坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

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生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。(地之巻)
10 芝居とアニメ。武蔵物二題  Back   Next 
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――真夏の暑い中、わざわざお集まりいただきまして、ありがとうございます。前回からかなり間があきましたが、久しぶりの「坐談武蔵」を開催できることになり、大いによろこんでおります。
――みな、まだ、生きてたかね(笑)。
――病気で死にそうになったが。
――まだ、死んではいないようだ(笑)。ここへきて、世の中が面白くなって、これじゃまだ死ねないか。
A――ご冗談を。日本は没落の道をまっしぐら。面白いわけがないでしょう。
――それで早速、本日の話題なのですが、今回はリハビリをかねて(笑)、かるく行きたいと思います。どうでしょうか。
A――はじめに突然だが、政権交替とかで民主党が与党になって最悪なのは、喫煙への迫害がますます募って、とうとう大幅値上げをすることだ(笑)。
B――それはかなり突然だ(笑)。しかし、わしゃもう煙草はのまんが、それでも、この喫煙迫害は強迫的ファッショだ(笑)。喫煙は野蛮人の病的悪習だといって蔑視するまでになった。明らかに差別と排除だぜ。
A――煙草一本の値段はほぼすべてが税金分だ。喫煙者は命を削って納税している(笑)。酒を飲んで人を殺傷する事件は少なくない。ならば、どうしてキチガイ水の飲酒を制限する法令を出さんのだ。酒税を上げんのだ。
C――それは、全国の酒造業者や輸入業者がだまっていない。酒税は昔から大切な収入源なんだよ。明治には酒税で軍鑑を買っておったくらいだ。今でも政府は、飲酒には手をつけんだろう。「健康な社会」という強迫的な清潔主義運動が、喫煙では迫害にまでなっている。もうすぐ喫煙者は投獄すべしということになりそうだ(笑)。
B――その強迫的清潔主義からする粛清は、マスメディアが唱導して今や社会に蔓延しておって、息苦しい世の中になった。まさに窒息しそうだ。たとえば、大相撲だ。朝青龍が「横綱の品格」がないといって追放するし、相撲取りがたかが大麻や賭博にハマっただけなのに馘首する。このキチガイじみた清潔主義はなんだ。
C――相撲もかつては、戦場の武術の一つなんだよ。相手を制圧しあるいは殺す術だ。日本の相撲の神話的起源は、建御雷神と建御名方命の一戦だが、元祖は当麻蹶速を蹴り殺した野見宿禰だ。武術は本来そういう暴力的手段だよ。それを西洋式のスポーツと勘違いしてしまっておる。
B――相撲という芸能は、人並みはずれた巨大な肉体が激突する勝負。それを殺し合いにしないために、地に体が先についた方が負け、円形の土俵の外へ先に体が出た方が負け、というごく単純なルールを設けた。しかし本来相撲は、社会の外部にあるヤクザな稼業なんだよ。だからおもしろかったんだ。相撲興行にしても地方巡業は欠かせないが、昔からそれぞれ地元の親分が興行を取り仕切っていた。時には身銭を切って、相撲興行を支えてきたのは親分衆だよ。それが今になって、昔の恩義も忘れて、ヤクザを「反社会的勢力」と呼ぶ始末だ。
A――ヤクザ業界はアウトロー、まともな稼業につけない見捨てられた青少年たちを何とか食えるようにしてやって、大いに社会的貢献をしてきた(笑)。それがなんで「反社会的勢力」なんだよ。
B――この世は苦界だ、四苦八苦の苦しみだけがあると、「厭離穢土」を説く仏教の方が、はるかに「反社会的勢力」だよ(笑)。
C――それは半分、仏教を誉めて言っておるな(笑)。しかし、大相撲の「不祥事」について最近出てきた、あの「ガバナンスの整備に関する独立委員会」という名前、あれは何だ。どうして「国技」大相撲に、「ガバナンス」なんて最近の外来語が必要なんだ。
B――これは文化破壊だよ。日本語も知らない連中が、寄ってたかって大相撲の伝統文化を破滅させようとしておる(笑)。そのうち、「親方」だの「部屋」だの「茶屋」だのというシステムを廃止しようと言いかねない。
A――それは企業でも大学でも同じ。何でもアメリカ流に変えようとする小ざかしい連中が支配するつまらない世の中になった。
C――とにかく、横綱をはじめ幕内上位はほとんどが外国人力士、これは「国技」の国際化として歓迎すべきだが、ただしその反面、日本人の若者は辛抱を嫌って相撲に寄りつかない。日本人がこれでは、もうすぐ大相撲は絶滅しかねない。
A――そうなると、「絶滅危惧種」としてますます保存に留意しなければならない(笑)。文部省(文部科学省)が管轄だろ、無形重要文化財に指定しておかないと、この世から日本の武術が一つ消滅してしまうぞ。
B――さらに余談になるが、先日、多和田葉子の新刊(『尼僧とキューピッドの弓』)を読んでいると、「宮本武蔵」の名がいきなり出てきて、ちょいとおどろいた。
C――えらく話が飛ぶな(笑)。あれは日本の弓道、『弓と禅』のオイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel)がらみでな。ドイツの田舎町の尼僧院と弓道、意外な取り合わせがエピソードとして入っているが。
B――ヘリゲルとなると禅だが、多和田葉子ワールドに、宮本武蔵の名が飛び出すとは思わなかった(笑)。
A――そうでしたな。あそこは、ちらっと宮本武蔵や三島(由起夫)の名。
B――主人公の日本人女性が、オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』の原書、"Zen in der Kunst des Bogenschiessens"を、友人に公立図書館で探してもらうが、ない。日本では文庫本でも出ている書物なのに、本国のドイツにはないのは、なぜか。
C――ヘリゲルは関東大震災後の大正十三年あたりに来日したのだったな。仙台の東北帝大で哲学を教えて、阿波研造に弓を学んだ。昭和四年にドイツへ帰国したが、その後ナチ政権下で出世する。戦後は、ナチ協力者として弾劾され、不遇の晩年を送って昭和三十年に死んだ。戦後、政治的に抹殺されたオイゲン・ヘリゲルのドイツでの評価は低い。だから、ドイツの公立図書館にその著書はない。そういう次第がわかって、これも興味深い。
B――再版新刊はアマゾンでも手に入るのに、ドイツの公立図書館にはない。それがドイツ人らしいところだ。戦争責任をいまだに決して忘れないらしい。
A――ドイツ人は、何でもすぐ水に流す日本人と違う。「法」の理念があるのと、ないのとは大違い。
C――逆にいえば、何でも訴訟だ、裁判だという社会だ。オイゲン・ヘリゲルはカント哲学だったが、その合理性から離反して、東洋的神秘主義へ転んでしまう。法規範優位のドイツ的理念世界の外部へ出ようとしたらしい。日本の弓道はそのカウンターカルチャーだね。
A――第三帝国、世界革命運動としてのナチスもまた、カウンターカルチャーだったかもしれない。ハイデガーがナチスにイカれたのも、そこだ(笑)。
B――しかし、ドイツの公立図書館にオイゲン・ヘリゲルはなくとも、ハイデガーなら全集で揃えているだろ。だから、戦争責任といっても、いいかげんなものだ。大物のハイデガーなら免罪してしまう(笑)。
C――それをいえば、ドイツの公立図書館にオイゲン・ヘリゲルの著作がないというのは、戦争責任うんぬんよりも、実はヘリゲルは本国ドイツでは知られてないからだ。ドイツ人が知らないオイゲン・ヘリゲルを、日本人はいまだに読んで喜んでいるというわけだ。
A――ヘリゲル経由で、武術を神秘主義的に読んでしまうとか。「私(Ich)が射るのではなく、エス(Es)が射る」(笑)。
B――それが、阿波研造とヘリゲルの間にたった通訳が表現を誤訳したのに発するという憶測があるが、そんな穿鑿をする必要はない。これはドイツ帰国後のヘリゲルの解釈なんだよ。解釈が記憶を再編成してしまっただけのことだ。
C――それは往々にしてよくあることだ。フィクションでなくて、ノンフィクションの体裁をとっていても、明らかな物語形成がある。登場人物の科白のところはとくにそうだ。しかし、大正から昭和にかけて日本で流行した、武術修行は心の修養、精神的練磨が第一義だという「道学者流」にも困ったものだね。



















野見宿祢と当麻蹴速
月岡芳年画






国技館













Eugen Herrigel,
Zen in der Kunst des Bogenschiessens, 1948

















*【Eugen Herrigel】
《Eines Tages fragte ich daher den Meister: "Wie kann denn überhaupt der Schuß gelöst werden, wenn 'ich' es nicht tue?"
"'Es' schießt", erwiderte er.》(Zen in der Kunst des Bogenschiessens










ニューギニア遺骨収集



















B――だから、その日本的なセイシン主義が問題だった。ある先輩の曰く、昔、日本が戦争に負けた要因は三つある、というわけだ。一つは、戦争指導者である軍の幹部が、軍事を知らず、本気で戦争する気がなくて、はじめから、どう戦争を終らせるか、そればかり考えていたこと。これは、リアルポリティックスの政治的判断といって、戦後称揚される弊風があったが、実は軍人が軍人ではなく、政治的官僚だったこと。第二に、俗説のいうように、将校から大将にいたるまで、自国の武器の優秀を過信していたのではなく、実際には自信がないのに、それに目をつぶって武器を軽んじたこと。第三に、それと関連するが、兵卒の軍事教練において、「右向け右」の精神鍛錬ばかり強調して、実戦的な、たとえば銃を撃たせる訓練を十分にさせなかったこと。
A――それはトレーニング・コストの問題かもしれない。時間と金をかけて、兵を訓練するというつもりはなくて、いかにも安上がりに戦闘部隊に仕立てようとした、ケチな根性だったこと(笑)。
C――とにかく、皇軍といいつつ、兵を粗末に扱った。安く使おうとしたね。しかも、兵站線が伸びきってしまったところで、補給もせずに前線の兵隊を見殺しにした。親族の一人に南方で死んだ将校がいたが、戦死だというが本当は戦死ではないね。ニューギニアで餓死だ。帰る遺骨もない。日本は現代戦争の実態を度外視した精神主義によって敗北したというよりも、味方の将兵を粗末に扱うような戦争指導部では、はじめから戦争には勝てない。
B――今でも俗論がいう、これからは「物の時代」ではなく「心の時代」だという科白があるな。そんな対抗図式は、戦前から言っていたよ。英米は物質文明の域にとどまっているが、それに対し我が日本は、まさに精神文化の国体だ。連中に負けるわけがないと。
A――戦後になっても、あれは米軍の物量に負けたのであって、決して日本軍が弱かったから負けたのではない、という負け惜しみの強弁が、じつは大衆レベルでも残存した。
C――国粋的論潮の特徴の一つは、科学技術への蔑視だったな。それは西洋コンプレックスの裏返しで、科学技術の劣等は、そんなものがなくても精神さえ強ければ勝てるという強弁で隠蔽される。
B――「物」ではなく「心」だという俗論は、口当たりのよい酒と同じで、すぐに人を酔わせる。しかし、「物」の何たるや、それを知らない。同型の図式だが、去年政権をとった民主党が、「コンクリートから人へ」なんて間抜けなスローガンを唱和していたが、これは生コン業者を怒らせたね(笑)。
C――差別だとね。実際に、これは蔑視であり、差別だった。余談になるが、いま、大阪の生コン業者は長期ストに入っている。大阪で現場をかかえたゼネコンは、工事がストップして弱っている(笑)。
A――もちろん、民主党が政権を取る以前から、労働組合はすでに体制内化していて、長期不況でどんどん馘首されるようになっても、労働者に連帯させない。ストライキという戦法があることさえ忘れている。いまや、長期ストができるのは、生コン業者だけになってしまったか(笑)。
B――それはともかく、科学技術偏重の物質文明に対する精神文化という図式は、欲しがりません勝つまでは、という我慢、忍耐のスローガンに結実した。精神文化主義とは、何のことはない、ようするに我慢と忍耐を強要することだった。
C――その我慢と忍耐の国に、南の島から飛来した巨大な爆撃機が焼夷弾を雨あられと落した。その空襲で多くの都市が焼き払われて、厭戦気分も出てきた。そして真夏のある日、原爆が投下された。これは「戦いは無用」という最後通告、ファイナル・メッセージだった。
A――それで我に返った。「あれっ? 負けるんだ」と。
B――あるいは、こんな途方もない新型爆弾でやられるとは、「負けても仕方ない」。
C――もっといえば、「ああ、負けてもいいんだ」と。一億玉砕のつもりでいたが、降参していいんだと。
B――生きて虜囚の辱めをうけるなと、「一億玉砕」というキャンペーンを政府が張り出したとき、実際にはもう負けていたんだ。その事実と認識とのズレね、そのギャップの間に百万人は死んだ。
A――聖断があって皇軍が無条件降伏した。その「皇軍」はあっというまに瓦解して消滅した。あの戦いはいったい何だったんだ。あの大義はどこへ消えたんだ。皇軍将兵として戦場に散った連中は、何のために死んだんだ。
C――徹底抗戦を叫んでいた連中も口先ばかり、山居してゲリラ戦を戦う者はいなかった。勝てば官軍、負ければ賊軍。賊軍の汚名を着ても、あえて戦い続けるという根性の者はもういなかった。武蔵流にいえば、「底をぬかれてしまった」というわけだ(笑)。
A――それが現実だ。軍事的に敗北しただけではなく、精神的にも完敗した。そうして戦後、米軍に国土が占領されただけではなく、心の底まで占領支配されてしまった。それは戦後六十五年の今日にして、事態は変っていない。
C――戦後占領は終っていない。米軍基地はいまだに要所をおさえ、米軍将兵が駐留している。日本政府は卑屈にもアメリカの犬となり、政治家は破廉恥にもワシントンの意向をうかがうばかり。
B――そんな情けない国家にどうしてなったんだ。米軍の物量作戦に負けたからか。そうではないだろ。「日本精神」なるものが、そもそも兵を安く使役するための虚構だったからだ。そんな虚構を捧持した日本人が精神的に敗北して、我に返ったはよいが、こんどは魂まで売り飛ばしてしまった。
C――日本人は底の底まで抜かれてしまった。戦争に負けた。しかしその後がもっと悪かった。もっと別の「戦後」があっただろう。そうじゃないのか。このままだと、戦争で死んだ連中は、永遠にうかばれない。
A――そんな話になると、話は延々無限に尽きなくなる。今日の話は何だったかな(笑)。
――戦後占領は終っていないというお話でしたが、どうやら日本人は、相変わらず宮本武蔵が好きなようで(笑)、近年もジャンルを問わず、あちこちで武蔵物作品が生れております。とくにいえば、去年から、井上ひさし作の「ムサシ」という演劇作品が公演されましたね。蜷川幸雄演出で、ロンドンやニューヨークで公演もして、また日本で凱旋公演みたいなことをやっている。この「ムサシ」は前にごらんになりましたね。
A――皆さん、何かというと、宮本武蔵だが、話のネタにしやすいのかね(笑)。しかし、井上ひさしの「武蔵」となると、これはもう、テーマが「反戦平和の願い」以外にない(笑)。
C――それを云うと、話が終ってしまう(笑)。だから、「反戦平和」の井上ひさしが、どう武蔵を料理したか、そこが話のネタだ。井上ひさしというと、その日共的微温の方寸に切り詰めた登場人物だから、暴力性が徹底しない。否定されるべき暴力の思想がラディカルでないと、反措定としての「反暴力」も中途半端な格好になる。
B――この作品では、それが最後までたたっておるよな(笑)。ただし、楽しく笑って「反戦平和」を学ぶという単純な演劇ではない。あれこれけれん味があって、一筋繩ではいかない、そこを娯楽させるという芝居だな。
A――ただし、その仕掛にどこまで観客がついていけるのか、というと、これはかなり無理だな。演出の蜷川はそのリスクを回避して、舞台のノリをよくして、一気にラストまで走るが。
C――この「ムサシ」は、《吉川英治『宮本武蔵』より》とわざわざ断っている。ただし、「吉川武蔵」そのままではなく、それを笑いのめすパロディだな。シリアスな顔をしたやつを嗤うのが、彼の作戦。昔、井上ひさしには『道元の冒険』というのがあった。史上有名な人物を「いじり」たおすのが、井上流だ。
B――だけど、科白で状況が進行する舞台劇だからな、登場人物の言葉のやりとりの弁証法的運動を展開したいところだが、この「ムサシ」は淡白で軽い進行だな。ようするに、「井上ひさし」なんだな(笑)。
A――「吉川武蔵」をパロって愚弄したという成果は認めるが、まあ、こんなものですかい、というところ。
B――ふつう舞台演劇にかかる武蔵は、相変わらず、予定調和的な「吉川武蔵」だからな。それを踏みにじっただけで意味がある。現代演劇の武蔵物はまだそんな段階だよ。
C――「吉川武蔵」のパロディということで、武蔵と「佐々木」小次郎はもちろん、鎌倉の某寺で柳生宗矩も沢庵も一同に会するという舞台設定(笑)。
A――かなり無理のある設定だが、小説と同様、芝居はフィクションなんだから、文句は言えない。
B――巌流島決闘が「慶長十七年四月十三日」という日時設定までしておる。そのあたりもみんな「吉川武蔵」だ。もちろん、『二天記』まで遡るのではない。世間一般で流通しているエピソードを、そのまま前提している。なにしろ、《吉川英治『宮本武蔵』より》だ、かなり挑戦的じゃないか(笑)。
C――武蔵の相手が、上田宗入だ、津田小次郎だ、決闘が慶長六、七年で、武蔵が十八、九歳、なんて異本のことは、念頭にない。そのベースになっているのが、これは史実じゃないと自身で云っている吉川英治の小説なんだから。しかし、この芝居で笑われているのは、「吉川武蔵」はじめ世間がそうと思い込んでいる通俗的な武蔵像だね。
A――そのあたりから、すでに凡庸な武蔵物とは違っている。




「ムサシ」 公演ポスター




井上ひさし 『ムサシ』
集英社 平成21年




(c)Ninagawa Company















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「ムサシ」
 井上ひさし作
  (吉川英治「宮本武蔵」より)
 蜷川幸雄演出

公演
 2009年3月4日〜4月19日
   彩の国さいたま芸術劇場
 2009年4月25日〜5月10日
   シアター・ドラマシティ(大阪)

配役
 宮本武蔵 (藤原竜也)
 佐々木小次郎 (小栗旬)
 筆屋乙女 (鈴木杏)
 木屋まい (白石加代子)
 沢庵  (辻萬長)
 柳生宗矩 (吉田鋼太郎)
 平心  (大石継太)
 忠助  (堀文明)
 浅川甚兵衛 (塚本幸男)
 浅川官兵衛 (高橋努)
 只野有膳 (井面猛志)

B――そこで、作者のアイディアの第一は、「小次郎は生きていた」という設定だな。「吉川武蔵」の虚構をより押し進める。巌流島で、武蔵は小次郎のとどめを刺さず、助命したというのが、前提となる条件で、武蔵が勝っても、もし小次郎を殺さなかったとしたら…、という「If」ものだな。
C――たださ、巌流島で小次郎が死ななかったとすれば、下関周辺の浦人は、小次郎を悲劇的ヒーローにして彼の墓をつくるようなことはしなかったし、舟島を「巌流島」と呼ぶこともなかった(笑)。いくら伊織建碑の小倉の碑文に、「ああ、そういえば、この海峡のあの島で、オヤジが岩流とかいう兵法者を一人やっつけたのだったな」という具合で、この決闘のことを記しても、まあ、世間にウケもせず、そのままになっていただろう。
A――もちろん、上方の歌舞伎・浄瑠璃の演劇界でも取上げられず、「佐々木」巌流なんて苗字も与えられなかった。
B――ようするに、もし武蔵が小次郎を殺さなかったとしたら、そもそも、井上ひさしがこの「ムサシ」なんて戯曲を書く事はなかった(笑)。井上ひさしのこの作品は、最初からありえなかった。
C――歴史的にいえば、この仮定条件は、それ自体が《impossible》なんだ。言い換えれば、これはどこにも事実としてありえない、フィクションとしてのみ可能だ。だから、そういう無理なアイディアを、どこまで展開できるか、井上のお手並み拝見というところだ。
A――すると、巌流島決闘の六年後か、鎌倉の禅寺で、武蔵が柳生宗矩と沢庵らといっしょにいるというわけだ。このあたりで、もう井上ひさしの世界(笑)。
B――「小次郎は生きていた」としたとたん、あるいは、小次郎が舞台に登場したとたん、この劇は破綻して壊滅する。だから、本当に喜劇にしたいのなら、この劇が破綻して壊滅してしまったところからはじめれば。
C――そんな不条理な前衛劇は、「井上ひさし」ではない。これはお笑い軽喜劇なんだよ。小次郎を生きていることにして、「吉川武蔵」をパロっているのよ。だけど、「吉川武蔵」の沢庵和尚が、実在の沢庵宗彭ではなく、フィクションの沢庵なんだから、ここはひとつ、年増になってしまったお通を出して(笑)、ドタバタを展開してほしかった。
B――それに、ますます凄みが出てきたお杉バアサンもな(笑)。
A――筆屋乙女と木屋まい、というこんな見慣れない女性を出すよりは、どうせ《吉川英治『宮本武蔵』より》と特記しているんだから、観客としては、徹底して「吉川武蔵」をからかってくれたらよかった。
B――もちろん、夫婦約束までしたお通を、武蔵がほったらかしにしておるといって、小次郎が武蔵を詰る場面もあるが。
A――お通は、何と「作州宮本村」で、寝たきりになっている(笑)。どうして小次郎がそんなことを知っているかというと、小次郎は巌流島決闘の負傷を治療するのに千日、剣術を工夫するのに千日、そして武蔵を探し当てるのに二百日、武蔵の立ち回りそうな所は探している(笑)。
C――まあ、そのあたりもっと突っ込めば、おもしろかったろうに、井上ひさしは、小次郎が武蔵を詰るついでにちょいと出すだけ。ここに出てくる寺の檀那のこの女二人は、あまりナラティヴ(物語的)な必然性はないな。軽く、ご都合主義的に導入したというところ。
B――二人がスポンサーになって、武蔵が作事奉行して完成した寺の新築法要という設定だが、場所が鎌倉というのは、何のこともない。
A――井上ひさしは鎌倉に住んでいた。家は鎌倉ですな。
C――そのあたりのテキトーなところが、この演劇の「軽さ」に相応している(笑)。それと、蜷川幸雄演出のキャスティングだが、この宮本武蔵(藤原竜也)は、何だかかわいい坊やじゃないか。
B――背も高くない。身体も大きくない。こんなかわいい坊やが武蔵というのはいかん。慶長十七年の六年後なら、武蔵は三十代半ば、当時なら中年のオヤジだぜ。もっと背が高くて、ごついオヤジの豪傑武蔵でなければ。
A――小次郎は、武蔵よりもっと年上で、むしろこのとき爺さんで、豪傑のなれの果てという哀愁ただよう感じの配役がよい。
C――ただし、これはあくまでも、《吉川英治『宮本武蔵』より》なんだ。そして戦後の吉川英治原作『宮本武蔵』映画の配役の引用なんだ(笑)。
A――そういわれてみれば、これは、三船敏郎=武蔵、鶴田浩二=小次郎という稲垣浩ヴァージョン(昭和三一年)の方ではなくて、中村錦之助=武蔵、高倉健=小次郎という内田吐夢ヴァージョン(昭和四〇年)の方だね。このかわいい武蔵は、なるほど、中村錦ちゃん系だ。
C――蜷川がそこまで引用を意識したかどうか知らん。偶然かもしれんが、これは戦後の武蔵映画のパロディにもなっておる。
B――惜しいのは、せっかくの白石加代子(木屋まい役)だな。《吉川英治『宮本武蔵』より》というのだから、彼女には、お杉バアサンをやらせたかった(笑)。
C――それは同感だね。怪物的な母親(monstrous mother)という役で、かなり期待できる。けれど、井上ひさしの脚本にお杉が登場しないのだから、残念ながら、これは仕方がない(笑)。
A――「小次郎は生きていた」という設定だが、小次郎は巌流島で死んでなくて、武蔵に再度挑戦しにくるというわけだ。だけど、ほんとうは、亡霊というか、ゾンビ=小次郎ですな(笑)。
C――死せる小次郎、起き上がり…というわけかな(笑)。『江海風帆草』が収録した下関の伝説の語りは、このあたり冴えているが、このゾンビ路線をずっと拡張すればよかったんだ。
B――それとも、小次郎は、リハビリに失敗したヨレヨレの爺さんで、それでも、壮年の武蔵に挑戦してくる。武蔵は迷惑して、相手にならず、逃げ回るとか(笑)。
A――小次郎爺さんは、「武蔵、卑怯なり」といって、長剣の白刃を振り回すが、無刀の武蔵に適当にあしらわれて、足蹴にされる。
B――小次郎、「老人を足蹴にするとは、けしからん」と怒って、なおも斬りつける。得意の水車に切先を返そうとするが、老人ゆえにいかんせん、往年の太刀筋の鋭さがない。そこを、武蔵、その長剣を足でバンと踏みつける。
A――すると、ああ何と、三尺の白刃、二つに折れたり(笑)。
B――小次郎、わあわあ泣いて、武蔵に、「青江の名刀だぞ。弁償してくれ」。
A――武蔵曰く、「あのときの刀はおれが分捕って、人にくれてやったよ。なにが青江だ」。
B――小次郎、「いや、あの、その…」と、口もごもご(笑)。
A――というわけで、小次郎の太刀が折れてしまったので、武蔵と小次郎の決闘は物理的に阻止される。
C――ご両人、少し酒にお酔いなさったか(笑)。それはおもしろいが、二人が勝手に決闘をやめてしまっては、井上ひさしのような反戦芝居にはならない。周囲の者が、あれこれ手を尽して、何とか武蔵と小次郎に決闘をやめさせようとする、という反戦の企てがこの芝居のミソなんだから。それで、どこまで観客を引きずり廻せるか、それが腕のみせどころ。しかし、井上流の登場人物の「いじり」は、今回の武蔵では、もうひとつだな。もうすこし過激にいじるかと思ったが。
B――江戸時代の武蔵小説には、武蔵も小次郎も両方「いじる」のもある。『兵法修練談』なんてのは、決闘地を、大坂川口の島に設定しているが、見物の大衆が、武蔵を神道者(しんとうじゃ)、小次郎を反魂丹売りに見立てて、大笑いする場面がある。
C――どういうわけか武蔵は、黴の生えた古袴を、わざわざ風呂敷包から取り出して、それを着用する。江戸時代の小説の方が、現代の武蔵小説より、「いじり」の毒が利いていて面白い。
A――それにくらべると、井上流の登場人物の「いじり」は、あまり毒がない。味が薄い。
B――沢庵や柳生宗矩はけっこういじるが、武蔵と小次郎については、あまりいじらない。
C――柳生宗矩が度を過ぎて能を好んだというのは、沢庵宗彭の書状にあるからよいとしても、柳生宗矩を能曲狂いの病気にして、ドタバタを演じさせるというのも、あまり面白くない。能曲狂いの柳生宗矩というのは、ちょいと浮いておるな。武蔵も仕舞を好んだようだから、ここで一つ、武蔵と柳生宗矩の能をめぐるからみがあってもよかろうに(笑)。
A――武蔵と柳生宗矩が能楽をめぐって論争するとか(笑)。
B――「いじり」ということだと、現れた小次郎が、武蔵に果し合いを挑む書状を、沢庵や柳生宗矩が読みあげるのだが、その内容が、不公平だという非難。これはフェアじゃない、卑怯だということね。武蔵の遅参、木刀の長さ、陽を背にする戦法、どれもフェアじゃないという非難。だから、こんどは公明正大で、五分と五分の勝負をしようという。だが、これはどれも「吉川武蔵」というか、通俗本の巌流島決闘のイメージ。これを笑っている。
A――小次郎に武蔵の作戦を非難させて、武蔵の作戦を称揚する「吉川武蔵」を笑っている。
C――しかし、とにかく武蔵と小次郎は敵対関係にあるわけで、作者は両人に口喧嘩をさせるが、「ほう!」と感心させる科白がほとんどない。作者の井上ひさしは、武蔵や小次郎をいじるよりも、観客をいじっているのじゃないか。
B――結局、武蔵と小次郎に決闘させないようにする、二人の決闘を阻止するというのが、この反戦芝居の骨格。ところが、それがことごとく失敗するというのは、これまたプロセスに必須の条件。
C――つまり、これはただの反戦芝居ではない。そのヒネリは、反戦の試みがことごとく失敗するというところにある。この井上ひさしのアイディアは悪くない。だが、実際の舞台では、その失敗があいまいで、前面に出ない。軽喜劇仕立てだから、サスペンスの持続がない。
A――殺し合いを阻止しようという連中が、どうしてそうしておるのか、よくわからん。ただ、悪ふざけをしているとしか見えないだろ。
C――それが作者のたくらみ。観客はあざむかれておる(笑)。



*【江海風帆草】
《宗入、武藏がすそをはらふ、武藏のびあがりて、かの棒にて宗入が頭を一打に打倒す。此時宗入が刀の切先、むさしが立付の前腰を払ひて、はかまのまへ武蔵が膝に下がる。武藏立所をうごかず、宗入又立あがらんとするを、又同じく頭を打て即時に打殺す。武藏、小舟に乗て小倉の地へ帰る。武藏舟を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、武藏ハ只今立退ぞ」といひけれバ、死せる宗入、又立あがり、海上を見て、「弁之助いづくへ行ぞ」と、一聲よバわつて忽ち死す》













*【兵法修練談】
《見物の貴賤、是を見て、「股引の上に、尻引からげて、よからふに、襷もかけず、かびたる袴は、何事ぞや。相手の岸柳とやらんは、襷に裾細、凄まじく、反魂丹の請太刀か。こちらは、鈴も持ぬ神道者を見る様な」と、打笑へバ、一人が申けるは、「成程/\、神道者とは、理〔ことわ〕り也。あれハ、袴が原にかびとゞまります」といふて、笑ひける》








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五人六脚
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運歩練習
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*【ムサシ】
武蔵 さ、お父上の恨みを晴らすときです。
小次郎 ぐずつきめさるな。
乙女 恨みは晴れるのではなくて、太るのでは……。
  武蔵、小次郎 ……?
乙女 この恨み……いまわたくしが断ち切ります。
  (中略)
乙女 ……恨みの三文字を細筆で、初めに書いたのは父でした。その文字を甚兵衛どのが小筆で荒く書き、いまわたくしは中筆で殴り書きしようとしている。やがて甚兵衛どののゆかりの方々が太筆で暴れ書きすることになるはず……。そうなると、恨み、恨まれ、また恨み、恨みの文字が鎖になってこの世を黒く塗り上げてしまう。恨みから恨みへとつなぐこの鎖がこの世を雁字搦めに縛り上げてしまう前に、たとえ、いまはどんなに口惜しくとも、わたくしはこの鎖を断ち切ります。……もう、太刀を持とうとは思いませぬ。
C――だいたい、みんな面白いと言うのは、例の「五人六脚」。こうすれば、友情が芽生えると、柳生宗矩が提案して、沢庵、平心、武蔵、小次郎の五人が「五人六脚」で足を結び合わせて、ドタバタを演じさせる。しかし、こんなことが面白いか?
B――全然(笑)。どうも笑いの質が違うんだ。一つは、これは東京ローカルな滑稽だろうが、関西ではあまり通じない。スベってシラけるだけだ。もう一つは、これがオヤジギャグの類いで、若い連中は、ドッチラケで、ただ唖然とするばかり。
A――笑いの共同体はローカルなものだから。むりやり、「どう? おもしろいでしょう」と、やっている感じ。作者の着想が、なんとなく、情けなくなるシーンだね。
C――スベってシラけるのを見せて、その失敗そのものを笑わせるというメタレベルの笑いもあるが、これはそうではない。そういうヒネリはなくて、無理に滑稽を演じているから、ただシラけるだけ。
A――これで笑ってくれるなら、観客の笑いのクオリティはかなり低い。
C――もちろん、最後に、柳生新陰流が、こんなことをやらせるわけがないと、武蔵と小次郎両人が気づく、という設定だから、このシーンを笑って愉しんだ観客は、後で冷水を浴びせられる。
B――かなり観客をいたぶるね。井上ひさしは、あの顔に似ず、実際にはかなりアグレシッヴな性格だよ。女でもケガをするほど殴るDVオヤジだった(笑)。
A――この芝居でも、けっこう観客をなぶる。笑わせておいて、後でちゃぶ台をひっくり返す。そのあたりが井上ひさしの天邪鬼〔あまのじゃく〕だな。しかし、そんなひどい仕打ちを受けたことを、ほとんどの観客は感じていない。楽しく笑って喜んでいる。
C――「反戦平和の願い」とかいうものがことごとく挫折する、という井上ひさしの笑劇の毒が、観客に通じない。これは笑ったね(笑)。ついでにもう一つあげれば、筆屋乙女が父の仇討をするというので、小次郎が剣術を指南する場面。柳生宗矩も沢庵も加わって、八人が舞台狭しと動き回って運歩練習するのだが、それがダンスになってしまう。しかし、こんなことが面白いのか(笑)。
A――これも、笑えない(笑)。明らかにスベっている。ただ唖然とするばかり。
B――観客は喜んでいるがね。こんなことで喜んでくれるなら、楽なものじゃないか(笑)。
A――観客は喜んでいるが、小次郎と柳生宗矩が指南する剣術の練習になって、舞台の武蔵一人が、せせら笑っている。このあたりは「井上ひさし」だ。
C――もう一つ云えば、この筆屋乙女の仇討ちにしても、最初、武蔵と小次郎に殺し合いの決闘はやめてくれ、と言っていた乙女が、いざ自分の父が闇討ちにされたと知ると、その仇討ちに突っ走る。そんな身勝手な反戦平和を、作家は笑い飛ばしている。
B――反戦平和を唱えていた者も、いざ我が事になると、とたんに攻撃的になる。北鮮からミサイルが飛んでくるというプロパガンダにのせられて、こっちも対抗して北鮮をやっつけろと主張し出す(笑)。乙女の仇討ちには、木屋まいも、寺の住職・平心も、助太刀をしようということになる。
A――この段階で、観客の多くは、乙女の仇討ちに心情的に加担させられている。だけど、彼女たちは、剣術の心得がない。つまり道具はあっても、戦う方法を知らない。
C――だから、ここで、ちょうど武蔵と小次郎という最強の「剣豪」が二人もいる。それに柳生新陰流の宗矩もいる。彼らに指南を仰いで、剣術を学ぼうということになったとき、観客の多くは「そうだ、そうだ」と、快哉状態じゃないのかい(笑)。
A――聞けば、そこで鳥肌が立ったというやつもいた、その展開が気もちよすぎて(笑)。井上の脚本はそのあたりうまいね。「反戦平和の願い」というメッセージを正しく受け取るという「学習」を、観客に忘れさせてしまう。
B――それほど、このあたりの引きずり回しは、さすがにうまい。「反戦平和の願い」というメッセージを観客は知っているが、それは頭だけのことで、じっさいは、観客の多くは、仇討ちに心情的に加担してしまう。だから、剣術練習の運歩がダンスになってしまう場面で、快く笑える。だけど、作家が笑いのめしているのは、一種の軍事訓練である剣術練習なんだ。それを皆がまじめに練習するその滑稽さなんだ。
C――そこまで引きずり回したうえで、作者が出してくるのは、「報復の連鎖を断ち切る」という反戦の論理。ここで、それまで仇討ちに心情的に加担してしまっていた観客は、いわばピシャリと平手打ちをくらう。
B――とたんに観客は静まり返る。そうだった、「反戦平和の願い」を忘れていたと(笑)、再学習させられる。しかも、武蔵と小次郎の決闘を阻止するために仕組まれた芝居だと、後で暴露される。ならば、この「芝居の芝居」に笑った観客は、ほんとは阿呆なんだよ(笑)。
A――そうやって、観客は作者に引きずり回されて、「あんたら、笑っている場合か」となぶられている。
B――観客を愉しませてインヴォルヴ(involve)する、巻き込む。ところが、観客は自分たちが楽しく笑ったことが、作者の奸計だとは知らず、能天気に明るく笑ってしまっていたというわけだ(笑)。それが井上流だよ。
C――現代人は、たいそうに「反戦平和」というがね、時代は「元和偃武」の頃。反戦平和は、ときの徳川幕府の方針なんだ(笑)。
A――そのあたりは、作家はよく承知していて、為政者側の反戦平和の論理を、沢庵と柳生宗矩に代弁させる。
B――柳生宗矩は治安維持の政治警察の論理から、武力闘争の終焉を説くわけだ。――柳生新陰流の開祖、柳生石舟斎が云った、「兵法の争いごと、無用」と。こうも云った、「兵法は能なき者のわざなり」、「剣術は我も打たれず他人打たず、無事に行くこそ妙とこそ知れ」と。わかったな。争いごとはいけませんよ。つまらんことだ。頭を冷やしなさい、と。
A――宗矩がそう言うと、武蔵と小次郎が、同時に笑い出す。
B――宗矩が言うね、なにがおかしい。今のことばは、将軍秀忠さまやお世継ぎの家光さまに、兵法指南役たるこの宗矩がいつもお教えしている柳生新陰流の極意だぞ。「争いごと無用」とは、将軍家の、徳川の御代のご方針だぞ、と。
A――武蔵と小次郎が、それでは、なぜ、武士に太刀を帯びることを許しているのか、それはつまり、万一の場合には、抜いてもよいということではないのかと反論する。そうして、二人は、柳生新陰流は弱虫の剣法だ、腰抜け剣法だと言う。
C――そのあたり、作者はうまい。柳生宗矩の「反戦平和」を武蔵と小次郎に愚弄させる。柳生流は、弱虫だ、腰抜けだと言わせるが、これが反戦平和主義者がうける非難だな(笑)。
B――柳生宗矩が言う、「四海波静かにて…」という新しいご時勢が、わが柳生新陰流の「争いごと無用」を選んだわけだ。天下に隠れもなき二大剣客のご両人、剣を振り回せばことがすむ時代は終わりましたと。すると、武蔵が、そんなことでは、とても国は治まるまいと言う。
A――ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりをしろというのが、柳生新陰流か。小次郎が曰く、困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめではないか。武蔵が曰く、悪〔わる〕を悪のまま放っておいて、なにが政治ですか(笑)。
B――柳生宗矩が言う、目の前の事実を振りかざして膝詰めでこられると、ちょっと弱いのです。つまり、「争いごと無用」は、いわば追い求めるべき理想であって、天下万民の法としてはまだ完成の途上にあるのでな…と。柳生宗矩が、そんな腰の弱い弁解をするわけがない(笑)。
A――武蔵も、ワルを放っておいていいのか、なんて言うはずがない(笑)。
B――ようするに、これはお笑い芝居なんだから(笑)。問題は、「反戦平和」は反体制サイドのスローガンではなくて、まさに為政者側、政治権力を握った側の論理だということ。
C――それはアイロニーではなく、史的事実だな。闘争停止令は、天下を握った秀吉以来のことではなく、それ以前に、戦国大名がローカルな覇権を確立したとき、国人衆に闘争停止令を出していた。
B――支配領域内の秩序維持だな。それは、まつろわぬものをすべて亡ぼして、天下を握ったとき、真っ先に反戦平和の論理が出てくる。
A――れいの「最後の人食い」のジョークですな。――「人食い(人種)はもういないのですか?」「もういないよ。なぜなら、――」
C――「おれたちがみんな食ってしまったからね」(笑)。
B――その発話主体こそが、「人食い」なんだけど。それが支配秩序の主体の論理。為政者の反戦平和の論理というのは、恣意的で身勝手なものではなく、それは権力闘争の必然の所産。
C――とすれば、闘争停止、「争いごと無用」という柳生流の論理は、治者の論理、為政者の支配秩序の論理。それに対し、浪人の武蔵と小次郎が、柳生宗矩の「反戦平和」の論理を却下して、ここで闘争を停止しないのは、ごく論理的な成り行きだ。
A――ムスリムのゲリラたちが自爆闘争を停止しないのと同じ(笑)。
B――平和ボケの日本人は、過去に神風特攻隊で散った父や叔父たちをもちながら、もはやこの自爆闘争を理解できない。世界秩序からする反戦平和は、やはり支配者の論理なんだ。「最後の人食い」の論理で、米帝が領導する反テロ闘争に加担する。
C――だから、ますますゲリラたちは、まだ事は終っていないぞ、と闘争をやめない。ただし、どうかね? 芝居のこの段階では、観客は「反戦平和の願い」を忘れて、乙女の仇討ちに心情的に加担してしまっているから、この柳生宗矩のいう「追い求めるべき反戦平和の理想」を却下してしまうのじゃないか。
A――筆屋乙女はじめ木屋まいのオバサンや坊主の平心が乙女の父の仇を討とうとするのだがね、彼らに武蔵が教える「無策の策」というのは、自分の死をいとわず、まっすぐ突っ込んで、敵を殺す、という行動だ。これはいわば自爆闘争の論理(笑)。
B――ムスリムの女たちのようにな。沢庵も仏僧だから、「不殺生」をいうが、仇を討とうとする乙女とまいの女二人に、「はげしい女〔ひと〕たちなことよ」としか、言えない。こんなふうに、柳生宗矩と沢庵の反戦平和の論理が通用しない恰好を見せて、この段階では、観客もまた、柳生宗矩と沢庵の「反戦平和の願い」を却下する。そんなぐあいに、作家は仕向ける。
A――報復の連鎖に気づく、というリアクションの大きさをかせぐために。
C――それはそれでよいのだが、柳生宗矩と沢庵の応答の腰の弱さは、ドラマとしてのダイアレクティックな強度(dialectic instance)を減殺して、何だかヌルイ展開なんだ。
B――それは、作家がここで、反戦の願いを観客を忘れさせて、仇討ちに巻き込むためだ。だから「不殺生」という仏教的テーゼも、柳生流の「争いごと無用」の思想も、強く押し出さない。
C――これもパロディだよ。反戦平和は抽象的な理念だと反論されると、たんなる「追い求めるべき理想」だと弁解して腰が引ける、そんな連中を笑っている。しかし、「追い求めるべき理想」は文字通り、追い求めるべきなんだ。
B――理念や理想は、だれかが常に言い続ける必要がある。だけど、そのラインで展開し出すと、話が重くシビアになって、楽しく笑うためにやってきた観客が笑えなくて退屈するか。
C――とにかく、武蔵と小次郎の「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしろというのか」という反論を論駁できないようでは、ドラマとしてはヌルいのよ。
A――この芝居が淡白で軽い、というのはそこ。しかし、作者は、後で、これは筆屋乙女が書いた芝居の中の芝居だといって、メタレベルで観客を突き放す。観客は、乙女が書いた芝居に翻弄されているかっこうだ。
B――そこが井上一流の仕掛けだな。観客は、仇討ちに加担したら、次には「報復の連鎖を断つ」という論理で反撃され、降参して学習させられる。ところがまだ、次があるというわけだ。
A――武蔵と小次郎は、「報復の連鎖を断つ」という論理を受け入れない。二人は、そこで、なにか怪しいものを感じて、顔を見合わせる。そして、二人の様子を、一同がひそかに窺っている気配がある。大半の観客は、鈍感にも、まだこの不意の異和の所在に気づかない。つまり、自分たちが翻弄されていることに気づかない。
C――武蔵と小次郎は何かを察知したのに、演出の問題なのか、そこが観客にはうまく伝わっていない。だから、サスペンスの強度が弱い。最後のオチに至って、「あれ、そんなこと?」となって、何だか齟齬だけがのこる。
B――この芝居を愉快に流すだけだと失敗する。演出は難しいな。


*【ムサシ】
沢庵 (ついに)カーツ、これが座禅か!
忠助 仇討の相談だ。
沢庵 仏法の根本とはなにか。たとえば、涅槃経には「悉有仏性」とある。ありとあらゆるものが仏になるのだ。したがって、殺生はいかん、命あるものを殺めてはいかん。
宗矩 沢庵御坊にならって、柳生新陰流の極意を説こう。(声を落として)これから説くのは免許皆伝にさいして秘かに伝授される奥義の中の奥義。他言は無用じゃよ。(声を戻して)あるとき、柳生新陰流の開祖、柳生石舟斎が云った、「兵法の争いごと、無用」と。別の日にはこうも云った、「兵法は能なき者のわざなり」と。また別の日にはこう諭した、「剣術は我も打たれず他人打たず無事に行くこそ妙とこそ知れ」と。わかったな。争いごとはいけませんよ。つまらんことだ。頭を冷やしなさい。
  武蔵と小次郎、同時に笑い出す。
宗矩 ……なにがおかしい。今のことばは、将軍秀忠さまやお世継ぎの家光さまに、兵法指南役たるこの宗矩がいつもお教えしている柳生新陰流の極意ぞ。つまり、「争いごと無用」とは、将軍家の、徳川の御代のご方針ぞ。
武蔵 それでは、なぜ、武士に太刀を帯びることを許しておいでなのですか。
小次郎 それはつまり、万一の場合には、抜いてもよいということではありませんか。
武蔵 (小次郎に)初めて意見が合ったな。
小次郎 (無視して)無礼を承知で申しあげる。柳生新陰流は弱虫の剣法です。
武蔵 腰抜け剣法といってもいい。
宗矩 (悠々と、謡うように)世上で流行の俗謡にこんなのがあったな。「信長が搗き光秀がこね、秀吉が丸めたる天下餅を、家康どのがゆっくりと喰う……。的を射ておるぞ、これは。この、おいしそうな天下餅を、みんなで、ゆっくりと味わう時がきたのよ。応仁の大乱からこっち、百五十年もつづいてきた「殺るか殺られるか」という酷たらしい世の中が終わったのだ。そして、「四海波静かにて……という新しいご時勢が、わが柳生新陰流の「争いごと無用」を選んだわけだ。(ピシッと)その名、天下に隠れもなき二大剣客のご両人、剣を振り回せばことがすむ時代は終わりました。……まあ、大まかに云えばそういうこと。「四海波静かにて、国も治まる時つ風……、
武蔵 そんなことでは、とても国は治まりますまい。
宗矩 ……-なんと?
武蔵 ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしなさいというのが、柳生新陰流ですか。
小次郎 困っている人に、ささやかにであっても手をかす。それが剣を持つ者のつとめではないか。
武蔵 悪〔わる〕を悪のまま放っておいて、なにが政治ですか。
小次郎 そんな餅のどこがおいしいのか。
宗矩 目の前の事実を振りかざして膝詰めでこられると、ちょっと弱いのです。つまり、「争いごと無用」は、いわば追い求めるべき理想であって、天下万民の法としてはまだ完成の途上にあるのでな……。





















井上ひさし(1934〜2010)


*【ムサシ】
宗矩 (寄ってきて)いきなり、どうした?
沢庵 侍に刀を抜かせぬ策ができた。
宗矩 ほう。
沢庵 刀を抜くことができるのは、心に三毒を持たない者だけ。うむ、これはいい。
宗矩 しかし、そんな完璧な人間は、だれ一人としておらぬぞ。
沢庵 だから、だれも、刀が抜けない。
宗矩 ……あ、なるほど!
沢庵 こうして侍の敵は、三毒を抱えている自分自身ということになる。
宗矩 侍どもは、朝から晩まで自分の心を覗き込むことになるわけだな。
沢庵 さよう。
宗矩 心を見つめ、また見つめ、さらに見つめしているうちに……(気づいて)禅病になるぞ。
沢庵 (大きくうなづいて)全国諸藩三百万の侍どもを、一人のこらず禅坊主にしてしまおう、それも禅病に取りつかれた禅坊主にな。
宗矩 (感嘆して)知恵者だなあ。
沢庵 刀を抜く資格を得ようとして、己れの心と戦っているうちに、みんな、周りのことが見えなくなる。政治に異を唱えるどころではなくなる。
宗矩 (バッと扇子を開いて)うむ、これで徳川幕藩体制の基礎が定まったぞ。
沢庵 大徳寺の件、なにとぞよろしく。
宗矩 (うなづいて)心得た。




A――武蔵と小次郎の決闘を阻止しようという企ては、ここまで失敗しているのだが、さらに失敗を重ねるという次第。
B――沢庵と柳生宗矩は、侍に刀を抜かせない策を練る。彼らは支配秩序のサイドの人間だから、秩序壊乱的な闘争を抑止する方法を模索するというわけだ。そこで、沢庵が、侍は刀を抜いてもよいが、ただし、心に三毒をもたない人間だけが、その資格をもつという条件を提案する。
A――それは、仏教でいう三毒。三毒というのは、貪欲〔とんよく〕・瞋恚〔しんに〕・愚痴〔ぐち〕ということでしたな。それを、ここでは、「欲ばること、怒ること、愚かであること」と言わせている。
C――刀を抜く資格は、心に三毒をもたない者だけに与えられる。しかし、心に三毒をもたない者は存在しない。すると、だれも刀を抜く資格をもたない。侍に刀を抜かせぬ策ができた、というわけだ。
B――ばかばかしい話だが、これは笑劇だからね(笑)。だれも刀を抜けない。すると、武士の敵は、三毒をかかえている自分自身。かくして、武士は朝から晩まで、自分の心を見つめる。沢庵は言う、侍を一人残らず禅坊主にしてしまおう、禅病にとりつかれた禅坊主に。
A――刀を抜く資格を得ようとして、己れの心と戦っているうちに、みんな、周りのことが見えなくなる。政治に異を唱えるどころではなくなる、と。
B――柳生宗矩はいう。「これで幕藩体制の基礎が定まったぞ」と。すると、沢庵が、「大徳寺の件、なにとぞよろしく」という。宗矩はうなづいて、「心得た」という。――大徳寺の件というのは、後に例の紫衣事件に発展することのようだが、この二人の取引も、笑えるが、実はアホらしい場面だな。
C――これも、だれかが沢庵と柳生宗矩になりすましているのなら、「大徳寺の件、なにとぞよろしく」「心得た」なんて、そんなことを言うわけがない。だから、これは作者が、なおも観客を罠にはめて欺こうとしている、そんなアンフェアな科白だ(笑)。
B――それで、刀を抜く資格は、心に三毒をもたない者だけにある、というわけだが、むろんこれも、武蔵と小次郎に通じるわけがない。小次郎は、武蔵がお通はじめ女たちの情けを拒んだ、冷血漢め、と非難して、武蔵の愚かさを詰る。つまり、三毒のうち愚痴の罪があるというわけだ。
A――小次郎は武蔵に、おぬしには小次郎を切る資格はないが、小次郎にはおぬしを切る資格があるという。そんなわけで、二人は言い争って、座禅はするが、やはり決闘はやめない。
C――このあたり、武蔵と参禅修行という「吉川武蔵」はじめ通俗武蔵論のパロディだな。じっさい、「剣禅一如」とか言い出すと、兵法は観念化してしまう。心法論で、本来暴力的な武士が腑抜けになってしまった。侍を禅坊主にしてしまうというのは、沢庵の深慮遠謀というより、歴史的事実である(笑)。
A――だから、この作家は、「吉川武蔵」以下の通俗武蔵論のクリシェ「剣禅一如」を嗤っているわけですな。ところが、まだ、武蔵と小次郎の決闘を阻止できていない。武蔵と小次郎以外の皆が、かなり大げさにがっかりする。そこで、最後に出てくる策略が、皇位継承順位(笑)。
B――まいが小次郎の生母で、その母がやんごとなき親王の胤を宿して産んだ子が、小次郎というわけだ。これを小次郎に信じ込ませて、武蔵には、皇位継承順位十八位の貴種を殺すつもりか、とせめる。
C――皇位継承順位十八位とは恐れ入ったが、小次郎が名族佐々木氏ご落胤という設定は、あちこちこれまで小説にも出ておるから、そのパロディだな。佐々木系六角氏どころか、皇位継承順位十八位だとどうだ、と。この作家は、世間のアホらしい佐々木小次郎貴種説を、挑戦的に嗤っておる。ただし、それだけのこと(笑)。
A――だけど、このアイディアは劇場では案外ウケたようだ。皇室ネタは、目下話題の最中だし。
B――小次郎はこの話に、失神するほどイカれてしまう。三尺の白刄をふるう小次郎ほどの豪傑には似合わない、とは言うなよ(笑)。小次郎はここで、腑抜けになってしまって、決闘阻止はうまく行きそうになってきたが、武蔵一人が、この奸計を見破る。
C――だから、この舞台劇の主人公は武蔵なんだ。タイトルが「ムサシ」というわけだ。そうして、武蔵は小次郎に正気を取り戻させ、これまでの数々のことが、何者かのたくらみだと気づかせる。柳生宗矩の「五人六脚」、筆屋乙女の「恨みの連鎖を断ち切れ」、侍に刀を抜かせないという沢庵の三毒の方策、小次郎が親王の落胤、皇位継承順位十八位というまいの嘘言、これらすべてが、武蔵と小次郎を戦わせまいとする何者かの陰謀だったと。
B――それは何者の陰謀なんだ。狐狸のしわざではないし、いま流行〔はやり〕の化物師〔ばけものし〕どもが仕掛けたものでもない。この化物師というのは、あやかしが専門の、白壁に極楽や地獄の絵を写し出したりして、いま世間を驚かせている連中というから、これはシネマ(映画)。演劇作家だから、映画にはこういう揶揄もする。
A――小次郎は、これは大公儀〔おかみ〕のたくらみじゃないか、という。柳生宗矩や沢庵がいるからね。しかし、二人の決闘を阻止して、公儀に何のメリットがあるか。ようするに、武蔵が繰り返すように、何者の陰謀かわからない。
B――もっとはっきりいえば、「反戦平和の願い」は何者かの陰謀なんだと(笑)。
C――甘くみてはいけないのよ、井上ひさしを(笑)。この芝居のメッセージは「反戦平和の願い」なんだと、教科書的な解答の自明性にすっぽりおさまっているかぎり、井上ひさしの笑いの毒もその苦さもわからない。
B――この芝居が終って家路につくとき、ああ、たしかに「反戦平和の願い」というメッセージをうけとったと思っている諸君、芝居はまだ終っていないぞ。諸君の「反戦平和の願い」は何者かの陰謀なんだよ(笑)。
A――その「反戦平和の願い」というメッセージこそが、仕組まれた芝居だよと。
C――その虚実皮膜の決定不可能性こそ、井上ひさしの仕掛けた罠だ。そこで武蔵と小次郎は、これが何者の陰謀なのか、それを見破るために、二人で決闘しようという事の運びになる。筋書きの展開は一見強引のようだが(笑)、これは実は理にかなった運びだ。
B――二人が決闘すると、必ず止めに入る者があるだろう。そのときやつらの正体がわかるというわけだ。小次郎は、決闘できることによろこんで、「この二千二百日のあいだ、この日のくるのが、どれほど待ちどおしかったか」といって、刀を抜いて、鞘を投げて上段に搆える。
A――そこで、武蔵は、「この勝負も、おぬしの負けと決まった」という。すると小次郎は、「勝つつもりならなぜ鞘を投げ捨てたと云いたいのだろう」(笑)。武蔵、「そんなところよ」。小次郎、「鞘は、勝ってからゆっくり拾えばいい」。武蔵、「ほう、少しは手をあげたな」。――というぐあいで、たぶんここが井上ひさしの出色のシーンですな。
B――これまで、どれだけ多くの阿呆どもが、この科白、「小次郎負けたり。勝つつもりなら、なぜ鞘を投げ捨てるか」という科白を鵜呑みにして、あれこれ囀ってきたか。
C――井上ひさしが書いたこの場面の科白を聞くだけでも、この演劇を観る値打ちがある。凡庸な小説家たちには、決してできなかったことだ。







*【ムサシ】
小次郎 (長嘆息)……皇位継承順位第十八位か。だれかは知らぬが、太く企んだものだなあ。佐助稲荷の狐のいたずらか、それとも源氏山の狸の仕業か。源氏山の狸は人を化かすので有名らしいの。
武蔵 手裏剣で仕とめてずいぶん狸汁にしたが、わしに食われてしまうような狸に、これほどの知恵があるとは思えない。
小次郎 ……ひょっとすると、いま流行〔はやり〕の化物師〔ばけものし〕どもが仕掛けたのかもしれぬぞ。化物師とは、ほら、あやかしが専門の、白壁に極楽や地獄の絵を写し出したりして、いま世間を驚かせている連中のことよ。
武蔵 いや、これを企んでいるのは、そんなひと通りふた通りの代物ではないぞ。
  一瞬の間。
小次郎 わかった! これは大公儀〔おかみ〕の企みだ。将軍家の政治顧問柳生宗矩と、その禅の師沢庵が加わっているのが、なによりの証拠よ。まちがいない、敵は大公儀ぞ。
武蔵 (唸って)わからぬ。
小次郎 だが、佐々木小次郎と宮本武蔵の試合を止めて、大公儀にどんな得がある?
武蔵 わからぬ。
小次郎 いったいだれが、ぜんたいなんのために、われらに切り合いをやめさせようとしているのだ?
武蔵 わからぬ。
小次郎 わからぬ、わからぬといっているばかりでは、なにもわからぬではないか。
武蔵 だが、一つ、わかっていることがある。
小次郎 ……一つ?
武蔵 戦うのだよ、小次郎。







*【ムサシ】
小次郎 ……この二千二百日のあいだ、この日のくるのが、どれほど待ちどおしかったか。
小次郎、物干し竿を抜き放つと、鞘を投げ、ゆっくりと上段にふりかぶる。
武蔵、抜いて、無構えの構え。
武蔵 この勝負も、おぬしの負けと決まった。
小次郎 勝つつもりならなぜ鞘を投げ捨てたと云いたいのだろう。
武蔵 そんなところよ。
小次郎 鞘は、勝ってからゆっくり拾えばいい。
武蔵 ほう、少しは手をあげたな。



(c)Ninagawa Company





*【ムサシ】
まい 生きていたころは、生きているということを、ずいぶん粗末に、乱暴に扱っておりました。
宗矩 しかしながら、いったん死んでみると、生きていたころの、どんなにつまらない一日でも、
甚兵衛 どんなに辛い一日でも、
忠助 どんなに悲しい一日でも、
官兵衛 どんなに淋しい一日でも、
有膳 とにかくどんな一日でも、
宗矩 まばゆく、まぶしく輝いて見える。
平心 このまことを、生きている方々に伝えないうちは、とうてい成仏できません。
宗矩 けれども、これまでどなたも、このまことに、耳を傾けようとはなさらなかった。
亡霊九人 それで、こんなふうに、迷ったままでおります。「うらめしや。
乙女 ところが、この鎌倉に、日本一を競って、お二人の著名な剣客がおいでになりました。
まい こんどこそは、「うらめしや、なんて古くさいやり方ではなく、
乙女 このまことを、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み、
亡霊九人 一所懸命、相勤めました。
沢庵 今朝早く、佐々木小次郎どのが、この佐助ヶ谷に足を踏み入れられた刹那、わたしはこの宝蓮寺一帯に結界を結び、これからここへおいでになる方々に成り澄まし、
亡霊九人 あの手この手で、
沢庵 お二人を戦わせまいとして、死力を尽くしました。
まい お二人が戦わないでくだされば、わたくしたちの願いもかないます。
亡霊九人 成仏がかないます。
乙女 お二人がお命を大切になさることで、わたしたちを成仏させてください。
亡霊九人 成仏を、成仏を、成仏を、
武蔵と小次郎、たがいに顔を見合わせる。そして、これまで下がりに下がった刀を、ついに、パチンと鞘に収める。
その途端、亡霊たちの顔に、おだやかな笑みの花が咲いて、みんな仏になる。亡霊たち、口々に「ありがとう、なんまんだぶ」を唱えながら、あちこちへお能歩きで去る。
A――で、武蔵と小次郎が切り結ぼうとしたとたん、亡霊たちがぞろぞろ出現する。武蔵と小次郎は、互いの決闘を止めて、二人で共同して亡霊たちと戦う恰好になる。武蔵・小次郎対亡霊たちという構図。
B――このあたりは上手い。芝居のおいしいところだ。それまで、武蔵対小次郎という対決だったのが、一挙に対立図式が崩壊して、武蔵・小次郎対亡霊たちという構図になる。それは、ここまで隠されて進行してきた数々の事態の本質の露呈でもある。それと同時に、武蔵と小次郎はもはや互いに戦わず、共同戦線をはって、敵と戦うというかっこうになる。
C――武蔵と小次郎は、亡霊たちを切る。しかし、亡霊だから、もうそれ以上死なない(笑)。すぐに立ち直ってくる。
B――まさに、リヴィングデッド、ゾンビだな。沢庵や柳生宗矩をはじめ、みんなゾンビなんだ(笑)。しかし彼らは、武蔵と小次郎を取り殺そうとする敵ではなく、むしろ悲しげな表情で、二人にまとわりついてくる。
A――そうして武蔵と小次郎に訴えるわけだ。成仏させてくれと。――お二人が戦わないでくだされば、わたくしたちの願いもかないます。成仏がかないます。お二人がお命を大切になさることで、わたしたちを成仏させてください。成仏を、成仏を、成仏を、と。そんなに成仏したいのなら、沢庵に姿を借りた亡霊まで居るんだから、おまえら自分で成仏しろと(笑)。
C――そんなツッコミは、ここではできない(笑)。ようするに、「いったん死んでみると、生きていたころの、どんなにつまらない一日でも、まばゆく、まぶしく輝いて見える」、この真実を、生きている方々に伝えないうちは、とうてい成仏できません、というわけだ。
B――ここで引いてしまうね、観客は。「ええっ? そんなことを言いたいために、ここまで引っ張ってきたのかよ」と(笑)。
C――もっと気の利いた科白があっただろうに、井上ひさしにしては、ちょいとつまらない科白だな。
A――あるいは、やっぱり井上ひさしだな、とか(笑)。
C――ただ、その科白のあて外れとは別に、――この真実を、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み、一所懸命、相勤めました。佐々木小次郎どのが、この佐助ヶ谷に足を踏み入れられた刹那、わたしはこの宝蓮寺一帯に結界を結び、これからここへおいでになる方々に成り澄まし、あの手この手で、お二人を戦わせまいとして、死力を尽くしました。――というあたりね、このネタばらしによって、現実とフィクションの結界が破れた
B――さあ、えらいことになった。観客は、芝居を観ているのか、現実を見ているのか。
C――亡霊たちは、大文字の〈他者〉(Other)というより、大文字の〈死者〉(Dead)だよ。亡霊、死霊は、いるのか、いないのか。現実に存在するのか。「沖縄へ行くと、南国なのに寒くてね」という人がいてね、実は沖縄戦で死んだ無数の死霊に圧倒されて震えが止まらなかった、あの人たちはまだ成仏していない、こわくて二度と沖縄へ行けない、というわけだ。
B――それを個々人のメンタル・プロセスに還元できるか、というところだね。我々は、ほんとうのところ、個々人が主観的に思っている以上に、社会歴史的な集合的存在(socio-historical collective entity)かもしれない。大文字の〈死者〉にリアリティがあるのは、そこだね。死者は生きている。リヴィング・デッド(living Dead)なんだ。
A――「反戦平和の願い」は、何者かの陰謀だった。しかし、現実とフィクションの結界が破れたとき、それは成仏できない亡霊たちの陰謀だとわかった。さらにいえば、それは作者=井上ひさしの仕組んだ陰謀だった(笑)。
C――まさにその通り。井上ひさしがこの芝居の作者なんだから。もはやメタレベルは存在しない。ということは、井上ひさしは、かなりラディカルな演劇論を――演劇ではなく、演劇論を――上演したということだな。
A――もちろん、ここで、井上ひさしが亡霊たちに同一化しているのではなくて、亡霊たちこそ井上ひさしの分身ですな。彼はこのあと今年死んでしまったから、これは遺作になったが、伝説化する条件にある芝居だろう。
B――亡霊たちは悲しげに口々に、殺すな、死ぬな、命を大切に、あほう、ばかア、という。それが井上ひさしの「遺言」だな。
A――それは仏教の「不殺生」以外の何ものでもないが、宗教色を脱色してみると、もうひとつインパクトがないが。
C――宗教には普遍宗教というものはない。だから個別文化の中でのみ宗教的言説は有効なんだ。それでも、戦争で死んだ三百万の日本人、英霊か亡霊か知らぬが、彼らは愚劣な戦争で余儀なく死んだが、一人ひとりの死を決して無駄死ににはしない、成仏していただく、ということだね。
A――それが「ムサシ」。宮本武蔵物だったとはねえ。武蔵と小次郎は、亡霊たちを成仏させるために、決闘をやめる。武士もやめる。この結末は、どうかな。大いに不満がのこるが。
B――現代人向けのアレンジなんだ。ここは、もう一ひねりほしいところだがな。「やはり、井上ひさし」か。
C――ラストに、「本物」の沢庵や柳生宗矩、住持の平心、筆屋乙女や、木屋まい等々、亡霊が成りかわっていた贋物ではなく、「本物」の人物たちを登場させる。これは、芝居の括弧を閉じる常套手段だね。
B――観客を気持よくさせて終らせるためのサービス・シーンだ。それには二つあって、一つは、木屋まいが小次郎に目をとめて、武蔵に、「おや、こちらの方は?」と問う。武蔵は、一呼吸間をおいて、「友人です」と答える。つまり、武蔵に小次郎のことを「友人だ」と言わせる。敵ではなく友人だと。小次郎もこの言葉(友人です)に異を唱えないのだから、武蔵と小次郎の殺し合いは完全に阻止された。いわば「反戦平和」はここで実現したというわけだ。
C――それは観客へのサービスだね。すでに実現したことを改めて言葉で確認させる。この二度目の実現(second realization)は、観客に快楽を与える。
A――観客はくすぐられて気持よくなる(笑)。武蔵が小次郎のことを友人だと言ったので、筆屋乙女が、小次郎に、「お名前は?」と聞く。小次郎はそれを外して、答えず、武蔵に向って、「からだをいとえ」。武蔵、うなづいて、「おぬしも達者でな」。そうして二人は上手と下手に分かれて舞台を去る。
B――そのあたりは、スマートに快適に終らせるところ。ここで、名をきかれた小次郎が、「拙者は、武蔵の友人、佐々木小次郎と申す」などと間抜けな答えをすると、またドタバタが始まってしまうからねえ(笑)。
C――小次郎が、まいや乙女という女たちに取り合わない、というところが肝腎だな。なぜなら、この二人は「吉川武蔵」には登場しない存在だから(笑)。小次郎と彼女たちがクロス(交差)せず、かみあわないのは正解だよ。そして、小次郎の正体がばれないというところに、わずかにサスペンスのさざなみもある。
B――それから、もう一つ、終幕のためのシーンは、柳生宗矩が武蔵に、将軍家指南役の斡旋をしようと、武蔵を江戸に誘うが、武蔵はそれを断って去るという場面だな。
A――将軍家光が、一度武蔵に会ってみようとの仰せだと。しかし武蔵はそれを断って去る。柳生宗矩は、「おーい、将軍家指南役の口がかかっているのだぞ。わしの下でひと働きする気はないか」と声をかけるが、もう武蔵の姿はない。
B――これも、観客を気分よくさせて終らせるためのシーンだ。将軍家指南役の誘いに、武蔵がホイホイのって、「行きます、行きます」なんて言えば(笑)、江戸時代の観客とはちがって、そういう大団円を望まない現代の観客は、承知せず、むしろ不愉快になる。ここはどうしても、武蔵が将軍家指南役の誘いを蹴る、ということでなければいかん。
A――そのあたりは、司馬遼太郎の武蔵小説に対する揶揄もありそうですな。
C――司馬遼太郎の武蔵は、出世欲にとりつかれて、三千石以上じゃないと承知しないという、分をわきまえぬ馬鹿者だ(笑)。むろんそれは、司馬遼太郎の妄想的創作だが、「吉川武蔵」の偶像破壊を試みて、ただひたすら悪意ある武蔵像形成に走ったというところ。井上ひさしは、もちろんそういう司馬遼太郎の武蔵、つまり、――出世欲にとりつかれて、あれこれ猟官運動に奔走するが、それを果たせず挫折する――という武蔵像を知ったうえで、このシーンを設けている。
B――司馬遼太郎の武蔵は、ダーティ・ムサシだな(笑)。不愉快な武蔵。何も知らない読者は、「なんだ、武蔵は実はこういう男だったのか」と誤解する。それが司馬遼太郎の付け目よ(笑)。それに対し井上ひさしは、とんでもない、武蔵は将軍家指南役の誘いを蹴ったんだ、ということにする。これで、観客はすっきり気持よくなって喜ぶ。大衆芸能のヒーローとしては、こっちが正しい処置だ(笑)。
C――もちろん、武蔵が将軍家に三千石で仕官を願ったという事実もなければ、柳生宗矩が武蔵を将軍家指南役に推挙したという事実もない。それはどちらも現代作家が捏造したフィクションだよ。むしろ、『丹治峯均筆記』(享保十二年)所収の武蔵伝記には、武蔵に将軍家師範の沙汰があったとき、柳生宗矩の風下に立つのを嫌って、武蔵は、自分はもとより仕官の望みはないと断ったと記す。将軍家師範を断って、その代りに武蔵は屏風に絵を描いて献上したというわけだ。
B――早期の筑前系武蔵伝記では、そういう話になっておる。それを正反対に捻じ曲げて、猟官運動にやっきになる武蔵というイメージを作り出したのが、司馬遼太郎の小説、「真説宮本武蔵」(昭和三十七年)だ。それを真にうけて、「司馬武蔵」の亜流がその後続々現れた。しかし、井上ひさしは、さすがに世間のそんな阿呆どもとちがって、司馬遼太郎の妄説にはのらなかった(笑)。



*【ムサシ】
沢庵 これこれ、武蔵よ、どこへ行くのだ。
平心 これから始まるのですよ、開山式が。
武蔵 急に思い立ったことがあります。
宗矩  家光さまが一度、おぬしに会ってみようと仰せられておいでだ。参籠禅が終わったら、わしと江戸へ行かぬか。
武蔵 ありがとう存じます。しかし、それはまた、別の機会に……。
宗矩 (少し咎めて)……武蔵。
武蔵 (会釈して)もうしわけありません。
  まい、小次郎に目を止めて、武蔵に、
まい おや、こちらのお方は?
武蔵 (一呼吸おいて)友人です。
乙女 ぶしつけながら、お名前は?
小次郎 (外して、武蔵に)からだをいとえ。
武蔵 (うなづいて)おぬしも達者でな。
  武蔵、石段へ。小次郎は上手へ。
  そして、二人、勢いよく歩き去る。
宗矩 おーい、将軍家指南役の口がかかっているのだぞ。わしの下でひと働きする気はないか。
平心 武蔵どのォ……!
沢庵 去るものは去り来るものは来る、これ、人間世界の実相なり。平心坊、始めなさい。
平心 はい、それでは……。
  平心、参列者の様子を見回してから、
  引磐を鳴らす。




(c)Ninagawa Company




*【丹治峯均筆記】
《武州兵法、將軍家達上聞、可被召出御沙汰アリトイヘ共、柳生但馬守殿、御師範トシテ常住御前ニ侍席セラル。武州、柳生ガ下ニ立ン事ヲ忌テ、若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪ソラズ、爪トラズ、法外ノ有様也。御免ヲ奉蒙度旨達而御断申上ラル。兵法御覧ノ御沙汰モコレアルトイヘ共、柳生ヲ御尊敬被成カラハ、我兵法備台覧テモ益ナシトテ、是モ御断被申上。但州モ曽而吹挙ナキトカヤ。武州ガ繪ヲ御覧被成度由ニテ、御屏風ノ繪ヲ被仰付。武蔵野ニ月ノ出タル所ヲ、御屏風一パイニ書テ差上ゲラレシトイヘリ》
A――そうして、このようにスマートに快適に、すっきりと芝居を終らせる。観客は気分よく家路につく。しかし、これも作者の奸計じゃないのかい(笑)。
B――本当は、幕が下りてもまだ井上ひさしの芝居は終っていない。ラストに、沢庵や柳生宗矩ら、亡霊が化けたのではない本物たちが登場だが、その「本物たち」(real persons)がフィクションなんだ。観客に「本物」たちが登場したと思わせて、欺いておる。彼らはいわば「本物」に化けた虚構の人物なんだぜ。
C――もっといえば、この芝居のテーマ、「亡霊たちの反戦平和の願い」とは無縁な人物たちなんだよ。そういう意味では、沢庵や柳生宗矩はじめ、亡霊が化けたのではない本物たちが登場するこのラストは、ドラマを終らせるために必然とはいえ、余計な蛇足だったかもしれない。
B――となると、このようにスマートにすっきりと快適に芝居を終らせない、ということだな。亡霊たちが成仏しただけでは、観客は不穏な気分を抱えたまま、突き放される。武蔵と小次郎が決闘をやめただけでは、亡霊たちは成仏しないだろう。なぜなら、世界中に今なお戦争と殺し合いがあるからだ(笑)。
A――そうなると、この芝居は現実とフィクションの結界を破って、そのまま放置したかっこうだ。それでは、平和な小市民的生活者としての観客は耐え難い(笑)。その耐え難さを救うために、この蛇足たるラストは必要だった。
C――観客が日常の平穏へ復帰するためとはいえ、それはいわば、まやかしの救済だがね。そうしながら、作者は観客に、穏やかでない宿題を土産に押し付けて突き放す。だから、この芝居は本質的に穏やかではない(笑)。
B――まあ、とにかく、この芝居は、他の新作を誘発する刺激的なところがある。そういう意味で、生産的な作品だな。
A――そろそろ醉ってきたので言うのではないが、事実関係としては、武蔵は三十歳になる前に、六十余度無敗のキャリアをのこして、決闘勝負を卒業している。大坂戦後のこの時、武蔵が決闘するわけがない(笑)。
B――むろん、武蔵が若年のころ打殺した小次郎も、生きているはずがない。だから、この芝居の小次郎は、最初からゾンビだった。そこに、六十余度の勝負に武蔵と対戦して死んだ他の連中も現れる。それがおおぜい武蔵にまとわりついて、口々に再戦を求めるが、武蔵は応じない。「おれはもう、決闘勝負は卒業したんだよ」と。
A――それでもあきらめない小次郎はじめゾンビたちに、武蔵はいうね。「それにだいいち、貴公らはもうそれ以上死ねないじゃないか」(笑)。
B――ゾンビたち、あっと我が身の不生不死を悟って、そのままなだれをうって即身成仏(笑)。武蔵、死者たちに香華を手向けながら、
A――「やれやれ。これでようやく静かになる」といって、明石城内樹木屋敷の造園図面を、ずるずる引っぱり出し(笑)
B――左右両手にそれぞれ筆をとって(笑)、ドローイングをはじめる。
A――「それにしても一年とは、工期がみじかいなあ」と、ぼやきながら(笑)。
C――おいおい、二人とももう酔ったか(笑)。
A――病みあがりの久しぶりの酒だ。酔いが回った。すこし休ませてもらう。
――どうぞ、そのまま、そのまま。で、井上ひさし作の「ムサシ」。いかがでしたか。
C――彼が日共シンパであるのが、昔から気にいらんのだが(笑)、この「ムサシ」がただの反戦芝居ではないところが、評価できる。観客をあれだけいじって、ひきずり回したという点もふくめて。
B――ディテールにはあれこれ不満は残るが、武蔵物芸能としては、近年にない収穫だった。ただ、問題は落しどころだな。こんな「あれ?」という不満な結末、これはうなづけない。我々が求めるのは、現代社会の観念的秩序を破るドラマだ。世界の暗黙のコンセンサスを崩壊させる演劇だよ。
C――そうでなければ、わざわざ「宮本武蔵」という存在、日本の大衆芸能における伝統的なヒーローをもってくる意味がない。
B――そういうことだ。この芝居「ムサシ」は仕掛けもケレンもたっぷり、笑いに毒も苦味もあって愉しませる作品だ。凡庸な作品と違うのはその点だ。しかし、戦争が日常化して自爆テロが頻発する、この不穏な現代の世界状況の中においてみると、「うへっ」と降参させるものがない。
C――だから、「さすが、井上ひさし」というところもあれば、ヌルくて、「やはり、井上ひさし」というところもある(笑)。蜷川演出については、「おお、うまいな」という見事なところもあれば、「あれあれ、そのように処理してはいかんな」というところもある。
B――別の者が演出すれば、別の「ムサシ」もまた可能だ。それが演出の妙味だ。この芝居は、若い連中の新作の励みにもなろう。
――そうですね。では、しばらく食事休憩していただいて、その後、一本アニメ映画をごらんいただきます。今回の後半があります。
A――あれ、あれ、まだ終りじゃなかったのか。

(休  憩)
――井上ひさし作の芝居「ムサシ」の話が出ましたついでに、これも最近の武蔵物アニメですが、「宮本武蔵 双剣に馳せる夢」(押井守原案・脚本、西久保瑞穂監督、2009年劇場公開)、これはどうですか。ごらんになっていないと思いましたので、先刻DVDで一通りお見せしましたが。
A――どうだといっても、その押井とか、西久保とかいうのを知らないがね(笑)。
――よくは知りませんが、若い人たちの話だと、アニメーション映画の世界では、押井守というのは、ちょっとしたカリスマ的人気がある。アメリカはじめ海外でも評価が高い。そういうことでした。
B――だけど、サブタイトルの「双剣に馳せる夢」。このタイトルのダサくてクサいこと。それだけでも、まず敬遠だね(笑)。無理に見せられなければ、決して観ないものだ。観ると、思った通りで、ばかばかしい駄作。これを話題にするのかよ。
――予告編では、「鬼才・押井守が挑む、孤高の剣人、宮本武蔵」ということになっているようです(笑)。
C――こんな駄作の作者に、「鬼才」云々という宣伝文句をつけるバカがいるか(笑)。こんな恥かしいもの、よく世間に出せたな。この作者は、盲蛇に怖じず、宮本武蔵についてまったく無知だね。
A――解説者というか、キャスター役のキャラ。「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」とあるが、これは何者?
B――「(仮)」とあるから、「仮称」ということだろ。武蔵の衣装を着せているが、ちんちくりんで、顔はまったく武蔵とはちがう。お笑いのつもりか。
――その点について、聞いた話では、この顔は、原案・脚本の作者(押井守)の顔らしいということです。
B――ほんとかよ。名前は違うが、作者が武蔵の衣装を着てご出演、というわけ? よくわからんことをするやつだな。
C――冗談のつもりなんだよ。ただし、こいつが、作者の分身だとすれば、ちょいと出しゃばりすぎなんじゃないか。しかも、愚劣なアホばかりぬかしておる。これも、笑いをとるための冗談かい。
A――いやいや、そうではなさそうだ。配布してくれた科白のメモだと、この解説のオッサンが曰く、「武蔵をめぐる虚構を排し、その背後に存在するであろう真実の姿を描き出すこと、それが私の研究テーマであり、この映画の主題です」(笑)。
B――ふん、なまいきなことを(笑)。そのあたりから、すでに大笑いなんだ。
A――武蔵の「真実の姿」というが、それはどうやら司馬遼太郎の小説(「真説宮本武蔵」)あたりがネタ元のようですな。
C――あの「お笑い珍説宮本武蔵」ね。この小説は司馬遼太郎が若い時書いたもので、半世紀近く前のことだ。しかも、それは百年前の顕彰会本『宮本武蔵』をネタ本にして書いた小説。そんな旧態の小説、その内容をいまだに服膺するやつが居るとはねえ。
B――そのアナクロなところ、作者はまるで自覚がない。宮本武蔵研究について何も知らないにひとしい。知的センスが劣悪、鈍感というべきだ。「武蔵をめぐる虚構を排し、その背後に存在するであろう真実の姿を描き出す」というが、実際は、半世紀前の初期司馬遼太郎の珍説に依拠して、それをパクって、センチメンタルで不細工なかっこうに変形しているだけ。
C――吉川英治の小説『宮本武蔵』を原作・原案にしたものは多い。さっきの井上ひさしの芝居(「ムサシ」)や、井上雄彦の『バガボンド』にしてもそうだ。これはフィクションなんだ。で、そんなものはフィクションだ、おれは宮本武蔵の「実像」を出すんだと。それが今回のこの武蔵物アニメらしい。ところが、「吉川武蔵」はフィクションだとしりぞけたつもりの本人が、武蔵研究を何も知らず、司馬遼太郎の小説のフィクションにのっかっている。吉川英治を司馬遼太郎に乗り換えて、そのフィクションの珍説妄説をパクって、何が武蔵の「真実の姿」なんだよ(笑)。
B――目くそ鼻くその類い。しかし、井上ひさしの「ムサシ」なら、《吉川英治『宮本武蔵』より》と断っている。井上雄彦の『バガボンド』も「吉川武蔵」が原案だとはっきり断っている。ところが、このアニメ映画は、司馬遼太郎の武蔵小説からパクっておるのに、断りを何も入れていない。
A――後でいくらでも出てくるが、この武蔵アニメは剽竊盗用だらけ。そうでなければ、妄想的なタワ言の連発(笑)。
C――いちおうこれはノンフィクション・ドキュメンタリーという体裁だから、人を笑わせるつもりの「お笑い宮本武蔵」ではないという前提で云うが(笑)、司馬遼太郎がこねあげたフィクションの妄説にのっかっていて、何が「武蔵をめぐる虚構を排し」だ。ようするに、自分が何を言っているのか、わかっていないよ、こいつは。
 
精神の修養者、武道の求道者として、神仏を尊びながらこれをたのまず、そしてその一方において、勝利するためには幼い者すら躊躇なく手にかける冷徹な戦略家という矛盾したキャラクター
 
A――さあ、早速おかしなことを言い出したぞ(笑)。
C――この構図は、お笑いだね。だいいち、この用語で、この作家の無知の馬脚が現れておる。「精神の修養者、武道の求道者」というが、武蔵は自身が「精神の修養者」なんてことは言わない。「武道の求道者」というが、武蔵には「武道」という言葉はない。「武士の道」という。武蔵を「精神の修養者、武道の求道者」にしてしまったのは、近代というより、昭和の物書きだよ。
A――「神仏を尊びながらこれをたのまず」というのは、例の「独行道」の《佛~は尊し、佛~をたのまず》だろ。だけど、「独行道」の条々を武蔵が書いたという根拠は、今のところ存在しない。
B――もちろん、「精神の修養者、武道の求道者として、神仏を尊びながらこれをたのまず」という文章が、半可通なんだよ。「精神の修養者、武道の求道者」と「神仏を尊びながらこれをたのまず」という二つは、何の関係もない要素だ。
A――何が「として」だ(笑)。次の、「勝利するためには幼い者すら躊躇なく手にかける冷徹な戦略家」、このあたりで、作者の知識がどのていどのレベルか、それがわかる(笑)。
B――「幼い者すら躊躇なく手にかける」と書いてしまうところな。武蔵がいつどこで、幼い者を手にかけたんだよ(笑)。
C――ようするに、吉岡一門との対戦について、小倉碑文によれば、吉岡清十郎、伝七郎の二人を武蔵が打倒した後、三度目の対戦に、吉岡又七郎が数百人の門人を集めて、武蔵を殺そうとしたという話。もちろん、吉岡又七郎が「幼い者」だなんて記事はないし、武蔵が吉岡又七郎を殺したという話もない。



宮本武蔵 双剣に馳せる夢
DVD 2010年




(c)Productin IG/宮本武蔵製作委員会




司馬遼太郎『真説宮本武蔵』
昭和37年 文藝春秋新社



吉川英治『宮本武蔵』
昭和11〜14年 大日本雄辨會講談社



*【武公伝】
《因之吉岡ガ門弟冤ヲ含、清十郎ガ子又七郎ト、事ヲ兵術ニ寄テ、洛外下松ノ邊ニ會シ、彼門生數百人、兵仗弓箭ヲ以テ欲害之。武公察之、又七郎ヲ切弑シ彼門弟ヲ追奔シテ、威ヲ震フテ洛陽ニ帰ル。於是、吉岡兵法家泯絶ス》

*【二天伝】
《依テ吉岡門弟恨ミヲ含ミテ、清十郎ガ子又七郎ト組シ、數十人兵仗弓箭ヲ携へ、下リ松ニ會ス。武藏又七郎ヲ斬殺シ、徒黨ノモノヲ追退ケ、威ヲ振ヒテ洛陽ニ歸ル。於斯吉岡ガ家断絶ス》

*【小倉碑文】
《吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法なり》(原文漢文)


*【直木三十五】
《武蔵伝に伝えられている如くならば、吉岡家の兄弟三人と試合をして、僅か、十七歳の少年を討ちとり、遂に、吉岡家を断絶させたなど、残忍極まる話である。兄弟二人を討つなら、わかっているが、幼少の又七郎を討ったとて、少しも武蔵の勇武に、価値を加えるものではない。それに、この少年を討って、吉岡家を断絶させる義も情もない、と云われても、弁解の辞はあるまいとおもう》(「上泉信綱と宮本武蔵」『文藝春秋』昭和7年12月号)

*【司馬遼太郎】
《さきの当主清十郎の子に又七郎という者がいる。まだ幼童である。これに腹巻、陣羽織を着せ、采を持たせ、これを仇討名目人として繰りだしてゆく。従う一族・門人は百人内外であった。打物は太刀だけでなく、槍、薙刀、鉄砲組、弓組までつくった。(中略)剣は、鍔先三尺八分という、この長身の男にふさわしい大大刀であった。かれは幼童の前に立ちはだかり、小声で、/「吉岡どの、遅かった、すでに先刻から待っていた。自分は武蔵である」/幼童がおどろいたとき、その首は天にむかって飛んだ》(『宮本武蔵』昭和四十二年週刊朝日連載)
B――吉岡又七郎が清十郎の子だと言い出したのは、肥後系伝記だよ。『武公伝』には、清十郎と伝七郎を打ち倒された吉岡の門弟らは恨みを抱き、清十郎の子・又七郎と、兵術(演習)にことよせて、洛外下り松のあたりに集合し、かの門生数百人、兵仗弓箭をもって(武公を)殺害しようと欲した。武公はこれを察し、又七郎を切り殺し、かの門弟を追い散して、威を震うて洛陽〔京の町〕に帰った、うんぬんとある。
A――『二天記』もそれを踏襲している。吉岡又七郎を清十郎の子だと云いはじめたのは肥後系伝記だが、むろん小倉碑文にはそんな話はないし、『丹治峯均筆記』のような筑前系伝記にもない。これは、肥後で後世発生したローカルな伝説ですな。
C――肥後系伝記は、武蔵が吉岡又七郎を斬り殺したことにしたが、ところが、もともと小倉碑文には、相手の又七郎を切り殺した、何人切ったとは書いていない。これは『丹治峯均筆記』のような筑前系伝記も同じで、武蔵は、多数の敵の包囲を切り抜けて逃走しおおせたということだけだ。武蔵が又七郎を切り殺したという話は、もともとなかった。武蔵が又七郎を斬殺したという咄が出てくるのは、後人が書いた肥後系伝記だよ。
A――「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」くんの知識レベルでは、『武公伝』や『二天記』を見たとは思えないが、明らかに、明治の顕彰会本の記事を鵜呑みにして、イメージを組み立てた通俗武蔵本のレベルだな。
B――直木三十五が、顕彰会本「武蔵伝」を読んで、又七郎は、十七歳あたりだと空想した。それで、――武蔵伝に伝えられている如くならば、わずか十七歳の少年を討ちとり、吉岡家を断絶させたなど、残忍極まる話である。兄弟二人を討つなら、わかっているが、幼少の又七郎を討ったとて、少しも武蔵の勇武に、価値を加えるものではない。それに、この少年を討って、吉岡家を断絶させる義も情もない、と云われても、弁解の辞はあるまいとおもう――なんてことを書き出した(笑)。又七郎が十七歳だということにして、そんな「幼少の又七郎」を討ち取ったのは、残忍だというわけだ。
A――もちろん、又七郎が十七歳だなんてことは、『武公伝』や『二天記』など肥後系伝記にも書いていないし、明治の顕彰会本にもない話だ。直木は勝手にイメージをふくらませて、又七郎が十七歳だということにしてしまった。
C――それでも、又七郎は十七歳、直木が「幼少の又七郎」だというのには無理がある。十七歳は現代とちがって、もう大人だよ。
B――当時は十五、六歳で初陣だしな。十六歳あたりで家督も嗣ぐし、十七歳はもう一人前だよ。ただ、直木は武蔵が残忍だと強調したいために、十七歳を幼少の少年にしてしまった。
A――そこで、問題は、戦後の司馬遼太郎の小説ですな。司馬は、又七郎を、十七歳どころか、「幼童」にしてしまった(笑)。
C――直木三十五が、武蔵は残忍だと言いたいために、つい「幼少の又七郎」と筆をすべらせた。戦後の司馬遼太郎はそれを誤読して、直木の「十七歳」のタガを外して、「幼童」に変えてしまった。もちろん、直木三十五の「十七歳」は根拠のない憶測だ。だいいち、又七郎が清十郎の子だという新説は、肥後ローカルな伝説の中で発生したもので、これも根拠はない。
B――武蔵が又七郎を斬り殺したというのも、肥後ローカルな伝説の中で生れた話だ。もともと小倉碑文にはそんな話はないから、筑前系伝記にもない。まして、武蔵が「幼童」を斬り殺したなんてことは、戦前まで、どこにもなかった。
C――繰り返せば、戦前、直木三十五あたりで、又七郎が「十七歳」になった。しかし、武蔵が「幼童」又七郎を切り殺したという咄は、戦後、司馬遼太郎がデッチあげたフィクションだよ。司馬遼太郎は、「真説宮本武蔵」(昭和三七年)では、「まだ刀術もさだかでない少年」と書くが、まだ「幼童」という語は使っていない。しかしその後の『宮本武蔵』(昭和四二年)で、この「幼童」という語を出してきて、「武蔵が子供を惨殺した」という妄説路線を敷設した。
A――そうして、最悪なのは、よく調べもせずに、後続の連中が、この司馬のフィクションを鵜呑みにして反復再生産していることだ。
C――前にも論評があった(坐談武蔵・第二回)ように、司馬遼太郎の武蔵は、「お笑い珍説宮本武蔵」なんだよ。顕彰会本をネタに、あれこれ悪意ある妄想を繰り広げたら、そうなったというわけだ。この邪気の多い武蔵像を、その後、あちこちでパクるやつが出て、いわば「司馬武蔵」亜流が多数反復再生産された。
B――そういう悪弊がしばらく鎮静したかと思っていたら、去年になって、この武蔵物アニメ映画が出てきた。なんとも場違いの登場で、おそろしく旧態の武蔵像だが、作者は司馬遼太郎を読んでパクった。知的センスが劣悪なのはそのあたり。そして、もっと劣悪なのは、この幼童斬殺という場面が戦後生まれのフィクションだとは知らないこと(笑)。
A――こんな無知なレベルだと、「武蔵が幼い子供を斬殺した」という場面は、戦後司馬遼太郎によって捏造されたという事実を知らない。このアニメ作者は、武蔵が子供を斬殺したのは事実だと錯覚している。こうなると、フィクションも何も見境いがない。
B――だから、「武蔵をめぐる虚構を排し」という科白が大笑いだというんだ。虚構を排するどころか、自分が虚構にのっかっていることさえ知らない。
A――この「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」くんは、「勝利するためには幼い者すら躊躇なく手にかける冷徹な戦略家」なんて半可通をいう。吉岡又七郎を殺したのとリンクして出てくるこの「冷徹な戦略家」というのも、ネタ元は司馬遼太郎だな。
C――いいかげんな話だ。しかしこのアニメ作家、「精神の修養者、武道の求道者として、神仏を尊びながらこれをたのまず、そしてその一方において、勝利するためには幼い者すら躊躇なく手にかける冷徹な戦略家」という「矛盾したキャラクター」と言うが、彼は論理的な文章が書けないらしい(笑)。
A――神仏に依存しないということと、冷徹な戦略家、この二つの局面のどこが矛盾しているんだ(笑)。この作者はどうも論理的に頭が回らんようだから、矛盾(contradiction)と無矛盾(non-contradiction)との区別がつかない。自分が何を言っているのか、わかっているのか、疑わしい。
B――この胡乱ぶりはシラフとも見えんな。ラリって書いているぜ。基本的にこのアニメの解説は、牽強附会だらけだが、頭が朦朧として論理的に回らんから、むしろその牽強附会は関係妄想の症状だな(笑)。
C――このアニメの作者は、無関係なものをベタベタ結び付けてしまう。もともと武蔵研究も知らずに、司馬遼太郎のフィクションをパクって組み立てただけの、まぬけな問題構成なんだよ。言ってみれば、吉川英治の小説を事実と錯覚して、「お通という恋人がありながら、武蔵は」云々、と言い出すやつと大差ない(笑)。
A――武蔵の「矛盾したキャラクター」が出てきたあたりで、このアニメ映画は笑いものだが、その「矛盾したキャラクター」をさぐる上で、避けて通れないのが「関ヶ原の役」だと、この作家の分身が言い出す。
B――そこで、「ホホウ」だね、こいつは何を言い出すのかと。すると、「関ヶ原を含め、生涯に六度、合戦に参加したと、武蔵は口にしています」(笑)。
A――またまた、アホを言い出したものだ。武蔵がどこでそんなことを口にしておるというんだ。
C――これも、司馬遼太郎の小説やそのへんの通俗武蔵本の読み囓りらしい。ただし、司馬が書いたのは、武蔵は晩年自分の綺羅をかざるために、「自分は若いころ、軍場に六度出た」と物語っている、ということ。もちろん、これは司馬の捏造で、武蔵がそんなことを「物語っている」という事実はない。
B――司馬遼太郎は、顕彰会本に坂崎内膳宛口上書が引用されているのを見て、そう書いた。これが文書なのに、司馬は「物語っている」と勝手に改竄した。これだと、口頭で語ったと錯覚させるね。
A――それで、案の定、このアニメ作家のような粗忽者が出て、司馬の「物語っている」を、「口にしています」と改竄してしまった(笑)。
C――原因は司馬遼太郎の改竄にあるが、それを鵜呑みにして流用した結果が、「武蔵は口にしています」だ。無知な者は何をやるかわからん(笑)。
B――アホとしか言いようがない。もちろん、《若年より軍場へ出候事、以上六度ニて》と書いているその坂崎内膳宛口上書は、肥後系伝記に登場するだけで、これを武蔵が実際に書いたという証拠はない。むしろ、肥後系伝記に多い後世捏造文書だぜ。
C――内容からすれば、その口上書は寛永十七年二月か、細川忠利が江戸在府中という設定だな。しかし、「寛永十七年二月」とあって、日付がない。だいたいこの頃の書状だと、「寛永十七年」という年号は書かずに、「二月何日」という日付を記す。これは、「寛永十七年」に武蔵がこの文書を提出したということにしたい後人の後智恵だな。『二天記』に、巌流島決闘の前日に武蔵が長岡興長宛に書いたという書状が登場するが、それと同じ後世の捏造物だよ。
B――むろん、「宮本武蔵判」というのも、ありえない署名で、事情を知らない後人の作物だということを示している。寛永十五年の肥前有馬陳(島原役)のおりの有馬直純宛書状や、寛永十七年の長岡興長宛書状の署名は「玄信」で、花押を記す。「宮本武蔵」と書くのは、書状の表書きの方だ。書状の署名に「宮本武蔵」はない。
C――ようするに、『武公伝』など肥後系伝記が引用した恰好の、坂崎内膳宛口上書は、後人の贋作だよ。しかも、中身は、およそ客分として逗留する者にそぐわない内容。――もし私に逗留するようにと仰せつけられるのであれば、いずれ御出馬〔出陣〕なさることが起きた時、私に相応の武具をも持たせ、乗替え馬の一疋でも牽かせて行けるようにしていただければ、それでよろしいのです。――こんなことを客分として逗留する者が書くかよ。
B――まあね、武蔵の宮本家は豊前小倉にあって、その宮本家のご隠居だ。隠居といっても、宮本家の帰属先は小笠原家だよ。それが勝手に、細川家に属して出陣するなどということはありえない。
A――そんなことをすると、家老伊織の顔が立たない(笑)。切支丹一揆を皆殺しにした肥前有馬陳(島原役)でも、小笠原隊で武蔵は出陣だった。
C――ともかく、最初、口碑伝説として発生した話が、より事実めかすために文書化して、引用する形をとるというのはよくある話だ。このケースだと、口碑ならまだしも、文書化するとかなり無理が出て、破綻しておる。しかし、そういう史料批判もできない連中が、いまだにこの後人が捏造した文書を、武蔵が書いた口上書だと錯覚している。
B――だから、通俗武蔵本しか読んでいないこのアニメ作家のような素人が、間違うのも当然なんだ。







*【司馬遼太郎】
《武蔵は晩年、自分の経歴に綺羅をかざるために、
「自分は若いころ、軍場に六度出た」
 と物語っている》(「真説宮本武蔵」昭和三十七年)

*【武公伝】
《武公御國ニ逗留ノコト、岩間六兵衛[御聞番役御城使トモ云。今御留守居ト云]ヲ以テ御尋アリ。則御側衆坂崎内膳殿マデ口上書ヲ以テ言上在。
我等身上之事、岩間六兵衛ヲ以御尋ニ付、口上ニ而は申上がたく候間、書付懸御目申候
一 我等事、只今迄奉公人と申て居候所ハ、一家中も無之候。年罷寄、其上近年病者ニ成候得ば、身上何之望も無御座候。若致逗留候様ニ被仰付儀ニ候ば、自然御出馬之時、相應之武具をも持せ参、乘替之一疋も牽せ参候様ニ有之候へバ、能く御座候。妻子とても無之、老躰ニ成候ヘバ、居宅家財等之事など思ひもよらず候
一 若年より軍場へ出候事以上六度ニて、其内四度ハ、其場ニおゐて拙者より先ヲ懸候者、一人も無之候。其段ハあまねく何も存知之事ニて、尤證據も有之候。乍然此儀は以全く身上之申立ニ仕ニてハ無之候
一 武具之拵様、軍陣におゐて夫々に應じ便利成事
一 時により國之治様之事
右は若年より心にかけ、数年致鍛煉候間、若於御尋可申上候。以上
   寛永十七年二月  宮本武藏判
      坂崎内膳殿 》



*【顕彰会本 宮本武蔵】
《思ふに主家新免氏は宇喜田家に屬したれば、武藏も必ず之に屬して矢石の間を奔走せしなるべく、不幸にして主家悲運に陥りし爲、その傳を失ひたるものならむ》

*【丹治峯均筆記】
《慶長五年庚子、石田治部少輔三成、邪謀ヲタクミ、濃州関ヶ原ニ於テ家康公ト決雌雄、三成一戦ニ打負生捕ラル。九州ニテ、如水公、東軍之御味方トシテ、中津川ノ御居城ヲ御發騎有テ、石垣原ニテ大友義統ヲ擒ニセラレ、安岐・冨来ノ二城ヲ責破リ玉フ。御出陣前、辨之助中津ヘ下リ、父ガ勘氣ヲモ赦免シ、父子一所ニアリ。是、弁之助十七歳ノ時ナリ》
《其後出陣シテ、冨来城乘ノ節、黒田兵庫殿先手ヨリ二町ホド先ニ、三ノ丸ノナラシニ乘アガリタル所ヲ…》























出光美術館蔵
大坂夏の陣図屏風



原城本丸址


*【丹治峯均筆記】
《寛永十四年ヨリ翌十五年ニ至テ、肥州原ノ城ニ賊徒楯篭リ、西國ノ諸將、人数ヲ引テ嶌原ニ至、原之城ヲ責ラル。武州、其時ハ小笠原右近将監殿御頼ニテ、御同姓信濃守殿、御若輩ユヘ、後見トシテ出陣セラル。初終、鎧ハ著玉ハズ、純子ノ廣袖ノ胴著ヲ著シ、脇指ヲ二腰サシ、五尺杖ヲツキ、信州ノ馬ノ側ラニ居ラル。城乘ノ時、賊徒石ヲ抛ツ。馬前ニ来ル石ヲ、「石ガマイル」ト言葉ヲカケ、五尺杖ニテツキ戻シ、落城ニ及ンデハ、例ノ薙刀ニテ數人薙伏セラレシト也》






*【顕彰会本 宮本武蔵】
《大阪陣の時、武蔵は武者修行の身なれども、城下に馳せつき、豐臣方に加はり、徳川方えお惱しゝこと少からざりきといれど、その詳なること知るべからず。元和元年、大阪城落城し、天下全く徳川氏に歸してよりは、武藏は更に世を思ひ放ちけむ、居處暖まるに暇あらず》

*【司馬遼太郎】
《その後、大坂ノ陣のとき、大坂城の牢人募集に応じて入城した。武蔵は、なお一国一城の夢からぬけきらなかったのである。兵法などは、所詮は芸にすぎない。当時のことばで「芸者」とか「芸術者」といった。芸術者よリも武蔵は将になりたかった。ところが、「二天居士碑文」では、「大坂において秀頼公兵乱のとき、粛蔵の勇功佳名、たとへ海ノ口、渓ノ舌ありといへども、なんぞ説き尽さんや」とたたえている。
 が、大坂ノ陣では、東西両軍のどの資料にも武蔵の名は残っていない。勇功佳名とは、養子伊織の孝心から出た曲筆である。
 なるほど、大坂城には、六万以上の牢人が入城したから、たしかに武蔵もまじっていたであろう。
 しかし当時の大坂城では、毛利勝永、明石全登、後藤又兵衛、塙団右衛門、三宿勘兵衛など名ある牢人が入城するごとに内外に宣伝した。が、武蔵が入城しても、宣伝されなかった。豊前船島で小次郎を相手に細川家役人検分による公式仕合をしたとはいえ、それは戦場の武功ではなく、芸術者の芸名をあげたにすぎなかった。武蔵は卑〔ひく〕くあつかわれた。この不幸は、武蔵の晩年までつきまとう。
 大坂落城後、武蔵は、ふたたび敗軍の兵として世を忍ばわぱならなくなり、他の籠城牢人とともに諸国に逃鼠した。数年足跡が知れなかった》(「真説宮本武蔵」)
B――話をいまのアニメにもどせば、とにかくこの作者は、司馬遼太郎の小説から不正確なパクリしかやっていないのが露呈しているが、だいたい、武蔵が関ヶ原合戦に出たというヨタ話を反復しているのもそうだ。
A――武蔵が関ヶ原合戦に出たというヨタ話の初出は、明治の顕彰会本『宮本武蔵』(明治四二年)。これは武蔵が美作産だから、宇喜田勢で従軍しただろうという憶測で書いたもの。いわば、武蔵産地美作説の副産物ですな。
C――それ以前の江戸時代の武蔵伝記には、たとえば『丹治峯均筆記』では、武蔵は九州で参戦したとある。関ヶ原合戦の当時、豊前中津の黒田如水(孝高)が軍を進めて、大友義就軍の侵攻を撃破し、豊後の諸城を落した。その戦いに武蔵が参加したというわけだ。武蔵伝記にあるのはそのていどで、他には具体的な伝承はない。
B――もちろん、その筑前の武蔵伝記は例外。肥後系武蔵伝記は、関ヶ原合戦当時、武蔵がどうしていたか、具体的な伝承がなかったようで、書きようがなかった。それを顕彰会本の筆者が、武蔵が宇喜田勢で関ヶ原出陣ということにしてしまった。吉川英治の小説は、これをうけて、十七歳の武蔵が関ヶ原へ行って雑兵として戦ったという設定にした。その「吉川武蔵」の偶像破壊を試みた、戦後の司馬遼太郎も、この点は何の考えもなしにそのままパクって、武蔵が関ヶ原で雑兵として戦ったという設定を流用した。だから、武蔵が関ヶ原合戦に出たというのは、もともと、小説の中で生長したフィクションだよ。
C――その大もとは、小説家たちが参照した明治末の顕彰会本だ。そんな百年前に生れた珍説が、いまだに再生産されておる。その一例がこの新作アニメの脚本だよ。
B――だから、「武蔵をめぐる虚構を排し」という科白が大笑いなんだよ。虚構を排するどころか、自分がその「武蔵をめぐる虚構」の中へ巻き込まれているのに気づいていない。
C――そのように明治生れの妄説から生長したフィクションを信じて、武蔵が関ヶ原合戦に出たと思い込んでいるこの作者が、「武蔵をめぐる虚構を排し」なんてほざくのは、分をわきまえぬ滑稽だというんだ。
A――で、このアニメの話だと、つづいて武蔵は、「剣士としての評価がゆるぎないものとなってからも、なお武蔵は、しつこく合戦に参加しました」というね。しかし、この「しつこく」というのは、いったい何だい?(笑)
B――その「剣士」というのも、明治の話じゃないのだから、不適切な用語だが(笑)、とにかく武蔵の兵法者としての評価がゆるぎないものとなったというのは、二十一歳のとき上京して、「天下の兵法者」たちと戦って勝ったというあたりだろ。それ以後の合戦というと、慶長末(1614〜15年)の大坂冬夏の陳と、切支丹一揆を殲滅した寛永十五年(1638)の肥前有馬陳(島原役)の二度しかない。大坂の合戦は、武蔵が三十代はじめ、兵法勝負を卒業した後のことだ。そして原城殲滅戦は、武蔵が五十代半ば。この二つの合戦の間は、二十年以上も離れている。
A――だから、武蔵が「しつこく」合戦に参加したというのは、文言が意味不明。というか、胡乱な表現で、無知をさらしている。
C――この作者は、どうも朦朧とした頭の悪い文章しか書けないやつのようだな(笑)。しかし、このように「しつこく」と脚本に書いて、何かバイアスをかけたつもりなんだよ。
A――そこで、このアニメ作家の分身は、とんでもない事を言い出す。「しかしいずれの場合も、武蔵の扱われ方は低く、天下無双の名をほしいままにした兵法者も、戦場では一兵卒として走り廻るほかなかったのでした」(爆笑)。
B――わかった、わかった、笑わせるのも、もう勘弁してくれよ(笑)。いやはや、こいつの無知も超弩級だな。だいたい、大坂陳のとき、武蔵はどうしていたか。戦前森銑三が紹介したように、尾張の松平君山が書いたものでは、大坂陳のとき武蔵が水野日向守(勝成)麾下で出陣したという話があったらしい。これは堀正平『大日本剣道史』(昭和九年)の指摘通り、備後福山藩史料に「大坂御陳御人数附覚」という名簿文書があって、勝成の息子・勝俊のそばについた「作州様付」の十騎の武士の中に「宮本武蔵」の名があるのを確認できる。
C――水野家のこの「御人数附覚」は後年の写本しか現存しないが、後に播州姫路で本多家に仕えた武蔵の養子・三木之助が、水野家家臣・中川志摩之助三男だったという因縁があって、他に有力史料が出ない現段階では、我々は、武蔵は大阪陳で水野隊に属したと見ておくことにしている。
A――その水野勢の大坂陳参戦メンバーリストだと、「惣御供騎馬弐百三拾騎、惣御人数三千二百人之由」とあって、足軽を含めた水野隊の惣人数は三千二百人で、そのうち騎馬武者クラスは二百三十人というわけだ。そして名簿に名が出ている御供二百三十騎の中の一人が宮本武蔵だ。武蔵はむろん水野家家臣としてではなく、若君護衛の助っ人として参加した。だけど、このアニメ作家がいう、武蔵は「戦場では一兵卒として走り廻るほかなかった」なんてどの史料に書いてあるんだよ(笑)。
C――それも司馬遼太郎の小説からのパクリなんだよ。阿呆としか言いようがない。もう一つの寛永の肥前有馬陳では、武蔵伝記『丹治峯均筆記』には、武蔵は小笠原忠政(忠真)に頼まれて、その甥・小笠原長次の後見に付いたということだな。この島原役では、武蔵の「せがれ」伊織は、小笠原本隊の侍大将の一人。小笠原長次はその伊織とほぼ同世代で、八万石中津城主。このときは約三千の人数を率いて、小笠原一門合計一万余の軍勢の一翼をになった。武蔵は彼が子供の頃から知っていた人で、何かと縁が深い。武蔵が小笠原長次の後見に付いたというのは大いにありうることだ。
B――じっさい、小笠原家文書には、長次の旗本一番隊の中に武蔵の名を記したリストがあるな。小笠原長次の部隊は小笠原勢の中でも本丸一番乗りで、小笠原家の旗幟を立てた。その旗本一番隊に、宮本家のご隠居・武蔵がいたんだ。だけどよ、八万石中津城主である殿様の後見を、一兵卒の足軽がするとでも言うのかい(笑)。
A――このアニメだと、武蔵の顔が若い顔から老年の顔へ一瞬で変る。しかし、軍装のなりは、なんと足軽のまま(笑)。ここは大笑いだったな。
B――無知なアホ丸出しのシーンだぜ。とにかく、武蔵が兵法者として名をなして以後の合戦というと、大坂と有馬の二つの合戦しかない。それを、武蔵は「しつこく」合戦に参加したが、戦場では一兵卒として走り廻るほかなかったというのは、ようするに、この作者は武蔵の事蹟をまるで知らないというわけだ。
C――司馬遼太郎の小説本を読み囓っただけ。司馬(「真説宮本武蔵」)は、さっきの(坂崎内膳宛)口上書の「若年より軍場へ出たのは六度」という話にコメントをつけて、――「武蔵はどの大名について、どんな役目であったかいっておらず、どの大名の侍帳にものっていない。おそらく、誇ることができぬほどのみじめな身分で出陣したのであろう」(笑)――と無知なタワ言を書きつけた。もちろん、司馬は、顕彰会本以外にはわずかな武蔵史料しか知らない。しかも、堀正平や森銑三さえ視野に入っていないようだから、こんなアホを書いた。
A――大坂の陣では、東西両軍のどの資料にも武蔵の名は残っていない、などと現存史料をすべて見たようなことを書いているが、ろくに武蔵史料を知っていない。司馬遼太郎にはそういうハッタリが多すぎる。大坂陳のことでは、司馬は、顕彰会本の憶測を鵜呑みにして、武蔵が大阪城に入って豊臣方に属して戦ったという珍説を披露している(笑)。
B――それも、明治末の顕彰会本ではじめて登場した憶測珍説で、もともと何の根拠もない話だ。だいいち、顕彰会本は、慶長末年にまだ武蔵が武者修行していると錯覚しておる(笑)。
C――もともと顕彰会本武蔵伝の筆者・池辺義象が武蔵伝記史料をよく知らんのよ。ところが、その所説を真にうけて、司馬遼太郎は、大阪落城後、武蔵は他の籠城牢人とともに諸国に逃鼠したなどという、アホなことを書いておる(笑)。
B――だいたい、「敗軍の兵として世をしのばねばならなくなった」武蔵が、大坂戦後、播州に移封された本多家や小笠原家に、どうして親近しているのか。変だと思わないのかね。本多忠政なんぞは生粋の徳川譜代だぜ。
A――まして、大坂で武蔵がその麾下に属したという水野勝成は、家康の従弟なんだぜ(笑)。大坂戦争前後の武蔵にはそうした一連のことがあった。司馬遼太郎はそんな事情を何も知らん。だから、あんなアホを書いてしまう。
C――とにかく、司馬遼太郎の小説は、明治の顕彰会本どまりの知識しかないのに、悪意ある妄想をもって顕彰会本の内容を改竄歪曲しておる。その司馬の、(大坂城で)「武蔵は卑〔ひく〕く扱われた。この不幸は武蔵の晩年までつきまとう」というほぼ半世紀前の妄想的作文を、このアニメ作者はパクって、それをベースにして話をコネあげたというわけだ。
B――むろんそれは、司馬の無知から生じた根拠なき妄想なのだが、このアニメの作者は、それを小説のフィクションとも知らず、ほぼ半世紀後の今になって、その妄説をさらにふくらませておる。
A――で、この作者の分身、アニメの解説オヤジは、関ヶ原合戦の武蔵について、こう語る。「武蔵の心は、生涯にわたり、この合戦の亡霊、騎乗した武将への愛憎入り乱れた執着に支配されました」(笑)。
C――ほれほれ、それが譫妄的妄説だというんだ。いわば、武蔵が「関ヶ原コンプレックス」「騎馬コンプレックス」を一生かかえていたという、わけのわからんうわ言をいう。
B――だいたいだね、伝記研究では、武蔵が関ヶ原で合戦に出ていたという説は、根拠がないとして却下しておる。武蔵本人が出たはずもない関ヶ原なのに、「関ヶ原コンプレックス」があるはずもなかろう。
A――で、作者の妄説はどんどん暴走脱線して、「いや、より正確に言えば、馬そのものへのこだわりにとりつかれたと言うべきかもしれません。しかし、その異様なまでの馬へのフェティシズムこそが、かの二刀流を生んだ、と言えば、にわかには信じがたいでしょうか」(爆笑)。
C――にわか、どころか、はじめから話にならないよ(笑)。武蔵が、「馬そのものへのこだわり」にとりつかれた、「その異様なまでの馬へのフェティシズム」なんて、どの史料を典拠にして言っておるんだ。「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」くん、武蔵研究の最前線にある我々でさえ未見の、そんな史料があれば、ご教示ねがいたいものだ(笑)。
B――ない、ない。そんなものは、はじめからないよ。司馬遼太郎が、武蔵は侍大将になりたい、一国一城の主になりたいというあらぬ野望を一生抱えて込んでいたという、トンデモ本並みの珍説をデッチあげたわけだが、このアニメ作家は、侍大将=騎馬武者とアホな錯覚をして、武蔵は馬に乗れる身分になりたかったんだと妄想し出す(笑)。
C――騎馬は、侍大将でなくとも、三百石クラスで騎乗できる。とくに、武蔵がそうなりたくてなれなかったというほど特別のものではない。だから、司馬遼太郎までは、侍大将、一国一城の主というのが、武蔵の望みということだったわけだが、それに対し、馬に乗れる身分が武蔵の望みだとは、このアニメ作家はずいぶん武蔵の願望を値下げしたものだね。
A――バーゲンセールか(笑)。武蔵三十代はじめの大坂陳では、武蔵は水野勝成に頼まれて参陣して、水野隊二百三十騎の中の一人、とくに作州様(嫡子勝俊)御供十騎の一人なんだ。武蔵は騎馬武者になりたかったのではなく、すでに騎馬武者だよ。
B――とにかくだ、「馬へのこだわり」、「その異様なまでの馬へのフェティシズム」なんてのは、武蔵本人には関わりなきことだ。司馬遼太郎でさえ、そんなアホは書かない(笑)。司馬の小説をパクって逸脱脱線した分、このアニメ作家の妄想のアホらしさしか見当たらん。
C――「馬へのフェティシズム」なんてアホを云うやつだが、こいつは五輪書を読んだことがあるのか。五輪書は、むしろ「馬へのフェティシズム」を却下しておる。
B――馬は合戦の道具の一種だが、強く反応して癖のないことが肝要。馬なんて、ほどほどに歩いてくれたら、それよいという。道具は、かたわけてすく事あるべからず。駿馬を求めるなどあってはならん、というわけだ。
C――そんな武蔵に「馬へのフェティシズム」や「馬へのこだわり」があるはずがない。その《かたわけて好く事あるべからず。あまりたる事は、たらぬとおなじ事なり》というのは、こだわりやフェティシズムの却下だよ。五輪書の武蔵ほど、こだわりやフェティシズムを明確に却下したものはいない。
B――だから、このアニメ作家が五輪書を読んでいないのが明白だ。読んでも何が書いてあるかわからんと、自分で暴露しているようなものだ(笑)。
C――《あまりたる事は、たらぬとおなじ事なり》、過剰は不足に等しい、こういう武蔵のフェティシズム批判があることさえ知らない。武蔵の「こだわり」だの「夢」だのと言いたがるこの作者は、自分の妄想を武蔵に投影しているだけなんだよ。
A――で、さっきも出たように、「その異様なまでの馬へのフェティシズムこそが、かの二刀流を生んだ」となると、これは謎なぞ咄ですな。
B――武蔵には「異様なまでの馬へのフェティシズム」なんてものは存在しない。だから、「馬へのフェティシズム」が、武蔵の二刀流を生んだという言説は成立しない。以上、終り(笑)。
C――もちろん二刀術は、武蔵に限ったことではない。小倉碑文が「十手の家」という新免無二の段階でも二刀術はあったし、他流でも、二刀術はあった。陰流の絵巻物でも天狗が二刀をもって形を示している。武蔵はそういう伝統的な二刀術を洗練させたということだ。そしてむろん、武蔵流兵法は、二刀にかぎったことではない。短い小太刀でも長い五尺木刀でも勝つ、何なら無刀でも相手を取りひしぐ、というわけだ。武蔵流兵法は、剣術に限らず、格闘技も含めた総合的戦闘術だ。宮本武蔵=二刀流というのは、近世以来の俗説だよ。
B――「騎馬と二刀流」というこのアニメ作家の思いつきは、妄想的関係づけによる牽強附会(笑)。仮説とさえいえない代物。何の根拠もないアホばなしだ。じっさい、このアニメは、ここから西洋の騎士へ話を迂回させるが、俗書を読み囓って受け売りしているだけの退屈な話の振り回し。このあたり、まったく武蔵とは無関係のことだ。
A――それで、ようやく話がもどって、「我らが宮本武蔵の剣法の本質にあったのも、また騎馬という存在でした」(笑)。
B――人に聞かせるのなら、そんな譫言でなく、もうすこし論理的な話をしろよ、と半畳が入るな、ここは(笑)。
C――どうも、このアニメの脚本を書いた作者は頭が朦朧体だ(笑)。
A――それで、こんどは五輪書の話になるが、いきなり、「五輪書は宮本武蔵が書いた兵法ですが」という(笑)。我々も年寄りだから、わが耳を疑うこと頻りだが、この字幕にもそう出ておる。
B――これは「兵法」じゃなくて、「兵法書」あるいは「兵書」だろ。しかし脚本原稿に、「五輪書は宮本武蔵が書いた兵法ですが」とあって、それをだれもチェックできる者がいなくて、字幕にもそう出してしまったらしい。作者の書いた明らかな誤りは、スタッフが訂正すべきだろが。




(c)Productin IG/宮本武蔵製作委員会















兵法に武具の利を知と云事
五輪書 地之巻


*【五輪書】
《馬の事、強くこたへて、くせなき事、肝要也。惣而、武道具につけ、馬も大かたにありき、刀脇差も大かたにきれ、鑓長刀も大方にとをり、弓鉄炮もつよくそこねざる様に有べし。道具以下にも、かたわけてすく事あるべからず。あまりたる事ハ、たらぬとおなじ事也。人まねをせずとも、我身にしたがひ、武道具は、手にあふやうに有べし。将卒ともに、物にすき、物を嫌ふ事悪し》(地之巻 兵法に武具の利を知と云事)

五輪書は宮本武蔵が書いた兵法ですが

「兵書五巻」とか

「兵法得道書」とか呼ばれており


「五輪書」なる通称が一般化したのは


明治以後のことに過ぎない。


五輪書は単なる草稿であり、

(c)Productin IG/宮本武蔵製作委員会




◎「五輪書解題」 →  Enter 
A――それはともかく、このあたりからだな、剽竊だというタレコミがあったのは。
C――それは、江戸時代までは、五輪書が「兵書五巻」とか「兵法得道書」とか呼ばれていて、「五輪書」なる通称が一般化したのは、明治以後のことだということね。「江戸時代までは、おおむねこの著作は」というのは、明らかにパクったそのままだな。このへんは、語順は変えておるが、使用語句は、我々の武蔵サイトの「五輪書解題」にあるそのまま。ただし、これなら、まだよかろう。
B――しかし、「明治以後のことに過ぎません」というのは、我々の言わないことだ。明治以後のことだ、といえば済むことで、わざわざ「過ぎません」という必要はない。
C――同じことは、「さらに言えば、五輪書は単なる草稿であり」というように、「単なる」という余計な語を挟むことだな。五輪書は草稿だということは、『丹治峯均筆記』など武蔵伝記にすでに書かれている。ただし、実際に五輪書の文言を一字一句校合分析して、どのていどまで五輪書が草稿状態なのかを明らかにしたのは、我々の武蔵サイトの五輪書読解研究だな。これが出る以前には、五輪書が草稿たることは、五輪書研究でも看過されていた。
A――だから、五輪書が草稿だという所見は、まだあまり強調して論じられていない。そこで、この「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」くんがのたまう「五輪書は単なる草稿であり」という科白は、我々のサイトの「五輪書解題」からパクっておるぞ、しかも文脈を理解もしないでパクっているぞ、というタレコミがあった。
B――もちろん、五輪書は「単なる草稿」だとは、我々は言わない。武蔵が書き上げようとして、病死したため成就できなかった未完成原稿だよ。そういう認識からは、「単なる草稿」なんて言葉は、出てこない。
C――この作者は、「過ぎない」とか、「単なる」とか、ついつい空疎な強調をしたがる。ようするに、頭の弱い半可通だから、「五輪書解題」の文言をパクっても、そこに書いてあることがよくわかっていないのだよ(笑)。
――まるでわかっていないようです。それに、さっきの「五輪書は宮本武蔵が書いた兵法ですが」という箇処にしても、それをタレコミの中には、これも「五輪書解題」の文言のパクリじゃないか、ただし「五輪書は宮本武蔵が書いた兵法教本である」という文言をパクったのはよいが、粗忽にも「教本」という二文字を脱字したのではないか、という指摘までありました(笑)。
A――もしそうなら、お粗末なことだが、このアニメならありうることですな。で、この解説のオッサンはのたまうね、「したがって、武蔵が五輪書を書き上げて死んだという近代の伝説は、根拠なき謬説以外のなにものでもありません」(爆笑)。
B――やはり、ここかい、明白な剽竊だというタレコミ連中が指摘したのは。
――そういうことです。これはひどい、けしからん、というわけです。念のため、そのタレコミの指摘にしたがい、「五輪書解題」の文言と、このアニメの科白音声を並べてみましょう。
五輪書解題 宮本武蔵 双剣に馳せる夢
五輪書は宮本武蔵が書いた兵法教本である。

これが「五輪書」と云って通用する一般的通称になったのは、やはり明治以後である。江戸時代までは、おおむねこの著作は「五巻の書」とか「兵書五巻」とか、あるいは「地水火風空の五巻」とか「兵法得道書」とかさまざまな名前で呼ばれていた。

もとより、五輪書は未完成の書である。武蔵が五輪書を、心血を注いで「書き上げ」て死んだ、という近代の伝説は、むろん根拠なき謬説以外のなにものでもない

武蔵は、執筆を開始して、間もなく病に倒れ、やがて重き病の床に臥すようになった。そのため、本書は著者の死によって完成を阻止され、結局、未完成の原稿のまま残された。たしかに、五輪書が完成稿ではなく、草稿だったことは、その内容の端々に露頭している。したがって、武蔵は畢生の極意書・五輪書を「完成」させて死んだというのは、埒もない俗説である。

しかしながら、問題は五輪書自筆原本が現存するわけではないことだ。今日、目にしうる現存テクストは何れも写本であって、武蔵の原本ではない。その写本も数が多い全国に散在しまた死蔵されている五輪書写本は、それこそ数え切れないほど存在するだろう
五輪書は宮本武蔵が書いた兵法ですが、しかしながら、江戸時代までは、おおむねこの著作は、「兵書五巻」とか、「兵法得道書」と呼ばれており、「五輪書」なる通称が一般化したのは、明治以後のことに過ぎません。

さらに言えば、五輪書は単なる草稿であり、したがって、武蔵が五輪書を書き上げて死んだという近代の伝説は、根拠なき謬説以外のなにものでもありません



そもそも、五輪書には自筆原本が存在せず、私たちが現在目にしうるテクストは何れも写本であって、しかもその写本も数多く、実は、全国に散在または死蔵されている五輪書写本は、それこそ数え切れないほど存在しています
B――うーん、「武蔵が五輪書を書き上げて死んだという近代の伝説は、根拠なき謬説以外のなにものでもありません」かい。これは、「五輪書解題」の文章と文言語列までそっくりの、まったくの剽竊だが、ここまでやるかい(笑)。
A――剽窃するにしても、少しは文言を変えろ、というんだ(笑)。
C――ふん、まったくだ。つづいては、「全国に散在または死蔵されている五輪書写本は、それこそ数え切れないほど存在しています」かい。この原本と写本の話の文言も明らかな剽竊だな。
A――文言を変えたと思ったら、間違っていじっておる。五輪書写本が全国に散在し死蔵されていて、そんな死蔵本が数え切れないほど「存在するだろう」というのは、我々の推測だ。我々がまだ発掘しておらず、所在も不明だから、「存在するだろう」という推測を言っているんだよ。「存在しています」と勝手に素人が確言するなよ(笑)。
B――存在が確認できているなら「死蔵」とは言わん。この作者は何が書いてあるか、理解できとらんのよ。大学で教えている連中が、学生がインターネットからパクってばかりおるといって、歎いておるが、これはそれと同じレベルの話だぜ。とにかくひどい。劣悪だ。このあたりの五輪書の解説は、タレコミの通り、明白な文言の盗用だな。
C――この件について、引用許諾とか、申入れはあったのか。
――いえ、そういうものは一切ありません。このアニメ映画のエンド・クレジットにも、何の断りも出ていないようです。
A――だから、この武蔵サイトの閲覧者の中に、けしからん剽竊盗用だと騒ぐやつが出るんだ。
B――この作者は、司馬遼太郎の小説本の妄説をパクリまくっている。ようするに、他人の説を無断でパクって、「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」として画面に登場して、受け売りしているにすぎない。自他の見境いがない。
C――何も知らない学生生徒でなくても、素人は往々にして、自分が読んだ本に書かれていることと自分の考えとの見境いがつかなくなるものだ。もちろん、専門家ではないから、そこに書かれている論説が、研究史上どのようなポジションにあるのか、どんなステイタスをもつのか、それがわからない。そんな無知な者に、イチャモンをつけるほど我々は閑人ではない。タレコミの多くは、許しがたいというがね、まあ、この程度のお笑い駄作アニメだ、目くじらを立てることもあるまい。
B――学術論文にかぎらず、世間の通例、これほど明白な剽竊なら大ごとになるものだが、我々はそんなケツの穴の小さい事は言わない。ただ、こいつがここまでやってくれたよということは、陳列して明らかにしておけばよい。
A――タレこんだ人たちよ、これで、堪忍してやってくれ(笑)。上映差し止めとか、DVDを回収しろとか、そんな無情なことは言わんでやってくれ。
――まったくお笑い種ですが、この件がなければ、このような駄作を、ここで皆さんに論評していただくことも、ありませんでした。
A――それもたしかだ(笑)。

武蔵が五輪書を書き上げて死んだ


という近代の伝説は


謬説以外のなにものでもない。

(c)Productin IG/宮本武蔵製作委員会




九州大学蔵
吉田家本五輪書










*【司馬遼太郎】
《「さて、おだまりになっていてはわからぬ。お望みの禄高を洩らされよ」
 というと、武蔵はゆったりとした目で、声音もしずかに、
「三千石」
 といった。
 安房守は、仰天するおもいであった。三千石といえば、幕府の大目付であるかれ自身と同じ禄ではないか。
 とほうもなかった。(中略)安房守は声をのみ、押しだまってしまったが、これとは逆に武蔵は急に能弁になった。
「その三千石を一俵でも欠けてはいやでござる」
 という。安房守はいよいよことばをうしなった。武蔵は自分の名声を、禄高で計算しているのではないか。武家の禄高というのは、門地、父祖が徳川家につくした功、自分が徳川家に対してたてた武功、文功など複雑な計算要素がからまっているが、一介の牢人が、単に名声があるからといってそれだけの計算で自分の禄を希望するなど、安房守はきいたこともない。
 ――私の名声にはそれだけの価値がある。それ以下の禄高ならばむしろ恥であり、お受けしない。まして大名の家来になるなどは自分の名声とつりあわない。
 という旨のことを、武蔵はいった。
(この男、増長したのではあるまいか)
 と、安房守は武蔵の顔が気味わるくなってきた。しかし名家の出だけに、そこは顔色にも出さず、顔つきをできるだけおだやかにしてだまっていた。
 さらに武蔵は弁じた。
「拙者は、武芸だけの男ではありませぬ。武芸だけならば小野次郎右衛門の六百石相応でありましょう。しかし拙者が将来に希望するところは天下の政治の補佐をしたいことでござる。それにはどうしても三千石の身分が要りましょう。さらにはいざ軍役のときには一軍をひきい、合戦の采配をとりたい。それにはどうしても三千石の身分が要り申す」
 安房守は、力なくうなずいた。武蔵は、軍学者の安房守にむかって、自分を軍学者として評価をせよ、しかも軍学者北条安房守とおなじ禄高で推挙せよ、というのである》(『宮本武蔵』)
A――というわけで、もうここで切り上げてもよいのだが、まあ一応最後まで見ておきますか。で、五輪書に言及して、次にいうね、笑ってはいけませんぞ。なんと、「五輪書成立の必然性は、武蔵が、一生を小身なるもので終る気がなかったところにあります」(爆笑)。
B――ほんとにバカか、頭がおかしいのじゃないか、こいつは(笑)。五輪書は、漢文の素養のない者や少年でも読めるようにと、武蔵がわざわざ和文で書いた普遍的な兵法教本だぜ。ようするに、五輪書とはどういう書物か、それも知らずに、「五輪書成立の必然性」などと、見かけだけ大げさなことを言っておる。
C――こいつに「五輪書成立の必然性」などと言われると、「五輪書成立の必然性」という言葉の値打ちが暴落するね(笑)。
A――この「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」くんの科白を聞くと、生意気に小むずかしい語彙を使いたがる中学生と変らん(笑)。
C――武蔵が五輪書を書き始めた寛永二十年、武蔵は六十歳。三年前にふらりと熊本へ姿を現すと、旧知の細川家家老長岡興長につかまってだな、滞在費も細川家から支給される公式な客分として逗留することになった。堪忍分の合力米ともいうから、ようするに、兵法指南も何もしなくていいから、当地熊本に逗留して遊んでくれという結構な処遇をうける客分だ。むろん武蔵は、細川忠利の義兄・小笠原忠政(忠真)とは、播州明石以来の長い付き合いだ。武蔵が熊本へ来たとなると、細川家も客として処遇せざるをえない偉物だ。小倉の小笠原家中で四千石を食む首席家老、宮本家のご隠居だよ。それがどうして、武蔵が六十にもなって、一生を小身なるもので終る気がなかった、なんて話になるんだ(笑)。
A――武蔵は六十になっても小身だったというのかい。この四千石宮本家のご隠居が。
C――ようするに、こいつは司馬遼太郎亜流の中の劣等生なんだよ。司馬遼太郎だけでも「お笑い珍説宮本武蔵」なのに、このアニメ作家になると、唖然とするほどの無知で、しかも牽強附会の妄想を暴走させるものだから、とんでもないことを言い出す。さすがの司馬遼太郎も、ここまでアホなことは書かなかった。
B――五輪書の「一人と一人との戦も、万人と万人との戦も、同じ道なり」か、それを指して、「万と万との戦いこそ、彼が夢見たものだったからにほかなりません」(笑)。「彼が夢見たもの」だとよ、アホぬかせ。
A――もっと言いますぞ。「彼の生涯の夢は、戦場の功名によって、大名か、それに準ずる大身になることだったのです」(笑)。武蔵がどこでそんなことを言っているんだ。このあたりで、「双剣に馳せる夢」というチープなサブタイトルの意味が、明らかですな。
C――すべてがタワ言なんだよ。「武蔵の生涯の夢」だとよ。笑わせるね。用語が百円ショップ並みに安物なんだよ(笑)。
B――司馬遼太郎が、武蔵は侍大将になりたかったがなれなかった、一生その望みを追い求めたがそれを果たせなかった、なんて「挫折した武蔵」を妄想して書いた。しかし、どこにそんなことを書いた史料があるのか。そんなものはない。すべて司馬遼太郎という一作家の妄想から生じたことだ。それを、このアニメ作家はパクって、そのまま押し出しておる。
C――それは司馬遼太郎という通俗小説家のあらぬ妄想であって、武蔵とは何の関係もないことだ。いわんや、このアニメ作者のいう「五輪書成立の必然性」とは何の関係もないことだ。いつまで、この世迷い言につきあえばいいんだ(笑)。
A――まあ、まあ。「武蔵をめぐる虚構を排し、その背後に存在するであろう真実の姿を描き出すこと、それが私の研究テーマであり、この映画の主題です」と、きいた風なことをのたまうのだから、とにかくラストまで彼の珍説妄説を聞こう。つづいて、「彼は五百石クラスの仕官の口をいくつも断っており、三千石以上を理想とした」(爆笑)。
C――もう、手がつけられんな(笑)。何度もいうが、そんなことがどの史料に書いてあるんだよ。武蔵が「五百石クラスの仕官の口をいくつも断っており」というが、あんまりホラ話が過ぎるぞ。
B――「三千石以上を理想とした」、これは司馬遼太郎の小説のパクリだな。もちろん、これは司馬の妄想から出たフィクションなんだよ。それを司馬の小説的虚構だとも知らず、このアニメ作家はそれをオウムのように繰り返す。
C――武蔵が北条安房守に三千石の仕官をたのんだとは、司馬遼太郎のフィクション。だいたい、北条氏長(1609〜70)は武蔵より二十五歳も年下で、彼が旗本になったのは寛永二年、従五位安房守になったのは、武蔵死後の承応二年。武蔵が死んだあとに、二千石安房守になった北条氏長に、どうして武蔵が仕官の斡旋を頼めるかよ(笑)。
B――武蔵が、「三千石を一俵でも欠けてはいやでござる」とかね(笑)、司馬遼太郎の小説には、唖然とするようなデタラメなシーンが多い。
A――つづいては、「晩年、細川家仕官に先立って差し出した書状において、武蔵は、住居はどうでもかまわないが、出陣時の乗り替え分をふくめた馬だけは、と念を押して頼んでいます」(笑)。
B――これは前に話に出た(坂崎内膳宛)口上書のことらしいが、武蔵が晩年、「細川家仕官に先立って差し出した書状」なんてものは存在しない。この口上書なる偽書を最初に引用した『武公伝』でさえも、武公御国(肥後)逗留のいきさつは、云々ということで、武蔵が細川家に「仕官」しようとしたなどと書いていない。
C――「仕官」ではなく「逗留」なんだよ、オッサン(笑)。武蔵が晩年、細川家に仕官しようとしたなんてヨタ話は、顕彰会本の「肥後侯に仕ふ」という誤った見出しから始まった妄説だ。それに目を奪われて、武蔵が細川家に仕官したと思い込んだ戦前の小説家たちの粗忽から生じたことなんだよ。そういう経緯も知らずに、この作者はアホをぬかす。しかも、口上書が後世捏造の偽書だとすれば、「出陣時の乗り替え分をふくめた馬だけは、と念を押して頼んでいます」なんてことはありえない。
A――「念を押して頼んでいます」か、この作者の頭を通過すると、とんでもない話になる。さて、つづいて、「しかし、実際に仕官したおりには、自らの石高を決めず、客分というあいまいな立場に甘んじることをよしとし」(笑)。
B――武蔵が細川家に「実際に仕官した」なんて事実はない。そして、この「自らの石高を決めず、客分というあいまいな立場に甘んじる」とかいうがね、だいたい仕官を志願する者が「自らの石高を決める、決めない」なんてこともありえない。
A――無知の露呈ですな。昔も今も、給料を決めるのは雇用者の側だ。何をぬかすか、アホの連発(笑)。
C――客分というあいまいな立場に甘んじたという話は、これは司馬遼太郎からの脱線。司馬遼太郎は、武蔵が、「客分」というポジションをのぞんだ、それは武蔵の計算だったというわけだ。客分ということなら、食禄の多寡によって自分の名誉が左右されることはあるまいと計算したのである、と(笑)。
B――それは、武蔵の異様な自尊心からする計算だと。これは司馬遼太郎の悪意ある妄説だよ。だけど、このアニメ作家はそこから脱線して、「客分というあいまいな立場に甘んじることをよしとし」なんてアホなことをいう。
A――司馬遼太郎なら、客分は武蔵の計算の結果だが、こいつにかかると、客分は武蔵の残念な結果になる(笑)。
C――前にも話が出たように、武蔵はたまたま肥後へ遊びに来て逗留していたところ、旧知の長岡興長につかまって、細川家の客分にさせられてしまった。『武公伝』のいう岩間六兵衛も坂崎内膳も無関係だ。客分というのは、私的な滞在ではなく、公式に滞在費を支給されて滞在するということだ。武蔵のケースでは、それまで細川家に貢献はなかったのに、いきなり米三百石だよ。これが格別の処遇だったことは、尾張徳川家の柳生兵庫助が知行五百石、それと比べればわかる。知行五百石なら四分免で手取り二百石だからね。
A――島原の乱の戦費や戦後行賞もあって、細川家は財政逼迫。台所に余裕がないのに、無理をしても武蔵に合力米を支給した。
B――その武蔵は、小倉宮本家四千石のご隠居、滞在費の支給がなければ食うに困るわけではない。旧知の長岡興長が合力米をさっさと手配してしまったが、それは、武蔵が小倉からの遊客だったからだ。小笠原忠政は細川忠利の妻の兄、忠政の昔からの友人である武蔵が熊本に逗留となれば、「どうぞご勝手に」と放ってはおけない。細川家から相応の滞在費を合力米として出して、客として処遇しなければならない。かたや、武蔵の方は、そんな合力米など必要ではないが、長岡興長がお膳立てして、細川家が出すと決まったものを、「わしゃ、いらん」といって、無下に断れない。細川家は武蔵に滞在費を出さないわけにいかず、武蔵はそれを無下に断れない、それが武蔵への合力米三百石支給だった。
C――だからね、武蔵は細川家に「仕官したかった」のに、それもできず「客分に甘んじた」というのは、そのへんにある通俗武蔵本がまき散らしている妄説だよ。このアニメ作家が露呈しているのは、知的センスの劣悪と、武蔵研究に対する無知だ(笑)。
B――だいたいだな、武蔵は熊本で客死したのだが、その時の葬儀は、細川家の菩提寺・泰勝院でやった。住持の大淵和尚が葬式を執行して、しかも武蔵の墓所まで設けたようだ。
C――それは、小倉にいた養子の宮本伊織が、細川家家老の長岡監物に出した礼状だな。武蔵が死んで十日ばかり後の書状だから、話はたしかだ。しかし、殿様の菩提寺で葬式とは、一介の客人にしては、たいそうな葬礼だな。
B――夏だからな、塩漬にしてでも、小倉へ遺骸を返せばよいはずなのに、熊本では葬式をやるわ、墓所まで造営してしまう。それだけ、細川家では武蔵という人物を、下にも置かず、厚く遇していたということだ。そんな細川家の武蔵への厚遇と配慮を無視できず、おかげで伊織は、武蔵十回忌まで、墓を熊本から動かせなかった(笑)。
A――そんな事情も知らずに、このアニメでは、武蔵は細川家に「仕官」したかったが、しかたなく「客分に甘んじた」というわけだ。どうしようもないアホ話がつづくけれど、「ただし、家老にしかゆるされないはずの鷹狩りは、みとめてもらっていました」。これまた、お笑いですな(笑)。
B――この「家老にしかゆるされないはずの鷹狩り」というのは、司馬遼太郎の講釈をパクったな。しかし、実際には、鷹をつかって遊ぶというのは、何も家老にしか許されないことじゃない。ただ、多数人数を動員して大規模にやるとなると、これは特別。しかし、そうではなくて、供の者若干を連れて、鷹をつかって遊ぶというのは、何も特別のことではない。司馬遼太郎はこれを鷹狩りと勘違いしたわけだ。
A――つぎはまた呆れるね。「身分や食禄の安定は犠牲にしてまでも、鷹狩りと称して馬を駆り、山野を駆けめぐるエクスキューズを得ることに腐心した武蔵の心理がうかがえましょう」(爆笑)。
B――大真面目にそんなことをぬかす。これは、やはりお笑い喜劇アニメだよ(笑)。
C――作者が自らバカをさらして笑いをとる、という点では喜劇だな。こんなことは司馬遼太郎でも云わない。まったくの脱線だぜ。武蔵が、山野を駆けめぐるエクスキューズを得ることに「腐心した」なんてことを、ヌケヌケとよく書いたものだ。武蔵が鷹狩りの許可を得るのに「腐心した」と書いた史料があるなら、出してみろ。しかも、鷹狩りの許可を得ることに腐心した「武蔵の心理がうかがえる」とさ。どこからそんな心理がうかがえるんだい。
A――デタラメなことをいうやつだ。だいたい、武蔵の放鷹のことは、肥後系の伝記『武公伝』『二天記』にはない。筑前系の『丹治峯均筆記』にある記事だ。肥後の『武公伝』や『二天記』の著者は、そんな武蔵の鷹遊びの伝説は聞いていない。
C――『丹治峯均筆記』にあるのは、鷹狩りではなく、放鷹の遊び、「鷹をつかう」という話だ。そこを間違ってはいけない。殿様の許可がいるとすれば、それは領内の山野に自由に立入ってよい、ということだ。この伝記史料では、武州(武蔵)は、――鷹を手にして、ときどき野へ出られた。雨天でもその通りで(雨も構わず野へ出られ)尻もからげず、衣服が濡れるのもいとわず、野を徘徊されたとのことである、と。これが、武蔵伝記が記した、鷹をつかって遊ぶ武蔵のイメージだよ。むろん、大勢人数を出して、馬で走りまわるような賑やかなものではない。
B――武蔵は一人で野を歩いて鷹を飛ばして遊んでいる。もちろん供の者は若干いただろうがね。雨天でも尻もからげず、衣服が濡れるのもいとわず、野を徘徊した、というあたり、武蔵の風狂を鮮やかに描く詩的喚起力のある文章だ。むろんこのシーンでは、馬はまったく関係ないね(笑)。
C――鷹狩りというのは、司馬遼太郎が、顕彰会本に引用してある『丹治峯均筆記』の記事を誤読したわけだ。顕彰会本の引用はもともと不正確で誤記のあるものだが、それにしても、「鷹をつかう」だけのことが、司馬が誤読して「家老の特権である鷹狩り」というものに化けた。もともと笑止な話なんだよ。
B――書いてないことを読んでしまうから、妄想というんだ(笑)。そんな妄説が拡散して、このアニメの作者のような無知な者が、それをパクってそのまま反復してしまう。
A――そこで、このアニメのオッサンがいう、「武蔵は、いざ合戦になった時の馬上訓練を、どうしてもあきらめきれなかったに相違ありません」(笑)。
C――鷹を手にしての武蔵の野遊びは、「いざ合戦になった時の馬上訓練」とはまったく関係がないよ。しかし、「どうしてもあきらめきれなかった」とか、「こだわり」とか、この作者の書く科白は、暑苦しいオッサン丸出しだね(爆笑)。
A――年かさの我々爺サンでさえ、辟易とする(笑)。このオッサン丸出しは、世代的なものではなく、センスの問題だろう。
B――よく見積もっても、作者はこの分身に託して、自嘲しているわけだ(笑)。


*【武公伝】
《我等事、只今迄奉公人と申て居候所ハ、一家中も無之候。年罷寄、其上近年病者ニ成候得ば、身上何之望も無御座候。若致逗留候様ニ被仰付儀ニ候ば、自然御出馬之時、相應之武具をも持せ参、乘替之一疋も牽せ参候様ニ有之候へバ、能く御座候。妻子とても無之、老躰ニ成候ヘバ、居宅家財等之事など思ひもよらず候》(坂崎内膳宛口上書)













*【司馬遼太郎】
《武蔵の態度は慎重だった。かれは、
 「客分」
の位置をのぞんだ。これならば食禄の多寡によって自分の名誉が左右されることはあるまいと計算したのである》(「真説宮本武蔵」)









熊本城








*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候。此段乍恐、至江戸岩間六兵衛方江、以書状申上候。乍慮外、弥従貴殿様も可然様被仰上可被下候。随而書中之印迄、胡桃一箱并鰹節一箱弐百入致進上候。恐惶謹言》(正保二年五月二十九日付)





*【司馬遼太郎】
《さらに忠利は、武蔵の自尊心のために、
 ――鷹狩りをしてもいい。
 という特権をあたえた。この特権は家老だけがもっているものであり、鷹狩りをするせぬはべつとして、この小さな特権があたえられることによって武蔵は家老なみの礼遇をされているということで、そのするどすぎる自尊心は一応の充足を得るであろう。これが武蔵五十七のときである》(『宮本武蔵』)










*【丹治峯均筆記】
《其後、肥後ニ至ル。越中守殿、甚悦喜ニテ、何分ニモ望ニ任セラルベキト也。武州御答ニ、曽而仕官ノ望ナキ段ハ、異ナル貌ニテモ御察可被成。肥後ニテ命ヲ終ルベシト存罷下レリ。何方ヘモ参ルマジ。御知行ハモトヨリノ事、御米ニテモ極リテ被下不及。兵法ニ直段ツキテ悪シ。鷹ヲツカイ候様ニ被仰付候ヘト也。 越中殿、御許容アリテ、臺所辺ノ入用ハ、塩田濱之丞取マカナヒ、其身ハ曽而不存。鷹ヲテニシテ折々野ヱ被出、雨天ニテモシカジカ、尻モカラゲズ、衣服之ヌルヽヲモ無厭徘徊セラレシト也》





(c)Productin IG/宮本武蔵製作委員会

*【五輪書】
《五方の搆の事。五方の搆ハ、上段、中段、下段、右の脇に搆る事、左の脇に搆る事、是五方也。搆五ツにわかつといへども、皆人を切らむため也。搆、五ツより外ハなし。何れの搆なりとも、搆ると思はず、切事なりと思ふべし。搆の大小は、ことにより、利にしたがふべし。上中下ハ、躰の搆也。両脇ハ、ゆふの搆也。右左のかまへ、上のつまりて、脇一方つまりたる所などにての搆也。右左ハ、所によりて分別有。此道の大事にいはく、搆の極は中段と心得べし。中段、かまへの本意也。兵法大にして見よ、中段は大将の座也。大将につぎ、跡四段の搆也。能々吟味すべし》(水之巻)






顕彰会本『宮本武蔵』 明治四二年




個人蔵
兵法修練談 文政四年写












*【五輪書】
《又、一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、相手の強弱、人がらを見分け、敵の氣色にちがふ事をしかけ、敵のめりかりを知り、其間の拍子をよく知て、先をしかくる所、肝要也》(火之巻 景気を知と云事)
A――というわけで、このオッサンは、またまた牽強附会の妄想を抑制できず、武蔵の兵法を「乗馬剣法」だと言ってしまう。前代未聞の珍説ですな(笑)。そんなことを五輪書のどこに書いてあるか。このあたりは見境いのない牽強附会の乱発で、大笑いの連続なのだが、つまりは、武蔵の兵法を、なんと、「歩く馬上剣法」と名づけてくれる(笑)。こうなると、無知の暴走というしかない。
C――「歩く馬上剣法」が、具体的にどういうことかというと、ここに二刀をもたせた人形を出してくるね。人形をCGで動かすのは面白いが、これはどうみても、左脇の搆えだな。左脇の搆えで走り回らせておる。
B――変ったことをやるねえ。左手の小太刀が立ったまま働いていないし。これは左脇の搆えを知らずに、人形を動かしているな。
C――人形を広い場所で走り回らせている。武蔵は五方の構えについて、五輪書で説明しているが、それによれば、左脇の搆えは、上にも脇にもスペースがない狭い場所で遣う。つまり、そんな窮屈な場所で戦わざるをえないケースでの特殊な戦法だぜ。こんな走り回わるような場所で遣う技ではない。このアニメの作者は、他のことでもそうだが、どうも五輪書を読んでいないらしい。
A――上にも脇にも余地がない場所でのそんな特殊な戦闘法が、どうして「馬上剣法」なんだよ(笑)。
C――どうして「馬上剣法」から左脇の搆えが出てくるんだ。もし馬上で左脇の搆えで切り上げたりすると、自分が乗った馬の首を斬ってしまうぞ。それでもいいのかい(笑)。
B――よいはずがない(笑)。それに、五方の搆えのうち、人形に左脇の搆えしかさせない。他の四つの搆えはどうなんだ。とくに、武蔵が中心に据えた中段の搆えは、どう打たせるんだ。それが何もない。ようするに、これは手抜きかよ(笑)。
C――手抜きというのは、やれるのにやらないことをいう。ところが、このアニメは、武蔵の五方の搆えの戦い方を知らない。知らないものはできない。知らないのにやると、この人形のCGのようにアホなことになる(笑)。
A――呆れているうちに、つぎに行きますよ(笑)。ここで日露戦争の白兵戦の話を持ち出して、あれこれ述べているが、そのあたりの俗書の謬説を読み囓って受け売りしているだけ。そして新渡戸(稲造)の『武士道』と国策云々の話は、このアニメ作家の粗雑な空想。
C――事実関係とはまったく無縁のことだ。無視すればよい。しかし、明治末の宮本武蔵遺跡顕彰会本『宮本武蔵』(明治四二年)を出してくるね。そこでまた、いいかげんな事を口にして、付け焼刃の無知を露呈しておる。
B――顕彰会本の武蔵伝記をもとにして、武蔵が講談の主人公に採用され、立川文庫のシリーズで『宮本武蔵』が出たとかいう話。出しているこの画像を見ると、たしかに野花散人の『宮本武蔵』(明治四四年)だな。
A――すると、立川文庫の『宮本武蔵』が、顕彰会本の武蔵伝記をもとにしていると、この解説のオヤジは云っているわけだ。そんなことがあるわけがない(笑)。
C――ここでも無知をさらしている。立川文庫の『宮本武蔵』は、多少新しいアレンジもあるが、基本的には、江戸時代からいくつかある「武蔵が父の敵を討つ」という敵討巌流島物の一種だよ。武蔵の父は宮本武左衛門で小笠原家の家臣、師匠は江戸小石川の石川郡東斎。武蔵の父・武左衛門が佐々木岸柳に闇討ちにされた。武蔵は父の仇の所在を尋ねて諸国を探し廻り、ついに「寛永七年七月二十七日、小倉の海上豊前嶋において」、あっぱれ岸柳を討ち果たす。――こんな敵討物がどうして、顕彰会本の武蔵伝記なんだ(笑)。
B――ようするに、顕彰会本『宮本武蔵』も立川文庫本『宮本武蔵』も読んでいない。だからそんなアホをいい出すんだ。読んでもいないのに、いいかげんな事をいって、ハッタリをかます。そのへんは司馬遼太郎流の忠実な亜流だぜ(笑)。
A――まあしかし、顕彰会本の伝記をもとに、講談本の武蔵が生れたなどというアホなことをいう。顕彰会本以前に江戸時代から武蔵物講談はいくつも出ているよ。顕彰会本は、それらを虚構だと批判して出てきた近代伝記だ。
B――立川文庫の『宮本武蔵』が出たので、それ以後、宮本武蔵の名が「固有名詞」として庶民に知られるようになったというのも、訳のわからん珍説だ。
A――「固有名詞」ねえ。この作者は他でもそうだが、用語法がデタラメだ。
B――とにかく頭が悪い文章なんだよ(笑)。しかし、明治末の立川文庫以来、宮本武蔵の名が庶民に知られるようになったとは、アホな妄説だな。歌舞伎・浄瑠璃や小説本のポップカルチャーを通して、宮本武蔵の名は江戸時代から庶民に知られていた。十八世紀後半には、子供だって知っていたんだぜ。だから、話は逆で、立川文庫は、すでに長い間庶民に人気のあった宮本武蔵だから、シリーズに加えたんだ。無知なタワ言を連発するのもいいかげんしろ(笑)。
C――まったく、呆れてあいた口がふさがらん。武蔵について何も知らんのに、「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」と称して講釈をするが、およそ自分の無知をさらすばかり。これはやはり、滑稽なバカを演じて笑いをとろうとしているとしか思えんな(笑)。
A――このアニメは、それじたいが滑稽な喜劇なんだ。そんなお粗末な喜劇を演じるアホが、ここでまた滑稽にも、「宮本武蔵の実像」とか言い出しましたな。
C――ここまで見たところで、あれこれ指摘したけれど、これだけ武蔵について無知で、司馬遼太郎のフィクションからパクるしか能がないやつが、分もわきまえず、「宮本武蔵の実像」とはよく言えたもんだ。
B――自分が虚構に乗っかっているのも知らず、「武蔵をめぐる虚構を排し、その背後に存在するであろう真実の姿を描き出す」とか言ってもいたしな。まあ、どうでもいいことだけど、さっき「先をしかくる所肝要也」のところで、浪曲の語りが、「先(せん)」を「さき」と言わなかったか?
A――よく聞こえなかったけれど、そこはたしかに「さき」をしかくるとか、読んでいたな。どう?
――はい。たしかに、「せん」ではなく「さき」でした。読んでいるのは細川家本のようですから、もちろん前の語句が間違っていますが。
B――ふん。よく聞こえなかったが、そうかい。しかし、「先」を「さき」と読ませてしまうようでは、この作者は、剣術用語も知らないということだな。そんな無知な者が、武蔵の姿恰好をして、観客に講釈を垂れる。おそるべき滑稽だよ(笑)。
A――で、「宮本武蔵の実像」ということでしたな。ここで場面は、例の「一乗寺下り松の決闘」に変る。
B――「一乗寺下り松」というが、このオッサンは、いつから決闘現場が「一乗寺下り松」になったのか、知っておるのか。
A――そんなこと、知らんでしょう。何しろ司馬遼太郎の小説を読んで、分をわきまえず、「宮本武蔵の実像」とか言い出すやつなんだから。
C――京の吉岡一門との対戦の三番目は、「洛外下り松」。これは、小倉碑文が初出。『丹治峯均筆記』のような筑前系伝記でも同じく「洛外下り松」。肥後系伝記『武公伝』でも、本文は「洛外下り松」。ただし、そこへ「一乗寺村藪里ニアリ」と割註して、豊田景英が加筆している。そして、『二天記』では、本文に「洛外一乗寺村藪ノ郷下リ松ト云處」と書いている。だから、もともと「洛外下り松」としかなかった記事を、一乗寺村の下り松にしてしまったのは、豊田景英の段階。ようするに、武蔵死後百数十年たった、十八世紀後期に発生した話だ。
B――その一乗寺村は、鴨川の東のずっと先の在の村だ。「洛外」というのは御土居の外、その近辺という意味だ。もし「洛外下り松」なら、他に候補がある。
A――武蔵が「一乗寺」下り松で戦ったというのは、もともとあった話ではない。十八世紀後期にできた話で、それ以前には遡ることはできない。これは最低限知っておくべきことだ。
C――現在、一乗寺に「宮本吉岡決闘地碑」が建っておるが、いうまでもなく、これは近代の建碑。大正十年に堀正平が私費を投じて建碑したものだ。表に「剣道師範堀正平書并刻」と記している。
A――まぎらわしいことを、してくれたものだ(笑)。
B――たしかにな。間違った善意の事業というものもある、という例だ。それよりも、前に話に出たように、ここで、武蔵が、吉岡清十郎の子・又七郎を斬殺したというのは、肥後系伝記のフィクション。
C――武蔵が、「幼童」吉岡又七郎を斬殺したというのは、司馬遼太郎がデッチあげた嘘(笑)。
A――それをパクって、能書きを垂れているこのアニメ作家はアホか(笑)。たしかにこのアニメでは、吉岡又七郎はいたいけない子供、幼童の姿で登場。これで、ほかならぬ司馬遼太郎の捏造妄説をパクったのが歴然としている。
B――しかし、そのアホな作者の分身は、この一戦で、「武蔵の緻密な軍略家としての顔がうかがえる」とぬかしておる(笑)。
A――まあ、これは司馬遼太郎の小説本のパクリというよりも、そのへんの通俗武蔵本が書いていることを頂戴しておるようですな。
C――司馬は最初、「みごとな喧嘩のうまさである」(「真説宮本武蔵」)と書いていたが、後のもの(『宮本武蔵』)では、この場面にわざわざコメントを追加している。――その将がたとえ幼童でも、吉岡の一軍が将と仰いでいるかぎり将である。将を斬れば戦いは勝ちというのが古来の法であるかぎり、武蔵の論理にくるいはない、云々。
B――だから、司馬遼太郎のフィクションだと、真っ先に大将首をとった武蔵の作戦勝ちという程度だが、このアニメ作者は、「武蔵の緻密な軍略家としての顔」がうかがえるなんぞと、大げさなことをいう。しかし、この洛外下り松の一戦については、「武蔵の緻密な軍略家としての顔」がうかがえるような具体的な記録は存在しない。だいいち、吉岡又七郎を斬り殺したなんて話は、肥後系伝記以前にはない。
C――この一件の初出は小倉碑文だが、そこには、――(清十郎と伝七郎を武蔵に打倒されて)吉岡の門生たちは怨恨を抱き、密に語り合って云った、「兵術の腕では、とてもかなわない。作戦を練ろう」と。そうして、吉岡又七郎が、兵術にこと寄せ、洛外の下り松あたりに彼の門生数百人を集め、武器弓矢をもって一気に武蔵を殺そうと考えた。武蔵は常日頃、先を知る才があり、この不正な策動を察知し、ひそかに自分の門生に云った、「おまえたちは関係ない人間だ。速やかにここを退け。たとえ、かの怨敵が群を成し隊を成すとしても、おれから見れば、浮雲みたいなものだ。どうして恐れることがあろうか」と。武蔵が多数の敵を蹴散らすのは、猟犬が猛獣を追いたてるのに似ていた。武蔵が威を震って洛中に帰ると、京都中の人が皆これを感嘆した。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、実に兵家の妙法なり、云々。
B――もちろんここには、吉岡の門人数百が洛外下り松あたりに結集して、武蔵を殺そうと謀ったが、武蔵はそれを察知して、むしろ自分の門人を立ち去らせ、一人で戦って、吉岡の門人どもを蹴散らしたということ、それ以上の情報はない。小倉碑文以後の伝記は、この記事にフィクションの枝葉を茂らせただけのもので、固有の新情報があったわけではない。
C――だから、このアニメ作家は、「武蔵の緻密な軍略家としての顔」がうかがえるなんぞと、まるで見てきたように大そうに云うが、ようするに、これは嘘言の類いだ(笑)。現存史料によるかぎり、洛外下り松の一件で「武蔵の緻密な軍略家としての顔」がうかがえるわけがない。
A――それで、つづいて、「武蔵は、この吉岡一門との戦いについて、晩年にいたるまで何度もくり返して口にしたと言われています」。しかし、「と言われています」というが、いったいだれが、そんなアホなことを言っているの?(笑)。
B――そんなアホなことを言いそうなのは、司馬遼太郎(笑)。彼は、武蔵はそのまま京をすてていると、ありもしないことを書いている(『宮本武蔵』)が、それにつづいて、武蔵は行くさきざきで、「吉岡方百人と戦い、打ち勝った」といった、と書く。アニメ作家の先ほどの科白は、出所はこのあたりか。
C――ほんとはそれよりも、肥後系伝記『武公伝』『二天記』にある、「事にのぞんで心を変えないこと」という教訓話だな。武公がつれづれの談話に語ったというのは――、「事に臨んで心を変えないことは実に難しい。おれが昔、吉岡又七郎と、洛外下り松で会して勝負を決しようと約束したときのことだ」云々と、一人称で武蔵に語らせる説話。
B――それは『武公伝』では、道家七郎左衛門の語り伝えということになっているが、説話本体は、――途中、八幡の社前を通った。思うに、「おれは幸いにも、思いがけず神前に来た。まさに勝利を祈るべし」と、社檀に詣るに及び、恭々しく鰐口の紐をとってまさに打ち鳴らそうとして、突然思った、「おれは、常づね仏神を信仰せず。しかるに今、この難を憚って頻りに敬祷しようとしている。神はそれを受けるだろうか。ああ、おれはおじけたのか」と。そこで、鰐口の紐をおいて孜々として社壇を下りた。慙愧の汗が流れて踵に達した。かの神前のことを思うに、いわゆる「莅事不變心」〔事にのぞんで心を変えない〕ことは、本当に難しいことだ、――という話。これに、吉岡又七郎との斬り合いその他、尾ひれをつけたのが、『二天記』の豊田景英。
C――もちろん、ここでは、「そのとき、おれは突如として起って、彼らに向い、「武蔵は待っていたぞ」と大声で声をかけた。又七郎は驚いて、刀をまっしぐらに切りかける。おれは、又七郎が斬ってくるところを、下から突きあげる。又七郎はひるみながら切りつける。それを乗りかわって一撃に斬り殺した」とある。だから、肥後系伝記『武公伝』では、吉岡又七郎はまともに武蔵と斬り合いを演じているのであって、武蔵があっという間に「幼童」又七郎の首をすっ飛ばしたなどというのは、司馬遼太郎の創作。
B――とにかく、肥後系伝記は、後世の説話増殖が著しい。小倉碑文の説話祖形にもどれば、そんなディテールは本来存在しない。武蔵が多数の敵を蹴散らすのは、猟犬が猛獣を追いたてるのに似ていた。武蔵が威を震って洛中に帰ると、京都中の人が皆これを感嘆した、と記すのみ。
A――だから何度もいうように、この対吉岡一門第三戦に関して、「武蔵の緻密な軍略家としての顔」がうかがえるような史料は、どこにもない。よろしいかな、「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」くん(笑)。



*【小倉碑文】
《吉岡門生含寃密語云、以兵術之妙非所可敵對、運籌於帷幄。而吉岡又七郎寄事於兵術、會于洛外下松邊。彼門生數百人以兵仗弓箭、忽欲害之》

*【丹治峯均筆記】
《吉岡ガ門人等、冤ヲ含ンデ密ニ相議シテ曰、「兵術ヲ以テハ敵シガタシ。大勢取圍ンデ打果スベシ」トテ、吉岡又七郎、事ヲ兵術ニヨセ、洛外下リ松ノ辺ニテ會ス。門人等数百人、鎗薙刀弓箭ヲ取テ出向フ》

*【武公伝】
《因之吉岡ガ門弟冤ヲ含、清十郎ガ子又七郎ト、事ヲ兵術ニ寄テ、洛外下松ノ邊ニ會シ、彼門生數百人、兵仗弓箭ヲ以テ欲害之》
《事ニ莅〔のぞみ〕テ心ヲ不変事、實ニ難シ。我先年吉岡又七郎ト、洛外下リ松[一乘寺村藪里ニアリ]ニ會シテ勝負ヲ決セント約ス》

*【二天記】
《武藏或時打話ニ、事ニ莅ンデ心ヲ不變コト、實ニ難シ。我先年、吉岡又七郎ト洛外一乗寺村藪ノ郷下リ松ト云フ處に會シ、勝負テ決センコトヲ約ス》




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*【小倉碑文】
《吉岡門生含寃密語云、以兵術之妙非所可敵對、運籌於帷幄。而吉岡又七郎寄事於兵術、會于洛外下松邊。彼門生數百人以兵仗弓箭、忽欲害之。武藏平日有知先之歳。察非義之働、竊謂吾門生云、汝等爲傍人速退、縱怨敵成群成隊、於吾視之如浮雲、何恐之有、散衆敵也。似走狗追猛獣、震威而帰洛陽。人皆感嘆之。勇勢知謀、以一人敵万人者、實兵家之妙法也》












*【司馬遼太郎】
《武蔵は、そのまま京をすてている。ゆくさきざきで、
 ――吉岡方百人と戦い、打ち勝った。
 といった。そのとおりであろう。吉岡方はたしかに百人ちかい人数をまくばっていたし、弓鉄砲まで用意していた。しかも負けた。なぜならばその将を斬られた。
 その将がたとえ幼童でも、吉岡の一軍が将と仰いでいるかぎり将である。将を斬れば戦いは勝ちというのが古釆の法であるかぎり、武蔵の論理にくるいはない。
 無能ほどむざんなものはないであろう。吉岡方はむしろ武蔵のために懸命のお膳だてをしたようなものであり、武蔵はその武略をもって事実がそのように変質するようつとめた。ただの兵法使いではない》(『宮本武蔵』)

*【武公伝】
《路ニ八幡ノ社前ヲ経、憶、「我幸ニ不圖シテ神前ニ來レリ。當祈勝利」ト、及詣社壇、恭テ鰐口ノ紐ヲ執テ將ニ打鳴サントス。忽チ思フ、「我常ニ佛~ヲモ不信仰、而今此難ヲ憚テ頻ニ敬祷ス。神其受ヤ、諸吁怯矣」。即チ其紐ヲ措テ、孜々トシテ下壇、慙ヂ愧ヂ汗流レテ踵ニ至ル。直ニ驅テ到下松。夜未曙、寂々トシテ松陰ニ佇ム。少焉テ、又七郎門弟数十人ヲ將ヒ提燈來リ、行々言フ、「定テ知ンヌ、彼レ又遅々トシテ約ヲ脱セン」ト。時ニ我忽爾トシテ起テ迎ヒ、「武藏待得タリ」ト高声ニ呼フ。又七郎駭テ、刀ヲ眞シグラニ切ル。我又七良ガ斬處ヲ下ヨリ中リ上ルニ、又七良ヒルミナガラ切付ルヲ、乘替ツテ一撃ニ斬弑ス》










*【小倉碑文】
《爰有兵術達人。名岩流。与彼求決雌雄。岩流云、以眞劔請決雌雄。武蔵對云、汝揮白刄而尽其妙、吾提木戟而顕此秘。堅結漆約。長門与豐前之際海中有嶋、謂舟嶋。兩雄同時相會、岩流手三尺白刄來、不顧命尽術。武藏以木刄之一撃殺之。電光猶遲。故俗改舟嶋、謂岩流島》

*【姉小剣妹管鎗敵討巌流島】
   佐々木巌流  (藤川)半三郎
   月本武蔵之助 (坂東)彦三郎
(四ツ目 佐々木巌流が武蔵之助に対面し弟子にしてくれと頼む場面)
〔武蔵〕 ハア。ついどお目にかゝつた義もござらぬ。なれぱお近付で有ふよふもなし。最前の働、由緒有ルお方と少し床しう存ますル。先どなたでござりますルぞ。
〔巌流〕 私義は佐々木巌流と申者でござる。
〔武蔵〕 フム。承り及びました伊与の城主三好式部太輔様の御家人、佐々木巌流殿でござるなア。
〔巌流〕 面目もない御対面申ますル。
〔武蔵〕 ハテなア。






「佐々木」巌流 武稽百人一首
A――さて次に、巌流島決闘の話へ移りましたな。アニメのオッサン曰く、「しかし、その一方で、彼の存在をもっとも有名にした佐々木小次郎との伝説的な果し合いについては、ほとんど語ることはありませんでした」(爆笑)。
B――どう言えばいいのかね、こういう類いは。平成になって二十年以上もたって、まだ、巌流島決闘での武蔵の相手が「佐々木小次郎」という名だと思い込んでいるやつがおるとはね。信じられん事態だ。
C――このアニメ映画がフィクションだというなら、「佐々木小次郎」でも何でもかまわん。さっきの井上ひさしの芝居「ムサシ」のケースはそういうことだ。しかし、このアニメ映画が「武蔵をめぐる虚構を排し」というノンフィクション仕立てである以上、「佐々木小次郎」はありえない。
B――フィクションと伝記的事実の違いがわからんのよ。「武蔵をめぐる虚構」を排するといいながら、武蔵の相手を「佐々木小次郎」にしてしまう。その名こそが「武蔵をめぐる虚構」の最たるものだろが。
C――「佐々木小次郎」が虚構の名だということを知らない。最初、小倉碑文では、武蔵の相手は「岩流」だ。これをうけた『武芸小伝』でも「巌流」。つまり姓は記さない。これに対し、「小次郎」という名は、たぶん長門下関あたりの民間口碑から出たもので、かなり早期に出ておる。筑前の武蔵伝記では「津田小次郎」、肥後系伝記でも「巌流小次郎」だ。そこで我々の研究でも、とりあえずこれを早期伝承名称とみなして、「小次郎」名も採用している。ところが「佐々木」姓の方は、十八世紀中期の歌舞伎・浄瑠璃といった演劇だね、戯作者が「佐々木巌流」と命名した。それ以後、草紙小説を含めて、ポップカルチャーのシーンでは、武蔵の相手は「佐々木」姓と決まった。
B――そうして、武蔵物文芸で「佐々木巌流」が有名になると、「小次郎」という名に「佐々木」姓を付けるケースも現れた。十八世紀後期の『二天記』が付記で拾っている一説は、それだね。それで、「佐々木小次郎」という名が発生したのは、十八世紀後期だと知れる。それ以前には、「佐々木小次郎」はどこにも存在しない。しかもそれ以後も世間では「佐々木巌流」であって、「佐々木小次郎」は出てこない。
C――ところが、明治末の顕彰会本の筆者が、何の注釈も留保もなく、「佐々木小次郎」と書き出した。これを見て、小説家たちが「佐々木小次郎」と書くようになった。他方、講談などでは、昭和になっても、相変わらず、江戸時代以来の「佐々木巌流」もしくは「佐々木岸柳」だった。それを「佐々木小次郎」で制覇してしまったのが、昭和戦争期の吉川英治『宮本武蔵』の大人気。以後、巌流島決闘での武蔵の相手は、大衆文芸の世界では、「佐々木小次郎」という名になってしまった。
A――そんなわけで、巌流島決闘での武蔵の相手の名は、本来「佐々木」小次郎ではない。「佐々木」小次郎が武蔵の相手の名として流通するようになったのは、明治末以来のことだ。それを知らんのか、この「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」くんは。
B――知らんだろうね、このオッサンは(笑)。だから、武蔵の相手が「佐々木小次郎」という名だ思い込んでいる。しかし、それよりも、この「彼の存在をもっとも有名にした佐々木小次郎との伝説的な果し合い」というが、これは、いったい何を言いたいんだ?(笑)。
A――話が胡乱なので、はっきりしないが、どうやら、六十余度という武蔵の数多くの勝負の中でも、この巌流島決闘こそが武蔵を有名にした代表的な決闘勝負で、しかも、この決闘が武蔵生前から有名だったと錯覚しているらしい。
C――巌流島決闘が有名になったのは、武蔵が死んで百年も後のことだ。伊織が建立した小倉の武蔵碑、その碑文を、十八世紀はじめの『本朝武芸小伝』が引用したことがきっかけだろう。この本が巷間流布して、そのうち十八世紀中期に、歌舞伎など演劇界で、この巌流島決闘をハイライトシーンにする武蔵物作品が生れた。これがまず上方で大当たりして、それで、巌流島決闘が有名になった。だから、巌流島決闘が有名になったのは、武蔵が死んで百年後のことだ。
A――武蔵が生きていた頃は、地元関門海峡周辺を除けば、巌流島の決闘は大して知られていなかっただろう。決闘現場に「巌流島」という名がついたほどだから、関門海峡周辺のローカルな伝説口碑はあっただろうが。
B――宮本伊織が武蔵十回忌に建碑した碑文(小倉碑文)に、目の前の関門海峡の舟島のことだから、その決闘事蹟を記録した。ところが、後にそれが意外にも演劇や小説等のポップカルチャーを介して全国に知られるようになった。もともとは、それが始まりよ。小倉の碑文にこの決闘事蹟が記されなかったら、下関周辺の局地的な口碑伝説としてのみ存在したことだろう。決してメジャーな事蹟になることはなかっただろう。
C――だから、巌流島決闘が宮本武蔵の名を有名にしたのはたしかだが、それは武蔵死後百年もたってからだ。そんな決闘事蹟について、生前の武蔵が語るはずがない(笑)。
A――話が頓珍漢。しかし、このアニメのオッサンは、「佐々木小次郎との伝説的な果し合いについては、ほとんど語ることはありませんでした。それはなぜだったのか、いよいよその謎にひとつの解答を見出す時がきたようです」(笑)と、またまたアホな問題を設定して大見得をきる。
B――その設問がアホをさらしておるというんだ。武蔵が、巌流島決闘について何も語っていないのは、六十余度勝負のうちの一つにすぎなかったからだ。それ以外に理由はないよ。
A――で、その巌流島決闘がいつかというと、このアニメだと「一六一二年四月一三日」(笑)。笑い事ではなく、字幕にそう記している。
B――そのように「一六一二年四月一三日」と書いてしまう、こいつは、高校生でも知っているグレゴリオ暦と和暦の相違を知らんのか。
A――知らんのよ(笑)。知っておれば、こんな初歩的なミスがあるわけがない。
C――我々も「慶長十七年(1612)」と書くことがある。これは、慶長十七年が、西暦では、1612年にほぼ相当するという意味あいだ。同じ慶長十七年でも、年末の月だと、西暦では1613年になってしまうからね。そこで、もし「一六一二年四月一三日」と書くと、それは西暦のことで、慶長十七年の四月十三日を指すものではない。慶長十七年四月十三日は、西暦では、1612年5月13日だ。このケースだとひと月はちがう。
B――まあ、相変わらずバカげた無知をさらしているわけだが、ここは「慶長十七年(1612)四月十三日」と書くべきところだった。もし「一六一二年」と西暦で書くなら、日付は「五月一三日」だ。「一六一二年四月一三日」と、字幕にまで出すバカがどこにおるか。
C――ここにおったのよ(笑)。だけど、「四月十三日」というのは、『二天記』が決闘前日の長岡佐渡宛書状という偽書を提示して、その日付を四月十二日と書いている、そのことから、巌流島決闘が四月十三日ということになったのであって、『二天記』以前にはそんな話はどこにもない。筑前系伝記『丹治峯均筆記』などは、「頃は十月のことにて」と記す。十月は初冬。季節がまるで正反対(笑)。
B――肥後系伝記は何でも逆にしてしまう(笑)。それに加えて、この決闘を武蔵二十九歳の慶長十七年とするのも、肥後系伝記のみのことで、これは肥後ローカルな伝説だな。
C――筑前系史料だと、下関周辺の口碑を採取した『江海風帆草』の記事が元禄以前で、最早期のものだが、それによると、武蔵は十八歳。同じ筑前系武蔵伝記『兵法先師伝記』も十八歳。すると、この決闘は慶長六年(1601)ということになる。そして『丹治峯均筆記』だと、武蔵十九歳で一年違う。しかし、まあ、筑前では肥後とはちがって、巌流島決闘は、慶長六、七年(1601/02)、武蔵十代の事蹟なんだよ。
B――だから、従来支配的な武蔵二十九歳説は、肥後ローカルな伝説だとして括弧に入れる必要がある。筑前と肥後だと十年も隔差がある。したがって、この件は目下収拾不能だということ。そういう事態は認識すべき最低条件だ。
A――そんなミニマムな条件さえ、このアニメ作家は知らない。
B――司馬遼太郎の武蔵、「司馬武蔵」のアナクロな亜流でしかないからな。ところで、この小次郎に対する武蔵、どうして両手で木刀を握って正眼に搆えているんだ。これは現代剣道の試合かよ(笑)。
C――武蔵は片手流だと、読み囓った本を受け売りして言ったくせに、両手で木刀を握って正眼に搆えさせる。それこそ矛盾しておる。ここは、片手で右脇に捨てて持たせなければ。
A――史料によっては五尺ともいう長大な木刀だ。筑前二天流には、武蔵が五尺木刀を片手で自由に振ったという伝承もある。
B――ようするに、長大な木刀だから、片手で右にひっさげてもつ。両手で大木刀を握って正眼に搆える武蔵なんて、これはナンセンスな、アホ丸出しの作画だぜ。
C――それに、正眼に搆えている武蔵の姿に、鞘がみえる。どう見てもこれは脇指の鞘じゃないな。すると、武蔵は刀を差したまま、大きな木刀をふるったのかい(笑)。それからもう一つ、武蔵をジャンプさせて、小次郎を打たせるというのは、これも昔からあるキッチュな通俗的シーン(笑)。このアニメには、いわば従来の映像に対するクリティシズムがない。何の考えもなしに、武蔵をジャンプさせておる。
B――このアニメだと、小次郎の背景に九曜紋の幕がみえるから、小次郎が細川家をバックにしているという設定だな。これは顕彰会本から「吉川武蔵」への路線だ。その顕彰会本は『二天記』をベースにしている。しかし、肥後系伝記『武公伝』『二天記』には、武蔵がこのときジャンプしたとは書いていない(笑)。
A――小次郎の切先が武蔵の鉢巻の結び目を切り落したなんて、バカなことを書いている肥後系伝記でさえ(笑)、武蔵がジャンプしたとは書かない。だいたい、飛び足、からす足、はねる足、等々の奇矯な足遣いを却下した武蔵が、大木刀をひっさげているのにジャンプなどするか(笑)。
C――何というかね、何も考えていないアホな画像なんだよ。人形に左脇の搆えをさせて動かしている前のシーンにしてもそうだが、ようするに、武蔵流兵法を知らない素人が作画しておる。映像製作時に、だれか考証役を付けなかったのか。
A――チェックできる人間がいなかったようですな。では、つづいて行きますよ。
 
なぜ武蔵は、巌流島の決闘について語ろうとしなかったか。それは、武蔵が自らを、剣の技にひいでた一介の職人的剣士ではなく、そうした剣士の集団を馬上にて指揮する将とみなしていたからにほかなりません
 
B――もういい加減にしろ、だぜ。ここまで、このアニメ作家は、武蔵の異様なまでの馬へのフェティシズムこそが、二刀流を生んだとか、五輪書成立の必然性は、武蔵が一生を「小身」なるもので終る気がなかったところにあるとか、彼の生涯の夢は、戦場の功名によって、大名か、それに準ずる大身になることだったとか、その他あれこれタワ言を乱発してきたが、とどのつまりは、これだ。
C――どうも頭が朦朧体だからこんな譫妄的言説が出るらしいな(笑)。なぜ武蔵は、巌流島の決闘について語っていないのか。それは、何度も言うようだが、六十余度勝負のうちの一つにすぎなかったからだ。
A――小次郎が、武蔵にとって特記すべき相手ではなかったとからだ、とも言える。五輪書には、十三歳の時の新当流有馬喜兵衛、十六歳の時の但馬国秋山、この二人の名を出している。これはすでに六十歳になった老人が思い出す、若年の頃の相手だ。それに対し、二十一歳の時上京して戦った「天下の兵法者」たちについては、吉岡を含めて名は出さない。そんな五輪書に、長門下関の沖の小島で戦った相手のことを記すわけがない。
B――『江海風帆草』だと、武蔵は後に、あの時はおれも十八歳で、兵法も未熟、ひとえに血気の所作、心に叶わぬ事どもなりと言ったそうな、とある。武蔵には勝ち方に不満があったというような伝説を書きとめておる。
A――武蔵が兵法未熟なのに勝ってしまったのが、巌流島決闘(笑)。
C――武蔵が巌流島決闘について語ったという早期の史料は、その程度だな。それも、『江海風帆草』が採取した民間口碑だから、すでに伝説の閾にあるが。




巌流島





*【江海風帆草】
《巖流嶋の仕合ハ、いまだ十八歳の時にて、兵法も未熟、ひとへに血氣の所作、心に不叶事共也と、武藏後年に申けるとかや》

*【丹治峯均筆記】
《弁之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事。巖流ハ流義之称号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ。其比弁之助ハ津ノ國邊ニアリ。隨仕ノ輩モアリトカヤ》




(c)Productin IG/宮本武蔵製作委員会








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*【五輪書】
《生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず》(地之巻)




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「新免武蔵玄信二天居士碑」




A――もうとっくに付き合いきれないのだが、ラストに近いタワ言を拾っておきますか。「彼の心をついぞ支配したもの、それは最初から最後まで一貫して合戦だったのです。極論すれば、武蔵の戦いは、そのすべてが関ヶ原の雪辱戦であったと言っても、過言ではないでしょう」(笑)。
B――笑わせるな。武蔵の「関ヶ原コンプレックス」かよ。まあ、タワ言だな。
C――武士の任務は、古来、合戦に勝つこと。だから兵法教本である五輪書は大分の兵法(合戦)のことを書いている。合戦でどのようにして戦うか、それを教えている。事実はそれだけのことだ。
A――「武蔵の戦いは、そのすべてが関ヶ原の雪辱戦であった」、たしかにこれは「過言」ではない。ただし、譫妄状態のうわ言だ(笑)。
B――「極論すれば」「と言って過言ではない」、これは空疎な強調で贅言文飾だな。「過言ではないでしょう」と尻つぼみになるのなら「極論」するな、このバカめ(笑)。惣体、この作者は作文技術も未熟だ。それから、いま何と云ったか。
A――つづいては、「馬上の合戦を夢見つづけた男が、小次郎を打ち倒した時、その心に去来したものは、何だったのでしょうか」(笑)。
C――武蔵が「馬上の合戦を夢見つづけた男」か、笑わせるのはもう勘弁しろよ(笑)。それに、この「G線上のアリア」はなんだ。こんなセンチメンタルなコンテクストで、バッハを使うな。
B――通俗の極みだ。センスが悪すぎる。
A――「武蔵の理想、それは、天下分け目の合戦が再び起きた時に、二つに分かれた天を一にするための流派だったのです」(爆笑)。
C――ほんとに、もう勘弁しろよ。笑い死にさせるつもりか(笑)。だいたい、天が二つに分かれるかよ。天は常に一つだよ。分裂対立するのは、地上の人間どもだ。ほんとに教養のない、どうしようもないやつだ(笑)。
B――これは字幕にも出しているから、「二天一流」のことを言いたいらしい。武蔵は「二天」と号した。すると何だい、その「二天」というのは、二つに分かれた天なのかよ(笑)。そんなアホな意味で、武蔵は「二天」号を使ったのではない。「二天」というのは、日月、太陽と月、その陰陽二つの天体のことだ。この名号には朱子学はじめ宋儒の自然学が背景にある。
C――とにかく、「二天一流」とは、二つに分かれた天を一にするための流派だというのは、極め付きの無知な妄言だな。司馬遼太郎の珍説宮本武蔵でさえ、そこまでのアホは言わない。
A――司馬遼太郎はそこまでアホではない(笑)。もう終りだから、どんどんそのアホを確認していきましょう。「時代錯誤とわかりつつも、そのこだわりを、その夢を、どうしても捨てられなかったという点は、他のすべてにおいて徹底して合理的だった武蔵の、たった一つの、しかし最大の非合理だったと言えるかもしれません」(笑)。
B――勝手にタワ言をぬかせ(笑)。だけど、「こだわり」とか「夢」とか、「どうしても捨てられなかった」とか、そんな俗悪でセンチメンタルな、暑苦しいオッサン丸出しで、武蔵を語るな(笑)。
C――「そのこだわりを、その夢を、どうしても捨てられなかった」という文言の陋劣さね。そんなケチな物差しで、安く武蔵を計るな。武蔵がそんな「こだわり」や「夢」をもっていて、どうしても捨てられなかったなんて、いったいどんな史料に書いてあるんだ。これは私の妄想です、いや司馬遼太郎の珍説小説からアイディアを盗用して、ウェットに加工してみました、と正直に言ったらどうなんだ(笑)。
A――本人は、名句を吐いたつもりでいるようだが、「他のすべてにおいて徹底して合理的だった武蔵の、たった一つの、しかし最大の非合理だったと言えるかもしれません」だね、お笑いなのは。
C――もちろん、ここまでのタワ言をみれば、武蔵の合理思想なんて、このご本人には少しもわかっていないさ。ここで「非合理」(absurdus)があるとすれば、そのバカげたこととは、武蔵が「こだわり」や「夢」をもっていて、それをどうしても捨てられなかったと主張する、このアニメ作家の暴走する妄想だぜ。
B――その妄想には何の根拠もない。典拠は、武蔵関連史料どころか、戦後の司馬遼太郎の小説。しかも、司馬遼太郎が敷設した路線から、ぶざまに脱線して転げ落ちてしまっておる。
A――このアニメ映画の結語だが、「宮本武蔵、究極の非合理を胸に宿した究極の合理主義者が、自己鍛錬をつきつめて至った究極の境地」。
B――こんなメロメロな文言、恥かしげもなく、よく出せるな(笑)。これが笑いをとるための冗談ではなくて、本気で書いているすれば、まったくセンスが悪い。
C――もういいだろ。我々はこのアニメ作家のタワ言に付き合いすぎた。時間の無駄だ。
B――改めていうが、駄作だな。このていどのレベルの歴史ドキュメンタリーなら、NHKだと毎週でも制作するよ。劇場で金を払って観るほどの代物ではない。
A――今回、前半の井上ひさしの芝居「ムサシ」は、まだ論じるに値するものだが、このアニメ「双剣に馳せる夢」は、内容がひどすぎて、話にならん。
B――そもそも、井上ひさしの「ムサシ」とは比較にならん。井上ひさしの「ムサシ」には、コンテンポラリーな思想的問題構成もあるし、笑いの中に毒も苦味もある。それに対し、このアニメ「双剣に馳せる夢」は、ノンフィクション・ドキュメンタリー仕立てでありながら、何の思想性もない。ただ、「武蔵は馬に乗りたかった、武将として兵卒を指揮したかった」と、タワ言をくりかえす。頭は何も考えていない能天気な白痴的生産物だぜ。
C――ゴミだな。武蔵物小説は相変わらず毎年のように新作が出てくるが、能天気な駄作という点では、我々が無視するその種の通俗的武蔵小説と同じレベルだ。
――ですから、前に言いましたように、この武蔵サイトの「五輪書解題」からの剽竊うんぬんのタレコミがありましたので、当会の見解を明らかにする必要があったのです。
A――それにしては、長時間、こんな駄作に付き合わされた。しかも前後二回も観るはめになったぞ(笑)。
――それは、剽竊うんぬんの話とは別に、このアニメはおかしいのじゃないか、それを一通り論評して当方の所見を明らかにしてもらいたい、という要望もあったので、これを機会に、そうしていただきました。作者の分身である「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」とやらが、宮本武蔵についていかに無知であるか、このアニメの作者自身にも、よくよくわかったと思います(笑)。そういう善導功徳を積むつもりでなければ、ここに出したりしませんよ。しかし、皆さんは、クソミソにけなしながら、けっこう愉しんで論評しておられたようですが(笑)。
B――酒の酔いもまわったしな。これを、無知な作者がアホを連発する、大笑いの喜劇とみれば、それなりに楽しめるからよ。じっさい、かなり笑わせられた。
A――このアニメをどう観るか。無知な作者がアホを連発する喜劇として観る。それがこのアニメの正しい観方だ(笑)。
C――ただし、本物の喜劇なら何度観ても笑えるが、この喜劇アニメが笑えるのは一度きり。アホらしくて二度観る気にはならんよ。まあ、それはともかく、作者の分身たる「宮本武蔵研究会/犬飼喜一(仮)」くんは別にして、このアニメ、どうなんだ。
B――監督の工夫か、ポップな浪曲というアイディアはよかった。これはまず合格だ。しかし、CGは使えても、脚本がデタラメな内容だから、まったく無駄な技術に終った。これは制作スタッフには気の毒なことをした(笑)。だから、「武蔵をめぐる虚構を排し、その背後に存在する真実の姿を描き出す」とかほざくオッサンのアホな解説は全部カットして、全編オリジナルのフィクションで、勝負の連続でよかったのではないか。
A――司馬遼太郎の珍説宮本武蔵の下手な真似をして、アホな講釈をたれすぎた。司馬遼太郎の妄説などにとらわれず、「吉川武蔵」とも絶縁して、この武蔵サイトの「五輪書解題」の文言を盗用したりもせず(爆笑)、全編オリジナルのフィクションでストーリーを展開すればよかったんだ。これだと、物笑いになったままだ。
C――だけど、戦闘シーンの動画はチープだな。もすこし何とかならなかったのか。
B――監督の手腕に問題があるかもしれんが、コストの問題かもしれんな(笑)。全編オリジナルのフィクションで勝負した方がよかったのじゃないかと言ったが、よくよく見れば、この作者のセンスと智力では無理だろう。
C――あの「鬼才」云々という予告編の宣伝文句は誇大広告だよ。どこが「鬼才」だというんだ(笑)。ようするに、才知がない。武蔵物だと、どうしても井上雄彦の『バガボンド』と比較されてしまうだろ。内容のクオリティの差は大きい。とても太刀打ちはできまい(笑)。
A――だから、搦め手で、こんなアホな解説をするオッサンをキャスター役にして、お笑いドキュメンタリー仕立てにしたわけか。
B――それはどうか知らんが、もうすぐ完結という『バガボンド』のアニメ化待望論もあるようだ。もしそれが出れば、この「双剣に馳せる夢」というアニメ、駄作ぶりだけが目立つことになる。
C――この作者には、武蔵物で雪辱戦はありえない。そう決めつけられるのが悔しければ、オリジナルのストーリーで勝負して見せろ。
A――それが我々の論評の結論。さあ、今回はそんなところでよろしいかな。
――はい。お暑い中、ありがとうございました。今回は、話題も武蔵物の芝居とアニメということで、リハビリのつもりで軽く流していただく、そのように予定しておりましたが、案の定、かなりハードな内容になってしまいました。ご老体、大丈夫でしょうか(笑)。お疲れが出ませんように。では、次回のお話を期待します。
A――死ななければね(笑)。この夏はことのほか暑くて、年寄りにはきつい。

(2010年7月吉日)


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