續日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
第  弐
 目 次      Back     Next 

 稻富伊賀   伊庭軍兵衛   岩崎恒固   石黒甚右衛門   海野兄弟 
 幸庵物語   閑齋の馬術   鍋  蓋   浪およぎの刀   穂の石突   耳くぢり 
 川崎鑰之助   名人越後   片岡平右衛門   結翁十郎兵衛と念佛丸   戸田清玄 
 難波一藤齋   結城朝村   丸目主水   千葉新當齋   山本玄常 
 澁川伴五郎   狭川助直   熊澤正英   山崎將監   吉田一刀齋 


 
    稻富伊賀

 稻富伊賀は稻富流砲術の祖で丹後田邊の人であつたが細川忠興に仕へた。忠興も鳥銃が上手で戰爭の合間には山野に獵をして樂しんだ、伊賀もこれに從つて獵をして歩いたが忠興の方が獲物がいつも多いのである、そこで忠興が伊賀に向つていふことには、
 「その方は世に聞えたる鐵砲の名人である、ところが獵をさせると獲物は吾等に及ばない、これでは名前倒れといふものではないか」
 伊賀がそれを聞いて答へていふには、
 「御尤もでございます、あなた樣はたしかに鐵砲にかけてはお上手に相違ない、論より證據獲物に於ても遙かに我々共が及びもつかないことでござる、併しながら拙者には又拙者の得意がござりまする、弾丸の跡を御檢分下さると分ります」
 そこで忠興が獲物の身體を調べて見ると伊賀の獲物に當つた弾丸は皆んな坪が定つてゐたが忠興のは當つてこそゐるけれども身體中あちらこちらに弾丸が散らばつてゐる、そこで忠興は成程と感服したといふことである。
(事實文編)

 
    伊庭軍兵衛

 伊庭軍兵衛は祖先以來江戸幕府に仕へた劍客であるが、弟子千餘人を持つてゐた、却々氣概があつて文政、天保の頃天下が穏かで幕府の侍が遊惰に流れるのを慨いて門下の士氣を肅清した。衣を短くし、長い劍を帯びて市街を往來するものは誰れかと見れば大低軍兵衛の弟子であつた。
 水野越前守忠邦にその氣概を認められて拔擢されたこともあるが、忠邦が退くと共に軍兵衛も職を辭め其間に八郎を産んだ、この八郎が後に幕末の際勇名を馳せたのであるが、安政年間幕府が講武所を開いて武術の達人を徴して旗本の子弟にヘ授をさせた、八郎の如きは當然召さるべきものであつたが、軍兵衛は一言も倅の事を云はないので人が不思議にしてゐた。
(譚 海)

 
    岩崎恒固

 岩崎恒固〔つねかた〕は世々笠間藩牧野侯に仕へて江戸濱町の邸に住んでゐた、寛政十二年の生れ、資性剛直、身の丈六尺に餘り眼光炯々として一見人を威服せしめる風采であつた、諸般の武術悉くこれを究めたが、殊に劍術、馬術、柔術の師範として藩士をはじめ足輕に至るまでその門に入るのみならず、他藩の藩主たちも往々來り學んだ、千葉周作、桃井正八郎等と常に往來して相磨き、又その頃有名な馬術家簑田一貫齋などゝも往來してお互ひに研究してゐた。
 或る時酒に醉つてブラブラと芝の切通しを通りかゝつた時に闇の中から三人の賊が飛び出して來て、前後から刀を振つて斬りかけた、恒固は直ちに刀を拔いて縦横これに當つたが三賊は遂に當るべからざるを知つて逃げ出してしまつた、恒固は從容として下着を割いて創を包み謡をうたひながら家に歸り灯をかゝげて身體中を調べて見ると背中に二ケ所の創、額と首とに各一ケ所あつた、醫者を呼んでそれを療治させながら笑つていふことには、
 「身をかがめて横に拂つた時確かに賊の腕を一本斬り落した筈だ、明朝早く行つて調べて見よう」
 明治維新の際に戰功があつた、明治七年病氣の爲笠間で亡くなつた。
(文荘漫録)

 
    石黒甚右衛門

 石黒甚右衛門は播磨の國主池田利隆の家來であつたが、若い時から觀世音を信仰しその途中巾を刀へかけてその兩端を手に持つて手綱のやうにして馬術練習の心持で四里の道を往來した、烈風暴雨の時でも敢へて怠ることがなかつた。
 それから佐貫又四郎といふものと一緒に馬の稽古をする時は朝まだきから夜に及ぶまで學んで倦まず、寝れば仰向けに寝て脛を合せてあぶみを踏む眞似をし、帯の兩端をとつて手綱の眞似をするといふ程であつて遂に馬術の奥妙を極めた、馬の埒の前、堀際などで二尺でも三尺でもの處へ線を畫いて置いてどんな荒れ馬で乘りつけて來ても其の線でピタリと馬足を止めることが出來た、又鐵砲を打たせると他人の乘つた馬は皆んな驚き騒いで飛ぶけれども甚右衛門が御すると眼の前で鐵砲を打つても馬はゆるやかに歩いて蹄を亂すことはなかつた、又どうにも斯うにも扱ひのつかなひ惡馬で鞭打つても動かないものを、甚右衛門が乘ると手綱、鐙を動かさないで自由自在に走り廻らせたといふことである。

 
    海野兄弟

 海野能登(輝幸〔てるゆき〕)は上野の人であつて信州眞田の宗家である、力量があつて太刀打にかけては關東無雙の名があつた、けれども尚ほ足れりとせず武者修業を試みて諸國をめぐること七八年、眞正の意味で天下第一の實を示さうとした。山本勘助の推薦で甲斐の武田信玄に仕へ屡々軍功があつたが、六十に至るに及んで辭して本國に歸つたが、天正三年正月に計を以つて上杉家に屬してゐた同國吾妻郡岩槻城を奪ひ取つて城將齋藤勝一を追ひ、ついで利根郡沼田城を拔いた、さうして兄の幸光を岩槻の城に置き自分は沼田にいて二郡を全く占領してしまつた、兄の幸光も劣らぬ武藝の達人であつた、併し吾妻郡のうち鎌原、湯本と云つたやうな七族が之に從はず眞田の方へついてゐたものだから、輝幸は怒つてこれを征伐せんとした、七族のものが之を聞いて驚いて眞田幸隆に訴へたので、眞田方は評議した。
 「彼れ兄弟の者は猛勇絶倫である、あれが若しも南方の豪族と連與して兵を出した日には一大事である、早く夷げてその禍の根を絶たなければならぬ」
 と時日を移さず岩槻城を襲ひかけた、不意を襲はれた幸光は勇猛絶倫とは云へ年はもう既に七十五であつて、眼がかすみ自分ながら打太刀がはつきりしないのを慮つて、室内へ麻稈を撒き散らさせ、敵がその麻稈を踏んで近づくのを目あてにして三尺五寸の大太刀で十四五人を斬り伏せ館に火をかけて腹を切つて死んだ、妻子も亦之に殉じて火中に投じた。
 右の如くして岩槻の城が陥つたので、寄手は直ちに沼田の城に向つた、輝幸はこの事を少しも知らずに子の幸貞と共に僅かの手勢を從へて外出をしたが、途中の~原といふ處で端なくも此の對手に出會つてしまつた、幸貞は家來の齋藤重龍といふ者と唯二人、縦横に戰つて二千五百の敵を走らせてしまつた。
 輝幸は茶臼割と稱する名刀を拔き、討手の大將木内八右衛門の一隊と別に女坂で戰つたが、輝幸の打つ太刀は八右衛門の左の肩先から綿噛のはづれまで切り下げ、乘りかゝつて其の首を斬つた、それから輝幸は眞一文字に敵陣に乘り入れた處を田口又左衛門といふものが、馬を進めて輝幸に組まうとしてやつて來たのを、輝幸は鎧の袖を打ち違へて左の腕に提さげ横に拂つてその體を一刀兩斷にしてしまつた、敵は怖れて四方に散亂したが、從ふ味方も皆斃れてしまつた、そこへ幸貞は一方の陣を斬りぬけて來て父子巖の上に腰かけて刺しちがへて最期を遂げた。輝幸年七十二であつた。
(豪雄言行録、樗記)

 
    幸庵物語

 渡邊幸庵物語には宮本武藏を竹村武藏として次の如く書いてゐる。
 予は柳生但馬守宗矩弟子にて免許印可も取たり、竹村武藏といふものあり、自己に劍術を練磨して名人なり、但馬に比べては碁にて云へば井目も武藏強し、細川越中守忠興に客人分にて四十人扶持合力あるなり、子を竹村與右衛門と云つてこれも武藏に次いで武藝に達す、武藏事は不及申武藝は詩歌茶の湯碁將棋すべて諸藝に達す、然るに第一の疵あり洗足行水を嫌ひて一生沐浴することなし、外へはだしにて出で、よごれ候へば足を拭はせ置くなり、それ故衣類汚れ申す故、その色目を隠す爲にびろうど兩面の衣類を着、夫れ故歴々疎みて近づかず、この子孫、久野覺兵衛とて松平攝津守殿に奉公、一人は久野團七とて松平出虫迢`昌に奉公、これは隠れなき馬好きにて身上五百石なれども金五十兩より下の馬を求めず、何時も高直なる能き馬を調るなり。
(渡邊幸庵物語)

      

 竹村武藏、子は與右衛門と云ひけり、父に劣らず劍術の名人にて、その上手裏劍の上手なり、川に桃を浮べて一尺三寸の劍にて打つに桃の核を貫きたり。
(渡邊幸庵物語)

      

 竹村武藏、上泉伊勢、中村與右衛門、この三人の劍術、同代の名人なり、與右衛門は武藏が弟子なり、武者修行す、伊勢は泉州堺の住人也、武者修業の時信州にて卒す(諏訪か)、武藏は細川三齋に客人分にて居り候、小坪といふ處に三齋遊山所有之、これに茶屋ありそれに武藏住居なり、歌學もあり、連歌も巧妙なり、與右衛門は中村三郎衛門が子なり、父三郎衛門は能上手なり。
(渡邊幸庵物語)

 
    閑齋の馬術

 慶長、元和の頃、豐前の國に馬の上手があつた、後盲目となつて閑齋といつた、盲目になつてからも、初めての馬場だといふと一返しは口を取らせて試みたけれども二返し目からはこれを諳んじて馬場末の廻し方なども少しも誤らなかつた。
 何よりも不思議なのは、家のうちにゐながら道を過ぐる馬の足音を聽いて、馬の毛色、疵曲、老馬若馬を云ひ當てゝ少しも間違つたことはない、その位だから馬を手さぐりすればなほ確かである、馬を二つ三つ入れ違へて乘り、早道一三共に目の明いたものと同じことに乘りこなした、もと奥州者で十歳の頃から馬を好んで乘り、盲目となつたのは四十歳の頃であつたが、六十に餘るまで馬を捨てず、種々名譽のことをした。
(武將感状記)

 
    鍋  蓋

 昔、鍋蓋と稱する劍客があつた、本名は笠原新三郎頼經、信濃の農家の子であつたが耕轉を好まず、武藝を好み、自ら劍術を修め、呼吸の法を考へ出したが、年とつて、山中に隠れ、世塵を避けてゐた。
 宮本武藏が武者修行の途中、道に迷うてこの翁の處に一泊した、その時翁が武藏の藝を賞めて呼吸の法を授けたといふことである。
(稿 本)

 
    浪およぎの刀

 伊勢の桑名の渡しで、何者か人を斬つた處が、その斬られた人が斬られながら三間ばかり波を泳いで行つて二つになつた、そこで、この斬つた刀を「浪およぎの刀」と名をつけた、これが家康の手に入り、重寶となつたが、家康から上總介忠輝へ贈られた、忠輝は淺間へ蟄居の時までもこの刀と相國寺といふ茶入の二品は離さなかつた。刀は「信國作」といふことであつた。
(古老茶話)

 
    穗と石突

 寶藏院流の槍、石づきは穗の長さと同じことになつてゐる、穗先きが打ち折れた時は石づきで勝負をするやうになつてゐる。
(古老茶話)

 
    耳くぢり

 昔、短い脇差を差した侍があつた、十二三になる前髪立の少年がそれを見て、いつも「耳くぢりを差す」といつて嘲り笑つた。少年のことではあるが、毎度しつこく嘲るのでその侍も堪忍をしかねて、或時その若衆を後ろ向きに膝の上に抱き上げて、
 「お前がいつも笑ふ耳くぢり、お前の腹へ通るか通らないか見給へ」
 と、いつて若衆の腹へ突き立てゐた處が、その少年が少しも騒がず「耳くぢりでは思ふやうにわしが腹へは通り申さぬよ」と、いつて自分の長い脇差を拔き、自分の腹から抱いてゐた侍の腹まで突き貫いて二人ながら死んだといふことである。
(異説まちまち)

 
    川崎鑰之助

 越前の人であつたと云はれる、刀劍の術を好み、上野國白雲山、波古曾の~に祈り、東軍流の名を揚げた(或ひは云ふ東軍といふ僧に就て學んだと)併乍ら、自らそ其の術を惜んで世上に傳播しなかつた、五世の孫、二郎太夫といふものに至つてはじめて世に弘めたといふことである。
 二郎太夫は奥州の人と云はれてゐるから、そちらに移つたのかも知れぬ、この人は忍侯阿部正秋に仕へたが、のち致仕して江戸本郷に住居を構へた、その門人に高木虚齋がある。

 
    名人越後

 富田重政は富田流劍法の師で加州侯に仕へて世に所謂「名人越後」と稱せられ、一萬三千六百石を食んでゐた。
 寛永武術上覧の時に前田利長が重政を江戸へ遣はして柳生宗矩と仕合ひをさせようとした、重政がそこで當に發足しようとしたが、利長が又考へ直して云ふには「柳生も富田も二人共に無雙の名人である、仕合をさせればどちらかゞ負ける、何れに怪我があらしめても名人の名を傷つけるによつて出立を見合せたがよろしからう」とさし止めた、利長も何か別に考ふところがあつたと見える。
 重政の子宗高が家を繼いで又武術に精妙であつたが子が無くして家が絶えた。

 
    片岡平右衛門

 名は家次、山城國山科の人であつた、幼より弓術を好み、吉田出雲に從つて學ぶこと十數年、その精妙を得、關白秀次が山科から射術家六人を召した時も、平右衛門がその長であつた、秀次は其の技を賞して俸禄を與へたけれども固辭して受けなかつた、元和元年五十八歳で死んだ、その子家延があとを嗣いだ。
 片岡家延は父家次と同樣、平右衛門と稱し、山科に住んでゐた、弓術の名家である、その矢が四町五反にまで達したといふことである、門人數百人、その從遊の盛んなることこの人の如きはなかつた、寛永十四年五月廿二日年僅かに四十八歳で病死した、子の家盛があとを繼いだ。
 片岡家盛は父祖を學んで射名u々揚り、承應中幕命を以つて蓮華王院に射を試みたことがある、その名がu々現はれた、寛文十年七月十三日、五十三を以つて病死した。

 
    結翁十郎兵衛と念佛丸

 結翁十郎兵衛は蒲生下野守の家來であつた、江州の野良田合戰の時淺井久政の家來で百々内藏之助と稱する勇士が槍を振つて下野守の陣に迫り、歩士三人を刺し、騎馬武者八人を倒した蒲生の兵が震ひおそれて近づく者がなかつた時、十郎兵衛は念佛丸といふ三尺餘りの刀を振つて百々と渡り合ひ、忽ちこれを斬つた。
 この刀を念佛丸と名付けたのは、且つて夜已むを得ざることがあつて辻斬を試みたが、その時斬られた人は斬られながら走つて行き、石につまづいた時に南無阿彌陀佛と聲をたてるや否や身體が二つになつてしまつた、それ以來この刀を念佛丸と名付けたといふことであつた。

 
    戸田清玄

 戸田清玄は戸田流劍術の名家であつて、福島正則に仕へてゐたが、人が試合を所望すると長袴をつけ枇杷の木刀の一尺九寸五分なるを持つて敵の三尺の白刄と仕合をした、その流儀の者は皆それにならつてゐた。
 清玄が云ふ、
 「禮儀の場に於ても、刀を振ふことが無いといふことはない、さういふ場合には身は長袴で頼むところは小刀一本のみである、急に臨んで袴の裾をからげたり、腰をとつたりしてゐる餘裕のないことがある、その場合を慮つての服装である」

 
    難波一藤齋

 難波一藤齋は遠州三倉の人であつて父を一甫齋といつた、一藤齋左の手を失つたが、然も劍術に達してゐた、寛永九年十一月吹上に於て、劍術上覧の時、相手の金井半兵衛に勝つたが、金井の同門吉田初右衛門が金井の敗れたのを見て大いに憤慨した、その時大久保彦左衛門が一藤齋に向つて「吉田ともう一番仕合をしないか」とすゝめた、一藤齋それを承知して、一尺二寸の小太刀を携へて立つて、吉田は三尺の太刀をとつて縦横にふるひ戰つたが、一藤齋は~出鬼没飛鳥の如く吉田の後に出てその背を打つた、吉田憤激のうちに之をものゝ數ともせず尚奮闘して一藤齋の刀を打ち落したが、柳生但馬、小野治郎右衛門、大久保彦左衛門等が檢證して遂に吉田の負けとした。

 
    結城朝村

 結城朝村は朝光の子である、射をよくして曾て將軍藤原頼經に從つて京都に至り、關白道家の邸へ赴いたが、其時關白の家で籠の鳥が離れて庭の木の上にとまつた、頼經が朝村にあれを射よといつたので、朝村は虚箭を飛ばして鳥に的てたので鳥が傷つかずに下へ落ちて來た、見るものが皆それを歎賞した。

 
    丸目主水

 丸目主水は一傳流拔刀術の祖であるが、何れの國の人であるか分らない、少壯より劍を好み、殊に拔刀にかけては~出鬼没、當時その右に出でるものはなかつた、國家八重門、朝山内藏之助、海野尚久、金田正理、陽夏能忠等がその傳統を繼いだ。

 
    千葉新當齋

 千葉新當齋名は右門字は率然下總佐倉の人であつた、劍をもつて一代に勝れたのみならず、槍は寶藏院の第十二世を傳へて一代に響いてゐた、曾て安房國に遊んだ時に廣い野原でその術を試みたが、その時、矢を雨の如く射かけさせて新當齋は槍を振つて眞中に突立つたが、降り來る矢を悉く碎いて地に落した、見る人、人間業にあらずと舌を卷いた、鋸山に石碑を建てゝ其事を記してゐる。

 
    山本玄常

 山本玄常は對島の守と稱し山本流の祖である、後三夢入道と稱した、八流の劍を極めて一流を創めた、大友豐後守の家來となつて一萬石を領してゐたが、大友氏が亡ぶるに及んで浪人となつた、その子山本賢刀次元國が山本流を繼いで劍に秀てゐたが父が没して後僧となつて「雪好」と號し、越後高田の山の中に隠れてゐる間柳生三嚴が丁度通りかゝつてこれと仕合をして見て打勝つたが、その時三嚴に無明の劍を傳へた、三嚴がこれを徳として尾張公にすゝめ、還俗させて三千石を賜るやうになつたとの事である。

 
    澁川伴五郎

 澁川伴五郎は澁川流柔術の祖である、後、友右衛門と稱した、關口氏業に就て學び後一家を成した、江戸の人で西の窪城山に住んでゐた、身の丈六尺二寸、力三十餘人を兼ねてゐたといはれる、寛永九年武術上覧の時には年齢三十歳であつたが、關口彌太郎と組んでこれに勝つた、子孫世々柔術家として伴五郎を稱した。

 
    狭川助直

 柳生但馬守に從つて新陰流の刀法を學び四天王の一人と稱せられた、天和三年仙臺の伊達綱村に聘せられて師範となつた、澤庵和尚に就て禪を學んだことがある、或時松島の瑞巖寺に至り天嶺和尚と相見した、和尚は助直を一介の武人として餘り重くは見なかつたが話をしてゐる最中一窒フ雀が來て座敷へ飛び込んだ、助直は靜に扇子をとつてその雀を抑へながら話をし、やがて又扇子をあげると雀がぱツと飛び去つてしまつた、助直は一向それを心に懸けず、抑へたり離したりするうちにも平氣で話をしてゐたから天嶺和尚が感心してそれから深き交りをゆるすやうになつたさうである。

 
    熊澤正英

 尾張の瀬戸の人であつたが、肥前唐津の寺澤家の家老となつた、或夜盗賊が入り、家中上を下へと騒動したが、正英は豫て宅地の隅に大木があつてその枝が垣の外に垂れてゐるのを見て思ふには、もしこの家へ盗賊が入るとすれば必ず此の垣と木の枝から上下するであらうと見極めてゐたが、その晩に至り、さてこそとこの木蔭へ來て待つてゐると案の如く盗賊がやつて來てその枝を傳はつて逃げ出さうとする處を正英は一刀の下に斬つて捨てた。
 寺澤廣孝がそれを聞いて近臣を集め、さしも壯年屈強でさうして大膽不敵な盗賊奴が、七十の老翁の手で易々と斯うも斃れたのは、要するに日頃の用意の如何にあるので、すべてにわたつて不常が肝腎だといふことをヘ訓したさうである。

 
    山崎將監

 山崎將監は中條流の名士であつて、父は兵左衛門といつた、國主徳川忠直が父の兵左に命じて藩中の劍士と仕合をさせたが、父は自分は既に年老いて、術も全からずといつて、倅の將監をしてこれに代らせた、將監は時に年十六であつたが、相手の劍士をうち込んでこれに勝つてしまつたので、主君忠直から大いに賞せられた、その後技大いに進んで精妙に達し後將軍秀忠から麾下に召されることになつた。

 
    吉田一刀齋

 吉田一刀齋は遠州濱松の人であつた、寛永九年劍術上覧の時に遲れて其場へ到着したので大久保彦左衛門に頼んで漸く組に入れて貰うことが出來た、そこで忠[忠艾艨n一心齋と組合せられて互ひに秘術を盡して相闘つたが數刻の後相方共に疲れて刀を落してしまつた、そこで勝敗なし、大久保彦左衛門が二人をねぎらつた。



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