日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【地の巻】  参
 目 次      Back     Next 

 正木利充   磯又右衛門   澁川友右衛門   澁川伴五郎   竹内守次郎 
 加藤右計   海我東藏   上泉權右衛門   深尾角馬   孫兵衛忠一 
 福島松江   穴澤主殿助   吉田大藏   寺澤半平   伊庭總兵衛 
 平井八郎兵衛   和田平助 


 
    正木利充

 美濃の大垣侯の臣で正木太郎利充は、一刀流であるが、又先意流の長刀の奥義を極めて劍術と合せて傳へてゐた。
 或年大垣侯江戸城大手の御門を預つて居り、太郎太夫も番を勤めてゐたが、つらつら思ふのに、今こゝに不意にあふれ者か狂人が現はれたとして一刻に斬つて捨てゝは後難がある、棒などゝいふものは、足輕以下が手に手にとつて出合ふであらう、さりとて自分は居ながら見物してゐるわけにも行かない、何か可然工夫はないものかとそれが因〔もと〕で『玉ぐさり』の術を思ひついた、これは袖にも懐にも隠して持つてゐることが出來、十手、鼻捻、鏁鎌などの器と用ゐ方が同じである、この太郎太夫は信仰者で、この錬を人に施すにも一々祈祷をして精を入れて施したといふことである。
(撃劍叢談)

 
    磯又右衛門

 天~眞楊流の祖、(磯又右衛門柳關齋正足)[磯又右衛門(柳關齋正足)か]は伊勢の松坂の生れで、紀州の藩士であつた、本名は岡山八郎次と云つて、曾て江州草津に兩三年足を止めて柔術を指南してゐた時、人の爲に僅かに西村といふ門弟と二人で百餘人の惡者を相手としてこれを追ひ散らし、人命を救つたことがあるが、その時初めて當身のことに就て大いに悟つた處があるといふ。
 古來戰場に於ては組打ちを專一とし、又敵によつて當身の術を行うことは諸流師家は皆知つてゐるけれども、未だ眞の當身をもつて修業することはなかつたが、又右衛門は人命を救はんが爲に諸所で眞劍の勝負をしたことから眞の當〔あて〕をもつて修業しなければ勝つことは出來ないといふことを悟り、それから、當身の修業に心を用ゐ、そこで楊心流と眞の~道流とを合して別に一派を立て、百二十餘手を定めて天~眞楊流と稱した、後江戸に出でゝ幕府の臣となつた。

 
    澁川友右衛門

 寶永より以後柔術では澁川友右衛門が傑出してゐる、その弟子に伊藤柔順が有名であつた。
 友右衛門の子伴五郎が同じく人に柔術の指南をしてゐたが、之は關口伴五郎といふ者に學んで關口流といつた。
 本家は紀州にあつて關口伴五郎といつたがこれが元祖である、三代目の伴五郎は柔術が甚だ不器用で父祖の業を繼ぐことは出來まいとの評判であつたが、それでも修行少しも怠らなかつた爲に、フト二三年の間にはたはたと上達し、家名に恥ぢず優れたものになつたといふ。
(異説まちまち)

 
    澁川伴五郎

 澁川流は關口彌左衛門の高弟、澁川伴五郎の一流である、この流の柔は相撲に似て羸弱の人などは修行することがむづかしいといふたといふことである。
(撃劍叢談)

 
    竹内守次郎

 竹内守次郎は柔術の名人である、松平六郎[三五郎?]は大力無双の人である。三五郎以爲らく、
 「守次郎何程柔術が上手なりとも首か腕を我れ攫みなば、其儘攫み殺さん。」
 と之を常に廣言して居つたが、三五郎は或時、安次郎[守次郎の誤記]を招き、先づ試に家僕に大力なる者あるを呼び出して、
 「御手合せを拜見申度。」
 と乞うた、家僕は主人より豫て内意を受け相手を殺しても苦しからずとの事であつた故、守次郎を攫み殺さうと思ひ、仁王立に立つて待ち構へた。
 守次郎やがて立合つたが、其大力なる家僕を何の手もなく傍へ投げ出し氣絶せしめた、これは彼が自分に力を入れ過し故、却つて氣絶したのである、三五郎驚き入り、
 「さて、聞きしにまさる御手際感じ入り申候、柔術には活を入れるとか申事これある由聞き及び居候、何卒あの者を活かし給はるべし。」
 といつた、守次郎、
 「さ樣なることは存じ申さゞるも殺さうと思つて投げたわけでないから、死にはしないだらう。」
 と云ひながら氣絶した家僕に寄添い、軀に手を掛ると見えたが、家僕は忽ち氣が付いた、併し此の僕は背骨を痛め、一人前の業ができぬやうになつた故、三五郎は一生扶持し置いた、三五郎はこの技に恐れて立合を思ひ止まり、この時より守五郎[守次郎の誤記]が弟子となつた、この守次郎は小男で、平生の事には至つて手ぬるき者であつたといふ、彼は寛文、元禄頃の人である。
(武道極意)

 
    加藤右計

 明和の頃であつたか、加藤右計といふ柔術の達人があつた、或る時他の柔術家が仕合を所望して來た處が、右計がいふのに、
 「それは無用なことだ、とても柔術での仕合は勝負をして一人死ぬより外はない。」
 と答へた、然るに相手方は是非々々といつて退かないものだから右計も已むなく、
 「さらば。」
 といつて立合つたが彼の男、組みつくと直ぐ投げつけられたが、壁を打ち拔いてその身は外へ飛び出して即死してしまつた、右計が云ふには、
 「要らざることである、是非々々といふから立合つたものゝこの態〔ざま〕である、併し彼も達したものである、我が投げた時彼は當身をした故に拙者のあばらをこの通り蹴破つてゐる。」
 といつて肌をぬいで人に見せたところ、その肋骨が一本折れてゐたといふことである。
(甲子夜話)

 
    海我東藏

 秋月の藩士に、海我東藏といふやはらの達人があつた、形は如何にも小さくて、見すぼらしいものであつた、或時、この東藏が用事あつて田舎に行き、夜更けて歸り途森林の中を通ると一人の大男が躍り出でゝ立ち塞がり、
 「金を渡せ。」
 と脅かしたので、東藏はカラカラと打ち笑ひ、
 「泥の中へ捨てる金はあつても貴樣達に施す金はない。」
 といつた處、右の男が、
 「ほざいたりな此奴、金が無ければ貴樣の命をよこせ。」
 といつて東藏の帯ぎはを取るより早く輕々と眼よりも高く差上げてしまつた、差上げられながら東藏はちつとも騒がず、
 「この城下にありながら海我東藏を知らないか。」
 といつたので、大男の盗人はこれが有名なやはらの達人かと顫へ上つてしまつたが、さてどうすることも出來ない、そこで東藏は、
 「さあ、投げれば蹴るぞ、おろせば當身を食はすぞ。」
 といつたので、投げることも卸すことも出來ない、たうとうそのまゝ東藏を城下まで擔いで行つて芝生の上にそつと置いて後をも見ずして逃げ去つたといふことである。
 また東藏が家に豫て出入をしてゐる相撲取があつたが、或時東藏に向つていふには、
 「旦那樣がどんなにやはらの達人でござつても、若し不意に出て後ろから抱きすくめて了へばどうすることも出來ないでせう。」
 といつた、東藏がこれに答へて、
 「柔術といふものは、そんな淺はかなものではない、けれども、お前が若し、嘘だと思ふならば論より證據これから略々一ケ月ばかりの間拙者は夜な夜な出歩くによつてどうでもお前のするやうにして見ろ。」
 と云ひ聞かせて置いた、けれども相撲取は、それから後、何の音沙汰もなかつたからあれは一時の冗談だと思つて、東藏も氣にかけないでゐた。
 處が或日東藏が大變酒に醉つぱらつて火鉢によりかゝつて、うとうとと居ねむりをしてゐる處へ彼の相撲取が不意に出て來て背後から力の限り抱き締めた、東藏は少しも騒がず、
 「今一しめ。」
 と、叫んだと見る間に相撲取は二三間向ふヘ投げ飛ばされてゐた。
 これには力自慢の相撲取も閉口し、
 「どうして斯うまで早くやれるものか。」
 と、訊ねた處が、東藏が打ち笑ひながら、
 「どうしてといふわけはないけれども、今一しめと言葉をかけた時、お前の手に少しゆるみが出來たから、そいつを利用したまでだ、すべて武藝の奥儀は斯ういふものだ。」
 と、語つたところが、相撲取は、まだ殘念でたまらないものがあつたと見えて、
 「では、こんどは正面から立派にお立合ひを願ひたい。」
 「それは容易いことだ、さあ來い。」
 と、東藏が引受けたから、相撲取は有らん限りの力をこめて東藏の胸倉を押して來る、東藏はまたまた聲をかけて、
 「今一押し。」
 と、叫ぶと相撲取は勃然として、
 「何の小癪。」
 とおしかくるのを、東藏は得たりと眞捨身に弾ねて五六間彼方へ、逆背打に投げ捨てたといふ。
(隈元實道著「武道ヘ範」)

 
    上泉權右衛門

 上泉權右衛門は新陰流の宗師上泉伊勢守の實子であつたが、新陰流の兵法はなかなか曉得すべきものでないと云つて、父の伊勢守は自分の流儀は傳へずして林崎甚助の流れを汲む長野氏の弟子として居合を修練させたのであつた。
 そこで權右衛門は精心を碎いて居合を學び遂にその道の名人となり、後に諸國を修行して名古屋の柳生如雲(兵庫介)の許に來た。
 名にし負ふ上泉伊勢守の實子ではあり、己が父祖の宗師たる人の正系であるから、如雲は、斜ならずもてなしどうかして尾張へ留めて置いて居合の指南をさせたいと思つた。
 そこで、先づ高田三之亟と仕合をさせた處が、初めの一本は三之亟が勝つて權右衛門は拔くことが出來なかつた、暫く工夫してまた立合つたが、二本目からは三之亟が勝つことが出來なくなつていふ。
 「扨々~妙なるお手の内でござります、私さへ此の通り勝てる術が無くなつて見ますると恐らく天下に勝つものはございますまい。」
 と、そこで、柳生一家の人をはじめ、國中その指南を受けるものが多く、間々免許を受けるものさへ出來た、その中で若林勝右衛門といふものが最も傑出してゐた、この者にも門弟が多かつた、藩主光友へも指南した。
 やがて隠居して是入と稱し、無刀になつてしまつた、ある日小山了齋といふ隠居を訪ねたが了齋がいふのに、
 「貴君は居合拔きでありながら、無刀なのは何故ですか。」
 是入曰く、
 「いかにも拙者は居合拔きでござるが、もはや居合が役に立たないことを知つた故に隠居をした、居合が用に立つほど達者ならば、まだ御奉公を仕るのである、されば用に立たざる兩腰をたばさんでも何にもならぬ、扇子一本こそ心安く候へ。」
 と云つたのを了齋が聞いて感心し、
 「さてさて我等も誤まりました、今日よりお弟子になりませう。」
 と云つて、これも無刀になつた。
(近松茂矩著「昔 咄」)

 
    深尾角馬

 深尾(前姓河田)角馬は因州の人、池田日向の馬廻で二百石の士であつたが、井蛙流の祖である、井蛙流は新陰より起り丹石流を祖とし寛文天和の間に最も盛んであつた。
 その昔、戰國時代には武者修行の來訪に備ふる爲に劍術を業とする家々では、必ず特に「仕合太刀」といふ方法を工夫して置いて他流の人に知らせないやうに秘藏してゐるのが習ひであつた、宮本武藏の「小くらい」巖流の「をみなえし」と云つたやうなものがこれである、角馬が學んだ丹石流にも「かまへ太刀」といふのがあつて、角馬はその「かまへ太刀」を以て如何なる天魔鬼~と雖も面を向けることが出來まいと云はれるほどの荒い兵法を使つてゐた、然るに井蛙の一流を使ひ出してから、以前とは打つて變つて、やはらかにすらすらと向ふへ行くばかりで、目ざましい事は一つも無かつたといふ。
 高弟の石川四方左衛門といふものが或時角馬に向つて、
 「全く丹石流のかまへ太刀を使えば手の出されるものではござらぬ。」
 と云つた、角馬はそれを聞いて、
 「いかにも、名人のこしらえて置いたもので一利の無いといふものは無いが、さりながら、これもあしらい樣で、かまへ太刀の方から一寸も手の出せぬ仕方があるものだ。」
 と云つて、その仕方をして見せた、また或時の話に、
 「二刀といふものは畢竟用に立たないものだが、初心のものは目ざましく持ちあつかいたがる、これにもあしらい樣がある。」
 と云つて、その仕方をして見せ「二刀くだき」と云つた、また、
 「すべて一つの業を用ふることを他人に知らしめれば、それをさせぬ事を仕かける事が出來る、業を好む兵法には決定の勝といふものは無いやうである、こちらの仕方を向ふにすつかり知られても、何の仕方も無いのが上手藝である。」
 と云つた、角馬は何かの座興の時に、竹刀〔しなへ〕を掌〔てのひら〕の上に載せ、放下師のするやうに立て、
 「誰でも宜しい、如何なる方法を以てしてもよいから拙者を打つて見給へ。」
 と云つた、入り替り立ち替り、色々にして打つて見たが、却つて角馬が掌にのせた竹刀を向ふへ倒しかけたのに打たれないものはなく、弟子一人として、此の落ちかゝる竹刀を留め得るものが無かつた。

 
    孫兵衛忠一

 孫兵衛忠一は痩軀短身の小男であつた、初めて水戸へ赴いた時、廿八九歳であつた、誰も劍客として相手にしない、時に水府では井田喜太夫といふ者が天流の遣ひ人で弟子も多かつた、門人の誰彼が斡旋で、この喜太夫と孫兵衛の仕合を井田の邸内ですることになつた、忠一は一刀流の作法として用具は刄引の刀でなくしては應じ難いといつた、井田は心得て數本を取出し自ら長いのを執つた、これを見た忠一は心に北叟笑して、はや必勝を期してゐた、庭内二間四方位の所で互に立向つたが、氣合詰となつてヂリヂリと寄つて井田が後ろへ退ると、其處には塵坑があつた、思はず片足を之に落した所を附入つて押へられた、殘念とばかり今一度勝負を望んだので、忠一は唯々として今度は自分が塵坑を後ろに背負つて立つた、井田は主客の地位を更て存分働き、前の反對に追落さうとした所、却つて我にもなく追廻されて最前の穴へ再び陥つた、忠一は莞爾として笑つて控へた、井田は立上ると一禮し、無言で居間へ赴くと天流の傳書卷物を忠一の目前に持つて來て引裂いて捨て、實に子の術は~入につた[~に入つた]ものである、今日より直ちに門下となつて修業したいといつた、並み居る門人も惘れて師の非を悛むるに促され、盡く伊藤の門下に屬した、これより一刀流水戸に流行して忠一の名遠近に振つたといふ事である。
(日本劍道史)

 
    福島松江

 福島松江は儒者である、巖村侯に仕へたが、若い時、射、術、御、槍等を學んで熟達し、特に拳法に秀でゝゐたが、誰も學者とばかり見て、武術の事を知る者が無かつた、ある時、盗賊がその家に入つたが、松江は之を捉へて路上へ拠り出したので、盗賊は命からがら逃げ走つたが三日經つと死んでしまつた、誰も武術の事を知る者が無いのに自分でもそれを云つた事が無かつた、明和元年歿。
(先哲叢談)

 
    穴澤主殿助

 穴澤主殿助盛秀は薙刀〔なぎなた〕の名人で豐臣秀頼の師であつた、相手に竹槍を持つた二人を前に立たせて仕合をしたが、必ず勝つて少しも危げが無い、大阪の冬の陣に、上杉景勝の將直江山城守が兵士折下〔おりしも〕外記と渡り合ひ、折下は直槍〔すぐやり〕、穴澤は薙刀であつたが、穴澤は薙刀のそりにかけて、折下の直槍をはね、飛び入つてこれを斬つた、折下は肩を切られながら槍を捨てゝ引組む處を折下の從者が、折重なつて來て終に穴澤は討たれてしまつた。
(武將感状記)

 
    吉田大藏

 加賀の吉田大藏は、大阪陣の時左の指を半分射切られて栂指と人差指だけが満足であつたけれども弓は尚妙手たることを失はなかつた。
 前田利常が、或日鷹狩に出たが、大事の鷹を歴緒〔ヘを〕がついたまゝ放して近所の森に入れてしまつたが、鷹は木の枝に止まつたけれども緒がもつれて逆さにぶらさがつてしまつた、利常がそれを見て、大藏を呼んで、
 「あの鷹を傷つけないやうに射取れ。」
 と、云つた、大藏は一應は辭退したが重ねて命令があつたので、
 「承り候。」
 と云つて、「かりまた」を番ひ、鷹の眞中を射たと見えたが、鷹はそのまゝ飛び去るのを後を追つて捕へた、利常が感心して、
 「どうして射た、名譽のことかな。」
 と聞かれたので、大藏が答へて、
 「木にまとひついた歴緒は射ても解くことは出來ません、これによつて、捷子〔もおし〕を射割りました、斯樣の時は鷹の窒嫌ひます、鷹の窒傷めてはなりませぬ故に、軟かな窒ナ射ることが故實でございます。」
 といつた。
(武將感状記)

 
    寺澤半平

 淺野但馬守長晟〔ながあきら〕の弓頭、寺澤半平は寺澤志摩守廣高の甥で千石の禄を受けてゐて、劍術の達人であつた、或年、江戸の留守番に行つた時、無事閑散の折には友達を集めて打ち合をして負けた者には負け業をさせ、饅頭や麺類などを御馳走して樂んでゐた、相手には長い竹を持たせ、半平は扇で戰つたが、いつも勝つて誰れに對しても危いことはなかつた。
 或る二刀使ひが藝州廣島に來てその術をもつて仕官を求めたが、長晟は半平に云ひつけてその術を試させた、そこで半平は右の二刀使ひを自分の家に招いていろいろ話を聽いてゐるうちに、二刀使に向つて斯ういふことを云ひ出した。
 「お話を聽いてゐると、もはや貴殿の術を見るまでのことはない、當家へ仕へたいといふお望みはお止めになつた方がよろしい、御浪人のこと故永逗留は無uのことでござる故もう少し御滞在と申したいが、まづ早くお立ち退きなさるがよろしからう。」
 と、云つた、そこで二刀使ひはムツとして怒りを含みて、
 「手筋も御覧なされないで、さ樣に仰せられるのは心得難い、その義ならば何卒して一わざお目にかけたいものでござる。」
 といつた、丁度その時門弟が七八人稽古に來たのを見かけて半平が二刀使ひに向ひ、
「一度だけでは心のこりであらうから二度お相手になつてあげよう、少しも遠慮なく思ふ存分に打ち込みなさい。」
 と云つた、が門人の方に向つては、
 「さて、こちらはどうして勝たうか、諸君所望をして見るがよい、君達の望み通りに勝つて見せよう。」
 といつたが、門弟も急に何とも云ひかねてゐたのを半平から催促されて、
 「では、一度は手取り、一度はひしぎ打ちで勝つていたゞきたい。」
 「それは容易いこと。」
 と、いつて立ち向ふと、怒氣紛々たる二刀使ひが勢ひ込んで打つてかゝる處を半平は入れ違ひて手取りにし、横に投げ倒して、
 「是はやはらぢや。」
 といつて大きに笑つた、二刀使ひいらつて又立ち向ひ、左に持つた短い木刀を手裏劍に打ち込んで來たのを半平は左手でもつてそれを受け取つて了ひ、右手の竹刀で相手を打つと長い木刀を取り落してしまつた、二刀使ひは赤面して逃ぐるが如く歸つてしまつた。
 半平の門弟らは最初から心中あぶなかしくて堪らないでゐたが半平がその時いふ。
 「劍術が十分練熟する時は心と身が相和し、彼と我とがわかるやうになると、刄を交へなくとも勝つことは出來るもので決してあぶないものではない。」
 といつた。
(武將感状記)

 
    伊庭總兵衛

 池田三左衛門尉輝政の家來、伊庭總兵衛は弓の上手であつた、輝政が三州吉田の城にゐたが、この人は家康から姫を賜わつてその婿に當る人だが、その姫の輿入れの時に諸士達が今切〔いまぎれ〕に出迎へたがその中で伊庭は弓を持つて一行に加はつてゐた。
 家康の方から來た輿副〔こしぞへ〕の人がそれを見て使をもつてこちらへ申込んで來たのには、
 「人も多きうちに、只一人弓を持たせられたのは承り及びし伊庭殿にてござるか。」
 伊庭それを聞いて、
 「おたづねの儀は何故でござりまする、如何にも拙者が伊庭でござりまする。」
 と、答へたところが、また使を以て、
 「然らばこの洲崎に樗窒ェ一番〔ひとつがひ〕浮いてゐるやうでござるが、願はくばあれへ一矢遊ばされたうござる、拜見をいたし度いものぢや。」
 と、云はれた、伊庭はそれを聞いてさも難儀の所望かな、所もあらうに徳川と池田と兩家の諸士達の前で遠慮もあるべきことなのに、とは思つたけれども、
 「心得て候。」
 といつて、矢をつがへて進み寄るとその間三十間程になつた時に樗窒ェ漸く沖に出て遠ざかつて行く、伊庭は弓に矢をつがへて、満を曳いてはゐるけれども、餘り久しくそのまゝで放すことをしないものだから、見るものこれはどうしたのかと氣を揉んでゐる處へ、忘るゝばかりあつて切つて放した、矢がその雄の胴中を貫いて、その雌の尾を射切つたので兩家の諸士達が一同に賞むる聲海濤に響き渡つた。
 所望した人が、その矢と共に樗窒貰つて取つて歸つたが、あとで伊庭の友人が伊庭に向つて尋ねて云ふことには、
 「あの時どうして氣拔けのするほど久しく矢を放たなかつたのか。」
 と、尋ねたところが、伊庭の返事には、
 「同じことならば番〔つがひ〕ながら射て取らうと思ひ、並ぶのを待つてゐたけれども遂に並ばなかつた、それでも少し並ぶやうになつたのを機會に矢を放つた爲、番ながら射取らないで殘念である。」
 と云つた。
 伊庭は鐵砲と競技をして矢も弾も十づゝにして小鳥を射るが、負けたことはない、結びたてた大卷藁に左の拳を差しつけ、強からぬ弓でこれを射るが、厚み一寸ばかりの裏板も通してしまふといふことである。
 放れの殊によい時は髪の元結ひがその勢でハラリと切れることが度々あつた、灰を掻きあげて土器を立的として射ると矢が土器を貫いて、土器は割れないことも度々あつたといふ。
(武將感状記)

 
    平井八郎兵衛

 寛久の頃、諸岡一樗hの~道流に平井八郎兵衛といふ達人があつて、諸國を修業して歩いた、或時上州で仕合に打ち勝つて歸るとき對手の弟子等が十餘人、白刄を以て不意に襲ひかゝた[かゝつた]、平井もこれに對して烈しく應戰し三四人を斬て落し、餘人を追散した、此の際勇氣餘つて路傍に立てる石地藏を袈裟がけに斬倒したので、吾ながら其意氣の満つる時は超人力の發現することを悟つたといふ、併し苟も人を殺したのであるから土地の領主へ自訴して出た所、領主は、なかなか味な裁判をやつて、平井には撓或は木刀を持たせ、劍士の弟子を選んで眞劍を執らせ、勝負の上、平井が免るゝを得たならば命を助けて取らせようといふ事になつた、そこで二十人の劍客を選んで平井と立合はせ、交る交る出て立ち向つたが、一人も平井に勝てるものがない、美事に二十餘人を征服して立派に罪を贖つた、別るゝに臨んで平井はかういふ事を言ひ殘した。
 「二三人一度にかゝつても勝負は一人の時と同じである、諸士が一同に打懸つても又同じであるから、兵法の心得あるものは同時に打下すものではなく、若し同時に打下して之をぬけらるゝと同士討をしてしまわねばならぬ理窟となる。」
 それから江戸に出て柳生家の門に入つて修業を重ねたが、後常州の故郷へ立歸つて鹿島~道流を稱へたといふ。

 
    和田平助

 新田宮流を開いた水戸の和田兵助は性質狷介不遜、人を凌ぎその子にすら假借することがなかつた、息子の金五郎も却々の達人であるが、少しも油斷をさせない、不意に暗い所で打つてかゝつたり、寝てゐる處を侵撃するのは毎回で、金五郎は一度も打たれたことはない、曾て長刀を振つて蜻蛉の飛び廻るのを寸斷したことがある、併しさすがに父の嚴酷に堪へ切れなかつたか、父に先だつて天和中に死んで了つた。
(日本劍道史)



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