坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

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生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。 (五輪書・地之巻)
02 可笑、「珍説」宮本武蔵  Back   Next 
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――座談武蔵の二回目になります。今回は、いかでしょうか、まず戦争と暴力の問題は。イラク戦争の帰趨が明らかになった時点で、我々は今日、改めて戦争という根源的暴力の問題を突きつけられたと思いますが。
A――先日のサンディエゴ沖の空母エイブラハム・リンカーン艦上、アメリカ大統領の勝ち誇った演説は、まさに醜悪な芝居を観た気がした。あの光景は、まさにこれまで我々が見たことのない世界状況のリアライズを見せつけたものでしたな。ブッシュはさながら世界皇帝の顔つきだった。
C――空母艦上ということでは、昭和二十年の東京湾の戦艦ミズーリ号を思い起こすね。アメリカ人はよほど軍艦という舞台が好みのようだ(笑)。ブッシュは歴史に残る舞台を自ら演出したわけだ。世界史を意識的に書くということだね。しかし、それは、世界史を意のままに操作しうる権力を手に入れたということだね。忘れられてはいけないのは、この勝ち誇りに対し、今日地球上のどんな勢力もこの侵略戦争を阻止しえなかったということだ。
B――この戦争は従来にない戦争だったことは、もはや宣戦布告などという外交儀礼は存在しないということだね。敵方の政権を認めないとなると、外交交渉の相手ではない、叩き潰すだけの存在だということだ。こんな乱暴な話は、少なくとも三十年前にはありえなかった。儀礼とはいえ、国際法というものがあって、国家主権というものは無視できなかった。いまや国際法は無視され、まさに無法者が世界を牛耳るようになった。そういう世界支配システムを「グローバリズム」と呼んでいる。
C――この戦争スタイルは、今になってはじまったことではない。二十世紀末、南米の小国の独裁者政権を粉砕し、また東欧ではNATO軍が寄ってたかってチェコのミロシェヴィッチ政権を粉砕した。ようするに、敵の政権の非正統性を主張できれば、侵略戦争はいつでも可能だという構図を、欧米人がつくってしまった。今回のブッシュの戦争は、その構図の上に乗っただけだ。英米二国の戦争に対し、独仏二国は反対に回ったが、彼らはどちらも同じ穴の狢だ。それゆえ反対しても、軍事的牽制行動など取りはしなかった。
B――根本的には、あやつらのスタンスには差異はない(笑)。主権を認めない。戦争に値しない戦争だという軽蔑がある。この軽蔑、第一に、おぞましいレイシズムを感じさせる。第二に、戦争に対する軽蔑がある。湾岸戦争のときは、戦争に対するシニシズムがあった。今回は、戦争に対する軽蔑だ。戦争を軽蔑しつつ、戦争を遂行する、これが今回の戦争の実相だ。







Stop Bush
Stop War








C――それは、戦争を正当化する理由などない、正当化する必要もない、という今回の対イラク戦争の特徴に示されている。
A――最初は、フセイン政権が隠匿している大量破壊兵器の脅威に対し先制攻撃を加えるという理由でしたな。ところが、イラク国内に侵攻しても、予想通り、当の大量破壊兵器など発見されない。すると、大量破壊兵器など、もうどうでもいいじゃないか、ということになった。いわば理由などない無法者のイチャモンづけの侵略だった。それでは具合が悪い。独裁者に苦しめられているイラク国民を解放するという解放の論理が出て来た。ところが、どうやらフセインを抹殺するのに成功したらしく、イラク軍の指令系統が壊滅して、抵抗戦さえなくなって侵攻作戦がするする行く、すると、もうフセインなどどうでもいい、という話になった(笑)。おそるべき戦争ですよ、これは。
B――最初は、具体的な脅威を宣伝することで、戦争を正当化して人心を動員する。これは強い理由だね。つぎに解放の論理、これは弱い理由だね。最初の強い理由がなくなれば、元にもどって、戦争を引っ込めるかというとそうではない。だからこの戦争を正当化する理由はもともと存在しないし、もはや戦争の理由など、どうでもいいわけだ。それが、さっき言った戦争に対する軽蔑だ。戦争を軽蔑しつつ、戦争を遂行する。何という、ひどい話になっちまったんだ。
C――それは圧倒的な軍事力の差、テクノロジーの差を背景にした軽蔑だ。圧勝できる者は、敵を軽蔑しうると同時に、戦いそのものをも軽蔑できる。これはやり切れないね。いつ、どこで、フセインを殺せたか、それも分らない戦争だった。とほうもない強力な爆弾を使ったようだから、遺体の跡形もないのだろう。この目標抹殺のリアリティの欠如は、むろん、戦争を正当化する理由の欠如と、ちょうど裏腹で対応している。
A――結局、石油が目的だった。バグダッドを占領した米軍が接収した役所は、石油省だけだ。あとは略奪したい放題に任せている。反戦運動デモで、
  《No War for Money, No Blood for Oil》
というシュプレヒコールがあったが、まさにそれだった。《for Money, for Oil》なんだよ、理由は。
C――露骨で野蛮な話だ。バグダッドは日本のオリエント学でも親しい博物館がある。そこがやられた。最初はプロの計画的な仕業だ。それが終って引き揚げると、こんどは群衆が押し寄せて略奪し放題。博物館側が、護衛を要請しても、むろん占領軍は、そんな指令は受けていないと動かない。結局、民衆による略奪は、最初の組織的なプロの略奪の痕跡を消すためだったらしい。痕跡を消すには自分が消すのではなく、他人に同じ行為を反復させることだ。そのうち、米国、英国で、古代オリエントのお宝が出回るだろう。
B――昔ね、あるオリエント学者が知り合いにいた。一般向け著書もいろいろあって、いっぱしオリエント学の代表みたいな顔をしていた。彼はもう亡くなったが、奴はいい時計をもっていて、これフセインからもらったんだ、と自慢していた。なにせ、フセインを偉大な指導者として尊敬しておった(笑)。
C――日本のオリエント学はフセインから便宜を蒙っていた。フセイン独裁体制には大きな恩義があるのだよ(笑)。しかし、今回の侵略戦争で火事場泥棒みたいな連中があったな。報道陣、マスコミ関係者もけしからんやつがいて、お宝を持ち出そうとして国境で多勢捕まった(笑)。
A――もっと恥ずかしい奴は、毎日新聞のあの記者だね(笑)。手榴弾を土産にするつもりだったが、それでヨルダン人を死傷させてしまった。古代のお宝も持ち出そうとしていたらしい。
C――まあ、あいつだけが恥知らずではない。今回の戦争で、日本政府も日本のマスコミもずいぶん恥ずかしいことをやったぜ。政府は国益という恥かしい理由づけしかできなくなった。
B――つまりだね、博物館の略奪は、膨大な埋蔵量のイラクの石油の略奪と同じことなのだ。これまで、フセイン政権は、フランスや中国、ロシアに石油掘らせて彼らに売らせていた。それを、こんどは、白昼堂々、大軍を動員して、米英2国が横取りしたわけだ。フランス、中国、ロシアは、今回の略奪を指をくわえて見ているしかなかった。こういう分捕りの野蛮な光景は、百年以上前の帝国主義の世界とまったく同じだ。そういう意味では、歴史は大いに退歩したね。
C――今こそ、「米帝」という言葉のリアリティがあるわけだ。かつて四十年前になるが、我々の世代がこの「米帝」を使用したとき、半ば修辞的に使ったものだ。しかし、なんと今、この言葉に現実が追いついてきた、というわけだ(笑)。これはね、実はアメリカ本国で、若い時米帝批判をやっていたことのある人間が、「米帝」をリアライズしているというところが、まさしくポイントだな。
A――ブッシュ・ジュニアのモンキー・フェイスの陰で、やりたい放題やっている連中がいる。これを「ネオコンサヴァティヴ」(neoconservative)と言っておるわけですな。このネオコンは、以前の保守派でもタカ派でもない。ニューライトでもない。ブッシュ政権の出現とともに抬頭してきた新しい勢力集団ということ。
C――大統領制は一種の独裁システムだから、大統領周辺の一握りの連中がすべてを動かせる。米国大統領の周辺を何者が固めているか、それによって世界の運命が決まる。ネオコンというのは彼らの自称ではないね。これは一種の差別用語だ(笑)。つまり、「ネオ・ナチ」というのと同じ、「ネオ」。オーソドックスな保守派と区別される。
A――侵攻したあと、ひと悶着ありましたな。好戦的なネオコンらの大部分が軍隊勤務の経験がなく、戦争をまったく知らない連中が無理矢理戦争を起こして危機を招いている、という批判が軍人から噴出した。じっさい、共和党支持の伝統的保守派軍人たちは、現政権を牛耳っているネオコンどもを嫌っている。
B――アメリカの伝統的な保守派は、政府を小さくしようとしか考えない。福祉政策なんて愚の骨頂、働かない怠惰な人間を増やすだけだ。というわけで、政府の統制を減らそうとする。政治権力にろくな事は出来ない、という見切りがある。小さい政府、伝統的に共和党のポジションだね。これに対し、民主党の方は、それはいかん、民間ができない、政府政府がやらなきゃいかん仕事がある。福祉を切り捨てたら何の政府か、というわけだ。二十世紀後期にはとくにマイノリティー保護に力を入れた。共和党は、要はコストの問題、あまり金のかかる政府はいかん、低コストの政府。すると、口では反共を主張していても、戦争には莫大なコストがかかるから、消極的になる。他人のおせっかいはするな、直接的脅威にならないかぎり、米国には関わりなきことだ、とモンロー主義になる。ところが、他方の、政府は国民に慈悲を垂れる必要があるとする論理は、同様に他国民の惨状も座視できないとなると、介入すべしという動きになる。
C――国際政治においては福祉派必ずしも平和主義者ではない。したがって、福祉派が戦争派に転じても不思議はない。タカ派必ずしもタカ派ならず、ハト派必ずしもハト派ならず、というわけで戦争はタカ派とハト派を斜めに横断しているわけだ。
A――そのあたりからネオコンが出てきた。ネオコンは左翼だ、と保守派は揶揄するが、それは根も派もないことではない。左翼が反転、極右になることは、ヌーヴォ・フィロゾーフのように、かつてのフランスでもあったことだし、珍しいことではないですな。ただし、ネオコンは左翼だと言うのは、せいぜい民主党左派ていどという意味だ。
C――このネオコンのメンタリティは、ドメスティックにはマイノリティー保護、インターナショナルには人民解放軍だ(笑)。


Rumsfeld Pearle
Feith Wolfowitz
I_Kristol Strauss



A――しかし、9.11以後状況は変ったというが、9.11はアメリカン・グローバリズムという新しい世界支配を貫徹する口実を与えたにすぎない。イラク戦争の真の理由は石油が目的だというが、問題は、そこまで目的が露骨なのに、この占領の犯罪性を国際社会で規制するシステムが崩壊してしまっていることだ。
B――むろんね、石油より大きな利得がある。石油は一部の国際石油資本の利得になるだけだが、今回の戦争の最大の利得は、《ジュイサンス》 jouissance なんだぜ。国連を無視し軽蔑し、国際法を蹂躙し、また自らの戦争を軽蔑しつつ侵略戦争に成功する、この倒錯的悦楽こそがアメリカ社会にとっての最大の利得だよ。
C――まさしく、それだね。現在、アメリカ社会を舞い上がらせているリビドーは。我々が見せつけられたのは、今回のイラク占領戦争が、実際には現実の戦争ではなく、ある種の大演習として行われたことだ。これは現実の戦争ではなく、パフォーマンスとしての戦争だね。これは戦争反対諸国に見せつけるだけではなく、いかに米国が偉大か、国民が実感するための演習なのだ。だからイラク人に死傷者が出ようと、さして気にならない。米軍が演習する場所にいるのが悪いんだというところまで行く。戦争に一番リアリティがないのは、米国市民ではないか。
B――戦闘突入となると、本土はいわば一種のお祭状態だね。本当はネオコンは、自身が結託した民衆的なキリスト教原理主義など軽蔑している。しかしこのネオコン戦争は、ある種の聖戦に勝利したという実感をもって受け入れられた。そして、アメリカ市民は、ますます聖戦に邁進すべきだという、まさしく侵略戦争の論理に完全に嵌っている。
A――こんどは、メディア報道に関して、湾岸戦争の時とちがって、情報統制がほぼ完璧だったな。ブッシュ政権は湾岸戦争の例に懲りて、マスメディアを完全に掌握した。だから、本当に何が起っているのか、世界中が知らないという状態だったし、今もってどんな戦争被害が出ているのか、まったくわからない。この情報封鎖は、おそるべき状態ですよ。




















C――それはね、米国が世界中の情報を独占しうるところまで来ているということの反面にすぎない。この情報帝国主義は以前から言われてきたことだが、今回のように戦争になると、非常時ということで、情報統制に入る。すると、情報空間はブラックアウトして何もわからなくなる。高度情報社会というのは、自由への道ではなく、その気になれば、ごく小数の勢力が情報を独占できるということだ。
A――それは同時に、敵の情報システムを破壊できるということだね。ここまで情報ネットワークが展開されていると、そのネットワークを攻撃すれば、瞬時にして指令系統を破壊できる。
B――そうだよ。我々が使っているカーナビだって、米軍のGPSの余禄を頂戴しているということを知らねば。現在地球上のどこでも米軍に筒抜けだ。今回の新兵器には軍事衛星と連動したものがいくつか登場した。中でも注目は無人兵器だね。
A――もう少しでロボット戦争ができる(笑)。
C――しかし現実にこれができるのは、米軍しかない。なぜなら、世界中がアメリカの情報システムに依存するようになっているからだ。衛星の信号操作だけでも、軍隊は大混乱になる。兵器や指揮系統がハイテク化すれば、それだけいっそう、独占支配が容易になる。だから、もはや正規軍の通常戦争をアメリカ相手に遂行できないわけだ。それゆえ、原始的なゲリラ戦だけが対抗できる唯一の手段になっていくだろう。
A――グローバリズム対テロリズムという図式があるが、まさに両者は相互に相手を生産し合うわけです。それが現代世界の暴力の構図である。
C――それが現実には、究極的にロボット対人間の戦闘になりかねない。つまり、テロリストを追い詰めるのは、ロボットという戦闘機械であって、かくして人間は機械を相手に本当に戦わなければならなくなる。それがSFではなく、現実化してきたということだ。
B――それはある意味で、もう始まっているのかもしれない。米軍の最新兵器はどれもある意味で、すでにロボットじゃないのか。最近アラブ世界で急増した自爆テロは、まさに人間的戦闘は自爆しかないのか、という究極の謎を我々に提示している。
C――神風特攻隊。最近叔父の一人が亡くなったが、彼は特攻隊の生き残りだった。島尾敏雄じゃないが「遂に出発は訪れず」だった。航空隊の方だがね。敗戦となって、それで偶然生き残った。戦争の話は決してしない人だった。戦争の話をすれば、必ず肯定か否定いづれかの立場を取らざるえない。しかし戦争体験は、そんな肯定か否定かで片づけられるものではないだろう。いま戦争体験者で生き残っている老人たちの大半は、そうやって復員後の沈黙を守ってきた。だからね、特攻隊の自爆攻撃、もし自分が遂行したかもしれないこの行動を、語らないというのは、それ自体立派な振る舞いだったと思うね。おそらく爆弾を抱いて自爆行為に走るムスリムたちも、敵よりもはるかに人間なのではないか。
A――特攻攻撃やムスリムの自爆攻撃に対して、ファナティックに神がかっていて狂気の沙汰だということが言われる。しかし、決然として爆弾を抱いて自爆に趣くアラブ人女性の実写ヴィデオを観たが、彼女たちは死を前にして美しいほど沈着冷静だった。ロマンティックに語るつもりはないけれど。
C――反テロリズムが非人間的で、テロリズムの方が人間的だという、究極のミステリーか。
B――自爆攻撃という究極の行為が、現代世界で遂行されるとすれば、一つにはそれは、人間の尊厳を保つ者がいるということ、第二に、戦闘自体が非人間化してしまっているからだ。これによって、戦闘は、ますます人間対非人間の非対称な戦いになっていくだろう。それが今世紀の暗澹たる見通しだね。


――そこで、武蔵の話になります、突然ですが(笑)。武蔵のばあい、兵法者ですから、これは広い意味での戦闘術のプロのはずですね。戦争と武蔵ということではいかがでしょう。
C――それよりも先ほどの話の続きで言えばだ(笑)、武蔵の暴力哲学、戦闘思想だね。これをナルシシスティックな「男のロマン」で語ってもらってはいけないのよ(笑)。百年以上も続いた内戦の血みどろの土から生育って出てきたのが武蔵だ。武蔵の戦闘思想は、道場試合のチャンバラごっこではない。そのとき思うのだが、人間対機械、自爆テロ対ミリタリズム、テロリズム対アメリカン・グローバリズムといった二項対立を突破するのが、この武蔵の武装の思想であるまいか。
B――ほとんど現代の「平和日本」ではリアリティがないが、いま現実に多くの地域で、武装する個人が、暴力によってようやく確立できる人間の尊厳だよ。武蔵のいう「名を助くる」だね。個人の基本的人権などという西洋的近代政治概念ではなく、アルカイックな名誉、尊厳、ディグニティのレベルでこそ人間は戦う。
C――武蔵が「武士の道」というとき、それは封建秩序の中に回収されてしまった個人の生きる道を、アナクロニックに回復しようとしたとは言える。ただし、個人が生きているのは、君主のためでも、家のためでもない。「身を助くる」ため、「名を助くる」ためだ。
A――武蔵が「武士」というとき、武家というよりも、個人ですな。
B――それは元禄の赤穂浪士までは残っていたと思う。あれだって忠君というイデオロギー的染色がなされてしまうが、ほんとうは、行動に決起しなければ、自分の武士としての「一分」が立たない、ということだった。
C――そうなんだ。恥ずかしくて生きておれないよ、ということだった。しかし武蔵のばあい、君臣関係のなかの武士ではなく、まさに武装する個人なんだ。自身の戦闘術によって自主する、ある意味でそれは武士の倫理的原型であって、日本近世の端緒ではまだ残っていた個人主義的思想だ。
――武蔵は、すでに戦国の終焉が見えてしまった時代に人と成っています。したがって彼は遅れてきた兵法者として生きたと言えるでしょうが、天下泰平の世のこの戦闘者というポジションは、いったい何だったのだろう、と。こう思うのですが。
B――それについて思うのはね、武蔵が若い頃、実際に六十何回も決闘勝負をしたことだね。こんな無茶なことをやって、それでも生き残った。けれども、幕藩体制下で大名である連中も、まさしく、延々幾多の合戦や陰謀を掻い潜って生き残った連中なのだね。武蔵は「大分一分の兵法」というが、数万の合戦も一対一の決闘でも同じことよ、という。こんな話は、武蔵の世代にとっては不遜でも何でもない。大名が生れつき大名であるようになる以前を知っているからね。
C――下克上で成り上がって生き残った連中だよ。偃武で秩序が確立され、暴力団の「頭」である者が、いつのまにか大名におさまってしまう。上抑下の幕府の権力が確立され、諸大名はこれに臣従するようになる。幕藩体制は、現在のアメリカン・グローバリズムみたいなものだ(笑)。
A――現在の世界システム内部では、米帝支配の下に国家は廃絶され、一種の幕藩体制が構築されようとしている(笑)。
出光美術館蔵
大坂夏の陣


江戸城天守復元図
江戸城天守閣
家光時代 復元図


姫路城天守閣
姫路城天守閣
B――幕府に敵対は不可能で、背けば必ずお取潰し、除封だ。諸国諸藩のお家断絶も意のままだ。この封建的支配秩序は、結局、武蔵のような生涯浪人だった根本的に無頼な徒を排除するものだった。そのとき、六十余度の決闘に勝った後、三十年もどこで何をしていたのか、よくわからないという武蔵に興味があるね。
A――兵法者・武蔵に対する「需要」は、ほどほどあったと思う。だから、三十年なお生きてこられた。しかし、元禄の芭蕉のようにさっさと武士を捨てて誹諧師になるというでもない。
C――武蔵は画家でも十分やって徃けただろう。しかしそうはならない。内戦は終了したのに、戦国の武士というモデルを体現していた。そこだね、問題は。たんに「需要」があった、というからではない。
B――武蔵は『五輪書』で、書いているね。その内的動機みたいなものを。三十路を越して反省してみると、六十何回の決闘に勝った、けれどこれは決して自分が道を極めていたから勝ったのじゃない。何かよくわからんが、勝ってしまった。で、いったいこれは何だったんだ、と(笑)。これはどうしても、何らかの法則があるに違いないと。それでは、そいつをぜひ探究してやろう、というわけだね。
C――ところがね、このリフレクションが二十年もかかっちまう(笑)。それがようやく片がついたのが五十歳ころだというから、これは尋常のことではない。武蔵は明らかに武術の天才だったが、その後の努力、事後的修行をみると、これは単なる天才じゃない。
A――ふつうは、華々しいキャリアを積んで、どこかへ就職する。ところが武蔵は、客分にはなっても家臣にはならない。生涯仕官はしませんな。
C――それが武蔵の無頼であり、また逸民というところだね。当時の漢学の範囲では、モデルは文人隠逸にありそうだが、むろんそれとは違う。日本中世の伝統なんだ、そういう芸能者の生き方は。
B――そして、当時そういう生き方をするには、教養が必要だった。明治の高等遊民とは違うが、武蔵は教養が邪魔をして、仕官しようとは思わなかった(笑)。武蔵はたんなる文人・画人ではなかったけれど、画論だけではなく儒学の教養はかなりあった、とみなす必要がある。
C――当時最新の倫理思想としての宋学だね。そういう「インテリ武蔵」という側面は、我々の研究を通じてはじめて、ようやく見えてきた、というところだろう。従来は、アホな武蔵イメージしか世間に流布していなかった。




司馬遼太郎『真説宮本武蔵』
昭和三十七年 文藝春秋新社




司馬遼太郎 当時
――そこで、割り込むようですが、この座談会の企画として、これまでの武蔵論、武蔵小説、ジャンルに拘らず、それぞれの問題点を明らかにして、整理していくことにしたいと思います。で、勝手に決めさせていただきますが、いまのお話の内容とは正反対の武蔵像を世間に流布した、司馬遼太郎『真説宮本武蔵』(昭和三十七年)、これはいかがでしょう。若い頃の作品ですが、これが意外にも、後々の武蔵小説や武蔵評伝にまで影響を与え、亜流を多数生産しているということからすれば、一度きちんと論評しておく必要があると考えます。じっさい、本サイトの閲覧者にもそういう声が多いのです。
C――また司馬遼太郎かね、もう沢山だがね(笑)。さっきの武蔵の放浪生活、一生不仕の浪人だったということね、それについて、根拠のない馬鹿げた武蔵像が戦後形成された。その一つの代表が、司馬遼太郎『真説宮本武蔵』だ。この系統のフィクションによれば、武蔵はずっと仕官を求めていたが、それがどうしても実現できず、失意の人生を送ったというわけだ(笑)。大笑いだね。
B――司馬遼太郎のあれは、剣聖武蔵や求道者武蔵といった戦前の精神主義的な「武蔵」を偶像破壊する意味はあった。けれども、そういう人間的瑕疵を、後世のあやしげな武蔵伝説から捏ねあげて、いわば「人間武蔵」を描いたつもりなんだ。
C――だから、それが通俗小説というものだよ。「人間」というのを書ければ文学だと勘違いしている。そこには「文学」というものに対する通俗作家の拔き難いコンプレックスがある。「人間武蔵」というのは、吉川武蔵以来の流儀だが、司馬は戦後的だからそれをひっくり返した。ところが、それは直木三十五がやった偶像破壊の範囲を少しも超えていない。傲岸不遜、奇矯な振舞いで、世の中に容れられず、不満と失意をかこつ卑小な武蔵。これはまさに、司馬の周辺にゴロゴロいた、売れない作家たち、文学ゴロの姿じゃないか。そんなものをモデルにしてはいけない(笑)。
B――武蔵は、「脱俗」という中世的伝統を温存した種族の一人だよ。生涯流転の一所不住の出家者ということだ。僧に限らず、そんな放浪生活の連中が武蔵の時代にはいくらでもいた。
A――浪人(牢人)というのは、武士に限らず百姓・小物でも、浪人といった。百姓が欠落や走り(逃亡)をしたら浪人という。帰属先から離脱すれば、武士でも百姓でも浪人なんだ。
B――浮浪人だな。しかしな、武蔵小説で、武蔵に「作州牢人、宮本武蔵でござる」とか何とか自称させておる馬鹿がいるが、当時、自分から「浪人(牢人)でござる」なんて云うはずがない(笑)。これは人別帖の話で、他人がそう言っただけだ。
C――武蔵は生涯浪人だったというが、厳密に言えば中世的な意味での「職人」なんだ。この職能民の系譜の中で武蔵を見なければいけない。武蔵は浪人ではなく職人なんだよ(笑)。司馬は少なくとも、職人と浪人の区別がついていない。だからあんな武蔵像を捏ね上げてしまう。
B――仕官と失業、その中間がない。マージナルな「無縁」の民、そういうライフスタイルがあるというのがわかっていない。そのあたり、司馬の権力好き、秩序志向が根本にあるね。
A――司馬の「真説武蔵」は、れいの『渡辺幸庵対話』を軸にした仕様だが、だいたい、渡辺幸庵という人物が恠しい。彼は武蔵より二歳年上で、死んだのが宝永と正徳の変り目の年(1711年)、何と享年百三十歳ですな。
B――本人がそう言うのだから仕方がない(笑)。国内の話では、何とか云う秘薬を伝授されたとか、細川三斎に造園を教えたとか、島原の乱のおりは板倉重昌が討たれた現場にいて彼の遺骸を担いで逃げたとか、の話がある(笑)。その後、大陸に渡り、四十年ほどあちこち歩いた。中国はむろんだが、天竺へも行って仏跡を巡礼した、霊鷲山では金剛石の釈迦成道時の銘文をみたといってその銘文を記すが、これが何と漢文なんだ(笑)。
A――しかも、幸庵はそれを削り取って日本へ持ち帰ったといって、それを聞き手にみせた(笑)。ベトナムやタイも周ったようで、しかし、そこに沙漠があって、風で走る小舟で移動するとか、ミイラ採りと出会ったとか(笑)…この手の話が続くわけだ。
C――日本へ帰ってきたとき、それは三十年ほど前だが、もう百歳近かった(笑)。護国寺の側に住んでいた七十歳ほどにしかみえない、百二十八歳だと称するこの老人の荒唐無稽なホラ話を、当時の連中は面白がって聞いただけではなく、それを書きとめたのだね。ところが、その中に柳生宗矩よりはるかに強い「竹村武蔵」という人物のことを語った部分が出てくるから、このホラ話を真に受けて、それを採り上げる連中が出てくるようになった。
A――それは明治の『史籍集覧』刊行後のことで、それも昭和になって頻繁になった。それは《但馬にくらべ候てハ、碁にて云バ井目〔せいもく〕も武蔵強し》、という一節でしたな。
B――自分は柳生但馬守宗矩から印可をもらったが、柳生但馬より竹村武蔵の方が比較にならないほど強かった、と幸庵は言うわけだ。綿谷雪なんぞは、この記事から、武蔵は江戸で「竹村武蔵」と名のったのだろうという珍説を立てた。武蔵贔屓が嵩じると、ホラ話でも何でも、材料にしてしまうケース(笑)。
C――しかしこの竹村武蔵が、細川忠利じゃなくて、細川忠興の客分になった、とかいうのはまだしも、上泉伊勢というからこれは上泉信綱のことだろうが、竹村武蔵はこの上泉伊勢と同代の人だという。上泉信綱はむろん武蔵出生以前に死んでいるから、竹村武蔵が実在の人物だすれば、宮本武蔵とは関係がない人物だろうし、武蔵をモデルにした説話上の人物なら、渡辺幸庵の口舌から発生した人物だ。
B――竹村与右衛門が武蔵の子だという話の結果、親の武蔵が「竹村」姓を賜ったらしい(笑)。これは、新免無二を、「宮本」武蔵の「父」だということで、「宮本」無二にしてしまうのと同じ操作だ。
A――だから、今日、新免無二を「宮本」無二(之助)といって憚らぬ諸君は、「竹村」武蔵なる珍名を嗤う資格はない(笑)。
C――もちろん、竹村与右衛門が武蔵の子だなどという話は尾張にはない。尾張の言い伝えでは、武蔵の弟子・竹村与右衛門は讃岐に居て指南していたが、後に尾張へやって来て教えたということだが、竹村与右衛門の事蹟はほとんど不明だ。
A――とすれば、竹村武蔵の子孫に、久野覚兵衛と久野団七という者があって、その久野氏なる覚兵衛は松平摂津守に奉公し、団七は松平出羽守に仕えたという。そのあたりは?
B――それは確認のしようもない(笑)。だいたい、竹村武蔵、その子竹村与右衛門という話の筋が怪しいのだぜ。松平摂津守に仕えた久野覚兵衛というのは、竹村与右衛門の門人で、いわゆる高須衆の久野角兵衛のことを云いたいようだが、久野角兵衛が竹村与右衛門の養子になったという話は尾張にもない。久野団七という者は、松平出羽守に仕えたという話だが、その松平出羽守は出雲松江城主だから、ますます話が遠くなる(笑)。
A――どうも弟子と養子を混同する傾向があるね。どちらも「子」という文字があるのだが(笑)。どこかから聞きかじった情報断片をつき混ぜて、『渡辺幸庵対話』の咄が構成されているようですな。
C――『渡辺幸庵対話』に出てくる国内記事は、ホラ話もあるが、大体常識的な話も多い。たいていは伝聞で知りうる範囲の話だ。だからまあ、この武蔵記事は幸庵の記憶違いというよりも、「竹村武蔵」は渡辺幸庵の口舌から発生したヴァーチャルな存在とみた方が妥当だな。
B――あるいは、ここで物語をする百三十歳近い渡辺幸庵の咄というのは、それ自体が実録めかしたフィクションだという可能性もある。
A――ところで、武蔵は柳生但馬より桁違いに強かったという『渡辺幸庵対話』の咄は、武蔵本のどれにも書いているが、他方、それどころか、柳生は武蔵の弟子だったという話(笑)、そんな話があることは、知られていない。
B――それは和田烏江の『異説まちまち』にある話だな。柳生は武蔵の弟子だった。柳生は廻国修行して師匠の武蔵に会う。武蔵が柳生に問う、「何か工夫ができたか」。柳生答えて、「無刀取りを工夫しました」(笑)。武蔵「じゃ、試してみよう」。それで両者は立ち合う。座敷を三遍廻ったところで、武蔵「師匠に向って、表裏別心ありや」と問いかける。柳生、参ったとばかりに、座して謝しける(笑)。
C――武蔵はここで禅問答を仕掛けたね。それで、弟子の柳生は降参した(笑)。しかし、渡辺幸庵の《但馬にくらべ候てハ、碁にて云バ井目も武蔵強し》は知られていても、和田烏江が採取したこの口碑伝説は、武蔵研究のどこにも出たためしがない。知らないようだな。
B――それは、中里介山(日本武術神妙記)が、わざと外したからだ。その直前にある『異説まちまち』の柳生但馬の逸話は拾っても、柳生が武蔵の弟子だったというこの話は無視して収録しなかった。すると武蔵研究者も、こんな逸話伝説があったということさえ知らない。『(日本武術)神妙記』に無いと、知らない、という奴ばかりだぜ。
A――たとえこれを知っても、何も言えない。渡辺幸庵よりも、もっと荒唐無稽だから(笑)。
C――渡辺幸庵のは自作自演だからね、中途半端で限界がある。それを認識せずに、『渡辺幸庵対話』を引用するのは、恣意的な操作にしかならない。
B――だからね、この「真説」宮本武蔵のケースでも、史料批判の欠如した武蔵伝の悪弊が露出しているわけだ。ただしこの小説は、「人間武蔵」どころではない、駄作だがね。
A――初期の駄作なのに、司馬遼太郎作品というだけで、世の中ではいまだに読まれて、この奇怪な武蔵像が蔓延している。
B――だから、駄作という以上に、「有害図書」だというんだ(笑)。何も知らない読者大衆に、奇怪な武蔵イメージを信じ込ませたのだから。
A――吉川英治の『宮本武蔵』はフィクションとして書いているが、それに対し、司馬遼太郎のこの「真説」宮本武蔵というタイトルは、「小説」宮本武蔵じゃないということですな。
C――フィクションではないというふりをして、「真説」宮本武蔵(笑)。ようするに、歴史小説、史伝小説の類ね。このスタイルはすでに本山荻舟(1881〜1958)が大正時代にやっていた。
A――本山荻舟なんて、今ではだれもほとんど知らないかもしれんが、例の「二刀流物語」(原題「宮本武蔵」大正十三年)がありましたな。顕彰会本『宮本武蔵』を流用しただけの「史伝小説」(笑)。
B――小説家は、「おれは小説を書いているんだ、史実を書いているのではない」と言いつつ、同時にそれが虚構ではなく史実だ、「真説」だと陰に陽に主張して憚らない。この二枚舌は、虚実皮膜ということではない。時代考証作業に対する怠惰の口実として、「これは小説だ」という科白があるだけだ。ところが、本当にフィクションを書ける能力がないから、蝙蝠のように立場は曖昧なんだ。
C――そこで、面白いのは、渡辺幸庵のホラ話、その虚構性と、現代の時代小説の虚構性と、どっちが上かというと、渡辺幸庵の方なんだ。この老人は自分自身を時代小説の主人公にしてしまったわけなんだ(笑)。それに比較すれば、現代の作家たちの何とナイーヴなことか。もっと虚構に居直るようでなければ、作家、小説家とは言えない。

渡辺幸庵対話記
渡辺幸庵対話記
京大図書館 谷村文庫



柳生但馬守宗矩
柳生但馬守宗矩坐像
芳徳寺蔵
奈良県奈良市柳生下町



*【渡辺幸庵対話】
〔宝永六年九月十日対話〕
《一 予ハ柳生但馬守宗矩弟子にて、免許印可も取なり。竹村武藏といふ者あり。自己に劔術を練磨して名人也。但馬にくらへ候てハ、碁にて云バ井目も武藏強し。細川越中守忠興に客分にて、四拾人扶持合力有也。子を竹村與右衛門と云て、是も武藝に達す。武藏事ハ武藝ハ不及申、詩歌茶の湯碁將碁都て諸藝に達す。然るに第一の疵あり。洗足行水を嫌ひて、一生沐浴する事なし。外へはだしにて出、よごれ候へば是を拭せ置也。夫故衣類よごれ申故、其色目を隠す爲に、天鵡織兩面の衣服を着、夫故歴々に疎して不近付。此子孫、久野覺兵衛とて松平攝津守殿に奉公、一人ハ久野團七とて松平出虫逑a義昌に奉公、是ハかくれなき馬數寄にて、身上五百石なれど、金五十兩より下の馬を不求、何時も高直成能馬を調る也》
〔宝永七年四月廿五日対話〕
《一 竹村武藏、子ハ與右衛門と云けり。父に不劣劔術の名人、手裏劔の上手なり。川に桃を浮て一尺三寸の劔にて打に、桃の核を貫けり》
《一 竹村武藏、上泉伊勢、中村與右衛門、此三人同代劔術の名人也。與右衛門、武藏が弟子也。武者修行す。伊勢ハ泉州堺の住人也。武者修行の時於信州卒。武藏ハ細川三齋に客分にて居候。小坪といふ所に三齋遊山所あり。是に茶屋あり、夫に武藏住居也。歌學もあり連歌も功者也。與右衛門ハ中村三郎右衛門子也。父三郎右衛門ハ能の上手也》


*【異説まちまち】
《一 柳生は宮本武藏が弟子也。回国修行して武藏にあひ、(武蔵)問ていふ、「何ぞ工夫ありしや」と。柳生答て、「無刀取を工夫せり」と。武藏、「こゝろみん」とて、しなへを持、柳生は無刀にて、八畳敷の座しきを互に見詰て廻る事三べんなり。其時武藏、「師にむかひて、表裏別心ありや」といひかけたり。其時柳生、座して謝しけると也》









司馬遼太郎『真説宮本武蔵』
講談社新書版 昭和四十八年





宮本武蔵遺跡顕彰会編
『宮本武蔵』 金港堂 明治42年






『宮本武蔵』初版本 昭和11〜14年
大日本雄辨會講談社











司馬遼太郎『宮本武蔵』
朝日文庫版 平成十一年
昭和四十二年週刊朝日連載



*【司馬遼太郎 宮本武蔵】
《武蔵が生れたのは、
   美作国讃甘郷宮本村
という在所である。岡山県の北部にあたり、中国山脈のなかの小盆地ながら、村のなかを街道が通っており、いわば宿場であった。この点、人や文物の行来はあんがいさかんであっただろう。山間部ながら、時勢に鈍感な村ではあるまい。山ひとつ越えれば播州であり、ことばも作州(岡山県)弁というより播州弁にちかい。武蔵も、播州なまりのつよい作州弁をつかったことであろう》







*【司馬遼太郎 真説宮本武蔵】
《この漂泊の兵法者は、天正十二年三月、美作国吉野郡讃甘村宮本にうまれた。(異説はある。しかしこの小説は考証を目的とするものではないために、筆者の信じる資料によって書きすすめる)。
 父は新免無二斎。
 ――無二斎は妙な男だったらしい。ある日、すでに初老をすぎた無二斎が自室で楊枝を削っていると、(後略)》
















岡山県立図書館蔵
讃甘村の誕生
岡山県市制町村制区域三国全図
明治二十二年(1889)

――司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』について、駄作だ、あるいは有害図書だ(笑)という話が先ほど出ましたが、読者の中には、それだけではわからん、納得できん、という人もあるでしょう。そこで、この小説の内容に立ち入ってみたいと思います。司馬遼太郎も、吉川英治と同じく、熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』(明治四十二年)の説を流用して、武蔵は美作産だという前提で書いていますね。
C――宮本武蔵『五輪書』に記された「生國播磨」という言明にもかかわらず、武蔵産地は美作だという説が興行されてきた。これは、いったい、いかなることであるのか。
A――この珍現象は、武蔵研究において興味深いものである(笑)。
B――江戸時代を通じて、武蔵は「生國播磨」で通っていたが、近代に入って様子が変った。まず、明治末に現地(現・岡山県美作市宮本)に碑が建立されたように、二十世紀初頭、この地を出生地とする説が先行した、という経緯がある。それには、顕彰会本『宮本武蔵』の武蔵伝の影響が大きかった。この本で提示された肥後系武蔵伝記『二天記』が、従来の断片的な伝説に対し具体的な情報が多かったものだから、それに圧倒されてしまった。それで、その信憑性如何以前に、多くの者がこの顕彰会本の武蔵伝にイカれてしまった(笑)。
A――それまでは、世間では歌舞伎や講談小説の武蔵しか知らなかったから、この顕彰会本の記事に平身低頭してしまうという状況だった。
B――だけど、『二天記』が武蔵を播磨生れとするにもかかわらず、顕彰会本は、美作の地誌『東作誌』の記事に依拠して武蔵産地美作説を提唱した。本来なら、これはローカルな異説として、それで事は終りのはずだったのだが、思いがけず情勢が変ってしまった。
C――それは昭和の戦時中、吉川英治のベストセラー小説『宮本武蔵』が出て、国民的人気を博したことだな。顕彰会本に依拠した小説化は、すでに大正時代、本山荻舟の例があるが、昭和の「吉川武蔵」は未曾有の大ヒットになった。
A――その結果、武蔵は美作産だという観念が「国民」にインプリント(inprint 刷り込み)されてしまった。
C――武蔵は美作生れだというローカルな異説がに広く信じられるようになってしまった。「武蔵は美作生まれ」とするローカルな異説が、世間では排他的通説に昇格してしまったわけだ。
A――おかげで、平成になっても、我々はいまだに、美作説を論わねばならない破目になっている(笑)。
B――吉川版『宮本武蔵』は、今日ではもはや、退屈な旧態の時代小説としか言いようのないものだ。この長編小説を読み通す者はもう少ないだろう。しかし、この「吉川武蔵」は、武蔵産地美作説を「国民」に刷り込んだ。それによって、その影響を後々までも残した。「吉川武蔵」の枠組みはいまだに拘束力を保っている。
C――そして、たとえ「吉川武蔵」に対し偶像破壊を試みる作家であっても、吉川と同じく武蔵産地美作説を信奉して疑わないという始末だ。戦後の作家、司馬遼太郎もその一人、というわけだ。
A――ともあれ、武蔵自身が「生国播磨」と書き記しているのに、多くの作家どもが、無理やり「生国美作」とすり替えてしまうという「否認」は、やはりこれは理解を絶する珍現象ですなあ(笑)。
C――ある意味で、虚構化と捏造とは別の、こうした「否認」(Verleugnung)に、小説の本質があるのかもしれんな。
B――そうだな。後に司馬遼太郎が出した小説『宮本武蔵』(昭和四十三年)には、こう書いている。――《武蔵が生れたのは、「美作国讃甘郷宮本村」という在所である。岡山県の北部にあたり、中国山脈のなかの小盆地ながら、村のなかを街道が通っており、いわば宿場であった。この点、人や文物の行来はあんがいさかんであっただろう。山間部ながら、時勢に鈍感な村ではあるまい。山ひとつ越えれば播州であり、ことばも作州(岡山県)弁というより播州弁にちかい。武蔵も、播州なまりのつよい作州弁をつかったことであろう》――なんてね、こうした司馬遼太郎節を聞いて、読者は何となく納得させられてしまうというわけだ。
C――歴史小説には「啓蒙」的な相貌がある。そして戦後、その側面をもっとも代表するのが、司馬作品群だな。司馬のスタイルに対する読者の好悪が分かれるのは、こうした鼻につく啓蒙的身振りをめぐってだろう。
A――そこで、この司馬遼太郎の文体をこそ語るべきですな。
B――その文体の特徴に関して若干コメントを入れるならば、まず、《武蔵が生れたのは、「美作国讃甘郷宮本村」という在所である》というところ、たんにカギ括弧でくくるのではなく、――あたかも受験参考書のように――特記的に強調し行分けして司馬が書くとき、その文体は推測ではなくて、明確な断言だな。
C――司馬流の特記的改行方式、これは読者を受験生にして、かの断言文を、有無を言わせず叩き込む教条的スタイルだな。そして、つぎに、こんどは推測が配置される。
B――いまの箇処にある《武蔵も、播州なまりのつよい作州弁をつかったことであろう》とは推測文だが、それによって、冒頭に配置された《武蔵が生れたのは、美作国讃甘郷宮本村という在所である》という断言が、遡及的に際立つ仕組みだな。
C――『真説宮本武蔵』から、ひとつ、司馬の文章を挙げておくと、武蔵について、《この漂泊の兵法者は、天正十二年三月、美作国吉野郡讃甘村宮本にうまれた》と断言しておいて、次に括弧内で、《異説はある。しかしこの小説は考証を目的とするものではないために、筆者の信じる資料によって書きすすめる》というわけだ(笑)。
A――《この小説は考証を目的とするものではない》と書いておいて、《筆者の信じる資料によって書きすすめる》などという(笑)。すると、事情を知らない読者は、司馬遼太郎がまるで異説史料を通覧したかのように錯覚するね。
B――ところが、「筆者の信じる資料」なる司馬遼太郎の材料は、顕彰会本『宮本武蔵』や『撃剣叢談』など、どれも活字化された当時の刊行本だけだ。活字化された文献しか知らず、ろくに史料も見ていないのに、「考証を目的とするものではない」なんて、よく書くぜ。
A――「考証を目的とするものではない」ではなく、「私は武蔵関係史料はよく知らないが」と正直に書くべきだろう(笑)。しかしそうすると、「筆者の信じる資料」という文言を出せないか。
C――むろん、この「筆者の信じる資料」なるものと云って、何か固有の資料でもありそうに匂わせているが、実は話の材料のほとんどが、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』からの孫引き(笑)。
A――ところが、いまだにそうだが、読者の多くが、司馬遼太郎は多数の史料を検分考証して、この「真説武蔵」を書いたと錯覚している。
C――そのように読者大衆を錯覚させるのは、司馬遼太郎が小説の中で、自身が考証するふりをしているからだ。
A――せいぜいが、資料の孫引きと、他人の説の盗用しかないのに(笑)、読者は司馬の「ふり」に引っかかってだまされる。
B――ようするに、読者を瞞着する術を心得ているわけだ。考証が目的ではないと言いながら、その実、スタイルは考証する身ぶりを演じている、というのが司馬遼太郎流。
C――そうして、《父は新免無二斎》ときて、《――無二斎は妙な男だったらしい》と書く。いつもの文体だが、「だったらしい」がよく効いて、前の《美作国吉野郡讃甘村宮本にうまれた》の一行が遡及的に際立つという仕掛け。ようするに、推測と断定を巧妙に操作して、いつのまにか読者を信じさせるというのが、彼の「小説技法」だな。
A――そういう技法を次々繰り出してくる。だから、そんな遼太郎節が鼻についてかなわん、という者も少なくない。
B――しかし、武蔵は、《天正十二年三月、美作国吉野郡讃甘村宮本にうまれた》なんていい加減なことを、よく書いたものだな。
C――天正十二年は、『五輪書』に寛永二十年、年つもりて六十、とあるのだから、これはよいとして、「三月」というのは、顕彰会本のパクリだな。これは肥後系伝記『武公伝』あたりで出てきた僻説で、何の根拠もありゃしない。それに、「美作国吉野郡讃甘村宮本」とは、いったいどういう了見なんだい(笑)。
B――それが大笑いなんだよ。だいたい、「讃甘村」なんてのは、明治二十二年の六村合併で誕生した新設の村だぜ。
A――武蔵は明治生れかね(笑)。
C――《しかし、この小説は考証を目的とするものではないために、筆者の信じる資料によって書きすすめる》(笑)。時代考証どころか、ネタ元の顕彰会本すらまともに読んでいないのだよ。
――かなり手厳しい話になっています(笑)。さて以下に、この小説、『真説宮本武蔵』の文例を挙げて行きます。それについてご所見を。
B――うん。まず、作家どもが飛びつきたがる話が出てきたな(笑)。毎度のことで呆れるのだが、これは小説家が飛びつきやすい美味しい話で、案の定、司馬遼太郎も飛びついた。
A――これは『丹治峯均筆記』のはじめのあたりで出てくる逸話ですな。
C――司馬遼太郎は、《この「丹治峯均筆記」の記述が事実とすれば》と書いて、さもこの書物を読んだふうなことを匂わせているが、これは顕彰会本『宮本武蔵』の孫引きだな。
B――それなら、顕彰会本に引用している「丹治峯均筆記」という書、と書くべきだろうが、そうはしない。顕彰会本に「丹治峯均筆記」の名が出ているのを、そのまま頂戴している。いかにも安上がりの小説だ(笑)。
A――だいたいが、「丹治峯均筆記」というのは、顕彰会本で発生した題名で、立花峯均がそんな名前をこの書物に付けたわけではない。
C――この書物の武蔵伝記の部分は、「兵法大祖武州玄信公伝来」という長いタイトルだから、顕彰会本は、丹治(立花)峯均が書いた書物という意味で、「丹治峯均筆記」と仮に呼んだだけだ。おかげで、我々もその略称を受け継ぐ破目になっておるが(笑)。
A――ところで、この父子不和の逸話というのは、筑前二天流立花系の方だけの「伝来」でしたな。
B――早川系の方では、そんな話は聞いたことはないが、もしそうなら…、という追随のスタンスだな。無二流と対立する二天流にとっては、おいしい話なんだよ。
A――筑前二天流立花系というか、『丹治峯均筆記』の立花峯均の説話には、なかなかエクスクルーシヴな傾向がありますな(笑)。
B――この武蔵と父無二との不和という話は、ようするに、無二流を貶める、タメにする話なんだよ。
C――新免無二の流派は、当時、残っていたからな。尾張でも無二流の二刀は有力だったようだしな。『丹治峯均筆記』には他にも、武蔵が無二の弟子・青木條右衛門を叱り付ける話や、吉田実連が無二流の小河半蔵と仕合して段違いの強さを見せた逸話が出てくる。
B――そのように無二流を貶めるというのは、まあ、流派間の近親憎悪みたいなことだな。しかし『(丹治)峯均筆記』では、無二流を貶めるために、武蔵の「父」無二でさえ貶める。穏やかな話ではない(笑)。
A――『峯均筆記』の説話は、セクト間の近親憎悪を、父子間の近親憎悪にしてしまった。
C――これは、もともと無二流を貶めるための、タメにする話なんだから、話にならない。ところが、事情を知らないアホな連中が、この逸話をいつまでたっても援用する。
A――小説家にとって、いくら美味しそうな話でも、それは我慢しなければ。我慢できないか(笑)。
――そこで、顕彰会本が引用した『丹治峯均筆記』の説話を、作家がどう扱ったか、それを見ておきましょう。大正期の本山荻舟と、司馬遼太郎のいまの文例を並べて対照させてみれば、その扱い方の相違がわかると思いますが。



【Case 1】
 父は、新免無二斎。
 ――無二斎は妙な男だったらしい。ある日、すでに初老をすぎた無二斎が自室で楊枝を削っていると、戸ブスマのかげから、まだ幼い武蔵(幼名弁之助)が入ってきて、父の小刀さばきをシキリとからかった。ついには父の兵法の悪口までをいった。察するに武蔵の幼時は(いや長じてからも)可愛げのないこどもだった。
 無二斎はわが子ながらも弁之助がきらいだったらしく、その小面僧さに激怒して手にもった小刀を投げ、弁之助は憎くもかわした。無二斎はついにたまりかねて小柄を抜きとって投げ、
 「これでもか」
 異様な親子である。弁之助は器用にかわし、柱に突きあたった小柄をぬきとりながら、さらにあざけり笑った。この「丹治峯均筆記」の記述が事実とすれば、武蔵の家系には、狂人と紙一重の異常な血が流れていたのであろう。

【丹治峯均筆記】
《武蔵、童名辨之助ト云。幼年ヨリ父ガ兵法ヲ見コナシ、常々誹謗ス。無二、一子タリトイヘドモ、其事ニヨツテ心ニ不叶。或時無二、楊枝ヲ手ツカラ削ル。辨之助、間ダ一間餘ヲ隔テ座セリ。無二、小刀ヲ以テ手裡劔ニウツ。辨之助、面ヲソムク。則、座スル所ノウシロノ柱ニシタヽカニタツ。無二、甚タ忿テ曰、平日ワガ兵法ヲサミス。手裡劔ヲ以テ左ノ耳ノ端ヲ二三歩打切リ、思ヒ知ラセント思ヒシニ、面ヲソムケ難ヲノガル。近頃奇怪ノ由ニテ家ヲ追出ス、コレ辨之助九歳ノ時也》
 【本山荻舟 二刀流物語】

ある日無二斎が自分の部屋で、楊枝を手ずから削つていると、武蔵は一間をへだてた室で、しきりに二刀の工夫をしていた。無二斎が心憎く思つて、不意にその小刀を手裏剣にして、えいつと打つと、武蔵は別に驚きもせず、平気でひよいと顔をそむけた。小刀は後ろの柱に立つた。無二斎がいらつて、「日頃わが兵法を誹る。不埒な奴だ」といいながら、ふたゝび手裏剣を打つけると、武蔵はまたひよいと顔をそむけて、庭の方へそれたのを見とゞけると、ぷいと立つて物もいわずに、表の方に逃げ出した。そんな事からます/\父の怒りに触れて、ついには家にもとゞまり難く、母をたよつて山越しに、播州に志したのは、まだ九つの年だつた。
 【Case 1】 司馬遼太郎『真説宮本武蔵』

 父は、新免無二斎。
 ――無二斎は妙な男だったらしい。ある日、すでに初老をすぎた無二斎が自室で楊枝を削っていると、戸ブスマのかげから、まだ幼い武蔵(幼名弁之助)が入ってきて、父の小刀さばきをシキリとからかった。ついには父の兵法の悪口までをいった。察するに武蔵の幼時は(いや長じてからも)可愛げのないこどもだった
 無二斎はわが子ながらも弁之助がきらいだったらしく、その小面僧さに激怒して手にもった小刀を投げ、弁之助は憎くもかわした。無二斎はついにたまりかねて小柄を抜きとって投げ、
 「これでもか」
 異様な親子である。弁之助は器用にかわし、柱に突きあたった小柄をぬきとりながら、さらにあざけり笑った。この「丹治峯均筆記」の記述が事実とすれば、武蔵の家系には、狂人と紙一重の異常な血が流れていたのであろう

*【顕彰会本宮本武蔵】
《又按に、丹治峯均筆記に云く、武藏幼年より父が兵法を見こなし、常に誹謗す、無二、子たりといへども、其事に依て心に叶はず、或時無二、楊枝を手づから削るに、武藏、一間を隔てゝ居たり、無二その小刀を以て、手裏劔にて武藏をうつ、武藏面をそむければ、小刀は後の柱にたちぬ、無二甚怒りて、平日我が兵法をなみするは不都合なりと、手裏劔にて之をうたむとせしに、武藏又面をそむけて遁れぬ、されど遂に父の怒にふれて、家を出て播州に至り、母方の叔父某の僧となれる菴にゆきぬ、時に九歳なり云々、この説上文なる田住家の系圖の参考となるべき心ちすれば疑はしきやうなれども附記す》











泊神社棟札
兵庫県加古川市木村

A――顕彰会本(宮本武蔵)が参照した『丹治峯均筆記』写本は、あまり質がよくなくて誤写のあるものだし、しかも顕彰会本がそれをリライトしているから、正確な写しとはいえない。それをまた本山荻舟は引き写している。
B――本山荻舟のは、多少小説的潤色があるが、顕彰会本の引用をなぞったていどのことだし、この一件について作家は、やや小気味よげにリライトしておる。しかし、司馬遼太郎になると、この通り、《無二斎は妙な男だったらしい》とか、《察するに武蔵の幼時は(いや長じてからも)可愛げのないこどもだった》とか、あるいは《異様な親子である》とか、やたら論評を入れたがる。
A――それもいつもの司馬遼太郎流。自分の小説の中に頻りに顔を出して、余計なことを言いたがる(笑)。
C――だけどまあ、司馬遼太郎は、ひどいことを書いたものだな。《武蔵の家系には、狂人と紙一重の異常な血が流れていたのであろう》(爆笑)。
A――あんたの方が、「狂人と紙一重の異常な血が流れていたのであろう」。
B――ツッこむなあ(笑)。しかし、こんなことを書くと、平田家の子孫は怒るぞ。美作ではこれを看過したのか。
C――よくわからんのは、そこだ。美作のご当地では、吉川英治センセの『宮本武蔵』がいまだにウリなんだが、司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』は、だいたい無視だね。
A――聞けば、美作の人々は、司馬遼太郎の「武蔵」はあまり知らないらしい。もし《家系には、狂人と紙一重の異常な血が流れていたのであろう》なんぞと書いてあるのを知ったら、タダではすまない(笑)。
C――知っていても、あれは邪道の武蔵小説だというていど。美作の人々は寛容の美徳をそなえておるようだ(笑)。
B――とにかく、この作家の妄想によれば、《家系には、狂人と紙一重の異常な血が流れていたのであろう》なんだ。この無二・武蔵父子不和を書いた立花峯均も、後世、そこまで新免無二を貶めてくれる者が出るとは、思いもよらなかっただろうな。
A――それと、司馬遼太郎は、無二が武蔵の実父だと錯覚して書いている。
C――それは仕方がない。播磨印南郡の泊神社棟札を知らないのだから。しかも、『印南郡誌』(大正五年刊)を読むなんて手間をかけていないから、刊本に活字化されて出ていた泊神社棟札の記事を知らないわけだ。
B――播磨の『印南郡誌』にそんな重要史料が出ているとは、夢にも思っていない。顕彰会本しか、知らないんだから。
C――もちろん、明治以来何度も刊行されていた『播磨鑑』も知らずに書いている。福田くんは(笑)。
A――その福田くんは、大阪の産経新聞(記者)でしたな。播磨だと近隣のはずだがねえ。播州姫路には親戚もあった。なのに、播磨の文献を知らない。
B――灯台もと暗し、というより、勉強不足だ。ようするに、自分で汗を流しもせず、出来合いの顕彰会本の説におんぶに抱っこなんだがら、五輪書の「生国播磨」もよくわかっていないわけだ。
C――次は、と、…おやおや、いい加減な話が出てきたな(笑)。こういうのは、どうしようもないが、顕彰会本『宮本武蔵』そのままの、何の能もない馬鹿咄だな。
B――節度というものがない。《この田舎兵法家新免無二斎は》と来たか。そんなに嫌いなら、こんな珍説小説を書くなよ、とツッコミが入るところだぜ(笑)。
A――妄想小説ともいえる(笑)。これは、平田家系図に言及しておりますな。
C――ネタ本の顕彰会本『宮本武蔵』の名は隠して、そこに「平田家系図」と注記しておるのを拾って、地元美作の史料を知っているぜ、と見せかけている。平田家系図の他はどうした。平尾家系図はどうなんだ。知らんのか。
B――たぶん、知らんのだろう(笑)。顕彰会本がいうその平田家系図は、『東作誌』時代の古いものじゃない。明治になって作ったものだ。そういうことはむろん司馬は知らない。それで、《新免無二斎は、このあたり(宮本村、中山村)を領していた地侍平田将監の長子だった》と書くね。平田家系図によれば、この平田将監は、新免七條少将則重の家老職、釆地は下庄邑の内宮本中山。文亀三年(1503)卒。
A――平田家系図の平田武仁は、天正八年卒、五十三歳。だから、武仁の生年は享禄元年(1528)。父将監死後、二十五年経っての出生(笑)。
C――どうみても、この系譜は明らかに繋がらない。だから、それを云わない司馬遼太郎は、平田将監が文亀三年に死んだという頭がない。この平田家系図を見ていないわけだよ。それをあたかも見たようなふりをしているな。
A――さきに、《武蔵の家系には、狂人と紙一重の異常な血が流れていたのであろう》と書いておるが、平田家の子孫に会っていたとすれば、そんなことはまず書けないな(笑)。
B――見てもいない史料の名は挙げるが、じっさい、自分が丸ごとパクった顕彰会本『宮本武蔵』の名は出さない。
A――それはさっきの「丹治峯均筆記」の名を出す場合も同じ。顕彰会本から孫引きしたはずなのに、その孫引きを隠している。
C――史料に当って考証したふりをしているだけなんだ。多くの読者がそれに瞞着されてきた。ついでに云っておけば、平田家系図では、平田武仁は、天正八年(1580)卒。墓の卒年も同じ。天正八年に死んだ者が、どうして天正十二年(1584)生れの武蔵の父親なんだ(笑)。
A――そこが、武蔵産地美作説の悩ましい隘路だったわけで、あれこれ強弁している。
B――しかし司馬遼太郎は、そんなことは委細かまわず、文亀三年に死んだ平田将監が武蔵の祖父で、天正八年に死んだ平田武仁を武蔵の父親にしている。「天正八年卒」と書いている平田家系図を見ていないわけだ。
A――司馬遼太郎は、《無二斎は父将監のあとを継いで新免家につかえた》と書くがね、《とくに刀術に達し、中年からのちは、十手術に凝り、独特の流風をひらいた》というのは、小説だね。
B――そういうのは、「空想」と云うのだよ(笑)。自分はそんなふうに想像をする、と書けばよい。この小説のように、いたるところで考証するふりをして自分を登場させるのだから。


【Case 2】
 この田舎兵法家新免無二斎は、いまも宮本村および近在の下町に現存する平田家系図によれば、このあたり(宮本村、中山村)を領していた地侍平田将監の長子だった。
 武蔵の祖父にあたる将監は、付近一帯の小領王新免伊賀守則重に仕えて、家老職にまでなった。村長の手代といった格である。則重に愛され、主家の新免の姓をもらった。宮本家の新免という別姓は、ここから始まる。
 無二斎は父将監のあとを継いで新免家につかえ驍勇ならぶなし、といわれた。とくに刀術に達し、中年からのちは、十手術に凝り、独特の流風をひらいた。
 芸がおもしろくなれば、仕官がつまらなくなる。無二斎は新免家を辞し、宮本村に住んだ。このときから、村名をとって「宮本」と通称した。はじめて武蔵の家系に「宮本」姓が誕生したわけである。


*【顕彰会本宮本武蔵】
《傳ふる處に據れば武藏はもと播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流、平田氏に出づ、明應文龜の頃、平田將監といふものあり、劔道及十手の術に通じ、美作に來り吉野郡竹山城主新免氏に仕へ、下荘村に居住す、新免伊賀守宗貫厚くこれを用ゐ、文武の師範とし、遂にその氏を與ふ、子武仁父の跡を嗣ぎ、新免及平田を稱し又平尾と稱し、無二齋と號す、殊に十手の術を極め、性頗る剛勇なり、宗貫また厚くこれを用ゐたり、[平田氏系圖]》







*【吉野郡宮本村古事帳写】
《宮本村之儀、右ハ下庄村と一村ニ而御座候。卅二年以前ニ下庄・宮本之間ダニ大川御座候、高水之時分御用等指支申候ニ付、御断申上ゲ、弐ヶ村ニ罷成、只今宮本村と申候》

*【泊神社棟札】
《有作州之顕氏神免者、天正之間無嗣而卒于筑前秋月城。受遺承家曰武蔵掾玄信。後改氏宮本。亦無子而、以余為義子。故余今称其氏》








美作畧史
A――《芸がおもしろくなれば、仕官がつまらなくなる。無二斎は新免家を辞し、宮本村に住んだ》というわけで、武芸のために新免家を致仕したような話の筋にするのも、同じですな。
C――美作説では欠かせない本位田外記暗殺事件というおいしいネタがあるが、司馬遼太郎はそれを落としている。顕彰会本を見たにしても、かなり杜撰な読み方しかしていない。
A――《このときから、村名をとって「宮本」と通称した。はじめて武蔵の家系に「宮本」姓が誕生したわけである》。――これが司馬遼太郎の解説(笑)。
B――だいたいだな、作州吉野郡に「宮本村」ができたのは、武蔵が死んだ後だ。武蔵が死んだ後にできた「宮本村」に、どうして武蔵の「父」無二斎が住んで、しかも「宮本」と名のることができるんだ(笑)。
A――SFでもないと、これは描けない世界だ(笑)。
C――さっきの話、播磨の泊神社棟札には、武蔵は新免の家を相続したが、後に「宮本」と氏を名のるようになったという記事がある。武蔵の養子・宮本伊織によれば、「宮本」というのは、武蔵の代から使いはじめた氏姓だ。だから、そういう事情を知らない美作では、「宮本無二」という名が出てくる。
B――司馬遼太郎にしても、その気になれば読めたはずの、播磨の『印南郡誌』の記事を知らないから、武蔵の代から「宮本」を名のるようになったとは夢にも思わない。
A――美作では、「宮本武蔵」という名が、大衆文化の中で全国的にメジャーになってしまった後の我田引水だから、どうしても「宮本」でなければ承知できなかったようだ。
B――だから、「宮本無二」とあっても、「新免無二」という名は、『東作誌』段階では、まだ登場しない。明治以後の新作文書になると、「新免無二斎」などという名が登場する。
C――矢吹正則の『美作畧史』(明治十四年)あたりだな。それには、政名は武蔵と称す、宮本村の人で、その先祖は赤松氏の族、衣笠氏より出る、播磨平尾村に住し平尾をもって氏とし、政名に至ってまた邑名宮本を以て氏となす、その父太郎左衛門、新免宗貫に属し、十手の術を以て世に聞え、新免無二斎と号す、とある。
B――もちろん、こちらは平尾家系図に拠った説だから、平田家系図のごとき「平田武仁」という名は登場しない。「平尾太郎左衛門」だな。この人物が「新免無二斎」を名のったというわけだ(笑)。
C――美作には、明治までいろいろ異説があった。だから、顕彰会本『宮本武蔵』には、《子武仁父の跡を嗣ぎ、新免及平田を稱し、又平尾と稱し、無二齋と號す》なんて、唖然とさせる記事がある。
A――大混乱ですな(笑)。
B――そんなことを書いた資料は美作には存在しない。諸家の系図はそれぞれ話が違う。それを全部横断して、新免も、平田も、平尾も、すべて称したというのは、まったくデタラメな話だな。
A――顕彰会本の武蔵伝を書いたのは池辺義象、杜撰な仕事ですな。《武蔵はもと播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流、平田氏に出づ》なんて、譫言を書いておる。
C――これは、美作の事情を知らない顕彰会本の作者の踏み外しなんだ。ようするに、平田氏の祖が衣笠氏だというのは、美作ではありない謬説だ。
B――顕彰会本がその説を引用している矢吹正巳は『東作誌』校訂者だが、矢吹が『東作誌』で注記するには、『東作誌』に掲載する各家の旧記系譜は、各家で焼失した後に、各家で推測して作成したものだ。その『東作誌』の段階から、すでに怪しいわけだぜ。
A――美作で出た資料はすべて、オリジナルは一つも存在しない。
C――それを、きちんと認識しておくべきだ。美作の諸資料の矛盾と混乱を収拾することは不可能。それが、この矢吹のような明治の美作説論者の認識だった。しかるに、この事実を忘れての妄説が、その後急成長し繁茂してしまった。その結果が、吉川英治『宮本武蔵』以下の有象無象の小説だ。
A――むろん司馬遼太郎のレベルでは、そんなことは、はじめから頭にはない。すべては顕彰会本『宮本武蔵』からはじまっている。
――さて、司馬遼太郎の小説では、次いで、新免無二斎が京都で吉岡と対戦した話になるわけですが、ネタ本の顕彰会本と司馬遼太郎のこの小説を対照させてみました。司馬が、どこをどう潤色したか、よくわかると思います。  
 【顕彰会本 宮本武蔵】

武仁の名漸々聞ゆると共に、京都将軍義昭公、ことにこれを召し、その剣道の師範役たる吉岡憲法と勝負を決せしむ、互に三度を限らせしが、吉岡一度利を獲、武仁兩度勝を制せり、公これを賞して、武仁に日下無双兵術者の號を賜ひぬ、これよりその名大に顯はれたり、[二天記異本誌碑文]
初め新免家の家老に、本位田外記之助と云ふものあり、宗貫これを悪み、窃に無二齋に囑して殺さしめむとす、〔中略・この部分『東作誌』による記事引用〕無二齋その首を打取りぬ、宗貫大にその功を賞したれども、是より後無二齋は反て一家中の妬を受け家に籠居せりといふ、かくて後無二齋は同郡宮本村に移住し、此の地に歿せり、武藏は即ち當時武勇の聞ゑ高かりしこの無二齋の子なり、その剛勇なる基く所あるを知るべし[摘取新免家侍覺書、東作誌、及碑文]
 【Case 3】 司馬遼太郎『真説宮本武蔵』

 この無二斎は、足利最後の将軍義昭から、
 「日下無双兵法術者」
との栄誉号をうけたほどの術者であった。いや、本人が自称していた
 (中略)
 最後の将軍義昭は(中略)できれば護衛役に使おうと考え、諸国の兵法家を招いて昵懇した。そのころ、たまたま無二斎が京にきていたのであろう、これを招んで兵法談をきいたあげく
 「されば、憲法と立ちあえ」
とは、吉岡兵法所の当主のことであった。(中略)
 憲法と無二斎の勝負は三度ときめられ、木刀をもって打ちあったところ、たちどころに憲法が勝った。
 「まだ」
と無二斎はゆずらない。
 さらに立ちあったところ
、あとの二度は無二斎が勝ちをしめた。無二斎はこれを生涯の名誉とし、
 「日下無双兵法術者」
の称をふれ歩いた。そのわリには世にときめきもせず、美作、播磨ざかいの山ふかい宮本村でくすぶって、楊枝をけずりながら幼い武蔵を相手に親子喧嘩をしていたとは、どういうわけであったろう。ひょっとすると日下うんぬんは無二斎の考えついたコケオドシの法螺であったのかもしれない。それともかたよった性格のために人から嫌われて、ついには田舎ずまいをするしか手がなかったものか



*【小倉碑文】
《是より先、吉岡代々、公方の師範爲り。扶桑第一兵術者の号有り。霊陽院義昭公の時に當り、新免無二を召し、吉岡と兵術の勝負を決せしむ。限るに三度を以てし、吉岡、一度利を得、新免、兩度勝ちを決す。是に於て新免無二に、日下無双兵法術者の号を賜はらしむ》(原文漢文)



小倉武蔵碑
北九州市小倉北区赤坂

A――これは、作家の悪意がよく出ておりますなあ(笑)。
B――あるいは、司馬遼太郎という人物の性格の悪さやね(笑)。
C――この話は、宮本伊織が小倉に建てた武蔵碑の碑文(小倉碑文)に出てくるのが初出で、顕彰会本も、ほぼ逸脱なく、この記事をトレースしている。しかし、まあ、司馬遼太郎の手にかかると、話はこんなひどいことになる。
B――反動の勢い余って、というところだな。しかし、いくら「吉川武蔵」に対する偶像破壊とは云えだね、ここまで書くと、書いた本人の人格が疑われるという有様だな。
A――しかし、「日下無双兵法術者」に、「ひのした」「ひょうほう」なんて変なルビをふっておるが。
B――それは、「ひのした」ではなく「ひのもと」、「ひょうほう」じゃなくて、「へいほう」。半可通の知識で振り仮名をするから、恥をさらすんだ。
C――しかし、それも本山荻舟の「二刀流物語」のパクリだよ。無分別にパクるから、ルビの間違いもパクってしまう(笑)。それにしても、「日下無双兵法術者」の称号は、無二の自称にすぎず、そんなホラを吹いていた、なんてね。小倉に武蔵のモニュメントを建てた伊織も、ここまで悪意ある曲解が、後世出るとは思わなかっただろう。
A――司馬遼太郎は、そればっかりだ(笑)。
C――とにかく、三本勝負で、まず、《たちどころに憲法が勝った。「まだ」と無二斎はゆずらない》というのは、小説の空想だが、アホらしい場面だ。講釈師、見てきたような嘘を言い、の類だな(笑)。
B――そこで、この小説家の講釈の垂れ流しがはじまる。
A――《無二斎はこれを生涯の名誉とし、「日下無双兵法術者」の称をふれ歩いた。そのわリには世にときめきもせず、美作、播磨ざかいの山ふかい宮本村でくすぶって、楊枝をけずりながら幼い武蔵を相手に親子喧嘩をしていたとは、どういうわけであったろう。ひょっとすると日下うんぬんは無二斎の考えついたコケオドシの法螺であったのかもしれない。それともかたよった性格のために人から嫌われて、ついには田舎ずまいをするしか手がなかったものか》――講釈師なら讃美に終始するところ、小説家はかくも苦りきった顔つきをみせる(笑)。
C――小倉碑文、それに顕彰会本、そのどこをどう捻れば、こんな悪意ある話が書けるんだ。これは、司馬という人物の邪気から出たとしか言いようがない。
A――顕彰会本には、《公これを賞して、武仁に日下無双兵術者の號を賜ひぬ、これよりその名大に顯はれたり》とある。それに対し、司馬は、《無二斎はこれを生涯の名誉とし、「日下無双兵法術者」の称をふれ歩いた。そのわリには世にときめきもせず、美作、播磨ざかいの山ふかい宮本村でくすぶって》と書くのだから、潤色というより、これは改竄歪曲。
B――こんな悪意に満ちた、鬱陶しいホラ話を、読みたい奴がいるのか(笑)。
C――いるんだよ。しかも大勢(笑)。
A――そこで、話の続きになるのだが、《げんに、この人物は、楊枝事件よりすこし前に、女房に逃げられている》(笑)。
B――「楊枝事件」というのは、さっきの『丹治峯均筆記』の話だろ。「楊枝事件」なんてのは、もちろん美作には存在しない話で、この作家は味噌もクソもいっしょくたにする(笑)。
A――あれは、著者立花峯均は、九州の話として書いている。それを、九州から美作へもち込んだのは、顕彰会本『宮本武蔵』か。
C――いや、顕彰会本だと、『丹治峯均筆記』の「楊枝事件」の話は怪しいが、と留保している。ただ、武蔵生母再嫁一件の参考に供するというわけで、美作への輸入にはまだ及び腰だ。それを勝手に確定して剽竊したのが、本山荻舟以下の作家連中(笑)。
B――そもそも、無二斎が女房に逃げられたというのは、美作のどこにも存在しない話だが、これは顕彰会本が引用した矢吹正巳の情報が原型だな。播磨佐用郡平福の田住家系図に書いている話がネタ元だ。
C――武蔵の母は、別所林治の娘で、はじめ美作の平田武仁に嫁して武蔵を生み、後に離別して播磨に帰り、田住政久に再嫁した。この時、武蔵は幼少だったので、いわゆる率子〔ツレコ〕となって、田住家で養育され、ここで成長したというわけがあって、何と、同家には武蔵の過去帳もある(笑)。
A――それも念のいったことだが(笑)、司馬遼太郎は、この離縁再嫁という説話をパクって、話をでっちあげた。
B――顕彰会本がわざわざ、《いわゆる率子〔ツレコ〕》、連れ子だと書いておるのに、それを率子〔よしこ〕という名の母にしてしまうのは、戦後の俗説を組み込んだわけだ。しかし、だいたい、当時幼女だった別所林治の娘が、武蔵を生めるかよ(笑)。
C――その点は、司馬遼太郎ていどの知識では無理だ(笑)。それに、平福に武蔵生母が再嫁したなんて話は、美作にはない。後妻が於政だというわけだが、平田家系図では、於政は天正十二年三月卒、四十八歳。武蔵の生年と同年の、しかも春に死んでいる。
A――すると、天正十二年三月に武蔵を生んですぐに、母は離婚して、後妻於政は大急ぎで嫁に来て、これはえらく年がいった後妻だが(笑)、これまた四十八歳で同年同月にすぐに死んでしまったことになる。かなり無理のある話だな。
B――それを、司馬遼太郎は、武蔵が三歳のとき、生母が離婚したことにしてしまう。平田家系図では、於政は天正十二年に死んでいるから、その二年後に彼女が後妻に入ったとすれば、幽霊女房だな(笑)。
A――それどころか、平田武仁は天正八年に死んでいるのだから、武蔵の生母はいったいだれの子を産んだのじゃ(笑)。
C――とにかく、いい加減な話ばかりだが、司馬遼太郎は委細かまわず、《率子は無二斎のきちがいぶりにヘキエキして逃げだしたか、それとも無二斎に追い出されたか、いずれにせよ、幼児に小刀を投げつけるような性格の男では、女房にどういう仕打ちをしたか見当がつく》と、講釈する。その見当が、まるで見当違いなんだよ(笑)。
A――だけどまあ、知ったかぶりをして、《この無二斎・於政の墓は、現在、岡山県苫田郡鏡野町川上に現存しているが、それらは後の世に考証されたもので》なんて、アホな間違いをよく書いたものだ。苫田郡鏡野町なんて、津山の奥で、川上村平田家とはまったく関係のない土地だ。
B――どういうわけか勘違いしたんだ。顕彰会本をメモったのはよいが、そこに《同郡大野村川上といふ處に、無二齋夫婦の墓ありて》と書いてあるのを転記し損ねたわけだ。川上村というのは吉野郡で、宮本村から西に一里ばかりの、近くの谷あいの村だぜ。
A――それが苫田郡鏡野町。見当違いもはなはだしい(笑)。
C――司馬遼太郎の「知ったかぶり」なんて、往々にしてその程度のものなんだよ。そもそも宮本村に平田武仁と於政夫婦の墓があるのを知らなかったらしい。司馬は宮本村へ行ったはずなのに、平田家の墓も知らなかったのか。
A――お忍びで、こっそり行ったかな(笑)。家系に《狂人と紙一重の異常な血が流れていた》とか《無二斎のきちがいぶり》とか書く奴だから。
C――素悪としか言いようがない作家だ。ともあれ、それと、《武蔵は、無二斎の晩年の子であった。無二斎は、天正十八年、この宮本村の山里で死んだ。武蔵は七歳の孤児になった》なんて、これもバカなことを書いている。
A――平田家の墓には、天正八年の卒年がちゃんと記してある。司馬は平田家系図に言及していながら、そこに天正八年卒、と明記してあるのを知らない。
C――その「天正十八年」というのは、顕彰会本が引用した矢吹説のパクリなんだよ。「真説」を標榜する史伝小説なら、どうして矢吹の所説だと書かないんだ。もっとも、矢吹説は、墓碑の天正八年は十八年の誤刻だという、強引な曲説だがな(笑)。
B――顕彰会本が引用している「丹治峯均筆記」の話、父子不和で武蔵が家を追い出されたということだが、それが武蔵の九歳の時のことだと書いてある。七歳で父親と死に別れて孤児になった武蔵が、九歳でまた父親に家を追い出されるというわけか(笑)。
A――「丹治峯均筆記」の名を出すなら、どうして、武蔵が九歳の時、家を追い出されたということを書かないんだ。
C――都合の悪いことは、隠して書かない、というのが司馬遼太郎のいつものアンフェアなやり口。しかしまあ、ここで司馬遼太郎は、笑うべきことを書いておるな。
A――《武蔵自身は、あれだけ筆のたつ男でありながら、老いてからも自分の出生のことや幼少時代のことは語りも書きもしなかった。口にできぬほどの複雑で、つめたい環境におい育ったのであろう。武蔵という異常な人物の性格を知る上で重要な事実である》(爆笑)。
B――まったく、大笑いだ。顕彰会本からネタを拾っているくせに、どこから、《口にできぬほどの複雑で、つめたい環境におい育った》なんてことが捻り出せるんだ。妄想としか言いようがない。
A――それは、司馬遼太郎という「異常な人物の性格を知る上で重要な事実である」(笑)。《げんに、この人物は、女房に逃げられている》、そう書いた司馬には自虐の気味はないか。《自身は、あれだけ筆のたつ男でありながら》、彼は前妻に逃げられた事実を隠し通した。
B――それは禁句だ、言うな(笑)。しかし、それにしても、《口にできぬほどの複雑で、つめたい環境におい育った》とは、いったい誰のことを言っているんだ(笑)。
C――言うなと言いながら、またそれを言う(笑)。だいたい、武蔵が書き残したのは『五輪書』、兵法書だぜ。兵法書のような書物に、自分が生れ育った家庭環境のことを、だれが書くかよ(笑)。
A――告白的私小説かよ(笑)。このあたりはまったく、倒錯的としか言いようがない言説だ。
B――後世発生の伝説を適当に拾って、勝手な武蔵像をデッチあげた上で、さて、武蔵がそのことを正直に書いていない、と言い出す。まったく話が逆立ちしておる。アホかというような倒錯(笑)。
C――だから、「真説」宮本武蔵ではなくて、「珍説」宮本武蔵、「お笑い」宮本武蔵だというんだ(笑)。

【Case 4】
 げんに、この人物は、楊枝事件よりすこし前に、女房に逃げられている。
 女房は、宮本村から山一つ越えた播州佐用郡平福村の土豪別所家から嫁いできた率子〔よしこ〕という女性だった(武蔵の生母。一説には武蔵は率子の連れ子だったという)。率子は無二斎のきちがいぶりにヘキエキして逃げだしたか、それとも無二斎に追い出されたか、いずれにせよ、幼児に小刀を投げつけるような性格の男では、女房にどういう仕打ちをしたか見当がつく。連れ添えなかったのである。これが武蔵の生母で、かれが三歳のときに家を出、のち播州の人田住政久に再縁した。
 のち、無二斎は於政という妻をめとった。この無二斎・於政の墓は、現在、岡山県苫田郡鏡野町川上に現存しているが、それらは後の世に考証されたもので、武蔵自身は、あれだけ筆のたつ男でありながら、老いてからも自分の出生のことや幼少時代のことは語りも書きもしなかった。口にできぬほどの複雑で、つめたい環境におい育ったのであろう。武蔵という異常な人物の性格を知る上で重要な事実である。
 武蔵は、無二斎の晩年の子であった。無二斎は、天正十八年、この宮本村の山里で死んだ。武蔵は七歳の孤児になった。





美作吉野郡・播磨佐用郡






宮本村の平田武仁夫婦の墓
天正八年の刻字がある
岡山県美作市宮本

















司馬遼太郎『真説宮本武蔵』
講談社文庫版 昭和五十八年



【Case 5】
 武蔵は晩年、自分の経歴に縞羅をかざるために、
 「自分は若いころ、軍場に六度出た」
と物語っている。ところがどの大名について、どういう役目であった、とはいっておらず、どの大名の侍帳(将校以上の名を記した職員簿)にものっていない。おそらく、誇ることができぬほどのみじめな身分で出陣したのであろう。最初の戦さは、かれの十七歳のとき、慶長五年九月、関ケ原の合戦であった。
 武蔵は、敗れた西軍に属していた。
 なぜ参加したか、むろん、立身出世をしたかったのである。あわよくば侍大将になり、できれば一国一城の主になりたかった。
 武蔵は、備前岡山五十七万石余の太守宇喜多中納言秀家に属していた、かとおもわれる。関ケ原における秀家は一万七千の兵をひきい、西軍最大の軍団であった。が、武蔵は直属の兵ではなかった。この秀家に武蔵の亡父の旧主であった新免伊賀守(宇喜多家がつぶれてから筑前黒田家へ仕官)が属しており、浮浪中の武蔵点、父祖の縁によって頼み入った。しかし新免の態度はすげなかった。足軽にさせられた。
 「足軽か」
 武蔵は痛憤したことであろう。
 いかに浪々の身とはいえ、その家祖が新免家の家老までつとめた家の子である。無二斎の旧知の者もいたが、とりなさなかった。生前の無二斎が、いかに主人、後輩にとっていやな男であったか、この一事でもわかる。
 武蔵はこのときから武家社会の「出世」から踏みはずした。剣という「芸」で身を立てようと、肝に銘じて決意したことであろう。
A――こんな「お笑い」宮本武蔵、いつまでやるんだ(笑)。
――いやいや、この「お笑い」宮本武蔵は、主人公の宮本武蔵まで話がまだ行っておりません。では、続いて順次、「珍説」宮本武蔵の作文を挙げて行きましょう。
B――ここで、またもや、いい加減な話が出てきたな(笑)。こんなの、論評外だが、まず、最初の口上書(履歴書)のことだね。これは肥後系武蔵伝記の『武公伝』に掲げておるが、これが武蔵が書いて提出した文書だという証拠がない。それを司馬は知らない。これを武蔵が書いたかのようにして勝手に話を進めているぞ。
A――次の、関ヶ原出陣のことだが、《最初の戦さは、かれの十七歳のとき、慶長五年九月、関ケ原の合戦であった》という話はいただけない。武蔵が西軍の宇喜多麾下で働いたという証拠はどこにもない。
B――美作生れという前提があるから、備前の宇喜多麾下なんだ。ところが、播州姫路から立った黒田官兵衛の与党として組織された播州勢は多い。九州で黒田如水麾下にいたという異伝が『丹治峯均筆記』にある。だから、顕彰会本では、それに対し、いや九州ではなく、関ヶ原なんだと、根拠もなく強弁する。
C――どうしても、美作生れという前提を死守しなければならないからさ。黒田家は九州で大大名に成り上がるが、黒田二十四騎の多くは播州人だね。武蔵が播磨生れという前提では、関ヶ原の当時、北九州の諸城を制圧しまくっていた黒田勢の中にいたという方が、まだしも信憑性がある。しかしそれも推測の域を出ない。が、少なくとも備前の宇喜多麾下はありえない。
A――そこで、司馬は書くね、《武蔵は、敗れた西軍に属していた。/なぜ参加したか、むろん、立身出世をしたかったのである。あわよくば侍大将になり、できれば一国一城の主になりたかった》(笑)。
B――これは明らかに、吉川英治『宮本武蔵』のパクリだな。吉川英治も参考書は顕彰会本なんだが、「吉川武蔵」は、野獣が人間化するという進化論的ストーリー(笑)。ところが、司馬遼太郎は、武蔵を一生うだつのあがらぬ鬱屈した人生を送ったことにする。「吉川武蔵」には人格的向上というプロセスがあるが、「司馬武蔵」にはプロセスがない。若い頃から死ぬまでずっと欲望の権化なんだ。
A――親無二斎の代からなんの進化もない(笑)。進歩、向上のない「司馬武蔵」は決定論(determinism)だね。
C――決定論的というのが彼の小説の特徴。全般に、司馬作品が退屈なのはそのせいだよ。それにしても、《武蔵は、備前岡山五十七万石余の太守宇喜多中納言秀家に属していた、かとおもわれる》の「かとおもわれる」ってのは、これは何だね(笑)。
B――煮え切らない断言というよりも、これは修辞としての「かとおもわれる」。こうして考察の身ぶりをすると、かえって、何か客観性の感じが生じるという技法だよ。
A――だいたいが、武蔵が宇喜多勢に属して関ヶ原役に出た、というのは、本来美作の史料にはない話で、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』がはじめて出した珍説ですぞ。司馬の参考書、種本は、この顕彰会本だから、その説をパクっているだけだ。
C――ところが、「かとおもわれる」と書いて、さも自分が考えついたかのようなふりをする(笑)。
B――そういう考えたふり、考証する身ぶりをするやつなんだ(笑)。それで、次に足軽だという話にもっていくわけだが、宇喜多麾下でも新免宗貫自身が直参ではなく、家老の戸川達安組だろ。岡山の宇喜田家分限帳からそれが知れる。もちろん、宮本無二なんて名は宇喜多の分限帳にはないし、武蔵の名前が出ないのも当然だ。そんな分限帳にないということで、名前がないのは足軽だからだという話をでっちあげるのは杜撰な話だ。だいたいこの時期、武蔵がどこで何をしていたか、というと、まったくろくな史料がないのだぜ。
C――武蔵は足軽で関ヶ原に参戦したと勝手に決めつけておいて、こんどは《武蔵は痛憤したことであろう》とくる(笑)。どうしようもないのは、むろん、司馬がどうしても武蔵を美作産、「吉野郡讃甘村」生まれにしたいからだ。この点では、司馬は吉川英治の忠実な弟子なんだ。
A――そしてこの部分の極め付けは、《いかに浪々の身とはいえ、その家祖が新免家の家老までつとめた家の子である。無二斎の旧知の者もいたが、とりなさなかった。生前の無二斎が、いかに主人、後輩にとっていやな男であったか、この一事でもわかる》(爆笑)。
B――いやはや、「この一事でもわかる」かよ。「わかる」だとよ、大笑いだ。自分が妄想して捏ね上げたイメージを、こんどは自分が勝手に納得してしまう。これが読者相手の「ふり」でないとすれば、明らかにビョーキだな(笑)。
C――この無二斎とかいう人物、新免無二本人とは全く無関係な架空の存在だが、後世の小説家にこんなひどいことを書かれるとは、夢にも思わなかっただろう。まったく、同情するね(笑)。
A――とにかく、父親もいやな男だし、息子の武蔵もいやな男だ、という伏線を張ったつもりですな。しかし、こんなさもしい人物像は、実は作家自身の心性の卑しさのプロジェクションである(笑)。
C――その点は、この小説では一貫している(笑)。
C――さて、ここで「幸庵の知るかぎり」ときたが、この小説、渡辺幸庵から見た武蔵という仕立てなのだが、そういう単純な無理が最後まで克服できていない。渡辺幸庵と称するホラ話の老人に自身を仮託して、ホラ話をしているのさ、というのだったら、まだ小説として見どころがあったがなあ。
B――だいいち、幸庵対話には竹村武蔵記事は三項目しかない。この小説は幸庵対話とは無関係な伝説をあちこちから引っ張り出して、ストーリーをデッチ上げておるだけだ。
A――この武蔵の敵前逃亡潭の出所は、明らかに『撃劍叢談』ですな。司馬は、場所を「北九州のある藩の城下」なんて書いておるのですが、ネタ本の内容では熊本城下だ。村上吉之丞の師匠・松山主水が死んだのは、細川家が豊前小倉から肥後熊本へ転封になった後のことだ。司馬はそのことを知らずに書いている。
A――《この藩の指南役に二階堂流の某という男がいた》などと曖昧なことを司馬は書いているが、『撃劍叢談』には細川忠利の近習・村上吉之丞という名がちゃんと明記してある。
B――ネタ本に明記してある事項を、こんなふうに曖昧化するというのは、これは本当はルール違反なんだよ。司馬のように話を蒙昧化するのは、もちろん、話にリアリティをもたせるためだ。『撃劍叢談』にこんな話が書いてあるとまで言ってしまうと、では、その話に信憑性があるのか、ということになる。ところが、この書物は武蔵死後百五十年の著作で、例の宮本武蔵「義恆」なんだね。史料的価値は『二天記』以下で、信憑性はほとんどなくて、この話ははじめから話にならない。
A――だから司馬は、『撃劍叢談』というネタ本の名は出さないし、細川忠利や村上の名も、ようするに具体的な要素を出さない。出来事の舞台を特定しないと、武蔵という奴は、どこでもこんなケチなことをやっていたという「一般化」の効果が生じる。これを読者に匿すのは、話のリアリティを独占するためだ。話を蒙昧化して啓蒙のポジションを占拠する。司馬には情報公開を要求すべきだ(笑)。
C――司馬は考証しているふりをして、読者を引き込んでおいて、こういうセコい技法を使うね。『渡辺幸庵対話』を史料として提示した格好にして、あとは、史実と説話をごじゃ混ぜにして、話をでっちあげる。この場合、『渡辺幸庵対話』を材料として出すなら、『撃劍叢談』の名を明かすべきだ。それとも、熊本を「北九州のある藩の城下」なんて書いているところをみると、小倉時代の細川家にしたいのに、それもできないということかい(笑)。
B――小倉と明確に言わずに「北九州のある藩の城下」と書く、それも司馬一流の蒙昧化だよ。大体やね、『撃剣叢談』に村上吉之丞は細川忠利の近習だとある。そんな村上と戦わずして逃げた武蔵を、忠利がのちに客分として厚遇するかい(笑)。まったくアホな設定だぜ。
C――それより、この村上吉之丞が、村上東右近大夫の子の吉之允正重(1606〜38)だとすれば、年齢が合わない。武蔵が廻国して六十余度勝負をしていたのは、二十八、九歳まで。つまり、村上吉之丞が六、七歳だった時までなんだ。
A――すると、武蔵は幼児に恐れをなして逃亡したのかよ(笑)。
B――まあ、『撃剣叢談』のこの記事は、もともとデタラメな話んだよ。しかし、この村上吉之丞は、かの村上平内正雄の祖父だな。村上平内も、よもや武蔵流祖師の武蔵先生が、自分の祖父との対戦を避けて逃亡した、なんぞという話が、後世の武芸書に書かれるとは、夢にも思わなかっただろうよ(笑)。
C――まったくね。村上吉之允は御小姓組で二百石、武蔵が忠利の近習の村上から敵前逃亡したとすれば、いろんな点で話が大いに矛盾する。司馬は《これほど武蔵を愛した忠利が…》なんて間抜けなことを書く。だから、忠利近習の村上の名も、熊本の名も出せないわけだ。出せば、この矛盾を説明しなければならなくなる。ようするに、司馬は、武蔵がセコい男だったという話だけが欲しかった。それで具体的な名を削除して書いた。まったくセコい話だ(笑)。
B――いずれにしても、デタラメな文章なんだよ。《武蔵の才能の中で、もっとも卓越したものは、その「見切り」という計算力であった》なんて書いているが、まさに、志のないひどいセンテンスだねえ(笑)。
A――見切りが計算力か。すると、見切りという語釈の新説だ。いや、珍説か(笑)。
C――もともとが、珍説・宮本武蔵なんだよ。いまの話は、『撃剣叢談』からパクって、しかもそれを頬かむりして、仕立てあげた話だが、同じように山田治朗吉『日本剣道史』(大正十四年)からのパクリもある。ただしこちらは、シームレスに流用した剽竊だな。

【Case 6】
 幸庵の知るかぎり、武蔵の名が諸侯のあいだで知られはじめたのはツイ最近のことである。しかしあまり有名でなかったほんの数年前、流名を弘めるために北九州のある藩の城下に立ちあらわれたことがあった。
 武蔵は弟子をつれて上士の用いるような乗物で美々しく城下に乗りこみ、懇意の藩士の屋敷に宿をとった。
 武蔵はもともと、宣伝に才があった。その配慮か、このときの風体が、なんとも異様だった。伊達な仕立てのカタビラに金箔で紋を打ったものを着、それにタスキをかけ、夜な夜な、城下近い松林にあらわれては、シキリと太刀打ちをするのだ。その撃ちかたも、林の樹々を縫いつつ、怪鳥のような跳びかたをしてみせる。無名時代の武蔵の悲しみとあせりがわかるような話である。
 自然、ウワサが城下にひろまり、藩の若侍のなかで弟子入りを申し入れる者も出て来た。武蔵だけでなく、これが当時の大方の兵法者の世稼ぎの法である。
 ところがこの藩の指南役に二階堂流の某という男がいた。えたいの知れぬ旅の牢人に藩中が関心をもつことを不快に思い、武蔵のもとに使いをやって仕合を申し入れた。
 「左様か」
と武蔵は、受けるとも受けぬとも答えず、数日、某の様子をみていたが、やがて人知れず城下を立ちのいてしまった。
 二階堂流の某はこの結果を見て大いによろこび、
 「武蔵は、我におそれを覚えて逃げた」と触れまわった。武蔵にどういう理由があったにせよ、兵法は、一つは宣伝とすれば、この勝負は武蔵の負けである。
 もっとも武蔵は、三十をすぎてから仕合を避けている。三十前でも、仕合の相手をえらぶときに、かならずおのれよりも弱いと見切ってからでなければ、立ち合わなかった。武蔵の才能の中で、もっとも卓越したものは、その「見切り」という計算力であった。

*【撃剣叢談】
《忠利の近習、村上吉之亟と云者、此の平法に尤心力を委ね、抜群の器也。(中略)吉之亟ハ、主水死後には及ぶ者なく、是が門下に入人多し。其比宮本武藏、流を弘めんとて九ヶ國に經歴し、城下近き松原にて藝習はす様、折節夏の比成しが、伊達成帷子に金箔にて紋打るを着、目ざましく装ひて、夜な/\出て太刀撃す。もとより輕捷自在の男なれば、縱横奮撃する有様、愛宕山の天狗などハかくもやあらんと專沙汰せし也。吉之亟是を聞て、人を以て勝負を望ミたり。武藏ひそかに吉之亟が藝の様を聞に、中/\及ぶべくも思われざりしかば、何となく去て他國に行しと云。されど、武藏が名は天下に高けれども、吉之亟ハ知る人なし。(是)諸國に周遊して藝を弘めしと、國一ツにて行れしとの違成べし。戦國にて武辺塲数の士も、國一ツにて立たる功名ハ、遍く世にしられざるも多きを以て見れば、さもあるべし》(第三巻 二階堂流)


*【村上家略系図】

○村上吉之允正重―吉之允正之┐
┌─────────────┘
├平内正雄─┬平内正勝―平内正則
│     │
└吉之允正房└八郎右衛門正之


*【日本剣道史】
《武藏が江戸に出で夢想権之助を伏さしめ、大瀬戸隼人、辻風何某を試合に打殺したことなどは、決して特筆の價はなく、皆兵法未熟の者共であつたからである。武藏が眞に江戸に伎倆を試みんとなれば、當時柳生の配下には庄田、木村など錚々たる傑物がある。新陰流には紙屋傳心の如き名人がある。一刀流には小野次郎左衛門が控へて居る。此他天下の御膝元とあつて、各流の名家が雲集して居るに拘らず、武藏は之を避けて一人も訪問した形跡が残つて居らぬ。甚だ不審といはねばならぬ。凡そ道の修業に諸州を徘徊する者が、其土地第一と聞ゆる人を訪れぬは、業理の上に於て自分を知るといふ計量を失つて居るものである。二刀一流が或程度までに限られてゐては、天下の兵法とはいはれぬ。宜しく名人達人の純精なる太刀風の下に、其妙理を發揚してこそ、始めて稱讃の辭を捧ぐべきで、武藏の武者修業が吉岡を除く外大家に接觸せぬのは、後世より見て武藏の爲め、將た兵法の爲め、極めて遺憾のことである》


【Case 7】
 武蔵自身、「五輪書」のなかで自分の剣歴を自ら飾って、
「自分は若年のころから兵法に心をかけ、国々を遍歴して諸流の兵法者に行あい、六十余たび勝負をしたが、一度もその利をうしなったことがなかった」
 自分のことはなんとでもいえる。ところがかれのいう「兵法者」とは、京の吉岡一門をのぞいては、いずれも、夢想権之助、大瀬戸隼人、辻風某などといった第二流、三流の剣客ばかりであった。武蔵が活躍した江戸初期は、日本剣術史の黄金時代で、しかも江戸府内に名人が集まっていた。まず柳生但馬守宗矩がいるではないか。なぜ訪ねなかったのか。
 なるほど宗矩は幕閣の重役で総目付役、一万二千五百石の大名であり、将軍家指南役という立場にあったから放浪の剣客が仕合をのぞんでもかなえられる筋あいではなかった。しかしそれでも柳生の門下には、木村助九郎、庄田喜左衛門という天下公認の名人がいたし、また新陰流五世神谷伝心、一刀流の小野次郎右衛門などがいた。武蔵は江戸に何度も足をふみ入れながら、これら剣歴の明らかな名人のもとには、一度も訪ねた形跡がない。どうしたわけか。
 という疑問によって、近来、武蔵非名人説が出ている。その論拠はただ「それらの名家を訪ねなかった」というだけのことだが、なぜ武蔵が天下公認の名人と仕合をして自分の記録を明確にしなかったか。その理由については地下の武蔵自身にきいてみなければわからない。
A――なるほど、これをみると、山田が書いている以上の情報は、みごとに何もない(笑)。まったくの剽竊ですな。引用かと思うと引用ではない。山田治朗吉の名を出さないのだから、引用でないとみれば、引用でもある。
B――こんな曖昧化したシームレスな流用は、剽竊というんだよ(笑)。《夢想権之助、大瀬戸隼人、辻風某》は、山田が出している名前。それを《第二流、三流の剣客ばかりであった》というのも、これも、山田の《皆兵法未熟の者共》だったという文章を書き換えたにすぎない。
A――《木村助九郎、庄田喜左衛門》というのは、山田の《當時柳生の配下には庄田、木村など錚々たる傑物がある》だね。《新陰流五世神谷伝心》というのは、山田の《紙屋伝心》、《一刀流の小野次郎右衛門》は、これも山田の文章にある。《京の吉岡一門をのぞいては》というのは、後に出てくる山田の《吉岡を除く外大家に接觸せぬのは》だ。
C――《これら剣歴の明らかな名人のもとには、一度も訪ねた形跡がない。どうしたわけか》は、山田の《各流の名家が雲集して居るに拘らず、武藏は之を避けて一人も訪問した形跡が残つて居らぬ。甚だ不審といはねばならぬ》だ。なんと《甚だ不審といはねばならぬ》までフォローして、司馬は「どうしたわけか」(笑)。
A――ここまで読者に読ませた上で、《という疑問によって、近来、武蔵非名人説が出ている》と書く(笑)。以上の話を「武蔵非名人説」として一括する。
C――おやおや、というところだが、すでに十分、読者に刷り込まれた頃合を見計らって、《その論拠はただ「それらの名家を訪ねなかった」というだけのことだが》と、非名人説に距離をとるふりをする。
B――もちろん、距離をとるふりをしているだけ。ここまでシームレスに山田治朗吉の武蔵非名人説を流用してきたから、読者には見分けがつかない。武蔵は弱い相手ばかりを選んで、六十余度の勝負に勝っただけだ、という話は、すでに読者にインプットされている。これが司馬遼太郎流技法だ(笑)。
C――しかし、山田が書かなかった部分があって、司馬遼太郎の半可通は、そこでも露呈しておるな。
A――《まず柳生但馬守宗矩がいるではないか。なぜ訪ねなかったのか》というあたり、山田治朗吉は柳生宗矩のことは書いていない。司馬は、《なるほど宗矩は幕閣の重役で総目付役、一万二千五百石の大名であり、将軍家指南役という立場にあったから放浪の剣客が仕合をのぞんでもかなえられる筋あいではなかった》とくる。すると、柳生宗矩は、慶長年中から幕閣の重役で総目付役、一万二千五百石の大名だったのかよ(笑)。
B――六十余度勝負の話は、武蔵が二十代までのことだぜ。慶長も十二年どまりのことだ。柳生宗矩は、関ヶ原合戦で戦功あってまず千石で召抱えられた。次いで加増されて計二千石、翌慶長六年、徳川秀忠の兵法師範になり、宗矩は三千石に加増された。慶長末の大坂陣をはさんで、元和に至っても三千石の旗本にとどまる。一万石になるのは、ずっと先の寛永十三年(1636)、宗矩六十六歳の老年だな。
C――「但馬守」の方は、寛永六年(1629)宗矩はこの年五十九歳、従五位下但馬守に叙任された。いわゆる「柳生但馬守」はこれ以後の名で、それ以前は柳生又右衛門だ。寛永六年以前にもかかわらず、宗矩をはじめから「柳生但馬守」と記して憚らない小説があるが、それはおおきな誤り(笑)。
A――この司馬遼太郎もその一人。で、惣目付(のちの大目付)のことがありましたな。
C――寛永九年(1632)、宗矩は新設の惣目付に就任。しかし宗矩は、四年ほどで惣目付を辞任する。だから、柳生但馬守といえば、長年大目付だったというイメージが一般にあるが、これも間違い。
A――そうすると、《放浪の剣客が仕合をのぞんでも、かなえられる筋あいではなかった》と書くわけだから、司馬遼太郎は。柳生宗矩は慶長年間にすでに、惣目付で一万石余の大名になっていたと勘違いしているわけですな。
B――ようするに、山田治朗吉が書いていないことを書くから、そんな初歩的な無知をさらして、大恥をかくんだ(笑)。
C――『五輪書』の六十余度勝負のことも、司馬は《自分のことはなんとでもいえる》と半畳を入れるが、これは無二斎のところですでに出ていたのと同じ、この小説に一貫している邪気のある文章だな。
A――悪意をもってすれば、「なんとでもいえる」(笑)。
B――だいたい山田説にしても、《江戸に伎倆を試みんとなれば》《天下の御膝元とあつて、各流の名家が雲集して居る》などといい加減なことを書く。武蔵が諸国を廻って勝負をしていた当時、まだ兵法のセンターは京都にあった。江戸なんてまだ、城下町工事中の新興都市だぜ。
C――山田治朗吉は、元和以降のことを慶長年中と混同している。そういう蒙昧な所説をそのままパクった自分が道化を演じておるのに、司馬遼太郎は気づかない(笑)。しかし、武蔵が勝ったのは二流の兵法者ばかり、というのは、これも根拠のない話だ。
B――夢想権之助を、二流の兵法者だなんて云うと、夢想流杖術の連中は怒るぜ(笑)。
A――四尺二寸一分で叩きのめされるぞ(笑)。
B――夢想流の伝承によれば、むろん夢想権之助は実在だが、それ以外の名を見ると、なんと『二天記』にしか出てこない名前(笑)。氏井物語に大瀬戸隼人、辻風某なんて話は、『武公伝』にはないぜ。十八世紀後期の『二天記』になってはじめて出てくる、新規発生の伝説だ。
C――そもそも、『二天記』より半世紀早い『丹治峯均筆記』の著者は、武蔵の六十余度勝負のことは、ほとんど言い伝えがないと歎いているよ。『二天記』の架空の人物を挙げて、皆未熟の者どもだったとは、恐れ入った。開いた口がふさがらん(笑)。
A――実在しそうもない連中を、二流三流の者だったと決め付ける。どういう了見なんだ(笑)。しかも、直木三十五や司馬遼太郎のように、山田説の尻馬に乗る連中が出るという始末だった。
B――司馬は、《なぜ武蔵が天下公認の名人と仕合をして自分の記録を明確にしなかったか。その理由については地下の武蔵自身にきいてみなければわからない》なんて、アホな仄めかしをやっているが、その「天下公認の名人」同士が仕合した記録があるなら、出してみろ、というんだ(笑)。
A――たとえば、柳生宗矩vs.小野次郎右衛門とか、神谷伝心vs.庄田喜左衛門とか?(笑)。しかし実際、「天下公認の名人」は、互いに仕合をしていないし、彼らは《名人と仕合をして自分の記録を明確にしなかった》。それなのに、司馬は「天下公認の名人」という。
C――ようするに、司馬のいうところの「天下公認の名人」なんて、伝説にもとづく後世の評価にすぎない。歴史を客観的に見てみよう。おそらく、実際に武蔵と対戦した連中は、あの世行きか、再起不能の障害者になっただろう(笑)。だから、後世に名を残せなかった。逆に、武蔵と対戦しなかった連中は、生きのびて、後世に名を残せた(笑)。
B――武蔵はハタ迷惑なやつだった(笑)。何せ、あたら将来のある兵法者を、六十人以上も片づけてしまったのだからね。しかし、武蔵に負けて、後世に名を残せなかった兵法者が、山田がその名を列挙した「名人」「名家」たちより下手だったとは、だれも言えまい。
A――そういう意味では、後世に名を残せた連中は、武蔵に感謝しなければならない(笑)。自分より強い連中を、慶長年間に武蔵が片づけてしまったから。
C――とにかく、歴史を結果からしか見ないようでは、話にならない。「名人」「名家」とか言うがね、近世初期の兵法者には、ほとんど史料がなくて、事蹟不明。そこで後人が、頼りない伝説から空想するしかない有様だ。
B――剣術史なんてのは、もっともらしいことを書いているが、たいていの記事はまともな根拠史料がない、「小説」の類いと思ってよい(笑)。

A――ところで、司馬遼太郎の剽竊、パクリということでは、顕彰会本『宮本武蔵』が大半だが、楠正位(水南老人)の「宮本武蔵」(『武徳会誌』明治四十三〜四年)からのパクリもありますな。








*【二天記】
《武藏江府ニ在リシ時、夢想權之助ト云者來リテ、勝負ヲ望ム。權之助ハ木刀ヲ携フ。武藏折節楊弓ノ細工有リシカ、直ニ割木チ以テ立向フ。權之助會釋モ無ク、打テカヽル。武藏一打チニ撃仆ス。依テ閉口シテ走ル》
《氏井物語ニ、先年武藏囘國シテ江戸ニ在シ時、柳生家ノ士大瀬戸隼人、辻風某ト云強力ノ者アリ。武藏ト勝負ヲ爲ンコトヲ請フ。武藏心得タリト立向フ。大瀬戸進ンデ打ントス。武藏其先ヲ撃チ、大瀬戸立所ニ倒ル。續テ辻風打テ懸ル。如何爲ケン、辻風後ロニ斃レ、椽ノ先キナル石ノ手水鉢ニテ背骨ヲ打テ氣絶ス。其ノ後病テ遂ニ死ストナリ。是ハ書院ノ内ノ事ノヨシ。辻風ト云者ハ豪兵ニテ、馳馬ヲ脇ヨリ走リ懸リ、平首ニ抱付、組留ムル程ノ強力ノ者ナリト云ヘリ》

*【直木三十五】
《しかも、武蔵は、江戸へ行って、当時の名ある剣客とは、誰一人、試合をしていない。当時江戸には(中略)幕屋大休、小笠原源信斎、紙屋頼春、庄田喜左衛門、針ヶ谷夕雲、小田切一雲、小野、柳生の両家をのけても、名人が、揃っていた。この人々の一人とでも試合をして、見事に勝ったのなら、私はえらいという。だが、武蔵は試合をしていない》(「上泉信綱と宮本武蔵」昭和七年)
 【水南老人講話 宮本武蔵】

余が見た傳書には、無二齋は村上源氏赤松持貞の裔田原久光の子で、初め宮本無二之助と稱し後新免氏を繼で無二齋と稱した、住所は播磨國揖東郡宮本村で、三木の城主別所小三郎長治に屬して居たが、十手の名人で二刀流を始めた、別所家滅亡の後別所の浪人は多く黒田家に仕へた、無二齋の親族田原六之進、新免伊賀守、山崎茂兵衛等皆黒田家に仕へた、無二齋は黒田官兵衛孝高の弟兵庫助利高の所望に依り事あるときは利高に與力する事になつた、是より無二齋は黒田家に出入した、其重臣の舟曳刑部とは最懇意であつた事や、野口佐助・久野四郎兵衛抔、多數の人が無二齋の教を受けた事が書てある。
 【Case 8】 司馬遼太郎『真説宮本武蔵』

 そののち、武蔵は、筑前福岡の黒田家の城下に行ってながく逗留した。
 黒田家は、五十余万石の大大名で、九州では島津家につぐ雄藩であり、第一、第二の志望をくじかれた武蔵としては、自分の望みを託するに足る藩とみたのであろう。
 ひとつには、居心地もよかった。黒田家は、始祖官兵衛如水が播州から出て興した家で、国老の栗山、菅、母里の三家をはじめとして播州人が多い。
 武蔵は母方の実家の別所氏が播州の名族で、武蔵自身、「播州赤松(別所家の祖)の末流」と称していた。自然、家中に縁族が多く、江戸や名古屋よりもはるかに故郷を感じさせる土地であった。
 武蔵は、国老菅家の縁族である船曳刑部の屋敷に寄寓し、乞われるままに藩の若侍などに兵法を教えたりして日をすごした。
 この船曳家も、もとは播州船曳庄から出た家である。
 刑部の父杢左衛門はもと新免家につかえ、無二斎とは朋輩であった。無二斎から兵法を学んだともいう。武蔵はそういう縁をたよって寄寓したのである。




*【丹治峯均筆記】
《武州、老年ニ至リ、命終ノ處ヲ可極ト被存立。古郷ト云、武勇ト云、黒田ノ御家カ、又ハ、兵法数寄ニテアル間、細川ノ家カニ可致トテ、先筑前ニ被下。
忠之公被聞召附、或時表ヱ御出之節、御家老中、其外列座之面々ヱ被仰ハ、「兵法天下無双、新免武藏ト云者、博多ヱ下着ス。三千石ニテ召抱、左京殿[光之公ノ御事ナリ]師匠ニ可致」ト御意被成。イヅレモ思ヒ掛ケナキ事ユヘ、御受申ス人モナシ。其後亦二三日スギ、表ヘ御出被成、「先日ノ武州ハ異相ナル者ニテ、若キ人ノ師匠ニハ成ガタシ。其上、仕官ノ望ミ無之者ト聞。無用ニ可致」ト御独言ニ被仰シトカヤ》




*【顕彰会本宮本武蔵】
《然るに、この頃、播磨佐用郡平福村々長田住貞氏方傳來の系圖を得たるによれば、武藏の母は、別所林治といひし人の女にして、初め美作の平田武仁に嫁して、武藏を生み、後離別して播磨に歸り、田住政久に再嫁せり、この時武藏は幼少なりしが故に、いはゆる率子〔ツレコ〕となりて、田住家に養はれ、こゝにて人と爲れるよしありて、同家には武藏の過去帳もあり(担しこの過去帳は死を聞きて、跡にて作れるものたるべく證とするに足らず)、この村は、美作と境を接せる處なれば、かく互に往來せしなるべし、これを正傳とする時は、かの大野村の墓なる無二齋の妻於政は、無二齋の後妻にして、武藏の實母にあらず、又武藏は幼にしてかく母に連られ來りしが故に、後に美作の父のもとに歸り、劍道など修業せしも、みづからは播磨の人と思ひ居りしにや、又祖先の系は、本播磨赤松の支族なるが故に播州の武士と記せるにや、猶よく考ふべし》
B――これも、もちろんパクリだから、例によって楠正位の名は出さないわけだが、この話は、武蔵が、江戸の徳川将軍家、尾張の徳川家と、それぞれ仕官に失敗して、だんだんランクを落として、こんどは筑前の黒田家に仕官を求めるという筋書きだな。
C――話の運びのテーマが、武蔵の猟官運動なんだから、そんなぐあいに筋書きを作る。これは、後段に、れいの『丹治峯均筆記』の、三千石で武蔵を召抱えようとしたが、黒田忠之の気が変わって、その話がつぶれ、武蔵は肥後の細川家へ行ってしまったという話があるから、その話の枕に据えたわけだ。
A――それは『丹治峯均筆記』では、武蔵が命終の地、死に場所を求めて、黒田家か、細川家か、どちらの領地がよいか、という話なんだが、司馬は、そんなことは隠して、猟官運動の一環にしてしまう。
B――これをみると、楠正位の見たという伝書が、無二斎の記事として書いているところを、武蔵の話へもって行っておる。話の流用改竄だな。
A――武蔵と黒田家との関係ということでは、楠正位の講話に、ちょうど具合のよさそうな話があったので、それを早速パクった(笑)。
C――楠正位が見たという伝書は、かなりいい加減な伝説だな。無二斎は田原久光の子だというのだから、無二と伊織を混同しておる。もちろん司馬遼太郎からすると、無二斎は美作人であってくれなくてはならないので、伊織の母が武蔵の従妹だというこの珍説も、話を紛糾させるから、それは隠して云わない。
A――武蔵の「母方の実家」が別所氏だというのは、これは楠正位の講話に出てくる別所氏ではありませんな。そちらは無二斎が属したという三木の別所長治のことだから。
C――司馬のいう別所氏は、顕彰会本『宮本武蔵』に出てくる別所氏、利神城(佐用郡平福)の別所林治のことだ。その別所林治の娘が武蔵の生母だという話だが、それは美作にはない伝説で、むろんこの話は平福宿のごく局地的な伝説だな。
A――別所林治の娘なら幼女で、武蔵を生めるわけがない。彼女は武蔵より長生きしている(笑)。
C――司馬は、母方が別所氏だから、武蔵は赤松末流を称した、などといい加減なことを書く。そのあたりは全部、顕彰会本『宮本武蔵』のパクリだが(笑)。
B――とにかく、司馬は顕彰会本におんぶに抱っこだから、無二斎が兵庫助利高の与力だったとか、舟曳刑部とは最も懇意だったという楠正位の講話には乗らない。無二斎が、九州へ行ったとなると、美作で逼塞して宮本村で死んだ、という話とは辻褄があわなくなるからな。
A――しかし、東播磨の三木の別所氏と、西播磨の利神城(平福)の別所氏との区別を曖昧にして、楠正位の話を、無二ではなく武蔵のことに流用している。
C――読者にはそんな区別などわからん、とタカをくくっているんだ。しかし、黒田家の話にしても、《国老の栗山、菅、母里の三家をはじめとして播州人が多い》とは何だね? こういう胡乱なことをよく書くぜ。
A――菅六之助の「菅」氏に、「すが」なんぞというルビをふったりする。
B――いや、司馬は後に黒田官兵衛の小説(『播磨灘物語』昭和四十八〜五十年、読売新聞連載)を書くが、このときはまだ、黒田家のことをよく勉強していなかったんだよ(笑)。
C――とにかく、楠正位の講話に出てくる船曳刑部のことは、それを無二斎ではなく武蔵のことにすりかえて、武蔵が福岡の船曳刑部の屋敷に逗留したことにする。このあたりは話の原型の改竄だな。
B――それが後ろめたいのか、船曳刑部の父杢左衛門の話を入れて、杢左衛門が無二斎の朋輩だったということにする。ただ、楠正位が見た伝書とかいうのも、船曳刑部を重臣をしてしまうのだから、話はデタラメなことだ。
A――船曳刑部は、五百石だから、とても重臣とはいえない。ところで、ここには小河露心の話は出てこないね。
C――司馬遼太郎は、『丹治峯均筆記』を読んでおらず、顕彰会本収録の記事を孫引きしているだけだからな。顕彰会本に収録していない記事は知らんのよ。しかしまあ、楠正位の講話を流用しておりながら、顕彰会本の美作説に対抗して楠正位がせっかく異説を立てたその意義は、完全に隠蔽しておる
A――都合の悪いことは隠して表に出さない。使えそうな所だけパクって話をデッチあげておる。ひどい資料の扱いですな。
 【水南老人講話 宮本武蔵】

余が見た傳書には、作者の所謂宮本系圖と稍相似て、しかも夫より確實と思われる者がある。八五郎の伊織は、播州國印南郡米田村の郷士岡本甚兵衛の二男で、母の姓氏は書てないが別所長治の家臣の娘で、武藏の従妹に當る者である。三木落城の後、娘の父が米田村に住したので、甚兵衛に嫁した。武藏は、甚兵衛の妻・即八五郎の母との縁故はあり、甚兵衛もまた武藝を好むだので、度々甚兵衛を訪ふて其家に滞留した。其内、八五郎が幼少より骨格が逞く才氣もあるのを見て、特に寵愛した。八五郎も亦能く武藏に懐〔なつ〕いた處から、武藏は終に八五郎を所望して養子にした。
 八五郎が成長した頃、小笠原家より武藏を召抱たしとの相談があつた。武藏は仕官の望なしとて堅く斷つたが、再三再四の懇望に武藏も其恩命に感じ、「自分は最初より御答せし通り仕官の望は御座りませぬが、私の養子に八五郎と申す者があつて、夫はまだ若年ではあり、藝術も未熟でお間には合ひますまいが、若し小禄にても此者を御召抱下さるゝならば、私は後見として時々參り何なりとも御用を承りませう」と答へたので、小笠原家に於ては夫にて満足だと云ふことで、八五郎を新地三百石で抱へられた。其處で武藏も約束の通時々小笠原家に行き、殿のお相手をしたり家中の人々に刀術の指南をもしたが、其後八五郎は追々立身して、名を伊織と改め、終に家老職に陞〔のぼ〕り、禄四千石を賜はるに至つた。
 【Case 9】 司馬遼太郎『真説宮本武蔵』

 それからほどもなく播州明石十万石の城下に立ちよった。城主小笠原忠真はひどく武蔵を敬愛し、ぜひ仕官してくれるようにと懇望したが、武蔵はかたく辞した。城地が小さすぎることが気に入らなかったのである。かわりに、
 「八五郎という者」
を推した。まだ少年であった。武蔵は生涯女を近づけなかったために子がなく、二、三の養子をやしなっていたが、八五郎はそのうちのひとりだった。八五郎は武蔵の親族にあたる播州印南郡米田村の豪農岡本甚兵衛の次子で、武蔵はその才気を愛し、貰いうけたといわれる。
 八五郎は、長ずるにおよんで吏才をみとめられ、小笠原家が豊前小倉十七万石に移封されてから宮本伊織とあらため、累進して家老にまでなった。最後の知行は四千石であった。養父の武蔵がついにかちえなかった高禄を、皮肉にも伊織が剣ではなく吏才をもって得たわけである。
B――伊織の話だが、これも、楠正位の講話からのパクリだな。戦前、多くの武蔵評伝にあった宮本伊織が「八五郎」だとかいう話は、この楠正位から出たことだが、その依拠している伝書が、すでに伝説変形を蒙っておる。
A――楠正位は「小笠原家」としか書かないが、司馬の小説には、小笠原「忠真」と、わざわざ書いている。
B――ところが、それが余計な半可通で、この明石時代はまだ「忠政」だろが。それにしても、ここで明石のことが出るが、司馬遼太郎の小説では、武蔵の播磨時代のことがまったく脱落している。伊織の他に二、三、養子があったというがね、だいたい播州の姫路や龍野の本多家との関わりが話に出ない。
C――それは、顕彰会本『宮本武蔵』に何も書いていないからだ。肥後の伝記作者は、武蔵の播磨時代を知らない。そもそも、伊織を出羽国産の孤児にしてしまうくらいだから(笑)。
B――武蔵は、養子三木之助を姫路本多家に仕官させて、七百石の姫路宮本家を立て、その後、明石では伊織を養子にして、もう一つの宮本家を設立していた。武蔵は三四十代の中年期、本多家・小笠原家両家支配の播磨を拠点にしておったという事実は、司馬遼太郎の頭にはない。それで、武蔵は二十代までの六十余度勝負以後、依然として各地を流浪して、仕官先を探していたという筋書きにしてしまう。
A――明石では、《武蔵はかたく辞した。城地が小さすぎることが気に入らなかったのである》という、この「である」は、いったい何だね(笑)。勝手に決めてもらっちゃ困るぞ(笑)。
B――楠正位の講話には、《武藏は仕官の望なしとて堅く斷つたが、再三再四の懇望に武藏も其恩命に感じ》、伊織を小笠原家に仕官させることになった、とするだけなのに、その趣旨を、ここまで改竄してしまう。やり方が悪辣だぜ。
C――さもしい野心家、虚栄と欲望の権化という、武蔵にしたかったのさ。それにしても、以下に続く伊織情報は、あまりにも悲惨だねえ(笑)。「播州印南郡米田村の岡本甚兵衛」などという話の出処は、楠正位の講話がソースだが、司馬は「米田村の豪農」と書く。どこから「豪農」なんて話になるのかね。
A――司馬は「豪農」が好きなんですよ(笑)。
C――それで、養子の伊織は四千石の家老に出世したが、武蔵は出世できず、という対照的構図を捏造するわけだが、楠正位の講話にある、「もし小禄でもこの者を召抱えて下さるならば、私は後見として時々参り、何なりとも御用を承りましょう」といって伊織を推挙したという話は、どこへ消えたんだ。
B――それは、武蔵の後見があって伊織が出世したという文脈だろう。実際、伊織は、武蔵の養子になって四年後、小笠原家の家老に列する。それも、二十歳でだ。このように若くして、小笠原家中の重役になれたのは、小笠原忠政の寵臣で、しかも武蔵という大物がバックにいたからだ。
A――小笠原家は古い家だから譜代の重臣が居た。にもかかわらず、というところでしょうな。
C――しかし、それよりも問題は、なんと司馬遼太郎は、《武蔵は、世に容れられぬ欝屈した感情を、絵画、木彫、彫金の制作に託している》と書いてしまう(笑)。武蔵の作品は、そんなケチなものなのかい(笑)。このあたりになると、まったくどうしようもなく、卑しい小説になってしまう。
B――司馬は、いい加減なことをぬけぬけと書くのだが、ここの《出来ばえはいずれも素人ばなれのしたものだが、作風にふくよかな肉付きがなく、見る者の心を安んぜしめない勁さのみがあった》という部分がそうだ。いっぱしの鑑定家のふりをして書いているが、何も分かっちゃいない。これは小説内の文と読むべきところだ。
C――つまりだね、本来なら、ここで語られる司馬の美術に対する鑑識眼は、虚構として演じられる。小説の中の「私」が物を言うのと同じだ。ふつうならそう読むのだが、しかし、面白いのは、司馬の場合は鑑識眼のある仮想の「私」を本当に演じていることだ。読者に見識を披露するように、本人は得々として書いているが、間抜けな馬脚を現すことが多い。武蔵の人格をすでに設定しているから、その結論として、こう評価するわけだ。他の文章をみてもわかるが、司馬には物そのものを鑑る目はない。
B――司馬の場合の特徴は、対象を直接見るのではなく、その背景を決定しなければ対象を評価できないという傾向があるね。つまり、出身がどうとか、育った地方がどうとか、ようするに能書きがあって一般化できないと、何も評価できない。具体的な物と直かにコンタクトできない。そういう傾向があったね。これは作家として才能がなかったということだ。ジャーナリストのセンスなんだ。
A――それは、司馬の事前調査癖と関係があることですね。行く前に、遭遇する前に、書物で調べて情報を蒐めて、詳細なノートを作成する。現場なり相手なりと接するのは、その調査ノートとの照合・確認でしかない(笑)。
C――すると、この「真説」武蔵は、かなり杜撰な話だから、調査がちゃんとできていなかった、調査不足ということのようだな。
B――なにしろ、ネタはほとんどが顕彰会本『宮本武蔵』からのパクリでしかないからね(笑)。






武蔵伊織播磨関係地図






明石城址 兵庫県明石市





【Case 10】
 その後、武蔵は、小倉の伊織の屋敷に身を寄せていることが多くなった。年すでに五十である。この間、武蔵は、世に容れられぬ欝屈した感情を、絵画、木彫、彫金の制作に託している。武具、あぶみのたぐいまで作った。出来ばえはいずれも素人ばなれのしたものだが、作風にふくよか加肉付きがなく、見る者の心を安んぜしめない勁さのみがあった。武蔵自身の風貌も、年をへていよいよ険しいものとなっていた。
 しかし中央で志を得られなかった武蔵は、九州で落ちつくことによってその名は九州の諸城下に喧伝され、豊前小倉の小笠原忠真をはじめ、肥後熊本の細川忠利、日向延岡の有馬直純など、武芸ずきの諸侯があらそって武蔵に城下への来遊を求め、武蔵も気さくに出かけた。武蔵は、地方名士になった。

【Case 11】
 武蔵の態度は慎重だった。かれは、
 「客分」
の位置をのぞんだ。これならば食禄の多寡によって自分の名誉が左右されることはあるまいと計算したのである。
 「さもあろう」
と忠利は諒とし、さらに武蔵にあたえる現米については、
 「兵法に値段がついては悪しかろう」
と、とくに役人に命じて武蔵にかぎり「堪忍分の合力米」という藩の給与行政にない術語をつかわせた。
 また武蔵の身分を重からしめるために、家老なみに鷹野をすることもゆるした。屋敷地は、熊本城下の旧千葉城趾をあたえ、宏壮なものを営ませた。武蔵は、半生の放浪ののち、五十の半ばをすぎて、はじめて自分の居宅をもった。


永青文庫蔵
柳生兵庫助利厳像

*【士林泝】 柳生兵庫助
《教幸 忠次郎、兵庫介、伊予
敬公御代被召出、賜五百石、爲劔術師。後号如雲。慶安三年寅正月十六日卒》(卷第百八)



*【奉書】寛永十七年十二月五日
《宮本武蔵ニ八木〔米〕三百石遣候
間、佐渡さしづ次第ニ可相渡候》
A――これは熊本に滞留するようになった時の話ですな。ここでも話は俸禄のことだ、やれやれだ(笑)。
B――ここでも、司馬遼太郎はアホなことを書いておる。武蔵は細川家の客分として処遇されたのだが、「客分」というポジションを武蔵がのぞんだというわけだ。
A――客分以外に何か他にあるとでもいうのかい(笑)。
B――しかも、それは武蔵の計算だというわけだ。《これならば食禄の多寡によって自分の名誉が左右されることはあるまいと計算したのである》(爆笑)
C――《と計算したのである》か、いやはや、笑わせてくれる。これが笑いを取るために計算した作文ではないなら、司馬遼太郎の妄想としか言いようがない。
A――まったく、珍説妄想小説ですな、これは(笑)。司馬は「筆者の信じる資料によって書きすすめる」というが、どの武蔵関係史料にそんなことが書いてあるんだ。フィクションというより、たちの悪い作家の妄想だ。
C――しかし、話はかわるが、巷間、武蔵の三百石というのは少ないじゃないか、という俗説があるね。剣豪武蔵の評価は実際には低かった、そういう俗説に乗って司馬も書いているようだが、武蔵の三百石は少なすぎるという見方は明らかに間違いだ。
B――それは、直木(三十五)以来の珍説だが、柳生宗矩などの知行万石と比較するからね。宗矩は将軍家師範とはいえ、剣術の評価で大名に成り上がったのではない。彼は武芸の手腕を買われてというよりも、役人としての長年の旗本奉公の報償で、晩年ようやく万石大名になったんだ。
A――その役人の役目というのは、柳生宗矩のばあい政治警察でしょうな。とにかく徳川将軍三代の寵愛を受けた。
C――実際、剣術師範の俸給ということでいえば、尾張徳川家の剣術師範になった柳生兵庫助(利厳)などは知行五百石だろう。尾張柳生家は元和以後の新参衆だが、兵法師範としては、御三家筆頭の尾張徳川家だってそんな待遇だ。兵庫助(1579〜1650)は武蔵と同世代の兵法者だから、当時の比較をするにはよい。これが五百石なんだ。
B――それに柳生利厳の場合は、家臣になって知行五百石、だから手取りは数百石だね。利厳は尾張柳生の初代で、慶安年間に高齢で家督五百石を、嫡子利方に譲って隠居した。そのとき功績を認められたか、自分として隠居料三百石を与えられた。どうも、この三百石というのが、超一流者に対する隠居料として相場かな。
C――二男の柳生厳包(浦連也)が名人だったが、致仕後の特賜米二百石。親父より少ないが、まあ数百石というあたりだな。
A――いやいや、武蔵の場合は、細川家の家臣になったわけでもないし、長年の功績があったわけではない。それからすると、むしろまったく逆に、三百石は法外な待遇だったということになりますな。槍の宝蔵院が、寺領三十三石の小院です。三百石は大きい(笑)。
B――そうだった(笑)。武蔵の給与はそもそも、客分としての賄料、滞在費なんだ。名目が「堪忍分」「合力米」というからな。御三家の尾張徳川家が、長年功績のあった柳生利厳に隠居料三百石、対するに、細川家はそれまで無縁だった武蔵に、タダで蔵米三百石(笑)。同じ三百石でも、武蔵のケースは破格の待遇だろうな。
A――とくに武蔵は、気まぐれな客人なんだから、いつ居なくなるかもしれない相手だ。「退去つかまつる。はい、さよなら」ってね(笑)。
C――当時細川家の財政は、飢饉や島原軍役などあって、京都の商人からの借金で自転車操業。細川家中には、武士をやめたい、知行を返上したいと言い出す連中さえ出たほどだ。それなのに、よく三百石も出したと思うよ。
A――譜代の家臣たちが生活に困窮してる状況なのに(笑)。
B――細川忠利にすれば、どうしても武蔵を厚遇せざるをえないわけがあった。豊前小倉の小笠原忠政(妻の兄)への面子があるからな、武蔵という客はへたには扱えないわけだ。
C――そもそも武蔵は、小倉小笠原家首席家老、四千石宮本家のご隠居様だ(笑)。生活に困っているわけじゃあない。だけど、滞在費を出そうというのを、「わしゃ、いらん」といって断われば角が立つ(笑)。出す方は無理にでも出さざるをえないし、受け取る方も無下に断れず、受け取らざるをえない。そういう双方ダブルバインドの関係がある。
B――それにだ、武蔵の給与三百石のケースは、御米・蔵米。手取りであって知行高ではない。かりに当時の歩合が四分免だとすると、知行高になおせば、これは七百五十石。
A――細川家中の三八免なら、知行七百九十石相当。尾張柳生家の知行五百石よりもむろん多い。
B――細川領知五十余万石だから、三百石くらいどうにでもなる、というのは間違いだな。「御米」というから、忠利は自腹を切って三百石を武蔵のために出した。細川家は、財政逼迫中なのに、無理して武蔵に出したんだ(笑)。
C――だから、武蔵の俸給はたった三百石、それみろ、剣豪武蔵に対する世間の評価は実際には低かったんだ、などというそんな俗説は、そろそろ撤廃してもらいたいね(笑)。
B――まったくだ。そんな戦前からの俗説に、いつまで支配されておるんだ(笑)。細川家は、武蔵を低く評価して三百石ではなく、むしろ武蔵という存在に大いに気を使って、法外な三百石という滞在費を出したんだぜ。
A――これは、細川家や熊本藩の名誉のためにも、声を大にして言っておかなければ(笑)。
A――ところで、司馬のこの「珍説」宮本武蔵は間違いだらけで、随所で笑わせてくれるが(笑)、この給与の話の部分、別の「笑点」もあるね。
C――可笑、可笑だな(笑)。ひどいのは、「忠利は、とくに役人に命じて武蔵にかぎり「堪忍分の合力米」という藩の給与行政にない術語をつかわせた」というところ。細川家の奉書にあるこの「堪忍分之御合力米」が給与体系にないというのは、明らかに珍説だ。
B――「堪忍分」というのは要するに、つまり家臣としての特定任務を免除されている、無役だということだ。給与体系にないという意味ではない。
C――堪忍分の合力米の例は、珍しいものではなく、回漕米の換金や借金で世話になっている上方の商人にも出しているな。
A――しかし、もっと劣悪なのは、司馬がこの小説より後に出した『宮本武蔵』(昭和四十三年)だね。そこには、堪忍分とは「少なかろうがこれで辛抱せよ」という意味であると、書いている(爆笑)。
C――「これで堪忍してね」か(笑)、笑ってしまうねえ。しかも、武蔵に対する給与の「堪忍分之御合力米」とあるのは、寛永十九年の文書、光尚の代の奉書なんだよ。忠利はもう死んでしまって、この世にいない(笑)。
A――いい加減な話だ。小説家は嘘八百でよいのだが、司馬が考証しているふりをする以上、間違いは指摘しておくべきですわな。
B――この「珍説」武蔵だと、細川忠利が「兵法に値段がついては悪しかろう」と配慮したことにしている。この科白は『丹治峯均筆記』にある有名な科白だが、もちろん、《兵法ニ直段ツキテ悪シ》は、忠利ではなく、武蔵の科白なんだよ
C――『丹治峯均筆記』では、細川忠利が「どんな条件でものもう」と言ったのに対し、武蔵が「御知行はもとよりの事、御米でも決して下さるには及ばない。兵法に値段がつくようで、それはよくない」と言ったという。これを司馬は、話の主客を正反対にしている。でないと、武蔵は出世欲の塊だという捏造イメージが破綻するからね。
A――やり方が悪質だね。ひどい資料操作をするやつだった(笑)。
C――そもそも、武蔵が猟官活動を延々続けた、しかもそれに失敗して失意の人生を送った、という珍説のソースは、楠正位の講話(前出「宮本武蔵」)だよ。司馬はこれを黙ってパクって、しかもはるかに低劣な潤色をしておる。
A――しかし最近の作家連中は曾孫世代だから、楠正位を読まず知らず、直木三十五や司馬遼太郎という二次媒体からパクっている(笑)。
C――司馬遼太郎は、後の小説『宮本武蔵』で、《武蔵の後半生は、いわば緩慢な悲劇であったといえるだろう》と、何の根拠もない勝手な講釈を書きつけておるが、この「緩慢な悲劇」というのも、司馬の妄想だな。ところが、この司馬の妄想を頂戴する阿呆が次々に出てくる。事態は最悪だ(笑)。
B――呆れるようなことを、ぬけぬけと書くのが司馬遼太郎だが、その小説でも、《かれは仕官を欲した。この点かれは、かれ以前の兵法諸流の流祖とは多少ちがっていた》なんぞと書く(笑)。いったいどの史料に、武蔵が仕官を欲したなどということが書いてあるんだ。
C――どんな武蔵史料でも、武蔵は仕官を望まなかったと書いておる。将軍家から武蔵召出しの沙汰があったという『丹治峯均筆記』の眉唾な話でさえ、武蔵は柳生の下に立つことをきらって、「若年より仕官の願望なく、髪も剃らず爪も切らず、法外の姿である。御免を蒙りたい」との旨を伝えて断ったとある。
B――その話は、続きがあって、仕官の望みがないなら兵法御覧だけでも、という沙汰があったけれど、「柳生を尊敬なされているからには、我が兵法を台覧に供しても無駄だ」と、これも断った。それもダメかというので、こんどは兵法ではなく武蔵の絵を見たいと望まれた。すると、武蔵はその沙汰には応じ、武蔵野に月の画を屏風に描いて献上したという。自分の兵法は、いかに将軍といえども、見世物にはしない、そんな独立不羈の武蔵だったという、それこそこの説話は、一生不仕の武蔵を尊敬する文脈だろう。
A――どこをどう読めば、「かれは仕官を欲した」などという、そんな逆さまのホラ話になるんだ。しかも、三千石うんぬん(笑)。
B――ぜんたい、司馬の武蔵小説は、武蔵を、常に地位や報酬のことしか頭にない低劣卑俗な人間として描こうとしているようだが、この武蔵像は、結局小説としてまったく出来損ないだぜ。
C――駄作としかいいようがない。この、仕官の望みを実現できず、失意の晩年を送った武蔵という像は、大笑いでしかない。とくに計算高い強欲な武蔵、倣岸でさもしい武蔵というのは、それを描けば描くほど、作家自身の卑しさが透けて見えるという作品だ。
B――それはちょうど、吉川英治という作家とその作品『宮本武蔵』との関係の逆だ。吉川武蔵のばあい、武蔵が真剣な求道者として描かれれば描かれるほど、作家の根本的な倫理性の欠如が否応なしに透けて見える。作家が歌えば歌うほど、その歌声はひび割れて、悪声が聞こえてくる。それとちょうど逆対照というところか。



【司馬遼太郎 宮本武蔵】
《細川忠利はそれを了承し、とくに武蔵のために、
 「堪忍分の合力米」
 という藩の給与行政にない特別な手当てを創設した。合力米というのは寄付という言葉にちかい。堪忍分というのは「少なかろうがこれで辛抱せよ」という意味である》


*【奉書】 寛永十九年十一月八日
《宮本武蔵ニハ、御米被遣候時、御合力米と不申、唯堪忍分之御合力米として被遣候由、可申渡旨、奉七郎衛門》


*【丹治峯均筆記】
《越中守殿、甚悦喜ニテ、「何分ニモ望ニ任セラルベキ」ト也。武州御答ニ、「曽而仕官ノ望ナキ段ハ、異ナル貌ニテモ御察可被成。肥後ニテ命ヲ終ルベシト存罷下レリ。何方ヘモ参ルマジ。御知行ハモトヨリノ事、御米ニテモ極リテ被下不及。兵法ニ直段ツキテ悪シ。鷹ヲツカイ候様ニ被仰付候ヘ」ト也》


【司馬遼太郎 宮本武蔵】
《同時に俗欲もつよくなった。
 すでに武蔵は名を得た。この名声にふさわしい地位をかれは得たくなった。かれの兵法は齢三十をさかいに一進境を遂げたが、かれのそういう面の、つまり俗世間への野心はむしろ無我夢中だったその自己試練期よりもはるかにはげしくなったようにおもわれる。
 かれは仕官を欲した。
 この点かれは、かれ以前の兵法諸流の流祖とは多少ちがっていた》
《武蔵の後半生は、いわば緩慢な悲劇であったといえるだろう。
 かれは、自分にふさわしい地位を得ようとした。それが、彼にとって業になった。幕府に官禄を得ようということがこの業にあくせくするかれの最初の猟官運動であったが、しかしこのことは不幸にも不調におわった。
 ――とても、三千石などは。
 と、幕府の要人たちは、みなくびを横にふるのである。徳川家に軍功も文功もない一介の牢人がいきなり三千石をもとめようとするのは、ほとんど狂したというにちかい》


*【丹治峯均筆記】
《武州兵法、將軍家達上聞、可被召出御沙汰アリトイヘ共、柳生但馬守殿、御師範トシテ常住御前ニ侍席セラル。武州、柳生ガ下ニ立ン事ヲ忌テ、「若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪ソラズ、爪トラズ、法外ノ有様也。御免ヲ奉蒙度」旨達而御断申上ラル。兵法御覧ノ御沙汰モコレアルトイヘ共、「柳生ヲ御尊敬被成カラハ、我兵法備台覧テモ益ナシ」トテ、是モ御断被申上。但州モ曽而吹挙ナキトカヤ。武州ガ繪ヲ御覧被成度由ニテ、御屏風ノ繪ヲ被仰付。武蔵野ニ月ノ出タル所ヲ、御屏風一パイニ書テ差上ゲラレシトイヘリ》

【Case 12】
 武蔵は忠利の知遇に感動した。「士はおのれを知る者のために死す」とは武蔵のすきな言葉であった。それを常住口にした。しかしこの幸福も永くつづかなかった。これほど武蔵を愛した忠利が、武蔵が仕官した翌年の寛永十八年の春、にわかに病いをえて急逝したのである。武蔵は、ひとり慟哭したにちがいない。
 ――ところが幸庵は、このころの武蔵のウワサをついにきかなかった。
 なぜならば、幸庵は、長崎から明国船に乗り、国禁をおかしてひそかに明国に渡ってしまったからである。幸庵は、その後三十年、日本にもどらなかった。

永青文庫蔵
細川忠利(1586〜1641)



【Case 13】
 幸庵も、――
 「武蔵は、武芸だけではなく、詩歌、茶道、碁、将棋など諸芸に長じていた」
といっている。事実、武蔵(雅号は二天)は画家、彫刻家としても日本美術史上に欠くことのできぬ人物で、残っている作品の数も多い。いま重要美術品に指定されている枯枝に一羽のモズを配した「枯木鳴鵙図」などをみても、なまなかな画家のかけるものではない。これほどの天才が幾人もうろうろしているはずがなかろう。
 その著「五輪書」などをみても、当時としては斬新な達意の名文で、論理性が高く、文飾を排し、用語には一語一意のきびしさがある点、現代の文章感覚に通ずる。明治以前の文章家のなかで、平易達意の名文家は、筆者不明の「歎異鈔」と室町末期に本願寺を中興した蓮如上人(白骨の文章)と宮本武蔵のほかにはみられない。
 従ってこれほどの天才は、一人しかいなかった。あたりまえのことだろう。



秀雅百人一首
秀雅百人一首 渡辺幸庵
C――これも、うーん、だねえ。落第(笑)。しかし、《「士はおのれを知る者のために死す」とは武蔵のすきな言葉であった》とは、司馬遼太郎も、とんでもないことを書いちまったな(笑)。
B――これは司馬遷(史記)だろが。《ああ、士は己を知る者のために死し、女は己をよろこぶ者のために容づくる》(嗟呼、士為知己者死、女為説己者容)と対句なんだから、後半も引用すべきだろう。
A――しかし、それでは、「ああ、士は己を知る者のために死し、女は己をよろこぶ者のために容づくる」とは武蔵のすきな言葉であった、となってしまう。それじゃあ、いくら何でもあんまりだ(笑)。
B――そういうことになるだろう、司馬遼太郎の言説を愚弄すれば(笑)。
C――だからよ、日本では、この文言(士為知己者死)が文脈を外れて一人歩きして、後世の『葉隠』流の恋愛武士道になる(笑)。だけど、『五輪書』を読めばわかるが、武蔵には無縁な武士道だぜ。
A――もちろん、だからですな、司馬遼太郎は『五輪書』をまともに読んでいない。ちゃんと読んでいたら、「士はおのれを知る者のために死す」、これが武蔵のすきな言葉だった、なんてことは書けない。
C――これも、武蔵がいつどこでそんなことを言っているのか、と突っ込まれると、いやいや、ここはフィクションなんだと言い逃れをするのかね(笑)。《武蔵は、ひとり慟哭したにちがいない》なんてね、このあたり、司馬のどうしようもない通俗性が露呈しているよ。
B――まったくだ。実際のところをいえば、武蔵は、細川家の客分になったが、忠利が死んだ後も、まだ熊本に居続けている。細川忠利との個人的関係があってのことなら、その忠利が死ねば、さっさと肥後を立退いたはずだ。
C――もともと武蔵は、細川忠利との個人的関係があって、肥後に滞在したのではない。武蔵との個人的関係をいうなら、武蔵を客分で遇する差配をした長岡佐渡だろう。彼がいたから、忠利が死んでも熊本に居続けたんだよ。
A――けれど、細川忠利との個人的関係というこの空想は、今でも多くの通俗的武蔵評伝が反復している。これも嗤うべし(笑)。
C――ともあれ、「通俗作家」司馬遼太郎は(笑)、『五輪書』が《当時としては斬新な達意の名文で、論理性が高く、文飾を排し、用語には一語一意のきびしさがある点、現代の文章感覚に通ずる》なんて、またまた鑑定するふりをしているが、決して『五輪書』をまともに読んでいないね。それが証拠に、「歎異鈔」や「白骨の御文章」と比肩させる。「ほかにはみられない」なんて、冗談ではない。
B――過去の国語史において、それしかないわけがない。本当にデタラメなことをぬけぬけと書くやつだったな。ただ、全体のコンテクストからすれば、この言い草はね、半分は、ほめ殺しなんだよ(笑)。
A――武蔵が諸芸に優れていたというのは、幸庵の言でオーソライズするような話じゃない(笑)。小倉碑文にあり、またそれを引用した書物も出ていたから、当時世間では知られていたことだろう。幸庵の言でオーソライズすると、すべては嘘になっちまうぞ(笑)。
C――この「真説宮本武蔵」は、へんに背伸びして書いているところがあるね。でもね、司馬も当時はまだ四十歳ちょっとか。まあ、若書きということで、赦してやろうよ(笑)。
A――しかし、「武蔵サイト」としては堪忍ならぬ(笑)。
B――この文例は、「武蔵複数説」を否定しての言だな。五味康祐の『二人の武蔵』はたしかもう出ていたはずだね(昭和三十一〜二年読売新聞連載)。ようするに、この一文から知れるが、司馬はかなり嫉妬症のようだね。《従ってこれほどの天才は、一人しかいなかった。あたりまえのことだろう》と、まるで唾棄するすように書いている。
C――それとだね、《幸庵は、長崎から明国船に乗り、国禁をおかしてひそかに明国に渡ってしまったからである。幸庵は、その後三十年、日本にもどらなかった》と知ったかぶりで書いたのはいいが、幸庵対話には四十二年在唐、三十年以前帰国、とある(笑)。
A――活字本で読んだのだろ、それならちゃんと書き写せよ。司馬はほんまに数字に弱いなあ(笑)。
C――結局のところ、この『渡辺幸庵対話記』全体の荒唐無稽ぶりをどう始末するのか。四十年以上大陸を放浪して見聞したという記事の方はどうなんだ。このホラ話の荒唐無稽ぶりに言及せずに、それを無視して何の渡辺幸庵か。
B――それとだな、この小説自体の荒唐無稽ぶりを改めて強調しておくべきだろう(笑)。渡辺幸庵が語っていないことを、どんどん捏造しておる。幸庵対話とは無関係の話が大半だよ。このホラ話について言えば、それこそ幸庵以上かもしれん(笑)。けれどね、なにか鬱陶しく卑しく、ジトっと陰湿な、いやーな小説だわな。幸庵のホラ話のような底抜けの明朗さがない。
C――渡辺幸庵を引っ張り出すというのは、渡辺幸庵という人物の面白さとともに、まさしく虚構、フィクションそのものをテーマに徹底して論じうるということだろう。たとえ小説の形態をとっていてもね。
B――それなのに、司馬はこれを逆にノンフィクション仕立てにしてしまった。せっかくの渡辺幸庵なのに、その材料が死んでしまった。司馬には荒唐無稽な存在は描けないということを暴露してしまったのが、この「珍説」武蔵だ。
A――ここまで、任意に司馬の作文を拾ってみたが、他にも難点がいろいろありすぎて、キリがない。こんな駄作に付き合うのは、時間の無駄だ(笑)。そろそろ話をまとめて、切り上げよう。
C――この小説の特徴は、ようするに、武蔵という偶像を引きずりおろし、貶めるためだけに書かれたことだね。この作家は「吉川武蔵」の大衆的人気に嫉妬し、そのあげく、武蔵をただひたすら計算高いケチな卑小な心性の持主として描いた。その妄想形成こそが不条理なんだ。
A――そしてそれが、この作家のメンタリティのプロジェクションだとすれば、これが失敗作というよりも、司馬遼太郎論にとって格好の症例を提示している素材になる、ということですかな、本日の結論は(笑)。
――結局、そういうことのようですね。さて、ちょうど今年は、武蔵の当り年でして(笑)、NHK大河ドラマ「武蔵」が一年続きます。ご覧になっていますか。
A――だいたいは見ている。いちおう武蔵サイトをやっとるしね。今年は阪神が好調だから、見ないこともあるけれど(笑)。まあ、およその感想を言えば、脚本がいけないのか、演出が悪いのか、かなりダレるなあ。新之助は顔面までオーバーアクションで(笑)、かなり疲れるわい、という感じ。
C――ロケが多くて、カメラはなかなかいいと見たが、吉川英治原作は、それはそれでいいから、もっと思い切ったシナリオと演出が必要だな。今回の「武蔵」は井上雄彦の『バガボンド』人気なくしてありえなかったわけだから、もっとエンターテインメントに徹して、アホっぽく、アクション・ムービーにすればよかったと思うね。
A――それも、CGをバリバリに使ってさ、ウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」The Matrix(1999年)でキアヌ・リーヴスが舞ったみたいな手法で。NHKのCG技術ならできるだろうに。
B――まあ、そこまでいかなくても(笑)、せめて「ピンポン」(2002年 曽利文彦監督・松本大洋原作)のアクション・シーンくらいまでにはね、それだとできるだろう。あのコミック版武蔵のおかげで若い連中が見るようになったが、たいていの反応は、ウンザリという感じだね。あまりも『バガボンド』と違いすぎると言う(爆笑)。
A――かつての「アストロ球団」みたく、一イニングに半年かけるほどじゃあないが(笑)、決闘シーンをもっと大幅に脹らませて、少なくとも、一試合最低一月はかけてくれなくては。「武蔵―MUSASHI」としたタイトルが泣こうというもの。
C――それに、本阿弥光悦なんてどうでもいいよ。このフィクションに、ダイエジェティックな必然=必要は何もない。それにキョンキョン〔小泉今日子〕の吉野太夫はなんだ(笑)。ほとんど理解不可能なキャスティングだ。小泉今日子をあんな風に使ってはいけない。それに、個人的な意見を言わせてもらえば、お通は、宮沢りえちゃんにしてもらいたかった(笑)。
A――それは残念なことでした(笑)。しかし、宮沢りえのお通が見たかったという人は、けっこう多い。
C――ほんとうに残念だ(爆笑)。
B――映画でもお通は非常に大事な要素だ。せっかく、宮沢りえがこの間、のっているのにね。ミスキャストだったな。米倉涼子のお通は『バガボンド』のお通だね。米倉は一昨年の「離婚家族」がよかった。これで開花した。しかし「武蔵」の今回は、朱美の方がよいだろう。加藤泰の「宮本武蔵」(1973年)でいうと、倍賞美津子の系統だからね。
A――男優の方では、堤真二の又八は当りだったね。それから、小次郎はTOKIOの松岡昌弘くん、これもいい。少女漫画でも通りそうな美形で、吉川版武蔵に忠実であるかぎり、この配役はよろしい。
B――昔、高倉健の小次郎というのもあったな(笑)。内田吐夢の宮本武蔵五部作中の「巌流島の決斗」(1965年)だ。だけどな、健サンはな、小次郎向きじゃないのよ(笑)。ただね、本当は佐々木巖流は老人だったと、原作をすっかり変えたら、今の年齢の健さん、巖流はイケるかもしれんな。
C――武蔵・小次郎とも、今回は背が高く体格が大きいから、それがいい。男優も肉体的プレゼンスがなければ、武蔵・小次郎はだめだ。内田吐夢が中村錦之助で「武蔵」を撮ったが、いかんせん、錦之助は体が小さすぎた。
B――お通は米倉涼子のように逞しくては話にならないが(笑)、武蔵はデカいほどいい。小次郎は美形でも、最高に殺伐としたキャラクターじゃなきゃいけない。なのに、このNHK「武蔵」の小次郎は何だ、まさにメロドラマの二枚目じゃないか(笑)。脚本も演出も、小次郎をまったくわかっていない。
A――せっかくの松岡小次郎なのに、使い方がなっていない。キャスティングに話を絞れば、男優陣の配役はだいたい合格だが、ただ、渡瀬恒彦の沢庵、これはどうも違うな。
B――まるで違う。むかし笠智衆の沢庵があったが、しかし、これは枯れすぎていた。渡瀬恒彦の沢庵なら、もっと他も候補はあろうに。
C――女優では、かたせ梨乃のお甲がいい。お嬢さんだったが、女優として存在感が出てきた。問題は中村玉緒のおババ、お杉だなあ。
B――それは、だれしも思うね。この重要なキャラを理解していない。それがこの配役に現れている。このおババは、ようするに、山姥の系譜の存在だろ。
C――まさしく、里に下りてきた山姥なんだ。このキャラクターはね、吉川版武蔵のなかで唯一最高のキャラクターなんだ。このデヴォーリング・マザー(devouring mother)、この徹底した《邪悪な母性》、これを導入したという一点で、吉川英治は作家でありうる(笑)。母なるものをここまで邪悪な存在として描きえた小説は、日本ではザラにないのだよ。『宮本武蔵』は読むに堪えない小説だが、それでもたとえ他の全てが否定されるとしても、吉川武蔵は、このアドヴァンテージだけで残る。そこで、この邪悪な母性、これが、お通を引き立てるのだが、これは邪悪であればあるほどいい。ところがだ、中村玉緒のおババは、全くミスキャストだ。
A――それは、中村玉緒が勝新太郎が死んだ後、急にTVで重宝されてコミカルなキャラクターになってしまったから。
C――というよりも、中村玉緒には、どうしても抜けない京風の品〔ひん〕があるからだよ(笑)。何もやっても、関西風庶民のオバハンを演じても、どこかで鴈治郎の娘なんだ。しかも、あの顔では邪悪な母性は演じられない。もっと残酷で邪悪なキャラクターを徹底して演じられる女優でなければね。観客の憎悪の的になって、道を歩くと、方々から石が飛んでくるほどになれば、このお杉役は成功なんだ(笑)。少なくとも吉川英治の原作は、そこまで行っているぜ。
B――その通りだな。吉川武蔵は、武蔵・小次郎の対決が焦点なのではなく、実は、このお杉という邪悪な母性と、救いようのないほど犠牲的な処女性との対決という、女同士の対立を基軸にした物語なんだ。この限りにおいて、吉川武蔵は民話の基本構造を具備していて、その王道を踏んでいるわけだ。これを読み取らねば、吉川英治の原作を読んだことにはならない。
C――そう。さっき決闘シーンをCGをバリバリに使ったアクション・ドラマにしたらいいという話をしたが、もう一方でこの、邪悪な母性と無垢な処女性というアルカイックな対立構造を、もう呆れるほど徹底して貫徹すればよかったのだよ。まさしく、一年の長丁場、反復に耐えうる要素は、決闘シーンと、この女同士の根源的対立だろう。
A――とりあえず、NHK大河ドラマの感想はそのあたりでしょうかな。もうひとつ視聴率が稼げないのは、若者受けする手筈がなかったことだ。何か、中途半端になっている。TV連続ドラマは、映画とはちがうそれなりのエンターテインメントのロジックがあるはず。それをまだつかみ損ねている、というところだね。
B――かねがね、NHK大河ドラマには、ぜひ『源氏物語』をやらせてみたいと思っておるが(笑)。『源氏』なら連続二年でもやれるだろう。しかしだ、こんなレベルの演出家しかいないとなると、危なくてやらせられないね。
C――まじめな話、NHKは大河ドラマの演出に、それなりの映画監督に委嘱すべきじゃないか。才能もセンスもないのに、内輪で演出を握りこんでいてはダメだ。このままだと、ますますひどくなりそうだ。大河ドラマという貴重なNHK名物をむしろ外部へ開放すべきだし、それも、今回の「武蔵」のような作品なら、若い映画監督に撮らせてみるしか手はないよ。



NHK大河ドラマ「武蔵」
武蔵 市川新之助




お通 米倉涼子


お篠 宮沢りえ


お甲 かたせ梨乃


お杉 中村玉緒



Yahoo Internet Guide Japan
2003年4月号




Go to the New Series:
 武蔵の五輪書を読む 
――では、最後に、この武蔵サイトは、本年一月にスタートし三ヶ月を経過しました。その間、このハードな内容にも関らず(笑)、予想外のアクセス数がありました。Yahoo! Internet Guide Japanの四月号で紹介されましたね。
A――Yahoo! Internet Guideの掲載は、今年が「武蔵の年」ということだろう。あの記事をみると、最近武蔵サイトは増えたと思ったが、案外、まだまだ少ないという感じがしたね。
B――この「宮本武蔵」のような研究サイトがもっと出なければならない。このインターネット領域では、まだ研究サイトの状況は黎明期だな。
――それから、この「宮本武蔵」サイトでは、すでにスタートしているプロジェクトの他に、《武蔵の五輪書を読む》というシリーズが始まりました。
C――最初は、[資料篇]に収めるつもりだったが、当初から予想していたごとく、やっている内に作業はどんどん膨らんで行った。解題にもあるように、読解作業はテクストを読むだけではなく、読むテクスト自体を生産するというところまで、行ってしまったのだね。それが五輪書研究会版『五輪書』テクスト。
B――これは、多少予想はしていたが、依拠すべきテクストがないという結論に達するまでには時間がかかった。だから、結局、予想外のことをやっているわけだ。
A――それで、播磨武蔵研究会と五輪書研究会はどういう関係か、というと、オーヴァーラップする部分があるが、それぞれ専門があるわけだから、多少ずれている。ようするに、「モーニング娘。のユニット」なんだよ(笑)。それはそれでいいし、もし、五輪書研究会の分量が大きくなれば、サイトを分化させていってもいいじゃないかと思う。
――「武蔵事典」の話もありましたね。
A――それは最初からあった。作業は徐々に進んでいる。大事典は目指さず、小事典にするが、かなりユニークなディクショナリーになりそうだね。これは、乞うご期待だ。
C――この武蔵研究プロジェクトの困ったことは(笑)、次から次へやることが増えることだ。それぞれ何十年という蓄積があるから、成果を持ち寄れば、それなりの水準のものは立ちどころにできるが、それだけでは面白くない。ウェブ・サイトの面白いのは、リアルタイムの同時進行だ。すでに出たものでも、どんどん変更要素が生まれてくる。
B――それが、ハードコピーの書物とは違うところだね。つねにヴァージョンは改められ、生長するというわけだ。
A――そういう意味で、サイトはつねに変貌し、進化するというわけだ。この研究プロジェクトが最終的にどんなものになるか、誰にも分かっていない、ということろが、面白いのだね。
――そんなところで、お時間がきたようです。次回はまた、別のテーマで続きをお願いしましょう。
(2003年5月吉日)


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