日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【地の巻】  壱
 目 次      Back     Next 

 日置弾正   吉田重賢   寳藏院胤榮   穴澤盛秀   賓藏院派門下 
 高田又兵衛   二代又兵衛   關口柔心   關口氏行   開口氏英 
 齋藤節翁   庄田喜左衛門と三夢   柳生連也   高田三之亟 


 
    日置弾正

 日置弾正正次は大和の人で、我國弓術中興の始祖としてその名古今に傑出してゐる、葛輪といふ弓の上手と京都に於て勝負を爭つて勝ち、それより名人の名を得たのである、内野合戰の時、この人の矢先にたまる者が無かつた、矢種が盡きた時、土居陰にかくれてゐて、敵が襲ひ來ると、ふつと出て弦打ちをして「えい」と云へば、敵がその聲を聞いて逃げ散つたといふ事である。
(本朝武藝小傳)

 
    吉田重賢

 吉田重賢は江州の士、日置弾正「唯授一人」の弟子であつて吉田流弓術の祖である。片岡家譜に曰ふ。
 吉田重賢は江州|蒲生郡河森の里に生れた、母が夢に三ケ月[三日月]が胸に入ると見て懐妊し、この子を生んだといふことである、七歳の春にこの母がわが子の天才を見込んで、
 「お前はお月樣の助けがあつて生れた子供である、三日月は弓の形をしてゐる、お前が弓を學べば必ず名譽の人となれる瑞祥であらう。」
 といつて小弓を與へて朝夕學ばせたさうである。
 長ずるに及んでu々射藝に力を盡しその道の達人があると聞けば遠きをいとはずして行つて學んだ、併し上達はするけれども未だ不測の妙所を極めるといふわけには行かなかつた、そこで明應八年の秋、吉田の八幡宮に一七日參籠し~に祈つてゐると、満願の曉の夢に白髪の翁が一本の矢をもつて忽然と現はれその手を上げて、
 「是を。」といつてかき消すが如く去つてしまつた。
 重賢は深き感激をもつて天文博士の處に行つてその夢を話して意見を尋ねると、博士がいふのに、
 「夢に現はれた白髪の翁が矢を上げる手といふのは、上手の二字を示すことである、又右の老翁が『是を』といつた『是』といふ字は日一と人を合せた字である、だから君は弓にかけては日本一の上手となるべきよき夢を見たのだ。」
 といはれて重賢喜びの思ひをなし、故郷に歸つて尚一層の勉強をしてゐるとその翌庚申年正月の十九日ふと年齢五十餘りの人が來て重賢に向つていふことには、
 「そなたが弓を學ぶ志の深いことはわしはよく知つてゐる、わしはこの道にかけて奥儀を極めてゐるものだ、今そなたにすつかり傳授しようと思つて來た。」
 重賢は喜び甚だしく、その人の姓名を聞くと、
 「日置弾正。」  と答へただけで、何處の人だとも、何處から來たとも云はない、併し言葉つき形容、泰然として世の常の者でないことが分るから、禮儀を極めて之に仕へた、嫡子の出雲守、その頃は十六歳であつたが父子共に晝夜親炙してその人に就て學ぶこと七年、永正四年正月中旬に至つて悉く秘術を極め印可を受け畢つた、さうして同じ年の九月中旬になると日置弾正と名乘つた人はいずくとも無く去つてしまつた。
(本朝武藝小傳)

 
    寶藏院胤榮

 寶藏院覺禪房法院[法印]胤榮はもと中御門氏であつた、南部の僧であるが、刀槍の術を好み寶藏院流の槍を創始した人である、その門下に中村市右衛門尚政がある、胤榮は身僧都でありながら武術を學ぶことの非なるを悟り、寺中へ兵器を置かず、皆纏めて中村に授けた、慶長十二年正月二日に享年八十七で胤榮は亡くなつたが、その後繼禪榮房胤舜は時に年十九歳であつた。
 後を繼いだ胤舜が思ふには、
 「この寶藏院といふ寺が有名なのは佛ヘに於て有名なのではない、槍術に於て有名なのだ、だから矢つ張り自分もその術を極めて置いた方がよい。」
 といつて、寶藏院の傍らに奥藏院といふものがあり、そこに日蓮宗の坊さんが一人いて、その坊主が先師胤榮に從つて槍の精妙を極めてゐたから、胤舜はそれを招いて稽古を始め、遂に入~の技を得るに至つたが、年六十で慶安元年に死んだ、その後を繼いだ胤清法印は矢張り又槍術の妙を極めたが、元禄十二年四月四日六十二で亡くなつた。
 穴澤といふ長刀の達人が、胤榮と仕合をしようと思つて、姿をやつして奈良へ來て寶藏院の下男に住み込んだ、ところが胤榮が、そのけしきが並々でないことを見て取つて、こつそりと呼んで尋ねた處が、果して穴澤は寶藏院流の宗家と仕合をしたい爲めに推參したものだといふことを自白したので、胤榮は大いに驚いて座敷へ連れて行つてそれから望み通り勝負をして見せた。  奥藏院といふ小僧が傍らに在つてこれを見てゐたさうである。
(本朝武藝小傳)

 
    穴澤盛秀

 右の穴澤といふのは穴澤流薙刀の祖、穴澤主殿助盛秀の事であるか知らん、さうだとすれば、武藝小傳に、
 穴澤主殿助盛秀は薙刀の達人にして其の術~の如し、諸州を修行して後秀頼公に奉仕し、その 術を秀頼公にヘゆ、慶元兩年浪花に於て戰功を勵み、終に討死、その芳譽兒童もこれを稱す。
 とある、その人である。

 
    寶藏院派門下

 將軍家光は、越前家の士、中村市右衛門といふ者が、寶藏院流の名人であると聞き召して其の術を見た、此市右衛門は、元來南都で酒を商つてゐた者であるが、その術に於ては賤しからぬ者であるが、流石に將軍の前の事とて、その晴れがましさに臆して見えた、其時上意で近習の中から大久保求馬が進み出で、彼が相手になり、暫く挑んだけれども、雌雄が分らなかつた、そこでまづ休まんとした時、中村が門人高田又兵衛といふ者が馳せ出で、求馬を突伏せ、勝を取つた、之によつて又兵衛に御褒美を下される、又兵衛は小笠原右近太夫家より出でた者である處から、其節右の働を以つて、又小笠原家へ召出され段々昇進して、子孫代々相續してゐる、斯る仕合で、又兵衛も寶藏院胤榮が直弟子となり、その子もまた上覧の時首尾よく勤めた。
 然るに家元の胤榮が子胤舜、其子胤清の代に至つて、槍術の業を止めた、その仔細は、凡そ治世にも武を忘れずしてたしなむことは武門の所爲、我等は元來僧徒の身として、斯く太平の世に武術を心掛るは無用の事、時宜知らずであると云つて、槍術を止めて、僧業を專らとし、その上唯今まで妻帯であつたのをも改め、清僧となつた、然るにその弟子胤風といふ者、先師より代々傳來せし流儀なれば、私に止むべきにあらずとて、又槍術を興し、專らに師範をつとめたといふ。
(良將言行録)

 
    高田又兵衛

 寛永中から寛文の時代十文字槍の名人、高田又兵衛は小笠原右近太夫の家來であつたが、紀州の南龍公がその高名を聞き及び、
 「若し又兵衛が使者にでも來たならば引止めて一つ彼の槍を見たいものだ。」
 と、いはれてゐたが、程なく或時又兵衛がやつて來たので、早速大島流の槍の上手を出して試合を所望せられた、又兵衛も是非く[脱字・是非なく]承知して槍をとつて向ふと、直ちに相手の拳を突きとめてしまつた、餘りの呆氣ない勝負と思つてか、
 「今一槍所望。」
 と、申出でると又兵衛が答へて、
 「右近太夫家にては死人と槍を合せることは仕りませぬ。」
 と答へた。
(古老茶話)

 
    二代又兵衛

 二代目高田又兵衛が、入道して後のこと、水戸の一家の松平大學頭がまだ若かつたが、又兵衛に向ひ、
 「われ等と仕合候へ。」
 と所望した、又兵衛已むを得ず、
 「御所望ならば仕るべし。」
 といつて直ちに槍を合せるや、たちどころに三本まで叩きつけてしまつた、さうして置いて又兵衛が大學頭に申すには、
 「私も槍をもつて千石の知行をいたゞき、只今右近太夫の家老を仕り居る身分、お手前がお勝になつて私をお潰しになつても亦あなた樣がこの樣にお負けになつてもどちらもよろしいことではござりませぬ。」
 といつたので、大學頭一言もなかつた。
(古老茶話)

 
    關口柔心

 紀州關口流柔術の祖、關口彌六左衛門入道柔心翁は武藝修行に心を入れ、專ら刀、槍の業に達してゐたが、尚天下の良師に會はゞやと諸國修行して肥前國長崎に至つた處、もろこしの拳法に習ひ、捕手といふ業をする老人を見つけ出し、之に從つて學んだ、この老人捕手から柔のとり方を工夫し、一流を開いたものである、諸侯爭つてこの人を招かんとしたが遂に紀州の南龍公に聘せられて日本に於ける柔術の祖となつたといはれる。
 南龍公は自身柔心に就て日々稽古するのみならず、若殿にもすゝめて學ばせた、紀州家では吉宗公に至るまでこの柔術を學び、近侍小姓の面々にまでも稽古をさせた。
(柔 話)

      

 關口流柔術の關口彌左衛門は紀州に仕へてゐた、猫の屋根から落ちて來るのを見て柔一流を工夫し、請身當身の妙を極めた、又居合太刀をも工夫して廣く世に傳へた、或時劍術の勝負を望み來るものがあつた、彌左衛門が庭に下りて立ち合つて見るに、これは如何にも勝ち易い相手であると思つたから、傷をつけても大人氣ないと思つて、庭の隅に池があつたので、詰め寄せ詰め寄せそこへ追ひつめると其の男は仰向け樣に池に陥つて這々の體で這ひ上がつた。
(撃劍叢談)

 
    關口氏行

 關口柔心の嫡子八郎左衛門氏行も父の苗字をうけて斯道に熟達し、文學の才もあつたが、江戸に逗留してゐた時分は、芝の濱松町に道場を建てゝ指南をしてゐた、その時分、虎藏といふ童を一人召し使ひ、外へ出る時はこの虎藏に刀を擔がせ、自分の前へ立てゝ歩かせ、虎藏には伊達染又は大島の着物などを着せ朱鞘の脇差を一腰差させて、大童の勇ましい装〔いでた〕ちをさせ、自分は丸ぐけの帯に脇差を差し或は鐵扇一本などを差して歩行したさうであるが、さうしてゐるうちに虎藏の稽古が上達し、十八九歳にもなると却々の腕になつたが、どうも心術がよろしくない、斯ういふものが藝が上達したところで、末々身を立てる見込が無いのみならず、どうやら惡人となるらしい、その時はこの藝が却つて世の中の人の禍となり、これは關口が門人であると云はれるようになつては當流の恥辱であると思つて、或夜出歩く時、例の如く伴につれて青山の新坂といふ處へかゝつた時に、虎藏を討ち果してしまつた、その時刀を拭つた紙は信州松代の眞田侯から貰つたものだといふ、そこで、虎藏の屍を吟味の時にこれは若しや眞田家のものゝ仕業ではあるまいかと云はれたものである。
 そこで八郎左衛門が眞田侯へ指南に參つた時、眞田侯が、
 「虎藏はひどい目に遭つたさうだが不憫のことだ、聞く處によると、虎藏を殺した奴が刀を拭つた紙はこちらから出たものだと聞いた故、若し我が家中の者の仕業ではないかと大いに心配してひそかに詮議をして見たけれどもどうも手がゝりがない、先生さぞお力落しの義と察し入る。」
 といはれたので、現在自分が殺してゐるのだからちよつと返答のしようがなかつたけれども體よく挨拶して歸つたといふことである。
(柔 話)

      

 眞田伊豆守はこの八郎左衛門(魯伯)に入門して稽古されたのであるが、或時伊豆守が申されるには、
 「武藝の名人は壁を渡り歩くとのこと、先生にも壁を横に走り歩きまはることがお出來なさると承り及びました、斯樣に懇意にしてゐる以上は、どうかその事を見せて貰ひたいとわしの周圍の者がその願ひをわしに所望して見よとのことであつた、どうかそれを一つやつて見せて貰ひたい。」
 といはれたので、魯伯は笑ひながら、
 「何ぞうまきものを御馳走して頂きたい、さうすればその術をやつて御覧に入れませう。」
 そこで大名のことだから早速結構な御馳走を取り出して振舞はれたので、そこで八郎左衛門は壁際によつて壁に添つて子供がするやうにしやちほこ立ちをし、
 「さあ、これでよい。」と云つた。
 伊豆守をはじめ、不満足で、
 「いや、さうではない、壁を立つて走つて見せてもらいたい。」
 といはれた、その時氏行が席をかへて威儀を正して云はれるには、
 「殿には格別なる武邊のお家柄であつて三軍の將をも承り給ふ御身でありながら、さ樣なる胡〔う〕ろん、不吟味のことなどは仰せられるものではござりませぬ、正道の武士は私なき武藝修行を心にかけるもので、さ樣のことをして人を誑かすことはあつてはならない、眞の武士の道を學ばん者にはさ樣な妖術の類があるべき筈がござりませぬ、我が父柔心、塚原卜傳、~子上典膳などよく世間のものを知らぬ者共が疊をくゞり、壁によつて身を隠したなど、もの知り面に鼻をうごめかして説く人もござるが、この名人たちがどうして斯樣の妖術をなすべき筈がござりませう。」
 といはれたので、眞田殿も恥入つて先生の嚴しきヘへを有難く謝し申したといふことである。
(柔 話)

      

 この魯伯先生が若い頃、天王寺の塔へ登つて窓から出で、屋根の端に出で飛び下りたといふことで、人々それを見物して感心して門人になつたものがあつたといふことである、いやいやさうではない、氏行殿が屋根へ出て下を見られたが、思はず踏み外して落ちたのである、落際に體が正しくなつたから、飛んだやうに見えたのであるといふ者もある。
 魯伯は或時、屋根から猫の狂ひ落ちるのを見て、猫のやうな小さいからだでさへも高い處から落ちて直ぐに馳け走りをする、人間もそれが出來ないこともなからうと云つて夜具蒲團を下にだんだん高く積んで怪我をしないやうにしてさうして屋根から轉げ落ち轉げ落ちして、體の扱ひを覺え、だんだんに下の敷物を減らして後は直ちに落ちて走られるやうになつたので高い天王寺の塔から飛んだといふやうなことない[脱字・ことはない]ことである。
 氏行が常に云ふには、
 「多くの藝、師をとることは大切である、はじめ惡しき師に學べば、それがこびりついて一生の病となるのである、よつて、それほどでもない師匠について三年學ぶよりは、良い師匠を選んで學び努めようと、師匠を求める爲に三年を費した方がよろしい。」
 といつたとのことである。
(柔 話)

 
    關口氏英

 氏行は嫡子ではあるが、次男(弟)の萬右衛門氏英の業には及ばないと云つて自らへり下つて、兄ではあるが愚魯であるとの意味から魯伯と名をつけられたといふことである。
 この氏英は「柔聖」と兄貴達からいはれた位であるから、非常の天才であつたらしい。
 この人了性先生といはれ、老いて稽古を見て居らる時、安藤帯刀の家來に某といふ者が稽古が上達し、自力[地力]もなかなか強かつたものであるが、或時了性先生に向ひ、
 「今日は先生にお願ひがござる、拙者鬼身を突くにより、悟るやうに御指南を願ひたい。」
 と云つたので、了性先生が、
 「出でよ。」といつて自ら立ちしなに具足の刀を杖に「ヤツ!」といつて立たれて行かるゝやうに見えたが、どうしたものかその者が仰向けに倒れて絶え入つた、各々寄つて水を注ぎなどして漸く息を吹き返させたが、歩いて歸ることは出來ないで、駕籠に乘つて歸つたといふことである。
 又或時、了性先生が杖をつきつゝ歩いて行く途中向ふから、
 「泥棒泥棒、止めて下さい止めて下さい。」
 と呼んで追ひかけて來る者がある、そこで了性先生が突いてゐた杖を走り來る者の先きへふつと突き出すと、彼の者がその杖に手をかけるのをそのまゝ下を拂ふとくるりと打ち返される、そこを直ちに杖でおさへて、
 「そりや。」といつて渡された、その型をあとでいろいろの人がやつて見たけれども、どうしても出來なかつたといふことである。
(柔 話)

 
    齋藤節翁

 仙臺の家士齋藤節翁は高禄の人で東軍流の劍術に於て無双の名があつたが、早く隠居して東國を周遊して武を講じて樂しみとしてゐたが、この人の傳に耳に視て目に聞くといふ秘傳がある、この秘傳を聞くとその術が進むことを覺えるといふ、この節翁の昔話に眞に心掛のある侍といふものは、天下に稀なもので、我れ武勇を好むに任せて人を試むること度々ではあつたが、早速に應ずるものとてはなかつたが、或時晴れた月夜に下總の小金のあたりを通つた處が侍が一人馬でやつて來るものがある、一見したところこれはさるものと思つたから行き逢ひざまに鐙を返して蹴ね落した處、未だ地に落ちない先きに拔きうちにこちらの肩を斬りつけて來た、節翁も刀を拔いて、伏してゐる相手の上を一太刀斬つて手ごたへがあつたからそれまでにして別れた、あたりに人は無し、後年に至つても尋ねる由はなかつたが、年經て下野の宇都宮の城下に至り處の者に、
 「御當地に有名な劍術者があるか。」
 と尋ねた、處が如何にも某といふ名高い先生がある、それではその方をお招き申して話をしたいものだがどうだらう、宿の者が先方へ左樣傳へたところが、その人も早速に尋ねて來てそこで酒を酌み交して節翁と二人武術の話に興がのつたが、そのうちに節翁が尋ねていふ。
 「今まであぶない目にお遭ひなさつたことはありませんか。」
 彼の者が答へて、
 「如何にもその事でござる、或年下總小金の邊を通つた處が、斯樣々々の首尾で鐙をかへされ腰に手をおはせられたことがござる、その時手綱を解いて強く腰に卷き、腰にはさんだ撃繩を手綱として乘つてかへり、ひそかに創療治をして癒したことがございます。」
 節翁がそれを聞いて、手を打つて、
 「さてはその時の相手は貴殿でござつたよな、某若氣の餘りこの頃まで諸方で人を試したことが幾度もござりましたが、貴殿の如く早速に應ずる人は他に一人もござりませんでした、これがその時の記念でござる。」
 といつて肩の創を出して見せた處、彼の侍も腰の創を示して互に歎賞し合つて別れたといふことである。
 この節翁の藝は、なかなか凡人とは見えない、世の常の上手だなどゝいはれる人が立ち合つて見ると、更に打たうと思ふきつかけもなく、自ら屈服して了ふ、相手には太刀を持たせて、節翁を無刀であいしらふにたしかに打つたと思ふ太刀も悉く拔けて身に當らない、遠近の位が甚だ明かなることであるから如何ともすべきよしがなかつた、斯樣な妙手故に野總の間に巡遊して安心してゐられたのであつて、この邊の土地は人の心が強堅にして武藝に長ずる者が多い、この邊で尊ばれる師匠は何處の國へ行つても人の下に居るといふことはないといふことである。
(撃劍叢談)

 
    庄田喜左衛門と三夢

 庄田流の庄田喜左衛門は柳生宗矩の高弟であつて自ら一流を開いたのであるが門人が甚だ多いうちに市輔といふ者があつて、修練の功現はれ多數の門弟中一人もこの市輔に及ぶ者がなかつた、そこで市輔が天下に我に及ぶものあらじと自慢して、或時、師の喜左衛門に勝負を願ひ、十本を定めて立ち合ひをした處が悉く打たれて市輔が太刀は一度も喜左衛門に當らなかつた。
 この時市輔が思ふよう、日頃の修練も最早これまでゝある、自分が常に腰に佩ぶる刀をさへ思うまゝに爲し得ない位ならば佩びない方がよろしいといつて、其日に髪を剃つて「三夢」と名を改め一本の杖をついて諸國行脚に出かけてしまつた。
 さて奥州を巡つてゐるうちいつどうといふことなく、ふと槍で人を突くべき理を豁然として悟り得て了つた、自らも驚き怪しんで、仙臺の城下に至り、或る槍術家の處を訪ねて見物し、さて仕合を乞ふて我が術を試むると敵するものが一人もなかつた、その槍術家が甚だ感心して家に留め置くとそれを聞き傳へて藝を試みる人も多かつたが鑰長刀〔かぎなぎなた〕、十文字等に出逢つても三夢の槍は速かに敵に當つて遂に敵は何物をも容れることが出來ない、その後諸國を遍歴したが三夢が槍に執心して弟子とならんことを乞ふものが多かつたけれども、三夢が槍は自然に得たのであるからヘへることも學ぶことも出來ないで終に其の道を授得したものは一人もなかつたといふ事である。
(撃劍叢談)

 
    柳生連也

 尾州柳生家は柳生の大祖但馬守宗嚴〔むねとし〕[現在一般には「むねよし」]には孫、江戸の柳生但馬守宗矩〔むねのり〕には甥に當る處の兵庫助利嚴〔としとし〕[現在一般には「としよし」]に始まるのであるが利爲[誤植・利嚴ほ]の三男嚴包〔としかね〕[現在一般には「よしかね」]が傑出し中興と稱せられた、嚴包は後入道して連也齋と云つた、この連也は幼時、故ありて姉婿三州御油林五郎太夫といふ者の方で成長し、十才許りの時に名古屋に來て劍術を修行し、毎日稽古が終つて人々がかへつた後になると父兄の侍、若黨奴などを集め、錢を持ち出して、
 「我を叩きし者には取らせん。」
 と賭にして毎晩たゝき合つたが、餘りに強くたゝかせた時は、仕舞うて寝間へ入るに腕がいたんで帯が廻らないものだから母に頼む、母、
 「これでこそ上手にはなれるであらう。」
 と締め直してやつては涙を流したこと度々であつたといふ、その後同格の弟子があつて、いつの仕合も互角の勝負であつたが、或夜連也はふと自ら發明する事があつて、父の如雲利嚴に向ひ、
 「どうも不思議の事がありました、今晩何となしに自分がずんと強くなつたやうに覺えます。」 父から、
 「さうか、では明日仕合をして見よ。」
 と云はれたばかりであつたが、その翌日例の互角の弟子が來るのを待ち合せて、仕合をして見ると十本が十本、みんな打ち勝つてしまつた、すると彼弟子が大いに立腹して、直に如雲の前へ出で、
 「わたしは只今まで師弟の禮にそむいたことはござりませぬつもりですが、これでは餘りに依枯なる取立方、堪忍が出來ませぬ、切腹を仕りますからさ樣に御承知を願ひます。」
 と云つた、如雲さわがず、
 「それはどうしたわけぢや。」 その弟子答へて、
 「昨夜迄相討のこなた樣に、今日は十本に一本も勝たれ申さぬ、一夜の間にかくの如くちがひ申すべき筈はござりませぬ、これは御子息故に御贔屓がありて格別の大事御相傳にちがひないと存じますから、堪忍が出來ませぬ。」
 といふ、如雲が聞いて、
 「さてさてそれは大變な事ぢや、實は昨晩倅が何か發明した樣に申す故今日仕合をして見よと申しつけたばかりぢや、かういふ事が中々一朝一夕の口傳相傳でなるものか、この間中からの仕合ぶりを見てゐると、兵助(連也幼名)はもはや此地位に至るべき事がわかつてゐた、そなたは今三年はかゝるであらうと思つてゐたが、案の如くであつた、そなたは今より三年怠りなく稽古をして、今日の兵助が段に至らなかつたならば、その時腹をお切りなさい。」
 と云はれたので彼の弟子は信服してそれより猶々出精したが、三年目に漸く自得したさうである、然し連也ははやその中に、又復その上の段に至つた事故終に生涯勝つ事は出來なかつたといふ事である。
(近松茂矩「昔 咄」)

      

 兵庫介の子が茂左衛門嚴方でその子が兵庫嚴包で隠居して連也齋と號した、尾張の人は今日でも單に連也と稱し、却つて本名を知る人は少ない位である、連也は柳生支流中出色の名人で學問も廣く辨舌も爽かに、膽力も据つてゐた、躯幹は普通で背は稍々高く痩肉の方であつた、眼光は炯々といふほどではなし温和なところもあつたが、一種清爽の氣が眉宇の間に溢れ、犯すべからざる威嚴を備へてゐた、平素門弟をヘへる事に極めて懇切でよく變化を示したが稽古中少しでも惰氣を生ずるものがあると命を遣取りする稽古ぞと叱つたさうな、仕合の時は刀を取つて立ち上るやヤツト一聲かけると共に直に勝を取つてしまふので、對手の者はいつも呆氣にとられる、餘程の達人でなければ四五合に及んだことはなかつたさうである。
 連也の高弟のうちに松井某といふものがあつて、連也は中年以後碁を好んでこの男と碁を圍んで樂しんでゐたが、碁の方では松井の方が數目強かつた、この松井は散々我が師をためさうと心懸け、或日、又碁の對手となつて非常に師を惱まし、連也は苦心惨澹盤面を見つめ工夫を凝らしてゐる、この機逸すべからずと竊に盤の陰で拳を固めると連也がヒヨイと顔をあげて松井を見たので、松井は素知らぬ顔して拳を解いたが連也が顔をあげたのは此方の意思を悟つたのであるか或は偶然であつたのか判然しないから松井は今一度試さうとわざと連也の石の置き方を非難して又困らせて置きながら、
 「まだお考へがつきませんか。」
 と催促し、拳を固めあはや拳が盤の側面から躍り出さうとする途端、連也は忽ち反身になつて、
 「オイ串戯〔ぜうだん〕はならぬぞ。」
 と云つたので松井は悟られたと思つたか、
 「イヤ、ナニ。」
 とごまかしながら更に碁を打續けたとのことである。
 その後一年餘、もはや連也が前のことを忘れたであらう時分――秋草を賞する爲に連也は俳諧師並に門弟二三を連れ松井もその中に加はり、野遊びに出かけた、程よき場所に辨當を開き皆々そこで火を焚き食事の用意などをしてゐる、連也は川の方に行つて何氣なく小便をしてゐる、その隙を見た松井は今日こそと連也のうしろに忍び寄り、力を極めて連也の腰のあたりに突きかけたが、ヒラリと横へかはされた爲に松井は空を突いて川の中へ飛び込んでしまつたが連也は平氣で小便をしてゐる。
 後で一行はなぜ川の中へ飛び込んだのかわからない、連也から、
 「また串戯をしたな、もうやめぬか。」
 と云はれたので事が露顯し、狂歌や狂俳の材料となつていゝもの笑ひに供された。
 連也がその後松井を呼んで云ひきかせることには、
 「その方が度々余を試さうとするのは武藝の眞意が分らぬからである、立合には相方の間に必ず機といふものが生ずる、その機に乘ずることは勿論だが、機に乘ずるといふだけでは未だ足らぬ、その機をこの方で自由にするやうにならねばならぬ、武術が上達すれば機は我から開くことが出來る、我から開くといふのは敵をわが思ふ壼へ惹きつけるのである、また事には「きざし」といふものがある、これは機といつてもよいのであらうが機よりも今少し早く極めて微妙なものである、其方が碁を打ちながら余を打たむとした時も、川端で突き飛ばさんとした時にも、その日其方の顔を見た時に、今日は何かやるなと悟つた、これが即ち「きざし」で其方の心の動きが顔にあらはれて余の心に響いたのである、尤も突き飛ばさんとするを交したのは術であるが、既に何かするなと悟つた上十分に氣を附けてゐるから其方は不意に出る積りでも此方では不意でも何でもない、元來心は恰も鏡のやうなもので不斷曇らぬやうによく磨いて置けば他より來る事が善惡共に我心の鏡に映るものである。」
 松井が或時、
 「人から不意打をかけられる場合も甚だ多いものでございますが最も防禦のしにくいのが夜間熟睡の時であることを誰でもよく知つて届りますが、その場合の心得方は如何でございませうか、幸ひに御ヘ示に預かりたい。」
 とたづねた、連也が答へていふ。
 「イヤ、熟睡中のことは我とても別によい防ぎ方はない、誰でも知つてゐる通り、第一に戸締を忘れぬやうにすること、第二に仰向けに寝ぬことだ、仰向けに寝ることは敵に此處を突けと示してゐるやうなものだ、横に寝れば、たとひ少しの手疵を受けても防禦の出來る場合が多い、第三に枕刀を蒲團の下に置くは勿論であるが、いつも同じ處に置いて場所を變へぬがよい、イザといふ時に直ちに其處へ手が行く、第四は鼾〔いびき〕をかゝぬこと、鼾をかくは敵に不覺を示すのである、口を塞いで寝れば鼾はかゝぬものだ、其の外に大醉した時、遠足した時、働き過ぎた時、空腹の處へ飽食した時の類、これらのことのあつた後に寝につけば必ず熟睡して死人同樣になる、斯樣な場合には平生家人に言附けて置いて氣をつけさせるより外はないが、武士として一身の守を他の者に頼むといふのは恥づべき事である故御用の外はなるべく饑飽勞逸を平均にすることを心掛ねばならぬ、尚余が多年の實驗によれば、常に心を練つて、氣を安靜ならしめて置けば熟睡しても事があれば目が覺め易い、その他は心に油斷せぬ癖をつけること、行住坐臥苟も耳に聞き眼に見る事は何事にも氣をつける、毎日同時刻に聞く寺の鐘さへも同樣、是は甚だ煩雜に似てはゐるが、その瞬間だけであとは滞りさへしなければ何でもない事、毎日か樣にして行くうちに漸く心に油斷なき癖が出來る、之を熟睡中に試みると、少しの物音、少しの氣色にも目が覺める、さうして目が覺めても事がなければ直ちに睡られるから、養生の害にはならぬ、これで多少萬一の場合に間に合ふであらうと思ふ、此外には熟睡中に來る敵の害を避ける仕方はない、心を練つて物に動ぜぬやうに修行することが第一である。」
(楠正位氏著「武術系統講話」)

 
    高田三之亟

 柳生兵庫介利嚴が、はじめて尾州家に仕へた時分は天下に兵法修行の者が甚だ多く、兵庫の許へも大勢やつて來たが、誰れが來ても高弟の高田三之亟が立合つて勝つた故、兵庫が自身に立合はれたことはなかつたさうである、或時帯刀(號稱失念)といふ遣ひ手が來り、
 「御太刀筋を拜見仕り、御門弟になりたき願ひでござりまする。」
 といひ入れたので三之亟が挨拶仕るべしとて進み出で、
 「それは御殊勝のお心がけ、拙者御立合申すべし。」
 と云つたが先方が聞かず、
 「御自分とは望なく候、兵庫殿にこそお立合ひが願ひたいのでござります。」
 といふ、三之亟、
 「いや兵庫が手を下す者は天下にこれなく候、まず斯く申す三之亟に勝つ者さへ覺えず候。」 と云つたので、先方も是非なく立ち合ひ帯刀は木刀、三之亟はしなひであつた、いつもの通り三之亟は手をちゞめ、袖口元ヘ引付けて、小をたてに持つて出たが、するするとしかけ、
 「おいとしほや。」
 といふより早く眉間を打つたので先方では切出すことも出來なかつた、二本目するするとしこむと、小を捨てゝ取つて投げ、三本目も手もなく勝つた。
 この「おいとしほや」といふ懸け聲は三之亟のくせであつたさうである。
 兵庫は、のぞいて見て居たが、
 「一生の出來だ。」
 と云つて賞めた、相手の帯刀は殊の外信服して直に弟子入りを望みし故、三之亟は兵庫に向ひ、 「只今まで參つた他國者のうちでは第一の遣ひ手、後の用にも立ち申すべき人と見受け申すによりお弟子になされたが宜しからうと存じます。」
 と云ふと、兵庫が、
 「其方の手際にたゝき伏せた事であるから、其方弟子にするがよい、稽古は一同にさせよう。」
 と云つた故三之亟の弟子とし、稽古は兵庫へも出でた。
 三年滞留してゐるうちに、帯刀は餘程よく遣ふやうになつた頃、三州吉田の城主より兵法指南の者ほしき由を申し來つたにより、
 「帯刀事、もはや他國にたゝくものはなく候、遣はされ候へ。」
 と、三之亟の世話で、吉田へ仕へるやうになつたが、その後三之亟が江戸上りの時であつたか、又は使者に行つた折であつたか、帯刀の處へ立寄ると、殊の外馳走し、岡崎矢矧の橋の上迄、帯刀が馬の口を取つて來たから、三之亟は橋の上で下り立ち、昔黄石公は下邳の土橋にて張良に一卷の書を授けた由、我はそなたに此の橋の上で~妙劍を傳へんとて相傳した、帯刀は涙を流して別れたといふ事である。
 この三之亟は若い時は至極男だてにて、喧嘩闘爭度々のことであつた、或時錢湯へ行つたが、あばれ者共二三人一時に入込んで來て、三之亟へ無禮をしかけたにより、三之亟は右の者共を取つてさんざんに打ち擲げると、はうばうの體で遁げ出でたが無念の思ひで大勢かり催して待伏し、三之亟が町の木戸口をくゞり出でる所を斬りかけた、三之亟拔合はせ大勢に渡り合ひ、二三人太刀下に斬りしき、その外大勢に手負はせたによつて、皆々遁げ散じ、その身は一ケ所も手を負はなかつた、但しこの時三之亟毛雪踏〔けせつた〕をはいてゐたが、餘りに烈しい場合で、これを脱ぐ暇なく、辷りさうになつて難儀をし、已に一代のおくれを取らうとした處から、それより雪蹈、革草履類をはかず、子孫、門弟にも必ずはくべからずと遺言したさうである。
 老年に及んでも、此の三之亟早業など少しも違ひはなかつた、或時奥の間へ入つた處、向ふから十二三歳になる孫の三右衛門が歸つて來るのを見ると、ふところヘ兩手を入れてゐたので、
 「さて不心得なやつぢや、日頃ぬき入手は武士はしてはならない事とヘへて置いたのに不届な仕方ぢや、その腰の扇子をぬいて見よ、ぬかれまいに。」
 と叱つた、そこで三右衛門袖口から手を出したのではとめられてしまふと、素早く振袖のわれ目から手を出して扇子を拔かうとする所を、三之亟かけつけて差とめてしまつたさうである、子供ながら充分に仕込まれてゐる三右衛門も呆れて祖父が立つてゐた所からの間を測つて見ると九尺餘あつたといふ事である、三之亟が門人共に云ふ事には、
 「仕合をする時は眞劍勝負の心ですべきものぢや、我は數十度勝負を爭つたが今仕合をする毎に昔の白刄を以て戰ひし時の情になり、白刄をしなひに替へる事のみである、爰を以て仕合に一度も負けた事はない。」
(近松茂矩著「昔 咄」)



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