坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

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生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。 (五輪書・地之巻)
08 肥後系武蔵伝記のバックヤード  (前篇)  Back   Next 
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――ごぶさたしております。早いもので、もう師走で、今年(二〇〇六年)も押し詰まってきました。例年のことでしばらく間隔があきましたが、今回でこの「坐談武蔵」も八回目になります。
――しかし、これもよく続けてくれるよなあ。おかげで、忙しいのに、また駆り出された(笑)。ただし、今回は、前回のような二日がかりは、もうやめよう。とても体力がもたない(笑)。
――そうしてもらおう。人使いが荒いからね(笑)。で、みんな、今年はどうだった?
――旅の最中、石段で転んで、腰を痛めた(笑)。それを手はじめに、今年はろくなことがなかった。
B――それはそれは。ご老体、自愛なされよ(笑)。最近、地方へ旅に出ると、市町村の名前が変っていて、面食らうな。迷子になりそうだ。
A――この間、全国的にずいぶん市町村合併があって、町の名が変った。今回の合併は、どうも財政的理由のようですな。
C――だいたいだな、古代からの郡という行政単位を無力化したから、こうなったんだよ。無理やり、県/市町村に二極化した結果がこれだ。
A――たしかに、今回の合併でできた市をみると、かつての郡の範域に近づきつつあるケースが少なくない。中途半端な市名を名のらず、郡を再生せよということでしょうな。
C――もっと言えば、国郡制の復活だな。
A――というと、都道府県を廃止するということ?
C――道州制なんて中途半端なことは言わない。明治政府が廃藩置県をやったが、それとは逆の「廃県置国」をやれというのだよ(笑)。
B――国制復古だな。となると、東京都や埼玉県は廃止して、武蔵国だ。大阪府は消して摂津国、河内国、和泉国等々に分ける。福岡県は筑前国と豊前国に分かれてもらう(笑)。
A――明治以来、福岡の支配下にあった小倉の連中は、それを歓迎するだろうね(笑)。
B――佐渡は最近、佐渡市一つになったからちょうどよい。
C――四国四県はそのまま四国だ。しかし、五国を取り込んだ兵庫県は、摂津は神戸を連れて独立だ。播磨・但馬・淡路はそれぞれ一国として自立する。もと丹波の部分は、京都府に組み込まれた部分と再統合して丹波国だ。
B――それぞれの国のセンターは、古代の国庁の場所におく。何も考えなくてよろしい(笑)。
A――東北はどうするか。あれは陸奥国だ。
B――出羽も津軽も南部もある。分割は必ずしも現在の県域にこだわる必要はない。
C――北海道はやはり蝦夷国だな。しかし、蝦夷というのは、倭というのと同じく、中華思想からくる人種差別的命名だから改める。陸奥と同じく、本来はネイティヴであるアイヌの人々に返還する領域だが、アイヌの血を引く人々には現状を容認してもらって、異民族共存だ(笑)。
B――ロシアと隣接するから、固有の利害関係もあろう。とにかくアイヌの国なんだから、樺太・千島のネイティヴらと組めば、ロシア国境の問題は解決の道もあろう。
――佐渡や隠岐、対馬という島嶼部もそれぞれ一国ですか。そうなると、地域格差が極端になりますが。
C――そこなんだ(笑)。人口二万の隠岐国だって立派にやっていけるようにするのが、この廃県置国なんだ。ここまで地域格差を極端化したのは、明治以後の東京政府への中央集権なんだよ。この廃県置国においては、地方政府が自治権を回復する以上のことが条件だね。地方政府が一切を自己決定できる。産業がなくてこれまで公共工事に依存してきた貧しい地方は、経済特区化して、企業誘致をするだろう。それを決めるのは、その「国民」なんだ。
A――いくら儲けても、会社法人の税金がタダの国だとか、手っ取り早く、カジノを開く国も、当然出るだろう(笑)。
B――隠岐なんてのは、日本海の孤島だから、逆にインターナショナルになれる。中国、朝鮮、ロシア、それに日本と、これは立地からすると、将来有望だな。
C――国連加盟国をみれば、人口何十万なんて国もざらにある。なにも行政単位として一億人も集合する必要はない。教育・医療福祉・社会保障など、ほとんどの権限を地方政府に委譲して、というシナリオは他にもあるが、この廃県置国案では、連邦制は連邦制でも、諸国は主権国家という、途方もない話なんだ(笑)。
A――すると、行政権はむろん、立法権も司法権もある。憲法をはじめ、法律は国々異なる。
B――徴税権もある。連邦政府は諸国の政府からテラ銭を取って、外交と防衛だけやる。外交と防衛は委託業務だな。何なら民営化してもよい(笑)。連邦政府が役たたずなら、テラ銭は払わない。
A――これぞ、究極の小さな政府だ(笑)。
C――連邦の名は、United States of Japan、略して、USJ。
A――それじゃあ、大阪にある遊園地(ユニバーサルスタジオ)と同じだ、それは困る(笑)。
C――心配はいらん。あっちはもうすぐ潰れる(笑)。諸国の国主は選挙で選ぶ。官名は、○○守という。武蔵守とか摂津守とかね(笑)。
B――防衛は諸国で勝手に決めてもらう。ただし、防衛庁を防衛省に格上げなんてケチな話じゃない。諸国はそれぞれ国軍をもつ(笑)。むろん諸国は徴兵制で、18歳になれば軍事訓練を受ける(笑)。男女を問わず、武器操作を修得する。
A――狙撃ちは女の方が上手だ。車の運転免許は、必ず軍隊で取得する。戦車も運転できる免許だ(笑)。
B――ミサイルをもてる国もあれば、戦車も買えない国もあろう。ただし銃器やバズーカ砲など、ゲリラ戦ができる能力は備えておく(笑)。
C――もちろん諸国の国民は、兵役忌避の権利をもつ。仏僧に限らず、非暴力のポジションは認めるべきだ。
B――当然だな。しかも、その気になれば、地方諸国は日本連邦を離脱できる(笑)。経済的に自立できれば、それぞれの国は勝手に進路を決めるだろう。そうなると、外交や防衛という国家機能は本質的に問題に付されるだろう。
C――中立のふりをして、どの外国と手を組むか知れないという油断のならぬ外交スタンスが必要だな。連邦の防衛諸法度の第1条は、他国を侵略するな、だ。
A――ただし、核兵器を保有したい国も出るかもしれない。さしづめ、武蔵国あたりは金満国家だから、やりかねない(笑)。
B――そうなると、安芸や肥前からクレームがつく(笑)。核保有国は連邦から排除されるかもしれない。武蔵国は、貧乏人とは付き合えないといって、意気揚々と連邦を離脱するな(笑)。
C――連邦議会は一国一代表がよかろう。武蔵国が人口二千万で、隠岐国が人口二万人でも、それぞれ一人だけ出る。一票の格差は千倍(笑)。
A――これぞ、究極の格差だ。それがいやなら、武蔵を去れだ(笑)。
C――もちろん、連邦議会では、市民生活にとって重要な決定事項はさしてないから、武蔵国民も文句は言わない。
B――そしてむろん、武蔵国の住人は、必要な電力を自前で発電しなければならない。現状だと、武蔵国は原発だらけになる(笑)。
A――それがいやなら、武蔵を去れ(笑)。
B――まあまあ、たぶん越後国などは、法外な値段で、武蔵国に電力を売って商売する。東京はもともと物価が高いんだ、地価も高いし電気料も高い、そういう状況になる。
A――現在の日本政府がのこした膨大な借金はどうするのか。
B――そりゃ当然、革命なら踏み倒しだが、そこは穏当な解決法にして、長らく中央集権のメリットを享受してきた武蔵国が引き受けることにする(笑)。武蔵国単独なら、金満国家だから、返済は無理な話ではない。
A――税金が高くなるから、逃散が出そうだ。いや、もともと諸物価が高かったか。
C――武蔵国のGDPが百兆円として、二十兆円は公収で吸い上げる。すると、そのうち十五兆円は、連邦政府清算事業費で負債清算に回せるから、五十年で完済だ(笑)。
B――しかし、それでは、現日本国政府がつくった借金返済のための、廃県置国だな。明らかに陰謀だ(笑)。
C――実は、そうなんだ(笑)。廃県置国になると、首都なんてのも無用になる。連邦政府はごく小さな政府だから、どこに連邦官庁を新設してもよかろう。いまの東京におく必要もない。何なら、国体みたいに持ち回りでもよい(笑)。
A――今年は六十何年ぶりで、レンポーがやってくるとかね(笑)。しかし、連邦政府の職員は毎年転勤だ。
B――それこそ流浪の民だ(笑)。東京にいるメリットはないという個人・法人は、東京を離れる。人口の拡散が生じる。
C――そして、徳川将軍の居城跡地に皇居をおく、という(明治)維新以来の誤れる処遇は改めるべきだね。
B――長州と薩摩を主体とする明治革命政府は、玉体を人質にとったんだ。以来四代、天皇を京都へ帰さなかった。では、皇室はどこにお移りになるべきか。従来の京都という手はあるが、京都はもはや手狭。奈良京の大極殿跡に復帰という案もあるが、ここはやはり本居(宣長)先生の意を体してだな(笑)、天照大神の坐す伊勢じゃないか。
C――皇室は連邦政府とは無関係にする。諸国の市民が個人的に皇室費を寄金するがよい。皇室の消長は、諸国民の支持しだいだ。それが健全な関係だよ。
A――なるほど。消滅するかもしれないが、連邦国家の絆は皇室しか保証できなくなって、何かあれば、おかげ参りの時のように、何百万人も伊勢に殺到するかもしれない。あるいは、諸国の民は王権復活を望むかもしれない。
B――それもよかろう、というわけだ。何も西洋流の民主制ばかりが、政治システムではない。別の可能性だって、いくらもある。
A――廃県藩国というテーマは、その思考実験というわけだ。
C――今回は開始早々、夢みたいなバカ話になったが、正月も近い。まあ、初夢の材料にでもしてくれ(笑)。
B――ナイトメア(悪夢)かもしれないがね(笑)。




衛星写真




行基菩薩説大日本国図




日本輿地路程全図








衛星写真




新宿




















皇居


伊勢神宮正殿


岸信介


安保国会デモ




Prada青山






文科大臣宛自殺予告通知


同上 内容文








安倍晋三




小泉純一郎



野中広務



金正日



愛国党ポスター




上海市街
A――また雑談になるが、ことしは内閣が変りましたな。驚いたことに、新しい総理は、なんと、岸信介の孫だそうな。
C――そういう歴史の結末をみせられると、長生きはしたくないものだねえ(笑)。
B――シュプレヒコールは、安保粉砕、岸内閣打倒。昭和は遠くなりにけりか(笑)。あの当時は、国内にこれだけ反対がありますから、それはできません、とか何とか言って、アメリカの要求をかわせた。
C――政府にとって、対米外交において国内の反対世論は必要なんだ。議会制民主主義の中で野党であった社共はその反対派を演じていた。我々の世代はその虚偽を弾劾したが、いまや、そんな嘘すら存在しなくなった。
B――反対のための反対をする野党すらいない。何が何でも反対だという、反対のための反対は、不毛なのではなく、むしろ議会政治に構造的に必要な見せ場なんだ。しかし、嘘でも野党はすでに存在しない。自民党と民主党の二者択一なんて、大笑いだ。どこに差異がある。どこに選択の余地がある。
C――それはまず、地方政治から始まった。全党派相乗りで首長選挙、市民には選択の余地はない。それと同じ反対派の不在が、こんどは国政レベルで進行した。
A――嘘でも、反対派はないよりはマシだ。それが存在しないとなると、我々はひどい政治状況にあるわけだ。
B――反対派勢力が不在となると、これはある種のファシズムだぜ。こういう等質の政治構造になったのは、結局は高度成長の産物だ。経済階層が押し潰されて、ぺったんこになったら、政治的対立も解消してしまったというわけだ。
C――奇跡の経済成長と言われたものだったが、それが文字通り奇跡だったのは、経済成長の速度ではなく、むしろ外国人が言うように、経済格差を拡大するのではなく、それを押し潰す経済成長だったからだね。おかげでみんな一斉に生活水準が嵩上げされて、中流家庭になった。これは一人当たりGDPが世界最高水準という以上に、珍しい特異な状況だった。
B――太平楽で、階級社会どころか、みんなプチブルなんだからな。世界では日本人はみんな金持ちだという幻想が生まれた。なにしろ、若い日本人女性が海外のショップでブランド品を買い漁るご時勢だった。
A――こんなジョークもある。ミラノのブランドショップでの話。「この店の商品の40%は、日本人観光客が買います」「ほう、そんなに。で、残りの60%は?」「輸出します。日本へ」(笑)
C――若者は、大人の社会、既成の体制に失望して、レジストするのが通り相場だったが、若者世代の方が保守的になった。日本の若者は自力で未来を切り開く気概など必要ではない。親世代の資産に寄生できるからね、現状維持でいいんだ。
A――みんな大人しいお坊ちゃん・お嬢ちゃんなんだ。若者はいつも社会の反対勢力だったが、日本では暴動どころか、もはや学生デモひとつ起らない。これほど天下泰平の社会がこれまであったか(笑)。
B――そのツケが回りまわって、気がついてみると、借金苦で自殺する者が、交通事故死者より多い世の中になった。
C――経済難民はこれから、どんどん増加するだろう。しかし、いろいろ難民が出てくるなかで、出産難民なんてのも出てきたな(笑)。
A――少子化でまず小児科医が減った。つぎは産婦人科が減っている。儲からんというので、総合病院でも産婦人科を廃止する。すると、子どもを出産できない地域が出てきた。
B――日本の医療は少子化促進に貢献している(笑)。ようするに、これまで医者を優遇しすぎたんだ。そもそも金儲けのために医者になるやつが多い。北欧のように、医者は全員、公務員にしてやったらどうだ(笑)。
A――そうすると、医学部受験者が減って、ますます医者不足になる、かというと、そうでもない。医者をやりたいやつだけが残ればよい。
B――そうなると、日本の医療も少しはまともになろうよ。
A――今年は、学校でいじめられた子が自殺するという事件が流行った。悲劇の流行だ。
C――いじめは、今に始まったことではない。日本に限らず、どこの国でも、いじめはある。子どもたちはいじめ、いじめられて育つ。というのも、このいじめ、いじめられという関係の中で、社会を構成するということを学ぶわけだ。
B――そうして、この排除の集団的暴力のなかで、強い者は弱肉強食と権力の快楽を知り、中途半端な連中は付和雷同のポジションを修得する(笑)。
A――いじめっ子は集団を支配する快楽を覚え、その他大勢は、ある社会空間から排除されずに生きるための処世術を学ぶ。大人になっても、それをやっている馬鹿もいる(笑)。
C――社会は排除の暴力によって基礎づけられている。子どもたちは、いじめ、いじめられという関係の中で、社会を基礎づける排除の暴力を学び、権力空間に生きる術を習う。だから、学校という場は、文字通り社会化訓練の場なんだ(笑)。
B――昔から子どもたちは、いじめは自分たちの問題だ、大人は関係ないと思う。そして、いじめは卑怯だ、悪いんだ、ということは、子どもたちはだれでも分かっている。善悪や正義というお決まりの規範が、まさに自分たちの目の前で、あるいは自分たちの手で、崩壊するのを経験している。
A――子どもたちは、人間として、まさに最低・最悪の行為を自ら経験する。それこそ、リアルな生の瞬間の学習だ(笑)。
C――興味深いのは、これまで教育関係者が、いじめは存在しない、と報告してきたことだな。これは、インセスト(近親姦)が家庭に存在しない、というのと同じことだな。どちらも《founding》(創始的基礎づけ)の根源的行為なんだから、言い換えれば、《Urverdrängung》(原抑圧)にかかわる無意識的条件だから、不可視でかつ非存在なんだ。
B――まあ、とにかく、排除対象の子が、いじめられて自殺するというのは、この排除の暴力的過程の一部なんだ。けっして、この暴力に対する抗議にはならない。
C――排除の暴力的過程の仕上をする、犠牲の山羊にしかならない。それが、いじめられて自殺なんかするなよ、という理由だ。
A――子どものとき、最低・最悪の行為に自ら加担した、その他大勢組は、大人になっても似たようなことをする。大人の諸君、胸に手を当てて考えてみな(笑)。
B――卑怯だ、恥だ、という振舞いは、大人の社会では日常茶飯事なんだ(笑)。だから、行為の善悪ではなく、人間として恥ずかしいことはするな、というのが倫理のミニマム・コードだ。
C――そういうことだ。別に「武士道」なんて言葉を使わなくても、恥を知らずなことはするな、というのは、いつの世でも必要な自己倫理なんだ。
A――いじめられっ子は、いわば学校難民だがね、マスコミがそれを騒いでいる最中に登場したのが、こんどの新総理の「美しい国、日本」というコピー。
B――これは、すべったね(笑)。どうせ、広告代理店の入れ智恵だろうが、登場早々からズレていて、世間の笑いものになったな。
A――センスは最低だね。日本が見苦しい国だというのは、だれもが知っている。改革をやろうというのなら、「醜い国、日本」とやった方が、ウケただろう(笑)。
C――ようするに、「美しい国、日本」なんて、状況を見まいとする小金持ちのナルシシズムなんだよ。最前の話のように、リッチな日本社会のなかで、いろいろ難民が出てきた。いまや、改革という言葉を公言するのは、野党ではなく政権政党だ。政治は国民のアパシーが嵩じて、いったん無用化したが、そうはおいそれと再建できるわけがない。
A――なるほど、政治家は二世三世議員が増えて、政治の世界は世襲制のようだ。こういう傾向は政治の堕落だね。議員はみんな大人しい優等生のお坊ちゃん、若殿様なんだ。新総理は、前任の小泉氏とくらべると、気の毒なほど凡庸な人のようだな。
B――いちおう、前総理は国民にアピールできる資質をもっていた。民主主義社会においては、政治家は本来人気商売の芸人だから、国民的人気を集めることができなければならない。彼は「自民党をぶっ壊す」と言って、自民党の総裁になった(笑)。
C――そこが戦後政治のどん詰まり、かなり面白い状況になった。別のステージが垣間見えた。だが、それも彼一人限りだ。
B――だから、なんだかんだと言っても、小泉の時代は面白かった、それに比べて、いまの政権はちっとも面白くない、というのが世論の大勢だな。
C――しかし新総理ご当人のあの言説の凡庸さは、持って生まれたものだから、どうしようもあるまい(笑)。こういう者が一国の責任者になるというのも、現在の日本が太平楽だということだ。強力な官僚機構があれば、むしろ凡庸な殿様の方がよい、というのが明確に出たね。むしろその方が四方丸く納まると。
B――前任者のスタイルに少々懲りた。小泉純一郎は、個人的に国民の支持をとりつけて、権力を集中してやりたい放題やった。これは傍若無人のスタイルだね。周囲もそれを許容せざるをえない。
A――彼にカリスマ性があったというが、定義によれば(笑)、それをカリスマというのは違う。芸人としての人気なんだ。
C――もちろんそうだよ。小泉の前には「影の総理」という人物がいた。
B――野中広務だろ。日本のマスメディアはもとより阿呆だが、官房長官の野中には、見苦しいほど腰が引けていたな。
C――解同がこわいというより、それも、差別の裏返しなんだよ。
B――政治について何を云おうと、日本の問題は、天皇制と部落差別なんだよ。民主制の限界はこの両者が画しておる。
C――だから野中政権が出現しておれば、状況はどうなっていたか、小泉政権よりも、何か未聞の状況が開けた可能性がある。彼が(首相に)なっていたら、部落出身の最初の総理、という画期的な事態になっていたよ。
B――ある時期、野中はほとんど実権を手中にした観があったが、あれあれという間に、それを放棄した。限界まで行って、そこで抛げたというところだね。ある意味で、真面目すぎたと云える。
C――野中じゃなくて小泉を総理にしたのが、ターニング・ポイント。ここで進路は大きく違ってしまった。野中が退いて、小泉の野放図な改革路線が進行する間に、妙なナショナリスティックな言説が横行しはじめた。
A――こんどの新政権は、反北鮮キャンペーンを張って、ナショナリズムが売りですな。
B――そのやり方が拙劣だがな。しかも、日本政府に外交能力がない、ときたもんだから、六ヵ国協議とはいえ、本当は、米中露韓と北鮮の談合の数に入れてもらっていない(笑)。
C――外交能力なきところに、ナショナリズムなし(笑)。しかし、戦争に負けて、アメリカに尻尾を振るようになって、日本の右翼は死滅したんだ。
A――戦後、反米愛国というスローガンを共産党に取られてしまったからね(笑)。
C――共産党しか反米愛国を言わない時期があった。あのときに日本のナショナリズムは崩壊したね。共産党と朝鮮人の力道山、これが日本の愛国の魂だった、そういう過去を忘れるな(笑)。
B――いまや、ナショナリズムはファッションでしかない。グローバリズムという名のアメリカ帝国主義に金玉を抜かれてしまったのが、現在のナショナリズム。何が愛国教育だい(笑)。
A――このプチブル・ナショナリズムは、滅びの徴候だよ。小金持ちのお坊ちゃんたちの愚にも付かない戯言だよ。しかしまあ、驚いたことに、だれもがアメリカ政府の意を汲むのに汲々としている。もはや完全に属国化したね。
A――いまや、日本政府は、アメリカが要求する前にその意を汲んでやってしまう。国家の品格どころじゃあない(笑)。
B――日本は五十年前よりも、もっと米帝の優等生なんだよ。
 (この後、戦後政治史と政治思想に関する議論が続くが、省略)
A――北鮮問題は、中国が仕切る。無能外交の日本政府はそれに追随するほかない。
C――中国は貧しくても、戦後ずっと国際政治においては大国だった。だが、いまや中国の経済的抬頭は著しい。外貨準備高は日本を抜いて世界一だ。
A――急速な経済成長で、都市部は消費社会へ突入だな。上海なんて、どえらいことになっている。
B――現代アートの局面でも、面白くなっている。上海にはソーホーまでできておる。
C――高度成長というが、最近の中国のドラスティックな変化の勢いは、それどころじゃない。これでは、もうすぐ中国を中心とする経済圏・文化圏が確立されるな。この列島はどうするんだ(笑)。
B――いつまでも米帝の軍事基地の不沈戦艦でいることはできない。しかし、中国の共産党資本主義と、アメリカのグローバル資本主義と、この対立の中での二者択一だとなると、もうお先真っ暗だな(笑)。
C――最悪の選択だよ。棄権して、鎖国するか(笑)。しかし、そんな話になると、夜が明けてしまうから、本日の坐談会に入ろう。
――はい。ありがとうございます(笑)。今年は、本サイトでは[資料篇]の「宮本武蔵伝記集」がスタートし、また「武蔵略伝」が出ました。いよいよこの研究プロジェクトも佳境に入った観があります。前回の巌流島論が好評で、その連続というわけではありませんが、今回は、やはり武蔵伝記をめぐるあたりを柱にしたお話を聞きたいと考えますが、いかがでしょうか。
B――武蔵伝記集シリーズの第一番、『丹治峯均筆記』読解は、大きな成果だね。現在までのところ、最高の武蔵伝記研究だ。
C――いうまでもないが、他と比較対照すれば、研究レベルの差は歴然としておる。あそこで切り開かれ実現されたレベルを凌駕する、後学の出現を我々は期待する。ともあれ、この研究過程で宿題がたくさん出たな。
A――問題点を提起するというのも、研究成果の一つですな。それまでは、答えどころか、問題の所在すら知られていない、という状況だったから。
B――ようするに、本サイトの武蔵伝記集シリーズをみれば、いかに武蔵伝記研究が未開拓の分野か、それを知ってもらえよう。ここまでは分かった、これは分からないと、問題点を明確にして、それを宿題として提示して、後学の諸君の出現を期待するわけだ。
A――我々はすでに年寄りだから(笑)。
B――で、「武蔵略伝」の方は、これは一般向けだね。
――以前から、要望が多かったわけです。個別研究はある程度わかった、最新の武蔵研究からすれば、現段階で、どのような武蔵伝記が可能か、それを知りたい、ということでした。第一弾は、武蔵総合年譜で、そしてそれに対応するものとして、この武蔵略伝がまとめられました。ただし、あくまでも一般向けということで、個別研究のプロセスは記さず、結論だけ述べているから、立ち入った話は、このサイトの諸論攷を見てもらいたい、ということになります。
C――これは、もっと研究が進んでからにしてもよかったが、世間には性急な人々が多いからねえ(笑)。個別研究を見ても、それだけだと我慢できない。武蔵通史が欲しいとくる。本来無愛想な我々なのに、人づきあいがよくなったというか、大衆迎合的というか(笑)。
――まさに、そういうことです(笑)。では、武蔵伝記のお話に入っていただきます。
A――武蔵の産地論、つまり武蔵がどこで生まれたか、という問題については、二〇〇三年初頭にこの武蔵サイトが登場して、基本的な論点が整序されて、この問題は決着がついた、ということでしょうな。
B――当時の当面の対立説は、美作出生説だったが、この説が依拠する根拠を洗い出して、結局、美作出生説には根拠はないと結論が出た。
C――そのプロセスで、『東作誌』の解説や読解までやった。一部を除けば、美作出生説の連中に、あそこまでやった者はいなかった。ようするに、顕彰会本武蔵伝(宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』明治四十二年)どまりで、これを無批判に信奉する以上のことはやっていなかった。だから、典拠の『東作誌』を相手に、もともと何から何までやらなくては、話の決着がつかないという有様だった。
B――他のだれもやらないので、我々がやらざるをえなくなった、ということだよ。美作説の根拠を究極まで追求して、ようするにその根拠の消失点、そのバニシング・ポイントを画定するところまでやったということだ。あと数十年もすれば、言わずもがなのことになるだろうし、無駄な労力を費やしたことになろうが(笑)。
C――まあ、その頃には、我々のだれも、生きちゃおらんが(笑)。
A――となると、このサイトの一連の作業は、我々の遺言みたいなものかな(笑)。
C――ただし、世間一般では、やはり、いまだに直木三十五や吉川英治といった戦前・戦中の作家たちの「宮本武蔵」の影響下にあって、そういう戦前版の武蔵伝記が再生産されているのが現状。
A――最近では、『バガボンド』なんて売れ筋もあるし。けれど、吉川武蔵の筋書きを下敷きにしている以上、キャラクターをどう工夫したって所詮、見当外れの武蔵にしかなるまい。
C――知らないから可能だ、という、無知の力だね(笑)。ただ、大衆文化における武蔵物の生産力はまだ落ちていないことは知れる。『バガボンド』の作者には、別のオルタナティヴな原作が必要だった。惜しいことをした。
B――あれはまだ続いているのか。
――むろん、そのようです(笑)。
C――おやおや(笑)。すると、武蔵のお相手は、やはり「佐々木小次郎」という名で、若い剣術使いだな。
――むろん、そうです(笑)。
B――そのあたりは、どうしようもあるまい。長い太刀を背負った、武蔵のライバル佐々木小次郎という設定は、とうとう二十一世紀まで生き延びてしまったようだな。
A――大衆文化のなかで不断に再生される宮本武蔵だからね、江戸中期の歌舞伎や浄瑠璃の武蔵物、敵討ちに絡めた武蔵物を思えば、どういう武蔵があっても構わないけれど。
C――『二天記』なんて肥後の武蔵伝記は、十八世紀後期だが、そういう敵討ち巌流島が上方で人気を博すという状況下に書かれている。つまり、武蔵流末からすれば、何という武蔵なんだ、俺たちの先師はそんな武蔵じゃないぜ(笑)、という主張なんだ。
A――そうすると、『二天記』の時代から、すでに「武蔵の真実を探求する」というポジションが出来ていた。
C――それまでは、武蔵流諸セクト間の、異伝同士の党派闘争だったろうが、『二天記』の頃には、敵討〔かたきうち〕巌流島という大衆文化の勢力を相手にする羽目になったようだ。
B――肥後系、筑前系の相違に関わらず、十八世紀の武蔵伝記は、巌流島の一件にかなりの分量を割いている。これは九州ローカルの伝記だから、ということはあろうね。
C――地元の伝説だから。ようするに、小倉の碑文(承応三年、宮本伊織建立)だよ。あれが、巌流島決闘を記録した。そこからすべてがはじまる。
A――関門海峡に臨む山上に建碑したものだから、近所で行われた巌流島決闘のことは洩らすわけにはいかない。これは当然ですわな。
B――小倉碑文が書いて、それを『武芸小伝』が広めた、そういう展開のルートはある。が、やはり、ローカルな巌流島決闘伝説を有名にしたのは、上方での演劇化だろうな。まあ、そのあたりは、『バガボンド』を読んで宮本武蔵という存在を発見するという現在の成り行きと変わりはない。
A――たしかに、宮本武蔵という存在を教えるのは、昔も今も、フィクションのみ(笑)。




「武蔵伝記集」→   Enter 

「武蔵略伝」→   Enter 
























岡山県立図書館蔵
東作誌



宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武藏』
金港堂 明治四十二年






二天記







武公伝





*【武公伝】
《武公、父ハ新免無二ノ介信綱。即チ十手二刀ノ祖タリ。號シテ當理流ト云。曾テ扶桑第一ノ劔術者、公方義照公ノ師洛陽ノ士、吉岡庄左衛門兼法ト云。公方命ニテ無二ト雌雄ヲ決セシム。限ルニ相交ル事參分ヲ以ス。吉岡一度利ヲ得、無二兩囘勝之。因テ日下無雙兵法術者ノ號ヲ無二ニ賜フ》

*【二天記】
《武藏父、新免無二之介信綱ト云フ。劍術ヲ得、當理流ト號ス。十手二刀ノ達人也。將軍義昭公ノ御師吉岡庄左衛門兼法ト云者、洛陽ノ士・扶桑第一ノ剣術者也。將軍ノ命ニ依テ庄左衛門ト無二ト雌雄ヲ決セシム。庄左衛門一度利有テ、無二兩度カチヲ得タリ。因テ無二ニ日下無雙ノ號ヲ賜フナリ》





九州関係地図
C――武蔵伝説は、この二十一世紀になっても、まだ活発に再生産されているということだよ。宮本武蔵の虚像と実像というシェーマは、いまやクリシェに等しいが、さっき話に出たように江戸中期にすでに出ている。『二天記』だけではなく、それに先行する『武公伝』も、あるいは筑前系の『丹治峯均筆記』も、均しく、世間の武蔵像は嘘だ、「真実の武蔵」はこれだ、という提起の仕方だ。それが江戸中期の武蔵伝記の基本的なスタンスだ。
B――むろん、そういう批判的なスタンスが発生するのは、武蔵流諸セクト間の口碑伝承が時間とともに変異して、互いに齟齬をきたすようになったからだね。やつらはあんなことを言うておるが、俺っちの伝説の方が正しいと主張する(笑)。虚偽は彼等にあり、真実は我等にあり、だ。
A――ようするに、江戸期の武蔵伝記のモチーフは、誤りを匡し真実を提示する、ということ。しかもそれが、武蔵流諸派対立を背景にしている。そうすると、武蔵伝記はそもそもの初めからポリティカルな産物ですわな。
C――だから、それは、筑前系なら、柴任美矩→吉田実連という筋目で、武蔵流は二天流しかないが、そうなると無二流という外部の敵が問題で、『丹治峯均筆記』は、何かと云うと、武蔵の「父」無二を貶める話を語る。これに対し、肥後系武蔵伝記は『武公伝』と『二天記』だが、こちらは武蔵流内部の口碑伝承の対立だ。したがって、無二流に対する認識はリアルではなく、むしろ当理流とかいう奇態な伝説を生じている。
A――当理流というのは、筑前の『峯均筆記』には出てきませんな。当理流の新免無二ノ介信綱というのは、肥後の伝説。
B――『武公伝』と『二天記』は肥後系武蔵伝記だが、もう少し厳密に言えば、肥後は肥後でも、熊本ではなく八代の武蔵伝記だな。橋津卜川(豊田正剛)の聞書の相手は、道家〔どうけ〕角左衛門以外は、だいたい「代城の士」、つまり八代の長岡家臣だな。
C――道家は熊本の細川家士、これに対して、山本源五左衛門、中西孫之允、田中左太夫らは、長岡家臣で、細川家からすれば陪臣だね。これは明らかに『武公伝』においては、熊本派に対する八代派というポジションを考慮する必要があろう。
A――巌流島伝説にしても、豊前小倉の商人・村屋勘八郎というオリジナル・ソースを持ち出すしね。熊本派とは異なる武蔵伝記ですな。
B――八代派の伝記だから、巌流島決闘では、長岡佐渡(興長)がやたら活躍する。巌流島決闘は長門から豊前小倉へ我田引水されたが、これは細川家中への我田引水。ところが肥後八代の『武公伝』では、さらに自分たちの主家・長岡家へ我田引水している。
C――それは『沼田家記』が、沼田延元を武蔵に関わらせるのと同じ。これは沼田家の伝説だね。肥後には他にもいろいろ我田引水する集団もあっただろうが、熊本系の伝説はほぼ霧散してしまったようだ。これに対し、八代では豊田氏三世がまとまった武蔵伝記を書いてしまった。すると、歴史は、書いてしまったが勝ちだ(笑)。
A――本サイトの「武蔵伝記集」の『丹治峯均筆記』読解において、肥後系伝記に対する我々の扱いがネガティヴじゃないかという誤解があるが、それは違うね。
C――我々は客観的な評価をしているだけだ(笑)。しかし世の中には馬鹿がいて、『武公伝』『二天記』についてよく知らないから、そんな評価をするんだ、と考えるやつもいる(笑)。
B――そういうやつに限って、『二天記』しか知らない。あるいは、ひどいのになると、明治末の顕彰会本(『宮本武蔵』)しか知らない。それを金科玉条にしてしまっておる。
A――『二天記』が最古の武蔵伝記だとか書いて、『武公伝』と『二天記』の区別すらつかない、蒙昧な武蔵本もあったな(笑)。
――本サイトに公表された読解研究で、筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』の背景はすばらしく見通せるようになりました。筑前の伝系関連は、すでに公表された本サイトの研究で、分かっていることはほぼ出尽くしたようですが、肥後系武蔵伝記の方はこれからです。本サイトでは、現在「宮本武蔵伝記集」が進行中で、まもなく肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』の読解が公表される予定ですが、それらを書いた、八代の豊田氏三世について、詳しい情報は従来の武蔵研究には見当たりません。そこで、肥後系の『武公伝』『二天記』読解公表に先立ち、すこしガイダンスをしておく必要がありましょうね。この肥後系武蔵伝記のバックヤードというようなことなら、従来の武蔵研究になかったテーマですので、この坐談会にふさわしいかと思います。
B――では、方向は決まった。それにしよう。八代の豊田氏については、先祖附があったから、それに沿って話を進めればよいだろう。
C――「豊田氏三世」というのは、『二天記』の序文に、《豊田氏三世、能く其技を学して諸人を淑す。今、子俊(豊田景英)、父祖の所記を校し、以て人に示さむと欲す。亦た善く志を繼ぎ事を述る者也》(原文漢文)とあるね。それをいうのだが、ようするに、豊田家の三代、正剛(まさたけ・1672〜1749)、息子の正脩(まさなが・1706〜64)、そして孫の景英(かげひで・1740〜99)という三世代のことだね。そのあたりまでは、どの武蔵本でも書いておるが、ただし、豊田氏三世とはいうが、実は正剛の隠居後、豊田家は「橋津」に改姓しているから、話は少しわかりにくかろうが。
A――橋津卜川だの、橋津八水だの、橋津姓の名が出てくるからね。橋津卜川が豊田正剛で、橋津八水が息子の正脩だというあたりは、基本的な知識として知っておいてもらいたい。
B――孫の景英も、はじめは甚之允正通。正剛・正脩ときて、「正」字を襲して、正通なんだ。
C――豊田から橋津への改姓は元文二年(1737)二月、息子で当主の正脩も、正剛の弟の正敬も橋津に改姓しているから、この時点で、豊田一族は橋津と氏姓を改めたらしい。それを、景英の代になって、願い出て豊田に復姓している(明和三年・1766)。だからほぼ三十年ほどの間、豊田氏三世は豊田氏ではなかったということになる(笑)。
B――この豊田から橋津への改姓は元文二年だから、景英の生まれる前だね。「橋津」というのは、先祖附によれば、豊田家が大友氏の麾下にあったときの豊前の領地の名らしい。いま、(大分県)宇佐市内に地名が残っているのがそれだろう。
A――先祖由縁の地だとしても、どうしてこの時点で豊田から橋津へ改姓したのか、それは明らかではないですな。
B――正剛が父の高達から相続した家督は百石だな。それを正剛の代に五十石加増あって、都合百五十石の家になった。それを正脩が相続するのだが、そのころまでに、「もう百五十石だから、いつまでも豊田でもあるまい」ということになったのかもしれない。
C――もともとの話をいえば、大友氏滅亡で、豊田家は浪人していたが、元和になって豊田甚之允高久の代に、細川忠興にありついた。が、これが五人扶持十五石。これじゃあしようがないというので、致仕して浪人。寛永元年(1624)になって、彼を拾ったのが、長岡興長。これで、豊田氏は長岡家に仕えるようになるわけだが、なにせ、五人扶持十三石。無足の軽輩だな。興長の死後、寄之、直之の代に仕えたようだが、給料は変らなかった。ところが、高久の養子・高達――つまり、正剛の父――の代に出世して、貞享三年(1686)、知行百石拝領。これで豊田氏は、長岡家中での地位を獲得したといえる。
A――その主家の氏姓は長岡か、松井か、という話はあるね。興長の代に松井から長岡姓に改めたというから、我々は長岡姓を主として用いているのだが。
C――昔はそうでもなかったが、最近では、松井と記す例が多いね。それに、同じく古い譜代の家老・米田〔こめだ〕氏も長岡姓を許されている。区別するためには、松井や米田とした方が分かりやすかろう。だが、武蔵所縁の長岡佐渡(興長)のこともあるし、八代の長岡家は、明治になって松井に戻した、という話もあるからなあ、ここは(細川)忠興が名のった長岡姓を尊重して、長岡でよかろう(笑)。
A――甚之允高久の代に、長岡興長に仕えるようになったのだから、高久は八代豊田氏の実質的な元祖。これに対し、専右衛門高達は、豊田家を百石の知行取りにしたのだから、その功績は大きい。
B――正剛の父である高達は養子だな。福島家の浪人・岡田権左衛門正継の末子で、初名は岡田四郎次郎。豊田氏はここで異質な血が入ったわけだ。岡田氏というのは、もとは織田信雄の家老で、尾張星崎城を預かっておった。ところが、天正十二年(1584)、秀吉と家康の対決という状況下、家康方についた織田信雄は、秀吉に通じたという疑惑で、岡田長門守直孝はじめ三家老を長島城におびき出して謀殺する。直孝の弟・岡田善同は、星崎城に籠城して徳川勢と戦うが、降参して開城。そのとき、岡田正継はまだ幼くて、以後浪人して、慶長九年(1604)安芸の福島正則に仕えるようになった。しかるに、元和五年(1619)、福島正則が改易となって、家臣は離散、岡田正継は、その後、筑後の久留米城主・有馬豊氏に召抱えられた。なかなか大変な人生だが、当時の武士はおおむねこういう浮沈の人生だぜ。
C――豊氏の有馬家はもともと播州赤松氏庶流で、父親の範頼のころから秀吉に仕えて、秀吉の死後、範頼二男の豊氏は家康に従って、関ヶ原役後は福知山六万石、大坂陣後は一躍、久留米二十万石の大名に栄進した。寛永十五年(1638)の島原役には、有馬豊氏は老将ながら、九州の大名として参戦した。このとき、有馬家臣の岡田正継は戦死してしまうね。
B――本サイト「武蔵伝記集」の『丹治峯均筆記』読解で詳しく述べられているが、筑前の吉田実連のケースでは、父親が原城攻めのおりに戦死したとき、彼はまだ生まれたばかりだった。それでも、どうしても家を潰すわけにはいかん、というわけで、姉に婿をとらせて家名を残すという措置がとられた。それに対し、有馬家臣の岡田正継戦死のケースでは、そういうことにはならなかったようだ。
C――そうだね。岡田正継の嫡男が岡田庄五郎で、これがどういうわけか有馬家から離れて、肥後の長岡興長に仕えるようになった。有馬家の家老渡瀬将監から、松井三左衛門一秀へ書通あって、この三左衛門が取次をして、岡田庄五郎は長岡興長の児小姓に召抱えられたという。そうして、岡田を頼藤と改氏するね。頼藤というのは母方の姓で、こちらは元は播州赤松家に属した家で、のち、頼藤杢兵衛定房の代にやはり福島正則に仕えた。頼藤杢兵衛定房の娘が、岡田庄五郎の母。というわけで、岡田庄五郎は頼藤杢之助具定と称し、老母と弟二人を連れて、筑後から肥後へやってきた。次弟が岡田右衛門、末弟が四郎次郎。四郎次郎は、豊田甚之允高久の養子に遣られた、という次第だな。
A――しかし、養子先の豊田家に実子が出生した。すると、豊田高久はその実子を頼藤家の養子にやり、名を頼藤浅右衛門信房。養子にした以上は、実子ができても、養子を返したりしない。また、その実子を相手の家にやり、相手もまたその子を嗣子にする。
B――当時の人々の行動倫理は、そんなぐあいに義理の堅いものだぜ。兄貴の頼藤杢之助は、長岡興長の児小姓に召抱えられて、以後、正保二年(1645)元服して、知行百五十石で御台所頭役。慶安三年(1650)加増五十石で都合二百石。興長の寵臣だったのだな。寛文元年(1661)、興長が死んだおり、杢之助は殉死した。このとき興長の死に殉死したのは九名。三万石の家禄とはいえ、大名ではない、細川家の家老だぜ。これは多い殉死だな。
C――とくに頼藤杢之助は、島原役後の新参にもかかわらず、興長の児小姓に召抱えられての出世だから、愛顧一方ならぬものを感じての殉死だろうな。
A――頼藤杢之助は長岡興長の側に居たから、これは武蔵を身近に見ていますな
B――それは児小姓のときだな。元服したのが、武蔵が死んだ正保二年。この頼藤杢之助を実兄にもつ、豊田専右衛門高達というのが、豊田正剛の父なんだ。

*【二天記序文】
豐田氏三世、能學其技而淑諸人。今子俊、校父祖所記、欲以示人。亦善繼志述事者也》


*【豊田氏略系図】

○豊田次郎景俊―但馬守景次─┐
 ┌────────────┘
 └───(16代略)────┐
 ┌────────────┘
 └豊田甲斐正信─甚之允高久┐
 ┌────────────┘
 │岡田四郎次郎  橋津卜川
 ├専右衛門高達┬又四郎正剛─┐
 │      │      │
 └信房    └源右衛門正敬│
  頼藤浅右衛門       │
 ┌─────────────┘
 │ 橋津八水
 └彦兵衛正脩┬某
       │
       │復姓豊田
       ├専右衛門景英
       │
       └仙九郎
        高野平右衛門




橋津 豊田氏故地



*【豊田氏先祖附】
私高祖父豊田甚之允[高久]は、右豊田甲斐子ニて御座候。元和元年、従忠興公五人扶持拾五石被為拝領置候得共、其後御断申上浪居仕候処、寛永元年、従興長公御懇意を以被召抱、往々は御知行をも可被下旨ニて、五人扶持拾三石被為拝領、同九年十二月、肥後御入国の節御供仕、家内の者共は在所え残置、同十一年二月、当御国え妻子等引越申候》
《曾祖父豊田専右衛門[高達]は、福嶋家の浪人・岡田権左衛門正継末子ニて、初名岡田四郎次郎と申候。兄頼藤杢之助と一所ニ居申候を、豊田甚之允養子ニ仕、豊田専右衛門と改、其後甚之允実子出生仕候を、頼藤杢之助養子ニ遣、頼藤浅右衛門信房と申候》





原城攻諸大名布陣図

*【頼藤氏先祖附】
《頼藤杢之助具定は、右権左衛門嫡子ニて、始岡田庄五郎と申候。寛永十四年、有馬陳の節、有馬中務太輔殿家老渡瀬将監より、松井三左衛門一秀方え書通仕、三左衛門取次を以、智海院様御児小姓被召抱、頼藤杢之助と改申候。頼藤と改候次第は、往昔応仁の比、佐藤豊後守宗房と申者、播州赤松家に属し、其子孫福島家に仕、頼藤杢兵衛定房と申候。其女は杢之助母ニて御座候故、氏を頼藤に相改申候。杢之助儀、御国え罷越候節、老母并弟二人召連参候。弟一人は岡田右衛門と申候。末弟岡田四郎次郎と申候は、豊田甚之允養子ニ遣、豊田伝右衛門と改申候。杢之助儀、正保二年執前髪候上、御知行百五十石被為拝領、御台所頭役被仰付、同四年三月、智海院様江戸御参府の節、御供相勤申候。慶安三年八月、智海院様杢之助宅え被為掛御腰候節、為御加増五十石被為拝領、右御知行両度の御書出頂戴仕候。寛文元年六月、智海院様被遊御逝去候節、杢之助儀、殉死仕候。其以降、御年忌の節毎ニ、杢之助子孫拝領物等被仰付候》




*【豊田氏先祖附】 高久
《同(寛永)十三年、江戸幸橋・銭亀橋石垣御普請御手伝忠利公被為蒙仰、依之興長公江戸え御越被成候付、甚之允儀御供仕、御普請場夫仕役被仰付、出精相勤候付、為御褒美毛織の御羽織菖蒲革の御立付被為拝領候。同十七年、御用ニ付長崎え被差越、明暦元年十一月廿二日より、松江村・海士江村海辺新塘、都合千五百余間築の節、支配被仰付、同廿七日成就仕、同二年、古閑村新塘六百三十余間築の節も御用被仰付、同三年、江戸御城御普請の節、従興長公御役人被差出、甚之允儀も被差登、出精相勤申候。直之公御代、歩御小姓組被召加、御台所奉行被仰付、其後及老極御役儀御断申上退休仕、延宝四年七月、病死仕候》





幸橋と銭瓶橋
武州豊嶋郡江戸庄圖





江戸城和田蔵門遺構












天下普請前の江戸
皇居・JR駅との位置照合
A――高達は、豊田家の養子になったのだが、この人は興長から、馬術を稽古しろと云われて馬術をやる。養父の豊田高久はまだ現役だ。高久は、武芸の方はあまり達者ではなかったようだ。
B――他家の先祖附は、天草島原の役について軍功を華々しく書出しているが、この豊田高久には何の記事もない。戦場に駆り出されたが、前線に出て戦う機会がなかったか、それとも肥後留守番組だったのかな。
C――高久の経歴を見ると、だいたい普請方だね。土木関係の仕事だ。おかげで、寛永十三年(1636)の天下普請に江戸へ連れて行かれておる。江戸城の完成をみる外郭工事だな。八代では堤防工事に携わっているし、明暦の大火の後には、また江戸へ連れて行かれて、江戸城再建工事に関わっている。だから高久は、江戸には二回行っている。
A――江戸城には、五人扶持十三石の豊田高久の汗が沁みついているのですな(笑)。
B――天下普請は平時の軍役とでもいうべきもので、諸大名の財力を吸い上げる搾取システムだ。細川家は五十万石以上だから、課役も大きいから、工事規模も大きい。拠出人夫も多い。一般に「千石夫」とはいうが、実際にはその何倍も出した。細川家は数千人も出す。寛永十三年(1636)の天下普請のとき、長岡興長は普請惣奉行で江戸へ乗り込んで、細川家担当工事の陣頭指揮した。高久は工事現場の夫仕役、人足の人事係だね。
C――このときは、高久が関わったという工事現場はどこかというに、幸橋と銭瓶橋の石垣工事。江戸城外郭工事で、多数の門を造ったからこれはその一端だね。いまで云うと、新橋駅近くに幸橋門があり、銭瓶橋は現在の千代田区大手町二丁目付近。石垣工事には特殊技能が必要なのは云うまでもないが、細川家は何回も城を作ったから、その技術力はある。ただ石垣工事ということは、たんに石を積むだけではなく、その石材調達とそのために運搬船から造る。材料調達から工事まで全部自家負担。
A――石材は伊豆から運ぶ。それで、このときのことかな、例の都甲金平が石を盗んだという話は(笑)。
B――あれは後世の民話伝説の類いだぜ。顕彰会本(宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』)が原田氏雑録という本から引用して、それをまた、森鴎外が顕彰会本から孫引きして、小説(「都甲太兵衛」)に書いて、有名になった話だが。
C――そもそも、この話は設定がおかしい。というのも、徳川将軍が江戸城を修築するにあたって、金品石材等を賦課した、なんぞというのだね。すると、この記者の頭には、大名は材料供出だけして施工はしなかった、というイメージなんだな。
A――おいおい、それならその石材でだれが石垣を積むのかよ、ということになる(笑)。
C――諸大名の「御手伝」は、材料調達から工事施工まで全部を含む。だから、石材納入で仕事が終り、というわけにはいかない。この民話伝説はそういうことを知らずに語っている。
A――さらに変なのは、都甲金平が石を盗んだというので、幕府の監獄に入れられて、拷問詮議されるというくだりね。
B――それもありえない状況だ。だいたい、大名の家臣を幕府が勝手に逮捕監禁できるわけがない。大名が自家で詮議もせずに、身柄の引渡しをするはずもない。そんなことになれば、さっさと腹を切らせておるよ(笑)。
C――森鴎外ともあろう人が、これを真に受けたかたちで、あれこれ考証しておるが、そもそもこれが民話伝説の類いだという認識がない。江戸城を完成させた寛永十三年の天下普請、という一件も認識がないから、これは徳川実記にある寛永十六年の修築の時だろうと推測してしまう。
B――それ以前に寛永十三年の天下普請がある。森鴎外ともあろう人が、とは云うがね、鴎外の歴史小説はけっこう恠しい説が多いぜ(笑)。とにかく、都甲金平の石盗人の話は、後世の民話だな。
A――江戸といえば、武蔵が二十代の慶長後期、もし武蔵が江戸へ行っていたら、これは天下普請の最中ですな。
B――家康は慶長八年に征夷大将軍、武家の頭領になって、江戸の城と町を大規模に建設するから、さあ手伝え、となった。諸大名は課役分担に応じて、土建屋になった(笑)。
A――ただし、この請負業者たちは全部自腹を切って施工する(笑)。
C――それに加えて、諸大名に、城前の入江を埋立てて自分の屋敷地を造成しろ、と命じるわけだ。諸大名は、いまの日比谷、新橋から大手町あたりまであった入江を埋立てて、大名屋敷地を獲得する。
B――城前の入江というのは、鈴木理生などが江戸前島と呼んでいる岬との間にあった入海のことだな。
C――そう。屋敷地をくれると云っても、「えっ、どこに?」となる。「ほれ、あそこだ」と指差す彼方をみれば、江戸城前の入海(笑)。これはジョークではなく、自分らで埋立てろという話。
B――これはだ、戦国大名がどこそこの国を与えると言われて、征伐に出るのと同じ。支配者は自力で領国を手に入れる。制圧できれば、自分の領国になる。出来上がったのをポンとくれるわけじゃない(笑)。
A――だから、武蔵が江戸へ行っても、工事現場なんだ。武者修行どころじゃない。相手もいない(笑)。
B――かんじんの家康だって、当時は江戸にはほとんど居ない。たまに、工事の進捗状況を見にいくだけだ。
C――駿府城ができるまでは、たいていは京・伏見にいたね。慶長8年、家康は江戸に幕府を開く、というのは実態ではない。家康が将軍宣下を受けたのは、伏見城だ。
A――すると、慶長八年、家康は伏見に幕府を開く、と訂正だ(笑)。
C――江戸に幕府というのは、家康が秀忠を征夷大将軍にした後のことだ。それまでは、幕府は家康の行くところ、どこへでも移動していた。
A――先ほどの話だが、当時江戸には、これこれの名立たる剣豪がいた、にもかかわらず、武蔵はそんな手強い相手と勝負していないじゃないか、というのは筋違いの話なんだ。
B――武蔵が諸国武者修行に歩いた慶長後期、江戸は当時工事現場なんだ。江戸建設の工事がおちつくのは、武蔵が廻国修行を切り上げたあとだ。当時江戸には、これこれの名立たる剣豪がいた、なんていつの話なんだよ、ということ。
C――もともと寛永も慶長も時代をごちゃまぜにした、子どもじみた話なんだよ(笑)。そんな蒙昧な批評が出たのは、大正の山田次朗吉以来。起源ははっきりしておる。
B――若き武蔵が江戸に行ったとしたら、家康がどんな城の縄張りをするか、みてやろう、ということだったろう。
C――まあ、軍学の勉強にはなっただろう。
A――話をもどせば、豊田高久は主として普請方の下士だったが、その養子・高達の代になって百石の知行取りになる。兄貴の頼藤杢之助が長岡興長の寵臣で、二百石取りにまでなってしまったから、これは興長が高達にも目を掛けたということかな。
C――いや、高達が百石取りになるのは、ずっと後のこと(貞享三年・1686)。興長在世中は、もちろん養父の豊田高久は現役だから、高達は部屋住みで、そういうことはない。ただ、明暦年間に父とは別禄で、切米八石二人扶持という役料は受けたようだが。それより、興長から、おまえは馬術に励めと云われて、依助流馬術を学ぶ。
A――馬術の依助〔よりすけ〕流というのは、豊後杵築藩で伝承されたというから、あながち長岡家中とは無関係ではなさそうだね。
B――大坪流はじめ有名な馬術流派があるが、依助流はローカルな流派だろうね。依助流については我々にはあまり情報はない。ただ、高達が、兄貴のように興長の寵臣にはなれず、武芸でもやって出世の機会を狙えというだけでもなかったようだな。
A――高達は、尾池藤左衛門の弟子になって、依助流馬術を学んだとあるが、この尾池藤左衛門、足利道鑑の息子ではないか?
C――足利道鑑(1564〜1642)は、尾池玄蕃と名のっていた。息子に尾池伝左衛門(西山左京)と、その弟・尾池藤左衛門がいて、これはどちらも細川家で千石を食んだ。長岡監物宛足利道鑑書状(寛永十八年十二月二十一日)に、「せがれ藤左衛門」が知行を受けた礼が述べられているから、藤左衛門はこの頃細川家に召抱えられ、熊本へやってきたことになる。
B――なにせ、尾池玄蕃こと、十三代将軍足利義輝の子・足利義辰だからねえ(笑)。出生と前半生には不明な点が多いが、とにかく彼は讃岐にいて、生駒氏のもとで千石を食んで、息子もいた。ただし、讃岐の尾池氏となると、これは話が違って、生駒親正が播州龍野から讃岐へ入部する以前からいた武将だ。
A――地元では、讃岐富士(飯ノ山)の北西にある青野山城が、生駒氏時代の尾池玄蕃の居城だという(香川県丸亀市土器町東)。となると、このあたりが足利道鑑関係地。讃岐は讃岐でも西讃、高松というより丸亀の方ですな。四国遍路というか、いまや讃岐うどんの聖地の真ん中だが(笑)。
B――足利義辰は尾池玄蕃と名のって、生駒氏の下にいたが、隠居して、肥後の細川忠利に客分で迎えられた。それが寛永十三年(1636)だとすれば、こちらが先だ。息子の尾池伝左衛門も、その弟・藤左衛門も生駒高俊に仕えていた。ところが寛永十七年(1640)の生駒騒動で生駒高俊は改易、これで、たぶん足利道鑑の二人の息子も牢人して、彼らを細川忠利が拾ったということだな。
A――そこで寛永十八年(1641)となると、武蔵はすでに熊本に来ていて、その正月には足利道鑑はじめ息子の西山左京や孫たちとともに奥書院で新年を祝っておりますな。尾池藤左衛門が家族を連れて肥後へやってくるのは、その年の暮。
C――兄貴の伝左衛門、西山左京の系統子孫は、その後肥後で存続した。他方、藤左衛門は二十年ほど細川家に属したようだが、寛文元年(1661)八月に御暇、という。この年の六月に長岡興長が死んでいるから、藤左衛門のこの致仕が、それと何か関係があるのかもしれない。ともあれ、長岡興長が生きている間は、尾池藤左衛門は熊本にいて細川家に仕えていた。長岡興長の指示で、豊田高達が尾池藤左衛門に依助流馬術を学んだというのは、豊田家の口碑だろうが、これは本当だろう。
B――わざわざ「尾池藤左衛門殿」と子孫が記録しているくらいだからね。すると、足利道鑑の息子・尾池藤左衛門と依助流馬術という興味深いリエゾンが、ここに見出される。しかし当面は、それ以上のことはわからんな。
C――さて、養父の高久は延宝四年(1676)に死んだ。時期は不明だが、それ以前に隠居しているな。高達がいつ家督相続したか、先祖附に記事がないから分からんが、直之(1638〜1692)の代に、高達は中小姓に召し直されて御馬方を勤める。興長に言われて馬術稽古に励んでいたようだから、この時期も騎馬隊に配属というかたちだな。しかしその後は、御納戸役、御勘定根取役と重職を歴任するようになる。
A――高達は、経済官僚として出頭してくるわけだ。
B――そこで例の、御奉行役・掘口庄右衛門と出入、という事件が起きるね。
A――例の、といっても、まだ我々の間でしか、その「例の」は通じませんぞ(笑)。
B――ははあ、そうだった(笑)。とにかく延宝七年(1679)、掘口庄右衛門と出入の儀有之、という事件を、高達は引き起こす。出入という表現をみれば、掘口庄右衛門と対立して訴訟沙汰になった。これは、武士の間の喧嘩だからただではすまない。
C――その対立の原因は、明らかではないが、たぶん職務上のことだな。当時、御奉行役・掘口庄右衛門勝広は農政の責任者、対するに豊田専右衛門高達は、勘定頭、財務の責任者だね。これは年貢徴発にからんだ対立があったとみるべきだろう。
B――おそらくそうだろう。掘口庄右衛門は、先祖附によれば、丹後久美浜で松井康之に仕えて以来の古い譜代で、父の堀口恒広は二百石、島原役の原城攻めのとき、笠印が同じだったので松井外記元勝とひと悶着あった。お互いに相手の笠印を変えろと言い合ったが、松井外記の方が折れた。そんな喧嘩があって後は二人は逆に仲良くなって、同心して共に死のうと契り、実際に二人共に戦死した。堀口恒広の嫡男は十五歳の三太郎、病を押して参戦し、負傷した。戦役後、父の家督二百石を継いで、堀口庄右衛門勝広。
C――この堀口庄右衛門は、当時、知行奉行と御奉行兼役。田地の開発や灌漑治水工事の責任者で、検地や年貢には農民の味方をしたりと、父親に似てなかなか筋を通す人物であったようだ。これが、なぜ御勘定頭・豊田専右衛門高達と出入、公事となったか。というと、おそらく、年貢のことで、堀口庄右衛門は農民側に味方して、財務担当の豊田専右衛門と対立し、喧嘩口論に及んだということだろうな。
B――家中で喧嘩となると、かなりきびしい状況におかれる。間違えば切腹ものだ。豊田高達は山本弥左衛門に身柄を預けられ、詮議を受けることになった。
A――その山本弥左衛門というのは、それこそ例の、山本源五左衛門勝安(士水)の弟でしたな。山本勝安は、家中の重役だが、武蔵の直弟子で、豊田正剛が若い頃話を聞いたという人物の一人。
C――そう。山本弥左衛門はその山本源五左衛門勝安の弟。兄の勝安が隠居して、家督七百石を嫡子勝秀が相続したが、その後勝秀が京都で病死したため、源五左衛門勝安の弟・弥左衛門が、父の本知五百石を与えられるというかたちで、山本家を嗣いだ。
B――その、京都で死んだという勝安の息子な、先祖附に初名「源助」とあるから、これは例の山本源介だろう。
C――細川家本『五輪書』の奥付には、寛文七年(1667)二月五日の日付と、寺尾夢世勝延つまり寺尾孫之允の名と、山本源介という宛先が記してある。これが山本勝安の嫡男、山本源左衛門勝秀なんだろうと当たりがつくね。
A――京都へ治療に行って病死というのは、何だか臭うな(笑)。
B――病気というのは、何かありそうだが、よく分からんのだよ。
C――しかし、この豊田高達の出入事件のときは、山本家では嫡子相続以前のことで、弥左衛門が中小姓頭をしていた頃のことだね。弥左衛門は組頭で、その組のメンバー、豊田高達が堀口庄右衛門と出入を起したので、身柄を拘束して詮議した、ということだろう。
B――高達は詮議を受けたが、彼に理があったと認められたのか、赦免され事件は解決した。役目(勘定頭)も元通りに回復された。しかも、同年八月、合力米二十石を拝領、御馬乗組に召し加えられ、御台所頭を命じられたというから、これは加増も昇進もあったということだよ。
A――豊田高達は微禄だが、たぶん山本源五左衛門のバックアップもあって、知行奉行と御奉行兼役の堀口庄右衛門に勝訴したというですな。他方、堀口庄右衛門の方は、可哀相なことになった。
C――堀口庄右衛門は、吟味を受けて落度ありとされ、主人・直之の勘気を蒙り御暇、つまり家禄を召上げられて、浪人の身となった。息子の堀口左次兵衛が、以前から召し出されていて、合力米三十石で御小姓頭を勤めていた。こちらはそのまま構いなしで、奉公をゆるされた。庄右衛門は屋敷を立退き、息子と一所に暮らすようになった。しかし、その後、左次兵衛も辞表を出して致仕、浪人となって、父親の庄右衛門とともに宇土郡佐野村というところ(現・熊本県宇土市松山町)へ引き移った。庄右衛門は同地で歿。親子共に筋を通して、致仕して八代を退去したのだね。
A――そういう話になると、豊田高達は敵役ですな(笑)。
C――このまま堀口家の帰参が実現しなければ、喧嘩相手の豊田高達の方も寝覚めが悪かったに違いないが、ともあれ、堀口家は後に、堀口庄右衛門の孫の兆九郎の代に、出家していたのを召し返され、八代へ復帰できた。堀口との出入の一件のその後は、豊田高達はさらに順調に出世した。つまり、天和二年(1682)、御作事奉行。貞享三年(1686)、知行百石を与えられて、熊本詰御奉行役・御長柄頭を兼帯、同年十一月、熊本へ引越すという栄進ぶりだな。
A――先代の高久が五人扶持十三石という無足の給料取りであったのに対し、このとき豊田家はようやく領地のある身分になった。しかも百石の知行。それが本府・熊本への赴任人事と一緒だった。ここから、豊田家の熊本居住期になる。


松井文庫蔵
長岡興長像

*【豊田氏先祖附】 高達
《専右衛門儀、慶安四年、興長公御意ニて、尾池藤左衛門殿、依助流馬乗形の弟子ニ被仰付、稽古仕候処、 明暦年中、御切米八石弐人扶持被為拝領、御小姓組ニて御馬方被召出》


*【長岡監物宛足利道鑑書状】
せがれ藤左衛門身上之儀、今度於伏見従太守様別而被加御懇、其上御知行并当物成残所無御座様ニ被仰出候処、弥貴殿様御取成故外聞実儀忝次第御礼難申尽存候。就夫女子共召連今日十七日ニ致熊本着仕候、宿之儀奉行衆并備前守殿御相談ニ而刑部殿御屋敷長屋を御借候而かしニ付而手前より作事仕有付候、御心安可被思召候、愚老忝様子書中ニ不述申候、御次而も御座候ハゝ可然様ニ御取成万々奉頼存候》(寛永十八年十二月二十一日付)


1954年撮影
尾池玄蕃讃岐関係地周辺
青ノ山の向うに讃岐富士



八代市立博物館西山家文書
西山左京宛長岡興長書状



*【豊田氏先祖附】 高達
《直之公御代、御中小姓被召直、御馬方相勤居申候内、御納戸役被仰付、其後御勘定根取役被仰付、延宝七年、御奉行役・掘口庄右衛門と出入の儀有之、専右衛門は山本弥左衛門え御預被成、御詮議被仰付、事相済被成御免、御役儀如本被仰付、同年八月、御合力米弐拾石被為拝領、御馬乗組被召加、御台所頭被仰付》


*【堀口氏先祖附】
《曾祖父・堀口庄右衛門勝広儀、初名三太郎と申候。右少右衛門恒広子ニて御座候。(中略)其後、御知行奉行数年被仰付、又御奉行兼役相勤居、杉水村庄屋、野開を掠メ申候付、獄者被仰付候一巻ニ付、本地・野開共ニ検地可被仰付旨、御奉行所より御達御座候処、庄右衛門儀、御奉行所え罷出、段々様子申上、検地被仰付候儀被差止候。玉名郡御知行中、所々日損田御座候付、堤を十ケ所申付、日損無之様取計、松求麻村百姓困窮仕候付、一両年の中勝手能成候様取計申候。且又高子原御開大成御物入ニて、四五年ぶり出来仕候処、大風ニて塘切、御開再興不容易儀ニ付、従太守様御物入ニて、新塘出来候筈ニ御座候処、百姓中ニ寄築の仕法被仰付候様取計、御開出来仕候付、御物入少ク御座候由。其後、御勘定頭・豊田専右衛門と及公事申候儀御座候付、段々御吟味被仰付候処、庄右衛門越度罷成、延宝七年十一月、蒙御勘気御暇被下候。倅・堀口左次兵衛儀は、以前より被召出相勤居申候得共、無御構被召置候付、庄右衛門儀も左次兵衛一所ニ罷居申候》


*【山本氏先祖附】
《曾祖父・山本源太左衛門金重儀、初名は弥左衛門と申候。源左衛門五男ニて、覚雲院様御側被召仕、新知百五拾石被為拝領、御鉄炮頭被仰付、追々御加増被下三百石ニ相成、御側御中小姓頭・御奉行兼役被仰付候処、親源左衛門本知五百石被為拝領、御番頭被仰付候。此節源太左衛門と改申候。元禄二年十二月病死仕候》



細川家本五輪書奥付
《寛文七年
  二月五日  寺尾夢世勝延[花押]
     山本源介殿 》




八代城址


*【堀口氏先祖附】
《父・堀口兆九郎兆貞儀は、右の左次兵衛嫡子ニて御座候。左次兵衛浪人仕候付、筑後三池の普光寺弟子ニ相成、天台僧ニて御座候処、覚雲院様、山名十左衛門様と被仰談、普光寺え被及御取遣、元禄二年、御呼返被成、還俗被仰付、堀口庄七と御付被成候。此時十七歳ニ罷成申候。邀月院様御部屋住の御中小姓ニ被仰付候。此時、兆九郎と改申候》


*【豊田氏先祖附】
《天和元年正月、直之公御参府の節、御供被仰付、同二年正月、御作事奉行被仰付、貞享三年九月、御知行百石被為拝領、熊本詰御奉行役・御長柄頭兼帯被仰付、同十一月熊本え引越申候。其後、直之公一日の御茶屋ニて、段々御懇の以御意、御自作の御花生被為拝領、今以所持仕候。専右衛門儀、松村九大夫殿柘植流の鉄炮門弟ニて、一流相伝相済居申候ニ付、足軽を二手ニ分、一手は、凾山流猿渡助之允指南被仰付、一手は、専右衛門弟子ニて稽古為仕、其外御家中并御城付衆ニも専右衛門門弟多有之、熊本御屋敷足軽えも指南可仕旨被仰付》



*【堤氏先祖附】
《曾祖父堤又左衛門永衛儀は右九郎右衛門永正嫡子ニて御座候。初名作平、次兵衛、次平、八郎右衛門、甚右衛門と申候。明暦元[乙未]年、十五歳ニて興長公御代被召出、同年十二月、直之公被為執御前髪、御新宅ニ御移被遊候節、御附御児小姓被仰付、其後御中小姓被召置相勤居申候処、熊本ニて出火の節御供の間ニ合不申、御給扶持被召放、阿蘇え浪居仕、同氏方え暫罷在、其以後、豊後ニ罷越居申候内、柘植流・妙玉流両流の鉄炮相伝仕、右の書伝来仕候。寛文十[庚戌]年、帰郷仕候様ニ被仰付、八代え罷帰申候処、直之公御代、寿之公御部屋附御中小姓ニ被仰付□□□、直之公御側ニ被召置》



*【猿渡氏先祖附】
《曾祖父・猿渡助之允元正儀は、右五郎左衛門子ニて御座候。直之公御代、御中小姓組被召出、並の御給扶持被為□□、御作事所御目付役被仰付、相勤□□□、中村助之進鉄炮の門弟□□。延宝五年於高島、助之進一同ニ大筒六百目丁打被仰付、相済候節、於御城、助之允儀、兼て函三流炮術出精仕候旨被仰渡、西垣長兵衛を以、羅沙の御陣羽織被為拝領候。其後御鉄炮の者を二□□□□豊田専右衛門門弟ニて、植柘流の鉄炮稽古仕せ、一手は助之允弟子ニて、指南仕候様被仰付候。貞享元年三月、父五郎左衛門、願の通隠居被仰付、家督無相違被為拝領、御馬廻組被召加、御知行奉行役被仰付、相勤居申候処ニ、元禄元年七月、病死仕候》
C――この熊本赴任と前後して、高達の息子・正剛が、直之に召し出された。正剛は十五歳だな。同年十一月、熊本へ一家は引越。同月、正剛の勤め方が御意に叶うとのことで、小袖を拝領した。翌年、正剛は、直之の嫡子・寿之(ひさゆき・1668〜1745)の御部屋附きとなる。このとき寿之は二十歳。豊田家は目をかけられる家になっておる。
A――豊田高達は熊本詰奉行役・長柄頭を兼帯、つまり、長岡家の熊本屋敷詰め奉行役と大槍組隊長の兼務ということだが、どうして高達はここまで出世できたか、ということですな。
C――勘定方の能吏という側面もあったろうが、高達は先代にはない武芸の方面での才能があったらしい。若年の頃、長岡興長に馬術をやれと云われて、依助流馬術を稽古したが、それだけではない。鉄砲術の指南役もやったようだ。
B――そうだな。高達のは、柘植流砲術。鉄砲足軽を二手に分け、一手を高達が指導した。もう一手の方は、凾山流の猿渡助之允が指南というわけだ。
A――柘植流というのは、肥後流伝は比較的新しいですな。
B――柘植流鉄砲は、伊賀の柘植三之丞に発するといって、尾張では威風流として伝承された。確かなことは不明だが、柘植流鉄砲術は、慶安の頃の柘植宗勝が祖で、信濃松代で伝わり、肥後では森甚之進が師範で教えたというね。だが、肥後には、砲術は種子島流をはじめ、三破神伝流・稲富流・太田流・渡辺流等々あって、柘植流というものを聞かない。それゆえ、信州上田と肥後八代にその余流の記録があることは興味深い。
C――それに関連して言えば、『武公伝』に、寺尾孫之允(夢世)の弟子を列挙するなかに、堤次兵衛永衛の名があるね。堤氏先祖附によれば、これは、堤又左衛門永衛(1641〜1731)という、九十一歳まで生きた人だな。元禄十四年(1701)隠居して一睡と号した。豊田高達の孫にあたる正脩は、『武公伝』をまとめた人物だが、この堤永衛から、武蔵流の五法を相伝されたらしい。
A――堤次兵衛は、隠居して三十年も生きていた。九十歳になったというので表彰されて、翌年の九十一歳まで生きた。当時としては長命ですな。
B――この人は柘植流・妙玉流両流の鉄砲相伝をうけた人物だ。堤次兵衛は、若年の頃、興長に召し出されたが、一度召し放され浪人したことがある。そのとき、豊後で、柘植流と妙玉流の両流の相伝をうけたという。妙玉流の方は不詳だが、豊後の杵築あたりで柘植流の伝承者がいたのだろう。ともあれ、武蔵の孫弟子に、柘植流鉄砲の相伝者があったということになる。堤次兵衛は、寛文十年(1670)に直之から呼び戻され帰参が叶う。堤次兵衛と豊田高達との関係は不明だが、柘植流鉄砲術が八代へ伝わった経路はわかる。
C――鉄砲足軽を二手に分けて、一手を柘植流の豊田高達が指導した、もう一手の方は、凾山流の猿渡助之允が指南、というわけだが。
B――この凾山流は、隆安(高安)凾三流のことだな。毛利輝元に仕えた中村若狭守隆康が、種子島でポルトガル人に砲術を学んだ。この砲術は大砲も含むらしい。中村隆康から市郎右衛門へと相伝して、三代目の中村助之進が細川忠利に仕えた。以後、肥後では中村家によって伝承されたらしい。この中村助之進は、元禄御侍帳に、御詰衆四番・小坂半之丞組、御音信奉行、二百五十石などの記事がある中村助之進喜入のことだろうな。助之進の養嗣子が、中村角大夫で、彼は細川家江戸屋敷で赤穂浪士の赤垣源蔵を介錯した人である(笑)。
C――そうしてみると、猿渡助之允は中村助之進から凾三流を学んだものらしい。猿渡助之允元正は八代の長岡家士で、先祖附が残っているが、それをみると、中村助之進鉄炮の門弟とあるし、凾三流炮術に精を出すよう仰せつかったとある。また、鉄炮の者を二手に分け、一手は豊田専右衛門門弟で柘植流の鉄炮を稽古させ、一手は助之允の弟子で指南させたと、豊田氏先祖附と符合する記事がみえる。
B――そういうわけで、豊田正剛の父・高達は、鉄砲師範だった。御家中(長岡家臣)ならびに御城付衆(八代城守備に配属された細川家士)に門弟が多数あり、長岡家の熊本屋敷の足軽にも指南したというわけだ。
C――さて、やっと豊田正剛の話になるが(笑)、正剛は十七歳のとき(元禄元年・1688)元服。額を直した、前髪をとった、というから、それまでは児小姓の姿で、前髪もあったということだね。上下(裃)の時服も頂戴し、中小姓組に配属された。翌年(元禄二年)閨正月、直之の側に召返されたというから、中小姓組から再度直之の近習になったということだろう。さらに二十歳になって、御納戸方・御書方御書物支配・御取次役、御側御番という、あれこれ具体的な役儀に勤務している。
A――御書方御書物支配というのは公文書の管理人ですな。
B――そういう方面に才のあるところを見出されていたらしい。このころ、父の高達は熊本屋敷詰め。高達は、柘植流鉄砲師範として、長岡家中の士や八代城番衆などに教えていた。おそらく熊本と八代の間を往還していただろう。息子の正剛は、父と熊本に居ただろうが、召し出されて直之や寿之の側に勤務するようになって、これも主人に付いて熊本と八代を往復していただろう。
C――高達が八代へ戻るのは、崇芳院(寄之室、直之母)お附きとなって、八代へ転勤となったときだな(元禄四年・1691)。それより前、元禄元年(1688)、直之が母・崇芳院のために茶屋・松浜軒(浜の茶屋)を建てている。崇芳院は長岡(三淵)右馬助重政の女・古宇、母は松井康之の女・たけで、崇芳院(古宇)は康之の孫にあたる。崇芳院は長命で、正徳元年(1711)歿だから、正剛が四十歳のころまで生きていた。
B――直之が造った松浜軒は今も現存している(熊本県八代市北の丸町)。松浜軒、浜の茶屋というから、当時はこのあたりが浜辺であったようだな。
A――松浜軒を訪れる人は、豊田正剛の父・高達が、晩年、崇芳院の御付人だったことを想い起してほしいものである(笑)。
C――ところで、二十一歳の正剛は、直之の参府の供をして江戸へ行く(元禄五年・1692)。こういう江戸参府があるのは、長岡家が細川家老でありながら、大名格の扱いを受けていたからだね。
A――正剛にとってはじめての江戸は、刺激的な元禄の江戸だ。
B――しかるに、江戸へ行った十月上旬から直之が大病、このため遺書を用意することになり、近習の正剛が執筆を仰せつかったという。正剛が直之の遺書を書いたというのも面白い。本来は右筆の仕事だが、正剛は、国では御書方御書物支配などを勤めていたから、おそらく、文才があったのだろう。そうして、病に倒れた主人・直之は、同年暮の十二月、江戸で死亡、享年五十五歳だな。正剛は、直之の遺骸の供をして帰国した。
C――直之は、寄之の長男。寛永十五年(1638)生れだから、ちょうど筑前の吉田実連と同い年だな(笑)。まあ、そういう世代だということだ。興長が寛文元年(1661)に死ぬと、父の寄之が八代城を預かるから、直之は二十四歳で細川家家老、若き太守・細川綱利(1641〜1712)を支え、藩政中枢で政務にたずさわるようになった。しかし間もなく、寛文六年(1666)に父の寄之が没、そうして二十九歳で八代城を預かる細川家筆頭家老になった。地元の研究者は、家老・直之は当時逼迫していた細川家の財政を立て直すに功があったというね。
A――そうして直之死去で、主家は代替りして、直之の嫡男・寿之の代になった。
C――元禄七年(1694)三月、高達は病気で隠居して、二十三歳の正剛に家督(百石)を相続した。正剛は、御馬乗組に配属された。翌年(元禄八年・1695)三月、高達は病死した。この例もそうだが、当時、武士が隠居して死ぬまで、割合短期間のケースは多い。つまり、ほぼ終身勤務ということのようだ。老いてくると楽な役職につき、引退すれば、何がしかの隠居料が出る。
A――江戸時代の老人福祉は、けっこう行き届いていた(笑)。
C――正剛は、二十五歳のとき(元禄九年・1696)御目付役。家中の監察が仕事だ。おもしろいのは正剛について、騎馬早打、つまり騎馬での急使の役を勤めていることが何度が記されていることだね。元禄の十年(1697)六月、十三年(1700)十二月、十六年(1703)正月、という三回が記録されている。
A――馬術の腕前の披露ということかな。親父の高達は若い頃、依助流馬術をやったというし。
B――だろうな。正剛は、御馬乗組つまり騎馬隊に配属されておる。
C――元禄十年の騎馬早打は宇土への急使であるという。いや、宇土への急使をつとめたのは、この元禄十年と十六年の二回だね。宇土城は、熊本と八代の中間にあって、八代から北へ六里ばかり、熊本から南へ四里ほどのところにある。宇土領三万石は、正保三年(1646)細川光尚の代に、熊本の本家から分知して設けられた、いわゆる支藩。同じ三万石であったが、細川家家老の長岡(松井)家が城を預かっていた八代とは異なる。
B――宇土は、独立した大名領の扱いだな。筑前の黒田家が、秋月と東蓮寺に支藩を立てたように、御家存続のための一種の保険だな。
A――この当時の宇土細川家の当主は、有孝(1676〜1733)だね。細川三斎(忠興)からすると、四男の立孝(1615〜45)の系統で、孫が行孝(1637〜90)で、これが宇土細川家初代、そして二代目が行孝の子の有孝、三斎の曾孫ということになる。
B――ついでにいえば、このころ、筆頭家老の長岡家でも分家が生まれている。寿之の弟・祐之(1672〜1747)は二千石を与えられていたが、元禄十五年(1702)家老職、二千石加増で都合四千石。ここで、祐之を初代とする分家の古城家が発足、というわけだ。
C――古城家は後で本家と養子のやり取りをするね。寿之の三代後の営之(ためゆき・1737〜1808)の代に、息子の誠之を古城家の智之の養嗣子にやる。本家の方は、徴之(あきゆき・1766〜1826)の養嗣子に、その智之の息子の督之(ただゆき・1796〜1840)をいれている。
A――息子の交換をしてるみたいですなあ(笑)。
B――徴之の嫡男・存之が早死にしたからね。古城家から嗣子を調達した。分家が御家存続の保険になる例だ。督之を養子にした翌年、徴之には男子ができた。それで、この子・章之(てるゆき・1813〜87)を督之の養嗣子にして、無事御家安泰というわけだ。
C――かなり脱線してしまったので、話を豊田正剛にもどせば(笑)、騎馬早打のもう一つの事例は、元禄十三年(1700)十二月、熊本への急使。寿之が熊本へ出府して留守中、桂光院の御部屋から出火したという。この事件を寿之へ報告するためらしい。この桂光院とは、寄之女の滝(たま、1644〜1723)のことだね。彼女は当時五十七歳、当主・寿之にとっては叔母(父直之の妹)にあたる。
A――この女性は、刑部家の細川将監興之に嫁したが、夫が若くして死んで、八代へ戻って暮らしていた。叔母さんの屋敷が火事だ、それは大変だと、当主の寿之が文字通り馬で駆けつける(笑)。
C――ただし、桂光院御部屋というから彼女の屋敷は、城内にあったのだろう。八代城内での火事となると、城を預かる長岡家当主としては、何よりも大ごとだったのだよ。
B――それで、寿之がすっ飛んで八代へ帰った。豊田氏先祖附ではわからないが、中川氏先祖附によれば、このとき、寿之は早馬で熊本から駆けつけたようすで、中川権太夫が寿之に従って熊本から来て、そのお供ぶりが達者だったということで、褒美に御紋付小袖を頂戴したとある。
A――その中川権太夫というのは、『武公伝』に名が出てくる中川権太夫の祖父ですな。八代から熊本へ騎馬早打して、寿之へ火事を報じた豊田正剛には、褒美があったという記事はない(笑)。

*【豊田氏先祖附】 正剛
祖父豊田又四郎正剛は、右豊田専右衛門嫡子ニて、初名杢平と申候。貞享三年五月、直之公御側被召出、同年十一月、勤方被為叶御意候旨ニて、御小袖被為拝領、同四年七月、寿之公御部屋え被成御附、元禄元年三月、額を直候節、寿之公御前え被召出、御小柚被為拝領、同年十二月、執前髪候様被仰付、寿之公於御前長御上下被為拝領、御中小姓被召加、同二年閨正月、直之公御側被召返、同三年七月、御納戸方・御書方御書物支配・御取次役、御側御番等も被仰付》


*【豊田氏先祖附】 高達
元禄四年十二月、崇芳院様え御附被成候ニ付、八代え引越申候。同七年三月、病気ニて御役儀御断申上、隠居奉願候処、願の通被仰付、同八年三月、病死仕候》



松浜軒


*【豊田氏先祖附】 正剛
同五年三月、直之公御参府の節、御供被仰付、同六月、於江戸御帷子被為拝領候。然処同十月上旬より、直之公御大病ニ付、御遺書御調被遊候得共、御直被遊候所御座候ニ付、執筆被仰付、同十二月、御遺骸の御供仕罷下申候》



直之像


*【長岡(松井)家略系図】

○康之┬興之
   │
   └興長=寄之┬直之┬寿之
         │  │
         └正之└祐之



*【豊田氏先祖附】 正剛
同七年三月、家督無相違被為拝領、御馬乗組被召加、同九年七月、御目付役被仰付、同十年六月、騎馬早打ニて宇土え被差越、御用相勤申候。同十二年六月、名を又四郎と改候様ニ被仰付、同十三年十二月、寿之公熊本御出府御留守中、桂光院様御部屋出火ニ付、騎馬早打ニて熊本え罷出言上仕候。同十五年十二月、御目付役被指除、式台御番被仰付、同十六年正月、騎馬早打ニて宇土え御使者被仰付》


*【細川家略系図】

○藤孝┬忠興┬忠隆 内膳
   │  │
   └興元├興秋
      │
      ├忠利─光尚─綱利→
      │
      │   宇土
      ├立孝─行孝─有孝→
      │
      ├興孝 刑部
      │
      └寄之 長岡



寿之像


*【中川氏先祖附】
《父中川五右衛門有友儀、右久左衛門嫡子ニて御座候、幼年の名は伝五郎と申候。元禄四年直之公御目見被仰付、名を権太夫と改申候。父在勤の中寿之公御次えも折々罷出、熊本御供ニも御雇ニて度々罷出申候。同十三年十二月、桂光院様御部屋出火ニ付、寿之公従熊本御早馬ニて被成御帰候節、御供達者仕候付て、為御褒美御紋付御小袖壱ツ被為拝領候》


*【豊田氏先祖附】 正敬
但、橋津源右衛門[正敬]は、右豊田又四郎弟ニて、初豊田彦右衛門と申候。元禄十四年十月、歩行御小姓組ニて、御右筆被召出、其後、御中小姓被召直、相勤居申候》

*【豊田氏先祖附】 正剛
同(元禄)七年三月、家督無相違被為拝領、御馬乗組被召加、同九年七月、御目付役被仰付、(中略)同十五年十二月、御目付役被指除、式台御番被仰付、同十六年正月、騎馬早打ニて宇土え御使者被仰付、宝永二年六月、御作事奉行被仰付、正徳元年十二月、御役料現米七石被為拝領、其比壱人役ニて相勤申候。同四年二月、御奉行役被仰付》




*【武公伝】
《又正徳二年春、小倉商人村屋勘八郎ト云者語也。武公航セシ時、梢人ハ勘八郎ニテ、老ニシテ勝負次第咸ク委語之》



巌流島



*【豊田氏先祖附】 正敬
正徳三年五月、御給扶持被召上、浪人仕、享保元年十一月、帰参被仰付、御役儀如本被仰付候。同十二年八月、御合力米弐拾石・御役料五石被為拝領、御右筆頭被仰付》
C――この間、正剛は名を又四郎と改めた。二十八歳のとき(元禄十二年・1699)だね。それまで初名の杢平であったのか、父の専右衛門名を継いでいたのか、不明だが、ここで、又四郎という通り名を名のるようになった。先祖附の豊田又四郎正剛だな。
A――正剛には、正敬という弟がいますな。
C――正敬は、元禄十四年(1701)十月、歩小姓組で、右筆に召出される。その後、中小姓に召し直され、勤務するようになった。それまでは父の家を継いだ兄のところで部屋住みだったろうが、この時点で独立したというのかな。
B――正剛の方は、三十一歳のとき(元禄十五年・1702)、それまで勤めた目付役を免除され、式台御番になる。式台御番は玄関番だが、すでに形式的な役目だな。正剛三十四歳の宝永二年(1705)六月、作事奉行を命じられる。営繕課長というところだな。
A――それでこの頃(宝永三年・1706)だが、正剛に嫡男の正脩が生まれた。正剛は三十五歳だから、これはけっこう遅い男子だ。
C――ようやく男子を得て、正剛は作事奉行を勤めているが、役料は現米七石、そのころは一人役で勤めたという。役料というのは役職手当、家禄百石とは別にこういう役料がついた。一人役というのは相役がいないということ。
B――作事奉行というのは利権が絡むからな、不正を防ぐために相役を設けて、相互チェック体制にするわけだが、一人役というのは、まだそんな風潮もなくて、のどかな時代で、正剛が信用されていたということかな。
C――ところで、この頃のことだが、正徳二年(1712)春、四十一歳の豊田正剛は、豊前小倉の商人・村屋勘八郎という者から巌流島決闘の話を聞いたという。『武公伝』によれば、武蔵が巌流島へ舟で渡った時、梢人(舟の漕ぎ手)はこの勘八郎で、老いて後、勝負の次第をことごとく委しく語ったというわけだ。
A――しかし、『武公伝』によれば、巌流島決闘は慶長十七年(1612)、一応これを真に受けてみても、むろん百年前のことである(笑)。
B――武蔵を巌流島へ送った舟人が、百年後まで生きていて、しかも小倉の商人・村屋勘八郎として八代へ来て話をするというのは、まずありえないことだ。これに対し、正剛の子である正脩によれば、この件を、村屋勘八郎が、下関の親戚・小林太郎左衛門の家にいた老人から聞いた話だとする(二天記所収「凡例」)。後者の方が現実的だがね、ただし、この訂正は正脩の手になるものかどうか、それは問題が残る。これは後でまた討議しよう。
C――そうしよう。で、正剛四十三歳のとき(正徳四年・1714)、御奉行役になる。いわば部長級。順当な昇進だね。しかるに、正徳三年(1713)、弟の正敬が扶持を召し上られた。何か不始末があったのだろうね。
A――召し放ちで浪人の身となった正敬が、帰参を許されるのは、三年後の享保元年(1716)のことですな。
C――他家の先祖附も合わせみると、けっこうこんなケースが多いね。簡単に召し放ちを蒙って浪人するが、また簡単に帰参を許される。主人が家臣を馘首しても、家中家臣団の圧力があって、ほとぼりが冷めた頃に帰参運動をして、当人を復帰させる。
B――正敬は復帰して、御役儀元通り。右筆だったな。そうして十一年後(享保十二年・1727)には、右筆頭になった。給料はいかにといえば、合力米二十石、役料五石の併せて二十五石。
A――正敬が右筆頭ということは、豊田兄弟の正剛・正敬ともに文系の才もあったということですな。
B――正徳二年(1712)は細川綱利が死んで、宣紀(1676〜1732)が家督相続。細川家は代替りだ。宣紀は、細川忠利の曾孫にあたる。熊本城主・細川家は、忠利→光尚→綱利と次第するが、綱利の男子が二人とも早世したので、綱利の甥(弟・利重の二男)を養嗣子にした。
C――綱利の弟・利重は、寛文六年(1666)三万五千石を分与されて、これがいわゆる新田藩。宇土の細川家のことは前に話に出た通りだが、しかし、新田細川家の方は、蔵米の三万五千石で、いわば形だけの支藩だな。しかも江戸定府で、つまり江戸に行きっぱなしの、いわば丸ごとの人質である。こういう大名もあった。利重の嫡男・利昌が二代目となったが、弟の宣紀が本家の綱利養子となって、熊本の本家を嗣いだというわけだ。
A――八代城の長岡家も、ここで代替りでしたな。
C――それは正徳四年(1714)、四十七歳の寿之が病気を理由に隠居したね。嫡子・豊之(1704〜71)が十一歳で家督相続。ここで豊田正剛の主家も代替り。
A――隠居の寿之は延享二年(1745)歿だから、その後三十年以上も隠居していた。
B――寿之は、すでに二十三年も当主のポストにあったから、四十七歳で隠居というのは早いとはいえない。むしろ、主家の細川家が代替り、それで、筆頭家老のこちらも世代交代しよう、ということだろう。
C――寿之は隠居後、号眺山、のち冬山と号した。茶や歌の道に深く参入した文化人だったので、隠居料千石を受けて、悠々自適の老後生活を選んだというべきだね。
B――寿之が隠居して豊之に代替りした翌年(正徳五年・1715)、肥後本府熊本城主の細川宣紀が八代へやってくる。熊本の細川家当主が、八代へ来るというのも多くはなかったようで、先祖附にはそれを特記している。この正徳五年の宣紀八代来駕のとき、長岡家の家臣も御目見する。熊本城主細川家からすれば、八代の武士たちは家老の家臣だから陪臣であるが、彼らにすれば、主人の主人への御目見は重要な儀式だったようだ。
C――細川宣紀が八代へ来た年、豊田正剛は四十四歳、百石の知行取りで奉行役である。御目見の対象となる。このとき、白銀二枚を拝領した。御目見となると、記念に何かを贈与する。
A――御目見をするのには、タダではしない(笑)。
B――服属儀礼だからな。本来は馬とか太刀とか衣服とか、物の贈与だね。このように銀貨のみというのは、扱いは軽い。軽いけれども、豊田正剛のような陪臣にとっては、これは大きな名誉になる。
C――享保年間になると、正剛の嫡男・正脩も育ってきて、正脩十八歳のとき(享保八年・1723)、中小姓に召し出され、切米八石三人扶持。これは、父の家禄とは別の役料だな。正剛はすでに五十二歳。跡継息子の正脩も出仕するようになったというわけだ。
B――正剛五十五歳の年(享保十一年・1726)、五十石を加増されて、都合知行百五十石になった。そうして翌年(1727)閏正月、御用人を命じられる。家中の中枢にある役で、いわば、これが正剛の奉公キャリアのアガリだな。ちなみに、同年、弟の正敬が右筆頭になっている。
A――享保十二年(1727)というと、筑前の立花峯均が武蔵伝記(兵法大祖武州玄信公伝来・『丹治峯均筆記』所収)を書き上げた年ですな。
B――そうだったな。《兵法五代之門人、丹治峯均入道廓巖翁五十七歳。享保十二龍次丁未年夏五月十九日、於潜龍窟中執毫記之》とある。この年、立花峯均は五十七歳で、豊田正剛は五十六歳。ほぼ同じ年齢だ。
C――本サイト[資料篇]「武蔵伝記集」に上掲された『丹治峯均筆記』読解に、詳しい解説がすでに出ているのだが、この立花峯均は、筑前黒田家家臣、父親は、万石家老の立花平左衛門重種(1626〜1702)、四男の峯均は黒田綱政に仕えて、采地五百石(元禄分限帳では、采地四百石プラス蔵米百俵という内訳)。元禄十六年(1703)には柴任美矩と吉田実連から、武蔵流の一流相伝をうけていた。しかるに、宝永五年(1708)、兄の立花重根(実山)の失脚事件に連座して、玄界灘の孤島・大蛇島へ流刑。七年後の正徳五年に赦されて帰還。しかし召抱えはなく、福岡城下に住むことも赦されず、浪人のまま、兄の小左衛門増武の領地、志摩郡檍村(青木村)に蟄居。潜龍窟というのは、立花峯均の隠宅の名。そうして峯均は、門弟に二天流兵法を教えながら、傍らで『丹治峯均筆記』を書いていたというわけ。
B――むろん彼は、茶人・立花寧拙でもあるわけで、寧拙本『南方録』を残しもした。この立花峯均に比べると、肥後の豊田正剛の履歴は、いかにも地味だな(笑)。
C――それは仕方がない、環境条件がちがう(笑)。ここで豊田氏先祖附に興味深い記事があるね。享保十三年(1728)十月、主人の豊之が武蔵流兵法を稽古するというので、豊田正剛は指南を命じられ、そのさい九曜御紋付御上下を拝領、とある。
A――このとき正剛は五十七歳、豊之は二十六歳ですな。正剛は道家平蔵の門弟。道家平蔵は寺尾求馬助の弟子だ。したがって、正剛は武蔵の孫弟子の、そのまた弟子、ということになる。
C――先祖附には、豊之に武蔵流兵法を指南するよう命じられ、九曜御紋付御上下を拝領、とあるのみで、豊之の師範役を継続的に勤めたとは書いていないので、これは一回きりの稽古だろう。
A――だから、豊田正剛は主人・豊之の師範役だったというのは、正確ではない解釈説話だ(笑)。
B――このときの賜物は、九曜御紋付の上下だな。つまり時服なんだが、九曜紋は細川家の家紋で、長岡家の紋は竹輪に九枚笹、三ツ笹紋だから、これは主人の主家の紋付を頂戴したということになるな。名誉の品である(笑)。
C――豊田正剛は武蔵流兵法伝書に註を書いているな。
B――正剛は三十六歳のときの「兵法書序鈔」がある。これは武蔵作の序文という伝書の文言に注釈を入れたものだ。これは今日「五方之太刀道」と呼んで武蔵自筆だなんて言う者もあるが、豊田正剛の当時、すでに偽書とされていたのだがね(笑)。それと、五十歳のときの「兵法書目註解」がある。これは武蔵流兵法書の解説書だが、長岡(松井)直之の伝書で、自身が添削もしていた。これを正剛が直之に写させてもらった。
C――直之が元禄五年(1692)に江戸で五十五歳で死んだとき、二十一歳の正剛は彼の側に居た。十八歳のときから御側仕えだから、晩年の直之の側にずっと居たわけだ。直之の「兵法書目註解」を書写させてもらうポジションにあった。
A――豊田正剛の文書は、両方とも、どういうわけか、野田派伝来のものだ。
B――孫の豊田景英が、兄弟弟子の村上大右衛門に提供して、それが野田派に流れたということだろう。野田一渓はマメに資料を集めていたようだから、彼が豊田正剛の著述の写本を入手して伝えたのだろうな。
C――とにかく、豊田正剛は武蔵流兵法文献の研究者でもあったとみえる。兵法書序鈔の書きっぷりをみると、これは講義調で、人にものを教える文章だね。
A――八代の若殿(豊之)に教えたというのは、そのあたりのことがあるね。豊田正剛は豊之の祖父・直之に仕えて以来の古株家臣だし、教養もある。
C――そこで、先祖附に「武蔵流兵法」とあるのが注目だろう。肥後では「二天一流」と云うのだと、一般に思われているらしいが、豊田氏先祖附のこの記述では「武蔵流」なんだ。
A――それに、宮本武蔵が有名になりすぎて、世間には、肥後では二天一流が支配的だったかのごとき誤解があるが、もちろんそれは事実ではない。肥後では、柳生流やら新陰流やら、その他にもさまざまの剣術流派があった。
B――そのあたりも、正確に認識される必要があろうよ。



*【細川家略系図】

○藤孝─忠興─忠利─光尚┐
 ┌──────────┘
 ├綱利┬与一郎 早世
 │  │
 │  ├吉利 早世
 │  │
 │  └宣紀┬宗孝
 │     │
 │     └重賢─治年→
 │
 └利重┬利昌─利恭→
    │
    └宣紀



*【長岡(松井)家略系図】

○康之┬興之
   │
   └興長=寄之┬直之┐
         │  │
         └正之│
 ┌──────────┘
 ├寿之┬豊之┬営之┬徴之→
 │  │  │  │
 └祐之├直峯└庸之└誠之
    │
    └弘之



*【豊田氏先祖附】 正剛
同(正徳)五年十月、宣紀公御光駕の節、御目見被仰付、白銀弐枚被為拝領候。享保十一年六月、為御加増五拾石被為拝領、同十二年閏正月、御用人被仰付》



八代城址


*【丹治峯均筆記】
ハカラズモ、寶永五年戊子六月三日、事ニツミセラレテ、大蛇〔ヲロノ〕嶌ニ謫居ス。コレ、業因ノ皈スル所カ。嘆テモ尚アマリアリ。此マヽニテ嶌ノ奴ト成果ント思シニ、又ハカラズモ、正徳五年乙未六月、事ヲユルシテ帰陸シ、志摩縣、家兄立花増武ガ采地、檍村ノ山フトコロニ、小菴[号半間庵]ヲ結ベリ。飢渇ヲシノグノ料トシテ、恭クモ、邦君継高公ヨリ毎月ノ糧ヲ拜受シ、山菴ニ安居セリ。方爐一炭ノ火ヲヽコシ、苦茖ヲ点ジテ、佛ニ供シ、吾モ呑ミ、獨坐ヲ樂メリ。親族旧友、マレニモ訪フ人アレバ、一フクヲ点ジ相カタラフ。コレ、特賜利休居士、南坊宗啓師ノ、禅味茶味一碗裏ニ喫得スルノ跡ヲヽヘリ。仕官ノ内、志ヲ家兄重根[法名実山宗有]ト同ジク、仏乘ニ皈シテ、東林開山卍山白和尚ヲ師トシ、禅ニ参ジ、禅戒壇ニ入テ戒法ヲ受ケ、法諱ヲ授ル。コレ、併御大恩ヲ奉報ノ志タリトイヘ共、其益ナシ。宿因ノ程思ヒ見ベシ。廿一歳、實連ヲ師トセシ日ヨリ、老年ノ今月今日ニ至ルマデ、片時モ兵法ヲ不忘、心ニ修シワザニ行フトイヘ共、不省ノ身、イカデカ道ニ叶事ヲ得ンヤ》



*【豊田氏先祖附】 正剛
《同(享保)十三年十月、豊之公、武蔵流兵法御稽古被遊候付、御指南申上候様被仰付、九曜御紋付御上下被為拝領候》



*【道家角右衛門関係図】

道家帯刀一成┐
┌─────┘
├左近右衛門立成

└七郎右衛門┬次右衛門―次右衛門
      │
      └角左衛門―平蔵宗成

○宮本武蔵┐
┌────┘
寺尾求馬助―道家平蔵―豊田正剛

道家角左衛門




松井文庫蔵
豊之肖像
――お話が続いていますが、では、ここでいったん休憩しまして、食事でもとっていただきましょうか。
C――やれやれ、疲れた。二日がかりではないとはいえ、今回も、長くなりそうだなあ(笑)。
A――やっと飯にありつけるか。年寄は、飯くらいしか愉しみがなくなるというのは、ほんとうだな(笑)。
〔後篇へ続く〕



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