續日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
第  五
 目 次      Back     Next 

 秀次の無刀取   幻妙の美少年   高橋の捕物 
 源 爲 朝   むつるの兵衛と上六太夫   精  兵 


 
    秀次の無刀取

 柳生宗矩〔むねのり〕が京都へ着いた、その頃柳生の無刀取が有名であつた、關白秀次が之を聞いて宗矩を召して、
 「その無刀取の術を一覧致したい」
 と所望した時に宗矩が、
 「無刀の事は人に傳へようとして工風したのではござりませぬ、刀や脇差等をとり合せるいとまも無い樣な時にはと、なぐさみに工風を致してみたまでの事でござります」
 と申したところ、秀次がそこで刀を拔いて宗矩に斬つてかゝつた、宗矩が、つかつかと走り寄るところを秀次が拜み打ちにひしと斬つた、宗矩が違ひ樣に足でづんと蹴たところが、秀次の持つた刀が手を離れ二間ばかり飛んで落ちた、其處で宗矩は秀次の拳に取りついて、
 「恐れ多き事でござりました」
 と云つておし戴いた、秀次は、
 「名譽の儀である」
 と云つて宗矩の弟子となつた。
 その後、秀次は木下半助をもつて、この事を太閤秀吉へ推薦した、秀吉が聞いて半助に向ひ、
 「その方が申した樣に、しかと秀次が申し聞かせたのか」
 と問ふ、半助が、
 「申上げた通りでございます」
 と答へたので秀吉が、
 「秀次はその分別では我が後を繼ぐことはなかなか出來ないであらう、天下を治むべき身として白刄にて我身を斬らせ、それを取つたからと云つて何のuになるのだ、大將たるものは左樣のうつけた眞似はしないものである、我は天下を治めたけれども遂に我刀で人を斬つた事は無い、この方の影で人に人を斬らせる分別を以つて天下を治めたのだ、秀次はそれ程のうつけ者か」
 と云つて、事の外立腹したと云ふ事である。

 
    幻妙の美少年

 筑紫から兵法修行に上つて來た片山重齋と云ふ人があつた。卜傳流を傳へて無雙の極位を指南して居たが、五條坊閣に宿をとつて武家在家を問はず弟子が多くあつて、朝晩繁昌してゐた、取分けて兵法の道理が面白いと云つて徳善院の家中は大方殘りなく稽古して居た。
 或年の六月半頃、玄以法印の家中に深澤兵部少輔と云ふ人の許へ重齋をよんで終日遊び暮して居た。夜になると庭前に水をまかせて傍輩衆七八人打寄つて涼みをして居たが、稽古の爲だと云つて、木刀を數多組んで出し、使ひして居るところへ、年の頃十六七でもあらうと見える若い、ゆゝしげな美少年が白い帷子〔かたびら〕の如何にも美しいのを着て、一尺余りの脇差に扇を取添へて差して居たが、忽然として庭前にかしこまつて皆の兵法をば見物して居る、兵部少輔がそれを認めて。
 「あれに見える御人は誰人にておわすやら」
 と云ひかけたところがこの若衆が差し寄つて申されるには、
 「私はこの御館近い處に住む者でござりますが、兵法をば少しづつ心掛けて明暮彼方此方と修行の眞似を致して居りますが、今日重齋先生と申されるお方が此方へ御越しになされた由を承り及び候によつて、御太刀筋を拜見させて戴き度く、御案内をも申上げないでお庭迄伺候致しました事を御許し下さいませ」
 と申されたので、兵部少輔もそれを聞いて、
 「扨もやさしいお志でござる、この邊にて何れの御子息にておはしますぞ」
 と尋ねると、
 「さなき者の倅でございまして、御歴々の御參會の中へそれと名乘る程の者でもござりませぬが、この近邊にまかり在る者でござるによつて、うろんなものではござりませぬ」  と云つて辭退する、重齋はそれを聞いて、 「まだお年若なのに、それ程に兵法を御執心なさる上は定めて御器用な事と御察し申す、皆の者の中誰ぞ打太刀をくだして若衆の太刀筋を御覧になるが宜しい」
 と云つたところ、居合す人々が、もつともな次第であると片唾を飲んで見物して居る中に、吉村七之助と云つて、重齋の弟子で二番通りの器量のある使手であつたが、重齋がこれを呼んで、
 「打つてみよ」
 と云ひ付けると、この若衆が申されるには、
 「初心者の儀で候によつて、先づ私が仰せにまかせて打つて見るでござりませう」
 と云つて二尺五寸の木刀を取つて構へた。七之助も一尺八寸の木刀をもつて打つてかゝるを待ち受けて居た。その時に若衆が云ふ事には、
 「その構へでは刀が入り申す可く候、お直しになつても苦しくはござりますまい」
 と云つた、七之助扱はと驚いて構へを直すと、
 「それでもまだ入り申すでござらう」
 と云つたので七之助、
 「ともあれ打つて御覧あれ」
 と云ふ言葉より早く弓手〔ゆんで〕の肩先をしかと覺ゆる程に打つてしまつた、人々は大いに驚いて、
 「扨もお若衆は器用なる兵法でござる、なかなかの太刀筋、餘程功者と見え申した、誰か……」
 と人々があきれて居るところへ重齋が立ち上がつた。
 「左樣ござらば若衆打つて見たまへ」
 と云つて一尺八寸の木刀をもつて、一流の極秘を構へて待つて居るところに、この若衆立つより早く鳥の飛ぶが如くにつと寄つて、したゝかに打つたところ重齋は木刀を落されてしまつた、これを見て連座の人々仰天して唇を翻して居ると若人が云ふのに、
 「これは思ひもうけぬ事でござつた、怪我の功名でござりませう。如何樣、又明晩參つて御指南を蒙るでござらう」
 と云つて、ついと立ち中門の下へ寄ると見ると姿が消えて見えなくなつてしまつた。夜が明けてから人々が、
 「さては重齋の兵法に天狗が來てさまたげたことゝ見える、この後よくよく注意しなければならん」
 と云つて恐れおのゝいた。

 
    高橋の捕物(一)

 生駒雅樂頭が抱えて置いた相撲取りが卅人程あつた、その中に「うき雲」「ひらぎ」「かけはし」と云つて三人の者が最も勝れて居たが、この三人己れの勇力をたのんで亂暴狼籍をし甚だ評判が惡いので雅樂頭が安からぬ事に思つて、或時家老達をひそかに呼んで、
 「あの三人の力士共、けしからぬ者共である、生捕つて成敗をするがよい」
 家老達仰せを承つて答へて申す樣、
 「あの三人の者共を生捕りに致すといふ事はなかなか容易な事ではござりませぬ、しかしよく考へて見まするに、此頃若い者共が兵法の稽古に參ります師匠に、高橋作右衛門と申す者がございまして、なかなかの名人の由承りました、その者を頼みて仰付になつては如何かと存じまする」
 雅樂頭それを聞いて、
 「おゝ、その名前は方々で聞き及んで居る名だが、その者がこちらに來て我家中の者共も指南を受けて居るとは幸、おつつけ呼び寄せてくれ、近づきになつて置かう」と。
 そこで、高橋作右衛門(光範)に使者が立つと、高橋が、
 「それでは今日は私用がござりまする故明晝參りませう」
 そこで翌日、生駒殿へ參つて對面をしたが、成程器量骨柄いかめしく見事なる人物である、その日は終日御馳走して後ひそかに右の一議を頼まれた、さうすると高橋が、
 「それはいと易き事でござります、追つけ明日生捕つて御覧に入れませう」
 そこで翌日になると、高橋が參つて家老に向ひ、
 「今日は殿樣のお尋ねなさることがあると云つて、あの三人の者を一人づゝ中門の中へ呼入れて戴きませう、拙者中戸の蔭にあつてそれを一々生捕ることに致しませう」
 と云つたので、その通りに用意をし、尚要心の爲に腕に覺えの者を多數門内にしのばせて置いた、雅樂頭も見物するとて程よき處に出られたので、側付の侍達も伺候して容子いかにと待つてゐる。
 さる程に高橋は中門の蔭に革袴の裾を高く取つて、しかとはさみ一尺二寸の小脇差を只一腰差して用ありげな氣色で縁の端に腰を掛けて待つて居た。
 やがて三人の力士共がお召しによつてやつて來た、しめし合せた通り一人づゝ入つて來る樣にとの云ひ付に從つて、刀は小者に持たせ大脇差ばかりを差して中門を入つて來て、何氣なく高橋の前へ出て、
 「まかり出ました」
 とお禮を云ふ處を高橋がつと寄つて、うつぶきさまに取つて伏せ、右の膝で七のづをひつしと詰めて、やがて早繩をかけてしまつた、相手は大力とは云へどもちつとも働かせず、手早き事云ふばかりも無い、やがて引起して、
 「それそれ」
 と云つたので仲間共が寄つて來て、遙か隅の方にある松の樹の方に引き寄せて置いた、後の二人の者も右の樣にして手も無く生捕つて三人共に引据ゑてしまつた。
 雅樂頭これを見て、
 「扨々、思つたよりも早く無造作な事かな、大の男の逞ましくして、力飽まで旺んな者共を、引伏せ引伏せ取固めらる其功、言語の及ぶ所に非ず」
 と喜び限り無く、御前にあつた人達もこの首尾を見て、
 「光範に逢つては刀も器量も要にたゝん、よくあゝも美事に捕れるものかな」
 と唇を返して驚歎した。
 斯くしてこの褒賞として、赤鑓、呉服、銀子、並に三人の相撲共が差して居た金銀拵への兩腰迄賜つた。

 
    高橋の捕物(二)

 又或時、天王寺の邊に至剛の狼籍者主從二人取籠つて、
 「誰人でも腕に覺えのある奴は來て仕留めて功名にせよ」
 と云つて居たが、生駒殿の奉行で柳村源次兵衛、松本右衛門が百五十余の人數で、四方を圍み、夜晝三日が間種々にたばかり色々に智略をめぐらしたけれどもヘへて[敢へて?]用ひず、只斬り死にをして冥途の思ひ出にしようといつて寄せ手を待ちかねてゐる、この上は詮方なく、只家に火を放つて焼討にするより外はないと、各々あぐんで老中生駒殿へ申出たところが雅樂頭が、
 「大事の仕物を重ね重ねの事であるが、又高橋を頼んではどうぢや」
 と云はれたので、
 「さん候、光範はこの程少し咳の加減と云つて養生中であると承りましたが、それにしても人を遣して見せてみませう」
 と云つたところが生駒殿が、
 「人までもあるまい、その方行つてみるがよい」
 と云はれたので、柳村と松本がかしこまつて、やがて高橋へ行つて見ると、丁度作右衛門は病氣も少し良くなつて食事等も進んだ樣であつて、來訪の二人に酒等を出して挨拶をし、やがて使の趣きを申入れると、高橋が、
 「それがし咳病さへなければ行き向つて如何樣にもして見ませうけれども、未だ何となく頭が重く身の皮肉がしびれる樣で氣分が惡い、しかし、あゝ云ふ者に三日も四日もかゝつてゐると云ふ事は他國への外聞もあるし、こちらに人もない樣で面白くござらぬ、人が一人や二人籠つたからと云つて、焼討ちになさると云ふのも余り大げさで近所の迷惑も思ひやられます、ではそれがし、兎も角も參つてみませう」
 と云はれたので、
 「あゝ、さうして下さると雅樂頭殿も大いに喜ばれる事でござらう、我々も面目でござる」
 と云つて二人は歸つたが、高橋はやがて從者を二人つれて天王寺へ行き向つて見ると、柳村、松本等は青息をついてあぐねて居る有樣、高橋はそれに見舞の言葉をのべたりしてやがて、
 「では、それがしが先づ内へ入つてみませうによつて、四方の人數を一町ばかり退けてよく守つて居ていたゞきたい、總てこの邊に人の影一つも無い樣にして置いてもらいたい」
 「承知致した」
 そこで、どつと圍みの勢が退くと、高橋は兩刀共に人に持たせて自分は丸腰で、裏へ廻つて戸をたゝいたところが、内から、
 「何者だ」
 といふ、高橋が、
 「苦しからん者でござる、奉行所から使ひに參つた、先づ開け給へ」
 と心を靜かに、言葉もいとていねいに云ひ入れたところが、内から云ふには、
 「それは何の爲に來られたのだ、云ふ事があらばそれにて申され候へ、承らん」
 と云ふ、光範が又云ふ、
 「何の氣づかひもない使ひの者である、御覧候へ、丸腰で扇さへ差して居ないのだから用心迄もござるまい」
 と云ふ、内から差しのぞいて邊りを見まはすと、成程四方に人影も無く、この人たつた一人で誠に扇さへも差してはいないのに安心して戸を開けた、高橋はいかにも心靜かに入つて亭に腰をかけると、二人のもの次第によつては高橋を一討ちにと、心構へつゝ上にかしこまつて居て、
 「扨、何事のお使ひでござるか承らう」
 と云ひ出した、高橋が云ふのに、
 「實は昨日今日天王寺の修行僧房が、たつて訴訟を申し出でて申すには、當山八丁四方は殺生禁斷の地でござるによつてたとへ重罪の者たりとも他國より來る科人ならば僧房として、この地に於ては是非共申受けを致したい、この寺域以外の處ならば如何樣にもお計ひあつて宜しいが、當寺域内に於ては捕物の職お控えありたい、たゞし當所の人をあやまりたる者共でござるや否や實否を仔細に聞き届けてから萬事取計らはれたいとの事でござる故に、さらば仔細をつぶさに尋ね問ふ可しとあつて、それがしを遣はされたのでござるが、そもそも如何なる意趣で斯樣には立籠りなさるのだ、その由を早々語り給へ」
 と長々しく高橋が申述べたところから、中の剛者も成程と思つたのであらう、事の始め終りをつぶさに語り出した、それを聽き終つた高橋は、
 「その儀ならば別に仔細は無い、夕さりの暗にまぎれてどちらへでもお立ちのきなさい、後のところはそれがしが殿の御前へ善き樣にとりつくらうでござらう」
 と云つて立ち上ると、中の剛者が、
 「そう云ふわけならば兎も角も御身の計ひにまかせ樣」
 と少しくつろぎ顔になつて云ひ出したから高橋はうなづいて、さあらぬ體でそこを出てしまつた。
 扨、奉行所に歸つて高橋はこの首尾を委細に語つて、
 「夕さりひそかに二人が落ちて行くところを、主人の方は拙者が召捕るでござらう、從者の方はあなた方で取逃さない樣にしてくれ給へ」
 と約束して、その日の暮れるのを待つて、たそがれ時高橋はまた二人の籠つてゐる處ヘやつて來て、
 「いざ、時刻も宜しうござるによつて、これから何れへなりともお立ちのきなさい、但し主從二人で一緒に行かれては人目につき易い故に、離ればなれにお出になるが宜しい、それには御主人は後から心靜かにお出になるが宜し、拙者にも送れと仰せ有るならば、一丁でも二丁でもお送り申して宜しい」
 と隔てのない樣に云つた。
 「有難い仰せでござる、それはさうだが、行く先に待伏せしてゐる樣なものはござるまいか、それが少々心にかゝる」
 と云つたところ、
 「當山よりの詫び事種々あるによつての事であるが故に、氣遣ひは少しもござらぬ、若し又まかり間違つて待伏等が出て來たならば、此處に居ても斬り死に、そちらへ行つても斬り死に――と云ふ覺悟で思ひ切つて出掛けて御覧なさい」
 とうち笑つて云つたところが、
 「もつとももつとも」
 と受けて、油斷なく歩むで行つたところが、早世間も靜まり空も暗くなつて人の影も見えない樣になつて來たから、從者は先に東の方を指して落ちて行つた。主人はそれよりも遙か後に兩刀を帯びて西の方へと落ちて行つた。
 折ふし五月半の事であつたから、麥の刈つたのが積み重ねてあつた、そこへ來ると高橋は麥の影にかくれたかと思ふと又立ち現れ、後から強者を取つておさへて繩をかけてしまつた、そこで、
 「やゝ」
 と二聲叫んだところが松明〔たいまつ〕を立てゝ奉行衆が各々來て喜び勇んで引立てゝ行つた、從者も仔細なくからめ捕つてしまつた。高橋のこの機略、辨舌に感ぜぬ者とてはなかつた。

 
    源 爲 朝

 鎮西八郎爲朝の面目とその弓勢のことは保元物語に詳しく出てゐる。
 白河院夜討の時に、伊勢國住人故市伊藤武者景綱が伊藤五、伊藤六の兄弟を引きつれて、爲朝の矢面に馳せ向つたのを、爲朝が、三年竹の節近なのを少し押し磨いて、山鳥の尾を以てはぎたるに、七寸五分の丸根の箆中過ぎて箆代のあるのを打くはせ、しばし保つて兵と射た、眞先きに進んだ伊藤六が胸板かけず射通し、餘る矢が伊藤五の射向けの袖に裏返して立つた。六郎は矢塲に落ちて死んでしまつた、伊藤五はこの矢を折りかけて大將義朝の前に參り、
 「八郎御曹司の矢を御覧候へ、凡夫の所爲とも覺へ候はず、六郎は此の矢の爲に死にました」
 安藝の守清盛をはじめ、この矢を見る兵共が皆舌を振つて恐れた。
 清盛の郎黨に、伊勢國の住人、山田小三郎伊行といふ豪の者、聞こえたる猪武者であつたが、爲朝の一矢の爲に將軍が退き色になつたのを見て、
 「さればといつて、矢一筋に怖れて、陣を退くといふことがあるものか、縦へ筑紫の八郎殿の矢なりとも伊行が鎧は、よも通るまい、この鎧といふものは我家に五代傳へて戰に逢ふことも十五度である、自分の手にとつてからも度々多くの矢を受けたけれども、未だ裏をかいたといふ例がない、人々見給へ、八郎殿の矢をうけて後の物語りにして見せう」
 といつて、馳け出したところから、仲間のものが、
 「オコの功名立てはせぬもの、無uの業である、控へさつしやい、控へさつしやい」
 と制したけれども、本來きかぬ氣の男であり、遂に下人を一人ひき連れたまゝで黒革威の鎧に同じ毛の五枚甲を猪頸に着、十八差したる染窒フ矢を負ひ塗籠籐の弓を持ち、鹿毛なる馬に黒鞍を置いて乘り、門前に馬をかけ据え、次の如く名乘つた。
 「物その者にはあらね共、安藝守の郎等、伊勢國住人山田小三郎伊行、生年二十八、堀河院の御宇、嘉永[嘉承?]三年正月廿六日對馬守義親追討の時、故備前守殿の眞先懸て公家にも知られ奉りし山田庄司行末が孫也、山賊強盗を搦取る事は數を知らず合戰の場にも度々に及んで、高名仕たる者ぞかし、承り及ぶ八郎御曹司に一目見參が致したい」
 と申出でた、爲朝、これを聞いて、
 「これは、てつきり奴め、弓を引きまうけて云つてゐるのだ、然らば一の矢は射させてやり、二の矢をつがうところを射落してくれよう、同じ射落すならば、矢のたまる處の弓勢を敵に見せてやらう」
 と云つて、白蘆毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乘つてゐたのだが、馳け出でゝ、
 「鎮西八郎これにある」
 と名乘るところを、もとより山田は引きまうけてゐたことであるによつて、弦音高く切つて放つと、爲朝の弓手の草づりを縫ふやうにして射切つた、山田は一の矢を射損じて、二の矢をつがう處を爲朝が引いて兵と射ると、山田小三郎が鞍の前輪から鎧の草摺を尻輪へかけて矢先き三寸餘り射通してしまつた、暫くは矢にかせがれてたまるやうに見えたが、忽ちやがて弓手の方へ眞逆さまに落ちたので、矢尻は鞍に止まつて馬は河原へ馳け出した、下人がつと走り寄つて落ちたる主人を肩に引かけて味方の陣へ歸つて來たので、寄手の兵がこれを見て愈々この門へ向うものはなくなつた。
 さうしてゐるうちに、夜も漸く明けて行つた。主のない離れ馬が源氏の陣へ馳け込んだ、鎌田の次郎がこれを捕らせて見ると、鞍つぼに血が溜つて、前輪は破れて、尻輪に鑿〔のみ〕のやうな矢尻が止まつてゐる、これを大將の義朝に見せて、
 「今夜――(保元元年七月十一日)これは鎮西八郎殿が爲された弓矢と思ひまする、御弓勢のほど何と恐ろしいものではござりませぬか」と云つた。
 義朝は弟の八郎の弓勢をさほどゝも思はず、タカの知れた十七八歳の小冠者の仕業と鎌田をかけ向はせたが、たまり兼ねて敗退した、そこで義朝が軍勢を指揮して兄弟當面の白兵戰となつたが亂軍のうちに義朝は大きな男で、大きな馬に乘つて軍勢を指圖をしてゐた内兜がまことに射よげに見えたので願ふところの幸ひと、爲朝は件の大矢をうちつがひ、たゞ一矢に兄の義朝を射落さうと弓をあげたが、さて思ふやう、
 「弓矢とる身のはからひで、兄は内方(後白河)へまゐり、われは院方(崇徳)へまゐらう、汝負けなば、頼め助けん、我れ負けなば汝を頼まんなどと約束して父子が立ち分れたのかも知れない」
 と爲朝は思慮して番へたる矢を差し外して兄の義朝を撃つことは遠慮をした。
 かういふ次第で、爲朝の矢に當るものは助かるものとては一人もなかつたのであるが、徒らに罪つくりをするでもないと、名乘つて出るものゝ外は射ないことにして、首藤九郎といふ者を呼び寄せて云つた。
 「敵は大勢である、若し矢種が盡きて、打ちものとつての軍といふことになると、一騎が百騎に向うとも遂にはかなわないであらう、坂東武者の習ひで、大將軍の前では親死し、□□□る[脱字。子うたる]れども顧みず、彌が上に死に重なつて戰うなりと聞くさうなつては悲惨の至り、さりとて大將は我が兄である、射落すことは本意でない、たゞ、矢風だけを負はせて退かせるやうにして見たいがどうだ」
 首藤がそれを聞いて答へて云ふには、
 「それは結構な思召しでございます、然し、誤つて義朝公にお怪我をさせるやうなことがあつてはなりませぬ」
 と云ふ、
 「なに、さ樣な心配は無用だ、爲朝が手本は覺えの通り」
 と云つて、例の大矢をうち番へ、かためて兵と射る、思ふ矢つぼをあやまたず、下野守義朝の兜の星を射削つて餘る矢が寶荘嚴院の門の方立に箆中せめて突き立つた。その時義朝はたづなをかいぐり打ち向いて嘲つて云ふやうは、
 「汝の弓勢も聞き及ぶほどではない、甚だ荒つぽい未熟の手筋だ」
 といつた、爲朝それを聞いて、
 「兄君でござるが故に思うところあつてわざと今のやうに射たのである、御許しの上ならば二の矢をまゐらせよう、眞向内甲は恐れもござる故、障子の板か栴檀弦走〔せんだんつるばしり〕か胸板の眞中か、草摺ならば一の板とも二の板とも、矢坪を確かに承りて、その通りに致して見せ申さう」
 と云つて、既に矢をとつて番はれた處に、上野國の住人深巣七郎清國といふものが、つと駈け寄つたので、爲朝はこれを弓手に相請けて、はたと射た、清國が甲の三の板から直違ひに左の小耳の根へ、箆中ばかり射込まれたので、暫しもたまらず死んでしまつた。首藤九郎が落合つて深巣が首をとつた。
 これも事ともせず、我先にとかゝつた中に相模の國の住人大庭平太景能、同三郎景親が眞先きに進んで、鎌倉權五郎の先祖から名乘りあげてかゝつた、爲朝これを聞いて、
 「西國の者共には皆手並みのほどを見せたけれども、東國の兵には今日はじめての軍である、征矢は度々射たけれども今度は一つ鏑矢で」
 と思つて目九つ指したる鏑の、めはしらには角を立て、風返し厚くくらせて金卷〔やじりまき〕に朱をさした、普通の墓目ほどなのに手先六寸、しのぎを立てゝ、前一寸には、みねにも刄をつけた、鏑より上十五束あつたのを取つて番ひ、ぐさと引いて放されたところ、御所中に響いて長鳴りし、五六段ばかりにひかへたる大庭平太が左の膝を片手切に、ふつと射切り、馬の太腹かけずとほつたので、鏑は碎けて散つて了ひ、馬は屏風を倒す如く、がばと倒れ、主は前へあまされてしまつた、敵に首を取られじと弟の三郎が飛び下りて兄を肩にかけて四五町ばかり引き退いた。
 この合戰は院方が敗北となつて、爲朝の父爲義をはじめ院方に走せ參じたものは皆族滅の形となつたが、爲朝だけは末代にも得難き武勇だとあつて、伊豆へ流されることになつた、併し、このまゝ野放しにして置いては末が怖ろしいと肘〔かひな〕を拔いて伊豆の大島へ流すことになつたが、それから五十日ほど肩を療治をして後は、力こそ少く弱くなつたけれども、矢束を引くことは二伏〔ふたつぶせ〕ほど増したといふから、さし引き昔に劣ることは無くなつたのである、さうして大島へ流されてゐるうちに大島を管領するのみならず、五島を打ち從へてしまつて年貢を納めない處から、領主の狩野介茂光が京都へ訴へ、軍勢を狩り催して押し寄せ、嘉應二年四月下旬に、一陣の舟に兵三百餘人射向の袖をさしかざし、舟を乘り傾けて三町ばかり渚近く押し寄せた、爲朝がこれを見て、矢比は少し遠いけれども、犬鏑を取つて番ひ、小肘の廻るほど引きつめて兵と放つ、渚五寸ばかり置いて大舟の腹を彼方へつと射通したところ兩方の矢目から水が入つて舟は水底へ卷き入つてしまつた、水心ある兵は楯掻楯〔たてかいさて〕に乘つて漂ふところを、櫓擢、弓のはずに取りついて他の舟へ乘り移つて助かつた、爲朝これを見て、
 「保元の昔は矢一筋で二人の武者を射殺した、嘉應の今は一矢に一船を覆へし多くの兵を殺し畢んぬ、南無阿彌陀佛」
 を唱へて腹を掻き切つて失せたといふことである。

 
    むつるの兵衛と上六太夫

 後白河院が鳥忠@におゐでになつた時分、みさごが毎日出て來て、池の魚をとるものだから、或時これを射させようと思召して、武者所に誰かあるとお尋ねあつた處が、折ふし「むつるの兵衛尉」があつたので、お召しに從つて參つた。
 そこで、この池にみさごがついて、多くの魚をとつて困る、射止めるがよろしい、但し、みさごを射殺してしまふのも無惨である、鳥も殺さず魚も殺さぬやうに計らひを致して見よとの仰せであつた。否み申すべき餘地もなくて、かりまたの矢を取つて罷り立つて待つてゐたところ、案の如くみさごがやつて來て、鯉をとつてあがるところを、よく引いて射たところが、みさごは射られながら尚飛んで行つた、鯉は池に落ちて腹白く浮いてゐる、そこで取りあげて叡覧に供するとみさごが鯉をつかんだ足を射切つたのである、そこで鳥は足を射切られただけでは死なないで飛んで行き、魚はみさごに爪を立てられながらも落ちて死ななかつたので、御感の餘り禄を賜つたといふことである。

 このむつるの兵衛尉が又ある時、懸矢をはがうとして、とう(鳥名)[鴇(とき)の別名]の窒ヘ無いかと探して見たが、どこにもなかつた、其の時、上六太夫といふ弓の上手がそれを聞いて、
 「とうならば、今この邊に降りて餌をあさつてゐたやうです」
 といつたので、家來たちが立ち出でゝ見ると、なる程川より北の田にとうが降りて餌を食べてゐる。
 その報告を聞くと、上六太夫は弓矢をとつて出かけた、むつるの兵衛主從もその樣子を見に出かけた、さうすると上六は弓に矢を番へたけれども、直ぐには射ないで、
 「あの、鳥のうちで、どれがこがれてゐる」
 とたづねた。
 しまひに飛んでゐるのがこがれてゐる、といふのを聞いたが、なほ急がず弓を控へてゐたが、とうが遙かに遠くなつて、川の南の岸の上を飛ぶほどになつた時、はじめてよく引いて切つて放すに、あやまたず目指す鳥を射落した。
 さすがの、むつるの兵衛も感心の餘り、なほ不審を問ひ質していふことには、
 「どうして、近いうちに射ないで、遙か遠くなつてから射たのだ」
 と尋ねると、上六太夫が答へて、
 「そのことでござる、近いのを射落してしまつた時は、川へ落ちてその窒ェぬれてしまうでせう、それでは矢を作るお間に合はない、向うの地に着いてから射落しました故にこの通り窒ヘ傷まない」
 と答へたので、皆その用心の由々しいことに感心した。

 
    精  兵

 よく射るものを精兵〔せいびやう〕と昔から云ひ習はしてゐた。精兵の資格としては、まづ三間中を置いて疊を一疊横に立てゝ、それから又一間づゝ間を置いて二疊立てゝそれを射させて、かけず、たまらず射拔くだけのものを稱して普通精兵の資格としたものであるといふ。



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