――赤穂事件の話が出ましたので、今回は武士の生き方というか、武士道にテーマを絞らせてもらうのはいかがでしょうか。武蔵も「武士の道」という表現を使っていることですし。
B――どうだろうね。武蔵のいう「武士の道」は、後世のいわゆる武士道とは違う。荻生徂徠あたりの世代になると、そういう古い武士の行動を否定する。武士道なんてのは戦国の風俗だという――《武士道と云は大形は戦国の風俗也》(太平策)。ところが戦国時代には「武士道」という言葉はない。となると、武士道というのは、後世の人間が戦国武士に投影した一種の幻想だということになる。
C――結論を言えば、そういうことだろう。武士道に何か実体があるわけではない。それに、今日の我々が使う武士道という言葉は、どうも新渡戸稲造が捏造した武士道イメージに汚染されている(笑)。
A――新渡戸稲造の『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan )は、明治三十二年(1899)病気療養のために渡米中、執筆してアメリカで出版したものだが、有名になりすぎた(笑)。大統領のルーズヴェルトまで読んで、知人に読めといって配ったらしい。
C――という話は、本書の解説本ならどれでも書いているが、実はそれは「ある信頼すべき筋からの報知」(第十版序)でね、それが事実かどうかわからんよ。だが、もっと重大なのは、これが近代の武士道イデオロギーの典拠となったところだ。
D――しかしだね、新渡戸が言うようなこと、つまり、――過去の日本は武士の賜である。彼らは国民の花たるのみでなく、その根であり、善き賜物は彼らを通して流れでた。自己の模範によってこれを指導したとか、武士は民族全体の善き理想となった。いかなる思想の道も、武士道より刺激を受けざるはなかった。知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった、――とかいうのは、事実ではない。
B――むろん、すでに明治三十四年に、その新渡戸の武士道に対し、津田左右吉は、歴史的事実とは言えないとしている。もちろん、それは当っているが。
A――津田左右吉が読んだのは英文の方だろう。最初の日本語訳(桜井鴎村訳・明治四十一年)はまだ出ていない時期だ。原著はフィラデルフィアで出たが、その翌年――つまり明治三十三年――日本でも英文『武士道』(裳華房版)が出版されているから。
D――津田は、新渡戸の武士道概念は根拠薄弱と見ている。一番の問題は、武士道をまるで日本人全体の思想みたいに言うが、武士というのはある特定階級の人間たちのことであって、そういう特殊な階級の思想である武士道を、「ソウル・オブ・ジャパン」だというのは間違っている、というわけだね。
A――そのBUSHIDOの冒頭、《Chivarly is a flower no less than indigeneous to the soil of Japan than its emblem, the cherry blossom.》とある。そもそも、Chivarly(騎士道)がなんで武士道と姉妹関係なんだ、という反発があろうさ(笑)。津田が目くじらを立てたと思われる箇処は、
《武士道はその最初発生したる社会階級より多様の道を通りて流下し、大衆の間に酵母として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。武士道は最初は選良の栄光として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。しかして平民は武士の道徳的高さにまでは達しえなかったけれども、「大和魂」は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った。もし宗教なるものは、マシュー・アーノルドの定義したるごとく「情緒によって感動されたる道徳」に過ぎずとせば、武士道に勝りて宗教の列に加わるべき資格ある倫理体系は稀である。本居宣長が
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花
と詠じた時、彼は我が国民の無言の言をば表現したのである。
しかり、桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性の表章であった。特に歌人が用いたる「朝日に匂ふ山桜花」という語に注意せよ。
大和魂は柔弱なる培養植物ではなくして、自然的という意味において野性の産である。それは我が国の土地に固有である。その偶然的なる性質については他の国土の花とこれを等しくするかも知れぬが、その本質においてはあくまで我が風土に固有なる自発的発生である。しかしながら桜はその国産たることが、吾人の愛好を要求する唯一の理由ではない。その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない》(矢内原忠雄訳)
D――ようするに津田が言うのは、武士道を大和魂と混同するな、特殊な階級的思想を日本の魂だと一般化するな、ということ。しかし、この点は、明治のナショナリズム勃興期では「武士道」という言葉がまだ定着していない、そういう状態を証言しているな。
B――後年になって、新渡戸自身は、「武士道」というのは自分が造った言葉だ、と言っている。「武士道」という言葉が、少なくとも近世初期に登場し、それ以後一部で用いられてきたという事実を知らずに使ったと言うね。
D――近いところでは、幕末・明治初期に武士道という語の用例はある。若くして渡米した新渡戸だが、それを知らなかったわけはあるまい。武士道という語は自分の造語であるというのは、どうも後年の韜晦だね。新渡戸稲造の『武士道』の内容には、はじめから批判がかなりあったし、本人もそれを承知だから、自分の造語だというのが、批判を挫くにはよい戦術だ。
A――クリスチャン・ブシドーだという評言もある(笑)。
B――そのクリスチャン・ブシドーは、内村鑑三がそうだ。自分は武士の家に生まれた、それゆえ私は戦うために生まれた、というのが、『余はいかにしてキリスト教徒になりしか』の冒頭だ。
C――「私は戦うために生まれた」というのは、なかなかのキャッチコピーだ。これこそ武士道のテーゼじゃないかね(笑)。
B――クリスチャン・ブシドーというのは、キリスト教というよりプロテスタントの倫理だね、このプロテスタントの倫理で武士道を理解する路線だ。内村鑑三の『余はいかにしてキリスト教徒になりしか』も新渡戸の『武士道』も英文で書かれて、欧米のキリスト教徒に読ませる本だよ。そもそも日本人向けの本じゃない。
A――だから、新渡戸の『武士道』を日本人が批判するというのは、どうも筋が違う。これは、日本人なんて訳の分からない民族を理解する啓蒙的入門書、というか一種の人類学的資料だね(笑)。異国人が無知と偏見をもってトンチンカンな解説をするよりもマシだ、という程度のことだ。
B――なかでも切腹などという、西洋の眼から見れば人類学的奇習としか言いようのない行為を説明しなければならなかった。相手に理解させるには、相手の土俵で説明する必要がある。というわけで、騎士道という観念を援用するし、そしてプロテスタントの倫理だね。新渡戸武士道が武士の倫理的側面を強調するわけだ。
D――ところが、日本人そのものが、こんどはクリスチャン・ブシドーの論理で武士道を理解するようになった。これは一種の逆立だね。
A――逆立も逆立、まったくの逆立だな。かくして武士道という近代的観念が生まれた。だから、その武士道なる観念の母体はプロテスタンティズムだよ。とてもじゃないが、国産とは言いがたい(笑)。国粋主義からすれば異教が自分のど真ん中に居座っている形だ。
C――エイリアンみたいにね(笑)。禅仏教をカリフォルニア経由で逆輸入するのと似ている。戦後においても新渡戸の『武士道』がロングセラーになっておるというのも、このモダンな武士道が更新されているということだろう。
|

新渡戸稲造(1862〜1933)
*【新渡戸稲造】
《過去の日本は武士の賜である。彼らは国民の花たるのみでなく、またその根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れでた。彼らは社会的に民衆より超然として構えたけれども、これに対して道義の標準を立て、自己の模範によってこれを指導した》
《武士は全民族の善き理想となった。「花は桜木、人は武士」と、俚謡に歌われる。武士階級は商業に従事することを禁ぜられたから、直接には商業を助けなかった。しかしながらいかなる人間活動の路も、いかなる思想の道も、或る程度において武士道より刺激を受けざるはなかった。知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった》(『武士道』矢内原忠雄訳)

津田左右吉(1873〜1961)
*【津田左右吉】
《先づ攷究せざるべからざるは「武士道」といへる語の意義なり。著者〔新渡戸〕は通篇毫も歴史曲観察を下さゞれば、其の歴史上の起源と變遷とに開して何様の見を持するかを知らずと雖も、余はこの小冊子の表紙に描寫するところを見て、早く既に著者の誤見を抱けることを發見せり。Soul of Japanとは幾様にも解釋せらるぺけれど、「朝日に匂ふ山櫻花」の光景を畫きて之に配したるを見れば、こは極めて「大和魂」の義たること明かなり。大和魂の語、また其の定義を知ること易からずして、平安時代の昔に用ゐられしより、宣長のこの有名なる詠歌に至るまで、必ずしも常に同一の義に使用せられざりきと雖も、この語はもと武士の間より生出せしものにあらずして、また戦國時代にありては聞くこと甚だ稀なるが如く、國民の統一せられて外國と封立せるに至り、始めて其の精神に自覺せられ來りしもの、其の國民的思想の表徴にして、多く對外的意味を含蓄せるは、むかし漢才に對して和魂と稱し、宣長が常に「からだましい」に對して之を用ゐ、或は維新前の壮士が「蒙古の使斬りし時宗」と喝破せしを見ても知るべきに似たり。之に反して武士道は一の階級的思想なり。また毫も其の間に對外的意味あるを認めず。兩者の混同はまづ武士道の意義に於いて第一着の謬見に陥りしものにあらざるか》(「武士道の淵源に就いて」明治34年)

内村鑑三(1861〜1930)
*【内村鑑三】
《私の家は武士階級に属した。それゆえ私は戦うために生まれたのであり、揺籠のうちから生くるは戦うなりだった》(『余はいかにしてキリスト教徒になりしか』 )
|