坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

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爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り、舟嶋と謂ふ。兩雄同時に相會す。岩流三尺の白刄を手にして來たり命を顧みず術を尽くす。武藏木刄の一撃を以て之を殺す。電光猶遅し。故に俗舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。(小倉碑文)
07 伝説としての巌流島決闘  (後篇)  Back   Next 
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 (承  前)
――お早うございます。昨夜は遅くまでありがとうございました。巌流島決闘伝説について、すでにかなりの内容のお話になっております。早速、続きをおねがいしたいと思います。
――昨日はどこまで、話が行ったのでしたかな。
――筑前系伝説では、武蔵が先に到着して小次郎を待った。肥後系伝説では、武蔵が遅刻して小次郎は待たされた、というあたりまでだった。
――武蔵は卑怯にも策略して遅刻した、という近代の偶像破壊的言説は、ようするに、先祖返りしただけのことで、何も新しい事態はない。これは昨夜言った通りだな。
C――ところで、また別の構造的対称性があった。それは前に出た、決闘時の季節だな。これは、衣装の記述があるから、それで設定状況の判定はできる。
B――つまりだ、『峯均筆記』は「十月」とするのに対し、肥後系の伝記では、『武公伝』は何月という記事を欠くが、『二天記』によれば、これを「四月」、それも十三日と特定される。ようするに、『峯均筆記』と『二天記』では季節は逆で、『峯均筆記』は、十月つまり初冬のこととするのに対し、『二天記』によればこれが初夏のことである。
A――これも対称性に極めて忠実な対立であって、説話論的にみればかなり興味深いところだ。
      初 冬 × 初 夏
C――ただ、念のため注意しておけば、正しいのはどちらか、などという頓珍漢な問いは却下する(笑)。そもそも、決闘時期は、『江海風帆草』が十八歳で、『峯均筆記』が武蔵十九歳、それに対し肥後系伝記では武蔵二十九歳と、十年の差異がある。事実性へのナイーヴな希求はこの絶対的差異に翻弄されるだけだろうな。
B――さてここで、武蔵の衣装の話になる。衣装などどうでもいいじゃないか、というのが現代人の感覚なら、この当時の人間は衣装をイメージできないとリアリティに欠けるところがあったらしい。
A――『江海風帆草』では、武蔵その日の装束は、という話で、「繻子のぢはんをこはぜがけにして着ていた」とある。
B――「ぢはん」というのは襦袢だな。周知のように、これは下着・肌着だが、もとはポルトガル語(gibao)からきておる。それを「こはぜ(小鉤・鞐)がけ」にして着ているという。こりゃあ、もう南蛮風の最先端ファッションだぜ(笑)。
A――『江海風帆草』では武蔵は十八歳だから、慶長六年(1601)で関ヶ原役の翌年ですな。ポルトガル商人は大量に文物を持ち込んでいたし、切支丹禁制以前だから、宣教師も活発に活動していた。そういう状況だから、武蔵の南蛮ファッションは当然ありうる。
C――南蛮貿易は利幅が大きいから、諸大名は競ってポルトガル人商人や宣教師と親近しようとしておった。慶長当時の武士は派手な南蛮ファッションが好みだった(笑)。ところで、『峯均筆記』では、武蔵の衣装は、十月初冬の肌寒い季節のこととて、下には小袖を着し上に袷を着て、という恰好である。小袖は肌着・下着で、袷が上着ということになる。
A――この着衣が綿入であったかどうかは、この記事ではわからないが、体が冷える季節だし、海を渡るから袷を重ね着している。
B――『峯均筆記』は、下には小袖、上に袷を着て、という程度だが、筑前系後継の『兵法先師伝記』はすごい。緋むくの下着に、上に黒羽二重の衣裳に皮のカルサンを着し、緋緞子の胴肩衣に上帯して、というファッション(笑)。
C――武蔵は主役だしな、そんなド派手で豪勢な衣装になる(笑)。一方、小次郎の方には何の記述もない。
B――そうして珍しい語が出てくる。「カルサン」だな。地域によっては、今日でもまだこの語が残っておって「カルサン」で通じる。もんぺに似た短袴で、野良着である。ところがこれは、もとはポルトガル語で、「軽衫」という当て字をしている。乗馬ズボンに似たものだな。南蛮屏風にこのカルサン姿のポルトガル人などが描かれているのを見ればわかる。これが取り入れられて、近世初期以来、旅装や作業着として広く用いられるようになったというわけだ。
C――これも、南蛮ファッションとみてよかろう。上衣は小袖に袷と和風だが、短袴のカルサンとの組み合せがファッショナブルなんだ(笑)。
B――ついでに言うと、『江海風帆草』では、下は立付〔たっつけ〕となっておるな。これは、いわゆる立附袴。裾を紐で膝下でくくりつけて、下部が脚絆という組み合わせにしたもので、これも袴の一種である。「カルサン」と区別なしに使われることがある。この記述の立附は、『峯均筆記』のカルサンと同じとみてよかろう。
C――そういうことだね。『江海風帆草』では、下も上も南蛮ファッションでキメているわけだ(笑)。ちなみに、カルサンが冬の作業着として残ったように、立附の季語は冬である。したがって、季節の衣装合せとしては、肥後系伝記の初夏よりは、『峯均筆記』のいう初冬の方が妥当である。
A――すると、肥後系伝説の初夏という季節は、立附では季語が合わない(笑)。
C――かくして、筑前系『峯均筆記』の伝説では、武蔵の衣装は小袖に袷の重ね着、下はカルサンである。たぶん小次郎も同じ。これに対し肥後系伝記では、襷や鉢巻という『峯均筆記』にない小物が登場するが、それよりも注目されるのは、『武公伝』の割註に、「武公が皮の立附を着すというのは間違いか。定員が云う、ある人は白皮の袴を着すといい、岩流(との仕合)の時に皮の袴を切られたという」とあって、後智恵でこの立附=カルサン着用説を否定していることだな。その代わりに出てくる語が「裳」という和語。
B――この裳は、袴をはいていたんだというのだろう。しかし裳は、腰に巻きつけるスカート状のもので、袴の類とは言いがたいのだが、それを武蔵が着用したというわけだ。それで、戦闘に及ぶとき、「裳を高くかかげ」という古典的な表現になる。この裳という語は雅語であるが、まあ後世の袴のイメージで書いているね。しかし、どうしても立附という冬の衣装を使いたくないようなのだな(笑)。
A――季節が合わないからねえ(笑)。
B――ようするに、肥後系でも最初は、武蔵が皮の立附を穿いていたという話があったのだろう。ところが、それだと季節が合わないとなって、訂正に及んだ。それでも小次郎には皮の立附を穿かせたままだから、季節の矛盾を露呈している。
C――それとだ、武蔵はカルサン(皮の立附)ではなく裳だという、肥後系伝説形成の時期では、もう南蛮ファッションの実感がなくて、和風ファッションに改竄されたという感じもあるね。(笑)。
A――襷に鉢巻だとか、いうし。
B――肥後系伝説のファッションは、どうも、慶長期のファッションではない。後世のものだ。
C――そうだろ。もう一つ、肥後系の伝説で注目されるのは、『武公伝』によれば、武蔵が舟で渡海のとき綿襖〔わたぶすま〕で身を覆い、伏せていたという記事だな。
B――これは綿衾、つまり柳田國男をもじって言えば「木綿以後の事」で、これは綿入夜具、もしくは掻巻みたいなものだったろう。とすれば、明らかに冬のファッションの伝説痕跡だな。もともと下関あたりでは、十月初冬が巌流島決闘の季節で、武蔵は綿入夜具をかぶって行ったことになっていたのが、こういう風に残存したということ。
A――それは当然ありうるな。伝説が変異しても、季節を無視して、説話要素の一端が姿を変えて残存する。
C――そう、まさにそれが一点。『武公伝』の綿衾、『二天記』ではただの「綿入」にしてしまって、意味が希薄になっているが、『武公伝』の綿衾――つまりの初冬の衣装の痕跡は残している。
A――『二天記』では四月というから初夏。なのに、綿入という初冬のファッション。これはどうしてなんだと。
B――部分的に変更したが、それで説話要素間に矛盾をきたしている。むろん、四月なら綿入でなくて、綿ぬきでなくては話は合わない(笑)。これは、『二天記』段階で勝手に季節を四月にしたが、綿入という初冬の説話要素は、そのまま残ってしまったということだな。
C――『武公伝』では、綿入どころか、綿衾だからね。ただし、それともう一つある。綿衾は、たんに身体を冷やさぬウインドブレーカーにしたということではなく、いわば神話的所作だね。つまり、瓊瓊杵尊、天孫降臨の際の真床襲衾(マドコオフスマ)の故事とは言わぬが、そんなミソロジカル(神話学的)なシーンがここに反響している。
B――折口(信夫)の説では、裳も真床襲衾だったというから、そうすると、『二天記』になると、『武公伝』の綿衾を、綿入と裳に分解した、ということだな。
C――ようするに、このシーンでは、真床襲衾にくるまれた武蔵は、あたかも幼児として降臨する神の如く、渡海してくる異人である(笑)。
B――そのような神話作用は、もちろん、アルカイックな古い説話素だ。つまり、肥後系伝説は、意味も分からず、この綿衾を被るというシーンを残存せしめた。渡海の際のウインドブレーカーなら、とくに不都合はないと、記者の検閲抑圧をまぬがれたものだろう。そこで偶然、こういう神話的要素が残ってしまった。
C――だろうね。この場面ができるということは、説話論的にいえば、伝説の定型へ到達してしまったということだ。新しくて、変形の著しい肥後系伝説にも、古い痕跡断片は残っているということでもある。
――ええと、お話の間に、決闘ファッションを整理してみました。ごらんください。
A――いつもながら、手回しのよいことですな(笑)。



九大付属図書館蔵
海峡の景 シーボルト『日本』


*【江海風帆草】
《武藏其日の装束ハ、繻子のぢはんを、こはぜがけにして着、五尺の棒に筋鉄を打て持之、宗入よりさきに嶋にわたりて、岩にこしかけて宗入をまつ》
《此時、宗入が刀のきつさき、武藏が立付の前腰をはらひて、はかまのまへ武蔵が膝に下がる》

*【丹治峯均筆記】
《辨之助ハ小次郎ヨリサキニ渡海セリ。コロハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ着シ、上ニヲキテ、カルサンヲ着シ、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木条右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リ手ゴロノ木ヲ、握リノ所ハ皮ヲヽシ削リテモテリ。舟嶋ノ濱辺ノ岩ニ腰掛、小太刀ヲヒザノ上ニ横タヘ、舟ノ櫂ハ右ノ方ニ、横ニ捨テヽ持、サシウツムキテ小次郎ヲ待居ラル》


南蛮屏風 神戸市立博物館蔵
南蛮屏風のポルトガル人兵士


*【兵法先師伝記】
《其日ニ至レバ、先師櫓ノ木ヲカタク削リノケ、櫓ノ刃ヲ以テ木刀ノ刃トシ、柄ノ所ヲ持ヨキ様ニ削リナシ、柄七寸、刃二尺五寸ニ拵ヘ、常ノ木刀ノ小太刀ヲ左ニ持、装束ハ、緋ムクノ下着ニ上ニ黒羽二重ノ衣裳ニ皮ノカルサンヲ着シ、緋純子ノ胴肩衣ニ上帯シテ大小ヲ指、小舟ニ乗リテ嶋ニ渡ラル》




岡山県美作市大原町 武蔵の里
宮本武蔵像の立付袴




*【武公伝】
《棹ヲ停テ淺汀ヲ渉ル事數十歩、武公帯ニ挿ム所ノ手巾ヲ以テ一重ノ鉢巻ニシ、袷衣ヲ着[武公皮ノ立附ヲ着ト云ハ非ナルカ。定員云、或人白皮ノ袴ヲ着ト云、岩流ガ時ニ皮ノハカマヲ切ト云々]、舟中ニテ紙線ヲ作テ襷トシ、其上ニ綿襖ヲ襲テ舟中ニ伏ス。(中略)襲所ノ綿襖ヲ脱、短刀ヲ差、裳ヲ高ク褰テ脛ヲ見〔現〕シ、木刀ヲ堤ゲ跣デ淺汀ヲ渉リ來リ》

*【二天記】
《武藏ハ絹ノ袷ヲ着テ、手拭ヲ帯ニハサミ、其ノ上ニ綿入ヲ着テ、小船ニ乗テ出ル。(中略)船中ニテ紙線ヲシテヲカケ、右ノ綿入ヲ覆テ伏ス。(中略)島ノ洲崎ニ船ヲ滞メテ、覆ヒタル處ノ綿入ヲ脱ギ、刀ハ船ニ置キ短刀ヲ差テ裳ヲ高クカヽゲ、彼木刀ヲ提ケ、素足ニテ船ヨリ下リ、淺汀ヲ渉ルコト数十歩、行々帯ニハサム手拭ニテ一重ノ鉢巻ス》






飛騨みやがわ考古民俗館蔵
掻 巻 大正期飛騨宮川村


*【折口信夫】
《天孫降臨の時、真床襲衾を被つて来られたとあるが、大嘗宮の衾も、此形式を執る為のものであると思ふ。今でも、伊勢大神宮に残つてゐるかも知れないが、伊勢の太神楽に、天蓋のあるのは、此意味である。尊い神聖な魂が、天皇に完全に著くまでは、日光にも、外気にも触れさせてはならない。外気に触れると、神聖味を失ふと考へてゐた。故に真床襲衾で、御身を御包みしたのである。その籠つてゐられる間に、復活せられた》
《真床襲衾に包まれて復活せられた事は、天皇の御系統にだけ、其記録がある。其中で物もお上りにならずに、物忌みをなされた。その習慣がなくなつて後、逆ににゝぎの命が、真床襲衾に包まつて、此国に降り、此地で復活なされたのだと考へて来た。我々は、宮廷で、真床襲衾を度々お使ひになるので、天上から持つて降られたものと思ふが、其は、逆に考へ直す方が、正しいのである》
《もといふ語は、腰巻き又は、平安朝の女房たちの用ゐた裳と思はれてゐるが、ほんとうは紐のない、風呂敷の様な、大きな布で、真床襲衾と称した処のものである。もに籠るといふことは、衾に這入る事で、此間のものいみは、非常に広く、且厳重に行はれたもので、ものおもひと言うてゐる。後には、誤つた聯想から、服喪の意味に考へて来た》(古代人の思考の基礎)

  江海風帆草 峯均筆記 兵法先師伝記 武公伝 二天記
季 節 (記載なし) 十月 初冬 (記載なし) (記載なし) 四月 初夏
上衣 小鉤がけ
繻子のジバン
下に小袖、上に袷 緋むくの下着
黒羽二重の衣裳
緋緞子の胴肩衣
袷 衣 絹の袷
袴/裳 立 付 カルサン 皮のカルサン
小 物 ―― ―― ―― 襷と鉢巻 襷と鉢巻
襲 衾 ―― ―― ―― 綿 襖 綿 入
小次郎衣装 八徳(胴着)の下に
筒丸の具足(鎧)
カルサン (記述なし) 猩々緋袖無羽織
立 附
草 鞋
猩々緋袖無羽織
染革立附
ワラジ

C――では、武蔵の衣装についてはこれくらいにして、次に対戦相手のファッションへいこうか。
B――筑前系の伝説では、武蔵の相手のファッションは、『江海風帆草』だと「八徳の下に筒丸の具足」と、えらく古典的だな(笑)。「八徳」〔はっとく〕というのは胴着で、今日我々も着る羽織に似たもの。「十徳」というのもあるが、相違は明確ではない。これは法号をもつ者の僧体の略装で、むしろ医師や茶人や画家が着た。
C――それは、『江海風帆草』では、名前が「上田宗入」だというのと呼応しているな。
A――『江海風帆草』には『南方録』の立花実山が絡んでいるし、また昨日話題に出たように上田宗箇の話もあるから言うのではないが、名前が「宗入」で、八徳を着ているとなると、武蔵の相手は茶人ではないか、ということになりますな(笑)。
C――いや、それはあながち異な話ではなく、巌流は、「宗入」という道号をもつ、芸術的造詣の深い数寄者であったかもしれん。我々が「宗入」という名に注目するゆえんだ。
A――そのあたりは、従来の武蔵研究では、問題にされたことすらなかった(笑)。
C――それゆえ、我々の研究によって、別の、オルタナティヴな巌流像が可能になった。この線で、さらに史料が出ればよいがね。とにかく『江海風帆草』の伝説が、「宗入」という道号と八徳という衣装を、武蔵の相手に着せていることは、今後の武蔵伝説研究において無視できないポイントだろう。
B――このサイトでは、[武蔵美術篇]で「アーティスト武蔵」というタイトルを奉っているのだが(笑)、もうひとつ、「アーティスト巌流」という称号も必要かもしれんな。ところで、衣装の話の続きだが、八徳の下に着用している具足〔ぐそく〕は、ようするに鎧だ。「筒丸の具足」というからには、これは蝶番のない丸胴だね。これは戦闘用の武装だ。下は武蔵と同じ、立付だろうが。
A――八徳の下に鎧がみえるというのも、なかなか武蔵の相手、イメージは鮮明ですな。
B――武蔵の方は南蛮ファッション、宗入は渋い和風ファッション(笑)。この対照性は、武蔵が十八歳の若年、そして宗入がたぶん中年という年齢設定の相違だな。
C――だろうな。「武蔵は若年、巌流が中年」という対照的な構図だね。そして、これが巌流島決闘時のファッションの、最も早期の記述内容だというところを看過してはいかん。
B――そこで、芳虎筆の巌流島決闘の絵(宮本無三四佐々木岸柳仕合之圖)でも見ておくか。一孟斎歌川芳虎は幕末から明治にかけての画家だから、近代初頭の巌流島決闘像が知れる。


*【江海風帆草】
《宗入ハ、八徳の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる》



表千家不審庵蔵
利休居士像




東京都立図書館蔵
宮本無三四佐々木岸柳仕合之圖
一孟斎歌川芳虎筆


宮本無三四

佐々木岸柳
B――両者の衣装に注目すれば、幕末明治初期からイメージされておるから、むろん慶長期のファッションではないが、無三四・岸柳ともになかなか凝った意匠の衣装だな。
C――両方とも鎖帷子を着込んで、小袖に羽織。羽織を肩ぬぎにして腰にまとわす。無三四は立附かな、佐々木岸柳は袴だね。もちろん宮本無三四は若くてハンサム、白面の美男、対するに佐々木岸柳は中年のいかつい豪傑風だ(笑)。
B――これが『江海風帆草』の、武蔵の小鉤がけの繻子のジバンとか、宗入の八徳の下に筒丸の具足というものとは違うのは言うまでもない。だが、『江海風帆草』のファッションの方がよほど面白い。
A――武蔵の相手をごつい中年男にして、そんな渋いファッションを着用させた、巌流島決闘の映画を見たいものだが(笑)。それよりも、十八歳の武蔵に南蛮ファッションを派手に着せて、巌流に筒丸の具足に八徳という衣装を着せた像を、だれか巌流島にブッ建てろよ(笑)。
B――でないと、長州側の伝説が泣くぜ(笑)。だいたい、巌流島のある長州下関の連中が、九州肥後系のあやしい伝説に依拠した武蔵小次郎像を建てたというのが、間違いだぜ。
C――しかも、それが半世紀前の昔のことではなく、つい最近のことだ(笑)。ところで、『峯均筆記』では、小次郎にはカルサン以外に記述はないが、とくに別の記述がないところをみれば、これは武蔵と同じように、小袖に袷の重ね着、下はカルサンというファッションだろうね。
B――武蔵の衣装については、筑前系と肥後系の伝記の差異は対照的だったが、小次郎の衣装となると、その対照ぶりはもっと極端だな。『峯均筆記』は、小次郎の衣装についてカルサン着用しか記さないし、『兵法先師伝記』になると、小次郎の衣装など無視して何も書かない(笑)。ところが、肥後系伝記では、小次郎の衣装は、猩々緋袖無羽織、(染皮)立附、草鞋とあって、記述は具体化する。
A――しかし、肥後系伝記だと、武蔵のファッションは地味で、小次郎が派手ですな。
B――もともと環境設定がかなりちがうからね。小次郎の衣装は、殿様の御座船で来たという設定に合わせて、少しゴージャスにしたのかもしれない。小次郎の袖無羽織というのは、筑前系伝説にはない記事だが、袖無羽織とはたんに袖がない羽織というものではなく、戦陣で具足の上に着用した胴服で、戦場でのファッション。具足羽織ともいうが、おおむね袖無しだったので袖無羽織というわけだ。
A――筑前系の『江海風帆草』のいう八徳に対応するのが、この袖無羽織ですな。肥後系伝説では、具足着用の記事はないが、途中で消えたのかもしれん(笑)。
C――武蔵の南蛮ファッションが消えたようにね。さっきも話に出たように、同じ筑前系でも、後の『兵法先師伝記』だと、武蔵の衣装が緋むくの下着、上に黒羽二重の衣裳、緋緞子の胴肩衣に上帯して、という、緋色づくめのド派手なものになってしまうな(笑)。もちろんこんな話は『峯均筆記』の段階にはない。
A――『兵法先師伝記』は肥後系伝説の影響を受けている。小次郎の猩々緋の羽織に対抗して、こんな派手なファッションにしたのかな。
C――それもありそうだが、逆に古型ということもありうるね。しかし、肥後系『武公伝』の記述で問題なのは、小次郎のこの猩々緋の羽織が、《或云、立孝公ヨリ拝領也ト》という注記をもっていることだね。
B――これは大笑いだ。その細川立孝(1615〜1645)は、三斎が五十歳を過ぎて生した子で、とくに愛した息子だった。しかし、肥後系伝説の語るごとく巌流島決闘が、かりに慶長十七年(1612)の出来事だったとしても、彼はまだ生まれちゃおらん(笑)。生まれていない者から、どうして羽織を拝領するんだ。
C――いくら伝説でも、話はムチャだ(笑)。後の『二天記』はそれを検閲して、抹消しておる。と、思ったら、後日談にはやはり、「忠興公、忠利公、細川中務大輔立孝公も、岩流を厚く遇したまう」と出てくる。『二天記』の検閲は不十分なんだ(笑)。しかしこれは、肥後系伝説が活発に成長していたことを示す証拠だな。
A――その袖無羽織の色が、猩々緋〔しょうじょうひ〕であるというのは、ずいぶん派手なようだが。
C――猩々緋は色の名だが、猩々緋の陣羽織となると、これはもう成語でポピュラーなものだ。猩々緋の陣羽織というと素材まで含意されている。つまり、大羅紗の緋色の陣羽織だね。素材は羅紗だろうね。
A――その羅紗は毛織物で、これもポルトガル語(raxa)ですな。
B――もちろん、この猩々緋には能「猩々」への参照があり、そこでは猩々は赤ずくめの装束であるが、猩々の顔は酒に酔って赤いという含意があり、さらに、猩々を捕らえてその血を取って染めた色を猩々緋と呼ぶとの伝承の反響もある。だから、ここで登場する猩々緋という色には、単に派手だという以上に、おぞましい不吉な何かがある。いわば小次郎の衣装は、決闘の前にすでに血の色だ(笑)。
C――それともう一つは、たんに赤いというのではなく、威嚇的な色だね。おまえを血で真っ赤に染めてやる、という色だね。それに、説話論的記号としては、殿様細川三斎をバックにした小次郎の優位優勢を強調する色だ。
A――すると、小次郎が若年だから派手なファッション、というわけでもない。
C――猩々緋という色そのものには、若年というコノテーションはない。『武公伝』で猩々緋の袖無羽織が出てきた伝説段階でさえ、まだ小次郎は若年ではない。
B――ようするに、巌流島に立っておる小次郎像(二〇〇二年設置)は、本来の伝説の姿ではない。昭和になって流布した「吉川武蔵」や戦後の「村上小次郎」で捏造されたイメージだ。しかも、小次郎十八歳説は『二天記』に書いてあるなどという間違った話がある。それは本文にはない記事で、わずかに注記に記入された異説だということすら忘れられている。
C――しかし、舟島で死んだ中年のオッサン豪傑・巌流も、まさか自分がこんな美少年になるとは、夢にも思わなかっただろうよ(笑)。
A――いま存在する小次郎像は、どれもこれも前髪の少年姿。これだけ増えてくると、もうお手上げだ(笑)。







巌流島の武蔵小次郎像
2002〜03年 設置





*【丹治峯均筆記】
《小次郎ハ小舟ニ乘、家頼一人、水主一人ニテ漕渡ル。コレモカルサンヲ着シ、仕込劔ノ木刀ヲ杖ニツキテ立テリ》


*【武公伝】
《小次郎ハ猩々緋ノ袖無羽織[或云、立孝公ヨリ拝領也ト]ニ立附ヲ着、草鞋ヲ履》

*【二天記】
《小次郎ハ猩々緋ノ袖ナシ羽織ニ、染革ノ立附ヲ着シ、ワラジヲ履ミ》





*【兵法先師伝記】
《其日ニ至レバ、先師櫓ノ木ヲカタク削リノケ、櫓ノ刃ヲ以テ木刀ノ刃トシ、柄ノ所ヲ持ヨキ様ニ削リナシ、柄七寸、刃二尺五寸ニ拵ヘ、常ノ木刀ノ小太刀ヲ左ニ持、装束ハ、緋ムクノ下着ニ上ニ黒羽二重ノ衣裳ニ皮ノカルサンヲ着シ、緋純子ノ胴肩衣ニ上帯シテ大小ヲ指、小舟ニ乗リテ嶋ニ渡ラル》


*【二天記】
《又勝負ノ時、一應小倉ニ到リ興長主ニ對シ禮謝シ可去事ナルニ、即日歸船スルコトノ速カナルヤ、定テ忠興公、忠利公、細川中務大輔立孝公モ、岩流ヲ厚ク遇シ給フ、是其御遺念ナクンバ有ルベカラズ。家士ノ中ニモ門弟有テ、恨ミヲ含ミ仇ト成ベシト、是等懼有テ敢テ不近》




猩々緋




能 猩々

巌流島
山口県下関市

吉香公園
山口県岩国市

一乗谷小次郎の里
福井県福井市

高善寺小次郎公園
福井県越前市





*【小倉碑文】
《爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ》

*【江海風帆草】
《武藏其日の装束ハ、繻子のぢはんを、こはぜがけにして着、五尺の棒に筋鉄を打て持之、宗入よりさきに嶋にわたりて、岩にこしかけて宗入をまつ》

*【丹治峯均筆記】
《辨之助ハ小次郎ヨリサキニ渡海セリ。コロハ十月ノ事ニテ、下ニハ小袖ヲ着シ、上ニ袷ヲキテ、カルサンヲ着シ、舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ、刃ノ方ニ二寸釘ヲアキマナク打込、握ノ所ニノコメヲ入レテ持[是、青木条右衛門製ト云傳フ]。小太刀ニハ、皮被リ手ゴロノ木ヲ、握ノ所ハ皮ヲヽシ削リテモテリ。舟嶋ノ濱辺ノ岩ニ腰掛、小太刀ヲヒザノ上ニ横タヘ、舟ノ櫂ハ右ノ方ニ、横ニ捨テヽ持、サシウツムキテ小次郎ヲ待居ラル》


*【武公伝】
鹽田濱之助ハ三斎公ヨリ五人扶持二十五石賜リ、捕手ノ師ナリ。武〔公〕ヲ一打撃テ見度願ニ附ナル程、相手ニナルベシトテ立合ケレドモ、濱之助一向木刀打出事カナワズ。捕手モ、武公座シタモウ一間ヨリ内ニ、足ヲ踏入タラバ武公ノ負タルベシトアリケレバ、濱之助大ニ怒テ業ヲナセドモ、一間ヨリ内ニ一寸モ入事ナラズ。濱之助、太甚感称シテ、武公ノ門弟トナレリ。捕手モ上手ナリシ故ニ、武公ノ弟子ニモ慣〔習〕ハセラレシト也。寺尾求馬ノ男合太兵衛[初、縫殿助、後、合太兵衛]健ナル故、求馬ヨリ教ヱラレシト也。二天一流ニ捕手棒ナド在ト云ハ、鹽田濱之助ガ餘流ナリ》






*【兵法先師伝記】
《其日ニ至レバ、先師櫓ノ木ヲカタク削リノケ、櫓ノ刃ヲ以テ木刀ノ刃トシ、柄ノ所ヲ持ヨキ様ニ削リナシ、柄七寸、刃二尺五寸ニ拵ヘ、常ノ木刀ノ小太刀ヲ左ニ持》


*【武公伝】
《武公漸ク起テ朝飯ヲ喰、太郎左衛門ニ乞テ、ヲ以テ木刀ヲ削リ出》

*【二天記】
《亭主ニ請テ、ヲ以テ木刀ヲ大キニ削ル》










*【本朝武藝小傳】
《或人の説に、武蔵巌流と仕相を約して舟島に赴く時、武蔵は棹のをれを船人に乞ひて、脇指を抜きて持つべき所をほそめ、船よりあがりて是を以て勝負をなす。巌流は物干ざほと名付けし三尺余の大刀を以て勝負をしたりと》

*【武将感状記】
《岸流ト云劔術者、下関ニ待テ、武藏ニシアヒヲセント云遣ス。武藏心得ヌトテ、悼郎ニ櫂ヲ請テ、二ツニワリ、手本ヲ削テ長キヲ二尺五寸、短ヲ一尺八寸ニシテ、舟ヨリ上リ、岸流ト相闘フ。岸流ガ刀ハ三尺餘リナリ》




上:櫂素材模造木剣 全長4尺2寸
下:武蔵拵模造太刀 全長3尺5寸




源平和船競争おしぐらんご
艪で漕ぐ


坂越浦 櫂伝馬
櫂で漕ぐ

C――では、ついでだから、道具の方も見ておくかい。巌流島決闘で使われた武器の話だ。
A――今日有名になっているところでは、武蔵はこの決闘のとき、舟の櫂を削ったものを木刀にして戦ったという話ですな。それが巌流島各伝説では実際にはどんな話になっているか。
B――そうだね、まず最も早い小倉碑文の記事によれば、岩流が「真剣で雌雄を決しようではないか」と云う。これに対し武蔵は、「あんたは白刃(真剣)を使ってくれ、おれは木戟(木刀)を使うから」と答えた。両人は堅く漆判の契約を結んだ。そして舟嶋で両雄相会し、岩流は三尺の白刄、命を顧みず術を尽くした。しかし武蔵は木剣の一撃で彼を殺した。その早いこと、電光さえも遅いほどであった。――という話のみだ。ここには、武蔵は木戟を使ったというが記されているだけ。
A――つまり、舟の櫂や艪で木刀を作ったという説話素は、小倉碑文ではまだ出現していない、ということを確認しておこう。
B――次に、筑前系の伝説を記す『江海風帆草』の記事が面白い。それによれば、五尺の棒に筋金を打て、という記事がある。これは刄の部分を鉄板で補強したもの、というよりも、筋ガネというから鉄筋で補強した棒で、鉄撮棒〔かなさいぼう〕の亞種だろう。
C――鬼に鉄棒だ(笑)。すると、これは棒術の武器で、むろん太刀とは違うが木刀とも違う。小倉碑文のいう「木戟」がどういうものを指しているか、よく考える必要がある。
A――小倉碑文の「木戟」という文字に注目して考察した例は、従来見あたらないが、これは単に木刀ではなく、棒杖術のように長い道具とみなすべきですな。しかし五尺棒となると、まったく既成のイメージとは違うぞ(笑)。
C――武蔵は剣術のみにあらず(笑)。「戟」となると、これは長い武器道具というイメージだ。武蔵は棒杖を使ったかもしれない。筑前の二天流では、武蔵用具の薙刀というものが伝わったらしいし、そもそも『峯均筆記』で、武蔵が愛用するのは、木刀ではなく五尺杖だぜ(笑)。武蔵が長い道具を使用しなかったとは云えまい。
A――武蔵の弟子に、武蔵流棒捕手術の塩田松斎(浜之助)という者もある。武蔵の流儀に棒術もあったことは肥後系伝記の云う通り。
B――武蔵と仕合って負けて弟子になったという塩田松斎は、しかし、慶安元年に七十余歳で歿というから、武蔵よりも七つ八つは年長。とすると、これはまさに高齢者同士の老人対戦だな(笑)。塩田が肥後ではじめて武蔵の弟子になったように肥後系伝記は書いているが、筑前系の『峯均筆記』の書きっぷりでは、塩田「浜之丞」は肥後以前からの弟子のようだ。そのあたり、伝説は紛糾しておる。
C――しかし肥後系伝記は、その棒術を塩田浜之助に帰しているが、これは棒杖術が正統じゃないことを強調しておるだけだ。ところが、『五輪書』の記述にある通り、武蔵は唯剣主義じゃないから、むしろ棒術・杖術のように長めの道具も用いたことは想定してよい。
A――『丹治峯均筆記』には、武蔵が五尺杖を使った話が再三出てきますな。
B――だから、『江海風帆草』のいう鉄筋五尺棒もあながち否定できないわけだ。それから、同じ筑前系の『峯均筆記』は、かなり具体的に武蔵の道具を記している。つまり、舟の櫂を長さ四尺に切って作ったもので、それだけではなく、刃の方に二寸釘を隙間なくぎっしり打ち込み、握りの所に(滑り留めに)鋸目を入れたものだというから、これは兇暴な道具だぜ(笑)。もう一つは、小太刀で、これは皮のついたままの手ごろの木の、握りの所だけ皮を削り取ったものである。つまり、『峯均筆記』では、武蔵は大小二つの道具を用意したという話だな。
A――それは『兵法先師伝記』でもほぼ同じでしたな。ただし、二寸釘を隙間なくびっしり打ち込んだという話はないが(笑)。
C――肥後系伝記では、武蔵の道具は木刀だとするが、これを舟の艪または櫂で作ったとする点も同じ。これらはどれも、小倉碑文の記事から発展した道具類だ。
B――どれも、武蔵が真剣を使ったという話はないから、これは小倉碑文の基本線は踏襲されているということだ。小倉碑文では、「岩流は真剣/武蔵は木戟」という対照性が強調されているだけ。すると、武蔵はいつも使い慣れた木戟を使った可能性が大きいが、どのあたりから、舟の櫂を材料にするという話になったか。それは、『江海風帆草』と『峯均筆記』の中間か。
C――ちょっと待った(笑)。そのあたりをもう少し分析してみたい。『峯均筆記』にはたしかに《舟ノ櫂ヲ長四尺ニ切リ》とあるが、それに釘を隙間なくぎっしり打ち込んで鉄撮棒みたいにしたものだから、たんに櫂を削り出したものではない。それに、小太刀に手ごろな皮付きの木を用いたとあるから、こちらは、櫂ではない。しかも、割註に《是、青木条右衛門製ト云傳フ》とも記す。
B――ふむ。弟子の青木条右衛門製作なら、これは巌流島決闘のときに作ったというよりも、前々から武蔵が持ち歩いていた木戟だ、ということにもなるな。
A――『峯均筆記』では、鉄撮棒みたいなものだから、材料の舟の櫂ということにまだ重点はおかれていないということ。
C――そうだね。すると『武藝小傳』だな、具体的にそれが出るのは。
B――ほぼ同時期の『武将感状記』にも同様の記事があるが、『武藝小傳』では、「ある人の説」として、舟島に舟で渡る時、武蔵は棹の折れを船人から貰い受けて、脇差を抜いて持つべき所を削って細め、それを使って戦ったという。それと、ここに例の、「巌流は、物干竿と名付けた三尺余の大刀を用いて、勝負をした」という話も出てくる。
A――そうすると、肥後系伝記二書『武公伝』『二天記』は、他にも『武藝小傳』を参照しているから、このあたりは『武藝小傳』から仕込んだ話ということになるようですな。
B――その可能性は高い。『武公伝』は、「太郎左衛門に乞うて、艪を以って木刀を削り出し」と、これを下関の問屋・小林太郎左衛門の家での話としている。これを見るかぎりでは、決闘後百年、生き残って八代にやってきた往時の舟人、小倉の商人・村屋勘八郎から聞いたような話になっているが。
C――肥後八代へ伝説をもたらした村屋勘八郎という媒体、メディアのポジションはもともと恠しいのだよ(笑)。太郎左衛門に舟の櫂あるいは艪をもらって木刀を作ったというのは、いかにも下関産のようだが、実は肥後で生成した説話素だろう。このソースは『武藝小傳』だろう。
B――『二天記』は『武公伝』をいろいろ改竄しているが、ここでも、『武公伝』に「艪」とあるのを、「櫂」に変えている。
A――艪と櫂とでは大違い(笑)。ただ、『武藝小傳』のいう「棹」というのは?
B――それは、物干竿みたいな竹の竿ではなく、櫂のことだ。ともあれ、たしかに艪と櫂とでは大違いだ。
C――そのように注目要素としての道具=武器が動くというのは、まだ生成途上にある新しい伝説だということだね。太郎左衛門から貰い受けたという話は、実は肥後産の伝説だろうというのは、そんなところからも知れる。
B――しかし、『武藝小傳』のいう「ある人」は、舟の棹を道具の素材にしておるが、それはどこに由来するんだ。このばあい、舟島→渡海→舟→棹、というようにアソシエーション(連想)は進む。「舟→棹」は「舟→艪」でもいいいし「舟→櫂」でもよい。そこからは恣意的だな。
C――ただし、そもそもの最初に、小倉碑文の「木戟」を「木棹」と読み違えてしまった可能性もある。そういう単純な過誤が伝説の発端になったかもしれん。それが、第一点。もう一つは、そういう「棹」のイメージを維持する舟の隠喩系列の存在だね。道具は舟に関係するものでなければならない。それが浮遊するシニフィアンの繋留点。そこで、武蔵が巌流を倒した木刀が、櫂あるいは艪で作ったものだという説話素の由来は、まさにこの伝説の場所、つまり海岸部という地域性を反映しているようだ。
B――それに関連して言えば、櫂が戦闘の武器として使用されたという伝統がある(笑)。水主〔かこ〕集団の戦闘には、彼らがいつも手にしている櫂が武器になる。これは、鎌や鉈や鉞など生産用具が農民の武器となったという事実と同じことだね。
A――鋤や鍬では無理だが、竹槍という手もあるな(笑)。もし巌流島でなくて、山中だったら、また別の素材になっただろう。
C――武蔵が巌流を倒した木戟が、説話論的レベルで流通するには、それが物神化されるという条件が不可欠だな。だが、そこには地域生活と縁の深い道具との関連性が織り込まれる。そのように物神化された木戟が、たんに木製ではなく、その素材が地域に縁の深い製品であらねばならぬのは、説話論的レベルでの作用だ。
A――巌流島は「舟島」。現在はずいぶん姿が変ってしまっているが、もとは舟みたいな形の島だったのだね。明治以後、かなり埋立られて変形してしまった。
B――明治期には島の面積は、五千坪くらい。今はどうかね、三万坪はあるだろう。鈴木商店が舟島を買って、埋立の権利を取得して、造船所をつくるとか、あれこれ弄り回したあげく、結局台湾銀行で倒産だ(笑)。あとは三菱が引取った。日本資本主義勃興期の傷痕なんだよ、いまの巌流島は。
C――舟みたいな形の島で、舟島。話をもどせば、同じ筑前系でも『江海風帆草』と『丹治峯均筆記』の道具記事には重要な差異があって、それは、前者の道具がまったく海岸部という地域性を反映していないことだ。『江海風帆草』は「海路記」でもある。とくに海に関わる文書である。海に縁の深い『江海風帆草』の記事において、武蔵の道具が舟の連想をもたないということは、重要なポイントだな。
A――とすれば、この点をどうみるかですな。
B――答えは明解だよ(笑)。武蔵の道具は、もともと舟の棹や艪や櫂を材料にしたものではなかった。それは、武蔵が常用していた木戟だった。しかもそれは、釘を打ちつけて武器として補強された撮棒のようなものだった。武蔵の道具は、『武藝小傳』あるいは肥後系伝説のいうような、水主の道具、櫂または艪とは何の関係もなかった。これは、後に伝説展開の過程で発生した説話素である。結論をいえば、そういうことだね。
A――艪と櫂とどちらが正しいか、などという議論がなされたことがあるが、そんな議論は前提が誤っているから無効である(笑)。
C――武蔵が道具を舟の櫂(艪)で木刀を作ったという説話素は、伝説としてはおもしろい。レヴィ=ストロース流にいえば、ブリコラージュの神話だな。『江海風帆草』の記事にはないから、おそらく十八世紀前期に海岸部民間伝承として出現したもので、それを武蔵伝記が取り込んだようだ。
B――『峯均筆記』が下関あたりの伝説を拾ったとき、武蔵が道具を舟の櫂で木刀を作ったというそんな話はもう出来ていた。ところが、『峯均筆記』はブリコラージュ神話の意味合いを意識していない。それよりも、道具の具体的記述に気が行っている。
A――同じように櫂を素材にして作ったと書きながら、書き手の把握の仕方が違うね。
C――『江海風帆草』だと、武蔵の道具は《五尺の棒に筋金をあて》、つまり鉄筋補強の五尺の棒。さらに、『峯均筆記』の話を聞いてみると、武蔵の道具は、やはりただの木刀ではなく、刃の方に二寸釘を隙間なく打ち込んだものというから、これはかなり凶暴な武器だな。二寸釘を隙間なく密に打ち込めるとなると、この木戟はかなり太いものだ。
B――改めて云えば、つまり、これはいわゆる鉄撮棒の一種。中世によくあった武器。七つ道具、つまり、鉈・鎌・熊手・槌・鋸・金撮棒・鉞の七種の武器の内に含まれる。かなり重いが膂力のある者なら使える道具だね。それと、もう一つ、武蔵は小太刀も用意していたという点も他とは異なる。この筑前系の『峯均筆記』では、武蔵は木刀でさえ、大小二刀流の道具立てだな。
A――あんがい、この皮付き小太刀には枝が生えていたりするかもしれしない(笑)。そうなるとこれが十手である。
C――巌流島決闘のときに使ったのと同じ形の木刀というのが、どこかに(八代・松井文庫)伝わっているが、これはただの木刀だ(笑)。言わば、筑前系伝説にある撮棒のアルカイックな魅力は失せている。
B――それで、『峯均筆記』によれば、武蔵は小次郎の到着を待っている。浜辺の岩に腰掛け、小太刀を膝の上に置き、舟の櫂(大太刀)は右の方、横に「捨てて」持っている。この「捨てる」というのは、手から離すのではなく、横に投げ出した恰好で手に持っているということだな。
C――そうして武蔵は、その恰好でじっとうつむいて待っている。このあたりは、イメージ喚起力があって、物語のディテールがよく出来ている。
    「武蔵はうつむいて、小次郎を待っている」
 しかしむろん、肥後系伝記では話が逆で、小次郎が待ちつかれるほど、武蔵は遅いのである(笑)。



舟島(巌流島)の原形





桟橋方向からみる巌流島



*【太平記】
《加様に人々自害しける其中に、篠塚伊賀守一人は、大手の一二の木戸無残押開て、只一人ぞ立たりける。降人に出る歟と見ればさは無て、紺糸の胄に、鍬形打たる甲の緒を縮め、四尺三寸有ける太刀に、八尺余りの金撮棒脇に挿て、大音揚て申けるは》(巻22 大館左馬助討死事付篠塚勇力事)

松井文庫蔵
武蔵が長岡寄之に献上した
という伝説の木刀 長四尺二寸


*【丹治峯均筆記】
《辨之助ハ小次郎ヨリサキニ渡海セリ。(中略)舟嶋ノ濱辺ノ岩ニ腰掛、小太刀ヲヒザノ上ニ横タヘ、舟ノ櫂ハ右ノ方ニ、横ニ捨テヽ持、サシウツムキテ小次郎ヲ待居ラル

*【武公伝】
《小次郎太(だ)マチツカレ、欠シ伸シスルニ及》
*【二天記】
《(小次郎は)甚タ待ツカレ》

  江海風帆草 丹治峯均筆記 兵法先師伝記 武公伝 二天記
武蔵の道具 鉄筋補強の五尺棒 櫂の木刀四尺
二寸釘打付
木皮付き小太刀
櫓の木刀
柄七寸刃二尺五寸
常の木刀小太刀
艪の木刀 櫂の木刀
相手の道具 三尺一寸の青江
木 刀
二尺七寸の青江
仕込剣木刀
三尺の青江 三尺の霜刃 三尺余の太刀
(備前長光の由)

――では、その小次郎の道具の話ですが、さきほど『武藝小傳』のお話にも出ましたように、物干竿という長大な剣、というのが今日通り相場なのですが。このあたりはいかがでしょう。
A――まず、小倉碑文だね。そこには「三尺の白刃」とある。これはわざわざ「三尺」と記している以上、長大な剣だという伝説が当初からあったことがわかる。これが巌流道具説の起点ですな。
B――『江海風帆草』が記す上田宗入の道具は、三尺一寸の青江の刀、さらにもう一つ木刀を手に提げている。つまり、宗入の道具は二つだな。『峯均筆記』の記事も同様だが、青江は二尺七寸、小次郎の木刀に関しては少し詳しくて、水車に振る秘術の話があり、これが無二の恐れたという仕込剣だな。
A――「青江の刀」と「木刀」の二種という点では、『江海風帆草』と『峯均筆記』は共通している。これが筑前系伝説の話。
C――違いを言えば、『江海風帆草』では、武蔵の道具が五尺棒のみであるのに対し、宗入の道具は青江の太刀と木刀の二つである。『峯均筆記』は、武蔵は大小二本の木刀、小次郎は青江の太刀と仕込剣の木刀の二つ。『江海風帆草』では、宗入が具足着用のいかめしい軍装で、道具も二種用意があるのに対し、武蔵の方は小鉤がけの繻子の襦袢というとヤワな装束で(笑)、道具も棒一本という身軽さ、という対照的構図。
B――その青江の刀に関して言えば、三尺一寸は長大だが、二尺七寸はやや長めという程度だな。したがって、武蔵が五尺の棒で宗入が三尺一寸の青江とする『江海風帆草』は、双方ともに長い道具を強調しているのに対し、『峯均筆記』は、武蔵が四尺の木刀で小次郎が二尺七寸の青江とするから、「長い道具」という点は、むしろ後退しておる(笑)。
C――したがって、ファリックな威力は後退しておる(笑)。『兵法先師伝記』だと、三尺の青江。
A――筑前系伝説のいう宗入=小次郎の道具である青江の刀。青江は申すまでもなく、平安期以来の有名な刀剣産地ですな。
B――ただし備前ではなく備中、現在なら岡山県倉敷市内である。鎌倉期には貞次、恒次、次家らを輩出した。ただ、宗入=小次郎の青江は伝説なので、名刀を使用したという以上の意味はないだろう。


*【小倉碑文】
《岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ》

*【江海風帆草】
《宗入ハ、八徳の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる。武藏が先にわたりたるを見て、何とかおもひけん、かの青江の刀をぬき、刀のさやを二に切て海にすて、木刀をも海になげ入、舟よりあがり、直に立合て戦ふ》

*【丹治峯均筆記】
《小次郎ハ小舟ニ乘、家頼一人、水主一人ニテ漕渡ル。コレモカルサンヲ着シ、仕込劔ノ木刀ヲ杖ニツキテ立テリ》
《小次郎、トツテ返シ、二尺七寸ノ青江ノ刀ヲ左右ニカケ、水車ニ打振リ、面モフラズ切カヽル。巖流ガ秘傳ノ太刀ニ、水車ニ振事ヲ專トス。仕込劔モ水車ニ振テ、敵間アタル度ニ、至テ劔ヲフリ出、手裡劔ノ如ク飛バシ、附入リテ木刀ニテ打ツクル事トイヘリ》

*【兵法先師伝記】
《津田小次郎ハ後レテ小舟ニ乗來リシニ、嶋ニ大勢ノ見物、殊ニ長岡ガ居タルヲ見テ、先師ノ助太刀スル人トヤ思ケン、嶋近クナルト、青江ノ三尺ナル刀ヲ拔テ、鞘ヲ切ヲリテ海ニハメ》
倉敷刀剣美術館蔵
青江太刀 銘貞次(南北朝期) 寸法:2尺3寸4分
京都国立博物館蔵
太刀 銘長光(鎌倉期) 寸法:2尺4寸7分




*【武公伝】
《小次郎ハ、猩々緋ノ袖無羽織[或云、立孝公ヨリ拝領也ト]ニ立附ヲ着、草履ヲ履、三尺ノ霜刃ヲ拔テ、鞘ヲ水中ニ投ゲ、水際ニ立テ武公ガ近クヲ迎フ》

*【二天記】
《小次郎ハ猩々緋ノ袖ナシ羽織ニ、染革ノ立附ヲ着シ、ワラジヲ履ミ、三尺餘ノ太刀ヲ帯ス[備前長光ノ由]》

















*【本朝武藝小傳】
《或人の説に、武蔵巌流と仕相を約して舟島に赴く時、武蔵は棹のをれを船人に乞ひて、脇指を抜きて持つべき所をほそめ、船よりあがりて是を以て勝負をなす。巌流は物干ざほと名付けし三尺余の大刀を以て勝負をしたりと》
C――これに対し、肥後系伝記には「青江」という記事はない。その代わりに『二天記』では、《三尺餘ノ太刀ヲ帯ス[備前長光ノ由]》と、割注にわざわざ「備前長光」の名を出す。
B――長光は鎌倉期の人、備前長船の刀工だな。長光は多数現存していて、国宝・重文も少なくない。室町期以来大名物になっていて、これは青江に劣らぬ有名な名刀の名を出しているということだな。しかも、無銘ながら備前長光が細川家に伝わったから、この肥後系伝説のネタは、だいたいそのあたりかもしれない。ただし、こちらは二尺四寸で、「三尺餘ノ太刀」ではない。伝説は要素複合的だな。
A――太刀の長さを問題にすれば、『峯均筆記』では、この青江が二尺七寸〔81cm〕という寸法ですな。しかも他がたとえば小倉碑文のように「三尺の白刃」というように概数を示して、長大な刀のイメージがあるのに対し、これはいかにも測ったような記事である。
C――どういうわけか、『峯均筆記』は、この刀が小倉の宮本伊織の家に伝わっているという記事を記す(笑)。とすれば小倉宮本家に「あのときの刀」がこれだとして伝わって、現にあったものが、二尺七寸だったのかもしれない。
A――それはどこへ消えたのか(笑)。
C――さあね、小倉宮本家の子孫は「あのときの刀」をどうしたんだろう、訊いてみれば(笑)。とにかく、下関の伝説ではそういうことだった。ところで、同じ筑前系の『江海風帆草』では、青江は青江だが、寸法は三尺一寸〔94cm〕と長い。つまり、こちらは「三尺の白刃」の路線だが、『二天記』の「三尺余」という記事と呼応するところがある。したがって、小次郎の長大な剣という説話素は、筑前系伝説にもあったということになる。
B――そこで『峯均筆記』がいう二尺七寸という寸法のことだがね、これでは大して長くないから、刃渡りがその寸法だという見方もあろうが、『江海風帆草』が三尺一寸と書いている以上、これだけが刃渡り寸法というわけにもいくまい。
C――『峯均筆記』の「二尺七寸」という異説はあるが、他はだいたい三尺という数字であるから、これは小倉碑文に発する「三尺の白刃」という伝説が流布したとみてよい。
A――『武藝小傳』は小倉碑文を識っていて、「物干ざほと名付けし三尺余の大刀」という伝聞を拾っている。この「物干竿」はどこからきたのか。
C――これは長州の伝説でなくとも、他国でも出来るはなしだ。
B――現代では背中に四尺ほどの太刀を背負った小次郎のスタイルが流布しているが、「三尺の白刃」はそれほどのものではない。
C――そうだね。『江海風帆草』には《三尺一寸の青江の刀をさし》とあって、これは腰に差すで、背に負うということではない。ただ、三尺の大刀を腰に差し、それを振り回すというからには、かなりの大男で大力の豪傑というイメージはあるね。
A――双方の道具の話が済んだところで、では、決闘現場周辺の話へ移りますかな。
B――筑前系では『江海風帆草』には見物がいたようなのだが、具体的な記述はない。ところが、『峯均筆記』によれば、この舟島で決闘があるというので、海上を往来する舟は碇を下ろし、貴となく賎となく見物が群集した、とする。
C――下関で決闘するのを断られたので、舟島でやることになったが、案の定、見物が群集してたいそうな騒ぎになっている、というところだろうね。
B――それで、門司城主何某の話は後まわしにして、この『峯均筆記』の記事に対し、肥後系の伝記ではまるで話が違う。そもそも、肥後系の伝記では、細川家の厳しい管理統制の下で、決闘が行なわれたことになっており、この二人への贔屓つまり加担も、遊覧つまり見物も、厳禁したとする。
A――何しろ肥後系の伝記では、舟島は「小倉の絶島」、我が家の庭先扱いだからね(笑)。
C――もちろん、小倉で禁止令を出しても、長州下関から見物に押し寄せるだろう、といった話ではない。決闘の環境設定がはじめから違っている。『峯均筆記』では、舞台は下関であって、小倉も細川の殿様もこの決闘に何の関係もない。筑前系と肥後系の伝説は、このように話が違う。
B――ところで、『峯均筆記』では「豊州門司の城主何某」がここで登場するね。門司城は古い城で、関門海峡の東端にあって、海峡を扼する重要な位置にある。豊前が細川領になって門司城は家老沼田氏の預かりとなった。『峯均筆記』はこの城主が、細川越中守殿家臣だが、姓名を失念したと書いているが、当時豊前は細川領、その門司城代は、いわゆる『沼田家記』に出てくる沼田延元(1572〜1624)だろうな。
A――この門司城主は弁之助(武蔵)と昵懇の者だという。それが家来を大勢召連れて舟島へやってきている。大身の槍を持たせ、(自身は)挟箱に腰をかけ、浜辺に居て見物する、という話ですな。
B――大身の槍とは、だいたい槍穂が長さ一尺以上のものをいう。二尺あるいは三尺という太刀に匹敵するものもあった。こんなに穂が長くなると重くて扱いにくいのだが、強力の者は平気で槍をふるったという。だから、そんな大身の槍がずらり並ぶと、それだけで威圧的だ。
C――『峯均筆記』のここの記述は、門司城主何某が「家頼大勢召連レ、大身ノ槍ヲ持セ」であり、この連中はたんに見物ではなく、軍隊が出動してきているという話だ。門司城主何某が腰をかけている挟箱は、具足や衣類身の回りの物などを入れて運ぶ箱で、棒を通して従者に担がせる。しかしここの記述は物語の定型だ。たとえば《槍・挟箱いかめしく》という「妹背山」の一節が聞こえそうだね(笑)。
A――さて、門司城主何某の一団は、武蔵の応援団で、しかも武装集団である。こうなると、興味深いのは、やはり肥後系伝説との相違ですな。
B――肥後系伝記では、武蔵はたった一人で小舟に乗って下関からやってくる。それに対し、小次郎の方は殿様の御座船でやってくるし、決闘場所は細川家が厳重に管理している。ところが、『峯均筆記』では、武蔵の方が門司城の武装集団を応援団にしているのだが、小次郎は、連れの家来一人だけ。
C――話は見事に正反対(笑)。そこで、筑前系伝説と肥後系伝説では、どうやら、物事の関係が逆になっているらしい、と見当がつく。つまり、筑前系伝説では、門司城主以下武蔵の味方が多いが、小次郎は単独行動。肥後系伝説では、武蔵は単独行動だが、小次郎は殿様の船で来るし、検使警固の者が島にいる。
B――それに、筑前系の『峯均筆記』が門司城主を出してくるのは、肥後系が長岡興長を武蔵関係者に据えるのと対比しうる。
C――ところが、『峯均筆記』が拾った長州下関の伝説のポイントは、門司城主そのものではなく、小次郎が孤立無援なのに対し、武蔵には豊前側の応援団がいるという対照的な構図なんだ。
A――ようするに、小次郎に心情的に加担する物語の痕跡がある。長州側からすれば、門司城はもともと毛利の城だった。それが、豊前に細川が入部して細川のものになって、目障りな対岸の城になってしまった。こういう伝説の心情的な背景もあって、門司城主何某が出演するわけだ。
C――その通りだ。長門と豊前の対立的対岸性が基本的な構図。長州側から語ると、地元の小次郎が孤立無援なのに対し、ストレンジャーの武蔵には向う側の応援団がいるという、不利な環境条件を強調するわけだね。
B――それは前に話が出た、『武藝小傳』が記している《中村守和曰、巌流、宮本武藏と仕相の事、昔日老翁の物語を聞しは》の話、「今日は渡海する人が多いけど、いったい何があるんだ」と巌流が船頭に問うという例の逸話だが、そこで、「宮本(武蔵)の与党がすごい数いるから、命は助かるまい。逃げなさい」と船頭が巌流に言うね。これはその長州の伝説の伝聞らしい。
A――時代は天明と下がるが、古松軒古川辰の『西遊雑記』にも同様の話がある。
B――地元の伝説ではこうだ、という書きっぷりだな、あれは。それと、これは実見していないが、岩流(剣術流派)の伝書に、こんな話もあるそうだ。――開祖・伊藤左近の弟子が、多田善右衛門だね。その多田善右衛門の弟・多田市郎が下関のあたりで、武蔵と試合して勝っちまった(笑)。それだけではなく、負けた武蔵は、門弟になった(笑)。
A――とんでもない展開だなあ。
B――しかし、武蔵の卑怯な謀計によって、のちに多田市郎は武蔵に殺された。岩流の伝説では、武蔵はまったくの敵役なんだな(笑)。
C――うん、ローカルな伝説では武蔵は敵役だが、岩流の伝説ではもっと極端だね。ただ、そういう伝説は、巌流島決闘以後あちこちで発生したということだ。そうして、武蔵に勝って武蔵に殺されたというこの多田市郎が、津田小次郎だと。
B――「ただ」(多田)が「つだ」(津田)になったという、そういう転訛コースもありうるな。
A――『峯均筆記』以前に、タダ・イチロー(多田市郎)は、すでにツダ・コジロー(津田小次郎)なっていた。
C――武蔵に勝ったが、武蔵に殺されたという多田市郎のこの伝説などは、極端かもしれないが、小次郎に心情的に加担する物語は、その種のものだね。ただし、『峯均筆記』の記事にあるのは、かろうじて残った物語の痕跡なんだ。伝説そのままではない。
A――すると、『峯均筆記』の記事は痕跡だけでも残しているが、他方、肥後系伝説となると、武蔵と小次郎の立場が逆になっている。これは、再組織された新しいパターンだということ。
B――だろうね。肥後系伝説だと、孤立無援なのは武蔵の方で、小次郎と立場を交換しておる(笑)。
C――説話論的交換だな。主役の場所を武蔵に与えているから、そうなった。


*【丹治峯均筆記】
《往來ノ舟、碇ヲヽロシ、貴トナク賎トナク、見物群集ス。豊州門司ノ城主何某[細川越中守殿家臣失姓名]、辨之助入魂ノ者ユヘ、家頼大勢召連レ、大身ノ槍ヲ持セ、挟箱ニ腰ヲカケ、濱辺ニ居テ見物ス》

*【武公伝】
《前日府中ニ令トシテ贔屓及ビ遊観ヲ禁止ス。其號令最モ嚴重ナリ》

*【二天記】
《前日府中ニ觸有テ、此度双方勝負ノ贔屓及遊覧ヲ禁止アリ。(中略)島ニハ檢使警固ノ者ヲ差シ渡サル。其ノ號令嚴重ナリ》







巌流島から門司城を望む


前田育徳会蔵
大身の槍
右:両鎬造 銘加州住藤嶋友重
左:両鎬造 銘金澤住藤原信友
ともに長2尺(60cm)




*【本朝武藝小傳】
《中村守和曰、巌流、宮本武藏と仕相の事、昔日老翁の物語を聞しは、既に其の期日に及て、貴賤見物のため舟島に渡海する事夥し。巌流も船場に至りて乗船す。巌流、渡守に告て曰、「今日の渡海甚し。いかなる事か在る」。渡守曰、「君不知や。今日は巌流と云兵法遣、宮本武藏と舟島にて仕相あり。此故に見物せんとて、未明より渡海ひきもきらず」と云。巌流が曰、「吾其の巌流也」。渡守驚(き)さゝやひて曰、「君巌流たらば此船を他方につくべし。早く他州に去り給ふべし。君の術~のごとしといふ共、宮本が黨甚だ多し。決して命を保(つ)ことあたはじ」。巌流曰、「汝が云ごとく、今日の仕相、吾生んことを欲せず。然といへ共、堅く仕相の事を約し、縦(ひ)死すとも約をたがふる事は勇士のせざる處也。吾必(ず)船島に死すべし。汝わが魂を祭て水をそゝぐべし。賤夫といへども其志を感ず」とて、懐中より鼻紙袋を取出して渡守に與ふ。渡守涙を流して其豪勇を感ず》

*【西遊雑記】
《岩龍武藏の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時、浦のものとも岩龍をとゝめ、「武蔵の助門人を数多引具し先達て渡れり。大勢に手なしといふ事有り一人にて叶ふまじ、今日はひらに御無用なり」といふ。岩龍が曰、「士は言さはまず、かたく約せしなれば、今日渡らさるは士の耻るところ也、若し大せいにて我を討は耻辱はかれにぞあるべけれ」といふて、おして島に渡る》


*【岩流略系統図】

○伊藤左近祐次―┐
┌―――――――┘
├多田三左衛門正藤―井上左衛門尉正重

├井上左兵衛

└多田善右衛門有閑┬多田市郎
         │
         ├香河信濃重常
         │
         └松田六郎左衛門


*【江海風帆草】
《宗入ハ、八徳〔胴着〕の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる。武藏が先にわたりたるを見て、何とかおもひけん、かの青江の刀をぬき、刀のさやを二に切て海にすて、木刀をも海になげ入、舟よりあがり、直に立合て戦ふ》

*【丹治峯均筆記】
《小次郎ハ小舟ニ乘、家頼一人、水主一人ニテ漕渡ル。コレモカルサンヲ着シ、仕込劔ノ木刀ヲ杖ニツキテ立テリ。舟島ヲ見掛、シリヘヲ顧テ家頼ニ何事カ申聞セ、彼ノ仕込劔ヲ取直シ、四ツ五ツ打振テ海底ニ抛チ、刀ヲ鞘共ニ抜出シ、スル/\トヌキ放チ、サヤヲ切折テ海ヱ抛捨、刀ヲ引キソバメテ舟ノツクヲ待ツ。是ハ、タトヒ辨之助ニ打勝タリトモ、大身ノ槍ヲモタセタル士、其分ニテハ遁ス間敷ト心ニカヽリシニヤ》



*【兵法先師伝記】
《又此時、小倉ノ城主細川越中守忠興侯ノ家臣長岡帯刀、上方ヨリ帰舩スルトテ、嶋ノ脇ヲ通舩セシニ、嶋ニ大勢人集タル故、何事ゾト問ニ、シカ/\ノ由ナレバ、舟ヲ寄テ見物セント嶋ニ上リ、鋏箱ニ腰カケ鎗ヲ立サセテ見居タリシ処ニ、津田小次郎ハ後レテ小舟ニ乗來リシニ、嶋ニ大勢ノ見物、殊ニ長岡ガ居タルヲ見テ、先師ノ助太刀スル人トヤ思ケン、嶋近クナルト、青江ノ三尺ナル刀ヲ拔テ、鞘ヲ切ヲリテ海ニハメ






















*【武公伝】
《(小次郎は)三尺ノ霜刃ヲ拔テ、鞘ヲ水中ニ投ゲ、水際ニ立テ武公ガ近クヲ迎フ。其時、武公水中ニ踏留テ笑テ曰、「小次郎負タリ。勝バ何ゾ其鞘ヲ捨ン」ト》

*【二天記】
《小次郎霜刀拔テ、鞘ヲ水中ニ投ジ、水際ニ立テ武藏ガ近ヅクヲ迎フ。時ニ武藏水中ニ踏留マリ、ニツコト笑テ云ク、「小次郎負タリ。勝バ何ゾ其鞘ヲ捨ン」》
















巌流島 佐々木巌流之碑
明治四三年(1910)建立
ただし伝説にある墓ではない
A――この視点からすれば、例の有名な、小次郎が太刀の鞘を捨てたというシーンも、再解釈が可能ですな。
B――それは、もともと話が違うわけよ。『江海風帆草』では、宗入は、三尺一寸の青江の刀を差し、もう一つ、木刀を手に提げている。そして武蔵が先に着いているのを見て、「何とか思ひけん」、かの青江の刀を抜き、刀の鞘を二つに切って海に捨て、木刀も海に投げ入れた。
A――宗入が捨てたのは、刀の鞘だけではない。木刀も捨てた。しかも、刀の鞘を二つに切って捨てた、というわけ。
B――それから、『峯均筆記』の方はそれより詳しい話。小次郎は小舟に乗ってやってくる。連れは家来一人だけで、他には水主〔漕ぎ手〕一人がいるだけだ。小次郎は舟で、仕込剣の木刀を杖について立っていた。仕込剣の記事は以前にあった。無二が恐れて仕合を避けたという、あの仕込剣だな。舟島が見えると、――と云うが、舟島は下関の目の前にあり、見えるも見えないもないのだが(笑)――、とにかく、舟島の間近に来ると、後を振り返って家来に何事か言い聞かせた。すると小次郎は、彼の仕込剣を取直して、四、五回打振って、それを海底へ抛り投げた。これは最強の武器であるはずなのだが、意外にも小次郎はそれを海へ投げ捨てたということだな。何か考えがあってのことだろう。しかし、こんどは、太刀を鞘とともに抽き出し、するすると刀を抜き放つ。そして、鞘を切り折って海へ抛り捨てたのだな。そうして小次郎は、抜き身の刀を脇に引き寄せて、浜へ着くのを待っている、という次第。
A――そして、注目すべきは以下の注釈の言。すなわち、これは、たとえ小次郎が武蔵に打ち勝ったとしても、大身の槍をもたせたあの武士たちは、そのままにしておれを逃がすはずがない、勝っても負けても命はない、そう思い込んだからであろうか…。
C――つまり、死んでしまえば、太刀を戻す鞘はもはや必要ない。これは、死を免れ得ないと覚悟した小次郎の、悲劇的な身振りである、というわけだね。これは、後継の『兵法先師伝記』でも基本的に同じ。武蔵の味方と思われる「長岡帯刀」が、鎗を立たせて、そこにいるという状況だからね。
B――先ほどの『武藝小傳』の話によれば、船頭が巌流に言う、「あなたが巌流ならば、この舟をよそへ着ける。早く他国へ行ってしまいなさい。あなたの術が神の如くであっても、宮本の仲間がすごく多勢いるから、決して命はない」と。つまり、舟島へ行くのは自殺的行為だ、止めたほうがいいという忠告だ。巌流が言うには、「おまえの言うように、今日の試合、おれは生き残りたいとは思っていない。堅く試合の契約をしたのだ。たとえ自分が死ぬとしても、契約に違反することは勇士のしないことだ。おれは必ず舟島で死ぬだろう。おまえ、おれの魂を祭って水を注いでくれ。賎夫とはいえ、おまえの志に感じた」と、懐中から鼻紙袋を取り出して渡守(船頭)に与えた。船頭はその豪勇に感動し涙を流した――というような話だね。
C――余談で蛇足になるようだが、ここでいう「鼻紙袋」を、財布だと勘違いしないように(笑)。巌流が感激して、金を財布ごとくれてやった、ということじゃない。
B――鼻紙袋は、後に紙入れといって財布と同じになったが、もとは具足の胴に着けるポシェットである。薬や小物などを入れた。これもポルトガル人のもたらした輸入文化の産物である。身に着けて離さない鼻紙袋を他人にくれてやるという行為は、刀の鞘を捨てるのと同じ意味あいだ。おれは死ぬと決まった、ということだな。
A――巌流は自殺的行為だと解っていて、舟島へ渡る。まさに悲劇のヒーローなんだ。
C――そして重要なポイントは、伝説の当初の意味づけでは、武蔵の相手・巌流、あるいは宗入=小次郎が、刀の鞘を切って捨て、仕込剣の木刀も海へ捨てるという振舞いは、悲劇的身振りだった、ということだ。
A――そこまで話が来れば、肥後系伝記二書が、どれほど伝説の意味内容を改竄したか、それが判明する。
C――肥後系伝記でも同じく、小次郎は太刀の鞘を捨てる。その理由を示唆する記事はないが、武蔵が挑発して言う言葉、「小次郎負けたり。勝たば何ぞその鞘を捨てん」という有名な科白がある部分は、二次的説話素で、新解釈の所産だよ。これでは、小次郎は何の考えもなしに鞘を捨てた阿呆だよ(笑)。
A――実際を考えれば、長剣ならその鞘は、戦う時じゃまになる。鞘を大事に手に持ったまま戦う阿呆はいない。
B――だから、「小次郎、そなたの負けだ。勝つもりなら、どうして鞘を捨てるんだよ」というこの科白だが、それなら、小次郎はこう切り返せばよい、――「何を言うか、バカめ。その鞘は、おまえをブッ殺してから拾うよ」(笑)。
A――「そんなに、この長いじゃまな鞘をおれに持たせておきたいのか」(笑)。
C――戦いの前の口合戦で、そういう切り返しが可能なように、ようするに、有名なこの場面の科白は考えが足りない。どうして、こんな中途半端な応酬になかったというと、それは、肥後系伝記が伝説原型を忘失してしまっているからだ。
A――つまり、下関周辺の伝説原型では、小次郎は、たんに鞘を捨てたのではなくて、鞘を切り折って、そして捨てた。もはや死を覚悟してのことだ。
B――肥後系伝記は、その「鞘を切り折って」という肝腎な所作を捨ててしまっておる。「切り折って」という所作を温存していると、「小次郎、そなたの負けだ。勝つもりなら、どうして鞘を捨てるんだ」という科白も発生しようがない。
C――鞘を切り折って捨てたのは、もとは、たとえ武蔵に勝っても自分の命はない、と小次郎が覚悟して、仕合に臨んだという悲劇的場面が原型だ。肥後系伝記では、小次郎の所作の意味を改竄して、逆に間抜けなものに反転してしまった。
A――たとえ武蔵に勝っても自分の命はない、と小次郎が覚悟して、というのは明らかに、後に『武藝小傳』や『西遊雑記』の収録した伝説のように、巌流に同情的な説話だったということですな。
B――言い換えれば、舟島を「武蔵」島ではなく「巌流」島と呼ぶようになった、下関あたりの世情であり伝承なんだ。それに、太刀の鞘を切り折って捨てるという悲劇的身振りが『江海風帆草』にみえるとすれば、判官贔屓というか、敗者への心情的加担は早期に形成されていたものらしい。
C――本当はね、「小次郎負けたり。勝たば、何ぞその鞘を捨てん」なんてことは、武蔵に言われるまでもないことだ(笑)。「勝たば、何ぞその鞘を捨てん」は、しかし、勝っても命がない自殺的行為を覚悟した小次郎の、悲劇的身振りを称える言葉であったはずだ。ところが、肥後系伝説は意味をまったく変換して、悲劇的な身振りを滑稽なものにしてしまった。
A――それにしても、この太刀の鞘を捨てるという身振りについて、ほとんど間抜けな議論がこれまで多かったですなあ(笑)。
B――明治末の顕彰会本『宮本武蔵』を通じて、『二天記』の記事内容が有名になって、肥後系伝記の「小次郎負けたり。勝たば、何ぞその鞘を捨てん」という意味づけが普遍流通してしまったからね。「武蔵が小次郎を挑発して、動揺させた」という珍解釈が無数に生産されてきた。しかも、これを『五輪書』の記述と関連づけたりする。まったくひどい事態が続いてきたんだ(笑)。
C――言えることはね、「小次郎負けたり。勝たば、何ぞその鞘を捨てん」なんて科白は、武蔵は決して吐かなかっただろう(笑)、ということだ。ただし、小次郎も自分の鞘を切り折ったりはしなかっただろう。それは敗者のための伝説の中で生じた、シンボリックな身振りなんだ。
B――そこで、取扱い注意なのは、小次郎は群集から嘲笑されたという『峯均筆記』の記事だね。
A――小次郎は舟から下りる時、飛び下り損ねて笑われた、という例の場面ですな。
C――『江海風帆草』だと、宗入は舟から太刀の鞘と木刀を海へ捨てたという話の後、舟から上がってすぐさま仕合開始となるが、『峯均筆記』では、試合開始前に若干エピソードを拾っている。群集から嘲笑される小次郎というのがそれだね。
B――磯が近くなると、小次郎は(たぶん恰好よく)舟の舷を踏んで飛んだ。しかし飛び損ねて両膝をついた。そのぶざまに、見物の群集は一同に笑った――。どうも『峯均筆記』では、小次郎は徹底して愚弄される者らしい。
C――しかも、それだけではなく、例の門司城主何某にも罵倒される。
B――小次郎は刀を脇に引き寄せ(というのは、すでに抜刀して鞘を捨てたから、抜き身であるため)、門司城主何某の前に行き、「あなたはどういう人であって、ここに居られるのか」と咎めた。これは当然だろう。この男が率いる武装集団は明らかに武蔵の与党、応援団だ。何某が云う、「おれは弁之助と親しい者である。今日その方との勝負を見物のため渡海した。その方にはまったく関心のない者だ。血に酔うたのか、うろたえ者」と、散々に罵った。
C――つまり、小次郎は武蔵の応援団に抗議した。すると、門司城主は、おれはたんに見物に来たんだ。《曽テ其方ニ搆ナキ者ナリ》、おまえをどうこうするつもりは全くない。おまえに抗議される覚えはない、というところだな。これも小次郎に対する説話上の愚弄だろ。
A――「血に酔うたのか、うろたえ者」というのは、科白が利いている。『兵法先師伝記』の方は、門司城主何某ではなく、「長岡帯刀」という名だけど。
B――長岡帯刀は直之だから、もともと時代が合わないが(笑)、小次郎の抗議対象という点では、同じポジションの役割だな。
C――小次郎は見物の群集に笑いものにされ、武蔵の応援団長に罵倒される。しかし、嘲笑され罵倒される情けない小次郎、というこの場面は、言うまでもなく説話論的反転を経たものだ。つまり順序としては、小次郎贔屓の悲劇としての説話原型があって、それが、こういう愚弄場面へ反転されたということだね。
B――同情から愚弄への反転は、さらに進めば、やがて敵役「佐々木巌流」という演劇や読本の敵討巌流島物を帰結することになる。そこでは巌流は敵討の対象となり、憎悪されるべき存在になる。この「佐々木巌流」の出現は、当初の悲劇の英雄像からすれば、まったく対極のイメージなのだが、説話論的展開ではそうした対象の価値反転は容易に生じる。
A――行路難、水にしもあらず山にしもあらず、ただ人情反覆の間にあり。人情ほど当てにならないものはない(笑)。それは我々の今日の社会でも日常的に見られる現象ですな。ヒーローとしてもてはやされた人物があっという間に悪役になる。
B――そういうこと。話をもどせば、嘲笑され罵倒される情けない小次郎というシーンの説話原型は、応援団を背景にして、すでに勝ち誇った武蔵が待つところへ小次郎が突進する、という《self-destructive》(自滅的=自殺的)な行為だ。いうまでもなく、それは小次郎を悲劇の主人公にする物語なんだからね。
C――その悲劇的英雄と、笑いものにされるこの情けなくも惨めな小次郎、という対極的な構図を媒介するものは何か。ここは、犠牲の山羊、スケープゴートの論理が機能している。前にあったように、小次郎の連れは家来一人だけで、他には水主一人がいるだけ。そういう孤立無援なかっこうで現場に登場だ。ここには見物の群集が必要で、いわば全員を敵にしてスケープゴートになる。それが皆に嘲笑され罵倒される情けない小次郎の本質だな。
B――スケープゴートの論理は、いずれにしても両義的だ。小次郎は悲劇の主人公から愚弄される存在へ反転する。しかし、こんな愚弄のエピソードは肥後系の伝記にはない。むしろ立場は逆になっておる。遅れてきたのは武蔵であり、また罵倒するのは小次郎の方だ。
A――「おれは先に来ていたぞ。おまえはどうして遅れてきたのだ。おやおや、おまえ、さては気おくれしたか」と。武蔵は聞こえないふりをして答えない。その後で、小次郎が鞘を捨てて、云々という話になる。
B――『峯均筆記』の伝説は「武蔵が先に到着した」とするが、小次郎が見物に笑われるというエピソードが盛り込まれたうえ、《散々ニ悪口ス》、つまり「小次郎を罵倒する」主語は、門司城主何某の役割り。これに対し肥後系の伝説では、「小次郎が先に到着した」「小次郎が罵倒する」という設定で、どちらも主語が小次郎へ転換している。その代わりに、武蔵は罵倒するのではなく、「小次郎負けたり」と挑発して小次郎を怒らせるという次第。
C――ここで注意すべきは、武蔵と小次郎、どちらが先に到着して相手を待っていたか、ということだね。
    「武蔵が先に到着して、小次郎を待つ」
    「小次郎が先に到着して、武蔵を待つ」
もとより、古型は前者だが、先に到着して相手を待つほうが、応援団もいて有利な条件にある。悲劇的な原型では、絶対的不利を承知で小次郎がそこへ突入するという自殺的行為。『峯均筆記』の記事では、その構図はそのままにしておいて、悲劇的主体を嘲笑される滑稽な主体へと変換している。一方、肥後系伝記は、構図をまったく反転して、(応援団を背景にして、すでに勝ち誇った武蔵が待つところへ、小次郎が突進するという)自滅的=自殺的な行為を、武蔵の方へ振ってしまう。それが、「小次郎が先に到着して、武蔵を待つ」という構図だね。
B――もともと小次郎のものであった自殺的ポジションを、武蔵の方へ転換することによって、行為の意味を換骨奪胎して、当初の自滅的行動の悲劇性を完全に抹消したというわけだ。
A――武蔵は小次郎をイヤというほど待たせる、という設定は肥後系のみにある。これも、「小次郎が先に到着して、武蔵を待つ」という構図からの発展ですな。
B――肥後系伝説が、伝説古型の意味をまったく反転して、新しい物語にしてしまったのは、この、「武蔵は小次郎を嫌というほど待たせる」という説話素でもわかる。
C――ただし、『峯均筆記』の伝説内容は、肥後系伝記の記事よりも古型だが、それにしても物語化はかなり進んでいる。つまり、小次郎に一通り間抜けなことをさせて、それからついに武蔵登場ということにする。
B――それまで、岩に腰かけ、うつむいていたが、この問答の間に立上り、櫂で白砂を二三回左右へ打ち払い、「どうした、小次郎。弁之助はここにおるぞ」と言葉をかけた。場面外にいた武蔵が突然登場してくる。
C――前に出た、武蔵がうつむいて待っているという姿とともに、この場面展開はよくできておる。説話としてコナれている、と云うべきだよ。それだけに、この巌流島伝説は、肥後系とは異なる線で成長した物語だと見るべきだな。




*【江海風帆草】
《宗入ハ、八徳〔胴着〕の下に筒丸の具足を着、三尺一寸の青江の刀をさし、木刀を手に持、小舟に乗、をしわたる。武藏が先にわたりたるを見て、何とかおもひけん、かの青江の刀をぬき、刀のさやを二に切て海にすて、木刀をも海になげ入、舟よりあがり、直に立合て戦ふ

*【丹治峯均筆記】
《既ニ礒近クナルト、(小次郎は)舷ヲ蹈テ飛ビ揚ル。飛ビ損ジテ両膝ヲツク。見物ノ群集一同ニ笑フ。小次郎、刀ヲ引キソバメ、城主何某ガ前ニ行キ、「イカナル人ナレバ此所ニハ居ラルヽゾ」トヽガム。何某ガ云、「我等ハ辨之助ト親キ者也。今日其方トノ勝負ヲ見物ノ為渡海ス。曽テ其方ニ搆ナキ者ナリ。血ニ酔タルカ、狼狽者」ト、散々ニ悪口ス。夫マデモ辨之助ハ、岩ニ腰カケ、サシウツムキテ居ラレシガ、問答ノ内ニ立アガリ、櫂ヲ以テ白砂ヲ二ツ三ツ左右ヱ打拂ヒ、「如何、小次郎。辨之助ハ是ニアルゾ」ト言葉ヲカケラル》

*【兵法先師伝記】
《嶋近クナルト、青江ノ三尺ナル刀ヲ拔テ、鞘ヲ切ヲリテ海ニハメ、舟ツクト、アユミヲカケテ揚ルトキ、ツマヅキテ倒レケレバ、諸人ワツト笑フ。小次郎赤面シテ、直ニ帯刀ガ前ヘ行、「相手向ノ勝負ニ、助太刀ハ無用也」トアラ丶カニ云。帯刀打笑テ、「我等ハ長岡帯刀ト云者、聞及モアラン。今日通舩ノ折柄、各試闘アルヲ聞キ、見物ニ上リタリ。夫ニカマヒナキ者也。弁之助ハアレニ居タリ」ト云ヘバ、小次郎太刀打振/\、先師ノ方ヘ向フ》









巌流島現況




巌流島整備事業
2003年完成








*【武公伝】
《小次郎太マチツカレ、欠シ伸シスルニ及、武公來テ遥ニ見、憤然トシ進デ水際ニ立テ云、「我ハ斯ニ先達テ來レリ。汝何ゾ遲ツカルヽヤ。アヽ汝後レタリ」ト。武公黙然トシ不答、不聞ガ如シ。襲所ノ綿襖ヲ脱、短刀ヲ差、裳ヲ高ク褰テ脛ヲ見シ、木刀ヲ堤ゲ跣デ淺汀ヲ渉リ來リ。小次郎ハ、猩々緋ノ袖無羽織[或云、立孝公ヨリ拝領也ト]ニ立附ヲ着、草履ヲ履、三尺ノ霜刃ヲ拔テ、鞘ヲ水中ニ投ゲ、水際ニ立テ武公ガ近クヲ迎フ。其時、武公水中ニ踏留テ笑テ曰、「小次郎負タリ。勝バ何ゾ其鞘ヲ捨ン」ト。小次郎倍怒テ、武公近ヅクト齊ク、先其眉間ヲ打》

*【二天記】
《甚タ待ツカレ、武藏ガ來ルヲハルカニ見、憤然トシテ進テ水際ニ立チ云、「我ハ斯ニ先達テ來レリ。汝何ゾ遲々スルヤ。吁汝後レタルカ」。武藏默然トシテ不答、聞カザルガ如シ。小次郎霜刀拔テ、鞘ヲ水中ニ投ジ、水際ニ立テ武藏ガ近ヅクヲ迎フ。時ニ武藏水中ニ踏留マリ、ニツコト笑テ云ク、「小次郎負タリ。勝バ何ゾ其鞘ヲ捨ン」。小次郎u憤テ、武藏ガ相近ヅクト齊ク、刀ヲ眞甲ニ振上、武藏ガ眉間ヲ打ツ》

*【江海風帆草】
《武藏が先にわたりたるを見て、何とかおもひけん、かの青江の刀をぬき、刀のさやを二に切て海にすて、木刀をも海になげ入、舟よりあがり、直に立合て戦ふ。宗入、むさしがすそをはらふ、武藏のびあがりて、棒にて宗入が頭を一打に打倒す。此時、宗入が刀のきつさき、武藏が立付の前腰をはらひて、はかまのまへ武蔵が膝に下がる。武藏立所をうごかず、宗入又立あがらんとするを、又同ジく頭を打て、即時に打殺す》

*【丹治峯均筆記】
《夫マデモ辨之助ハ、岩ニ腰カケ、サシウツムキテ居ラレシガ、問答ノ内ニ立アガリ、櫂ヲ以テ白砂ヲ二ツ三ツ左右ヱ打拂ヒ、「如何、小次郎。辨之助ハ是ニアルゾ」ト、言葉ヲ懸ラル。小次郎、トツテ返シ、二尺七寸ノ青江ノ刀ヲ左右ニカケ、水車ニ打振リ、面モフラズ切カヽル。巖流ガ秘傳ノ太刀ニ、水車ニ振事ヲ專トス。仕込劔モ水車ニ振テ、敵間アタル度ニ、至ツテ劔ヲフリ出、手裡劔ノ如ク飛バシ、附入リテ木刀ニテ打ツクル事トイヘリ。辨之助モ舟ノ櫂ヲ右脇ノ位ニ搆ヱ、相カヽリニカヽリ、双方アタル度ニ、辨之助、櫂ヲ下ヨリ振上テ打込ミ、小次郎モ刀ヲ水車ヨリ直ニ切込、互ニアタル。サレ共小次郎ガ刀、手ノ裡マハリテ、平ヲ以テ辨之助ガ左ノ平首ヲウツ。辨之助ガ木刀ハ、小次郎ガ頭ニアタリ、タジ/\ト二三間シサリテ、尻居ニドウト臥ス。辨之助、二ノ目ヲ打ント立ヨル所ヲ、小次郎フツト起アガリ、両膝ヲツキナガラ、横ニ拂フ。辨之助ガヽルサンノ前ヲハラリト切放テ、カルサン前ニ垂ル。辨之助、二ノ目ヲ又シタヽカニ打ツ。大力ノ然モ舟ノ櫂ノシタヽカナルヲ以テ、同ジツボヲ二ツ迄打タル故、頭クダケテヒレ臥セリ》

*【兵法先師伝記】
《其時先師ハ岩ニ腰カケ、フラ/\ト睡リ居ラレシヲ、見物ノ内ヨリ、「弁之助、小次郎ガ參リタルゾ」ト聲ヲ掛レバ、先師クワツト目ヲ開キ、岩ニ腰カケナガラ、木刀ヲ以テ濱砂ヲ三度左右ヘ打拂ヒ、スツト立テ、木刀ヲ右脇ニ提ゲ[今表ノ五ツメノ位ト云]、スル/\ト掛ラル。小次郎ハ巌流ノ水車トカヤ云太刀筋ニテ、耳ノハタニテクルリ/\トマワシ、掛合渡相ニ成ト、小次郎打込ト見ヘシガ、先師ハ木刀ヲ振上ゲテ小次郎ガ眉間ヲシタ丶カニ打レシニ、櫓ノ刃立タルヲ以テ打レシ故、忽ニ打割ラレテタヂ/\トシサル処ヲ、又木刀ヲアゲテ同ジ坪ヲ打レシカバ、小次郎アヲノケニ倒ル。先師トヾメヲ打ントヨラレシ時、小次郎倒レナガラ切拂ヒシガ、切先ニテ先師ノカルサンノ前ヲ切落シケレ共、身ニハ當ラズ、刀右ヘヌケタル処ヲ、蹈込テ頭ヲ打割》


*【武公伝】
《小次郎倍怒テ、武公近ヅクト齊ク、先其眉間ヲ打。武公ガ鉢巻ノ締目切レテ割落ツ。同(く)武公所打ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リテ、立所ニ僵テ、武公木刀ヲ堤テ暫ク立、亦振上テ打タントス。小次郎臥ナガラ打払フ。武公ガ褰タル袷衣ノ裾ノ膝ノ上ニ垂タル所ヲ、參寸許剪リ落ス。同(く)武公ガ木刀、小次良ガ脇下ノ横骨ヲ打折テ、即チ氣絶ス》

*【二天記】
《小次郎u憤テ、武藏ガ相近ヅクト齊ク、刀ヲ眞甲ニ振上、武藏ガ眉間ヲ打ツ。武藏同ク撃處ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リ立所ニ仆ル。初メ小次郎ガ打シ太刀ノ切先、武藏ガ鉢巻ノ結目ニアタリテヤ、手拭分リ落ツ。武藏木刀提ゲテ少ク立チ、又振上テ撃タントス。小次郎伏ナガラ横ニ払フ。武藏ガ袷ノ膝ノ上ニ垂レタルヲ、三寸許リ切サキヌ。武藏ガ撃處ノ木刀、小次郎ガ脇腹横骨ヲ撃折テ、即チ氣絶ス。口鼻ヨリ血流レ出ヅ》

*【小倉碑文】
《凡そ十三より壯年迄兵術の勝負六十余場、一として勝たざる無し。且つ定て云く、敵の眉八字の間を打たずば勝を取らずと。毎〔つね〕に其の的を違はず》
C――たとえば『江海風帆草』にない要素が、『峯均筆記』では多く出現している。決闘記事も『江海風帆草』は極めて簡潔なものだが、『峯均筆記』ではかなりの増補がみられる。
B――『峯均筆記』では、それまで小次郎を待ってうつむいていた武蔵が「小次郎、おれはここにいるぞ」と声をかけ、それで試合開始だ。しかし、巌流の秘伝の太刀に、水車に振る事を第一とする。仕込剣も水車に振って、敵合当たる度に、激しく剣を振り出し、手裡剣の如く飛ばし、つけ入っては木刀で打ちつける事と云う、――などという解説が入る。
A――『江海風帆草』では、宗入が船から岸に上がると、直ちに勝負がはじまる。
C――そうだね。『江海風帆草』では、まず《宗入、武藏が裾をなぐり払ひければ》とある。「なぐる」は殴るではなく薙ぐるで、横に払って切ること。宗入が脚を狙って横に払った剣を、武蔵は飛び上がってかわし、第一撃で宗入の頭を打って倒す。そのとき宗入の剣が武蔵の立付の前を切り裂いた。武蔵の第二撃は、起上がる宗入の頭をもう一度打つ。これで宗入は絶命。これも基本的には『峯均筆記』も同様だが、内容は大きく膨らんでいる。
B――それを読むと、小次郎が切ってかかると武蔵も舟の櫂を右脇の位に搆え、激しく攻撃し合い双方当たる度に、武蔵は櫂を下から振り上げて打込み、小次郎も刀を水車からまっすぐに切込む。と、互に当たった。されども小次郎の刀は手の裡が回転して、平(刃の側面)で武蔵の左の平首(首側面)を打つ。武蔵の木刀は、小次郎の頭部に当たり、小次郎はたじたじと二三間〔四〜五m〕後退して、尻からどうと倒れた。武蔵が第二撃を打たんと立寄るところを、小次郎、ふっと起きあがり、両膝をついたまま刀を横に払う。武蔵のカルサンの前部をハラリと切り放って、カルサンが前へ垂れた。武蔵の第二撃は強打。大力で、しかも舟の櫂の強固なもので、同じツボを二度も打ったので、小次郎の頭は砕けて、ひれ臥すように前のめりに倒れた――という次第だな。
C――そのように、内容の増補はかなり大きい。言うならば、『江海風帆草』と『峯均筆記』の間の数十年のあいだに説話化が進んだのだが、どこがどう膨らんだかは一目瞭然だろう。
A――もう一度流れをフォローすれば、武蔵が声をかけたので、小次郎は武蔵の方へ取って返す。いよいよ対戦で、小次郎が切りかかる。先ほどの話の繰返しになるが、ここで説話の手順として、小次郎の戦法解説が入るね。
C――小次郎の技は「水車」であるという。イメージとしては、大太刀を威勢よくブンブン回転させるようだが、必ずしもそういうものではない。『兵法先師伝記』の語るように、耳の脇でくるりくるり回すというのでもない(笑)。
B――長刀のケースもそうだが、水車は返し技に意味がある。つまり太刀を前方から後へ振り返す。このとき相手の脛や胴を切る。胴をすっぱり切断するのが車切り。これは『太平記』にある。ともあれ、水車は切り返し技だから、たいていの巌流島の記事は、武蔵の下半身の着衣が切られたことになっている。
A――俗にいう小次郎の「燕返し」にも根拠はあるわけだ(笑)。『峯均筆記』ではこれにとどまらず、仕込剣も水車に振って、敵合当たる度に、激しく剣を振り出し、手裡剣の如く飛ばし、つけ入っては木刀で打ちつける――という記事がある。
B――そこで、無二が恐れたという例の仕込剣が出てくる。これで、仕込剣がどう使われるか、わかる。つまり、仕込剣は剣が飛び出す仕掛けだから、間合いが遠くても、これが振り出す剣で攻撃できる。それは手裏剣のように飛び出す。間合いが詰まると、仕込剣は木刀として機能する。
A――遠近両用の武器なのである(笑)。
B――その仕込剣の振り出しのとき、水車の技を使う。仕込剣は不意に飛び出すから効果があるのであって、ブンブン振り回すものではない。そんな馬鹿げたイメージになってしまうのは、水車という技を誤解するからである(笑)。
C――かたや、肥後系伝記では、小次郎の第一撃は武蔵の眉間を襲う。それが武蔵の鉢巻の結び目を切断した。これは上段から一気に太刀を振り下ろすものであろうが、これも水車云々の話からすると、少し変じゃないかな。水車の秘技を繰り出す前に、見せ掛けの前技がヒットしてしまったということになるが(笑)。どうかね。
B――それとも、肥後系では水車云々の話はまったく出ないから、別系統の剣法であるのか。
C――だとすれば、筑前系伝説と肥後系伝説では、小次郎の剣法それ自体が違うということは、念頭においていたほうがよい(笑)。
B――眉間を打つというのは、《敵の眉八字の間を打たずば勝を取らず》という小倉碑文の記事からすれば、これは武蔵の戦法。肥後系伝説は内容に乏しいだけではなく、戦闘場面も案外あやしい。
A――小次郎が仕懸けて、武蔵も応戦する。巌流島伝説の記述はどれも、いかにも観てきたような話であるが、ここは一通り読んでおきますかな。
C――まず小倉碑文は、最初期の武蔵伝記で、これは記事がもっともシンプルだ。後世のもののような講談咄になっていない。次に比較的簡潔なのは、『江海風帆草』と『武将感状記』だが、この二書の特徴は、武蔵を飛び上がらせていることである(笑)。
B――ただし、『江海風帆草』のは異本だね。我々の参照本だと、「とびあがり」ではなく、「のびあがり」だ。「のびあがり」が「とびあがり」と派手になった。
C――後のものほど派手になる(笑)。ともあれ、武蔵は相手が横に払う太刀をかわして、飛び上がったことになる。しかしこれは、武蔵の立付あるいは皮袴が切られたという説話素に刺激されての発展形だろうな。ジャンプすれば無防備になるから、飛びあがることはありえない。これは、第一打で倒された小次郎が、膝をついたまま太刀を横に払ったという『峯均筆記』の方が尤もらしい。
A――これで見ると明らかなように、『江海風帆草』では小次郎の打ちは、一回しかない。
B――そこに注目すべきだな。『峯均筆記』では、武蔵の打ちが二回であるのは、他と同じ。ともあれ、『江海風帆草』と『武将感状記』が『峯均筆記』の記事と共通するのは、宗入もしくは岸流の頭部への致死的打撃、そして横に払った太刀で武蔵の立付あるいは皮袴が切られたことだ。この二つは基本的な説話素であったらしい。
C――ただし、両者に比すれば、『峯均筆記』の内容はかなり完備され「充実」してしまっている(笑)。また繰返しになるが、もう一度読んでおくかね。
B――よろしい(笑)。武蔵も舟の櫂を右脇の位に搆え、激しく攻撃し合い、双方当たる度に、武蔵は櫂を下から振り上げて打込み、小次郎も刀を水車からまっすぐに切込む――というのが攻撃の応酬。さてこの場面で、右脇の位に構えて、ということは、これはどうやら、参照元が『五輪書』水之巻にいう「右脇の構え」のようだな。右の脇に横に構えて、相手が打ち懸かるのに応じて、我が太刀を右下の横から斜かいに上段に振上げ、そして上からドカッと打つわけだ。
A――小次郎も刀を水車からまっすぐに切込む。すると、互に相手に当たった。ところが、どうしたものか、小次郎の刀は、手の裡が回転してしまって、刃ではなく平(ひら・刃の側面)で、武蔵の左の平首(首側面)を打つ。これに対し、武蔵の木刀は小次郎の頭部に当たった。小次郎は、タジタジと二三間後退して、尻からどうと倒れた――。
B――あっという間の出来事で分析している暇も隙もあるまいが(笑)、ここまでで勝負あったというところだな。小次郎の剣は武蔵の首をすっ飛ばすはずだったが、まさに手元が狂って平打ちしてしまった。これと同時に上段からブチ込んだ武蔵の木刀が、小次郎の頭をヒットした。
A――打撃は同時だが、武蔵の攻め勝ちである。
B――小次郎が尻もちをついて倒れたので、すぐさま武蔵が二の目(第二撃)を打とうと近寄る瞬間、小次郎はふっと起きあがり、両膝をついたまま刀を横に払う。しかし小次郎が間合いをわずかに把握できなかったらしく、太刀は武蔵の胴を切断せず、ただ武蔵のカルサン(短袴)の前の部分をハラリと切り放って、カルサンが前へ垂れた。
A――武蔵の二の目(第二撃)は強打。足立たず低い位置にある小次郎の頭を、武蔵の大力で、しかも舟の櫂で作った強固な木刀(釘がびっしり打込んである)で、同じツボを二度まで打ったので、頭は砕けて、小次郎はひれ臥すように前のめりに倒れた…。
C――こうみると、かなり具体的な状況報告である。たぶん『峯均筆記』の伝説がいちばん詳しいだろう。しかし内容が具体的あればあるほど、他の伝説と話が違ってくるのも、おのおの根幹から分岐した説話だからだろう。



*【小倉碑文】
《岩流三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏木刄の一撃を以て之を殺す。電光猶遅し》

*【江海風帆草】
《宗入、むさしがすそをはらふ、武藏のびあがりて、棒にて宗入が頭を一打に打倒す。此時、宗入が刀のきつさき、武藏が立付の前腰をはらひて、はかまのまへ武蔵が膝に下がる。武藏立所をうごかず、宗入又立あがらんとするを、又同ジく頭を打て、即時に打殺す》
(異本)《宗入、武藏が裾をなぐり払ひければ、武藏飛びあがりて、彼棒にて宗入が頭を打つて打倒す》

*【武将感状記】
《武藏二刀ヲ組テカヽレバ、岸流拝打ニ斬処ヲ、ウケハヅシテ其ノ頭ヲ打ニ、岸流身ヲフリテ左ノ肩ニ中ル。其ノ勢ニフミ込テ、横ニ払フ。武藏足ヲ縮テ飛アガレバ皮袴ノ裾三寸バカリ切テ落タリ。武藏全力ヲ出シテ打之ニ、頭微塵ニ砕テ、即坐ニ死ス。岸流ガ墓ヲ築テ今ニ其跡アリ》

*【丹治峯均筆記】
《小次郎、トツテ返シ、二尺七寸ノ青江ノ刀ヲ左右ニカケ、水車ニ打振リ、面モフラズ切カヽル。巖流ガ秘傳ノ太刀ニ、水車ニ振事ヲ專トス。仕込劔モ水車ニ振テ、敵間アタル度ニ、至ツテ劔ヲフリ出、手裡劔ノ如ク飛バシ、附入リテ木刀ニテ打ツクル事トイヘリ。辨之助モ舟之櫂ヲ右脇ノ位ニ搆ヱ、相カヽリニカヽリ、双方アタル度ニ、辨之助、櫂ヲ下ヨリ振上テ打込ミ、小次郎モ刀ヲ水車ヨリ直ニ切込、互ニアタル。サレ共小次郎ガ刀、手ノ裡マハリテ、平ヲ以テ辨之助ガ左ノ平首ヲウツ。辨之助ガ木刀ハ、小次郎ガ頭ニアタリ、タジ/\ト二三間シサリテ、尻居ニドウト臥ス。辨之助、二ノ目ヲ打ント立ヨル所ヲ、小次郎フツト起アガリ、両膝ヲツキナガラ、横ニ拂フ。辨之助ガヽルサンノ前ヲハラリト切放テ、カルサン前ニ垂ル。辨之助、二ノ目ヲ又シタヽカニ打ツ。大力ノ然モ舟ノ櫂ノシタヽカナルヲ以テ、同ジツボヲ二ツ迄打タル故、頭クダケテヒレ臥セリ》
  峯均筆記 江海風帆草 武将感状記 武公伝・二天記
小次郎第一撃 武蔵の首 平打ち 武蔵の裾を払う 拝み打ちに斬る 武蔵の眉間 鉢巻はらり
武蔵第一撃 頭部打撃 頭部打撃 頭部 かわされて肩 小次郎の頭部
小次郎第二撃 膝をついたまま
横に払う
―― 踏込んで横に払う 倒れたまま横に払う
武蔵飛躍 ―― 飛びあがる
(第一撃)
飛びあがる
(第二撃)
――
着衣切除部分 カルサンの前部
(第二撃)
立付の前腰
(第1撃)
皮袴の裾三寸
ばかり(第二撃)
たくしあげた袷の裾
三寸ばかり(第二撃)
武蔵第二撃 小次郎頭部粉砕 頭部打撃
即時に打殺す
頭部粉砕
即座に死す
脇下横骨打折
即気絶



*【武公伝】
《小次郎倍怒テ、武公近ヅクト齊ク、先其眉間ヲ打。武公ガ鉢巻ノ締目切レテ割落ツ。同(く)武公所打ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リテ、立所ニ僵テ、武公木刀ヲ堤テ暫ク立、亦振上テ打タントス。小次郎臥ナガラ打払フ。武公ガ褰タル袷衣ノ裾ノ膝ノ上ニ垂タル所ヲ、參寸許剪リ落ス。同(く)武公ガ木刀、小次良ガ脇下ノ横骨ヲ打折テ、即チ氣絶ス》

*【二天記】
《小次郎u憤テ、武藏ガ相近ヅクト齊ク、刀ヲ眞甲ニ振上、武藏ガ眉間ヲ打ツ。武藏同ク撃處ノ木刀、小次郎ガ頭ニ中リ立所ニ仆ル。初メ小次郎ガ打シ太刀ノ切先、武藏ガ鉢巻ノ結目ニアタリテヤ、手拭分リ落ツ。武藏木刀提ゲテ少ク立チ、又振上テ撃タントス。小次郎伏ナガラ横ニ払フ。武藏ガ袷ノ膝ノ上ニ垂レタルヲ、三寸許リ切サキヌ。武藏ガ撃處ノ木刀、小次郎ガ脇腹横骨ヲ撃折テ、即チ氣絶ス。口鼻ヨリ血流レ出ヅ》
A――次に『武公伝』『二天記』の肥後系の伝説をみると、最初から違っている。
B――まず、小次郎の第一打は武蔵の眉間を打つ。すると、武蔵の鉢巻がハラリと切れて落ちる――。まったく講談調になっているが、これは明らかに、武蔵のカルサン(立付)が切られて前に垂れたという説話素を変形して反復しておる。むろん、肥後系伝説以外には見当たらない記事だな。
A――だいたい、武蔵が前結びの鉢巻をしておるのが、おかしいのだよ(笑)。
C――このとき、武蔵の第一撃は小次郎の頭を打つ。武蔵も小次郎も同時に相手の頭を攻撃したことになる。頭を打撃され倒れた小次郎が横に払い、武蔵の袷の裾を三寸ばかり切り落とす――。これは『峯均筆記』と共通する説話素だが、切られたのはカルサンではなく、袷の裾である。
B――というのも、そもそも肥後系伝説では、武蔵はカルサンや立付など短袴の類は着していなかった。袷の裾をたくしあげているという恰好だ。立付(染革立附)を穿いているのは小次郎の方なんだな。
C――第三点。『峯均筆記』など筑前系伝説では、小次郎にとって致命的な、武蔵の第二撃は、頭部への再度の打撃。これに対し肥後系の伝説では、脇下の横骨を打折る打撃だ。これで小次郎は気絶するが、しばらくして、武蔵が小次郎の口鼻に手を当て、死活を確認したという。
B――ただし、このディテールは意図的な曖昧化で、小次郎が絶命したか否かは不明だな。また、肥後系伝説では、頭を粉砕したなどという露骨な表現が回避されただけでなく、脇下の横骨を打折り悶絶させたとする方へ変形された、ということだ。
C――まあ、一見して明らかなように、原型となった説話素のいくつかは変形されながら保全されている。それらを抽出して、巌流島決闘伝説の祖形を再構成してみることができるだろう。それは別の研究作業において実施される。
A――ここで改めて確認しておくべきことは、『峯均筆記』と肥後系伝記二書が示すのは、双方ともかなり成長した伝説で、しかも大きく違う内容をもつに至っていることですな。
C――ただし言うまでもないことだが、『峯均筆記』と肥後系伝記のどちらが史実に近いか、などという問題は、問題の設定自体に錯誤がある。いずれもすでに史実を争うような段階の記事ではない。我々は武蔵伝説の発生と成長を確認しうるだけなんだ。
A――そもそも小倉碑文には、《武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し》という記事しかないのが、ここまで話が増殖具体化したということだ(笑)。
C――そうして、まだ話がある(笑)。小次郎を倒した後、武蔵はどうしたか。『峯均筆記』によれば、ここは巌流島秘話ともいうべき内容が示されるね。
A――武蔵はまず、穿いていたカルサン(短袴)を脱ぎ捨てたという。これが面白い話ですな。
B――ここは『峯均筆記』の独壇場。というのも、まずは「ボタン」という語が原文に出てくる。「カルサン」がポルトガル語なら、この「ボタン」もポルトガル語。今日でもボタンは、衣類についているアレである。「カルサンのボタン」は外来語そのままの用語法だね。カルサンを脱ぐにはボタンを外さなければならない。着脱がボタンに関わるとは、やはりカルサンは立附袴とは違っていたわけだ。
C――カルサンを脱ぐとは、ズボンを脱ぐようなもので、――しかしこの「ズボン」はフランス語ときているから、話がややこしくなる。まあ、それでも、小次郎を倒した武蔵が、一番にやったことはカルサンを脱ぐことだった、というのが面白い。
A――では、なぜ、武蔵は下半身に穿いていたカルサンを脱いだのか。どうして、そんな、現代の視線からすれば――奇妙な行動をしたのか。
C――それには理由があるわけだね。ひとつは、カルサンが切られて前に垂れてしまった。それがじゃまなので脱ぎ捨てた。もうひとつは、この対戦で、小次郎が武蔵に与えた損傷が何か、それを明示すること。小次郎の太刀は武蔵が穿いていたカルサンを切った。しかし、それだけだったと。
B――ようするに、小次郎はカルサンを切っただけだと。見物の注目は、小次郎の太刀が武蔵を切ったかどうかだが、それ見ろ、おれの下半身には何の負傷もないぞ、と。それを、袷の尻をつまんで裾をまくって、見物に明示した(笑)。
A――下半身前部を露出して、ですな(笑)。そこで、『峯均筆記』が述べるのは秘話。つまり、ここで語られるのは、それははげしい一瞬の場面のことだったので、だれもその場でそれを見届けるなどできなかった。ところが実は、小次郎の太刀は平打ちながら、出血するほど武蔵の首を打っていた。武蔵は下着の襟を出して傷を隠した、という秘密の話なんだ。
C――それゆえ、明示はそのまま隠蔽である(笑)。『兵法先師伝記』もそれを踏襲しているが、武蔵は自身の首の出血を見せないよう、裾をまくって衆人の視線を下半身の方へ逸らせた。とすれば、下半身の負傷なきを見物に明示した武蔵の行為は、隠蔽として機能する。
A――なるほど、このあたり、筑前系の『峯均筆記』や『兵法先師伝記』が語る記事は、なかなかよく練れておりますな。
B――こうした「だれも知らないはずの秘話」とは、実は公然の秘密であって、知らぬ者がないという種類の秘話(笑)。これが伝説の語りの中で、人の耳をそば立たせる効果を生むというのは、それこそ、語り物の伝統の中で用いられる常套手段だな。
C――言い換えれば、『峯均筆記』の伝説は十分に説話化が進んでいる。そこから、さながら小説のような場面を刻印しているのも当然で、上述の、武蔵は小次郎の到着を待つあいだ、じっとうつむいているというシーンもその例だが、ここでも、
  《下着ノ襟ヲ出シ、疵ヲ隠サレタリトカヤ》
といような絶妙の呼吸を示しているね。こういうところからすれば、武蔵はかろうじて勝った、と伝説は強調したいところだ。そこで、この秘話のポジションは、巌流島の近辺で語り伝えられた伝説、つまり小次郎に心情的に加担する伝説を祖形にしているのは明らかだね。
B――つまりだ、小次郎は武蔵に敗れたが、それでも武蔵の平首を打った。少しだけ手元が狂っただけで、もう少しのところで武蔵の首が飛ぶところだった。――かくして、小次郎はほとんど武蔵にひけをとらぬ達人として、まさに「記憶」に残され「記念」されることになる。
A――こういう秘話は、事実に対する伝説のクリティシズム、批評だ。つまり、小次郎が武蔵に負けたという事実に対する、一種のプロテストですな。
C――あるいはまた、「負けたけれど、決して負けなかった」という否認の身振りだね。祖形となった伝説では、小次郎は長門の国人、地元の人間。これが異人・宮本武蔵に対し善戦したことは、どうしても強調すべき要点なんだ。
A――それに対し『峯均筆記』は、そういう地元の伝説を拾っておきながら、『今昔物語』ふうの《とかや》という微妙な語り口で、それを変形しているところがある。
C――ところが他方、すでに見たように『武公伝』『二天記』という肥後系伝記では、こんな武蔵の首から出血していたというディテールはない。その代わりに、武蔵の頭部を打った小次郎の太刀は、武蔵の鉢巻を切り落とした、という変形を示す。これも、すんでのところで武蔵は危なかったというわけだが、少し文脈がちがう。
B――つまり、小次郎は強かった、しかし武蔵はそれ以上に強かった、という話なので、これは小次郎ではなく武蔵を称揚する方に重心がある。ようするに、『峯均筆記』が地元小次郎伝説の痕跡を濃厚に残しているのに対し、肥後系伝記では、そういう痕跡は一掃されているわけだ。


南蛮屏風 神戸市立博物館蔵
南蛮屏風のカルサン
ボタンがついていた


*【丹治峯均筆記】
《辨之助、二ノ目ヲ又シタヽカニ打ツ。大力ノ然モ舟ノ櫂ノシタヽカナルヲ以テ、同ジツボヲ二ツ迄打タル故、頭クダケテヒレ臥セリ。辨之助ハカルサンノボタンヲ外シ、カルサンヲカナグリ捨テ、尻ヲツミマヒテ高クカヽゲ、小次郎ガ刀ヲモ取リ、舟ノ柱ニ打マタガリテ漕戻ル。ハジメカルサンヲ切ラセタル事ハ、諸人見及ユヘ、高クカヽゲ、平首ニアタリタルハ、ハゲシキ場ユヘ見届ケタル者ナシ。太刀ガ平打ナガラ、シタヽカニ打タルニヨリ、血モ少ハ流シヲ、下着ノ襟ヲ出シ、疵ヲ隠サレタリトカヤ》


*【兵法先師伝記】
《先ニ小次郎ガ打タル太刀、先師ノ肩ニ打込、四五分モ切ケレ共、先師兵意ヲ以テ、小次郎ガ面ヲサシテ木刀ヲ揚ラレシ故、小次郎ガ身後ロヘノリテ打シ故、切事ナシ。少シノ事ナガラ血流レケルヲ、緋ムクノ下着ノエリニテ隠サレシ故、見物人是ヲ知ラザリケルトゾ。カルサンノ前切落シタルハ、人ノ見タル事ナレバ、片手ニ裾ヲアゲ、舟ニノリ帰ラレケル》















米国議会図書館蔵
伊能大図 舟島記載あり
A――その武蔵の負傷という件では、肥後系伝記に、おかしな話がある。後に武蔵が肥後熊本に住むようになってからのことか、ある年の正月三日の晩、御謡初めの時のこと、備頭の志水伯耆が武蔵に閉口させられたという話ですな。
B――それは、小説家が好んで引き合いに出す逸話だな。重臣志水伯耆が武蔵に、京都で吉岡清十郎との対戦のとき、吉岡が先に武蔵を打ったと聞いたが、それはどうなんだ、と尋ねた。すると武蔵は、何も答えず、ズンと立って燭台をつかんで、志水伯耆の前に座って言う、「私は幼少の時、頭に疥癬(はす)ができて、月代を剃ると見苦しいから、惣髪にしてきた。清十郎との仕合の時、彼は真剣で自分は木刀だった。清十郎が先に打ったというなら、あっちは真剣である、当然、疵痕が残っているはず。刀傷があるか、ようく見なされ」といって、左手に燭台をもち、右手で自分の髪をかきわけて、頭を伯耆の顔に突きつけた。伯耆は、武蔵に気圧されて、のけぞって、「疵痕は見あたらない」。「しっかりご覧なさい」と武蔵。伯耆が「なるほど、とくと見届けた」というと、武蔵は直に立上り、燭台を元のところへ戻し、自分も元の座について、髪をかきなでて、自若としている。一座の諸士は、手に汗を握って息を詰め、一人も鼻息をする者がなかった。「伯耆殿一生の不覚なり」と、そのころ批判があったということだ――という話を、『武公伝』が記している。ところが、『二天記』では、話はまったく同じで、この対戦相手だけが違って、吉岡清十郎が岩流になってしまっている(笑)。









御花畠(細川忠利の居館)復元模型
【武公伝】
或年正月參日、御謡初ノ晩、御備頭衆ヲ初トシテ着座衆何レモ列座ニテ、武公モ其席ニアリ。御矩式未始ニ何カト打話ノ時、志水伯耆殿[時御備頭ナリ]武公被申候ハ、「先年吉岡清十郎ト仕合ノ節、吉岡先ヲ打タル由致風聞候ガ、如何ニテ候哉」トアリ。武公、兎角無返答、ズンド立テ燭臺ヲ把テ、伯耆殿ノ膝元ニツカト座シ、「私幼少ノ時、頭ニハス〔疥癬〕出來テ、月代ヲ剃リ候得バ見苦シク候ニ附、惣髪ニテ居候。清十良仕合ノ時、彼ハ眞劔自分ハ木刀ニテ候。眞劔ニテ先ヲ打レ候ハヾ疵痕在ベシ。得斗〔とくと〕御覧候」ト、左ノ手ニ燭臺ヲ把リ、右ノ手ニ髪カキ分テ、首ヲ伯耆殿ノ顔ニツキ附ラル。伯耆殿、ノツケニソリテ、「疵痕見ヘ不申」トアリ。(武藏)「シカト御覧候哉」トアリ。(伯耆)「ナルホド得度〔とくと〕見届候」ト云トキ、(武藏)直ニ立チ上リ、燭臺ヲ直シ、モトノ座ニツキ、髪カキナデテ自若タリ。一座ノ諸士、手ニ汗ヲ握リ、一人モ鼻息ヲスル者ナシ。伯耆殿一生ノ不覚也ト、其比批判在シト也。胆氣豪発ノ事ナリ。
【二天記】
或年正月三日ノ晩、御花畠ニ於テ御謡初ノ時、各座列ニテ武藏モ有リ。規式未始、潜カニ聲有リ。然ルニ、志水伯耆殿[于時大組頭ナリ]、上座ヨリ武藏ニ曰ク、「貴方先年岩流ト勝負アリシ時、岩流先ニ打タル由、風説如奈。其通リノ様子ニテ有リシヤ」ト尋ラル。武藏トカクノ言ナク、立テ燭臺ヲ取リ、伯耆殿ノ膝本ニツカト座シ、「我幼少ノ時、蓮根ト云腫物致シ、其痕有テ月代難成、惣髪ナリ。岩流ト勝負ノ時ハ、渠ハ眞劔、我ハ木刀ナリ。眞劔ニテ先ヲ打レシナラバ、疵跡アルベシ。能ク御覧可有」ト、左ノ手ニテ燭臺ヲ取リ、右ノ手ニテ髪ヲ掻分ケテ、頭ヲ顔ニ突カヽル。伯耆殿、後ロニ反リテ、「疵見エ不甲」トナリ。(武藏)「聢〔しか〕と御覧有べシ」ト云。(伯耆)「成程得度見屈ケ申シタリ」ト。(武藏)其ノ時ニ立テ、燭臺ヲ直シ、本ノ座ニツキ、髪掻撫テ自若トシテ在リ。眞(ニ)一座ノ諸士、手ニ汗ヲ握リ、鼻息スル者モナク見エタリ。是伯耆一生ノ麁卒也ト、其頃批判有シト也。
C――武蔵肥後時代のことだからね、肥後系伝記が最も信憑性があってしかるべきなんだが、これも武蔵伝説が活発に成長していることの徴しだな。逸話のフォームとしては、志水伯耆を武蔵がやりこめたという説話素があった。ところが、対戦相手が吉岡から岩流へ置換されている。説話内容ではなく、主体の方が恣意的なんだ。これは、十八世紀後期になると、巌流島決闘が世間で有名になって、それに乗っかったということじゃないのか(笑)。伝説は世間の影響を受けてたえず動くものだから。
A――しかし、志水伯耆ともあろう者が、こんなことをするかいな。
B――あまり誰も書かないことだけど、この志水伯耆(1573〜1649)は、日下部與助元五〔もとかず〕の名で『武辺咄聞書』や『英雄百首』(続英雄百人一首)にも登場する、武勇で知られた人物だよ。親父の志水伯耆清久は備頭大頭を勤めて六千石を食んだ重臣だが、次男の與助元五も寛永二十年から慶安二年に死ぬまで、備頭大頭。三斎没後は八代城を預かったこともある。加藤家改易で浪人になった連中が細川家に召抱えられるよう奔走もした。なかなかの人物なんだよ。志水伯耆は武蔵より十歳以上年長だ。当時少なくとも七十歳になっている。老いた英雄だ。そんな彼が、武蔵を挑発して逆にやりこめられたというのは、どうも、タメにする説話だな(笑)。
C――日下部與助改メ志水伯耆だ。こんな英雄をやりこめた武蔵、有名な日下部與助よりすごい武蔵、というあたりは、肥後の二天一流周辺で発生した痛快伝説だろう。
B――せいぜい、そんなところだ。しかしバカな小説家やボンクラどもが、この肥後系伝説にとびついて、武蔵の「執拗な性格」を示す好例だとする。そんなたわごとを書く前に、そもそもこの説話に信憑性があるか、それを考えろというんだ(笑)。
C――まったくだよ。まあ、この説話は眉唾だな。しかし、『武公伝』の吉岡清十郎が、『二天記』で岩流になってしまうのにも、こまったものだ(笑)。肥後系伝説はどうも説話論的置換がお得意らしい。








国文学研究資料館
日下部與助元五(志水伯耆)
続英雄百人一首



*【丹治峯均筆記】
《辨之助、二ノ目ヲ又シタヽカニ打ツ。大力ノ然モ舟ノ櫂ノシタヽカナルヲ以テ、同ジツボヲ二ツ迄打タル故、頭クダケテヒレ臥セリ。辨之助ハカルサンノボタンヲ外シ、カルサンヲカナグリ捨テ、尻ヲツミマヒテ、高クカヽゲ、小次郎ガ刀ヲモ取リ、舟ノ柱ニ打マタガリテ漕戻ル。ハジメカルサンヲ切ラセタル事ハ、諸人見及ユヘ、高クカヽゲ、平首ニアタリタルハ、ケハシキ場ユヘ見届ケタル者ナシ。太刀ガ平打ナガラ、シタヽカニ打タルニヨリ、血モ少ハ流シヲ、下着ノ襟ヲ出シ、疵ヲ隠サレタリトカヤ》



奉納雛型 瀬戸内海歴史民俗資料館
可倒式の一本帆柱のある弁財船




帆柱を立てた帆かけ舟


C――話を戻そう。ここでもう一つ、『峯均筆記』のいまの部分の記事について問題になるのは、《小次郎ガ刀ヲモ取リ、舟ノ柱ニ打チマタガリテ漕戻ル》とあるところだろうね。
A――この部分はちょっと難解ですな。どう読み解くか。
C――舟の柱というのは帆柱。しかしそこから、武蔵の舟は帆船だったのか、けれど帆柱に「うち跨り」とは何ともよくわからないイメージだ、ここは間違いなのではないか、あるいは誤伝誤写ではなかろうか、などといった感想が出そうだが、要するにこれは肝心な点を知らないからだ。
B――何を知らないか、と云えば、当時の舟は帆柱を倒すことができた、というポイントだな。
C――そうなんだ。風があれば帆柱を立て、風がないときは帆柱を倒して漕ぐ。それが日本の帆かけ舟。小舟の原理が基本的には舟は漕いで動かすということにある。帆は補助的なものだ。当時なら帆布はなく莚が帆である。この伝説のイメージでは、小船だが帆柱つきの船というわけだ。
B――しかしここでもう一点、たしかに帆柱は倒せるし、それに跨ることもできるが、どうしてこうしたディテールが出てくるのか、というところだな。
A――それは単純に、風がやんで、あるいは逆風だったので、帆を倒して漕いで行くということではありませんな。
C――ここは説話論的観点から分析できる。説話の無意識的操作としてここに現出しているのは、まさに隠喩としてのシーンであって、それは要するに、帆柱とは男根の隠喩だというわけだ(笑)。
A――もとより武蔵は、すでにカルサンを脱いで、下半身をあらわにしているのでしたな(笑)。
C――下半身に穿いていたもの(カルサン)を脱ぐという行為にしても、一見瑣末なディテールのようにみえるが、じつは説話論的一貫性は、この帆柱に跨るという光景に強調されている。
B――すなわち、カルサンを脱いだ武蔵の股座にあるその男根と、もう一つの隠喩としての男根(倒された帆柱)の擦り合わせこそが、そこに行なわれている行為の本質であって、この二本の男根の運動が何よりも男色のそれであることは明らかだと。
C――そういうことだ。かくして、もう一つのディテール、すなわち「武蔵が小次郎の太刀を取って行った」という説話素が、にわかに看過すべからざる要点となる。言うまでもないことだが、勝者が敗者から太刀を獲得するとは、スサノヲ=ヤマタノヲロチ神話に限らず、かなり普遍的な神話素なのだが、この場面で反復されているのも、やはりその神話的行為なのだね。
B――もちろん、武蔵が小次郎の太刀を取って行ったというのは事実ではあるまい。しかし、この伝説の場面では、それが神話的レベルまで達するがゆえに、武蔵が小次郎の太刀を取って行ったという説話素として語られている。そして言うまでもなく、太刀獲得神話のファリックなシーンは、ここでは極めて濃厚な男色関係の隠喩によって色づけされている点が注目されるのである(笑)。
C――このように、説話論的一貫性を有しているということの意味は、『峯均筆記』が採取した巌流島伝説が、いわば祖形に近いということを示す。そこに示された「小次郎の太刀を取った」「舟の柱に跨る」というシーンの取りとめもない瑣末性こそが、説話の本体であったわけで、他の武蔵伝記がそれを無視してしまうのは、この伝説祖形からすでに遠ざかっている証拠だな。
A――ところで、『江海風帆草』によれば、相手を倒した武蔵は小倉へ帰る。武蔵は小倉に住んでいたからですな。ところが、『峯均筆記』にはそんな記事はない。こちらは武蔵が摂津から長門へ来た異人・旅人である。しかも『峯均筆記』では、武蔵はこのとき小倉とは何の関係もない。
C――そうだね。そうして、おもしろいのは、見物衆が「宗入、どうした。弁之助(武蔵)はもう帰ってしまうぞ」と声をかける場面。この部分は、『峯均筆記』も基本的に同じ。筑前系の伝説に特徴的な説話素だな。とくに『江海風帆草』は「死せる宗入、又立あがり」という印象的な記述を含んでいて、いわば《living dead》が強調されている。
B――『峯均筆記』の方を参照すれば、話はこうだ。――見物衆が小次郎の死骸に近づいて見ると、もはや小次郎は息も絶えだえである。見物の中から、「弁之助はもう退去したぞ。小次郎よ、もはやこれまでか」と言葉をかけると、小次郎は両眼をかっと見開き、ふっと立上り、「水を一杯くれよ。逃がすものか」と一声叫んで、前へかっぱと転んで息が絶えた――という次第。
C――この一段の特徴たる『江海風帆草』の「死せる宗入、又立あがり」の劇的な《living dead》の姿は、後退している。が、それでも一通りは保存されているようだ。勝った武蔵は決闘現場を去った。見物衆らは小次郎の死骸に近づいて、様子を窺う。しかしどうしたことか、小次郎の「死骸」には、まだ息があった。
A――ただし、死骸に息があるのは変だ、と変なツッコミを入れないことだ(笑)。
B――小次郎は、両眼をかっと見開き、ふっと立上り、「水を一杯くれよ。(弁之助を)逃がすものか」と、一声叫んで前へかっぱと転んで、絶命したという。これを小次郎の勝負への執念と読むのは、現代風の読みでしかない。ここはやはり、小次郎の死骸が《living dead》として動いた、発声した、という不可思議をそのまま受け入れた方が、伝説の読み方としては正しい。
C――映画的手法にはよくある手口だが、もはや死んだと思われた対象が、まさに《objet abjet》として突如として立ち上がる。現代にまで反復される怪物的な《objet》の運動である。この一段の小次郎の死骸の動きとは、怪物はその二度目の死を死なねばならない、というわけだ。
B――それゆえ、小次郎の「死骸」という文字は無視してはならないわけだ。小次郎は二度死ぬ。一度目は身体的なフィジカルな死として、二度目は、インターサブジェクティヴ(間主体的)な社会的な死として。
A――したがって小次郎は、見物の群集の眼前で死んでみせなければならなかったわけだ。
C――しかもそれが、見物の群集に囃し立てられて、まさにこの屍体、《living dead》が起き上がるという点では、前に話題にしたところの「罵倒される小次郎」との首尾一貫性を有するわけで、いささかコミカルなブラック・ユーモアの類いになっている。
A――つまり、「罵倒される小次郎」は死骸となっても起き上がり、しかしそれでも、やはり倒れて、こんどは本当に死んでしまう。
B――そういう場面を語る『江海風帆草』は古型を示すが、かたや『兵法先師伝記』もそのパターンを踏襲している。これは、『先師伝記』には『峯均筆記』よりも古型の説話も含むという例だな。


*【江海風帆草】
《武蔵ハ、小舟に乗て、小倉の地江帰る。武藏舟を出さんとする時、見物の中より、「宗入いかに、弁之助[此時迄武藏が名を弁之助と云なり]只今立のくぞ」と云ひければ、死せる宗入、又立あがり、海上をミて、「弁之助いづくへ行ぞ」と、一聲よバゝりて忽死す》

*【丹治峯均筆記】
《サテ、見物ノ貴賤、小次郎ガ死骸ニ近ヅキ見ルニ、ハヤ息モ絶々ナリ。見物ノ内ヨリ、「辨之助ハヽヤ立チノクガ、小次郎モハヤ是迄カ」ト、詞ヲカケシニ、両眼ヲクハツト見ヒラキ、フツト立揚リ、「水一ツクレヨ、ヤル事デハナキ」ト、一声サケンデ前ヘカツパト轉レテ、息絶タリ。古今ノ英雄ト謂ツベシ。可惜可憐》


*【兵法先師伝記】
《見物ノ中ヨリ、小次郎ヲ贔屓ノ者ニテヤ有ケン、聲ヲ上テ、「小次郎、弁之助ハ帰ルガ、最早ナキカ」ト呼ハリシカバ、死タル小次郎スツクト立、「水ヲクレヨ、ヤルマイニ」ト云ナガラ、佛倒ニ倒タリ。誠ニ勇猛ノ者ナルト、人々惜ミケルトゾ》


*【武公伝】
《武藏ガ木刀、小次良ガ脇下ノ横骨ヲ打折テ、即チ氣絶ス。少焉〔しばらくあつて〕武公木刀ヲ捨、手ヲ以テ小次郎ガ口鼻ヲ蓋テ、死活ヲ窺フコト左許〔さばかり〕、然後、遥ニ檢使ノ方ニ向テ一禮シ、起テ木刀ヲ把、舟ニ[或云、鎗或ハ半弓以射トアリ。定員聞書ニ、荒垣ノ上ヲ飛、舟中乘ル。然所箭不中ト也]飛乘、自倶棹差テ帰帆ス。后〔のち〕武公小倉ニ來、興長主ノ第ニ到テ、勝負ヲ願フ。又御家老中御寄合ニテ、御觸ノ事又不達トシテ、下關ニ囘り、勝テ後、興長主ニ書ヲ奉セン事等ハ、田中左太夫語ル[左太夫幼年ノ時ノコト也ト云]》

*【二天記】
《武藏ガ撃處ノ木刀、小次郎ガ脇腹横骨ヲ撃折テ、即チ氣絶ス。口鼻ヨリ血流レ出ヅ。暫ク有テ武藏木刀ヲ捨テ、手ヲ小次郎ガ口鼻ニ覆ヒ、顔ヲヨセテ死活ヲ窺フ事稍暫也。而シテ后、遙ニ檢使ニ向テ一禮シ、起テ木刀ヲ把リ、本ノ船ニ行、飛乗、自ラモトモニ棹サシテ行事速カ也。下ノ關ニ歸リ、興長主ニ書ヲ呈シテ禮謝ス。其ノ後小倉ニ至リ、興長主ニ、忠興公ノ士何某ト勝負ヲナサムコトヲ願フ。老役會議シ、此ノ事願不達シテ、又下ノ關ニ歸ヌトナリ》





巌流島周辺地図



*【沼田家記】
《一、延元様門司に被成御座候時、或年宮本武藏玄信豊前へ罷越、二刀兵法の師を仕候。其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候。双方の弟子ども兵法の勝劣を申立、武藏小次郎兵法之仕相仕候に相究、豊前と長門之間ひく島[後に巌流島と云ふ]に出合、双方共に弟子一人も不參筈に相定、試合を仕候処、小次郎被打殺候。小次郎は如兼弟子一人も不参候。武藏弟子共参り隠れ居申候。其後に小次郎蘇生致候得共、彼弟子共参合、後にて打殺申候。此段小倉へ相聞へ、小次郎弟子ども致一味、「是非とも武藏を打果」と、大勢彼島へ参申候。依之武藏難遁門司に遁来、延元様を偏に奉願候に付、御請合被成、則城中へ被召置候に付、武藏無恙運を開申候。其後武藏を豊後へ被送遣候。石井三之丞と申馬乗に、鉄砲之共ども御附被成、道を致警護、無別条豊後へ送届、武藏(を)無二斎と申者に相渡申候由に御座候》
C――これが伝説の祖形に近いものを保存したものであろうとは、これまた肥後系伝記とつき合わせてみればわかる。つまり『武公伝』とそれを踏襲した『二天記』が記すのは、小次郎を倒した武蔵が木刀を捨て、手で小次郎の口鼻を覆い、息の絶えたのを確認するという所作。これが凡庸な事実性を模倣したものであることは明らかなのだが、一方で、伝説の祖形から遠い形態に転化してしまっている。
A――むろん『峯均筆記』のように、武蔵が島を去るにあたって、小次郎の剣を取って行ったとか、カルサンを脱いだ股ぐらで帆柱に跨ったという肝心のディテールを抹消している。
B――男色的隠喩ではなく、その代わりに武蔵は検使に向かって一礼をして去るという、いわば礼儀正しさを示す。せっかくのシーンを、凡庸なものにしてしまっておる(笑)。
C――ただし、『武公伝』は気になる話を記載している。つまり武蔵が舟に飛び乗るとき、その割注に、《或云、鎗或ハ半弓以射トアリ。定員聞書ニ、荒垣ノ上ヲ飛、舟中乘ル。然所箭不中ト也》と記すね。
A――これは武蔵が決闘現場から退去しようとするとき、武蔵を鎗で突いたり、あるいは半弓を射掛ける攻撃があった、ということですな。武蔵は荒垣――決闘現場を結界した垣――を飛び越えて逃げたから当たらなかったというのだが、『武公伝』のこの記事は、何なのか。
B――要するに、これは『武公伝』の場面の背景を想起すればわかる。肥後系伝記では、小次郎は細川三斎お気に入りで、殿様の御座舟で決闘地へやってくるほどのエスタブリッシュメント。かたや武蔵は家老・長岡興長のコネで小次郎に挑戦させてもらった異人である。ということは、殿様ご愛顧の兵法者で、自分たちの師匠である小次郎を殺した武蔵に対する、細川家士の攻撃だということになる。これは細川家中に小次郎の弟子たちがいたという伏線の現出だな。
A――細川家中に小次郎の弟子たちがいて、彼らが武蔵を襲撃したとすれば、勝った武蔵が決闘現場から急いで逃亡しなければならないわけだ。
B――このように、《或云》という一説によれば、たんに急いで逃げただけでなく、武蔵は攻撃を受けたという話だね。この布置は、同じ肥後系伝説でも、熊本系に対する八代系の要素だな。『武公伝』にあったこの八代系の伝説に対しては、さすがに『二天記』は検閲を入れて抑圧し、抹消している。これは穏やかではない、というところだろう(笑)。
C――それで、この武蔵に対する攻撃があったという説話素を抹消したため、『二天記』ではそれに続く話が意味不明になっている。つまり、なぜ、後に武蔵が小倉へ来て、試合をしたいと、長岡興長に頼んだか、不明になってしまった(笑)。この話は家老協議の上許可がでなかったので、武蔵は下関に戻ったという話だが、後に武蔵が小倉へ来たその理由が抹消されているわけだね。
A――『武公伝』の方は、武蔵に仕掛けられた攻撃を記録することで、この部分の意味を保存している。このように、『二天記』は『武公伝』に対し忠実ではない。検閲編集によって意味不明の部分を生み出してしまう。
C――ここで、この「武蔵が試合後攻撃を受けた」という肥後系伝説が、未だ固定せざる時点での分岐であったことが知れる。肥後系伝説のもう一つの異伝は『沼田家記』だね。武蔵はそこでは、門司城代の沼田延元のもとへ逃げ込んで庇護されたということになっている(笑)。
B――つまり、その話をはじめから云うと、当初の契約では、武蔵・小次郎双方とも、弟子は一人も連れてこない約束だった。ところが武蔵側には弟子たちが来ており、武蔵が小次郎を倒した後、小次郎は蘇生したが、武蔵の弟子たちが寄ってたかって小次郎を打ち殺した、という話なんだな。
C――そこで、このことが小倉へ伝わって、小次郎の弟子たちが一味同心して、是非とも武蔵を討ち果たそうと、大勢して舟島へ押し寄せた。このため武蔵は門司へ避難して、沼田延元の門司城内に庇護されたので、命が助かった。その後、延元は武蔵を豊後へ護送して、「無二斎」という者へ身柄を渡したそうな――と、『沼田家記』の方はこういう伝説内容だ。
A――この『沼田家記』の記事は、同じ肥後系伝説でも『武公伝』とはかなり違う。『武公伝』が八代系であるのに対し、こちらは熊本系ですな。
B――『沼田家記』では、『武公伝』の長岡興長の話はまったく出ない。その代わりに武蔵の庇護者として、沼田家先祖の延元が活躍するわけだよ。したがって伝説それぞれの我田引水ぶりには、呆れるところである(笑)。
A――それに加えて、『沼田家記』では、仕合後、まだ生きていた小次郎を、武蔵の弟子たちが打ち殺す、という話になっているが、『武公伝』では、試合後襲撃されるのは武蔵の方だ。この点でも、両者の伝説は対照的ですな。
B――ただし、『沼田家記』でも、《其比小次郎と申者、岩流の兵法を仕、是も師を仕候》とあり、また小次郎の弟子たちは小倉にいたというわけだ。そういう点では、両者には共通したところもある。どちらも小次郎の拠点を豊前小倉とするところは同じで、これが肥後系伝説の特徴だな。
A――これはすでにみたように、筑前系の伝説とは異なる。『峯均筆記』では、小次郎を長門国人で長府住人とするし、あくまでも舞台は下関なのです(笑)。
C――ところが、『峯均筆記』が『沼田家記』と共有する説話素がひとつあって、それが門司城代(城主)の存在だな。『峯均筆記』はその名は失念したと記すが、これは沼田延元のこと。すると、武蔵の庇護者は、『武公伝』の言うような長岡興長ではなく、沼田延元が正しい、と結論づけることができるか。しかし話はそうは単純に多数決で決められるものではない(笑)。
――ここで話を整理するために、表を用意しました。ごらんください。
  峯均筆記 沼田家記 武 公 伝
小次郎の場所 長門長府 豊前小倉 豊前小倉
武蔵の場所 異 人 豊前小倉 長門下関
武蔵関係者 門司城主何某 沼田延元 長岡興長
決闘環境 武蔵有利・小次郎不利 武蔵有利・小次郎不利 武蔵不利・小次郎有利
試 合 後 見物貴賎が小次郎に
声をかける
武蔵の弟子が小次郎を
打ち殺す
武蔵が(小次郎弟子に)
鑓・半弓で攻撃される
後 日 談 小次郎の刀は小倉の
宮本伊織家にある
門司城に庇護された武蔵が
豊後へ護送される
小倉へ来た武蔵が
試合を申し入れるが却下

C――これによって見れば、『沼田家記』の中間的位相、つまり『峯均筆記』と『武公伝』を媒介するポジションを占めるのがよくわかる。すなわち、『沼田家記』の記事が『峯均筆記』と共有する部分は、伝説祖形に比較的近い。その伝説祖形は上述のように、敗者小次郎に心情的に加担する内容であって、『沼田家記』の伝説ではそれがかなり保全されているようだが、それにとどまらない。
B――小次郎に加担する長門の地元伝説では、言うまでもなく「小次郎は負けたが、負けなかった」という否認のポジションがある。そういう否認が『沼田家記』の伝説では大きく膨らんで、武蔵の打撃は小次郎を殺すに至らなかった、武蔵の弟子が小次郎を打ち殺したのだ、という説話内容をもたらしている。
A――この説話素を修飾するのが、武蔵小次郎両者契約では弟子は一人も連れて行かないことになっていたが、武蔵側はそれを破って、武蔵の弟子どもが現場に隠れていた、という場面設定ですな。
B――これは、後に古川古松軒が『西遊雑記』に記す赤間関の伝説、つまり武蔵が門人を連れて先に渡っていたとか、その門人が四人加わって小次郎を討ち果たした、とかいう話にも呼応するところだな。
C――したがって、『沼田家記』の内容は、地元の伝説祖形の方向をそのまま展開したものだが、武蔵が門司城に庇護され、さらには豊後まで護送されたという話の展開は、伝説生成過程で生まれて、かなり増殖が進んだものだ。
A――そのうえ、武蔵の身柄を「無二斎」という者に渡したそうだ、と書く。これはまったく尾鰭がついた説話としか言いようがない(笑)。
B――死せる父、無二の亡霊は、ここでも現れておる(笑)。ところで、『峯均筆記』が『沼田家記』と共有する説話素、つまり武蔵の応援団としての門司城主の存在がある。門司城主とその武装集団の、決闘現場へのプレゼンスという点は、決闘環境が「有利な武蔵/不利な小次郎」という対立構図。それを『峯均筆記』と『沼田家記』が共有するのに対し、『武公伝』の伝説では、これを反転して「武蔵不利/小次郎有利」というように変換してしまっている。
C――それを言えば、説話上の武蔵への明らかな加担は、肥後八代系の伝説のみの特徴。これは伝説としては新しい様相を示すものだね。『沼田家記』の内容は、伝説祖形の方向を保全しているだけではなく、その延長上に展開されたものだ。『沼田家記』の記録は元禄年間、それだけ一部伝説初期の形態を残している。これに対し『峯均筆記』の伝説では、同じく決闘環境が「有利な武蔵/不利な小次郎」という対立構図にあるものの、ここではすでに小次郎は嘲笑され罵倒される対象である。「不利な小次郎」の意味が、心情的加担からする設定からシフトして、反対の意味合いへ転化している。
B――ところがだ、『沼田家記』の内容がそのまま古いかと言えば、そうではない。もともと長門の地元伝説に、小次郎は不利にもかかわらず善戦したという共感的スタンスがあった。そこから対岸の豊前側に、しかも門司城に、武蔵の強力な応援者がいたという展開になった。
C――『沼田家記』が取り込んだのはそういう対岸性の対立伝説であって、本来の巌流島伝説では、門司城主は相手方、敵役なんだ(笑)。そこからずいぶん尾鰭がついて発展した伝説が『沼田家記』の内容だよ。念のため言っておけば、『沼田家記』の記事を、信憑性のある事実と錯覚する傾向が近年生じているが、それは倒錯的謬見である。
B――だいたいだな、巌流島を彦島(ひく島)と混同するような記事があるのが、『沼田家記』なんだ(笑)。豊前時代に原稿があれば、そんな誤認は生じない。後世肥後で書かれた伝説文書だよ、これは。
A――それを言えば、巌流島=舟島については、筑前系の『兵法先師伝記』の方がよほど正確ですな。
B――舟島は赤間関(下関)と内裏(大里)の間の島だと正確だし、「与次兵衛瀬」という瀬のことまで書いておるからね。これに比べると、『沼田家記』の記事は、まったくアホなことを書いている(笑)。
A――むろん『沼田家記』の記事は、後世できた巌流島伝説の一つで、かなり変形されている。それを勘定に入れて読む必要がある。ところが、そういう勘定ができない者が多いのは、困ったものだ(笑)。
B――『江海風帆草』の記事は、そういう意味では別の祖形痕跡を残している。宗入はこの試合には負けたけれど、元来、剛強の者であって、剣術も上手であったそうだ。弟子も中国地方に多い。弟子たちは武蔵を討とうと機会を窺っていたが、思うようにはいかなかった、という話だな。
A――宗入の弟子たちは武蔵を討とうと機会を窺っていた、というのがポイントですな。肥後系の『沼田家記』には、小次郎の弟子たちが武蔵を討とうと襲撃してくる話がある。ただし、こちらは小倉からの襲来で、弟子たちの拠点が違う。
C――『江海風帆草』と『沼田家記』を縦断する類似の伝説発生があったということだね。ここで注意される点は、『江海風帆草』が、宗入には「中国」に弟子が多いとすることだ。他の伝記のように、小次郎の弟子が豊前小倉に多くいたとするのではない。『江海風帆草』ではあくまでも、武蔵は小倉住、宗入は長門住、したがって対岸性の対立構造が明確だ。それゆえ、宗入には「中国」に弟子が多いとする、その「中国」とは長門を中心にした地域を指すのだろうが、ここでは山陽路の東は備前まで延々いたとする方が面白かろう。
A――宗入の弟子たちは武蔵を討とうと機会を窺っていた、という『江海風帆草』の記事は『峯均筆記』では消えている。
B――『峯均筆記』は、小次郎は古今の英雄と云うべきである、「惜むべし、憐むべし」と記す。あっさりしたものだ(笑)。しかしこれは、『峯均筆記』の地の文ではない。まだ伝説の引用部分である。それは、次に、この話は下関辺りで語り伝える、と述べる記述がやってくるのをみればわかる。
C――そうだね。以上は、下関あたりで語り伝えるところである。このことから、舟嶋を巌流嶋と呼ぶ。――ここから『峯均筆記』の地の文だ。しかし、それも束の間、小次郎の刀は、今なお宮本伊織の家にあるとか、という現在形の噂話を書き付けてこの段は終る。伝説につき物の証拠の品、リアルなものの小片。
A――とすれば、そのリアルなものの小片、つまり武蔵が小次郎から取った刀が、小倉の宮本家にあるのを、記者峯均が確認したかというと、そうではない。
B――これはあくまでも伝説の伝聞だな。言い換えれば、この巌流島伝説にしても、立花峯均がナイーヴに信じていたというよりも、伝説は伝説のままに伝えるということ。それが「玄信公伝来」の意義なのである(笑)。
A――しかし、『兵法先師伝記』が、宮本主馬の家に、分捕ったその刀と、武蔵の木刀やカルサンがあるというのは、気になるポイントですな。
B――遺物が増えている(笑)。しかし、『先師伝記』の丹羽信英は、小倉の宮本家を知っているから、これは『峯均筆記』とは別ルートの伝聞記録かもしれない。
C――そうかもしれない。ともあれ、立花峯均にしても、福岡と江戸との往還の折、この小島の側を何度も通った。もうその頃までには、巌流島伝説は、地元下関以外にもあちこちで成長していた。そうしてこの小島が、もっとも有名な武蔵記念地へと昇進していくのだが、少なくともこの島が「武蔵島」ではなく「巌流島」と呼ばれる以上、地元では話は違っていた。武蔵関係史料にみえる巌流島伝説の痕跡をみれば、地元の心情が加担したのは、武蔵ではなく巌流の方だったのだね。













*【西遊雑記】
《赤間ヶ関にて土人の云ひ傳へを聞しに板本に記せしとは大に異なり。岩龍、武蔵の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時、浦のものども岩龍をとゞめ、「武蔵の助、門人を数多引具し先達て渡れり。大勢に手なしといふ事有り、一人にて叶ふまじ。今日はひらに御無用なり」といふ。岩龍が曰、「士は言さはまず。かたく約せしなれば、今日渡らさるは、士の耻るところ也。若し大ぜいにて我を討ば、耻辱はかれにぞあるべけれ」といふて、おして島に渡る。はたして門人の士四人與力して、終に岩龍討る。初(め)止めし浦人、岩龍が義心にかんじ墳墓を築しより、かくは稱することゝなれり。虚實は知らざれども、土人の物語のまゝを記して後の考へとす。或人また、宮本の子孫小倉の家中に在り、武蔵の介墓もありて、岩龍島に相對せり、と云》




関門大橋と古城山(門司城址)



*【兵法先師伝記】
《其時代ハ專ラ試闘ハヤリテ、能武士ノムダ死モ多カリケレバ、國主領主モ猥ニ試闘ナド致事ヲ禁ゼラレシカバ、先師ト小次郎ノ試闘モ、地ツヾキノ処ニテハ遠慮モアリシニヤ、長門國赤間ヶ關ト豐前國大裏トノ間ニ人家モ無キ小嶋アリ。舟ノ形ナル故、舟嶋ト号ス。[太閤秀吉公筑紫陳ノ時、舩頭某与次兵衛ト云者、舩ヲ乗損ジ瀬ニ乗上ゲ舟危カリケレバ、秀吉公怒テ、与次兵衛ヲ其瀬ノ上ヘ追上、腹切セラレシ。今ニ与次兵兵衛ガハカ其瀬ノ上ニアリシ故、此瀬ヲ与次兵衛瀬ト云。舟嶋ハ与次兵衛瀬ノ西南ニ隣レリ]。先師、小次郎、其嶋ニ渡テ勝負セント約セラレ》

*【江海風帆草】
《宗入も此仕合にハ負たれども、元来剛強の者にて、兵法も上手にてありけるとかや。宗入が弟子ども中國に多く、武藏をうたんとねらへども、心にまかせず。武藏ハ其後上方におもむき、兵庫に弐年あまり居住す。夫より明石小笠原右近将監の家に有着て住す。細川越中守、兵法懇望のこと深切忘がたく、二たび西國に下る。此時、越中守肥後國を領し玉ふ肥後に至り在住、兵法の指南申けり。同國岩戸山と云山中にて死ス。武藏一代兵法鍛錬不等閑、名人のほまれ有けり。巌流嶋の仕合ハ、いまだ十八歳の時にて、兵法も未熟、ひとへに血氣の所作、心に不叶事どもなりと、武藏後年に申けるとかや》




*【丹治峯均筆記】
《コレ、下ノ關辺ニテ語傳ル所也。夫ヨリシテ、舟嶋ヲ巖流嶋ト呼ブ。小次郎ガ帯スル所ノ刀、今尚、宮本伊織ガ家ニ有リトカヤ》

*【兵法先師伝記】
小次郎ガ刀、先師ノ木刀、皮ノカルサン、共ニ今豊前小倉小笠原侯ノ臣、宮本主馬ガ家ニ傳來セリ》



巌流島と関門海峡



巌流島周辺現況地図




*【五輪書】
《生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也》(地之巻冒頭)

*【小倉碑文】
爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際〔きは〕、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ》




手向山から巌流島方向を望遠する
向岸は下関市街





*【丹治峯均筆記】
《十六歳ノ時、但馬國秋山ト云強力之兵法者ニ打勝玉フ事、地ノ巻ニ載ラルヽトイヘドモ、働ノ事、語リ傳ヘヲ不聞。惣テ六十餘度ノ試闘、口碑ニモレタル事可惜。漸ク百ニシテ一二ヲ語リ傳フ







宮本武蔵顕彰碑 手向山公園
北九州市小倉北区赤坂









佐々木小次郎碑 手向山公園
昭和26年 村上元三寄贈
設計:建築家谷口吉郎



*【村上元三】
《小次郎碑を建てることについては、小倉市のほうも大乗気で、手向山の頂上、眼下に関門海峡を見おろし、はるかに巌流島(船島)を眺める絶好の場所を、敷地に貸してくれることになった。手向山を市の公園にするので、小次郎碑を中心にして設計し、そこを小倉市の名所の一つにしたい、という市の意向であつた》(『随筆佐々木小次郎』昭和二七年)
A――そうして、関門海峡を望む手向山の上に、宮本伊織が巨大な武蔵記念碑を建てたが、その碑文が、この巌流島のことを記さなかったら、この話は消えてしまっていたかもしれない。
C――そうだろうね。小倉碑文が巌流島決闘のことを記したのは、まさにそれがこの海峡の小島で行なわれたからだ。下関の浦人たちは、この小島を「巌流島」と呼ぶようになっていた。小倉碑文はその事蹟を記載した。この小倉碑文の存在は大きい。爾後、武蔵伝記は、たえずこの碑文を参照しながら発展した。
B――巌流島決闘は、ローカルな伝説としてすでにあった。しかし、この仕合が今日まで伝えられるほど有名になったのは、やはり上方の歌舞伎・浄瑠璃など演劇で上演されたからだね。これがなかったら、ローカルな伝説として埋没してしまったかもしれない。
C――結局のところ、小倉碑文と演劇作品だね。本来なら、他の伝説と同じように、ローカルな伝説として埋没してしまったはずのものが、生きて存続したばかりか、十八世紀にどんどん成長した。だから、巌流島決闘は例外的な事蹟だと言える。
A――武蔵は『五輪書』冒頭で、自身の来歴を振り返っているが、そこには巌流島の記事はない。巌流島決闘は、武蔵にとって特記すべき記念碑的事蹟でもなかったようだ。
C――おそらく、巌流島決闘の相手、岩流は、武蔵が倒した相手のなかの《one of them》に過ぎなかったのだろう。にもかかわらず、小倉碑文の記したこの「岩流」が、かくも大きな存在になったのは、十八世紀を通じて成長した巌流島伝説によるものだ。
B――それともう一つ、巌流島決闘をあたかも、武蔵の対戦キャリアの総括的出来事のごとくみなすのは、明らかな間違いだな。だいいち、この決闘の時期が不明だ。筑前系伝説が武蔵十代の事蹟とするのも、あながち否定はできまい。
A――小倉碑文は、京都での吉岡一門との対戦の後に、巌流島の仕合を記している。この記述順序を、年代的順序とみなして、巌流島を京都の吉岡の後、つまり武蔵の慶長諸国遍歴時代の事蹟として位置づけることもできる。ただし、これは、小倉碑文の記述順序を年代的順序とみなすという仮定条件の下での、いわば仮説の一つにすぎない。
B――それを条件付きにしておくべきだというのは、以前どこかで述べたかもしれないが、小倉碑文にある巌流島の記事の「ここに兵術の達人あり」という書き出し方ね。これは、明らかに年代を追って出た文ではない。武蔵が何歳のときというのでもないし、直前には、新免無二の事蹟に遡った記事がある。このあたりから記述の順序は年代順になっていない、と見ることもできる。
A――ここに兵術の達人あり、というのは、「そうそう、忘れてはならないことがある。ここに兵術の達人あり」という感じですな(笑)。武蔵記念碑を建てる山から、ちらっと端が見えるあの島で行なわれた仕合のことを外すわけにはいかない。これは書いておくよ、という身振りがうかがえる。
B――それがこの碑文のローカリティ、地域特性なんだ。もし同じ条件で、この碑が他国に建つとしたら、別の決闘事蹟が記されただろう、ということだ。ただし、小倉碑文の撰述者にも、巌流島決闘の年は明らかではなかったか、そうとも言い切れない。というのも、現場が近すぎて(笑)、建碑当時、地元の人間ならだれでも知っていたことかもしれない。こういう修辞性に満ちた漢文では、そんな周知の事項は記載しない。それで、地元の事蹟だし、ここに兵術の達人ありと、対戦キャリアの最後に追加的に記述された。そうなると、巌流島決闘が吉岡一門との対戦よりも後だとは言えない
A――むしろ、長州側の早期伝説を拾った『江海風帆草』の記事だと、巌流島決闘のときは武蔵十八歳だからね。
C――それが、巌流島決闘はいつ行なわれたか、という問題に関する我々の留保の要件だね。そういう留保条件つきの話だということを、我々の武蔵年譜を参照する者は念頭に置いてもらいたい。武蔵の対戦キャリアのうち、有馬喜兵衛や但馬国秋山という最初期の相手はともかくとして、やはり特別な相手は、二十一歳のとき仕合をした京都の吉岡一門だろう。これで、武蔵はその名を確立した。しかし、巌流島決闘の年代的位置づけは明らかではない。このことは、ここで改めて強調しておきたい。
B――それにしても、十六歳の時の但馬国秋山との対戦に言及して、『丹治峯均筆記』が記すのは、秋山に勝ったことは『五輪書』地之巻に載せられているけれども、武蔵が決闘でどんな働きをしたか、その具体的な内容については語り伝えを聞かない。総計六十余度の試合、これらが口碑に洩れているのは惜しむべきことである。百のうちやっと一つか二つしか語り伝えがない、という話だな。十八世紀前期においてすらそうだった。
C――『丹治峯均筆記』を書いた立花峯均は、その自記によれば、寛文十一年(1671)の生れになるから、武蔵没後二十六年にして生まれたということになる。しかし彼は、播州明石に居住していた柴任美矩から、直接指導を受けている。柴任は若年の頃、熊本で武蔵本人に接した可能性のある人物。柴任からいろいろ話を聞いたはずの立花峯均ですら、武蔵六十数回の仕合については、口碑、言い伝えがほとんどない、と嘆いているわけだ。
B――武蔵は無敗の兵法者として有名だったが、武蔵自身は自身のキャリアについて、ほとんど何も語らない狷介な人物だったようだな。
A――それでも、たぶん、それぞれの土地にローカルな伝説としてあった。だが、ほとんどが歴史の中に埋没してしまったということでしょうな。それは、他の兵法者の事例を見てもわかる。武蔵ほどでなくても多数勝負仕合をしたはずの者でさえ、ほとんど話は残っていない。口碑は、何かたえず刺激を受けないと、もともと残らないものです。
C――したがって、巌流島決闘の事蹟が残ったのは、武蔵生涯のキャリアの中でも例外的なものだし、兵法者という事象総体の中でもまったく稀有なケースだろう。しかも、この巌流島伝説が残ったというのは、小倉碑文に記されるとともに、演劇界において人気のある作品が誕生したからだ。これはまったく偶然のことだね。
B――巌流島決闘記事のある小倉碑文が残ったのも、偶然だろう。信州から播州明石へ転封し、また明石から豊前小倉へ移封してきた小笠原家は、幕末まで小倉に居ついて、転封はなかった。宮本伊織家も小倉に存続し、赤坂山(手向山)も立山として所有してきた。これが、もし小笠原家が小倉から他国に移っていたら、かの武蔵顕彰碑は残らなかったかもしれない。そんなものだよ、大名家中の事情は。だから、小倉碑文が残ったのも、ある意味では偶然の賜物だ。
C――(小笠原)忠政の甥・長次は、同時に播州龍野から豊前中津へ移ったが、この中津小笠原家なんぞは、三代目には領地没収だからねえ。その後、弟が嗣いだが半知の四万石。しかもその後には、播州の安志(宍粟郡)へ移されてかろうじて一万石。小倉の小笠原が動かされなかったのは、これは幸運としか言いようがない。
B――小笠原忠政・宮本伊織の君臣カップルは、豊前小笠原家存続のための土台を築いたとともに、武蔵事蹟伝承の基礎も築いてくれた。しかし、彼ら以後に小笠原家が豊前小倉に存続したことは、まったく偶然だ。手向山の碑文を見る人は、これが残っているというその奇蹟性に驚く必要がある。
A――もう一つ、武蔵碑のある手向山で驚かされるのは、例の村上元三寄贈の佐々木小次郎碑だ。「小次郎の眉涼しけれつばくらめ」(笑)。小説(『佐々木小次郎』)が売れて儲けた作家の、こんな私的で恣意的なものが、市の公園に許されてよいのか(笑)。
B――あれは、地元から要請があって設置されたものじゃない。小倉に小次郎碑を建てたいと言い出したのは、村上元三自身なんだ。
A――除幕式のとき、ちょうど小倉の市長選で、小次郎碑設置で世話になった市長のために、この作家は応援演説に市内を走り回った。癒着もはなはだしい(笑)。
C――そんなことをしても恕される、まあ、おおらかな時代だったのだよ(笑)。
B――あのとき、武蔵碑の方はまだ現在地に戻っていなかった。延命寺にあった。だから、手向山でも、待っていたのは小次郎の方だった。こんどは、十年以上も待たされたがな(笑)。
C――いまも地元では「武蔵小次郎まつり」というのをやっているそうだが、最初は、「小次郎まつり」だけだった。あそこが市営公園になったとき、最初に占拠したのは、「佐々木小次郎」なんだよ。これじゃあ、宮本伊織も、この山の麓の墓所、その草葉の蔭で怒っているだろう(笑)。
B――当時の市長はたしか、長州人だった。小倉市民は長州人を長として頂いていたが、小倉の歴史を、長州人に蹂躙されたということだぜ。
C――長州の逆襲か(笑)。巌流島で負けた小次郎は長州住人だったな。
A――しかも、あの小次郎碑の下に、村上元三が例の自作小説本を埋蔵した。
B――そりゃあ、よほど図々しい振舞いだよ(笑)。吉川英治だって、作州宮本村に碑を建てたが、そこまで恥知らずなことはしていない。
A――とにかく、あの小次郎碑は、史実からすれば、手向山には余計なものだ。だけど、眉涼しい美少年の小次郎の銅像が建っていないだけ、手向山にはまだ救いがあるというものだ。
C――「吉川武蔵」はいざ知らず、村上元三の『佐々木小次郎』なんて、今じゃだれも読まない小説だよ。村上元三建立の小次郎碑は、かの谷口吉郎デザインだし、戦後の武蔵珍現象を記念する近代遺跡として、保存しておけばよい(笑)。
A――ところで、この手向山の武蔵碑、その小倉碑文遺存の有難さ、奇蹟性は言うまでもないが、同じ線で言えば、『丹治峯均筆記』を書いた立花峯均によれば、武蔵六十数回の仕合について口碑がほとんどない、ということだから、事情が少しだけ変れば、巌流島決闘も埋没した可能性がある。あるいは、別の、我々がまったく知らない武蔵の対戦相手が、「佐々木巌流」のポジションを占めたかもしれない。
B――まあ、とにかく、巌流島伝説は残った。この小島での決闘が敵討ちに脚色されて、それが上方から全国的に有名になるにしたがって、巌流は「佐々木」になり、また地元長州でも、その周知の武蔵・巌流の対戦説話からたえず刺激を受け、巌流島決闘について伝説が存続し成長した。しかし一方では、武蔵諸伝記に入った伝説にしても、さまざま活発な伝説成長の跡を確認できる。我々はその痕跡をたどって、巌流島伝説を読み解くことができるというわけだ。
C――それも、伝説の異なるヴァージョンがあって、説話素を照合しつつ構造分析できるからだね。今回の坐談会で、巌流島伝説研究の新しい領野を切り開くことができたが、これは武蔵研究のみにとどまらず、近世社会における伝説口碑の研究という点でも、かなり成果があがりそうだ。
A――さて、話は終りそうにないが、このへんで、そろそろもうよろしいかな(笑)。
――ありがとうございました。巌流島伝説について、超弩級の骨太な(笑)見解が展開されました。どれも創見に満ちた話が多すぎて、ここでは要約することが不可能なほどです。また、従来の巌流島論の水準を遥かに抜いたレヴェルでのお話が連続し、ついて行くのに難儀しました(笑)。本サイトの研究プロジェクトにおける巌流島論を聞きたい、読みたいという要望が、以前からかなりあったのですが、これで、ようやくその任を果たすことができました。この坐談会は、将来振り返ってみれば、武蔵研究における巌流島論に関して、記念碑的な場所となりましょう。それは疑いありません。
B――これまでの巌流島論は、まあ、大概はフィクション、小説と大差ない(笑)。学説と云えるようなものじゃない。そういうわけで、話を白紙に戻して、ゼロからやり直し、ということだ。これまでの諸説を全部、白紙還元して、典拠から見直してやろうということな。それが今回のような大きな結果になった。
C――今回は延々やったから、これで「巌流島伝説の研究」という論文が一本、書物一冊分できたも同じだな(笑)。
A――そのタイトルは確保しておきましょう。例によって、本サイトの所説をパクるやつが出るだろうが、もちろん、パクってくれてけっこう。だけど、参照出所くらいは明らかにしろよ(笑)。
B――道義もへったくれもない、パクって頬かむりする阿呆が多いからな(笑)。今回は、二日間にわたり、時間無制限一本勝負(笑)ということだったので、ここまで話が及んだ。思いがけず、長居してしまった。いつ終るかと思いながら話していたが(笑)、話がまったく途切れなかった。
A――それで、いつもより、このたびは疲れた(笑)。
C――まあ、二回分を一度にやったのだから。今回はなかなか面白い話ができた。またテーマを絞ったので、突っ込みもかなりできたね。いずれまた、巌流島伝説はやることにしよう。
――長時間、まことにありがとうございました。またの機会を期待いたします。
(2005年11月吉日)


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