日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【人の巻】  弐
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 山岡高歩(鐵舟)   中條金之助   宇野金太郎   近藤彌之助 
 榊原鍵吉   某信と少年   松崎浪四郎   上田馬之助 


 
    山岡高歩

 山岡高歩(鐵舟)は九つの時から劍法を學び、初めは久須美閑適齋に從つて眞影流、後井上清虎に就て北辰一刀流、最後に淺利義明の門に入つて一刀流の奥義を極めたのであるが、その頃豐前中津の劍道師範中西家と若州小濱の劍道師範淺利家とで、毎年春秋二季に終日稽古をする慣例があつた、天下の我はと思ふ各藩の劍士、その來り集るものは大低三四百人で、當日は午前五時から午後四時まで仕合が繼續せられた、その時大方の者は一仕合毎に面を脱いで一休みしてゐた、鐵舟もこの終日稽古には必ず出席してゐた、そして他の大家とは違ひ、最初に面を被つたらその儘右の三四百人の大家を片端から相手にする例であつたので、
 「鬼鐵の劍術は飯よりも好きだから叶はない。」
 と評判されてゐた、鐵舟が後年の誓願の方法は、この終日稽古から案出したのであつた、二十四の時一週間立ち切り千四百回の仕合をしたが更に疲勞衰弱を覺えなかつたとの事である、世間からはこうして畏懼せられてゐたけれども、鐵舟は尚心中に慊嫌たるものがあるのを憾とし天下無敵の良師を求めて碎勵しようと心掛けた。
 二十八歳の時に、はじめて淺利又七郎にぶつゝかつたのである、淺利に會つて、はじめて山岡は衷心から恐入つてしまひ、之に就て粉骨碎身の稽古をしたが、夜もろくろく眠らぬので晝道場に出てもうたゝ寝をすることが度々あつた、又七郎この態を見て變つた男だと竹刀を取つて突然打ち込んで見ると、今まで身動きもせず寝入つてゐた鐵舟は忽ち身を翻し竹刀を振つて立ち向つた、又七郎は非常に喜んで特に念を入れて稽古したが、鐵舟勢こんで立ち向ひはするが咽喉に附く又七郎の劍をどうすることも出來なかつた。
 又七郎の立合は「突き」と云つてきつ先きを敵の咽喉にぴたりと向け、そのまゝ蛇が蛙を睨んだやうに如何に相手がもがいても右へかはすと右へ從ひ、左に避けると左に伴うて丁度咽喉にくつゝいた樣に、敵がまゐつたと云はぬ以上いつまでもこの形を保つて遂には本當に咽喉を突いた、鐵舟がどんなに打つても突いても盤石に當つてハネ返されるやうであつた、鐵舟はそこに足らざるものあることをつくづく感じた。
 さうして、明けても暮れても淺利又七郎の姿が眼先きにちらついてどうにもならなかつた。
 そこで、苦心惨澹の末、伊豆の龍澤寺の星定禪師に參禪した、江戸から龍澤寺までは三十餘里ある間を早曉馬に乘つて通つたものである、或は相國寺の獨園和尚にも參禪し、或は由利滴水和尚に公案を受くる等、あらゆる苦心を重ねたがまだどうしても淺利の姿が目先きにちらついて容易にその幻影を取り去ることが出來なかつた、然るに明治十三年三月三十日の曉に至つて豁然として悟るところがあつて、そこで劍をとつて淺利を相手に仕合をする型をやつて見たが、今は更に淺利の幻影が見えない、鐵舟は歡喜に堪へず、
 「あゝ、今こそ無敵の極所に達した。」
 と叫んだがこれは鐵舟まさに四十五歳の時、劍を學びはじめてより三十七年のことであつた。
 その日直ちに鐵舟は高弟籠手田安定を招いて仕合をして見たが、その時鐵舟がまだ打ち出さないのに、安定は大聲を擧げて、
 「先生まゐりました。」
 と叫んだ、鐵舟は刀をひいて、
 「どうしたのだ。」
 安定が答へて云ふ。
 「先生に御指南を受けてゐること長日月でありますが未だ曾て今日のやうな刀勢の不思議を見たことはありません、到底先生の面前に立つことが出來ません、全く人間業とは思はれません。」
 と云つた、そこで鐵舟はまた改めて淺利又七郎を招いて仕合を願つた、義明は喜んでこれを承諾し、兩雄互に立合つたが、その時鐵舟の威勢に義明は突然刀を抛つて容を改め、
 「君の業は至る處に至り得た、我等及ぶところでない。」
 と云つて、この日一刀流の無想劍極意を悉く鐵舟に傳へた、鐵舟は尚それに安んずることなく、愈々精究して、終に無刀流の一派を開いたのであるが、この三月三十日が發明の日であるからこの日を記念日稽古はじめとした。
(山岡鐵舟の生涯)

      

 山岡鐵舟の無刀流の道場即ち春風館へ明治十七年の頃、伊藤一刀齋九世の孫といふ小野業雄が上總から來て家傳の劍法を演じて見せた、鐵舟がこれを見ていふに、
 「近世傳ふる處のものは多く技を衒ふの嫌ひがある、思ふにこれは御前仕合等に於て使ひ崩したものであらう、今小野家の法といふのを見るに斷じてこの風が無い、これぞ即ち一刀齋の正傳である。」
 そこで小野氏を春風館に止めて己れに代つて門人をヘ授せしめた、その時小野氏は、一刀正傳の秘奥と家に傳はつた瓶割の刀とを鐵舟に傳へたさうだがその秘奥は殆んど鐵舟が發明したところの無刀流と符合してゐたといふことである。
(佐倉孫三編「山岡鐵舟傳」)

      

 山岡鐵舟が壯年の頃或夜友人と芝の山内を通りかゝつた時に、向ふから一個の壯士が長い刀を帯び、高下駄をはいて肩で風を切つて來るのを見た、そこで鐵舟は友人に向つて云ふ。
 「君、あれをどう思ふ。」
 友人もまた、可なりの強がりと見えて、
 「あれは見た處はなかなか豪傑らしいけれども内心は弱虫だらう、今一つ僕が試してその荒膽をひしいでやらう。」
 と、よせばよいのに刀を拔いてその前に迫つて行つた、先方も驚きながら刀を拔いてこれに應じたが、さうして睨み合つてゐるばかりでいつまで經つても一向打ち込む容子はないので鐵舟は餘りのことに之を怪しんで近寄つて、それをよくよく見ると兩人の顔はさながら青鬼のやうで互に二間餘りも離れて凝り固まつて動かない有樣である、鐵舟は、兎も角相方共に怪我のないのを喜んで急に手を以て相方の刀を叩いて見たところが一方はカラリと地に落ち一方は凍りついたと同樣になつて動かない、よつて鐵舟は大聲に、
 「つまらぬ喧嘩はやめろ。」
 といつた處がはじめて兩人は夢の醒めたやうであつたといふ。
 鐵舟が後日この事を話して人間といふものは平生は豪傑のやうに見えても死生の際に臨めば案外なものだ、深く鍛錬の功を積まねばなんにもならないものだといつたといふ。
(山岡鐵舟傳)

 
    中條金之助

 中條金之助は旗本で有名な劍士であつて、門地も年配も、鐵舟の上で、劍術も亦鐵舟より秀でゝゐたが、維新後は駿州金谷原に退隠して開墾事業を始めたが、清貧を守り仕官せず自ら原野に出でゝ耕作をしてゐる時も矢張り短い袴をはいて鋤鍬を取り威儀を整へてゐた、近郷の民が尊敬して金原の先生といつた、鐵舟が無刀流の劍法を開いたことを聞いて上京して仕合をして見たが忽ち氣絶するばかりに打たれたので、その無法を憤つて箱根まで歸つたが忽ち非を悟つて引返し、推服したといふことだ、その後も時々東京の山岡道場へ遊びに見えてゐたが、まだ結髪でいたといふ、或時云ふ事には、
 「余は少年時代から山岡と一緒に千葉、齋藤、桃ノ井等の諸大家の門に遊んだけれどもその頃までは鐵舟の腕は余の腕よりも數等下る位であつたが、今や鐵舟の劍はその妙所に至り、前諸大家と雖も未だ窺はざる處を得てゐる、余の如きは殆んど三舎を避けざるを得ないのである、これはその天性にもよるが全く禪理の妙よりこゝに至つたものであらう。」 
 と。
(山岡鐵舟傳)

      

 後に福井縣の知事等を勤めた香川輝が青年時代に山岡鐵舟の道場に行き、鐵舟に稽古を乞うた、その時道場を修築中であつたが、香川は、他の門人達と共に砂を敷いた庭へ行つて鐵舟に面會をしたが、鐵舟は肅とし動かず、爛々たる眼光射るが如く、香川の眼には~人が面前に現はれたるが如く、如何とも仕樣がなかつたけれどもそのまゝ歸るべきでもないから勇氣を勵まして手強くかゝつて見たが、最後にその雷霆の「突」に當つて眞逆樣に倒され、殆んど絶息したやうな氣持になつた。
 香川氏はその歸途思ふのに、
 「自分は何も劍を持つて世に立たうと志して來たわけではない、だからあんな風に命がけでの稽古はこれからやめることにしよう。」
 と思つたが、翌日になると又勇氣が回復し再び鐵舟の稽古を受けに行つたが、この日又霹靂の突に會ひ後ろに絶倒し、その苦痛前日同樣であつた。
 その日の歸途も亦、昨日同樣劍術をやめようかと思つたが又翌日になつて勇氣が回復すると三度鐵舟の門を叩き、前の如く打向ひ激しく突き倒されたこと前日の如くであつたから、その晩もうこんどこそはこれ限り劍道をやめようと思ひ定めて見て、さて又翌日になると思ひ返し四度鐵舟の道場に見えたがこの日の鐵舟のヘへ振りは誠に穏やかで前日とは打つて變つた別法の感がある、そこでその以後毎日通つて勉強をしたが、その後は少しも前の日のやうな猛烈の態度を曾て見たことがなかつた。
(香川氏著「劍道極意」)

      

 山岡鐵舟の弟子に加賀の藩士で木村といふ人があつたが、この男は居敷の際、相手が他所見をするとか又はこちらの面を見ないで下を向ひて禮をするやうな時は必ず相手の刀を打つたのでそれが無禮だといつて仕合をしない先から喧嘩口論になつたことも度々であつた、鐵舟がその事を聞くと却つて木村の擧動を賞めていふには、
 「禮儀も度を過すと却つて非禮となるものだ、今勝負を決めようとする場合に他所見をするなどとは以ての外の事だ。」
 と云つて却つて打たれた門弟を戒しめたとのことである。
(劍法至極評傳)

 
    宇野金太郎

 宇野金太郎は矢張り近世劍術の名人でその名關西に鳴つてゐたが、最初の時は明俵に砂石を満しこれを木の下に釣り下げて振り動かし、自分の身體に突き當てゝ修業してゐたといふ事である。
 金太郎は紙撚〔こより〕で丸行燈を突くと、行燈の紙を突き破つたが、燈は少しも動かさせなかつた、その紙撚一本だけに全力を集中することが出來たのである。
 宇野はまた立木に向つて打撃を試み、又は椋の實を天井から釣下げ、これを刀の鋩ツ先きで穿き當てることを獨習し、又いつも銃身を携へてそれを揮ふのを常としてゐた。
 金太郎は相手の小手に一撃を加へて相手が若し「輕い」とでも云はうものならその聲のまだ終らないふちに忽ち第二の小手打が來て相手は數日間腕が腫れふくれて痛みが止まらなかつたといふことである。
 金太郎はまた箸を持つて蠅を捕ふるに妙を得て眼に觸るゝところ一匹も逃がすことではなかつた。
 金太郎が竹刀を振るつて敵に向ふ時には、「面」「突」「小手」と打突を入れるに先立つて言葉をかけたが、それを防ぎ得るものはなかつた。
 金太郎が短い木刀を取つて同時に五人の劍士へ[この「へ」は剰字無用](いづれも今日の精練證以上)に當り、敵の打つ太刀を一回も自分の身に觸れしめなかつた。
 金太郎が曾て髯を剃つてゐた處へ出入りの魚屋が板臺を擔いで來た、魚屋が云ふのに、
 「先生がさうして髪を剃つておいでなさる處をこの天秤棒で打つてかゝつたらどうなさる。」
 と、金太郎曰く、
 「いいとも、打ち込んで來い。」
 魚屋、合點だとて天秤棒で無二無三に打ち込んで來た、金太郎ひらりと體をかわしたがやつぱり平氣で髯を刺つてゐる、魚屋が仕損じたりと第二撃を加へたところ、金太郎ひらりと身をかはすこと元の如く、不相變髯を剃つてゐる、魚屋が焦つて三度撃つてかゝると、その體は忽ち庭石の上に放ぽり出されてしまつた、併し金太郎は前の通り一向姿勢を崩さずに髯を剃つてゐたといふ。
 金太郎は常に走る鼠を一打で打ち殺したが鼠が走つてゐる刹那、無心で木刀を鼠の頭の上に下すのである。
(劍道極意)

 
    近藤彌之助

 近藤彌之助は講武所の師範で幕末有數の劍客であり、濱町に住んで門弟數百人を取り立てゝゐたから、この人を立たせれば有力な一方の決死隊が出來るといふわけで、彰義隊は勧誘を試みたけれども、この人は慶喜恭順の意を體して容易に動かなかつた、そこで彰義隊はこれを遺恨に思つて彰義隊の戰後、落武者二十餘人が拔き連れてその家に亂入し、
 「われ等は奥州へ落ち行く、行きがけの駄賃に貴殿の首を貰つて行くのだ。」
 と云つた。
 その時、近藤の家には主人の他に内弟子が二人ゐたゞけであつたが、師弟三人刀を拔いて二十餘人を防いだ、内弟子の一人は殺されもう一人は重傷を負はされたけれども、流石に近藤は多勢を相手にして一ケ所の疵も受けず右に隠れ左に現はれ、敵四五人を斬り倒したので皆々退散してしまつた、この人は明治の中頃迄生きてゐたが、或時府下を荒した有名な強盗がこの人の家に入り込み主人の爲に眞二つに斬られたことがある、當時點檢した警官もその腕前に驚歎したといふことである。
(西郷隆盛一代記)

 
    榊原健吉

 榊原健吉は男谷の高弟であるが、講武所の師範役中でも一段水際立つてゐて、將軍からも寵用された、將軍のお好みによつて當時槍術師範の高橋伊勢守と仕合した時、例の得意の大上段に振り被つて胸部を敵に與へて、而も繰出す鋭鋒を左右にかわし、附入つて見事對手の面を打ちたる妙技などは將軍の感賞斜めならず、並居る人々も其非凡に驚かぬものはなかつた、又京都滞在中に、二條城中の庭園で新たに召抱へとなつた眞陰流の天野將曹と立合つた時なども上段に構へて龍尾の劍の働き鋭く、後の先に敵の面を打つたが、將曹も御前仕合といひ、新參の首尾に不覺を取つては末代の耻辱といふ、我慢の意氣張に決して參つたの一言を吐かなかつた、健吉さらばと手段をかへて勢ひ猛に諸手突きを喰はしたので飛びかへつて顚倒して了つた、満座の人々の賞讃はもとより、將軍の御感は一入深かつたといふ。
(日本劍道史)

 
    某僧と少年

 幕末の頃山岡鐵舟、高橋泥舟、中條志嶽等の劍客が皆々劍道の奥義は禪學にあるといつて或名僧を聘してそのヘを聞いてゐたが餘りに禪に凝つてしまつて遂には劍道の方をおろそかにするやうに見えたから門人が大いに不平を云ひたてゝ諌言を申入れた、ところが先生達、君達の知つたことではないと云つて取り上げないものだから愈々憤慨して、これといふのもあの坊主があるものだから、あの講釋にわれわれの先生達が迷はされてゐるのだ、彼奴を殺してしまはうではないかといふことに相談を決めてゐた。
 或時、高橋泥舟の宅で例の通り佛ヘ講話があるといふことを聞いて、今日こそと一同相談の上松岡某といふのを坊主襲撃の役目に選んで時間を計つて途中で僧の來るのを待ち合はさせた。
 ところが、その日の講話が終つた時右の僧がいふのに、
 「どうも今日は何だか氣分が變だ、自分の身に何か間違ひが起りさうだ。」
 と云つて頻りに首をかしげて考へてゐた、劍道の諸先生方、
 「成るほどさ樣な氣分が起つた時にはどうかすると間違ひがあり勝だから不自由ながらこゝへ一泊なされては如何。」
 といつて引止めたけれども、僧はそれほどにも及ぶまいとあつて歸ることにした。
 「然らば誰れぞ氣の利いたお伴を一人つけてあげませう。」
 と云つたが、僧はどこまでもそれを斷つたけれども斷りきれないで遂に十六歳になつた高橋の内弟子を僧のお伴につけてやることになつた、その時に右の少年に云ひ含めることには、
 「途中たとひどんな變事が起ろうとも決して武士の本分を忘れては相成らんぞ。」
 さうして二人が出かけると待ち構へてゐた例の松岡が、いきなり飛び出して一刀のもとに僧を斬り伏せてしまつた、餘りの急に内弟子の少年は一時は氣も顚倒したが忽ち一刀を拔いて斬り込んだ暴徒に應戰した、少年も松岡も本來見識り同士のことだから、松岡は大きな聲を擧げて、
 「おれだよおれだよ、よせよよせよ。」
 と叫んだけれども更に聞き容れられない、まつしぐらに進んで來る少年をあしらつてゐるうちに片腕を斬り落され、それと同時に肩先き深く斬り込まれ、摚とうしろへ倒れた、少年は刀をさげたまゝ高橋邸へ戻り、
 「斬つた斬つた。」
 といつて泣き騒いだといふ。
 僧を殺さうとして企んだ門人達の方では松岡の歸りが餘り遲いので、その場へ行つて見ると松岡は右の如く重傷を負うてゐた、息も絶え絶えに始末を語つたが、その深手の爲に遂に死んでしまつた。
(木下壽住[壽徳?]著「劍法至極評傳」)

 
    松崎浪四郎

 齋藤歡之助が武者修業の時、九州久留米の松崎浪四郎を訪うて仕合を申込んだ、久留米は聞えたる武術の地であり松崎は九州一と稱せられてゐた、こちらは名にし負ふ齋藤の鬼歡である、この兩人の立合は實に目ざましいものであつたが、歡之助は竹刀を上段に構へ、浪四郎は正眼に構へた、歡之助が電光石火の如く浪四郎の頭上目がけて打込むのを、浪四郎はやゝ體を反らして防ぐ處を隙さず歡之助が得意の體當りを試みたが浪四郎もこれには堪へきれず、よろよろとよろめく處を歡之助が、又も打下さんとした太刀先に、あはや松崎は危しと見えたが、彼もさる者、倒れながら横薙ぎに歡之助の胴を打つて、
 「命は此方に。」
 と叫んだ瞬間の働きは見事であつた。
 歡之助が浪四郎の爲に敗れたことを聞いて、後進の吉村豐次といふ男が、その復讐のつもりで、或時松崎を訪うて仕合を申込んだがこの吉村はなかなか豪膽の男であつたが、正直に仕合をしてゐては、とても松崎の敵でないから、ワザと奇略を以て勝たうと思つて、竹刀を交へるや否や、吉村は、故意に浪四郎の拳を目がけて打込んで、
 「お小手。」
 と叫んで、竹刀を引いた、浪四郎は笑ひながら、
 「お小手ではない、拳だ。」
 と云ふのを、吉村は知らぬ顔で、道場の隅々を歩き廻つてゐるので、
 「どうしたのです。」
 とたづねると、吉村が、
 「只今、打ち落した貴殿の拳を尋ねてゐるのでござる。」
 と云つたので、それを聞いた松崎は烈火の如く怒つて、
 「憎くき一言。」
 と云ひながら、太刀を使ひ出したが、心頭にのぼる怒氣の爲に太刀先が狂ひ、思ふやうに使へない處を、吉村の方は思ふ壼と勇氣百倍して、散々に打ち込み、
 「これでも九州一か。」
 と叫びながら勝を取つたとの事である。
 明治の初年伊藤博文の邸に於て武道を天覧に供したことがあるが、その時この久留米の松崎浪四郎と、佐倉の逸見荘助兩人の立合ひがあつた、其の時、互に間合を取つて對峙すること凡そ三十分であつたが、遂に逸見から色を見せその色に乘じてかゝろうと企てたのを松崎浪四郎が色を見せたその刹那の機に乘じ逸見の小手を取つて勝つたのは古今無類の間合ともいふべき見ものであつたさうな。

 
    上田馬之助

 上田馬之助は桃井春藏の高弟であつて、維新當時の名人であつたが、その頃は矢張り武者修行が流行し江戸の劍客も九州を修行に廻ることが多かつた、さうして薩州の鹿兒島に來て見たが流石に江戸仕込の名劍客、薩摩には手にたつものが無かつた。
 ところが日向の國に天自然の劍客に吉田某といふものがあつた、われこそ上田馬之助を打ち込みくれんと鹿兒島へやつて來て上田に仕合を申込んだ、上田は快く承諾して翌日城下鍛冶屋町の某藩士の庭上で仕合ふことを約束した、當時薩摩の劍術は道場といふものがなくて荒つぽい修行をしたものである。
 上田と吉田との仕合のことが忽ち城下の評判となると、後の隆盛西郷吉之助、後の桐野利秋中村半次郎、有村治左衛門も見物に來たさうである、その他見物山の如く押しかけてゐた。
 やがて相方庭に出ていざ仕合の用意となると馬之助は面小手と胴とをつけ竹刀を携へて出て來たけれども、吉田は素面素小手でたゞ太い竹刀を携へたのみであつた、それを見ると馬之助が吉田に向つて、
 「貴殿はどうしてお道具をつけられないのですか、お道具がなければ立合ひは出來ません。」
 といつたところが、吉田は豪然として、
 「貴殿こそ他國のものであるによつて御存知が無いと見えるが、我が天自然流と申すは一切の道具を身に附けず、素面素小手で打合ふのが習ひでござる、御身はお流儀上道具をおつけにならるゝとも差支へないが拙者の身體は鍛へ上げて鐵の如くになつてござるにより頭でも腹でも勝手の處をお打ちなされ、竹刀ぐらいが當つたからといつて痛いと思ふやうな拙者ではござらぬ。」
 と輕蔑面に答へた、馬之助は元來謹み深い男であつたけれども、この廣言を憎いと思つたらしく、
 「いや、天自然流のことは拙者も豫て聞き及んでゐる、先頃も江戸表に於て千葉榮次郎が熊本細川侯の藩中であるところの劍客と仕合を致したが、先方が貴殿同樣道具を用ゐない爲に榮次郎も當惑いたし、わざと小手を三本輕く打ち込んだが、榮次郎の腕の冴えをもつてその人は手の骨を挫いて使用が出來なくなつた、今貴殿の身體が鐵だと仰有るならば、拙者が竹刀はずゐ分その鐵をも碎くでござらう、念の爲に拙者が竹刀の働きのほどを御覧に入れ申そう。」
 といつて家の者に最も丈夫な竹の古胴を貰ひうけてそれを庭の大木に卷きつけて云ふことには、
 「如何に吉田氏、この竹胴は竹も太く、拵へも丈夫であるのに隙間なくこの大木に卷いてあることだから普通では容易にこの竹が碎けるといふことは無い筈であるが、今拙者はこの竹刀を以てこの竹を碎いてお見せ申そう、若しこの竹が碎けたならば御身も道具を附け給へ、貴殿の身體は堅いと仰有るけれどもこの竹胴より堅いことはござるまい。」
 といつて太くもあらぬ竹刀を以て馬之助が突立つてゐる、吉田はまさかこの細竹刀であの竹胴が碎けようとも思はなかつたから、
 「よろしい、見事貴殿があの竹胴を碎いたならば拙者も道具を附けるであらう。」
 と約束したが、馬之助、
 「えい。」
 と一聲輕く打ち込んだと見えたが近寄つて竹胴を驗べて見ると太い竹が三本程中から折れてゐた、吉田もこれを見て膽を冷したが、馬之助は尚一枚の四分板を借りて來て立てかけ、先革の附いてゐる竹刀で、えいと突けば、槍で突いた如く板へ穴があいて竹刀の先きは少しも破れなかつた、そこで、
 「如何に吉田氏、御身の咽喉の皮が厚いと云はれたとてこの板にはかなひますまい、若し拙者の竹刀が當つて怪我があるといけないから是非とも道具をおつけなさい。」
 と、遂に吉田に面小手胴を附けさせてしまつた、それから相方立合つて二三番仕合をしたけれどももとより馬之助の敵ではないから吉田はさんざん敗北したが、強情の代りに邪念のない人であつたから馬之助の技量に感心し、それから鹿兒島に逗留し、ついて劍法を學ぶことになつた。
 上田馬之助が鹿兒島で竹胴を碎いたことはその頃評判の話で維新の後に至るまで劍客仲間の話の種となつたが、竹刀で板を穿き拔くことも亦馬之助の大得意であつた、明治十九年まで日本橋區松島町に馬之助の弟弟子に當る三輪仙之助が劍術の道場を開いてゐたが、馬之助も時々助け稽古に來て人に拜見を乞はれて板を貫いて見せたことがあつた。
 彦根の藩中で兒島某といふ劍客は彦根の虎と稱せられ、虎が出るといへば相手に立つ者がないほどの達者と云はれた、その虎とあだ名をされたのは、黒塗の革胴に金蒔繪でもつて大きな虎を一杯に描き出し人と仕合をする時はたとひほかの處は打たれてもその胴へは決して竹刀を觸れさせないと平常自分も自慢にしてゐたのである、尤も一度竹刀に打たせれば金蒔繪がはげて竹刀のあとが殘るのだからこの人は生涯この胴を人に打たせることはなかつた、併し、上田馬之助と立ち合ふ時に限つて決してこの胴をつけないで他の胴を用ゐたことから馬之助から、
 「兒島さん、虎胴〔とらどう〕はどうしました。」
 とからかわれた、兒島の腕はその時分並ぶものが少い程であつたのに馬之助に合ふと子供のやうにあしらはれたのである。
 この上田馬之助の云ふことには西郷吉之助なども大いにヘへられたとのことであるが、有名なる松田の三人斬といふのは當時一代の視聽を驚かしたのである。
 それは銀座の尾張町に松田といふ料理屋があつたがなかなか安くて勉強するから評判であつたが、上田馬之助は或時この邊を通りかゝつて晝食をしようと松田の樓上へ上つたが、客はなかなか混んでゐた、けれども上田はたゞ一人であつたから少し空いた席につき酒も飲まず、ちょつと食事をしたゞけで歸らうとすると丁度向ふの隅にゐた三人の武士がその先きにゐた子供連れの商人に向つて遽に大聲をあげてどなりはじめた。
 その事の起りといふのは子供が刀を踏んだとか踏まないとかいふことであつたが、何分酒の上のことゝいひ、その時分の荒つぽい武士の氣風で商人が平あやまりにあやまるのを聞かず刀を拔いて切り捨てんばかりの意氣組であつた、武士の亂暴は當時珍しいことではなかつたが、何しろ客がこの通り混んでゐる二階のことではあり、他の客も驚き騒ぎ女中達も共々詫びをしたが三人のものは酒氣にかられ愈々暴れ出した。
 上田馬之助がその武士の面を見ると一人は天童の織田家の劍術の師範役某といふものであつた、他の二人はその門弟でもあるらしかつた、上田は劍術仲間でその師範役とは二三度面を合せたこともあるのだから衆人の難儀を見るにしのびずその傍へ進んで行つて仲裁をした。
 先方の三人は何者が出て來たのかと見るとこれぞ桃井の小天狗といはれる上田馬之助であつたからどうも相手が惡い、今までの勢も何處へやら猫のやうに小さくなつてむにやむにやとしてしまつた。
 助けられた商人は厚く上田に禮を云ひ子供を連れて逃げるやうに立去つてしまつたが、多數の客のうちには上田馬之助を見知つてゐるものもあつて、
 「あれは名代の桃井の小天狗上田先生だ、あの先生にかゝつては世間並みの劍術使が五人や十人束になつたとて叶ふものではない、だからあの三人も黙つてしまつたのだ。」
 斯ういふ私語が聞えたものだから師範役はじめ三人は無念の色を示して居たけれども、何しても相手が上田だから手出しも出來ず、そこで上田は自分の席へ戻つて來て勘定を濟せ三人にも挨拶をして立ち上り、何心なく二階の梯子段を二段目まで下り、今三段目に片足を卸さうとする途端、諜し合せた三人の者は一度に拔きつれて上から不意に斬り下した。
 その時上田馬之助は梯子段の中程でヒラリと身をかわしたが、
 「卑怯者奴。」
 と云ひながら、躍り上つて師範役を拔き打ちに拂つたところが腕の冴えは恐しいもので大の男が胴切りになつてしまつた、これはと驚き門弟が後ろから斬りかゝるのをふり向きざまに顔の上から顎の下まで一刀に斬り下げ返す刀で今一人の細首を丁と打ち落した、その働きの素早いことほんの瞬く間に三人を仕止めてしまつた。
 二階にゐた客達はそれ喧嘩だと逃げようとしたが梯子段ではじまつたことなので逃げ路を失つていよいよ立騒ぐころには早や勝負がついてしまつて驚いたり呆れたりするほかはなかつた。
 それから馬之助は家の者を呼び町役人を呼んで檢視を待つてゐたが、檢視に來た役人もその斬口の見事なのに驚き早速見舞に來た馬之助の門弟達と共に感歎しておかなかつたといふことであるが、この三人の死骸は皆んな一刀づゝの斬口で二刀まで加へた跡はなく殊に師範役の胴斬は勝れて見事であつたといふことだ、何しても理非曲直分明なことで見物人が皆保證人であつたから別段咎めがなくて濟んだ。
 この馬之助は明治になつてから警視廳や宮内省に仕へたが、明治二十年頃七十餘歳の長壽で亡くなつた。
(西郷隆盛一代記)



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