*【武公伝】 《我等事、只今迄奉公人と申て居候所ハ、一家中も無之候。年罷寄、其上近年病者ニ成候得ば、身上何之望も無御座候。若致逗留候様ニ被仰付儀ニ候ば、自然御出馬之時、相應之武具をも持せ参、乘替之一疋も牽せ参候様ニ有之候へバ、能く御座候。妻子とても無之、老躰ニ成候ヘバ、居宅家財等之事など思ひもよらず候》(坂崎内膳宛口上書)
*【司馬遼太郎】 《武蔵の態度は慎重だった。かれは、
「客分」
の位置をのぞんだ。これならば食禄の多寡によって自分の名誉が左右されることはあるまいと計算したのである》(「真説宮本武蔵」)

熊本城
*【長岡監物宛宮本伊織書状写】
《一筆致啓上候。然者、肥後守様、同名武蔵病中死後迄、寺尾求馬殿被為成御付置、於泰勝院大渕和尚様御取置法事以下御執行、墓所迄結構被仰付被下候段、相叶其身冥加、私式迄難有奉存候。此段乍恐、至江戸岩間六兵衛方江、以書状申上候。乍慮外、弥従貴殿様も可然様被仰上可被下候。随而書中之印迄、胡桃一箱并鰹節一箱弐百入致進上候。恐惶謹言》(正保二年五月二十九日付)
*【司馬遼太郎】 《さらに忠利は、武蔵の自尊心のために、
――鷹狩りをしてもいい。
という特権をあたえた。この特権は家老だけがもっているものであり、鷹狩りをするせぬはべつとして、この小さな特権があたえられることによって武蔵は家老なみの礼遇をされているということで、そのするどすぎる自尊心は一応の充足を得るであろう。これが武蔵五十七のときである》(『宮本武蔵』)
*【丹治峯均筆記】 《其後、肥後ニ至ル。越中守殿、甚悦喜ニテ、何分ニモ望ニ任セラルベキト也。武州御答ニ、曽而仕官ノ望ナキ段ハ、異ナル貌ニテモ御察可被成。肥後ニテ命ヲ終ルベシト存罷下レリ。何方ヘモ参ルマジ。御知行ハモトヨリノ事、御米ニテモ極リテ被下不及。兵法ニ直段ツキテ悪シ。鷹ヲツカイ候様ニ被仰付候ヘト也。 越中殿、御許容アリテ、臺所辺ノ入用ハ、塩田濱之丞取マカナヒ、其身ハ曽而不存。鷹ヲテニシテ折々野ヱ被出、雨天ニテモシカジカ、尻モカラゲズ、衣服之ヌルヽヲモ無厭徘徊セラレシト也》
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