日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【人の巻】  壱
 目 次      Back     Next 

 男谷信友   島田虎之助   千葉周作   中村一心齋 
 高柳又四郎   齋藤彌九郎   齋藤新太郎   齋藤歡之助 
 千葉榮次郎   山岡静山   淺利又七郎 


 
    男谷信友

 近代の劍客では講武所の男谷下總守信友が最も評判がよい、この人は直心影〔ぢきしんかげ〕で人格も頭腦もよくその弟子のうちから諸大名家の師範役になつたもの廿餘人を出してゐる、如何なる武者修行者に對しても他流仕合を謝絶したことはなく、柳川の大石進だの、久留米の加藤平八郎、中津の島田虎之助、~田の千葉周作等皆この人にばかりは敬服し或は師事してゐた、竹刀の長さを總丈三尺八寸に決めたのもこの男谷の見識であつた、品行が正しく、文事に通じ繪を巧みにして、綽々たる餘裕を持つてゐた、勝海舟とは親類筋に當つてゐて、勝を玉成するのに大いに與つて力があつたといふ、初め百俵高の小十人から進んで御徒頭千石となり、講武所設置の頃には師範頭取、奉行をつとめ御旗奉行、西丸御留守居などの要職となつて禄高三千石までに出世したのであるが、平時にあつて、これ程の出頭を示す人だから容易ならぬ達人であつたことは間違ひなく、まず近世第一等の達人と看て至當であらう。
(日本劍道史)

 
    島田虎之助

 島田虎之助は、號を見山と云ひ、豐前中津の藩士であつた、十三の時藩の師範に就て一刀流を學んだが、十六歳の時には國内中その右に出づるものが無かつた、それから志を立てゝ九州を武者修行して歩いたのであるが、一旦歸郷して又十八歳の時、以前負けた劍士を訪問して再仕合をして見たが手に立つものは一人も無かつた。
 そこで意氣騰れる見山は天保九年江戸へ來ると諸方の道場を荒し廻つて歩いた、男谷下總守はその時分本所の龜澤町の道場にゐたが島田は無論そこへも訪ねて行つて男谷に手合せをして貰つたのだが、男谷は島田を見ても矢張り普通の修行者門生同樣にあつさり稽古をしたゞけであつたが島田は心の裡に、何、江戸隨一の男谷といつた處で知れたものだと内心これを侮つて出て來たが、それから下谷の車坂に井上傳兵衛の道場を訪ねて仕合を申込んだ。
 井上は藤川派の當時第一人者である、島田例の意氣傲然とこれに立合つて見たがこゝですつかり田舎仕込と本場所鍛へとの格段が分つてしまつた、忽ち井上の手練に打ち込まれて今までの慢心の鼻ツ端がへし折られた、ところで其處は流石に後年天下三劍士の一人と謂はれる島田虎之助のことだから、翻然と井上の前に節を折つて、
 「恐れ入りました、どうぞ今日より拙者を御門下のうちに加へていたゞきたい。」
 それを聞くと、井上傳兵衛はニツコリと笑つて、
 「いやいやこの江戸表には拙者の如き劍客は箕をもつて計るほどござる、貴殿の太刀先を拜見すると、お若いのに似氣なく將來拔群の見込充分と拜見した、それには良き師匠をお選びなさらなければならぬ。」
 と云つて諭した、島田がそれを押し返して、
 「いや、拙者はこれまで至る處の道場を訪問いたしましたけれども未だ曾て先生ほどの名人に出合つたことはござりませぬ、江戸は廣いと申しますけれども名前倒れの先生が多く、實力あるものは數へるばかりでございます。」
 と云つた、それを聞くと井上は言葉を改めて、
 「では、龜澤町の男谷先生をお訪ねしたか。」
 と尋ねると、島田は答へて、
 「如何にも男谷先生をお訪ねしてお手合せを願ひましたが、正直の處思つたほどではございませんでした。」
 と、島田が答へたのを聞いて、井上傳兵衛は微笑しながら、
 「それは貴殿の腕がまだ不足で男谷先生の腕を見るだけに出來てゐないからだ、拙者が一つ紹介の勞をとるから、もう一遍訪ねて見るがよからう。」
 と、そこで井上の紹介で再び男谷の道場を訪ねて見た、こんどは島田もその意氣組でガラリ變つた機鋒をもつて男谷に當つて見ると驚いた。
 先きに修行者としてやつて來た時には男谷に對して易々と打を入れられたのが今度はジリジリと詰め寄せられる氣合の霊妙な光りが我が眼を射て次第々々に手足も竦み、心魂が萎え、背にしてゐた道場のハメ板に吸い取られるやうになり、油汗がたらたらと滲み出づるばかり、われにもあらず平伏してしまつた、それから男谷の門に入つて遂に天下三劍士の一人と稱せられるまでの達人となつたのである。
(日本劍道史)

 
    干葉周作

 干葉周作が當時無念流で名人と稱ばれた木村定次郎と、野州佐野宿で仕合をした時に千葉が苦もなく勝利を得たが、その後間者を入れて風聞を聞いて見ると定次郎が人に語つて云ふには、
 「千葉との仕合の節、この方星眼で使つたことは一生の不覺であつた、向ふは一刀流のことだから平常下段星眼の仕合は馴れたものである、そこでこつちが上段にとつて手合せをしなかつたことが返す返すも殘念であつた。」
 と定次郎が口癖のやうにいつてゐるといふことを聞いた。
 その後右定次郎の門人で我孫子〔あびこ〕理太郎といふものが、師の仇を報はんと千葉をつけ覘つてゐた、それを聞くと千葉はハヽアその理太郎君が來る時は必ず上段で來るだらう、よし、その節は先を取つてやらうと工夫をしてゐた。
 それから五年程後に寶山流の師武藤虎之助といふ人の處へ千葉が仕合を申込んで行つた節、我孫子理太郎は、姓名を變へて虎之助方にひそんでゐたが、仕合が一通り終つた時分に、虎之助がもう一人門人で熱心のものがある、是非ともお相手を願ひ度しと、たつての頼みであつた、千葉はこれが我孫子であることを知つてその日は辭退したいと云つたけれども聞かれず、遂に立合ふことになつたが、挨拶してゐるうちに何、大した敵ではないと、先方の腕が凡そわかつたけれども、それでも立ち合ふとかねて工夫の通り、直ぐとこちらから上段に取つたので、先方は先を取られて狼狽の有樣が眼中に現はれた、そこを遁さず、さんざんに打ち据ゑ、打ち込み、或は下段で打ち、星眼で突きを入れたり、大いに惱ましてしまつたことがあるといふ。
(劍術名人法)

 
    中村一心齋

 富士淺間流劍術の祖、中村一心齋は七十餘歳に及んで水戸藩へ仕合を申入れ、若いものを相手にしたが、悉く勝利を得た、中にも水戸で第一等の達者といはれた鵜殿力之助などとは始終勝負がつかなかつたさうであるが、老年のこと故、いづれも三本限りの仕合ではあつたが、何しても恐るべき精力であつた。
(劍術名人法)

      

 中村一心齋と海保帆平とが水戸公の前で仕合をしたことがある、一心齋といふ人はもと久留米の藩士で五千石の大身であつたとのことだが、後感ずるところあつて富士山中の岩窟に籠つて修行し老年になつて上總の木更津に庵を結んでゐた仙人のやうな人、海保は上州|安中の出、十八歳にして一躍五百石を以て水戸の指南役に召し出された大剛の者未だ仕合に不覺を取つたことがないといふ者である、水戸公は一心齋の武名を聞いてたつての希望で帆平と立合せることになつたが、帆平は何程のことかあらんと大得意の逆上段に取つて構へると中村は短劍を正眼に着けたまゝであるが、帆平はどうしても一心齋を打ち込みかねてゐると一心齋の大きな身體がツヽと進んで海保が振りかぶつた上段の下頤に觸れるばかりのところへ這入つてしまつたのに、流石の海保は刀を振り上げて立つたきり人形のやうになつてピクとも動かなかつた、その刹那に一心齋の身體はまたツヽと元の處へ歸つてしまつた、それを見てゐた水戸公が、
 「それまで、勝負はあつた。」
 と、云はれたので、皆々呆氣にとられてしまつた、見物の侍共は物足りぬ面の不平たらたら、海保はどこを一本打たれたでもないのにこの審判に不平面で退いた。
 やがて二人とも公の前へ召し出された處が、殿樣が海保に向つて云ふのに、
 「お前は今日の審判に不平の樣子であるが、劍道の勝負といふものは、眼に見える腕前の勝負を爭ふのが目的ではなく心の優劣を見るのが主でなければならぬ、今日の勝負を見ると、お前はもう立ち合ひに於て倒されてゐたのだ、それにも氣が附かず上段に振りかぶつて寄らば打たんと身構へた、その太刀の下で往きつ戻りつ二つの動作を繰返されてゐながら一撃をも報ゆることが出來なかつたのは心の爭ひに於て引けを取つてゐるばかりでなく、業の爭ひに於ても敵を致さうとして敵に致されたのである、もつと修養しなければ大勢の藩士の取立てはむづかしい。」
 と戒めて、それから中村一心齋に向つては今日の~妙な働きを賞め、高禄をもつて召し抱への沙汰があつたけれども一心齋は固辭して受けなかつたとのことである。
(山田次郎吉談)

 
    高柳又四郎

 中西子正の門人に高柳又四郎といふ人があつた、この人は如何なる人と仕合をしても自分の竹刀を觸らせるといふことがなく、二寸三寸と離れてゐて向ふの出る頭起る頭を打ち或は突きを入れ、決してこの方へ寄せつけず、向ふより一足出る處へこの方よりも一足進むことになるのだから丁度打ち間よくなり他流などには一度も負けたことがない、他の人とはちがつてよく間合ひを憶えてゐる故にこの人の上に出でる者はない、けれども、突きなどは多く惡いとこ勝ちで同門が餘りこの人と稽古することを好まなかつた、又、如何やうなる初心者に向つても、わざと打たせるなどゝいふことは決してしない人であつた、常の話にも、
 「拙者は人の稽古になるやうには劍術をしない、たゞ自分の稽古になるやうに致すのだから、たとひ初心者であらうとも、拙者はわざと打たせるやうなことは致さぬ。」
 さういふ癖であつたが故に、自分の門人にもその通りな稽古の躾方であつた故、門人にも上達の者を一人も出さず、その身一代の劍術で終つたのは殘念のことであつた。
 又この人他流仕合などの節にも初めより終りまで一仕合のうちに一度も自分の竹刀に觸らせぬことが度々あつた、これを音無しの勝負などゝ同人は稱へて居つた、併しながらまづ上手名人ともいふべき人であつたには相違ない。
(劍術名人法)

 
    齋藤彌九郎

 幕末時代、江戸で劔道の三傑と稱せられたのは、お玉ケ池の北辰一刀流千葉周作、高橋蜊河岸〔あさりがし〕の鏡心明智流の桃井春藏及び九段坂上三番町の~道無念流齋藤彌九郎の各道場であつて、各門弟三千人と稱せられた。
 齋藤彌九郎は越中國氷見郡佛生寺の農家に生れたのであるが、十五歳の時、僅かに銀一分を持つて江戸へ上つたのであるが、數ケ月にして板橋へ出た時、懐ろには僅かに二朱しか餘つてゐなかつたが、その中から焼芋を求めて食ひ、郷里を出て以來はじめて温い物を口にしたといふことである。
 それから岡田十松の門に入り、遂に師業を嗣ぐやうになつた。
 斯くて劍道の大家となつたが、水戸の藤田東湖、伊豆の江川太郎左衛門等と交り深く、水戸、長州をはじめ諸藩より知遇を受け、維新の業に直接間接貢献することが少くは無かつた。
(齋藤彌九郎傳)

      

 水戸の浪士に組して、井伊大老を襲撃した一人、有村治左衛門は江戸にゐる時分、よく好んで辻斬に出たものだが、薩摩人の辻斬の方法は、その頃劍法を心得たものも怖れたものであつた、幕府の同心の或者が云ふことには、
 「劍道達者の者と雖も歩きながら人を斬ることは非常にむづかしいことで、不意に行く人を斬らうとするには自分が先づ立ち止まつて體を構へてから刀を拔かなければならないのだが、薩摩人は居合の一流で、歩きながら刀を拔き、すれ違ひざまに行人を斬り放して置き、忽ち刀を収めて悠々と歩み去る故、斬られたものが殆んど避ける隙もない、それに普通の人は如何に勇氣ある人でも一度び人を斬れば眼面に不穏の色が表れるものだから、物馴れた同心や岡ツ引達は一目見れば怪しいと思ふけれども、薩摩人は毎度辻斬に馴れて膽が据つてゐるせいか更に顔色にも表れない、吾々も役目によつて辻斬のあとを驗べに行きその附近に薩摩武士がゐると確かに此人が斬つたに相違ないと思ひながら餘り平氣な面をしてゐるので、此方が心おくれ或は證據があつても相手が命知らずの無法者だから捕り方の方で危きに近寄らない傳でみすみす見遁すことも多かつた。」
 と、こんな時代であつたから、辻斬は愈々流行し、殊に幕人を斬ることを名譽とするやうな風があつて、幕府のお目付田村幾之進といふのが供を二人召し連れたにも拘らず柳原で辻斬の爲に主從三人とも斬り殺されたやうなことがある。
 有村はこの例によつて或夜九段坂の上の人通り淋しい處で待つてゐると、最初に來たのは血氣旺んな武士であつたが、何か寄合ひにでも出かける處か一升徳利を下げて肩をそびやかして通つたが、治左衛門これを見て手練の居合で拔き打ちに拂つたところカチリと音がして一升徳利が二つに割れ、酒が地上へ流れ出す、その時早く武士は拔き合せて戰ふかと思ひの外一目散に逃げて行つてしまつたので、治左衛門は笑止がり徳利の辻斬に來たのではない、もう少し骨のある奴が出て來いと物陰に潜んで待つてゐる處へ、年の頃五十餘りの老人らしいのが腰に一刀を帯び、小聲に謡をうたひながら歩んで來る。
 「此奴一癖ありさうな人物だ。」
 と有村は後ろから歩み寄つて自慢の拔き打ちに斬りつけたが何の手ごたへもないのだ、之はと間の拔けた途端、早くも利き腕を取られて夢のやうにその人物にねぢ伏せられてしまつた、治左衛門は大いに驚いて跳ね返そうと焦つたけれども急所をおさへられて動くことさへ出來ない、こいつは逆にこちらが首でも取られるのかと觀念してゐたが、上に乘つてゐた老人がカラカラと笑ひ出し、
 「貴樣は却々居合が上手だな、その代り劍は餘程下手だ、拔き打ちに斬りかけた一刀は少しばかり冴えてゐたが、あとはまるでデクの坊だ、そんな腕前で人が斬れるものか、第一罪もない人を辻斬にして樂しむといふのが不心得千萬……察するところ貴樣は薩摩の武士だらう、薩摩人が近頃大分辻斬をいたすといふ評判だがけしからんことだ、貴樣の命は助けてやるから仲間の者にさう云つて、以來は必ず辻斬を止めさせろ、若し止めなければこの親爺が出かけて行つて一々首をちよん斬るからそう思へ。」
 と、嚴しく叱りつけた、治左衛門たまらないけれども薩摩と云はれたのでは藩の名にかゝはると思つて、
 「否、拙者は薩摩人ではない、薩摩の藩士ではないから仲間の者にどうのかうのといふことは出來ぬ、斯うなつた以上は斬るともどうとも勝手にせよ。」
 と減らず口を叩いた、老人はその剛情を心憎く思ひ、
 「よしよし、剛情をいふなら一つ攻めてやる、これでもかこれでもか。」
 と急所を締め上げたので治左衛門は骨身が碎け散るほどの苦しみであるけれども愈々剛情を張つて死んでも白状しない根性が見えたので老人も遂に攻めあぐみ、
 「なかなか剛情の奴だ、だがその剛情に頼もしい處があるから助けて置いてやるぞ。」
 といつてそのまゝ立ち上つて再び小謡をうたつて悠々と歩み去つた。
 あとで治左衛門は痛みと苦しみをこらへて起き上つたが、この老人の態度に感心して果して何人であらうかとその後をついて行つて見ると、老人は當時飯田町に道場を開いてゐた江戸一流の劍士齋藤彌九郎であつた、そこで、治左衛門は成るほどと感心し、その後齋藤の門に入つて劍法を學び、後には有數の達人となつて自ら道場を開くに至つた。
(西郷隆盛一代記)

 
    齋藤新太郎

 齋藤彌九郎の長男新太郎(後、彌九郎の名を繼ぎ、父は篤信齋と號す)が門人數人を引きつれ諸國修行中、長州萩の城下に乘込んだ時、宿について、主人が挨拶に來た故に、自分が武者修行者であることを告げて、それから此の地の武藝に就てたづねると、主人が云ふ、
 「當地はなかなか武藝が盛んでございまして、藩では明倫館といふ道場が新しく立派に出來、すぐれた劍客が雲の如くに集つておいでゝございます、今現にあの通り遠く聞えてゐる竹刀の音は、即ち明倫館の稽古の音でございます。」
 それを聞くと、新太郎の一行は大いに喜び、
 「それは樂しみである、明日は推參して是非仕合を願ふと致そう、定めて達人も多いことでござらう。」
 となほいろいろ話して寝に就いた。
 翌朝明倫館へ出かけて行つて、仕合を試み、また宿へ歸つて入浴し、晩酌を傾けてゐる處へ、宿の主人がまたやつて來た。
 「いかゞでございました、今日の御仕合は。」
 とたづねると、一杯機嫌で一行の者が、
 「いやもう、いかにも新築の明倫館は立派なものだ、劍術をやる人は雲のやうに群がつてはゐるが、本當の劍士といふのは一人も無い、丁度、黄金の鳥籠に雀を飼つてゐるやうなものだ。」
 と云ひ立てゐたものだから、その事が藩士の耳に入ると激昂甚だしく、よし、然らば長州武士の眞の腕前を見せてやらうといふわけで、新太郎の旅宿を襲撃しようとする、老士等はこれを鎮撫しようとしたけれども及ばない、あはや血の雨が降らうといふ間際に、老士等は先走りして、新太郎の一行に急を告げ、ともかく急いで此の地を出立してしまつた方がいゝと云はれて、一行はその夜中に出發して九州に渡り漸く事無きを得た。
(齋藤彌九郎傳)

 
    齋藤歡之助

 併し、右の始末だけでは何分にも長州藩士の胸が納まらなかつた、血氣の青年等は相談して、新太郎一行が九州に赴いての留守中急に江戸へ押しかけて行つて、齋藤の練兵館道場を襲ひ、猛烈に叩きつぶして腹癒せをしようと、十數人一團となつて江戸に上つて行つたのである、木島又兵衛、祖式松助等の豪傑が先立ちであつた。
 そこで、この一團が數多の竹刀と小手道具を釣臺に満載して練兵館にかつぎ込み、氣色すさまじく仕合を申込んだ。
 當時、練兵館の留守をあづかつてゐたのは、新太郎の弟歡之助であつた、歡之助時に年正に十七歳、剛勇無雙にして人呼んで鬼歡と云つた、「お突き」を以て最も得意としてゐたが、遠來の長州藩士悉くこの鬼歡の爲に突き伏せられ、數日間、食物が咽喉を通らないで寝込んでしまつたものがある、遠征の目的全く破れ、敗軍の士は、すごすごと竹刀をかついで長州へ歸つて行つた。
 併し、こゝに於て齋藤一族の眞の手並みがわかつたと共に、長州藩士も大いに雅量を發揮し九州の歸途を禮を以て新太郎を萩に迎へて師範とするに至つた。
( 同 )

      

 齋藤歡之助はまた肥前の大村で劍法をヘへたが、大村の藩中に大兵肥満で力の勝れた某といふ劍客があつたが、この男は他人と仕合をする時に、いきなり體當りを試みて、自分の體重の重いのと力の強さで相手を倒してしまふことが得意で、また事實この男の體當りにかゝると如何なる劍客でもあふり倒されないことはなかつたが、この男が齋藤歡之助と大村の領主の前で仕合を所望し、さうして立ち合ひざまに得意の體當りをくれた處歡之助は却つて自分の術をもつてオーとそれをはね返したところが大兵肥満の大男がものゝ見事にうしろへ倒れてしまつた、それより歡之助の名は愈々九州に轟いたが、惜しいことにその遺恨で遂に闇討ちに會つてしまつた。
(西郷隆盛一代記)

 
    千葉榮次郎

 山岡鐵舟が若い時分、千葉榮次郎に數年學んだことがある、榮次郎は有名なる周作の倅で當時出藍の譽を得た人である。
 鐵舟、その時分鬼鐵といはれた血氣盛んの時分であつたが、或日惡戯心から一つ榮次郎先生を苦しめて見ようと門下の荒武者數人を語らひ、
 「今日は一つ根限り精限り入り代り立ち代り先生にぶつゝかつてやれ、如何に千葉の小天狗とはいひながら吾々剛の者が數名その心持で全力を盡して立ち向ふ以上はかなりへこたれるだらう、その最後を見計つて拙者が飛び出して火の出るほど打ちかゝるから。」
 斯ういふ約束をして、その約束通り剛の者數人が死力を盡して榮次郎に立ち向ひ、最後に殿りとして鐵太郎が向つて行つたが、却つて鬼鐵の方が綿の如く疲れさせられてしまつて引き退くのやむを得ざるに至つた、ところが、尚剛情我慢の者があつて、鬼鐵が疲れて退くその後へ隙間もなく榮次郎に向つて打つてかゝつたが榮次郎はその時左右を顧みて、
 「誰れか竹刀の代りを持つて來てくれ。」
 と云つた、鬼鐵と戰つてゐた時分にこの榮次郎先生の竹刀は柄[借字]〔つか〕の眞中から折れてゐたのだ、それでも折れた竹刀を持つてゐるとは誰にも氣のつかないほど平氣でこちらをあしらつてゐたのでその腕前の秀れたところ人をして舌を捲かせたのである。
(木下壽徳著「劍法至極評傳」)

      

 劍術中足がらをかけることに於て千葉榮次郎は殊に優れ、或門人が入塾八ケ年ばかりの間に、他流と手合せの間この業で相手を氣絶せしめたことが十四五度に及んだのを見たといふことである。
 この榮次郎が或る流儀の師家、天野某といふものと仕合をしたが、天野はこの足がらにかゝつて忽ち氣絶した、冷水を頻りに面へかけたけれども容易に回復しない、そこでかたへの人が柔術活法「さそいの法」を施した處、忽ち蘇生したが、この天野氏は蘇生するや少しもひるまず、竹刀を携げ、また暫く榮次郎と仕合をした、見物の者がその豪傑振りを感賞せざるはなかつたが、これは必ずしもその人の剛なるといふ意味のみではなく蘇生者は蘇るや否や元氣が回復して以前に少しも變らないやうになるのが通常なのである。
(劍術名人法)

 
    山岡靜山

 山岡靜山は江戸幕府の旗本であつた、幼時より各方面の武術を研究してゐたが、年十九の時から悟るところがあつて專ら槍術に心を傾け二十二歳の頃には府内に於て及ぶものがなかつた、その頃、筑後柳川の人で南里紀介〔なんりきすけ〕は槍を以て海内無雙と稱せられてゐたが、江戸に來てゐる時分に、靜山を訪ねて何かと其の道の話をしたが、將に歸國しようとする時靜山に請うて仕合をし互に槍を闘はしたが、その光景は實に壯烈の極みで、朝の八時からはじまつて午後の四時まで互に秘術を盡し心魂を極めて立ち合つたが勝負は決せず引分けとなつた、あとで互に槍を見ると穂先は碎けて一寸餘り欠けてゐた。
 靜山は幕府の旗本が徒に墮弱に陥るを慷慨して古武士の風を慕ひ、嚴冬寒夜に荒繩を以て腹を締り、氷を割つて頭から水ごりを取つた後東北に向つて日光廟を拜禮黙祷し、午前二時から道場に入つて重さ十五斤の槍をふるつて突の猛練習をすること一千回、これが三十夜續くことは毎年であつた、槍術に於て一家をなして後も晝は門人にヘ授し、夜は獨り道場に出て突を試むること或は三千回或は五千回、或は夕方から翌朝の鳥の啼くまで三萬回に及んだことがあつて、病氣の時も猛練習をすると治つたといふことである。
 靜山は重い脚氣に罹つてゐた時分、丁度自分の水練の師が仲間の者からその術を嫉妬されて隅田川で謀殺されると聞き、これを助けに行つて水泳中に衝心を起して死んでしまつた、時は安政二年六月のことで享年二十七歳であつた。

 
    淺利又七郎

 淺利又七郎義明は若州小濱藩の劍道の師範であつた、この人は中西忠兵衛子正〔たゞまさ〕(奥平家の劍法師範小野派一刀流の家元)の二男であつて、往いて淺利家を繼いだ人である、又七郎の仕合振りは隙があつて打つべき處をも打たず、或は突くべきところをも突かないで、
 「こちらが勝ちました。」
 といふのを常としてゐた、相手がもしその言葉を聞かない時は、こゝに初めて猶豫なく直ちにその極を差し、又は打つことを例とした、未熟なる修業者はその言葉に從わないものが多く、それが爲に改めて大敗を蒙つてはじめて淺利又七郎の達人であることに驚くのが常であつた、ただ、當時有名なる劍客、中條潜藏(幕末に精鋭隊なるものを組織してその隊長となり、慶喜公、久能山等を擁護した人である)この人が淺利又七郎と仕合する時は、突かれもせず、打たれもせずに、「まゐつた」と自然的に聲を發することがあつたといふ、いづれも機を知るものゝ劍法である、表小手は隙さへあれば何びとにも打てる處であるが、上げ小手の裏を打つたものは古來殆んど無いといつてもよろしく、木下壽徳氏(前帝國大學劍道師範)の如きは、四十餘年間にたゞ一人見たゞけであるが、それが即ち淺利又七郎であつたと自著「劍道至極評傳」に書いてある。



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