續日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
第  六
 目 次      Back     Next 

 可兒才藏   中村一心齋碑文   男谷と島田 
 那須の與市   名和長高   本間孫四郎 


 
    可兒才藏

 可兒才藏〔かにさいざう〕吉長は篠才藏と呼ばれたる、福島正則の名代の勇士であるが、若い時は長太刀を好んで使つたが、年老ひ力衰へて後は腰に差すことを臆劫がつて他行の時は從者に持たせて歩行した。
 福島の一族に何の嘉兵衛といふ者があつた、或時、物語の末、吉長に向つて云ふには、
 「貴殿、お若い時は格別、今は年をとられたので腰に帯びられることも叶はず、お伴に持たせて外出なさるが、それにしてもお手並みのほど一見いたし度いものでござる」
 と云つた。吉長がこれを聞いて答へていふには、
 「仰せ御尤も、恥入つた義でござる、若い時、この刀で隨分試合を致したことでござる故に、今更昔の名殘りが惜しくてつひ外出の時なども身のまはりに持たせて參るやうな次第でござる、但し武藝といふものは他所目〔よそめ〕ではなかなか比判のつかぬものでござる、さらばこの刀を見參に入れ御會釋を申さうぞ」
 といつて、腰を抑へて立つと、そばに置いた刀をとり、
 「長刀の業は斯くの通り」
 と云つて、スハと拔いた。嘉兵衛は案に相違して立ち上らうとするところを、細首を打ち落してしまつたといふことである。

 
    中村一心齋碑文

 妙はその子に譲られすつき穗かな
 中村一心齋肥之島原城之人也姓藤原字一知身長六尺二寸美髯三尺五寸清正公之後云々先生竹馬歳始學劍法不遊他技既而訪師于四方從問從學遂究諸流之淵原矣後來于東都入鈴木重明之門開ヘ場於八町堀ヘ育子弟二三千諸侯聞名重聘者多然而固辭不仕焉悠然貴適意其他周遊而欲胎術於天下以成言鍛錬之心忠孝无二之志報國體无窮之恩也北總漁村岩井石橋氏盡禮敬而迎先生吾兄弟共從事濤川氏向後氏又ヘ育一日先生語曰劍法體用未得自然文政戊寅之夏登駿之富峰行氣斷鹽穀食百草而祷祈一百日季秋二十六夜非睡非覺身心豁然有得焉夫吾心精一則天地心精一豈有二心哉於是新號不二心流爲師術之表吾兄弟事先生積年視猶子也故所得悉傳與因開鍛錬場而以ヘ授于時安政甲寅十月二日卒埴生郡赤萩鵜澤氏行年七十又三也茶毘以葬此地謚浄念雲龍今當十三諱辰門人來會謀不朽亦欲後生不忘先生之徳澤書大槩于時慶應二年十月也
                                    大河内幸安
                                     同  芳安
                                     同  安道
これは醫學博士にして寄生虫學の世界的權威たる磯部美知氏より知らせていたゞいたもので、碑は千葉縣匝瑳郡共興村西小笹地藏院内にあり、磯部博士は不二心流の正統の劍法を今でも保持して居られる。

 
    男谷と島田

 これは事實どうかわからないが、ある雜誌の記事によると、
 男谷下總守と島田虎之助との仕合を見たといふ人の話に、一禮して立ち上つて互に氣合を容れて、一方がぢりゝとつけ込めば、一方はあとに壓迫され、一方が盛り返してつけ込めば、一方は反對にあとに壓迫されること數回、遂に勝負を見ることが出來ず、相引となつたが、男谷先生が面を取つて、
 「いや、よい稽古にあづかりました、まゐりました」
 といつて挨拶された時、島田は顔色碧白になつて口が利けず、殆んど卒倒せんばかりになつてゐたといふ。

 
    那須の與市

 那須の與市の扇の的のことは餘りにも有名で云ひ古りてはゐるが、矢張り~妙記としては一通り書いて置かなければなるまい、そのことは源平盛衰記に最も詳しく描いてゐるが、時は元暦二年二月廿日のこと、源平の戰が酣で、今や一息入れて又戰はうとする時に、沖の方から綺麗に装つた船が一艘、汀に向つて漕ぎ寄せて來た、勿論この時、陸は源氏、海は平家であつて、船は平家の方から漕ぎ出して來たのである。
 偖、その船の上に、柳の五重に、紅の袴を着て袖笠かづける女房が一人立つて、皆紅〔かいくれない〕の扇に日の出でたのを杭にはさんで船の舳〔へさき〕に立てゝ押し出して來た、勿論、これを射よといつて源氏の方を招いたわけである、昔の戰爭は流石に悠長で美的な趣味がある。
 それを遙に見た源氏方では、これは面白い景氣だと心をさわ立たせるものもあるし、この扇を誰に射よとの命令が下るかと、膽を冷してゐるものもある、それを見た一轍短慮の義經、何でう猶豫すべき、味方のものにあれを射るものはないかと命令が下る、その詮議が畠山重忠の頭上に落ちて來た、重忠以外にはこの任に當るべきものが無からうとの源氏方の輿論であつた。しかし、重忠はそれを辭退した、重忠の萬人から囑望せられた勇武のほども思はれるが、それを辭退した辭退振りも亦器量のあるものであつた。畠山が辭退したので、流石源氏の坂東武者も色を失つた。この上は誰があの選に當るのか、若しその人を得なかつた時は源氏の耻辱、坂東武士末代までの名折であると色を失つてゐると、畠山が云ふことには、
 「當時、味方には下野の國の住人那須太郎助宗が子に十郎兄弟こそ斯樣の小物を射させては覺えがあるものでござる、彼等をお召しになつて御覧なさるがよろしからう」
 と大將義經の前へ申出でた、畠山といふ人は器量もあり武勇もあるが、同時に人を見ることをよく心得てゐた人物だといふことがわかる。
 「さらば、十郎を呼べ」
 といつて、呼び寄せてその事を申付けると、十郎が答へていふには、
 「仰せを蒙つた上は申譯をする次第でございませぬが、先日、一ノ谷の岩石落しの時に、馬が弱くて弓手の臂を砂に附かせて少々怪我をいたし、灸治を加へて居りますが、未だ治りませぬ、小振ひして矢が定まらぬ憂ひがございます故に、誠に失禮ながら拙者の弟に候處の與市は小兵ではござりますが、懸鳥や産などは滅多に外したことはござりませぬ、弟ならばあれをやれるかもしれません」
 といつて、弟に譲つて控へてゐると、
 「さらば、與市を召せ」
 といつて、召された。
 與市のその日の装束は紺村濃の直垂に緋威の鎧、鷹角反甲、居頸になし、二十四指したる中黒の箭負、滋籐の弓に赤銅造の大刀を帯び、宿赭白馬の太く逞しきに、洲崎に千鳥の飛び散つたる貝鞍を置いて乘つてゐたが、進み出でて判官の前に弓を取り直して畏つた。義經が、
 「あの扇を仕れ、晴れの働きであるぞ、不覺をするな」
 與市はその仰せを承つて、何か仔細を申さうとする處に、伊勢の三郎義盛、後藤兵衛尉實基等が、與市を判官の前に引き据えて、與市に口を開かせないでいふことには、
 「何れもが、何かと故障を申立てたによつて、日は既に暮れかゝつてゐる、與市の兄の十郎が、指し申した上からは、何の仔細がある、疾々急ぎ給へ、海上が暗くなつては由々しき味方の大事である、早々」
 と急き立てゐたので、與市は、げにもと思ひ、兜をば脱いで童に持たせ、揉烏帽子を引立てゝ、薄紅梅の鉢卷をして、手繩を掻くつて、扇の方へ打ち向つた、生年十七歳、色白く小髭が生え、弓の取りやう、馬の乘り振り、優なる男に見えた、そこで馬を乘り入れて、鎧の菱縫板のつかるところまで打ち入れたが、沛艾〔はいがい〕の馬であるによつて、海の中ではやるのを手綱をゆり据えゆり据え鎮めたけれども、寄る小波に物怖して、足も止めず狂つてゐる。扇の方を急いで見ると、折ふし西の風が吹き來つて船が動揺する處から、扇も杭にたまらず、くるりくるりと廻るので、何處を當てに射ていゝかわからない、與市は運の極みと悲しくなつて、眼を塞ぎ心を鎮めて祷るやう、
 「歸命頂禮八幡大菩薩、日本國中大小~祇、別而ハ下野國日光宇都宮氏御~那須大明~、弓矢ノ冥加有ベクハ、扇ヲ座席ニ定メテ給ヘ、源氏ノ運モ極、家ノ果報モ盡ベクハ、矢ヲ放ヌ前ニ深ク海中ニ沈メ給ヘ」
 と、祈念して眼を開いて見ると、~の助か扇が座に靜まつてゐる、物の射難い點から云へば、夏の山の木の葉隠れの間に見える小鳥を殺さぬやうにして射ることなどであるが、それに比べて、挾んで立てゐたあの扇である、まして~の力で今、風も鎮つて、扇の座も定まつた、もうこつちのものだと思ひながら、十二束二つ伏の鏑矢を拔き出して、爪やりをしつゝ滋籐の弓の、握り太なるに打ち食はせ、よく引いて暫くかためてゐる、海上七段ばかりを距てゐたことによつて、源氏の方からは、
 「まだまだもう少し中へ入れ々々」
 と呼ばはる聲が聞える、扇に覘ひをつけた與市は、扇の紙には日を出してゐるから、これを射るのは怖れがある、要〔かなめ〕を志して、兵と放つ、矢はうら響くまでに鳴り渡り、要から上一寸置いて、フツと射切つたので、要は船に止まつて、扇は空に飛び上り、暫くひらめいてひらひらと海の上へ落ちかゝる、折から夕陽にかゞやいて、波に漂ふ有樣は美しさの極みであつた。平家は舷を叩いて賞める、源氏は馬の鞍の前輪を叩いて賞め囃す聲が海陸に鳴り響いた。

 
    名和長高

 後醍醐天皇を助け奉つた名和氏の一族長高も亦聞ゆる弓矢取りであつた。船上山合戰の時、長高が出向ひ、
 「一矢仕り軈而可參候」
 と天皇の御前を罷り立ち、黒絲威の鎧に五枚甲の鍬形打たるに、廿五指たる黒ほろの矢負、四尺三寸、三尺九寸の大刀二振帯、五人して張ける例の大弓杖につき、ねり出た事がらは支那の樊噲といふとも是には勝れじと見えた、矢ごろと覺しい處に立つて、下樣に見ると楯のはづれに四方白の甲著た者がゐる、田所が弟五郎左衛門尉種直と云ふ者であつた、長高が是を見て、例の大弓弦くひしめ、中差取つてつがひ、よつ引ひやうと射る、種直が鎧の引合つと射通し、後に續たる弟の六郎が甲のまかう、後に矢たけ射出した、二人一度に臥して斃れた、是を見て郎等源七、楯をつきかけ、肩に引懸んとする處を長高が二の矢を番ひて、楯の中を射たが、楯を通る矢に楯つきが頸の骨を射切て、餘る矢に源七が小手のはづれを注ロ迄射込んでしまつた、そこでまた二人ともに斃れ臥したので、一所に四人が死んでしまつたのである。是を見て敵の田所が申すには、
 「昔の八幡太郎殿鎮西八郎爲朝と申すとも、角ぞ候ん、如何に思とも叶はない、いやいや」
 と云つて引退いた、長高が大音に名乘るには、
 「東國にてはよも聞き及ばじ、近國に於ては、皆々長高が弓勢は知られたであらうに、是迄寄せられたるこそやさしけれ、今さら引む事見苦候、近く寄給へ矢坪はちがひ候まじ、我と思はん人々は、打出でゝ矢坪を望まれ候へ、三の矢にをいては、尋常に可仕候」
 と罵つたけれども、寄手の佐々木清高は二町計り引退て申すには、
 「何と思ふとも攻め落すことは六つかしい、是に向城を取て、食攻にするが宜しい」
 といふ事になつたので、長高は内裏へ參つた。昔八郎爲朝は、矢一つにて清盛の大勢を追歸したが、今の又太郎は、矢二つにて佐々木清高が二千餘騎を退けたと云つて聞く者が舌を捲いた。

 
    本間孫四郎

 この頃は弓矢の話が大分續くが、もう一つ鎮西八郎以來の弓矢取、本間孫四郎の事は傳へなければならぬ。
 新田足利が兵庫の濱で合戰の時に、本間孫四郎重氏、黄瓦毛なる馬の太く逞しきに、紅下濃の鎧着て、只一騎、和田の御崎の波打際に馬を打寄せて、澳なる船に向つて、大音聲を揚げて申けるには、
「尊氏將軍には筑紫より御上洛でござるによつて、定めて靹、尾道の傾城共を多く召し具せられた事と存じ申すが、其爲に珍らしき御肴一つ推して進ぜまゐらせやう、暫く御待ち候へ」
 と云つて、上差の流鏑矢を拔て窒フ少し廣がつたのを鞍の前輪に當てかき直し、二所籐の弓の握太なるに取り副へ、小松陰に馬を打寄て、浪の上なる鵃〔みさご〕[鶚]の己が影で魚を驚かし飛さがる程を待つてゐた、敵は是を見て、射そこねたらば希代の笑哉とながめてゐる、御方は射當てたらば、時に取つての名譽哉と、まもつゐる、遙に高く飛び擧つた鵃は、やがて浪の上に落さがつて、二尺計りなる魚を捕るより、ひれを掴[借字]んで、澳の方ヘ飛んで行くところを、本間は小松原の中から馬を懸出し追樣に成て、かけ鳥に射た。態と生ながら射て落さうと片窒ェひを射切つて眞中のところは射なかつたから、鏑は鳴り響いて、大内介が舟の帆柱に立ち、鵃は魚を掴[借字]みながら、大友が船の屋形の上へ落ちて來た、射手を誰とは知らないながら、敵の船七千餘艘は、舷を蹈て立ち雙び、御方の官軍五萬餘騎は汀に馬を控へて、
 「あ、射たり射たり」と感ずる聲、天地を響して靜まらない、將軍尊氏はこれを見て、
 「敵は己が弓の程を見せやうと、此鳥を射たが、此方の船の中へ鳥の落ちたのは、味方の吉事であるぞ、何樣SPAN class="d">〔なにさま〕射手の名字を聞きたいものだ」と云つたので、小早河七郎が、舟の舳に立出て、
 「類少く見所有ても遊ばされたもの哉、さても御名字をば何と申候やらん、承候はゞや」
 と尋ねた處、本間弓杖にすがつて、
 「其身人數ならぬものにて候へば、名乘り申候とも、誰か御存知候べき、但弓箭を取ては、坂東八ケ國の兵の中には、名を知りたる者も御座候はん、此の矢にて名字をば御覧候へ」
 と云ひて、三人張に十五束三伏、ゆらゆらと引渡し、二引兩の旗立たる船を指して、遠矢を二つ射た處が、その矢が六町餘を越して將軍の船に雙んだ佐々木筑前守が船を箆中過ぎ通り、屋形に乘つた兵の鎧の草摺に裏をかゝせて立つた、尊氏が此矢を取寄せ見ると、「相模國住人本間孫四郎重氏」と小刀の先で書いてある、諸人此の矢を取傳へ見て、
 「穴懼、如何なる不運の者が、此の矢先に廻て死ぬのだらう」と怖れて胸を冷してしまつた。本間孫四郎扇を揚て、澳の方をさし招て、
 「合戰の最中でござるによつて、矢一筋も惜く存候、其矢此方へ射返してたび候へ」
 と云つた、將軍尊氏が之を聞いて、
 「味方に誰か、この矢を射返す程のものがあるか」と高武藏守に尋ねたところ、師直が畏まつて、
 「本間が射たところの遠矢を、同じ處で射返して見せるほどの者は坂東勢の中には有るべしとも覺えません、本當であるかどうか、佐々木筑前守顯信こそ、西國一の精兵と承つて居りますが、彼を召され仰付られて御覧になつては」と申したので、げにもとて佐々木を呼ぶことになつた、顯信召に隨つて、將軍の前に參ると、將軍、本間が矢を取り出して、
 「此の矢を本の矢所へ射返され候へ」
 と云つたが、顯信畏まつて、
 「それは私には出來ませぬ」と再三辭退をしたが、將軍が強ての仰せであるによつて、辭するに處無くして己が船に立歸り、火威鎧に、鍬形打たる甲の緒を縮[締か?]、銀のつく打たる弓の反高なるを帆柱に當て、きりきりと推張、船の舳崎に立顯て、弓の弦くひしめしたる有樣、これならば成程射返せるだらうといふ武者振には見えたが、かゝる處に如何なる推參の馬鹿者か、讃岐勢の中から、
 「此矢を一つ受けて、弓勢の程を御覧ぜよ」と高らかに呼はる聲があつて、鏑を一つ射たものがあつたが、胸板に弦を打たれでもしたものだらう、元來小兵であつたせいか、其矢が二町までも射付ず、波の上に落ちてしまつた、本間が後に控へたる軍兵五萬餘騎、同音に、
 「あ、射たりや」と云て、しばし笑ひが止まらなかつた、斯うなつては中々射てもよしない事だと佐々木は遠矢を止めてしまつた。
 それから、本間孫四郎が最後の功名としては、太平記卷の十七「山門攻」の處に詳しく記してある。此の戰は後醍醐天皇を新田義貞が守護し奉り二度叡山に行幸になつた時、賊軍が五十萬騎の兵でこれを攻め奉つたといふ處である、賊軍の一手は熊野の八庄司共が五百餘人で新手に加はつて來た、それを先手に立てゝ西坂から攻め上つて來た、この熊野の兵共といふのは黒絲の鎧甲〔よろひかぶと〕に指のさき迄鏁〔くさ〕りたる籠手、髄當〔すねあて〕、半頬〔はんぼう〕、膝鎧〔ひざよろひ〕を透處なく一樣に褁〔つゝ〕んだいでたち、まことに世間態とは異り、天晴れ一癖あつて役に立ちさうな有樣であつたから、此の手の大將、高豐前守が大喜びでその者共に面會して戰の樣子を尋ねると、庄司のうちの一人湯河の庄司が進み出でゝいふことには、
 「紀伊の國育ちの吾々共は、若い時から惡所岩石には馴れて、鷹をつかひ、狩をいたして居るものでござるによつて、馬の通はぬやうな嶮しい處でも平地のやうに心得てござる、この位の山は山とも何とも思つては居りませぬ、この鎧は威毛こそよくはござりませぬけれど、吾々共が手製で橈め拵へたものでござる故に、鎮西八郎殿と雖も滅多には裏をかゝせるやうなことはござりますまい、こんどの合戰は將軍(尊氏)の御大事でござります故に、私達が軍勢の矢表に立つて敵が矢を射たらばこの物の具に受け止め、切つてかゝつたならば、その太刀長刀に取りついて敵の中へ割つて入りませう、さうするほどならば如何なる新田殿なりとも、やわか持ちこたへは出來ますまい」
 と傍若無人に申したので、聞く人見る人、何れも偏執の思ひをした。さらば軈て是をさき武者として攻めよと云つて、六月十七日の辰剋に、廿萬騎の大勢、熊野の八庄司が五百餘人を先きに立てゝ、松尾坂の尾崎から、かずきつれて上つたのである。
 官軍の方では綿貫五郎左衛門、池田五郎、本間孫四郎、相馬四郎左衛門と云つて、十萬騎の中から勝り出された強弓の手垂があつた、池田と綿貫とは、この時丁度東坂本へ遣されて居合はさなかつたが、本間と相馬と二人、義貞の前にゐたが、熊野の人どもが眞黒に裏[褁?]みつれて攻め上つて來るのを遙に直下〔みをろ〕し、からからと打笑ひ、
 「今日の軍には御方の兵には太刀を拔かせまい、矢一つをも射させないやうにし、我等二人が罷り向つて、一矢仕つて、奴原に肝をつぶさせ申さう」
 と云つて最閑〔いとしづか〕に座席を立ち上つた。猶も弓を強く引かんがために、着たる鎧を脱ぎ置いて、脇立ばかりに大童になり、白木の弓のほこ短には見えたけれども、尋常〔よのつね〕の弓に立ち雙べては、今二尺餘ほこ長く、曲高〔そりたか〕なのを大木どもに押撓、ゆらゆらと押し張り、白鳥の窒ナはいだ矢の、十五束三伏あつたのと、百矢〔ももや〕の中から只二筋拔いて、弓を取り副へ、誂歌うたつて閑々と向の尾へ渡ると、後に立たる相馬は、銀のつく打たる弓の普通の弓四五張并せた程なのを、左の肩に打ちかたげて金磁頭二つ箆の撓〔ため〕に取り添へて、道々撓め直し、爪よつて一群茂る松陰に、人交〔ひとまぜ〕もなく只二人、弓杖〔ゆんづえ〕突いて立つてゐる、そこへ是ぞ聞えたる八庄司が内の大力よと覺えて、長八尺ばかりなる男、一荒あれたのが、鎖の上に黒革の鎧を着、五枚甲の緒を締め、半頬の面に朱をさして、九尺ばかりに見えたる樫木の棒を左の手に拳り、猪の目透したる鉞〔まさかり〕の歯の、亘〔わたり〕一尺ばかりあるを、右手に振りかたげて、少しもためらう氣色もなく、小跳して登る形勢は、阿修羅のやうな姿に見える、あはひ二町ばかり近づいた時、本間が小松の陰から立ち顯れ、件の弓に十五束三伏、忘るゝばかり引きしぼり、ひやうと射わたす、志す處の矢所〔やつぼ〕を少しも違はず、鎧の弦走から總角付の板迄、裏面五重を懸けず射徹して、矢さき三寸ばかりちしほに染まつて出たので、鬼か~かと見えた熊野人も、持つてゐた鉞を打ち捨てゝ、小篠の上にどうと伏した、其次に是も熊野人かと覺えて、先の男に一かさ倍して、二王を作り損じたやうな武者、眼がさかさまに裂け、鬚左右に分れたのが、火威の鎧に龍頭の甲の緒を締め、八尺三寸の長刀に四尺餘の太刀を帯いて、射向の袖をさしかざし、後をきつと見て、
 「遠矢は射るな、矢どうなに」
 といふまゝに、鎧づしきて上つて來る處を、相馬四郎左衛門、五人張に十四束三伏の金磁頭〔かなじどう〕くつ卷を殘さず引きつめて弦音〔つるおと〕高く切つて放つと、手答とすがい拍子に聞えて、甲の眞向から眉間の腦を碎いて、鉢着〔はちつけ〕の板の横縫きれて、矢じりの見ゆるばかりに射籠んだので、あつといふ聲と共に倒れて、矢庭に二人死んでしまつた。跡に繼いた熊野勢五百餘人、此矢二筋を見て、前ヘも進まず後へも歸らず、皆背をくぐめて、立ちすくんでしまつた。本間と相馬とは、こんな事に少しも頓着のないやうな面をして、御方の兵が二町ばかり隔たつて、向の尾根に陣を取つてゐたところへ向つて、
 「例〔いつも〕ならず敵兵が働らくやうに相見える、ならしに一矢づつ射て見せて上げやう、何でもよろしい的に立てゝ御覧」と云つたので、
 「では是を遊ばし候へ」と云つて皆紅の扇に月を出したのを矢に挾んで、遠的場だてに立てた、本間は前に立、相馬は後に立て、
 「月を射ては天の恐も有るであらう、兩方のはづれを射やう」と約束して、本間は、はたと射れば、相馬もはたと射る、矢所約束に違へず中なる月を殘して射切つた。
 其後百矢二腰取り寄せて、張りかへの弓の寸引をして、
 「相模國の住人本間孫四郎資氏、下總國の住人相馬四郎左衛門忠重、二人此陣を堅めて候ふぞ。矢少々うけて、物具の眞の程御覧候へ」
 と高らかに名のつたので、後なる寄手二十萬騎、誰追ふともなく、我先にとふためいて、又本の陣へと引き返してしまつた。
 本間はこれほどの名人であつたが、義貞北國落の時、尊氏方へ降人に出でた、本來、尊氏の旗下であつたのだが、尊氏は兵庫の合戰の時以來の仕打が憎いと云つて、六條川原へ引き出して首を斬つてしまつたのは、惜しいことである。



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