坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

Home Page
爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り、舟嶋と謂ふ。兩雄同時に相會す。岩流三尺の白刄を手にして來たり命を顧みず術を尽くす。武藏木刄の一撃を以て之を殺す。電光猶遅し。故に俗舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。(小倉碑文)
07 伝説としての巌流島決闘  (前篇)  Back   Next 
Go Back to:  目次 
――ご無沙汰しておりました。すでに紅葉の季節となりました(笑)。この坐談武蔵も前回からだいぶ間があきました。何回も日程調整したのですが、皆さん時間の調整がつかず、こうしてようやく調整がつき、皆さんの顔ぶれがそろった、やれやれ、というところで(笑)、坐談会をはじめさせていただきます。
――けれど、これだけ間があくと、お互いもう年だし、今生での再会に不安がありますなあ(笑)。
――別れは天の一方、再会は遥かに難し(笑)。今年も葬式が多かった。だんだんさびしくなるね。
――(TVの大相撲を観ながら)しかし、朝青龍は強いな。今や天下無敵の様相だな。凄みが出てきた。相手がいかにも弱くみえる。全盛期というのは、こういうことかな。
C――大きくないし、フィジカル(肉体的)な条件は決してよくないのにね。しかも日本人ではなく、モンゴル人だ。現在の日本人が失ったものが彼にはある。闘志があるだけではないな。
B――日本人の近代武道は、精神だ、平常心だ、と観念化してしまった。そういう観念的な精神主義の虚を、朝青龍に衝かれたという感じがある。朝青龍の強さをよく見て、武道の日本的な観念性を反省する必要がある。日本的精神というのが、いかに虚構か、教えられる。
A――そういう意味では、国技だという大相撲に外国人が参入するのはよいことだ。ただ一人の横綱が、(ドルゴルスレン・)ダグワドルジという名の外国人であるばかりか、いま幕内力士に占める外人比率はかなり高い。
C――結びの一番の取組が、連日外国人同士の対戦だ。アジアのモンゴル人や韓国人から、ロシア人や、ブルガリア、グルジアという東欧系まで、拡大した。あとは、金髪碧眼の超人や(笑)、アフリカン・アメリカンの参入が期待される。そうして日本の国技が止揚されてインターナショナルになる(笑)。これは柔道の見かけの国際性とはまったく違う次元の新しい事態だな。
B――美学的にも、漆黒の尻に銀の廻しとか、金髪の大銀杏など早く見たいものだ(笑)。インターナショナルになるということは、いわば空虚な中心を、外部に占領されるということだ。ナショナルな内なる中心部こそ、外部だというトポロジカルな認識は不可避になろう。
C――それはだ、豆腐の原料の大豆の大半は輸入大豆だとか、数奇屋風の純粋和風意匠の住宅に住んでいる者が、その材木が北米産であることに一向に気にしないという事態と同じことだ。
A――それで、思い出すのは力道山。TV創生期のプロレス、あの人気は敗戦のトラウマを癒す民族的儀式だったね。
B――いかにも。毎週、力道山が外人レスラーをやっつけてくれる。大人だって、このボロボロなナショナルな心情を再建する治療を受けていたんだ(笑)。ところが、力道山は日本人ではなく、在日朝鮮人だった。
A――愛国精神がいかにフィクションでしかないか、という典型例。
B――力道山というのは大相撲の四股名だ。彼は関脇まで行ったが、大関にはなれなかった。朝鮮人差別があったからだ、ということだな。力道山は大相撲で挫折して、プロレスへ転向して、日本プロセスを創始した。――というのが力道山神話。
A――力道山のプロレス興行は、敗戦のトラウマを癒すナショナリズム再構築の儀式だった。しかしその主役、司祭は、日本人ではなく朝鮮人だった、というところが、まさしく力道山のプロレスにおけるポイントですな。
B――それが公然の秘密だった。日本のナショナリズムの最内奥にこそ、外部の他者がいる。内部こそ外部だった。
A――力道山の本名はキム・シンラク(金信洛)。そういえば、極真会の大山倍達も半島出身で、本名チェ・ヨンイ(崔永宜)。敗戦のトラウマを癒しコンプレックスを宥めた、戦後格闘技の両雄ともに朝鮮人だったことは、日本の戦後ナショナリズムにおいて、まさに象徴的ですな。
B――力道山があるとき、大阪の支援者で朝鮮総聯の幹部のさる人物から、「もう、いいのではないか」と云われたというね。何がもういいのか、というと、日本人に勇気を与えて敗戦トラウマを癒してやる仕事は、もう十分やった。これからは朝鮮人に勇気を与えるようにしたらどうだ、と云われた。力道山はそのとき、そんなことを云われたのは初めてだ、と涙したという逸話がある。祖国を忘れて日本の精神復興に寄与した彼らの恩義は、いまや忘却の彼方になっておる。
C――まさにね、戦後の精神復興において、すでに「内部こそ外部」という状況はかなり進行していた。在日被差別民こそ、ナショナルな心情を支える根幹だった、という逆説だ。
B――その一面で、時は移り、今年の新しい事態は、オバさんたちの爆発的な韓流ブームだよ。日本のTVドラマがお粗末で、つまらなくなったのか、かなり長編の、韓国製純愛ドラマにすっかりハマっておった。
A――「冬ソナ」なんて、涙、涙の恋のドラマの王道を、迷いも照れもなく行くものだが、生活リアリストという点では世界に比類なき、日本のオバどもを号泣せしめるというから、これはすごい(笑)。
B――西洋を向いた日本人が恋愛の不可能性とか言っている間に、こんな堂々の恋愛ドラマが東洋で生まれるんだ。しかも恋愛ドラマだけではなく、「チャングム」なんて宮廷ドラマも日本人女性の人気を集めておる。現代ドラマではなく時代劇、これは我々にはまさに盲点だったな。
C――しかしまあ、時代は変ったという感慨があるねえ。我々の若いころまでは、朝鮮人差別はあからさまな現実だった。現今の韓流ブームは、過去の民族差別を女たちが清算したということだ。これをみると、長生きするのも悪くはない、という気がするね(笑)。
――韓流ドラマのスターたちは男女ともデカい。日本人俳優女優よりもはるかに背が高い、長身だ、ということも注記しておきましょう(笑)。ところで、プロスポーツでは、かたや野球では、アメリカのメジャーリーグへ、どんどん流出している。これは相撲と対照的ですね。
C――対照的だが、同じ事態の両面かもしれん。上昇志向で世界の頂点を自身の土俵にしたいというだけではなく、どこか偏狭な日本野球からの逃亡だな。これは、大学では以前からあった頭脳流出と同じことで、それほど新しい事態ではない。
A――しかし、九州場所だが、これを見ると空席が目立つなあ。満員御礼の垂幕が下がるのは珍しくなった。
C――それは、外人力士が増えて、日本人力士に強いのがいないからじゃないね。力道山の時代と、現在の大相撲。ただ可視的か否かの差だけではなく、高見山の時代までのような、偏狭なナショナリズムの作用ではない。もはや、そういう時代ではなかろう。このモンゴル人横綱の取組にかかる懸賞の本数は昔よりはるかに数が多い。ただ強豪ライバルの競合関係を演出できないからだね。
B――そこで言うのは、国技大相撲の逆説的なグローバリズム(笑)。江戸時代以来のこのパンクなWahoo(和風)ファッション(笑)、これを維持したままでだ、世界中から多様な人種の力士を集めて、プロ格闘技の一大中心を形成することだ(笑)。
C――それがいい。ところで、今回は何の話にしようかね(笑)。





横綱 朝青龍

琴欧州 ブルガリア 旭天鵬 モンゴル 白鵬 モンゴル
安馬 モンゴル 黒海 グルジア 時天空 モンゴル
露鵬 ロシア 朝赤龍 モンゴル 白露山 ロシア




力道山









――この[宮本武蔵]サイトで今年登場のものといえば、「宮本武蔵総合年譜」ですね。武蔵の年譜、年表というと、およそ武蔵本なら必ず付録でつけたがるもので、すでに無数の武蔵年譜が存在するわけですが、ここに上掲された「宮本武蔵総合年譜」は、やはり従来の群を抜くものでしょう。
――それは確かだ。今後の研究の進展を待つところがある、という条件付きで、現在までのところベストの年譜だな。
A――さっそくパクってくれた人もあるが(笑)、我々はケチなことは言わない。
C――どんどんパクってくれてよい。通説化した謬見が少しでも後退すれば、それが世の中に対する功徳だ。作成側としては、もちろん不完全なものだが、これは今後、研究が進めばどんどん改訂されていくだろう。
――それで、この「宮本武蔵総合年譜」に関連してですね、今回のテーマは、武蔵の伝記の可能性を探るということでは、いかがでしょう。
A――武蔵の伝記は可能か。しかし、それは現段階ではかなり難しいですな。
B――その通りだ。武蔵晩年を除いて、そこまでに至る記録はわずかなものだ。しかも、そのわずかな記録でさえ、史料批判を試みれば恠しいものが多い。いわば武蔵伝記にはノイズが多い。武蔵研究としては、そういうノイズの中から真正の音調を聴き取ることだね。
C――現段階までは、そういうノイズをノイズとは知らず、あたかもそれが武蔵の実像だと錯覚して、武蔵評伝が書かれてきたのだが、そこには、小説との違いはない。
B――小説は何でも入る容器だから、そういう武蔵本はそれじたいが小説、フィクションだと思えばよいのだが、書き手の方はノンフィクションのつもり、自分が武蔵の実像にアプローチしているつもりでいる。
A――それが問題だが、この問題は、問題だという意識がないというところに、また問題がある(笑)。
C――フィクションというファンタジー・スクリーンに映ったものを実像と錯覚する。それはイデオロギーの作用なんだよ。そういうことなら、最近この[宮本武蔵]サイトでテクスト校訂が完結した、江戸時代の武蔵小説、いわゆる読本の『繪本二島英勇記』、こちらの方が自身の虚構性をよくわきまえている。
B――そうだね。登場人物の名に捻りを加えて、それを自身の虚構性の記号にしている。宮本武蔵は宮本「無三四」だし、加藤清正は「佐藤」清正だし、肥後の熊本は「熊木」〔くまげ〕にしてある。
A――それは、宮本武蔵を「宮本武蔵」とするには、まだ差し障りがあったから?
C――というよりも、フィクションに関する独特な感性があるね。それは実録物が流行った幕末明治期とは違うセンスだね。たとえば、サンタクロースの「存在」という問題に似ていると言える。
B――虚構それ自体のリアルに対するセンスだな。それは古きよき十八世紀の感性。そういう微妙な感覚が、江戸末期には麻痺して、「実録」を求めるようになる。近世的感性の終焉だな。
C――ナイーヴなリアリティ信仰だね。それが明治になって、もっと粗雑になって、こんどは近代小説に迎合するわけだ。
A――ところで、さきほどの話。宮本武蔵は宮本「無三四」だし、加藤清正は「佐藤」清正だし、すると「佐々木」巌流というのは、実名ではありませんな。
C――『繪本二島英勇記』では、主要登場人物は名を変えている。無三四の実父は吉岡太郎右衛門、養父は宮本武右衛門、というあたりは虚構の有徴性は強いが、また秩序の〈父〉たる加藤清正は「佐藤」清正、黒田孝高は黒田「吉高」だね。
A――その代わりに、脇役どころ、たとえば、小早川隆景や浮田(宇喜多)秀家は実名ですな。また、清正自身は姓を替えているのに、清正の重臣たち、これは実名で登場する。
C――物語中の人物に二種類のグループがある。わかりきったことだが、モデルのある人物とモデルのない人物。そのうち、モデルのある人物に、二つのグループがある。一つは、実名グループで、これは脇役というかチョイ役。もう一つは、変名グループで、こちらは物語の主要人物。無理に名を変えたというよりも、これは名のズレや捻りを楽しんでいる。名前のゲームだね。
B――ようするにだ、ここで登場する「佐々木巌流」は、実名ではない。十八世紀を通じて、演劇台本の中から生まれた姓名だ。巌流は巌流島の「巌流」、もとを糺せば、小倉碑文の「岩流」だね。したがって、これは動かせない。しかし「佐々木」姓の方は明らかに戯曲の産物だ。むろん、こういうことは、さして強調するまでもないことだ。
A――だから、「佐々木巌流は実在しなかった」などと、さもセンセーショナルに書きたがるのは、阿呆だね(笑)。
C――こまった連中だ。佐々木巌流は、実在するもしないも、十八世紀の演劇空間における存在なんだ。しかし佐々木巌流のモデル、姓不詳の巌流(岩流)は、小倉碑文に拠るかぎり、実在したと言うべきだろう。
B――それから、舟島が「巌流島」と呼ばれるようになった、という話ね。これは、小倉碑文の「岩流」は流派名ではなく、彼の号だったことを示唆する。「岩もとの水の流れ」という意味の号だな、これは。
C――つまり、「岩流」は流派名ではなく、個人としての名号だ。だから島の呼び名になった。流派名を島の呼び名にするわけはない。
B――まあ、たとえて言えば、新当流の塚原卜伝という人物がいて、彼を記念する島の名は「卜伝島」であっても、「新当島」ではありえない、というようなことだな。
A――すると、問題は『丹治峯均筆記』ですな。この書物にある武蔵伝記(兵法大祖武州玄信公伝来)には、わざわざ巌流は流派名だと記している。
C――うむ。立花峯均は、巌流は人名ではなく、流派名だと記しているが、これは後智恵だな。「岩流」という流派名は因幡に実在していたから、これと同一視して錯覚しただけのことだ。
A――そうなると、「佐々木小次郎」という名は、もっと虚構性が高い。肥後系伝記では『武公伝』にはなく、『二天記』で出ますな。『武公伝』だと、まだ「佐々木」姓はなくて、「巌流小次良」。
B――『二天記』の出来た時代は、十八世紀も後期だ。もう世間では「佐々木」巌流が有名になっておった。その影響を我知らず受けておった者が、小次郎は「佐々木」じゃないかと言い出した。その「佐々木+小次郎」説を、『二天記』は注記で拾ったまでだ。



宮本武蔵総合年譜 →   Enter 




















繪本二島英勇記

[資料篇]繪本二島英勇記 →   Enter 




*【繪本二島英勇記】
《然に天正の黎、佐々木巌流といふ者あり。豊前國小倉海外の一小島において、宮本無三四が爲に死を蒙り、今に至りて二百年、天下の人口に膾炙す。つらつら其起を尋るに、佐々木巌流は、その先ハ近江國の人、六角佐々木の餘裔なり。天質狼戻にして、少しも仁義の志なく、神道正傳眞刀流の劔術に卓絶して、流義の印可を究め、其後國々を武者修行し、後に漂れて播磨國姫路の城下に來りぬ。其頃は此下〔このした〕飛騨守高貞の鎭藩させ玉ふ時なり。家士一統に武技を好みけれバ、諸士かハるがハる巌流が旅宿に訪らひ、藝術を競るといへども、一人も是が右に出る者なし。領主飛騨守も深く感激し、ひたすら召抱らるべしとありしかども、如何なる奥やありけん、仕官に心なきよし、辞してつかへず。然らバ當分客位に處て、諸土等が師範頼むの旨、懇に輟られしかバ、巌流も面目身に餘る心地し、承伏してとゞまりぬ。是に依て、城下の内に新に家宅を造り、教場を構へ、諸士日々に來、門人次第に加ハり、竹刀木刀の聲喧しく、門前市をなしにけり》(巻之一)
《然るに其黎同國熊木〔くまげ〕の城ハ佐藤主計頭清正の藩鎭、忠孝文武を以て國を治め玉ひしかば、黎民徳に化し家々腹を鼓し、みな太平を諷ひける。就中此國は西洋の外國に近きが故に、烽火の備を厳ふし、武士ハ弓馬を操練し刀劔の技を宗とせられければ、一藝に秀たる者ハ多く彼所に抜擢せられける。爰に清正朝臣、熊木の城を賜はらざる以前に、宮本武右衛門といふ者あり。武藝六流の奥儀を究め、其先山城國宇治郡の英産、專ら武を講じけるに、後吉岡太郎右衛門にしたがひ、其流儀を信じ、晝夜の修行怠慢なく、終に三年にして、師太郎右衛門と高下の分をわかつ事なし。太郎右衛門大きに感じ、秘中の秘を叩て奥妙を傳ふ。主計頭清正、武右衛門が武技に名ある事を聞、頻りに召る。これに依て武右衛門、清正朝臣に仕ふるとき、名島に趨き、吉岡に告けるハ、われ師の玄氣を惜まず傳へ玉ふがゆへ、今海内の英勇たる人に仕官し、共に驥尾につきて名を顯すべし。然るに某いまだ男子なし。師幸ひに二男子を生じ玉へバ、願はくは御二男友次郎殿を玉ハらば、大切に養育し、師の相傳し玉へる蘊奥ことごとく傳へ遣さば、師の流義をして普天の下に弘むる道理なり。先生の尊意いかにと。吉岡はなハだよろこび、もとより己が望む所なり。汝これを養ふて子とせよ。然れども、渠いまだ襁褓をはなれず、其成長のところ畢竟いかゞあるべし。汝もしやしなふて後に物の用に立つまじき者ならば、少も憐愍乃心なく逐失なへ。其ときわれに於て更に恨ミとすまじ。ゆくすへ汝のかたに実子出生して家を繼べき血脉あらば、渠をもとにかへすべし。かならず血脉を以つて家系を續しむる事ハ、先祖への孝なり。努々迷ふ事なかれと、懇に教へければ、武右衛門深く感じ、終に友次郎が二歳になりけるを懐にして、清正乃方に至りける》(巻之三)

巌流島 武蔵小次郎決闘像


巌流島周辺現況地図


宮本武蔵顕彰碑(小倉碑文)
北九州市小倉北区赤坂


*【小倉碑文】
《爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ》(原文漢文)

*【江海風帆草】
《嗚呼、三士のいさおしすこしきなりとせんや。吉田重昌は元禄二年[二月二十四日]、勝野清中は同四年[八月十五日]世を辭し、その子むまご子とみやづかへにゑきせらる。宮本のみこだいのものにて、今の總司につらなり、光之の御座船につかふまつる》(立花重根序文)
《武藏一代兵法鍛錬不等閑、名人のほまれ有けり。巌流嶋の仕合ハ、いまだ十八歳の時にて、兵法も未熟、ひとへに血氣の所作、心に不叶事どもなりと、武藏後年に申けるとかや》

*【丹治峯均筆記】
辨之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事。巖流ハ流義之称号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ》

*【兵法先師伝記】
《慶長六年、先師十八歳、此時兵法ノ名誉世ニ廣キ津田小次郎ト云人アリ。此流義ハ巌流ト号ス》

*【武公伝】
《武公、從都來[慶長十七年壬子二十九歳]、故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ、請テ曰》

*【二天記】
《于時慶長十七年四月、武藏都ヨリ小倉ニ來ル[二十九歳ナリ]。長岡佐渡興長主ノ第ニ至ル》






宮本武蔵遺跡顕彰会編
『宮本武蔵』 金港堂 明治42年


彦島から巌流島の彼方に関門大橋を望む

――はい。では、お話の腰を折るようですが、坐談会の方向を操作する司会役として(笑)、今日のお話のテーマは、武蔵伝記の可能性をさぐるというところから、巌流島の決闘に絞らせていただきます。
A――あれ? まだ、巌流島の話はしていなかったか(笑)。
――そうなんです。まとまった話はこれまで出ませんでした。この[宮本武蔵]サイトには、我々の巌流島の話を聞きたいという、ファンからの要望が最初から多かったのです。そういう機会がありませんで、そのままになっていました。
B――巌流島で宮本武蔵は佐々木小次郎と対戦かい(笑)。どうでもいいような話だと思うが。
C――巌流島決闘伝説については、『丹治峯均筆記』や、『武公伝』『二天記』など、武蔵伝記の読解で、詳しい論説が出ることになっている。それが出てからにしてはどうか。
A――まあ、ここでは、巌流島伝説の読解へのガイド、ということではどうですか。世間の要望も多いことだし(笑)。
B――妥協するのではないが、ここは話の成り行きで(笑)、少し「巌流島」をやってみてもいいと思うが。
C――そういうことなら、譲歩しようか。ただし、「伝説としての」巌流島決闘という条件付きの話だ(笑)。
A――巌流島の決闘に関して資料は多いが、ようするに、ノイズが多すぎる(笑)。
B――宮本武蔵総合年譜でも明らかなように、我々のスタンスは、あくまでも決闘記事の初出史料、小倉碑文に依拠する、ということだ。小倉碑文に拠るかぎりにおいて、巌流島決闘は実際にあった、しかし、その相手は「岩流」としか知れない。しかも、この決闘がいつ行なわれたか、それは不明、ということだな。問題は、巌流島決闘伝説の成長を、この小倉碑文の記事からの距離で測定することだ。
A――そのばあい、少し整理しておくと、巌流島決闘伝説には、『丹治峯均筆記』や『江海風帆草』などの筑前系伝説と、それから、『武公伝』『二天記』あるいは『沼田家記』という肥後系の伝説があって、この二系統の伝説にはすでにかなり相違がみられる、ということですな。
B――まず問題はそこなんだ。つまりだな、伝説はどんどん成長するもので、後世のものほど、具体的なディテールが増殖する、という傾向がある。とすれば、話が具体的だからといって、それを鵜呑みにするわけにはいかない。むしろ、話が具体的であれば、それが要注意の信号だと考えてよい。
C――では、その具体的な話を洗ってみようではないか(笑)。まず筑前系の伝説、『江海風帆草』では、巌流島の仕合は、まだ十八歳のときのことで、兵法も未熟、ひとえに血気のしわざ、心に叶わぬ事どもなりと、武蔵が後年語ったそうな、という話だね。
A――そのように武蔵十八歳のとき、という『江海風帆草』が、具体的に年齢を示した伝説としては、最も早い部類ですな。
C――立花重根(号実山・1655〜1708)が宝永元年(1704)に書いた序文をみると、この海事文書成立の事情が記されているが、その編述者三人のうち、吉田忠右衛門重昌は元禄二年(1689)歿というから、これは元禄以前の成立だね。十七世紀後期の文書だ。
B――年齢記述では『江海風帆草』が一番古い。他方、『丹治峯均筆記』には《辨之助十九歳、巌流トノ試闘》とあるね。つまり、巌流島の決闘は、武蔵が十九歳のときだとするわけだ。
C――同じく筑前系の『兵法先師伝記』だと、《慶長六年、先師十八歳》。これは『江海風帆草』の伝説の反映だね。ところが、現在一般に流布しているのは、武蔵二十九歳の時とする説で、これは肥後系の武蔵伝記『武公伝』『二天記』の説だな。
A――すなわち、慶長十七年(1612)、武蔵二十九歳のとき、京都から下って九州小倉の長岡佐渡興長の邸に来たというわけですな。
B――しかも『二天記』は、これを四月とまで特定する。ところが、これは『武公伝』にはない記事だ。このように先行する種本にない具体的な記事が後続のものに現れるというのは、伝説の成長ぶりを示す端的な例である。
C――『武公伝』には、(長岡)佐渡の使者に対する武蔵の口上でしかないのが、『二天記』だと、「四月十二日」という日付のある武蔵の書簡まで出してくる。これは、いったいどこから出現して来たんだ(笑)。
A――武蔵書簡のそういう捏造は、『二天記』の筆者の作為というよりも、筆者はこんな新資料が発見できたと、大喜びの体ですな。そんなナイーヴな姿勢は、近代の武蔵研究家にしても同じだが(笑)。
C――江戸時代では、一般に資料の捏造は平気で横行しておる(笑)。それは武蔵に限った現象ではない。しかし、これは史料批判以前だね。ここで、口承伝説がマテリアルな資料まで生産してしまう、という事態には注意が必要だ。
B――ここで言うまでもないことだが、現在流布している説だとはいえ、武蔵二十九歳説には、確かな根拠があるわけではない。それはたまたま、明治以後、『二天記』の肥後系伝説に依拠する勢力が大きくなってしまった結果であるにすぎない。それが逆に、もし『峯均筆記』が流布していたなら、結果は逆になっただろう。一般に信じられている「通説」というのは、ある種の知と勢力の結合の歴史的産物だ。
C――肥後では、昔から武蔵人気は高くて、伝説がどんどん成長するという土地だったかもしれない。とはいえ、筑前系の『峯均筆記』が、肥後系伝記に比して断然優れているはずもない(笑)。甲乙の選択を可能にする手段はない。どちらも後世の伝説でしかない。ただし、我々はそんな伝説形成の歴史的研究も武蔵研究の一つと心得ておるから、テーマにしているだけだ。
A――ようするに、『二天記』の記事に対する信仰が、近代の特徴的傾向だったが、むしろ、読本『二島英勇記』なんぞの小説と同じように、たとえば『二天記』を読むという作業が必要ですな。
B――そういうことだね。ノイズはノイズとしてそれなりに認識しなければならない。伝説を鵜呑みにするというのは、近代の人間はそれを自覚的に避けてきたことが、それでも宮本武蔵に関しては、伝説を鵜呑みにしてしまう連中が跡を絶たなかった。
C――そういうわけだった。明治末、熊本の顕彰会本『宮本武蔵』が紹介した『二天記』の記事が、今でも「通説」を形成しているというのは、ひどい話だな(笑)。
A――まったくね。『二天記』に依拠したという同じような「通説」が他にもあって、たとえば巌流の年齢である。「巌流島のとき小次郎十八歳」と『二天記』にあるというのは、これは実は問題だね。
C――『二天記』の種本『武公伝』に、小次郎十八歳の記事があるのは、「十八歳のとき師の前を欠落し、自身の一流を立て岩流と号した」とあるごとく、つまり家人・家僕だったのを勝手に逃げたというわけだが、十八歳というのは、小次郎が富田勢源の下を離脱した時の話だな。ところが『二天記』の本文には「小次郎十八歳」の文言はなく、注記にある。それも、《岩流ハ佐々木小次郎ト云、此時十八歳ノ由ナリ》として、巌流島決闘の時に十八歳だという説を拾っている。
A――小次郎が富田勢源の下から欠落したのが十八歳、巌流島決闘の時が十八歳。すると、欠落も決闘も同じ年のこと。欠落した十八歳の小次郎は、いきなり武蔵と対戦したことになってしまう(笑)。
B――ところが、『武公伝』に倣って『二天記』も、欠落した後の廻国修行を語るから、同じ年とは云えない。いくら『二天記』だって、そんな矛盾を興行するわけがない(笑)。だから、本文には「小次郎十八歳」の文言はない。これまで明言した研究者はいないが、小次郎十八歳という具体的な年齢は、本文ではなく注記の記事なんだ。こんな話もあるよ、という程度のことで、本文には入れられない情報だった。
C――その書き方も、《此時十八歳ノ由ナリ》で、「十八歳なり」という断言形式ではなくて、「の由なり」という伝聞形式だ。だから、これは他人の説なんだ。ここで関係各位に改めて注意をしておけば(笑)、小次郎十八歳説は『二天記』本文にはない。小次郎十八歳説は『二天記』の所説ではない。「こんな説もあるよ」という扱いで、注記に入れているだけだ。『二天記』本文は、決して小次郎が十八歳だなどと書いていない。このあたりを、間違ってもらっちゃあいけない(笑)。
A――それは再認識されるべきポイントですな。『二天記』本文は、決して小次郎が十八歳だなどと書いていない。小次郎十八歳説は、『二天記』の説ではなく、「こんな説もあるよ」と『二天記』がたまたま拾っている伝説だ。となると、小次郎十八歳説は、根拠を喪失してしまうわけだ(笑)。
C――だれがそんなことを云っておったのか。この三代目(景英)はだれからそんな話を聞いたのか。ここから先はわからない、不明である。その根拠喪失の《vanishing point》は、「此時十八歳ノ由ナリ」という、この「の由なり」だな。
B――その「十八歳」ということだが、もしありうるとすれば、『江海風帆草』の《巌流嶋の仕合ハ、いまだ十八歳の時にて、兵法も未熟、ひとへに血氣の所作、心に不叶事どもなりと、武藏後年に申けるとかや》という記事だな。こういう下関周辺の伝説が肥後へ入ると、これが武蔵のことではなく、小次郎が「いまだ十八歳の時にて、兵法も未熟」ということになった。それも考えられる。
A――巌流島のことになると、肥後では、何でも入れ替えて逆にしてしまうからね(笑)。
B――明治の終りあたりまでは、小次郎若年説はなかった。ほとんど唯一の例外が、この『二天記』注記の伝聞情報だ。ところが、何と明治末以後、この例外的情報が通説化してしまう。これも、武蔵論からすれば、なかなか興味深い展開だが、それはともかく、実際上は、巌流島決闘のとき小次郎が十八歳だということは本来ありえなかった。
C――そういうことだ。かたや筑前系の『峯均筆記』では、巌流島決闘は武蔵は十九歳の時で、京都での吉岡一門より前のイヴェント。この点、小倉碑文の記述順序とは異なる。小倉碑文だと京都の方が前に来るな。『峯均筆記』は、どこかで仕入れた武蔵十九歳という情報を優先させておる。
B――だけどまあ、このように肥後系伝説では武蔵が二十九歳、そして『峯均筆記』のような筑前系伝説だと武蔵十九歳、というように異伝形成をみるというのは、どういうことか。
C――それは、伝説だから、対立形式のほうから見てみることだ。おさえておくべき第一点は、江戸時代を通じて、巌流は中年、武蔵は若年という対立図式だね。『二天記』注記のように巌流を若年とする設定は例外だ。したがって、もう一点は伝説展開の順序問題で、「巌流は中年/武蔵は若年」という対立図式の方が先にあって、その後、その図式が反転して、「巌流は若年/武蔵は壮年」という図式になったということだろうな。
B――「武蔵壮年/巌流若年」という対立図式は、早期には出ていなくて、これは後期のパターンだ。問題は、巌流の方が若年という、そんな反転がどうして生じたか、ということだね。これについてはどうかね。
C――それは、話を端折って云えば、義経を永遠の美少年にしてしまうのと同じ、判官贔屓のパターン。つまり敗者へのセンチメンタルな共感だね。備中の(古川)古松軒の『西遊雑記』は天明三年(1783) で、『二天記』と近い時期のものだが、これが採取している赤間関(下関)の伝説は、「佐々木岩龍」サイドに立った内容だ。『西遊雑記』が拾った伝説は、世間の影響を受けて「佐々木」姓を導入しているから、新しい段階のものだ。しかし、巌流に心情的に加担したこういう伝説は、地元にはずっと存続したようだ。
B――そもそも、小倉碑文がすでに記しているが、とくに、舟島を「巌流島」と呼ぶようになったこと。
A――この島は、絶対に「武蔵島」ではなかった(笑)。
B――土人つまり地元の人民、長州の浦人が、巌流の墓を島に造ったというからね。この巌流のモニュメントが、舟島を「巌流島」にしたらしい。
A――小倉碑文に、舟島を「巌流島」と呼ぶようになった、とあるところをみると、「巌流島」という通称は、武蔵在世中にすでにあった可能性もあるよ。
C――その可能性は大きい。とすれば、地元長州周辺では、早期に巌流への心情的加担が形成されたということだ。そうして伝説形成の次の段階として、判官贔屓のステージになると、敗者巌流は若年の存在に変化する、というわけだ。『二天記』注記が拾っている説は、この新しい段階のものだね。ようするに、この問題を整理しておけば、筑前系と肥後系の巌流島伝説があるが、もう一つ、地元下関周辺で存続し発展した巌流島伝説。これをつねに念頭においていなければならない。
A――しかも、地元下関周辺にあった巌流島伝説は、それが必ずしも祖形だとは言えず、それじたい発展した、ということですな。




*【武公伝】
《小次郎、幼少ヨリ勢源ガ打太刀ヲ勤メ、勢源ハ一尺五寸ノ木太刀ヲ以、參尺ノ刀ニ對シ、勝事ヲ爲ス。小次郎、常ニ參尺ヲ以、勢源ニ對テ、粗〔ほぼ〕技能アリ。因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落シ、自劔一流ヲ立テ、岩流ト號。其方術實ニ藍ヨリモ青シ。武者修業ヲシテ諸國ヲ經囘、豐前國ニ到ル。太守細川忠興公、其術ヲ称美シタマイ、暫ク小倉ニ駐ル》

*【二天記】
《幼少ヨリ稽古ヲ見覺エ、長ズルニ及テ勢源ガ打太刀ヲ勉ム。勢源ハ一尺五寸ノ小太刀チ以テ三尺餘ノ太刀ニ對シテ勝コトヲ爲ス。小次郎常ニ大太刀ヲ以テ、勢源ガ短刀ニ對シテ粗技能アリ。猶鍛錬シテ勝利ヲ辨ズルニ、高弟各小次郎ガ太刀サキニ及ブ者ナシ。於斯勢源ガ肉弟・治部右衛門ト勝負ヲ決シテ、之ニ打勝ツ。依テ勢源ガ下ヲ駈落シテ、自ラ一流ヲ建テ、岩流ト號ス。其法術尤モ奇ナリ。諸國ヲ經囘シテ、名高キ兵法者ニ會シ、数度ノ勝負ヲ決スルニ、勝利不失。斯テ豐前小倉ニ至ル。太守細川三齋翁忠興公聞シ召テ、小次郎ヲ停メ置キ玉ヒテ、門弟出來テ指南アリ》
《岩流ハ佐々木小次郎ト云、此時十八歳ノ由ナリ。英雄豪傑ノ人ナリトテ、武藏モ是ヲ惜ミシトナリ》(註記)





繪本二島英勇記 巻之一
(左)巌流像賛/(右)宮本像賛



利運談  武蔵は若年/巌流は中年



*【西遊雑記】
《岩龍島といふは昔時舟島と稱せし也。宮本武蔵之助といひし刀術者と佐々木岩龍武藝の論をして、此島において刀術のしあひをして、岩龍宮本が爲に打殺さる。ゆかりの者ありて岩龍が墓を建しより、土人岩龍島と云。
赤間が關にて土人の言傳へを聞しに、板本に記し有とは大ひに異なり、佐々木、武藏之助と約をなし、伊崎より小舟をかりて舟島へ渡らんとす。浦の者ども岩龍を止めていふには、「武藏之助は門人を數多引具して先達て舟島に渡れり。大勢に手なし〔諺・多勢に無勢ではかなわない〕といふ事あれば一人にては叶ふまじ、今日は御渡海無用なり」といふ。岩龍が曰、「士は言をはまず、かたく約せし事にして、今日渡らざるは士の耻辱なり。もし大勢にて我を討なば耻辱は彼に有りて我になし」といひて押て島に渡を、浦人の云しごとく、門人の士四人與力して終に岩龍討る。初とめし浦人、岩龍が義心にかんじて墳墓を築きしより、岩龍島と稱せる事なり。其虚實は知らざれども、土人の物語を記せる事也。或人の云、宮本の子孫は小倉の御家士に有りと云。宮本の墓も有りて岩龍に相對せりといえり》




*【武公伝】
《又正徳二年春、小倉商人村屋勘八郎ト云者語也。武公航セシ時、梢人ハ勘八郎ニテ、老ニシテ勝負次第咸〔ことごと〕ク委(く)語之》







*【二天記凡例】
《岩流勝負の事は、長岡興長主其事を取計ひ在りし故、于今精く聞傳る處なり。又正徳二年の春、豊州小倉之商人村屋勘八郎ト云者、八代に來る。正剛遇之、岩流嶋乃事を問ふ。勘八郎委しく其事を語る。勘八郎親族に、小林太郎左衛門と云者、長州下ノ關の問屋なり。則先師其時宿せし処なり。彼家に老人あり、其者先師舟渡りの時之梢人也。勘八郎度々出會し其噺を聞に、毎囘一言も不違と(云)。故に此度委く知れりと語る》






九州関係地図



*【丹治峯均筆記】
《コレ、下ノ關辺ニテ語傳ル所也。夫ヨリシテ、舟嶋ヲ巖流嶋ト呼ブ》
A――そうなると、肥後系伝説の位置づけが問題ですな。豊田氏は、どこから巌流島の伝説を仕込んだのか。
B――『武公伝』には不可思議な記事があって、正徳二年の春に、小倉の商人・村屋勘八郎という者が語った話だという。ところが、この勘八郎は実は武蔵が海を渡るとき舟を漕いだ舟子(梢人)だった。老いてのち巌流島の勝負の次第を委しく語ったというわけだ。
C――この村屋勘八郎は、小倉で商人となったが、当時、下関の小林太郎左衛門の家奴で、武蔵が舟島へ往還する舟を漕いだ当の人物、ということになる。ところが問題は、この村屋勘八郎が物語の時点が、正徳二年(1712)の春だという記事にある。『武公伝』は巌流島決闘を慶長十七年(1612)のこととするから、これは何と百年後の話(笑)。
A――勘八郎がかりに当時二十歳だとしても、正徳二年では百二十歳。それが肥後の八代までやってきて語ったという。これはいくらなんでも眉唾の話であろうというのが、まあ当然の見方ですな。
B――これに対し、『二天記』冒頭所収の「(武公伝)凡例」は違った記事を書いている。それによれば、正徳二年の春に、小倉の商人・村屋勘八郎が肥後八代へ来て、豊田正剛が彼に会った。正剛が巌流島のことを聞いて、勘八郎が委しく語った――ここまでは、話は同じ。ところが、次に、この勘八郎の親族に下関の問屋・小林太郎左衛門という者があり、という展開になって、話が違ってくる。この下関の小林太郎左衛門の家に老人がいた。
A――この老人こそ、武蔵の舟を漕いだ者であった(笑)。これは伝説の事後的修正ですな。
B――となると、勘八郎は自分が舟を漕いだのではなく、「舟を漕いだという老人」から話を聞いた人物。その老人が長命で、彼に勘八郎が子どもの頃遭遇できたとすれば、かくして、慶長十七年と正徳二年の間の百年の距離も、このように直話ではなく伝聞継走だということなら、ありうる話になる。
A――それで辻褄が合うが、ではどうして、村屋勘八郎に会って話を聞いた本人・豊田正剛がそんな間違いを書いたんだ。耄碌しておったのか(笑)。
B――いやいや、そんな年齢じゃない。正徳二年(1712)だとすれば、まだ正剛は四十一歳だよ。耄碌する年じゃない。しかし、聞書を記録したのが、それから何十年も経った晩年だとすれば、耄碌の可能性はないではない(笑)。
C――正剛は七十八歳まで生きていたからね。伝聞の信憑性は、「(武公伝)凡例」が《勘八度々出會シ其噺ヲ聞ニ、毎囘一言モ不違ト。故ニ此度委シク知レリト語ル》と強調するところだが、これも、巌流島から相当経った後のことだよ。「わしはね、あの時宮本武蔵を乗せて舟を漕いだのだよ」と、子どもの勘八郎に語ったという老人の存在は、たしかにおもしろいが、しかしながら、この村屋勘八郎がいた小倉で、『武公伝』『二天記』など肥後八代系の伝説と同じ巌流島伝説が残っているかというと、そうではない。『鵜の真似』にはいろいろ武蔵・伊織関連の記事があるが、これに類似の記事はない。
B――肥後系の伝説では、巌流島決闘を、小倉城主の細川家と関係づけているが、これは我田引水だな。『沼田家記』もその類いだ。後世の伝説としては、よくあるパターン。他の系列の巌流島伝説では、そんな話はないな。それとだ、『峯均筆記』が下関周辺の伝説だということからすると、武蔵が若年だという設定は、肥後系伝説が取り込んだ話よりは古いパターンだな。
C――だろうな。それに『江海風帆草』も、別名「海路記」とある海事文書だから、下関周辺の伝説を採取したものだ。『江海風帆草』にしても、武蔵は若年で、十八歳だとする。武蔵の相手は、弟子が中国地方に多数存在する、そんな有力な兵法者だし、《父無二と宗入兵法の遺恨もありければ》というわけだから、中年だろう。『峯均筆記』には、彼が武蔵のことを《若輩成弁之助ガ過言千万、其分ニテハ措キガタシ》という台詞があるから、これは中年男という設定だね。
B――ということは、同時代でも伝説はこれほど違っていた。つまりは、我々には伝説が成長し分岐した結果しか見えないということだな。
C――それは、『武公伝』『二天記』など肥後八代系の伝説を、最も信憑性のあるものとして絶対化して巌流島の一件を語ることはできない、ということだ。武蔵伝記に関して、多様な展開を見たということは、それじたい社会文化的事象であって、そういう歴史的経緯があったことを理解しておくべきだね。軽々に「これ」が巌流島の史実だなどと語るのは、武蔵研究からすれば妄説である(笑)。



佐々木巖流
  或作岸柳

思ひきや
沖の小嶋に
身を捨てて
名を後の世に
残すべしとは

佐々木巖流 vs. 宮本武蔵政名  武稽百人一首



宮本武蔵政名


政名流と
聞て おそれぬ
者もなし
四夷八蛮の
その外までも
――いわゆる佐々木巌流の「巌流」とは流義の名称であるとするところですが、そこにもう少し立ち入ってみますか。
A――問題は筑前系伝説に、これは人名ではなく、流儀名だという認識があったことだね。
B――『江海風帆草』には、「この嶋を、兵法つかいの名によって巌流島とよぶ、というのは間違いだ。流儀の名によったものだ。巌流とは兵法の流儀なり」という意味の記事がある。それを継いで『峯均筆記』には、「巌流とは流義の称号である。巌流は名を津田小次郎といい、長府の者であるそうな」という記事がある。また、肥後系伝記二書には、「十八歳の時、師の前を欠落し、自剣一流を立て、岩流と号す」と『武公伝』にあり、また『二天記』には「勢源のもとを駈落して、自ら一流を建て、岩流と号す」とある。ただし、注意すべきは、肥後系伝記二書に「自ら一流を建て、岩流と号す」などとあっても、首尾一貫性のない肥後系伝説のことだから(笑)、別の箇処では岩流を人名として扱っておる。
C――それゆえ、「巌流(岩流)」が流派名だという説は、筑前系も肥後系も共通している、とは必ずしも言えまい。岩流を確かに流派名とするのは筑前系の特徴だ。『江海風帆草』などは、《兵法つかひの名によつて号と云ハ非也》とわざわざ記す。これは、世間一般では武蔵の相手は巖流の名で通っているが、実は巌流は流派名だよ、という訂正文なんだ。このように、筑前系の伝説が、巌流を流派名だと強調していることに注意すべきだ。
B――では、本当に巌流は流派名なのか、となると、確かにそうだとは言えない。たとえば、小倉碑文では、《爰に兵術の達人有り、名は岩流》と明記してある。名は岩流で、流派名が岩流だとはしていない。もちろん、小倉碑文の段階では、「佐々木」も「小次郎」もない。
C――小倉碑文は武蔵死後九年、十回忌の建碑。その当時の証言として、この関門海峡を望む海岸の山に建った碑文が、巌流(岩流)はある兵術達人の名だと記しているわけだな。もし巌流が流派名なら、小倉碑文はそのように記しただろうし、新当流の有馬喜兵衛のように、この兵術達人の流派名を別に記録しただろう。
B――あるいは、『峯均筆記』と同時期の剣術書では、日夏繁高の『本朝武藝小傳』(正徳四年・1714)がありますな。そこには、中村守和という人物が昔日老翁の物語を聞いた話として、《巖流宮本武蔵と仕相の事》というのがあって、巌流が武蔵との試合のため島へ渡ろうとして、舟に乗る。巌流が船頭に尋ねる。「今日は、渡海の人が多いな。何かあるのか」。(笑)
A――巌流は、騒ぎの原因が自分にあるとは知らない。このあたりは伝説の小咄として捻りが利いている。
B――渡守曰く、「あんた、知らんのか。今日は、巌流という兵法つかいが、宮本武蔵と舟島で試合をするんだ。だから、それを見物しようと、未明から海を渡る人が引きも切らない有様だよ」。
A――巌流曰く、「おれが、その巌流なんだけど」。(笑)
C――それで、船頭が、「宮本の与党が多いから、試合をしても絶対殺される。早く逃げた方がよい」と忠告するという話になるのだが、――それはともかくとして、日夏が採取した伝聞では、巌流が「吾其の巌流也」と言っているのだから、これは人名だという扱いだな。小倉碑文と同様に「巌流」は人名である。
B――さらに同時期の『武将感状記(砕玉話)』(正徳六年・1716)には、《岸流ト云劔術者》とあって、これも「岸流」が人名である。すると、どうして巌流は流派名だという説が生じたのか。それには原因がある。
A――実は、「岩流」という流派が実在した、というわけだ。
B――ところが、ここが肝心な点だが、――その岩流という流派は小次郎とは無関係である。すなわち、岩流は、文禄ごろの人・伊藤左近裕久を始祖とする流派。伊藤は修行工夫して風車・虎切・献追の三つの技を会得して、自ら流派を「岩流」と名づけた。丹後の京極高次家臣・多田善右衛門(一至斎有閑)から、因州鳥取の香河信濃重信へ相伝、以後鳥取の家中に伝承した。しかし、むろん、岩流の系譜には巌流に相当する名は存在しない。関係ありそうなのは、多田善右衛門の弟・多田市郎が下関のあたりで、武蔵と試合して勝ったが、後で武蔵に謀殺されたという、岩流の伝説ね。これくらいしかないが、多田/津田の線はある。
A――因州鳥取は、例の岡本勘兵衛正誼が伝えたという武蔵円明流の地でもあって、なかなか面白い土地だね。
C――「巌流」とは人名ではなく流派名だ、とする説が後世生まれたのは、因州鳥取のこの岩流との混同があったものらしい。また別に、類似の流派名として「願流」ないし「願立流」があるが、これは剣術史では有名な蝙也斎松林左馬助(1593〜1667)を始祖とする。蝙也斎は願立・無雲の号をもっていて、六十歳のとき武技を将軍家光の台覧に供したという話で、蝙也斎は武蔵よりも若い世代である。こちらとの混同ではあるまい。
B――後世のものでは『撃劍叢談』が、混同の仕上げを行なっている。つまり、一心一刀といって大太刀を真向に拝み打ちするとか、因州鳥取の小谷新右衛門の名を出すとか、あるいは「岸流」流と云うべきを略して岸流だと呼んだのだろう、という推測をしている。こういう説が十九世紀までに固まっていったようだ。
C――ともあれ、「巌流」は人名ではなく流派名だという説は、「岩流」という実在の流派との混同から生じたもので、後世の解釈による新説である。この流派名説が信じられるようになってのち、『江海風帆草』『峯均筆記』のような訂正文が出てくるわけだ。
A――それら伝説は九州の産物。もし、岩流が存続した因州鳥取の近所なら、そんな突飛な伝説は生じない(笑)。
B――つまり、看過されやすいことだが、「巌流島」という名に注意することだ。「岩流」は流派名ではなく、個人としての名号だ。だから島の呼び名になった。
C――もちろん、『江海風帆草』の巌流=流派名説を継承しながら、『峯均筆記』の巌流=流派名説は、さして一貫したものではなかったようだ。『峯均筆記』は、武蔵の幾多の戦歴で武蔵は手疵を負ったことはないが、例外は、冨来城での鎗疵と、巌流から受けた疵だと語る。つまり、『峯均筆記』の立花峯均は、ついつい小次郎を「巌流」と呼んでしまっている(笑)。
B――そこが『峯均筆記』の愛嬌なんだよ。改めて言うまでもないが、流派名を島の呼び名にするわけがない。だから、「岩流」は流派名ではなく、個人としての名号だ。これで、問題は決着(笑)。




*【江海風帆草】
《此嶋、兵法つかひの名に依て号スと云ハ非なり。流儀に依てなり。巌流とハ兵法の流儀なり。此流を仕出せしハ、俗名上田宗入[此名不分明]と云へる者のよし》

*【丹治峯均筆記】
《辨之助十九歳、巖流トノ試闘ノ事。巖流ハ流義之称号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ》

*【武公伝】
《小次郎、幼少ヨリ勢源ガ打太刀ヲ勤メ、勢源ハ一尺五寸ノ木太刀ヲ以、參尺ノ刀ニ對シ、勝事ヲ爲ス。小次郎、常ニ參尺ヲ以、勢源ニ對テ、粗〔ほぼ〕技能アリ。因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落〔かけおち〕シ、自劔一流ヲ立テ、岩流ト號。其方術實ニ藍ヨリモ青シ》

*【二天記】
《幼少ヨリ稽古ヲ見覺エ、長ズルニ及テ勢源ガ打太刀ヲ勉ム。勢源ハ一尺五寸ノ小太刀チ以テ三尺餘ノ太刀ニ對シテ勝コトヲ爲ス。小次郎常ニ大太刀ヲ以テ、勢源ガ短刀ニ對シテ粗〔ほぼ〕技能アリ。猶鍛錬シテ勝利ヲ辨ズルニ、高弟各小次郎ガ太刀サキニ及ブ者ナシ。於斯勢源ガ門弟治郎右衛門ト勝負ヲ決シテ、之ニ打勝ツ。依テ勢源ガ下ヲ駈落シテ、自ラ一流ヲ建テ、岩流ト號ス。其法術尤モ奇ナリ》



*【本朝武藝小傳】
《中村守和曰、巌流、宮本武藏と仕相の事、昔日老翁の物語を聞しは、既に其の期日に及て、貴賤見物のため舟島に渡海する事夥し。巌流も船場に至りて乗船す。巌流、渡守に告て曰、「今日の渡海甚し。いかなる事か在る」。渡守曰、「君不知や。今日は巌流と云兵法遣、宮本武藏と舟島にて仕相あり。此故に見物せんとて、未明より渡海ひきもきらず」と云。巌流が曰、「吾其の巌流也」。渡守驚(き)さゝやひて曰、「君巌流たらば此船を他方につくべし。早く他州に去り給ふべし。君の術~のごとしといふ共、宮本が黨甚だ多し。決して命を保(つ)ことあたはじ」。巌流曰、「汝が云ごとく、今日の仕相、吾生んことを欲せず。然といへ共、堅く仕相の事を約し、縦(ひ)死すとも約をたがふる事は勇士のせざる處也。吾必(ず)船島に死すべし。汝わが魂を祭て水をそゝぐべし。賤夫といへども其志を感ず」とて、懐中より鼻紙袋を取出して渡守に與ふ。渡守涙を流して其豪勇を感ず。既にして舟船島につく。巌流舟より飛下り武藏を待。武藏も又爰に來りて、終に刺撃に及ぶ。巌流精力を勵(ま)し、電光のごとく稻妻のごとく術をふるふといへども、不幸にして命を舟島にとゞむと也》

*【武将感状記】(砕玉話)
岸流ト云劔術者、下関ニ待テ、武藏ニシアヒヲセント云遣ス》












*【撃劍叢談】
《岸流は右に云宮本武藏と仕合ひせる岸流が流也、岸流流と云べきを略して呼びならはせる成べし。今以て西國に此流多し。諸國にも往々其名を聞けり。此流に一心一刀と云ふ事有り。是は大太刀を真向におがみ打ちする様に構て、つかつかと進み、敵の鼻先を目付にして矢庭に平地まで打込む也。打なりにかがみ居て、上より打処をかつぎ上げて勝つ也。因州鳥取に小谷新右衛門といふ者も此流の師たり》




*【丹治峯均筆記】
《武州、一生數十度ノ試闘、其外、豊後陣、難波ノ合戰、原城ノ城責、彼是手疵ヲ被リ玉ハズ。冨來ニテノ鎗疵、又ハ巖流ヨリ外ニハ疵付ケシモノナシトイヘリ》



武稽百人一首
富田勢源


*【武公伝】
《一書ニ云、冨田勢源、仮名五郎左衛門、越前國宇坂庄浄教寺村之産也。父治部右衛門、祖九郎右衛門、朝倉家ニ仕、嘗テ学劔術。五郎左衛門、眼ヲ病テ、家業ヲ其弟治部右衛門ニ譲テ薙髪シ、號勢源。爾後、技藝益卓絶、一尺四寸五寸ノ短刀ヲ以、爲勝。其方術ヲ號中條流。右武藝小傳ニ出ズ》(註記)

*【本朝武藝小傳】
《富田五郎左衛門入道勢源者、治部左衛門子也。生於越前國宇坂荘一乗浄教寺村。継箕裘藝、雖逞刀鎗之術、由眼病、譲父之遺跡於弟治部左衛門、剃髪而号勢源》

*【二天記】
《幼少ヨリ稽古ヲ見覺エ、長ズルニ及テ勢源ガ打太刀ヲ勉ム。勢源ハ一尺五寸ノ小太刀チ以テ三尺餘ノ太刀ニ對シテ勝コトヲ爲ス。小次郎常ニ大太刀ヲ以テ、勢源ガ短刀ニ對シテ粗〔ほぼ〕技能アリ。猶鍛錬シテ勝利ヲ辨ズルニ、高弟各小次郎ガ太刀サキニ及ブ者ナシ。於斯勢源ガ肉弟治郎右衛門ト勝負ヲ決シテ、之ニ打勝ツ。依テ勢源ガ下ヲ駈落シテ、自ラ一流ヲ建テ》



*【富田流系統図】(抜粋構成)

○富田九郎左衛門長家┐
 ┌────────┘
 └治部左衛門景重─治部左衛門景家┐
 ┌───────────────┘
 ├五郎左衛門勢源─鐘巻自斎通家?┐
 │       ┌───────┘
 │       ├伊藤一刀斎?
 │       │
 │       └佐々木小次郎?
 │
 └治部左衛門景政┬越後守重政→
         │
         └鐘巻自斎通家?
B――それから、その流派問題に関連するが、肥後系伝記二書、『武公伝』『二天記』には、もっと特定して、小次郎が富田勢源の家人で、打太刀をつとめたとする。小次郎は三尺の大木刀で富田勢源の小太刀の稽古相手をするうちに、長剣を自得したというわけだ。だが、富田勢源の打太刀ををつとめたとすれば、小次郎は相当老齢でなければならない。
A――富田勢源の生歿年は、よく判らないですな。
B――弟の治部左衛門景政が、文禄元年(一説に二年)に七十歳で歿というから、弟の景政は大永三年(1523)あたりの生れ。すると、兄の五郎左衛門勢源の生年は、少なくともそれより以前だ。事蹟はよくわからないが、『武藝小傳』にある、永禄三年五月、美濃国主・斎藤義竜の命で梅津と仕合して勝ち、美名を天下に施す、という記事を信じれば、この永禄三年(1560)あたりが壮年期だろう。
C――もともと勢源の事蹟は不確かなので、何も確定できない。富田流は、中条流を学んだ富田九郎左衛門長家が元祖。九郎左衛門以下、富田氏は治部左衛門を世襲したもののようである。『武藝小傳』に、勢源は治部左衛門の子とするが、これは治部左衛門景家。『武公伝』は、これをうけて、《父治部右衛門、祖九郎右衛門》とするが、しかし、よくよくみれば、治部左衛門を治部「右」衛門にしておる(笑)。肥後では誤記がそのまま流通していたらしい。
B――そもそも『武藝小傳』だって、富田九郎左衛門長家を九郎「右」衛門としておる。だいたい、文字を崩すから右も左もわからなくなる(笑)。治部左衛門景家の子に、五郎左衛門と與六郎があり、兄の五郎左衛門がのち入道して勢源、弟與六郎景政が父景家の跡を嗣いで治部左衛門を名のったものらしい。この方が嫡流で、治部左衛門景政は前田利家に仕えて出世して四千石、晩年は能登七尾城代。景政が山崎六右衛門を聟養子にとって嗣がせたのが、富田越後守重政(1554〜1625)。これがいわゆる「名人越後」で、戦功重々あり前田家重臣として一万三千石。――こういうことは剣術史ならだいたい書いておる。
C――『武藝小傳』に、勢源が「眼病により、父の遺跡を弟治部左衛門に譲り、剃髪して勢源と号す」という記事が再三出てくるが、ともかく、五郎左衛門勢源は跡目を弟の治部左衛門景政に譲った。ところが、『二天記』には、小次郎が上達して、高弟たちも及ばなくなった。そこで、勢源の肉弟、治部右衛門と勝負を決して勝った。《依テ勢源ガ下ヲ駈落シテ》とある。
A――この「肉弟・治郎右衛門」というのは、勢源の弟、治部左衛門のことですか。
B――右衛門と左衛門と左右の違いはある(笑)が、これは、勢源から跡目を譲られた治部左衛門景政だと言いたいのだろう。いちおう『武藝小傳』を読んでいるはずだから。しかし、これはもちろん、『武公伝』からの逸脱だね。『武公伝』には、小次郎が勢源弟の治部左衛門、もしくは治部「右」衛門と勝負を決して勝った、なんて記事はない。『武公伝』以後に出来たお話だな(笑)。
C――しかし、どこから仕入れた話か不明だが、『武公伝』が小次郎は富田勢源の家人だったというのは、無理がある(笑)。舟島で武蔵と試合するには、せいぜい中年までだな。しかも、『二天記』註記のように巌流島決闘当時、小次郎を十八歳とすれば、富田勢源とは年齢の勘定がもっと合わない。そこで、富田勢源の弟子の鐘巻自斎が小次郎の師匠ではないか、という憶説が、近代になって生じた。しかし、これは苦しまぎれの修正案であって(笑)、武蔵史料ではそんな記事はどこにもない。
B――鐘巻自斎通家の事蹟はほとんど不明だ。治部左衛門景政の弟子だったという話もあるし、だいたい、鐘巻自斎が富田勢源の門弟だったという説さえ根拠がなく怪しい。鐘巻自斎が佐々木小次郎へ与えた印可状なんてのも出たが、もちろん捏造物である。
C――そこで、面白いのは、綿谷雪が『図説・古武道史』で、山田忠史がちかごろ発見した新資料だといって紹介しておる印可目録の写しね、実はこれが、なんと、吉川英治が『宮本武蔵』で、又八につかませた印可状とそっくりなんだよ(笑)。
【吉川英治・宮本武蔵】

「何だろ?」
全く見当のつかない品物だった。巻を下へおいて、端の方から徐々に繰り展げて見てゆくと――
    印  可
一 中条流太刀之法
一 表
電光、車、円流、浮きふね
一 裏
金剛、高上、無極
一 右七剣
神文之上
口伝伝授之事
    月  日
   越前宇坂之庄浄教寺村
   富田入道勢源門流
          後学  鐘 巻 自 斎
佐々木小次郎殿
とあって、その後に別な紙片を貼り足したと思われるところには「奥書」と題して、左の一首の極意の歌が書いてあるのであった。
掘らぬ井に
たまらぬ水に
月映して
影もかたちもなき
人ぞ汲む
「……ははあ、これは剣術の皆伝の目録だな」
そこまでは又八にもすぐ分かったが、鐘巻自斎という人物については、何の知識もなかった。
【綿谷雪・図説古武道史】

山田忠史君がこのごろ発見した資料に、鐘巻自斎から佐々木小次郎宛に出した伝書の写しがある。佐々木小次郎を富田勢源の門人とする従来の俗説をやぶる新資料であるから、全文を収録する。
  ************************
中条流太刀法
一、表   電光・車・円流・浮舟
一、裏   金剛・高山・無極
一、右七剣 神文之上 口伝伝授之事
   月  日
    越前宇坂之庄浄教寺村
    富田入道勢源門流
      後 学   鐘 巻 自 斎
佐々木小次郎殿
  ************************
右の目録、月日の書入れがないのが残念だが、術名は富田流のそれに合致する点が多い。


中条流太刀之法目録
佐々木小次郎宛 鐘巻自斎名



綿谷雪『図説・古武道史』
青蛙房 昭和42年
A――これはミステリーですなあ(笑)。小説の中なら笑って済ませるが、綿谷雪は、佐々木小次郎を富田勢源の門人とする従来の俗説をやぶる新資料であるから、全文を収録する、なんて云う。綿谷は、吉川英治の『宮本武蔵』を読んでいなかったのかな(笑)。
C――この本(『図説・古武道史』)はいつの刊行だったかな?
――昭和四十二年です(笑)。
C――そうだろ。これは、「山田忠史君がこのごろ発見した資料」なんだぜ。それなのに、どうして吉川英治の『宮本武蔵』に、こんなそっくりさんがあるんだ(笑)。
B――綿谷雪は病弱だったが、あの当時、絶対に耄碌なんぞしていなかった。これは俺が証言してやるよ(笑)。ようするに、戦前からこの印可状が出回っていたということだよ。あるいは、吉川英治にこの捏造物を資料提供した奴がいるんだ。吉川英治は入手経路など武蔵随筆(『随筆宮本武蔵』)に書いていないから、黙ってそれをここに出したわけだ(笑)。
C――フィクションと現実、創造と捏造とは境界がない。捏造資料は必要に応じて出現する。需要と供給の経済原理だ。佐々木小次郎は鐘巻自斎の弟子だという証拠が必要なら、「ほれ、ここにある」といって出てくるというわけだ。
B――まあ、そんなわけで、研究は捏造資料にたえず脅かされている。捏造製品には注意しよう(笑)。
A――剣術関係の本に、「巌流佐々木小次郎は、鐘巻自斎の弟子である」なんぞと書いてあるが、それは武蔵研究からすれば、何の根拠もない妄説だ(笑)。
C――そんなバカなことにするくらいなら、どうせ富田勢源の事蹟没年は不明なんだから、勢源を長生きさせて、小次郎を家人として打太刀をつとめさせた方が『武公伝』の記事に適う(笑)。『武公伝』は小次郎が若年だなどと書いていないから、当時の伝説通例にしたがって、武蔵より二十歳ばかり年長の中年男にしたってかまわない(笑)。
A――それだと、隠居した富田勢源が、武蔵が生まれた頃まで生きていて、小次郎はその頃勢源の打太刀をつとめたということにしよう(笑)。
B――しかしこれも、そもそも小次郎が勢源の家人で弟子だったという伝説が怪しい以上、およそ根拠のない架空の話だ。小次郎が鐘巻自斎の弟子だという説よりもひどくはない、というだけのことだ(笑)。
C――もともと、小次郎が富田勢源の家人で、打太刀をつとめたなどと言い出したのは、肥後系の伝説。同じ九州産でも筑前系伝説では、富田勢源云々などという話はない。また肥後系二書に、小次郎が師富田勢源の元を欠落して一流を創始し、「岩流」を名のったという内容の記事があって、今日それを、「岩流」という流派を立てたと誤解する評伝があるが、そもそも岩流が小次郎の流派名ではないとすれば、これは根拠なき謬説とすべきである。
――ところで、巌流は流派名だとする伝説では、この人物の名を何とするのか。そこが興味深いところですね。
C――筑前系の伝説では、『江海風帆草』は「上田宗入」という名を示し、割註に[此名不分明]とする。続いて『丹治峯均筆記』はそれを「津田小次郎」だという伝説を記録する。「上田」「津田」という姓は記憶されてよいだろう。
A――「宗入」というのは号ですな。「小次郎」というのは通り名だから、「巌流」のような号と両立はする。
C――まず、『峯均筆記』からいうと、ここで注目されるのは、「津田」と「小次郎」という二つの情報だな。もちろん「津田」という姓は、これ以外には見えない。肥後系の伝記では『武公伝』に、「巌流小次良」と記すのみで、その姓に関する記事はない。筑前系の『峯均筆記』が「津田」という姓の伝承を収録したが、肥後系伝記では『武公伝』段階では、巌流の姓に関する情報がなかったということだ。
B――そうだな。その点が一つ、もう一つの「小次郎」という名については、『峯均筆記』はこの肥後系伝記と共通している。したがって、武蔵伝記に関していえば、「小次郎」という名は比較的早くから伝承に存在したとみてよい。たとえば、『沼田家記』に、「小次郎と申す者が、岩流の兵法を興行し、これも師範をつとめた」とあるように、ここでも姓はないが「小次郎」という名はある。
A――ここでのポイントは、巌流を流派名とする説と、この小次郎名がセットになって登場したことである。これは常に留意しておくべき要点ですな。
C――その通り。さて、『峯均筆記』は小次郎の姓を「津田」とする珍しい史料だが、それにしても筑前系・肥後系ともに、佐々木小次郎の「佐々木」という姓はない。それでは、この佐々木姓はいつごろ登場したのか。武蔵伝説では、『二天記』(安永五年・1776)に、「岩流は佐々木小次郎といい、このとき十八歳の由」とする。これは本文ではなく注記であって、後日の挿入の可能性もあるのだが、それは不問にして、当面これを初出としておく。さらに他を当たれば、ひとつは『古老茶話』の記事、「佐々木眼柳という剣術者」である。『古老茶話』は成立年不詳文献だが、一応これが延享年間(一七四〇年代)まで遡るとすれば、佐々木姓の早期の出現だね。
B――『古老茶話』は尾張の伝説。巌流島決闘当時、豊前は小笠原領だとしたり、武蔵は播州明石の産だとしたりして、話はいい加減だが(笑)、その「佐々木」眼柳という名も、これは演劇からの影響だろうな。
C――同時期に歌舞伎などで「佐々木巌流」という人物名が出てくるからね。歌舞伎「敵討巌流島」(姉小劒妹管鎗敵討巌流島・藤本斗文作)は元文二年(1737)の夏、大坂で上演だ。古川古松軒の『西遊雑記』はもっと後の、天明三年 (1783) のものだが、これになると、巌流は「佐々木巌龍」、武蔵は「宮本武蔵之助」、歌舞伎の影響がより濃厚だ。
A――そういえば、以前、佐々木巌流は郵政省の切手になっておりましたな。
B――あれの原画は、歌川豊国作で、十八世紀末ころの浮世絵。市川高麗蔵の佐々木巌流だな。 目に青い隈を引いた顔で、まさに敵役・悪役の化粧だ。武蔵の相手になって負けて死んだ岩流も、まさか自分が、浮世絵に描かれるほど有名な悪役になるとは、思ってもみなかっただろうよ(笑)。
C――そういう敵討巌流島が有名になってしまったころ、『二天記』が書かれる。ようするに『二天記』にある「佐々木」姓については、そういう演劇によって世間周知のものとなったというプロセスを考慮する必要がある。
A――しかも「佐々木小次郎」だから、「小次郎」名に「佐々木」姓を加算しておる。これも注記で《岩流ハ、佐々木小次郎ト云、此時十八歳ノ由ナリ》として出る名。とすれば、十八歳説と同じく、『二天記』の所説ではなく伝聞した説ですな。
B――「十八歳」説も「佐々木」説も、『二天記』本文のものではない。
C――そこで、さらに言えば、演劇台本が「佐々木巌流」を実名として使ったのではない。これは戯作上の名である。巌流の実名が「佐々木」であり、それから演劇で登場人物名「佐々木」巌流を採ったと見るのは、あきらかに錯覚である。順序は逆だな。
B――順序は、演劇の方が先だ。演劇が巌流の実名をそのまま頂戴採用したのではない。「佐々木」姓は歌舞伎作者が設定した。それが流布して、巌流は佐々木姓になった、という順序だ。
C――面白いのは、そこから、巌流の実名は、少なくとも佐々木姓ではなかった、という結論が出ることだ。それというのも、むしろ演劇が実在人物をモデルにしたときは、実名を避けるのが常套手段である。有名なところでは、「忠臣蔵」だね。モデルの大石内蔵助は、大星由良助。武蔵物の舞台名は「宮本無三四」が知られているが、それより古い段階の作品では、歌舞伎「敵討巌流島」のように「月本武蔵之助」という名。ところが、同作品で巌流の名は「佐々木巌流」である。そういうやり口を見れば、歌舞伎で「佐々木巌流」の名が出る以上、モデルの巌流は佐々木姓ではなかったことだけは、少なくともたしかだ。
A――そこがポイントですな。従来、「佐々木巌流」は歌舞伎から出た名だろうという説はあったが、それに対し、巌流の姓は少なくとも「佐々木」ではない、つまり、佐々木以外の姓だ、という論点は、これまで見たことがない。すなわち、この[宮本武蔵]サイトの研究過程から出た創見でしたな。これを戯れに定式化してみれば、
大石内蔵助 → 大星由良助
宮本武蔵 → 月本武蔵之助
( ? )巌流 → 佐々木巌流
 ゆえに、( ? )≠ 佐々木
C――ようするに、実名を避ける歌舞伎台本が「佐々木」という姓を使っていることからすれば、巌流の実名は「佐々木」ではない、ということが判明するというわけだ。
B――論点を整理して、歴史的な経緯を言えば、巌流の佐々木姓はもともと演劇での創作であり、その影響を受けて、世間ではいつの間にか巌流は「佐々木」だということになってしまった。巌流の姓は、あるいは、知られていなかったかもしれない。だが、演劇がその不在の姓の穴を「佐々木」で埋めたところから、「佐々木巌流」の名が流布した。その結果、たとえば尾張の『古老茶話』のような、事情を知らない遠隔地文献で先に現れ、さらに世間で流布してしまったのちに『二天記』注記に入り込んできた、という経緯だろうな。
――以上のお話に出た、文献とその記事にある名前を一覧表にしてみましたので、どうぞ。

  岩 流 小次郎名 佐々木姓
 小 倉 碑 文 岩 流 ―― ――
 本朝武芸小伝 巖 流 ―― ――
 武将感状記 岸 流 ―― ――
 江海風帆草 ―― (上田宗入) 上田(宗入)
 沼 田 家 記 ―― 小次郎 ――
 丹治峯均筆記 ―― 津田小次郎 津田(小次郎)
 兵法先師伝記 ―― 津田小次郎 津田(小次郎)
 武 公 伝 巌流小次良 巌流小次良 ――
 (演劇台本) ―― ―― 佐々木巌流
 古 老 茶 話 ―― ―― 佐々木眼柳
 西 遊 雑 記 ―― ―― 佐々木岩龍
 二 天 記 岩流小次郎 岩流小次郎 佐々木小次郎

B――これを整理して言えば、歴史的経緯として以下のような諸段階が考えられる。
(1)岩流(巌流)の名だけが知られていた段階…小倉碑文・武芸小伝・武将感状記
(2)岩流(巌流)が人名ではなく流派名だとして「小次郎」名を見出す段階…沼田家記・丹治峯均筆記・武公伝
(3)演劇で佐々木姓を創作し「佐々木巌流」が流布した段階…古老茶話・西遊雑記
(4)小次郎+佐々木=佐々木小次郎となった段階…二天記注記
 それぞれの段階(phase)は歴史的地域的な時空局面を指す。したがって、このばあい、「小次郎」名は、巌流島のある関門海峡周辺の伝説として生じたもので、長州および九州のローカルな伝承。これに対し「佐々木」姓は、演劇化を通じて上方から全国に波及した影響である。
C――だろうね。整理すればとくに際立つことだが、筑前系の『江海風帆草』や『峯均筆記』が記録した「上田」や「津田」という姓の情報は、軽々に看過すべきものではないと知れるだろう。今日では、「津田小次郎」などは「佐々木小次郎」のマイナーな異説でしかないが、実は、「佐々木」姓が流布する以前の早期の武蔵伝説では、決して「佐々木」ではなくて、「上田」や「津田」だったことは銘記されてよい。
B――付け加えて云えば、巌流の佐々木姓に関して、近江の佐々木氏説が出たが、これは佐々木巌流という名に創作性がある以上、今のところ採用できない。同様にして、戦後の新説に、巌流を豊前国副田庄の佐々木氏とする説があるが、これも巌流の佐々木姓そのものが根拠を欠く以上、憶説でしかない。
A――砂上の楼閣のような説ですな。それでもコケないで維持されているのは、不思議である(笑)。


*【江海風帆草】
《此嶋、兵法つかひの名に依て号スと云ハ非なり。流儀に依てなり。巖流とハ兵法の流儀なり。此流を仕出せしハ、俗名上田宗入[此名不分明]と云へる者のよし。此者、岩見の礒に一ヶ年結跏趺坐して、波の打を観じ、兵法の工夫して、巖流と云一流を仕立たるよし》

*【丹治峯均筆記】
《巌流ハ流義之称号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ》

*【武公伝】
巌流小次良ハ劔客冨田勢源ガ家人ニテ、天資豪宕壯健無比》

*【沼田家記】
《延元様門司に被成御座候時、或年宮本武藏、玄信豊前へ罷越、二刀兵法の師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候》


*【二天記】
《岩流ハ佐々木小次郎ト云、此時十八歳ノ由ナリ。英雄豪傑ノ人ナリトテ、武藏モ是ヲ惜ミシトナリ》



*【古老茶話】
《武藏、小笠原領地豊前の小倉にして、佐々木眼柳といふ劒術者、海上一嶋に渡るとて同船したる時、船中より仕合の事申出し、武藏はかいを持ながら岸にあがる》

*【西遊雑記】
《岩龍島といふは昔時舟島と稱せし也。宮本武蔵之助といひし刀術者と佐々木岩龍武藝の論をして、此島において刀術のしあひをして、岩龍宮本が爲に打殺さる。ゆかりの者ありて岩龍が墓を建しより、土人岩龍島と云》


歌川豊国画 佐々木巌流役市川高麗蔵
切手になった佐々木巌流
郵政省 1988年



*【姉小剣妹管鎗敵討巌流島】
   佐々木巌流  (藤川)半三郎
   月本武蔵之助 (坂東)彦三郎
(四ツ目 佐々木巌流が武蔵之助に対面し弟子にしてくれと頼む場面)
〔武蔵〕ハア。ついどお目にかゝつた義もござらぬ。なれぱお近付で有ふよふもなし。最前の働、由緒有ルお方と少し床しう存ますル。先どなたでござりますルぞ。
〔巌流〕私義は佐々木巌流と申者でござる。
〔武蔵〕フム。承り及びました伊与の城主三好式部太輔様の御家人、佐々木巌流殿でござるなア。
〔巌流〕面目もない御対面申ますル。
〔武蔵〕ハテなア。
〔巌流〕子細御ざつて馬淵角右衛門と申朋友、剣術の意趣によつて討て立退ましてござる。所に角右衛門男子一人リもござらぬ。親の敵といふて付狙ふ者一人りもござらぬ。武士の義によつて角右衛門を殺し、やみやみと腹切て相果ルも、近頃云甲斐なふ存じ、今日の只今迄、かやうの浪人の身となり罷暮しまする所に、当小倉の御城主本田主税様より私を召抱たいと、小寺政右衛門殿の御挨拶なれ共、御家中には月本武蔵之助殿と申剣術の達人、其元の御座被成るゝに、私推して御奉公に出まするは何とやらしう存て、夫故お願ひ申ますル。何とぞ其元の弟子になされて下され。弟子に成ますれぱ、心よふ御奉公いたすと申ものでござる。此義を申上ふため、御乗物止めましてござる。
〔武蔵〕はれやれ。佐々木巌流殿でござるよなア。最前の働、唯人ならぬと見ましてござるが、流石の巌流殿、天晴驚入ました。先達て意趣の仔細は存ぜね共、人を殺め国を立退、此小倉の町に忍ばつしやるといふ義を承り及んだ。折も有らば御参会仕り、何とぞ兵法軍術の御相談も仕らふと兼ては存おりましてござる。これや、よい折からの御対面申て、手前も大慶に存ますル。しかし、そなたを手前の弟子なんどゝは思ひもよらぬ義でござる。正真の鳥ない里の蝙蝠とやらで、及ばぬ芸も家中の指南ではござらぬ。兵法の相談相手に罷成まする。なれや其元、殿へ出さつしやりて御ざらうならば、いよいよ家中の励み共成ル。すれやまさか、殿のお役に立ッと申ものでござる。ともゞもお役には立まいが、お取次申さふ。私に御遠慮なふ、何とぞ殿に御奉公なされて下され。是武蔵之助めが別てそなたへのお頼でござりまする。
〔巌流〕是は是は結構な御挨拶で痛入ますル。其元の御弟子にさへなされ下されませうならぱ、成程御奉公相勤ませう。
〔武蔵〕イヤイヤ。弟子と申義は、幾重にも御用捨被成下されませう。
〔巌流〕いや、どう御ざりませうとも。
〔武蔵〕自他とも其義は御許されませう。
〔巌流〕しからばお弟子には成まいなア。
〔武蔵〕巌流殿ほどの人を武蔵之助が弟子と申ては、他の聞へ、人が笑ひますル。(下略)




米国議会図書館蔵
伊能大図 関門海峡周辺



巌流島決闘当時周辺地図

*【丹治峯均筆記】
《巌流ハ流義之称号也。津田小次郎ト云、長府ノ者也トカヤ》
小次郎ハ國人、辨之助ハ旅人ユヘ、何トゾ小次郎手前ヨリ試闘ヲ望ムヤウニイタシ度、小次郎ガ門弟ノ前ヲモ不憚、「ワレ小次郎ト試闘セバ、マコトニ蛙ノカシラヲヒシグヤウニ、只一ヒシギニ可致」ト申サル》


櫛崎城天守台址
山口県下関市長府宮崎町



*【武公伝】
《巌流小次良ハ劔客冨田勢源ガ家人ニテ、天資豪宕壯健無比。
一書ニ云、冨田勢源、仮名五郎左衛門、越前國宇坂庄浄教寺村之産也》
《小次郎、常ニ參尺ヲ以、勢源ニ對テ、粗技能アリ。因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落シ、自劔一流ヲ立テ、岩流ト號》

*【二天記】
《岩流小次郎ト云剣客アリ。越前宇坂ノ庄浄教寺村ノ産ナリ。天資豪宕、壯健タグヒナシ。同国ノ住冨田勢源ガ家人ニ成リ、幼少ヨリ稽古ヲ見覺エ、長ズルニ及テ勢源ガ打太刀ヲ勉ム》
《岩流ハ佐々木小次郎ト云。此時十八歳ノ由ナリ。英雄豪傑ノ人ナリトテ、武藏モ是ヲ惜ミシトナリ》




巌流島伝説関連地図
A――で、巌流とは何者か、という話だが、『峯均筆記』は、津田小次郎は長府の者だそうな、という話を採録している。長府は長門国、関門海峡の東にある町、現在は山口県下関市内ですな。
B――この当時なら、慶長五年の関ヶ原合戦の結果、百二十万石の毛利輝元は、防長二国三十六万石へ縮退の大減封、居城も萩へ移った。同時に毛利秀元(輝元養子)も周防山口十八万石から長門長府三万六千石へ減封、慶長七年、秀元は長府雄山に櫛崎城を築いて居城とした。その後、元和元年の一国一城令で、この城もわずか十三年で廃城、秀元は城の一部に居館を構え陣屋とした――というのが、当時の大まかな状況だな。もし巌流島決闘が、『峯均筆記』のごとく武蔵十九歳のときだというのなら、時は慶長七年(1602)で、毛利秀元が長門の長府、櫛崎城へ入城した頃ということになる。
C――小次郎は国人、武蔵は旅人、つまり異人だ。この対立図式も、地元長門の伝説だね。そこでだ、津田姓の特異性もさることながら、ここで小次郎をこの長府の者だという伝説が示されているところは注目してよい。つまり武蔵は、どのみちこの地方にとって異人であるのだが、これに対し下関周辺の伝説は、小次郎が地元の人間であることを強調しているわけだから。
A――ところが、周知の如く肥後系伝記では、小次郎は越前の人という話ですな。
B――何がどうなってこうした異伝が生じたものか、それは不明だが、ただ注意しておくべきことはある。それは、同じ肥後系でも、『武公伝』と『二天記』では話が違うからな。小次郎を越前出身とするのは、『二天記』の方で、『武公伝』はそんなことは書いていない。それで、なぜ話がそんなに食い違っているかというと、『二天記』が父の『武公伝』に忠実ではなかったからである(笑)。
C――そうだよ。『武公伝』は、《巌流小次良ハ劔客冨田勢源ガ家人ニテ》と書いて、小次郎が富田勢源の「家人」だったとするだけで、とくに小次郎が越前産だとは書いていない。越前の宇坂庄浄教寺村の産というのは、富田勢源の方だ。『武公伝』が、《一書ニ云、冨田勢源、仮名五郎左衛門、越前國宇坂庄浄教寺村之産也》とするのは、『武藝小傳』からの情報だろう。
B――しかるに、『二天記』はここから一歩進んで、富田勢源だけではなく、小次郎を越前浄教寺村生れにしてしまう。冒頭から《岩流小次郎ト云剣客アリ。越前宇坂ノ庄浄教寺村ノ産ナリ》と書いておる。これは憶測から生じたものだな。
C――それはごく単純な話で、富田勢源の「家人」だったとすれば、小次郎も勢源と同じく越前浄教寺村の産であるはずだ、との憶測だ。その憶測で、『武公伝』を書き換えてしまったというわけだ(笑)。
A――この孫はかなり粗忽な人らしい(笑)。
C――小次郎は越前宇坂庄浄教寺村の産という説は、自然発生的な口碑伝承の変化ではなく、まさに『二天記』の作為である。豊田景英は、研究熱心のようだが、その研究がいけない(笑)。武蔵関連で赤松氏のことも調べたりして研究しているが、研究するとそれだけ踏み外しも大きくなるという例だ。小次郎の一件では、このように『二天記』は『武公伝』に忠実ではないが、口碑伝説ならともかく、文字に書かれた伝記でもこれほど変化する。これは一般に史書の扱いにおいてどこに注意すべきか、それを教える事例だな。
B――ともあれ、小次郎は越前浄教寺村の産という説は、これが今なお「佐々木小次郎」の出身地として喧伝されているのが問題だね。そもそも発端は、『二天記』が『武公伝』を改竄したところにある。とすれば、越前浄教寺村産説は根拠がない。
A――そこで、どうして小次郎が越前に関係づけられるようになったか、ということですな。
C――ひとつは、当然、『武公伝』が、小次郎を富田勢源の「家人」としたことにある。しかし『武公伝』はそんな伝説をどこから拾ってきたか。それは、案外、『峯均筆記』が採取した下関周辺の伝説にある「津田」という氏姓にあるかもしれない、と私などは考えておるところだ。
A――それは、どういうことですかな。
C――もちろん、「つだ」→「とだ」という音韻論転訛コースがあって、「津田」が「富田」〔とだ〕に転化したルート。「とだ」から連想される流派は富田流、なかでも富田勢源。これで、前に出た富田勢源へ連絡してしまう(笑)。富田勢源は『武藝小傳』で周知の通り、越前生れである。
A――何ですか、いきなり(笑)。綿谷雪も「富田小次郎」を探せ、と言っておりましたが。
C――こういう単純、シンプルなコースも、なかなかリーズナブルで捨てがたいのだが(笑)、それでは、ストレート過ぎる、もう少し錯綜したコースがご希望なら、ようするに、「津田」という氏姓から当時何が連想されたか、ということだな。それは近江蒲生郡の津田庄(現・滋賀県近江八幡市)を根拠とした津田氏だろうが、当時、津田姓で知られていたのは、信長の出自である織田氏の枝族だね。
B――近江の津田氏の起源伝説には、平家滅亡のおり、平資盛の愛妾が近江の津田庄に遁れて資盛の遺児を産んだ、という貴種流離譚がある。その子が長じて津田親真と称し、のちに越前の織田荘(現・福井県丹生郡越前町織田)へ流れて劔神社の神官の養子になって織田姓を名のった、という話もある。これだと、織田より津田の方が先だな。
C――どちらにしても不明だが、信長の遠い先祖は越前の織田氏だろうし、織田氏の枝族が津田を名のる理由もあるわけだ。
B――信長が安土城を構えたのは、遠い先祖の故地である近江の蒲生郡に還ったということかな。この城から琵琶湖を見て、洞庭湖の瀟湘八景に見立てるとかね、美的動機もあろうが。
C――そうかもしれん。先祖がえりした。そこでだ、「津田」は、ようするに近江や越前という土地と結びつく氏姓だということ。
A――なるほど、そうなると、「津田」という氏姓から越前が連想されるとすれば、越前国住人で最も有名な剣豪となると、『武藝小傳』が記した越前宇坂庄浄教寺村の富田勢源(笑)。同じ越前国といっても、宇坂は織田のすぐ近所だし。
C――遠い九州から発想すれば、まあ、そんなところではないか(笑)。伝説というのは、連想が横滑りして、どんどん変異するからね。
B――肥後系伝記の富田勢源弟子説の由来は、実は、小次郎の「津田」姓にある、というのは、けっこう可能性はあるな。そうすると、同じラインで、演劇で「佐々木」姓が採用されたというのも、それなりの理由がある。
C――そういうことだね。「津田」と「佐々木」の共通項は、近江国蒲生郡だ。佐々木氏は、とくに鎌倉幕府創設には功があって、以後名族として存続した。ところが佐々木氏は近江源氏と呼ばれたように、源氏。かたや、津田=織田氏は平氏(笑)。「津田」から「佐々木」への捻り。常套手段だが、戯曲の人物名設定にはそんな操作をする。
A――そうやって、演劇界で「佐々木」巌流は生まれた。しかし、近江佐々木氏の末裔はいたるところに無数にいる。そういう意味では、当たり障りのない姓名の設定だ。
C――もちろん、さっき話に出た「名人越後」の富田越後守だって、『武藝小傳』には実家の山崎氏の祖は近江佐々木家族だと記す。どこにだって佐々木末流はいる。そういう佐々木の一般性には障碍がない融通性がある。演劇界で「佐々木」巌流が生まれるには、そんなこともあったろう。そうしてまた一方で、世間で「佐々木巌流」が流布してしまうと、長門の「津田」小次郎は、肥後で「佐々木」小次郎になる。それが『武公伝』ではなく、十八世紀後期の『二天記』注記の段階だね。
B――しかも、肥後経由で、小次郎は越前まで飛んでいってしまった(笑)。しかし、おかげで、越前には小次郎遺跡がいろいろ出来たなあ。
A――「小次郎の里ファミリーパーク 」なんてのもある。かの朝倉氏居館のあった一乗谷(福井市浄教寺町)にできたし、もう一つは「佐々木小次郎生誕地公園」というのが、小次郎生家だと主張する高善寺(越前市北坂下)の脇にもある。これはエラいことになっているな(笑)。


勢源寺 福井県福井市西新町








琵琶湖夕景
滋賀県近江八幡市





越前織田荘 劔神社
福井県丹生郡越前町





沙沙貴神社
滋賀県蒲生郡安土町


富田勢源道場跡
福井県福井市西新町

一乗滝 燕返しの発明地?
福井県福井市浄教寺町

高善寺 小次郎生家?
福井県越前市北坂下

高善寺文書
佐々木「小太夫」記事





*【江海風帆草】
《武藏年長(たけ)、兵法爲執行諸國を徘徊シ、豊前小倉に下り、細川越中守忠興の城下に居す。此時中國にてハ、上田宗入、巌流の兵法を指南して、長門国に居住シ、武藏が兵法をさミす》




海路記 同志社大学図書館蔵
江海風帆草 巌流島記事

*【江海風帆草】
《 巖流[ガンリウ]嶋[大里の前、北の方に有。寛永の比までハ船嶋と云へるよし]
此嶋、兵法つかひの名に依て号スと云ハ非なり。流儀に依てなり。巌流とハ兵法の流儀なり。此流を仕出せしハ、俗名上田宗入[此名不分明]と云へる者のよし。此者、岩見の礒に一ヶ年結跏趺坐して、波の打を観じ、兵法の工夫して、巖流と云一流を仕立たるよし》









吉左衛門宗入作 黒楽茶碗 銘亀毛







(財)上田流和風堂
上田宗箇作 赤楽茶碗 銘さても




上田宗箇作庭 縮景園 広島市中区
原爆で壊滅したが復元された













巌流島伝説関連地図




岩見畳ケ浦 島根県浜田市
C――まあ、しかし、長門の「津田」小次郎は、富田勢源の家人でもなかったし、越前で生まれたのでもなかった。肥後の伝説形成過程で、そうなったと見るべきだろう。少なくとも『峯均筆記』が拾ったという下関周辺の伝説では、津田小次郎は長門の国人で、長府の住人なんだね。
B――類似の話としては、『江海風帆草』に《此時中國にてハ上田宗入巌流の兵法指南し、長門国に居住し》とある記事だな。ここでは武蔵の相手は「上田宗入」という名だが、これは長門国住人で、そこで巌流の兵法を教えていたという話だ。
A――武蔵の相手は、九州側ではなく、長門側の者である。その点では、『峯均筆記』と同じだね。もうここから肥後系伝説とはすでに違う。肥後系伝説では、小次郎は小倉城下で教えていたし、弟子も多くあった、という話になっている。小次郎は九州サイドだね。
C――『峯均筆記』が依拠したのは、下関近辺の地元伝説。筑前福岡にいた立花峯均が耳にしえた巌流島伝説だということになる。しかしもう一つ、立花峯均が依拠したはずの文献がある。それが『江海風帆草』なんだ。
B――立花峯均と『江海風帆草』がどんな関係があるかと言えば、これが同じ筑前福岡の文書であり、黒田光之の時代に成ったもので、しかも峯均の次兄・立花重根(しげもと・号実山)がこの書物を世に出すのに関与していて、「江海風帆草」という風流な書名も重根の命名のようだな。
A――となると、『峯均筆記』の記事は、下関辺りの伝説口碑を直接取り込んだのではなく、すでに『江海風帆草』で整理された巌流島伝説が、筑前で独自に発展したものであろうと推測しうる。
C――そうだね。それゆえに、『江海風帆草』と『峯均筆記』の内容に関し、何がどう違っているのか、厳密な照合が必要だ。この研究作業は、我々のサイトでそのうち登場するだろう。
B――そこで、改めて少し『江海風帆草』の記事を読んでみれば、以下のような内容である。――巌流島。大里の前、北の方に有り。大里〔だいり〕というのは内裏、小倉と門司の中間にあった湊だね。巌流島はこの大里と下関のほぼ中間にある。寛永のころまでは船嶋と云っていたそうな、とまでが見出し冒頭の注記だ。それから本文で、この島を、兵法遣いの名によって名づけたというのは誤りである。これは流儀の名称である。この流儀の創始者は、俗名・上田宗入[この名は不分明]という者だそうだ。この者は、岩見の磯で一年の間結跏趺坐して波の打つのを観じ、兵法の工夫をして巌流という一流を創始したのである…。
C――ここまでで、巌流が人名ではなく、流儀の名称であり、巌流は実は「上田宗入」という名の人であったことが出てくる。この「上田宗入」が、記者自身にとってもよく分からない名であるのはともかく、俗名とあるけれど、「宗入」といえば、禅宗系の法号のようだし、そのうえ何やら茶人めいた名であるのは、面白いところだ。
A――その「上田宗入」について、お考えはいかがか。
C――『江海風帆草』の記事では、名の前に、わざわざ「俗名」上田宗入と記している。これは利休の宗易などのような法号じゃないと言っておるわけだ。しかしだからといって、これを諱〔いみな〕とするわけにもいくまい。これは号だろう。
B――その宗入という号だと、当時有名なのは例の楽家五代吉左衛門宗入(1664〜1716)だな。尾形光琳(1658〜1716)・乾山(1664〜1743)兄弟の従兄弟にあたる。宗入は、雁金屋三右衛門の子だが、一入の聟養子になって跡を嗣いだ。ただ宗入は、琳派が栄えた元禄という時代にむしろ長次郎への回帰を示す。その装飾性を排した黒薬釉茶碗は端的にそれを物語っている。宗入と号するのは、宝永五年(1708)の剃髪隠居後だ。
A――すると、宝永元年(1704)の序文をもつ『江海風帆草』の方が早いから、「宗入」という名に関しては、上田宗入の方が先行する(笑)。
C――まあ、そんなわけで、立花実山からみの『江海風帆草』だという点を除いても、「宗入」という名号は茶の湯とは無関係ではあるまい。次に「上田」姓のことだが、現段階では、むろん暫定的なことしか言えないが、この上田という姓を探索していくと、興味深い結果が出る。信州小笠原氏の枝族だが、信濃の小県郡上田を根拠地とした上田氏というのがある。
B――うん。上田氏は戦国末期には丹羽長秀に仕えていたが、その後上田重安(1563〜1650)の代に、秀吉に仕えて、二十二歳のとき越前で一万石をうける。のちに豊臣姓を与えられたりするから秀吉の恩顧厚い寵臣だったようだ。ところが、関ヶ原の役で西軍に属したから、所領没収により退転、剃髪して宗箇と号した。阿波で蜂須賀氏の庇護を受け徳島に住み、またそののち、紀州和歌山の浅野幸長に一万石で招聘されて、以後浅野家に隨った。大坂陣では浅野に付いて戦功あり、のち福島正則改易で浅野家が芸州広島へ転封したのにも従い、一万七千石、亀居城を預かる重臣となり、重安の子孫は浅野家の家老職を世襲した――まあ、そういうところだな。
C――上田重安は、茶人として知られる。若年のころから千利休に師事し、利休没後は古田織部の弟子になった。彼の作庭には、広島の縮景園、名古屋城二の丸庭園があるが、阿波や紀州にもある。彼の茶の道は上田宗箇流として広島に残った。まあ、武将として茶人として優れた人物だったらしいな。とくに芸州に晩年の足跡を残している。
A――さてさて(笑)、そうなると、「上田宗箇」という名は、安芸を中心にして中国地方で有名だったと見てよい、ということになりますな。
C――そうだろうな。『江海風帆草』の、「このとき中国にては、上田宗入、巌流の兵法を指南して、長門国に居住し」という記事の「上田宗入」という名を見て、かの上田宗箇を連想しない者はない。ところが、問題がひとつある。
A――それは、言わずと知れたこと。上田宗箇が浅野氏広島転封に従って安芸へ来たのは、元和五年(1619)。「上田宗入」はとっくの昔に、巌流島で死んでいる(笑)。
C――年代的順序からすると、上田宗箇が安芸へ来たのは、巌流島決闘よりもはるかに後だ。順序は逆だ。とすれば、有名な「上田宗箇」を連想せしめる「上田宗入」という名は、巌流島決闘よりも後、十七世紀末の元禄のころに、安芸の上田宗箇の縁者として、伝説の中で一時出現したという可能性がある。つまり、『峯均筆記』の時代には、上田宗入伝説は消えていた。それが、『江海風帆草』の記述にもかかわらず、『峯均筆記』が「津田小次郎」を採るわけだ。
B――むろん言うまでもないが、『江海風帆草』の記者でさえ不明なのだから、上田宗入の上田氏が、茶人上田宗箇とはまったく無縁の氏姓であっただろうよ。しかし、上田宗入が伝説の人で、上田宗入/上田宗箇という名の近似性がどうも臭い(笑)。『峯均筆記』の「津田小次郎」によって打ち消されることになるが、「上田宗入」という名が一時的に長州の伝説の中で生じていた、『江海風帆草』はその時に当っていて、「上田宗入」を採取した、ということかな。
C――別の新史料が出れば別だが、現段階では何とも云えない。また、先ほど、「津田」姓にからんで、越前へつながるラインを述べたが、この「上田宗入」という名が連想せしめる上田宗箇が、秀吉時代に越前に一万石の領地をもったという縁もある。津田にしろ上田にしろ、越前と結びつく姓だ。肥後系伝記の、小次郎は越前の富田勢源の家人だった、弟子だった、という説話素の発生源は、「上田」姓にもあるとは言える。ただし、『江海風帆草』では、上田宗入はだれの弟子でもなく、岩見の礒で一年の間結跏趺坐して、波が打つのを観じ、兵法の工夫をして巌流を発明した、という伝説を記している。
A――これは、富田勢源の家人で弟子だという肥後系の伝説とは、まったく話が違っている。
B――話は違っているが、『江海風帆草』は宝永元年(1704)の序文をもつが、その序文によればこれは元禄以前の文書。したがって、『武公伝』や『二天記』の伝説記事よりもかなり古い形態の巌流島伝説を見ることができる。そしてもちろん、『峯均筆記』よりもまだ三十年以上も古い。
A――それなのに、『江海風帆草』の武蔵関連研究は従来ほとんど皆無だし、もとよりここにみえる「岩見の礒」がどこだか、管見の範囲ではこれまで何人も問題にしたことさえない(笑)。
C――その通りだ。この「岩見の礒」はもともと不明なのだが、我々は当面これを、石見国の名勝、岩見畳ケ浦(現・島根県浜田市)と比定している。岩見畳ケ浦は打ち寄せる波を観じるに恰好の場所、結跏趺坐するによい洞もある。伝説の要件を備えている。
A――我々は、そのように「岩見の礒」比定地を示す。かくして我々は、巌流島伝説にまたもや新しい名所を提供してしまうわけだ(笑)。今後小次郎評伝に、この比定地案を参照し、借用する連中が出てくるでしょうな。
C――ただし、岩見の礒で波を観じて一流発明というこの話は、「岩流」だから「岩見の磯」という連想になったもののようで、こういう連想は口碑伝説の常套手段だな。そのことは後学のためにあらかじめ注意しておきたい。
A――封じ手ですな(笑)。
C――ともあれ、場所の問題を考えてみよう。出来事の場所はどこか、という問いだ。筑前系の『江海風帆草』『峯均筆記』が記す伝説では、武蔵の相手を九州ではなく、中国側、長州側の人間だとする。傍系史料を当たれば、両者の中間の時期、正徳六年(1716)刊『武将感状記』には、武蔵が細川越中守忠利に仕えて、京都から豊前の小倉へ赴く時、岸流という剣術者が、下関に待ちうけて、武藏に仕合しようと云ってよこした、とある。これも岸流は下関なんだ。しかも下関の者どもが残らず――巌流島を、だろう――取り囲んで見物したという(笑)。
B――ところが、『武公伝』『二天記』という肥後系伝記では、話が違う。小次郎は、細川忠興に気に入られて小倉で剣術の師範をして住んでいることになっている。
A――対岸の下関の伝説だと、武蔵の相手は長州の者だ。これはいったいどうなってんの、と。
C――もし実際に、小次郎が、細川忠興に引き留められて、小倉に住んで剣術の師範をしていたなら、眼と鼻の先の対岸だ。下関の伝説でも、そういう話の基本線は変えられない。当然、小次郎の住所は対岸の豊前小倉であるという話になっただろう。
A――ところが、そうじゃない。すると、肥後系の伝説は、この説話素(小次郎は小倉住)においても新しいということになりますな。
B――肥後系伝説は、何でもかんでも細川へ我田引水するからね(笑)。小次郎まで小倉へ引っ張り込む。そうすると、筑前系伝記が拾った下関周辺の伝説と齟齬してしまう。
C――肥後系伝説では、もちろん武蔵も長岡興長に縁故があって、豊前小倉へやって来たというわけだから、武蔵も小倉にいる。すると、変じゃないか、どうして決闘場所が長州側の巌流島なんだ、ということだね。地図を見てもわかるように、巌流島は、下関の南、長州側の彦島のすぐ東に浮ぶ小島で、小倉からすると彦島の向う側。わざわざ、豊前側の小倉から出て行って、決闘に使う場所ではない。
B――すると、『峯均筆記』の話、下関で決闘しようとしたら、地元の住民が許さない。そこで、「あの島へ渡って、仕合をやろう」と約束して、長門と豊前の境にある舟嶋ヘ押し渡ることにした――という方がまだありうる話だ。
A――そうですな。少なくとも無理がない。これに対し、肥後系伝説のように武蔵も小次郎も小倉にいるという設定では、巌流島が決闘場所になるのは、無理な筋書だ。
C――長門と豊前の境にある舟嶋、という『峯均筆記』の記述は、しかし、正確ではないな。これは、まったく長州側の島だ。この島が無縁・公界の場所だとしても、長門と豊前の境にあるとは決して言えまい。長門と豊前の境にあるとは、これは他国者の言うことだな。
B――だからさ、肥後系の武蔵伝記だと、巌流島のことを「小倉之絶島」だと書いてしまう(笑)。
A――「向島」ともいうしね。それだと、どう見ても、巌流島は小倉の沖にある島だ。
C――下関の沖にあるというのなら分かるがね。その上、ご丁寧に、小倉から舟行一里、下関からも同じ等距離にある境界の島という注記さえある。
A――ところが、そんな島は実在しない(笑)。
B――そうだな。『武公伝』や『二天記』の肥後系伝説のイメージでは、巌流島は、小倉の沖にある島なんだ。つまり、「小倉之絶島」というイマジナリーな空想の島なんだ。
A――逆に言えば、肥後系の武蔵伝記の字義通りに忠実であろうとすると、現在の巌流島は巌流島ではない。いまは不明になったが、もっと小倉寄りの磯瀬のはずだ、と(笑)。
B――そういう巌流島異説が出てもよさそうなのに、それは出ない。ようするに、現実の巌流島の位置が、肥後系伝説の空想性を証明してしまっておる。細川三斎だの長岡佐渡だのが、小次郎や武蔵に関わっているという肥後系の話の内容は、明らかに小倉へ我田引水してきたものだ。
A――『武公伝』や『二天記』のいう「小倉之絶島」は、まさに我田引水を証言しているわけだ。国引き神話というのがあるが、これは島引き伝説。そういえば、巌流島の親島である彦島は、江戸時代まで「ひく島」です(笑)。
C――ならば、引き島もありうるわけだ。同じ肥後系の『沼田家記』などは、その「ひく島」を巌流島と混同しておるが、まさにそれは肥後系の言語=象徴的振舞いだな。肥後系伝説は、小次郎も巌流島も、細川氏の豊前小倉へ引きずってきてしまう。だから、下関の伝説と話がくい違ってしまった。
A――そんな話が出来た段階を想定すれば、実際は、小倉への我田引水ではなく、「肥後」への我田引水ですな(笑)。
B――後になって肥後で発生した伝説だろう。しかし、武蔵に関する伝説生成の中でも、明らかに後期に属するこんなものが、いまや武蔵評伝に堂々と横行しておって、まことしやかな「通説」と化しておる。
A――フィクションが武蔵伝記を支配するというのは、近代昭和の「吉川武蔵」の美作産地説だけではない。この肥後系の巌流島伝説に依拠した現代の説話も、明らかにフィクションなんだ。
B――武蔵伝を書く連中は、今日ですら、それが史実だと信じて疑わない。それが困ったことなんだよ(笑)。
C――改めて言うと、巌流島が無縁公界の場所だとしても、そのポジションからすれば、長州下関側から使おうと発想される島である。決して小倉から使おうという理由がない島だ。だから、これは、武蔵の相手が長州サイドの者で、そのため舟島が決闘場所に選ばれたとみるべきだろう。武蔵はストレンジャー、異人だから、どこでもよいわけだ。
A――すると、巌流島の位置が我々に教えるのは、武蔵の相手が長州の者だったということですな。
B――そういうことになる。肥後系伝説のように、小次郎が小倉居住だとすれば、城下の外れか、紫川の河原でもやれば済むことだ(笑)。河原は無縁の場所だから、決闘場所には向いている。わざわざ長州下関の前の島まで行ってやることではない(笑)。
C――ポイントは、巌流島という名、どうして「武蔵島」じゃなくて「巌流島」なんだ、そして、決闘場所が、どうして小倉ではなくて下関の沖の舟島なんだ、という点を、よく考えてみることだ。明らかなのは、肥後系伝説が、下関の話をそのまま小倉へ置き換えている、ということだ。下関と舟島(巌流島)との位置関係も、小倉と「小倉之絶島」との位置関係へ変換されておる。その関係図式の変換は、
     下関 − 舟島(巌流島)
     小倉 − 「小倉之絶島」
下関の沖の実在の島が、小倉の沖の向島、「小倉之絶島」という空想の島になってしまった。長州の小次郎を豊前小倉に居たことにしてしまうのも、同じ手口、説話論的置換なんだよ。
A――正保国絵図を見るとね、小倉のすぐ沖にちょうど恰好の小島が描いてありますな。これが「小倉之絶島」という空想の島の実体じゃないかと思われるが、これじゃあ、いくらなんでも近すぎる(笑)。
――さてさて、重大な問題提起がありました。場所の問題、決闘場所が、なぜ小倉ではなくて下関の沖の舟島なんだ、という問い。そんな問題提起は、巌流島論において、これまで出たことはありませんでした。未曾有のことに興奮してきました(笑)。
B――従来の通説が陥っている誤りは、『武公伝』『二天記』という肥後系伝記の内容を鵜呑みにしてきたことだが、それも自分たちが、「小倉之絶島」という空想の島を巌流島と同一視しているのに気づいていない。不審があっても、小倉から一里、下関からも同じく一里の、ちょうど真ん中にあるという記事を、見て見ぬふりをする。しかし、この「小倉之絶島」という措辞そのものが露呈し、あるいは証言しているのは、肥後系伝説の根本的な空想性だよ。
C――その空想性は、『繪本二島英勇記』が、巌流島を小倉の「南の海外一里ばかり」に設定するのと本質的に違いはないよ(笑)。
B――その「南の海外一里ばかり」の「南の」という方角は案外当たっている。ただし、小倉じゃなくて、下関からすれば巌流島は南の方角だ。読本小説の方がフィクションに抵抗しておる(笑)。
C――それが、下関を、小倉へ変更した、という操作の痕跡だよ。なぜ「武蔵島」じゃなくて「巌流島」なんだ、そして、決闘場所が、なぜ小倉ではなくて下関の沖の舟島なんだ、という問いを立てれば、事態は自から明らかだ。
A――結論を言えば、もともと、巌流島決闘は、豊前小倉とは無関係の、長州側の出来事だった。そういうことになりますな。
C――とりあえずは、そう言える。ただし、筑前系の伝説の方が古かろうと言えるだけだ。伝説には変りはない。
B――もちろん、その伝説は、現地、下関周辺のローカルな伝説だな。しかも、その伝説がある種の語り物になっていた可能性もある。『江海風帆草』には、「武蔵、其日の装束は…」という語り物の調子を残している。
A――まるで、『平家物語』の「木曽最期」の口説、「木曽殿、其日の装束には…」とそっくりの調子ですな。近世初期以来、太平記読みや平家(物語)読みが流行した。
B――たぶん、巌流島決闘譚は、伝説を元にして、語り物にまでなっていた可能性がある。それが『江海風帆草』の文言によって知れる。
C――そういう口説の調子は、『丹治峯均筆記』の記事にもいくらか残っている。『江海風帆草』は筑前の海路記で、もちろん『丹治峯均筆記』より数十年以前の成立だが、その『江海風帆草』には、すでに語り物になっていた巌流島決闘譚が採取されているということ、これには注意が必要だろうな。
A――下関が壇ノ浦に近い、というのも面白い。


*【武将感状記】
《宮本武藏ハ二刀ヲ好ム。細川越中守忠利ニ仕テ、京師ヨリ豊前ノ小倉ニ赴ク時、岸流ト云劔術者、下関ニ待テ、武藏ニシアヒヲセント云遣ス。武藏心得ヌトテ、悼郎ニ櫂ヲ請テ二ツニワリ、手本ヲ削テ長キヲ二尺五寸、短ヲ一尺八寸ニシテ、舟ヨリ上リ、岸流ト相闘フ。岸流ガ刀ハ三尺餘リナリ。下関ノ者ドモ不残囲テ見物ス


*【武公伝】
《因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落シ、自劔一流ヲ立テ、岩流ト號。其方術實ニ藍ヨリモ青シ。武者修業ヲシテ諸國ヲ經囘、豐前國ニ到ル。太守細川忠興公、其術ヲ称美シタマイ、暫ク小倉ニ駐ル。武公、從都來[慶長十七年壬子二十九歳]故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ、請テ曰[興長嘗武公ノ父無二ノ門弟ナリ]、「曾テ聞、小次郎劔術奇絶ナリト。庶幾我手技ヲ比ン事、申出ハ、家父無二ガ故アリ、因テ憑ミ奉者也。謹デ願フ、(聴)達セラレン事ヲ」ト。興長主應諾シテ、武公ヲ私第ニ留メ、即沙汰ニ及。御家老中御寄合、兩日及、終ニ忠興公ニ達シ、其日ヲ極テ、於小倉之絶島[向島ト號、又曰舟島。今亦曰巌流嶋。豐前ト長門之際。小倉ヨリ舟行一里、下關亦同里數ナリ]勝負ヲ決セシム》

*【二天記】
《依テ勢源ガ下ヲ駈落シテ、自ラ一流ヲ建テ、岩流ト號ス。其法術尤モ奇ナリ。諸國ヲ經囘シテ、名高キ兵法者ニ會シ、数度ノ勝負ヲ決スルニ、勝利不失。斯テ豐前小倉ニ至ル。太守細川三齋翁忠興公聞シ召テ、小次郎ヲ停メ置キ玉ヒテ、門弟出來テ指南アリ。于時慶長十七年四月、武藏都ヨリ小倉ニ來ル[二十九歳ナリ]。長岡佐渡興長主ノ第ニ至ル。興長主ハ其父無二之助ノ門人也。其ノ故ニ因テ來ルナリト。曾テ興長主ニ請テ曰、「岩流小次郎、今此ノ地ニ留リヌ。其術奇ナリト承ル。希クバ吾手技ヲ比ベンコトヲ。公ハ無二ガ故縁有リテ、憑ミ奉ル者也」ト謹テ願フ。興長主應諾アリテ、武藏ヲ留テ、忠興公御聴ニ達シ、其ノ日ヲ定メ、小倉ノ絶島ニ於テ、勝負ヲ決セシム。[向島ト云、又舟島トモ云、今又岩流島ト云。豐前ト長門ノ境、小倉ヨリ舟行一里、長門下ノ關ヨリモ同里数ナリ]》





巌流島決闘当時周辺地図



*【沼田家記】
《延元様門司に被成御座候時、或年宮本武藏玄信豊前へ罷越、二刀兵法の師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候。双方の弟子ども兵法の勝劣を申立、武藏小次郎兵法之仕相仕候に相究、豊前と長門之間ひく島[後に巌流島と云ふ]に出合》









下関市街と巌流島




正保国絵図(小倉城絵図)




空想の巌流島
絵本二島英勇記 巻之十


*【絵本二島英勇記】
《また城下を騒さん事もいかゞなれバ、此所の南の海外壹里ばかりに當つて一ツの小嶼あり。此所人家もなき所なれバ、外に妨すべき者もなし。彼處にて勝負せんはいかにと申けれバ》



*【江海風帆草】
武藏、其日の装束ハ、繻子のぢはんを、こはぜがけにして着、五尺の棒に筋鉄を打て持之》

*【平家物語】
木曽殿、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧着て、五枚甲の緒を締め、いか物作りの太刀を佩き、二十四指たる石打の矢の其日の軍に射て、少々残たりけるを頭高に負成、滋籐の弓持て》(巻之九)




*【丹治峯均筆記】
《小次郎、無二ニ試闘ヲ望ム。無二、達而断ニ及ブ。是、巖流ニ仕込劔ノ木刀アリ、コレニ怖レテ無二辞退ニ及ブ由、專ラ沙汰アリ。弁之助傳聞、不及是非事也。罷下可決勝負トテ、長門ヱ下ル》









*【丹治峯均筆記】
《武蔵、童名辨之助ト云。幼年ヨリ父ガ兵法ヲ見コナシ、常々誹謗ス。無二、一子タリトイヘドモ、其事ニヨツテ心ニ不叶。或時無二楊枝ヲ手ツカラ削ル。辨之助間ダ一間餘ヲ隔テ座セリ。無二小刀ヲ以テ手裡劔ニウツ。辨之助面ヲソムク。則座スル所ノウシロノ柱ニシタヽカニタツ。無二甚タ忿テ曰、平日ワガ兵法ヲサミス。手裡劔ヲ以テ左ノ耳ノ端ヲ二三歩打切リ、思ヒ知ラセント思ヒシニ、面ヲソムケ難ヲノガル。近頃奇怪ノ由ニテ、家ヲ追出ス。コレ辨之助九歳ノ時也》












*【兵法先師伝記】
《慶長六年、先師十八歳、此時兵法ノ名誉世ニ廣キ津田小次郎ト云人アリ。此流義ハ巌流ト号ス。此比豊前國ヘ徘徊セシガ、無二之助ト知ル人ニテ、折々互ノ試闘アルニ、或時ハ小次郎勝、或時ハ無二之助勝レテ、勝負大方牛角ナリシヲ、先師モドカシク思ワレケン、小次郎ニ自ラ試闘ヲ望レケル》
B――うむ。そこで、巌流島決闘に至る原因だが、筑前系は父無二と小次郎との因縁咄をもってくるね。
A――無二は小次郎との対戦を避けた。武蔵はこれをカヴァーして、父に代わって勝負する(笑)。
B――『峯均筆記』によれば、そもそも事の起こりは、小次郎は武蔵の父・無二に挑戦した。ところが、無二はどうしても試合を承諾せず拒んだ。そのわけは、巌流に仕込剣の木刀があり、これに怖れて無二は辞退に及んだのだと、もっぱらの噂があった。摂津あたりにいた弁之助は、これを伝え聞いて、「これは仕方がない。おれが行って勝負を決しよう」と、長門へ下った、という話なのだな。
A――ここでいう「仕込劔ノ木刀」は、振ると刀が飛び出す仕掛けの仕込杖のことですな。こういうあたり、伝説はかなり講談めいてくる。
C――近世の読本では、佐々木巌流は「振杖」というものを使う。これは宝山流の振杖がモデルの話だろうが、大正昭和の巌流島講談に至るまで、佐々木巌流は仕込剣あるいは仕込杖という道具と結合させられる。この『峯均筆記』のいう小次郎の「仕込劔ノ木刀」は、その最も早い例だと言える。また、これも他の武蔵伝記に見えない記事だな。
B――しかし云うべきは、だいたい『峯均筆記』は、無二に対しあまりよい扱いをしない文書である(笑)。無二が楊枝を削っていた。息子・弁之助(武蔵)が嘲ったというので、無二は突然小刀を手裡剣にして、この息子に向って投げた。弁之助はそれをかわした。無二は怒って、息子を家から追い出した――という話も『峯均筆記』だ。
A――大祖武州公の父・無二はバッド・ファーザー(bad father)、という物語の設定ですな(笑)。
B――この巌流島の話では、無二が小次郎の仕込剣を恐れて試合しなかったと(いう噂を)記録している。なにゆえここまで無二に対する扱いがひどいか、というと、これは無二の弟子筋が存続していたらしくて、その無二流兵法の系統に対する対抗意識がかなり強い。『峯均筆記』では、無二の弟子・青木もさんざんな仕打ちを受けている。しかしそれにとどまらず、武蔵を偉大な元祖と仰ぐ気持ちが強すぎて、その父親への敬意はどこへやら、逆に無二を矮小化し貶める傾向がある。
C――かくして無二は、「英雄の父親」の常道として、まさに《impotent father》(不能な父親)の役割を担わされるわけで、小次郎の挑戦を受けて立つのではなく、それを迯げる無二、というのがここでの構図。そこで、「偉大な息子」たる武蔵が、「しようがないなあ。いっちょう、おれがやってやるか」と(笑)、乗り込んでくるという始末だ。『峯均筆記』では、これが巌流島決闘のそもそもの発端だとしている。
A――丹羽信英の『兵法先師伝記』は、立花峯均の流れを汲む筑前系の伝記ですが、ここには、小次郎が豊前へ徘徊してきて、無二之助と試闘したところ、ある時は小次郎が勝ち、ある時は無二之助が勝って、勝負互角だった。それを、武蔵がもどかしく思われけん(笑)、自ら試闘を望んだとある。
C――『兵法先師伝記』は天明二年(1782)の奥書があるから、肥後の『二天記』と同じ頃の作で、かなり肥後系伝説の影響も受けている。しかしこの因縁話は、筑前系の伝説をなぞったものらしいな。
B――いうまでもなく、『峯均筆記』のエピソードにしても、説話化が進んだ段階の産物だ。無二が小次郎と対戦しなかった、ということだけは事実である(笑)。
A――実際、無二は天正年間に死んでいるから、亡霊でもない限り、慶長年間に小次郎とは対戦できない。
C――その事実上対戦できない無二を、説話は対戦を避ける無二にした。「対戦できない」という意味では同じ(笑)。説話論的操作というのは、そんなことをやる。
B――言い換えれば、無二という「父」は、フロイト=ラカン流にいえば「自分が死んだのも知らない」父親なんだ(笑)。亡霊としての無二が、自分が死んでいるのも知らないで、この説話の中であちこちで出現している。これは、無二が慶長年間まで延命し、あちこちの「史料」に絶えず顔を見せるのも、大して変わりがない。
A――しかも今日の武蔵評伝の中でさえ、無二は「無二斎」や「無二之助」などとして、延命させられている。この「延命流」では(笑)、ますます無二の亡霊は横行している。亡霊の無二が後々まで延命することになったのは、やはり、筑前の伝説でしょうな。
B――そこで、『江海風帆草』だが、面白い記事があったな。武蔵は筑前の産なり、という話だ。《宮本武藏と云者、父名筑前國宮本無二之助と云ものゝ子にて、筑前の産なり》。興味深いことに、武蔵の父は「筑前国宮本無二之助」といい、その息子の武蔵は筑前の産である、という伝説だな。
C――たしかに、無二や武蔵と黒田家の因縁は、もともと播州に端緒があった。黒田衆の九州移転とともに播州人が多く移住した。そしてそのような周辺環境のなかで、武蔵も幼少期に九州へ来た可能性がある。そのように無二や武蔵と黒田衆とは関係があったが、そこから武蔵は筑前生れだとする伝説が生じる可能性もある。
B――ただし、『江海風帆草』が筑前の文書であり、我田引水して武蔵産地を筑前へ引き取ったとはできないな。『丹治峯均筆記』では、武蔵は播州産としているから、武蔵は筑前産というのは、必ずしも筑前系の伝説ではない。むしろ他国でできた伝説だろう。
C――武蔵は筑前産だから、その父の名は「筑前国宮本無二之助」になる。これは筑前国住人・宮本無二之助という名のりの意。『五輪書』の「但馬国秋山」という名と同じだね。しかし、筑前の伝説なら、わざわざ「筑前国」宮本無二之助という表示はしない。これは、筑前ではなく他国の伝説、ようするに、長州下関あたりの伝説だろう。宮本無二之助もその子の武蔵も、向う側の人間だ、九州の筑前の者である――こういう伝説が、下関あたりにあったということだろう。
A――それはありうることですな。なにしろ、筑前系が拾った下関の伝説だと、武蔵の相手は地元の人間だが、これに対し武蔵は、ストレンジャーだとしても、むしろ九州側の人間だ。
C――『江海風帆草』には、《武蔵は年長じて、兵法修行して諸国を徘徊し、豊前小倉に下り細川越中守忠興の城下に居住》というからね、当時、武蔵は小倉に住んでいることになっている。
A――肥後系の伝説とは、まったく逆だ。肥後系伝説だと、それは小次郎の役だ(笑)。
C――説話の異なるヴァージョン間で、役回りがそっくり入れ替わってこういう正反対の構図になるのは、むしろ普通のことだね。しかし、長州系の伝説では、小次郎は地元長州側で、武蔵は「向う側」だ。この構図は動かない。
B――ただし、武蔵は小倉に住んでいたという説話素は、事実を反映している。小笠原忠政が豊州小倉へ転封のおり、明石の宮本家もそれに従って移住したわけだから、武蔵は小倉に居たことがある。ただし、その小倉移住は、寛永九年(1632)武蔵四十九歳の時のことだが(笑)。
C――伝説は年代順序などお構いなしに、共時的操作をする(笑)。武蔵は小倉に住んでいたという説話素は、独立して話を紡ぎ出す。また、武蔵と黒田衆との関係は、武蔵を筑前生れとする伝説まで生んだのだが、もちろん、武蔵が生まれた頃、黒田官兵衛は播州にあって揖東郡に一万石を得た領主だったわけで、その揖東郡宮本村生れの武蔵は、播磨産であっても、筑前産ではない。伝説の共時的操作は物事の順序を無視するから、新しい説話生産がつねに可能なんだ。
A――「武蔵は黒田領で生まれた」ということが説話素として独立すると、後はどうにでもなる。だから、「武蔵は黒田領=筑前国で生まれた」は可能なんだ(笑)。
B――武蔵と黒田衆との関係は、武蔵を筑前生れとするそんな伝説まで生んだのだが、これはさすがに『峯均筆記』では訂正され、武蔵は播州の産とされる。しかし父の名は、新免無二ではなく「宮本」無二だ。これは『江海風帆草』の「宮本無二之助」と対応するから、筑前では無二は「宮本」だという伝説が早期に生じていたということだ。
C――新免無二が「宮本」無二と呼ばれるようになるのは、九州においてだが、さらに特定すれば、最初は筑前の伝説かもしれん。
B――それで、小次郎は無二とまず先に関係があったという話のことだが、『峯均筆記』では、小次郎の挑戦を受けて、無二は試合を避けて断わった。無二が小次郎との試合から逃げているとの噂がたったので、息子の武蔵が「では、おれが」と乗り出したという話だな。これに対し、『江海風帆草』では、「父無二と宗入の間で兵法の遺恨もあったので」、武蔵が試合を望んだとある。
A――無二と宗入の間で遺恨があったので、武蔵の方から試合を望んだというのは、父の負債を清算する一種の報復でしょうな。具体的な内容は記していないが、これだと親子二代の遺恨試合(笑)。
B――もう少しで「敵討巌流島」だ(笑)。この親子二代のパターンは、対吉岡戦が、無二・武蔵の親子二代の反復行為だという小倉碑文の記事の、反復だな。京都での吉岡との対戦の構図が引用されている。ただし、構図を反転させてな。小倉碑文だと、無二は吉岡に勝ったことになっておる。
C――長州の伝説は、巌流=小次郎に心情的に加担したものが通常パターン。だから、武蔵の父・無二は戦わず試合を避けたという伝説内容になる。それを『峯均筆記』が拾ったが、たぶん祖形そのままではなく、筑前で改竄されたものだろう。


*【江海風帆草】
《爰に又宮本武藏と云者、父名筑前國宮本無二之助と云ものゝ子にて、筑前の産なり。武藏年長(たけ)、兵法爲執行諸國を徘徊シ、豊前小倉に下り、細川越中守忠興の城下に居す。此時中國にてハ、上田宗入、巌流の兵法を指南して、長門国に居住シ、武藏が兵法をさミす。武蔵ハ、父無二と宗入、兵法の遺恨も有ければ、ことにやすからず思ひ、仕合を互に望ミ、両方此嶋に出合べきよし云合す》









巌流島現況
彦島の向うに小倉市街を望む







小倉城天守 北九州市小倉北区




九州関係地図


*【武公伝】
《因テ十八歳ノ時師ノ前ヲ欠落シ、自劔一流ヲ立テ、岩流ト號。其方術實ニ藍ヨリモ青シ。武者修業ヲシテ諸國ヲ經囘、豐前國ニ到ル。太守細川忠興公、其術ヲ称美シタマイ、暫ク小倉ニ駐ル。武公、從都來[慶長十七年壬子二十九歳]故長岡佐渡興長ノ第ニ到テ、請テ曰[興長嘗武公ノ父無二ノ門弟ナリ]、「曾テ聞、小次郎劔術奇絶ナリト。庶幾我手技ヲ比ン事、申出ハ、家父無二ガ故アリ、因テ憑ミ奉者也。謹デ願フ、(聴)達セラレン事ヲ」ト。興長主應諾シテ、武公ヲ私第ニ留メ、即沙汰ニ及。御家老中御寄合、兩日及、終ニ忠興公ニ達シ、其日ヲ極テ、於小倉之絶島[向島ト號、又曰舟島。今亦曰巌流嶋。豐前ト長門之際。小倉ヨリ舟行一里、下關亦同里數ナリ]勝負ヲ決セシム》

*【二天記】
《依テ勢源ガ下ヲ駈落シテ、自ラ一流ヲ建テ、岩流ト號ス。其法術尤モ奇ナリ。諸國ヲ經囘シテ、名高キ兵法者ニ會シ、数度ノ勝負ヲ決スルニ、勝利不失。斯テ豐前小倉ニ至ル。太守細川三齋翁忠興公聞シ召テ、小次郎ヲ停メ置キ玉ヒテ、門弟出來テ指南アリ。于時慶長十七年四月、武藏都ヨリ小倉ニ來ル[二十九歳ナリ]。長岡佐渡興長主ノ第ニ至ル。興長主ハ其父無二之助ノ門人也。其ノ故ニ因テ來ルナリト。曾テ興長主ニ請テ曰、「岩流小次郎、今此ノ地ニ留リヌ。其術奇ナリト承ル。希クバ吾手技ヲ比ベンコトヲ。公ハ無二ガ故縁有リテ、憑ミ奉ル者也」ト謹テ願フ。興長主應諾アリテ、武藏ヲ留テ、忠興公御聴ニ達シ、其ノ日ヲ定メ、小倉ノ絶島ニ於テ、勝負ヲ決セシム。[向島ト云、又舟島トモ云、今又岩流島ト云。豐前ト長門ノ境、小倉ヨリ舟行一里、長門下ノ關ヨリモ同里数ナリ]》
B――ところで、肥後系の武蔵伝記では、このあたりの記述はどうか。『武公伝』では、もちろん、無二が小次郎の挑戦を逃げたという記事はない。あるとすれば、細川家家老・長岡興長がかつて無二の門弟だった、という因縁話。そういう縁があって武蔵が、小次郎に挑戦させてくれ、と長岡興長に頼む。『武公伝』を継承した『二天記』でも、基本的に同様の記事だな。
C――肥後系伝記の無二に関する記事は、京都での対吉岡戦だけだったな。これは小倉碑文の域を出ず、補足的情報として『武藝小傳』を読んで書いた記事がある程度だ。
A――肥後系には、親子二代の因縁試合という話はない。とすれば、純粋に武蔵のデジール(欲望)から生じた出来事になる。
C――これは、細川家中の者らによる巌流島決闘の拉致から生じた形態なんだ(笑)。肥後系伝説は、外在的な対立を内在的な対立へ変換している。筑前系の伝説では、宗入=小次郎は地元長州の者で、相手の武蔵は他国からやってきた異人、ストレンジャー。対立は外在的だ。ところが、肥後系では、両者ともに他国からやってきた異人だが、小次郎は細川三斎、武蔵は長岡佐渡と、それぞれ係留点をもっている。そうして対立の構図は、細川三斎と長岡佐渡という存在によって内在化される。
A――そういう内在的対立が生じるのは、熊本対八代という、後世のポジションの反映とみるべきですな。
C――その通り。これは肥後時代に生じた対立の構図だね。『武公伝』『二天記』の巌流島物語の構図は、肥後系の中でも八代の系統の物語。主人公・武蔵は、どうしても八代城代・長岡氏のサイドの人間であらねばならない。それが伝説生産過程の必然的要請だな。
B――『武公伝』の巌流島物語は、小倉時代からもって来たものではない。肥後時代以後の形成、それも隠居の細川三斎が死んで長岡氏が八代城を預かるようになって、かなり経った後のことだろう。
A――小倉時代とはいえ、主君細川三斎や家老長岡佐渡が関与して、触れまで出して管理した試合だというのに、藩史に何の記事もない。話を大きくした分だけ、ボロが出ている(笑)。
C――まあ、巌流島決闘は、小倉とも細川家中とも関係がない、長州の出来事だった、ということで、すでに結論は出ておるよ(笑)。
A――しかし、近年の諸説のにぎやかなこと。中には、巌流島決闘は、細川家側が仕組んだ政治的陰謀だ、といったパラノイアックな話まで出ているらしい(笑)。
B――小次郎の佐々木氏が、細川家支配にまつろわぬ一族で、それを滅ぼす政治的陰謀だとか、なんとか譫言を云っておるのだな。そんなものは、小説家にまかせて、勝手にやらせておけばよい。だいたい、小次郎が「佐々木」であるわけがないのは、先ほどの話の通りだ。
C――ところで、まだやるのかい?(笑)
――はい。お聞きしなければならない話が、まだ残っていそうですから、もう少し(笑)。決闘直前の話も、筑前系と肥後系では、ずいぶん違っているようですね。
B――巌流島で決闘するに至る直前の経緯だね。『峯均筆記』では、小次郎は地元長門の国人、弁之助は他所者の旅人、つまり異人である。先に長府の者だという話が出たが、筑前系伝説では、宗入=小次郎は一貫して長門の人間である。この点、諸国を経巡って豊前小倉にやって来た小次郎、という肥後系伝記とは異なっている。また、この段の舞台が、小倉ではなく下関で進行しているところも、まったく違うわけだ。
A――さて、小次郎は地元の人間、武蔵は他所者の旅人、そこで武蔵は、どうしても小次郎の方から試合を望んだ恰好にしなければならない、という。しかし奇妙なのはそこで、廻国修行者なら、ある土地へ行って、そこで地元の兵法者に挑戦するということはありえたはず。なぜ、こんな話の振り回しになったのか。
C――そこで、ひとつ考えられるのは、地元の小次郎へのシンパシーから語られた伝説があっただろう、ということだな。すなわち、これは小次郎に加担した物語で、それはさまざまな史料に断片的に痕跡が残留しているのだが、『峯均筆記』の前にあったのは、他所者の武蔵が小次郎に対し無礼な言動に及び、小次郎がそれに忿って決闘になったとする伝説だ。この地元伝説では、あくまでも善玉は小次郎で、悪玉は武蔵。『峯均筆記』の伝説記事は、そういう武蔵を悪玉にして小次郎に心情的に加担した地元伝説を、その構造は同じままで意味を反転させたわけだ。
A――つまり、武蔵が無礼な悪口雑言を吐いたという伝説の意味を、それは武蔵の計略だという方向へ変換してしまったというわけ。
B――そのために、他所者の旅人が自分から決闘を申し入れることはできないから、計略が必要だった、という前提を新たに設定している。しかし、この前提は、倣岸不遜な武蔵が小次郎に悪口雑言を吐いた、という説話素を換骨奪胎するためのものだ。
C――それから、ここで注意すべきは、反復という説話論的構造。つまり、小次郎は最初、無二に対し挑戦した。そして今、再び無二の代理としての武蔵に挑戦することになった。武蔵は、どのようにして小次郎に挑戦させるように仕向けたか。
B――小次郎の門弟の面前をも憚らず、「おれが小次郎と試合したら、まさに蛙の頭を押し潰すように、たった一度で粉砕できるぞ」と云ったので、小次郎はこれを伝え聞いて、「若輩なる弁之助が過言千万、そのままにしてはおけない」と、小次郎の方から試合を要求した――というわけだな。
A――もちろん「若輩なる弁之助」という言い方には、小次郎の方が老獪な中年で、武蔵はやはり十九歳の若者だったという話ですな。この点では、『二天記』が注記で拾った伝説の設定は、むしろ逆で、小次郎を十八歳の青年にしてしまった。
C――それで、小次郎の方から試合を要求したが、いったん弁之助は一応は断りを申す。小次郎が強いて望むゆえ、「さらば、お望みに任せよう」と、なったわけで、まんまと小次郎は武蔵の計略にひっかかった。こういう騙しは民話伝説の常套である。赤ずきんちゃんのオオカミではないが、敵役はどんなに強くても、どこか馬鹿で抜けている(笑)。そんなわけで、下関で勝負を決しようとなった。繰り返せば、『峯均筆記』版巌流島対決の舞台は、あくまでも長門側だと。
B――ところが、地元の者が決闘を許さない。そんな物騒なことは迷惑だから、どこか別の場所でやってくれ、という。そのため、「あの島へ渡ろう」と約諾して、舟嶋ヘ渡って仕合うことにした、と。
A――しかしだね、小次郎対武蔵。そんな面白い試合なら、是非とも見物したい。沖の島ではなく、近所でやってくれないか、というのが「市民の声」のはずだよ(笑)。
C――まあ、民主主義的に決めるわけにもいかんから(笑)、ここは自分たちで勝手に決めさせてもらって、だれにも邪魔されたくない、そんな場所というわけだろう。それに、この境界に位置する島というのが、まさに「無縁」の場所である。これは京の吉岡一門との決闘で、たとえば蓮台野などという地名が出るのと同じく、どこにも属さない公界・無縁のスポットが、こんな決闘勝負の場所だったらしい。




*【丹治峯均筆記】
小次郎ハ國人、辨之助ハ旅人ユヘ、何トゾ小次郎手前ヨリ試闘ヲ望ムヤウニイタシ度、小次郎ガ門弟ノ前ヲモ不憚、ワレ小次郎ト試闘セバ、マコトニ蛙ノカシラヲヒシグヤウニ、只一ヒシギニ可致ト申サル。小次郎、是ヲ傳聞イテ、若輩ナル辨之助ガ過言千萬、其分ニテハ措キガタシトテ、試闘ヲ望ム。辨之助一應ハ断ヲ申ス。小次郎シイテ望ムユヘ、サラバ、可任望トテ、下ノ關ニテ勝負ヲ決セントス。サレドモ所ノ者ユルサズ。依之、アノ嶋ヘ可渡ト約諾シ、長門ト豊前ノ堺、舟嶋ヘ押渡ル》









関門海峡大橋










巌流島と下関市街 現況



*【丹治峯均筆記】
《小次郎ハ小舟ニ乘、家頼一人、水主一人ニテ漕渡ル》


*【武公伝】
《興長主、即武公ニ言テ、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ巌流ト會セン事ヲ諭〔つげ〕、且ツ小次郎ハ御舟、武公ハ興長ノ舟ニテ可遣ト也。武公喜色面ニ見レ、願望相達セン事ヲ謝ス。然ニ夜來武公頓ニ去テ蹤ナシ。遍ク府中ヲ尋求ルモ、不見。皆曰、彼レ此間逗留ノ中、巌流ガ慓捷〔剽捷〕超絶ナル事ヲ聞テ、恐懼シ逃タリト。興長主モ如何ントモ無仕方、茫然トシ臍ヲ噛ニ至ル。稍ク夜半ニ至リ、家士ニ命シテ曰、ツラツラ按ズルニ、彼レ若恐テ逃ナラバ、何ゾ今日ヲ待ン。何ソ心持在ラン。彼サキニ下關ニ着テ翌日爰ニ來シハ、多分下關ニ到テ夫ヨリ向島ニ往ン事必セリト、急ニ飛脚ヲ馳ス。果シテ下關ニ在[問屋小林太郎左衛門]。武公、飛脚ニ向テ云》

*【二天記】
興長主武藏ニ曰、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ、岩流小次郎卜仕合致スベキ由ヲ諭ス。小次郎ハ忠興公ノ船ニテ差越サルベシ、武藏ハ興長船ニテ致度也ト。武蔵、喜色面ニ顕レ、願望達セシコトヲ謝ス。然ルニ其夜武藏去テ迹ナシ。遍ク府中ヲ尋レドモ、行衛不知。皆云ク、渠レ此間逗留ノ内、小次郎ガ技術妙術ナレコトヲ聞及、臆シテ逃タリト云フ。興長主モ如何トモ爲カタク、茫然トシテ臍を噛ニ至ル。稍有テ興長主家士ニ命ジテ、我ツラツラ是ヲ按ズルニ、渠レ懼レテ逃ルナラバ、何ゾ今日ヲ待タン。察スルニ渠心持有ルコトナラン。先ノ日下ノ關ニ着テ、翌日爰ニ來レリ。定メテ下ノ關ニ至リ、夫レヨリ向島ニ往カンコト必セリ。急ギ飛脚ヲ立ベシトナリ。則チ飛脚下ノ關ニ至リ見レバ、果シテ問屋小林太郎左衛門ト云者ノ所ニ有リ。飛脚右ノ趣ヲ告ルニ、武藏書ヲ呈ス。其文ニ》
B――ところで、『峯均筆記』ではこれが決闘直前の話なのだが、小次郎は、舟島へ渡るのに、水主一人で漕げる小舟で、しかも連れの家来は一人だけ。ひっそりしたものだ。ところが、肥後系伝記ではまったく話が違っている。つまり、大変な騒ぎになっておるが、何度も言うように、まず舞台が九州側の豊前小倉。物語の舞台が向う岸に行ってしまっておる(笑)。
A――長州側から云えば、対岸の九州に話をかっさらわれた(笑)。
C――肥後系伝記では、小次郎は細川三斎お気に入りの兵法者で、小倉で教え門弟もできている。これに対し武蔵は、無二と縁のあった家老の長岡興長のコネで、ようやく小次郎と仕合させてもらう。ところが、ここから仕合に至るまでエピソードが挿入されているのだが、それがかなり詳しい話になっているね。
B――つまり、武蔵は長岡佐渡のコネで小次郎との仕合を公認してもらい、場所日時も決まり、巌流島まで小次郎は殿様三斎の船で、武蔵は長岡佐渡の船で行く、ということまで決まったというわけだが、これも話がおかしい。この仕合の主催は小倉の細川家で、殿様の御座船まで出して、下関の前の島まで行くというわけだ。
A――目の前でそんな大掛かりなことを勝手にやられて、長州の毛利家が黙っているはずがない(笑)。
C――そうなんだな。なにしろ、肥後系の伝説では、舟島は「小倉の絶島」なんだ。小倉の目の前にある「向島」らしいからね。我が庭先、という扱いだ。だから、そこは目くじらを立てずに、空想の島だと思えばよろしい(笑)。
B――ともあれ、試合の段取りがすべて決まったが、武蔵はその夜忽然として姿を消す。そこで、武蔵は小次郎の強さに恐怖して敵前逃亡したのではないか、という噂も出るほどで、間に立った長岡興長も困り果てる、という次第である(笑)。
C――しかしこの設定も、『峯均筆記』と照合すればわかることだが、無二が小次郎との対戦を逃げたという説話素の変形だな。変形は抑圧の所産である。言い換えれば、二つの異なるヴァージョンの伝説は、横断してみれば、対岸での出来事を姿を替えて反復する。
    「無二が小次郎から逃げた」
    「武蔵が小次郎から逃げた」
 ようするに、「無二が小次郎から逃げた」は「武蔵が小次郎から逃げた」という形態で両者は説話素を共有している。この説話原型が、長門側にあったのは確かだろうが、それはいずれにしても抑圧されて、かように変形をこうむったというわけだ。
B――そうして肥後系伝記によれば、長岡佐渡の、「武蔵は逃げたのではない。逃げるつもりなら、もうとっくに逃げているはずだ。武蔵はきっと下関に行ったに違いない」という推測の通り、武蔵は下関へ舞い戻っていた、と。
A――長州側の伝説は、ここでようやく話を返してもらえる(笑)。
C――ここでも、筑前系と肥後系伝記の対称性は明らかだな。鏡像的対称性。鏡像が左右逆転するように、両者のポジション設定は逆になっている。肥後系伝説では、小次郎は長門ではなく豊前小倉に住む者だし、九州側の武蔵の方が長州側の下関に場所を占める。豊前と長門、対岸をなすこの対立ポジションの反転もまた、二つの異なるヴァージョンの伝説を横断する説話論的交換だと言える。
B――まったくね。ポジション、立場が入れ替わっている。ところで、武蔵は小倉から長岡興長の船に乗って出ることになっていたのに、なぜ下関へ渡って単独行動するのか。その理由は、小次郎が殿様三斎公の船で行く、とすれば武蔵が小次郎に勝つと、殿様の立場がないし、それより家老興長の立場が悪くなろう、といういささか「高度」な配慮があったのである(笑)。
C――むろん、伝説がかなり発展したというまでで、もともと長州にあった「無二/武蔵が小次郎から逃げた」という説話素が、ここまで変形増補されたということだな。
B――ところで、肥後系伝記のうち先行する『武公伝』の方は、武蔵が下関に渡って単独行動するという理由の弁明を、興長の使いに対し口頭でするのに対し、後継の『二天記』の方は、興長への武蔵書簡を提示してしまう。これは馬脚も露わな振舞いだ(笑)。



巌流島決闘当時周辺地図

【武公伝】
果シテ下關ニ在[問屋小林太郎左衛門]。武公、飛脚ニ向テ云、「明朝佐渡殿御舟ニテ向島ヱ可被遣之由被仰聞、重疊御心遣ノ段、辱〔忝〕奉存候。然共此度ニ於テ小次郎ト私ハ敵對ノ者ニテ候。然、小次郎ハ御舟ニテ被遣、私ハ佐渡殿御舟ニテ被遣ト有之處、上ニ被對、如何敷奉存候。此度私願之通御取次被下候限ニ、私ニハ御カマイ不被成候而宜奉存候。此ダン御直ニ可申上候得共、御承引被成間敷ト存ニ附、不申達候而此元參居申候。御舟之儀ハ幾重ニモ御斷申上候。明朝此元之舟ニテ向島ヱ參儀、少モ支無御座候。時分ニ參申ニテ可有之」由、返詞ニテ
【二天記】
果シテ問屋小林太郎左衛門ト云者ノ所ニ有リ。飛脚右ノ趣ヲ告ルニ、武藏書ヲ呈ス。其文ニ、
明朝仕合之儀ニ付、私其許樣御舩にて向嶋に罷遣之由被仰聞、重疊御心遣之段、忝存候。然共此囘小治郎と私とハ敵對之者ニて御座候。然るに小治郎ハ忠興樣御舩ニて被遣、私ハ其許樣御舩ニて被遣と御座候處、御主人江被對、如何敷奉存候。此儀私ニハ御構不被成候而可然奉存候。此段御直に可申上と被存候得共、御承引なさるましく候に付、態と不申上候て、爰許江参居候。御舩之儀は幾重ニも御斷申候。明朝は爰許舩ニて向嶋江渡候事、少も支無御座候。能時分參り可申候間、左樣に可被下思召候。已上
   四月十二日            宮本武藏
      佐渡守様
右返答ス


松井文庫蔵
長岡興長像




巌流島と関門海峡



*【丹治峯均筆記】
《コロハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ着シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ着シ》
B――つまり、『武公伝』にはなかった武蔵の手紙が、どこかから沸いて出たものらしい(笑)。
C――手紙の宛先は「佐渡守様」だが、話のようにこれが長岡興長だとすれば、彼は当時、まだ式部様だよ。先祖附によれば、寛永八年冬に長岡式部興長が佐渡と名を改めたとあるから、興長が「佐渡守」を称するのは、寛永八年(1631)冬以降のことだ。地の文で「長岡佐渡」とするのは、小笠原忠政を晩年の名「忠真」で記すのと同じで、後世文書にはよくあることだとしてもだ、慶長十七年(1612)の書簡に「佐渡守様」はないだろう(笑)。露骨な捏造文書なんだよ。
A――こんなバッタもん、『二天記』はどこから仕入れたんだ(笑)。
C――もちろん、『武公伝』には記載のない武蔵の手紙が、『二天記』で出てくるというのも奇怪なことで、これはたとえば、薩摩の黒豚だね。薩摩産黒豚の販売量はその生産量の十倍に達する、というケースと同じ仕業だな(笑)。
B――伝説の流通段階で、どこかから沸いて出るんだ。『二天記』は、その武蔵書簡なるものを、日付入で全文収録する。この日付によって、巌流島決闘の日まで特定されることになった。
A――この四月十二日の書簡が仕合前日のものだから、巌流島決闘はその翌日、四月十三日ということになる。それで、今日の小説はむろんのこと、武蔵評伝でも、この日を巌流島決闘の日としているものが多いという始末(笑)。
B――なかには、この「慶長十七年四月十三日」を西暦で割り出して、その日の午前の関門海峡の潮流を推測するということまでやった奴がいたな。ご苦労なことだが、「慶長十七年」も「四月十三日」も根拠がない以上、バカなことをやったという以外にない(笑)。
C――そんなことは『二天記』以外に話はない。しかも、さっきの武蔵書状なるものが、「佐渡守様」宛書簡であり、『武公伝』にはなくて『二天記』にはじめて登場する以上、これは肥後で捏造されたものだ。したがって、四月十三日説にはまったく根拠はない。
A――筑前系の伝説には、どうありましたかな。
B――こっちは、そもそも巌流島(決闘)は武蔵十八歳あるいは十九歳の時のことだから、話はまるで違う。しかも季節は、『峯均筆記』だと頃は十月のことで、旧暦だから季節は初冬だ。
C――肥後系の伝説では、四月とするから、季節は初夏だな。したがって、季節はまったく逆だ(笑)。
A――そうしてみると、巌流島伝説では、最初十月だったのが、肥後へ行ってのち伝説変異して、四月になった、ということですかな。
C――季節のことだから、必ずしもそうとは言い切れないが、その可能性は少なからずあると見たほうがよい。何でも反転してしまうからね、季節も逆になったらしい(笑)。決闘の年も、筑前系と肥後系では、十年の開きがある。
B――この矛盾は調停不可能だ(笑)。
B――ところで、肥後系伝説の、武蔵が下関へ逃げたというあたりの話は、他に例がないほど詳しいが、これは前に話の出た、小倉の商人・村屋勘八郎からの情報だな。
C――それが、問題だな。伝説のうち、どこからどこまでが、村屋勘八郎から仕入れた話か、特定できないが、少なくとも、この下関の「問屋小林太郎左衛門」の家にからまる説話は、村屋勘八郎から仕入れたという当の話だろう。
B――それが、巌流島決闘から百年後に、豊前小倉から肥後の八代へ伝えられたというわけだ。しかも、『武公伝』では、村屋勘八郎こそ武蔵を舟で巌流島へ送った舟人本人(笑)、『二天記』冒頭の「凡例」では、それではあんまり眉唾だというので、伝聞にして訂正しておるが。
A――すると、この話は、伝聞の伝聞ですな。豊田の祖父さんが聞いたのが、巌流島決闘から百年後、それからさらに半世紀して、孫が『二天記』に収録した話だ。これでは、話はどうにもならん(笑)。
C――まあ、とにかく、武蔵はこの下関の小林太郎左衛門の家に泊まった。決闘の日の朝、武蔵は小林の家にぐずぐずしていて、約束の刻限に遅刻する、という話。この説話素が、明治末以後、有名になってしまった。
A――武蔵が遅刻したのは、小次郎をイラつかせて、平常心を失わせるためだ、という解釈つきでしたな。その上さらに、そんな策略を用いる武蔵は卑怯だ、という話まで出る始末(笑)。
B――まったく、阿呆な話だ(笑)。だいいち、肥後系の伝説に信憑性はあるかよ。
C――ところが、説話論的に分析すれば、興味深いことが判明する。というのは、これは案外、下関の地元伝説をベースにしたものではないか、ということだね。最初の段階、小次郎に心情的に加担する地元伝説では、武蔵は寝過ごすほど自堕落で(笑)、しかも勝負に臆してグズグズしていた。それでも約束だから仕方ないので、しぶしぶ決闘に臨んだ、という説話だったかもしれない。
A――その話の痕跡が、使いの催促にもかかわらず、あえて遅刻する武蔵、という形態で、肥後系伝説に残ったというわけか。
C――なぜ武蔵は遅刻するという話なのかは、そういうことだね。ただし、肥後系伝説では、武蔵の遅滞行動は、そのネガティヴな意味が換骨奪胎されて、それは武蔵の一計だ、というポジティヴな意味内容に転化する。ようするに、『峯均筆記』の、「武蔵は小次郎を計略ではめる」という説話素が、ここでも反復されているとみてよい。武蔵の計略は、『峯均筆記』では、小次郎を怒らせて挑戦させるように仕向けることだが、肥後系伝記では、決闘に遅刻して、小次郎をイヤというほど待たせることだ。筑前系も肥後系も、こうしてみれば、かなり対照的な説話内容を有するこれら二つのヴァージョンでも、基本的に説話素を共有している。
B――なるほどね。したがって一方では、肥後系伝説とは対照的に、「武蔵は小次郎を計略ではめる」という説話素をすでに完了している『峯均筆記』は、武蔵が小次郎を待たせるどころか、まったく逆に、武蔵の方が先に到着して小次郎を待っている、という話になっているわけだ。
C――そうだろうね。話が全く逆だからこそ、これら二つのヴァージョンの伝説を横断する構造的な相同性と対称性は明らかだと言える。
   「武蔵が先に到着して、小次郎を待った」
   「武蔵が遅刻して、小次郎は待たされた」
 武蔵に加担するはずの肥後系伝記においてさえ、実は、小次郎に心情的に加担した下関の伝説断片が、意味を反転して残存した。これも伝説の伝承形態のひとつなんだな。
A――すると、武蔵は卑怯にも策略して遅刻した、という近代の偶像破壊的言説は、意外にも、下関あたりの古い伝説パターンを再演している、ということになりますな。
B――そういうことだろうね。たとえそれが、大衆のナイーヴな武蔵崇拝に対する反ポピュリズムだったとしてもだ、ようするに、先祖返りしただけのことだ。何も新しい事態はない。


*【武公伝】
《扨翌朝ニナリ、日高ル迄武公鼾睡シ不起。亭主太郎左衛門、早辰ノ刻ニ及由告ル處ニ、小倉ヨリ又飛脚到來、時刻延引之段追々告來ル事頻シ數ニ及ビヌ。武公漸ク起テ朝飯ヲ喰、太郎左衛門ニ乞テ艪ヲ以テ木刀ヲ削リ出、梢人ハ即太郎左衛門ガ家奴也。漸巳ノ刻ニ及コロヲイ、舟嶋ニ到リ》

*【二天記】
《扨翌朝ニナリ、日高クナル迄武藏寝テ不起。亭主太郎左衛門ハ無心元思ヒ、辰ノ刻ニ及ベリト起シ告ル處ニ、飛脚小倉ヨリ來リ、般渡ノ由ヲ武藏ニ告ル。武藏無程參リ申可由返答シ、手水シ飯ヲ仕舞ヒ、亭主ニ請テ櫂ヲ以テ木刀ヲ大キニ削ル。其内飛脚又來リ、早々可渡申急告ル。武藏ハ絹ノ袷ヲ着テ、手拭ヲ帯ニハサミ、其ノ上ニ綿入ヲ着テ、小船ニ乗テ出ル。舟人ハ太郎左衛門ガ家奴也。(中略)漸ク巳ノ刻過ギニ武藏向島ニ至リ》





*【江海風帆草】
《武藏其日の装束ハ、繻子のぢはんを、こはぜがけにして着、五尺の棒に筋鉄を打て持之、宗入よりさきに嶋にわたりて、岩にこしかけて宗入をまつ。宗入ハ、八徳〔胴着〕の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる》

*【丹治峯均筆記】
辨之助ハ小次郎ヨリサキニ渡海セリ。コロハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ着シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ着シ、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木条右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リ手ゴロノ木ヲ、握リノ所ハ皮ヲヽシ削リテモテリ。舟嶋ノ濱辺ノ岩ニ腰掛、小太刀ヲヒザノ上ニ横タヘ、舟ノ櫂ハ右ノ方ニ、横ニ捨テヽ持、サシウツムキテ小次郎ヲ待居ラル






巌流島 2002年冬
武蔵像の設置を待つ小次郎像
「武蔵はまだか!?」
――さて、時間も遅くなりましたので、このへんで、本日はいったん終らせていただきます。巌流島決闘をめぐる未聞のお話は、夜更けていよいよ佳境に入り、まだ半ば、武蔵はまだか(笑)。しかし途中ですが、後半は明日お願いしたいと思います。よろしいでしょうか。
B――武蔵はまだか、小次郎はまだか、だ。話はまだかなり残っておる。何なら徹夜でもいいよ。
C――今回は、二日間にわたり、時間無制限一本勝負だった(笑)。
A――とんでもない。体がもたない。いい歳をして、むちゃくちゃな人たちだ(笑)。
C――では、野天の湯にでも入って、美しい真夜中の紅葉をながめようか。
――とにかく、それから、ゆっくりお休みください。残りは明日にしていただきます。
〔後篇に続く〕

 PageTop   Back   Next