坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

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生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。 (五輪書・地之巻)
03 侵略戦争・戦場と掠奪  Back   Next 
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――今回で坐談武蔵の三回目になります。しばらく間隔が空きましたが。
A――前回から半年ほど間隔が空いたのは、皆が揃わず顔合せできなかったからですね。だいいち、忙しくて、予定が合わないということもあったが、それよりも、日本にいなくて、どこへ行っていたのか判らなかった人もある(笑)。それでも、とにかく、顔合せができたのだから、まずは、やれやれということですな。
B――どこへ行っていたのか判らなかった、とはひどいことを言うひとだ、こっちは仕事をしていたのですぞ(笑)。それはともかく、私が居ない間に、阪神タイガースが優勝してしまったのには驚いた。
C――ほんとにね。これは今年の最大のニュースだ。十大ニュースのトップだね(笑)。星野はこれで男をあげたねえ。阪神優勝の最大の立役者は、選手たちではなく、この監督だった、文句なしのスターは監督だった。これは珍しいパターンだ。
A――そうですね。これまで主役は選手だったが、今回の阪神優勝に関するかぎり、主役は監督だし、監督がスターだった。甲子園球場は満員で、巨人のホームグラウンド・東京ドームでさえ、半分は阪神ファン。こんな有様もこれまでなかった。この阪神ファンは今までどこに隠れていたんだ、と(笑)。
B――隠れていたんじゃなくて、隠れ阪神ファンをやっていたんだ。それがやっとカミングアウトできた(笑)。これが民主化運動なのさ。とくに東京は圧倒的に巨人ファンだ。その一党支配の圧政の下で(笑)、よく耐えてきた。少なくとも、巨人阪神戦だって東京ドームへ行ってみろ、圧倒的な巨人ファンに囲まれて、阪神はほとんど勝ったことがない。これまで延々、負け犬を演じてきた。それが、今年はちがった。東京ドームで。黄色(阪神ファン)が半分を占め、連戦連勝、「六甲下し」を大合唱なんて、夢のようなことが実現してしまった。
C――これは夢か、幻か、未だに信じられないよ(笑)。東京にも、そんなに沢山阪神ファンがいたってこと。それは、ある奴に言わせれば、革命状況だという。不可視な勢力が突如として出現する。それまで支配体制が整然平穏に続いていたところ、突然破れ目が生じ、それまで見たことのない勢力が登場し、権力中枢を占拠する。だから、その東京ドームの光景はまさに革命状況だと。この東京の状況の方が、本拠の関西より面白かったはずだ。
A――そうでしょう。大阪だと、阪神優勝にいたるまで十分酔っていた。道頓堀川へ飛び込むなんてのは、もう、どういうこともない。何千人――五千人だったか、飛び込んだが、数は多くても、十八年前の反復でしかない。中に飛び込んで死んだ奴も一人いたが、これは祭なんだ。祭に死人はつき物で、それじたいは祭りの景気づけみたいなもの。
B――ただし、その後、大阪府警が飛び込ませまいとして、フェンスを張ってね、そうするともう飛び込まない。何だかねえ、警察も警察だが、関西の連中も連中だ。興奮は簡単に鎮圧されてしまった。本当に関西人にはエネルギーも力も、もう残っていないということだね。
C――それは言えるね。今回の阪神優勝の情動価は、十八年前よりもはるかに大きかったはずだ。野村が監督になって、それ以来、今かいまかと毎年待っていたんだ。それがずっコケけて、星野に監督が変わって、こんどは本物だと、期待して、それが実現した。だから、少なくともこの5年は、決して優勝を競り合ってもいないのに、待ちに待たれていた優勝なんだ。阪神優勝の昂揚は18年前よりもはるかに大きかったというのは、そこだね。
B――実際には、決して優勝を競り合ってもいないのに、というところが面白いね。数年前までなら、阪神ファンは、決して阪神が優勝するなんて信じていなかった。信じていたとすれば、それは狂人だ。ところが、面白いことに、阪神ファンは、自分では信じていないことを、期待してしまうのだ。信じる方は狂気だが、期待の方は本気なんだ。いつか阪神は優勝するという期待はね。
C――だからさ、それが信と希望の違いなんだ。信じていなくても、期待していると、そのうち願望が実現する。これは、信じていなくても信じているふりをしていると、本当の信がやってくる、というパスカル流の信の構造とも違うね。
A――阪神ファンは信じたいのに、阪神というチームが信じさせてくれない。阪神ファンの不幸は、これだ。信じたいのに、信じさせてくれない。言うならば、信から排除されている。
C――結局ね、今回は優勝したのに、まだ本当は信じていないというところがある。夢は実現してしまったのに、まだ夢の中にいる気分だね。今年は、久しぶりにいい夢をみさせてもらった、ということにつきる。












Stop Bush
Stop War








――このあたりで、前回で話題になったイラク戦争の戦後をフォローするというのでは、どうでしょうか、戦争と暴力の問題を軸にして、再度武蔵を論じるということでは。
B――イラク戦争は、もともと大義を欠く戦争だった。前回のおさらいになるが、アメリカ政府のごり押しで始めてしまった非道な侵略戦争だ。力は正義なりという露骨な世界戦略だ。これに抵抗する勢力は、政府であろうが、非政府組織であろうが、すべて非合法なテロ集団で、それゆえ粉砕すべきだという論理だ。それだけではなく、イラク戦争は世界中を情報操作で欺瞞して、開始された戦争だ。侵攻の口実だった大量破壊兵器はどこにあったか。そんなものは、はじめからどこにもなかった。捕虜になって救出された米軍の女性兵士の英雄美談、これもでっち上げだった。ようするに、TV局のやらせ番組を大掛かりにしただけの話だ(笑)。
A――これだけ嘘で固めたでっち上げで開始された戦争もない。それは要するに、もはや大義名分さえ必要でない、という力の論理ですな。
C――ただ、そこには、キリスト教中心主義の、異教徒に対する根強い差別感情がある。この異教徒排除のドライヴ(欲動)に関しては、我々仏教徒(笑)からすれば、ほとんど理解不可能な代物だ。なぜあそこまで排他的になりうるか。キリスト教徒の隣人愛は、決して他者への愛ではなく、同胞への愛でしかない。異教徒に対する徹底した排除と差別は、欧米社会の根柢にあって、決して希薄化していない。
B――だからね、一九九〇年代まで育ってきたアメリカをはじめとする欧米の多元文化主義、他者へのその寛容性。これは一部のインテリのリッチな階層だけのリベラリズムで、社会の中にそれに対する反撥がじわじわ成長してきていた。それが9.11で猛然と舞台中央に踊り出たというわけだ。
A――しかし、ここに来て、イラク戦争は間違いだったという世論調査が出る。戦争反対デモも起きる。いろんな情報操作の嘘が暴露される。それも、コストが大きすぎるとわかってのことだ。ずいぶん、勝手な世論だ。
C――あやつらの民主主義はいつでもそうなんだよ(笑)。景気がよいと、みんなで礼讃して英雄に祀り上げるが、失敗となるとトコトン叩く。それがアメリカン・ヒーローの命運だぜ。景気がよいと、自分もその気になってしまうが、情勢が悪いとなると、たちまち反対に転じる。騙した騙されたという話になる。そしたら、その間、死んだ連中は犬死になってしまう。
B――今回のは、もともと何の大義もない、たんなる帝国主義の侵略戦争だ。アフガン戦争の時は、9.11の報復戦という名分がまだあった。しかしイラク戦争には、何の理由もない。大量破壊兵器はどこにもない。全部嘘だった。ところが、嘘で始めた戦争だと判明しても、まだ世界中の諸国家は、この野蛮な帝国主義を阻止できない。
A――それどころか、まだ一遍も海外派兵したことのない自衛隊を、この機会にイラクへ出そうというバカがいる。そんなバカに政権を執らせている、もっとバカな国民が我々だ(笑)。これだけ大義名分を欠く戦争なのに、嬉しそうに尻尾を振ってアメリカに追随しようとしている。国家として、なっていないね。
C――軍隊がないと、国家として体をなさないという論があったね。しかし、防衛費という名の軍備費の金額を尺度にすれば、自衛隊は事実上立派な軍隊だ、実戦で役に立つかどうかは別にしてもだ。しかも、これが憲法からすれば非合法の組織だときている。憲法改正論は、ようするに、自衛隊という非合法組織を合法化しようということだ。イラクへ自衛隊を出そうという企図は、海外派兵の前例を作ってしまおうというだけではない。自衛隊を合法化するチャンスと見ている。
B――それは、つまり、派遣した自衛隊員に死者が出ることだね。犠牲者が出ると、はじめて世論も変る。同胞の死の厳粛さの前には、だれも文句を言えないからだ。そうなると、イラクへ自衛隊を出したことも正当化される。それどころか、自衛隊の国内価値が上昇して、日陰者の身分を脱して、日の当る場所に出ることができる。そして最後には、憲法において合法化されること、それが期待されている。
A――行って死んだら、一億円までなら出そうという話もすでにあるそうだ。何人死人が出るか知らないが、一人一億なら安い買い物だ、というわけですな。百人死んでも百億、という計算だ。
C――だいたいだねえ、行って死んだら一億円、なんてのは、いかにも失礼な話だ。自衛隊員の生命を金で買おうというに等しい。この政府はなんという卑しい心の持主なんだ(笑)。というよりも、大義名分がないから、金の話になる。
B――もっとも、それは、大義名分があって、国民の生命をタダで消費できるまでには、まだ行っていないからだよ(笑)。軍隊というのは、最初は金で雇う傭兵だ。タダで使えるためには、国民が大義名分という嘘にのってしまうことが必要になってくる。だから、行って死んだら1億円、というのは、現段階では、自衛隊も、国軍というより傭兵部隊の段階だということだね(笑)。
C――そこで、千里の道も一歩から(笑)。まず何よりも、イラクへ自衛隊を送り込んで、だれかに犠牲になってもらわなくてはならない。無事全員帰還することを祈る、というのは、表向きの公式な送辞だ。裏は、だれか死んでこいよ、だれも死ななかったら、今回のミッションは失敗だぞ、ということだね。
A――そんなこんなで、事前調査だの何だのとウロウロしていたら、外交官が二人、先に殺られてしまった。
C――二人ともまだ若いのに、気の毒なことをしたな。
B――まったく、なあ。
A――何の週刊誌でしたっけ、『週刊現代』か。あれに2人の遺体写真が載ったということで、何か騒いでいたね。外国のメディアはこれを「報道」したが、しかし、日本のマスコミはこれを「報道」しなかった。マスコミ報道は真実を伝えるのが商売なのに、これはどういうことだ、というわけですな。
C――遺体写真は、死者への冒涜だという。しかしそうではないね。これは、死を遠ざけよ、という社会のタブーに抵触するからだ。死体というリアルなものを、見まいとする。死体は隠蔽されねばならない。そういうモレス(慣習)がある。だから、「はた物」といって磔刑を公開することがありえたわけだ。そうすると、死体の公開は、磔刑に等しいということになる。そこで、死者への冒涜だということになる。
B――そういう社会の空気に乗じて、遺体写真公開がご法度になる。マスコミも自主規制して、遺体写真を掲載しない。この自主規制の論理は、猥褻図画の扱いと同じなんだぜ(笑)。
C――だからだよ、日本のマスメディアの言語は、日本人同胞の死体というリアルなものを位置づけることができない。言説秩序の内部に回収できないから、それを締め出し、排除する。こちらの方が死者への冒涜ではないのか。猥褻図画の扱いと同じ自主規制の論理じゃあな。
A――だったら、戦争報道映像はすべてご法度になる。外交官二人の遺体写真ではなく、遺体映像のヴィデオ録画もある。これは一時ネット上で誰でも視ることができた。あれをここで出してもいい。だけど、それはやりすぎだな。
C――そうさな。あまり意味はあるまい。海外ならニュース番組で流れたありきたりの映像だ。しかし、日本人外交官がそれと狙って殺されたということは、明らかに警告だな。
B――これは日本政府に対する警告だ。アメリカ政府に同調して軍隊を送り込もうとする相手に対して、危険だから止めた方がいいというメッセージだ。ところが、それに対して、日本政府の反応は、こんな脅しに挫けるようでは男が廃(すた)るということだね。
C――そろそろ、態勢は戦闘モードなんだよ(笑)。しかし、どこかで、よくやってくれた、という声もきこえるね。それは、テロリストらがよくやってくれた、という逆の意味だ(笑)。
A――これでやっと、戦闘モードに入れる、ということですな。自衛隊が出るより先に、犠牲者が出たということは、予想外の成果だ。また早速、金の話が出て、九千万円出すという。さっきの一億とか、この九千万円とか、言っているがね、殉死した警察官や消防士にそんなに出していなかったはずだ。
B――だから、これは「国策」なんだよ(笑)。殉死した警察官や消防士には厚遇はしなくても、イラクで死ねば法外な金を出そうという、これは自衛隊合法化へ向けての投資なんだ。投資と思えば、コストパフォーマンスはかなりよい、という算段だね。












































*【資料】意味不明文
*おことわり*
 美浜原子力PRセンターは従来どおりご見学いただけますが、原子力発電所構内へのご見学につきましてはイラクへの武力行使の関係で一部制限させていただいております。
 大変ご迷惑をお掛けしますが、ご理解を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
  (連絡先電話番号)
 美浜原子力PRセンター TEL0770-39-1210

C――とにかく、それはすべて裏のハナシだ。イラクへ出て行くには、大義名分が嘘でも欲しいところだが、それがない。「御国のために死んでまいります」とは言えない。はっきりいえば「アメリカ大統領のために死んでまいります」ということでしかない(笑)。そんなバカな話はあるまい。あるまいが、ところが事実上はそういうことなんだ。こんなことで、自衛隊の若者たちを死なせてはいけない。
B――もっと明確に言えば、「アメリカ大統領のために死んでまいります」としか言えない派兵。これは売国奴のすることだ(笑)。
C――おやおや、ずいぶん愛国的なお言葉だね(笑)。
B――むろん、愛国的というよりも、アメリカ帝国主義の理不尽な戦争のために、日本の若者たちの生命を犠牲に捧げるとは、何ごとだ、ということだ。
C――いやいや、冷やかして言ったのではない。真の憂国者なら、今こそ、そういうことは言わなくてはならない。愛国は右翼の専売特許ではないぞ。ここまで「グローバリズム」という名の米帝専横支配が極まったいま、愛国のナショナルな論理はむしろ必要なのだ。そうだろう? 政府の経済政策にしても、左前になった企業やその資産を、アメリカ資本の手に法外に安く売り渡しているじゃないか。それが現在の日本では国策として平気で行われていることだ。これを称して、文字通り、売国的行為と言うのさ。こういう売国的行為が平気でなされている以上、アメリカ帝国主義の理不尽な戦争のために、日本の若者たちの生命を犠牲に捧げるのにも、何の抵抗もないわけだ。右翼はこれに対し、怒らんのかね。
A――イラクへ自衛隊を出すということは、はっきりと米帝側に立つということですな。しかも、外国軍隊による占領に対する抵抗運動、レジスタンスをテロリストと決めつけて。こういう反アジア的な行動をとった以上、現地のレジスタンスからは敵対勢力とみなされ、攻撃を受ける。
C――考えてみれば、皮肉なことだ。かつてアメリカ軍に占領された日本が、こんどは占領軍に加わろうとしてしている。しかもアメリカ軍に加担して。「アジア」というポジションはどうなったんだ。
B――それも、言うなら、大東亜共栄圏の遺志はどうなったんだ(笑)。日本人はあれを忘れてしまったのかい。いまイラクやアフガニスタンで執行されている、軍事占領には何の大義もない。むしろ、大義など、もはや必要はない、という倣岸不遜な帝国主義だ。この大義のない軍事占領こそ、キリスト教原理主義を背景にした帝国主義的行動である。
C――そして端的に言えば、今回の軍事占領の目的は、明らかに石油利権だ。サダム・フセインを排除したのは、要するに国際石油資本のために、イラクを再植民地化する、そういう《re-colonization》が今回の軍事占領だぜ。フセイン政権を粉砕するだけなら、それが完了した以上、さっさと引き揚げればいい。そうはせずに、名目なき軍事占領を続けているのは、植民地状態にしているということだ。
A――そこまで露骨な帝国主義的行動であるにもかかわらず、日本のマスコミはまだ「対テロリズム」というアメリカの論理を鸚鵡のように反芻していますな。鸚鵡は何も考えずに言葉を反復するが、日本のマスコミも頭は空っぽなんだ。それでなかったら、頭まで英米帝国主義に植民地化されているわけ(笑)。
C――だからね、日本政府も、イラクを軍事占領することは、国際石油資本のためだ、と明確に言えばいい。サダム・フセインに任せているよりも、国際石油資本にイラクの石油を自由にさせた方が、「国益」になるとね。その国益のために、軍事占領に参加するのだって。
B――イラク復興支援などと言っているが、これは軍事占領を持続するための口実だ。米英がイラクを植民地化しようとしている。このバスに乗りおくれるな。乗りおくれると国益にならないと、明言すればいい。対米同盟なんて胡乱な話を出すから、話が通じない。英米がイラクを植民地化する軍事占領に、日本も参加しなければならない。そうでないと、日本国民は石油を高く買わされることになるぞ(笑)、とかね。
C――そういう恫喝は、ブッシュ政権や国際石油資本から実際にあるだろう。しかしだ、それならそれで、何のために自衛隊を出すんだ、イラクの石油利権のために自衛隊を出すんだ、と言えばよい。自衛隊員が百人死のうと、国民生活に必要なエネルギー確保のためなら仕方がないじゃないか(笑)、というキャンペーンを張ればよい。
B――あいまいになっているのは、そのポイントだ。しかも、国民生活に必要なエネルギー確保のためなら、自衛隊員が百人死のうと安いもんだという論理は、同時に、日本国民に必要なエネルギー確保のためなら、軍事占領に抵抗する勢力は殲滅しなければならない、イラク人が何人死のうと知ったことではない、という論理でもあるね。それが本音のところだが、なんとも…やれやれ、だ(笑)。
A――そこで、そんな汚れたエネルギーなど欲しくない、もっとクリーンなエネルギーが欲しい、となれば、その国民も上等ですがね(笑)。
C――そうなると、原発か自衛隊派兵か、という選択を持ち出してくるぞ(笑)。すると、上等でない国民は、原発はイヤだ、自衛隊派兵の方がいい、という選択をしそうだな(笑)。
A――ようするに、国益という論理なんてそんなものですよ。国益という論理を持ち出せば、自国民だろうと、他国民だろうと、犠牲者が出ても一向かまわなくなる。せいぜいが、気の毒だが仕方がない、やむをえない、という話になる。
B――その「やむをえない」の論理に、だれもが屈服してしまう。そこが問題だね。アメリカの軍事占領、これには大義名分は何もない、しかし「やむをえない」というわけだ。アメリカ大統領に尻尾を振る日本国首相の情けない姿は、見てはおれないが、しかし「やむをえない」(笑)。
A――なにごともそうですが、「やむをえない」といっているあいだに、事態はどんどん悪化する。アメリカの一元支配がどんどん貫徹される。もはや国連など無視できるまでになった。やりたい放題だ。アメリカが容認しない政権は地球上に存在できなくなる。全部、御家お取り潰しだ(笑)。
B――そういえば、お取り潰しになった殿様を捕まえた。サダム・フセインは、よく生きていたな。てっきり、死んでいたかと思っていたが。
A――でも、生きていたにしても、彼はもう無力だったのでしょうな。農家の庭先の地中に掘った小さな穴ぐらに隠れているところを捕まった。占領米軍は大はしゃぎ、暴君は「捕まったとき、鼠のようだった」と嬉しそうに発表していた(笑)。
B――「ウイ、ガッデム(We got him)」(笑)。
C――それを言うなら、「ガッデーム(God damned)」というべきだろう(笑)。
B――裸の王様になって捕まったフセインは一人で、あの大統領親衛隊など、影も形もなかった。独裁者は本質的に孤独なんだぜ(笑)。占領後は、彼が生きてても生きてなくても同じだった。自爆攻撃を含む、対占領軍抵抗闘争には関係ないだろう。あれがフセインの指示によるものだとは、だれも思わない。占領米軍は大はしゃぎだが、それよりも、フセインを年末までずっと捕まえることができなかった、という事実はどうなんだ。アメリカ政府は、これでポイントを稼いだつもりだろうが、もともと彼が生きていても生きてなくても、それとは無関係に対占領軍闘争は展開されてきた。
A――日本のマスメディアにしても、このニュースに浮かれていた。相変わらず、バカだねえ(笑)。占領支配当局は、フセインを薬物で朦朧状態にして撮った映像を流した。悪どい事をやるものだ。
B――フセインをさらし物にしておったな。あの記者会見は、帝国主義の悪辣さを露骨に見せたものだね。あの無邪気な邪悪さは、我知らず無意識に出てしまった、やつらの本質だろう。
C――アメリカ政府は、フセインを捕まえて、それをどう料理するか、そこに世間の視線を集めさせておいて、その隙にやりたいことをやるつもりだろう。イラク占領の不当性を、フセイン料理という余興で誤魔化すつもりだね。
B――フセイン捕捉報道は、イラク占領キャンペーンの道具だった。アメリカ政府はイラク占領でグッドニュースが何もなかった。国内で撤退気運が抬頭してくるところで、この福音だ。しかし、これは「福音だと主張する」キャンペーンね。これから、フセインの悪逆非道を暴きたてて、料理する。フセイン料理を食わせられるぞ(笑)。
C――しかしだね、この暴君を支えたのは、アメリカだったじゃないか。フセイン体制を育てた張本はアメリカ政府だった。
A――そうですな。かつてフセイン政権を支えていた黒幕はアメリカだった。フセイン政権を使って、イスラム原理主義のイラン政権を潰させようとしたね。アメリカにとって独裁政権ほど、都合のよいものはなかった。へたに民主化すると、利権を高く買わなければならなくなる、だから、独裁政権の方を支える。これはイラクに限らなかった。独裁者と話をつければ、簡単容易に利権を買えた。フセイン政権があれほど非道なことができたのは、アメリカが容認していたからだ。利権が金で買える以上、何でもやらせていた。そうして金で買えるあいだはよかったが、当の独裁政権と反目が生じて、金で利権を買えなくなると、こんどはその独裁政権を取り潰しにかかる。
C――それがこれまでのアメリカの手口だった。その点では一貫している(笑)。ただし、ブッシュ政権は無理なことをしておるし、かなりアヤしいことをやっているぞ。この政権は、スキャンダルで壊滅、ということもありうるね。長くはないだろう。
B――そこで言えば、前に話が出たが、幕藩体制ね。家康の時代までは、まだ連合政権の雰囲気があった。関ヶ原だって諸大名に勝たせてもらった。その恩義があった。徳川家は最大の大名になったが、それでも諸大名の一つという認識があった。しかしそれが家光の時代になると、中央集権的になってしまう。それまでに、さんざん御家お取り潰し、諸大名の除封をやっている。代替わりしてるうちに、徳川に歯向かう大名は居なくなる。
C――いまやアメリカ大統領は、文字通り世界の征夷大将軍(笑)。笑い事ではないがね、その征夷の「夷」とは、イスラム原理主義だね。我々の国は、この征夷大将軍に組織されて、イラク軍事占領のために動員をかけられている。これに唯々諾々として応じることは、「やむをえない」ことだろうかね(笑)。
A――イラクが片づけば、こんどはイランだ、シリアだ、だいたいシナリオはできている。世界中の諸大名は、この征夷大将軍に抵抗できなくなりつつある。そして、お次は北朝鮮。これが片付けば、地球上の抵抗勢力は一掃できたことになる。天下泰平、永遠の平和が訪れるぞ(笑)。
B――北朝鮮には石油はないから、侵略のコストに見合うメリットはないがね。キリスト教徒の西洋人のことだから、日本人の軍隊を使ってやらせるつもりかね(笑)。
C――そうなると喜ぶ連中がおるな。どんな体制でもいいから、平和がいちばん。アメリカン征夷大将軍の一元支配、独裁の世の中になって、地球に平和がやってくる。しかし、そのうち、天皇陛下万歳ではなくて、アメリカ大統領万歳を三唱しなければならなくなるね(笑)。
B――現実には、もうそうなっている。戦後の平和と民主主義、その帰結がまさにこれだ。日本人はアメリカに占領されて以来、頭の髄までアメリカ化され、植民地化された。日本ほど米帝支配が貫徹された国はどこにもない。
C――日本は軍事占領されて、脳髄まで植民地化されてしまった。それまではファナティックな国民だと信じられていたが、意外なことに、猫のように大人しくなっちまった。イラクの軍事占領でこの前例を期待したとすれば、それは根本的な誤りである(笑)。
A――それが証拠に、占領軍相手の自爆攻撃。この自爆攻撃の連続で、カミカゼ特攻攻撃は完全にお株を奪われましたな(笑)。
C――そんなお株は返上したいが(笑)、カミカゼ攻撃が当時どう見られていたか、それが今こそよくわかる。現在日本人はイラク抵抗勢力のゲリラ的自爆攻撃を、何の痛みもなく見ているのではないか。むしろ、痛みの共感があるとすれば、自爆攻撃で殺傷される側に対してのことで、決して自爆する側の痛みへの共感ではない。しかし、かつての神風特攻隊を、悲劇として記憶し、その痛みへの共感は失わなかったはずだ。ところが、イラクの自爆者の痛みに共感するどころか、たんなる無知蒙昧な狂信的盲動としてしか見ない。これでは、我々の父祖の世代の、かつてカミカゼ攻撃を敢行して自爆した若者たちは浮かばれまい。
B――頭の髄までアメリカ化され、植民地化された、という時点で、我々はもうすでに、戦時中自爆した若者たちを裏切っているわけよ。あれは軍国主義の狂信的な行動だったと総括した時点で、我々が今日、自爆攻撃を受ける側に回ることは予定されていたのだ。自衛隊を出すということは、軍事占領の一端を担うことで、自爆攻撃を受ける側に立つということだ。歴史は回る、だねえ。
C――コロニアリズムを隠喩に使って、ポスト・コロニアリズムなんて、のんきなことを言っているあいだに、本物のコロニアリズムに貫徹されてしまった、か。
A――最近、医学系のどこかの学会で、発表はもちろん質疑応答まで、英語でやろうということになったらしい。これなど、まさに脳にまで及んだコロニアリズムだね。英語帝国主義に対するレジスタンスなんて意識はどこにもない。
C――そのうち、英語で表現できない概念はご法度になるぞ(笑)。ひどい時代になったな。
B――いや、まったく。長生きなどするもんじゃない(笑)。
C――しかし、キリスト教帝国主義は、今日昨日のものではない、伝統があるね(笑)。キリスト教宣教と植民地主義は、すでに16世紀に東アジアに進出しておった。
A――南米やインドで植民地化に成功して、地球最後のエリア、極東に廻ってきた。









Drag makes him
"Disoriented"
















関行男 23歳 中野磐雄 19歳





――さて、植民地化の話が出たところで、キリスト教宣教師を尖兵とする植民地化事業、あるいは秀吉の朝鮮侵略はどういうことだったのですか。それに関連して、戦国社会の実相、あるいは十六世紀の戦国期と、偃武後の社会の差異、ということでは、いかがでしょうか。武蔵が通過した時代の転変ですが。
A――まず、刀狩という人民武装解除ということがあるね。兵農分離ですな。しかし、これは兵農未分離から分離へ、という単純な話ではない。
B――少なくとも戦国期社会というのは、だれでも武装せざるをえなかった社会だね。兵農の区別はない。ただし武装していたのは、家単位ではなく、村といった共同体単位だね。領主の徴兵に応じるのも、村単位で何人出す、という話になる。領主の方も、こんど出してくれたら、年貢はこれだけ免除とかいって、条件を出す。あるいは、今回は二十日だけ、もちろん食糧は提供するぞ、武器も用意しておるぞ、とかね。言ってみれば、条件つきの徴兵で、傭兵みたいにして徴兵する。
C――そういう点では、幕藩期のように兵農分離はなかった。しかし、むろん、領主は武士という武装集団を抱えていたわけだ。武士は知行を受けているから、若党・中間といった配下を引き連れてのことだが、武士は家単位で動員に応じる。出陣のさいはもちろん自弁だね。こういう点では、兵農分離は戦国期にもあった。むしろ日常的には兵農分離で、非常時には村単位で徴兵するね。
B――だから、日常的には兵農分離だが、戦闘にプロもアマもないという状態だ。むろん武士という殺人の専門家はいたが、これは要するに暴力団だね。現代でいうと、何々組という組織だね、あれをイメージすればいい。
C――武士というと、身分的に上位という錯覚があるが、それは近世の秩序社会でのこと、戦国期はそうではないな。
B――面白い話があるね。おれたちは戦場に出てしまって、城が空っぽになるから、おまえら、城に入ってくれ、と領主が各村へ指示する。これだと、戦場へ出るのは領主以下の武士たち、城を守るのは、百姓たちという構図だ。ここまでになると、兵農連帯はかなりのものだ。言い換えれば、一般民衆は傍観者の立場ではなく、むしろ戦争に加担している。戦争に巻き込まれているという消極的なものではない。
A――そういう場合でなくとも、地域の村や町の住人が城に入るケースは多いですな。これは、どういうことかな。
B――もちろん、戦争になると、村や町の足弱〔あしよわ〕、つまり女子供老人は、たとえば、山へ避難して戦闘が終るのを待つ。というのは、侵略してきた側の略奪が物凄いからだ。だから、おまえら、略奪ばっかりしていないで、もっと真面目に城攻めしろよ(笑)、なんて書いた文書もある。じっさい、城攻めはほどほどにして、略奪して引き揚げるという形態の侵略戦争が少なくない。
C――略奪が戦争の目的だったと思えるふしがあるね。戦国期は、侵略したり侵略されたりして、略奪しあっている。侵略しても、あんがいさっと引き揚げる。この行動を、国取りの失敗・不発と見ては、間違いだ。これは戦争の動機が領土的野心というより、戦利品目当ての戦さだということさね。この点、現代の一般的理解とはかなり違う。
B――だいたいだねえ、大衆小説家たちが、ろくでもない武将出世物語ばかり書いてきたからね(笑)。出世したいという男たちの欲望を煽って、連中は稼いできた。成功した武将たちを英雄として称揚するのは、その家中子孫の記録文書だが、現代の通俗作家たちの小説もそれとさして変らんね。
A――読者は小説を読んで、英雄と同一化するが、そうでなくても、自分は英雄の子孫といった気分になる。オヤジ好みのヒーローだから、これが始末に悪い(笑)。
置塩城


置塩城配置図
利神城





ザビエルとヤジロー(アンジロウ)




武田陣立図

*【妙法寺記】
《天文十五年 男女イケトリ被成候而、悉甲州へ引越申候、去程二、二貫・三貫・五貫・十貫二テモ、身類アル人ハ承ケ申候。
天文二十一年 打取首五百余人、足弱取コト、数ヲ不知》






天正8年10月14日上杉景勝条書

*【徴古存墨】
《(城が)無人数に候間、(中略)地の者どもに申付くるよし候、万事咲止に候。大なみの時は、必々うちあけべく候に、なまじひに地下人ばかりに持たせ、けっく、敵のすに成るべき事、咲止に候》

A――戦国期の略奪というと、金目の物を略奪するほかに、「苅田」といって田んぼの稲を刈って持ち去る、女子供を拐って行ってしまう人の略奪もあった。物品、苅田、それと人間、この三つが略奪のターゲットですね。
B――そういうことだね。最近不況のせいか、農作物の窃盗が多発している。戦後米泥棒はよくあったし、当時我が家でもやられたことがあったが、それが今になって起きるとは(笑)。去年までは倉庫からの泥棒だったが、とうとう今年は、まさにこの苅田があったね。朝起きてみると、田んぼの稲が刈り取られてしまっておる(笑)。
C――状況はそこまできたか(笑)。そのうち、人も狩られるかね。ともあれ戦国期の略奪、人間の略奪とは言っても、女子供だけではない。男を生け捕りにして、連行する。これはいわゆる捕虜ではない。物品と同じように、人間も商品になるからだ。人身売買の商品ということだね。戦争が終ると、たいがい市が立つ。それは略奪品の市、なかでも人身売買の市だ。戦争が終ると、商品としての人間が大量に出回る。大きな合戦の後では、何千、何万という、商品としての人間が発生する。需要供給関係から、ひと一人かなり安く叩き売られる。二束三文だ(笑)。
A――日本へ布教にきた宣教師の文書にもそんな報告がありますな。
B――ヨーロッパ人は当時、世界中を荒らしまくって、グローバルな奴隷市場を形成していた。東南アジアに日本人はかなり出ていた。ケトウ(毛唐)に売られて、マカオ、インドのゴア、果てはヨーロッパまで、遠い異国へ連れて行かれた連中も多かっただろう。これには切支丹宣教師が介在していた(笑)。じっさい、ポルトガルやスペインの宣教師の布教資金は、貿易の利益から出ていた。キリスト教宣教のコロニアリズムは、交易商売と不可分だね。そのとき人間というのは重要な商品だね。
A――すると、戦国期の略奪と人身売買のノウハウは、宣教師から教えられたということですかな(笑)。
B――必ずしもそういうわけじゃない。伴天連が来る以前から、日本にも人身売買はあった。生け捕りにされた連中を、親戚が買い戻す。これを商人が仲介する。商人は本来、どちらにも属さない無縁または両属的存在だから、武器や兵粮・備品を売ったりするし、こんな人質請戻しの仲介もする。戦場には必ずこういう人買い商人が付いて回った。もちろん、商人も武装集団で、手下を使って組織的に「人執り」をして、利益を挙げる。しかし、これが、市が立つほど、組織的に大量になされるのは、十六世紀後半。つまり、キリスト教宣教が入って以後のことだね。人間の商品化は、かくしてキリスト教の教えの一つだろうな(笑)。
A――戦国期の戦争モチヴェーションについて、従来の、領土的野心という説は恠しいね。戦争が日常化するのは、人と物という戦利品で稼いで生きていた、そういう「戦争経済」があったということですな。
B――もちろん、戦争で村や田畑が荒廃して食えなくなったから、戦争で食うという流れになる。戦争でしか稼げないとなると、戦争はやめられない。それが戦国期のかくも長きにわたった理由だ。
C――武田信玄の軍隊など、それこそ組織的に生け捕りをやっているな。これは買い戻させるためだが、当時はどこの戦場でもこういう有様だった。
A――戦争の動機は戦利品目当て。こういう報酬がなければ、だれも動員には応じない(笑)。人間を生け捕りにすれば、金になる。そういうシステムが出来上がると、戦争は人間狩りの手段になる。戦争は殺し合いだけではなく、生け捕り合戦になる(笑)。
B――それで思うのだが、小倉碑文などに新免無二の「十手」の家とあるね、この十手術は後世のような警察活動の捕縛術ではなく、そもそも戦場で人間を生け捕りにする、人間狩りの技術だったのではないか。
A――おう、それは武蔵二刀流起源論における新説ですな(笑)。
C――二刀流は武蔵に限ったことではない。二刀使いの起源は十手(実手)術で、これが人間狩りの技術だった、というのはありうることだね。
B――生け捕りにしても、現代でいう捕虜なら、食わせて着せてという経費がかかるだけだ。生け捕りにするのは、売るためだね。だいたい戦果報告文書は、首がいくつ、生け捕り何人という形式だね。数字では、殺した数の何倍も生け捕りにしている。そうなると、逆に侵略される側は、山へ逃げ込んだだけでは、この災難を避けられない、となると、住民が城へ入って籠るわけだ。戦国期、山城でも意外に面積が広いのは、住民の避難を予定してのことだろう。
C――そういうわけだ。したがって、領主は住民を保護する義務を負っていたわけだ。おまえらを保護してやるから、ふだんからおれっちにきちんと貢いでくれよ、という契約だ。武士は本質的に暴力団で(笑)、そういう条件で年貢を取る。しかし、領主の方も住民を連行されてしまうと、経済が成り立たないから、保護しないとやっていけない。領主にとって何がダメージかというと、生産者がいなくなることだから。
A――その反面、逃散もあった。住民が逃げてしまう。あるいは、「百姓は草のなびくやうなる」だから、どの勢力だろうと強い方へなびく。領主にとっては、もともと住民はあてにならないものだ(笑)。
C――あるいは、出陣して空っぽになる根城を住民に任せるという話だが、越後の上杉景勝の訓戒に、いくら軍勢が足りないからとはいえ、地下人(村民)らに城を任せるのは危険だ、危なくなると逃げ出されて、結局城は敵の巣にされてしまうぞ、とある。決して人民を信用するな、というわけだな(笑)。
C――兵農分離の話にもどれば、兵農分離というのは、一般には秀吉の刀狩以来だと思われている。しかし、秀吉がはじめてこれをやったわけじゃない。それ以前から、惣国規模で支配を確立して、国持大名になった領主は、たいてい刀狩をやっていたね。一向一揆で惣国支配を実現した越前でさえ、闘争停止、武装解除をやっていた。
B――天文年間の証如の具足懸禁令(1537年)だね。私闘禁止の形態だが、これは武力を一元支配するためのものだ。ある意味では、一向衆の惣国支配は、秀吉の統治形態の先駆けだね。決して秀吉の独創ではなく、一国規模では、前例はいくらでもあるだろう。
A――そのばあい、刀狩と検地はセットになっている。農民を兵として動員するよりも、生産者として居着かせたいというのが、国家経営の眼目になる。しかし同時に、検地は土着小領主の既成権益を侵害する行為だね。検地で隠田を摘発してしまう。
B――余禄の余地がなくなるから土着小領主の利権は失われる、というよりも、生産力を大名が詳細に把握することを通じて自治権を剥奪するということだね。ただし、検地は太閤検地以後、見直しはない。近世を通じて、プロダクティヴィティ(生産力)は何倍にもなったが、公式には領地何万石という石高は以前そのままの数字。差額は文字通り余禄になった。
C――その話で言えば、江戸時代、五公五民とかいって重税だといってるが、そんなことはないね。初期の検地石高が基準だから、五公五民でさえも、実際にはまあ二公八民どまりだろう。
B――いま我々は、収入から税金と保険料込みで四、五割は徴収されているな。してみると、我々は四公六民の公租公課。これがそのうち六割になるだろう。となると、六公四民。
A――それじゃあ、現代国家の人民は、昔の民百姓よりもずっと苛斂誅求を受けていますぞ(笑)。
C――飢饉でもなけりゃあ、昔の方がずっといい暮らしだ。ところで、戦国大名がまず刀狩をしたのは、一般住民を武装解除するためというよりも、土着小領主を実質的に武装解除するためだった。村々に対する直接支配を確立するために、土着小領主の既得権を制限し排除しにかかるわけだ。
B――かつて自立的権力だった土着小領主は、生き延びるために、組織されて大名の支配下に入る。『甲陽軍鑑』に「与力はことごとく被官になり」という、あれだね。
C――けれど、それがうまく行った地域もあれば、その後も延々この整理ができず、幕藩期を通じて大名支配を貫徹できなかった地域もある。そういう地方では、中世以来の家筋が残っている。中世の社会組織が明治まで存続した所もある。だから、一概には言えないが、兵農分離と検地が貫徹されるというのは、中世的なものから近世的なものへ社会組織が変化する指標だろうね。

秀吉刀狩令 大阪城天守閣所蔵



*【具足懸禁令】
《事を左右に寄せて兵具を帯る輩に於ては理非をいはず、郡中としてせらるべく候》(明厳寺文書)






*【甲陽軍鑑】
《一城をかまへ罷有る侍大将、かうさんいたし、ずい身申すをバ、よりきとあるハ、其国中ニて、とりあひある間の儀ニ候、其国ミなおさまり候ヘバ、よりきハ、こと/\く、ひくわんになり申候》









*【朝鮮日々記】
《人あきないせるもの(中略)後につき歩き、男女老若買取て、縄にて頸をくくり集め、先へ追立て、歩み候ねば後より杖にて追い立てゝ打ち走らかす有様、(中略)かくの如くに買集め、たとへば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせ荷物を持せなどして責むる躰は、見る目いたはしく有りつることなり》

*【宣祖實録】
《以朝鮮所捕之人、送于日本、代為耕作、以日本耕作之人、換替為兵、年々侵犯、仍向上国矣》




*【ヴァリニャーノ書簡】
《私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができます。なぜなら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからです。(中略)もっとも、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きです。なぜなら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛かつ貧しいので求めるべきものは何もなく、また人民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからです。(中略)しかしながら、シナにおいて陛下がなさりたいと思われている事のために、日本は時とともに非常に益することになるでしょう。それゆえ、日本の地を極めて重視する必要があるのです》(一五八二年一二月一四日付 フィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデ宛)

*【カブラル書簡】
《第一に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、主への大きな奉仕であり、第二にそれによって全世界的に陛下の名誉が高揚される。第三に、シナとの自由な貿易により王国に多額の利益がもたらされ、第四にその関税により王室への莫大な収入をあげることができる。第五に、シナの厖大な財宝を手に入れる事ができ、第六にそれを用いて、すべての敵をうち破り短期間で世界の帝王となることができましょう》(一五八四年六月二七日付 スペイン国王宛)



伝来銃(左)と国産第一号銃(右)

Macau


赤松水軍根拠地・那波浦 兵庫県相生市


*【カブラル書簡】
《私の考えますに、この政府事業を行うのに、最初は七千ないし八千、多くても一万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分でしょう。(中略)日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)たちは、容易に二三千人の日本人キリスト教徒を送ることができるでしょう。彼らは長く続く戦争に従軍してきているので、陸海の戦闘に大変勇敢な軍人であり、月に一エスクード半または二エスクードの報酬で、嬉々としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するでありましょう》(同前)


A――朝鮮出兵の際、日本の民衆は、これを快挙として大いに興奮していたが、大名は軍事資源調達に四苦八苦している。しかも、あのドサクサに、大名の領国支配はかなり危なくなっているね。
B――それは、朝鮮動員がかなり極端なものだったからだ。主力が出兵してしまっては、領国支配は手薄になってしまう。その隙に、在国ではいろんな思惑が活発化して情勢が不穏になる。ところが、侵略戦争を内乱へ、というテーゼが貫徹されなかったのは、朝鮮出兵が武士だけではなく、領国住民を大量に動員するものだったからだ。村々の若者たちを動員したからね。
C――連中は、出稼ぎのつもりだったろう(笑)。それよりむしろ、戦争は武士だけがやっていたと思ってしまうのは、そもそも間違いだね。武将から足軽クラスまで含めた武士集団の他に、それと同数程度の非武士集団、百姓・商人が動員されていたのが実態だ。武士が千人いたら、それ以外に千人、非武士集団がいた。この非武士集団こそ兵農非分離の集団だね。朝鮮侵略でこうした非武士集団が、全国からそれこそ何十万と集められた。しかし、彼らを徴発できたのは、むろん戦利品の誘惑だね。
B――朝鮮侵略は、それまでの戦国期の内戦と同じパターンで、殺戮と掠奪を徹底してやっている。戦果の一つは、何人殺したか、ということだから、首をいくつあげたか、そこで、首を何千と船に積んで送ってくる。あまり数が多すぎて、首だと嵩が高すぎて船で輸送できないとなると、削いだ鼻だけ送ってくる。これが何人殺したかという物証だね。そうしてまた、戦利品は、物だけではなく、生きた人間も戦利品だ。半島の住民を大量に生け捕りにして、日本へ送っているね。
A――すると、金正日の諜報機関はささやかな歴史的報復をしたというのかな(笑)。一向宗の従軍僧の日記(慶念・朝鮮日々記)がありますね、釜山あたりは、日本からやってきた人買い商人が群れて奴隷市場を形成していたらしい。それに、侵略軍に人買いがつき従って、どんどん買い取っていたようですな。
C――人間を戦利品として日本へ送る。その掠奪論理が、興味深いことに、二十世紀の論理と同じなんだぜ。『宣祖實録』という李朝の正史があるが、当時捕虜になった日本人武士の供述がある。それを見ると、朝鮮人を日本へ連行してきて、労働者として働かせる。日本の農民はそれと代って兵として朝鮮に送って、「上国」つまり明への侵略軍に仕立てる。すなわち、日本人は出征してしまうから、国内生産は生け捕りにしてきた朝鮮人にやらせよう、というわけだ。
A――そういう意味では、侵略戦争の組織論は、秀吉の時代から変っていなかった。しかし、秀吉はどうして、朝鮮出兵、大明国支配などという、途方もない企画を立てたのですかね。
B――もちろんこれは、誇大妄想でも何でもない。ヨーロッパ人のキリスト教宣教活動の、アジア植民地化構想とシンクロナイズ(同期)したものだね。秀吉が誇大妄想なら、ヨーロッパ人は誇大妄想を現実に実現してしまった連中だぜ(笑)。
C――イエズス会の東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの書簡など見れば、日本は植民地化は無理だが、支那なら十分可能性がある、そのとき日本人の軍事力を支那征服に利用できるとの報告だな、これが(笑)。
A――スペイン人はアメリカ大陸を経て、十六世紀半ばには太平洋を横断してフィリピンに到達してましたな。そこをアジア植民地化事業の拠点にして、極東地域で貿易と布教の旺盛な活動を行っていた。
B――宣教師たちは、国王に支那征服の献策をしている。信長に会っていたフランシスコ・カブラル(一五七〇年代イエズス会の日本布教長)によれば、支那征服には六つのメリットがあると言うね。それを見ると、話はまったく帝国主義の論理だ。カブラルは、チノ(支那人)は悦楽に耽溺し臆病である、だから征服は容易であると言うね。
C――その例証が、れいのマカオの一件だね。日本人十三人がマカオに渡来した時、数千人の支那軍に包囲されたが、支那の船を奪って脱出した事件。その際に多数の支那人が殺されたが、日本人は数千人を相手にして一人も死人がでなかった、日本人は戦争に強いぞという話だが、当時周辺地域での日本人のイメージは海賊、ようするに掠奪する暴力団だね(笑)。
B――十六世紀を通じてジャパニーズ・パイレーツは東シナ海を荒らしまくっていた。そこで、陰流の伝書が大陸へ流出して知られていたりすることもありうるわけだ。当時あいつら強いぞということで、武術と言えば、海を渡って来襲する日本人(笑)。
C――水軍というが、海賊だね。陰流の流祖・愛洲移香斎の愛洲氏なんてのも伊勢に根拠をおく海賊で、熊野水軍に組織された一党だろうが。十五〜六世紀は戦国時代ということで、国内にしか歴史の目が向かないが、実は武士は掠奪と交易の場を東アジア沿岸全域に展開している。このインターナショナルなシナ海という交通世界は、戦国というドメスティックなケチな話じゃない。鉄砲なんて武器も最初、マカオの生産地から直接仕入れたのだろう。
A――すると、鉄砲の伝来が種子島経由というのは?
B――むろん、ポルトガル人が種子島にやってきて、というのは事実だろう。しかし、そのポルトガル人たちは倭寇の船に乗ってやって来たんだよ(笑)。
C――種子島以前から、倭寇はポルトガル人と付き合っていたし、むろん鉄砲も知っていた。日本人はそれ以前からシナ海沿岸を寇していたのだから、スペイン人やポルトガル人の先輩だったはずだね。ポルトガル人がマカオに居つくのを明朝に許されたのは、倭寇を追い払ったからだ。
B――種子島の一件後になるが、マカオに戦略拠点が開設されると、シナ海の状況は一変する。最初に鉄砲を戦場で大量に使った鈴木孫市の雑賀衆は水軍を背景にしている。この連中は、陸で使う前に海で鉄砲を使っていたんだ。雑賀衆以外にも同種の集団がいただろう。彼らは武装集団であると同時に、渡海交易集団でもあり、しかも武器生産のテクノ集団でもあるね。
C――インターナショナルな水軍をバックにしていたというのでは、もっと早い時期の例があるね。たとえば、嘉吉の変(1441)で赤松満祐が将軍義教を殺して、播州へ逃げ込んで戦ったが敗北し、赤松氏嫡流は壊滅する。このとき、嘉吉の変の首謀者の一人、赤松左馬助則繁は、決戦場の木山城から脱出、なんと朝鮮へ逃げた。それで、朝鮮の使節がやって来てクレームをつけた、赤松則繁が一国を占領して迷惑している、何とかしろと。変後八年して文安年間、機をみて赤松則繁は帰国して蜂起するが、結局敗北して河内の太子で死ぬ。これが史実かどうか分からんが、赤松氏が円心以来水軍を蓄えていたのは確かだし、十五世紀半ばの頃には、水軍が朝鮮で占領までしてたことはなきにしもあらず。
B――そうね、十五世紀半ばには、すでにそういう状態だろ。海には境界はない。
A――となると、通説歴史観と違って、当時の日本人は戦国時代で、国内の戦争にばかりかまけていたわけじゃない。すくなくとも、スペイン人やポルトガル人が東アジアに浸透していたように、日本人も大陸沿岸部にかなり跋扈していたということですな。
B――そういうわけで、イエズス会のカブラルは国王に、日本人を使って支那を征服するという案を出している。勇敢な兵士たちは安い報酬で嬉々として陛下に奉仕するであろうとね。ずいぶんナメた話だが(笑)、日本で布教する目的は、日本人をキリスト教徒にして、支那征服事業に寄与させることにある、というわけだ。事業目的は明確だ(笑)。
C――小西行長など、朝鮮へ出陣した大名に切支丹がいるが、まさにこのバテレンの謀略(笑)のモデルだろうな。実際、切支丹武士は少なくなかった。後の島原の乱の時点でさえ、九州の切支丹武装勢力はかなりの力量。その気になれば、数千どころか数万だって「切支丹侵略軍」を組織できる情勢だった。
B――イエズス会のカブラルはスペイン国王に支那征服を建策しているが、同時に、秀吉にも建策していただろう。この朝鮮侵略の黒幕には注意しなければならん。
A――日本人キリスト教徒を使ってシナを征服する、イエズス会のアジア戦略はそうだとして、秀吉の方はどういう征服計画でしたかな。
B――天皇を明の皇帝に据えて、秀次を関白とする。 朝鮮半島は羽柴秀勝もしくは宇喜多秀家に支配させる。秀吉自身は北京に入った後、江南の寧波に城を構え、そこから海路インド支配を目指すつもりだったとか、まったく帝国主義的な企画だ。これは、日本人が主導する大東亜共栄圏、だな(笑)。もともと圧制もあったから、日本軍を解放軍と錯覚した朝鮮人もいたらしいからね。
C――この侵略プロジェクトは、インドの植民地化は別にして、最終的には日本天皇を明の皇帝に据えて、という帝国横領なんだよ(笑)。中国大陸は、ずっと北方異民族支配だね。モンゴル人の元は言うに及ばず、明王朝だって北方辺境から発したので、これが漢民族の王朝だとするのは、ちょっと怪しい。多数派の漢民族を、武装した少数民族が支配するというパターン、これを秀吉も狙ったのだろう。
A――帝国横領の失敗は、日本軍が北方騎馬民族ではなかったことだ(笑)。
B――秀吉が企図したことを、わずか四十年後、清朝を興す弁髪の異民族(後金)が実現してしまったね。日本人の侵略戦争の失敗は、朝鮮半島経由で大明国を獲ろうとしたことではないかね。朝鮮半島は海岸部だけにして、内陸へ侵攻せず、直接、江南あたりから入って、一気に首都を攻略した方が、戦略的にはベターだったかもしれない。
A――それを、あえて、抵抗の大きい朝鮮半島から、という二段階戦略で行ってしまって失敗した。江南から侵攻というのは、倭寇と同じで品がない(笑)と、みたのかな。
B――そういうことでもあるまいが、西洋人ほどチノ(支那人)をナメてはいなかった。国学の十八世紀と違って、当時まだ日本人は唐人を尊敬していたのよ(笑)。何しろ聖人孔孟の本拠、「大」明国、世界の中心なんだ。だから事大主義的に構えて大軍を組織して、まず朝鮮半島を奪って大陸侵略の橋頭堡にするということだったね。
A――大明国に攻め入るから、道を通せ、妨害すればお前らを先にやっつけるぞ、というのが、朝鮮侵略の論理だった。
C――戦力だけとってみれば、当時の日本の軍事力からすれば、それは無謀な企てとはみえなかったはずだね。何しろ、秀吉の当時、ヨーロッパを含めた地球上で、軍事的に最も強大だったのは日本だったのだから。それほどの軍事力をもってしても成功しなかったのは、もちろん、抵抗闘争が強かった、李舜臣(イ・スンシン)の海軍に負けたということだが、それは結果であって、原因はやはり補給兵站という教科書通りの問題(笑)。侵略戦争の原則は現地徴発なのだが、十数万という侵略軍を維持するためには、やはり本国からの補給システムが必要だね。秀吉のことだからそのあたりは誰よりも熟知していたろうが、補給システムがうまく機能しなかった。
B――文禄の緒戦で、早々に制海権を失って、釜山−対馬の線しか確保できなくなった。南海から黄海沿岸を伝って北上する補給作戦なんて、まさに絵に画いた餅だった。あの倭寇たる日本の水軍は張子の虎だった(笑)。
C――もちろん朝鮮では、日本人は倭寇のイメージが強いからね、倭奴は沿岸だけ荒らして内陸までは侵攻してこないはず、と思っていた。ところが戦争が始まると、事態はまったく逆で、倭奴はあっという間に漢城や平壌まで陥れたが、その水軍は弱くて、すぐに補給線を切断できた。機を見るに敏な秀吉は早々に停戦を考えておるな。
A――その後は、日本軍は現地調達で略奪し放題だったが、明の軍隊が出てくると、守勢に転じて大明国侵攻どころじゃなくなった。明と交渉に当たったのは、小西行長…。
C――明の側の李惟敬という人物がかなり面白いが、こちらの交渉役は小西行長だね。これは親父が堺の商人あがりで、海事に詳しいし、朝鮮侵略の前衛をつとめた。
B――それに、言うまでもないが、小西行長は切支丹大名だね。行長は戦争の途中で秀吉に、朝鮮を半分でも切り取ったら、おまえにくれてやる、と言われておった。小西行長が侵略戦争にあれほど熱心だったのは、朝鮮に切支丹の王国建設を夢見たからだろ。
C――小西行長は、南鮮だけでも獲ろうとした。それで、文禄三年に、贋の降伏使節を仕立てて内藤如安や玄蘇和尚らを北京へ派遣したが、これは降伏なんだから、倭軍の朝鮮からの完全撤兵が条件だった。それじゃあ、行長の企図もご破算だ(笑)。










李舜臣(1545〜1598)




小西行長像 熊本県宇土市

釜山城攻囲










太閤秀吉像 箱根町郷土資料館









*【明皇帝勅諭】
《特に五軍営右副将・左軍都督府署都督僉事・楊方亨を遣はして正使となし、神機三営遊撃将軍・沈惟敬を副使となして節を持し、誥をもたらし、汝平秀吉を封じて日本国王となす。錫ふに金印をもつてし、加ふるに冠服をもつてす。陪臣以下またそれぞれ量りて官職を授け用て恩賚を薄す。よつて詔して汝の国人に告ぐなり。汝の号令を奉じて違越するを得ざらしめよ。世々汝の土に居りて世々汝の民を統べよ。けだし我が成祖文皇帝、封を汝の国に錫ふ。今に迄りて再び封ず。曠世の盛典と謂ふべし。封じてより以後、汝それ三約を恪奉し、永く一心を肩ひ、忠誠をもつて天朝に報じ、信義をもって諸国と睦しみ、附近の夷衆は務めて禁戢を加へ、事を沿海に生ずるなからしめよ。六十六島の民、久しく徴調をこととし、本業を離棄す。まさに加意して撫綏し、その父母妻子をして相完聚するを得しむべし。これ、汝の仰いで朕が意を体し、上、天心に答ふる所以のものなり》

*【秀吉回謝表文】
《万暦二十四年九月初五日、日本国王臣豊臣秀吉、誠惶誠恐、稽首稽首。東海の小臣、直に中華の盛典に遇ふ。誰命・金印・礼楽・衣冠、みな恩寵を恲す。臣一一遵崇し、感戴の至りなり。日を択びて必ず方物を具へ、九重に申謝し、慶んで丹忱を尽くさん。願くは愚悃を察せられんことを。天使先に回る。謹んで表を附しもつて聞す》









安重根(1879〜1910) 韓国切手




伊藤博文(1841〜1909) 日本紙幣
A――しかし、朝鮮出兵を、秀吉の無謀、増上慢あるいは狂気とみるのは、歴史家の常で、それが歴史学の限界でしょうな。
B――朝鮮出兵構想は信長の頃からあった。宣教師や商人の話にのっていたのだよ。朝鮮侵略にしても、宣教師を連れて行っているね。当時は宣教師や外国商人から情報を得ていただけではなく、日本人海賊商人の実地の常識として、東アジアの政治情勢を、かなり詳しく知っていた。
A――しかも、地球は丸いということを知っていた。コペルニクス的転回は通過していた(笑)。
C――そういう世界史的な意味を、日本史の専門家はわかっていないようだな。
B――当時の東アジアの情勢からすれば、あるいは日本の兵力からすれば、帝国横領は、軍略上無謀な戦略とは云えない。軍事的には周到な戦争だ。だから首都は言うに及ばず、半島北端まで一気に侵略している。ところが、二度侵略して、ともに撤退した。
C――それは、どうしてだったのか。一つは、補給システムがうまく機能しなかったことだが、これは、国内徴発が過重負担で本国が疲弊したという、歴史学の常識は嘘だね。現在残っている文書は、徴発が過重負担だという訴えが多いがね、これを真に受けた歴史家どもが、徴発が過重負担で侵略が挫折したというストーリーをでっちあげた。むしろ、海上補給システムは早々に挫折しているから輸送しようにも送れないし、また一方で、徴発が過重負担だ、不可能だという訴えは、徴発回避行動の証拠なんだよ。国内徴発がサボタージュに遭って成功しなかったと云った方がよい。
A――つまり、秀吉の天下はまだ中央集権的段階でなく、諸大名を同盟する一揆的形態だった。しかも、まだ領国経営が定まらない諸大名には、十分な徴発能力があったとは思えない。大名が動員徴発をしようにも、支配が貫徹していない以上、諸国人民が動かない。そういうことですな。
C――そこが複雑で、歴史理解の難所だ。朝鮮出兵は、その動員と徴発を通じて中央集権体制構築を狙ったものとみることができる。だから、諸大名は、能力以上の動員と徴発という難題を強いられた。これは中央集権化のテストだね。無理な難題という踏絵だ。
B――この侵略戦争は、中央集権体制の十分な構築が前提だが、同時に、中央集権体制構築を狙ったものという、そのあたりの入れ子になった構造は、きちんと認識しなければならない。中央集権体制構築が秀吉の思惑だが、二度の出兵で、それは成功したと云えるだろうね。そういう意味では、この失敗は成功だった(笑)。
A――だから、帝国横領という壮大なプロジェクトは、どこまで本気かわからない。これを秀吉の不条理な欲望あるいはメガロマニアックな狂気とみる歴史家は、この、どこまで本気かわからない、という虚実皮膜がわからない(笑)。
C――出陣した諸大名だって、秀吉がどこまで本気かわからない。これが、要するに、秀吉の中央集権体制構築プロジェクトだったとすればね、朝鮮で敗北したのは、秀吉ではなく、諸大名だよ。秀吉は、家康のように征夷大将軍ではなく、関白というポジションを取ったが、これはもともと、天皇制を基軸にした中央集権体制を志向してのことだ。
B――なるほど。それと、朝鮮侵略は、掠奪戦争という古典的な側面を遺していたね。物と人を思うさま掠奪している。これは、諸大名の軍隊に掠奪の権利があったということだね。戦利品獲得は、侵略の報酬だけではなく、その目的そのものだったはずだ。
C――だろうね。もし、朝鮮侵略の戦後統治を本気で考えていたとすれば、あれほどまでの破壊と掠奪はすまい。だから、コストとインカムの収支バランスからすれば、侵略・掠奪・撤退という古典的パターンを反復する方がよい、という話になる。だから、短期侵略行動で、統治を目指す長期戦略ではなかった。それに、諸大名を、もう鼻血も出ないほどまで搾取もし、酷使もできたからねえ。
B――それは秀吉の妥協ぶりを見てもわかる。最初は、朝鮮を制圧して大明国制覇プロジェクトだったが、次に半島南半分だけでよいということになり、最後は、明皇帝からの冊封と貿易の許可の二点だけ。
A――ようするに、日本国王に封じてもらうことと、勘合貿易で対明貿易独占を望むだけ。
C――ところが、明は冊封はしてやってもよいが、お前らみたいな暴力的野蛮人には勘合貿易は許可しないという返事。文禄五年(1596)明の使節が大坂城まで来たが、これは停戦講和使節というよりも、冊封使なんだよ。国王・秀吉はじめ、家康以下の諸大名が明の官位を授与され、中国の衣冠を着して、北京の方角に向かって五拝三叩頭する、という一大イベントだった。それが、歴史家のいうところの「講和」の内実(笑)。
B――秀吉は明使の無礼に怒って追い返したというが、そうじゃない。肝心の貿易許可がなかったからだ。これじゃ、秀吉には何のメリットもない(笑)。それで、再度出兵して朝鮮南部を確保して、明との交渉を有利にしようとしたが、自分の方が先に死んでしまった。
C――まあ、秀吉の妥協と譲歩ぶりをみれば、結局は、この侵略戦争の動機は、ついに曖昧なんだ。徳川家康や前田利家といった有力大名をこの戦争から排除したのは、彼らから戦功のチャンスを奪うためだし、戦争の利権を独占するためだね。戦争を通じて権力を確立する、それだけは終始一貫している。
A――すると、中央集権体制構築プロジェクトだったということもあるから、朝鮮侵略は、秀吉にとって、決して不条理なサイコティックな行動ではなく、合理的な行動だということになりますわな。半島の住民にとっては迷惑至極な歴史的災難だけれど。
C――まったく、ハタ迷惑なことだ(笑)。倭奴が引き起こした朝鮮民族のこのトラウマティックな災厄は、二十世紀にも反復されたね。
A――満州のハルピン駅で伊藤博文が暗殺されましたな。これは抵抗闘争の一端だが、当時の日本人からすれば、テロ行為だね。そんな具合に、いまイラク人の抵抗闘争を「自爆テロ」だと書く日本のマスコミ表現を見ると、歴史から何も学ばず、反省もしていないね。少なくともヨーロッパのマスメディアは、これをレジスタンスと書いている。
B――反帝国主義抵抗闘争は、帝国主義の側からすれば、いつもテロリスト集団の犯罪と相場が決まっておる(笑)。イラクに出兵している韓国政府は、義士・安重根〔アンジュングン〕のことを想起すべきだ。朝鮮の外交権を剥奪し保護国にして、保護権を行使するために漢城(ソウル)に統監府をおいて、その初代統監が伊藤博文。併合閣議決定が一九〇九年七月、伊藤博文射殺がその十月だね。ロシア官憲が安重根を拘束して、日本側に引き渡した。翌年一九一〇年、安重根に死刑判決、旅順(だったか)で死刑執行、そして、八月朝鮮併合という次第だった。日露戦争を契機に日本はこれで朝鮮を手中にした。
A――安重根は三十歳あたりだったか、伊藤を殺って、処刑された。それ以前、彼は甲午農民戦争(1894年)では政府側、農民反乱軍の鎮圧にあたる義兵として戦っている。その後カトリックの洗礼を受けていますな。平壌に出たあと愛国啓蒙教育のために学校を設立したり、抵抗運動に参加するね。武装闘争を行うための義兵を組織して、中国からロシアのウラジオストックへ渡ったりして、活発に動いていた。
B――安重根は伊藤を狙撃して成功したが、一方で、伊藤が殺られて、陸軍幹部は「しめた」と喜んだという話がある。これで、徹底弾圧ができるとね。
C――それはテロ=犯罪という図式で、抵抗運動を弾圧できるからね。朝鮮併合も一応、朝鮮王譲位、併合条約調印という法的な形式手続きを踏んだものだったが、実際には、併合という名の主権剥奪、植民地化は、日本の圧倒的な軍事力を背景にしたものだった。この暴力的植民地支配に対し、朝鮮人にはテロと呼ばれる抵抗闘争しかなかった。それで、伊藤暗殺事件、支配する側は「しめた」と喜んだ。これで、徹底弾圧ができると。弾圧の論理は、レジスタンスを犯罪行為と定義するものだ
――秀吉の朝鮮侵略戦争は、秀吉本人の死によって終焉するわけですが、これによって、日本人は信長以来の大陸中国を乗っ取るという野望を捨てたと。
C――少なくとも以後三世紀ほどはね(笑)。秀志が死んで、権力抗争が始まる。海外侵略どころではない。しかし、戦争ではなく、海外貿易の利益といううまい話は続く。諸大名は競ってヨーロッパ諸国とのチャンネルを確保しようとした。
A――伊達政宗は「東北王」として、使節をヨーロッパに派遣しているね。いわゆる慶長遣欧使節。あれが、慶長十八年(1613)の出発、だからそのころは、まだ大坂城に豊臣秀頼がいた。大坂と江戸の二重権力状態ですな。
B――家康はこれ以前に、フランチェスコ会の神父を通じて、スペイン王宛てに親書を送っていたな。もちろん、伊達政宗も家康の了解を取り付けて、使節を派遣した。幕府の船奉行・向井将監一行もこの使節に同行した。ただ、当時はまだ徳川政権は、関ヶ原の借りがあったから、外様大名は独立した権力で、かなり自由に行動していた。
C――伊達政宗はサン・ファン・バウティスタ号という五百トンの大船を建造させた。本式の大洋渡航船だね。この船が太平洋を渡って、今でいうメキシコまで行った。これを造ったのは江戸の船大工だという。日本人の船大工は、すでに近世初頭に、太平洋を横断できる船舶を造ってしまっておったのだね。この船は結局、太平洋を二往復することになる。その後、これをスペインが買い取って、対オランダ戦の軍艦に使う。
A――それは、あまり知られていないが、重要な事実ですわな。世間では太平洋を横断というと、幕末の咸臨丸しか頭にないからね。しかし、少なくとも近世初期の日本人の技術水準は、相当なもので、太平洋を横断できる船を平気で造れた。
C――だいいち、明治初期に岩倉使節団がヴェネツィアで、この近世初期の使節の記録を見たが、その意味がわからなかったというね。慶長年間にヨーロッパに日本人使節が到達しておったとは、想像もつかないことだった。ありえないと思っただろう。
B――船名のサン・ファン・バウティスタ(Sant Juan Bautista)というのは、聖ヨハネ、ただし「洗礼のヨハネ」の方だね。もっとも、長崎の天主堂もこの名を頂戴しておる。
A――復元船の写真をみると、船のマークが九曜紋だ。
C――伊達氏本来の家紋は、三引両紋。ただし他にも、菊紋、桐紋、雪薄紋と、いろんな家紋を使っている。この遣欧使節のさいの親書では、政宗のフォーマルな名のりは松平陸奥守だ。
A――しかし、九曜紋というのは細川家の家紋でしょうが。
C――そこが面白いところだね。政宗はいろんな家紋を使ったようだが、細川からも紋を調達しておる(笑)。その細川に所望して得た九曜紋をこの船に使った。
A――文字通り、「よそ行き」の紋(笑)、だが外見だけからすると、この船はまるで細川三斎が仕立てた船みたいに見える。
C――まあ、どうして政宗がこの九曜紋を使ったのか、研究してみると面白いだろうが。
B――で、「東北王」松平陸奥守・伊達政宗の使節団は、団長が支倉六右衛門常長、日本人は全国各地の商人も含めて総勢百数十名。彼らはこの船で太平洋を横断して、三ヶ月後ノヴァエスパニア(現・メキシコ)へ到達する。そこは中継地だな。そこから、さらに大西洋を横断して、スペインへ到達する。一六一四年十月のことだ。日本を出てから一年後だ。
C――そのとき使節団一行を迎えたのが、シオドア公。この人物は、スペイン無敵艦隊の提督、一五八八年、海戦でイギリスに敗北した時の提督というので、歴史に名を残した人物だね。彼がこの珍しい日本人使節団を、ヨーロッパで最初に出迎えた。
A――それは面白い符号ですな。スペイン無敵艦隊はもう負けていたんだ(笑)。
B――それで、一行はセビリアへ入る。ここは案内役、ルイス・ソテロ神父の故郷で、スペイン人の海外雄飛の根拠地だった。それから、コルドバ、トレドを経由して、首都マドリッドへ入る。そこで当時世界の大半を所有するとされたスペイン王に会う。そして八ケ月ここに滞在するが、その間、支倉は、スペイン王主催で盛大な洗礼式をやってもらう。支倉六右衛門の洗礼名は、「フェリペ・フランシスコ・ファセクラ」。フランシスコは聖人フランチェスコの名だが、フェリペはこのスペイン王・フェリペの名を頂戴した。これは大変な歓迎振りだねえ。
C――しかし、思うのだが、当時イエズス会とフランチェスコ会の対立があったね。イエズス会は、かなり以前から日本へ食い込んで、布教していたし、天正少年遣欧使節の先例もある。面白いことに、イエズス会は支倉使節団が、ローマまで行くのを阻止しようとするね。極東から遠路到来した使節に対し、セクト間の対立とは何かケチな話だが、記録によれば実際そういうことらしい。
B――で、結局、スペイン王が費用を負担してくれて、マドリッドを立って、バルセロナ、サントロペ、ジェノヴァを経由して、ローマへ入る。キリスト教の大本山、サンピエトロ大聖堂の前の広場で、お披露目のパレードをした。ローマ法王パウロ五世拝謁が一六一五年十一月、支倉は伊達政宗の書簡を手渡し、口上を日本語で述べた。実はこの年は、大坂夏の陣、五月に豊臣氏が滅亡していたね。
A――その符号も面白いな。大坂の陣の年に、ローマで法王に会っていた日本人がいたというのは。
C――そのサンピエトロ寺院の、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ設計の翼廊はまだ出現していないが、ミケランジェロ設計の聖堂のクーポラはすでにあった。支倉はローマで「ドン・フィリッポ・フランシスコ」と呼ばれる。日本からの使節団の大使だね。ローマのボルゲーゼ宮には、クロード・ドルエ作という支倉常長の立派な肖像画が残っているね。それに、キリナーレ宮にも、この日本人使節団の絵が壁画に描かれている。ローマ滞在時のものだろうね。
B――使節団は翌年(一六一六年)一月までローマにいた。帰路につく時、法王は伊達政宗への勅書はじめ記念の贈与物と帰途資金を与えた。マドリードで長期滞在したあと、ヨーロッパを離れるのは一六一七年七月。重要なことは、前年の一九一六年、家康が死に、そして同年八月、スペイン王の書簡をもって浦賀に来航した、答使サンタ・カテリーナが追い返されたことだ。
A――これは秀忠がはっきりと、スペインではなく、イギリス・オランダの新教国を採っていたということですな。すると、もう秀忠が、旧教カトリック排除の選択をしたということか。
C――そういうことになるね。家康の親書の返事をもったスペイン王の使節が到着するのが遅すぎたね。これが少し違うと、島原の乱は起きなかったかもしれないとは言えないが、歴史は偶然性の織物だから、わずかの齟齬が後に大きな相違となって結果する。
B――結局、伊達政宗の遣欧使節は、大西洋を横断してノヴァエスパニアに達し、そこから太平洋側の港町アカプルコで、迎えに来ていたサン・ファン・バウティスタ号に乗船して、太平洋を渡る。一六一八年六月、しかし着くのは、日本ではなくフィリピンのマニラなんだ。どうしてか。それは、すでに二年前にスペイン王の答使の船が追い返されていたからだ。
C――スペインの立場は悪くなっていた。そこで、まずソテロは、ディエゴ・ダ・サンフランシスコという宣教師を密航潜入させる。ディエゴは前年から潜入していたフランシスコ・デ・ガルヴェスと首尾よく会えて、政宗宛のソテロ書簡その他を託す。そうしてガルヴェスは仙台へ行って、城内で政宗に会って、これを手渡した。だが、支倉は一六二〇年までマニラにいるね。
B――マニラには当時日本人が数千人はいたね。一六一九年にはマニラをめぐって、スペインとオランダの間で戦争があった。ここでスペインが負ける。伊達政宗が建造させたサン・ファン・バウティスタ号はそのときマニラにいるが、たぶんスペイン軍に徴発されて、そうして海戦で沈んだらしい。この後、海はオランダ船が制しているから、そう容易く日本へは帰れない。そこで長崎経由で仙台へ帰れたのは、元和六年(1620)というわけだ。
A――すると、まるまる七年がかりの、まあ、たいへんな旅行だったわけだ。仙台に帰った後、二年ほどで支倉六右衛門は死にますな。その年が、例の長崎大殉教、宣教師ら二十三人が火刑、女子供を含む信徒二十二人が斬首。慶長元年(1597)、同じ場所で、秀吉の命令で二十六人が磔刑に処せられた。徳川幕府も切支丹禁令を布いたが、伊達政宗は優柔不断にそれを避ける。何か、考えがあったようですな。
B――幕府はオランダとイギリスの新教国を支持するようになったに対して、スペイン・ポルトガル系の宣教師と切支丹は徹底的に弾圧するようになった。だから、この点では、従来の切支丹弾圧の見方は変更を要する。つまり、切支丹弾圧とは、同じキリスト教徒の新教=プロテスタント派の教唆によって、幕府が旧教=カトリック派を弾圧したという構図だな。伊達政宗も切支丹処刑を命じているが、自身は旧教国というオプションを握っていた。
C――「東北王」としてスペイン王へ、通商の申請を出したとき、フランチェスコ会宣教師の触れ込みは、政宗は次期将軍だということだね。政宗は、大坂陣以前、まだ家康没後の次期政権を狙っていただろうし、また事実狙える立場にあった。状況はなお流動的だったということだね。
B――バチカンの記録では、一六一〇年の段階で、二十二万人の切支丹が日本にいたという数字もある。政宗はスペイン王との交誼を通じて通商権を獲得し、その貿易の富をもって、東北に君臨する。そういう企図は、家康もまた容認するところだった。
C――家康の対外政策は、イギリス・オランダという新教国だけではなく、旧教国とのチャンネルも残しておく、それを伊達政宗にやらせたというところだね。

伊達政宗像 東福寺霊源院蔵
伊達政宗像

宮城県慶長使節船ミュージアム
復元サン・ファン・バウティスタ号
宮城県石巻市渡波
500tの本格的な大洋渡航船
船のマークが九曜紋



1617年ドイツ語版 仙台市博物館蔵
アマティ編著『伊達政宗遣使録』
イタリア語版は1615年ローマで出版



サンピエトロ寺院 ヴァチカン市
サンピエトロ大聖堂

パウロ5世像 仙台市博物館蔵
パウロ5世像

ミケランジェロ作 ピエタ サンピエトロ聖堂
ミケランジェロ「ピエタ」1499年


支倉常長像 ローマ ボルゲーゼ宮蔵
支倉常長像 ボルゲーゼ宮蔵

支倉常長像 仙台市博物館蔵
支倉常長像 仙台市博物館蔵


長崎大殉教図部分 ローマ イルジェズー聖堂蔵
長崎大殉教図


南蛮屏風部分 南蛮文化館蔵
南蛮屏風




*【矢文】
《今度下々として及籠城候、若國家をも望ミ国主をも背申様ニ可被思召候歟、聊非其儀候。きりしたんの宗旨、從前々如御存知、別宗ニ罷成候事不成教ニ而御座候。雖然從天下様数ヶ度御法度被仰付、度々迷惑仕候。就中後生之大事難遁存ル者ハ、依不易宗旨色々御糺明稠敷、剰非人間之作法、或現恥辱或極害迫、終ニ爲後來對天帝被責殺候畢。其外志御座候ものも、惜色身恐呵責候故、乍押紅涙数度隨御意改宗門候。然處ニ今度御不思議之天慮難計、惣様如此燃立候。少として國家之望無之、私之欲儀無御座候。如前々罷居候ば、右之御法度ニ不相替、種々様々之御糺明難凌而モ、又迂弱之色身ニテ候へバ誤て背無量之天主、惜今生纔之露命、今度之大事空敷可罷處、悲嘆身ニ餘り候故如此之仕合候。聊以非邪路候。然ば海上ニ唐舩見來候。誠以小事之儀御座候處、漢土マデ相催候事、城中之下々故ニ日本之外聞不可然候。自國他國之取沙汰不及是非候。此等之趣御陣中可預披覧候》(一月十三日)


有馬攻城図 永青文庫蔵
有馬城攻図 部分



*【クーケバッケルの日記】
《二月二十四日(一月十一日)晴。西南西の順風、かなり強い。朝食の頃帆走し、午後、有馬領の叛乱軍の要塞から四分の一マイルの所で、凪と逆流のため水深八尋のよい砂地に停泊した。(中略)左門殿は言った、「私はこれについてのオランダ人の要求書を江戸で見。要約した。宮廷へ帰ったら、これについて、最高の閣老と話し、オランダ人の利益となる様、努力しよう。また要求と共に『マニラを全滅させるため、数隻の船を皇帝の用に供したい』と申し出たのは非常によいことである。もし、しばらくの間これが行われなくても、貴下にとって非常な利益となろう」、彼はまた言った、「マニラはオランダ人の兵力で十分占領できるのではないか」。通詞は答えた、「これを実行し、その占領を確実にするためには、日本人の、かなり大きな水陸の兵力が必要である」。左門殿は尋ねた、「日本が必要とする程の商品を会社がもたらし、日本に奉仕することが出来るかどうか」。通詞は答えた、「ポルトガル人が来なくなれば、完全に行うつもりである。日本が要求するだけのシナ商品を持って来ることは保証する。そしてシナが変り易いために、オランダ人はシナ人と事を起すつもりはない」》(平戸オランダ商館の日記・長積洋子訳)




天草島原一揆関係地図


天草四郎陣中旗 本渡市立天草切支丹館蔵
天草一揆陣中旗
図像は聖杯秘蹟図。上部文字は
葡語で「いとも尊き秘蹟は讃えられん」



鉛の十字架 原城址発掘資料
A――で、寛永年間の天草島原の乱の話に飛ぶが、家康の死後は、ようするに、切支丹弾圧は諸大名にとっての踏絵だったということですな。
C――スペイン・ポルトガルという旧教国との通商交易を諸大名は狙っていたが、宣教師追放や切支丹弾圧という踏絵を踏ませることによって、直接交易の機会を奪ったね。その一方で、幕府はオランダ・イギリスという新教国と結託して、海外交易を独占したという格好だね。そのとき、島原の乱は、西日本、とくに九州の諸大名を動員することで、決定的に切支丹=旧教国と絶縁させたというわけだ。
B――そういうことだね。実際、天草島原の切支丹一揆は、近世では他に例のない大規模な反乱だった。しかし、これで日本は切支丹禁令と鎖国へ、というのが教科書的な歴史物語だが、そこは、ちょっと待て、と言いたい。そんな風に要約してしまってはいけない。
A――天草島原の乱では、キリスト教という異教に対する戦いだった、異教邪宗門に対する日本の文化防衛だった、というが、その点に限定されるものではない。
C――ようするに、これは、ヨーロッパの側から見ると、カトリックとプロテスタント、キリスト教の旧教・新教の抗争の、代理戦争だった。それが証拠に、オランダ艦船が、原城へ向けて大砲をぶち込んでいる(笑)。
A――当時平戸にあったオランダ商館の館長ニコラス・クーケバッケルに、幕府が出陣要請をして、オランダ船が大砲を装備して出動、寛永十五年の一月中旬から半月、海上から百二十八発、石火矢台から二百九十八発、砲撃したという、そんな具体的な砲撃回数の記録まである(笑)。
B――切支丹一揆衆からの矢文があるね。これは、我々の籠城の目的は、国家を簒奪したり国主に背反したり、そういう政治的行動ではない、切支丹の宗旨に立ち返って信仰を守るためである。しかるに、海上に唐船が見えるが、これは「日本之外聞」にかかわるのではないかと、包囲軍の行動を嘲笑する。諸君らは、オランダ人の力を借りて、恥ずかしくないのかい(笑)、ということだね。
C――この矢文が重要なのは、売国奴はどっちなんだ、と揶揄している。堂々たるものだ(笑)。ナショナリズムに照らして、正統性を欠くのはおまえらの方だろう、と。これは、キリスト教の旧教・新教の対立抗争を証言する重要資料というばかりではなく、「日本之外聞」という言葉だが、日本ナショナリズムそのものを相対化した最早期の史料として位置づけてよい。
B――細川忠利か、彼は、オランダ人の加勢をうけて城を落としても、外聞が悪く恥辱この上ないだろ、と憤慨して、総大将たる幕府の上使、松平伊豆守信綱を難詰したという話もあるね。これも同じような論理だ。松平信綱は、これは籠城の連中を欺く作戦なんだ、という。連中は南蛮から援軍が来ると信じておる。それで南蛮船が来て城に向って砲撃したら、意気消沈して抵抗をやめるはずだと。子供だましかよ(笑)。
C――松平信綱を「智恵伊豆」とかいって持ち上げる連中が後を絶たないのだが、矢文の堂々たる嘲笑ぶりをみれば、一揆勢がそんなことで意気消沈して抵抗をやめるはずがないし、新教徒が敵だということは彼らには承知のことだ。これは『綿考輯録』の記事だから話半分にしなければならないが、どっちにしても、幕府がオランダ人の力を借りたということは間違いないし、オランダ人は籠城のキリスト教徒に対しかなり執拗な砲撃をしたわけだ。
A――《Der fliegende Holländer》(さまよえるオランダ人)ではなくて、砲撃するオランダ人ねえ(笑)。しかし、明らかにキリスト教信者である人々が数万人も籠る城に、オランダ人は大砲で砲撃した。これは宗教史上というよりも、キリスト教史上の犯罪行為ですな。キリスト教徒のすることは、昔も今も、理解不可能だ(笑)。
B――十六世紀以来、ヨーロッパ人は当時、世界中を荒らしまくっていたが、実際には栄枯盛衰があった。ちょうどこの頃は、スペインやポルトガルの旧教国・旧勢力が凋落して、オランダやイギリスという新教国・新勢力が抬頭した時代。オランダ人やイギリス人は、後発組だったが、徳川政権に、カトリック教徒は南米でこんな残酷なことをやった、中国ではこんな非道をやった、したがって危険な連中だと吹き込んだわけだ。島原の乱は、直接のきっかけは強欲な代官の苛斂誅求にすぎないが、その制圧行動に関しては、オランダの商人が介在していた。
C――オランダは独立戦争をやって、スペインから独立を勝ち得で数十年。島原の乱の当時、インドのゴア沖で、まだオランダとポルトガルは海戦をやっている。両国は戦争状態だな。
B――だから、江戸幕府は、その戦争状態の両国間抗争に巻き込まれている。我々オランダ人は、ビジネスだけのお付き合いでよいけれど、ポルトガル人は、切支丹門徒を使って、日本を乗っ取るつもりですぞ、なんてことを吹き込む(笑)。
A――それだけじゃなくて、マニラ占領なんて軍事プロジェクトを持ち出していたようだ。
B――それは、艦砲射撃で原城攻撃に協力したオランダ商館のクーケバッケルが記録した、幕府上使の戸田氏銕との会話だな。マニラを全滅させるために、艦船を提供したい、とオランダ商人は幕府に申出ていたらしい。
A――ということは、島原の乱当時、オランダ人は、日本人に「マニラを攻撃なさるのなら、支援しますぞ」と唆していたということ(笑)。
C――それより前の寛永七年(1630)、島原城主・松倉重政が、ルソン遠征のための偵察隊を派遣したが、松倉重政本人が急死したので沙汰止みになったとか、そんな話もあるから、この切支丹一揆が起きる前に、マニラ攻撃の計画はいろいろ出ていたのだろう。
A――マニラには日本人町があって、マカオとともに切支丹のセンターだったにしても、この遠征はちょいと話がわからんが。
C――いや、クーケバッケルの日録では、戸田氏銕が、「日本から出兵しなくても、オランダ人だけの兵力でマニラは占領できるのではないか」というと、「いや、マニラ占領を確実に実行するためには、日本人の水軍陸軍の相当大きな兵力が必要だ」と答えた。要するに、オランダ人は、うまくすると日本人がその気になって、マニラを占領できるかもしれないと考えていたようだ。それが実行できなくとも、対ポルトガル・スペインの軍事同盟だね、それをダシにして、貿易のビジネス利権を独占できるという腹だ。
B――オランダ人は日中貿易という利権を狙って登場した。そのためには、スペイン人やポルトガル人を排除しなければならない。だから、徳川幕府は、九州に残存したカトリック勢力を一掃することで、新教国の国際的陰謀の片棒をかついでしまったというわけだ(笑)。
A――すると、天草島原の一乱までは、潜在していたにしろ、切支丹は九州にかなりいたということですかな。
B――そうだろうな。「たち返り」の切支丹というね。そういう「たち返り」が、切支丹信仰を容認せよと、矢文で要求しておる。原城だけでも数万人も殉教者が出たのだが、当時切支丹信者は九州全体では十万はいただろうし、全国で三十万という推計数は、それほど非現実的とも思わない。キリスト教はかなり滲透していた。
C――三代目家光のときに天草島原の乱で、旧教ではなく新教を取る、そういう決着を見たが、家康の代まではそういう選択はなかったな。
A――この天草島原の乱については、歴史学の方では妙なことになっておりますな。
C――肥前有馬ではもともと領主松倉の苛斂誅求が原因なんだが、戦後、百姓一揆論の「権力対民衆」という古典左翼的図式が普及して、切支丹信仰という局面が薄くなった。これは民衆一揆だが、権力側は邪教切支丹を理由に全員を虐殺したんだと主張する者まで出て、切支丹信仰は副次的な契機にしてしまう。古典左翼的図式が後退した近年でも、これは一揆なんだ、切支丹ではない連中も城内にいた、なんてことを言い出す。
A――非切支丹もいるから、必ずしも切支丹一揆ではない、これは地域共同体の一揆だと。
B――切支丹ではない百姓も、「一味しなければ殺すぞ」と脅迫されて無理やり参加させられ、城内に連れ込まれている。一揆というからには、地域共同体の全面的運動で、個人の自由参加の行動ではない(笑)。一揆というのはそういうものなんだ。
C――数万人規模の一揆では雑多な人間がいて、当然同質の集団ではない。土着の農民もおれば、小西行長家臣だった家の連中や有馬家の旧臣浪人もおるし、女子供も多数いる。しかし、一揆籠城した本体は、やはり「切支丹の百姓ども」なんだ。彼らが切支丹に「立ちかえり」「立ち上がり」して、一揆して原城に籠った。領主の苛斂誅求に抗議しただけではなく、我らの切支丹信仰を容認してくれというのが、その要求だよ。
B――彼らは助かろうとは思っていない。死ぬ気だからな。それも、喜んで死ぬ気だ。それは以前の土一揆とも後世の百姓一揆とも違う、根本的な異質性だ。パードレ(司祭)が居なくても、殉教のポジションは鮮明だよ。
A――殉教は天国の門だね。これを日本の歴史学はまだ理解していない。だから、いまだに、あれは、切支丹の一揆か、それとも百姓一揆か、などという阿呆な二項対立図式でしか発想しない。
C――日本の歴史学がそんな有様だから、ヴァチカンも聖人に列するのをためらっている(笑)。キリスト教徒なら、そんな暴力的な反乱は起こさないとかね。ところが、籠城の切支丹は、我々は国を乗っ取るつもりは毛頭ない、攻撃してくるから防いでいるだけだと言っているんだ。
B――キリスト教徒でないなら、原城址から、どうしてあれだけ、鉛の銃弾から鋳造した十字架が大量に出るんだ(笑)。
A――ヴァチカンは、いまだにこの籠城者らの殉教行動を理解していない。そういう意味では、キリスト教会史上、稀有な事件ですなあ(笑)。
C――とにかく、原城籠城の一揆衆は、女どもまでたすきをかけ、クルスを額にあて、鉢巻をして、石飛礫(つぶて)を雨の降るように投げたので、攻撃する寄せ手は、ひるんで退却したという、鈴木重成の報告書があるね。原城址で近年発掘された十字架と照合すると、この「クルスを額にあて、鉢巻をして」というシーンが興味深い。
A――それは、れいの逆十字架のことですかな。
C――そうなんだ。十字架は、ふつう十字の縦棒の上が短くて下が長い。ところが、原城址から出た十字架は三センチばかりの小さなものだが、下の長いほうにロザリオの通し穴がある。とすると、これを首に下げると、十字架が逆さまになるかっこうだ。
B――それは、鶏が鳴く前に三度イエスを否んだペテロだな。「おれはあんな人は知らん」と言ってしまって、鶏が鳴いた。イエスは振り返って、ペテロを見つめる。ペテロは外へ出て、ひどく泣いた。(ルカ福音書22章)
C――イエスと共にいたことを否定したこのペトロは、原城にたて籠った切支丹一揆衆に重なる。かれらは切支丹であることを否定した過去をもつ。弾圧によって転向改宗した「転び」切支丹だ。それが切支丹に立ち返ったが、背教の刻印がある。
A――そのペトロはローマで殉教する。そのとき磔になったが、自分はイエスと同じように十字架に懸けられる資格はないと、上下逆さまの磔刑を望んで処刑されたとか。
B――サンピエトロ大聖堂は、ペトロの処刑地だという場所に建っておる。広場のオベリスクがその標識だ。ペトロは、ローマ・カトリック教会の創始者であるし、天国の門の鍵をもつ象徴的人物でもある。
C――ようするに、逆十字架は、イエスの弟子であることを否認したペトロのシンボルだな。原城の一揆衆はその逆十字架を胸に懸けていた。そこまでは、まあありうる話だ。
A――その他に何かあるとすると?
C――それが、鈴木重成のいう、「クルスを額にあて、鉢巻をして」という姿に関わることだ。つまり、一揆衆は、このペトロの逆十字架を胸に下げていて、戦闘の時になると、それを額にあてて鉢巻をした。
A――なるほど、そうすると、下向きの逆十字架がこんどは上向きになる。背教した者が「立ち返り」というわけだ。
B――たしかに、一揆衆は、そういうシンボリックな操作をしたかもしれんな。逆十字架を逆にして、立ち返った真っ当な切支丹として戦ったというわけだ。
C――原城址から出た逆十字架は、そういうふうに見るべきではないか。逆十字架で処刑されたペトロの姿に終らず、原城の切支丹一揆衆は、ある意味でペトロの向うまで行ったんだと。
A――それが、原城址から出た逆十字架の解釈学的意味ですな。


*【大坂番衆宛鈴木重成書状】
《當朔日惣責可以之由、何へも被仰渡候。卯之刻之前より責寄せ申候處、夜之内ニは城中よりなげ松明際限なく出し、そとの躰を見申、夜あけより鉄炮を打立、塀きわへつき候ものは、女共までたすきをかけ、くるすをひたいニあて、はちまきをいたし、石飛礫を雨のふる程打申候付而、よせ衆しらみ引申候》(正月七日付)

*【ルカ福音書】
《遂に人々イエスを捕へて大祭司の家へ曳き行く。ペテロ遠く離れて從ふ。人々中庭の内に火を焚きて、諸共に坐したれば、ペテロも其中に坐す。或婢、ペトロ火の光を受けて坐し居るを見、是に目を注ぎて言ふ。「此人も彼と共にゐたり」。ペテロ肯はずして言ふ、「女よ、我は彼を知らず」。暫くして、他の者ペトロを見て言ふ、「汝も彼の黨與なり」。ペテロ言ふ、「人よ、然らず」。一時ばかりして、又他の男言い張りて言ふ、「まさしく此人も彼と共にありき。是ガリラヤ人なり」。ペテロ言ふ、「人よ、我汝の言ふ事を知らず」。猶言ひ終ぬに、やがて鷄鳴きぬ。主、振返りてペテロに目を留めたまふ。爰にペテロ、「今日には、鷄鳴く前に、汝三度我を否まん」と言ひ給ひし御言を憶ひ出だし、外に出でて、甚(いた)く泣けり》(22章 54-62)







原城址出土十字架
――ところで、天草島原の乱で一揆衆がたて籠って玉砕した原城攻防戦のことですが、そのとき、戦場で武蔵が有馬直純に出した書状がのこっています。有馬直純は父の晴信の代からの有力な切支丹大名でしたね。
B――その有馬直純の父親、晴信のことだがね、晴信は切支丹大名、禁教策もとったが、結局かなり大幅な切支丹支持に回って、有馬支配の領民すべてキリスト教徒にさせた。同時に仏僧を弾圧し寺院を破壊した。晴信は慶長十七年(1612)に岡本大八事件で失脚、除封されたが、その所領は子の直純が相続した。
C――直純は幼児洗礼を受けた人で、はじめキリスト教徒だったが、家康の措置で棄教して、本多忠政の娘(国姫)を妻にした。これは、大名の子弟を人質に取って江戸に住まわせるという政策の効果だね。直純は物心ついたときにはすでに切支丹だが、領国有馬から切り離されて居るうちに別の思想を知ってしまったわけだ。
A――江戸に居るうちに逆洗脳されたというか(笑)。本多忠政は播磨の姫路城主になったが、その本多忠政の聟というあたりで、有馬直純と武蔵との縁もできる。
B――棄教した直純は、家督相続して後、領内の切支丹処刑、教会破壊、宣教師追放と、弾圧する側に回った。直純は自身の異母弟、重臣とその家族まで処刑したね。
C――大した転向ぶりだが、こういう例は当時は少なくない。ただね、有馬直純はその後日向に転封になった。その後に入部してきた松倉重政は、島原一揆の原因となる迫害を行ったというが、入部してしばらくは宣教師を保護していた。ようするに、切支丹弾圧は宗教的イデオロギー対立の問題ではない。これは別の問題だね。日本人はシビアなイデオロギー対立はしないし、できない(笑)。
B――だけど、島原天草のローカルな一揆に対し、西国諸大名に動員をかけて十数万人の軍勢で包囲して殲滅したのは、一種のスケール・アウトだな(笑)。板倉重昌を上使にした最初の動員は、佐賀城主鍋島家、久留米城主有馬家、柳川城主立花家、包囲軍としては、これだけの人数でもう十分なはずなんだ。
A――籠城の一揆勢は、武器弾薬食糧を大量に原城内に持ち込んで籠城したが、なにせ女子供も含めて数万人もいる。早晩、食糧は尽きるから、それを待てばよかろうに、大軍で攻め潰すというかっこうにした。
C――実際、二月になっても投降者はまだ少なかった。日干しにして抵抗を減殺するつもりなら、あと数ヶ月、包囲しておればよかった。武蔵も出陣する必要はなかったし、投石で怪我をすることもなかった(笑)。
A――九州と江戸では距離が遠い。報告が江戸へ達するのに半月、指令が来るのに半月。往復一ヶ月。江戸では、現場がどうなっているのか、把握していない。
B――松平信綱を上使として派遣したのは、はじめ戦後処理のためだった。もう一揆を鎮圧した頃だろうと思って、松平信綱を派遣した。ところが、途中大坂で受けた報告では、まだ鎮圧できていない。で、何をやっているのか、ということになった。
C――有馬の島原城や天草の富岡城も一揆勢に攻撃されて、かろうじて持ちこたえていたという有様だが、幕府も当初は、土民たちの一揆ということで、軽く見ていたふしがあるね。しかし、一揆衆はこの戦いの出口はこの世にはない、殉教しかないと知っていた。それで、原城にたて籠った。
A――それを神の国への入り口にした。
B――上使の板倉重昌以下包囲軍の諸大名が手こずっているのを知って、肥後の細川家をはじめ九州の諸大名は、我も我もと、原城包囲戦への参戦を志願する。後れをとってはならじ、というところだな。
C――後れをとってはならじ、という、そのあたりが武家社会だ(笑)。それで、幕府は十数万というスケール・アウトな軍勢を組織することになった。
A――それは事のなりゆきかもしれんが、大坂陣以来二十数年ぶりの戦争体制。しかしこれは、リアルなものじゃなくて、シンボリックな動員でしょうな。
B――そのとき注意を要するのは、島原の乱の前年だが、大陸情勢では、後金が「清」と称し、朝鮮を属国化したことだね。中国大陸では、異民族の清王朝による支配が完成する。そういうなかで、この列島では、一種の危機感があったとみてよい。九州にあれだけの動員をかけたのは、一種の演習だろう。
C――大陸では、明〜清を通じて、イエズス会が強力に食い込んでいたね。イエズス会宣教師たちは、フランチェスコ会よりもプラグマティックで、姓名を中国風に改め、服装も中国風、布教にあたっては中国人の慣習・伝統的儀式を尊重するし、孔子崇拝や先祖祭祀などの儀式を認めた。この妥協的なやり方は、後にカトリック派内部で批判されるが、いずれにしても、アダム・シャール(Adam Schall、湯若望)のように、天文学や暦算といった科学ばかりではなく、大砲の鋳造まで教えたのが、イエズス会だ。
A――シャールの「崇禎暦」は清代に「時憲暦」として中国全土で使われた。一九一一年にグレゴリオ暦に改めるまで、これが使われていた。いまでもこの旧暦は民間で使われているね。
B――この清朝初期では、西洋火砲の研究書『火攻挈要』(崇禎十六年・1643)があるね。これは西洋火砲、火薬、それに各種火器の製造と使用法のかなり詳しい研究をしておる。
C――それだけではなく、冶金鋳造、機械製作、数学・物理学・化学の基礎科学まである。こういうのを見ると、西洋の科学や工学は、中国の軍事テクノロジーを根本的に変様させた。魯迅がどこかで書いていたように、清王朝が漢民族ではなく異民族だったから、それが自由にできたんだという話もある。
B――ともあれ、大陸では耶蘇会士、イエズス会士の影響は大きい。したがって、清帝国の成立という政治情勢のなか、大陸でイエズス会が地歩を築いているのに対し、徳川政権が日本のイエズス会の影響力ないし残党に対し、これを徹底的に排除したというのは、理由のあってのことだろう。
C――とくにシャールの時代は信徒が急増した。一六一七年にはわずか一万余だったのが、一六五〇年には十五万、六〇年代半ばには二十五万人というぐあい。だから、島原の乱以後、大陸では逆に耶蘇会信徒は増えている。その点からすれば、当時の日本政府は、ある意味で特異な選択をしたわけだ。明朝遺臣の派兵要請は断ったが、清王朝に対しては最初敵対的に構えていた。
A――それもまた、オランダ人・イギリス人の新教派の政治的な入れ知恵かもしれないが(笑)。ようするに、従来の善玉・悪玉論では、決して島原の乱の歴史的位置づけをしたことにはならない。ところが、どういうわけか、これが鎖国論とリンクして、善玉・悪玉論でこの一揆を語ってしまう。
B――それでは何も語ったことにはならんね。あそこまで徹底した圧殺を実行するのは、そこにはイギリス・オランダという新教国の働きかけがあっただろう。一揆勢を悪魔にしてしまったのは、同じキリスト教徒なんだ。およそ島原の乱までは、有名無実の切支丹禁令で、キリスト教徒はかなり多数残存していた。大名にも、切支丹黙認という領国は多かったし、できるなら海外への開口部を確保したいという気分はあった。
C――その代表例が、慶長遣欧使節を出した伊達政宗だ、ということ。島原の乱まで二十年、だから、この二十年でずいぶん状況が変ったわけだ。武蔵や有馬直純のような世代は、結局そういう変化を体現しているのだね。



個人蔵
黄金の十字架 原城址発掘資料


柳川古文書館蔵
嶋原御陣図



原城攻諸大名布陣図




伝家康着用南蛮胴具足 日光東照宮蔵
南蛮胴具足



Johann Adam Schall von Bell
Johann Adam Schall von Bell
(1591〜1669)





花鳥蒔絵螺鈿書見台 リスボン 国立古代美術館蔵
イエズス会紋章
IHSはイエスキリスト
希臘語Ιησουςの頭三文字

*【フロイス 日本史】
副管区長(コエリュ)師は、平戸に到着すると、すぐさま周到な注意をもって、会の友人である諸士諸侯宛に書状を発し、(中略)何とかして暴君(秀吉)に取り入って、司祭たちの追放令の撤回を願えぬものか、万策を尽してほしいと懇請した。これらの書信の運び役をつとめた切支丹は、特に(黒田)官兵衛殿の許に行って(頼んだ)。彼は、日向の戦さから、博多にいた暴君の陣へ、数日前に戻ってきていた。彼は参戦した他の者のだれより戦功をあげたので、その偉大な功績と出費に対して報償を受けるためにやって来たのだった。彼にはすでに豊前の国が約束されていた。(ところが秀吉ははじめ)彼が来ても会おうとはせず、また「おまえはそれに価いしない。治める能力もない。おまえは切支丹になっただけは満足せず、諸国の大名や他の貴人たちに、しきりに説いて、切支丹の教えを聞いて洗礼を受け、それまでの神々への信仰を捨てるように説得し続けてきた。そんなおまえに国を与えるわけにはいかん」と言い、さらに幾多の罵詈雑言を彼にあびせた。
 官兵衛は思慮ある人物だったので、平静をよそおって、いつか事態が好転するのを期した。彼は(コエリュ)師からの書状と、師が多数の異教徒の武将らに宛てた書状を読むと、それらを自分の手元にとどめて、司祭への返書に述べた。「私はこのたびの悪魔的な変動には極めて憂慮しています。しかし我らの主(デウス)がこのように許し給うからには、そこにはきわめて正当な理由があるはずです。これらの書状がいま役に立つかどうかわかりませんので、諸侯に手渡すのは時期尚早と考え、私の手元にとどめておきます。もし(コエリュ師の提案のように、秀吉に対する)贈物によって事がうまくいくようなら、私はよろこんで、所有するすべての封禄と家産を差出し、なおそのうえ、腰に帯びる太刀さえも添えて差出しましょう。しかしながら、デウスは、このような極悪人(秀吉)を罸さずにおかれないでしょう。(秀吉は)もう長くは生きられないと思います。私は、本日以後、シナの定航船が出るまでに、何か事態が変わるのを期待しています」と》(第18章 暴君が教会・司祭たち、および切支丹宗門に対して命じたことについて)



如水キリシタン印判
中央にクルス(十字架)、周囲に
Iosui Simeon(ジョスイ・シメオン)







新免家累代塔台座 家紋
清岩寺 福岡県朝倉市三奈木
A――そこでいえば、武蔵と直純、この両人はその世代からすると、ともに切支丹信仰圏から出ていると言えますな。
B――有馬直純は、父の晴信が篤い切支丹大名で、直純は、幼児洗礼組だから、物心ついたときには、すでに切支丹だった。のちに棄教するが、子供の頃から切支丹信仰圏で育っている。しかし、武蔵の方はどうかな。
C――武蔵の方は、有馬直純ほどではないが、それでもやはり、切支丹信仰圏というものを前提にしなければならない。というのも、黒田官兵衛(如水)のことがあるね。武蔵出生当時の宮本村周辺は、黒田官兵衛の領地。黒田官兵衛がはじめて豊臣大名になったのは、秀吉から揖東郡内に一万石を与えられてのことだ。その領主・黒田官兵衛は、熱心な切支丹大名だった。
A――高山右近の教化を受けて、黒田官兵衛は、小西行長とともに切支丹宗徒になったのでしたな。
C――黒田官兵衛は死ぬまで一貫して切支丹。弟の直之も、息子の長政も、信者になった。官兵衛の葬儀はキリスト教徒式で、博多の教会堂に葬られた。貝原益軒の『黒田家譜』では、そのあたりのことは、まるで見事に抹消されておるが(笑)。
A――可秘可秘〔秘すべし、秘すべし〕だ。しかし、官兵衛・長政父子の切支丹信仰は、意図的に抹殺したとしても、重隆、職隆あたり、『黒田家譜』の黒田家前史は、全くのフィクションですな。
C――貝原益軒は、播磨時代の黒田家前史についてほとんど何も知らずに『黒田家譜』を書いておる(笑)。
B――明石城主になっていた高山右近が、秀吉から信仰をとるか、大名をやめるか、の二者択一を迫られて、結局信仰をとったことは有名な話だが、そのとき、黒田官兵衛は切支丹信者であることを捨てていない。これは、秀吉がそこまで要求できなかったということか。
C――それについては、いろいろ憶測があるが、九州制圧戦争における黒田官兵衛の戦功からすれば、豊前六郡十五万石は少なすぎる。これは当時のパードレ(司祭)らの解釈だが、秀吉は、黒田官兵衛が棄教しないので、そんな少ない領地しか与えなかったという。秀吉は官兵衛の能力を惜しんで、彼の信仰をしぶしぶ容認したというわけだ。
A――ただ、秀吉の禁教令は、まったくの禁止ではなく、バテレン追放令ですな。切支丹信者の大名は、届出をすればよいというていど。諸大名の切支丹信仰を禁止したわけじゃない。
C――そうだな。しかし、「神国日本」を主張した秀吉の意を汲んで、棄教した連中も少なくない。そのとき、棄教しなかった黒田官兵衛については、フロイス(日本史)などは、エラくほめているよ。
B――フロイスが知っているコデラ・カンビョウエ(Codera Quambioye)、つまり小寺官兵衛、堅信の人だな。小西行長は一時信仰がぐらついた。それに対し、官兵衛には棄教の気配もない。
A――フロイスの『日本史』によれば、天正十五年の秀吉のバテレン追放令にアワを食ったコエリュが、黒田官兵衛を通じて諸侯に働きかけようとしたが、彼はそれをなだめて押し留めるね。そうして言うには、「デウスは、このような極悪人(秀吉)を罸さずにおかれないだろう」(笑)。彼はもう長くは生きられないと思いますよ、というわけだ。
C――かなり冷静な男だ。フロイスの『日本史』が引用しているバテレン追放令文書は正確なものだ。ここは、コエリュへ送った官兵衛の返書を見て書いている。官兵衛は、デウスの怒りにふれて秀吉の命はもう長くはないだろうと言う。官兵衛は、秀吉にはほとほと手を焼いて愛想が尽きておるが、かたや泣きついてくるパードレのケアもしなければならない(笑)。
B――秀吉が気に入らなかったのは、黒田官兵衛が切支丹宗門に帰依したことではなく、他の諸大名にもしきりに働きかけて、信者にしようとしていた、その布教行動のことだ。
C――官兵衛は、かなり積極的な信者だった。豊前中津に行ってもそうだし、関ヶ原戦後、筑前で大大名になって後もそうだろう。あちこちの切支丹武将を筑前へ引き取っている。宇喜田家老の明石全登も切支丹だが、関ヶ原戦後、明石全登は筑前黒田領内に場所を得る。
A――黒田直之の秋月でしたな、それは。筑前黒田家といえば、新免宗貫、作州吉野郡の竹山城の最後の城主だが、この人はやはり関ヶ原戦後、黒田如水に拾われて、黒田家臣となって筑前下座郡に知行二千石。この新免宗貫にも、切支丹の話がありましたな。
C――あれはね、もともと九州筑前へ行った新免家の家紋から出た話なんだ。
B――というと、例の十文字、クルス紋のことか。
C――新免氏の家紋は、周知のごとく本来三つ巴なんだが、(朝倉市)三奈木の清岩寺にある新免家累代塔、つまり新免家の墓碑の紋は、三つ巴ではなく、どういうわけか、十字のクルス紋なんだ。しかも、筑前新免氏系譜でも、新免宗貫の埋葬地は不明、ところが屋形原には「伊賀様」として祀られている。これは尋常ではない。そこで、新免宗貫=切支丹説が出てきた。
A――もし新免宗貫が切支丹であれば、後に没年も墓所も不明になることは、大いにありうることだと。近所に居住していた明石全登のこともあるし。それに、宗貫の息子・七兵衛が大坂陣のとき、大阪城に入ってしまった。これはたぶん明石全登の縁だろう。
C――もともと岡山の宇喜田家中には、切支丹信者が多かった。そのことを外しても、新免宗貫周辺には、あれこれ切支丹信仰の痕跡がある。
B――そもそも、関ヶ原戦の前後、新免宗貫の動向がよくわからんな。世間では、宇喜田秀家に従って関ヶ原参戦、などという顕彰会本『宮本武蔵』の説をいまだに反復している者がいるが、実際、新免宗貫は関ヶ原へは出ていないね。新免宗貫は宇喜田直参ではなく、戸川組だが、その戸川逵安は関ヶ原の前年、いわゆる宇喜田騒動で離反して家康の麾下に入った。
C――戸川逵安は関ヶ原戦後、備中庭瀬に二万五千石を与えられて大名になる。新免宗貫を黒田家に周旋したのが戸川逵安。新免宗貫がもし宇喜田に従って関ヶ原に参戦していたら、それこそ無事では済まない。攻め潰されただろう。結局、前後の状況から判断して、新免宗貫は関ヶ原戦争の時、動かなかった。それで、新免宗貫は領地は失ったものの、延命できた(笑)。
A――だけど、その行動様式は、優柔不断というよりも、やはり切支丹信仰の臭いがする。そうでもないかぎり、黒田如水が拾って、知行二千石とは、法外なことになる。
C――黒田官兵衛は播磨時代、秀吉から加増を請けて、新免宗貫の実父・宇野政頼の旧領、宍粟郡に三万石の領地を得た。むろんそんな縁もあるが、それよりも、切支丹信者というラインがあったのではないか、ということだね。ただ、こうした一連のことは、まだ憶測でしかないがね。
A――新免宗貫の話になって脱線してしまったが(笑)、武蔵のことに話を戻せば、武蔵が幼児の頃、領主は切支丹大名・黒田官兵衛、それに播州宮本村に近い室ノ津の一件もありましたな。
C――当時、室津の領主は、小西行長。天正十八年(1590)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)が、ローマ法王に謁見して帰ってきた「天正少年使節」を引き連れて、秀吉謁見のため上洛の途中、室津で滞在する。この時は越年して、十一月下旬から二月半ほど室津にいた。小西行長や黒田長政や大友吉統ら切支丹関係者がヴァリニャーノに会いに来た。
B――それに、室津では、年賀上洛の諸侯が停泊したが、少年使節たちは西洋音楽を演奏して聴かせたというね。室津の湊に、バロック音楽の調べが鳴り渡ったというわけだ。
A――楽器はヴィオラですな。グレゴリオ聖歌も歌ったことでしょうな。そのカルチャーショックに、室津の周辺から大勢見物にやってきただろう。
C――その頃、武蔵は七歳。播磨に居たとすれば、宮本村から近い、小西行長の領地・室津へ行って、伊東マンショはじめ少年使節らが演奏する教会音楽も、ヴァリニャーノの説教も、これを聴いたかもしれない、というのが、ありうるかも、という可能性の話(笑)。ただ、黒田官兵衛や小西行長の関係地ということでは、武蔵が子供の頃、切支丹信仰とその文化は、身近にあったということだ。
B――そのあたりは、これまで武蔵研究が看過しておったことだ。とくに、小西行長の水軍のみならず、室津からは朝鮮から東シナ海と、インターナショナルに世界が拡がっている。
A――『五輪書』の武蔵には、海に関する比喩や話題がありますな。たとえば、「戸を越す」とか。
C――武蔵に、山ではなく海の話が出るのは、海のそばで育ったからだ。しかも、室津のような有名な港が近所にあったからね。
B――それにしても、子供の頃、切支丹文化の洗礼を受けたとすれば、その後の武蔵の思想もかなり曲折があったということだな。
A――武蔵が実際に幼児洗礼を受けたということは?(笑)
C――そこまではだれも言えないだろう(笑)。ただし、黒田官兵衛を中心とする武蔵当時の環境条件からすれば、ありないことではない。武蔵の世代の多くは、その親の世代が切支丹文化の洗礼を受けている。親の世代が、いったんインターナショナルな交通世界を経験している。
A――戦争もまた一種の《Verkehr》(交通)だとすれば、秀吉の朝鮮侵略はインターナショナルな交通の一種ですかな(笑)。
C――先方には迷惑な交通だがね(笑)。文禄の役の時、武蔵は九歳か。それから、秀吉が死んで日本軍が完全撤退するのは、武蔵十五歳の時。だから、武蔵が九歳から十五歳までの多感な少年期(笑)、日本人の軍隊が海外出張して朝鮮で戦争していたことになる。
A――ドメスティックな戦国時代とはちがう戦時中だということですな。
C――武蔵の世代は、少年時に、海外侵略戦争の空気を吸って育っておる。言い換えれば、このインターナショナルな交通の産物はナショナリズムの高揚。そしてインターナショナルな拡張の結局は、全面撤退。秀吉が死んでしまうと、この侵略プロジェクトは一挙に意味を失う。
B――諸大名は、秀吉がどこまで本気か、わからなかったし、だれも秀吉に替って本気でこの侵略戦争の責任主体になろうという者はいなかった。
A――で、あっさり撤退してしまうのだが、この海外侵略が日本人にトラウマティックな禍根を残したかというと…
C――まったくそうではなかった。思うさま掠奪してきたからね(笑)。ただ、海外侵略は費用対効果が薄いというのが、反省点だし、学習させられたことだな(笑)。このインターナショナルな拡張志向は急速に萎んだが、海外侵略で高揚したナショナリズムは残った。
B――武蔵の世代は、親の世代のインターナショナリズムを、ナショナルに閉じて行く世代だ。ただし、儒教の「天道」も仏教の「観音」も、中世そのままではなく、織豊期の切支丹信仰をいったん通過した後のものと見なければならない。
A――それは、神社仏閣を焼却し、坊主を大量に殺した信長以来の文化革命でもあったわけだ。切支丹大名もまた領内の神社仏閣を破却したり、僧侶を追放したり殺したりしている。
C――つまりだ、戦国の挙句、いったん仏教の無意味・無価値が露呈した。信長が寺院を焼討ちにし僧侶を殺したのも、その理由は仏教の道徳的堕落だね。それに対し、極めて倫理的な切支丹信仰の世界観、人生観は、当時戦争に明け暮れた武士のそれに、かなり影響を与えている。たんにファッションとしての外来文化だったものが、日本人の精神を組み替えている。それをどう始末をつけるかは、武蔵の世代の仕事だった。

慶長播磨国絵図
室ノ津と宮本村

*【フロイス 日本史】
《(ヴァリニャーノ)師が室(むろ)に滞在して、事がそのように経過しているうちに、正月がやってきて、その室の港を通過する諸侯の往来もたいそう頻繁になった。この(ヴァリニャーノ師一行の滞在という)非常な椿事に魅せられた彼らは、四人の日本人公子(伊東マンショら遣欧使節)や、ポルトガル人に遭遇して、無上に喜んだ。彼らのほとんどは、巡察使(ヴァリニャーノ)の許へも来訪した。そしてこのとき、彼らは日本人公子らと大いに心安く語り合ったが、諸侯は深い尊敬の体で、彼らを手厚くもてなした。これら諸侯は、我々のことについて話を聞くのを無上に喜んだ。(日本人公子らは)携えていた地図や海図、とりわけシナで描かれた大きい図柄のきわめて珍しいイタリアの図を諸侯に見せ、一行がたどった経路や諸国、彼らが見物した諸都市、とくにローマ――それは格別よく描かれていた――を見せた。諸侯はそれらを見たり、他にイタリアからもたらされた全円儀(アストロラビヨ)、地球儀、時計、そして非常に珍しい書籍に接し、とりわけ(公子らが)着ていた教皇からの贈物である衣服が豪華なことに驚き賛嘆した。また、(公子らが)優雅にそして巧みな手つきで(楽器を)演奏する様子をみて、ますます感心し、彼らからその演奏の仕方を習おうと、好奇心に駆り立てられ、演奏を続けてほしいとしきりに懇願した》(第24章 師の室における遅滞と滞在から生じた効果と利益について)


Ludoico Teisera;
IAPONIAE INSVLAE DESCRIPTIO
Cum Imperatorio, Regio, et Brabantia
privilegio decennali. 1595







赤松広秀関係地図


竹田城址 兵庫県朝来市竹田





藤原惺窩像 三木市細川町桃津




睡隠姜先生影幀>

*【惺斎記》
《予の日東に落てより三年、斂夫を日本の王京に得て、之と遊ぶこと数月、始て其人たるを知りて、其學たるを聞く。既に其學たるを聞て、u其人たるを信ず。其人たるや、隠居教授し、聞達を求めず。人聞くべきも見るべからず、見るべきも知るべからざる也。箪瓢陋巷、之に處て裕如たり。義の不可とする所は、千駟萬錘と雖も、屑しとせざる所有り。悪を疾むこと風の如く、善を見ること驚くがごとし。道の合ざる所は、王公大人と雖も顧ざる所有り。其學たるや、師傳に由らず、小道に局せず、佛老の學に始まり、箇の昭々地を得たるも、其心迹の背馳せるを以て、終に棄去して爲めず。而して千載の遺經に因り、千載の絶緒を繹ね、深造獨詣、旁捜遠紹、結繩の替る所、龍馬の載する所、神龜の負ふ所、孔聖の籍る所より、濂落関閩の性理の諸書に迄るまで貫穿馳騁せざる靡し。洞念暁析、一切、天理を擴め放心を収め、學問の根本と爲す》

*【看羊録》
《日本の将官は、悉く是れ盗賊。ただ広通のみ頗る人心あり。日本もと喪礼なし。広通独り三年の喪を行い、篤く唐制及び朝鮮の礼を好み、衣服飲食の末に至るまで必ず唐・朝鮮に倣はんと欲す。日本に居ると雖も、日本人に非ざるなり》





岡山県立美術館蔵
林羅山賛 宮本武蔵筆
周茂叔図
A――武蔵の世代は、それを儒教、とくに宋儒の洗礼を受けることで通過している。つまり、神仏抜きでこの宇宙を説明してしまう理論ですな。
C――武蔵は兵法自伝しか書いていないから、その思想的背景は、世代論で想定するほかあるまいが、結局、武蔵の世代の特徴は、切支丹信仰から宋儒へという思想的シフトだな。切支丹は超越的絶対神を頂いたが、そんな超越的絶対神抜きで思想体系が可能だという局面だ。
B――ただ、武蔵個人でいえば、その思想的水脈は藤原惺窩だな。具体的には、赤松広秀から藤原惺窩という人脈だろう。
A――武蔵は十六歳のとき、但馬国秋山という兵法者と対戦して、これを倒している。その但馬の所縁というと、当時竹田城主だった赤松広秀ですな。
C――赤松広秀は最後の赤松大名なんだが、もとは龍野城主。武蔵が揖東郡宮本村産で、赤松末葉だとすれば、これは龍野の赤松氏に属した武家が、武蔵の実家だろう。
B――赤松広秀は、天正五年(1577)秀吉の播磨侵攻のさい開城して降伏して、以後、秀吉軍に属した。蜂須賀麾下で働いたが、四国制圧戦争の後、天正十三年(1585)但馬の竹田城主になって、大名に返り咲いた。これは山名宗全以来の山城だったが、これを大規模に改修して居城にしたのが赤松広秀。
C――龍野赤松氏の家臣団は但馬に移り、おそらく武蔵所縁の者らもそこいた。十六歳の武蔵が但馬へ行って、秋山という兵法者と勝負したとすれば、これは赤松広秀のラインを想定しなけれならない。
A――すこし整理してみると、武蔵については、先ほどの領主・黒田官兵衛のライン、九州豊前へ行った黒田勢の動向との関連がありますが、もう一つ、この龍野の赤松氏、但馬へ行った赤松広秀勢との関連があるわけですな。黒田官兵衛のラインでは、切支丹信仰、赤松広秀のラインでは、朱子学。そういう思想的背景が想定できると。
C――赤松広秀は、藤原惺窩とは龍野以来の友人だね。惺窩は播磨三木郡細川庄の生れだが、実はかの藤原定家の子孫だな。父は冷泉為純。どうして、播磨細川庄なんぞに定家の子孫が居たかというと、戦国の世で京は荒廃して、冷泉家は下級貴族だから、とても京都では暮らせない。惺窩の曾祖父・為豊のころには、京都から離れてほとんど在庄するようになった。戦国だから武装した在庄公家だな。父の冷泉為純の頃には、土豪武家と変らぬ様態(笑)。
B――天正六年(1578)、信長から離反した三木城の別所長治麾下へ七千五百騎の武士が結集したとき、冷泉為純はこれに応じず、信長方に与した。別所勢は細川館を攻め落とし、為純・為勝父子は戦死した。惺窩は嫡男でなかったから出家の道、少年の頃、龍野近在の禅院・景雲寺にいたので、命は助かった。
C――景雲寺は禅寺だが、惺窩はそこで儒仏両道を学んだ。その後、叔父の寿泉清叔の縁で京都相国寺へ入山する。しかし禅仏教にあきたらず、結局還俗して、儒者の道を歩んだ。
B――儒学者として生きるというのは、この藤原惺窩が最初だな。近世日本において、儒者は多数輩出したが、そのさきがけはこの惺窩だ。
C――藤原惺窩は、伝統的な禅院の儒学から出てきた人だが、切支丹文献もよく見ている。だから当時の思想世界は一通り横断している。
A――藤原惺窩は大陸に渡ろうとして、失敗しますな。
B――とにかく、当時の儒学は古臭くて、こりゃダメだと思ったらしい(笑)。最新の儒学を、明に渡って直接学ぼうとした。大陸に渡るのは失敗したが、後に思いがけない機縁が生じた。
C――秀吉の朝鮮侵略のおりの掠奪文物はいろいろあるが、美女や陶工といった生身の人間も掠奪してきた(笑)。そして朝鮮朱子学の学者、これも拉致してきた。その一人が〔きょうこう、カンハン〕だね。慶長の役、南原城の戦いで藤堂高虎勢に捕らえられて、伊予大洲へ拉致され、ついで京都伏見に移されて捕囚として軟禁されていた。そのとき、惺窩は姜と知り合って、最新の朝鮮儒学にリアルタイムで接することになる。
A――朝鮮にとっても、姜個人にとっても、実に迷惑なことだったが(笑)、秀吉の朝鮮侵略によってこういう文化交流が発生した。
C――交流というには、一方的な優劣だがね(笑)。ま、とにかく、当時朝鮮には原理主義的なラディカルな朱子学が形成されていた。藤原惺窩にすれば、姜の学識は、日本の儒学とはレベルが違っていた。そこで、友人赤松広秀に相談して、彼らは新しい儒書の出版事業を計画した。姜ら捕虜の鮮儒に四書五経の筆写を委嘱し、それに惺窩の訓点をつけて出版する。跋文は姜。鮮儒・姜の指導のもとに推進されたこの一大文化事業は、赤松広秀の死によって頓挫したが、当時の学問水準をはるかに抜くものだった。
B――赤松広秀は惺窩の門人で、なかなか物事のわかった人だったらしい。藤原惺窩(問姜)によれば、赤松公(広秀)が、「日本諸家の儒を言ふ者、古より今に至るまで、唯漢儒の学を伝へて未だ宋儒の理を知らず。四百年来、其舊習の弊を改むること能はず。漢儒を是とし、宋儒を非とす。寔に憫笑すべし」と語ったという。赤松広秀の状況認識はこれで、新しい儒学(宋儒)を日本に建立しようとした。領地但馬の竹田城下で、孔子殿を建設し、儒教の釈奠を復活させた。そういう点では、当時日本の儒学の最先端は、この藤原惺窩・赤松広秀のラインにあった。
C――『看羊録』に姜いわく、「日本の将官は、ことごとく是れ盗賊(笑)。ただ広通(赤松広秀)のみ、すこぶる人心あり。日本もと喪礼なし」。野蛮人の国だということな(笑)。「広通独り三年の喪を行い、篤く唐制及び朝鮮の礼を好み、衣服飲食の末に至るまで、必ず唐・朝鮮にならわんと欲す」。
B――日本に居ると雖も、日本人に非ざるなり(笑)。そういうわけで、盗賊が支配する野蛮人の国にあって、儒教文化を知り、しかも実践している稀有な人物。ようするに、当時の日本人のだれよりも儒教文化に深く入れ込んだ、超日本人的な日本人が赤松広秀なんだ。その広秀が、但馬の領地で、孔子殿を建立し、釈奠を営んでいた。
C――但馬が田舎だと思っていると大きな間違い(笑)。赤松広秀の城下には、京都より進んだラディカルな宋儒のセンターがあった。武蔵が但馬へ行って遭遇したのは、まず、日本のどこにもないそんな知的運動だった。
A――『五輪書』に出てくる但馬国秋山という名、その「但馬国」には、そういう背景があるということですな。これもまた、従来の武蔵研究がまったく看過してきたことだ(笑)。
C――話をもどせば、武蔵が但馬にいたとすれば、十代の頃、すでに宋儒という思想的環境があった。この藤原惺窩・赤松広秀というラインがあって、それが但馬から京都へというコースだな。
B――武蔵が京都へ出るのは、二十一歳。その京では、藤原惺窩の文化サロンがあって、武蔵の知的文化的人脈は、そこで開発される。林羅山は武蔵より一つ年上だが、羅山は惺窩に入門したてだな。若い両者の相遇がありえたとすれば、それは藤原惺窩のサロンでのことだろう。武蔵の作画にしても、これはかなり芸術的素養があるとみえる。武蔵は京都で絵を相当観ているな。
C――武蔵は京都で、吉岡一門はじめ「天下の兵法者」と兵法勝負をするわけだが、そのかたわらで(笑)、こういう京都の文化的芸術的環境に身をおいたということだ。
A――同じ世代の林羅山は、主として朱子学に傾くが、武蔵の方はそうでもないようだ。どちらかというと、惺窩のエリアですな。
C――たぶんそうだろう。武蔵は羅山のように朱子学に純粋化する方向ではない。朱陸ともに、というあたりだろうし、北宋の周濂渓(茂叔)、程伊川もふくめた雑種的なものだし、王陽明もあるだろう。ただし、和朝の神仏や、切支丹の絶対神デウスも抜きで、宇宙と存在を説明してしまう宋儒の理論、一種の超越論的自然学=物理学(transcendental physics)だね、それが武蔵の思想の脊髄だろう。
A――五輪書の記述に通底しているのも、その物理学ですな。かつて小林秀雄は、武蔵の合理主義を看破したが、そこまでは見ていない。
B――それに、善悪の彼岸という武蔵の物理思想の根本は、だれもまだ見ていない。武蔵の芸術、兵法ではなくそのアートの部分は、美的というより倫理的だな。その倫理性は、無原則な禅思想ではなく、むしろ儒学のストリクトな論理からくるものだ。
C――それが判らないから、武蔵を柳生流の心術論で読んでしまう。そういう無知で通俗的な武蔵論がこれまで多すぎたんだよ(笑)。
――さて、そろそろ、時間が不足しています。武蔵が生きた時代のことは、まだまだ話が尽きませんが、今回は、武蔵の時代世代の実相について、従来武蔵研究では知られていなかったことがここで語られたと思います。武蔵の思想や芸術の背景については、いずれ改めてお話を伺いたいと思いますが、以上のような知的環境を知っておくことは必要ですね。
A――武蔵が横断した中世的なものと近世的なもの、乱世と秩序、戦争と偃武、こうした対比は、武蔵を論じるばあいの必須条件だが、それをドメスティックな視点ではなく、東アジアの交通世界での関連を述べなければね。
B――思想の次元では、切支丹や新しい宋学との関連だな。「武蔵とその時代」なんて見出しで、ろくなことしか書いていない奴が多すぎる。ひどいのになると、明治の顕彰会本『宮本武蔵』の記事を引き写して、「こんなぐあいでござい」とやっている。
C――そんな頓珍漢な五輪書解説本が多い。ようするに、慶長と寛永、武蔵の青年期と晩年では、社会の様相も思想もドラスティックに変容して、同時に武士の生き方・考え方もずいぶん違ってしまった。この変化のプロセスを押さえないと、五輪書に書かれていること、とくにそのクリティカルなスタンスが、まったく理解できないだろうよ。
――そうでした、五輪書読解プロジェクトは、このサイトで実施されて、その成果がすでに公表されています。地・水・火・風と進んで、最後の空の巻まで終りました。五輪書読解は、いちおう完了したと見てよいのですか。
C――空の巻までいったん行ったが、もちろん作業はまだ完了はしていない。まだ途中の段階で、これから見直して手が入るところだな。
B――しかし、今の段階でさえも、すごい成果だね。とくに、既成現代語訳の間違いが、大量に指摘されている。これで、どれだけ、いいかげんな現代語訳が流布しているか、よくわかるね。
C――まったく、いいかげんな翻訳しかない(笑)。
A――それに、五輪書研究会版テクストですな。「復元」とまでは言わないけれど、このテクスト・クリティークで、オリジナルの内容にかなり近づけたのではないかな。
C――だいたい、一般には細川家本しか知らないからね。これはかなり脱文が多いし、後人の割注が後に本文に紛れ込んだフシのあるところもある。この細川家本に依拠している限り、誤訳は避けられない。現在までのところ、テクストの不完全と、翻訳者の読解能力の欠如、これが相乗して、ひどい現代語訳になってしまっている。
B――細川家本が支配的テクストになったのは、岩波版五輪書が底本に使ってからか。
A――それだけではなく、昭和初期まで、この細川家本が、何と武蔵真筆本と見なされていたということがありますな。だいたい鑑定というのは、元来恣意的で、いいかげんなもので(笑)、それは今日も変らない。
B――そうだな。古美術の鑑定にしても、まるで進歩していない。現代科学技術を生かした鑑定法は開発されていない。なにしろ文学部の人間が鑑定しているんだ。まったく非科学的で、サイエンス・テクノロジーのセンスがない。こんな状態だと、明治期までに大量生産された贋作が、いつまた真物として「新発見」されるか知れないね(笑)。
B――細川家本五輪書が支配的テクスト、という状況は、これから覆す必要がある。かといって、現存写本はどれもこれも不完全で、欠陥が多すぎる。
A――楠家本の方はどうか。こっちの方が細川家本より優れているという説もあるが。
C――それも、いいかげんな話だ。細川家本と楠家本、これはどちらも欠陥があって、五十歩百歩だね。言うほどの差異はない。これは、字句の異同だけではなく、テクスト内容を十分読み込めばわかる。それを、ことさら、楠家本の方が優れていると言い立てるのは、まったく無知な証拠だ。
B――だいいち、狩野文庫本も含めて肥後系五輪書しか知らないからな。目クソ鼻クソの類いの論議だよ(笑)。
A――たしかに、肥後系五輪書しか知らないという研究者ばかりですな。ようするに、連中の論文を見ると、いまだに筑前系五輪書をよく見てもいない。世の中には、細川家本をはじめとする肥後系五輪書しか存在しない、と思い込んでいる(笑)。
B――筑前系五輪書は、まだ数が少ない。以前から知られていたのは、中山文庫本だが、これは十九世紀の写本だな。
C――中山文庫本は、筑前二天流の早川系の五輪書だな。昭和五十年代にその存在が知った吉田家本があるが、これは中山文庫本より古い写本。同じ筑前系ということで、兩本の内容は類似している。むろん、この二本だけでは心許ない。今後、筑前系五輪書の発掘を進める必要がある。
――吉田家本は、空之巻の相伝証文を見ると、筑前二天流の立花系ではないですか。
B――だけど、その相伝証文は寛政年間に立花増昆が継ぎ足したもので、空之巻の柴任美矩が吉田実連に与えた相伝証文までと、筆跡も違う。それに加えて、吉田家本の空之巻と、それ以外の四巻とは、筆跡が違うということもある。
C――そのあたりは今後の研究課題。吉田家本の史料評価は、明確に立花系だと知れる五輪書を発掘してからでないと、何とも云えない。
A――肥後系五輪書には、筑前系のような相伝証文がない。奥付の署名・年月日・宛名など、形式もさまざま。
B――ようするに、相伝文書として体裁をなしていない。現存する肥後系五輪書はすべて、寺尾孫之丞の門下から門外に流出した写本から派生した後世の写本だな。
C――現存の肥後系五輪書は、どれもみな、パイレーツ・エディション(海賊版)なんだよ(笑)。
B――そんな基本的なことも知らず、五輪書研究は恐るべき低レベルで推移してきた。それゆえに、五輪書研究会版テクストが構築される必要があったというわけだよ。
C――そう、まさにコンストラクションだね、フロイト流の語の意味で言えばだが。こうしたテクスト生産をしなければ、そもそもテクストが読めそうにない、という奇妙なジレンマに、我々は途中で気づかされた。だから、解題にもあるように、テクスト生産をしつつ読むという、パラドクシカルな作業が実行されたわけだ。
A――それも、読解してはテクスト生産し、生産してはテクスト読解をやるといったフィードバック。こういう行きつ戻りつがなければ、テクスト生産もできない。
C――そういうわけだ。この五輪書読解プロジェクトは、まだ完了していないが、とりあえずのところは出せるという段階だ。もちろん、終わりなき分析ということが精神分析にあるように、この読解も終わりなき読解かもしれないがね。










永青文庫蔵
細川家本



高砂宮本武蔵顕彰会蔵
楠家本




東京都立中央図書館蔵
中山文庫本



九州大学蔵
吉田家本
――武蔵研究において五輪書読解は不可欠の作業です。その意味で、たんなる現代語訳ではなく、きわめて詳細な論注が展開されている、この五輪書研究に比肩しうるものは、これまで出現していなかった。それは大いに宣伝してよいことでしょう。ところで、どうやらお時間がまいりました。今回は、十二分に放談されて大いに脱線しましたが(笑)、次回は、前回に続いて、武蔵本の論評をお願いしたいと思います。それで、いかがでしょうか、今年は大河ドラマもあって宮本武蔵の当たり年ということで、例によって武蔵本が多数出版されましたので、それを一通り論評するということでは。
A――え? 今回の武蔵本ブームで出たものには、ロクなものがないよ。便乗本以外に、論評に値する本があったかね。
――もちろん、それは承知の上。ですから、徹底批評していただきます。ここにリストを用意していますから、とにかく読んでいただいて、次回正月明けを予定していますから、集まって合評していただきたいのです。
C――やれやれ、ひどいことになったなあ(笑)。
(2003年12月吉日)


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