坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

Home Page
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。 (五輪書・地之巻)
08 肥後系武蔵伝記のバックヤード  (後篇)  Back   Next 
Go Back to:  目次 
 (承  前)
――それでは、十分休憩していただいたところで(笑)、今回のお話の続きに入ります。
A――どこまで話は行ったのだったかな。
B――正剛が、享保十三年十月、豊之公、武蔵流兵法御稽古遊され候につき、御指南申上候よう仰せ付けられ、九曜御紋付御上下を拝領したので御座候(笑)、というあたりまで。
C――それで、豊田正剛の晩年のことだが、享保十五年(1730)、息子の正脩は二十五歳、父とは別禄で二十石、役料現米五石を受け、小姓頭役になった。そうして二年後の享保十七年(1732)、正剛は引退し、隠居する。
A――豊田正剛は六十一歳、引退は病気のせいのようですな。
B――この年、正剛は腫物を患うようになった。具体的なことは不明だが、癰腫〔ようしゅ〕というから、腫れ物ができたらしい。このことで、主家では、熊本から鶴田桑庵・野田玄悦という医師を呼び寄せて、正剛の治療に当らせるほかに、後藤宇太夫という者を介添えにつけて、また治療薬の朝鮮人参等も頂戴するというぐあいで、親切な世話を受けたらしい。
C――このうち、鶴田桑庵・野田玄悦という医師らしい人物は不詳だが、正剛の介添えに付けおかれた後藤宇太夫の方は、特定できそうだな。後藤氏先祖附をみるに、この享保十七年(1732)当時、後藤宇太夫といえば、後藤三右衛門正良の子・正房だろう。後藤正良も初名は宇太夫であるが、正徳五年(1715)に宇太夫から三右衛門に改名している。息子の正房は、享保十三年(1728)に豊之側近の中小姓に召し出されている。すると正剛発病の当時、中小姓組だから、豊之から正剛の病床に派遣されたようだね。
B――かように手厚い処遇を受けたが、正剛は、この年十二月、病気を機に役儀を辞退し、隠居した。息子の正脩は二十七歳、家督知行百五十石を相続、御者頭列で式台御番になった。つまり、ハナから物頭格というわけで、父の正剛が家督を嗣いだときとは、すでにスタートが違うな。
A――ここで注目されるのは、隠居した正剛が、その後「橋津卜川」と名のったという記事。「卜川」は号だから問題はないとしても、ここで豊田を「橋津」に改姓している。
C――正剛がいつ橋津へ改姓したか、というと、先祖附の他の箇処に、正剛の弟・正敬が、元文二年(1737)二月、橋津源右衛門と名を改め、また同じ年の同じ月に、正剛の息子で当主の正脩が苗字を橋津と改めたとあるから、この改姓の時期は、おそらくこの元文二年二月だろう。正剛は隠居してこの年六十六歳であるが、正脩や正敬まで改姓しているから、これは隠居の正剛一個のことではなく、豊田家はまるごと橋津姓に改めたということだね。
A――この「橋津」は、既に話に出たように、豊田家先祖が豊前で領知したという土地の名。さらにいえば、豊田但馬守景次が大友能直に隨仕して九州へ下り、与えられたのがこの豊前国宇佐郡橋津。したがって、正剛は先祖の故地に由来する橋津姓に改姓したわけだ。
C――ところが、この橋津姓を名のった先例があるね。寛永七年(1630)当時の長岡興長直属の五十三騎の中に、二百石の橋津又兵衛という名が見える(長岡佐渡守興長馬乗書付)。それにまた、山本氏先祖附によれば、寛永十五年(1638)の島原一揆鎮圧当時、山本源五左衛門勝安(士水)が橋津又兵衛について参戦したが、橋津又兵衛と尾崎伊右衛門の二人の組頭が負傷したので、代りに山本源五左衛門がその二組を指揮したとある。この橋津又兵衛なる人物が、当時豊田家の甚之允高久とどういう関係にあったか、興味深いところだ。
B――そこから、正剛(卜川)が、先祖の故地にちなんで改姓しただけではなく、この橋津又兵衛の名跡を継いだとも考えられる。それは、正剛の代に知行百五十石になって、家格からして豊田では具合わるかろう、橋津の名跡を継いだらどうか、ということだったかもしれない。
C――もちろん、豊前宇佐郡には橋津氏の一流は居残っていた。帰農して大庄屋で、ずっと存続している。
A――宇佐郡あたりは、当時、肥前島原城主・(深溝)松平氏の飛地領でしたな。
B――島原の乱で松倉氏が改易になって、その後、高力氏が入部したが、反乱で殺された人数が多いから、生産組織は壊滅状態。そこで他国から農民を入植させ、領内経済の再建につとめたが、高力家の跡継ぎの出来が悪くて、これも寛文八年(1668)改易。その跡に福知山から松平忠房が入った。領知は六万五千石だが、そのうち二万八千石ほどが豊前・豊後の飛地。支配役所は高田においた。途中、寛延二年(1747)から三十年ほど、宇都宮の戸田氏と交替するが、安永三年(1774)に復帰して、明治維新まで続いた。
C――橋津氏は、宇佐郡内の橋津組、十七ヶ村、村高四千四百石を束ねる大庄屋。そういう家も当地にあったから、ここで豊田正剛が橋津に改氏したとしても、当地が豊田先祖の故地だというだけで改氏するはずもない。
A――だから、肥後八代では、橋津又兵衛ゆかりの名跡を再興するということだったのではないか、というわけだ。そしてむろん、そのあたりの事情は委細不明、今後の解明を待つというのが現状ですな。
B――そういうわけだ。この改姓の年、当主の正脩は、隠居の寿之の御部屋小姓頭になった。寿之はもう七十歳だな。正脩は老公・寿之のお気に入りだったかもしれない。正剛の弟・源右衛門正敬は閏十一月に病死した。先祖附にいわく、《独身ニて御座候故、跡式無御座候》。
C――正敬は独身だったので、跡目がなく、橋津源右衛門の家は一代で断絶。嫡流ではない弟のケースには、養子口でもないかぎり、独身で妻帯しない場合が稀ではなかった。記者・豊田景英の生まれる前のことだが、先祖附には、こういう傍系の存在のことも忘れず書きとめられているのだね。



*【豊田氏先祖附】 正脩
豊之公御代、享保八年十一月、御中小姓被召出、御切米八石三人扶持被為拝領、同十五年八月、別禄弐拾石・御役料現米五石被為拝領、御小姓頭役被仰付》

*【豊田氏先祖附】 正剛
《同(享保)十七年十月癰腫相煩候節、鶴田桑庵・野田玄悦両人を熊本より被召寄、後藤宇大夫をも被差添、人参等被為拝領、段々御懇ニ被仰付候処、同十二月、御役儀被差除、隠居被仰付候。其後名を橋津卜川と改申候》










*【豊田氏先祖附】 正敬
《元文二年二月、橋津源右衛門と改、同年閏十一月、病死仕候。独身ニて御座候故、跡式無御座候》

*【豊田氏先祖附】 正脩
《同十七年十二月、父又四郎隠居被仰付、家督無相違御知行百五拾石被為拝領、御者頭列ニて御式台御番被仰付、元文二年二月、名字橋津と改申候》

*【豊田氏先祖附】
《其子豊田但馬守景次儀は、建久年中、大友左近将監能直、為鎮西の奉行九州ニ下向の節、属従仕、豊前国宇佐郡橋津を知行仕、代々大友家の旗下ニて御座候》




*【山本氏先祖附】
《高祖父・山本源五左衛門勝安儀は、右の源左衛門二男ニて、生地甚左衛門養子ニ相成百五拾石家督仕、生地武右衛門と申候。有馬御陣の節、橋津又兵衛添頭ニて、城乗の節二の丸ニて鑓を合敵一人突留、蓮池の上ニて又一人討取、橋津又兵衛・尾崎伊右衛門両人共手負候故、二組の足軽武右衛門下知仕鉄炮能打せ候旨ニて、御帰陣の上ニて為御褒美御知行百石御加増被下》







橋津関係地図




*【豊田氏先祖附】 正脩
《元文二年二月、名字橋津と改申候。 同十月、寿之公御部屋御小姓頭被仰付、同三年十一月、宗孝公御光駕の節、御目見被仰付候。右御光駕の以前、浜御茶屋御腰懸出来ニ付、支配被仰付、数日出精相勤候由ニて、従豊之公為御褒美金子百疋被為拝領、従寿之公於御前御小袖被為拝領候。同年十一月、座配持懸ニて、御作事奉行被仰付、同五年二月、又々寿之公御附被仰付、同七月、御作事奉行帰役被仰付、寛保二年四月、御役儀被差除、御馬乗組被召加、同年七月、上原儀兵衛組足軽・松田弥太助殺害ニ付、御穿鑿奉行被仰付、右儀兵衛同役ニて、数日相勤申候。寛延元年正月、奉公人支配被仰付、宝暦元年三月、御町奉行役被仰付、名を平左衛門、後彦兵衛と改申候》



*【上原氏先祖附】
《養父・上原儀兵衛[貞刻」儀は、上原市助嫡子ニて御座候。初名多九郎と申候。享保四年八月、門司源兵衛殿門弟ニ被仰付置、鑓稽古仕、熊本えも毎度罷出候付、三人扶持被為拝領、熊本え罷出稽古仕候内、寺見流剣術をも稽古仕候。享保十五年六月、御側御中小姓被召出、御切米被為拝領、同十六年八月、御合力米弐拾石、御役料五石被為拝領、御小姓頭役被仰付、同十七年十一月、市助儀隠居被仰付、家督百五拾石無相違被為拝領、直ニ右御役儀相勤居申候。同十九年十月、外様御鉄炮頭役被仰付、元文□年八月、御普請奉行兼帯被仰付、同二年八月、鑓・剣術師範被仰付置候付、只今迄□加役被成御免旨被仰出、同三年□□、儀兵衛と相改、同五年四月、御普請奉行帰役被仰付、同六年二月、加役被成御免、座配唯今迄の通ニて、鑓剣術師範被仰付、寛保二年七月、自分組足軽の内、松田弥太助殺害ニ逢候節、御穿鑿方をも被仰付相勤申候。延享五年六月、病死仕候》

*【増田氏先祖附】
《私(増田市之丞)儀、実は有馬喜左衛門一子ニて御座候。私幼少の節、喜左衛門相果、其後母、上原儀兵衛後妻相成、儀兵衛方え一所ニ居申候内、元文五年閨七月、十三歳ニて邀月院様〔寿之〕御部屋え被召出、(中略)従邀月院様上原儀兵衛子分ニ被仰付、上原五郎太夫弟分ニて居申候処、増田惣兵衛定元奉願、養子ニ仕候》



*【豊田氏先祖附】 正剛
延享二年二月、寿之公御卒去被遊候節、為御遺物御硯の台被為拝領、今以所持仕候。寛延二年八月病死仕候》
A――翌年の元文三年(1738)、正脩三十三歳のときだが、熊本城主・細川宗孝(1716〜1747)が八代へ来駕、正脩は御目見の列に加わる。
C――宗孝は享保十七年(1732)に細川家当主になった。この二十三歳の若き君主を迎えるにあたり、八代では浜御茶屋に腰懸を作った。この浜御茶屋というのは、例の松浜軒のことだろう。元禄元年(1688)、直之が母崇芳院のために茶屋だね。正脩はその腰掛の工事監督を命じられ、出精して勤めたとのことで、豊之から褒美として金子百疋を拝領、隠居の寿之から御前において小袖を拝領した。
A――この細川宗孝は、七年後の延享四年(1747)の八月、なんと、江戸城内で殺害される。しかしこれは、江戸城内での刃傷沙汰というよりも、とんでもない人違い殺人だった(笑)。
B――犯人の旗本・板倉修理は、本家の板倉佐渡守勝清と間違えて襲撃したわけだ。というのも、板倉家の紋は九曜巴紋、これが細川家の九曜星紋と似ていることから、間違って殺されたんだ、という俗説がある。それはともかくとして、人違いで主君を殺された細川家には、まったくの災難だったな。
C――正脩は同年十一月、接待役の座配持懸で、役儀は作事奉行を命じられた。元文五年(1740)二月、再び隠居の寿之のお附きに戻ったが、同年7月、作事奉行に帰役。この作事奉行は父正剛も務めたことのある役だな。
A――そして正脩三十五歳のこの年、正脩に次男が生まれた。のちの嗣子・景英ですな。
C――正脩は宝永三年(1706)生まれで、父・正剛が三十四歳のときの子だった。正剛も正脩も、どちらも嗣子を得るのは三十代半ばと、当時としてはかなり遅かったと云える。正脩三十七歳の寛保二年(1742)四月、役儀(作事奉行)を免除され、御馬乗組に配属された。騎馬隊だな。同年七月、上原儀兵衛組の足軽・松田弥太助が殺害された事件につき、穿鑿奉行を命じられて、上原儀兵衛と同役で、役目を勤めた。
B――事件があると、こういうかたちで臨時の調査官が任命されるのだな。自分組の足軽・松田弥太助が殺害されたとなると、上原儀兵衛自身が穿鑿奉行となる。「自分」の事件だからな。ただし、この事件については、上原氏先祖附でも委細不明だな。
C――この上原は、儀兵衛貞刻、初名多九郎。上原一族の分家筋だが、家禄百五十石。上原儀兵衛は、鉄砲組頭や普請奉行を勤める一方で、当時、鑓と剣術の師範をつとめていた人だ。武芸師範の上原儀兵衛の相役ができるということで、正脩が穿鑿方を命じられたらしい。
B――上原儀兵衛の剣術は、寺見〔じけん〕流。薩摩の寺見寺の僧・甲野善衆を元祖とするが、実は示現流の分派らしい。肥後で伝承された流派のようだ。
A――そして蛇足ながら(笑)、この上原儀兵衛が後妻に入れた女性に連れ子があった。その男子はのち増田惣兵衛定元の養子になった。この惣兵衛は、武蔵の弟子だった増田惣兵衛の孫ですな。
B――増田惣兵衛は、武蔵が末期の床で、長岡寄之に彼の召し抱えを依頼し、そうして武蔵病死後、早速長岡家に召し出された、という。彼の孫の惣兵衛の養子になったのが、上原儀兵衛の後妻の連れ子で、これが増田市之丞、増田氏先祖附を書いた人物である。流儀は異なるが、寺見流の上原儀兵衛はまんざら武蔵とは無縁ではない、ということになるな(笑)。
C――そうして延享二年(1745)二月、正脩が御付きを勤めたことのある隠居の寿之が死去、享年七十八歳。七十四歳の父正剛は、遺物として硯台を拝領。なにしろ正剛は十五歳で直之に召出されて、翌年の貞享四年(1687)、正剛十六歳で直之嫡子・寿之の御部屋附きとなって以来のことだ。この主従は五十八年の長い付き合いなんだ。
A――そういうあたり、現代の雇用関係では、およそ想像しがたい関係だな(笑)。
C――寛延元年(1748)正月、正脩四十三歳、奉公人支配に任命される。人事部長というところだ。その翌年(寛延二年・1749)の八月、父の正剛が病死した。享年七十八歳。
A――この父は、武蔵の直弟子からの聞書記録をもとに書いた武蔵伝記の草稿を遺した。正脩は、それを古書の箱から発掘して、肥後におけるほぼ最初の武蔵伝記である『武公伝』を書くようになるわけですな。
C――そして正脩四十六歳の宝暦元年(1751)三月、町奉行役に任命。これが正脩の昇進の上がりというところかな。このとき、名を平左衛門と改めた。橋津平左衛門である。また、ここに、のちに彦兵衛と改めたとあるが、その時期は不明。
B――では、正脩のその後の動向に行くか。まず、正脩四十九歳のとき(宝暦四年・1754)、熊本城主の細川重賢(1720〜1785)が八代にやってくる。正脩は御目見だな。
C――重賢は、宝暦の改革の最中だね。当太守様とあるのは、記者の豊田景英が先祖附を書いた明和七年(1770)の当時、重賢はまだ現役の当主であったからだ。重賢は、細川宣紀の子だが側室岩瀬氏の胎で、先代の宗孝とは四つ違いの異母弟だね。
B――宗孝には子がなくて、延享四年(1747)三十二歳で横死した。つまり前に話に出たごとく、江戸城内で旗本板倉修理に誤って殺害された。無嗣で死んだから御家断絶となりかねない、この不測の事態に、重賢は兄の養嗣子となるかたちで、細川家の家督を相続したわけだ。正脩にとって、熊本城主の御目見は2度目。最初は、元文三年(1738)、正脩三十三歳のとき、先代の細川宗孝が八代へ来駕したときだ。
A――この度は拝領物について何も記事がない(笑)。
B――記載漏れというより、実際に賜物はなかったのだろう。倹約令を出している宝暦の改革の最中だし。御目見だけだな。
A――時系列の順序として言えば、次の年の宝暦五年(1755)二月、武公伝覚書がきますな。正脩は五十歳。
C――その武公伝覚書というのは、『二天記』冒頭所収の「凡例」のことだね。つまり、父正剛の遺した草稿について正脩が覚書を認めているのが、この宝暦五年(1755)二月だ。
B――しかるに、署名は「橋八水」とあり、これが橋津八水であることは申すまでもないが、八水号の時期については、疑義がある。これは後で問題にしよう。
A――そして、これも見落とせないが、宝暦七年(1757)は、八代に、伝習堂と教衛場が設置された年ですな。正脩五十二歳で、景英が十八歳。
B――「教衛場」というのは、兵法稽古所だな。文学稽古所の方は「伝習堂」という。文武両道それぞれの学校である。これは、熊本城主の細川重賢が実施した、いわゆる宝暦の改革の一環で、八代城を預かる豊之がこの政策をうけて、文学稽古所の「伝習堂」と兵法稽古所の「教衛場」を八代城内二ノ丸に設置した。
A――「伝習堂」か。その名にひっかかってみれば、王陽明に『伝習録』がある。しかし、陽明学派は異端の説として追放されている。
B――陽明学派はちょいとラディカルだからな。江戸中期、細川家でも陽明学派を排斥しておる。
C――「伝習堂」というのは、微妙なところのある名だね。本府の熊本の方は、「時習館」という学校だ。いわゆる藩校というやつだが、当時は藩なんて言葉はないから、厳密には藩校とはいえないが、とにかく家臣の子弟の教育訓練学校だ。
A――会津の「日新館」や長州萩の「明倫館」、安芸広島の「講学所」といった早い創設時期のものはあるが、肥後の「時習館」は比較的早期の設立ですな。
C――そうだね、薩摩の「造士館」、佐賀の「弘道館」、尾張の「明倫堂」、福岡の「修猷館」等々よりも早い。
B――それにしても、だれかリーダーがいなくては出来ないわけよ。肥後の時習館の初代教授は、かの秋山玉山(1702〜1763)。彼が時習館創立に大きく貢献したらしい。
C――秋山玉山と橋津(豊田)正脩がほぼ同世代の人だったことは、思想史的な意味でも一応頭に入れておくべきだろう。時習館は熊本城内二ノ丸に設置した文武両道の学校だね。文学稽古所は時習館。武芸稽古所は、東榭・西榭と呼ばれた。これは「とうしゃ・せいしゃ」と読んだか、榭というのは「うてな」、これは建物の配置からきた名らしく、東西に分けて、それぞれ武芸諸流派の師役に教えさせた。
B――こういう学校ができるまでは、それまでは、各自師匠は自宅で教えていた。それを公立学校を作って、ひとつ所で教えさせる。師匠はこの学校に出向いて教えるようになった。
A――弟子は、あちこち師匠の家を廻らなくてよくなったから、便利といえば便利になった(笑)。
C――文学はしなけりゃならんし、武芸も一種だけではなく、四種や五種は修得しなきゃいかん。武家の子弟は、現代の子どもたちと同じく、塾通いで忙しかったんだ(笑)。
B――武士といえば剣術だ、という現代人の勘違いがあるが、槍も弓も馬も、一通りはできなけりゃ話にならんわけだ。そうしてはじめて一人前の武士と認められる。一芸じゃだめだ、四、五芸は修得する。養子に行くにも、それが最低条件だね(笑)。
A――しかし武士にも、運動神経がなくて、どうしようもない子もいる(笑)。そんな子は文学に力をいれて多少見返せた。熊本の時習館や八代の伝習堂なんて学校を作ってくれたから、そういう子でも何とか面子を保てるようになった。
C――ただ、学校ができたらできたで、武士の子弟は競争が激しくなった。何しろ、それまでは思い思いに師匠を選んで塾通いしていたのが、皆が一同に会して教育訓練を受けるわけだから。それに、肥後の場合、学校は武士に限らず、町方村方の町人・農民の子弟らにも門戸を開放した。こういう非武士身分の者でも、文学や武芸を稽古できるようになった。それが歴史的意味としては大きいね。
B――明治になって、東京の政府によって、教育訓練のための学校や軍隊が組織されたのだが、それより以前に、すでに十八世紀中期に、身分を問わぬこういう「国民」を教育訓練する制度がシステマティックに出現していた。
C――そういう意味では、十八世紀中期に明治維新の制度的準備が始まったと云える。むろん、この推移は無意識的なものだが。歴史が生きられるのは、つねに無意識的次元だ。
A――リアルタイムの歴史は、いつも・すでに、無意識的なものなのです(笑)。
C――意識化された歴史の意味は、いつも後づけなんだね(笑)。とにかくこの時期、諸大名は競うがごとく、制度としての学校を作ってしまった。よかれと思ってね。『武公伝』『二天記』という武蔵伝記が生まれるについては、制度としての学校の誕生という、この局面が背景にある。
B――まさにそうだね。熊本や八代の教育訓練システムについては、いろいろ研究があるからそれらに譲るとして、では、武芸兵法稽古に関して、肥後ではどんな流派が教えられていたか、だれが師範役を勤めていたか。それを確認するのもよかろう。
――熊本の時習館創立当時の記録がありまして、それを整理すれば、以下のようなリストになります。

永青文庫蔵
細川重賢

*【細川家略系図】

○藤孝─忠興─忠利─光尚┐
 ┌──────────┘
 ├綱利┬吉利
 │  │
 │  └宣紀┬宗孝
 │     │
 │     └重賢─治年→
 │
 └利重┬利昌─利恭→
    │
    └宣紀


*【豊田氏先祖附】 正脩
同(宝暦)四年十一月、当太守様御光駕の節、御目見被仰付、同九年六月、御役儀御断申上候処、願の通被仰付、御者頭列ニて、御式台御番被仰付、同年十一月、御家譜調方被仰付、同十一年八月、御家譜方退役被仰付》



教衛場と伝習堂の位置
八代城二ノ丸





秋山玉山

熊本県立図書館蔵
時習館の東西榭


熊本城 時習館跡

  東  榭 西  榭
軍法 北條流 坂牧助十郎・森本儀太夫
謙信流 愛甲十右衛門
槍術 宝蔵院流 磯野彌兵衛・門司源兵衛・松原勘助
加来流 臼杵新次
剣術 柳生流 田中甚兵衛・中山佐助
新影流 森田彌五右衛門・横田忠作
当流神影流 池田七左衛門・大宮理右衛門
寺見流 中島源之允
武蔵流 志方半兵衛
新影流 上野喜三右衛門・和田伝兵衛・戸波儀兵衛
雲弘流 井鳥五郎右衛門
四天流 小野源吾・臼杵新次
武蔵流 村上平内
居合  
四天流 本庄太兵衛
伯耆流 入江新内・熊谷軍次
関口流 井沢十郎左衛門
新心無手勝流 戸田孫次郎
射術 一巻流 岩佐善助
竹林流 木原帰雲
吉田流 正垣源内
宮川流 長谷川流意
 
砲術 三破神伝流 渡辺作之允・道家九郎助
大野五兵衛・大島藤兵衛・近藤三内・吉村宇平次
馬術   馬乗方木馬 住谷庄右衛門・中山左太夫

A――ほほう。さて、このリストをどう読むか、ですな。すこし解説してもらいましょうか。
B――ただ、あまり確かな話はないよ。武芸流派については、あやしい話が多いぜ(笑)。まして、肥後ローカルの伝系となると、話は保証のがきりではない。
C――まあまあ、むろんそれは承知の上で、ということだ(笑)。
A――軍法は、北條流と謙信流ですな。
B――北條流の方は、北条安房守氏長が家光の師範役となって全国版で有名だが、北条氏長の二男・福島伝兵衛国隆の門弟・八木市太夫を媒介にして、肥後へ伝来する。忠利の代に召し出され家中の軍学師範を命じられたという。八木市太夫は十人扶持四十石だが、子の市郎左衛門は、江戸詰、御中小姓頭などして、ついには御用人で千石を食んだ。坂牧助十郎直純は三百五十石で、父親の瀬左衛門直政の代から北條流師範だ。
C――森本儀太夫昌栄(1705〜84)の方は、坂牧助十郎の門弟だね。先祖附によれば、森本先祖は加藤家浪人で、島原役以後の新参だが、祖父の代に百五十石で八代城附の番士。森本儀太夫は坂牧助十郎の北條流軍学を見込まれて御役御免の特別待遇、宝暦四年(1754)、この年もう五十歳になっていて、師匠の坂牧助十郎と一緒にニノ丸両榭、つまり時習館で教えた。その後宝暦十一年(1761)、坂牧助十郎の後任で北條流軍学師役になった。
B――森本儀太夫は文武両道の人で、『肥後国誌』三十巻などの著作がある。『肥後国誌』は、ほぼ半世紀前に成瀬昨淵(次郎左衛門久敬・1659〜1737)の『新編肥後国誌』十八冊があるが、これを改訂したのではなく、出榭指南のかたわら国内を廻歴調査した、このフィールドワークには八年を要したらしい。七十七歳の安永十年(1781)まで師役を勤めたが、同年老衰のため辞職、致仕隠居、号一瑞。
A――森本儀太夫は肥後の軍学の柱だったようだ。同じ軍学で、ここにある謙信流というのは越後流のことですな。
B――そうだな。こちらは上杉謙信→加治遠江守景英の謙信流加治系、肥後へこれが入るのは、愛甲十右衛門景甫が江戸常詰めのころ、加治系の加治縫殿助の門下で相伝を受けたのが機縁。とすれば、比較的新しい流伝だな。ただし、加治縫殿助→沢崎主水→依田半助→愛甲十右衛門とする系譜もある。愛甲十右衛門は鉄砲頭で二百石プラス役料百五十石。
C――愛甲十右衛門は江戸常詰で、細川重賢幼君のみぎり教育掛もした。銀台遺事附録に、十右衛門はなかなか厳しい教師で、後年重賢が、自分がしっかりしているのは、十右衛門の教育のお蔭だと言うていた、とあるな。
B――愛甲は宝暦六年(1756)に謙信流軍学師役、宝暦十三年(1763)に依願退役、同年江戸で歿。まあ、だいたい江戸に住んでいたが、このころは肥後に下国して、謙信流を教えたということだろな。
A――槍術はやはり宝蔵院流ですな。
B――宝蔵院流は武蔵小説で有名になったが、実際にも伝系はかなり普遍的だね。小笠原家中で播州明石・豊前小倉と、武蔵と近いところにいた、高田又兵衛というのもそれだ。肥後の宝蔵院流は、磯野系。宝蔵院胤舜と胤清に学んだ磯野主馬信元が、島原役後、細川家に召抱えられて三百石。しかし万治二年(1659)に細川家を致仕して江戸に戻った。
C――磯野主馬信元は通称・伝兵衛。『肥後異人伝』に、伝兵衛が能役者の中村庄右衛門と同格なのは厭だと言ったところ、殿様の細川忠利が、それが不満なら、庄右衛門が能を舞っているときに突き殺せという。伝兵衛は隙を窺ったが、舞台で舞う庄右衛門には隙がなくて、それで伝兵衛が降参した(笑)、という逸話があるね。
B――中村庄右衛門というのはないな。忠利が召抱えて有名な武家太夫は、中村勝三郎の息子の左馬進(伊織正辰、鞆負)で、しかも家禄千石だ。庄右衛門というのは子孫の名前。ようするに、出来すぎた話で、時代は混乱しておるから後世の伝説だな(笑)。で、磯野主馬信元は細川家を去ったが、しかし信元の嫡子・弥兵衛氏政が再び細川家に召抱えられ、知行三百石。これで肥後の宝蔵院流の首がつながった。このリストにある磯野弥兵衛は、氏政の養子の弥兵衛氏実、流水と号した人だな。この人の代で、磯野家は千石知行となった。
A――宝蔵院流には、門司源兵衛・松原勘助という名もあるね。
B――万治二年に肥後を去った磯野主馬信元の弟子に、稲津次郎兵衛頼次がいて、知行三百石、鉄炮頭で、さらに加増をうけて六百五十石までなった。その弟子が門司源兵衛直復、百五十石の家だね。その子が源兵衛直方、リストにある門司源兵衛はこの人らしい。
C――松原勘助というのは、このリストでは宝蔵院流になっているが、加来流の加来平右衛門の門弟だろ。
B――そう。松原流の祖になる。御番方で百石取り。磯野や門司のように鎗は家業ではなかったが、師範役に任じられた。個人的に槍術の才能が突出した人なのだろうね。こういう例もあるということだ。
C――槍術のもう一つは、加来流で、流祖は加来平右衛門永貞だね。平右衛門は磯野弥兵衛の門弟だったが、破門されたらしいね。
B――破門されて、松崎伝助惟清の弟子になった。こちらは、宝蔵院胤栄→松崎助右衛門→松崎伝助春清→伝助惟清のラインらしいが、よくわからぬ。松崎伝助の家は、五百石。加来流伝系は、加来平右衛門→臼杵源兵衛正時→臼杵新次正住。この臼杵新次だね。この人は四天流居合も教えた。





*【北条流系統図】

○山本勘助―馬場美濃守―小幡勘兵衛┐
 ┌───────────────┘
 └北条安房守氏長─福島伝兵衛┐
 ┌─────────────┘
 └八木市太夫─八木市郎右衛門┐
 ┌─────────────┘
 ├坂牧瀬左衛門―坂牧助十郎
 │┌───────────┘
 │└森本儀太夫―横田吉左衛門
 │
 └伊藤儀太夫―魚住又太夫














*【謙信流系統図】

○上杉謙信―加治遠江守―加治対馬守┐
┌────────────────┘
└加治七郎兵衛─沢崎主水―依田半助┐
 ┌───────────────┘
 └愛甲十右衛門┬横田勘左衛門
        │
        ├入江平内
        │
        └小野武次郎








*【宝蔵院流系統図】

○覚禅坊胤栄―奥蔵院―禅栄坊胤舜┐
 ┌──────────────┘
 └覚舜坊胤清─磯野主馬信元┐
 ┌────────────┘
 ├稲津次郎兵衛―門司源兵衛直復┐
 │ ┌────────────┘
 │ └門司源兵衛直方―直定
 │
 └磯野弥兵衛氏政┬磯野弥兵衛氏実
         │
         ├磯野伝蔵
         │
         └加来平右衛門












*【加来流系統図】

○覚禅坊胤栄┐
 ┌────┘
 └松崎助左衛門─伝助春清┐
 ┌───────────┘
 └松崎伝助惟清─加来平右衛門┐
 ┌─────────────┘
 ├臼杵源兵衛─臼杵新次
 │
 └松原勘助―松原左源太






芳徳禅寺蔵
柳生宗矩坐像







東大史料編纂所蔵
酒井忠世像







*【柳生流系統図】

○柳生宗厳―但馬守宗矩―飛騨守宗冬┐
 ┌───────────────┘
 └田中甚兵衛─隼之助─長左衛門┐
 ┌──────────────┘
 ├田中甚兵衛─平右衛門─甚兵衛
 │
 └中山左助










*【新陰流系統図】

○愛洲移香斎―愛洲小七郎┐
 ┌──────────┘
 └上泉武蔵守信綱―疋田豊五郎┐
 ┌─────────────┘
 └上野左右馬助─喜三右衛門景本┐
 ┌──────────────┘
 └上野喜三右衛門景根┐
 ┌─────────┘
 ├上野喜三右衛門景道┐
 │ ┌───────┘
 │ └甚五衛門景明─和田伝兵衛
 │
 ├喜三右衛門景澄─喜三右衛門景敦
 │ ┌─────────────┘
 │ ├和田次太輔―和田伝兵衛
 │ │
 │ ├速水八郎兵衛
 │ │
 │ └戸波十右衛門―戸波儀兵衛
 │
 └内藤勘左衛門―内藤伝右衛門┐
 ┌─────────────┘
 ├横田忠作―横田善太郎
 │
 └林伴之允―林源八












*【当流神陰流系統図】

○上泉武蔵守―柳生但馬守┐
 ┌──────────┘
 └岡本仁兵衛─手嶋清太夫┐
 ┌───────────┘
 └堤四兵衛―武田新平┐
 ┌─────────┘
 └山田重三郎─松岡儀右衛門┐
 ┌────────────┘
 └山内十兵衛―池田七左衛門


*【寺見流系統図】

○甲野善衆―都甲肥前┐
 ┌────────┘
 └村上主税─内田十太夫┐
 ┌──────────┘
 └太田黒加兵衛―渡辺弥三兵衛┐
 ┌─────────────┘
 └中島源兵衛─源助―源之允
 ┌────────────┘
 └中島大次郎―十之允―八十八


*【雲弘流系統図】

○樋口不堪(弘流)──┐
           │
 針谷夕雲─小田切一雲┴井鳥巨雲┐
 ┌──────────────┘
 ├井鳥景雲――┬建部流雲―帰雲
 │      │
 ├鈴木勝右衛門└中村正尊
 │
 ├鈴木弥次郎―要助
 │
 └比留川雲海─比留川唯心
A――射術は弓術、砲術は鉄砲・大砲の火器だね。こちらは一応省略させていただいて(笑)、剣術の方に行きますか。で、まずは、柳生流と新陰流ですな。
B――肥後の柳生流というのは、細川忠利が、柳生宗矩と親交があって、宗矩から印可を受けて、『兵法家伝書』を贈呈されたりした故縁があるようだが、柳生宗矩の弟子で細川家に召抱えられた者といえば、まずは梅原九兵衛政親だな。
C――梅原九兵衛は細川忠利の嫡子・光尚に宛てがわれた武芸者だ。寛永十三年(1636)ごろの話だが、梅原を召抱えるについて柳生宗矩と三百石で話をつけた。ところが、光尚はそれに上乗せして四百石、五百石の給人にしようとした。すると、忠利が怒って、柳生への面子から過分な給料を与えるのは絶対にいかん。そんなわけもないいい加減な家に成り下がっては情けない(笑)。三百石でダメだというなら、梅原を追い返せと、光尚を叱っているな。
B――梅原九兵衛はこのときいったん仕官を辞退した。もう少し兵法修行したいし、肥後は遠いし、というわけだ(笑)。それで、江戸詰で光尚御部屋付という半分客分のような恰好にした。その後、島原役で働きがあって武功を認知され、長岡興長が間に立って柳生宗矩と話をつけて、梅原は江戸で家臣として仕え、後に食禄六百石まで加増された。
A――梅原九兵衛には、「袖引の梅原」というエピソードもありますな。
C――これは長岡(松井)家中の伝説だな。慶安二年(1649)に細川光尚が江戸で急死した。嫡子六丸(綱利)は七歳、幼少ゆえに細川家減封あるいは分知もありうるという危機となった。このとき豊前小倉の小笠原忠真も動いているが、他方で、肥後側の方でも家老の長岡興長が動いていた。それはつまり、梅原九兵衛が老中の酒井雅楽頭忠世(1572〜1636)と昵懇なので、梅原を密かに呼んで、これまで通り肥後一円支配を認めてほしいという興長の意向を酒井雅楽頭に伝えさせることにした。梅原は、長岡式部(寄之)、都甲太兵衛とともに江戸へ行き、酒井雅楽頭に面会し、長岡興長の口上を演説した。梅原はこれが聞き入れられなければ、私には料簡があると言う。聞き終わった酒井雅楽頭は、「それで、お前の料簡は」と言った。
A――すると梅原九兵衛は、「私料簡とて外にはござらぬ」と云って、懐中より小剣を出し、左手で雅楽頭の袖をつかんだ。
C――酒井雅楽頭が色よい返答をしなければ、刺殺するという脅迫だ。雅楽頭は高聲で、「やれやれ九兵衛、かたくろしや」と云って、肥後一円支配を認める返事をしたという話。しかし、その酒井雅楽頭忠世は寛永十三年(1636)に死んでいるから、これは亡霊か(笑)。
B――ようするに、袖引の梅原というのは肥後の伝説だよ。梅原をして酒井雅楽頭を脅迫させた、これが長岡佐渡興長の密意だったというのは、肥後は肥後でも八代の伝説だな。
C――興長が梅原九兵衛の仕官についていろいろ世話を焼いたのは事実だろうが、そこからこういう伝説が発生したようだ。梅原は後に、三男の乱心があって、この息子と斬り合って殺したが、自身も負傷して死んだ。それが寛文十三年(1673)のこと。梅原の子孫は存続するが、その柳生流は途絶だな。
B――肥後の柳生流は、実際には、田中甚兵衛明親が元祖。田中甚兵衛は、幼少の時から大和の柳生家で兵法を学んだ。生え抜きだな。江戸柳生流三代目・柳生飛騨守宗冬の名代として、細川綱利の代に、肥後に剣術指南に来ていた。それを、綱利が柳生宗冬に頼み込んで、五百石を与えて家臣にした。それで肥後に居つくことになったが、甚兵衛二男・隼之助保親(1674〜1739)が跡を嗣いで柳生流剣術師範になった。隼之助は号止水。門弟千五百人に及ぶ。剣法及び武事の論撰百十二種ありというから、著述も多数あったようだ。この田中甚兵衛と隼之助の代で、柳生流が肥後の剣術主流となった。
C――隼之助保親も後に甚兵衛を襲名したが、この時習館のリストにある田中甚兵衛というのは、その甚兵衛明親の曾孫で、つまり隼之助の孫だね。
B――延享元年(1744)父の長左衛門が病死、跡目を相続したが幼年のため留守居御番方、師範役ができるようになるまで、中山左助が中継して、甚兵衛は宝暦二年に師範役になった。この中山左助は田中甚兵衛の父長左衛門の弟子だったのだろう。これは物頭列で百五十石。
C――柳生流の秘密主義というのがある。それは、この肥後でも同様だったらしいね。
B――時習館の武芸稽古所でも、他見無用と、戸を閉め切って稽古したらしい(笑)。
A――それで、新陰流のことに移るが、新陰流は柳生流とはむろん別の流派ですな。
B――こちらは、柳生新陰流以前に分岐した新陰流。上泉信綱→疋田豊五郎景兼→上野左右馬助景用と伝来する、疋田豊五郎を媒介にする上野新陰流だな。
C――疋田豊五郎は、伝記不明で、どこで生れどこで死んだかも分からない。肥後の新陰流でいうには、細川忠興に丹後時代一度五十石で召抱えられたことがあった。その後、慶長六年に豊前小倉にあった細川忠興に再度召抱えられて、知行三百五十石。それで、新陰流が細川家中に伝わったという。
B――忠興が疋田豊五郎を召抱えたというわけだが、それもよくわからん話だな。慶長九年(1604)に中国地方で歿というが、どこで死んだかも定かではない。
A――慶長十年(1605)、大坂城中で死んだという説もある。豊臣方についたというわけだね。
C――そのころ、宮本武蔵は廻国修行に出たが、となると、疋田豊五郎と宮本武蔵との遭遇の可能性はほとんどないな。
B――たぶんね。ともあれ、疋田豊五郎の門弟に、細川家臣の上野左右馬助がいた。上野は馬廻組で百五十石。子孫は喜三右衛門を襲名してずっと続く。景本→景根→景澄→景敦。このうち、このリストにある上野喜三右衛門は景敦あたりかな。
C――和田伝兵衛の方は、同じ上野新陰流でも少し違う系統だね。
B――こちらは、上野喜三右衛門景本→景根→上野甚五右衛門景明→和田伝兵衛定高とくる。ただし和田景敦の系統だともいうが。和田伝兵衛の親父は和田甚之允で、八代城附で百五十石の家だね。和田伝兵衛の子が金右衛門高陳で、これも新陰流師範。以後和田家で伝承して和田新陰流。戸波の方は、三百石の家で、上野喜三右衛門景敦→戸波十右衛門→戸波儀兵衛とくる伝系だね。
C――以上は西榭の新陰流だが、東榭の新陰流の森田弥五右衛門はちょっと不明かな。
B――森田の家はやはり細川家臣で百石、弥五右衛門を代々名のっておる。横田忠作道義の親父は善大夫で二百五十石。横田忠作は、上野喜三右衛門景根→内藤勘左衛門唯精→内藤伝右衛門清正→横田忠作とくる伝系。この内藤家は百石だね。
A――当流神影流というのは?
B――上野新陰流が疋田豊五郎経由であるのに対し、こちらは、上泉信綱→柳生但馬守→岡本仁兵衛と伝来する。この柳生但馬守は宗矩ではなく、石舟斎宗厳だというのだろう。岡本仁兵衛は肥後の人で、以後、その八代目が池田七左衛門。池田七左衛門は百石の家。大宮理右衛門も細川家臣だが、詳しいことは知らない。
C――寺見流は、前に豊田正脩の関連で、上原儀兵衛が寺見流だという話が出たね。肥後では、薩摩の寺見寺の和尚・甲野善衆が祖で、弟子が都甲肥前という伝承だが、これが実は示現流の祖・善吉和尚と東郷肥前重位であろうというわけだね。
B――不明なところの多い伝系だが、それはともかく、全身流を称した太田黒加兵衛の弟子・渡辺弥三兵衛が、寺見流に戻したともいうが、実質的にこの人が元祖だろうな。その弟子が中島弥兵衛で、号不結、寺見流を教えた。その子が源助、孫がリストにある中島源之允。寺見流師範の家だ。源之允の孫・十之允勝昌、曾孫の八十八勝信のときになると、大いに隆盛で門弟千人余に及んだという。
C――ついでに、ここにある雲弘流というのは、江戸経由で伝来した流儀だが、弘流+雲流で、雲の方は、これが実は、かの有名な針谷夕雲・小田切一雲の流系なんだそうだね。
B――これはな、仙台伊達家の家士・氏家八十郎為信が、三十歳のとき致仕して、江戸へ出て一流を立て道場を開いた。樋口入道不堪の弘流と針谷夕雲の破想流を合わせて、雲弘流、一名天真流と称した。名も井鳥巨雲と改めた。井鳥巨雲の息子が江戸生れで、井鳥五郎右衛門為長(1701〜82)、号景雲。しかし父の井鳥巨雲は門弟の鈴木弥次郎定長に流嗣を譲った。息子の為長はこれに一念奮起して流儀を極めた。享保九年(1724)、為長は江戸で細川家に召抱えられ、五人扶持二十石。のち肥後に移って、雲弘流を指南した――という話だ。
C――井鳥景雲が雲弘流師役になって、出榭して教え始めるのが宝暦五年(1755)、五十五歳のときだね。そのとき、景雲は父巨雲から皆伝を受けているのではないからと、いったん師役を辞退したが、相伝されている分だけでも教えろと説得されて、指導しはじめた。井鳥景雲は宝暦十二年(1762)まで師役を勤めた。師役退役後は、御留守居中小姓というから、江戸へ戻ったということだろう。
B――雲弘流が江戸で大いに鳴らしたのは、比留川雲海以後だな。肥後の方は、井鳥景雲→建部流雲→建部帰雲→大雲→青雲と建部家が継いでいく。
C――景雲の弟子・中村正尊は、むしろ肥後孝子伝の中村忠亭として名を残した。
A――そして、ここに四天流というのがある。四天流、これは武蔵流の二天流と名が似ているね。
C――武蔵の弟子の寺尾求馬助が命名したという伝説もある。ツー・バイ・ツー(2 by 2)で、4なんだと(笑)。これは成田清兵衛高重が元祖だね。
B――ちなみ云えば、寺尾孫之丞の弟子に柴任三左衛門美矩がいるが、柴任の実兄、本庄角兵衛は、この成田清兵衛の隣に住んでいた。柴任は兄貴の屋敷に部屋住みだな。
A――それで、これもツー・バイ・ツーかもしれん(笑)。
B――成田清兵衛は生国肥前の人で、佐々木宇平太といった。肥前を離国して下野宇都宮へ行って、佐々木元伯の門人となって一流相伝。佐々木元伯は、戸田清玄→戸田治部右衛門→戸田清喜と伝わった戸田清喜の弟子。志水甚兵衛と改名して、諸国武者修行。承応三年、筑前の黒田家に召抱えられたが、のちこれを致仕。江戸へ出て、細川綱利に芸術高覧、後に肥後へ行って召抱えられ、そして名も成田清兵衛と改めた。
C――その戸田流は、富田勢源の富田流と混同される場合があるが、これは別流と見た方がよいか。
B――そもそも確実な資料がないから、どうとも言えない。戸田清玄は福島正則の家臣だとも云うしな。よくよく後人を惑わす経緯だぜ(笑)。とにかく、異説もあるが、戸田流の佐々木元伯から免許皆伝を受けたのが成田清兵衛。これが肥後に来て居ついた。知行二百五十石で、四天流の居合に剣術、組討三芸の元祖にしてその師範たり、というわけだ。
C――成田清兵衛が寺尾求馬助と試合をした。清兵衛は鉄杖剣の強力、しかしどうしても打ち込めず、驚いた清兵衛が門弟にしてくれと頼んだ。求馬之助はそれを辞退し、代りにアドバイスをしてやって、二刀の工夫をさせた。寺尾求馬助の二天流と成田清兵衛の二天流、合わせて四天流(笑)。四天流と称するのがよいと言ったのは寺尾求馬助だという話がある。
B――もちろん、それは寺尾方の伝説だから、実際はどうだかわからないぜ(笑)。だいたい成田清兵衛が、寺尾求馬助の弟子になりたいなんて云うはずがない。
C――野田一渓が伝聞したという話だったな。成田清兵衛は寺尾求馬助にはかなわなかったという伝説から、こういう説話が開花してしまったということだな。
A――他流の洗練工夫に協力して、名前までつけてやるという話は、よく聞く話だ(笑)。『二天記』にも類話がある。
B――それでこの四天流、成田清兵衛の弟子筋は、ひとつの系統は臼杵源兵衛、つまり杢之助正時、そして臼杵新次正住の系統。臼杵杢之助は二百石から三百石か。
C――臼杵新次は槍術の加来流でも名が出ていたな。臼杵杢之助は、武蔵流の村上平内(正雄)とかねて雌雄を競う立場で仲が悪かった。それで村上平内と立合ったが、それが軽率だと、成田先生から勘当されて(笑)、師範をやめたという話もある。
A――四天流の臼杵杢之助のライバルは、武蔵流の村上平内以外になかったとすれば、これはこれで話がわかるような気もする(笑)。
C――臼杵杢之助の妹が村上平内に嫁した、あるいはその逆の話もあるが、とにかくこの両人は義理の兄弟なんだ。
B――それから、ここで関連する話題が一つあるな。我々は、肥後の巌流島決闘伝説で、どうして富田勢源の名前が出てくるのか、それをあれこれ穿鑿しておるのだが、その一つの可能性は、この四天流がらみの話だったな。
C――うむ、そうだった。それは、上方演劇で「佐々木巌流」という名が世間に流布して以後のことだが、巌流が戯作者に佐々木姓を与えられて、そうなると、この佐々木巌流の師匠はだれか、となる。すると、ちょうどいい具合に、四天流の成田清兵衛の師匠が、佐々木元伯で、佐々木姓(笑)。
A――佐々木元伯は下野住人だが、これが戸田流。そして申すまでもなく、戸田流元祖は戸田清玄。
B――これで伝説生成の話がつながった(笑)。この前提条件では、富田勢源の名が肥後の巌流島伝説で出現したのは、まず「佐々木巌流」が定着した後だろうと推測できる。しかも、二天流/四天流がらみで。
C――すると、十八世紀中頃のことだね。さらに特定すれば、四天流の臼杵杢之助と武蔵流の村上平内の葛藤対立伝説が反映されている、と。
B――それも、富田勢源の名が肥後の巌流島伝説で登場する一つの可能性だ、と見ておく。伝説にはソースがあるが、その引用と活用は恣意的なんだ(笑)。
A――ようするに、富田勢源に言及する伝説が生じたのは、古いことではない。『武公伝』『二天記』成立の時期ですな。で、四天流師範のもう一人の名は、小野源吾。
B――これは成田清兵衛の弟子・西勇平治俊武の系統で、その西勇平治の門弟の小野源吾氏俊だな。ただし、宝暦五年(1755)正月から稽古所に師役で出ていたのは、本庄太兵衛正次だろう。これは成田清兵衛の弟子・平野角太夫勝氏の弟子だね。
C――この本庄太兵衛(1704〜73)は、平野角左衛門の弟で、本庄久右衛門の養子になって知行二百石。ところが、この本庄家、実は柴任三左衛門美矩と関係があるんだ(笑)。
C――本サイト『丹治峯均筆記』読解のページに詳しいが、柴任美矩の父は本庄喜助重正。生国丹後で、本名は岡山。本庄久右衛門に養育され、細川忠興が丹後から豊前へ国替えのおり、本庄久右衛門に連れられて豊前へやってきた。細川忠利が中津に居たころ、本庄久右衛門は忠利御部屋付となっていた。あるとき、狼藉者があって、筑前へ立退くところを、喜助が逮捕したことがあり、その武勇を忠利が聞いて、本庄久右衛門に喜助を他へやるなと命じて、その後、五人扶持15石を支給して本庄姓を名のらせたという。
A――そして、柴任美矩の兄貴・角兵衛が柴任を名のるようになり、なぜか弟の美矩も以後ずっと柴任で通す。
C――柴任美矩は晩年播州明石で、橋本源太郎を養子にした。しかし、肥後の系譜情報にはその事蹟は反映されていない。ともあれ、四天流の本庄太兵衛は、柴任美矩の父喜助を養った本家筋の本庄氏で、その本庄久右衛門から数えて、五代目だな。
B――だいぶ後の時代だ。太兵衛は家業でもないのに、四天流師役を勤めさせられたのだから、これは相当腕が立ったということだな。
A――四天流は居合もあるし、組討もある。つまり格闘術もある。ところで、居合術の方は、このリストには、伯耆流・関口流という名がある。
B――伯耆流は、周知のごとく片山伯耆守久安の流れだ。片山伯耆守から浅見一無斎有次を経て、その流末七代目に久布白〔くぶじろ〕喜郎左衛門光壽が出る。この久布白喜郎左衛門の弟子が、入江新内正祐と熊谷軍次直道。
C――野田一渓種信も、熊谷軍次の弟子だね。野田一渓は村上八右衛門から武蔵流を学び、熊谷軍次から伯耆流を学んでいる。
B――そうなんだ。ところで、肥後の伯耆流は、もう一つおもしろい伝系をもっている。それは、伯耆は伯耆でも、片山伯耆守ではなく、名和(伯耆守)長年を元祖とすると云うんだな。
A――名和長年は南北朝のとき、隠岐に流された後醍醐天皇が本土に脱出するや、船上山に迎えて、建武の新政に加わったので、有名な人物。それがどうして伯耆流元祖なんだ(笑)。
C――名和長年の子孫というのが、肥後に居た。秀吉が九州制圧をするとき抵抗した勢力に、宇土や八代に基盤を置いた村上顕孝という人がいた。名和氏は村上源氏だから村上を名のったのだろう。柳川の立花家に仕えた系統は伯耆姓を名のった。まあしかし、こっちの伯耆流はいずれにしてもよくわからんな。
A――居合に関口流の名がでていますな。
C――関口流は、関口柔心(弥六右衛門氏心)が、林崎甚助に居合を学び、三浦与次右衛門から組討を学び、そして長崎で唐人に拳法や捕縛術を学ぶなどして一流を立てたという。また槍も棒も馬術もある。総合芸術だね(笑)。
B――関口流の分流は非常に多いが、肥後流伝の関口流は、関口弥六右衛門の子・八郎左衛門氏業(実親)から渋川伴五郎義方へとくる渋川流の系統。渋川伴五郎から井沢十郎左衛門長秀ときて、この井沢十郎左衛門に発する肥後流だね。この流儀は剣術・居合そして体術もやる。
C――この井沢十郎左衛門長秀は、かの井沢蟠龍(1668〜1730)だね。博学多識をもって聞えた人で、『武士訓』や『広益俗説弁』など著作が多い。山崎闇斎の門人で、垂加神道の著述もある学者だ。伝説考証学は肥後では井沢蟠龍に始まる。『武公伝』『二天記』をものにした橋津八水や豊田景英は、むろん影響を受けているね。
B――好んで長さ三尺三寸もの長刀を帯び、亨斎・蟠龍子と号したともいう。その息子が井沢十郎左衛門長勝。これがこのリストにある関口流の井沢十郎左衛門。家禄は二百五十石だな。
A――居合にもう一つ、新心無手勝流という面白い名の流派がある。
B――これは塚原卜伝を遠祖とするが、よく分からん話だ。塚原卜伝の無手勝流を学んだ山本左近太夫あり、諸流儀を極め、慶長十五年(1610)天覧に供し、左近を賜称されて左近太夫と名のる。関口柔心の流儀は新心流ともいうから、これと関係があるのかもしれない。山本左近太夫の門弟に細川家臣の加藤安太夫勝秋あり、以後肥後で、飯銅左門重勝→戸田徳太夫政実→戸田助左衛門勝就→戸田孫助勝英(勝永)ときて、この戸田孫助がリストの戸田孫次郎。
A――さて、ここに武蔵流とあるのは、宮本武蔵の系統でしたな。これでみると、武芸指南は諸芸にわたるが、師役の数をみれば、剣術ではやはり新陰流・柳生流の勢力が強いのがわかる。
B――新陰流五人、柳生流二人、当流二人。この系統は、九人もいる。それに比べれば、武蔵流の師範役は、志方半兵衛と村上平内の二人。武蔵流は実際にはややマイナーだな(笑)。ただし、時習館の師役ということだから、肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』成立の当時、肥後で武蔵流を代表するのは、志方半兵衛と村上平内の二人のようだ、ということは覚えておくとよい。
――すでに本サイトのあちこちで掲載されておりますが、武蔵流の系統図を出しておきます。




*【四天流系統図】

○戸田清元―治部右衛門―戸田清喜┐
 ┌──────────────┘
 └佐々木元伯―成田清兵衛┐
 ┌───────────┘
 ├臼杵杢之助―臼杵新次
 │
 ├西勇平次┬堀田孫右衛門
 │    │
 │    └小野源吾
 │
 └平野角太夫―本庄太兵衛




*【野田一渓翁記録】
《尤四天流と云は、手前の二天流と其元の二天流二つにて有之候間、合て四天にて有之候間、四天流と稱し可然と、求馬之助流名を付遣し申され候。夫より四天流の二刀相始る。此儀御花畠間にての儀の由、寺尾家記録に慥に求馬之助記し置かれ候由、泉露より申傳候事、委くは略す》


*【井田落穂雑録】
《平内は木刀二本を提げ、杢之助は少し長き太刀にて眞向を打懸候處、間内の事故、上の鴨居に當り、夫よりとべりて、頭に當んとせし所を、平内兩刀にて、挾て推せし故、杢之助仰向に倒れたり。雙方打合し處、太刀皆折けるとなん。杢之助場所を不勘、輕卒の所行せしにより、成田先生より勘當を受し故、劔術の師範は止めり》




武稽百人一首
富田勢源


武稽百人一首
佐々木巌流




四天流伝書 本庄太兵衛


*【本庄家略系図】

○本庄久右衛門┬太兵衛─┐
       │    │
       └次右衛門│
 ┌──────────┘
 └彦右衛門―久右衛門―太兵衛

      柴任
○本庄喜助┬角兵衛─角右衛門―喜助
     │
     └三左衛門
=源太郎
           美矩








*【伯耆流系統図】

○片山伯耆守久安―浅見一無斎有次┐
 ┌──────────────┘
 └薗田九左衛門―小鶴五左衛門┐
 ┌─────────────┘
 └下田角右衛門―田城與五郎┐
 ┌────────────┘
 └粟津権兵衛尉―久布白喜郎左衛門┐
 ┌───────────────┘
 ├入江新内―入江熊次郎
 │
 └熊谷軍次―野田一渓








*【関口流系統図】

○関口弥六右衛門―八郎右衛門┐
 ┌────────────┘
 ├関口万右衛門氏英→
 │
 ├関口弥左衛門頼宣→
 │
 └渋川伴五郎義方┬伴五郎胤親→
         │
         └井沢十郎左衛門┐
            蟠龍 長秀│
 ┌───────────────┘
 └井沢十郎左衛門長勝―政右衛門長明






*【新心無手勝流系統図】

○塚原卜伝……山本左近太夫┐
 ┌───────────┘
 └加藤安太夫─飯銅左門┐
 ┌──────────┘
 └戸田徳太夫─助左衛門─孫助

                        新免武蔵守玄信 
                            │
     ┌…………………………┬―――――――――――┴――――――――――――┬………………………┐
  塩田浜之助松斎    寺尾求馬助信行                  寺尾孫之允信正   古橋惣左衛門良政
    ┌――――――┬――――┴―――――┬――――――――――┐       │         │
寺尾郷右衛門勝行 寺尾藤次玄高    新免弁助信盛     道家平蔵宗成  柴任三左衛門美矩   松井市正甫水
    │      │┌―――――┬―――┴―――┐      │       └―┬…………………┐
 吉田如雪正弘 志方半兵衛之経 寺尾助左衛門 村上平内正雄 豊田又四郎正剛 吉田太郎右衛門実連 多田源左衛門祐久
    │      │      │       ├―――――――┐        │      多田円明流
山東彦左衛門清秀 志方半七之郷 太田左平次 村上八郎右衛門正之 村上平内正勝  立花専太夫峯均
    │      │      │┌――――――┤       │        ├―――――――┐
山東半兵衛清明 新免弁之助玄直 野田一渓種信 村上大右衛門正保 長尾権五郎徒山 立花弥兵衛増寿 桐山作兵衛丹英
    │      │      │       │       │        ├―――――――┐
山東新十郎清武  志方弥左衛門 野田三郎兵衛   村上貞助   高田十兵衛   立花弥兵衛種貫 丹羽五兵衛信英
    │      │ 之唯   │ 種勝    │       │        │       │
    ↓      ↓      ↓       ↓       ↓        ↓       ↓
   山東派  寺尾派・山尾派  野田派    村上派正之系  村上派正勝系   筑前二天流   越後二天流


A――むろん、ここにある山東派だの村上派だの野田派だのというのは、後人がそう呼んでいるだけで、当時そんな流派呼称があったわけではない。
C――宝暦のころまでは、まだ一般には武蔵流。二天一流だの二天流だのが、流派名として世間に認知されるのは、もう少し後だね。肥後では、二天流・二天一流の呼称使い分けはあるのかな。
B――そう厳密な使い分けはないが、ただし、三角半島にある寺尾求馬助の墓も「二天流」と文字があるし、肥後でも二天一流というより二天流と書いた方が多いかもしれない。筑前の『丹治峯均筆記』でも「二天流」と書いている。
A――この時習館の東西榭のリストにある武蔵流は、志方半兵衛村上平内。この志方半兵衛は、れいの『兵法二天一流相伝記』(寛保二年・1742)を書いた志方半兵衛之経だね。
C――志方半兵衛は宝暦六年没だから、時習館の開校まもなく死んでしまうわけだ。志方半兵衛の名がここに出ているというのは、貴重な資料だな。
B――半兵衛は寺尾藤次の息子で、志方家の養子になった。武蔵流兵法は、まず叔父の弁助に一流相伝を受け、元禄十四年(1701)弁助が四十五歳で病死して以後、実父の藤次に再伝を得た人物というわけだ。だから、新免弁助と寺尾藤次の両人以外に、正統はないと、エクスクルーシヴな主張をしている(笑)。
C――つまり、『兵法二天一流相伝記』には、新免弁助は武蔵二代目で、寺尾藤次に流儀を相伝せしめた以外に、以心伝心の相受の者はなく、この両人に限るというわけだ。
B――新免弁助が武蔵二代というのは、武蔵の新免姓を継いだ人間だと言いたいのだね。
A――そして自分は、その新免弁助と寺尾藤次の両方から一流相伝を受けた、だから自分が武蔵流の正嫡なんだと言いたい(笑)。
B――他にもいろいろ人物はあるのにね。もちろん志方半兵衛のポジションを脅かすのは、村上平内正雄の系統だろう。
C――そもそも肥後の武蔵流は柳生流の風下に立っていたらしい。志方半兵衛によれば、細川綱利の代には、武蔵流の稽古を寺尾求馬之助がうけたまわった。が、求馬之助死後は、綱利は柳生流を稽古して、武蔵流に見向きもしなくなった。武蔵流冬の時代だ。しかも新免弁助も死んでしまった。あまたの弟子たちが、稽古断絶を嘆くので、寺尾藤次がその跡を継いで指南した。正徳二年(1712)綱利が死んで、甥の宣紀が家督相続。この宣紀の代になって、寺尾藤次が召出され、度々御前で兵法を相勤めるようになったという。
B――寺尾藤次は求馬之助の息子で、慶安三年(1650)生れ、長命で享保十六年(1731)まで生きていた。享年八十二歳か。すると、宣紀の代は、寺尾藤次が年齢六十代以後だな。寺尾藤次が召出されたとき、もう老人だった(笑)。
C――求馬助は知行二百石で、これは長男の佐助が継いで、三百石にした。弟の藤次が老人になって兵法師範役で召し出されたが、給料は五人扶持十五石。
A――いくら傍系でも、この待遇はよくない(笑)。
C――しかし、師範役はそんなものだ。だから、嫡子の半兵衛が、知行二百石の志方家へ養子に行ったんだ。
A――志方家は丹後以来でしたね。新参ではない。
C――志方先祖の本国は播州だ。黒田官兵衛の奥方櫛橋氏の実家とも関係がある。
B――志方半兵衛の証言にあるように、武蔵流に浮沈があったのは間違いないにしても、全般に新陰流や柳生流ほど主流視されなかったのだろう。実父の後を継いだ志方半兵衛には、苦労が多かっただろうよ。ともかく、宝暦五年頃の武蔵流師範は、この志方半兵衛と村上平内の二人なんだ。
――この時習館のリストにある村上平内は、正雄とその息子の正勝のどちらなのですか?
B――もちろん、息子の正勝だ。親父の正雄は元文四年(1739)に死んでいるからね。このときはあの世にいる(笑)。
C――村上平内正雄は、粗暴な振舞いがあって、元禄十年(1697)召し放ち、つまり、二百石の家禄を召上げられて、浪人した。その後は合志郡妻越村に住んで武蔵流兵法を教えていたらしいね。
B――だから、息子の村上平内正勝も浪人したままだな。この平内正雄の筋目が召し返されるのは、天保年間の子孫・孫四郎の代。ただし五人扶持だがね。
C――すると、このリストにある村上平内正勝は、家臣ではなく浪人だが、時習館の兵法指南役で召し出されていたということになる。
A――正社員じゃなくて、パートタイマーだね(笑)。
B――このリストを見る限りにおいては、そういうことになるな。しかし、文学稽古の師役もそうだが、師範は必ずしも家臣とは限らない。ここは、そう見ておこう(笑)。
C――もう一つ云えば、志方半兵衛と村上平内の二人だがね、『二天記』にくっついている友成正信の文書(天保十五年・1844)によれば、親父の村上平内正雄は、新免弁助に学んでいたが、師匠の弁助の不意を襲って、木刀を師匠に徒手で奪われて破門された。その後人に教えていたが、志方半兵衛からクレームがついた。
A――破門されたのに、勝手に武蔵流を教えてもらっちゃ困ると、ケツの穴の小さいことを云うわけだ(笑)。
C――すると、村上は、おれが人に教えているのは生活のためで、しかも師匠の新免弁助から学んだところを教えているのではない、と答えた。志方は、武蔵流ではないなら文句はない、とゆるした(笑)。それで、村上平内正雄は村上流を立てた、云々とある。
B――これはようするに、志方半兵衛の系統の伝説だな。村上平内正雄は破門されたのだから、武蔵流ではない。武蔵流を名のるのは許さない。村上流と称せよというわけだ。
A――武蔵流兵法に諸派が並立する時代になって、それぞれ自派の正統性を主張するあまり、他派を異端とする伝説が形成されるわけだが、肥後の武蔵流でも分派同士でこういう話になる。
B――村上平内正雄に次弟があって、吉之允正房という。兄の正雄が召し放ちにあったが、吉之允は別禄で七人扶持を与えられ、その後は出世して家禄を五百石にして寛保二年病死。跡目を嗣いだ息子の吉之允は小姓に出仕していたが、「不所存の儀」あり死刑に処せられた。というわけで、弟の吉之允の系統も断絶した。
A――どうも運の悪い家系である(笑)。
B――しかし、村上氏先祖附によれば、村上平内正雄の長男・平内正勝は、剣術指南をして、兵法の家・村上家を維持していたらしい。父の正雄は、宮本武蔵→寺尾求馬助→新免弁助→村上平内正雄と、武蔵流兵法三代目で、息子の正勝は四代目だな。延享元年(1744)武芸上覧のさい、門弟を引き連れて出て、褒美に金子二百疋。宝暦五年(1755)二月、剣術師範役を命じられて、役料に五人扶持を与えられた。これが時習館西榭での武蔵流師役だな。その後、宝暦六年に二十俵加増、宝暦八年十俵加増。だから、家臣ではないが、役料をもらって武蔵流を教えていたわけだ。
C――たしかに、父祖までの二百石知行に比すれば、微々たる給料だが、役料を受けて時習館で師範を勤めたとすれば、兵法の家として村上家を公認されたということだね。
B――その功は大きい。平内正勝は、安永二年(1773)九月病死。跡目は息子の平内正則が継承して、安永三年(1774)、五人扶持で師範役だ。
C――平内正雄の二男がいて、これが村上八郎右衛門正之。平内正勝の弟だね。この八郎右衛門正之の系統から、村上大右衛門正保の系統と、野田一渓種信の系統が派生する。
A――村上八郎右衛門正之は、八代の教衛場で兵法師範をしていたらしいね。
C――たしかに、豊田氏先祖附の記事によれば、豊田景英が、安永三年(1774)、二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見を命じられた、そうして師範代になって、毎年役料を受けるようになったとある。








*【兵法二天一流相伝記】
《其比綱利公、武藏流御稽古、信行御師南申上、御在府中、兩人の子共、御打太刀相勤、御稽古遊され畢。求馬死後は、柳生流御稽古に付、其後は御打太刀不相勤。辨助は流儀彌致指南處に、不幸に付、數多の弟子、稽古斷絶の事を嘆申に付、藤次其跡を繼ぎ、指南致す所に、太守宣紀公、達尊聽、召出され、御紋の御上下、并食禄、其外御褒美等拜領させられ、於御前、度々兵法相勤、尤弟子中、兵法奉入御覧、門弟指南仕、八十二歳迄、無懈怠相勤、享保十四年八月十九日致病死畢。二天流數多有之と雖、新免辨助、武藏二代、寺尾藤次流儀令相傳より外、以心傳心の相受の者無之、此兩人に限る。外を以て求る事なし》


*【寺尾氏略系図】

○寺尾佐助 勝永 ─┐
 ┌───────┘
 ├九郎左衛門 勝正 喜内
 |
 ├孫之允 信正 勝信 夢世
 |
 └求馬助 信行 後藤兵衛─┐
 ┌───────────┘
 ├佐助 信形 ―助左衛門 勝春
 |
 ├新助 信景
 |
 ├藤次 玄高 ―半兵衛 志方之経
 |
 ├弁助 信盛 後改新免
 |
 ├加賀助 勝明
 |
 └郷右衛門 勝行















*【村上家略系図】

○村上吉之允正重―吉之允正之┐
┌─────────────┘
├平内正雄─┬平内正勝―平内正則
│     │
└吉之允正房└八郎右衛門正之┐
  ┌───────────┘
  └大右衛門─貞助


*【北岡御記録】
《村上平内儀、二百石下し置れ候處、手荒所行有之、元禄十年八月、御知行召上られ、其後平内五代の孫、村上孫四郎儀、豊前以來の家筋に對せられ、天保十二年十二月、五人扶持御中小姓に召出され候事》


*【二天記附記】
《或曰、村上平内正雄者、學兵法於新免辨助之門。其派存于今者二家。子今作武藏流傳統系圖。而外之者何耶。曰、余甞聞正雄學兵法於辨助師之門久矣。藝既成。以爲天下唯師勝已也。心竊害之、乃携四尺餘木刀、撃其不意。師徒手奪其刀、叱而逐其門。後數年、正雄授劍法於人、師之姪志方之經聞之、以書責其僭。正雄答謝曰、浪士無由糊口、用所自給耳。然所授于人非所受師也。之經恕不問。是以遂興一家、名曰村上流。其謝書存于志方氏。木刀存于寺尾氏。皆歴々于今。然而世人以村上大塚二家出于正雄者、混志方山東二家出于武藏守者、而共稱武藏流。余恐眞僞之辨久而u癈也。故作武藏流系圖、別附以村上流、掲之於二天記之末。以示後人矣。
 天保十五甲辰歳孟冬  友成正信識 》




*【村上氏先祖附】
《然る處、平内病身に罷成、御奉公難動、御知行差上度、奉願候處、叶はせられず、無構其儘罷在候樣仰付られ候。(元禄)十年、平内儀世間出合不宜、殊の外手荒打合等に懸り、何も悪き風聞致候間、御知行召上られ候段仰渡され候。其後監物殿宅にて、三宅藤兵衛を以、平内御知行召上られ、難儀可致間、一類中より麁末に不致候樣、一類中へ申渡に相成、且又平内他國を望共にては無之歟、若左樣の儀有之節は、一類中へ迷惑仰付られ候段、申渡に相成、前々の通、思召の筋も在せられ候間、身を崩不申、押移候樣仰付らる。其後金子御米等拝領、元文四年十二月病死。四代平内正勝、劔術指南仕、延享元年武藝上覧の節、門弟引廻罷出候處、鍛錬の御褒美として、金子二百疋下さる。寶暦五年二月、五人扶持下され、劔術師範役仰付られ、六年二十俵増、八年十俵増、安永二年九月病死》



*【村上派系統図】

○宮本武蔵―寺尾求馬助信行┐
┌────────────┘
└新免弁助信盛―村上平内正雄┐
┌─────────────┘
├村上平内正勝―村上平内正則

八郎右衛門正之┬村上大右衛門
        │
        └野田一渓種信




*【豊田氏先祖附】 正脩
同(宝暦)九年六月、御役儀御断申上候処、願の通被仰付、御者頭列ニて、御式台御番被仰付、同年十一月、御家譜調方被仰付、同十一年八月、御家譜方退役被仰付》

*【豊田氏先祖附】 景英
《私儀、橋津彦兵衛二男ニて御座候。兄病身御座候付、先年私を彦兵衛家督奉願候。弟橋津千九郎儀は、宝暦十三年八月、豊之公御側御中小姓被召出、明和元年八月、高野源之進末期養子ニ仕候》

*【高野氏先祖附】 仙九郎
《私儀、実は橋津彦兵衛正脩末子ニて、初名甲助、仙九郎と申候。宝暦九年、拾二歳ニて豊之公御側ニ被召出、同十年正月、熊本御出府御供被仰付、銀三両被為拝領、同年九月、御出府の節御供被仰付、白銀壱枚被為拝領、同十一月、御出府の節も御供被仰付、白銀壱枚被為拝領、同十二月、此間御小坊主共庖瘡相煩候節、御雇ニ被召仕、出精相勤候由ニて、金子百疋被為拝領、同十一年二月、御出府の節御供被仰付、白銀壱枚被為拝領、同年六月、昼夜出精相勤候由ニて、白銀三枚被為拝領、同十一月、為衣類代白銀五枚毎歳被為拝領之旨被仰渡、同十二年十一月、額を直候様ニと被仰付、御上張被為拝領、同十三年七月、執前髪候様ニと被仰付、御上下被為拝領、同年八月九日、御側御中小姓ニ被仰付、御切米八石三人扶持被為拝領》




*【豊田氏先祖附】 正脩
《明和元年五月、隠居奉願候処、願の通被仰付、此間御役儀品々被仰付候処、出精相勤被遊御満足候旨ニて、御紋付御帷子被為拝領、老病保養仕、折々教衛場武蔵流兵法稽古見締ニ罷出候様被仰渡、名を八水と改、同年十月、病死仕候》




















*【武公伝】
夢世ノ弟子、山本源介勝守[士水男。後ニ源左衛門ト云]、井上角兵衛正紹[一流傳授相済、寛文七天八月五輪書相傳後、素軒ト云]、中山平右衛門正勝[後ニ箕軒ト云]、堤次兵衛永衛[後ニ又左衛門ト云、改一水ト云]、此外餘多有レドモ此等ハ大抵傳授モアリシ由、初ヨリ二刀ヲ以テ教ルナリ[此五法、提又左衛門ヨリ、予相傳ス。八水ト云]》

*【堤氏先祖附】
《曾祖父・堤又左衛門永衛儀は、右九郎右衛門永正嫡子ニて御座候。初名作平、次兵衛、次平、八郎右衛門、甚右衛門と申候。明暦元[乙未]年十五歳ニて、興長公御代、被召出、(中略)同(元禄)十四[辛巳]年、病身ニ付如願隠居被仰付、一睡と名を改申候。享保十五庚戌年正月、九十歳ニ相成申候付、従寿之公長寿被遊御祝、綿入御羽織被為拝領候。同十六[辛亥]年十月、病死仕候》
A――話は脱線して、かなり先へ行ってしまったが(笑)、ここで豊田氏の話に戻れば、宝暦五年(1755)の日付のある武公伝覚書の後だね。
B――八代に、伝習堂・教衛場が設置されるのが宝暦七年(1757)、このとき正脩五十二歳、景英十八歳。宝暦九年(1759)六月、正脩五十四歳、役儀(町奉行役)を辞退、物頭格で、式台御番。これはどうかね。
C――《御役儀御断申上候処、願の通被仰付》とある。退任するときでも、一応《御断申上》て、《願の通被仰付》という形式と取るわけだ。式台御番は、町奉行なんぞとは違って、まあ閑職だね。
A――少し暇になったと思うと、正脩は同年十一月、御家譜調方になる。
C――御家譜というのは主家・長岡(松井)家の家譜だね。仕事は主家の歴史の調査研究。十八世紀後半になると、こういう家譜生産というかたちで、歴史意識が出てくる。家臣の諸家に先祖附を書き上げさせるのは、もう少し先だね。仕事が済んだのか、二年後の宝暦十一年(1761)八月、御家譜方退役。
B――『武公伝』を書いた正脩が、御家譜調方を勤めたというのは興味深い。御家譜調方になったというのも、まあ、家中ではインテリの部類とみなされていたのだろう。
C――正脩には三人男子がいて、長男は病弱で、二男の甚之允正通(景英)が跡を継ぐことになっていたが、三男の仙九郎(千九郎)というのがいる。これが宝暦九年(1759)に豊之に召出される。
A――兄貴の景英より前に、弟の方が前に出仕した。仙九郎は景英より八歳年下、十二歳だから児小姓だね。
B――主人の豊之が熊本出府のおりにお供したりもする。その都度、白銀一枚とか三枚とか褒美をもらう。子どもだから、役料というほどのものではない。仙九郎は十五歳で元服。十六歳の時、豊之御側中小姓になって、切米八石三人扶持。これで給料がつく家士になったわけだ。
C――養子に行く準備ができたということだね。兄貴の景英の方は部屋住みで、二十四歳になっても出仕していない。
A――景英が二十歳のとき、弟の仙九郎が十二歳で出仕しているが、景英の方は家督相続以前はとくに出仕記録はなくて、部屋住みですな。
B――教衛場で剣術の稽古に励んでいたのだろう(笑)。いや、嫡男だから、見習いで父の仕事を手伝っておったのだろう。
A――そうして翌年、問題の年、明和元年(1764)になる。
C――この年、正脩は五十九歳。五月、隠居。在勤中さまざまな役儀を出精して勤務したのを褒賞され御紋付帷子を拝領した。御紋付というのは、主家の家紋がついたものだが、リタイアする者に帷子を与えるという習俗も興味深い。
A――正脩が隠居して、家督を継いだのは二男の正通、つまり景英。
B――長男が病身だったので、二男を嫡子として家督相続することを願い出ていた。そうは云うが、家を継ぐのに長男が不適切なら、弟でよいというのは、近世に一般的だな。理由は病身ということだが、それは表向きの理由で、他に何か問題があったというケースも多い。
A――商家なら廃嫡して養子をとる。
B――大坂だと、「あそこは養子でないから、信用ならん」という話まで出る(笑)。で、橋津家の家督百五十石を継いだ景英は、御馬廻組に配属され、役目は式台御番。これは親父が町奉行までして、御役御免で式台御番、というプロセスを省略しておる。景英はもう二十五歳だ。
C――嫡子・景英への相続が済んで、隠居の正脩は、老病を保養し、それでも折々は、教衛場での武蔵流兵法稽古の見締、つまり監督に出るようにと言い渡されたという。リタイアしても、若い連中の兵法稽古の監督でもやってくれよ、という話だね。
A――これで、隠居の正脩が教衛場で教えたことがわかる。それまでは教衛場で教えたことはなかったのかな。
B――そういう記録はない。リタイア前の正脩の仕事は御家譜方で、こちらは武ではなく、文の方の仕事だな。
C――これは歴史意識の興起の時期だね。たぶん正脩は御家譜方の仕事のかたわら、『武公伝』を書いておったのだろう。主家の歴史を書く、そして武蔵流始祖の伝記を書く。
B――これは志方半兵衛の相伝記(兵法二天一流相伝記、寛保二年)などと較べてみればわかるが、従来の相伝記の書き方とはまったく違うスタイルだね。
C――それは、武蔵伝説を大いに取り込んだという点だね。父の正剛が遺した伝聞記録をもとにできたということもあるが、正脩自身が新たに伝説を採集している。したがって、どこまでが正剛のネタで、どこからが正脩が新たに採集した伝説なのか、その継ぎ目は我々が読める『武公伝』ではよくわからんのよ。
A――それは今後の研究課題ですな。
C――うむ、それで、先祖附がここで突然出してくるのが、「武蔵流兵法」という語だ。それまでに武蔵流兵法に関連する記事はない。正脩はだれに武蔵流兵法を学んだのか、豊田氏先祖附では不明だということは、確認しておきたい。
B――そうなんだ。先祖附にはそのあたりの話はないが、『武公伝』に一つ情報がある。それによれば、《此五法、提次兵衛ヨリ、予相傳ス》とあって、この堤次兵衛永衛から、正脩は武蔵流の五法を相伝されたものらしいと知れる。夢世(寺尾孫之允)の弟子を列挙するなかに、堤次兵衛永衛の名があって、《後ニ五兵衛ト云、改一水ト云》と割注がある。
C――前にも話に出たが、堤氏先祖附によれば、これは、九十一歳まで生きた堤又左衛門永衛(1641〜1731)という長命の人で、元禄十四年(1701)隠居して一睡と号した。これは『武公伝』にみえる一水だろう。正脩は八水を号したが、これは堤次兵衛の一水号に関係するものらしい。
B――提次兵衛死去は、正脩が二十六歳の、享保十六年(1731)。すると、若き正脩が、この老人から相伝を受ける機会はあったということ。
A――そうすると、正脩は、寺尾孫之允の孫弟子という筋目である。父の正剛が、寺尾求馬助の弟子・道家平蔵に学んだのとは異なる門弟筋ですな。
B――それは何か意図があってのことではなく、宇土や熊本まで習いに行けないからね。提次兵衛は八代にいた人だ。高齢ながら武蔵流の長老として生きていた。とすれば、正脩が入門したのもわかる。
A――それで、問題は、隠居後、半年もたたぬ間に、正脩が死んでしまったことでしたな。正脩の隠居が明和元年(1764)五月、死去が同年十月、享年七十八歳。
C――この年はたいへんだった(笑)。正脩が5月に隠居して、景英が家督相続。すると、八月には弟の仙九郎が高野家に養子に入ることになった。これは末期養子ということで、急遽縁組を命じられたようだ。
B――高野家当主の高野源之進常尹は、宝暦十年(1760)に藤木家から養子に入って、高野家の家督を相続した人だな。ところが、この高野源之進が、養子に入ってわずか四年後の、この明和元年に死んでしまう。それで、橋津家の仙九郎を高野源之進の養子に仕立てて、家を嗣がせた。
C――しかも、十月には仙九郎実父の正脩まで死んでしまうから、仙九郎はこのときダブルの喪中。双方の服忌のため、高野家の家督相続は遅れて、十二月になった。仙九郎は十七歳、家督は百五十石で、御側御馬乗組に配属された。
A――ともあれ、橋津兄弟にはこの年はドサクサなんだ。
C――それで、話をもどすと、正脩の隠居が明和元年(1764)五月、死去が同年十月だったね。これが問題なのは、正脩の「八水」という号に関わることだ。父正剛が橋津卜川と名のったように、正脩は橋津八水と名のるようになった。だいたい先祖附をみれば、隠居して八水とかいう号を名のるのが通例。隠居号だね。とすれば、正脩は隠居後に名を八水と改めたであろう、と。
A――ところが、隠居のこの橋津八水がすぐ死んでしまう。とすれば、橋津八水という名は、隠居と死亡までの間、つまり明和元年(1764)の五月から十月までのごく限られた期間の名のりであったことになる。すると、問題なのは、例の武公伝覚書である。
B――『二天記』冒頭に「凡例」として記載されているその文書の記日は、宝暦五年(1755)二月で、署名は「橋八水正脩著」とある。「橋八水」とは橋津八水のことで、当時よくある慣習で、漢流に姓を一文字に書いた。
C――したがって、『二天記』が冒頭に据えたこの文書を信憑するかぎりにおいて、宝暦五年二月という時点において、正脩はすでに「八水」を名のっていたことになる。しかるに、この八水号は他の人々と同様に隠居後のことだとすれば、つまり、それは明和元年(1764)のことで、しかも五月から十月までのごく限られた期間だとすれば、武公伝覚書の記日とは矛盾してしまう。
B――宝暦五年の当時、正脩はまだ現役で、八代の町奉行役を勤めていた。正脩は隠居して八水と号したが、それより九年前の宝暦五年に、すでに八水と署名していた。
A――お奉行様、これはどういうことなんだ、と(笑)。しかも、八水号が五月から十月までだとすれば、覚書の「二月」はありえない。
C――こういう一見瑣末なことは、従来指摘されたことがなかった。我々にしても、『二天記』冒頭の凡例の期日と「橋八水」なる署名を、疑問することなく読んできておった(笑)。
B――ここから立ち上がる問題は、宝暦五年という時期と八水号との根本的な両立不可能性だね。『二天記』が冒頭に据えた「橋八水正脩著」というこの覚書は、そもそも正脩が書いたものなのか、という疑いに発展する。
C――それというのも、景英が先祖附を書いて提出したのは、明和七年(1770)だったな。このとき、《宝暦五乙亥年二月 橋八水正脩著》とある文書のことを忘れていたとは、言いがたい。むしろ景英が先祖附を書く時点では、「宝暦五乙亥年二月」と「橋八水正脩著」という二つの要素を記すこの文書は、まだ存在しなかったであろう、と(笑)。
B――明和七年(1770)の時点で、景英の頭にあったのは、父の正脩の号八水は隠居後だということだな。だから、先祖附のこういう書き方になる。
C――さてそうなると、由々しき結果にいたるのだが、この武公伝覚書は引用文であるとすれば、引用者の手が入ったものと思われる。その引用者は、『二天記』作者の景英であるが、その景英が父の正脩に仮託して、これを後日、つまり先祖附提出の明和七年(1770)より後の、『二天記』の安永五年(1776)あたりに作成したと、そのように想定できないこともない。
B――それに、『武公伝』とあったのを『二天記』と改めたと、景英が書いている直前の文字だからな。
A――引用者・景英の手が入った。それが、「橋八水正脩著」という部分だけなのか、それとも、本文諸箇条にまで及ぶのか。
C――ともあれ、この問題は他の論及の場所に譲るとして、ここでは、問題を提起する箇処は、まさにここだ、という点を指摘しておきたい。


*【豊田氏先祖附】 正脩
《明和元年五月、隠居奉願候処、願の通被仰付、此間御役儀品々被仰付候処、出精相勤被遊御満足候旨ニて、御紋付御帷子被為拝領、老病保養仕、折々教衛場武蔵流兵法稽古見締ニ罷出候様被仰渡、名を八水と改、同年十月、病死仕候》

*【豊田氏先祖附】 景英
私儀、同年(明和元年)五月、父彦兵衛家督無相違被為拝領、御馬廻組被召加、御式台御番被仰付》

*【高野氏先祖附】 仙九郎
《明和元年八月晦日、高野源之進末期依願養子ニ被仰付、同十月十四日、実父橋津八水[初彦兵衛と申候]病死仕、養実双方の服忌を受候ニ付て、同年十二月七日、源之進跡式無相違百五拾石被為拝領、御側御馬乗組ニ被召加》





二天記凡例(武公伝覚書)
「宝暦五乙亥年二月 橋八水正脩著」



*【二天記凡例】
《一 此書ハ豫め先師一生の事を録す。家父卜川正剛、若年の頃、老健成りし直弟の人々の物語ニ、先師徒然の折節、自然打話有し事也。或ハ先師自筆の文書等抄出する也。
一 先師勝負のことは、数十度のことなれば、世説に謂ふ所、或は相手の違ひ、或は別人の勝負、或は其手技乃違ひ、區説多し。最も洩たること多し。
一 先師直弟老健にて、正剛に對し物語有し人々ハ、熊府ノ士道家角左衛門[後ニ徹水ト號ス]、正剛剣術の師・平藏の父なり。或ハ代城の士山本源五左衛門[後に士水ト号す]、中西孫之允、田中左太夫等の噺なり。是等は先師に從て、各大形相傳も有し門弟なり。殊に中西ハ、先師病中ニ松井寄之主より付置れし人なり。
一 岩流勝負の事は、長岡興長主其事を取計ひ在りし故、于今精く聞傳る處なり。又正徳二年の春、豊州小倉之商人村屋勘八郎ト云者、八代に來る。正剛遇之、岩流嶋乃事を問ふ。勘八郎委しく其事を語る。勘八郎親族に、小林太郎左衛門と云者、長州下ノ關の問屋なり。則先師其時宿せし処なり。彼家に老人あり、其者先師舟渡りの時之梢人也。勘八郎度々出會し其噺を聞に、毎囘一言も不違と(云)。故に此度委く知れりと語る。
一 此書の文體は、其人々の噺を直に書留置し覺書の儘にて、文言を不改書するなり。猶五輪の書等の中より少々書き加へ、一書と為す者也。
   寶暦五乙亥年二月  橋八水正脩著
此書武公傳と有しを二天記と改て、宇野惟貞に序を乞ふて全書と爲す者也。  豊田景英校》




*【豊田氏先祖附】 景英
《私儀、同年五月、父彦兵衛家督無相違被為拝領、御馬廻組被召加、御式台御番被仰付、其後、武蔵流兵法稽古見締をも被仰付、其比は橋津甚之允と申候処、同三年十二月、奉願豊田専右衛門と改申候。同四年四月、御近習被仰付、同年八月、永御蔵御目付被仰付、同六年十二月、御式台御番被仰付、武蔵流兵法出精仕候様被仰渡候》

*【高野氏先祖附】 仙九郎
《同三年七月、豊之公御隠居御願被為済候節、直ニ御部屋附被仰付、同四日、御移徙の上、御附中拝領物被仰付候節、御手自長御上下被為拝領、同年十月廿八日、御部屋御小姓頭被仰付、同十二月廿八日、剣術出精仕候段被聞召上候由、御褒詞被仰渡、同四年正月十五日、名を平右衛門と改候様ニと被仰付候。右の外、御時服等品々被為拝領候儀も御座候得共省略仕候》










*【豊田氏先祖附】
《私先祖、豊田次郎景俊は坂東の八平氏ニて、下総国豊田郡を領知仕、鎌倉将軍頼朝ニ仕、其子豊田但馬守景次儀は、建久年中、大友左近将監能直、為鎮西の奉行九州ニ下向の節、属従仕、豊前国宇佐郡橋津を知行仕、代々大友家の旗下ニて御座候》



大庭塚










永御蔵と教衛場 八代城模型





*【高野氏先祖附】
《明和六年[己丑]豊之公思召の旨被成御座、春光寺え康之公御肖像被成御安置、御石碑被成御建候筈ニ付、御伝記調方松井清三え被仰付、梶原平八并私儀差加り、執筆等仕候様被仰付、御肖像出来之儀は、小川町ニ居申候仏工佐兵衛と申者え被仰付候ニ付、同年六月、私儀小川え罷越、佐兵衛え申談、其後、佐兵衛伜才次郎儀、松井清三宅え罷越候上猶又委細申談、同九月廿八日、御肖像出来、同十一月廿三日、春光寺え被成御安置、御碑文は薮茂次郎殿え被成御頼、右御用筋出精相勤申候由ニて、同七年三月十一日、御羽織被為拝領、同八年二月、右御用の儀ニ付、熊本え被差越、茂次郎殿え委細申談、罷帰申候。同年三月廿九日、豊之公被遊御逝去、為御遺物御袷被為拝領》


A――では、景英が当主になった後のことへ移りますか。
C――百五十石の家督を相続した二十五歳の景英は、御馬廻組に配属され、式台御番をつとめた。式台御番はどちらかというと閑職で、その後、景英は、武蔵流兵法稽古見締、つまり家士たちが教衛場で武蔵流兵法の稽古をする監督も命じられた。
B――稽古見締をつとめるというのは、つまり、兵法の腕を買われたということだろうが、むろん父・正脩が隠居しても稽古見締を要請されたことの連続だろう。
C――明和三年(1766)、主家では豊之(六十三歳)が隠居して、三十歳の営之〔ためゆき〕が家督相続して、代替り。高野家へ養子に入った弟の仙九郎は、隠居の豊之に従い、御部屋付となり、御部屋小姓頭になった。また、この年の暮に、仙九郎は、剣術に出精しているというので、褒詞を頂戴したという。
B――橋津八水(正脩)の息子として、仙九郎も兄景英同様、剣術稽古に励んでいたということだろうな。
A――景英は、このころまでは、橋津甚之允といっていたが、この年(明和三年・1766)十二月、願い出て名を豊田専右衛門と改めたというね。豊田氏への復姓だ。
C――甚之允名は、四代前の豊田甚之允高久、つまり豊田家が長岡興長に仕える端緒となった人物の名を襲ったものだろうが、これを専右衛門に替えるというのは、曾祖父・豊田専右衛門高達の名を継いだもの。したがって、これには問題はない。しかし、姓を橋津から豊田に替えるというのは、これは復姓・復氏である。もともと豊田であったのを、それに復帰したということだな。
A――豊田から橋津に替えたのは、父・正脩の代。すなわち、元文二年(1737)のことだが、このとき、祖父・大叔父・父とすべて、豊田から橋津に改姓している。
C――おそらくそれは、祖父・正剛の意向によるものだろう。しかし、祖父・正剛も大叔父・正敬もすでになく、そして父・正脩も死んで、景英は豊前の橋津にちなむ姓よりは、むしろ、本来の豊田氏に復姓しようと考えた。
B――景英が書いた先祖附によれば、そもそも肥後八代豊田氏の元祖は、豊田次郎景俊という人物。この景俊は、坂東の八平氏で、下総国豊田郡を領知し、鎌倉将軍頼朝に仕えた、という。坂東八平氏のひとつに鎌倉氏あり、その鎌倉党に大庭・長江・梶原・長尾・香川など諸氏があった。豊田次郎景俊は、このうち大庭氏から出た人だな。
C――頼朝挙兵のおり、大庭家は敵味方に分裂した。大庭景宗の長男・大庭景義と次弟・豊田景俊が頼朝に与した。三男の大庭景親と五男の景久は平家方にとどまり、石橋山合戦では頼朝勢と戦い敗走せしめた。のち富士川合戦で頼朝方が勝利したのち、大庭景義は片瀬川で敗軍の弟・景親を斬首した。
B――豊田次郎景俊は、領地の地名により豊田を名のったが、その豊田の場所は相模国豊田庄(現・神奈川県平塚市)だな。景俊の父・大庭景宗の墳墓跡という大庭塚が同地にある。
A――とすれば、豊田氏先祖附にある下総国豊田郡(現・茨城県常総市)というのは、九州末孫の誤伝だな(笑)。
C――景英は、先祖附を書いた。橋津姓に改氏して豊田姓を捨てたのだが、この景英に至って、豊田氏の史的意義を再発見したようだ。遠祖・東国以来の豊田氏に遡行して、この豊田姓をいわば再評価した。そうして、主家に願い出て、豊田へ復氏した。
B――そこには、ルーツへのあらわな遡行ぶりみえる。それまでは、甚之允正通と名のっていたのだが、景英という名にしたのもこのあたりだろう。つまり、ルーツを遡って、豊田氏元祖の豊田次郎景俊や但馬守景次の「景」字を頂戴したということだな。
C――しかも、また景英は「子俊」とも号して、これまた景俊の「俊」字を頂戴している。豊田次郎景俊の「景」も「俊」も継いだわけだ。豊田景英は、かようにも元祖・景俊への思い入れが深い。そのあたりは、祖父や父に対する景英のスタンスが窺われて、興味深い。というのも、父の残した武蔵伝記『武公伝』に対して、それを承継するのではなく、むしろそれを棚上げにした恰好で、『二天記』という別の武蔵伝記を書いてしまうからだ。
A――『武公伝』に対する『二天記』のある種の距離は、橋津という姓に対する豊田姓のありかたとパラレルですな。
C――二十七歳で、豊田専右衛門と名を改めた景英は、翌年(明和四年・1767)四月、営之の近習になった。営之は前年家督相続したばかり、景英が側近になったのも、世代替りの新体制ということかな。同年八月、永御蔵御目付役に就いた。
B――永御蔵というのは八代城三ノ丸にあった米蔵で、永御蔵目付役は主家の蔵米の管理人だ。景英は、はじめて具体的な役目に就いたわけだ。
C――ところが、二年後の明和六年(1769)、三十歳の景英は永御蔵御目付役を免除され、式台御番で武蔵流兵法に出精するよう言い渡された。
B――これは、景英は官吏よりも、教衛場での兵法稽古の方が向いているとみなされたものか。景英は出世コースから外れるな。
A――高野家へ養子に行った仙九郎は二十歳の年(明和四年・1767)に、名を平右衛門と改めるね。
C――このころ、高野平右衛門(仙九郎)は、隠居の豊之附の御小姓頭役を勤めている。明和六年(1769)から、平右衛門は、春光寺に安置する主家元祖の松井康之肖像を制作する事業で奔走している。他方、兄の景英は、この年十二月、式台御番で、武蔵流兵法に出精するよう指示された。
B――つまり、兄は武蔵流兵法に出精しろで、実弟は隠居部屋付きで、主家元祖の松井康之肖像の制作事業に奔走である。弟の平右衛門は、それから君側にあって出世する。
A――翌明和七年(1770)は先祖附を提出した年で、景英は二月に、平右衛門は高野氏先祖附を三月に、それぞれ提出している。
B――景英は三十一歳、六年前に家督を相続したばかりだ。高祖父・豊田甚之允が、豊前において召出され、現在の私まで、五代・百四十七年、御家に仕えたとある。つまり、寛永元年(1624)、豊田甚之允高久が長岡興長に仕えるようになって以来、豊田家は五代にわたって、長岡(松井)家に仕えてきたというわけだ。
C――もちろん、興長の父・松井康之の代以来の古い譜代の家も少なくない。それゆえ、興長以来となると、さして旧くはないし、他家のように華々しい功績があるわけでもないが、それでもここまで百五十年近く仕えてきた。それを述べている。
A――この先祖附には後日の追加がある。それが、十一年後の天明元年(1781)閏五月提出の、豊田守衛名の覚書だね。
B――これで、その後の豊田景英がわかる。豊田守衛と署名しているところをみると、専右衛門を守衛に改めたらしい。これはちょいと、今風だな(笑)。
C――で、前回先祖附提出の明和七年(1770)の後はいかに、というと、明和八年(1771)、隠居の豊之が歿。翌年、景英三十三歳の安永元年(1772)正月、御台所頭になった。主家奥向きの、主人の家庭と親しく接する勤めだな。景英二十八〜九歳のころ、近習から、永御蔵御目付になって、その後式台御番になっているが、今回も同じく、翌安永二年(1773)九月、御台所頭の役儀を免除され、式台御番になっている。
A――つまり、御役御免で、教衛場での稽古指導に専念しろということですな。
C――そうして、さらに翌年の安永三年(1774)四月、二天一流の師範・村上八郎右衛門の代見を命じられ、同年十二月、稽古料として、毎年金子百疋を支給されるようになった。この金子百疋は、師範代としての役料であるが、これを見るに、教衛場が制度化され、役料も付くというようになっていたようだ。
B――さて、二天一流師範・村上八郎右衛門とあるが、この人は、村上平内正雄の次男だ。村上平内正雄は父祖の代からの二百石の禄を食んでいたが、前に話に出たように、元禄十年(1697)粗暴のことがあり、召し放ち。以後浪人して、武蔵流を教えていた。長男が平内正勝、二男が八郎右衛門正之(正行)。
A――この八郎右衛門正之の系統から、村上大右衛門正保の系統と、野田一渓種信の系統が派生する。村上大右衛門の系統は、剣術師役で二十石五人扶持を受けた。ただし、現在では有名なのは野田一渓の方だろうが。
B――野田一渓の先祖は、天草家没落で浪人、野田喜兵衛は豊前で細川忠利に召し出され、五人扶持十五石。のち、細川家転封に従い、肥後に来たって二百五十石。
C――天草は切支丹信仰の篤い土地柄で、喜兵衛もその一人だった。寛永十三年(1636)、つまり天草島原一揆の直前だが、切支丹を転んで浄土宗門徒に転向。翌年、天草島原で切支丹宗徒一揆。そして喜兵衛は、寛永十八年(1641)細川忠利が死亡したとき、殉死した。
B――その後、養子の三郎兵衛種正が百五十石、三代目喜兵衛種長も養子で、二百五十石。四代三郎兵衛種久もこれまた養子で、二百五十石。しかし、種久は享保九年(1724)致仕して浪人。その後、またまた養子の五代喜兵衛種弘のときに、延享三年(1746)先知二百五十石を回復した。
A――なんだか、養子ばかり連続するな(笑)。
C――日本人の家系は、本来、血統主義じゃないんだ。中華文明圏では異端だな。日本人が平気で養子をとるのは、中国人には野蛮な奇習とみえるらしい(笑)。
B――野田一渓はこの喜兵衛種弘の子で、名は三郎兵衛種信。宝暦十年(1760)十二月、家督二百石を相続。御番方。四十一歳の安永三年(1774)五月、隠居して、号一渓。剣術・居合・小具足を指南した。つまり、武蔵流・伯耆流・塩田流3つの流儀を教えた。墓誌によれば、野田一渓の歿年は享和二年(1802)、享年六十九。
A――すると、享保十九年(1734)生れだから、豊田景英より六歳上ということになる。
C――話を戻せば、豊田家先祖附の記事によれば、村上八郎右衛門は、八代の教衛場で兵法師範をしていたらしい。豊田景英は、安永三年(1774)、この二天一流師範・村上八郎右衛門の代見を命じられたというからね。
B――村上兄弟の兄貴の平内正勝は、熊本の時習館で武蔵流師範、そうして弟の八郎右衛門正之は、八代の教衛場で師範、という構図だな。
C――その村上八郎右衛門の代見をしたということは、豊田景英はこの村上正之の弟子だったとみてよいか。そうなると、野田一渓らと相弟子になるわけだ。
B――村上八郎右衛門は、安永五年(1776)七月に死亡した。四年後の安永九年(1780)五月、四十一歳の豊田景英は二天一流の師範役を命じられた。後任としては空白があるが、その間、師範代という役どころだったのだろうな。安永九年は、師範代から師範への昇格だな。公務は、相変わらず、式台御番。兵法師範に精を出せということらしい。
A――その村上八郎右衛門が死んだ年の安永五年十一月、景英三十七歳、『二天記』を書き上げている。つまり、このあたりで、『二天記』が出現する。
C――安永三年から、二天一流師範・村上八郎右衛門の代見をしているから、教衛場で講義もしていたのだろう。その講義するなかで、武蔵伝記をまとめる必要があったのだろうな。
A――『二天記』は教衛場での講義から生まれた、というわけだ。これは新説ですな(笑)。
B――そういうことだろう。『二天記』は教衛場での講義のなかから生まれた。公衆に語るなかで、この武蔵伝記は生まれた。
C――『武公伝』は武蔵のことを、「武公」という尊称で呼ぶ。ところが、『二天記』だと「武蔵」と呼ぶ。武蔵に対する語り手/書き手のスタンスが違うわけだ。ある意味で中立性・客観性が出てきたのだが、これは公衆に語るという場面を想定しなければ出てこない。




*【豊田氏先祖附追加】 守衛
《私儀、御馬廻組ニて、御式台御番相勤居申候処、安永元年正月、御台所頭被仰付候。同二年九月、御台所頭御断奉願候処、被差免、御式台御番被仰候。同三年四月、二天一流の師範・村上八郎右衛門代見ニ被仰付、同年十二月、為稽古料毎歳金子百疋被為拝領候。同四年九月、奉願名を守衛と改申候。同九年五月、二天一流の師役被仰付、御式台御番相勤居申候》




*【村上家略系図】

○村上吉之允正重―吉之允正之┐
┌─────────────┘
├平内正雄─┬平内正勝―平内正則
│     │
└吉之允正房└八郎右衛門正之
  ┌───────────┘
  └大右衛門─貞助



*【村上派系統図】

○宮本武蔵―寺尾求馬助信行┐
┌────────────┘
└新免弁助信盛―村上平内正雄┐
┌─────────────┘
├村上平内正勝―村上平内正則

八郎右衛門正之┬村上大右衛門
        │
        └野田一渓種信


*【野田家略系図】

○野田美濃―喜兵衛重綱┐
┌──────────┘
└三郎兵衛種正─喜兵衛種長┐
┌────────────┘
└三郎兵衛種久―喜兵衛種弘┐
┌────────────┘
三郎兵衛種信┬喜兵衛種行
       │
       └三郎兵衛種勝→







八代城址


武公伝 村上八郎右衛門記事

*【武公伝】
《   合志郡妻越村在宅
  安永[丙申]年龝七月廿九日卒
  村上八郎右衛門源正之先生
   舎兄村上平内正勝云
      兵法四代爲師範
  法名
     兵法二天一流五代
    法誠院新満義得居士 》




村上八郎右衛門墓碑
熊本県菊池市旭志新明










*【武公伝】
《寺尾求馬信行[後ニ改七郎右衛門]子息五人、嫡子左介[家督參百石、御鉄鉋頭]、二男吉之介[御中小姓、藤次ト改]、參男加賀介[新組ニ被召出、後ニ御暇ナリ]、四男辨介信明[後ニ新免信森ト號ス]、五男縫殿介[御中小姓、初合太兵衛、後ニ合右衛ト改ム]。右村上八郎右衛門正之先生ノ話也》


*【二天記後記】
《此書、本祖父ト川甫所艸、而雜在故書篋中。蓋以説二天師之事者、当時已紛然、無由取眞。是以得故老證話、則筆之、備其忽忘。已至父八水甫、以上去先師之世愈遠、夫人區説不分眞偽、不辨溢美、附会復滋多、於是採輯祖父所録、讀之、其信而明無有、若此者、因以爲、學此流者、不知先師之事、固不可也。況於聽誤以爲眞者乎。是以抄書其所録、加之以自所傳聞。書未成、會不幸病歿矣。景英傷其事不卒、且先師之跡茅塞焉。故謹校之。如其文猶未脱藁、唯取明事実耳。恐致毫釐過千里、是以不敢改之。幸我同志之人垂裁焉
  安永[丙申]仲冬日
        豊田景英子俊書 》
B――ここでひとつ、世の研究者啓蒙のために(笑)、『武公伝』の記述に問題があることを指摘しておこう。それは、いま話に出た村上八郎右衛門正之に関連してのことだが、『武公伝』一巻末に、なんと、この村上八郎右衛門の法名命日が記されているのだな。
A――村上八郎右衛門は安永五年(1776)に死去した。これも、その問題に気づいて指摘した研究者はいない。本当に『武公伝』を読んだのかと訊きたいね。そういう杜撰な事態がいまだに続いている。いったい、世間に武蔵研究者と呼べる者など存在するのかね(笑)。
B――まず、見当たらんな。どこにいるんだ(笑)。むろん『武公伝』研究という作業そのものが未開拓なのだから、こういう根本的な問題すら、武蔵研究において従来指摘されたことがない。これは、ここで、諸氏に注意を喚起しておきたい。――こんなことを云うと、我々が自慢でもしているように誤解する阿呆がいるが、これは研究史におけるエポックを知らしめるということだ、
A――研究史のプロセスを知らないと、個別研究の意義も値打もわからない。そんな世間の無知を相手に、我々は奮闘を余儀なくされておる(笑)。
C――だからその都度、メルクマールを打って報知しておく必要があるのさ。では、この問題点を整理してみよう。まず、『武公伝』の記者は、《安永[丙申]年龝七月廿九日卒》という村上八郎右衛門の命日を記す。つまり、安永丙申年というのは、干支からすると安永五年(1776)のことで、命日の七月が旧暦では秋だから、龝〔あき〕という。《法誠院新満義得居士》なる法名が明記され、しかも「村上八郎右衛門源正之先生」とあるからには、これは村上八郎右衛門の弟子筋による記事だろうと。
B――ここまで話を明らかにして、まだ問題に気づかない者がありそうだから(笑)、事蹟を時系列で整理してみると、こうなる。
   宝暦五年(1755)  橋八水正脩著・武公伝覚書(二天記「凡例」)
   明和元年(1764)  橋津正脩隠居、号八水。同年死去
   安永五年(1776)七月  村上八郎右衛門正之歿
   安永五年(1776)仲冬  『二天記』序文・後記
A――余計なお世話だが、ヒントを与えると、現在一般に『武公伝』成立の年は何年とされているか、それを憶い出していただきたい(笑)。
C――ストレートに云えば、宝暦五年(1755)に成立したはずの『武公伝』に、どうして、二十一年後の安永五年(1776)七月に死んだ村上八郎右衛門正之の法名命日が収録されているんだ、と(笑)。
A――さあ、これで、おわかりかな(笑)。
B――しかも、『武公伝』を書いたとされる橋津八水(正脩)は、明和元年(1764)に死んでいるんだ。村上八郎右衛門の死に先立つこと、十二年である。これはいったい、どういうことであろうか(笑)。
A――すると、橋津八水は死後も生きていて、村上八郎右衛門の法名命日を記録したのか(笑)。
C――そんなことはありえないとすれば、
A――ありえない、ありえない(笑)。
C――とすれば、この記事を含む『武公伝』の成立は、少なくとも村上八郎右衛門が没した安永五年(1776)七月以降でなければならない。それが理の当然というものだ。このように村上八郎右衛門の没年・安永五年七月以降ということになれば、この村上八郎右衛門記事を書いたのは、いったいだれだ。
A――余人にあらず、犯人は豊田景英だ(笑)。
B――ということになるな。景英は、教衛場で村上八郎右衛門の助手や代見を勤めて、八郎右衛門死後に後任として二天一流師範役に就いた人である。そこから、豊田景英は村上八郎右衛門弟子だっただろうと見当がつく。『武公伝』の記事に「村上八郎右衛門先生」とあるわけだ。
C――むろん『武公伝』の別の箇処にも景英の手の跡がある。たとえば、寺尾求馬助の息子たちの記事があるが、そこには《右村上八郎右衛門正之先生ノ話也》とある。これも、豊田景英が仕込んだ部分だろう。そうだとすれば、『武公伝』そのものにさえ、豊田景英の手が及んでいると判断するほかない。
B――豊田景英が『武公伝』に書いた記事は、他にもかなりあるな。『二天記』後記の記述によれば、景英は、『武公伝』をまだ「脱藁」していないものとみなしていた。未完成で欠陥もあるとみていた。
C――景英は『武公伝』に改訂増補の手を入れ始めていたが、ようするに収拾がつかなくなって、改訂を途中で諦め、『二天記』なる新しい一書を書き下ろしたということだろう。『武公伝』の他の箇処については、その修正痕跡を特定することは現在できていないが、おそらく他にも、豊田景英の手による追補ないし改稿があるだろう。
A――その可能性は大である。『二天記』を書いた豊田景英の手が、『武公伝』そのものに及んでいる。
B――たしかに『武公伝』と『二天記』の記述は、形式と内容ともに相違している。そこから、『武公伝』と『二天記』が別人の著作だと信じられてきたが、我々のみるところ、実はそうではない。
C――『武公伝』と『二天記』はシームレスに重なっている部分がある。豊田景英が『武公伝』に手を入れかけたからだ。となると、現代に伝わった『武公伝』が、豊田正剛から正脩の手を経て、宝暦五年(1755)に完成した、という従来の考えは、ことを厳密にすれば、正しいとは言えない。この点、再考を要するだろう。
A――それが、『武公伝』という武蔵伝記に関する、我々の当面の考えだね。
――『武公伝』の成立について、まことに重大な問題提起がなされました。さらに突っ込んだ話をお伺いしたいところですが、もう時間が超過しております。そこで、最後にもう一つだけ、『二天記』の序文について、そして「宇貞識」とある、つまりこの序文を書いた宇野惟貞とは如何なる人か、ということですが。
A――ああ、それも、きちんと紹介した武蔵研究は、これまで見たことはない。そんないい加減な事態だから、馬鹿げたことに、我々が全部やらざるをえなくなる(笑)。
B――で、二天記序文の何が知りたい? その内容なら、かなり出鱈目な剣術史と、これまた奇態な武蔵前史が書かれているという以上に、とりたてて見るべきものはないぜ(笑)。
C――まあ、すこしそれを読んでおけば、こうなる。――古え日神(アマテラス)が八握十握等剣を帯びたことにより、世にことごとく剣技が起った。日本武尊(ヤマトタケル)がはじめて剣技を三段位にした。源幕府(源義家)がこれに二段位を増やした。ここにおいて段位は定まったのである。平相国(平清盛)がこれを鞍馬僧に伝え、鞍馬僧はこれを源廷尉(源義経)に伝えた。――まずは、おそるべき内容だな。
A――読んで字の如し。剣術神話とでも言うべき内容だ(笑)。
B――だけど、ここまでは『武芸小伝』のパクリだな。だいたい当時は、諸本どれもこんなことを書いていたんだ。以下はオリジナルだな。
C――まあそうだな。その後、中條・神道・神陰(新蔭)等の諸流あって、世に行われたと云う。そして足利豊臣氏の時代、この剣技は最も盛んであって、各自名のる家は枚挙できないほどであった。そのなかでも特に有名だったのは、吉岡・当理の二流である(笑)。吉岡は雌伏して、当理のみが天下に雄鳴した(笑)。当理は宮本武蔵の父・無二の流派である。無二は十手器を用い、武蔵はこれを短刀に替えた。長短の刀を両方使うのは、武蔵から始まったのである、云々。
B――肥後の無二=当理流伝説だな。この十八世紀後期には、すでにこういう伝説が出来上がっていて、八代の教衛場では、こんな講義がなされていたんだだろう。無二の流派が当理流だというのは、十八世紀半ばに肥後で固まった伝説だ。
A――これを鵜呑みにした解説本が、近年でさえ再生産されている。物事はきちんと調査研究して書けというんだ(笑)。
C――それで、次の部分は異本間に相違がある。豊田家本には、「武蔵、家業を承け、その妙を伝へて、その爲(業)を襲はず。故にその術、至れり尽くせり。是において大に成るなり。善く人の志を継ぎ、善く人の技を述(伸)る、と謂ふべきなり」――とある。ところが当該部分は、稼堂文庫本には、「その妙を伝へて、その爲(業)を襲ふ。故にその術、至れり尽くせり」云々、とある。
A――《不襲其爲》と《襲其爲》か。それでは、話が違う(笑)。
B――それは伝写上の障害だな。ここは、稼堂文庫本の方が話が通じる。豊田家本は、無二と武蔵の差異を強調する余計な解釈が入って、これを改竄したのだろう。
C――まあ、とにかく、宇野惟貞は文学者で、兵法家でないから、八代の伝習堂・教衛場における公衆の情報知識は、こんなものだったと知れる、というところだね。
A――で、この宇野惟貞という人物について云えば、豊田景英の知人と思われるが。
C――この人物については、実は、彼自身が書いた先祖附がある。それによって見るに、宇野氏先祖の宇野与三左衛門が、慶長のはじめ、関ヶ原役の前に松井康之に仕えるようになった。宇野惟貞はこの宇野与三左衛門を元祖とする宇野一族の分家筋。しかも父の宇野源之丞喬明は四男坊だな。
B――だから、宇野氏傍系だ。宇野源之丞は寿之に召出されて、小坊主から小姓組になったようだが、十八歳で致仕している。その後は不明だが、商人にでもなって儲けたか、四十代になって供出米や御用金で、いわば買官している(笑)。近世中期になるとどこも財政困窮で、民間から米や金供出させて、代りに家臣身分を与えた。だから給与の扶持は、ごくわずかで、形式的なものだな。
A――たとえば寛保三年(1743)、一人扶持、それ以後、年に応じ増減、しかしそれも、安永二年(1773)扶持方召上とある。しかし、たぶん宇野源之丞は金には困っていない、小金持ち(笑)。
C――宇野惟貞は、源之丞の実子で、宇野源右衛門、初名喜平太。豊之の代に、宝暦二年(1752)三月、右筆所見習に召し出されて、二人扶持、衣類・銀を拝領。同四年(1754)閏二月、豊之の文学(学問)稽古をして、切米六石で、御小姓組。宝暦七年(1757)正月、御中小姓に召し直され、御客屋(客殿)で御城付衆(八代城に配属された細川家士)と御自分方(長岡家士)に文学稽古をするようにとのことで、素読指南等をするようになった。つまり、惟貞はその文学、学問を認められ、八代の家士たちの教師役になったということだな。
A――同じ宝暦七年(1757)の十一月に、文学稽古所が建設されましたな。
C――その伝習堂で、宇野惟貞は、素読指南・会頭講釈を勤めるようになって、二石一人扶持を加増される。宝暦十一年(1761)、惟貞の文学と指南のことが、肥後太守・細川重賢の耳に入るなどして、褒賞として御紋附上下拝領。明和元年(1764)閏十二月、惟貞が天文学の皆伝をうけたので、褒賞として白銀拝領。明和七年(1770)八月、合力米二十石で、御側御馬廻に配属、学校である伝習堂の運営責任者の一人(諸事根)になる。
B――しかし惟貞は、安永二年(1773)八月、「気薄」になってしまった。つまりやる気をなくして鬱病になってしまった。そこで、文学指南役を辞退して、閑職の御式台詰になった。
C――それは、デプレッション(depression)というより、シゾイド(schizoid)かもしれんな。文学者にはめずらしくはない(笑)。しかし、惟貞は復活する。二年後の安永四年(1775)三月、支給されていた合力米二十石を、高五十石の擬作に直される、つまり、宇野惟貞はそれまで無足の役料のみだったが、ここで家禄を得るようになった。
A――この先祖附提出は、天明元年(1781)閏五月、今以相勤申候とあるから、この時点まで惟貞は、禄高五十石で、勤務は式台詰めですな。
B――さて、このように宇野源右衛門惟貞は、学問をもって身を立てた人だ。八代で有数の学者になり、伝習堂で教えた。かたや、豊田景英は教衛場で二天一流師範代だ。
A――さあ、文学のこの宇野惟貞と、武蔵流兵法の豊田景英。二人の接点は、どこにあったのか。
B――おそらく、安永二年(1773)、この年、豊田景英が御台所頭を辞任して式台御番になり、宇野惟貞も伝習堂の文学指南役を退任して、式台詰めになった、というあたりだろうな。
C――宇野惟貞は伝習堂で教えていたし、狭い八代の世間では、それまでに互いに知っていたはずだが、直接には、安永二年以来、勤め先が同じということで、宇野惟貞の知遇を得た豊田景英は、自著『二天記』の序文を依頼したのだろう。
A――この序文末尾に、《安永丙申仲冬、宇貞識》とありますな。これは、安永五年(1776)十一月。これが『二天記』成立の日付と読んでよろしいな。
B――豊田景英の後記も、《安永丙申仲冬日》とするから、これは一致しておる。『二天記』は安永五年(1776)十一月成立と確定してよい。ただし、問題は、前に話に出たように、『武公伝』の成立時期だな。
C――正脩の八水号との矛盾、そして村上(八郎右衛門)正之の墓誌記事その他、景英の書込みという根本的な問題があるからな。『武公伝』写本によるかぎり、その著者が橋津八水(正脩)、宝暦五年(1755)成立、とはとても云いがたい。『武公伝』は橋津八水がまとめたが、しかしそれは未完成の著述で、しかも、『二天記』の豊田景英が中途半端に手を入れて放置した、そういう形跡がある。
B――書誌学的にも、そのことは明確にしておく必要がある。ともかく、従来の通説は撤収されるべきだ、というのが我々の見解。橋津八水(正脩)が書いた『武公伝』、これは、写本でも現存しない。今後見つかる可能性は残っているとしても。
A――写本も、いくつか他に出てくればよいが。田村秀之版だけでは、どうも心もとない。
C――田村秀之といえば、田村家本五輪書だな。装幀も『武公伝』と同じだった。彼が文政の頃、伝書をあれこれ整理したようだ。


鬼川文庫本
二天記序文

*【二天記序文】
《古自日~帯八握十握等剣、而世蓋劍技起焉。日本武尊始作之三段位。源幕府[義家]増之以二段位。於是段位者定也。平相國[清盛]傳之鞍馬僧、鞍馬僧傳之源廷尉[義経]。而後有中條~道~陰等諸流、行于世云。而足利豐臣氏之際此技最盛而各自名家者不可枚擧。其特聞者吉岡當理二流也。吉岡雌伏、獨當理雄鳴于天下。當理者武藏父無二之流也。無二用十手器、武藏代之以短刀。長短刀并用者自武藏始矣。武藏承家業傳其妙而不襲其爲。故其術至矣盡矣。於是大成也、可謂善繼人之志善述人之事也。其爲人也、天資卓絶、通治國之體達軍旅之事。有文有武、以故所至諸侯無不師之。實有相將之材。而不居其職。是以於其技也精、於其道也極。正直以持身、奇變以應物。故術有三先五方。蓋三先者臨機之先也、五方者段位之法也、公然擧以示人。能者從之。豈若衆家以其技衒于世。取諸懐而與之也。豐田氏三世能學其技而淑諸人。今子俊校父祖所記、欲以示人。亦善繼志述事者也。因爲叙。
  安永丙申仲冬     宇貞識 》








*【宇野氏先祖附】
《宇野源右衛門惟貞儀、右源之丞実子ニて、初の名喜平太と申候。凌雲院様御代、宝暦二年三月、御右筆所見習被召出、弐人扶持、衣類・銀被為拝領候。同四年閏二月、文学稽古一偏御懸被成、御切米六石被為拝領、御小姓頭被仰付候。同七年正月、御中小姓被召直、於御客屋、御城付衆・御自分方稽古有之候様被仰出候付、素読指南等仕候様被仰付候。同年十一月、稽古所御建被成候ニ付、於伝習堂、素読指南会頭講釈相勤可申旨被仰出、弐石壱人扶持御加増被仰付候。同九年十二月、勤方出精仕旨被賞候。同十一年三月、文学心懸申候て指南仕段、及太守様尊聴候旨被仰出、同年十二月、出精相勤候旨被賞候て、御紋附御上下被為拝領候。明和元年閏十二月、天文学皆伝仕候を被賞、白銀被為拝領候。同五年九月、文学稽古の面々引立励方ニ相成候段、被賞候。同七年八月、出精相勤候付、御合力米弐拾石被為拝領、御側御馬廻被召加、伝習堂諸事根ニ成相勤候様被仰出、同八年十二月、門弟中引立相励出精仕せ候旨被賞候。安永二年八月、気薄罷成候付て、指南役御断申上候処、同九月願の通被遊御免、御式台詰被仰付候。同四年三月、被下置候御合力八木弐拾石を高五拾石の御擬作被直下、今以相勤申候》









八代城復元図








牧堂文庫本武公伝
文政2年 田村秀之書写
――時間も過ぎましたので、今回は以上で、終了させていただきます。長時間ありがとうございました。今回は、本サイト[資料篇]の武蔵伝記集における肥後系伝記『武公伝』『二天記』読解の研究公表に先立ち、この肥後系伝記の背景・舞台裏を中心に語っていただきました。前回の巌流島伝説と同様、今回も、従来の武蔵研究にはなかった話が多く出ました。
A――ほんとうに困るんだよな。我々が全部やらなくてはならないのは(笑)。
C――我々は、まともな研究の出現をかねがね期待しておるのだが、なかなか出現してくれない。
B――おい、貴様、やらないか、なんてね(笑)。呼びかけておるのだが、腰を上げてくれない。おれたちはもうすぐ、死んじまうぜ(笑)。
――またまた、それを(笑)。みなさんには、せいぜい長生きしていただいて、いましばらく、武蔵研究に貢献していただきたいと願います。では、次回のお話を期待します。
A――勝手に、ケツをくくりやがった(笑)。
――では、皆さん、よき新春をお迎えください。
(2006年12月吉日)


 PageTop   Back   Next