續日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
第  参
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 武田信玄の武術裁判   上杉鷹山と吉田一無   柳生父子 
 武装と甲冑   針の妙術   馬上の槍   日本のテル 
 安藤治右衛門   井上傳兵衛   渡邊兵庫 


 
    武田信玄の武術裁判

 武田信玄が我國第一の武將であつて、この人が長命をしていれば信長も家康も頭が出せなかつたことは明らかであるが、武術に就ても造詣が深く、その麾下の武將は武將として現はれていたけれども、單に武術家としても錚々たる一流の人であつた、上泉伊勢守の如きも信玄の配下であつたのである。
 信玄の武將飫富兵部少輔の組下に志村金助と云つて、なかなか勇武の聞え高い家來があつた。その同僚に六笠與一郎といふものがあつて非常に仲よく交つてゐた、處が、この志村の仲間〔こもの〕に團藤太といふものがあつて、これが六笠の二番目の娘に思ひをかけて言ひ寄つたけれども女が從はなかつた、そこで團藤太は刀を閃かして脅かしたことなどあるのを何者か志村に告げたので、金助は大いに怒つて直ちに團藤太を呼びつけて嚴しく叱りつけたけれども此奴はなかなか無法者で却つてふざけた返辭をしたりなどするものだから、志村はこらへかねて手打ちにしようと引据へた處、此奴はなかなか大力なものだから振り放して逃げ出さうとするのを、志村が拔き放つて斬りつけると團藤太も拔き合せながら引外して逃げ出してしまつた。志村は大いに焦立つて後を追ひかけたが、逃げ足が早くてなかなか追ひつけない、工小路〔たくみこうぢ〕といふ町を曲らうとする時に丁度向ふから來合せたのは志村の友人の六笠與一郎であつた、金助が後ろから言葉をかけて、そいつ逃すまいといつたので、六笠もこれは手討ちにすべき奴だと心得て團藤太を追ひ詰めて二刀斬りつけた、團藤太が弱つてハタと轉んだ處を六笠が駈け寄らうとすると、團藤太は起き上りざまに持つたる脇差で六笠がもろ膝をなぎにかゝる、六笠が驚いて退くと團藤太はすかさず脇差を投げつけたので、六笠の左の太股へ三寸ばかり突立つた、そのうちに志村金助が追ひついて團藤太を斬り倒して一刀に首を打ちとつた、しかし、友人の六笠與一郎に、斯うして負傷させたのを氣の毒に思ひ取り敢へず自分の家へ連れ歸つて養生をさせたが、五十日餘りで治つた。
 處が此の六笠與一郎といふ男は虚榮家と見えて、その後諸方へ行つて云ひ觸らす事には、
 「志村の仲間の團藤太といふ奴はどうしてなかなか大剛のもので金助も持て餘して打ち漏さうとした奴を拙者が受取つて斬り倒し、志村に首を取らせたのだ、これ御覧ぜよ、この創はその時の創あとだ」と見せびらかして歩いた。
 金助はその事を聞いて、以つての外の言ひ分だ、斯ういふ心ざまの曲〔ねぢ〕けた奴と知らずに今まで交際してゐたのは不覺だ、だが私の怨みをもつて彼を討ち果すのも不忠になると考へてその事情をすつかり記して組頭の飫富兵部卿少輔へ訴へ出た處が、なかなかむづかしくて飫富の決斷にも及びかねたので遂に信玄のお聞きに達すといふことにまでなつてしまつた。
 そこで、信玄は直ちに志村と六笠の兩人を呼んで訊問を開始した。まづ、
 「右の仲間を討ち止めた場所は何處だ」
 と尋ねたところ、兩人は、
 「工小路にて候」
 と申上げる。そこで信玄が、
 「では、その町内の者を殘らずこの白洲へ召し出せ」
 と云はれた。そこで直ちに工小路町内の者が全部洲白[白洲の誤植]へ召集されたのを見て、信玄が、
 「その方共の中に志村の仲間、團藤太が討たれた實際を見たものがあるだらう、その者は見た通りを正直に申し出ろ、聊かでも嘘、いつはりを申すと罪に行うぞ」
 斯ういふことを申渡されたので、召し寄せられた工小路の町人五十餘人が謹んで申上るには、
 「志村殿が、十四五間後から追て來られた時に、六笠殿が仲間に行き向つて、何事かと不審がられつゝ行き違ひになつて五間ばかり距つた時、志村殿がそいつ逃がさじと聲をかけられましたので、六笠殿がそれを聞いて刀を拔いて取つて返し追ひつめられた時に、かの仲間はもう息をつぎかねたやうな有樣で六笠殿に追ひつけられ二刀でうつぶしに突伏してしまつたのを、六笠殿が駈け寄らうとなされた、その時彼の仲間が起き上りざまに脇差を投げつけました、其間に志村殿が追ひついて首をお斬りになりました」
 と一同は申上げたので、信玄がうちうなづき、
 「では、その仲間が脇差を投げつけた時、六笠はどういふ仕方をしたぞ」
 と、訊ねられたので、町人が承つて、
 「かの仲間が六笠殿の足をなごうと致しました時に六笠殿は二三間しさられました」
 と申上ると、又信玄が訊ねて、
 「そのしさつたといふのは、後ろへしさつたのか、又うしろを見せて退いたのか」
 と訊ねられた處が、町人共が、
 「それは、仲間をあとにしてお逃げになつたのです、そこへ仲間が脇差を投げつけました、その創で六笠殿も轉ばれて暫くは物をも言へないでおいでゞした」
 と、五十人の者が口を揃へて證言したので、信玄が宣告を下していふ。
 「六笠與一郎事卑怯第一のものである、何の役にも立つべきものではない、追つて申付けるまで控へて居れ」
 と、そこでこの裁判は終つたが、終つた後信玄が評定衆へ申されるには、
 「我が父信虎公の代に、白畑助之丞といふ大剛の勇士があつて父の覺えも深いものであつたが、その家の僕を折檻するといつて、今金助がしたやうに後から追ひかけた處が、その僕はなかなか武術鍛錬のもので、追ひかけて來る助之丞が自分に寄つて刀を振り上げる時分を考へ、こちらは刀を拔きながら振り返りざまに膝をついて、片手討ちになぎ拂つた爲に白畑が兩腕を添へて頭もろ共に只一刀で落ちてしまつた。原美濃はまだ若盛りの頃であつたから、その時一番に折り合わせて長身の槍をもつて彼の下僕を突き轉ばした處が、彼の者は轉びながら槍をたぐつて來て、原美濃が腕を少しづゝではあつたけれども二ケ所斬りつけた、美濃の事だからそれを事ともせず突きつけて動かぬやうにしてゐたのを、多田淡路が立ち廻つて、まづ兩腕を斬り、その後止めを刺した。そのものの身上をたゞして見ると深島の松本備前守が下戚腹〔げじやうばら〕の孫であつたさうだ、さしも大剛の名をとつた白畑助之丞であつたけれども侮り過ぎて自分の下僕に斬り殺されたことは惜しいことだ、その時余は十三歳であつたが、幼な心にも餘りに惜しく思つて白畑に弔ひを致して遣はした。さ樣な次第であるから、他では兎も角も信玄が家では逃げて行くものに追ひつかぬからといつて卑怯とは申さぬのだ、誰にしても些かなことで命をあやうくし、我が用に立つてくれぬやうになつては殘念だ、如何なる場合にも科〔とが〕人を追つて行く時には見失はぬやうに十間も後から行くがよろしい、若し追ひつく場合にはその科人と並ぶやうに追ひつくがよろしい、將棋倒しのやうに追つてはならぬ、危ないことだ、さてこの度の六笠與一郎は武士の道に外れ、信玄が家には入用の無い者だ、さりとて斯ういふ奴は他國へ追つ拂へば自分をよいやうに云ひ拵へて我が國の恥になるやうなことを、いつはり觸れ歩くものである、許して置く時は良き侍を惡しざまに云ひ、惡い侍を賞めたりなどして士氣を亂し軍法を亂るものである」
 といつて、時日を移さず成敗を行はれた、そこで、奸才の輩も我が身を顧みて言語を慎しむようになつた。
 これによつて見ても武田信玄が、名政治家であり、武術に於ても優れた見識を備へてゐたことがよくわかる。

 
    上杉鷹山と吉田一無

 上杉鷹山公の臣に吉田一無といふ劍術の士があつた、一刀流の奥を極めてゐた、或時米澤の城外で江戸相撲の屏風島といふのに出逢つた、この相撲は東北興行中に何か仕出かして破門され、この邊に流浪してゐたのであつた、一無はその素晴らしい體格を見て「斯ういふ者に武藝を授けて置けば他日國の爲に何かの役に立つだらう」と云つたが、この相撲は心實のよくないものと見えて、共に歩いてゐるうちに出し拔けに一無に向つて金錢をねだり始めた、そのねだり方が無禮千萬な恐喝的であつたので一無は、勃然として怒つて立處に之を斬らうとしたが、「待て々々心氣の定まらぬうちに事を爲せば必ず過ちがあるものだ」と氣を靜めてゐるうちに、丁度其日は雪が降つてゐて自分は簑、笠で歩いて來たのだが、その簑へ降る雪がさらさらと當る音を聞いたので、もうよい! と思つてゐるうちにやがて廓内に近づいて蘆漬橋といふ橋の半ば頃まで來ると相手が弱氣と見て圖に乘つた相撲が又も再三強迫して金錢の押借をはじめ、果てはうしろから廻して一無の懐へ手を差入れたので、一無は身を開いて刀を拔いて横に拂つた、そこで當然この相撲は兩斷されてゐなければならないのに、寂として手ごたへが無い、相撲はそのまゝ橋の上に突立つてゐるだけである。一無は自分ながら此の事を不思議がつて、試みに刀の柄でもつて立つてゐる相撲の身體を押して見ると、忽ち大の身體が二つになつて倒れ落ちてしまつた。一無はこゝに於て自分の業が豫想外に練達の域に至つてゐることを知り、屍を川の中へ蹴落して歸つて來た。
 一無は性質朴直忠誠にして古人の風があつた、鷹山は深くこの劍士を愛して屡々夜話に呼んで武道のことを語り明かされた、或時、屏風島を斬つたことを尋ねられた處、一無は聲を壯にし、體を怒らして物語る樣一座の者を驚かしたが、口角泡を飛ばして公の袴にまで及んだといふことであるが、この人は天明二年正月二十九日に七十九歳で亡くなつたが、晩年に至るほど術が精妙を極め、入~の域に至つたといふことである。
 鷹山公はまた、その家中の一人の有志が脱獄者を見かけて捕へようとし、相手に斬られて重傷を負ひながら終にそれを捕へてしまつた、その功を賞してゐたが、書役の復命書のうちに、斬られながら屈せずして組み止めた、と書いてあるのを見て、之は勇士に對する言葉ではない、斬られながらと書かないで、斬らせながらと書かなくてはいけないと云はれたことがある、文事あるものは武備がある、徳川時代中、有數の治世の名君といはれた鷹山公は武術に對しても亦明眼の人であつた。

 
    柳生父子

 柳生但馬守が將軍家光の前で、御馬方諏訪部文九郎が「馬上ならば」といつたのを、但馬守が馬の面を一打ち打つて其の驚くところを文九郎を打ち据えて御感に與つたといふことは前にも記したが、その時の事であつた、子息の飛騨守もお伴で將軍の面前で試合をしたが、飛騨守は一度も勝つことが出來なかつた、そこで飛騨守はテレ隠しかどうか知らないが、
 「寸の延びた太刀ならば」
 といつた。今迄は手に入らない刀を持つてゐたからだ、もう少し長ければ負けはしないといふ意味であつた。それを聞くと父の但馬守が、
 「然らば、大太刀にて試合仕れ」
 と云つた。そこで、飛騨守が寸延びの大太刀を持つて父に立ち向ふことになつた、さうすると但馬守が、
 「倅、推參なり」
 と云ひながら、只一打ちに打ち据えて了つたので、飛騨守は暫く氣絶をした。
 斯うまで手嚴しくしなくともよかつた筈なのだが、寸の延びた太刀ならば勝てるといふやうなことを云ふのは柳生家に生れたものゝ本意ではない、そこで強く打つたので、假令如何なる場合でも試合をなすものは父子兄弟たりともその覺悟がなければならないのである。

 
    武装と甲冑

 昔の武士は劍術よりは居合、拔き打ちを專ら習つた。それは鎧兜を着ては寸の延びた刀は拔き兼ねるものであるから、特に念を入れたのである。加藤清正が宇土を攻めた時に、南條玄宅といふものが、三角角左衛門といふ相手と槍を合せ、角左衛門は前へ拔け、玄宅は後ろへ拔けたが、角左衛門の若黨が後ろにあつて、玄宅が拔けて來たところを得たりと額を斬つた。そこで玄宅は眼が眩んでくるくると廻つたが、廻りながら刀を拔いてかの若黨を拔き打ちに胴斬りにしてしまつたとのことである。その時、居合拔き打ちがやれなければ自分の身はたまらなかつたのである。

 
    針の妙術

 上遠野伊豆といふ人があつた。奥州の人で禄八百石、明和安永の頃勤めたさうであるが、武藝に達した上に、わけて獨流の手裏劍を工夫してその妙を極めてゐた。その方法は針を一本[二本?]中指の兩側に挾んで、投げ出すのだが、その思ふところへ當てないといふことはない、どういふわけでこの針打ちの工夫を始めたかといふに、敵に會つた時、兩眼を潰してかゝれば、如何なる大敵と雖も恐るゝに足らずと思ひついた處から始つたとの事である。
 平常、針を兩方の鬢に四本づゝ八本隠して差して置いたとのことである、これは、「奥州波奈志」といふ本にあるのだから、あちらの藩に仕へてゐたのだらう、或時國主のお好みで針を打たせられたが、お杉戸の繪に櫻の木の下に駒の立つてゐるのがあつたのを見て、國主が、
 「あの駒の四つの肢の爪を打て」
 と云はれたところ、それに從つて二度打つたが、二度まで少しも外れなかつた。芝の御殿が焼けてしまふ前まで、その跡が確かにあつたさうである、この手裏劍はこの人一代限りで習ふ人は無かつた、習ひたいといふ者はあつてもヘへることが出來ないと斷わつて、
 「元來、この針は人にヘへられたことではないから、何と傳ふべき由もない、たゞ、根氣よく二本の針を手につけて打つてゐる間に、自ら自得したまでゞある」
 と云つた。

 
    馬上の槍

 酒井家の家臣に、草野文左衛門といふ老功な武士があつた人々が常に戰場の樣子や馬上で槍を入れる實地などを見せて貰ひたいといふことを所望したが、文左衛門はいつも、それは無用の事だといつて斷つてしまつたが、或時今日はたつてといふ覺悟で頻りに所望されたものだから、文左衛門も斷りかねて、
 「それほど御所望ならばお見せ申そう」
 といつて、甲冑を着け、馬に乘り、槍を左右へ打ち振り打ち振りその勢目醒しきばかりで、槍を打ち振る度毎に馬の脚がたぢたぢとした。
 さて、その事が終つて、見物の人が皆感嘆賞美したが、その中の一人がいふことには、
 「御勇氣の有樣申すに及ばず、その上馬術に於ても御名譽の事で、槍を振る度毎にさしもの馬の脚がたじたじとした有樣は天晴れ見事と拜見致しました」
 と賞められた、それを聞くと文左衛門が云ふよう、
 「さればこそ斯ういふことをしてお見せ申すのが無用のことだとは申したのだ、拙者が昔若い時は馬の脚がたじろぐやうなことは決してなかつたのである、年が老ひ力も衰へたればこそ槍一本を自由にすることも出來ないので、そこで馬に骨を折らせるのである、今のやうな有樣では人も馬も疲れて、却々働くことは出來ないものだ、それを賞められることはなさけない次第だ、すべて、今時の人に向つて武勇談といふものは皆斯ういふわけのもので、一つも用に立つことはない、心得方が違つてゐる以上は何を申したりとて耳には入らぬものである」
 といつて大いに歎いた。

 
    日本のテル

 阿部家の家臣に某といふものがあつた。日頃弓術に熱心で、精を出してゐたが、どうも「早氣」といふ癖が起つて、矢を閊へて的に向ふと、肩まで至らないふちに放してしまふ。卷藁に向ふと耳を過ぎないうちに放してしまう。自分ながらどうしてもその癖がやめられない、師匠も終に愛想を盡かして、
 「貴君の御熱心は結構だが、弓の稽古は思ひ切つてもうお止めなさい」
 とまで云はれてしまつた。某はそれでも斷念せずしてどうかして、我ながらこの「早氣」の癖を矯め直したいものだ、自分のこぶしながら、口惜しいことだ、そこでその家に傳つてゐる、主人から賜つた古畫の屏風へ主人の紋付の衣服を掛けて置いて、これならば勿體なくて輕々しく矢は放せないだらう、これに向つて輕々しく拳を動かすやうでは人間の道ではないのだ。 と觀念して、屏風に向つて弓を引いて見たが、それでも「早氣」の癖がこらへられず放してしまつた。
 我ながら、これではとても弓を取ることが出來ない、我ながら何といふ意氣地無しであらうか、自分で自分のこぶしを抑へることが出來ない、殘念無念と自分で自分を恨み拔いた結果、遂に自分の最愛の子供を向ふへ置いて、それに向つて弓を引いて見ることにした、こんど、こらへずに切つて放せば、我が子の命を取ることになる、これでも癖が止まらないならば、我も腹を切つて死んでしまはう。
 と思ひ定めて、我が子に弓を差し向けて引きしぼつたが、一心の致すところか、恩愛の情か、この時ばかりはいつもの「早氣」が失せて、拳を放すのを堪えることが出來た、それから絶えず修行してゐるうちに右の癖も止んでしまつたといふことである。
 ウイリヤムテルの物語りにも似た悲壯な逸話である。耳袋といふ書物の中にある。

 
    安藤治右衛門

 大阪夏の陣の時、徳川秀忠が城方の七組の兵に圍まれて甚だ危かつた。
 これより先秀忠の父家康は、この危險を慮つて安藤治右衛門といふものを謀つて使番として命令を秀忠に傳へしめた。
 「今、物見をしたものゝ申す處によると、城の中から六七千の兵が出て來る氣色がある、その大軍が出ない先きに早くこちらの戰陣を進めて敵の鋒をくぢくがよい」
 秀忠それを聞いて云ふのに、
 「治右の馬鹿奴、我軍は四十餘萬ある、敵は城を傾けて出拂つて來たところで八萬には過ぎまい、大軍とは何事だ、貴樣のやうな使ひ番は物の役に立たぬ」
 治右衛門がそれを聞いて歯噛みをして、
 「役に立つか立たないか其の内お見せ申す時があらう」
 と云つて秀忠の前を立ち去つた。
 治右衛門が立ち去ると間も無く、地雷火が爆發して秀忠は陣を焼かれ、兵馬混亂した處へ、大阪方の木村主計が素肌武者三十五人を連合して秀忠に迫つて來たので、秀忠の身が危かつた時に、柳生宗矩は秀忠の馬前に立つて七人をも殪し、尚進んで決死の戰をして最早や主從戰死と見えた。歸途半ばでそれを聞きつけた安藤治右衛門は、鞭をあげると直ちに取つて返して、木村主計と一騎の勝負をして互に重傷を負つた、治右衛門は流るゝ血が眼中に入つて眼は見えなくなつたけれども、精~は衰へず、やみくもに打つて遂に主計を殺し、秀忠の圍みを解いてこれを助けた、秀忠は慚愧と感謝の念に堪えずその陣所へ出向ひて行つて藥をとつて治右衛門の口に含ませ、厚くこれを看病した、治右衛門は泣いてその恩を謝したが遂にそのまゝ締切れてしまつた。安藤は特に武術家といふわけでは無いが、柳生の事もあり、武道の~妙を實現した意味としてこゝに記した。

 
    井上傳兵衛

 井上傳兵衛は上野車坂下町に直心影の道場を開いて、その名、都下に鳴つてゐたことは前に島田虎之助の時に書いてゐた。腕も勝れ、頭も人格もよかつた人だが、この人が無惨にも暗殺されてしまつた。それが松浦靜山侯の「甲子夜話」に書いてある。松浦侯は最初傳兵衛の家の前を月々上野登山の折から往來して、その道場を見かけ、竹刀の音を聞くにつれ傳兵衛の評判も聞き知つて、他所ながら感心してゐたのだが、それほどの名手が、もろくも暗々と討たれてしまつたと聞いて、興がさめ却つて輕蔑する氣にもなつたが、さて後でよくよく聞いて見ると必ずしも一笑に附すべきものでない、如何にも悲愴なものがあるど聞いて特に書き留めたのである。
 傳兵衛がある時、或る大名の茶會に招かれて出席したが、その大名が傳兵衛に向つて云はれるには、
 「この方へ劍術に優れた武士が一人やつて來る、今、浪人ではあるけれども、なるほど立ち合せて見ると勝てる者はない今の伊庭八郎次だの、その門弟等とも仕合をさせて見たが皆この者が勝つた。その位だから、まづ都下に右に出る者はない、たゞ、井上傳兵衛、貴殿だけ一人殘つてゐる、お前と仕合をして勝ちさへすれば本當にもはや江戸中には無敵なのである、そこで右の浪人は是非お前と一本立合をしたいと希望してゐる。若しお前に勝てれば仕官をしたい、負けるやうならば一生浪人で禄の望みを斷ちます。斯うまで云つてゐるのだが、どうだ、そなたはこの浪人と立合つて見る氣はないか」
 それを聞いて、井上傳兵衛が答へて云ふことには、
 「その望みには一理なきにあらねど、總て事の勝負といふものは、一日の勝ちが終身の勝といふわけのものではござらぬによつて、左樣に強い望みをかけらるゝほど、この勝負は斷じて無用のことでございます」
 と云つて、再三辭退したけれども、殿樣をはじめ満座の者が擧つてこれをすゝめ、其上に右の浪人も豫めもう次の間で立ち合ひの仕度をして待つてゐるといふ有樣だから、井上もどうにも斷りやうが無く、止むことを得ずして右の浪人と立ち合つた處が、どうしたことか右の浪人が一刀の下に井上に打たれてしまつて、立ち處に勝負が見えたのである。
 それを氣の毒に思つて温良な井上傳兵衛は取りなして云ふことには、
 「最初にも申した通り、一日の勝ちは終身の勝といふわけのものでは無い、また一日の敗が終身の敗といふわけでもござらぬ、只今それがしが勝もさのみ賞めるに足りないし、そなた樣の負けも失望するに足りない、どうか殿樣にも御知行を下しおかれ、そなた樣も今日から御仕官なさるがよろしい」
 と、井上から懇ろに殿樣に取りなしたけれども、殿樣もさすがに浪人の最初の廣言を取次いだことでもあり、斯うなつて見ると、それでも召し抱へようとは云へず、浪人は赤面しながら手持ち無沙汰で、その席はそれで終つた。
 ところが、その晩の歸りのことであつたか、又はそれから後の別の夜のことであつたか同じ大名の處で茶會があつて井上が歸る時、茶の後席で酒を賜はつて、井上は醉ひながら殿樣から貰つた茶碗を包んで手に携げて醉ひ心地で歸途についたが、その途中、夜中のことだから誰れがどうともわからないが、股引絆纏着の身輕なる態のものが四人であつたと聞く、まづ其のうちの一人がいきなり刀を拔いて井上の右の腕に斬りつけた、井上は右を斬られたので、左の手で刀を拔かうとしたのを、また左の腕を斬られた。左右を斬られながら、それでも身をかはし、身をかはし四人の相手と戰ひつゝ辻番所まで駈けつけた、そして辻番所に向つてこの有樣をつまびらかに物語り、
 「拙者は車坂の井上傳兵衛であるが、この有樣だ、拙者の宅へよく仔細を申し告げられたい」
 と云つて、さうしてそこで瞑目したといふことである。
 この最期などは悲愴極りない心地がして、井上の爲口惜しさとうらめしさとの限りなきものがあつて、こゝの斬られ方受け方なかなか研究ものである。
 とにかく、井上傳兵衛は珍らしく人格の出來た人であつたと見えて、心形刀流の師範、伊庭八郎次や、關口流柔術の師範であつて、松平樂翁公の柔術の師である鈴木杢右衛|門などとは同じく御徒士であり、殊に別懇の間柄で他所へ行つて夜おそくなるとお互ひにその家に泊りなどして兄弟の如く附き合つてゐたといふことである。

 
    渡邊兵庫

 忍びの名人渡邊兵庫と云ふものが、年少き人に對して語るやう。
 「旅宿などにて隅に片寄つて寝てはいけない、隅は壁か障子かに近いものだから、盗人等が伺つて壁越し障子越しに突く時は、もし急所に當らないまでも相當の負傷をして働けないものである。その室の中央に寝るのが宜しい、戸を破つて外から這入られてもそれにとり合ふ間合がある、又盗人が這入つた時こちらが聲をかけ『何者ぞ逃さじ』なぞと罵るのはおろかなことだ、暗い處では聲をしるべに斬るものであるから、聲をかけるのは盗人に向つて、『われこゝにあり、來りて斬れ』とヘへてやる樣なものだ、家の中が暗くて人音も物音も無い處では却つて氣づかはしくて這入れないものである。又盗人を一人斬り止めた時は、左か右かに退いて鳴を靜めて物音を聞いて居るが宜しい。斬る時も『エイ』ともなんともかけ聲をしないが宜しい。何とか言へば、たとへ賊の一人は仕止めたからと云つて後につゞくものがその聲をしるべに斬りつけるものである。靜かにして物音をしないで居さへすれば、幾人來ても先に這入つたものが斬られたとあれば、後は無暗に押入るわけには行かないものである。たとへ、押しこんで來たからと云つて、その足音をしるべに斬りさへすれば殘らず斬り伏せて終ふことが出來るものである。――」

      

 渡邊兵庫は本多大隅守正賀の臣であるが、大隅守の在所、榎本は下總の古河に近かゝつた。ある時古河の士が人を斬つて榎本へ逃げ込んで來たものがあつた、追手は地境迄來たけれども、他領であるによつて是非なく引返した、大隅守はその者の身の上を聞いてみると、なかなか勇士であつたので、惜んで深くかくしてしまつた。
 古河から使者が來て「どうぞそれを引渡して貰ひたい」と云つた、大隅守は「承知致した」と云ひながら、どうしても出さない、古河からの使者が三度に及ぶとき「我を頼むで此處まで逃げて來たものであるによつて差出すにしのびない、御免を蒙りたいものだ」
 と云つて、番人を付けて晝夜守らせて置いたところが、古河から間者を入れて右の士を殺してしまつた。
 大隅守が大いに怒つて番人を召し寄せ、
 「貴樣等の樣な役に立たずを斬る刀はない」
 と、髪を剃らせて放逐してしまつた。それから渡邊兵庫をよんで、
 「その方古河へ行つて、しかるべき士を一人斬つて、我が欝忿を晴らせ」
 と云つた。兵庫は、
 「委細かしこまりて候」
 そこで、頃は五月の半であつたが、兵庫は簑を付け鍬を肩にして百姓の装をし、簑の下に一尺三寸の短刀を一つ差して夜の明け方に古河の方へ出かけて行つた。さうすると、早起きをした士がその邊の川邊に二人居て、一人は立つて一人は坐つて話をして居たところを、先づ立つて居るものの首を斬り落してしまつた。坐つて居た者が驚いて立上るのを又首を打落してしまつた。
 古河の町人が大いに騒いで出會ひ追かけたけれども行方が分らない。
 兵庫の方では入つて來る時に、豫て退口〔にげぐち〕を考へて置いて、古河の町から二十丁こちらに土橋がある、土橋の下に岩の洞があつた、身をちゞめてその中に匿れて居た。若し追手の者がそれに氣付いた時には、無下には殺されず、その者を刺して共に死なうと思ひ、短刀をぬき持つて居たが、その邊の竹藪だの、~社や寺の中などを探索して廻つたが、土橋の下に氣の付くものは一人も居なかつた。
 大隅守は樣子如何と人をつけて伺はせたところが、古河の町が大いに騒動すると云つて復命したけれども兵庫は未だ歸つて來ない 「定めて打たれてしまつたのだらう」と安からず思つて、夜になつても寝ないで居ると、夜更けて兵庫が歸つて來た。大隅守は喜んで出迎へ、
 「どうした」
 と尋ねると、兵庫が「しかじかで候」と答へる。大隅守が、
 「では、左樣な紛亂の間であり、印〔しるし〕は取らずに來たろう」  と質ねたところが、兵庫が答へて、
 「選まれて出向き申したのに印がなくて、何と致しませう」
 と云つて、布袋の中から首を二つ出して差上げたので、大隅守の感歎なゝめならずであつたと云ふ。



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