑ニ引篭リ、耕シテ生涯ヲ送リ、福力アツテ米銭ニ乏シカラズト云リ。武州公数百人ノ門人ヨリ撰ビ出シ傳授アリシ人ナリ。法名夢世ト号ス。小兵ナガラ力量アリシトイヘリ。寺尾ノ本家、今尚細川ノ家臣タリ》



九州関係地図


*【寺尾氏略系図】

○寺尾孫四郎義重…孫四郎 越前 ┐
 ┌─────────────┘
 ├孫四郎─────────┐
 |            |
 ├甚之允 加藤清正仕    │
 |            |
 ├孫左衛門勝重 生国肥後  │
 |            |
 ├玄利勝正        │
 |            |
 └与三左衛門勝尚 生国備後
 ┌────────────┘
 ├作左衛門 本多忠政仕
 |
 ├佐助 勝永 ───────┐
 │ 慶長7年細川忠利仕   │
 |            |
 ├七兵衛         │
 |            |
 └市郎左衛門       │
 ┌────────────┘
 ├九郎左衛門 勝正 喜内
 |
 ├孫之丞 信正 勝信 夢世
 |
 └求馬助 藤兵衛 信行





姫路城
B――他方で、武蔵が死んだ前後の宮本伊織の書状をみると、求馬助は、細川家から武蔵の病床に付け置かれたらしい。
C――兄貴の孫之丞は、武蔵門弟として積年の功があったし、細川家士ではないから、はじめから武蔵の看病をしておっただろう。求馬助は孫之丞の弟だということで、細川家中の武蔵門弟の中でも、とくに選ばれて、病床に付いたものらしい。寺尾兄弟は、武蔵から特別に目をかけられていた。それを殿様の細川光尚も承知していて、求馬助に御役御免で、武蔵の世話をしろということになった。
A――孫之丞が、弟の求馬助も、武蔵末期の世話をさせてやってくれと頼んだかもしれない。
――孫之丞が武蔵門下で長年修行していたというのは、「多年の功を積んだ」という『丹治峯均筆記』の記事ですね。これは武蔵が肥後に来る以前から?
B――『丹治峯均筆記』の話ではそうだが、他にとくに何か記録があるわけではない。ただ、武蔵は死期に及んで、関係者に鞍や太刀など形見分けの遺贈をしておるが、寺尾孫之丞が五輪書草稿を遺贈されたとなると、これは門弟中でも特別な扱いだろう。そういう状況証拠からして、孫之丞が武蔵門下で長年修行していたという話にも理由があろうというわけだ。
C――「多年の功」となると、五年やそこらの期間ではない。武蔵が肥後に来て以来の入門だと、これは時期が遅すぎる。寺尾孫之丞は、小倉生れの小倉育ちだよ。
A――そこなんですな。寺尾兄弟というと、肥後の高弟という説ばかりが従来あったが、実は寺尾孫之丞は小倉生れの小倉育ち、という重要なポイントが看過されてきた。
B――実際、寺尾孫之丞は肥後人だと思い込んで、肥後生れの肥後育ちだと勘違いしておる連中も未だにおる(笑)。
C――寛永九年、細川忠利が豊前小倉から肥後熊本へ移封され、その後釜に明石の小笠原忠政が入った。そのとき、武蔵は伊織とともに播磨から豊前へ移住してきた。孫之丞は、たぶん、小倉時代からの門弟だろう。孫之丞は一生仕官しなかったというから、武蔵に隨仕して兵法修行したのだろう。
B――それもありうる。しかしかりに寺尾孫之丞が、小倉時代からの門弟だとしても、何かそこにまだ媒介が必要な感じだな。寺尾兄弟の父・佐助は二男で、佐助長兄に作左衛門という人物がいたようで、これが寺尾孫四郎嫡系。この寺尾作左衛門は、孫之丞の伯父だ。
A――その孫之丞伯父の作左衛門は、播州姫路の本多美濃守忠政に仕えて物頭、五百石。
B――この伯父が、武蔵を見知っていた可能性がある。作左衛門の歿年は寛永三年(1626)。とすれば作左衛門は姫路で死んだのであり、そのころ武蔵も播州にいて、養子の三木之助を立てて、姫路に知行七百石の宮本家を設けていた。
C――寺尾作左衛門が死んだのは、三木之助の殉死の年だが、そのすぐ後だね。作左衛門の嫡系は旗本になったようだが、本多家中に残った子孫もある。そうすると、寺尾孫之丞は、姫路の従兄弟たちから、武蔵について何か情報を得ていたということも想定しうる。つまり、武蔵が小倉へ移住して来る前に。
B――寺尾孫之丞には、姫路の従兄弟たちがいて、その従兄弟たちは、武蔵が播磨に居たころ、武蔵流兵法を学んでいたということも考えられる。
A――とすれば、その姫路の従兄弟たちは、孫之丞の先輩になるというわけだ。
B――とにかく、孫之丞は小倉生れの小倉育ち。その武蔵情報は少年のうちに聞いていた可能性はある。そうして孫之丞が二十歳のとき、国替えで、小笠原家中といっしょに武蔵も小倉へやってくる。若き孫之丞は、播州姫路の寺尾家からの紹介状を手にして、武蔵の門を叩く。
C――というわけで、我々の仮説プロットだと、寺尾孫之丞は、武蔵が肥後に来て以後の門弟ではない。孫之丞は、武蔵が小倉に居たころからの弟子である。しかも、その因縁は、播州姫路の寺尾家にまで伸びる。
B――想定しうる筋書きは、そういうところだ。寺尾家は播州姫路以来ずっと本多家中にあって、本多忠国の代に、また姫路へもどってくる。そのとき、孫之丞相伝弟子・柴任美矩が本多家に再仕したのだが、
A――なんと、屋敷は同じ下岐阜町(笑)。
C――柴任の近所にいたのは、寺尾甚右衛門だな。孫之丞の従弟の子孫だろう。ともあれ、孫之丞が生涯仕官しなかったのは、若い時から、武蔵にずっと隨仕していたからだ。肥後の門弟中で、寺尾孫之丞がある種特権的な位置にあったとすれば、そういうことになるな。
A――弟の求馬助は、武蔵が肥後へ来て以後の門弟ですな。
B――武蔵が肥後へ来たとき、求馬助は二十歳か。寛永十年(1633)十三歳ですでに召し出されて、十六歳で元服して新知二百石を拝領しておる。立派な細川家臣だ。兄貴のように御国を離れて、小倉まで勝手に出歩くわけにはいかない(笑)。
A――話はもどるけれど、武蔵の病床には、細川家からは寺尾求馬助が付け置かれた。ところが、おもしろいことに、『武公伝』には、そんな記事はない。これは奇妙なことである(笑)。
C――その記事がないということは、『武公伝』の作者は、これを知らなかったらしい。『武公伝』には八代長岡家中の伝説は語られても、他の場面は視野に入っていなかった。八代には、寺尾求馬助が、太守・細川光尚の指示で武蔵の側に付けられた、という情報は伝わらなかった。だから、『武公伝』の記事には、伝説情報の局地的限定性がある。それを念頭において読まねばならない。
A――『武公伝』にあるのは、寄之の命で中西孫之丞が付け置かれたということ。
B――中西孫之丞宗昌(1604〜1700)は、細川家臣ではなく長岡家臣で、寄之の近習だね。しかし、武蔵が死んだ年には、四十二歳。年齢からすると、オッサンだな(笑)。
C――細川家から派遣された寺尾求馬助は二十五歳。これに対し、長岡家から付け置かれたのは、オヤジの中西孫之丞。武蔵のターミナル・ケアで(笑)、いろいろ立ち働くには若い方がよいが、中西孫之丞が武蔵末期の病床に付くには、たぶんわけがあった。
A――『武公伝』によると、武蔵卒去の前、病中、寄之公に申上げるには、「私はもう死にますので、御家来の弟子の中で、有馬(島原役)で手柄のあった者を、付け置いて下さるように」とのことゆえ、病中から中西孫之丞が付け置かれた、という話。
B――となれば、島原戦役で手柄のあった者を、だれか、ということで、とくに中西孫之丞を指名したわけではない。それが、中西氏先祖附だと、話が少しちがう(笑)。有馬陣で手柄のあった者という話はない。ただ、武蔵が中西孫之丞を側に付けてもらいたいと、寄之に頼んだから、そうなったということだ。
A――『武公伝』は余計な伝説要素を入れている。ここは先祖附の方が信憑できる。
C――そこで、どうして、武蔵は、よりよって中西孫之丞を側に付けてもらいたいと、寄之に頼んだのか。それは、たぶん、中西孫之丞と長年の気安い関係があったとみるべきだろう。
B――中西孫之丞は、大西道也(1554〜1640)の息子。大西道也は茶人だが、本来は播磨の明石氏が出自の、明石右京進範宗。右京進は信長に仕え、信長死後は秀吉の御詰衆になった。文禄四年(1595)の関白秀次事件で兄左近太夫は切腹、右京進は致仕して、摂津国大江という所(現・大阪市京橋付近)へ浪居し、大西道也と名を改めた。
C――大西道也の長兄が、明石桂立。関白秀次事件の後、桂立は息子の明石半四郎とともに、松井康之(長岡興長の父)を頼って丹後久美浜へ身を寄せた。明石半四郎は久美浜で松井康之に召抱えられ、康之が豊後杵築へ移るとともに、明石父子はこれに隨って九州へ移った。明石半四郎は、寄之の乳人を妻にした。この半四郎のもとへ従弟の熊市(孫之丞)が来て、長岡家に召抱えられる。
A――とすれば、中西孫之丞は、寄之側近といっても、上方に縁のあるすこし特殊な家柄ということですな。
C――それに、父親の大西道也は、細川三斎とも関係のある茶人だしね。それで、武蔵がかなり以前から、摂津にいた茶人・大西道也と知り合いで、その息子の中西孫之丞を、少年のころから知っていた、という可能性はあるね。
B――武蔵が熊本へ来ると、中西孫之丞がいて、もうオッサンになっているが(笑)、やあやあしばらくと、旧交を温めたりして、親交があったということだな。
A――中西孫之丞は武蔵の門弟だということだが。
B――それはどうかな。中西孫之丞とは、どちらかというと、文武二道の「武」ではなく「文」の方のつき合いだろう。それに、武蔵が肥後へ来たとき、中西孫之丞はすでに三十七歳。武蔵流兵法に入門するには、ちょいと遅いな(笑)。
A――中西孫之丞は武蔵の門弟ではなく、友人だと。
C――『武公伝』など後世の伝記者は、何かというと門弟にしてしまうが、中西孫之丞は「文」の方の友人と見たほうがよかろう。『武公伝』の武蔵遺品リストだと、武蔵は中西に自作の鞍を遺贈したらしい。
B――『武公伝』が武蔵自作という鞍には、四つ目菱紋がついていたそうだから、これは武田流馬術の鞍とみてよい。
A――ということなら、武蔵は、武田流馬術もやっていた。それは新説ですな(笑)。
B――武蔵自作の鞍というのは、『武公伝』の記事だと、《金ニテ黒漆也》だ。流鏑馬など祭儀用のものだろう。武蔵がそういう鞍を自作していたとすれば、武田流騎射との関係は看過できない。
C――中西孫之丞がそんな鞍を遺贈されたとすると、中西もそれなりの馬術名人だったかもしれんな(笑)。
A――で、中西孫之丞は、出自が播磨の明石氏。黒田官兵衛の親戚・明石氏の実家の一族ですな。何かと播磨の縁が出てきますな。
C――姫路城主・小寺美濃守職隆の奥方が明石氏。明石正風の娘ということ。ただし、小寺職隆は官兵衛の実父ではないし、明石氏は官兵衛の実母ではない。地元の播州姫路の古記では、官兵衛は小寺職隆の猶子(養子)になって、その跡目を継いだとある。これが正しい。
B――貝原益軒の『黒田家譜』にはデタラメな記事が多い(笑)。で、話をもどすと、中西孫之丞は養子をとって、これが中西角之進(1636〜1710)。角之進は、松平下総守忠弘の家来・柴山五兵衛友実の五男で、柴山金弥という者、これが奉公を望んで江戸へ出ていた。正保四年(1647)、金弥十二歳の時、長岡寄之が児小姓に召抱え肥後へ連れ帰った。中西孫之丞は柴山金弥を養嗣子にして、これが中西角之進重春。
C――中西氏先祖附に、「下野国宇都宮城主松平下総守様」とあるのは、誤り。松平下総守忠弘は当時、宇都宮城主ではなく、播磨国姫路城主。
A――となると、またまた播磨の線が出ましたな(笑)。松平下総守の家来・柴山五兵衛というのは?
C――そこまでは、さすがに、追跡できていない(笑)。姫路の柴山家の息子・金弥は、江戸経由で肥後の熊本へ来て、そして中西孫之丞の養子になった。中西孫之丞とは何か播磨の縁があったのかもしれないが。



*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候》(5月29日付)


個人蔵
中西孫之丞

*【武公伝】
《正保二天[乙酉]五月十九日、熊本千葉城ノ宅ニ病卒ス。卒去ノ前、病中寄之公ニ被申上ハ、「私死候ハヾ、御家來弟子ノ内ニ、有馬ニテ手ニ會ソロ者ヲ、附置セ被下候樣ニ」トノ事故、病中ヨリ中西孫之亟[宗昌]被附置》


*【中西氏先祖附】
《正保二年五月新免武蔵病死の節、病中ニ要津院様御見廻被成候処、武蔵遺言の趣付て、孫之丞儀病中より御附被成、諸事取計候様ニ被仰付》


*【明石・中西氏略系図】

○明石左近太夫─────┐
 ┌──────────┘
 ├丹後守 桂立 ────┐
 |┌─────────┘
 |└助兵衛重方――五郎兵衛重武
 |  妻寄之乳人
 |
 ├左近太夫 関白秀次事件連座切腹
 |
 └右京進 大西道也 ──┐
  ┌─────────┘
  └中西孫之丞宗昌 =角之進重春


*【中西氏先祖附】
○明石右京進範宗 《私先祖明石右京進範宗、初名明石孫八郎と申候。右京進は明石左近太夫弟ニて信長公ニ仕、信長公御没落後の後秀吉公御詰衆ニ被召加候処、文禄四年秀次公御生害の節兄左近太夫は於京都大仏殿切腹被仰付候付、右京進儀は所領差上摂津国大江と申所ニ浪居仕、大西道也と改申候。然処元和二年、三斎様被召呼候付罷越候得□□□智海院様御屋鋪え被召寄、三斎様御茶の御伽仕候ハヽ、御育可被遊段三斎様御意の趣被仰聞候処、大坂落城以後従権現様先知被為拝領可被召仕旨蒙上意候得共、御免の儀奉願候得は被遊御免候。其上前々より池田家ニ被育置候ニ付、今更難奉畏候段智海院様迄御請申上候処、三斎様暫御留被置候ニ付御伽仕罷帰申候、其後寛永十七年八十七歳於大江病死仕候》
○中西孫之丞宗昌 《高祖父中西孫之丞宗昌儀は。右の大西道也二男ニて初名熊市と申候。三斎様道也を被召呼候節、熊市儀は奉公望ニて召連罷越候処、松井采女取持ニて智海院様え申上置候付、明石助兵衛重方育相成居申候処、豊前国小倉ニ□□切米弐□□□□被召抱御側被召仕候。此節中西孫之丞と改申候、其後要津院様、岩千代様と奉申候節、御附ニ被仰付御部屋ニ相勤申候。寛永九年御国替の節御供仕当御国ニ罷越申候、寛永十一年将軍家光君御上洛ニ付て要津院様御上京の節、御納戸奉行御横目御取次兼候て御供仕罷登申候。其後要津院様御部屋住料弐千俵御加増被成候節、孫之丞え拾石御加増被成為拝領》

*【武公伝】
《武公作ノ鞍、中西孫之亟ニ贈ラル。彼家ニ傳ル[金ニテ黒漆也]。(図形・四つ菱紋)附。燒失ス》

*【武公伝】
《寛永十七年[庚辰]之春、武公、忠利公ノ召ニ應ジテ肥後ニ來。[五十七歳] 其時小倉城外山上ニ壽藏ヲ営ミ、蹤ヲ遺シテ肥後ニ赴ク》
《武公御國ニ逗留ノコト、岩間六兵衛[御聞番役御城使トモ云。今御留守居ト云]ヲ以テ御尋アリ。則御側衆坂崎内膳殿マデ口上書ヲ以テ言上在》




長岡興長宛武蔵書状 八代市立博物館蔵

*【長岡興長宛武蔵書状】
《一筆申上候。有馬陳ニ而ハ、預御使者、殊御音信被思召出処、過當至極奉存候。拙者事、其以後江戸上方ニ罷在候が、今爰元へ参申儀、御不審申可被成候。少ハ用之儀候ヘバ罷越候。逗留申候ハヾ、祗候仕可申上候。恐憧謹言
 七月十八日    玄信[花押]》


*【武公伝】
《忠利公ヨリ月俸十七口現米三百石ヲ賜。蓋シ遊客タルヲ以テ、諸士ノ列ニ不配[人持着座ノ格ナリ]。居宅ハ熊本千葉城ノ高キ所也》



千葉城址の位置
肥後国熊本城廻絵図

――また話は前後しますが、武蔵が肥後熊本へやってきた経緯について、『武公伝』だと、武蔵は細川忠利の召しに応じてやってきた、という伝説を記していますね。
A――それにとどまらず、忠利が岩間六兵衛を通じて下問した。それに対し武蔵が答えたという、坂崎内膳宛口上書なる文書まで記録している(笑)。
B――ようするに、そのあたりは全部、後世の伝説だし、伝説に合わせて武蔵の口上書まで出現したというところだ。武蔵が肥後に逗留するについては、最初は、寺尾孫之丞が、武蔵を肥後へ連れて行った可能性があるな。
A――先生、いちど肥後へ行ってやってください。私の親も居ますし、それに、温泉もござるし(笑)。
B――うん、そうだな。塩田(浜之助)にもしばらく会っていないし。それじゃ、行くかい(笑)。
C――まあ、そんなところかもしれん。武蔵は、細川忠利の召しに応じて、小倉から熊本へ来た、のではない。プライヴェートな旅行だな。だから、旧知の長岡興長も、武蔵がどうして熊本へ来ているのか、知らない。長岡興長宛武蔵書状をみると、そんな感じだ。
B――《今爰元へ参申儀、御不審申可被成候。少ハ用之儀候ヘバ罷越候》というわけだ。拙者が熊本に来ているのは、ご不審がおありでしょう。なに、少々やぼ用があってきただけですが。しばらく、逗留するつもりですので、そのうち挨拶にうかがいますと。
A――もし武蔵が、細川忠利の召しに応じて、熊本へ来たのなら、そんな書状の内容にはならない。
B――筆頭家老の長岡興長が、知人の武蔵がどうして熊本へ来ているのか、知らなかったんだぜ。細川忠利の召しに応じて武蔵が熊本へ来たというのは、長岡興長宛武蔵書状の内容からしてありえないことだ。それは、武蔵の肥後住を荘厳するために後世発生した伝説だ。ほんとうは、寺尾孫之丞あたりが、武蔵を誘って熊本へ連れてきたのだろう。
A――武蔵は、ちょいと遊びに来ただけだと(笑)。なのに、旧知の長岡興長がお膳立てをして、客分にしてしまった。
B――武蔵は、興長の知友というだけではなく、小倉城主・小笠原忠政の長年の友人で、しかも小笠原家主席家老・宮本伊織の親父なんだ。小笠原忠政は、細川忠利室の千代姫の兄だしな。これは、細川家としても知らぬふりはできないし、粗末には扱えない。
A――客分にするということは、ザッハリヒにいえば、滞在費を支給するということ。そこまで、長岡興長が手配してしまった。となると、武蔵も無下には断われない。興長の顔を潰すことになるしね。
C――たぶん、最初は数ヶ月の滞在、ということだったろうが、住んでみると、これが、なかなか居心地のよい土地だった。それで、年末には、長期滞在してもよかろう、ということになって、本当に客分になり合力米年俸三百石。『武公伝』によれば、屋敷が千葉城の高台に与えられたということだが、これはまだ裏がとれていない。
B――千葉城址というと、いまNHKの建物がどでんと占領しておる場所だな。そこは屋敷地だった。武蔵より後の居住者になるが、明暦の頃(一六五十年代)の二ノ丸之絵図をみると、千葉城の高台にある二区画の屋敷地には、吉田庄右衛門尉、松野善右衛門尉の名がみえる。ともに大友宗鱗(義鎮 1530〜87)の子孫だな。
C――細川家は、豊後の地縁もあって、滅亡した大友の一門を召抱えた。時代はかなり経つが、やはり松野や吉田は、九州の名門の子孫だ。それで、千葉城の高台に屋敷がある。千葉城の高台となると、これは、ある種、特権的な場所だ。
A――南北、東方に見晴らしもよいし(笑)。
A――で、宮本伊織宛長岡寄之書状によると、病気になったとき、武蔵が居たのは、熊本から程近い在の村のようですな。
B――今日の通説は、武蔵が霊巌洞を死に場所として、そこへ引きこもったのを、寄之が諌めて連れ戻した、という話だが、これは『武公伝』『二天記』系統の後世の伝説。しかし、寄之書状の《熊本より程近在郷へ御引込候而被居候》という、「熊本より程近き在郷」というのは、岩戸山の霊巌洞ではない。
A――霊巌洞は二里ほど離れた山中にあるから、「熊本より程近き在郷」という表現にはならない。それで、「熊本より程近き在郷」というのは、どこなんだと。
C――それについての我々の所説はすでに、本サイトで公開してあるが、ようするに、武蔵が病んで引きこもっていた村は、詫間(詫摩)郡本庄手永の大江村(現・熊本市大江)じゃないか、ということだね。これは、熊本城下からほど近い白川対岸の在郷の村。
A――ここにポイントを絞るのは、ダイレクトにはできない。媒介操作なしには可能ではない。
B――だから、あくまでもロジカルな仮説なんだ、それは。一つは、『丹治峯均筆記』の、武蔵命終の場所は、熊本の城下に近い村の由、たとえば、福城春吉邑のごとし、福岡城下春吉村のような所という話だ。むろんこれは、武蔵が死んだ場所の話で、それが熊本の城下に近い村だと。
C――それが符号するのは、伊織宛寄之書状の「熊本より程近き在郷」。寄之書状は、武蔵が病んで引きこもっていた村。『峯均筆記』の村は、武蔵が死んだ場所。
A――『峯均筆記』の話は、柴任美矩からの伝聞だろう。
C――柴任美矩は、当時熊本にいたから武蔵の死という事件を知っている。しかし、立花峯均は聞いた話を正確に覚えていなかった(笑)。
B――それで、武蔵は病気をして、熊本の城下に近い村に引きこもっていたが、熊本へ連れ戻されて、そこで死んだという柴任の話が、数十年経った立花峯均の記憶では、その話の中間が大幅にカットされて、熊本の城下に近い村で死んだ、というぐあいになったらしい。
C――記憶というのは加工されるものだ。その熊本の城下に近い村は、福岡城下春吉村のような所だという、という柴任の喩えが、立花峯均の印象に残ったのだね。その強い表象に、他の話が霞んで、武蔵はその村で死んだという記憶になった。
A――その福岡城下春吉村のような所というのは、熊本周辺で地理的に対応させてみることができるね。
B――春吉村というのは、福岡城から東方半里ほどの、那珂川沿岸の近郊の村。いまでは福岡の繁華街・天神の近所だが、当時はのどかな村だっただろう。熊本でこれに対応するのは、千葉城の屋敷の東方、すこし離れた白川沿岸の村だ。
C――『丹治峯均筆記』の記事から出てくる、場所の特定はだいたいそれがリミット。ところが、意外なところから、もうワンステップ話が進んだ。それが、武蔵の肥後系伝記の葬地記事には相違があるという点だな。
A――『武公伝』では、「飽田郡小江村」、『二天記』では「飽田郡五町手永弓削村」となっている。
B――そういうぐあいに、『武公伝』と『二天記』では、話が違う。『二天記』のいう飽田郡五丁手永の弓削村は確認できる。いま武蔵塚があるところだな。ところが、『武公伝』のいう小江村は、飽田〔あきた〕郡内には確認できない。
A――さあ、どうする。『武公伝』の記事は間違いか(笑)。
C――誤謬というものは、往々にして真理を内蔵している(笑)。というわけで、飽田郡の周辺で村名をチェックする。すると、「小江村」と類似の語音の「大江村」というのが、詫間郡本庄手永にある。しかもこいつが、白川沿岸の、さっきの『峯均筆記』のいう「福岡城下春吉村」のような所という立地環境に合致する。そこで、『武公伝』のいう「小江村」は、この「大江村」じゃないか。飽田郡の小江村というのは、『武公伝』の誤りで、詫間郡の大江村のことだろうと、まあそういう次第だな。
B――これは我々の当面の仮説。伊織宛寄之書状の「熊本より程近き在郷」というのを、まともに探究した武蔵研究はこれまで存在しないから、この我々の提起した仮説が、この件に関する最初の説ということになる。
A――肥後の諸君、何をしておる。地元のことなんだから、もう少しがんばってくれんか、とね(笑)。伊織宛寄之書状の「熊本より程近き在郷」が、詫間郡の大江村だとすれば、武蔵は、千葉城の屋敷の他に、その村に別荘をもっていたことになる。
C――熊本は、今でもそうだが、阿蘇の地下水が出てくる土地。大江村に名水が出る場所があって、武蔵好みの数寄作庭もしていたかもしれん。
B――武蔵がそこに居ついて、熊本市中へなかなか帰らなかったとすれば、千葉城の高台の屋敷よりも、そこが気に入っていたらしい。川の側の田園地帯というと、播州揖東郡宮本村だねえ。西に川があるところなど、立地はそっくりだ(笑)。
C――そういう湿気の多い話は、小説家どもに任せるとして(笑)、五輪書は、むろん霊巌洞で書いたのではなく、この大江村の別荘だろう。『武公伝』には、寄之が「小江村」の庄屋を呼び出して、武蔵の墓の掃除料を出したとある。
B――我々の仮説だと、それが大江村で、そこに武蔵の墓があった。
A――むろん、それは弓削村に武蔵塚を設ける以前の墓ですな。武蔵の別荘があった大江村の土地に、武蔵の墓を造った。それで、寄之が大江村に墓の掃除料を出した。
C――この小江村ならぬ大江村。従来これに着目した研究例はないが、ここは熊本における武蔵関係地として、今後注目されるべきだろう。そこで、もうひとつ。寺尾孫之丞が住んでいたのも、熊本城下に近い村ということだったね。
B――『丹治峯均筆記』だな、それは。一生仕官せず、熊本の城下近邑に引きこもり、農業をしながら生涯を送り、福力あって生活には困らなかったと。兵法指南して、門弟もかなりあったから、ということだな。
C――寺尾孫之丞が熊本の城下近邑に引きこもってという話は、たぶん柴任(三左衛門美矩)から出たね。柴任は、寺尾孫之丞に隨仕し七年修行したというから、致仕して内弟子になっておったのだろう。
B――熊本城下に近い村ということだから、むろん、これは孫之丞が晩年住んだ宇土郡松山手永ではない。
A――武蔵の死後、寺尾孫之丞も熊本城下に近い村に居た。すると、孫之丞は、あんがいその大江村にしばらく住んでいたかもしれない。兵法指南と武蔵の墓守をしながら(笑)。
C――そこまでは、当面は言えないが、その可能性もあろう。武蔵十回忌に伊織が武蔵の墓を小倉へ移して、肥後には弓削村の武蔵塚が設けられた。孫之丞が、その熊本に近い村の家を引き払って、宇土郡松山へ移るのは、それ以後だね。
A――武蔵墓の小倉への移転事業には、孫之丞も関与しただろう。小倉は孫之丞の故郷でもあるし。


*【宮本伊織宛長岡寄之書状案】
《御同名武州、熊本より程近在郷へ御引込候而被居候處ニ、被煩成に付而医者共申付、遣薬服用養生被仕候へ共、聢験氣も無之ニ付而》(11月18日付)












*【丹治峯均筆記】
《命終ノ所、熊本ノ城下近邑ノ由、假令バ福城春吉邑ノ如ト云ヘリ。正保二年乙酉五月十九日、平日ノ如ク正念ニシテ命ヲ終ラル。行年六十二歳也》









「福城春吉邑」



*【武公伝】
《卒去ノ時、遺言之通、甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也。飽田郡小江村地ニ葬ス。兼テノ約束ニテ、泰勝寺ノ前杉馬場ノ内ニ棺ヲ舁居ヘ、春山和尚出迎テ引導也。皆是遺言ニ因テ也》

*【二天記】
《武藏遺言ニマカセ、甲冑ヲ帯シ六具ヲ固メテ入棺也。兼テ約ナレバ、泰勝寺春山和尚導師ニテ、飽田郡五町手永弓削村ノ地ニ葬ス。規式尤モ夥シ》





詫間郡大江村



*【武公伝】
《其后、寄之公鷹狩ニ御出、小江村ノ墓ニ展セラレ、其庄屋ヲ召出サレ、墓ノ掃除無懈怠仕候樣ニト被仰附、其料トシテ米五十俵渡サレ、翌日荘屋〔庄屋〕、二ノ丸ヘ罷出、手形ヲ仕テ米ヲ請取候由。孫之亟子・中西角之進、其節御供ニ參リ、右手形モ見候由也》




*【丹治峯均筆記】
《二天流兵法二祖、寺尾孫之丞信正ハ、細川家ノ家臣タリトイヘ共、其身ハ一生仕官セズ、熊本ノ城下近邑ニ引篭リ、耕シテ生涯ヲ送リ、福力アツテ米銭ニ乏シカラズト云リ》
《同三祖、柴任三左衛門美矩ハ、細川家ノ家臣・本條角兵衛ガ弟也。寺尾信正ヨリ傳授ス。勝レタル大男ニテ、容儀弁舌双ビナキ恰好也。信正ニ隨仕、夜白修練シテ七ヶ年ニ成就シ、承應二癸巳年十月二日一流相傳有》

*【宮本伊織宛長岡寄之書状案】
《御同名武州、熊本より程近在郷へ御引込候而被居候處ニ、被煩成に付而医者共申付、遣薬服用養生被仕候へ共、聢験氣も無之ニ付而、在郷ニ而ハ万事養生之儀も不自由ニ可在之候間、熊本被罷出[御出候て]養生可然之由、拙者佐渡守[佐渡拙者]両人かたより申遣候へ共、同心無之候間、是非共出候へ、程隔候てハ養生談合も不成、肝煎可申様も無之与申遣ニ付而[然共肥後も殊外懇ニ被申、医者なとも度々遣被申、色々養生候て、在郷二而てハ養生之儀差図難被致候間、度々被罷出候様ニと被申ニ付而]一昨日熊本へ被罷出候。此上二而養生之儀、猶以肝煎無油断様ニ差図等可仕候間、(肥後も懇ニ存候て、医者なとも付置被申候間)可御心易候》(11月18日付)


*【武公伝】
正保二年[乙酉]之春、武公病ナリ。府中ノ紛囂ヲ厭ヒ、岩戸ニ至リ、霊岩洞ノ裏ニ入リ、静ニ終命ノ期了セントス。世上何カト奇怪ノ浮説アリ。寄之公、放鷹ニ託シテ岩戸ニ至リ、武公ヲ諌テ、再ビ千葉城ノ旧宅ニ帰ラシム》


*【二天記】
正保二年ノ春、武藏疾病也。同四月、書ヲ家老衆ニ與フ。其文、
態ト各樣迄、以書附御理申候。兼て病者ニ御座候處、殊に當春煩申候而以來、別而手足難立罷成候。此前拙者年久敷病気故、御知行之望杯不仕罷在候。先越中樣御兵法御數寄被成下候故、一流之見立申分度存、粗兵道之手筋被成御合點候時分、無是非仕合せ、失本意候。兵法之利とも書附可上申旨御意候へども、書附迄ニ御合點如何敷存、下書斗調へ差上、兵道新敷見立候事、儒者佛者之古語、軍法之古沙汰をも不用、只一流を心得利方之思を以て諸藝諸能の道とも存、大形於世界之理明らかに得道候へども、世ニ逢不申躰、無念ニ存候。今迄世間兵法ニて身過候樣存候。右樣之事は、眞之兵法之病ニ成申候事に御座候。今申処、末々之世に、拙者一人之儀ハ古今之名人ニ候へば、奥意御傳へ可申候処、手足少も叶不申候。當年斗之命も難計候へ者、一日成とも山居仕、死期之躰、世上へ對し蟄居候事、被仰付候樣に御取成可被下候。已上。
 四月十三日     宮本武藏
                玄信判
   式部殿
   監物殿
   宇右衛門殿 參
其ノ後潜ニ靈岩洞ニ至リ、静カニ終命ノ期ヲ了セントス。然ルニ早ヤ、世上ニ何角奇怪ノ浮説アリト、寄之主聞召シ、放鷹ニ托シテ岩戸ニ到リ、武藏ヲ諌メテ誘ヒ、千葉城ノ宅ニ歸リヌ。爲介抱、寄之主ノ家士中西孫之丞ヲ差添置也》

*【二天記】
《同五月十九日千葉城ノ宅ニテ病卒ス。歳六十二。武藏遺言ニマカセ、甲冑ヲ帯シ六具ヲ固メテ入棺也。兼テ約ナレバ、泰勝寺春山和尚導師ニテ、飽田郡五町手永弓削村ノ地ニ葬ス。規式尤モ夥シ。春山和尚ノ引導終ルト齊シク、一天晴レタルニ、雷聲一ツアリ。諸士ノ下部〔しもべ〕ドモ驚キ、葬場大ニ騒動スト云ヘリ。其ノ後寄之主廟參有リテ、弓削村ノ庄屋ヲ呼出シ、墓ノ掃除等無怠可致旨被申附、米五十俵賜フ由ナリ》
B――そういうところだな。話を墓から武蔵生前に戻せば(笑)、武蔵はその白川沿岸の大江村の別荘で、しばらく闘病生活をしていた。医師も派遣されて治療に当たっていたが、熊本からは、長岡興長・寄之父子や、殿様の細川光尚まで、熊本へ戻るように再三再四言ってくる。
A――川向うの村では、治療も思うようにいかない。早く熊本へ戻れということだね。それでも、この頑固爺さんは、ウンとは言わない(笑)。
C――そうやって、さんざん周囲の人々を手こずらせたあげく、武蔵は熊本へ連れ戻された。それが死の前年の十一月十六日。
A――これは、異様にディテールが煮詰まっていますな。
B――宮本伊織宛長岡寄之書状(十一月十八日付)が、一昨日熊本へ出てこられましたと書いているのが典拠。そんな史料でもないと、そこまでは言えないぜ。
A――『武公伝』では、そのあたり、話が違いますな。
B――ふむ。『武公伝』は八代の伝説だから、何かというと、寄之が登場する。『武公伝』の話ではこうだ、――正保二年(1645)の春、武公は発病した。熊本市中の喧噪を厭い、岩戸山に至り、霊巌洞の内に入り、静かに終命のときを迎えようとした。武公が市中を去ったので、世上何かと奇怪の浮説があった。長岡寄之は、放鷹にことよせて岩戸山へ行き、武蔵を諌めて、再び千葉城の旧宅に帰らせた、云々(笑)。
C――そういうぐあいに『武公伝』の段階で、伝説はすでに違っている。寄之が連れ戻したのなら、伊織宛の書状に、自分が行って連れ戻しました、と書くはずだろう。それに、武蔵の発病は、実際には、正保二年(1645)の春ではなく、前年のことだ。熊本へ連れ戻されたのも、前年の十一月だ。
A――しかも、『武公伝』だと、武蔵がそれまで引きこもって居たのは、「熊本より程近き在郷」ではなく、岩戸山の霊巌洞。これだと、かなり話が違う(笑)。
B――後世の霊巌洞伝説だな。『二天記』になると、もっと尾ひれが付いて、武蔵が正保二年の春に発病して、霊巌洞に引きこもるその間に、式部殿(寄之)はじめ三家老宛に出した断りの書状まで記録している。
A――それは、『武公伝』にはない書状引用。しかし、どこから降って湧いたんだ、そんなもの(笑)。
B――『二天記』は、巌流島決闘のときも、長岡「佐渡守」宛の書状を引用するからねえ。とにかく、時代が下がるほど、「物証」めいたものが出てくるという傾向がある。
A――伝説は後世のものほど話は具体的になる。物証さえ生産される。尾ひれが付くどころか、角まで生える(笑)。
C――それを我々は、「伝説進化論」と呼ぶ(笑)。とにかく、幕末の荻角兵衛昌国(1813〜62)の『新免武蔵論』(嘉永四年・1851)には、最近村上某の家でその所蔵の「武蔵が晩年三老臣に贈りし自筆の書翰」を見たとある。これは、『二天記』が引用した書状だろう。それが幕末まで村上家に伝来されていた。ということは、豊田景英は、これを村上八郎右衛門か、その息子の大右衛門あたりから、写しを仕入れたということだな。
A――だけど、荻昌国が言うのは、武蔵が晩年三老臣に贈りし「自筆」の書翰。三老臣宛に提出した武蔵書状の写しじゃなくて、「自筆」の書状がなぜ、村上家にあるんだ(笑)。
C――まあ、そうツッコミを入れなさんな(笑)。『武公伝』の段階では出なかった書状が『二天記』に出てくるというのは、この両文献の間に、あれこれ活発な伝説成長があっただけではなく、物証生産もあったということだ。
B――とにかく、『武公伝』と『二天記』の差分をみると、十八世紀後期に、肥後では活発な伝説成長があったと知れる。話を戻せば、『武公伝』と『二天記』の間では、武蔵の葬地が違う。これも伝説変異だろうな。
C――『武公伝』の段階だと、「飽田郡小江村」という不正確な伝承しかなかった。景英の世代だと、もう、武蔵塚の飽田郡弓削村しか知らないから、そこを勝手に「訂正」してしまったということだろう。
A――しかし、武蔵の時代の正保国絵図だと、飽田郡には弓削村はまだない(笑)。
B――そうして、『二天記』しか知らないと、武蔵は弓削村に葬られたと、頭から思い込むね。それは今日でも状況は同じこと(笑)。
C――『武公伝』が武蔵研究において、『二天記』よりも重要なのはそこだね。むろん『武公伝』はかなり伝説として説話化が進行しているが、それでも『二天記』に比較すれば、古い伝承断片を残している。だから、それを慎重に読解することが必要だ。
A――ところで、武蔵卒去の時、武蔵の遺言の通り、甲冑を帯し六具を固めて入棺、という今日有名な話は、すでに『武公伝』にありましたな。つまり、武蔵は死ぬとき遺言して、自分の遺骸を甲冑で武装させて、棺桶に入れてくれと要望した。そしてその通り、甲冑を帯し六具を固めて棺桶に納めたという逸話。
B――それは、豊田正剛が、中西孫之丞の養子・角之進から聞いた一連の話の中にある。角之進は武蔵が死んだ後、肥後へやって来た人だ。だから、これは又聞きだが、早期の武蔵伝説だな。
C――しかし、どうだね、武蔵の遺言でその遺骸を甲冑で武装させて棺桶に入れた、というのは、土葬ならいざ知らず、火葬だとちょっとありえないねえ。
A――甲冑を帯し六具を固めて、ということなら、それが邪魔で火が回らず、うまく骨にならない、生焼けになるか(笑)。
B――土葬か、火葬か。長岡監物宛伊織書状によると、武蔵の葬式は、細川家菩提寺の泰勝院でやったらしいし、引導は大淵和尚。すると、武蔵は火葬されたと見るべきだな。
C――うむ。禅僧の大淵和尚が導師なら、当然葬儀は禅宗式だからね。火葬以外にはありえない。これは土葬ではないな。
A――となると、甲冑を帯し六具を固めて、という話は風聞伝説だと。この逸話は「いかにも」というところがあるからね。
C――伝説はそういう「いかにも」という線に沿って形成されるからね。しかし、これが、中西角之進から聞いた話だとすると、八代の伝説だな。
B――この一連の話の中には、中西孫之丞が武蔵の病床に付け置かれるのにも、有馬陣で手柄のあった者だから、という誤った理由付けがあるからな、中西孫之丞の養子・角之進の話もかなりあやしい。
C――こういうインパクトの強い逸話は、俗耳に入りやすい。角之進が養父の孫之丞から聞いたというよりも、八代ですでに出来ていた風聞伝説を、角之進が後に豊田正剛に話したというところだろう。
B――正剛が話を聞いたころ、中西角之進はもう爺さんだろ。武蔵が死んで半世紀は経っておるだろう。
C――もう少し前かも知れないがね。いずれにしても、武蔵が死んでからかなり年月が経っている。その間に八代では、春山和尚伝説も含めて、いろいろ武蔵伝説が発生した。中西角之進が豊田正剛に話したのも、そういう種類のものだろう。
A――それを豊田正剛は記録した。またそれを、息子の正脩が『武公伝』に取り込んだ。そして孫の景英は、それを『二天記』に書いた。その結果、今日のように武蔵本が必ずこのエピソードを書く、ということになった。そういう因果連鎖がある(笑)。

*【武公伝】
《卒去ノ時、遺言之通、甲冑ヲ帯シ六具ヲシメテ入棺也。飽田郡小江村地ニ葬ス。兼テノ約束ニテ、泰勝寺ノ前杉馬場ノ内ニ棺ヲ舁居ヘ、春山和尚出迎テ引導也。皆是遺言ニ因テ也》



*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候…》(5月29日付)




甲冑武装

熊本県立美術館蔵
21ヶ条独行道 末尾に異筆日付署名宛名を記す
――それから、れいの「独行道」ですね。あの史料に関する問題も提起されておりましたね。
B――それも、武蔵が書いたものかどうか、確かではない。あやしい(笑)。
C――『武公伝』によれば、正保二年(1645)五月十二日、五輪書を寺尾孫之丞勝信に相伝あり。三十九ヶ条の書を寺尾求馬信行に相伝。同じ日に、武蔵は自誓書を筆記した。そして、五輪書序、武公奥書、孫之丞へ相伝の書、自誓書、これらは今、豊田家にあるという。
A――同じ日に、武蔵は自誓の書を筆記した、というから、五月十二日の日付が入っていたということですな。『武公伝』の後の方に、武蔵遺物を列挙する中に、「岩上の鵜ならびに自誓書の軸、正保二年五月十二日とあり」という記事もある。
B――その「自誓の書」というのが、『二天記』に「独行道」というタイトルで、十九ヶ条の文書として出ておるものだ。『武公伝』には、自誓の書の条々について記録はないから、内容は不明。
A――しかし、『二天記』に豊田景英が記録しているところでは、豊田家伝来のものは、これは十九ヶ条。これは、どうか。
C――景英は、自家伝来の自誓書を見て書いたはずだから、それが十九ヶ条というのは間違いないところだ。問題は、現存自誓書たる「独行道」(野田家旧蔵、現在熊本県立美術館所蔵)が、『二天記』の十九ヶ条独行道より二つ多い、二十一ヶ条であることだ。となると、『武公伝』記すところの、武蔵が書いたという自誓書は、十九条なのか、二十一ヶ条なのか
B――そういう妙な問いを立てざるをえないのだが、野田家本二十一ヶ条「独行道」には、本文と手跡がちがっていて、後入れと思われる記入がある。正保弐年五月十二日という期日、新免武藏玄信という署名と花押、それから寺尾孫之丞殿という宛先だね。
A――そこに余計な書き込みがある。それは、「寺尾孫之丞殿」という宛先の記入だ(笑)。
C――たしかに、『武公伝』の記事には、自誓書を書いて寺尾孫之丞に贈ったという話はない。ただ、五月十二日のその日に武蔵が自誓書を書いたというだけだ。そして、『二天記』の独行道をみると、寺尾孫之丞殿という宛先はない。ということは、少なくとも、『武公伝』が、武蔵が書いたという自誓書には、日付と記名はあっても、寺尾孫之丞殿という宛先はなかったということだね。
A――もし最初から、武蔵が寺尾孫之丞殿と書いたものなら、『二天記』が収録した豊田家伝来のものにも、寺尾孫之丞殿という宛先がなければならないはずだ。
B――というわけで、二十一ヶ条「独行道」には「寺尾孫之丞殿」という余計なことが記されている。しかも、それは、本文とは異筆だが、「正保弐年五月十二日」という期日、「新免武藏玄信」という記名の文字とは同筆。それらが後入れだとすれば、裸の本文だけ、武蔵が書いた、という見方もできる。
A――しかし、『二天記』収録の方には、期日と記名は入っている。無記日・無記名の本文だけではない。
C――そうすると、考えられるのは、いかなることか。一つは、我々が野田家本と呼ぶ二十一ヶ条版「独行道」に贔屓して云えば、武蔵は、無記日・無記名の本文だけを書いた。つまり、それに対し、寺尾孫之丞殿という宛先も含めて、記日・記名は後入れである。これだと、本文は武蔵自筆の可能性があるわけだ。しかるに、
A――しかるに、変じゃないか。どうして、『二天記』収録の方は、二ヶ条少ない十九ヶ条なんだと。
二天記独行道 野田家本独行道
     獨 行 道
一 世々の道そむく事なし
一 身にたのしミをたくます
一 よろつに依怙の心なし
    (な し)
一 一生の間よくしん思はす
一 我事ニおゐて後梅をせす
一 善悪に他をねたむ心なし
一 何れの道ニも別をかなします
一 自他ともニ恨みかこつ心なし
一 れんほの道思ひよる心なし
一 物事にすき好む事なし
一 私宅におゐてのそむ心なし
一 身ひとつに美食をこのます
一 末々代物なる古き道具所持せす
一 我身にいたり物いみする事なし
一 兵具は格別余の道具たしなます
一 道におゐてハ死をいとはす思ふ
一 老身に財寶所領もちゆる心なし
一 佛~は尊し佛~をたのます
    (な し)
一 常に兵法の道をはなれす

 正保二年
    五月十二日     新免武藏
                   玄信判
     獨 行 道
一 世々の道をそむく事なし
一 身にたのしミみをたくます
一 よろつに依怙の心なし
一 身をあさく思、世をふかく思ふ
一 一生の間よくしん思はす
一 我事におゐて後梅をせす
一 善悪に他をねたむ心なし
一 いつれの道にもわかれをかなします
一 自他共にうらミかこつ心なし
一 れんほの道思ひよるこゝろなし
一 物事にすきこのむ事なし
一 私宅におゐてのそむ心なし
一 身ひとつに美食をこのます
一 末々代物なる古き道具所持せす
一 わか身にいたり物いミする事なし
一 兵具ハ各別よ(余)の道具たしなます
一 道におゐてハ死をいとはす思ふ
一 老身に財寶所領もちゆる心なし
一 佛~は尊し佛~をたのます
一 身を捨ても名利はすてす
一 常に兵法の道をはなれす

 正保弐年
    五月十二日    新免武藏
                 玄信[花押]
      寺尾孫之丞殿


*【武公伝】
《正保二年[乙酉]五月十二日、五輪書ヲ寺尾孫之亟勝信[後剃髪、夢世云]ニ相傳在。三十九ケ条ノ書ヲ寺尾求馬信行ニ相傳ナリ。同日ニ自誓ノ書ヲ筆ス。[五輪書序、武公奥書、孫之亟ヘ相傳書、自誓書、今豐田家ニ在リ]》
《岩上鵜并自誓書軸[正保二年五月十二日ト有リ]是ハ豐田家ニ傳ハル》
C――たぶん『二天記』収録のものからみて、『武公伝』の自誓書は、二十一ヶ条ではなく、十九ヶ条であるだろう。文書好きの豊田景英が(笑)、二ヶ条も書き落とすわけがない。正剛が所持していたであろう自誓書は、すでに十九ヶ条。となると、その段階までに、二ヶ条減っていた(笑)。
B――ところが、一方で、『武公伝』は、「独行道」とは書かず、「自誓書」と書いている。もし、豊田家本に「独行道」というタイトルがあれば、ここはやはり、「独行道」と書いただろう。『武公伝』のいう自誓書には、「独行道」というタイトルはなかったと。
C――となると、『二天記』収録の「独行道」は、村上派かどうかわからぬが、とにかく他家のものを見て、景英がそれを写した。そうして、豊田家本にはなかった「独行道」というタイトルを入れたと。
A――それでも、景英の段階では、「独行道」は十九ヶ条だ。他家の「独行道」を参照しても、十九ヶ条。さあ、どうする?(笑)
C――なにを云うか、こっちにある『二天記』一本なんぞ、十八ヶ条だぞ(笑)。「兵具は格別余の道具をたしなまず」がない。
A――とほほ。
C――それはともかく、『武公伝』が、武蔵が五月十二日に書いたという豊田家の自誓書、それが十九ヶ条だったとすれば、現存「独行道」とは別のヴァージョンだ。武蔵が異なるヴァージョンの自誓書を書いたのならいざしらず、一本しか書かなかったとすれば、十九ヶ条と二十一ヶ条のどちらが、武蔵作なのか。
B――ただし、『武公伝』の「自誓書」という呼び方だと、本来は、「独行道」というタイトルはなかった。そうすると、「独行道」というタイトルを冠した二十一ヶ条ヴァージョンは、後人の書ということになる。
A――十九ヶ条から二十一ヶ条に増えたと。
C――必ずしもそうとは言い切れないが、これも例の吉数にそろえた、とみえないこともない。つまり、三・七、二十一の吉数にしたくて、十九ヶ条から二十一ヶ条に増やしたと。
B――両者の差分は、「身をあさく思い、世をふかく思う」と「身を捨てても、名利はすてず」だな。二十一ヶ条の中でも、武蔵の綱領にしては胡乱な条々である(笑)。
C――もちろん深読みすれば、いろいろと語れようが、我々の見方では、武蔵のテーゼにしては、いささか俗流で武蔵流ではない。そもそも、この文書それ自体、武蔵の述作だとみなす根拠は薄弱だな。自誓書=独行道はそんな根本的な問題を残しておる。
記載要素 武公伝自誓書 二天記独行道 野田家本独行道
タイトル 記載なし 「獨行道」 「獨行道」
本 文 内容条数不明 十九ヶ条 二十一ヶ条
年月日・新免武蔵記名 (あ り) あ り あ り(異筆)
寺尾孫之丞宛先 (な し) な し あ り(異筆)





「独行道」という題名
A――本来は、二十一ヶ条なのか、十九ヶ条なのか。それとも、武蔵はもともとこんなものを書かなかったのか。
B――武蔵の述作かどうか疑わしいとなると、二十一ヶ条「独行道」の本文は武蔵自筆だ、という今日興行されておる説は、根拠なき臆説である。たしかに能筆だが、武蔵自筆というには、手跡の類似というだけでは話にならない。似せようとすれば、手跡の類似は可能だからな。
A――筆跡の類似を理由に、武蔵真筆を主張することはできない。それもあるし、やはり問題は、「独行道」というタイトルかな。
C――だろうな。繰り返せば、『武公伝』の「自誓書」という呼び方だと、「独行道」というタイトルはなかったとしなければならない。あるいは、もう少し厳密に言えば、「独行道」というタイトルのないヴァージョンがあった。すると、「独行道」というタイトルのないヴァージョンが先で、「独行道」というタイトルをもつのが後のヴァージョンだということになる。
B――「独行道」というタイトルをもつのが先にあれば、それを写したものがそのタイトルを落とすことは考えられないからな。「独行道」というタイトルをもつ方が後のヴァージョンだということになると、そのタイトルを冠した二十一ヶ条ヴァージョンは、後世の製作物ということになる。
A――ゆえに、野田家本二十一ヶ条「独行道」は、決して武蔵自筆ではありえない。そういう結論ですな。
C――ただしその結論も、当面のものだ。そのうち、この結論を転覆する自誓書が出てくるかもしれない。それは、今後のお楽しみだ(笑)。
B――というわけで、『武公伝』はいろいろ問題を教えてくれもする。それで迷惑する向きもあろうが(笑)。
――本日の会もそろそろ時間が押してきました。最後に一つ、『武公伝』だと、夢世〔むせい〕、つまり寺尾孫之丞は一代かぎりで、兵法を子孫に伝えなかった、という話が出てきます。これについても、そうじゃない、孫之丞の家系は、それから以後も存続していたということですね。
A――その経緯を云えば、従来、武蔵周辺研究において、寺尾孫之丞の子孫まで追跡した研究は存在しなかった。そこで、『武公伝』読解研究で、そのあたりについて我々の所見を示すことで、先鞭をつけておいたということでしたな。
C――寺尾孫之丞は生涯仕官せず、牢人のまま兵法指南して活計していた。寺尾家の系図(「寺尾家系」)によれば、寺尾孫之丞は独身ではなく、妻子があったらしい。一女一男あり、娘は横井某へ嫁し、息子は早世したとある。そこで、寺尾孫之丞は養子をとったようだ。
B――孫之丞兄・寺尾喜内(九郎左衛門)の息子に、佐五左衛門という人があって、彼が寺尾孫之丞の養子になっている。つまり、病気につき、宇土郡松山手永に牢人、夢世養子になるとあれども、不分明、とある。
C――そうすると、佐五左衛門は病気で廃嫡され、宇土郡松山手永にいた叔父の寺尾孫之丞の許に引き取られ、養子になったということらしい。だが、それがどうなったのか不分明というから、この系図も頼りにはならない(笑)。
A――佐五左衛門以下子孫の情報は、熊本には残らなかった。
B――求馬助嫡男・佐助信形の末裔が作った熊本の系図だからね、不分明。宇土郡の末葉のことはよく知らんのさ(笑)。系図には、寺尾孫之丞について、《寺尾孫之丞。後夢世。牢人。宇土郡松山手永ニ居住》という短い記事しかない。松山手永のどの村に住んだか、というところまでの記載もない。
A――そして寺尾孫之丞の墓が、その宇土郡松山手永(現・熊本県宇土市松山町)にある。命日は「寛文十二[壬子]年九月十九日」、裏面に「寺尾氏源勝信六十歳薨」と享年記録もあって、寺尾孫之丞が寛文十二年(1672)に六十歳で死去したと知れる。
C――寺尾孫之丞は、甥の佐五左衛門を養子にして、跡を嗣がせた。自身は隠居して夢世を号した。寛文年間の五輪書の記名は夢世だから、孫之丞は五十代には隠居して、佐五左衛門が跡を嗣いでいた。そこで、当所の寺尾家墓所の他の墓石をみるに、系図の記事に対応する人物の墓と思しきものが存在する。
B――たとえば、「万治二[己亥]年十月朔日」の命日がある「夢菴幻身居士」。系図に「早世」とある寺尾孫之丞の息子だろうな。実子が早世したので、甥の佐五左衛門を養子にした。あるいは女性の墓で、法名「釋尼妙清」、命日「延宝八[庚申]歳十二月十五日」とある墓石がある。これは寺尾孫之丞の妻女だろう。
A――寺尾佐五左衛門という俗名の墓が二つありましたな。
B――ひとつは、法名「釋如侠」、命日「元禄参[庚午]二月十日」とあるもの。これが、夢世(孫之丞)の養子となった寺尾佐五左衛門勝秀の墓。もう一つの寺尾佐五左衛門名の墓があって、それは「寺尾佐五左衛門尉勝宣」と世性(俗名)を記す。これは佐五左衛門勝秀の息子。そうしてみると、寺尾孫之丞の養子になった佐五左衛門の家系は、不分明どころか、実際には存続していたわけだ。
C――問題は、「釋夢世居士之塔」と銘がある墓。命日「享保十[乙巳]歳五月初六日」と記す。俗名の記載はない。この「夢世」は、同所に墓がある寺尾孫之丞の道号「夢世」を襲名したものらしい。
A――そこで、享保十年(1725)卒去のもう一人の夢世、第二の夢世がいた、ということになる。
B――この第二の夢世は、佐五左衛門勝宣の息子だろう。夢世号を嗣いだところからすると、この第二の夢世も、曽祖父・孫之丞のように兵法指南で身を立てた人かもしれない、そう当て推量したね(笑)。
C――そこで、これを系図の記事と付き合わせてみると、孫之丞には一男一女あって、娘は横田某へ嫁し、息子は早世した。この早世した息子は、「夢菴幻身居士」と同定できる。ところが、系図には、寺尾孫之丞が、佐五左衛門とは別に、養子を取ったことになっている。
B――その人物は、《寺尾孫之丞。牢人。断絶。/実ハ松岡玄壽二男、為養子》とある。この養子は、松岡玄寿の二男で、養子になり、寺尾孫之丞を襲名した。牢人とあるから、兵法指南で活計した人だろう。
C――ところが、松岡家の二男が寺尾家の養子になり、「寺尾孫之丞」を襲名したということはありえたとしても、初代寺尾孫之丞勝信が、松岡の二男を養子したというのは、明らかに誤伝だ。というのも、孫之丞が養子にした甥の佐五左衛門勝秀は、元禄三年(1690)卒だから、もちろん孫之丞死後まで生きている。勝秀の息子の佐五左衛門勝宣までいる。
A――とすれば、寺尾孫之丞が、甥の佐五左衛門とは別の者を養子にしたはずがない。系図のこの記事は訂正しなければならない(笑)。
C――たぶん、系図作者は、享保十年(1725)に死んだ「釋夢世居士」を、寺尾孫之丞勝信の夢世と混同した。そこで、寺尾孫之丞が「松岡玄寿二男」を養子にしたとしたのだが、本当は、松岡家の二男を養子にしたのは、この第二の夢世だろう。

*【武公伝】
夢世ハ一代ニテ兵術子孫不傳。筑後殿、山名十左衛門殿、浦上十兵衛、柴任三左衛門ナド皆、ム世(夢世)ノ高弟也。求馬子孫ハ于今連綿アリ。子息五人ノ内、辨介兵術勝タル名ノ由。夫レ継テハ加賀介技ヨリヨカリシト也》


*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助勝永┬喜内勝正――┐
       | 九郎左衛門 |
       |      |
       ├孫之丞勝信 |
       |      |
       └求馬助信行 |
 ┌――――――――――――┘
 ├佐五左衛門 孫之丞養子
 |
 └九郎左衛門克清―勝貞→


*【寺尾家系】
《某[寺尾佐五左衛門。病気ニ付、宇土郡松山手永ニ牢人。夢世養子ニ成ト有之候得共、不分明]》





寺尾孫之丞の墓
熊本県宇土市松山町







*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助勝永――┐
 ┌―――――――┘
 ├喜内勝正 九郎左衛門 ―┐
 | ┌―――――――――┘
 | ├佐五左衛門 孫之丞養子
 | |
 | |九郎左衛門
 | └克清―勝貞―勝宣―勝寿
 |
 |      養子 勝正長男
 ├孫之丞勝信=佐五左衛門勝秀┐
 | ┌―――――――――――┘
 | └佐五左衛門勝宣―夢世
 |
 └求馬助信行―佐助信形―┐
   ┌―――――――――┘
   └助左衛門勝春―佐助勝義





個人蔵
寺尾家系 孫之丞子孫部分




*【寺尾孫之丞子孫系図】 

○寺尾孫之丞┬女子 嫁横井某
      |
      ├男子 早世
      |
      |養子 孫之丞甥
      └佐五左衛門勝秀
 ┌――――――――――――┘
 └佐五左衛門勝宣―夢世居士┐
 ┌――――――――――――┘
 |養子 松岡玄寿二男
 └=寺尾孫之丞――┐
   ┌――――――┘
   ├男子 寺尾喜内 後余田養子
   |
   └女子 蓑田軍八妻













*【余田氏先祖附】
《八代目寺尾〔ママ〕喜内儀、寺尾市郎左衛門弟ニ而候。寿三郎養子ニ奉願置、病死ニ付、同年(天明6年)七月二十五歳ニ而名跡相續被仰付、御中小姓被召出、五人扶持被下置、落合勘兵衛組被召加、(中略)同(文政)三年九月、多年格別致精勤且御家舊家柄ニ被對、今迄下置候御擬作高百石、地面ニ被直下旨、以奉書申渡。(中略)同年(文政12年)六月六十八歳ニ而病死》









寺尾家墓所 宇土市松山町





寺尾家墓所地図
A――ここで名が出てくる「松岡玄寿」というのは、孫之丞子孫探究のポイントだが、最初わからなかった。
B――さしあたり直かに同定しうる人物はいない。ただし、その名号「玄寿」からすれば、これはたぶん、細川家御医師の松岡元寿だろうな。
C――先祖附によれば、松岡家は代々詫間郡で小児医をしていたという。もし、初代寺尾孫之丞が、れいの詫間郡大江村あたりに住んでいたとすれば、松岡元寿の先祖と知遇があった可能性がある。それもあって、「松岡玄寿」は御医師の松岡元寿だろうという見当。
B――松岡氏先祖附によれば、宝永七年(1710)に松岡元寿は召出された。享保九年(1724)御医師組、同十八年(1733)には新知百石を得た。寛延三年(1750)元寿は知行を返上して、跡目を息子の三寿に譲った。三寿は父の知行百石のうち五十石を与えられた。だが、三寿は八年後の宝暦八年(1758)に病死して、跡は養子の玄悦が継いだとある。
C――この松岡元寿の二男が、宇土郡松山の寺尾家の養子になった。名は某とのみあって、系図に名をとどめていない。「寺尾孫之丞、牢人」とあるから、「寺尾孫之丞」の名跡、つまり兵法指南の家業を継がせたということだろう。
A――しかし、「断絶」と記してある。このあたりの事情はわかるか。
B――系図で次の世代をみると、夢世の養子(松岡玄寿二男、寺尾孫之丞)には一男一女がある。ところが、その息子について、《勝寿養育イタシ》とある。おそらく親が死んで、まだ幼少だったので、他家に引き取られ養育された。ここで「勝寿」とあるのは、熊本の寺尾本家、九郎左衛門勝寿のことだな。
C――寺尾氏先祖附によれば、この九郎左衛門勝寿は、初代寺尾佐助から数えて六代目の人。宝暦六年(1756)家督、宝暦九年(1759)名を孫四郎から九郎左衛門に改めた。卒年は寛政三年(1791)。夢世居士養子「寺尾孫之丞」の子を、九郎左衛門勝寿が養育したとなると、これはすでに十八世紀後期の話だ。
A――となると、豊田景英のころまで、寺尾孫之丞の子孫は続いていた。
C――この子は、熊本の寺尾本家に引き取られて養育された。寺尾九郎左衛門家先祖の「喜内」を名のる。寺尾孫之丞の兄・九郎左衛門は初名が喜内だね。この子は疎かには扱われなかったとみてよい。
B――そして系図によれば、この寺尾喜内は余田寿三郎の養子になったという情報がある。このあたりから、孫之丞の子孫が、熊本の寺尾一族の視野に入ってくるわけだ。
C――そうして、寺尾喜内は余田家に養子に入り、女子は蓑田家に嫁に行った。子孫は二人とも他家へ入ってしまったから、夢世の裔は後嗣ぎがない。系図が記すように、断絶したということになる。
A――すると、この寺尾喜内が、孫之丞子孫末端ということですな。この人の生歿年は?
B――喜内が養子に入った余田氏の先祖附によれば、喜内は、文政十二年(1829)六十八歳で歿。だから、宝暦十二年(1762)生れだね。この喜内まで、寺尾孫之丞、夢世の子孫は続いた。
A――喜内の実父、つまり松岡玄寿二男から養子になって「寺尾孫之丞」を襲名した人物は、どのあたりまで生きていたかというと。
C――宇土郡松山の寺尾家墓所には、「善正院釋誓也位」(明和三[丙戌]天十一月十七日卒)と「旭正院釋尼妙躰」(明和三[丙戌]天十二月十七日卒)という墓石がある。これが喜内の父母の墓だろう。すると、父母はともに、明和三年(1766)に相次いで死去している。この年両親を失った喜内は五歳。遺児は、熊本の寺尾本家の九郎左衛門に引き取られて養育された。そして親戚の寺尾市郎左衛門弟分になって、そこから余田家へ養子に行った。経緯はそういうところだ。
B――喜内の実父は、松岡家から寺尾家に養子に入った人だが、前にも云ったように、系図に「牢人」とある。しかも、「寺尾孫之丞」を襲名したというのだから、兵法指南で活計したものと思われる。そして彼は、明和三年(1766)まで生きていた。したがって、夢世(寺尾孫之丞)は、一代かぎりで、兵法を子孫に伝えなかった、という『武公伝』の記事は、事実を語るものではない。
A――寺尾孫之丞の子孫は、宇土郡で続いた。にもかかわらず、八代の『武公伝』が、それについて無視するようなことを書いている。それはどういうわけなんだ(笑)。
C――八代と宇土は比較的近いのに、寺尾孫之丞の子孫に関する情報がなかったとは思えないね。おそらく『武公伝』の橋津正脩は、宇土郡松山住の寺尾孫之丞が、甥の佐五左衛門を養子にして以後のこと、あるいは、松岡家から寺尾夢世の養子に入って、かの名跡を継いだ寺尾孫之丞のことを知っていたはずだ。
A――とすれば、橋津正脩が、《夢世ハ一代ニテ兵術子孫不伝》とは書くまいと。
B――これは、『武公伝』記事後段の「求馬助の子孫は今も連綿として続いている」という記述と対応する。孫之丞の系統は一代で絶えたが、求馬助の系統は今も存続していると対比強調しておる。まあ、ようするに、景英が増補した記述部分だろう。
C――従来の武蔵研究は、寺尾孫之丞の裔を追跡するという作業を怠っていた。そのため、《夢世ハ一代ニテ兵術子孫不伝》という『武公伝』の記述に対し、それを鵜呑みにするか、論評を避けるしかなかった。それに対し、我々の研究で得られた結果では、《夢世ハ一代ニテ兵術子孫不伝》は事実ではなかった、十八世紀中期まで、寺尾孫之丞の子孫は兵術を指南していた、ということだ。これも我々の『武公伝』読解研究から生じた副産物だったね。
*【寺尾氏豊田氏平行略系図】

○寺尾佐助┬喜内勝正┬佐五左衛門 孫之丞為養子
     |    |
     |    └九郎左衛門克清―勝貞┬九郎左衛門勝宣―勝寿―志馬勝徳
     |               |
     |               └喜内 孫十郎 佐助勝義為養子
     |
     |      養子 勝正男        養子 松岡二男
     ├孫之丞勝信=佐五左衛門勝秀―勝宣―夢世=孫之丞―喜内 余田家養子
     | 信正 夢世
     |                       養子 勝貞男 養子 津川氏男
     └求馬助信行―佐助信形―助左衛門勝春―佐助勝義=藤兵衛勝安=藤兵衛勝俊

○豊田甚之允高久=専右衛門高達―又四郎正剛―彦兵衛正脩―専右衛門景英
                 橋津卜川  橋津八水  豊田復姓 守衛
A――さあ、今回はそんなところでよろしいかな。
――ありがとうございます。無事シメていただいて(笑)。このところ、当サイトの武蔵研究プロジェクトの焦点は、武蔵の伝記というところで、『丹治峯均筆記』『武公伝』と続いて、次は『二天記』と『(兵法)先師伝記』。それで山を越すと思われます。次々に新しいフィールドが開かれるということで、期待されている仕事です。
B――何もしなければ、何も動かない。というわけで、はじまった研究プロジェクトだが、だんだん約束が果たせそうな感じになってきた。喜ばしいではないか。
A――ここまでくると、峠が越せたということだね。祝着(笑)。
C――皆さんの助力もあって、実際に次々と成果が生れている。今後も、乞うご期待だな。
――はい。お忙しいところ、ありがとうございました。では、次回のお話を期待します。では、よき新春をお迎えください。雪が降ってきたようです。帰りのお足元、お気をつけください。
A――はいはい(笑)。
(2007年12月吉日)


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