續日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
第  七
 目 次      Back     Next 

 朝倉犬也入道   齋藤青人   都築平太   小笠原大學兵衛   鋳物師安河 
 即日印可   紀洲南龍   柳生三嚴と鳥山傳右衛門   實藏院の事 
 諸木野彌三郎   根本武夷   阿部鐵扇   龜崎安太夫   島田見山傳 


 
    朝倉犬也入道

 結城秀康が弓馬の名人朝倉犬也(能登守)に向つて云はるゝには「關東侍は、馬上で達者に働くさうだが、さぞつよ馬を好む事であらう」と、朝倉犬也が答へて、
 「關東さむらいと申しましても、あながちつよ馬を好むといふわけではござりませぬ、唯、自力に叶ひたる馬をもつぱらと乘ります、愚老の舊友に、伊藤兵庫助と申して、馬鍛練の勇士がござりましたが、或時口ずさびに「大はたや大立物に強き馬このまん人は不覺なるべし」とよみました、馬下手の癖につよ馬をこのむのを見ては、馬には乘るのではない、馬に乘られるのだと申しました、むかし頼朝公の御前に諸老が伺候しての砌、仰によつて各昔の經驗を語る所に、大庭平太景能が保元の合戰の事を語りましたが、其間に申すことには、勇士の氣をつけて用ゆべき物は、弓矢の寸尺、騎馬の學びである、鎮西八郎殿は、我朝無双の弓矢の達者でござりましたが、それでもあの方の弓箭の寸法を考へて見ますると、其涯分に過ぎたやうにも覺えまする、其故は大炊御門の河原において、景能は八郎殿の弓手に出逢ひましたが、八郎殿が弓をひかんとなされたが、鎮西よりお出でになつた爲、騎馬の時では、さすがの八郎殿も弓が思ふやうに行かれなかつたやうで、その時、景能は東國において、よく馬に乘り慣れて居りました事故に、八郎殿が妻手に、はせめぐつて相違ひ、弓の下をこゆるやうに致したものですから、身にあたるべきの矢が膝にあたりました、此の故實を知らなければ、あの時たちまち命を失つてしまうのでした、されば勇士はたゞ騎馬に達してゐなければならぬ、壯士等耳の底にとゞめて聞いて置いてもらいたい、老翁の説だと云つて嘲弄してもらうまい」
 と一座の者が皆成程と感心した。
 さて又犬也入道が云ふことには、
 「されば治承の頃ほひ、足利又太郎忠綱が宇治川をわたす時、よわき馬をば下てにたて、強きに水をふせがせよと下知したのも、尤もの事でござる、佐々木、梶原が生食、摺墨とやらいふ強馬にのり、宇治川の先陣を仕たのはゆゝしい事であるが、併し、大河をわたすといふのはまれ事、一得をもつて、多失を忘れてはならない事だ、昔の人も、馬鍛練はしたと見えて、武者繪などに馬をとばせ走る間に、弓を引、矢を放つと見えてゐる、それ馬に乘つて遠路を行くのは、自分の足を休めん爲である、軍中で乘るのは馬上で弓鎗を用にたてん爲であるが故に、昔關東では、戰場を未だ踏まない、若い者は廣き野原へ多數打連れて出て、敵味方と人數を分ち、旗をさし、弓鎗長刀、おのれおのれが、得手の道具を以て馬に乘り馬をこゝろみるため、鐵炮をならし、矢叫びの聲をあげて、おめき騒ぐ時に、いさんで進む馬もあれば、おくれてしさり驚いて横へきるゝ馬もある、山へ乘り上げ、岨のがけ道を乘り、塀を飛ばせ自由に働くやうにと鍛練いたし、先陣の場合にはぬきんでゝ懸引達者をふるまひ、勝利を得るやうに嗜なむのでござる。早雲のヘの第一ケ條の内に、馬は下地をば達者に、乘りならひて、用の手綱をば稽古せよとしるしてござるが、侍たる者が馬の口を取らするは一代の不覺、假初の馬上にも、名利を忘れ、乘方を心掛、大將たりといふとも、馬の口を取らせて行くものは、馬下手故か、弓馬の心がけなき人かと指をさゝれる次第でござる、馬鍛練の儀は、殿の御前に候する愚老の昔友達などがよく存ずる事でござる故御尋あるが宜しうござりまする」
 と申上げたので、秀康が、
 「犬也、お前も若い頃はさぞ馬鍛練した事であらう、昔の面影をちと見せてもらいたいものだ」
 と云はれたので、犬也は、
 「愚老は、もはや七十に及び、馬上のふるまひは叶ひがたうござりまするが、仰を辭し申しては却て恐れあり、御遊興迄に昔ぶりをまなんで御目に懸け申しませう」
 と云つて用意の爲にと宅へ歸つた、秀康は御見物の席を設け、諸侍共は芝の上に並んでゐると、犬也は鴇毛の駒に、黒糸威の鎧著、星甲の上の頭巾あて、白袈裟をかけ、いぶせき山臥の姿に出立、矢おひ弓持て、郎等一人めしぐし、鑓を提させ、馬に打乘て、御前近くしづしづとあゆませ、
 「軍陣に候、下馬御免」
 と申もあへず、馬場を二三返はせめぐり、馬場の向うに築地の有を、敵方と、はるかににらんで、手綱を鞍の前輪に打かけ、またにて馬を乘、弓に矢をはけ、聲をかけ走るうちに、矢を二つ三つ放ち、扨弓をすて飛びおり、從者が持つたる鑓おつ取つて從が先立てにぐるを追かけ、從がとつて返せば、飛しりぞき、馬も心有るや、跡をしたつて來るのを又うち乘て一さんに走らせ、弓手妻手へ鑓を自由自在にちらし走せ廻るを、秀康が見て、目をおどろかして、感心される。
 「犬也、お召でござるぞ」
 と云ふ聲がかゝつたので、馬をしづめ、近くよせ飛びおり、御前に近づくと、當座の褒美として、刀に長刀さしそへてくだされた。

 
    齋藤青人

 齋藤青人(俗名主税)といふ人は馬術の名人であつたが、鹿島の~庫から左の馬書を申出して、段々潤色してそれを五敬にわかち(常敬、相敬、禮敬、軍敬、醫敬)一敬の濟んだのを免許とし、五敬濟んだのを印可とした、百馬の圖を改めると云つて四ツ谷へ三年の間宿を移したのは、四ツ谷は小荷駄の多く通る所であるからである、一生のうち落馬四十八度門弟三千人有て(實は千五百人也)世上では馬孔子と云ひ、大名高家貴賤ともに、其頃彼の門人ならぬはなかつたと云はれた。

 
    都築平太

 武藏國住人都築平太經家は、高名の馬乘馬飼であつた。
 平家の郎等であつた處から、鎌倉へ召捕られて梶原景時に預けられた、其時陸奥の國から大きくて猛烈な惡馬を献上したものがあつたのを、鎌倉ではいかにも乘る者が無かつた、聞えた馬乘どもにいろいろと乘せられて見たけれども、一人もたまる者は無かつた、頼朝がそれを心配して、景時にたづねて見ると景時が、
 「東八ケ國に、今はこれぞと思ふ者はござりませぬが、只今召人になつてゐる經家ならば」
 と申上げた。
 「さらば召せ」
 と云つて召出された、經家は白い水干に葛の袴をつけてゐた、頼朝公が經家に向つて、
 「この通りの惡馬がある、その方乘れるか」
 とたづねると、經家は、かしこまつて、
 「馬といふものは必ず人に乘られるやうに出來てゐるものでござりますから、いかに猛き馬であるからと云つて、人に從はぬ事はありませぬ」
 と返事をしたので、頼朝も興に入つた。
 「さらばやつて見ろ」
 と、そこで例の馬を引出させた、誠に大きく高くして、あたりを拂つてはねまはつてゐる、經家は水干の袖をくゝつて袴のそば高くはさんで、ゑぼうしがけをして、庭におり立つたけしき先づゆゝしく見えた、兼て存知と見えて、轡を持たせて來た、その轡をはげて、さし繩とらせたのを、少しも事とせず、はね走るやつを、さし繩にすがつて、たぐりよせて乘つた、やがてまかりあがつて出たのを、少し走らせて打ちとゞめて、のどのどゝ歩ませて、頼朝の前にむけて立つた、まことに見る者の目を驚かした、それから充分によく乘りこなし、頼朝から、
 「それでよし」
 と云はれた時に下りた、頼朝は大いに感心して、勘當ゆるして厩別當にされた、彼の經家が馬の飼ひやうは、夜半ばかりに起きて、何に知らん白い物を一かわらけばかり手づから持來つて必飼つた、すべて夜々ばかり物をくはせて、夜明くればはだけ髪を結はせて、馬の前には草一把も置かず、さはさはとはかせてあつた、頼朝が富士川あひざはの狩に出られた時、經家は馬七八匹に鞍置いて、手綱を結んで人もつけずうち放してやると從順に經家が馬の尻について來る、さて、狩場で馬の疲れたをりには、召に從つて來る、箇樣に秘術を傳へたる者は無い、經家は其の後どうしたものか海に入つて死んでしまつた、そのあとをつぐ者が無いことは遺憾千萬の事である。

 
    小笠原大學兵衛

 織田信長が鬼月毛といふ名馬を豐後の大友へ遣はさるゝ事があつた、此の馬の形相、よのつねの馬よりは、はるかに長延びて八九寸程あつて、骨あがり筋ふとく、眼は朱をさしたやうで、いつもいかり、常に嘶き、四足をうごかし、歯がみをし、人をも馬をも食ふので、鬼月毛と云ふのも尤もであつた、大友宗麟は、
 「この馬を乘る者は無いか」
 と云はれた處、
 「こゝに、小笠原刑部大輔晴宗と云ふ者があつて、元義輝公方の侍であつた、其の子息に大學兵衛と云つて、究竟[窟竟?]のあら馬乘がある、たれたれと申さうよりも、此の小笠原大學兵衛で無ければ中々乘れ申す仁は御座るまいと存じます」
 と別當雄城無難が申上げた。
 そこで、無難が馬を引出させる、馬には金覆輪の黒鞍置かせ、紅の大ぶさに、しんくの繩を八筋付、舎人八人、また鍍二筋付兩方へ引わけ、十人してひけどもためず、大鐘をならすが如く、大聲をしていばひ、白淡かみ、をどり嗔て馬場へ入る、宗麟も出場し、諸侍其外町人以下迄も見物に出るものが多かつた、大學兵衛は六尺あまりの大男、ゆらりと打乘て手繩を調へ、五方の口をひき、鞍の敷所、鐙の蹈所、例式のとほりにして、序より早道に移り、浮掻足長短の遠走踏鎮足、其外手繩の秘術をつくし乘り鎮め畢つた、宗麟をはじめ諸大名がどつと感じ入つた。
 誠に七町餘の馬場を人の息四五そくつめれば輙く往來するほどの駿足である、其後馬を乘らうといふほどの者は所望して乘つて見たが、十人の内一兩人は腰をかけるけれども、足を出すまでは乘り得ないで止めた、殘る八人九人は、氣色におそれて乘る迄の事はなかつた、雄城無難が申すには、
 「常の馬を乘るは、我等なども、さまで替りたるやうには覺えませぬが、この鬼月毛は、上手ばかりではのられませぬ、第一力乘りである、大學兵衛殿、ちからは馬よりもまし、其上上手であるが故に、かやうに乘れるのでござる」

 
    鋳物師安河

 江州音衷驍ノ鋳物師の安河と云者が籠つて居たが、稀代の弓の上手で、彼が射る矢先に立つ者一人として命を失はざるは無かつた。澤藏軒は、音衷驍ゥら三丁程遠ざけて、本陣を取つてゐたが、陣の前に五尺廻りの柳の木が在つたのに、彼安河が射た矢で窒ヤくらせめてその柳を射通してしまつたので、是を見る人々舌を卷いて懼れた。やがて此柳の木を切て城中へ送り、名譽の精兵と云つて表彰した、これは應仁時代の事である。

 
    即日印可

 柳生宗矩が曰く「大剛に兵法はない」と、一日或麾下の士某が來つて弟子とならんことを乞ふた。宗矩これを見て「足下は、何事かもうすでに一流を成就されたお人とお見受け申す。委細を承つた上で、師弟の契約を致すでござらう」と、その人答へて、
 「お言葉ではござるが、私は武藝など曾て稽古したことはござりませぬ」といふ。宗矩それを聞いて不興の面をして、
 「偖ては但馬守を嬲りに參られしや、將軍家の師範をするものゝ目鑑〔めがね〕が外れる筈はござらぬ」といふ。その人「誓て左樣なことはござりませぬ」と對ふ。「さらば武藝以外何事か得心のことはござらぬ」かと[ござらぬか」と]問ふに。その人答へて「幼少の時武士は命を惜まぬが極りなりとふと存じついて、數年の間心に掛けた結果、今では死ぬることを何とも思はぬやうになりました。此外に得心申したことはござりませぬ」と云ふ、宗矩大に感心して、
 「拙者目鑑の程少しも違はぬことがそれでわかつた。拙者兵法の極意は要するに只其一事である。是まで數人の弟子極意を免るす人一人も之なし、太刀を取られないでもよろしい、そのまゝ一流皆傳致さう」と云つて印可卷物を即座に渡したといふことである。

 
    紀州南龍

 紀州の南龍公も、聞えたる武術の達人であつたが、嘗て市川清長の宅に臨み、一罪人を引て庭に立たせ「腰帯」と名づけた備前長光の刀を以て、自ら大袈裟を試みたが、紫電一撃極めて其妙を得、切られた罪人の身體が、そのまゝ立つてゐるのを柄[借字]を以て之を突いたところ、始めて二段となつて倒れた。左右之を見て齊しく嘆稱したといふことである。
 公常に侍臣に謂て曰ふには、
 「明日にも何事か起つて、まさかのときには紀州武士は必ずうつむきに倒るべし、のけざまに倒るゝ者は一人も無いであらう。この事は關口魯伯に聞いたことだが、昔し大坂の町家の二階で相討ちした者の死體を見た處、一人は仰のきて、一人は俯いて倒れた。あをのいたのは其状いかにも見苦しいものであるにより、誰人でも死ぬるならばうつむけて倒れるがよいと。實に魯伯の言ふ通りである。抑々討たれて俯むけに倒るゝ者は、勇氣の溢れたるを示すものである。これ、身を挺んでて働らくが故である」と。

 
    柳生三嚴と鳥山傳左衛門

 柳生三嚴は十兵衛のことである。幼にして家光に仕へ、文武兩道に通じた。父宗矩が十兵衛の武藝を試みんとして突然礫を打つたが、三嚴これを受け損じて片眼を無くしてしまつた。長じて新陰流の奥儀を極め、劍術ならびなかつた。家光が九州の諸侯の徳川氏に心服せりや否やを知らうと思ひ、三嚴に命じて、狂氣と稱して家を弟宗冬に譲り、武者修業の途に上らしめた。三嚴諸國を遍歴し、熊本鹿兒島に居ること十年、精細の地圖を製し、人情風俗を究めて歸つたので、家光が大いに喜び、厚くこれを賞した。三嚴は狂氣猶癒えずと云つて、正木阪に隠居して劍術をヘ授してゐたが、相當の技術に達した弟子が一萬三千六百餘人あつたといふことである。酒井下總守も柳生三嚴を師と頼んで兵法を稽古せられたが、或る時三嚴が下總守を訪ねた時、下總守今日は小姓等を召出し、武藝の見物を致したいといひ出でた、三嚴直ちに承諾をして、代る代る出でくる小姓の竹刀を或は踏み落し或は飛び越え電光石火の如く、三十八人まで撃ちすゑた。この時丁度酒井雅樂頭の使として、鳥山傳左衛門といふ者が參り合せたによつて、下總守もそれを聞き心安き間の使であるから、口上も聞かず、先づ早くこゝへ出でよといつた。この傳左衛門はことの外兵法を好んで、戸田清玄の孫弟子となり、戸田流を究め又小野次郎右衛門について、一刀流を學んだ。けれど柳生三嚴は天下一の劍術の家である。それと仕合をすることいかゞと思つて出でかねてゐると、下總守何とて出ぬぞと怒つたので、やむを得ず、一尺七八寸の小竹刀を用意しつゝ一足二足進み出ると、三嚴が大喝して退いてしまひ、
 「仕合するに及ばず」と云つたので、傳左衛門はその儘次室に退いてしまつた。三嚴色を作して、
 「數多の小姓の中に、かゝる上手を隠し置きまぎらはかして、十兵衛に恥をかゝせやうとした」と以ての外に怒つた。下總守は申譯をして、
 「どうして左樣な巧をやなすべき、傳左衛門は己れの家來にもあらねば、劍法に長ずるとは少しも知らず、唯今他家より使者として參つた折柄、最早出すべき小姓どもゝなきまゝに出したるものである」と云はれたから、三嚴も怒りを解いて、
 「傳左衛門は殊の外小太刀に骨を折つたと見える。何人の弟子であるか」と尋ねた處、小野次郎右衛門の指南を受けたものであると答ふ。三嚴曰く、
 「さもありなん、拙者左樣のものを見はづす筈は無い、次郎右衛門が弟子にもこれほどの上手は多くはあるまじ」と賞めたさうである。仕合もしないで巧拙を見分けたる手練のほど人々感じ入つたさうである。

 
    寶藏院の事

 奈良の寶藏院胤榮の處へ射術の達人菊岡二位宗政といふものが勝負を申入れた。そこで興福寺南大門前で立ち合つたが、胤榮は鎌槍を執つて立ち、宗政は弓に矢を番ひて、機を見て放たうとしたが、放つべき隙が無かつたと見え、弓を彎きしぼつたまゝ、南圓堂の傍にある森の中に入つてしまひ、弓矢をすてゝ逃げたといふ事である。又穴澤秀吾といふ長刀の達人が胤榮と仕合をしたいと思ひ、奈良に來て寶藏院の奴となつた。一日胤榮はその氣色が常人ならずと見て、潜に呼んで問ひたゞして見ると秀吾が實を以て答へたので、胤榮は大いに驚いて坐に請じ、その希望に應じて仕合をしたといふ、胤榮は慶長十二年八月二十六日、享年八十歳で歿した。

 
    諸木野彌三郎

 諸木野彌三郎は宇陀郡秋山直國の家來であつた、天正年中勢州合戰の時、敵織田信長の陣中に秋山を罵詈するものがあつた。彌三郎が怒つてこれを射たところ、矢は四五町を距てゝその相手を貫きその上後ろの松の樹に突立つた。信長大に感賞し、その矢に物を結んで送還したといふことである。

 
    根本武夷

 根本武夷は鎌倉の人であつた。小より武技を好み、劍を長沼四郎左衛門に學んで其の奥義を極めた外、常に云ふよう、
 「我が日本の人の長とするところは武術である。文藝は遠くこれに及ばない。故に日本開國の天皇を~文と稱し奉らずして~武と號し奉るのである。そこで我輩も眞の武人とならなければならぬ」と。
 或時、師匠の長沼に從つて厩橋公の席に招かれて行つたことがある。そこに、佐藤直方といふ學者がゐて、長沼に向つて語つて云ふには、
 「劍は小技である。項籍[項羽]すらも一人の敵だといつてこれを學ぶことを徳としなかつた。まして況んや項籍でないものをや」
 武夷が傍らにあつてそれを聞いて、自分が輕蔑せられたるが如く激昂し、劍道を侮る佐藤の云ひ分の無禮なるを憤つたけれども、一體その佐藤がいふところの項籍といふのは何者だか一向わからないものだから文句のつけようがなかつた。それから發奮して本を讀まなければならぬと考へ、さうして荻生徂徠について學問を習ひはじめた。それは廿六の年であつた。
 幾何もなくして文學の方にも達し、文武共に生徒にヘ授し得るやうになつた。常に子弟に向つて云ふには、
 「武術を修めようとする者は宜敷まづ文事からはじある[誤植・はじめる]がよろしい、然る後如何なる難問題にぶつかつても刄を迎へて自ら説くことが出來、武器の使用もはじめて~妙に至るのである」
 武夷が或時、山井崑崙と共に足利學校に遊んで七經を校勘したが、それが傳つて將軍の覧に供せられ、銀十枚を賞賜せられたことがある。

 
    阿部鐵扇

 阿部正義(鐵扇)は越後溝口家に仕へて、戸田流柔術の指南役であるが、越後の新發田から江戸へ屡々御用状を持つて使をしたが、普通十日間の行程三度飛脚でさへも五日かゝるところを、この人は三日でもつて江戸へ着くのを例としてゐたが、享保二年五月廿四日の晝九ツ時に出發して、廿六日の夜四ツ時に江戸の藩邸に着いたといふことである。
 或時、江戸の町を歩いてゐると、路傍に見世ものがあつた。それは、臺の上へ自分の掌をのせて置いて、誰でも通る人に磨ぎすました小柄を與へて、これでもつておれの掌をさ刺せといふのである。そこで、好奇の者や、覺えのあるものが小柄を差して電光石火とやつて見るが、その時早く、掌は引かれてしまつて小柄は空しく空を差してしまふのである。正義は人に連れられてそこへ行つて見た。ところが、その者が正義の眼玉を見ると忽ち周圍にたかつてゐた群集の蔭に隠れて逃げ出してしまつたことがある。その鍛錬の威力に壓せられたのである。
 また、或時は兩國橋の際に高く看板を掲げて繩拔けの術を見せるものがあつた。そのものがまづ觀客に思ふ存分自分の身を縛らせて、それから、大きな布をすつぽり被らせしまつて、その瞬間また布を取り拂ふともうさしもに堅く結へてあつた繩がすつかり解けてしまつて下に散亂つてゐる。見るものこれを奇なりとして黒山のやうに集まつた。正義はまた人に連れられてこれに行つて、では一つ縛つて見ようと、型の如くそれを縛りからげたが、こんどはどうしても解けない。そこで、術者が憐みを乞ふて、どうぞ繩を解いて下さいと降參した。どういふわけでこの人の縛つた繩に限つて解けなかつたといふに、正義は結ぶ時にひそかに唾液でもつてその結び目を濕して置いた爲に解くことが出來なかつたのである。
 享保十四年のこと、九之助といふものが藩のお倉所に於て狼籍を働き、何人も手にをへないで弱り切つてゐた處へ正義が出かけて行つて、赤手でもつて發矢と一撃を食はすとその前額が破れて血を吹き、恰も刀を以つて一割したやうな形であつた。時の人がこれを稱して「戸田の骨破り」といつた。
 寶暦年間のこと、溝口藩の捕方が大泥棒會津清兵衛、護摩堂大兵衛をとつ捕へて、これを江戸へ送らうとした。ところが、この兩賊共に手下のものが多くつて、途中宿々で奪ひ去らるゝの危險がある。そこで、役人達が正義を起して護送の任に當らせようとして命を正義に傳へた、ところが、正義答へて、
 「もはや、吾等は老ひぼれて役にたちませぬ」
 といつて、別に高弟近藤關右衛門といふのを推薦した。正義が辭退したのは必ずしも老ひぼれて役にたゝないばかりでなく、自分が最早勤めを退いた後又、出かけるといふことになると恰も藩に人がないやうに見られるおそれがあつたからである。

 
    龜崎安太夫

 池田光政の領國、備前岡山の磨屋町藥師寺へ、龜崎安太夫といふ柔術の達人が寄宿した事がある。追々聞き傳へて門弟となる者が多かつた。然るに同國に住する浪士本間半左衛門(後號無雅尺八を能くす)といふ者が行て仕合を所望した、龜崎が「心得候ひぬ」と云つて奥に入り、片足をくゝり片手を帯に差入れて、片手片足で躍り出て、さらばお相手仕らうと云つた。本間は人を馬鹿にした仕形だと憤慨し、
 「まだ勝負を試みないふちに、御邊は甚だ拙者を輕しめらるゝは、いかなる次第」と、龜崎答へて、
 「貴客の御不興は御尤もである。けれどもこのやうにしても危なくないといふ心當りが當方にござる故に」と云つた。
 本間は己れ奇怪な振舞、いで門弟の面前で打斃し耻をあたへてやらうと、どつと走り寄て龜崎を取て目より高くさし上げた。さし上げられたる龜崎笑ふて、
 「是だけでは勝負にならぬ、これからどうなさるお積りだ」と云へば、本間、其儘曳といふ聲とゝもに、打付くるを、龜崎中でひらりと返り、本間を一當てあてゝ打倒すと、佛壇の唐紙を打破つた所を透さず飛びかゝり、
 「覺えられたるか」と云ふ、本間大に感じ、即座に師弟の約をしたといふ。

 
    島田見山傳

 「栗圍餘藁」中に次の如くある。
 天保中以劍術鳴於天下者、江戸有男谷某、柳川有大石某、中津有島田見山、見山少二子十餘歳、而屹成鼎足之勢、幼時學劍於堀某、稍長遊筑肥隅薩之間、偏求武人以角其技、〔中略〕見山在江戸、春日從徒弟數人、觀花于隅田川堤上、有少年五人同飲、見見山來故箕股以攔路、徒弟皆怒撫劍、見山徐々行、踏之而過、一人起立、捉見山衣領、未及見其下手、少年既仆堤下、二人繼起、左右提[捉?]見山手、見山大喝一聲、二人立相枕而仆、餘皆鼠竄、不知所之、見山不敢以告人、其門人久米房之助、語以予此事曰、當時吾面見之、先生不獨劍術過人、拳法亦臻其如此、



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