續日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
第  八
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 大菩薩峠中の武術談   大石進の事   大石先生墓表 
 大石雪江先生墓誌   松崎浪四郎 


 
    大菩薩峠中の武術談(一)

 丸山勇仙は九段の道場練兵館の話をする。齋藤と長州系との關係を語る。そのうち、長州の壯士が相率ゐて練兵館を襲ひ、彌九郎の二男、當時鬼歡〔おにくわん〕といはれた歡之助のために撃退された一條を物語る。その仔細は斯うである。
 はじめ――嘉永の二年ころ、齋藤彌九郎の長男新太郎が、武者修行の途次〔とじ〕、長州萩の城下に著いた。宿の主人が挨拶に來た時に、新太郎問ふて曰く、
 「拙者は武藝修行の者であるが、當地にも劍術者はあるか」
 主人の答へて曰く、
 「有る段ではございませぬ。當地は名だたる武藝の盛んな地でございまして、近頃はまた明倫館〔めいりんくわん〕といふ大層な道場迄出來まして、優れた使ひ手のお方が雲の如く群がつて居りまする。あれお聞きあそばせ、あの竹刀の音が、あれが明倫館の劍術稽古の響きでございます」
 新太郎、それを聞いて喜び、
 「それは何より樂しみぢや。明日は一つ推參して試合を願ふことに致さう」
 そこで、その夜は眠りについて、翌日、明倫館に出頭して、藩の多くの劍士達と試合を試みて、また宿へ戻つて、風呂を浴びて、一酌を試みてゐる處へ、宿の主人がやつて來る。
 「いかゞでございました。今日のお試合は」
 新太郎嫣乎〔につこり〕と答ふて曰く、
 「成程、明倫館は立派な建物ぢや。他藩にも一寸類のないほど宏壯な建物で、竹刀を持つものも澤山に見えたが、本當の劍術をやる者は一人もない。いはゞ黄金の鳥籠に□□[2字脱字、雀を]飼つて置くやうなものだ」 これは、新太郎として、實際、さうも見えたのだらうし、また必ずしも輕蔑の意味ではなく、調子に乘つていつたのだらう。だが、この一言が、忽ち宿の主人の口から劍士達の耳に入つたから堪らない。
 「憎い修行者の廣言〔くわうげん〕、このまゝ捨て置いては長藩の名折れになる」 かれ等は大激昂で、新太郎の旅宿を襲撃しようとする。老臣達が、それを宥めるけれど聞き入れない。止むを得ず、急を新太郎に告げて、この場を立ち去らしめた。新太郎は、それに從つて、一行を率ゐてその夜のうちに九州へ向けて出立して了つたから、纔に事なきを得たが、跡に殘つた長州の血氣の青年が納まらない。
 「よし、その儀ならば、九州まで彼等の跡を追つかけろ」
 「彼れ等の跡を追ひ掛けるよりも、寧ろ江戸へ押し上つて、その本據を突け。九段の道場には、彼の親爺の彌九郎も、その高弟もゐるだらう。その本據へ乘り込んだ[で?]、道場を叩き潰して了へ」 長州の青年劍士等十餘人、猛然として一團を成して、そのまゝ江戸へ向けて馳せ上る。その團長株に貴島又兵衛〔きしままたべゑ〕があり、祖式松助〔そしきまつすけ〕がある。
 そこで彼れ等は一氣に江戸まで押通すや否や、竹刀〔しなへ〕と道具を釣臺に舁乘せて、麹町九段坂上三番町~道無念流の師範齋藤篤信齋彌九郎の道場練兵館へ押し寄せて、殺氣満々として試合を申し込んだものだ……
 誰も知つてゐる通り、當時、江戸の町には三大劍客の道場があつた。~田お玉ケ池の北辰一刀流千葉周作、高橋蜊河岸〔あさりがし〕の鏡心明智流の桃井春藏、それと並んで、練兵館の齋藤彌九郎。各々門弟三千と註せられて、一度その門を潜らぬものは、劍を談ずるの資格がない。殺氣満々たる長州の壯士連十餘人の一團は、齋藤の道場を微塵に叩き潰す覺悟を定めてやつて來たのだから、その權幕は、尋常の他流試合や入門の希望者とは違ふ。
 處で、これを引受けた齋藤の道場には、長男の新太郎がゐない。止むなく、次男の歡之助が出でゝ應〔あしら〕はねばならぬ。
 歡之助、時に十七歳―彼れ等壯士の結構を知るや知らずや、從容として十餘人を一手に引受けて了つた。
 もとより、修業の積りではなく、復讐の意氣でやつて來た壯士連、立合ふ積りでなく殺す積り。業〔わざ〕でいかなければ力任せでやつゝける積りで來たのだから、その猛氣、怒氣、當るべからざる勢ひ。歡之助、それを見て取ると、十餘人を引受け、引受け、たゞ單に突きの一手―得意中の得意なる突きの一手の外餘手を使はず、次から次と息を吐かせずに突き伏せて了つた。
 哀れむべし、長州遠征の壯士、復讐の目的全く破れて、十餘人の壯士、一人の少年の爲に枕を並べて討ち死。宿へ引き取つてから咽喉が腫れて、數日間食物が入らず、病の床に寝込んだものさへある。
 長人の意氣愛すべしと雖も、術は格別である。中央にあつて覇を成すものと、地方にあつて勇氣に逸〔はや〕るものとの間に、その位の格段がなければ、道場の權威が立つまい。
 併し、貴島又兵衛あたりは、このことを右の話通りには本藩へ報告してゐないやうだ。
 貴島は、長藩の爲めに、よき劍術の師範の物色の爲め、江戸へ下り、熟々〔つらつら〕當時の三大劍客の門風を見る處、齋藤は技術に於いては千葉桃井には及ばないが、門弟を養成する氣風がよろしい―といふやうな理由から、國元へ齋藤を推薦したといふ事になつてゐる。
 處で、これはまた問題だ。右の三大劍客の技術に甲乙を付することは、なかなか大膽な仕事である。貴島又兵衛が、齋藤彌九郎の劍術を以て、桃井、千葉に劣ると斷定したのは何の根據に出でたのか、この三巨頭は、一度びも實地に立合をした例〔ためし〕がない筈。
 千葉周作の次男榮次郎を小天狗と稱して出藍の譽れがある。これと齋藤の次男歡之助とを取組ましたら、絶好の見物だらうとの評判は、玄人筋を賑してゐたが、それさへ事實には、現れなかつた。若し、また、事實に現して優劣が問題になつた日には、それこそ、兩道場の間に血の雨が降る。
 故に、それ等の技禰に至つては、各々見る處によつて推定は出來たらうが、斷定は出來なかつた筈。丸山勇仙は當時、長州壯士が練兵館襲撃の現場に居合せて、實地目撃したと見えて、歡之助の強味を賞揚すると、佛頂寺の旋頭〔つむじ〕が少々曲りかけて、
 「それは歡之助が強かつたのではない。また長州の壯士たちが弱かつたといふのでもない。術と力との相違だ。手練と血氣との相違だ。いはゞ玄人と素人との相違だから、勝つてもさのみ譽れではない――その鬼歡殿も九州では、すつかり味噌をつけたよ」
 といふ。人が賞めると、何かケチをつけたがるのが、この男の癖と見える。特に惡意があるといふ譯ではあるまい。たゞ、白いといへば一應は黒いといつて見たいのだらう。それでも兵馬は氣になると見えて、
 「歡之助殿が九州で何かやり損なひましたか」
 「さればだよ、九州第一といはれてゐる久留米の松浦波四郎の爲に脆くも打ち込まれた」
 「え」
 兵馬はそのことを奇なりとしました。練兵館の鬼歡ともいはれる者が、九州地方で脆くも後れを取つたとは聞き捨てにならない。
 齋藤歡之助は、江戸においての第一流の名ある劍客であつた。それが九州まで行つて、脆くも後れを取つたといふことは、劍道に志しのあるものにと取つては、聞き捨てのならぬ出來事である。
 兵馬に問はれて佛頂寺が、其勝負の顚末を次の如く語りました。
 久留米、柳川は九州においても特に武藝に名譽の藩である。その中、久留米藩の松浦波四郎は、九州第一との評がある。九州に乘り込んだ齋藤の鬼歡は、江戸第一の評判に迎へられて、この松浦に試合を申し込む。そこで江戸第一と九州第一との勝負がはじまる。
 これは末代までの見物だ。その評判は、單に久留米の城下を騒がすだけではない。
 歡之助は竹刀を上段に構へた、氣宇は、確に松浦を呑んでゐたのであらう。それに對して松浦は正眼に構へる。
 こゝに、満堂の勇士が聲を呑んで、手に汗を握る。と見るや、歡之助の竹刀は電光の如く、松浦の頭上を目がけて打ち下される。波四郎、體を反らして、それを防ぐ處を、歡之助は、すかさず烈しい體當〔たいあた〕りをくれた――突きは歡之助の得意中の得意だが、この體當りもまた以て彼の得意の業である――流石の松浦もそれに堪へられず、よろよろとよろめく處を、第二の太刀先、あはや松浦の運命終れりと見えたる時、彼も九州第一の名を取つた剛の者、よろよろとよろけせかれながら、横薙〔よこなぎ〕に拂つた竹刀が鬼歡の胴を一本―
 「命はこつちに!」
 と勝名乘〔かちなのり〕をあげた見事な働き。これは敵も味方も文句のつけやうがないほど鮮かなものであつた。江戸第一が、明らかに九州第一に敗れた。無念殘念も後の祭り。
 無論、この勝負、術の相違よりは最初から歡之助は敵を呑んでかゝつた罪があり、松浦は、謹慎にそれを受けた功があるかも知れないが、勝負においては、それが申し譯にはならない。
 佛頂寺は兵馬に向つて、この勝負を見ても、歡之助の術にまだ若い處があるといふ暗示を與へ、丸山が激賞した逆上〔のぼせ〕を引き下げるつもりらしい。
 「惜しい事をしまつた[しました]ね」
 と兵馬は歡之助のためにその勝負を惜しがると、佛頂寺は、
 「全く歡殿のために惜しいのみならず、そのまゝでは齋藤の練兵館の名にもかゝはる。そこで雪辱の爲に、吉本が出かけて行つて、見事に仇を取るには取つたからいゝやうなものゝ」
 といひました。
 「はゝあ、誰方〔どなた〕か、雪辱においでになつたのですか。さうしてその勝負はどうでした。お聞かせ下さい」
 「吉本が行つて、松浦を打ち込んで來たから、まあ怪我も大きくならずに濟んだ」
 といつて佛頂寺は、齋藤歡之助の爲に九州へ雪辱戰に赴いた同門の吉本豐次と松浦との試合について次の如く語りました。
 無論、吉本は歡之助の後進であり、術においても比較にはならない。併し、この男はなかなか駈引がうまい。膽があつて、機略を弄することが上手だから、變化のある試合を見せる。歡之助すら持て餘した相手をこなしに、わざわざ九州へ出かけて、松浦に試合を申しこみ、さて竹刀を取つて道場に立合ふや否や、わざと松浦の拳をめがけて打ち込み、
 「お籠手一本!」
 と叫んで竹刀を引く。
 「お籠手ではない、拳だ」
 松浦は笑ひながら、その名乘りを取合はない。無論、取り合はないのが本當で、戯れにひとしい振舞ひで、一本の數に入るべきものではない。
 處が、吉本豐次はまた何と思つてか、取り合はれないのを知らぬ面〔かほ〕で、竹刀をかついで道場の隅々をグルグル廻つてゐる。その有樣が滑稽なので、松浦が、
 「何をしてゐる」
 と訊ねると、吉本は拔からぬ顔で、
 「たゞ今打ち落した貴殿の拳を尋ねてゐる」
 この一言に松浦の怒りが心頭より發した。
 松浦の怒つたのは吉本の思ふ壼であつた。手もなくその策略に引かゝつた松浦の氣は苛ら立ち太刀先きは亂れる。その虚に乘じた吉本は十二分の腕を振つて美事なお胴を一本。
 「これでも九州第一か」
 そこで齋藤歡之助の復讐を吉本豐次が遂げた。その吉本の如きも自分の眼中にないやうな事を佛頂寺がいふ。以上の者の仇を以下の者が打つのだから、それだから勝負といふものはわからない。非常な天才でない限り、さう格段の相違といふものがあるべき筈はない。或程度までは誰でも行けるが、ある程度以上になると容易に進むものではない。現在の人がよく、桃井、千葉、齋藤の三道場の品評をしたがるが、それとても、素人が格段をつけたがるほど優劣があるべき筈はないといふ。
 自然、話が幕府の直轄の講武所方面の武術家に及ぶ。以上の三道場は盛んなりと雖も私學である。講武所は何といつても官學である。そこの師範はまた氣位〔きぐらゐ〕の違つた處がある。男谷下總守をはじめ、戸田八郎左衛門だの、伊庭軍兵衛だの近藤彌之助だの榊原健吉だの小野(山岡)鐵太郎だのといふものゝ品評に及ぶ。それから古人の評判にまで進む。
 人物は感心し難いが、さういふ批評を聞いてゐると實際家だけに耳を傾くべき處が少なくはない。兵馬は少なくともそれにヘへられる處がある。
(第六冊 流轉の卷)

 
    大菩薩峠中の武術談(二)

 天保の初め頃、~戸に一人の祭文語〔さいもんかた〕りがあつた。この男、身の丈五尺九寸、體重廿七貫、見かけは堂々たるものだが、正味は祭文語り以上の何者でもなく、祭文語り以下の何者でもない。藝名を稱して山本南龍軒と呼び、毎日デロレン[祭文語り]で暮してゐる。
 男子生れて廿七貫あつてデロレンでは初まらないと、先生、ある日のことに、商賣物の法螺の貝を前に置いてつくづくと悲觀するところへ友達が一人遊びにやつてきて、大將何を考へ込んでゐるのだといふ。
 身の丈が六尺、圖體が廿七貫もあつてデロレンでは情ないと、今も斯うして法螺貝を前に置いて、涙をこぼしてゐるところだ。さうかといつて立身するほどの頭はなし、商賣替へをするほどの腕もなし……何かいゝ仕事はないかい。あるある、その事なら大ありだ。實はおれもつくづく[以下脱落?=日頃からそれを考へてゐたのだ。]全くお前ほどのものを祭文語りにして置くのは惜しい。お前やるつもりなら打つてつけの仕事がある――と友達がいふ。
 何だい、おれにやれる仕事は?――なほ念の爲にいつて置くが、圖體は大きくても法螺の貝を持つだけの力しかないのだぜ、力業〔ちからわざ〕は御免を蒙るよ。
 そんなのではない。別段骨を折らず大威張りで日本六十餘州をめぐつて歩ける法がある。他人では出來ないが、お前なら確に勤まる。はて、そんな商賣があるものか知ら。骨を折らずに大威張りで日本六十餘州をめぐつて歩ける法があるならば早速傳授して貰ひたい。外ではない、それは武者修行をして歩くのだと友達がいふ。
 南龍軒先生、それを聞いて呆れかへり、そんなことだらうと思つた。武者修行は結構だ。法螺の貝から岩見重太郎か、宮本武藏でも吹き出してお供に連れて歩けばなほ結構だと、腹も立てないから茶化しにかゝると、友達の先生一向ひるまず、
 確に、お前は武者修行をすれば大威張りで日本六十餘州をめぐつて歩ける、劍客におなりなさい。劍術の修行者だといつていたるところの道場をめぐつてお歩きなさい。到るところの道場ではお前を叮嚀にもてなして泊めてくれた上に草鞋錢をまで奉納してくれるに相違ない。こんないゝ商賣はあるまいではない。
 なるほど、それはいゝ仕事に相違ないが、おれには劍術が出來ない。竹刀の持ち方さへも知らないのを御承知かい。
 そこだ、憖〔なま〕じひ出來るより全く出來ない方がよい。そこを見込んでお前に武者修行をすゝめるのだ。少しでも出來ればボロの出る心配があるが、全く出來なければボロの出しやうがない。その方法を傳授して上げやう。
 先づ第一、お前の體格なら、誰が見ても一廉の武藝者だと思ふ。そこで、武藝者らしい服装をして、しかるべき劍術の道具を擔つて、道場の玄關に立つてみろ、誰だつて嚇かされらあ。
 南龍軒、首を振つて、詰らない、最初に嚇かして置いて、あとで足腰の立たないほどブン擲〔なぐ〕られる。友達の曰く、そこにまた擲られない方法がある。
 とはいへ、武藝者として推參する以上は立ち合はぬわけには行くまい、立ち合へばブン擲られるに極つてゐる。
 けれども、そこを擲られないで、却つて尊敬を受ける秘傳があるのだが――
 それは聞きたいものだね、さういふ秘傳があるならば、それこそ一夜にして名人となつたも同然。南龍軒も馬鹿々々しいながら、多少乘氣になつたが、友達の先生いよいよ眞顔で――
 併し、一つは擲られなければならぬ、それもホンの一つ輕く擲られさへすれば濟む、それ以上は絶對に擲られぬ秘傳を傳授して上げやう。
 頼む――多分、牛若丸が鞍馬山で天狗から授かつたのが、そんな流儀だらう、それが實行出來さへすれば、明日といはず武者修行をやつて見たいものだ。
 宜しい、先づお前がその廿七貫を武藝者らしい身なりに拵へ、劍術の道具を一組買つて肩にかけ何れの道場を選ばず玄關から、怯〔お〕めず臆せず案内を頼む。
 取次が出て來たところで、武者修行を名乘つて、どうか大先生と一つお手合せを願ひたくて罷り出でたと申し出る。
 道場の規則として、大先生の出る前に、必ずお弟子の誰かれと立合を要求するに定まつてゐる。その時、お前はそれを拒んでいふがよい。いや、拙者はお弟子達に立合を願ひに來たのではない。直接〔ぢか〕に大先生に一手合せを、と斯う出るのだ。
 先生多少迷惑の色を現すだらうが、立合はないとはいふまい。立合はないといへば卑怯の名を立てられる――そこで道場の大先生が直接にお前と立合をすべく、道場の眞ん中へ下りて來る。
 南龍軒、こゝまで聞いて青くなり、堪らないね。お弟子のホヤホヤにだつて歯は立たないのに大先生に出られては、堪らない。
 そこに秘傳がある――大先生であれ、小先生であれ、本來劍術を知らないお前が誰に遠慮する必要があるまいもの、いつも祭文でする手つきで、斯う竹刀を構へて大先生の前に立つてゐるのだ。
 それから先だ。そこ迄は人形でも勤まるが、それから先が堪るまいではないか、と南龍軒が苦笑する。
 友達殿は飽くまで眞面目くさつて、それからが極意なのだ。さうして立合つてゐるうちに先方が必ず打ち込んで來る。面とか、籠手とか、胴とかいつて打ち込んで來る。
 南龍軒の曰く、打ち込んで來れば打たれちまふぢやないか、こつちは竹刀の動かし方も知らないんだぜ。
 友達殿曰く、さうさ、打たれたのが最後だ。どこでもゝいから打たれたと思つたら、お前は竹刀を前に置いて、遥か後へ飛びしさり、兩手をついて平伏し、恐れ入りました、われわれの遠く及ぶところではござらぬといつて、叮嚀にお辭儀をしてしまふのだ。
 成程――。
 さうすれば、先方の大先生、いや勝負は時の運とか何とかいつて、こちらを勞〔いた〕はつた上に武藝者は相見互といふやうなわけで、一晩とめて、その上に草鞋錢をくれて立たせてくれるに相違ない。
 芳名録を取り出して先生に記名して貰ふ。その芳名録を携へて次から次の道場を同じ手で渡つて歩けば、日本全國大威張りで、痛い思ひをせずに武者修行が出來るではないか。
 「成程」
 南龍軒は首をひねつて、暫くその大名案を考へ込んでゐたが、ハタと膝を打つて――、
 面白い、これは一つやつて見よう、出來さうだ。出來ない筈はない理窟だ。
 そこでこの男はデロレンをやめて、速成の武者修行となる。形の如く堂々たる武者修行のいでたち成つて、~戸から江戸へ向けて發足。
 名乘も藝名そのまゝの山本南龍軒で、手初めに大阪の二三道場でやつて見ると成績が極めてよい。全く先方が、誂へ通りに出てくれる。一つ打たれさへすれば萬事が解決して、至つて鄭重なもてなしで餞別が貰へる。
 そこには、また道場の先生の妙な心理作用があつて、この見識の高い風采の堂々たる武者修行者、弟子を眼中に置かず驀進〔まつしぐら〕に師匠に戰ひを挑んで來る修行者の手のうちは測り難いから、勝たぬまでも見苦しからぬ負を取らねば門弟への手前もあるといふ苦心が潜むところへ意外にも竹刀を動かしてみれば簡單な勝を得た上に、先方が非常な謙遜の體を示すのだから惡い心持はしない。
 そこで、何處へ行つても通りがよくなる。
 部厚の芳名録には、一流の道場主が續々と名前を書いてくれるから、次に訪ねられた道場ではその連名だけで嚇かされる。
 斯くて東海道を經て、各道場といふ道場を經めぐつて江戸に著いたのは、國を出てから二年目、さしも部厚の芳名録も、ほとんど有名なる劍客の名を以て埋められた。
 天下のお膝元へ來ても、先生その手で行かうとする。その手で行くより術はあるまいが、一旦味を占めて見ると忘られないらしい。事實、こんな面白い商賣はないと思つてゐる。さうして、江戸、麹町番町の三宅三郎の道場へ來た。
 この三宅といふ人は心形刀流の達人で、旗本の一人ではあり、邸内に盛んなる道場を開いて江戸屈指の名を得てゐる。
 そこへ臆面もなく訪ねて來た山本南龍軒、例の廿七貫を玄關に横付にして頼まうといふ。門弟が應接に出ると例によつて、拙者は諸國武者修行の者でござるが當道場の先生にもぜひ一本のお手合せが願ひたい――これ迄各地遍歴の間、これこれの先生に皆親しくお立合を願つてゐる――と例の芳名録を取出して門弟に示すと、それには各地歴々の劍客が皆麗々と自筆の署名をしてゐるから、これは大變な者が舞ひ込んだと先生に取り次ぐ。道場主、三宅三郎もそれは容易ならぬ客、粗忽なきやうに通しておけと、道場へ案内させて後、急に使を走らせて門人のうち、優れたるもの十餘人を呼び集める。
 そこで三宅氏が道場へ立ち出でゝ南龍軒に挨拶があつて後、これも例によつて先づ門弟のうち二三とお立合ひ下さるやうにと申し入れると南龍軒は頭を振つて、仰せではござるが、拙者事、武者修行の爲めに國を出でゝより今日迄二年有餘。未だ嘗て道場の門弟方と試合をしたことが無い。直々に大先生とのみお手合せを願つて來た。然るに當道場に限つてその例を破ることは、この芳名録の手前如何にも迷惑致すゆゑに、是非々々、大先生とのお手合せが願ひたし――と何時もやる手で、二年餘り熟練し切つた口調で落ちつき拂つて申し述べる。
 さういはれて見ると、三宅先生もそれを斷わる譯には行かない。是非なく、それでは拙者がお相手を致すでござらう。
 そこで、三宅先生が仕度をして、南龍軒に立向ふ。
 南龍軒は竹刀を正眼〔せいがん〕につける。三宅先生も同じく正眼。
 竹刀をつけてみて三宅三郎が舌を卷いて感心したのは、敢て氣怯〔きおく〕れがした譯でも何でもない。事實、南龍軒なるものゝ構へ方は舌を卷いて感心するより外はないのであつた。
 最初の手合せで、しかも江戸に一流の名ある道場の主人公その人を敵に取りながら、その敵を眼中におかず、餘裕綽々たるその態度。構へ方に一點の隙を見出すことが出來ない。
 事實、三宅三郎も今日までにこれほどの名人を見たことがない。心中、甚だ焦ることあつて、頻に術を施さんとして、態〔わざ〕と隙を見せるが、先方の泰然自若たること有るが如く無きが如く少しも此方の手には乘らない。
 勝たうと思へばこそ、負けまいと思へばこそ、そこに惨澹たる苦心もあるが、最初から負けやうと思つてかゝる立合には敵といふものがない。しかもその負けることだけに二年有餘の修行を積んでゐる武藝者といふものは、蓋し、天下に二人となからう。餘裕綽々たるもその道理である。
 この意味に於いて南龍軒は、確に無双の名人である。
 至極の充實は至極の空虚と一致する。
 これを笑ふ者は、矢張り劍道の極意を語るに足りない。道といふものゝ極意もわかるまい。
 さて、三宅三郎は、どうにもかうにも、南龍軒の手の内が判らないが、さうかといつて劍術といふものは、竹刀を持つて突つ立つてゐるだけのものではない。ものゝ半時も焦り拔いた三宅氏も、これでは果てしがないと思ひ切つて、彼れが竹刀の先を輕く拂つて面を打ち込んで見た。
 「參つた!」
 その瞬間、南龍軒はもう竹刀を下に置いて、自分は遥に下に下がつて平伏してゐる。三宅氏は呆れて了つた。
 事實、今のは面でもなんでもありはしない。面金〔めんがね〕に障〔さわ〕つたかどうかすらも怪しいのに、それを先方は鮮かに受取つて了つたのだから、三宅氏が呆れたのも無理はない。呆れたといふよりも寧ろ恥入つて了つたのだ。自分がこの大名人の爲めに馬鹿にされ子扱供[誤植・子供扱]にされて了つたやうに思はれるから、顔から火の出るほどに恥しくなつた。
 「山本先生。たゞ今のは、ほんの擦〔かす〕り面。是非、もう一度お立合を願ひたい」
 然るに相手の大名人は謙遜を極めたもので、
 「いやいや恐れ入つた先生のお腕前。我々風情の遠く及ぶ所にあらず」
 といつて、どうしても立合はない。
 「では、門弟共へぜひ一手の御ヘ授を……」
 と願つて見たが、先生に及ばざる以上御門弟衆とお手合せには及ばずと、これも固く辭退する。
 止むを得ず、三宅氏は數名の門弟と共に、この大名人を招待して宴を張る。
 その席上、改めて三宅氏は南龍軒に向ひ、何人について學ばれしや、流儀の系統等を相訊ねると――南龍軒先生、極めて無邪氣正直に一切をブチまけて了つた。
 これを聞いた三宅氏は胸をうつて三嘆し、今にして無心の有心に勝るの~髄を知り得たりといつて喜ぶ。
 道庵先生、この型を行つて見たいのだらうが。さうさう柳の下に鰌〔どぜう〕はゐまい。
(第六冊 流轉の卷)

 
    大石進の事

左に掲ぐるは昭和二年中、九州八幡市小城満睦氏より著者に報ぜられた處の通信の要部なるが、大石氏の事蹟を知る上に於ても典據的なものなり。
(前畧) 大菩薩峠縮冊第一卷の始の方に當時天下の三劍客として島田、男谷、大石の三人を掲げてあることは近來の快事。島田直親の劍禪一味、男谷信友の達識、大石種次の絶倫なる膂力と精妙の技、共に當時天下に鳴り響きし事と推量され申候。
 去る十二三兩日大牟田地方劍道有段者會列席の序、同地銀水村の大石進の墓に展じ同地の老劍家坂井眞澄翁を訪れて大石の人となり及其逸話を聽き申候翁は先日物故せし同郷の野田大塊翁とは竹馬の友にて縣會長老、大石家とは舊くよりの親籍關係にあり大石~影流の師範家にて御座候。
 大石進種次は武樂と號し二代三代共に進と云ひ、三代は故渡邊昇子爵に連れられ武徳會劍役の頃東上し後事業に手出して失敗し朝鮮より北海道に渡り没せし由、今坂井家に一男一女の遺兒養はれ居り申候。進種次の父は酒豪にて毎年庭に牡丹を栽培し、花頃は立花家の家老共次々に花見に來り其饗應の入費少なからず、爲に家財を散じ、進は幼より馬を飼ひ門前の田畑を耕し家運を挽回せし程にて平素餘り劍を手にせざりし由。然るに或時柳川に登城の砌劍道の事にて大衆に辱しめられしより家に歸り石を釣して日夜倦まず突業を稽古し、遂に藩中其表に立ち得る者なき迄に突の名手となりし由に御座候。先生、先天的の大天才にて身長立てば耳が鴨居に支へ怪力あり、且老年に及び同地より回向院の角力にて幕内に入りし者の歸國の折挨拶に來りしに角力を挑みたれば力士は老人の危きことなりとて立合しに輕々と投げ飛され驚嘆せし由、又當時の横綱雲龍の云ひしに若し先生にして十日間本式の角カ稽古被成なば回向院にて東西三役の中五人は一寸骨の折るゝ角力ならむも他は容易なるべしと談りしと如何に進の怪力なりしかを推して知るに難からずと被存候。
 曾て勝海舟が野田大塊に語りしに大塊より坂井翁に語りしとの話しに進が五尺の長竹刀を提げて江戸に現れ各高名の道場を荒し廻りし折の旗下の騒ぎは御一新の騒動より以上で大した騒であつたと。進の常に門生にヘ訓せし試合の折は先づ初太刀一本を必ず勝べし然らば後十本負けても苦しからずと又追込追込攻め立てよと。今や舊時の道場は朽ちて殘骸を止むるのみに御座候。
 大石進の墓は福岡縣三池郡銀水村字宮部の松林中に有之候。
 墓表に大石武樂種次墓
 右側面に大量院殿武觀妙樂居士
 左側面に文久三亥年十一月十九日行年六十七歳
 二代目は
 墓表に寛量院殿武雄達道居士
 右側面に大石進藤原種昌
 左側面に行年五十五歳明治十一年十二月二十六日
 御著を讀み去り讀み來れば實在の故人躍如たるものあり、まことに嬉しさに不堪候。何卒道の爲御自愛專一に祈上候。昭和二年三月十六日
       (二)
(前略) 扨先般依頼致置候柳河大石氏より大石進の碑文(墓表とあるは碑文に御座候)贈り來り候間何かの御參考にも相成候らはゞと存じ御送り申上候。無所得道人巖は黄檗の英巖禪師かと推察申仕候。師は同地の寺院に隠棲して生を終られし由に御座候。
 此の碑文よりすれば男谷は大石に(大石一派の物語りも同樣にて候)及ばざりし如く又他の書には(直心影流系統の)大石の方が男谷に及ばざりし如く矢張これも村贔屓かと被存、何れが是にて何れが非にても兩者の重量には一向差支へ無きものかと愚考仕候。
 松崎浪四郎の旅日記久留米の某家に殘りある筈に候も未だ拜見不仕、友人寫しを所有致居由に候間近々一見致度島田虎之助の稽古の模樣等も同日記に殘り居り候由。

 
    大石先生墓表

得名一郷者一國皆貴之得名於一國者海内皆重之而至得名於海内者則天下後世皆無不貴且野焉其名之廣也其澤所及亦從而大矣往時徳川氏之覇大下也至文政天保間可謂極其盛矣當此時名臣良吏巨儒碩學相繼輩出至若詩賦俳諧琴棋書畫苟善之者皆雜然集於江矣矢而當時以撃劍鳴於海内者無過我大石先生者也先生諱種次通稱進後更七大夫致仕號武樂筑後三池郡人也身長七尺大耳隆準音吐如洪鐘十四世祖曰下總仕高橋氏天正中父子兄師範先生幼繼箕裘及長藝弟四人殉難於岩屋寶満二役至十二世祖種重始仕柳河侯祖種芳父種行並有武幹蒙藩命爲槍劍術大進乃依劍游歴四方試其技莫散當者抵江都有男谷某者爲善素撃劍名噪於都門稱爲海内無敵手矣一日先生與之闘技某不能一出其技倆而罷於是先生之名遂恣於一世列侯爭招致之藩邸以ヘ導其士及還郷四方執贄者常填塞於門無國不至焉皆成業而歸々則亦各授其徒是以天下之劍客以先生私叔之者蓋又未知其幾千人也自是天下劍法一變皆以先生爲宗師矣鳴呼先生所謂得名於一世而澤及天下者非耶文久三年十一月十九日以病没享年六十七葬於郡之宮部村先生娶圓慶寺女生六子二女長曰某早世次種昌嗣後餘皆出嗣他姓獨季雪江分戸焉女一早世一適安照寺種昌稱進士後更進甫五歳能暗刀法藩觀其技大奇之賜畫幅弱冠藝術大進知名於天下應近隣諸藩之聘往ヘ導其士皆大被尊禮後屡以事之江都諸藩邸亦爭招致之時江都有桃井某千葉某者善撃劍天下無能當之者種昌與之齋名一日與二子較技都人皆以爲巨觀鹿田集如堵相撃數合種昌勝居多焉於是都下劍客請ヘ者翕然足相踵其門唯恐後也可謂不墜其家聲矣明治十一年十二月廿六日没享年五十五葬于先塋之種昌娶坂井氏無子生一女養森氏子五十槻爲嗣以女配之夫世以技藝得名於海内者亦多矣然大抵止其身臻其子孫則寥々無聞其父子相繼赫々耀世若先生者蓋不可多得之也頃者其門人松岡進士今村廣門等相謀欲建碑以表先生之事來請余曰先生没既久矣唯見墓石肅然立於邱原而未有一碑以勒其事者甚非崇師之意也願子爲誌之鳴呼吾之不文何足以與於此雖然以余好讀經央來ヘ授於此郡三年於茲常察其風俗淳良朴實而郷中多磊落豪宕之士蓋有以見先生之遺風猶存者自今而誘之以忠孝仁義之道視之以古今亂興廢之蹟則峻徳逸材卓々得名於海内者亦將相踵而出吾雖駑鈍將俛焉從事於此也蓋亦先生之所樂歟遂不辟而略書之至其藝術精妙之墓奥則世固有知之者豊待餘言哉
  明治十五年十一月                  中學ヘ諭 笠間u三撰
志賀巽軒先生嚮撰大石二翁之墓表分爲二篇及刻五石其門人欲更合五於一篇而先生既逝今村廣門等來謀五於余余乃敢就先生之原文少加詳略合爲一篇而與之然余素不閑文辭今取先生之文而料理之可謂拙工傷良材知觀者幸勿咎                                 u 三 誌
                            (右祖父種次伯父種昌墓表)
                                        一書

(註記) 一見して誤記と思われる箇処があるがそのままにして転載する

 
    大石雪江先生墓誌

先生者大石武樂先生之季子也稱又六郎後雪江天保十年六月生於筑後三池郡宮部村父種次號武樂以撃劍鳴天下兄種昌亦名轟於海内先生初學劍法於父後受兄種昌之提撕精修練磨遂究蘊奥矣其後分戸居於郡之白銀以劍術ヘ導子弟遠近執贄者過于千人焉先生娶足達氏生四子三女曰一爲繼嗣季某夭長女適淺井某餘皆在家先生年六十二鑊鑠尚陶冶後進頃日門人板井眞偉大石進等相謀欲建石以勒先生之偉績來需碑文於余素不知文辭然強己不終忘不文略書先生之事如斯
  明治三十三年八月                     無所得道人巖書
                                  (右父雲江墓誌)
                                        一書

 
    松崎浪四郎

                                  風 來 道 人
 大菩薩峠の中先日久留米の劍客松浦波四郎の名が見えましたが若しや松崎浪四郎先生の間違ではありませんか。此先生なら去る明治廿一年の春から京都の警察で數百人の門人にヘへて居られまして京都名物の一に數へられて居りました。外國の觀光人は能く警察に先生の撃劍を見に行きました。其案内者は鮫島盛君で有りました。米國の軍醫で也阿彌の樓上で先生にヘを受けた人も有りました。外國人は先生と晩餐を共にする事を名譽とする人も多かつた樣でありましたが、惜い事には先生は明治廿八年の春丸太町の寓居で歿せられたやうであります。おそまきながら知り得し丈を申上げます。
(大正十五年三月二十四日)

(註記) 原文の傍点強調箇処を、上掲文中で太字で示す

      

                                   一 讀 者
 大菩薩峠(342)流轉の卷(卅八)を讀んで
 佛頂寺が兵馬に話してゐる久留米藩劍客松浦波四郎と齋藤歡之助の試合の段に付て私の懐舊の念を起す事があります
 私は丹波國龍岡の者にして未だ十一歳の時の事でありますが(今より三十九年前の事)龍岡の其當時舊藩士等が皇典講究及武道を講ずる爲めに生徳舎と云ふ練武場を建てました
 其時の祝賀式に當時の京都府知事の姓名は記憶を致しませぬが知事も警察部長も出席せられし際に其當時京都府廳の劍道の師範として勤めて居られたる松崎波四郎先生(白髪の老人)も來場せられました(松崎と松浦との相違は私が幼少の時代故に間違かも知れませぬ) 其時に龍岡警察の巡査にして又劍道師範でありし忠齊l郎太と申龍岡の舊藩士と試合せられましたが、時の忠齔謳カは突きと體當が最も得意でありし結果松崎先生を體當りを以て倒した爲めに來賓にして而も老人に卑劣なる業を以て臨んだと批難を受けた事があります。而して此の忠齔謳カは齋藤彌九郎の塾頭を勤めた人なのであります 昨夕この點を拜讀致して因縁の不可思議なる事を深く感じまして此の愚書を呈します次第であります
(大正十五年二月十九日)

      

                                  小 城 満 睦
 前略、齋藤歡之助氏の九州下りの際久米留藩の松浦波四郎と試合仕候由記載有之候は久留米藩の松崎浪四郎にては無之候や同師は久留米に於て小生等中學時代指導を蒙りし先輩の大先輩にて元久留米藩の家老職岸家の臣にて陪臣なりしを劍道達者の故を以て藩主有馬侯に召出され禄五十石を下し置かれ藩校明善堂の師範と相成明治維新に至りしものゝ由藩の古老より度々聞き及小生の祖父とは藩政時代同僚なりし由に御座候松崎先生は小生等の同郷の大先輩にて貴著は古今の名書、名著の中に先輩の名を印する實に本懐の至に御座候小説なるが故に松浦波四郎とお書き被成し事かとも拜察し居候も本當の姓名は松崎波四郎でないかと愚考仕候(後略)
(大正十五年二月十九日)



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