續日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
第  九
 目 次      Back   

 戦場と武藝   正木の劍術   伊庭藤太夫   石突の働らき   竹刀六本碎砕 
 侠客の劍   根岸信五郎   戈を止む   武士と相撲   東湖の劔術觀 
 支那人の日本武術觀   外人の日本國民性觀 


 
    戰場と武藝

 昔から劍槍の上手名人と稱せられるものが、戰場でその割合に功を成せしものはなく、鳥銃の達人稻富一夢の如きは、茅屋の中にて屋根の上の鳥の啼き聲でその集る處を察し、あやまたず打ち落したといふ位の名人であるけれども、朝鮮陣の時に敵に向つては一丸も當らなかつたといはれてゐる。
 北條氏康の家老北條左右衛門太郎は、下野の小山で敵の侍百人ばかりの中へ只一騎で乘込みよき敵二十人ほどを悉く馬で乘り倒し、その勢で雜兵共百四五十の首を、續いて來た自分の臣共に取らせたことがある。

 
    正木の劍術

 橘南谿の「東遊記」の中に、
 正木段之進といへるは美濃國大垣の家中にて歴々の武士なり、此人劍術の妙を得て此門人となる者へは鎖を授くることゝし、京都杯にも此鎖を傳授したる人多し、其外江戸杯には尤多く、諸國とも門葉多く、此段之進劍術の事に付ては世間色々の奇妙のはなし多くして信じがたきこともあるに旅中にて彼門人に親敷交りて其修行のあらましさを聞しに誠に感ずべくたふとむべきなり、此段之進の父祖にや有けん幼年より劍術に心を寄せ日夜寝食を忘れて修行せし頃、一夜寝間の襖を鼠の咬音に目覺て疊をたゝきて追ひたりしに鼠逃去れり、暫くして少し寝入らんとする頃また鼠來りて襖を咬む、又目覺て追へば鼠逃去る、心ゆるみて寝入らんとすれば鼠襖を咬む、かくのごとする事三四度に及びて段之進思ふやう、我氣みたずして彼鼠に徹せざればその眠るに從ふて鼠襖を咬なりとて、起直り座を正して一心に氣をあつめ鼠の方を守りつめて居たりしに鼠つひに來らず、其後は鼠の音する度にかくのごとくするに鼠咬ことあたはず、後にはけたを走る鼠をも氣を集てこゝろみぬれば落る程に成けり、今に至り其門人氣を練る事を稽古するに鼠の物を咬にてためす事ありといふ、門人の中にも二三人はよく鼠を退くる程に至れる人ありとなり、いかなる猛獣といへども先此方の氣を以て制す、敵人といへども立向ふより先づ氣を以て勝事也とぞ、此事は奇妙のやうに聞ゆれどもさることもあるべしとおもふ、我學ぶ所は醫術にも壓勝の法といふ事ありて氣を以て禁ずるに積氣を開かしめ或は腫物を押ならし又は狐狸に魅せらるゝ者を治し其外に奇効目を驚す程のこと出で來るもの也、其法皆正木の修行のごとし、又熊澤先生の書集められし書にも、敵をうたんとする人、其家に忍び入らんとすれば内に寝入りたる當歳の小兒啼き出して其父目を覺す、折惡しゝと暫しひかへぬれば小兒もよく寝入て家内靜也又討入らんとすれば小兒啼出す再三かくのごとくして遂に討事を得ざりし、是其殺氣の無心の小兒に徹せし也とぞ、其理の論は格別、先正木の修行に心を用ゐられし事を感ずべし、又彼の鎖所持の者はいかなる強敵に逢時にもおくれる[おくれを?]取事なく、又いかなる猛獣盗賊とへえども此鎖を所持する人には近付ことあたはずと云へり、是はいかなる事にてかくはいふ事なるやと尋しに何人にもせよ正木の門人と成り鎖を受んと願ふ時先誓約をすることとぞ、其誓約の辭、君に不忠なるまじ親に不幸[不孝?]なるまじ朋友に信を失ふべからず虚言いふべからず高慢の心を起すべからず大酒すべからず禮儀を失ふべからず公事にあらずしてみだりに血氣にはやり夜行すべからず猶其外數々の條目ありて若し是に一つもそむくことあらば摩利支尊天の御罰を蒙りて武運に盡くべしと也、初めにかくのごとく誓ふことゆゑに、もし此辭にそむく者はたとへ鎖幾條所持するといへえども其しるしなく鎖の奇特を失ふと定めたり、誠にかくのごとくなれば正大の誓約いと有難き鎖なり、聖人の道といへども此くや有べき、實に武道の奥義といふべし、法華經の水火も燒溺する事あたはずと説き、老子の虎豹も牙を觸るゝ事なしとヘへしも亦是に外ならず、鎖末[瑣末?]の技藝の上にても其妙所に至りては有難きこと多し、されど尚其人に交りて親しく聞きし事ならねば誤りしるせし事もあるべきにや。

 
    伊庭藤太夫

 池田武藏守輝直の家來に伊庭藤太夫といふ強弓を引く侍があつた。備前の國で、山狩をした時伊庭の方へ手傷ひ猪子が一文字にかゝつて來た、藤太夫大かりまたを打ちつがひ兵と放てば彼の猪子の鼻づらから尾の方へ射拔き尚そのうしろの五寸廻り程の松の木を射切つたことはかくれもない話であつた。或時また備中の國酒折の宮に百合若大臣の(百人の力があるといふ)くろがねの弓といふものがおさまつてゐたのを藤太夫がその弓をうらはづから引き折りその後打ちつがせ、額木に伊庭藤太夫これを射折ると象嵌を入れて置いたさうである。

 
    石突の働らき

 赤坂の藝州の山屋處の際の土手の下を通る草履取のやうな男と、槍を持たせた侍、伴の者の云ひ分から喧嘩になつて、侍の連れた中間共は斬り伏せられ、若黨共も手を折つた、そこで、侍が槍をとつて立ち向つたが、先方の男がなかなかの動きで、槍の穗を切り折られて、穗は土手の方へ飛んでしまう、そのまゝ先方の男は手許へ飛び入つて來たのを侍が石突の方を取り直して胸元を突きつけ土手へ突きつけ置いて、
 「家來共首討て」
 といつたので、家來共が又打ち寄つてその男をなますのやうに斬りきざんだといふことである。

 
    竹刀六本碎破

 渡邊昇が若い時は齋藤彌九郎の道場にあつたが、或夜同じ塾生の御濠耕助と激しい議論をしたが、その翌朝二人が道場に出て竹刀を合せると前の夜の議論が竹刀に乘り移つたかとばかり激烈になり、一方が「君は昨晩の議論をまだ竹刀の先に出してゐない」かと[ゐないか」と]呼ぶと他の一人が「さうではないが、さう云はれた以上は二人共その覺悟で決戰しよう」と怒號奮戰數時間に亘り各々竹刀を碎破すること六本に及んだが、そのうち一人が、
 「どうだこの邊で休戰しては」
 と云ひ出すと、そこでカラリと兩人が竹刀を収めて胸襟を開いて了つたといふことである。

 
    侠客の劍

 駿河の侠客、清水の次郎長は劍術を學んだことはないが、眞劍の場合に一度も負けたことはない、その言葉に云ふ。
 敵と相向つて斬り結ぶとき、相手の劍がこつちの劍とかち合つて音がするのをきつかけに一振り振つて敵を斬れば一人として斬り倒せぬ奴はない。

 
    根岸信五郎

 明治の老劍客根岸信五郎曰く、
 元來此の劍法と云ふものは身體の強弱、體量の輕重と云ふものゝ外に存して居るものであるから如何に丈け低く力弱く體量の輕い人と雖も身體強大の人に對して決して負けを取ることはありません。世間では日本人の體格は西洋人に比較して遙かに小さいとか云ふ事を心配して何とかして西洋人の如く大きくなりたいと云ふて心配する樣であるけれども身體が大きいのが何も自慢になる譯ではない。小さい身體を以て大きな身體の者に負けない樣に稽古をする事が一番便利な法であらうと思ひます、故に斯の劍道に達する以上は身體の強弱大小等に疑念を懐くのは至て愚な話しである。其例を擧げて見ませうなら或時體量二十五貫目程有る大きな人が私と勝負をした事があります、其時私は僅かに十四貫四百目計りの體量で其人とは殆んど半分位の重さであつた、其二十五貫目の男が云ふには體重の重い人には到底勝つものでないと斯樣言ひますから私は之れは御前は左樣思ふかも知らないが、術と云ふ者があつて、なかなか御前の思ふ通りに行くものではない、と云ふと「夫れなら一番其術を見せて呉れ」と云ふので私は其男と立合つた尤も此男は撃劍は五級位は遣はれる人でした處が、其男は私を倒す考で初めは躰當で私に突き當つて來ましたから私はヒヨイと身を外しながら今度躰當を持つて來ると私は一足も動かぬぞと云ふと、其男は「何の」と云ながら又當つて來たが果して私は一足も動きません、何遍來てもさう云ふ譯であるから終には其男の身體がヘトヘトになつて閉口して仕舞ひました。然るに私は何ともなかつた。此樣な譯で到頭其議論は私の勝ちになりました。
 又此の間今一度試して見やうと思つて今の角力取の小~龍それと柏戸それから二段目の西郷此三人の男を私の倅の根岸資信に當たらして見た所が、最初は躰當を以て來たので直に外して此方から足柄をかけるとコロコロと轉ぶので、今後はヒツクリカイしますと言つて打付つて來たが矢張敵はないので三人の男も仕方がない「此度は貴方足を取りますよ」と云ふて來るから此方は竹刀を以て體を引きながらヒヨイと向ふの身體を引くと矢張轉んで仕舞ふ二三度もやつて見たが終に敵はないので終に倅の方が勝利を得ました。
 此の如く此方に竹刀を持たれると如何に身體の強大なるものでも必ず負ける決して敵ふものではありません。

      

 又曰く、
 「私が長年の間やつて見るのに或は撃劍は腦が痛むとか頭を害するとか云ふ者がありますけれども腦が痛むと云ふことは私の實驗に依りますと餘り感じたことはありませぬ、けれども只胃腸と云ふことに大きに心配したのであります、過激の運動を[運動の]後では腹が空く腹が空くから飯をウンと食ふそれがだんだん續くと必ず胃腸病と云ふものが起つて來る、こりやア餘程戒めなければならない、運動をすればするに從つて食物と云ふものは減らして往かなければならない、第一運動する以前に充分に腹が膨れて居れば運動と云ふものは決して出來るものではない、是がために却つて腹部の工合が惡くなる即ち運動をして反つて害になるものであります。で、あるから三度の食事の量を定め運動をした後には必ず三十分か四十分經つて極めただけの食物を食ベるやうにするが宜い、鶏卵位の物は運動する前にそりやア食つても宜い、ソコで運動をすると必ず咽喉が強く乾いて苦しいからツイ水を飲みます、それが極く惡い息の治まらぬ内に水を飲むのは極く害になります。私は是まで息の治まらぬ中に度々水を飲んでそれがために命を喪つた人を二三人を[二三人?]知つて居ります息のハツハツと云ふやうになつた時には決して水を飲むことはなりません、其息が治つてから水を食む[飲む]のはそりや宜しい。

 
    戈を止む

 杉浦重剛著「倫理御進講草案」中の一節。
 「本來、武といふ文字は戈を止むると書し、平和を意味するものなり、又名工岡崎正宗が刀を鍛ふる心中常に平和を祈願したりといふ」
     挿  話
 幕末の頃、土佐に茶坊主土方某といへるものあり、性磊落にして奇行多く又膽氣あり。士分に列せられて兩刀を帯す、曾て江戸屋敷にありたる日、或る夜出でゝ和田倉門外を通過しける折、一人の武士に相遇す、武士聲をかけて曰く「甚だ突然のことなれども、願はくは我れ御身と眞劍の勝負を決せん。我は所願ありて既に多くの人々と立會ひ、幾十百人を斬りたり、固より辻斬りを爲すものにあらず、名乘合ひて勝負するなり、御身の心如何」言葉靜かにして擧動沈着なり。土方某は固より劍道を知らず、心中大いに驚くと雖も左あらぬ體を装ひて曰く「御身の望む所は我れ之を諾す、然れども今主命を奉じて使する途中なれば、直ちに立合を決し難し、御身若し我の主用を果すを待たんには我喜びて勝負を決すべきなり」と。
 武士曰く「善し、十分念を入れて主用を果し給へ、我れ此處にて待つべし」と。土方「さらば二た時ばかり猶豫せられよ」といひて、再會を約して其の場を去り、急ぎて~田お玉ケ池なる劔客千葉周作の門を叩きて、面會を請へり、千葉の門生曰く「夜分にてもあり、且先生不快にて臥床せらる、明朝訪ね給へ」と。
 土方「いやいや明朝を待つこと能はず、急用の爲め主命を帯びて來れるものなり、是非々々許し給へ」と逼りぬ。
 門生奥へ入り、再び出で來りて曰く「先生の仰せには主命とあらば餘儀なし、臥床中なれども苦しからずば御目にかゝるべし」と、土方「辱なし」とて伴はれて千葉先生の病床に至る。
 先生「主命とは何事なるか」と問ふ、土方答へて「主命とは偽なり、許し給へ」先生「御身は怪しからぬ振舞せらるゝものかな」と叱責す、土方「偽りたる段は重々御詫を申し上げん、然れども御面會を得ざれば主命と偽るよりも更に主命を汚すべき大事ありたるが故なれば先づ一通りお聞き給はれ」とて、果合を挑まれて之を承諾したることの顚末を物語り「さて御恥かしきことなれども、我は未だ劍法を知らず、兎にも角にも討たれて死すべきに覺悟はしつれども、未練なる死に樣して恥を遺し、主名を汚すを恐る、故に來りて先生に見え、見苦しからぬ死をなすの方法を問はんとす。願はくは先生、之をヘへ給へ」
 先生曰く「珍しきことを聞くもの哉、我れ幾多讐討の後見をなし、或ひは多く劍法を人にヘふ、如何にして敵に勝つべきかを問はるゝこと幾度なるを知らず、然れども如何にして死すべきかを問はれたるは今日を始めとす、善し、御身の爲に語らん、只今の御話しによれば、敵は頗る手練ある武士と見ゆ、縦令御身が今より必死に數年の修養を積みたりとも決して其の武士に勝つこと能はざるべし、却て御身が劍道を知らざるを利なりとす、御身、心して我が言を聞け、彼の武士と相對して互に一刀を拔くや否や、御身は直ちに左足を踏み出して力を込め、大上段にふりかぶりて、兩眼を閉づべし、如何なることありとも、其眼を開くことあるべからず、稍ありて腕か頭か冷やりと感ずることあるべし、是れ斬られたるなり、其の刹那、御身も力に任せて上段より斬り下すべし、敵も必ず傷き、或ひは相打ちになるやも知れず、此事決して背くべからず」と、土方唯々として拜謝し、一大決心を以つて彼の門外に歸り來たれば、彼の武士悠々として待てり。「遲なはりたり[遲はなりたり?]」と挨拶すれば「いやいや意外に早かりし」と答ふ、いよいよ沈着なる武士の態度なり。いざとて雙方立別れ、一刀の鞘を拂ふ、土方此處なりと、魂を丹田に込めて大上段に構へ、兩眼をひたと閉ぢたり、武士は稍々離れたるものゝ如く、エヽヤと聲をかく、土方瞑目して石像の如く立てり、心中今か今かと其の斬らるゝを待ちたれども、時刻移りて猶無事なり、不思議と思ふ間に「恐れ入つた」と聲す、その時眼を開き見るに、武士刀を投げて大地に伏す、土方また怪訝の念に堪えず、茫然として語なし、武士曰く「恐れ入つたる御手のうちなり、我等の及ぶ處にあらず、就いては我一身如何やうにも處分し給へ」
 土方「土佐藩の武士は降伏したるものを斬るべき刀を所持せざるなり」
 武士「一命をお助け下さらば誠に有難し、願はくば我を以つて御身の弟となし給へ、就きて伺ひ度き儀あり、我れ多年諸國を廻りて多數の劔客と立ち合ひたるも、未だ御身の如き奇なる流儀を見ず、御身劍道は何流ぞ」
 土方心中可笑しさに堪えず「否々何をか隠さん、我は聊かも劍道を知らぬものなり、先刻主用云々と云ひたるは全く偽なり、實は千葉周作先生を訪ねて、死に方のヘ訓を受け、先生の云はるゝまゝに爲したるのみ」と微笑しつゝ語れり。
 武士曰く「よし劍道を知らざるにもせよ、その決心を定め得たるは正に劍道の奥儀を會得したるものなり、我が兄として仰ぐべきなり」と。
 土方「さらば夜更けたるも、千葉周作先生を訪ねて今宵の物語りを致さん、連れ立ち給へ」とて兩人打揃ひて先生の門を叩く。
 先生、事の始末を聞き、手を打つて喜ばれければ、兩人はその面前に於て兄弟の約を定め、爾後親交渝らざりきとぞ。

 
    武士と相撲

 尾州家の星野勘左衛門はまた大力の聞へある士であつたが、或る日さる諸侯の家老の方へ行つた、其家老は相撲好きで常に相撲取が出入りをしてゐたが、此日もまた相撲取が來合せてゐた。此の相撲取は五百石積の船のいかりを片手で振廻す程の力であつたが、星野勘左衛門にその相撲取と相撲をとられよと亭主が所望した、勘左衛門は再三辭退したけれども、強て所望されたので止む事を得ず、取ることゝなつた。そこで件の相撲取は裸になつて出て來た。星野勘左衛門は袴の儘、高股立をとり、大小を指したなりで立出でゝ來た。諸人が不審に思つた。行司某が是を見咎めて、
 「相撲をとるに帯刀なさるといふ法はござりませぬ」
 星野勘左衛門が答へて、
 「拙者は相撲取ではない、武士である、亭主の所望によつて合手になるのだ、だが武士の身として無腰になる法はない」
 といふ、どうにも仕方がないので、そのまゝいざ取組まんとする途端に、星野勘左衛門は拔き打ちに相手の相撲取を大げさに切倒してしまつた。見る人仰天してゐる間に星野勘左衛門は、白刄を鞘に納め亭主の前へ坐し、
 「武士といふものゝ勝負を爭ふ時は、斯樣に致さねばならぬものと存じ候」
 と云つて、暇を告げて歸つた。亭主は心の中では大いに怒つたけれど、何とも致し方なく、其儘にして止んだ、一座の人々が後で云ふには、「星野勘左衛門の仕方尤である、相撲取と武士たるものと勝負を所望するのは失禮である、全く亭主の誤りであつた」

 
    東湖の劍術觀

 藤田東湖の「見聞偶筆」の中にかういふ事がある。
川路曰く近來試合劍術盛んに行はれ一世劍術の實用に適する事を知れるは可賀事也、然るに近來試合劍術の中甚長きしなひを以て片手にて刺突を專らとする事流行せり、試合も如此なり行ては實用に遠く形劍術と同日の論なり、されば其弊を矯んには人々雙刀のしなひを帯び槍を遣わせ迫りたらば槍を捨、刀を拔き戰はしむる事を調練せば、甚長き劍の實用に遠きを悟るべしと嘆息せり、彪亦嘗て憂を同ふするゆへ共に慨嘆せり鳴呼可謂識者矣



 
支那人の日本武術觀

    揮刀如~

 和冠の盛んなりし頃、明將の記文のうちに曰く、
倭奴刀を揮ふこと~の若し、人之を望めば輙ち懼れて走る、其長ずる所の者は刀法のみ、其鳥嘴銃の類これ猶ほ我兵の如きなり、弓矢の習猶ほこれ我兵の如く、此外殊に稱するに足るものなし、唯だ倭性殺を好む一家一刀を蓄へざるものなく、童にして之を習ひ壯にして之に精し。

    日本刀歌       唐 順 之

有客贈我日本刀    魚鬚作靶青糸練
重々碧海浮渡來    身上龍文雜藻行
悵然提刀起四顧    白日高々天冏々
毛髪凛冽生鶏皮    坐失炎蒸日方永
聞説倭責初鋳成    幾歳埋藏擲深井
日淘月煉火氣盡    一片凝水闘清冷
持此月中斫桂樹    顧兎應知避光景
倭夷塗刀用人血    至今斑點維能整
精霊長與刀相隨    清霄恍見夷鬼影
爾來韃靼頗驕黠    昨夜三關又聞警
錐能將此白龍沙    奔膽一斬單于頸
古來~物用有時    且向嚢中試韜韜

               王 穉 登

揚郎手持一匣霜    贈我拂拭生寒芒
鉛刀紛々空海目    君與此鍔皆魚腸
南金換却東夷鐵    上帯倭奴髑髏血
毛髪凛冽生鶏皮    坐失炎蒸日方永
血未曾消刄未手    皎若蓮花浸秋月
燈前細看鵩鵜斜    入手還疑虬與龍
持此月中斫桂樹    顧兎應知避光景
門外湖深恐飛去    朱繩夜縛青芙蓉
苔花爛斑士花紫    白虹沉々臥寒水
歸家不惜十年磨    他日還能報知己



 
外人の日本國民性觀

    ケムプエル

 日本人は、戰爭に於て勇あり。確心あり。彼等は愛も憎も尊敬も輕蔑も子々孫々之を傳て凡ての凌辱は必ずや報いられずば止む事なく、相手の一方が絶滅するに至つて始めて熄止す。平氏及び源氏の爭ひは其例なり。

    ツンベルグ

 正直なること此民族の如く、しかも同時に勇悍にして自信力の強固なるものは他の加ふる所の凌辱を黙許する筈なし。然り余は實に日本人の如く憎惡の念強く、復讐心に富めるものを見ず彼等の胸に沸騰すなる憤怒の情は面にあらはれざれども、裏に熱して、絶えず之に報ゆるの機會を待つ。彼等は凌辱や迫害に對して多く口答へせず、僅に苦笑するか、又は長くエ・エ・エと云ふのみ。而も其胸裡の怨恨は、何ものと雖之を打ち破ること能はず。敵に些細の非禮を與へて僅に心の鬱をやるが如きにあらず、陽には懇和を示して、人をして聊かも其禍心を包藏することを覺らしめずして、終に機を見て蹶然敵を撃ち倒すなり。

    モンタヌス

 戰ひは日本人の頗る喜ぶ所なり彼等の武器は鐵砲弓矢の外に刀あり。刀は非常に能く鍛へられあればヨーロツパ流の刀身などは容易に之にて切斷せらるべし。

    ジャン、クラセ

 日本人の特に習練するものは武術なり。男子はすべて十二歳にして刀劍を佩び、これより後は夜間休憩する時の外は腰間の秋水を脱せず、寝に就くの時と雖、尚枕頭に之を安置して、睡眠中と雖、曾つて武事を忘れざるを示す武器は劍、短劍、小銃あり、弓箭あり。其劍は精練を極めて鋭利なること、之を以つてヨーロツパの劍を兩斷するとも刀口なほ疵痕を殘さずと云ふ程なり。日本人の風習かくの如くに武を尊べば、彼等は刀劍の装飾に深く其意を注ぎ、之を室内にも排列して第一の修飾となす。

    フランソア、サビエル

 第一、余の考にては、日本人程善良なる性質を有する人種は此世界に極めて稀有なり。彼等は至つて親切にして虚言を吐き、詐偽を働くが如きことは嘗て聞きも及ばず。且つ甚しく名譽を重んじ、其弊は却て彼等をして殆ど名譽の奴隷たらしむるが如き觀あるに至れり。



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