――ところで、巌流は流派名だとする伝説では、この人物の名を何とするのか。そこが興味深いところですね。
C――筑前系の伝説では、『江海風帆草』は「上田宗入」という名を示し、割註に[此名不分明]とする。続いて『丹治峯均筆記』はそれを「津田小次郎」だという伝説を記録する。「上田」「津田」という姓は記憶されてよいだろう。
A――「宗入」というのは号ですな。「小次郎」というのは通り名だから、「巌流」のような号と両立はする。
C――まず、『峯均筆記』からいうと、ここで注目されるのは、「津田」と「小次郎」という二つの情報だな。もちろん「津田」という姓は、これ以外には見えない。肥後系の伝記では『武公伝』に、「巌流小次良」と記すのみで、その姓に関する記事はない。筑前系の『峯均筆記』が「津田」という姓の伝承を収録したが、肥後系伝記では『武公伝』段階では、巌流の姓に関する情報がなかったということだ。
B――そうだな。その点が一つ、もう一つの「小次郎」という名については、『峯均筆記』はこの肥後系伝記と共通している。したがって、武蔵伝記に関していえば、「小次郎」という名は比較的早くから伝承に存在したとみてよい。たとえば、『沼田家記』に、「小次郎と申す者が、岩流の兵法を興行し、これも師範をつとめた」とあるように、ここでも姓はないが「小次郎」という名はある。
A――ここでのポイントは、巌流を流派名とする説と、この小次郎名がセットになって登場したことである。これは常に留意しておくべき要点ですな。
C――その通り。さて、『峯均筆記』は小次郎の姓を「津田」とする珍しい史料だが、それにしても筑前系・肥後系ともに、佐々木小次郎の「佐々木」という姓はない。それでは、この佐々木姓はいつごろ登場したのか。武蔵伝説では、『二天記』(安永五年・1776)に、「岩流は佐々木小次郎といい、このとき十八歳の由」とする。これは本文ではなく注記であって、後日の挿入の可能性もあるのだが、それは不問にして、当面これを初出としておく。さらに他を当たれば、ひとつは『古老茶話』の記事、「佐々木眼柳という剣術者」である。『古老茶話』は成立年不詳文献だが、一応これが延享年間(一七四〇年代)まで遡るとすれば、佐々木姓の早期の出現だね。
B――『古老茶話』は尾張の伝説。巌流島決闘当時、豊前は小笠原領だとしたり、武蔵は播州明石の産だとしたりして、話はいい加減だが(笑)、その「佐々木」眼柳という名も、これは演劇からの影響だろうな。
C――同時期に歌舞伎などで「佐々木巌流」という人物名が出てくるからね。歌舞伎「敵討巌流島」(姉小劒妹管鎗敵討巌流島・藤本斗文作)は元文二年(1737)の夏、大坂で上演だ。古川古松軒の『西遊雑記』はもっと後の、天明三年 (1783) のものだが、これになると、巌流は「佐々木巌龍」、武蔵は「宮本武蔵之助」、歌舞伎の影響がより濃厚だ。
A――そういえば、以前、佐々木巌流は郵政省の切手になっておりましたな。
B――あれの原画は、歌川豊国作で、十八世紀末ころの浮世絵。市川高麗蔵の佐々木巌流だな。 目に青い隈を引いた顔で、まさに敵役・悪役の化粧だ。武蔵の相手になって負けて死んだ岩流も、まさか自分が、浮世絵に描かれるほど有名な悪役になるとは、思ってもみなかっただろうよ(笑)。
C――そういう敵討巌流島が有名になってしまったころ、『二天記』が書かれる。ようするに『二天記』にある「佐々木」姓については、そういう演劇によって世間周知のものとなったというプロセスを考慮する必要がある。
A――しかも「佐々木小次郎」だから、「小次郎」名に「佐々木」姓を加算しておる。これも注記で《岩流ハ、佐々木小次郎ト云、此時十八歳ノ由ナリ》として出る名。とすれば、十八歳説と同じく、『二天記』の所説ではなく伝聞した説ですな。
B――「十八歳」説も「佐々木」説も、『二天記』本文のものではない。
C――そこで、さらに言えば、演劇台本が「佐々木巌流」を実名として使ったのではない。これは戯作上の名である。巌流の実名が「佐々木」であり、それから演劇で登場人物名「佐々木」巌流を採ったと見るのは、あきらかに錯覚である。順序は逆だな。
B――順序は、演劇の方が先だ。演劇が巌流の実名をそのまま頂戴採用したのではない。「佐々木」姓は歌舞伎作者が設定した。それが流布して、巌流は佐々木姓になった、という順序だ。
C――面白いのは、そこから、巌流の実名は、少なくとも佐々木姓ではなかった、という結論が出ることだ。それというのも、むしろ演劇が実在人物をモデルにしたときは、実名を避けるのが常套手段である。有名なところでは、「忠臣蔵」だね。モデルの大石内蔵助は、大星由良助。武蔵物の舞台名は「宮本無三四」が知られているが、それより古い段階の作品では、歌舞伎「敵討巌流島」のように「月本武蔵之助」という名。ところが、同作品で巌流の名は「佐々木巌流」である。そういうやり口を見れば、歌舞伎で「佐々木巌流」の名が出る以上、モデルの巌流は佐々木姓ではなかったことだけは、少なくともたしかだ。
A――そこがポイントですな。従来、「佐々木巌流」は歌舞伎から出た名だろうという説はあったが、それに対し、巌流の姓は少なくとも「佐々木」ではない、つまり、佐々木以外の姓だ、という論点は、これまで見たことがない。すなわち、この[宮本武蔵]サイトの研究過程から出た創見でしたな。これを戯れに定式化してみれば、
大石内蔵助 → 大星由良助
宮本武蔵 → 月本武蔵之助
( ? )巌流 → 佐々木巌流
ゆえに、( ? )≠ 佐々木
C――ようするに、実名を避ける歌舞伎台本が「佐々木」という姓を使っていることからすれば、巌流の実名は「佐々木」ではない、ということが判明するというわけだ。
B――論点を整理して、歴史的な経緯を言えば、巌流の佐々木姓はもともと演劇での創作であり、その影響を受けて、世間ではいつの間にか巌流は「佐々木」だということになってしまった。巌流の姓は、あるいは、知られていなかったかもしれない。だが、演劇がその不在の姓の穴を「佐々木」で埋めたところから、「佐々木巌流」の名が流布した。その結果、たとえば尾張の『古老茶話』のような、事情を知らない遠隔地文献で先に現れ、さらに世間で流布してしまったのちに『二天記』注記に入り込んできた、という経緯だろうな。
――以上のお話に出た、文献とその記事にある名前を一覧表にしてみましたので、どうぞ。
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岩 流
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小次郎名
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佐々木姓
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小 倉 碑 文
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岩 流
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本朝武芸小伝
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巖 流
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武将感状記
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岸 流
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――
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江海風帆草
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――
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(上田宗入)
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上田(宗入)
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沼 田 家 記
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小次郎
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――
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丹治峯均筆記
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――
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津田小次郎
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津田(小次郎)
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兵法先師伝記
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――
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津田小次郎
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津田(小次郎)
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武 公 伝
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巌流小次良
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巌流小次良
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――
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(演劇台本)
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――
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――
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佐々木巌流
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古 老 茶 話
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――
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佐々木眼柳
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西 遊 雑 記
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――
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――
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佐々木岩龍
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二 天 記
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岩流小次郎
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岩流小次郎
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佐々木小次郎
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B――これを整理して言えば、歴史的経緯として以下のような諸段階が考えられる。
(1)岩流(巌流)の名だけが知られていた段階…小倉碑文・武芸小伝・武将感状記
(2)岩流(巌流)が人名ではなく流派名だとして「小次郎」名を見出す段階…沼田家記・丹治峯均筆記・武公伝
(3)演劇で佐々木姓を創作し「佐々木巌流」が流布した段階…古老茶話・西遊雑記
(4)小次郎+佐々木=佐々木小次郎となった段階…二天記注記
それぞれの段階(phase)は歴史的地域的な時空局面を指す。したがって、このばあい、「小次郎」名は、巌流島のある関門海峡周辺の伝説として生じたもので、長州および九州のローカルな伝承。これに対し「佐々木」姓は、演劇化を通じて上方から全国に波及した影響である。
C――だろうね。整理すればとくに際立つことだが、筑前系の『江海風帆草』や『峯均筆記』が記録した「上田」や「津田」という姓の情報は、軽々に看過すべきものではないと知れるだろう。今日では、「津田小次郎」などは「佐々木小次郎」のマイナーな異説でしかないが、実は、「佐々木」姓が流布する以前の早期の武蔵伝説では、決して「佐々木」ではなくて、「上田」や「津田」だったことは銘記されてよい。
B――付け加えて云えば、巌流の佐々木姓に関して、近江の佐々木氏説が出たが、これは佐々木巌流という名に創作性がある以上、今のところ採用できない。同様にして、戦後の新説に、巌流を豊前国副田庄の佐々木氏とする説があるが、これも巌流の佐々木姓そのものが根拠を欠く以上、憶説でしかない。
A――砂上の楼閣のような説ですな。それでもコケないで維持されているのは、不思議である(笑)。
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*【江海風帆草】 《此嶋、兵法つかひの名に依て号スと云ハ非なり。流儀に依てなり。巖流とハ兵法の流儀なり。此流を仕出せしハ、俗名上田宗入[此名不分明]と云へる者のよし。此者、岩見の礒に一ヶ年結跏趺坐して、波の打を観じ、兵法の工夫して、巖流と云一流を仕立たるよし》
*【丹治峯均筆記】 《巌流ハ流義之称号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ》
*【武公伝】 《巌流小次良ハ劔客冨田勢源ガ家人ニテ、天資豪宕壯健無比》
*【沼田家記】 《延元様門司に被成御座候時、或年宮本武藏、玄信豊前へ罷越、二刀兵法の師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候》
*【二天記】 《岩流ハ佐々木小次郎ト云、此時十八歳ノ由ナリ。英雄豪傑ノ人ナリトテ、武藏モ是ヲ惜ミシトナリ》
*【古老茶話】 《武藏、小笠原領地豊前の小倉にして、佐々木眼柳といふ劒術者、海上一嶋に渡るとて同船したる時、船中より仕合の事申出し、武藏はかいを持ながら岸にあがる》
*【西遊雑記】
《岩龍島といふは昔時舟島と稱せし也。宮本武蔵之助といひし刀術者と佐々木岩龍武藝の論をして、此島において刀術のしあひをして、岩龍宮本が爲に打殺さる。ゆかりの者ありて岩龍が墓を建しより、土人岩龍島と云》
切手になった佐々木巌流 郵政省 1988年
*【姉小剣妹管鎗敵討巌流島】
佐々木巌流 (藤川)半三郎
月本武蔵之助 (坂東)彦三郎
(四ツ目 佐々木巌流が武蔵之助に対面し弟子にしてくれと頼む場面)
〔武蔵〕ハア。ついどお目にかゝつた義もござらぬ。なれぱお近付で有ふよふもなし。最前の働、由緒有ルお方と少し床しう存ますル。先どなたでござりますルぞ。
〔巌流〕私義は佐々木巌流と申者でござる。
〔武蔵〕フム。承り及びました伊与の城主三好式部太輔様の御家人、佐々木巌流殿でござるなア。
〔巌流〕面目もない御対面申ますル。
〔武蔵〕ハテなア。
〔巌流〕子細御ざつて馬淵角右衛門と申朋友、剣術の意趣によつて討て立退ましてござる。所に角右衛門男子一人リもござらぬ。親の敵といふて付狙ふ者一人りもござらぬ。武士の義によつて角右衛門を殺し、やみやみと腹切て相果ルも、近頃云甲斐なふ存じ、今日の只今迄、かやうの浪人の身となり罷暮しまする所に、当小倉の御城主本田主税様より私を召抱たいと、小寺政右衛門殿の御挨拶なれ共、御家中には月本武蔵之助殿と申剣術の達人、其元の御座被成るゝに、私推して御奉公に出まするは何とやらしう存て、夫故お願ひ申ますル。何とぞ其元の弟子になされて下され。弟子に成ますれぱ、心よふ御奉公いたすと申ものでござる。此義を申上ふため、御乗物止めましてござる。
〔武蔵〕はれやれ。佐々木巌流殿でござるよなア。最前の働、唯人ならぬと見ましてござるが、流石の巌流殿、天晴驚入ました。先達て意趣の仔細は存ぜね共、人を殺め国を立退、此小倉の町に忍ばつしやるといふ義を承り及んだ。折も有らば御参会仕り、何とぞ兵法軍術の御相談も仕らふと兼ては存おりましてござる。これや、よい折からの御対面申て、手前も大慶に存ますル。しかし、そなたを手前の弟子なんどゝは思ひもよらぬ義でござる。正真の鳥ない里の蝙蝠とやらで、及ばぬ芸も家中の指南ではござらぬ。兵法の相談相手に罷成まする。なれや其元、殿へ出さつしやりて御ざらうならば、いよいよ家中の励み共成ル。すれやまさか、殿のお役に立ッと申ものでござる。ともゞもお役には立まいが、お取次申さふ。私に御遠慮なふ、何とぞ殿に御奉公なされて下され。是武蔵之助めが別てそなたへのお頼でござりまする。
〔巌流〕是は是は結構な御挨拶で痛入ますル。其元の御弟子にさへなされ下されませうならぱ、成程御奉公相勤ませう。
〔武蔵〕イヤイヤ。弟子と申義は、幾重にも御用捨被成下されませう。
〔巌流〕いや、どう御ざりませうとも。
〔武蔵〕自他とも其義は御許されませう。
〔巌流〕しからばお弟子には成まいなア。
〔武蔵〕巌流殿ほどの人を武蔵之助が弟子と申ては、他の聞へ、人が笑ひますル。(下略)
伊能大図 関門海峡周辺
巌流島決闘当時周辺地図
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