續日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
第  四
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 源 頼 光   源頼信と頼義   八幡太郎   蕪坂源太   日本の弓矢 


 
    源 頼 光

 三條院がまだ春宮〔トウグウ〕に在しました頃、御所の檐に狐が出て丸くなつて眠つてゐた。それを殿上人が見つけて丁度その時、頼光朝臣は春宮付であつたが、殿上人たちが、あの人は多田の満仲の子で世に聞えたる弓取である、あの者にひとつあの狐を射させて見たいものだと頻りに噂をするのを春宮が聽こしめして、御弓とひきめとを取寄せつ、頼光に向ひ、
 「あの辰巳の檐にある狐を射よ」と仰せられた。
 頼光がお返事を申上げるよう、
 「仰せを背く次第ではござりませぬが、他の人ならば射損じても恥ではござりませねど、私が射損じでも致しました日には限り無き恥でござります、もし射當てましたところで、當然のことでござりまする、若い時は隨分、鹿などを射たこともござりまするが、近頃ではトンと左樣なことを仕りませぬ、由てこの頃では矢の落つる見當もつきませぬ」
 と云つて辭退したがお許しが無かつたので、是非なく御弓を取つてひきめをつがへてまた申すには、
 「力がありますれば、これでも宜しうございますが、あの通り遠いものはひきめは重くございます、征矢〔そや〕が宜しうございます、ひきめでは下へ落つるかも知れません、弓箭の道では下へ落つるのは射損じるよりも、おこがましいことでござりまする、これはどのやうに致したら宜しい事でござらうか」
 と紐差しながら表の衣の裾をまくり、弓頭を少し臥せて、その箭で力のある限り引きからめて放つた。暗がりで矢の行方もよくわからないと思つてゐる内に、狐の胸に射當てゝ狐は頭を立て池の中へ轉がり落ちてしまつた。
 力の弱い弓に重いひきめを以つて射たことである故に、如何なる名人と雖も、射つけないで矢は途中に落つべき筈であるのに、見事にこの狐を射落してしまつたので、宮を初め殿上人がいづれも感歎した、水に落入つて死んだ狐を取り捨てゝ後、宮は御感の餘り主馬の御馬を召して頼光に賜つた。頼光は庭に下りて御馬を賜つて拜してまかり下る時に申すやう、
 「これは頼光が仕りたる箭ではござりませぬ、先祖が頼光の矢を恥しめまいと思つて、守護~の助けて射させ給へる矢でござります」
 その後頼光は、親しき兄弟などに會つても「あの矢は頼光が射た矢では無い、武家の名譽の爲に先祖の守護~が出でゝ助けて呉れた矢である」と云つて、更に己の功に居らなかつたので、聞く人が皆感心したといふことである。

 
    源頼信と頼義

 源頼信〔よりのぶ〕が東國から良い馬を貰ひ受けて上京させたが、途中馬盗人がこの馬を見て非常に欲しがつて、
 「よしよしこの馬をきつと盗んで見せる、よし今盗めなければどこまでもついて行つて必ず盗んで見せる」
 と、ひそかに馬をねらつて上つたが、それを護る者共に一寸のすきもなかつたので、盗人もたうとう京都までついて來てしまつた。
 所が、ある夜雨が降つたのに乘じて馬盗人が、旨々とこの馬を盗み得て逃げて行つた。やがて厩で番人たちが氣がついて「それ、馬盗人が」と云つた。
 頼信はその物音をほのかに聞いて、子息の頼義が寝入つて居るのに、この事を何とも告げないで、起きて着物を着て、壼を折つて胡箙〔やなぐひ〕を掻き負つて厩に走り行き、手づから馬を引き出して、あり合はした粗末な鞍を置いてそれに乘つて唯一人關山の方へ追ひかけて行つた。頼信が心の中に思ふには「この馬盗人は、東國の方からわざわざついて來たものに相違無い、それが道中ではスキが無かつた爲に盗むことが出來ない、京都へ着いて初めてこの雨の夜にまぎれて盗み去つたものに相違ない」
 所がその時分寝入つたと思つて居た子息の頼義もその音を聞いて立ち上がつた、その時はまだ装束も解かずに丸寝であつたものだから、起きると共に父のやうに胡箙をかき負つて厩なる馬に飛び乘り、關山の方へ唯一人で追ひかけて行つた、その心は父の頼信の馬盗人を目指すと同じ推量であつた、行く行く頼信は、吾子は必ずつゞいて來るに相違ないと思ひ、頼義はまた、父は必ず先發して居るに相違ない、それに後れてはならぬと走せながら行つた、ところが河原を過ぎると雨も止み空も霽れたので、愈々走せて追ひ行く程に關山に行きかゝつた。
 さて、馬盗人は盗んだ馬に乘つて、關山まで落ちて來たが、もうこゝまで逃げて來れば大丈夫と思つて、關山の端で水のあるところをあまり走せないで、水の中をツフツフと歩かせて行つたところが、頼信がその物音を聞き留めて、雨は霽れたとは云ふが四邊は眞闇である、それに子息の頼義が追かけて來て居るか來ないか分るまいと思はれるのに、言葉をかけて云つた。
 「あれを射よ」
 と云ふ言葉のまだ終らざるに、弓音がして手應へがあつたと思ふと共に、馬の走り出す音を聞いた、しかも、その馬の鐙が力ラカラと鳴つて走り出した音が聞える、そこで頼信がまた言ふ、
 「盗人はも早射落した、速かに走せ寄つて馬を取つて來るがよい」
 とばかり云ひかけて、その儘後をも見ないで京へ歸つて了つた。
その後で頼義は、現場へ駈けて行つて馬を取り戻して歸つて來た。父子共に入~の名人と云ひつべきである。

 
    八幡太郎

 頼義の子息が即ち八幡太郎義家であるから武勇の筋が思ひやられる。
 後冷泉院の時、義家は鎮守府將軍たる父の頼義に從つて貞任宗任を攻めたが、戰大いに破れて死者無數、將卒四方に散つて餘すところ僅かに六騎になつてしまつた事がある、貞任が軍これを見て攻め寄せ矢を飛ばすこと雨のやうであつた、それを義家が防ぎ戰う有樣~の如く、未だ弱年の身をもつて大いなる箭を射た、その前に當つたもの、倒れ伏さずと云ふ者無く、それが爲に父子主從が無事なることを得た。
 古記に、
義家沈勇絶倫、騎射~の如し、白刄を冒し、重圍を突いて賊の左右に出で、大鏃箭を以て頻りに賊帥を射る、矢空發せず、中る所必ず斃る、雷奔風飛、~武命世、夷人靡き走り、敢て當る者無し、
 とある。

      

 奥州征伐の時、義家の弓勢が甚だはげしくて、射る毎に鎧武者が皆弦に應じて死んだ。清原の武則がこのことを見て舌を卷いてゐたが、後日義家に向つて云ふことには、
 「今日は一つ失禮乍ら貴方樣の弓勢をためして見たいと思ひますが、如何です」
 義家答へて曰く、
 「宜しい」
 そこで武則が、最も堅い鎧をすぐつて三領、それを樹の枝にかけた。
 義家が一發の箭でその三領を貫いてしまつた。武則がこれを見て大いに驚いて、
 「これは~樣の仕業だ、凡人の爲し得るところでは無い」
 八幡太郎が武士から歸服されてゐたのは、斯う云ふ武術の~技によることが少なくはなかつた。

      

 源義家が奥州征伐の後、降惨した安倍の宗任を一人召連れて出掛けたことがある。主從共に狩装束でウツボを背負つてゐた。廣い野原を通る時に、狐が一匹走せ通つた。それを見るや義家はウツボからかりまたを拔いて、狐を追ひかけたが、
 「射殺すまでのこともあるまい」と、わざと左右の耳の間を擦るやうに射つけたところが、箭は狐の前の土に立つた。狐はその箭にふせがれただけで、やがて死んでしまつた。從者の宗任が馬から下りて狐を引き上げて見て、
 「箭も立たないのに死んでしまつた」
 と云つたところ、義家が、
 「臆病で死んだのだ、殺すまいとして當てないやうに射たのだから、やがて生き返るだらう、その時放してやるがよい」と云つた。

 
    蕪坂源太

 後白河天皇の頃、吉野の奥に、蕪坂源太と云ふ者があつた。生れは紀伊の國熊野山蕪坂といふ處の者であつたさうだが狩を職業としてゐた、二町の間を隔てゝ走る鹿を外さなかつたといふ事である、ある時、里人が集つてその弓勢の程をためして見たところが、差矢三町、遠矢は八町をたやすく射渡したところから、差矢三町遠矢八町といふあだ名を付けられた。
 保元の亂の時に、興福寺の僧徒等に催されて新院の方へ馳せ參つたが、新院のお戰が破れたと聞いて、僧徒等は南都へ引返した、源太は組の者六七人を連れて都の内を此處彼處と見物して歩いたが、三十三間堂に來ると「斯ういふ處でひとつ自分の弓勢をためして見たいものだ」と御堂の後ろに廻つて、芝の上に跪いて、先づ例の差矢を射て見ると、御堂を二倍餘りに射渡した、次に、御堂の縁の上に登り、小さい鳴根をすげたる矢を取出して、軒端の下を射渡したところ、七筋迄あやまたず御堂のうちを射透して、餘る矢は尚ほ御堂の丈程先へ射拔いてゐた、この三十三間堂即ち得長壽院は、普通の二間を一間とし、堂の長さが縁の小口から小口まで六十四間一尺八寸六分あるといふことである。

 
    日本の弓矢

 昔、壱岐守宗行の家來の者が何か過ちを仕出かして、主人から殺されようとしたので、小舟に乘つて逃げて新羅の國へ渡つて匿れて居た、ところが新羅のキンカイと云ふところで何か人が罵しり騒いで居る。
 「何事であるか」
 と尋ねると、新羅人が答へて、
 「虎が出て來て、村里へ這入つて人を喰ふのだ」
 「虎は幾疋出て來たのか」
 「たゞ一疋だけだが、不意に出て來ては人を喰つて又逃げて行き逃げて行きする」
 「そんならば、その虎に會つて一矢射て見たいものだ」
 「滅相もない、喰はれてしまひます」
 「喰はれても宜しい、一矢射て見たい、射損なへば死ぬまでの事、まかり間違つたところで、虎を殺してこちらが死ぬ、どの道たゞでは喰はれない、この國の人はどうも武藝の道に暗いやうだ」
 と云つたのを國守に言ひつけたものがあつた。そこで國守がこの日本人を呼びまねいて、
 「では虎に向つてみろ」
 と云つた。
 そこで右の日本人は、虎の居所を聞いて行つて見ると、廣々した畑で四尺ばかりの麻が生えてゐる。その中を分けて行つて見ると、果して虎が伏して居た。そこでとがり矢をつがへて、片膝を立てゝ居ると、虎が人のにほひをかいで、平身になつて猫が鼠を覘うやうな形で迫つて來るのを矢をつがへた日本人は音もしないでその儘で待つてゐる。虎が大口を開いてこの日本人の上からのしかゝるやうに飛びつくところを矢を強くひいて放したところ、虎の顎の下から首へ七八寸ばかり矢を射拔いてしまつた。そこで虎が逆さに伏し倒れて、あがくのをかりまたをつがへて二度まで腹を射て、二度ながら土に射つけて殺して置いた。
 さうして、その矢を拔かないで國府に歸つて國守にその旨を告げると、國守が驚き感じて、多くの從者を召し連れて虎のところまで來て見ると、成程三本乍ら虎は矢を射通されて無殘に倒れ死んで居る。それを見て國守が恐れて云ふことには、
 「まことに百疋千疋の虎がおこつてかゝつて來たとても、日本の人が十人ばかり馬で押し向つて、矢を向けたならば虎はどうすることも出來まい、我新羅の國では、一尺ばかりの矢に錐のやうな鏃をすげて、それに毒を塗つて射るのだから毒が廻ると虎は死ぬけれど、かういふ風にその場所へ射伏せてしまうことなんぞは出來る筈がない、日本人は己れの命を惜まず、危機一髪のところまで行つて、大きな矢でこの通りその場で射殺してしまふのだ。兵の道では日本の人には眞實かなはない、恐ろしい國だ」
 と云つたとのことである。
 この話は宇治拾遺物語にあるが、事實の考證如何はさて措き、より日本武術の要領を捉へてゐる。



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