二木謙一(宮本武蔵とその時代)、岡田一男(『五輪書』について)、加藤寛(二天一流と武蔵の剣技)、丸山宗男(武蔵の書画)、釣洋一(映像の中の宮本武蔵)、安宅夏夫(小説に描かれた宮本武蔵)、岡田一男(武蔵の家系と系譜)、加藤寛(宮本武蔵の全試合)、加藤寛(武蔵をめぐる人物事典)、岡田一男(宮本武蔵関連史跡)、岡田一男・加藤寛(宮本武蔵関係文献目録)、岡田一男・加藤寛(宮本武蔵年譜)
【Case 9-1】
『丹治峰均筆記』 丹治峰均 享保十二年(一七二七) 別名『兵法大祖武州玄信公伝』という。二天一流の伝承者柴任美矩、吉田実連の直話を丹治峰均が筆記したものである。『二天記』とほぼ同じ時代に成ったもので、『兵法先師伝記』ともいい、養子造酒之助との出会い、その他を載す。宮本武蔵顕彰会編『宮本武蔵」収録。
【Case 9-2】
『二天記(武公伝)』 豊田又四郎・彦次郎・左近右衛門の三代の編述 宝暦五年(一七五五) 『肥後文献叢書』第二巻『日本武道全集』第一巻所収 二巻 武蔵の死後百年余を経て、肥後藩士豊田又四郎(正剛、寛延元年没)が、武蔵や門弟の話、文書、逸話などを記録しておいた。それを、その子彦次郎(正修)が書き加えて「武公伝」とし、さらに孫の左近右衛門(景英)が加除添削して編述したのが武蔵の伝記、すなわち『二天記』である。正剛は武蔵と同時代の人物ではないから、史料としての価値は高いとはいえないが、武蔵の伝記としては最も古く、まとまった記録である。
【Case 9-3】
三一歳 武蔵、西軍に加担して大坂冬の陣に参戦。(二天記)
三二歳 再び西軍に加担して夏の陣に参戦。大坂落城し、徳川の探索を遁れて地下に潜行。以後、諸国を回って足跡不明。(二天記)
【Case 9-4】
『東作誌』 正木輝雄編 文化十二年(一八一五)美作東六郡の地誌 宮本村の庄屋甚兵衛が、元禄二年(一六八九)に津山城主森家に差し出した『宮本村古事帳』をもとにして編したもの。武蔵が慶長四年(一五九九)に郷里を出立する時の模様などが記されている(宮本村の条)。その他「徳大寺系新免家系図」「新免家侍帳」「本位田事件」などを記載。
【Case 9-5】
『作陽誌』 作州編 文化十二年(一八一五)「武仁子武蔵迄爰(宮本構)に居、天正より慶長迄の間なり。其後元和九年、武蔵末孫下庄村より構の上の畑に居住、与右衛門以来武蔵家相続仕候」とある。その他武蔵関係記載があるが、これらは『古事帳』が出典となっている。
【Case 9-6】
しかし、造酒之助も伊織と同様、身分の卑しい馬子などではなく、立派な新免家(祖父将監以来仕えた主家、後述)の嫡流であったことは同家の系譜が、これを立証している。その上、造酒之助は武蔵の従兄弟の子に当たる人物であり、そうした血縁関係にあったればこそ、武蔵はこれを養子としたものであろう。
【Case 9-7】
宮本と中山は隣接しているが、鎌坂峠を境として宮本は美作国、中山は播磨国である。つまり平田家の采地は両国に跨ったも一つのものであったから、生国播磨といおうが、美作といおうが、武蔵のこだわらない性格からすれば、問題とはしなかった。

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――では、次に、再版ではなく今回「新版」だというもの、岡田一男・加藤寛編『宮本武蔵のすべて(新版)』(新人物往来社 2002年)です。これは、一九八三年にすでに出ていたものを改訂して新版として出したということです。これは今回の武蔵本ブームで粗製濫造された本の多くが参考書にしたもので、内容は、いろいろと、盛り沢山ですね。
A――なにしろ、「宮本武蔵のすべて」というわけだから(笑)。盛り沢山なのはよいが、わずか二百八十ページの本だ。個別の内容はまったく薄い。
B――決してお買い得ではないな(笑)。それぞれのパートに内容はない。これだと、「図鑑」、「図説」を称する武蔵本のものと内容は大差ない。
A――しかし、間違いが多いのも困ったものだ。たとえば、『丹治峯均筆記』について、別名が『兵法大祖武州玄信公伝』だという例の珍説は、こいつから出たのかな。
C――さあね(笑)。これを参考にして武蔵本を書いておる奴がいるからな、困ったもんだ。それにしても、間違いだらけ。さっきの『丹治峯均筆記』についても、「『二天記』とほぼ同じ時代に成ったもので、『兵法先師伝記』ともいい」と書く。むろん『丹治峯均筆記』は『二天記』よりもずっと以前の、半世紀も前の作物だし、だいたいが「兵法先師伝記ともいう」わけがない(笑)。『兵法先師伝記』はもっと後世の丹羽信英が天明年間に書いた、まったく別のテクストだぜ。
B――この筆者はむろん、『丹治峯均筆記』を読んでいない。だからむろん、それが武蔵伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」以外にも四祖までの略伝や立花峯均の自記も含むことも知らない。熊本の顕彰会本『宮本武蔵』所収なんぞと書いているところをみると、顕彰会本で引用してある断片を見ておるだけだ。むろん『丹治峯均筆記』は読んでいない。
C――養子造酒之助との出会いその他を載す、というが、そんなことよりももっと重要なことが、『丹治峯均筆記』にはあれこれいっぱい書いてあるだろが(笑)。現存写本を閲覧するどころか、要するに『丹治峯均筆記』の内容を知らない奴がそれについて書いておる。そんなデタラメな「宮本武蔵のすべて」を、読者諸君は買わされておるわけだ。
A――『二天記』の記事にしても正確ではない。まず、なんで「二天記(武公伝)」という表記になるの(笑)。『武公伝』は『二天記』の種本だが、『二天記』はそれを相当改竄しているよ。両者を一つに括れるわけがない。
B――この解説内容をみると、武蔵の伝記としては最も古く、まとまった記録である、なんぞというヨタ話を書いている。『二天記』は一般に宝暦五年(1755)成立と誤認しているが、そうではなく、『二天記』という名の書物が成ったのは、その序文や奥書からすれば安永五年(1776)だよ。『丹治峯均筆記』の半世紀も後だ。
A――彦次郎(正修)が書き加えて、さらに孫の左近右衛門(景英)が加除添削して編述したなんて書くところをみると、これは明治の本(肥後先哲叢書)の解説を、そのまま引き写しておるだけ。おそるべき怠惰、杜撰としか言いようがない(笑)。
C――むろん景英が書いた豊田氏先祖附なんぞ見たこともないのさ。『二天記』の著者についても根本的な誤りがある。豊田改メ橋津彦兵衛正脩が書いたのは、『二天記』ではなく、「武公伝」という名の書物だ。これを一般に現存『二天記』と混同するが、それは誤り。『二天記』という現存文書の著者は、正脩ではなく、子の専右衛門景英である。親父が遺した「武公伝」を校訂しているうちに、別の書物を書下ろしてしまった。それが『二天記』(笑)。
A――そもそもですな、現存『武公伝』が橋津正脩の原稿そのままだ、とは云えない。正脩が死んだ後の記事まで書かれている。すると、我々の読みうる『武公伝』はだれが書いたんだ(笑)。
C――子の景英がかなりいじっている。とすれば、正脩が書いたという「武公伝」は残っていないね。子の景英が消しちまった。
B――橋津正脩が書いた「武公伝」は文字通り、《vanishing mediator》だな。正脩の書いたものは二天記冒頭の「凡例」の記事が残っているとはいえ、それにも問題がある。いずれにしても、こういう武蔵伝記研究の問題点は、我々の研究プロジェクトではじめて提起されるようになったことばかりだ。
C――話をもどせば、しかしまあ、この『宮本武蔵のすべて』には、おそるべきことが書いてある。巻末に年譜を掲載しておるが、そこには、大坂陣に武蔵が「西軍」で参戦したという。これは豊臣秀頼方の意味だろな。しかし、そんなことは『二天記』には書いていない。そのうえ、夏の陣で大坂落城したあと、武蔵は徳川の探索を遁れて地下に潜行、以後、諸国を回って足跡不明(爆笑)。ようするに、こんな武蔵逃避行が『二天記』に書いてあるらしい。それはどんな『二天記』だよ(笑)。
B――それはぜひ一度拝見したいものだ(笑)。
A――このあたりになると抱腹絶倒だけど、こいつらは『二天記』も読まずに「(二天記)」と書く。どんな神経をしているのか。
C――だから、筆者がアホならこそ、まともな出版社なら編集者がチェックすべきだろ。チェックもしないでバカげたことを書かせておる。自社の恥だと思わんのか。
A――美作関係史料についても、変なことを書いておるな。まず第一に、『作陽誌』が「作州編 文化十二年」とかね、だれが編纂したかも知らない、いつ出来たかも知らない。しかも『東作誌』と『作陽誌』、これを別項目にしてるというところが、無知の露呈か。
C――『東作誌』は現在の刊本の編集では『作陽誌』の一部に入れている。『東作誌』と『作陽誌』は別の書物ではなく、『作陽誌』は『東作誌』を含む。これは当初の編纂意図を汲んだものだ。『作陽誌』は、美作西部諸郡だけ江村宗普が元禄四年に完成させたが、東作部分は欠いて未完成のままだった。それを、文化年間に正木兵馬が東作部分を書いて補完した。しかし、百数十年も時代が異なる文書を、一つに括るのは間違い。正木兵馬が編纂した文書のタイトルは、『作陽誌』ではなく、あくまでも『東作誌』という題名の文書だ。
B――それだけじゃなくて、『東作誌』が、宮本村古事帳をもとにして編したもの、というのはどういう了見なんだ(笑)。『東作誌』は吉野郡を含む六郡の地誌だぜ。武蔵記事はそのごく一部に過ぎない。ヨタ話が過ぎる。どうもこいつらは、刊本の『東作誌』さえ読んだことがないようだ。
C――らしいな。同じ吉野郡の宮本村・下庄村・川上村が関係地だが、ここで『作陽誌』の項に入れて書いているのは「古事御改書上寫」の記事だな。それがどうして『東作誌』の項に入っていないんだ。
B――『東作誌』の内容も知らずに書いているぜ、これは。こうして眺めてみると、『東作誌』とは別の『作陽誌』という書物に、「古事御改書上寫」が記載されていると、そう思い込んでいるようだな。
A――古事帳がどうの、古事帳が出典となっている、などというが、何も古事帳だけじゃない。系図も伝説も拾っている。だいたい『東作誌』は書物の趣旨からして、東作六郡をフィールドワークして資料や伝説を蒐集しているだけだよ。古事帳を出典にしてそこから何か説を語っているわけじゃない。
C――地元では武蔵についてこんな伝説があるよ、こんな系図や文書もあるよ、というスタンスだ。いろいろ集めてみると、各家系それぞれ伝承が違っていて話が混乱している、どうもよくわからん、というのが正木の感想だよ。
B――こいつらの胡乱な書き方をみると、どうも武蔵研究に関して素人だな。この書誌部分を書いたのはだれだ。
A――岡田一男・加藤寛という名が出ているね。
B――それじゃあ、どうしようもない。連中が文責をとるのは無理だ(笑)。
C――他にたとえば、本書の「武蔵の家系と系譜」という論文にしても、「宮本武蔵のすべて」だから、武蔵の出自・出生地についても、諸説併記すると言って、突っ込むのを避けている。自分は播州出生説を支持するといいながら、作州宮本村説を延々説明するから、読んでいる途中、こいつはいつの間に美作説になったかと思うほどだ。論文として、要領を得ない出来損ないのものだ。
A――それで、造酒之助が「武蔵の従兄弟の子」になってしまったりする(笑)。美作説と播磨米田説を両方とも勘案しなければならないから、内容はハチャメチャだ。
B――いちおうバランスをとっているつもりだが、及び腰というところ。「宮本武蔵のすべて」、だから武蔵の出生地について諸説併記すると言っておるが、諸説総覧どころじゃない。かなり偏った低レベルの話だ。
A――この『宮本武蔵のすべて』は、『宮本武蔵のすべて中途半端』とした方がいい(笑)。
C――「すべて」というなら、こんな薄い本じゃなく、もっと分量を確保すべきだろう。しかしなあ、いちいち挙げればきりがないほど、かなり誤認があるね。宮本村は美作、中山村は播磨で、平田家の采地は二国に跨ったものだったというがね、こいつは当時の国境いの線引きを知らないで書いておる。宮本と同じく中山も当時は作州吉野郡の一部なんだよ。明治中期の線引き以後、中山村が兵庫県佐用郡に編入された。そういうことも知らないで書いておる。困ったやつだ(笑)。
A――生国播磨だろうが、美作だろうが、武蔵の「こだわらない性格」からすれば、問題とはしなかった(笑)。手前の杜撰な話を、武蔵の性格で正当化する。
B――あはは、それじゃ武蔵もかなわん(笑)。他にも間違いがかなり多いね。もちろん自前の武蔵研究者じゃない。岡田は富永だ、船曳だと言って依拠する。ところが、そんなセカンダリーな岡田論文でも引用するやつがいたな(笑)。わけがわからない状況だ。現在の武蔵論のレベルはまるで低空飛行しておる。
――そこで、ご採点となりますと、いかがでしょうか。
A――伝記部分や書誌などは落第、せいぜい20点がいいところだが、他の連中の論文や資料もあるから、抱き合わせで、40点。
C――ずいぶん気前がいいじゃないか(笑)。
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