坐談・宮本武蔵
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生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。 (五輪書・地之巻)
04 「MUSASHI記念」武蔵本大書評会  Back   Next 
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――新年おめでとうございます。このサイトは昨年、平成十五年の立ち上げで、二月以来公開しておりましたが、年末にはアクセス累計が六万を超えて、こんな硬い研究サイトにもかかわらず、寄りつきが予想外に多くありました。そろそろ一周年、というわけで今回は、前回でお約束の、武蔵本を批評するということで、お集まりいただきました。趣旨は、というと、昨年NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」があり、それを当て込んで、二〇〇二年末から翌年前半にかけて出版ブームがおき、多くの武蔵本が店頭にあふれました。そこで、この坐談武蔵の四回目にあたって、これら武蔵本を総覧批評するということです。
A――しかし非常に迷惑した。おかげで正月休みがパーになった。どうしてくれるんだ(笑)。
――それはまことに申し訳ないことをしました。
B――やれやれ。もっと生産的なことならよいが、まったく消耗な仕事だぜ。
――申し訳ありません。ですが、これはどうしてもやっておくべきことでしょう。次回の武蔵本ブームがいつになるかは知りませんが、とにかく、同じ愚を繰り返してもらわないためにも必要なことです。
C――それは、あまり説得力がない理由だ(笑)。

【Case 1-1】
 実を言えば、世上に流布している武蔵論に私は不満をもっている。吉川武蔵≠フおかげで作州生誕説があまりにも根強いからである。それは、播州生誕説を否定するだけでなく、宮本武蔵が田原家貞の次男であり、親戚の新免無二の養子となった、という史実、さらに養子の伊織が武蔵の実兄である久光の三男であるという史実を否定するものだからである。
 宮本武蔵を調べ始めてから、ずいぶん時間がたったが、史実を虚心坦懐に追っていけば、作州生誕説は訂正されなければならない、と思うようになった。そのきっかけは美術史家であり武蔵研究の第一人者であった故丸岡宗男氏に、何度もインタビューしご教示を賜ったときに言われた「一次史料を追っていけば、おのずと結論は明らかですよ」という言葉であった。その間、武蔵の養子、伊織の子孫である宮本信男氏、伊織の弟である小原玄昌の子孫である小原尚之氏の知遇を得て、それは確信になった。

【Case 1-2】
 それにしても、常識的にいって、武蔵と同時代の、しかも、もっとも近親であった伊織が書いた家系図(現在のものは八代目の伊織が書き直している)を否定して、宮本家と関係のない平田家の、原本もない明治時代の家系図の写しを闇雲に正しいとする根拠は薄弱である。







 4 0 点 


――これも世のため、人のため(笑)。では、皮切りに、小島英熙著『宮本武蔵の真実』(ちくま新書・2002年)。これは今回の武蔵本出版ブームで、いちばん売れたものの一つでしたか。
B――それはどうか知らないが、今回の武蔵本出版ブームの最初に売れていたね。しかし、とくに目新しいオリジナルの要素は一つとしてない。中身もかなり薄い。おっと、ここで書評会の原則を確認しておきたいのだが、取上げる予定の本の数に対して時間があまりないし、ここはそれぞれの本の問題点を挙げていくということで、どうかね。
A――我々はだれも暇人じゃないから(笑)、いちいち誉めたりはしないが、それぞれの長所はあるのはわかっている。とくに言うべきほどのことでなければ、それは当然だという前提だね。
C――それでよい。欠点をあげつらうことになるかもしれないが、それは宿題を指摘したと考えていただこう。――さて、この新書版の本だが、武蔵について一通りの概観を与えるという書き方だね。着想は悪くないが、率直な感想を言えば、どれもこれも突込みが足りなくて内容が薄いな。
B――武蔵論もいちおう概観しておる。直木菊池論争、それに小林秀雄や坂口安吾まで言及しているが、それでどうだというと、何もない。しかも、この本をみると、丸岡宗男をバックにしているかのようだな。まるで研究史が丸岡にはじまるかのようだ(笑)。
A――生前、丸岡にインタビューしたことがあるというだけだ。著者は、宮本武蔵を調べ始めてから、ずいぶん時間がたったなんて言っているが、内容を見ると「ほんとかね」と半畳を入れたくなる。しかし、一九四五年生れというから若いな。よく知らずに書いているわけだ。
C――そうだね、泊神社棟札について、どう書いているかというと、丸岡が発見して世に広めた、そんな書き方な。しかもそれが何と、昭和四十五年の話だ(笑)。若いから何も知らないようだが、研究史についてもっと正確に書かなくてはいかん。
B――それにしても、武蔵が田原甚右衛門の二男で、米田村生まれ、ということが「史実」だと書いているのは、これは妄説だね。これを史実というからには、先人の説を明確に提示するか、そうでなければ自分で論証しなければならない。そんなことは一つもやっていない。
A――だから中身が薄い。九州で宮本家系図をありがたく拝見させてもらったというだけでしかない。それ以上の突っ込みは何もない。武蔵産地播州米田村説の広報パンフ(笑)。
C――まあ、いまだに作州宮本村説を書いているやつがいるんだから、こういうスカスカの内容の本でも出ることに意味があるかもしれない。この手の播州米田村説が今回かなり出てきたな。風向きがだいぶ変ってきたと言える。こういう変化じたいは悪くはない。これまで、あまりにもお粗末な状況だったからね。しかし、こいつは、伊織が小倉宮本家系図を書いたなどと、うわ言みたいなことを書いているな(笑)。
B――そのあたりはどうしようもない、手がつけられない(笑)。「原本もない家系図の写し」ということでは、宮本家系図も同様だぜ。これは、目クソ鼻クソを嗤うの類だな。播州米田村説を主張する連中の通例だが、まるで論証能力がない。
A――タイトルは『宮本武蔵の真実』だが、真実は何もない(笑)。そんなところで、これはもういいのではないかな。
――それでは、この本について、ご採点は?
B――他の類似本に比べて啓蒙性があったという点で、40点やってもよいかな。気前がよすぎるかい。
C――それは、甘いなあ。だがまあ、いいか。(笑)
――ではここで、魚住孝至著『宮本武蔵 日本人の道』(ペリカン社 2002年)に行きましょう。これは今回初版のものですね。大冊の研究書という体裁です。
B――このサブタイトルの、「日本人の道」というのが、よくわからん話だが(笑)、武蔵の研究書ということでは、評価してよい。労作だね。労作は労作だが、その努力に見合った結果が出ているか、となると、そうではない。
C――たしかに後半の資料篇は、よく調べていて、それなりの水準に達しているが、前半の伝記部分は、これは、なかった方がよかった(笑)。この本は資料篇だけでよかったのじゃないか。
B――もちろん、その通りだ。資料篇だけにして、翻刻を中心にした研究書として出せばよかった。前半の伝記部分もそうだが、五輪書解説も不要だね。出すほどの内容ではない。
A――こいつは武蔵産地播州米田村説だね。武蔵は、田原甚右衛門の二男、印南郡米田村に生れて、それから作州の新免へ養子に行った。こう考えれば、作州宮本村説との矛盾はなくなるというわけだ。しかし、そう簡単に矛盾を解消してもらっちゃ困るぞ(笑)。
B――作州宮本村説では、『東作誌』に書いてあるように、あくまでも武蔵は平田武仁の実子だよ。播州の田原氏の生れなんぞではない。
C――播州米田村説は地元播州の史料が典拠ではない。九州小倉の宮本家伝書が根拠だな。むろん、この十九世紀に作成された新作文書を根拠とするには、いろいろ無理がある。作成時期が新しいというだけではなく、だいいち、この文書の内容が厳密な史料批判に耐えないものだ。武蔵が田原甚右衛門の子だとすると、京都深草(宝塔寺)の墓誌から時期が合わない。それがこの資料の欠格事由だね。ところがだ、この根本的な欠陥を著者がどう正当化するかといえば、墓碑の方が間違っている、《祖父母、すなわち武蔵の父母の墓碑の没年は誤っているのである》(笑)。それにもうひとつは、内容に矛盾があるからこそ、信じられる、という論法だ(笑)。
A――不合理ゆえに、吾信ず(笑)。
B――そういう《Credo》の世界だ。そういう「信」を表白してしまっておるから、手がつけられない(笑)。肝心なポイントで、そんな「不合理ゆえに、吾信ず」を表白する以上、論証を抛棄しているわけだ。
A――ところが、作州産地説の、平田武仁の没年と武蔵の生年の矛盾問題は、槍玉にあげる(笑)。だから恣意的な話の運びですわな。
C――同じようなことは他にもあるね。《武蔵の養父が仕えた美作の新免氏は、関ヶ原の戦いでは西軍方主力となった宇喜田秀家の配下で戦った。資料はないが、武蔵も、当然養父に同行してこの軍勢にいたはずである》という(笑)。「資料はないが、当然…はずである」という論述パターンだね。こうなると、もうお手上げだな(笑)。
A――しかも、播州米田村を武蔵産地にする割には、新免無二が天正年間に無嗣で死んだ、という泊神社棟札の記事を尊重しない。あちこちで出た「無二之助一真」名の伝書を拾って、新免無二をどんどん延命させている。
C――それは昔からあった説話パターンだよ。とくにこれに限ったことではない。ただし、同じ過ちの反復ということだ(笑)。
B――武蔵は宇喜多の主力軍の中にあって行動したとしている、とはアホなことを書いたものだ。だけど、『武公伝』には、「慶長五年七月、伏見城ヲ踏ム。八月濃州岐阜城攻。九月十五日関ヶ原合戦」とあるのみ。
A――岐阜城を攻めたのは、東軍・西軍のどっちだ、という基本的知識もない。それに第一、武蔵は宇喜多の主力軍の中にあって行動したなんて、『武公伝』にそんな話はない。もう一度『武公伝』を読みなおせ(笑)。
C――そのほか、この本では、九州筑前の「新免氏系譜」などという内容がデタラメな文書を拾って、根拠資料にしたりする。これなど、美作のことをまったく知らない九州の子孫が書いたものだぜ。
A――なんと「播州吉野郡」とある例の文書だね。先祖の本拠地さえ知らない末孫。まったく悲惨な文書だ(笑)。
B――成立時期が新しいものを、無理やり根拠資料とする例は他にもあるね。明治になって伝写されたというテクスト断片を取り上げて、これを「兵法書付」と名づけて、話に組み込むとか。これも無理な操作だね。
C――それは、龍野の多田円明流の『兵道鏡』の扱いにしても同様だ。これが「義輕」もしくは「義恆」名の文書であって、武蔵とは別人の作であることは明らかなのに、そういうものを無批判に根拠資料にする。
B――「宮本武蔵守義軽」、《この人物は若き武蔵(玄信)だと断ずることができるのである(資料篇第一篇第一章第一節に詳述)》と書いておるが、その当該箇処には何も「詳述」されておらん。断定だけがある(笑)。
A――その多田円明流の、「義輕」「義恆」という名は、ほんとうは「義經」でしょうが。「武蔵」「義經」とくれば、そこに「弁慶」という隠し名がある。ようするに本来はパロディ文書ですな(笑)。
B――『撃劍叢談』の著者・三上元龍は、播磨の隣の備前池田家中の人だね。おそらくこの龍野の『兵道鏡』を見て、『撃劍叢談』で武蔵の名を「義恆」と訂正した。従来の「宮本武蔵政名」は間違いで、「宮本武蔵義恆」が正しいとね。『撃劍叢談』はそういう具合に訂正した。しかし、この訂正で知れるのは、「宮本武蔵義恆」の登場が「宮本武蔵政名」よりも後で、せいぜい十八世紀後期だということだ。それ以前は「宮本武蔵義恆」は知られていなかった、というよりも、多田円明流の『兵道鏡』そのものが新しいということだ。
C――『兵道鏡』はむろん写しだが、円明流内部で慶長年間の文書として捏造しておるな。こういうことはよくあることだ。後に安芸へ行って「円水流」になるが、内容からすると龍野の多田円明流は、「目録」を見ると新当流あたりに近い系統の流派だね。「宮本武蔵義恆」が実在だとすれば、それは新免武蔵とは別人だ。
A――それと、この本で著者が拾って「兵法書付」と名づけた明治の写本(宮本武蔵兵法皆伝書付)は、その内容からすれば、五輪書や三十九箇条兵書などを見て抜粋して編集したものだ。これを、五輪書以前に書かれた文書と位置づけるのは、順序が逆だ。
B――だいだいだな、「まいった」なんて掛け声がある、なんてことを武蔵が書くわけがない(笑)。せいぜい十八世紀の産物だな。
C――たぶん若狭小浜の武蔵流あたりが出所の文書だろう。しかし、著者がこの本で提示している、『兵道鏡』→「兵法書付」→「兵法三十五箇条」→『五輪書』という発展段階説は、無理やりのこじつけだね。そういう筋書きを仮構するには、もっと論証の手続きを踏まなければいけない。ぜんたいこの著者は、資料の成立時期の問題を無視する傾向がある。
B――小倉の宮本家文書の扱いにしても同じだな。史料批判には作成時期が大きな要件だが、これも都合のよいところだけ、つまみ食いしておる。文書に書いてあれば、それしかないという思い込み、無批判な取り込み、史料操作が恣意的だ。
C――この著者は「五方之太刀道」を武蔵真筆と見なしているが、そうだろうか。この無署名テクスト断片を武蔵自筆とする根拠は薄いな。「断定できると思われる」と言う、その「思われる」という婉曲で主観の部分は消去できまい。
A――寺尾系の歴史は、これから洗い直す研究が必要ですな。五輪書テクストが現存『五輪書』になるまでのプロセス、これはまだよくわからないから。恣意的な史料操作ではそれが不明になるばかりだ。
C――それもあるが、いわば武蔵研究史への認識がない。さきほどの、武蔵が播州の田原氏から作州へ養子に行ったという筋書きも、富永(堅吾)や原田(夢果史)など九州ローカルな所説の亜流だね。あるいは、泊神社の棟札が昭和三十六年に「発見」されたとか言うがね、この棟札が昔から知られていた事実を知らない。
B――大正時代の『印南郡誌』(大正五年刊)には棟札全文が収録されて、とっくに活字化されている。だけど、そんなことさえ知らない。最近武蔵本を書いておるのは、まったく素人だらけだ(笑)。ようするに、武蔵研究史を知らないようだが、この本の著者はどういう人かね。
A――よくわからないが、武道史研究者かな。ここに一九五三年生まれとある。若いねえ。
B――それじゃあ、知らないわけだ(笑)。
C――若いからね、《最近、伊織兄弟が建立した祖父母と父母の墓碑の存在が知られるようになると》、などと書く。そんなものは大昔から知られていたよ。研究史の蓄積、研究史の常識は踏まえてもらわなくては困る(笑)。
B――基本的な勉強が足らんな。細かい話になるが、この本の後の方で出している武蔵作品の整理鑑定ね、そこで文禮周郁を一貫して「周都」と誤記している。これは校正ミスじゃないなあ。
C――そう思い込んでいるのかな。しかし誰にも間違いはある、大目に見よう(笑)。
A――では、いちおう整理しておくと(笑)、ここでいう武蔵産地播州米田村説には根拠はない。従来の同類諸説以上に新しいものはない。あるとすれば、「不合理ゆえに、吾信ず」を表明した点だ(笑)。それでは、批判のしようがない(笑)。
C――ただしね、この本ならまだ論議のしようはある。今回出たほとんどの武蔵本は、他人の書いたものをチョイチョイとつまんで一本にした便乗本でしかない。うんざりする論評以前のゴミばかりだ。だから、この本のような研究書は、研究書だというだけで評価しなければならない。しかしこれも、悲惨な状況だが(笑)。
――はい、そういうわけで、この本のご採点は?
B――その成果は別にして、手間をかけている努力の書ということで、70点では。
C――それは少し甘い気がするな。前半の伝記部分がなければ、70点でもよいが。
A――今後こんなレベルの研究がどんどん出てきてほしい。ゆえに、瑕疵はあっても奨励賞ということで、70点。それでよいでしょう(笑)。

【Case 2-1】
 この系図は、『宮本家正統記』に拠ると、伊織から八代目の宮本貞章が、伝世の系図が痛んだので、弘化三年(一八四六)に「古き系図の伝書」をまとめて書き上げたものである。
 最近、伊織兄弟が建立した祖父母と父母の墓碑の存在が知られるようになると、祖父母すなわち武蔵から言うと父母の墓碑には、系図と同じ没年月が刻されていることが判明した。同時に建てた父母の墓碑に刻まれた没年と享年から計算すれば、父すなわち武蔵の兄になる久光は天正六年生まれであり、やはりその父母の没後に誕生したというおかしなことになるので、祖父母、すなわち武蔵の父母の墓碑の没年は誤っているのである。
 この墓碑は、伊織の長兄が長らく江戸に出ていて居なかったので、実家を出て久しい伊織と母の実家を継いだ弟によって、父母の没後に、それぞれの墓参に都合のよい京都と三木の地に建てられた。年を記すのに、今日の西暦の如く通した年号はなく、祖父母の没年は八代も前の元号であったので、計算すれば実の父の生年とも齟齬することに気づかなかったのであろう。祖父母の没年とする天正初期は、播磨の地が織田信長の軍に蹂躙される以前で、田原家が武士として盛んであった時期である。その時のおそらく曾祖父母の戒名と没年月日を伊織らは記憶していたので、それを誤って祖父母のものとして墓碑に刻んだのではないか。
 棟札や墓碑が知られるようになった今日、武蔵の誕生の年が父母の没年の後になっているという誤りがあるというだけで、「宮本家系図」の信憑性を全て否定することはできない。かえってこの誤りが、「宮本家系図」が伊織以来の古伝に忠実であったことを示していると言えるのである。
  (中 略)
 「宮本家系図」は、武蔵が父母の没後に生まれたという矛盾のために信用されてこなかったが、先にみたように、この誤りも伊織以来の古伝に忠実だったからであった。武蔵の兄の久光には没年と享年だけで生年は記されていないのに、武蔵には父母の没年と齟齬するにもかかわらず、生年の記載があることは、この年号が古くからの言い伝えであったので、それをそのまま記したからではないか。
 武蔵の生年を確定できる資料は他にはないので、「宮本家系図」の所伝に従って、天正十年(一五八二)に生まれたとすることにする。

【Case 2-2】
 武蔵の養父が仕えた美作の新免氏は、関ヶ原の戦いでは西軍方主力となった宇喜田秀家の配下で戦った。資料はないが、武蔵も、当然養父に同行してこの軍勢にいたはずである。
 『武公伝』は「慶長五年七月、伏見城ヲ踏ム。八月濃州岐阜城攻。九月十五日関ヶ原合戦」と書いており、武蔵は宇喜多の主力軍の中にあって行動したとしている。

【Case 2-3】
 『兵道鏡』と題する写本が、最近までに六本発見されている。最も古いものは、慶長十年発給の二十八箇条の多田家本である。この二年後、増補して上下二巻三十箇条のものにしたらしい。大正四年の『武術叢書』以来、『円明流剣法書』として公刊されていたのは、増補版の上巻のみの、しかも冒頭一枚(一二〇字程度)分と奥付の年記を欠いた写本であった。発給者は、いずれも「宮本武蔵守義軽」であり、後年の名乗りの「玄信」とは異なるが、これら写本の伝来経緯と内容分析、さらにこの名乗りの他の伝来物の存在等から、この人物は若き武蔵(玄信)だと断ずることができるのである(資料篇第一篇第一章第一節に詳述)。









【Case 2-4】
〔五方之太刀道〕原本は、やや茶色味がかった厚手の楮紙二枚を継いだ長紙(二九・○×一四八・八センチ)で、紙質からみて江戸初期のものと思われる。現在は表装されているが、元来は軸もなく巻かれていたらしく、折り跡が目につく古びたものである。
 標題・奥書・署名はなく、三百六十一字の漢文が流麗な筆で書かれ、末尾に本文より一行あけて「五方之太刀道」と端書きされている(図-原本写真)。
 上質の墨を使って浄書されており、墨色も黒々として鮮明で、訂正加筆の箇所はない。原本の書跡を、武蔵自筆と確定している他の書と比較して、共通の字を抜き出してみると、図2のようになる。別の書き方をした字は数例あるが、それでもそれぞれ性格を異にした書を通じて、これだけ多くの字に、全く同じ崩し方、同じ書き癖が認められ、全体の雰囲気にも共通したものが看取される。
 内容が『五輪書』に直結するものであることは、第一部第四章第五節に詳述した通りである。
 この書を寺尾求馬助信行が武蔵から譲られたことは、求馬助自身の相伝奥書(前節参照)、新免弁助信盛の次に言う注釈書や、豊田正剛の『武公伝』等に書かれており、かつ明治まで寺尾家に相伝していたことも合わせて考えると、事実と言える。
 以上、紙質・書跡・内容・相伝経緯も全て確かであるので、原本は伝承通り宮本武蔵の自筆のものであると断定できると思われる。








 7 0 点 


【Case 3-1】
 ていねいな写本は倉皇たる写本より貴重である。「楠家本」は、他に比して慎重であり写本の文字の美しさは内容の正確さにほぼ正比例する。慎重に写し取ったということはそのまま、原本の正確な受け止めという証拠にもなる。(松延市次・『五輪書』を国語学的に読む)

【Case 3-2】
 「守」は、往昔の官位名であり、武蔵がその官位を得たという傍証はない。もし自称したのならそれは詐称であり、武蔵の人格に関わる。武士社会でそのようなことが許されるはずがないのである。
 巷間に流布した細川家本では、序文中にのみ「新免武蔵守藤原玄信」とあり、各巻末署名は全て「新免武蔵」である。つまり序文中にのみ「守」がある。
 ところが最も誤写率が低く、正確であるはずの楠家本では、序文中は「新免武蔵守藤原玄信」で、各巻末署名は全て「新免武蔵守玄信」と全てに「守」が記されている。武蔵は本文中で、世の中の矩、つまり規範についての心得もきちんと説いているのだ。それにも拘らず世の中の矩に外れた表記はどうしたことか。
 武蔵が「守」を詐称するような卑俗な人格でないとして、ここから推理すると次のようになろうか。
 武蔵が自筆したのは、序文を除く地水火風空の五巻のみ(A)。原本所在不明。但し、空の巻については、武蔵の言質の断片を寺尾がつぎはぎ構成したのではないかと思える。何となく不自然さを感じる。しかし、この論議については私の出る幕ではないので、そのまま素直に受け取って置く。(松井健二・「五輪書」試論)






 6 0 点 


――それでは、いかがでしょう、次は同じく大冊の部類になりますが、松延市次・松井健二監修『決定版 宮本武蔵全書』(弓立社 2003年)ですが。
A――これはまたまた、エラい名前をつけたものだ。「決定版」で「宮本武蔵全書」か(笑)。これほどのビッグ・タイトルにするなら、少なくとも二千ページは必要だろう。
B――まったくね。タイトルの付け方は便乗本だな。弓立社はいつからこんな商売をやるようになったんだ(笑)。しかしだ、内容は他の便乗本ほど軽くはない。
A――そうですな、この本のページの半分以上、六割方は楠家本五輪書。それを全文写影版入りで翻刻している。こういう企画の意味は、すこしわかりにくいな。楠家本は以前どこかからコピー版で出ていた。だいたい世に流布しているのが、岩波版の細川家本五輪書、だから対抗的に楠家本五輪書を翻刻して出す、というのはわからないことはないが。
C――松延市次は以前、私家版だが、『五輪書』の諸本対照(「校本五輪書」)を出していたな。以前は四本だったが、それの後に丸岡家本も含めた、七本だったか、いちおうテクスト諸本を網羅できる形のものを。このことで言えば、こういう楠家本だけという中途半端なものじゃなくて、松延の私家版を公刊した方がよかったのじゃないか。
B――同感だ。楠家本は細川家本に劣らないという程度の話だ。諸家が言うほど、楠家本が細川家本よりマシだという事実はない。だから、松延の私家版を元に、『五輪書』の諸本テクストを網羅的に対照できる本を出した方が意義があったな。
A――そういう点では中途半端な本。それに、付け足しの、同時代史料・伝記・武蔵論、これも半端だ。「宮本武蔵全書」の名に値しない。「全書」を称するには、もっと多く資料を掲載すべきですわな。
B――同時代史料が、小倉碑文は別にして、林羅山の賛と「渡辺幸庵対話」というのでは、これは不足どころじゃない。他にも同等以上の史料があるのに、なぜこれだけか、なぜこれなのか、選択の意図が不明だ。
A――選択が恣意的。まったくコンプリートから程遠いね。そういうことからすると、この「宮本武蔵全書」というのは不当表示だ(笑)。
C――それと、収録論文が問題だね。松延論文(『五輪書』を国語学的に読む)でいうと、写本の文字の美しさは内容の正確さにほぼ正比例する、だから楠家本はオリジナルに忠実な正確な写本だとするのは、いただけない。話が杜撰だ。
A――松井論文(「五輪書」試論)は少しひどいな(笑)。武蔵守という職名表記を、フォーマルなものだと錯覚して、武蔵がそんな「守」を詐称するような卑俗な人格でないときたものだ(笑)。
B――「武蔵守」ってのが憚りがあるとすれば、江戸の将軍に対してだ。たしかに、池田輝政の息子利隆以後は武蔵守はいない。天皇制官職だとすれば、在野の人間がそんな「詐称」をするわけがないのは、あたりまえだろう。ところがだ、大工や刀鍛冶などを見てもわかるが、「○○守」が職人の呼称で使用された事例はいくらもある。武蔵の新免武蔵守という名、これは官職の武蔵守とは違う社会慣習としての職名だ。それを知らないのは無知と言うほかない。
C――そうだな。そんなことをいまだに書いているやつは他にもいるな。しかし、同じような話だが、松井論文に、武蔵は二刀一流を名のったのであって、『五輪書』に「二天一流」とあるのは後人の改竄だとするのは、これも根拠のない臆断だな。
A――この本の編集は宮下和夫のようだが、「宮本武蔵全書」という以上、もっとまともな論文を収録すべきだった。こういうことも含めて、この本は大いに問題あり、ということですな。
――はい、それではご採点は?
C――まあ、50点というところだろうが、イージーな便乗本が多いなか、こんな硬い本を出したということで、功労賞。大負けに負けて、60点でどうだ。
B――大負けに負けて、という条件つきなら、異論はない(笑)。
――さて次は、前田英樹著『宮本武蔵『五輪書』の哲学』(岩波書店 2003年)ですね。これはどうでしょうか。
A――『五輪書』の「哲学」と来たかい。さすが、岩波だ(笑)。
C――ただ、今回のゴミだらけの便乗本の洪水のなかで見れば、こいつは『五輪書』をよく読み込んでいる。今後、こういうレベルのものがもっと出なければいかんな。
B――そういう意味では、やっと何とか「五輪書論」と呼べるものが出てきた、というところだ。しかし我々の武蔵学に、こういう「哲学科」は必要かな(笑)。
C――そこが、それ、問題なんだ(笑)。この本は「哲学」というが、我々なら、古臭い死語かもしれないが、「思想」という。そこが違いのあるところだね。
A――ことさらに「哲学」というのは、何か意味があるのですかな。
C――そういうわけじゃなかろうが、「剣禅一如」といった戦前戦後の精神主義的な『五輪書』の読み方に対するアンチテーゼだろ、これは。
B――しかし、こいつは「剣禅一如」は否定するが、「刀身一如」とか言うぜ(笑)。
C――そこが、それ、こいつの問題なんだ(笑)。結局、「岩波文化」のどうしようもない血脈だね。それよりも、哲学と言いながら、あまり明晰な文章じゃないのは、これも困ったものだ。たとえば、「利方」〔りかた〕の解説にしても、胡乱な話になって、うろうろしておる(笑)。武蔵の書いたものはあれほど明晰なのに、こいつの解説にかかると、どうも明晰とは程遠いものになる。
B――それに、「深さ」ね(笑)。武蔵の『五輪書』は、道に「奥」も「表」もないと明確に言明して、そういう偽のパースペクティヴを廃棄しておったはずだ。
C――武蔵の思想は、明らかに「反哲学」だ。
A――「深さ」、それが「哲学的」ということ(笑)。しかし、この本のあちこちで、ずいぶん、歌っていますなあ。
B――陶酔的にな(笑)。モノローグというよりも、こういうナルシシスティックな文体は、「哲学的」ではない。戦前の五輪書論と、実はかなり似てしまっている。
C――そういう、歌って滑ってしまっているところね、これが辟易させるところだね。そういう難点はあるが、もう一つ、当理流だ、『兵道鏡』だという話になると、これは武蔵研究をよく知らないな、とわかるね。前に出た魚住孝至著『宮本武蔵 日本人の道』をえらく持ち上げているがねえ。
A――《魚住氏のこの本は、文献批判を備えた学術研究書として第一級のものである。今後、武蔵研究を志す人にとって必携の書物と言える》、それほど大げさに褒めるほどのものじゃない(笑)。
C――まあ、もうすこし、自分できちんと勉強してみることだ。
――はい。それで、この本のご採点は?
C――これまでしばらく出なかったレベルの五輪書哲学本ということは評価するが、歌いすぎるという瑕疵があるから、60点。どうかね。
B――それが妥当だ。

【Case 4-1】
 刀法に通暁していない軍学者の軍法は、武蔵の言う「実の道」としての兵法とは著しく異なったものになる。そういう軍法は、刀法を必要としておらず、刀による実在との接触も必要としていない。この場合、実在とはまず何よりも生きて動く他人のことにほかなりません。重要なことは、刀を執っての切り合いに達者であることでも、単に戦での軍略に長けていることでもない。刀によって刀=身の結合した新たな身体を得ること、その身体の働きによって他人を知り、人と人との動きの諸関係を知り、その諸関係を成り立たせる諸関係の一切を知る。知ることは、すなわち制することです。制することは、すなわち「利方」を得ることです。武蔵はこの世界のそういう知り方を、「勝つ」という、まったく彼独自の言い方で表現しているわけです。
 そういうことですから、「実の道」において「勝つ」とは、〈真理〉と呼ばれるもののもっと正確な言い方だと断言しても差し支えない。真理を求めるのは、それを知らないからである。だが、それを前もって知っているのでないなら、誰も真理を探し始めたりはしないだろう。一体、真理とは何か。これは、古くからある哲学的論弁のひとつですが、武蔵のプラグマティズムは、こういう議論を一蹴するでしょう。この世のどこかに真理というものがあるのではない、誰かが気まぐれにその探求を思いつくのでもない。この世に生きることは、否応なく求められる。だから、私たちが居る世界には、「利方」を求めて生きることのさまざまな、無数の深さがあるだけだ。「勝つ」ことは、それぞれの深さに対応している、あるいはそれらの深さを現実に作り出すものである。それでよい。「勝つ」ことの根底を究める「実の道」、すなわち兵法が、それらの深さのすべてを照らし出すであろう……。






 6 0 点 


【Case 5-1】
 一説によると、武蔵には兄がいたのだという。
 大原町壬生の墓地に、その墓があるが、それには、平田武仁少輔の嫡子、俗名次郎太夫が八十三歳で万治三年(一六六〇)に死んだという文字があるそうだ。
 逆算すると、天正六年(一五七八)生まれである。武蔵の生年を天正十二年とすれば、六つ上の兄になる。
 どうやら武仁はこの嫡子次郎太夫と、川上村に住んでいたらしい。本位田事件ばかりでなく、乱暴で親にも反抗する武蔵に、ほとほと手を焼いて、宮本屋敷を出たのかもわからない。
 少年一人が、宮本村の広大だが、いくぶん荒れ気味の屋敷に、ほうり出された姿を想像すればいい。武蔵はもっぱら、武仁の後妻、よし子のいる平福村の田住家の客入になっていたというが、そうしなはればならない事情があったと考えられる。
 これはそして、とりもなおさず、少年を出郷させる境遇であったわけだ。
 こんなかれは、父武仁に対してはもとより、たぶん温和な性だと推察される兄次郎太夫も、反感こそあれ、さして肉親の情はもたなかっただろう。あるとすれば、姉おぎんぐらいのものだった。

【Case 5-2】
 もともと、田住家も新免家も、ともに播州大族赤松氏の流れを汲む小豪族である。新免家と血縁関係のある平田家を含め、互いに縁を結んでいた。
 そんななかで、成立したそれぞれの家系図である。どちらにも根拠があることだろうし、いずれが正しいかということは、即断できない。
 ただし、両系図とも、
 1、武蔵を武仁の子とすること。
 2、武蔵が作州宮本で生まれたこと。
 の二点では、共通している。
 はっきりしているのは、
「宮本武蔵は天正のころ、宮本武仁の子として、作州宮本村に生まれた」
 ということである。
 そして、播州、ここでは平福村を指すが、濃密な故郷へのあこがれ意識を抱くなにかがあった、ということだろう。
『五輪書』に、
「生国播磨の武士、新免武蔵藤原玄信」
 とあり、また、小倉の碑文にも、
「播州ノ英産、赤松ノ末葉、新免ノ後裔、武蔵玄信」 と播州生まれを強調しているのをみても、うかがうことができる。
 これはまた、武蔵の幼年時代が、けっして仕合わせではなかったことも示している。母の愛情をあまり受けなかった暗く、寂しい生い立ちである。
 謎は謎として、それが武蔵という人間の形成に、少なからず影響しているようだ。







 3 0 点 


――では、次に、今回初版ではなく再版のものを。今回の武蔵本出版ブームの最初期に出たものとして、戸部新十郎著『考証 宮本武蔵』(PHP文庫 2002年)は、いかがでしょう。この文庫は初版一九九〇年、しかしもともとは一九八一年刊、二十年前に出た単行本ですが、ロングセラーで今回の武蔵本ブームでも早々に店頭に並んだものですね。それで、取り上げてみました。
C――うーん、「考証」なのか、これが(笑)。これは、しかし、吉川英治の随筆武蔵(『随筆宮本武蔵』昭和十四年・三十二年)の域をまったく越えていないなあ。忠実な後継者にすぎない。新味といえば、福原浄泉をパクった部分だけだな。
B――しかも、何の断りもない。綿谷雪の名前はチョロっと出しているがな。だいたい、こいつは吉川英治の亜流、作州宮本村説だろ。武蔵の「兄」の次郎太夫の墓なんて、福原浄泉の研究を見ていないと書けないはずだ。それを頬かむりして、チラチラ小出しにしておる。
C――「一説によると」なんて書いて曖昧にしたつもりだろうが、黙ってパクらずに、見た資料を明確に示せ。けしからんやつだ。つまみ食いしているだけなんだよ。次郎太夫は平田武仁の嫡子で、万治三年(1660)に八十三歳で死んだと、墓誌にある。ところが、『東作誌』が採取した平田家系図では、次郎太夫は平田武仁の子ではなく、武仁の弟・武助の二男、つまり甥になっている。もうそのあたりから、この系図はあやしい。一方、『東作誌』が採取した平尾家系図には、武蔵の名はおろか無二の名さえ出てこない。してみれば、『東作誌』段階の平尾家系図では、武蔵が系譜に入っているという事実はなかったということだ。ところが、この『考証宮本武蔵』はそんなことで平尾家系図すら言及しない。都合の悪いことは明らかにしない。
B――そもそも、平田家系図の取り扱いもいい加減だな。こいつが引用している平田家系図は、『東作誌』が採取したものではない。福原浄泉の研究からパクったもので、明らかに明治以後の作成にかかるものだ。系図でも何でもよいが、資料として取り上げるなら、それがいつ作成されたか、明らかにしなければならない。にもかかわらず、そういう手続きを抜きにして、それがさも古くからあるように見せるのは、けしからんな。
A――武蔵の姉・おぎんというやつね。『東作誌』には、「武蔵姉あり」としか出てこない。それを「おぎん」と名づけたのは、『東作誌』以後のこと。これで、『東作誌』を読んでいるか、いないか、わかる。
C――むろん、平尾与右衛門に嫁したこの「姉」の伝承は平田家側だけの話で、平尾家側では、与右衛門は無仁の妹の息子、つまり武蔵の叔母の子だぜ。こういうことをはじめ、地元伝承に不統一混乱があることを、『東作誌』の著者・正木輝雄がきちんと書いているが、そういうことすら再考してみない。どこが「考証」なんだね。武蔵ファンの兵法家・正木の方が、まだ公正に考証しておるぞ(笑)。
B――元禄二年の古事帳にしても、それがオリジナルではなく写しであること、しかも諸村その記事内容が異なるから、後世文書の刻印は明らかであるにも関わらず、それも言わない。というか、そんなことも知らないで書いておるようだな。それに、庄屋甚右衛門が出した文書を、いわゆる宮本村古事帳と間違えているが、これは『東作誌』下庄村之記の方の記事で拾っている、「平尾氏總領代々書付」という文書じゃないか。この『考証宮本武蔵』のどこに「考証」があるのかね(笑)。
A――考証と言いながら、考証の手続きを踏んでいない。その考証なるものも、結局、明治の宮本武蔵遺跡顕彰会本の域を出ず、『二天記』を根拠に話を進めている。『二天記』より先に書かれた『丹治峯均筆記』にしても、書誌学的に位置づけず、つまみ食いしているだけ。だいたい、『丹治峯均筆記』の別名が「兵法大祖武州玄信公伝」だと書くのが、間違いだね。逆だろう(笑)。
B――しかも「玄信公伝」ではなくて、これは「玄信公伝来」だよ。そして、話が杜撰きわまりないな。《はっきりしているのは、「宮本武蔵は天正のころ、宮本武仁の子として、作州宮本村に生まれた」ということである》、どこがはっきりしてるんだい(笑)。
C――とくに綿谷雪が、武蔵は播磨生れだとあれほど強調したのに、綿谷の名を出しながら、そういう肝心な論点を検証しない。要するに、戦後の武蔵研究の主要なものと言えば、綿谷雪と福原浄泉だぜ。この二人の仕事をきちんと評価検証せずに、戦前の吉川武蔵の亜流でしかない論点を延命させる。そういう機能しかないよ、これは。
A――だから、『考証宮本武蔵』というこのタイトルは過大表示だね(笑)。読者はどんな新機軸の「考証」があるかと期待しても、それは無駄。戦前の論点の焼き直しでしかない。
B――研究史からすれば、反動、退行だな。それに、最悪なのは、この『考証宮本武蔵』という本を、パクる連中がいることだ。今回の武蔵本ブームも、この20年前の本で勉強したやつらが随分出たな。
C――時代は、ますます悪くなる(笑)。
――それで、この本のご採点は?
B――30点。これは甘い点数だと思うかもしれないが、こいつを30点くらいにしておかないと、他の採点に困るからね(笑)。
C――まあ、そういうことだろうな。吉川武蔵の忠実な亜流、ということで、客観的に評価して30点。それ以上のものではない。
A――30点というのは、残しておいてもよいということ。いまだに、こんな本が出回っているぞ、という見本としての機能(笑)。それでよろしいのではないかな。
――では、つづいて同じ版元の、早乙女貢著『新編 実録・宮本武蔵』(PHP文庫 2002年)ですね。これは、奥付をみますと、一九八九年に同じ版元から出した単行本に数編文章を加えて新編とし文庫にしたものらしいですね。
A――焼き直しだね。手持ちの物を流用して早速売りに出す。安易な企画だ。内容を見ると、こんなものを取り上げるのかいね、というひどい代物だな。「実録」というが、間違いだらけで、ほとんど武蔵のことを何も知らずに書いている。
C――実録物というと、昔から、フィクションと相場が決まっておる。
B――いや、「実録」というのは、むかし、俗悪なエロ雑誌のタイトルだったな(笑)。
C――この早乙女貢というのは何者かね?
A――さあ(笑)。小説家なのかな。著書四百冊、とある(笑)。
B――おやおや、粗製濫造マシーンか。読んだことはないが、この本みたいにゴミばかりなんだろう(笑)。論評外ではないかい、こんな本。
C――ま、論評するようにとの仰せだから(笑)、いちおうまじめに言うが、野蛮で粗野な野獣で、俗臭芬々たる、風呂にも入らない臭い武蔵(笑)というのが、こいつの武蔵像だな。
B――それは、しかし、司馬遼太郎の俗物武蔵説のパクリだ。ところが実際は司馬以前への退行。出典は直木三十五(笑)。それで一本デッチあげたというわけだ。
C――司馬遼太郎は文献は一応読んでいる。しかし、こいつはろくに読んでもいない。ほとんど孫引きだな。しかも孫引きの上、しょっちゅう間違っている。柳生但馬守宗矩の名人ぶりの逸話というから見てみるに、これが何と、宗矩の話ではなく、柳生十兵衛の逸話だったりする(笑)。
C――しかも、司馬の武蔵産地作州説をそのままパクって、勝手に話を進めているぞ。その理由がすばらしい。『五輪書』に「生国播磨の武士」と書いている、だから武蔵は武士ではない(笑)。すばらしい論理展開じゃないか。恐れ入るねえ、まさしくフロイトの《Verneinung》だぜ、これは(笑)。
A――そのうえ、ここの《したがって、美作国讃甘宮本(字か?)の出生とするほうが傍証的に信じられる》という論理は、いったい何? 「傍証的に信じられる」とは、論理学半可通の表現だが、いったい白痴が書いているのか(笑)。
C――きっと酔っ払って、意識朦朧状態で書いておるのだろう(笑)。吉岡の話は無知だし伊織批判に至っては妄想の域だ。他にもあるね。《戦後において、マルクス・レーニン主義は太陽の輝きをもっていたが、今日の状況は、それを地獄にしている。共産主義革命を夢見た連中のかつての浅間山荘事件や内ゲバの地獄相は、あまりにも明確にそれを示している》(笑)というのもよくわからん話だね。
B――「浅間山荘事件や内ゲバ」の世代でさえ理解できない、朦朧胡乱な話の振り回しだぜ。ところで、さっきの《美作国讃甘宮本(字か?)》とは、何のこと?
A――さあ(笑)。こういう半可通のすることは、よくわからんですなあ。この本は、「日下無双」に「くさかむそう」と振仮名するわ、「野狐禅」を「のぎつねぜん」と読ませたりするからね、我々の常識を超えている(笑)。その線で、《播磨説の根拠は、母の実家だったという説にある》というが、そんな「播磨説」があったら、教えてもらいたいね(笑)。
B――それは平福のことを言いたいのだろうが、要するに論理的な文章を書けないから、胡乱な話になってしまう。これは田住家文書も見ずに書いているな。
A――あるいは、夢想権之助のこと。夢想権之助という存在を「後人の夢想」にしちまった。神道夢想流杖術のことも知らないようだ。武道史の基本的知識もない。『海上物語』の夢想権之助との対決伝説では、武蔵が揚弓を削っていたことになっているが、こいつは揚弓を楊枝ととり間違えている。
B――粗忽なやつだ。だいいち、わざわざ文庫本新編の後書にも間違いを載せているな。直木三十五・菊池寛論争のことだが、これを、最初、吉川英治が武蔵を称賛した随筆を書いたのを、直木が反論を書いた。それに菊池寛が加わって…と、まったく順序を間違っている。これが「文学史上よく知られている」とは恐れ入った(笑)。
A――しかも、菊池・直木論争の前に、斎藤茂吉・菊池論争があっただろうが。それも知らんらしい。編集者は何をやっておるのか。こんな暴走マシーンなら、内容をチェックすべきだろう。
C――作州宮本村の武蔵屋敷のことでは、三十間四方が大きすぎるというがね、ここに武蔵が住んでいたかどうかは別にしても、この宮本村の構居は三十間四方、九百坪。作州や播州あたりの構としては大きくも小さくもない。ところがこいつは、山里で土地が安かったから大きな屋敷を持てたのだろうと、とんでもないことを言う。
B――だいたいこれは構居なんだぜ。土地を買って構えるようなものじゃない(笑)。それに、新免氏の竹山城だって、五千石で城など持てるわけがないという。それの例証が江戸時代の旗本(笑)。こいつは竹山城址を見たことがないのだろう。立派な戦国期の山城だ。ようするに、戦国史学について何も知らずに書いておる。ほとんどアホだね(笑)。
A――文章もまともに読めない奴のようだ。『五輪書』の「目の玉うごかずして両わきを見ること肝要也」を引いて、その読みが、《両わきには仲間がいる、と安心していると、いつの間にか背いていて、敵に通じているかわからない。正面の敵と対していても、その者の視線や態度で、おのれの両わきの動向を察知することもできるようになる。それだけの気を配っていなければならない、というのである》(爆笑)。そんなことがどこに書いてあるか。
B――「今日は昨日の我に勝り明日は下手に勝ち後は上手に勝つと思ふ」の読みが、《ここには、日々に進歩する姿がある。昨日の自分より、今日の自分が勝っていなければならない。勝るためには、朝鍛夕練である。たとえ、下手な勝ち方であっても、勝ちさえすれば、命はある。その次には上手に勝つことができる。そのために、たゆまぬ努力を重ねるしかない。この努力の日々がすなわち必勝不敗なのだ》(笑)。
C――この「下手に」「上手に」が副詞だと錯覚している。三流高校生の古文読解以下だね(笑)。そもそも、武蔵に関してまったく素人じゃないか。こんな奴に武蔵本を書かせてよいのかね(笑)。出版社の見識を疑うよ。
――では、ご採点は?
A――えっ、これも採点するの? これだけ劣悪な粗製濫造だと、まあ、10点でしょうな。
B――いやいや、そうではない。「実録」という不当表示をしておるから、その分、マイナス10点。
C――しかし、大笑いに笑わせてくれるから、その分、プラス10点(笑)。
B――では、差し引きゼロで、やはり10点だな(笑)。

【Case 6-1】
 『五輪書』にいうところの武蔵は、生国播磨の武士≠ニある。これ自体、すでに、武士、とまず、頭からかぶせている点に疑問がある。武士ではなかったから、武士と断じているのだ。したがって、美作国讃甘宮本(字か?)の出生とするほうが傍証的に信じられる。現在の岡山県英田郡大原町宮本である。播磨説の根拠は、母の実家だったという説にある。

【Case 6-2】
 名家だから、庇護者を失っても三十年くらいは食いつなげるだろうが、兵法所としての権威がつづいていたとは思われないのだ。いうなれば、吉岡家は、名声を支えるのに汲々としていたのではないか。名門意識だけは高かったろうから。
 その命脈を保つためかどうか、吉岡家は紺屋を営んでいた。
 紺屋というと意外に思われるが、憲法染めなる言葉も残っている。しかし、副業をしなければならないというのは、本業だけで生計が保てないことにほかならない。

【Case 6-3】
 もっとも伊織という男は、小倉藩の家老にまで成り上がりながら、おかしなところがある。この撰文のなかに"孝子謹デ建ツ"と彫らせていることだ。どこに自分のことを"孝子"などと口にする者がいるものか。普通なら照れ臭くなって削らせるだろう。
 小倉小笠原家の家老になってまで、"孝子だった"と武蔵を顕彰するついでに自分の名も残したいのか。武蔵の師匠ぶりも、想像されるようである。
 伊織が建てたときは、藩から拝領していた土地だというから、"謹んで建"てるのはいいが、何も"孝子"ぶりを強調することもない。人間の小ささを後世に残すことになってしまったのだ。
 もっともこの伊織という男は、師匠の"偉大"さや"名声"を保持することばかり考え(それは、おのれの価値を高くするという利己的行為でもある)、二代目が初代を礼讃するやり方で、心情的にはわからなくもないが、しかし、データの改竄は困る。

【Case 6-4】
 武蔵が播州に在りしとき、夢想権之助と名乗る兵法者が仕合を望んできた。権之助は大木刀をふるって打ち込もうとしたが、そのとき武蔵は楊枝細工をしていた(楊枝を削っていたのか)。その楊枝の折れを持って武蔵は無雑作に立ち合い、権之助を働かせず≠ニいう。
 こんな話などもいかにも、武蔵の強さを吹聴したいためのものでしかない。夢想権之助などと、名前まで仰々しく実在感がなさすぎる。後人の夢想の所産であろう。

【Case 6-5】
 吉川英治が随筆で武蔵を褒め讃えたのに触発されて、直木三十五が反論を書いた。吉川は、「あんな偉い人のことを悪くいうのはいけない」などと答え、それに菊池寛が加わって論争になったことは文学史上よく知られている。(新編のためのあとがき)

【Case 6-6】
 前記の武蔵の生まれた屋敷というのも、大きすぎると書いたが、家老というから瞞着(ごまかすこと)される。竹山城そのものだって、たかだか五千石ほどの城である。五千石といえば、江戸時代は旗本だ。城など持てるわけがない。知行地があっても陣屋だ。家来は二十人といない。
 戦国時代は、ちょっとましであるが、せいぜい一万石クラスと見てよかろう。家老というより三太夫である。用人、というところだ。それが、千坪もの敷地というのもちょっとおかしい。もっとも、山里で土地が安かったし、せいぜい四、五十戸の村だといえば、まあ納得するしかないが、そうなると、竹山城なるものの規模もおのずから知れようというものだ。







 1 0 点 


【Case 7-1】
 武蔵が馬上から声をかけると、馬子の少年は当意即妙のいかにも利発そうなことばを返してきます。はなしをつづけているうちに武蔵は、その馬子の少年とそのまま別れるのが惜しいような気になります。ついには武蔵は、馬のうえから身を乗りだし、「わしの子にならぬか、後々いい主人をとらせてやろう」と、ささやいたとも『二天記』の筆者は伝えています。
 武蔵の最初の養子・造酒之助との出会いの場面ですが、このあたりの経緯についての諸書の記述には、不思議に齟齬がみられません。少年に美質をみとめる武蔵に、まだ違和感をおぼえない時代でもあったのです。ただし、武蔵には剣客である自身をはばかるふうな、奇妙におずおずとした気配が認められます。
 それにしても「わしの子にならぬか」はいいとしても、「後々いい主人をとらせてやろう」と、目のまえに美味しいものをぶらさげてみせる武蔵の性急には、呆れるほかありません。言う口の下から武蔵の魂胆どころか、舌舐めずりする様子さえうかがわれます。
 いかにも武蔵らしい不器用な一途があらわになってしまっています。はやく言えば、武蔵は美少年をわがものとしたいばかりに、形振りかまわないといった態に、身の立つようにしてやろうと誘いのための褒美まで用意して見せているわけです。
  (中 略)
 造酒之助は忠刻のもとで異例の抜擢を受け、たちまち小姓頭にすすみました。武蔵の後楯を言う向きもありますが、忠刻の寵愛を一身に受けたと見たほうが当たっているでしょう。早くいえばどこの馬の骨ともしれない者が、異例の出世をしたのですから、造酒之助の立身については、すべてが忠刻との仲にあるとする以外には、造酒之助の立身を説明するすべはありません。
 七百石を賜ったところまでの順調はわかっていますが、そのうちに主の忠刻の機嫌を損ずる失態があったのでしょう、造酒之助は主家を辞して江戸で独り暮らしをしています。もっともこれは千姫の目を欺くためのことで、忠刻は江戸出府のあいだも造酒之助をはなせなくて側においたと考えるべきでしょう。忠刻と造酒之助のあいだには、いささかならず淫靡な気配を否定できないのです。

【Case 7-2】
 伊織の昇進の根拠がまた、まったく突き止めようもありません。伊織にはとくべつの才はないのですから、ただ忠真のお気に入りであったと言うよりほかに、昇進できる理由はないといった、はれない疑問だけがのこります。もっとも、伊織は際立った美質であったと伝えられていますし、一種妖しい雰囲気があったとしているものもあります。
 伊織は武蔵とのあいだに隠したいことがあったのか、それとも忠真とのとくべつなかかわりを家中でささやかれるのをおそれたのか、とにかくさまざま隠蔽工作に奔っています。立身するにつれて伊織には、その出自について"どじょう伊織"ではない家系を見せたくなったのでしょう、がむしゃらに強引な理屈をこねてべつに家系をつくります。
  (中 略)
 『小倉碑文』の石碑は伊織が春山和尚に碑文を依頼してできたものです。しかし、養子が養父の顕彰碑を立てた例がほかにあるでしょうか。義理であれ身内の者が碑を立てたということに面妖をおぼえずにはいられません。もし、その企図が純粋に養父を顕彰したい意に発したものだと言うなら、その碑は武蔵終焉の地である熊本か、故国の美作(伊織の説に従うなら播磨か)でなくてはならないはずです。伊織は小倉に碑を立てることで、何を隠そうとしたのでしょう。武蔵や忠真とのあいだの洩れてはならないことを覆い隠すために、武蔵の碑を立てることによって養父の武蔵を大きく見せる必要があったのでしょう。
 二人の養子のことを深追いすると、武蔵が大名たちの歓心をかうために稚児を世話したことにもなりかねないのです。




 3 0 点 


――次にまいります。こんどは、久保三千雄著『謎解き宮本武蔵』(新潮文庫 2003年)です。これは、以前に出ていた新潮選書版『宮本武蔵とは何者だったのか』(1998年)を書き換えた改訂版、タイトルも変えたということですから、新刊とみてよいでしょう。
B――しかし、どれだけ「改良」されたかよくわからんがね(笑)。話の内容は相変わらず、だ。
A――わからない、疑問だと言いつつ、武蔵の実態を暴く、というスタンスでしたな。暴露本の体裁(笑)。
C――直木三十五の路線がね、司馬遼太郎を経由してここまで来てしまうわけだ。しかし、小説で書くなら、フィクションだという弁明もできるが、こういう評伝形式だと、話の出典はどれと決まっておるから、いい加減な話はできない。ところが、こいつは味噌も糞もいっしょくたで、史料批判もできない一方で、奇怪な武蔵像をデッチあげることに血道をあげている。
B――野放図に妄想を展開しておるから、これは評伝というより、ほとんど小説だな。
A――まず、武蔵の出自問題の方から入ると、この本では作州宮本村という陳腐化した説を反復している。ただし、その根拠が面白い。同じ土地で育った者は同じ気質があるはずだという「人国記」の論理、これを持ち出して、法然、武蔵、平沼騏一郎と三人並べて、作州人の血というものを語る。彼らに共通した性格があって、それゆえ武蔵は作州人だとする。
C――まったく前人未踏の思考だ。そんなバカな話を根拠にしたやつはだれもいない(笑)。平沼なら戦前の首相だから、彼を知っておる人もあろうが、武蔵はいうまでもなく、法然なんて、どんな性格か知っている者がいるわけがない。武蔵はこうだ、法然はこうだ、という性格づけは臆測でしかない。そういう部分は歴史は扱わない。歴史が関わるのは行為だけだ。まあ、いずれにしてもこの本は最初から杜撰な話だね。
B――話にならん。そもそも『人国記』は最明寺殿(北条時頼)に仮託された偽書だが、そこには、美作の国の風俗は、百人が九十人は、万事の作法卑劣にして、欲心深く、なんてね、ひどいことが書いてあるぜ(笑)。
A――そういうことなら、司馬遼太郎作の作州産武蔵だ(爆笑)。
C――結局のところ、作州宮本村説を防衛したいがために、『五輪書』の「生国播磨」という文字を否定する。謎解き探偵の著者が支援を求めるのは、『五輪書』冒頭の自序部分が偽作だという説。これは非常によく理解できるね。つまり論理が倒錯している(笑)。
B――『五輪書』冒頭の自序部分が偽作だということ、これは昔から美作説論者が行き着くゴールなんだ。自説と整合しないものは何でも否定してしまう。武蔵が「生国播磨」と書いているのは、何か理由があって嘘を言っているにちがいないと思い込む。あるいは、偽書だといって『五輪書』そのものさえ否定する。こういう奇妙な運動は倒錯のよくある症例だぜ(笑)。
C――序文を付け足したという『武公伝』の記事ね、この序文は地の巻冒頭の自序部分だと、久保は思い込んでいるようだが、それが間違い。この序文は漢文で、現存「五方之太刀道序」に近いものだっただろうと推測しうるだけだ。そのあたり、この著者は基本的な知識が欠落しておる。
A――しかも、ほとんどが他人の所説のパクリだ。先ほどの「作州人の血」という珍説以外は(笑)。
B――いや、それだって司馬遼太郎だぜ。この本の関心のことだが、ただ、武蔵の何を暴露するかによって、著者の関心がどこにあるかよくわかるがね(笑)。
C――こいつが槍玉にあげるのは、武蔵のセクシャル・ライフ。暴露本はこれじゃなくては(笑)、というわけで、綿谷雪がその昔、得々として披露して以来、有名になりすぎた『異本洞房語園』の記事がある。武蔵が江戸で雲井という安女郎と馴染みであったという話ね。これをさも武蔵の「真実」であるかのごとく暴露したがる本が増えたが、むろんこれは、芝居で有名になってしまった武蔵の江戸伝説にすぎない。しかし、そういう異性愛ではなく、武蔵の同性愛を暴露する、この本が類書と違うのはそこのところだ(笑)。
A――それが困ったことに、同性愛は性倒錯なり、という偏見、暗黙の前提なんだな。武蔵は安女郎の馴染みだっただけじゃない、美少年を愛好するホモセクシャルだったと、同性愛に対する差別意識を喚起しつつ、何やら猥褻に語る(笑)。
B――武士という戦闘者と同性愛のリエゾンは、異例のことではなく、むしろ普通のことだぜ。ところが、衆道の習俗について前振りをしておきながら、ついつい「淫靡な」と言ってしまう(笑)。おいおい、どっちが淫靡なんだよ(笑)。
C――このあたり、久保の文体が淫靡だね。要するに、セクシュアリティに対する関心が低俗なんだよ(笑)。武蔵が安女郎と馴染みだった、それ、武蔵は本当は低俗な人間だったんだ、というのと同じ軌道でね、武蔵はホモだった、美少年を大名に売りつける、そんなとんでもない人間だった、という淫靡な暴露の仕方だ。いずれにしても、武蔵や養子の三木之助、伊織がホモセクシャルだったことが、「問題」であるかのように、それを匂わせて淫靡に語る(笑)。
B――ところが、最近の若者なら、武蔵がホモセクシャルだったと聞いたら、「へえ、クールだね」と言う(笑)。異性愛オヤジとはセンスが違うわけだ。その程度の話なんだぜ、これは。それについて何ページにもわたって槍玉にあげる話ではない。まったく頓珍漢な話だ。
A――そうして、とうとう伊織まで累が及んで、出自詐称だと決めつける。武蔵産地美作説の典型だね。
B――それも明治の顕彰会本『宮本武蔵』を引き合いに出してな。しかし、こんなことをいくら言うておっても仕様がない。くだらない話だ。この本には自前で見つけたようなものは何もない。ただ「淫靡な関係」を発見しただけだよ(笑)。
――要するに、「謎解き」とはそんなことでした(笑)。では、ご採点は?
A――他との釣合いがあるから、これは30点でよい。
B――30点でも甘い。だがまあ、そんなところか。
C――これに関連して一つ挙げるとすれば、小説なんだが、さっきの『謎解き宮本武蔵』のスタンスと対蹠的なのが、鈴木輝一郎の武蔵小説だな。
――それもいきますか。これは最近雑誌(『小説推理』)に連載されたものでしたね。けっこうですね。では、鈴木輝一郎著『中年宮本武蔵』(双葉社 2003年)をいきましょう。
C――何よりよいのは、ホモセクシュアル・宮本武蔵が、『謎解き宮本武蔵』みたいに淫靡なかたちではなく(笑)、あっけらかんとして脳天気な男として登場することだな。
A――それと、養子の宮本伊織の視点から書いたというのがよろしい。設定は小倉時代で伊織は家老、部下の町奉行が駆け込んでくると、「また、父上が何かやったか」と伊織が嘆く。父親武蔵の行状の尻拭いに伊織が閉口する。つまり養父武蔵は、伊織にとって、とんでもない迷惑な父親なんだ。
C――これは息子伊織にとっては迷惑な父親だが、滑稽な愛すべき天才という武蔵像だな。従来武蔵のネガティヴな面として描かれてきた特徴を、そのまま誇張してみると、その誇張がコミカルな反転効果を生んだ。ネガティヴな読みがポジティヴなものへ反転したところが面白い。
B――こういうスプラスティック、そんな喜劇性をもった武蔵が描かれるようになった。武蔵小説も進化したものだ、という感慨があるねえ。まず第一段階は、吉川武蔵のような修養向上武蔵(笑)。それから第二番目がそんな剣聖武蔵の偶像破壊、汚い武蔵(笑)。そして第三のステージとして、ようやく出てきたのが、こういう徹底した喜劇的人格としての武蔵像なんだな。つまらないシリアスな武蔵小説が延々と生産されてきたが、ここにきて小説武蔵の次の可能性が瞥見しうるところまできた、そんな感じがする。
C――時代性のことを言えば、この中年宮本武蔵は、いわゆる団塊の世代の独善的キャラがモデルだろ。コミカルな武蔵イメージは、どのみちそのあたりにある。若い世代が団塊の世代のオッサンを見ている視線が、ちょうど伊織が武蔵を見る視線だろうな。
B――武蔵小説がここまで来たというのは、ジャンルの一種の成熟で、これはこれで結構なことだと思うね。
A――振り返ってみれば、遠くまできたもんだ(笑)。
B――司馬遼太郎がはめた枠組みがやっと崩れた。少しはゆとりのある武蔵像がようやく可能になったというところか。
C――吉川英治から司馬遼太郎へと通底する悪趣、つまり武蔵コンプレックスが、やっと克服された。これは本来なら、第二段階を批判するパロディ戦略なんだが、この作家はそうは意識していない。この第三段階は自覚なしに出現してきたな。
B――だろうな。この作家のスタンスは本人の意識としては第二段階どまり。吉川武蔵に対する批評性は意識しておるが、偶像破壊された武蔵像に対して批評性がある作品だとまでは自覚してはいない。進化は意図して生まれるものではない。作者が知らぬ間に自分がやってしまっている、というところだろう。
C――でもな、一方で、『バガボンド』みたいな若い連中の武蔵像へのクリティシズムはある。この『中年宮本武蔵』からすれば、『バガボンド』のポジションは明らかに反動的なんだ。
A――それは、『バガボンド』が吉川武蔵を下敷きにしているということだけじゃないね。
C――そう。武蔵文芸史におけるブレークスルーという観点からすれば、この『中年宮本武蔵』の方が、『バガボンド』のセンスよりは先を行っている。
A――しかし小説家は、何のかんのと言いながら、宮本武蔵が好きだねえ(笑)。その時代に応じた新しい武蔵像がたえず再生産される。
C――五味康祐『二人の武蔵』の前に「男色宮本武蔵」(昭和二十九年、『刺客』所収)があるね。ところが、これは女が男色の倒錯性を恨むという構成だな。ホモセクシャルが倒錯だという近代以後の視点。男色宮本武蔵を恨む女が語り手なんだが、それがなんと伊織の実母(笑)。
A――何しろ伊織を産んだ女なんだ。彼女は、息子伊織は出羽で拾われた泥鰌伊織なんぞではない、と証言する(笑)。
B――あれは、未遂小説だな。伊織の母が不倫して武蔵とやっちまう、それで伊織は武蔵の実子。そうなると実の息子の伊織を、武蔵は養子にして男色関係、という父子インセスト。これはおぞましい武蔵(笑)、ということでは一つの極だ。
A――ところが、五味康祐はその虎口で日和った。そういう設定は、大衆小説というジャンルでは耐え切れないから、それが未遂ということで、終始させている。タブーは男色とインセストの二重だし。
C――しかも、そんなおぞましい武蔵を正面から描けない。女の口で語らせる。ノーマルなセクシュアリティのコードは女性性なんだ。しかしこのノーマルな女性性は、ヘテロセクシャルな、男にとっての女でしかない。兵法と男色との関係を定位できなければ、結局、兵法の何たるか、その本質もわかるまい。
A――五味康祐「男色宮本武蔵」は、ヘテロセクシャルなイデオロギーの域内を出ていないね。武蔵の伊織との男色関係は、その母親への恋慕の変形でしかない。男色は本来の場所を与えられない。そういう意味では近代小説なんだ。こういう地点と照合すれば、『中年宮本武蔵』のポジションは新しい。
B――だけど評価を辛くすれば、こんなパロディックな武蔵像、これがやっとのことなんだ。笑われることで社会に許容されるオカマ・バーの戦略と同じ。そもそも日本の小説家は、まだまともに男色小説を書く能力がない。そういう作家が出てこないと、武蔵小説は成熟したとは決して言えない。
――これも採点してみますか?
B――番外でいいか。採点を避けるわけじゃないが、今回は武蔵論・武蔵研究に絞ってのことだから、武蔵小説はいずれまとめてやればいい。
C――そうだな。むろん後書の「付記」に、『五輪書』が門人の創作だという疑義が払拭されていないとか、武蔵の自筆が確認された『兵法三十五箇条』だとか、半可通のタワ言を書きつける。武蔵研究に関してほとんど何も知らずに書いている。まあ、余計な知識がないから、こういう武蔵が書けたのかも知れんが(笑)。
A――そこまで言うなら、採点しておけば(笑)。
C――細川三斎やら加藤清正秘伝の戦車やらが出てきてからはダルいな。しかし一方、武蔵が奇妙な踊りをして現出する一種の超能力マジックという着想は悪くはないし、もっと展開してみてよかったはずだが、この作家には無理かいな。
B――悪ふざけが過ぎて中だるみもあるし、小説自体としては出来は大してよくはない。ただ、小説作品の出来不出来とは別にだ、武蔵小説の歴史のなかで、この小説のポジションの新しさを評価できれば、今回はそれでよいと思うよ。
C――番外にしようとすると甘くなるが、小説の出来も勘案して、きちんと採点すれば、50点か。
B――とても、60点までにはいかない。だけど、今回の武蔵本ブームの中で出た武蔵小説だと、こいつが一番なんだ。他のは、あまりにもお粗末で、読むにたえない。
C――武蔵小説の状況は絶望的なんだよ(笑)。


【Case 8-1】
 飽きっぽくて衝動的でしばしば注意力が散漫(兵法においては四方に自然と目を配る、ともいうが)な武蔵であり、他人の誇りや面目にはまったく頓着しない父であったが、自分の面目を潰されることに関しては不必要なまでに敏感で、過度に集中する男でもあり、そして勝つためには手段を選ばない男でもある。

【Case 8-2】
 某日、伊織が小倉に戻って、役宅に堆積している決裁書類を片っ端から片付けている最中、
 「おそれながら」
と町奉行が役宅に顔を出したとき、
 「また、父上が何かやったか」
 と答えたところ、やっぱり武蔵のことであった。円明流道場から異臭が漂って不気味で、と、道場の近所の者から苦情がきているので、何とかしていただきたい、という。
 「いや、いかにも父上は風呂や湯浴みを別して嫌うかたゆえ、ちかくに寄ればいささか臭いけれども、道場の外に漏れるほどとは考え難いが」
 「左様な事情ではなく、何卒御足労願えませぬでしょうか。なろうことなら坊主を連れて」
 最後のひとことが気になった。あいわかったと承知して、伊織は臨済宗の僧侶を呼び寄せて同行した。
  (中 略)
 住持はぶちぶち愚痴をたれながらついてきたが、円明流道場に足を踏み入れた瞬間、玄関で腰を抜かしてへたりこんだ。伊織は物心ついてから武蔵と一緒にいるためか相応に耐性はできているが、武蔵の行状に腰を抜かす奴は実に多い。
 よく考えれば、掃除と後始末の嫌いな武蔵が、鼻歌うたいながらたのしく木を彫ったり絵を描いたりしている最中に、邪魔にはいる武芸者を、心地よく迎えようはずもなく、ましてや討ち殺したあとで供養するような手間をかけるわけがない。いや、よく考えてもそのまま玄関に放置するのは、人知の想像を絶するが。……そういうことなのだ。
 彫りかけの仏像や練りかけで半分乾いた茶碗、描きかけて途中でやめた水墨画、読みかけで開きっぱなしの無数の書籍類などが堆積されているついでに、円明流道場へ挑みにきて頭蓋を割られた武芸者たちの死体も堆積されていたのだ。
 伊織が最初にそれを見たとき、一瞬何人積んであるのかわからなかった。下のほうは白骨化しており、それが上にいくにつれ、干からびて、虫がわんさか湧いて、腐敗して、いちばん上に積まれている者は、額を割られたまま無念の表情で天井を見上げていた。
  (中 略)
 とにかく、死体に慣れた僧侶でさえ腰を抜かすようなものを放置しておくわけにはゆかない。とりあえず武芸者の死体は運び出し、まとめて供養し、
 「以後、武芸者との仕合は、道場でなさらず、市中で、町びとに迷惑のかからぬよう、なさっていただけませんか」
 武蔵に頼んだ。いかな武蔵でも、こうした行為が小倉藩の若い家老、宮本伊織の立場を悪くしかねないとは理解したらしい。
 「よかろう」
 素直にこたえ、以来、武蔵を倒しに小倉を訪れる武芸者は、あるときは町の往来で、またあるときは小倉湊で、さもなければ紫川の船着き場で、武蔵に返り討ちにあって、供養もされずに放置された。
 彼らを発見して、供養するのは町びとの仕事であるが、のべつまくなしに武芸者が頭を割られて往来ですっころがっているおかげで、火付け・押し込み・夜盗・空き巣狙いのたぐいが皆無となったのはすでに述べた通り。小倉城下の治安は抜群で、町びとたちも慣れた模様である。
 その結果、町奉行としても、警察力に割く与力・同心の人員を行政事務にまわせられ、播磨明石十万石から豊前小倉十五万石に転封加増されても、あらたな召し抱えをせずに済んでいるので、家老の立場からいうと、藩の人件費を抑えられる。

【Case 8-3】
 肝心の宮本武蔵の履歴であるが、寛永十七年に細川忠利(三斎の嗣子)に客分として迎えられて熊本に移るまでは、確たる史料の裏付けがみられない。現在我々が知る宮本武蔵とその決闘歴はすべて吉川英治の創作である。
 武蔵の書とされる『五輪書』は、武蔵の自筆本がまったく残存せず、細川家時代の門人による創作との疑義が払拭されていない。したがって、生年のみを採用した。武蔵の実名と円明流の術理については、武蔵の自筆が確認された『兵法三十五箇条』を参照した。(付記)






 5 0 点 


二木謙一(宮本武蔵とその時代)、岡田一男(『五輪書』について)、加藤寛(二天一流と武蔵の剣技)、丸山宗男(武蔵の書画)、釣洋一(映像の中の宮本武蔵)、安宅夏夫(小説に描かれた宮本武蔵)、岡田一男(武蔵の家系と系譜)、加藤寛(宮本武蔵の全試合)、加藤寛(武蔵をめぐる人物事典)、岡田一男(宮本武蔵関連史跡)、岡田一男・加藤寛(宮本武蔵関係文献目録)、岡田一男・加藤寛(宮本武蔵年譜)


【Case 9-1】
『丹治峰均筆記』 丹治峰均 享保十二年(一七二七) 別名『兵法大祖武州玄信公伝』という。二天一流の伝承者柴任美矩、吉田実連の直話を丹治峰均が筆記したものである。『二天記』とほぼ同じ時代に成ったもので、『兵法先師伝記』ともいい、養子造酒之助との出会い、その他を載す。宮本武蔵顕彰会編『宮本武蔵」収録。










【Case 9-2】
『二天記(武公伝)』 豊田又四郎・彦次郎・左近右衛門の三代の編述 宝暦五年(一七五五) 『肥後文献叢書』第二巻『日本武道全集』第一巻所収 二巻 武蔵の死後百年余を経て、肥後藩士豊田又四郎(正剛、寛延元年没)が、武蔵や門弟の話、文書、逸話などを記録しておいた。それを、その子彦次郎(正修)が書き加えて「武公伝」とし、さらに孫の左近右衛門(景英)が加除添削して編述したのが武蔵の伝記、すなわち『二天記』である。正剛は武蔵と同時代の人物ではないから、史料としての価値は高いとはいえないが、武蔵の伝記としては最も古く、まとまった記録である。













【Case 9-3】
三一歳 武蔵、西軍に加担して大坂冬の陣に参戦。(二天記)
三二歳 再び西軍に加担して夏の陣に参戦。大坂落城し、徳川の探索を遁れて地下に潜行。以後、諸国を回って足跡不明。(二天記)








【Case 9-4】
『東作誌』 正木輝雄編 文化十二年(一八一五)美作東六郡の地誌 宮本村の庄屋甚兵衛が、元禄二年(一六八九)に津山城主森家に差し出した『宮本村古事帳』をもとにして編したもの。武蔵が慶長四年(一五九九)に郷里を出立する時の模様などが記されている(宮本村の条)。その他「徳大寺系新免家系図」「新免家侍帳」「本位田事件」などを記載。

【Case 9-5】
『作陽誌』 作州編 文化十二年(一八一五)「武仁子武蔵迄爰(宮本構)に居、天正より慶長迄の間なり。其後元和九年、武蔵末孫下庄村より構の上の畑に居住、与右衛門以来武蔵家相続仕候」とある。その他武蔵関係記載があるが、これらは『古事帳』が出典となっている。















【Case 9-6】
 しかし、造酒之助も伊織と同様、身分の卑しい馬子などではなく、立派な新免家(祖父将監以来仕えた主家、後述)の嫡流であったことは同家の系譜が、これを立証している。その上、造酒之助は武蔵の従兄弟の子に当たる人物であり、そうした血縁関係にあったればこそ、武蔵はこれを養子としたものであろう。

【Case 9-7】
 宮本と中山は隣接しているが、鎌坂峠を境として宮本は美作国、中山は播磨国である。つまり平田家の采地は両国に跨ったも一つのものであったから、生国播磨といおうが、美作といおうが、武蔵のこだわらない性格からすれば、問題とはしなかった。






 4 0 点 


――では、次に、再版ではなく今回「新版」だというもの、岡田一男・加藤寛編『宮本武蔵のすべて(新版)』(新人物往来社 2002年)です。これは、一九八三年にすでに出ていたものを改訂して新版として出したということです。これは今回の武蔵本ブームで粗製濫造された本の多くが参考書にしたもので、内容は、いろいろと、盛り沢山ですね。
A――なにしろ、「宮本武蔵のすべて」というわけだから(笑)。盛り沢山なのはよいが、わずか二百八十ページの本だ。個別の内容はまったく薄い。
B――決してお買い得ではないな(笑)。それぞれのパートに内容はない。これだと、「図鑑」、「図説」を称する武蔵本のものと内容は大差ない。
A――しかし、間違いが多いのも困ったものだ。たとえば、『丹治峯均筆記』について、別名が『兵法大祖武州玄信公伝』だという例の珍説は、こいつから出たのかな。
C――さあね(笑)。これを参考にして武蔵本を書いておる奴がいるからな、困ったもんだ。それにしても、間違いだらけ。さっきの『丹治峯均筆記』についても、「『二天記』とほぼ同じ時代に成ったもので、『兵法先師伝記』ともいい」と書く。むろん『丹治峯均筆記』は『二天記』よりもずっと以前の、半世紀も前の作物だし、だいたいが「兵法先師伝記ともいう」わけがない(笑)。『兵法先師伝記』はもっと後世の丹羽信英が天明年間に書いた、まったく別のテクストだぜ。
B――この筆者はむろん、『丹治峯均筆記』を読んでいない。だからむろん、それが武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」以外にも四祖までの略伝や立花峯均の自記も含むことも知らない。熊本の顕彰会本『宮本武蔵』所収なんぞと書いているところをみると、顕彰会本で引用してある断片を見ておるだけだ。むろん『丹治峯均筆記』は読んでいない。
C――養子造酒之助との出会いその他を載す、というが、そんなことよりももっと重要なことが、『丹治峯均筆記』にはあれこれいっぱい書いてあるだろが(笑)。現存写本を閲覧するどころか、要するに『丹治峯均筆記』の内容を知らない奴がそれについて書いておる。そんなデタラメな「宮本武蔵のすべて」を、読者諸君は買わされておるわけだ。
A――『二天記』の記事にしても正確ではない。まず、なんで「二天記(武公伝)」という表記になるの(笑)。『武公伝』は『二天記』の種本だが、『二天記』はそれを相当改竄しているよ。両者を一つに括れるわけがない。
B――この解説内容をみると、武蔵の伝記としては最も古く、まとまった記録である、なんぞというヨタ話を書いている。『二天記』は一般に宝暦五年(1755)成立と誤認しているが、そうではなく、『二天記』という名の書物が成ったのは、その序文や奥書からすれば安永五年(1776)だよ。『丹治峯均筆記』の半世紀も後だ。
A――彦次郎(正修)が書き加えて、さらに孫の左近右衛門(景英)が加除添削して編述したなんて書くところをみると、これは明治の本(肥後先哲叢書)の解説を、そのまま引き写しておるだけ。おそるべき怠惰、杜撰としか言いようがない(笑)。
C――むろん景英が書いた豊田氏先祖附なんぞ見たこともないのさ。『二天記』の著者についても根本的な誤りがある。豊田改メ橋津彦兵衛正脩が書いたのは、『二天記』ではなく、「武公伝」という名の書物だ。これを一般に現存『二天記』と混同するが、それは誤り。『二天記』という現存文書の著者は、正脩ではなく、子の専右衛門景英である。親父が遺した「武公伝」を校訂しているうちに、別の書物を書下ろしてしまった。それが『二天記』(笑)。
A――そもそもですな、現存『武公伝』が橋津正脩の原稿そのままだ、とは云えない。正脩が死んだ後の記事まで書かれている。すると、我々の読みうる『武公伝』はだれが書いたんだ(笑)。
C――子の景英がかなりいじっている。とすれば、正脩が書いたという「武公伝」は残っていないね。子の景英が消しちまった。
B――橋津正脩が書いた「武公伝」は文字通り、《vanishing mediator》だな。正脩の書いたものは二天記冒頭の「凡例」の記事が残っているとはいえ、それにも問題がある。いずれにしても、こういう武蔵伝記研究の問題点は、我々の研究プロジェクトではじめて提起されるようになったことばかりだ。
C――話をもどせば、しかしまあ、この『宮本武蔵のすべて』には、おそるべきことが書いてある。巻末に年譜を掲載しておるが、そこには、大坂陣に武蔵が「西軍」で参戦したという。これは豊臣秀頼方の意味だろな。しかし、そんなことは『二天記』には書いていない。そのうえ、夏の陣で大坂落城したあと、武蔵は徳川の探索を遁れて地下に潜行、以後、諸国を回って足跡不明(爆笑)。ようするに、こんな武蔵逃避行が『二天記』に書いてあるらしい。それはどんな『二天記』だよ(笑)。
B――それはぜひ一度拝見したいものだ(笑)。
A――このあたりになると抱腹絶倒だけど、こいつらは『二天記』も読まずに「(二天記)」と書く。どんな神経をしているのか。
C――だから、筆者がアホならこそ、まともな出版社なら編集者がチェックすべきだろ。チェックもしないでバカげたことを書かせておる。自社の恥だと思わんのか。
A――美作関係史料についても、変なことを書いておるな。まず第一に、『作陽誌』が「作州編 文化十二年」とかね、だれが編纂したかも知らない、いつ出来たかも知らない。しかも『東作誌』と『作陽誌』、これを別項目にしてるというところが、無知の露呈か。
C――『東作誌』は現在の刊本の編集では『作陽誌』の一部に入れている。『東作誌』と『作陽誌』は別の書物ではなく、『作陽誌』は『東作誌』を含む。これは当初の編纂意図を汲んだものだ。『作陽誌』は、美作西部諸郡だけ江村宗普が元禄四年に完成させたが、東作部分は欠いて未完成のままだった。それを、文化年間に正木兵馬が東作部分を書いて補完した。しかし、百数十年も時代が異なる文書を、一つに括るのは間違い。正木兵馬が編纂した文書のタイトルは、『作陽誌』ではなく、あくまでも『東作誌』という題名の文書だ。
B――それだけじゃなくて、『東作誌』が、宮本村古事帳をもとにして編したもの、というのはどういう了見なんだ(笑)。『東作誌』は吉野郡を含む六郡の地誌だぜ。武蔵記事はそのごく一部に過ぎない。ヨタ話が過ぎる。どうもこいつらは、刊本の『東作誌』さえ読んだことがないようだ。
C――らしいな。同じ吉野郡の宮本村・下庄村・川上村が関係地だが、ここで『作陽誌』の項に入れて書いているのは「古事御改書上寫」の記事だな。それがどうして『東作誌』の項に入っていないんだ。
B――『東作誌』の内容も知らずに書いているぜ、これは。こうして眺めてみると、『東作誌』とは別の『作陽誌』という書物に、「古事御改書上寫」が記載されていると、そう思い込んでいるようだな。
A――古事帳がどうの、古事帳が出典となっている、などというが、何も古事帳だけじゃない。系図も伝説も拾っている。だいたい『東作誌』は書物の趣旨からして、東作六郡をフィールドワークして資料や伝説を蒐集しているだけだよ。古事帳を出典にしてそこから何か説を語っているわけじゃない。
C――地元では武蔵についてこんな伝説があるよ、こんな系図や文書もあるよ、というスタンスだ。いろいろ集めてみると、各家系それぞれ伝承が違っていて話が混乱している、どうもよくわからん、というのが正木の感想だよ。
B――こいつらの胡乱な書き方をみると、どうも武蔵研究に関して素人だな。この書誌部分を書いたのはだれだ。
A――岡田一男・加藤寛という名が出ているね。
B――それじゃあ、どうしようもない。連中が文責をとるのは無理だ(笑)。
C――他にたとえば、本書の「武蔵の家系と系譜」という論文にしても、「宮本武蔵のすべて」だから、武蔵の出自・出生地についても、諸説併記すると言って、突っ込むのを避けている。自分は播州出生説を支持するといいながら、作州宮本村説を延々説明するから、読んでいる途中、こいつはいつの間に美作説になったかと思うほどだ。論文として、要領を得ない出来損ないのものだ。
A――それで、造酒之助が「武蔵の従兄弟の子」になってしまったりする(笑)。美作説と播磨米田説を両方とも勘案しなければならないから、内容はハチャメチャだ。
B――いちおうバランスをとっているつもりだが、及び腰というところ。「宮本武蔵のすべて」、だから武蔵の出生地について諸説併記すると言っておるが、諸説総覧どころじゃない。かなり偏った低レベルの話だ。
A――この『宮本武蔵のすべて』は、『宮本武蔵のすべて中途半端』とした方がいい(笑)。
C――「すべて」というなら、こんな薄い本じゃなく、もっと分量を確保すべきだろう。しかしなあ、いちいち挙げればきりがないほど、かなり誤認があるね。宮本村は美作、中山村は播磨で、平田家の采地は二国に跨ったものだったというがね、こいつは当時の国境いの線引きを知らないで書いておる。宮本と同じく中山も当時は作州吉野郡の一部なんだよ。明治中期の線引き以後、中山村が兵庫県佐用郡に編入された。そういうことも知らないで書いておる。困ったやつだ(笑)。
A――生国播磨だろうが、美作だろうが、武蔵の「こだわらない性格」からすれば、問題とはしなかった(笑)。手前の杜撰な話を、武蔵の性格で正当化する。
B――あはは、それじゃ武蔵もかなわん(笑)。他にも間違いがかなり多いね。もちろん自前の武蔵研究者じゃない。岡田は富永だ、船曳だと言って依拠する。ところが、そんなセカンダリーな岡田論文でも引用するやつがいたな(笑)。わけがわからない状況だ。現在の武蔵論のレベルはまるで低空飛行しておる。
――そこで、ご採点となりますと、いかがでしょうか。
A――伝記部分や書誌などは落第、せいぜい20点がいいところだが、他の連中の論文や資料もあるから、抱き合わせで、40点。
C――ずいぶん気前がいいじゃないか(笑)。
――それでは、次の本に進みます。森本繁著『宮本武蔵を歩く』(学研M文庫 2002年)ですが、これはいかがでしょうか。
B――これは播州宮本村出生説という珍品だ(笑)。みると、どうやらピントが外れている。武蔵研究史のことは知らずに、素人が急遽勉強したという感じだな。
A――しかし、著者は自分は「実証歴史作家」だというが、この「実証歴史作家」というのは聞いたことがないが、いったい何だ(笑)。
B――自称だからさ、どうとでも自称すればよかろう(笑)。しかしだ、実証歴史作家は武蔵が少年時代、作州宮本村で育ったというわけだ。《たしかに、この大原町宮本の武蔵の里を歩いてみると、武蔵がここで幼少年期を過ごしたことを疑うことは到底できない》なんてことを書いてしまう。この実感主義の身振りは、いやはや何とも、だね。実証的に考究した結果にもとづき、と大見得を切るが、まるで実証性がない。実証歴史作家と称するが、「実証」とは何か知らないようだ。「実感」歴史作家と改称した方がよかろう(笑)。
A――他にも話がよくわからん部分がある。『東作誌』の正木兵馬が、《『播磨鑑』の播磨宮本村生誕説を論破して作州宮本村誕生説を主張しているならともかくも、たんに並列的に取り上げているとあっては》云々というが、これは何を言おうとしているの(笑)。
C――そもそも正木が『播磨鑑』を論破できるわけがないし、『播磨鑑』を読めるわけがない(笑)。こいつは、『播磨鑑』が稿本とわずかな写本しか存在せず、刊本になったのは、ようやく明治末のことだという事実も知らんようだ。
B――ところが次に、ものすごいことが書いてある。美作出生説がこれまで通説だったが、《今では武蔵自身の著作である『五輪書』と播磨の地誌『播磨鑑』によって、播磨誕生説(現兵庫県揖保郡太子町宮本)が定説とかわっている》(爆笑)。
A――その一文だけでも、この本の素っ頓狂ぶりは明らかですな。我々は早くそうなればいいと思ってきたが、この著者によれば、すでに播州宮本村産地説が「定説」になっている。それはいったいどこの国の話なんだ(笑)。
C――こいつは、未来からタイムマシンでやってきたのか(笑)。ただね、太子町宮本を採訪するまでは、作州出生説を信じていたが、石海神社前の公園やその公園の神社鳥居前に建てられている宮本武蔵生誕地碑、生誕屋敷跡、産湯の井戸などを見ているうちに、次第にこちらの方が正しいのではないかと思うようになった、とかいうのは、明らかに「実感」歴史作家のフィクションだね。あのご当地には物証は何もない。皆無である。産湯の井戸など、つい最近造った「遺跡」だ。そんなことも知りもせず、こう書いてしまうところに、武蔵について何も知らん素人だという、こいつの馬脚が現れておる。
B――こういう付け焼刃の新参者には困ったものだ。はじめて宮本村へ行ったのが、平成十三年(笑)。五十年前とまでは云わないが、せめて十年前に行ってみな。そうしたら何も遺跡がないことがわかっただろうに。
A――どうでもいいことだけど、『播磨鑑』の平野庸脩の名に「みちなが」とルビを振っておるが、いつから庸脩先生は「みちなが」なんて聞いたことのない名になったのだい(笑)。これは従来は「つねなが」と訓まれてきた名だ。
C――平野庸脩の「庸脩」は実は諱ではなく、医者としての号だ。庸医、藪医者だというユーモアだ。だから、庸脩の名に「ようしゅう」ではなく、また通説の「つねなが」でもなく、こんな「みちなが」とルビを振るのは、二重の誤謬だぜ(笑)。
A――この実感歴史作家は、分もわけまえず自説を展開する。武蔵は播州宮本村で生まれたと実感するが、それでも小倉宮本家伝書が記すように、武蔵は印南郡米田村の田原氏を出自とするというわけだ。つまり、武蔵は田原氏だが、ワケありで揖東郡宮本村で生まれたと。
B――そのワケもすごいな。もちろん田原甚右衛門は武蔵が生まれる前に死んでいるし、甚右衛門の妻は夫より先に死んでおる。すると武蔵はだれの子か。そこで、宮本家伝書には根本的瑕疵がある、武蔵は田原氏に生まれたのではないというのが、通常の論理過程だが、こいつはそうじゃない。甚右衛門の子ではないという事実は認めても、やはり武蔵の出自は田原氏だと。このあたりはムチャな話になるが、田原甚右衛門には正室以外の女がいて、その女が甚右衛門死後七年もたって、別の男との間でなした子を揖東郡宮本村で産んだ、その子が武蔵だと。それならどうして武蔵が田原氏なんだ(笑)。
C――小倉宮本家伝書は、どうして武蔵は田原甚右衛門の子だというんだ(笑)。ようするに、史料操作がまったくデタラメ。あちらとこちらの史料の顔を立てての《compromise formation》(妥協形成)、そうしているうちに、どんどん話の虚構性が膨らんでくる。米田村説と宮本村説を足して二で割っても、武蔵は田原甚右衛門の子ではなく、別の男の息子だとしか言えない。
A――そんなことを言うと、小倉宮本家伝書に依拠する米田村武蔵産地説の連中は怒るぞ(笑)。
C――対立する二説を足して二で割るというのは、米田村武蔵産地説の連中もやっておる。つまり、武蔵は田原甚右衛門の子で、作州宮本村の新免無二之助のところへ養子に行ったと。しかし、作州宮本村説では、武蔵は平田武仁の実子である。宮本無二はいても、「新免」無二之助なんて者は存在しない。となると、武蔵はどこへ養子に行ったのだね(笑)。
B――著者のいう実証歴史作家としてのこの「作品」を読むとね、作州宮本村にも顔を立てていて、二説どころか、ようするに三説を足して三で割っておる(笑)。だから米田村説にも加担しきれない。泊神社まで行きながら肝心の棟札さえ実見していない。それで足して三で割って、その結果が、田原甚右衛門の女が父なし子を揖東郡宮本村で産んだ、それが武蔵だというわけだ。おそまつな話だぜ(笑)。
A――実証歴史作家というより、妄想歴史作家だ(笑)。足して二で割る、三で割ると、いつも割り切れない余りが出る。その余りを処理しきれないから無理やり切り捨てる。それを切り捨てた穴埋めに、どの史料にも書いてないプロットを勝手に捏造する。
C――史料操作がデタラメだというのはそこだ。イマジナリーな史料操作だね。だけど、揖東郡宮本村説が「定説」になっている、などと書くのは、まさに武蔵研究の現状を知らないことを露呈している。揖東郡宮本村説が「定説」というのが事実なら、我々はこんなに苦労しやしない(笑)。播州宮本村説を支持してくれるのはありがたいが、それが勉強不足のせいではねえ。
A――まあ、そういうことですな。我々播磨武蔵研究会としては、ありがた迷惑(笑)。
――では、よろしいでしょうか。この本のご採点は?
B――難点が少なくないから、内容レベルとしては30点か。
A――我々にとってありがた迷惑、というところだけど、播州宮本村説の希少性を珍重して、プラス10点ですな。
C――まったく、とんちんかんな希少性だよ(笑)。もっとまともなやつはおらんのか。
B――おらん(笑)。

【Case 10-1】
 この作品は実証歴史作家としての筆者が、宮本武蔵の伝記を実証的に考究した結果たどりついた結論にもとづき、武蔵が歩いた足跡をあとづけたものである。



【Case 10-2】
 しかし〔『東作誌』の〕編著者の正木氏が、『播磨鑑』の播磨宮本村生誕説を論破して作州宮本村誕生説を主張しているならともかくも、たんに並列的に取り上げているとあっては、その播磨生誕説を誤りだときめつけることはできない。
 たしかに、この大原町宮本の武蔵の里を歩いてみると、武蔵がここで幼少年期を過ごしたことを疑うことは到底できない。だがそれをもって、武蔵がこの武蔵の里で平田武仁と新免(宇野)宗貞の息女(於政)とのあいだで生まれたと断定することはできない。
 以前は武蔵の終焉の地である熊本市でも、美作誕生説が通説のように主張されていたが、今では武蔵自身の著作である『五輪書』と播磨の地誌『播磨鑑』によって、播磨誕生説(現兵庫県揖保郡太子町宮本)が定説とかわっている。



【Case 10-3】
 わたしは平成十三年秋にこの太子町宮本を採訪するまでは、小説『宮本武蔵』の影響や大原町が地理的に近いこともあって、作州出生説を信じていたが、石海神社前の宮本公園とその公園の神社鳥居前に建てられている宮本武蔵生誕地碑およぴ生誕屋敷跡、産湯の井戸などを見ているうちに、次第にこちらの方が正しいのではないかと思うようになった。



【Case 10-4】
 ところが、玄信すなわち武蔵ともなると、天正十年(一五八二)の生まれだから家貞の子というわけにはゆかない。しかも家貞の室(妻)清光院は天正元年(一五七三)に没しているから、久光・玄信の兄弟とも、この清光院が生んだ子ではないということになる。だから田原甚右衛門は正室清光院以外の女性とのあいだで久光を生み、玄信(武蔵)はその女性と他の男性とのあいだにできた子ということになり、田原家ではこの玄信の始末に困って、同じ赤松一族の新免無二之助のところへ養子に出したと考えられる。
 すなわち、玄信(武蔵)は米堕邑(米田村)の田原家で生まれたのではなく、その母が居住していた揖東郡鵤庄宮本村で出生したと推定できるのである。したがってわたしは、武蔵の出身を播磨国河南庄米堕村の田原氏として、生誕地を揖東郡鵤庄宮本村と結論づけた。あとで述べるように、武蔵の養子となった伊織は、武蔵の兄とされる田原甚兵衛久光の二男であるが、武蔵とはあまり血のつながりはなかったのではあるまいか。武蔵が田原氏の出自でありながら、田原氏の名を口にしようとはしなかったのは、こうした複雑な内部事情があったからだと思える。武蔵が鵤庄の宮本村に生まれたといっても、生後間もなく作州へ養子にやられたのでは、それほどのインパクトはない。ましてや出自とされる印南郡の米堕邑にいたっては、なんの愛着もなかったと推定できる。













 4 0 点 


【Case 11-1】
 徳川幕府とは、日本史上初めてこの国から戦乱を一掃した政権なのである。徳川体制が磐石となっていた宮本武蔵最晩年の頃にあっては、剣技に現実的な価値は、もはや失われていた。
 剣技とは、突き詰めていけば「いかにして敵を倒すか(殺すか)」のテクニックである。そんなもの、もはや無用の長物以外の何ものでもなかったのだ。この意味において、宮本武蔵は明らかに「歴史に乗り遅れた不遇の人物」だった。
 武蔵という人は、徹底したリアリストだった。彼にとって兵法とは「敵を倒す戦略」そのものである。それを、観念的な理屈でこね回して、日常道徳や平和政治思想に切り替えるなんてことは、決して出来なかったし、したくなかった。
 だから『五輪書』の文面には、「記した内容が役立たないのは解っているが、これを書き残さねば自分の人生が無意味となってしまう……」といった武蔵の苛立ち・哀しみが、端ばしに感じられる。我々は、そんな武蔵の一面も『五輪書』から汲み取ってやりたい。





 5 0 点 


――では、次に、五輪書ものをひとつ。長尾剛著『新釈「五輪書」』(PHP文庫 2002年)はいかがですか。
A――これも著者はよく知らないが、かなり若い人らしいね。こんな世代がどうして武蔵なのか、よくわからんが(笑)、以前、思想史関係の本(『日本がわかる思想入門』)で当たりを取ったことがあるから、その伝だろう。
B――あれは、クリアカットに日本思想史を読み物として整理したものだったが、山本七平路線かと思うと、そうでもない。山本に比べても、イージーなライターだ。それで、「宮本武蔵の哲学を読む」というこの五輪書ものはどうかというと、コケたとしか言いようがないね。
C――岩波版五輪書で読んでいる。だいたい見ていると、岩波版の注記の間違いを忠実に反復している。日本思想史の書き手なら、こんないい加減な五輪書本を出してはいけないな。
A――日本思想史と言っても、岩波の『日本思想大系』で勉強したクチだろう。読解の間違いは是非もない(笑)。
C――《武蔵は「歴史に乗り遅れた不遇の人物」だった》(笑)。そう言ってしまう、どうしようもない通俗性がある。そのあたり、思想史というより、小説家のイメージに汚染されているな。
B――武蔵の苛立ちや悲しみが『五輪書』の端々に感じられるとさ(笑)。要するに、こいつは『五輪書』をまともに読んでいない。通俗作家たちが付着させた武蔵像を読んでいるだけだぜ。《武蔵の苛立ち・哀しみが、端ばしに感じられる。我々は、そんな武蔵の一面も『五輪書』から汲み取ってやりたい》、余計なお世話だ(笑)。
C――それにしても、現代生活の人間関係にも通じるとか、この本の随所で、処世術の方へ話を持っていくのは、困ったものだ。
A――センチメンタルな「男のロマン」路線、武蔵ファンのオヤジという出版企画上のターゲットがどうしてもあるから(笑)。まあ、スタンスからすると、これも昔からある通俗五輪書読本を一歩も越えていない。もっと別の書き方にすればよかった。
――では、ご採点は?
B――他の俗悪五輪書本の便乗繁殖の最中に、いちおう健闘したとみて、50点か。
C――かろうじて、だ(笑)。
――それでは、『五輪書』ものが出たところで、もうひとつ、福田和也著『人を斬る覚悟があるか 宮本武蔵五輪書の真髄』(講談社 2003年)は、いかがでしょう。
A――こいつを選ぶなんて、君も人が悪いな(笑)。福田は本を量産していて、「週刊福田和也」状態。何でも評論してしまうが、とうとう武蔵を出しおった。
B――ところが、スタイルは便乗本で、三十分で読めるほど軽そうな本で、しかも若者向けの人生相談みたいな教訓本のかたちをとりながら、実は、福田和也である以上、そんな類書とは違うんだぜ、というところを見せやがった。相変わらず、やり手だのう(笑)。
C――さっきの前田英樹と比べてみれば、歴然としておるが、こんな通俗便乗本の体裁をとりながら、ポイントは決して外さない。武蔵論には小林秀雄以来の文芸評論の伝統があって、まさにその流れのなかにあってだな、ポイントをきっちり押さえている。中途半端な「哲学」とは、まったく違うのだよ。
A――で、どうして武蔵がこんなに人気があるのか、という話になって、その理由を武蔵がアウトサイダーだったというところへもっていく。武蔵は強かったが、それだけでは、こんな人気は出ないという話ですな。
B――この、武蔵がアウトサイダーだという話は、むろん以前からあるし目新しいものではない。だがね、武蔵は就職口を求めて得られず、失意の人生を送ったなどという、戦後流行した武蔵評伝のゴミの山は、こういうアウトサイダーの系譜に武蔵を位置づけることで、一掃できる。まあ、アウトサイダー論には、ややロマン主義の臭みもあるが。
C――アウトサイダーというのは、ちょっと違うな。それよりも、ようするに「無頼」ということだね。無頼というと、《independent》という感じあるが、やはりアウトローだし、《scoundrel》、悪党なんだよ。兵法者なんてのは、ヤクザな商売なんだ。武士なんていって突っ張っておるが、その本来は、殺人が仕事の悪党なんだ。そういう武士のヤクザで無頼なところを、武蔵は一生譲らなかった。ただ、そういう行動原理はきわめて倫理的だから、武蔵の大衆的人気というのは、悪党の倫理性を感知してのことだ。
B――悪党の倫理性、それが武士の本来固有の姿だね。武蔵孫弟子の世代になるが、柴任美矩なんてのは、そういうあたりを保存しておったようだ。仕官しておっても、気に入らんことがあれば、さっさと致仕して、どこかへ行ってしまう(笑)。
C――たしか、四回も浪人してた(笑)。これは語の正しい意味で、無頼の思想的系譜だ。
A――福田は、武蔵は「頭が強かった」という、うまい言い方をするね。こんなことを言えるのは、『五輪書』をまともに読めている証拠ですな。
B――『五輪書』を他の兵法書と比較して読めば、武蔵は「頭が強い」というのは、よくわかるね。
C――武蔵は『五輪書』の中で「道理が強い」という言い方をしておったね。道理が強いというのは、頭が強いということ。頭が強いやつは強い。それは現代のどんなスポーツの試合でも妥当する。
A――道理で武蔵は強かったわけだ(笑)。
C――まあ、今回新しく出たものも含めて、世の中の五輪書解説は、どれもこれも『五輪書』をまともに読めていない。まったく頭が弱い(笑)。福田が依拠したのは、神子侃の粗悪な翻訳本(『五輪書』徳間書店)でしかないようだが、それにもかかわらず、ここまで読める、ということだね。他の文芸評論家連中に比べれば、福田はカンがよいし、頭が強い(笑)。
B――ただし、福田が読んだ参考書はどれも古いから、部分的に間違いが多い。これは指摘しておくべきだろう。
A――そうでしたな。それがこの本の瑕疵だ。れいの武蔵の肖像画(島田美術館蔵)を、自画像と思い込んだか、「高名な自画像」などと書いてしまうのは、福田の参考書が古かったせいだ(笑)。
B――江戸時代にこれだけの画家が何人いるか、というと五指に満たない、私見では、応挙、若沖、玉堂、木米くらいなものか、なんて云うがね、これには異論ありだ。武蔵画はそんな程度のものかい(笑)。それに、地之巻末の九箇条にある「役に立たぬことをするな」ということも、無駄なことをするな、という意味で読んでしまっている。エネルギーや時間に限りがあるから、無駄なことをするな、とね(笑)。
C――現代語そのままの意味で読めないところが、『五輪書』にはある。まあ、神子侃の粗悪なテクストによっているかぎり限界がある。しかし、そんなハンデがあっても『五輪書』のポイントは外していない。それは評価してよい。
――では、この本のご採点は? そういえば、福田は以前、小説作品の採点をやっていました(笑)。
A――そうだったね。それで、この本は細部の瑕疵難点があるけれど、それでも60点。
B――うん、とりあえず60点だな。『五輪書』のポイントは外していない、という意味だ。こんな小さな本だからボロが出ないし、わからないが、もし長いのを書くと、あんがいボロが出て、よくないかもしれないぜ。文芸評論の線では、要点だけを押さえたこんなショートサイズの方がよかろう。
C――まあまあ、こんな軽そうな便乗本で、けっこうな五輪書論を書けたということで、60点。それでよいと思うね。

【Case 12-1】
 宮本武蔵を、その人物像から規定すれば、典型的なアウトサイダー、あるいはアウトサイダーの巨人だということになるだろう。(中略)
 しかし、範囲を近代に限定せずに、日本におけるアウトサイダーを数えたならば、宮本武蔵こそが、まず指を折らねばならない人物だと思う。
 宮本武蔵は、泰平へと向かう、時代の趨勢にたいして背を向けていただけではない。(中略)
 つまり、武蔵は徹底して、時代の外側にいたのであり、そしてその外側で自らがこだわった剣の技を追求し、それを追求するなかで考えぬいた、たった一人でだ。(中略)
 世間をはずれたアウトサイダーとして生きた宮本武蔵の思想は、時代を超えて、現代においても、世間の通念を切り裂く刃なのだ。(中略)
 逆にいえば武蔵の魅力とは、この刃の切れ味にこそある。
 この切れ味を十分に感じとれれば、宮本武蔵の本質を究めることになるだろう。つまりは、通念としての、出来上がった武蔵像とは違う、そこにはおさまらない、その思惟のすごみに触れることになる。

【Case 12-2】
 もちろん、『五輪書』や『兵法三十五箇条』といった武蔵の著書には、兵法や剣術の用語は使われている。けれども、それは当時きわめて一般的に流通していた言葉であって、特別に小難しいものや、複雑なものではない。そうした一部の用語を除けば、武蔵の言葉というのは、いずれも、日常に使う範囲を出てはいない。
 けれども、これは、武蔵が知的でなかった、あるいは教養がなかったということを意味はしない。無論、宮本武蔵は、机上の学者からは一番遠い存在だった。だけれども、その交際範囲や思惟からするかぎり、当時の剣客としてはもちろん、武士としても十分に高いといえる素養を備えていたことは間違いない。

【Case 12-3】
 小林秀雄をはじめとする、高い美意識を持つ人間が、宮本武蔵の画業にたいして、最高の評価を与えてきた。
 正直いえば、オレもね、武蔵のすごみというもの、比べようのない、切れ味とか、覚悟といったものを実感するのは、つまりはここにとてつもない人間がいる、と感じ、認めざるをえないのは、その書画作品のためだね。
 高名な自画像。
 あるいは鵙の図。
 江戸時代に、これだけの筆鋒を備えた画家が何人いるか、というと五指に満たないと思う。私見では、応挙、若沖、玉堂、木米くらいなものか。
 しかし、何よりも感嘆してしまうのは、武蔵のすごみ、つまりは剣法、兵法における他を寄せつけない境地というものが、画業にまであらわれている、あらわれてしまっているということだ。
 これは、いかに武蔵が、その卓越した水準というものを、自分のものとし、余すところなくわがものとして、いわば自分のなかで熟成し、寝かせていたか、ということを端的に示すことだろう。






 6 0 点 

















 5 0 点 


――さて次は、今回の武蔵本ブームの最大のヒットであると同時に、ブームの震源として外せないと思いますが、井上雄彦著『バガボンド』(講談社 1〜18・続巻刊行中)です。先ほど少し話が出ましたが、これはいかがですか。
A――おいおい、これまで入れるのか(笑)。しかし、あきれるほどよく売れているねえ。
B――たしかにね。ゴミみたいな小説宮本武蔵が、今回の武蔵本ブームの便乗本で出ているが、それに比べたらレベルはまったくちがうな。
C――ようするに、最近の武蔵小説の劣悪さに比すれば、『バガボンド』は圧倒的におもしろい。それにまた、武蔵コミックとしては、ほとんど空前のものである。その点は評価できる。
B――かつての少年漫画の鈍重な画法と比較すると、このドローイング(描画)は軽みを獲得しているな。描画法はずいぶん進化したという感がある。石ノ森章太郎の武蔵なんて、下手糞な絵だったな(笑)。
A――ただ、戦闘シーンの描画法は、相変わらずではないですかな。
C――そうだね。とくに速い運動を描くとき、どうしても「ビュン」と撓みや捻りでスピードを表現するね。しかし実際はそうじゃない。当時の兵法者の身体がこんな運動をしてたわけじゃない。
B――それに、たとえば剣や槍の動きなど眼に留まるわけがない。アニメではなく、本来静止画である劇画には、眼にもとまらない速さを可視化して描くという本質的な虚構があるね(笑)。運動のリアリティは虚構によって支えられるという矛盾。
C――不可視なものを可視化して見せるという虚構性は劇画に本来的なものだ。しかも現代人の運動イメージに沿って描かないと速度を描けない。ところが昔の兵法者の身体はそんな動きをしない。だから運動とスピードの描画が嘘になる。
A――それに、「やー!」とか掛け声をかけて攻撃するなんてのは、これも嘘だわね。現代武道の観念がこういうコミックの世界まで汚染している。
C――すると、どう描きゃいいのか。中間の運動を描かず、最初と結果だけを示す。気が付くと相手が倒れておる、まあ手抜きだが、眼に見えないものはしようがない(笑)。
B――だけど、そんな描法では読者が納得しない。困ったものだ(笑)。
A――こういうところは、やはり小説の方が圧倒的に有利ですな。眼に見えないものでも語ってしまう。
B――それともう一ついえば、『バガボンド』では、ちょっと心理描写が過剰だね。コミック・プロパーの話で言えば、こういう心理描写を盛り込めるようになったというのは、七〇年代以後少女漫画が拓いた地平があるからだね。だけど、もう一方で、この描画の様式は、これは少女漫画の技法じゃないか。
A――たしかに、こういうキレイな絵は少女漫画のフェミニンな世界から来ている。となると、武蔵などというある種マッチョな武闘派世界は、フェミニズムに侵されておるということか(笑)。
C――かもしれん。武蔵の対戦相手はなぜか心が通ってしまう設定だね。暴力的に一途に粉砕するストーリーではなく、また善悪二元論から懲悪するのでもなく、いちいち読者の心が対象に通わなければ決闘できない。相手を倒すには手続きが必要なんだ(笑)。
A――潜在的なホモセクシャルの世界だね。マッチョな世界がフェミニズムに侵されると、男たちは同性愛者にならざるをえない。ところが、少女漫画の達成したレベルからすると、『バガボンド』はコミックとしてはかなりレベルが落ちるというがね。
B――武蔵物コミックということでは、三十年前の『斬殺者』(梶原一騎作・小島剛夕画 1971〜72年)が頂点。これが一応トドメを刺したな。
A――だろうね。あの『斬殺者』の外道ぶりと比べるのは土台ムリだが、『バガボンド』は世界がウスイな。それも時代か。
B――そういう時代なんだろ。『斬殺者』は吉川武蔵の剣禅一如に徹底して逆らっている。沢庵や柳生宗矩を登場させても、パロディ化して愚弄している。それも出色だった。
C――『バガボンド』は、吉川英治の『宮本武蔵』が原作というのは、発行元の講談社の企画か。吉川武蔵からかなり脱線しているが、その脱線した方がおもしろい。原作に忠実なところは、くだらない。これが困ったところだ。
B――作者は吉川武蔵を原作にしたことを後悔していないか。後悔していないとすれば、先行きは絶望的だよ(笑)。
C――まあ、それにしても、原作で一番注目すべきお杉婆さんがダメ、理解がなっていない。しかも肝腎の、お通というストーカー女の処遇がまったく誤っておる。
B――少女漫画のレベルからすると二流品としか言いようがないのは、やはり登場する女たちがまったくダメだというところだね。女たちが描けてない、という点では、原作のレベルを忠実に保持している(笑)。
A――しかし、女たちが描けてない、というのは文字通りそうだとも言える。たとえば、このお杉婆さん、絵がまるで下手くそだねえ(笑)。
C――絵を見れば、理解のレベルがよくわかるだろが。なにもこんなコロコロ小太りな婆あにすることはない(笑)。原作どおり、蟷螂みたいに痩せぎすの、魔女的な風貌にすればよかったんだ。
B――まあね。ようするに『バガボンド』は、原作=吉川武蔵の凄味のある肝心なところは、ことごとく看過しておって、読めていない。吉川武蔵を原作にしたことを後悔していないか、と言うもう一つの意味は、吉川武蔵の根柢にあるおぞましさを理解できていないからよ。
C――その根柢にあるおぞましさというのは、むろん、吉川英治のアンコンシャス(無意識)なんだがね。
A――だから、決闘シーンがなけりゃ、まったく凡庸な作品。これはマッチョな武闘派世界で、やはりホモセクシャルな世界だろね(笑)。
B――ならば、そこをもっと突っ込んで、技法の面でも、支配的なフェミニズムと戦わねば。『バガボンド』の真の敵は、自身の母体たる少女漫画の伝統だ。
C――そのためには、もっとアグレッシヴな暴力性が必要だな。
――というわけで、案の定、たいへんな話になってしまいました。では、このご採点は?
A――もっと原作から逸脱すべし、ということで、50点。
B――もっと漫画道に精進すべし(笑)、ということで、50点。
――では、どんどん行きたいと思います。次は、縄田一男著『武蔵』(講談社 2002年)です。これはどうでしょうか。
B――まあ、呆れるほど、吉川英治の『宮本武蔵』を、くそ生真面目に読んでいるな(笑)。この縄田というのはどういう人かな?
A――大衆文学の評論家のようですな。尾崎(秀樹)の衣鉢をつぐものと見たが。
B――だろうな。吉川以外の他の作家の作物も、丹念に読んでいる。武蔵小説ガイドとして、買えるのじゃないか。
C――そうだね。だいたいは、吉川英治の『宮本武蔵』をバカにして、ろくに読まないのだが、やはり、一応はここまで読み込んでおく必要がある。そういう意味で、よいと思うな。
A――他の作家の武蔵小説も、丹念に読んでいる。五味康祐『二人の武蔵』とか柴田錬三郎『決闘者武蔵』といった、下手には読めない小説もちゃんと読み込んでいますな。
B――「吉川武蔵」がどう読まれたか、というこの本の基本的なスタンスは正しい。しかし、なぜあれほど「吉川武蔵」がウケたか、そのことにもっと突っ込んで分析する必要があるな。その点は不足だ。だいたい、《吉川英治が『宮本武蔵』を書き変えたのではない、日本の大衆が『宮本武蔵』を読み変えたのである。『宮本武蔵』は、量から質へと転化された理想の大衆そのものの姿なのである》というような舌足らずの結語はいただけない。大衆論まで言及するなら、もっと突っ込んだ思考が必要だ。
C――まあ、そうだが、この著者にはそこまでは要求できない。ないものねだりになる(笑)。この路線で、次を期待したいところだが、忠告しておけば、小説テクストをもう少しきちんと読む訓練をした方がいいな。
A――でないと、太鼓もち、提灯もちでしかない(笑)。
C――しかし、きちんと大衆小説を批評できるやつは出ないな。
――さて、では、ご採点は?
A――武蔵小説ガイドとして買える、ということで、まあまあ合格、60点。
B――しかし、司馬遼太郎に甘いというのが難点だが(笑)、60点でよかろう。
C――諸君、大衆小説のジャンルになると甘いなあ(笑)。

【Case 14-1】
 こういういい方が許されるならば、吉川英治が『宮本武蔵』を書き変えたのではない、日本の大衆が『宮本武蔵』を読み変えたのである。そして、眼の前に明日への歩みを止めようとする困難な状況が横たわる時、沢庵の教えを指針に、そしてお通を心の支えとして武蔵の心臓は力強く脈打ちはじめ、〈明日を切り拓くための剣〉はふるわれるのである。その意味で『宮本武蔵』は、量から質へと転化された理想の大衆そのものの姿なのである。





 6 0 点 


【Case 15-1】
 『五方之太刀道』は、文末に「因為之序(よってこれがためにじょす)」とあることから、かつて『兵法三十五箇条序』や『五輪書序文』などと呼ばれ、諸説あるがはっきりしない。二天一流兵法の優位性や心構えなどを格調高く謳いあげているが、誰のために、どのような目的で書かれたのか、奥書などもなく、よくわからない。ただ、書体からは武蔵の真筆と認められてきたものであるが、筆跡を似せた擬作の可能性が大である。(大倉隆二「古文書・書画からさぐる武蔵像」)






 6 0 点 


――次は、井上智重・大倉隆二著『お伽衆宮本武蔵』(草思社 2003年)です。これは今回が初版で新しい本ですね。これは共著なのですが、井上・大倉という2人が、それぞれ別の論文を書いて、それを一本にしたもののようです。
A――それがよくわからない。前半の井上論文(「武蔵はお伽衆だった」)と、後半の大倉論文(「古文書・書画からさぐる武蔵像」)、これはまったくレベルがちがう。これを抱き合わせにして一本にしたのは、理解できない奇妙な編集だ(笑)。
B――前半の「武蔵はお伽衆だった」、内容は凡庸だが、しかしこれもまずまずの出来じゃないか。けれど、後半の大倉論文、これは案外よかったぞ。例の坂崎内膳宛口上書とか、とくに武蔵の書画作品について、きちんと真贋の疑問を表明している点を買いたい。
C――武蔵作品に丸岡(宗男)が整理と評価をしたところは、問題がかなりあって、以前から明確にしなければならないと思っていたが、ようやく物を言える人間が出てきたようだ。
B――従来、武蔵真筆とされてきた「五方之太刀道」にしても、我々は疑問を呈してきたが、他に、真筆は疑わしいと言明したのは、これが初めてじゃないかな。この大倉というのは、どういう人かね。
A――熊本の県立美術館の人らしい。
B――それはいいじゃないか。もっと勉強してもらって、この本で疑問を呈したところを、しっかり研究してもらいたいな。現存『五輪書』の奥書にある寺尾孫之丞という宛先についても、的確な疑問を呈している。こういうあたりはセンスがよろしい。
C――そうだよ。しかし彼も九州派のようだから、小倉の宮本家伝書を無批判に鵜呑みにして、武蔵は播州米田村の田原氏の出だと書いてしまうが、このあたりもよく勉強してもらいたいものだね。こういう欠点が解消できれば、それなりのものが出せるのじゃないか。次に期待したい。
A――次回はぜひ、一本立ちできちんとしたものを出してもらいたい。こんなケッタイな共著じゃなくて(笑)。
――めずらしく、よい評価です(笑)。というわけで、この本のご採点は?
B――後半の大倉論文だけなら、70点。前半の井上論文と抱き合わせだから、全体として60点。
C――そうだね、本全体としてなら、60点というところだ。
――それでは、武蔵の書画に関する本が出たついでに、宮元健次著『芸術家宮本武蔵』(人文書院 2003年)。これはいかがでしょうか。
A――この宮元という人は、古典美術や建築の評論で最近かなり多数本を出しているようですな。だがこの本は便乗本で、とくに言うべきものはない。
B――武蔵に関しては、ちょっと勉強しましたというレベルで、素人だな。要するに、この本は、武蔵は左利きだったという話が眼目。しかしこの左利き説は、絵画描法とは関係なしに、以前からあった説だね。
A――そう。二刀流というのは、左利きだったから二刀遣いになったという説だ。あるいは、左利きを隠すために二刀流にしたんだという珍説もある。
C――武蔵の絵画作品から、左利き説を導き出したのは、前例があるね。左利きではないと、こういう線は描けないという話。
B――それは、それでよいが、武蔵は左手でも右手と同じように線を描けたということ以上の話ではない。それは、左手でも右手と同じように太刀を操作できた、ということだ。これは修練の結果だろうね。左利きとする理由にはならない。
A――すると武蔵は、左利き説が出そうなほど、左手の利きを誇示する線を描いてみせた、ということなのか(笑)。
B――そんなところがあったかもしれない。おれの二刀遣いはこれほどの腕前だって(笑)。それはともかく、あの線描と構図から左利きを結論するのは無理な話だな。
C――まあ、武蔵について話題を増やす程度の話でしかない。いま流行の「へえ」ってやつだ(笑)。
A――武蔵は左利きだった。へえ!(笑)
B――左手で絵を描いて有名だったのは、馬遠〔ばえん〕の弟子の王輝〔おうき〕ね。左手で巧みに描いたというので、とった異名が「左手王」(笑)。
C――そりゃ、左手のワン(王)だ。しかし、この本で、武蔵が「左の手にさして心なし」と書いたのは左利きを隠蔽するための攪乱だというあたりは、まさに通俗本の論法だね(笑)。他愛のない話だけど。
B――ここにある岡山県立美術館の「柳燕図」の説明は、さきに「竹雀図」を出して別々に説明しているが、これはそもそも「竹雀柳燕図」で2幅一対のものだぜ。別個に見るのは間違いだろう。
A――もっと正確じゃなくてはいけないが、これは現物を見ていないのかい(笑)。
C――それと、この「騎牛布袋図」の解説、笑ってしまうな。なぜ布袋は牛に乗っているのか、太った布袋を馬に乗せるわけにいかないから、牛なんだなんて(笑)。
B――著者は「十牛図」の布袋の話を知らないようだ。いずれにしてもこの本は武蔵作品の解説になっていないものが多い。もう少し勉強した方がいい。
C――ともかくこの本は、武蔵の書画の真贋という肝心な問題については、ほとんど無批判だね。いちおう美術評論をやる者なら、そのあたりに踏み込んでくれなくては。
A――そこまでの苦労をしてみない。チョイチョイと既成の武蔵本を集めて、一つでっち上げた、というところだ。肥後の矢野派の話はどこからパクったんだ(笑)。
C――さっきの大倉論文(『お伽衆宮本武蔵』所収)と比べるとわかるが、これはさして生産的ではないな。しかも便乗本だから、例によって、武蔵の簡単な伝記を書く必要があるが、米田村出生説をパクって書いておる(笑)。まったくイージーな本だな。
――では、そういうところで、ご採点は?
A――せいぜい、まあ、50点。
B――それだと甘いが、そんなところだ。

【Case 16-1】
 「此道二刀として太刀を二つ持つ儀、左の手にさして心なし。」
 つまり武蔵は二刀流において左の手には余り意味はないというのだ。しかし、これはおそらく自らにとって最も特徴的な点を秘めるという兵法者の撹乱ではないだろうか。武蔵にとって左利きであることは終生秘めなければならない長所でもあり、急所でもあったに違いない。もし見破られれば、二刀流にとって最も有利なこともかえって急所となりかねないからだろう。見破られないためにあえて反対のことを記した可能性も否定できないのである。そのヒントを与えてくれるのが、前にも触れた尾張で武蔵の剣を見た柳生兵庫助の言葉である。
 「その剣は武蔵ならではのもので、余人の学べる質のものではない。」
 この言葉の中の「武蔵ならではのもの」というのは、果して武蔵の左利きを指しているのではないだろうか。つまり左利きは一般の人に学べる質のものではないと取ることもできなくはないのである。
 武蔵は左利きという特徴をもっていたがゆえに二刀流をあみ出すことができた。しかしその左利きが逆に彼の仕官にとって仇となった。
 左利きを大多数の右利きの人に教えることは不可能である。よって仕官のさまたげとなったのではないだろうか。つまり武蔵が二刀流をあみ出したことも仕官できなかったことも、すべて彼の左利きのためであったともとれる。そして次項で述べる通り、彼が芸術家として第二の生を享けたことも左利きに根ざしていたのである。

【Case 16-2】
 それでは布袋を牛に乗せるアイデアは果してどこから生まれたのだろうか。ここでにわかに想起されるのが、これまで見てきた布袋画のほとんどに武蔵が自身を重ね合わせようとした痕跡が残ることである。武蔵は晩年、熊本の細川藩に客将として仕える際の条件として、出陣用の馬を要求している。武芸者にとって乗馬は必須の技術であった。彼の遺書ともいうべき「独行道」でも馬は「兵具は格別」としている。後に詳しく述べるが、武蔵は多数の馬の絵を遺すほどに馬を好んだ。この絵の布袋が仮に武蔵であったとして、太った布袋をまさか足の早い馬に乗せるわけにもいかず、「牛歩のごとく……」といわれる牛に乗せたのではないだろうか。






 5 0 点 



宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武藏』
初版本 明治42年





【Case 17-1】
宮本武蔵遺蹟顕彰会は武蔵終焉の地・熊本の有志十数人が剣聖武蔵の本当の姿を書き残そうと明治三十九年に組織。明治四十二年、本書を発行した。通称「顕彰会本」と言われ、吉川英治も参考にしたという武蔵研究の一級資料。(帯のコピーより)







 8 0 点 










――さて次は、宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』(熊日出版 2003年)です。これは覆刻版でしたね。
C――そう。これはよかった。この本は一向に覆刻版が出ないので、みんな困っていたところだろう。
A――たいてい、コピーしか持っていなかったんだ(笑)。この本に対して多くの人間が批判や文句を口にしたが、それを持っているやつは稀だった。
C――和綴じの初版本が当方にあるが、そちらにも現物が一冊あったな。
B――あれは親父が買った大正(七年)の第三版。初版は明治四十二年、同年に再版、それから九年ほどで第三版が出てるから、けっこう売れてたようだ。
C――大正中期に武蔵ブームが一度起きていたようだ。金港堂はその需要に応じた。
A――内容はべつにして、武蔵研究史において言及不可避な基本文献。そういう意味で、今回、熊日(熊本日日新聞社)が完全なかたちで覆刻したのは、時宜を得ている。
――我々の研究プロジェクトでは、この顕彰会本に対して批判的なスタンスをとっているから、フェアな条件を設けるために、断片引用ばかりするのではなく、このサイトで、これを丸ごと翻刻して評註も付けて、という予定でしたね。
A――これが出て、その労は省けた。だから、とてもありがたい(笑)。ただ、覆刻原本が大正の第三版というのは、どういうわけ?
B――あれ? そうだったか。それじゃあ、おれんちのとおんなじだ(笑)。どうせなら、初版本の覆刻にすべきだった。
A――和綴じの体裁は無理だとしても、せめて、中身だけでも初版本の方にするとか。
C――まあ、それに、今回の覆刻本の帯に、《吉川英治も参考にしたという武蔵研究の一級資料》とあるのは正確ではない。今日ではもう「武蔵研究」の一級資料ではなく、戦前戦後まで長く影響力があったという意味で、「近代武蔵研究史」の基本資料だ(笑)。その限りにおいてのみ、今回の覆刻の意義がある。
B――別冊現代語訳まで付けてな(笑)。もう、明治の文献でも現代語訳が必要な時代になったか。
C――それは親切な配慮だった。しかし、今回の覆刻本には、残念ながら、注釈が不足しているね。それがないと、現代語訳があっても読めないということになる。
A――最近は、鴎外の小説でも注釈が必要になってきたらしい。明治は遠くなりにけり、ですな(笑)。
B――この顕彰会本『宮本武蔵』の史的意味を確定するためには、たしかにきちんとした注釈が必要だった。しかし、このテクストに注釈をつけるとなると、これはかなりの作業になるな。それが出来る人間が熊本にはいなかった、ということかい。
C――この文献の唯一の注釈が、我々の武蔵サイトの[資料篇]、そういうことでは、困ったものだ(笑)。ともかく、この覆刻出版事業、大いに歓迎すべきだ。
――はい。では、ご採点は?
B――資料的価値ありということで、ずばり、80点。これこそ、今回の最高点だろうよ。
C――その最高点でいい。これ以上の出版物は、今回の武蔵本ブームにはなかったのはたしかだ。
A――他に覆刻すればよいものとしては、何かある?
B――楠正位が『武徳会誌』に連載した「宮本武蔵」(明治四十三〜四年)だろね。これは二天記にも顕彰会本(本書・宮本武蔵)にも距離をおいているが、引用文献の所在が不明なのが惜しい。あとは、三橋鑑一郎の『劔道秘要』や山田次朗吉の『日本劔道史』は以前から覆刻版が出ているしねえ。そういえば、戦後のものだが福原浄泉かね。
C――福原浄泉はたかだか三、四十年前だが、発行部数が僅少だったから今や稀覯本だな。うん、これを覆刻するのもいいな。しかしむろん問題がある(笑)。
B――ようするに誤記・誤植がやたらあって、一冊におそらく数百はあるだろ(笑)。注釈以前の訂正がいっぱい必要だということだな。
A――そんな校訂作業はだれもやりたがらない(笑)。
――次は、事典物に行きますか。今回の武蔵本ブームの中で出たものとしては、加来耕三編『宮本武蔵大事典』(新人物往来社 2003年)ですね。これはどうでしょう。素人目にも、かなり問題がありそうですが。
B――問題がありそう、というどころか、大いに問題ありだね。この「大事典」を称する武蔵本は、その名を偽る誇大広告の類だ(笑)。
C――これは「大事典」どころか、事典ですらない。だいいち、「宮本武蔵」大事典と称していながら、中身は剣道事典としか言えない代物だ。信じられないよ、こんな本(笑)。
B――水ぶくれ(笑)。分量を稼ぐために、武蔵とまったく無関係な項目で、水増ししている。しかも値段が、何と七千八百円。だいたいだね、由比正雪物の浄瑠璃に登場する遊女宮城野に、ほぼ一ページを費やす『宮本武蔵大事典』なんてあるか(笑)。由比正雪の慶安事件なんて武蔵死後の事件だ。しかも宮城野なんて、武蔵にまったく何の関係もないキャラだ。
C――同じく、「清水上野介の妻」にも、ほぼ一ページ。何か不条理な理由でもあるのか(笑)。ようするに一事が万事、分量を水増しするために、無関係な事項を取り込んでいる、まったく悪質な出版物だ。新人物往来社の見識を疑うね。
A――宮本武蔵に関連する項目を拾い読みすると、これが、ほとんど中身がない。しかもその内容たるや、まったく陳腐化した記事で、戦前のものかと錯覚させるほどだ。武蔵事典というが、この本には「武蔵の姉」という項目はあっても、宮本伊織の末裔、小倉宮本氏の項目はない。
B――もっとすごい。「お杉」(吉川英治『宮本武蔵』の登場人物・又八の母)の項目はあっても、そもそも「五輪書」という独立項目がない。こいつらは一体何を考えているんだか(笑)。まったくひどい『宮本武蔵大事典』だぜ。
C――しかも、間違いだらけと来ている。武蔵が藤原氏を名のるのはおかしい、とくる(笑)。こいつらは、新免氏は元祖を徳大寺実孝とする家系だという話を知らんのか。しかも、新免宗貫の母が《豊臣秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛(重治)の姉》とくる。これは「竹中」じゃなくて、むろん「竹内」だぜ。三木で死んだ竹中半兵衛とは関係がない。孫引きしかしていないから、そんなアホな間違いをする。
A――だけどまた、『二天記』が武蔵の伝記としては最も早く書かれたものだ、というバカなことを書いている。こやつらは『丹治峯均筆記』を知らんのか(笑)。なるほど、「丹治峯均筆記」という項目も、「立花峯均」という項目もない。まったく杜撰な事典だ。
B――それどころか、「二天記」の記事はあっても、「武公伝」という記事項目がない。これは、杜撰というよりも無知と言うべきだろう。
C――要するに、武蔵研究について何も知らん連中が捏造した武蔵事典なんだよ。しかし『二天記』が最古の武蔵伝記だとかいうタワ言は、前に出た『宮本武蔵のすべて』という埒もない本にも書いてあったな。恐るべき無知が支配的だというのが今の状態よ(笑)。
A――他にもこの「大辞典」の間違いを挙げれば、肥後の岩戸観音・霊巌洞が「霊巌堂」。洞窟の霊巌洞がいつのまにかお堂になっているらしい(笑)。
B――あるいは、泊神社は「米田村」にあるとかね。この「高砂市米田の泊神社」が、この「大辞典」に再三登場する。しかし、我々も知らない間に、泊神社はいつ川を渡って対岸へ移動したんだ(笑)。
C――先日行ったら、泊神社は、まだもとの場所にあったぞ(笑)。こいつは泊神社も知らないで「大事典」を書いておる。まあ、その昔、原田夢果史(『真説宮本武蔵』昭和五九年)が「天神社のある加古川市の米田」とか書いておったな。こっちは逆に高砂を加古川と間違えていた。似たようなアホな錯誤は迹を絶たない。本を書くなら現地踏査くらいやれよ(笑)。
B――間違いといえば、この「大事典」には、同様の基本的な間違いは他にもいくらでもある。森岩彦兵衛の項目に、《元禄二年、彦兵衛は播州と作州の国境である鎌坂道の中山峠まで武蔵を見送り》とあるのは、なんだね。武蔵は元禄年間まで生きてたのか(笑)。
A――そのあたりになると、もう、むちゃくちゃですわな。
B――花菱アチャコか(笑)。
C――古いな、トシが知れる(笑)。しかし、何というひどい「大事典」だ。
A――トンデモ本ですな(笑)。大笑いさせてくれるから『お笑い宮本武蔵大事典』と改名すればいい。
C――笑うより、もう泣きたくなるよ(笑)。しかし、『宮本武蔵大事典』なんてタイトルを付けながら、武蔵研究の専門家らしき者がだれも関与していない。個別の記事を追ってみると、武蔵のことを知らない連中が書いていると判るね。要するに、そのあたりにある俗書にさえ劣る。よくまあ、こんなひどい本を出したものだ。これは今回の便乗本のなかでも最悪のものだな。
B――そうだね。これがワーストだ。これで、決まりだ(笑)。
A――もう、帰っていい?
――とんでもない(笑)。まだ、リストが残っています。それに、この本、ご採点は?
B――こいつは、最悪の便乗本ということで、マイナス50点。
A――つまり、カネ返せ、だ(笑)。
――ルールとして、マイナスはありません。
C――はいはい、0点でいいよ。何も知らずにこんな高価な駄本を購入してしまった図書館は、即刻廃棄処分にすべし、という意味だ。

【Case 18-1】
宮本姓
 武蔵は『五輪書』において、「生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信」と自らを名乗っている。だが、ここで武蔵が名乗っている新免氏は、もともと村上源氏の流れを汲む赤松氏に連なる名流である。その一方で「藤原」を称するのは明らかに矛盾している
 源・平・藤・橘の四姓の中から、源氏と藤原を同時に名乗るなど本来あり得ないことである。

【Case 18-2】
新免伊賀守宗貫
 美作国(現・岡山県北部)吉野郡竹山城主。備前国(現・岡山県南東部)宇喜多氏の臣で、三千六百五十石を知行。母は豊臣秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛(重治)の姉。

【Case 18-3】
二天記
 宝暦五年(一七五五)に完成した、宮本武蔵の伝記。武蔵の伝記としては最も早く書かれたものである。武蔵とその門弟に関するさまざまな挿話を集めた書で、豊田正剛・正脩・景英の三代にわたって編纂された。ただし、武蔵の死後百年以上を経ていることもあり、鵜呑みにできない部分も多い。

【Case 18-4】
泊神社棟札
 武蔵の養子・宮本伊織は承応二年(一六五三)、故郷である播州(現・兵庫県南西部)印南郡河南庄米田村にある泊神社の社殿修復を行った。このとき掲げた棟札に、伊織自身の出自や、武蔵に関する記述があることから、古くから研究者に注目されている。
 武蔵に関する記述は、「有作州之顕氏神免者、天正之間、無嗣而卒筑前秋月城、受遺承家、曰武蔵掾玄信、後改氏宮本、亦無子而以余為義士、故余今称其氏」とある。

【Case 18-5】
森岩彦兵衛
『東作誌』によれば、武蔵が慶長四年(一五九九)に出郷する際に、ただ一人武蔵を見送った人物であるという。元禄二年(一六八九)、彦兵衛は播州と作州の国境である鎌坂道の中山峠まで武蔵を見送り、武蔵は、これに対して自作の木刀(長さ三尺六寸五分)を彦兵衛に与えた。





 0 点 





 2 0 点 







 1 0 点 

――では同じく「事典」を称するものですが、加来耕三著『宮本武蔵(剣聖・剣豪)事典』(東京堂出版 2001年)はいかがでしょうか。
A――これはさっきの『宮本武蔵大事典』の元本だね。これをみると、大事典の方は、これを焼き直して五十音に並べてそのまま出したとわかるね。それが証拠に、文言が同じだ(笑)。
B――書き手が同じだよ。しかし、こういうことをやっていていいのかね。武蔵の「実像」だの「考証」だの「真説」だのときて、名前がなくなったから「事典」かね。
C――今回は武蔵の「真実」というのが加わった(笑)。事典というと検索文書だろう。それが、事典の形式でないこんなものに事典という名をつけて売るのは、けしからんな。
B――『宮本武蔵(剣聖・剣豪)事典』という題名だが、内容はというと、『剣聖・剣豪(宮本武蔵)事典』だな。さっきの『大事典』ほどじゃないが、タイトルも詐称しておる。
A――『大事典』の方は、これに味をしめて出したのじゃないか(笑)。「剣聖・剣豪」の文字さえ消している。
C――確信犯だな(笑)。
――それで、この『宮本武蔵(剣聖・剣豪)事典』のご採点は?
A――これも採点するのか。ならば、20点だね。どうですかな。
B――ノーコメント(笑)。

――同じくこれも「事典」を称するものですが、小和田哲男監修『歴史小事典 発掘!武蔵&小次郎』(NHK出版 2002年)はいかがでしょうか。
A――これもバカバカしい本だね(笑)。事典の体裁をなしていないのは言うまでもないが、だいいち、今どき、『二天記』の史料評価が「A」だとさ(笑)。
B――まったくアナクロだな(笑)。『二天記』の史料評価が「A」、対するに『丹治峯均筆記』の史料評価が「C」、いったいどういう基準なんだ。
C――もっとすごいぞ。『二天記』が「A」なのにだ、プライマリーな史料・泊神社棟札が、なんと史料評価「C」(爆笑)。いやいや、笑わせてくれるなあ。
A――おそるべき、デタラメな本だ。どうせ、どこかの編集プロダクションの生産物だろ。しかし、NHK出版、いくら大河ドラマ関連商売の便乗本だからとはいえ、こんな恥かしい本を出すなよ(笑)。
――ご採点は?
B――むろん、ゴミだ。廃棄処分(笑)。
C――だんだん面倒くさくなってきたな。十把ひとからげにしよう。
――時間が不足してきていますので、しかたありません。そうします。
  (採点結果は下記一覧表の通り)

採点 著者編者名 書 籍 名 版 元 発行年
80点  宮本武蔵遺跡顕彰会編  宮本武蔵(覆刻版)  熊日出版 2003
70点  魚住孝至著  宮本武蔵 日本人の道  ペリカン社 2002
60点  井上智重・大倉隆二著  お伽衆宮本武蔵  草思社 2003
 松延市次・松井健二監修  決定版 宮本武蔵全書  弓立社 2003
 前田英樹著  宮本武蔵『五輪書』の哲学  岩波書店 2003
 福田和也著  人を斬る覚悟があるか 宮本武蔵「五輪
 書」の真髄
 講談社 2003
 縄田一男著  武 蔵  講談社 2002
50点  鈴木輝一郎著  中年宮本武蔵  双葉社 2003
 宮元健次著  芸術家宮本武蔵  人文書院 2003
 井上雄彦著  バガボンド 1〜18 以下続巻  講談社 1999〜
 斎藤慎爾編  "武蔵"と吉川英治 求道と漂泊  東京四季出版 2003
 長尾剛著  新釈「五輪書」  PHP文庫 2002
 磯貝勝太郎・縄田一男編  武蔵と日本人 価値の転変する時代に  NHK出版 2003
 別冊歴史読本編  図説 宮本武蔵の実像  新人物往来社 2002
 高岡英夫著  武蔵とイチロー  小学館文庫 2002
40点  岡田一男・加藤寛編  宮本武蔵のすべて  新人物往来社 2002/再
 小島英熙著  宮本武蔵の真実  ちくま新書 2002
 二木謙一監修  宮本武蔵の時代 歴史・文化ガイド  NHK出版 2002
 森本繁著  宮本武蔵を歩く  学研M文庫 2002
 バンカル編  生国播磨 宮本武蔵の真実  神戸新聞出版C 2002
 戸部新十郎著  図説 宮本武蔵  河出書房新社 2002/再
 高田泰史編著  宮本武蔵の実像  もぐら書房 2002
 大森富士男著  武蔵見参 宮本武蔵伝説の事実と虚構  東京経済 2002
 全国水墨画美術協会編  剣禅一如 宮本武蔵の水墨画  秀作社出版 2002
 桜井良樹著  宮本武蔵の読まれ方  吉川弘文館 2003
 奈良本辰也著  宮本武蔵 五輪書入門  学研M文庫 2002/再
 中西清三著  宮本武蔵の生涯  新人物往来社 2002/再
 和田一見・武蔵秘伝研究会
 編著
 放浪するヒーロー宮本武蔵最強の秘密
 「バガボンド」研究読本
 21世紀BOX 2002
 別冊宝島編  宮本武蔵伝説  宝島社 2002/再
30点  加藤寛・植原吉朗著  宮本武蔵・剣と心 絶対必勝の心理学  NHK出版 2003
 戸部新十郎著  考証 宮本武蔵  PHP文庫 2002/再
 久保三千雄著  謎解き宮本武蔵  新潮文庫 2002/再
 川口素生著  宮本武蔵101の謎  PHP文庫 2002
 古川薫著  宮本武蔵 幻談二天光芒  光文社文庫 2003
 北影雄幸著  決闘者武蔵  光人社 2002
 別冊歴史読本編  宮本武蔵 孤高に生きた剣聖  新人物往来社 2002
 新宮正春著  新考 宮本武蔵  新人物往来社 2002
 新選社編  宮本武蔵 卑怯のすすめ  新選社 2003
 ウィリアム・スコット・ウィルソ
 ン、松本道弘著
 対訳・五輪書  講談社インターナ
 ショナル
2002/再
 中元孝迪著  生国播磨の剣聖 宮本武蔵を行く  神戸新聞出版C 2003
 遊佐京平著  新考・宮本武蔵  無明舎出版 2003
 別冊宝島編  完全版宮本武蔵 "最強"を生きた男  宝島社 2002
 坂本優二著  宮本武蔵 知れば知るほど面白い人物歴
 史丸ごとガイド
 学習研究社 2002
 戸部新十郎編  実像・宮本武蔵  広済堂出版 2003
 MUSASHI研究会著  宮本武蔵科学読本  主婦と生活社 2002
 宮本武蔵真相究明学会著  裏ムサシ 疑惑のヒーロー宮本武蔵
 100の謎
 ワニマガジン社 2002
20点  加来耕三著  宮本武蔵(剣聖・剣豪)事典  東京堂出版 2002/再
 谷沢永一著  ビジネスマンのための宮本武蔵 五輪書  幻冬舎文庫 2003/再
 志村有弘著  新訳『五輪書』 宮本武蔵を読む  大法輪閣 2003
 菅井靖雄著  一冊で読む剣豪宮本武蔵  成美文庫 2002
 渡辺誠著  宮本武蔵 剣と人  新人物往来社 2002
 高野澄著  武芸者で候 武蔵外伝  NHK出版 2003
 川口素生著  佐々木小次郎
   出自・つばめ返し・巌流島の真実
 アーツアンド
   クラフツ
2003
 寺林峻著  双剣の客人 新説・宮本武蔵  学研M文庫 2002/再
 寺林峻著  宮本武蔵『五輪書』を読み解く  清流出版 2002
 雑学倶楽部編  雑学宮本武蔵の人間学  講談社+α文庫 2002
 井沢元彦著  宮本武蔵 最強伝説の真実  NHK出版 2002
 童門冬二著  武蔵 兵法革命家の生き方  NHK出版 2002
 加来耕三著  「宮本武蔵」という剣客 その史実と虚構  NHK出版 2003
 加来耕三著  武蔵の謎 徹底検証  講談社文庫 2002
 岸祐二著・加来耕三監修  図解雑学 宮本武蔵  ナツメ社 2002
 岸祐二著・加来耕三監修  図解雑学 五輪書  ナツメ社 2003
 息吹友也著  図説 宮本武蔵五輪の書  PHP 2002
 武田鏡村著  図解五輪書 宮本武蔵・必勝の兵法  東洋経済新報社 2002
 神一行著  熱血!!決定版!!宮本武蔵学  角川書店 2002
 碓井静照著  宮本武蔵考  ガリバープロダクツ 2003
10点  早乙女貢著  新編 実録・宮本武蔵  PHP文庫 2002/再
 寺中旦中監修  宮本武蔵の剣と美  青春出版社 2002
 小和田哲男監修  歴史小事典 発掘!武蔵&小次郎  NHK出版 2002
 中江克己著  宮本武蔵「五輪書」 勝機はこうつかめ!
 活路を開く捨て身の必勝論
 成美文庫 2002
 早乙女貢監修  剣豪宮本武蔵 現代にも通じる武蔵流
 "勝ち抜く術"を学ぶ
 双葉社 2002
 高橋華王・宮本武蔵研究会編  宮本武蔵50の真説!!  東邦出版 2001
 川村晃著  宮本武蔵 物語と史蹟をたずねて  成美文庫 2002/再
 ブルボンクリエーション編  宮本武蔵を旅する  イカロス出版 2003
 童門冬二著  宮本武蔵  三笠書房 2002
 童門冬二著  武蔵の道  小学館 2002
 童門冬二著  宮本武蔵の『五輪書』  PHP 2002/再
 桑沢慧著  宮本武蔵かく闘えり  PHPエディターズ 2002
 柘植久慶著  宮本武蔵十二番勝負  PHP文庫 2002
0点  加来耕三編  宮本武蔵大事典  新人物往来社 2003

――採点結果のリストは以上です。お疲れさまでした。ほかにも武蔵本はありますが、このへんで。
B――もう、たくさんだ(笑)。
A――こうしてみると、武蔵本が短期間にずいぶん出たなあ。感心するよ。ゴミが圧倒的に多いけれど。
C――合格ラインが60点だから、ほとんどがゴミだ(笑)。
B――しかも、こうして一覧してみると、誰が、くだらん便乗本を量産して稼いでおったか、一目瞭然だのう(笑)。こんなにゴミが大量に出るのは武蔵くらいなものだろう。やはり武蔵は偉大なのかね(笑)。
C――まあ、それだけ書いて出せるのは、はずかしい剽窃や焼き直しであろうと、材料がありすぎるということ(笑)。しかし、今回で目立ったのは、武蔵の出生地に関して美作説が後退して、播州の印南郡米田村とする説が勢力をもってきたことかな。
A――それが、先行き不安要因である(笑)。この説が通説化すると、またぞろ武蔵研究が遅滞する。
C――まったくねえ。で、ほかに目立ったというのは、古武道に目が向かっていたことか。
B――古武道、というか、端的に言えば、甲野善紀じゃないか。甲野の本はこの間たくさん出たな。一種のブームになっている。
C――それは彼が明晰に語れるからだろう。甲野の話は、興味深いね。
A――養老孟司との対談本もいくつかある。養老孟司の方が食われている。
B――そうだったな。養老の話は医者の割には具体性がない。どうも、医者として出来損ないじゃないか(笑)。
C――養老が面白かったのは、十年以上前だ。甲野との対談本を見ると、最近はネタ切れのようで、中身が薄くなっている。
A――にもかかわらず、去年はバカ売れに売れた。「バカの壁」(笑)。
B――だから、世の中はわからん、「バカの壁」(笑)。甲野との対談本を見ると、養老の話は抽象的で迫力がないが、甲野の話は明確で説得力があるね。どこまで、先に行けるかしれないが、まあ、たのしみだね。
C――つまらん武蔵本が大量に出たなかで、武蔵本ではないが、つい買わされるほど彼の本が光っていた。畢竟するところ、それが今回の武蔵本ブームの総括じゃないか(笑)。
――はい。では、今回はとくに長時間、ありがとうございました。ここでお開きといたします。次回は、さらに別のテーマで、お願いしたいと思います。
A――ああ、疲れたわい(笑)。
(2004年1月吉日)







VIDEO「新・井桁術理」
(松聲館の術理と技1)
演武/解説 甲野善紀




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