
海峡の景 シーボルト『日本』
*【江海風帆草】 《武藏其日の装束ハ、繻子のぢはんを、こはぜがけにして着、五尺の棒に筋鉄を打て持之、宗入よりさきに嶋にわたりて、岩にこしかけて宗入をまつ》
《此時、宗入が刀のきつさき、武藏が立付の前腰をはらひて、はかまのまへ武蔵が膝に下がる》
*【丹治峯均筆記】 《辨之助ハ小次郎ヨリサキニ渡海セリ。コロハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ着シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ着シ、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木条右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リ手ゴロノ木ヲ、握リノ所ハ皮ヲヽシ削リテモテリ。舟嶋ノ濱辺ノ岩ニ腰掛、小太刀ヲヒザノ上ニ横タヘ、舟ノ櫂ハ右ノ方ニ、横ニ捨テヽ持、サシウツムキテ小次郎ヲ待居ラル》

南蛮屏風のポルトガル人兵士
*【兵法先師伝記】 《其日ニ至レバ、先師櫓ノ木ヲカタク削リノケ、櫓ノ刃ヲ以テ木刀ノ刃トシ、柄ノ所ヲ持ヨキ様ニ削リナシ、柄七寸、刃二尺五寸ニ拵ヘ、常ノ木刀ノ小太刀ヲ左ニ持、装束ハ、緋ムクノ下着ニ上ニ黒羽二重ノ衣裳ニ皮ノカルサンヲ着シ、緋純子ノ胴肩衣ニ上帯シテ大小ヲ指、小舟ニ乗リテ嶋ニ渡ラル》

宮本武蔵像の立付袴
*【武公伝】 《棹ヲ停テ淺汀ヲ渉ル事數十歩、武公帯ニ挿ム所ノ手巾ヲ以テ一重ノ鉢巻ニシ、袷衣ヲ着[武公皮ノ立附ヲ着ト云ハ非ナルカ。定員云、或人白皮ノ袴ヲ着ト云、岩流ガ時ニ皮ノハカマヲ切ト云々]、舟中ニテ紙線ヲ作テ襷トシ、其上ニ綿襖ヲ襲テ舟中ニ伏ス。(中略)襲所ノ綿襖ヲ脱、短刀ヲ差、裳ヲ高ク褰テ脛ヲ見〔現〕シ、木刀ヲ堤ゲ跣デ淺汀ヲ渉リ來リ》
*【二天記】 《武藏ハ絹ノ袷ヲ着テ、手拭ヲ帯ニハサミ、其ノ上ニ綿入ヲ着テ、小船ニ乗テ出ル。(中略)船中ニテ紙線ヲシテ襷ヲカケ、右ノ綿入ヲ覆テ伏ス。(中略)島ノ洲崎ニ船ヲ滞メテ、覆ヒタル處ノ綿入ヲ脱ギ、刀ハ船ニ置キ短刀ヲ差テ裳ヲ高クカヽゲ、彼木刀ヲ提ケ、素足ニテ船ヨリ下リ、淺汀ヲ渉ルコト数十歩、行々帯ニハサム手拭ニテ一重ノ鉢巻ス》

掻 巻 大正期飛騨宮川村
*【折口信夫】 《天孫降臨の時、真床襲衾を被つて来られたとあるが、大嘗宮の衾も、此形式を執る為のものであると思ふ。今でも、伊勢大神宮に残つてゐるかも知れないが、伊勢の太神楽に、天蓋のあるのは、此意味である。尊い神聖な魂が、天皇に完全に著くまでは、日光にも、外気にも触れさせてはならない。外気に触れると、神聖味を失ふと考へてゐた。故に真床襲衾で、御身を御包みしたのである。その籠つてゐられる間に、復活せられた》
《真床襲衾に包まれて復活せられた事は、天皇の御系統にだけ、其記録がある。其中で物もお上りにならずに、物忌みをなされた。その習慣がなくなつて後、逆ににゝぎの命が、真床襲衾に包まつて、此国に降り、此地で復活なされたのだと考へて来た。我々は、宮廷で、真床襲衾を度々お使ひになるので、天上から持つて降られたものと思ふが、其は、逆に考へ直す方が、正しいのである》
《もといふ語は、腰巻き又は、平安朝の女房たちの用ゐた裳と思はれてゐるが、ほんとうは紐のない、風呂敷の様な、大きな布で、真床襲衾と称した処のものである。もに籠るといふことは、衾に這入る事で、此間のものいみは、非常に広く、且厳重に行はれたもので、ものおもひと言うてゐる。後には、誤つた聯想から、服喪の意味に考へて来た》(古代人の思考の基礎)
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