家光と御前仕合
「寛永御前仕合」と云つて講談等に於ても有名であるが、勝[海舟]伯等の著した陸軍歴史にもその記録として次の如く出てゐる。
三代將軍家光公御代寛永十一甲戌年九月廿二日に於吹上御覧所劍道仕合之面々左之通り
下谷御徒町住人
井場泉水軒
負 淺山一傳齋
播州住人
竹内加賀助
仙 臺 藩
負 由井 直人
芝高輪住人
佐川|幡龍齋
肥州郷士
負 關口彌太郎
鎧勝負
大久保彦左衛門
負 加賀爪甲斐守
荒木又右衛門
合打 豐前小倉
宮本八五郎
初鹿野傳右衛門
負 朝比奈彌太郎
仙臺黄門正宗
負 秋元但馬守
和州柳生之住人
柳生市之亟
負 石川又四郎
江戸小石川
石川軍東齋
御取立之御旗本
負 松前帯刀
上州之郷士
樋口十郎兵衛
合打 甲府中之郷士
中條五兵衛
備中之郷士
芳賀一心齋
遠州之郷士
負 難波一刀齋
右之通上覧
併し右は史實としては疑ひがあるが、「大猷院殿御實記附録」に次の如くあるは信憑するに足るべし。
慶安四年春の頃より何となく御病氣勝ちにおはしければ、御心地慰ませ給はん御爲めにとて、諸人の武技御覧あり、二月二十六日に、越後の處士山本加兵衛久茂が無遍流の槍法を御覧ぜられ、其後奥殿にて大番頭池田帯刀長賢、先手頭久世三四郎廣當、書院番組頭岡野權左衛門英明、筒持頭坪内半三郎定次、持弓頭兼松又四郎正尾等が劍法をも見給ふ、三月二日、又加兵衛久茂が槍法及船手頭溝口半左衛門重長、柳生内膳宗冬が劍技を御覧あり、同じ六日には肥藩の劍士木村助九郎、居合拔多宮平兵衛を御座所に召して御覧じ、兩人に時服、銀かづけらる、十日、又肥藩の石野市藏、原田多右衛門が槍法を見給ひ、是も賜物例の如し、同じ十四日には諸家の陪臣槍劍に達せるものゝ姓名註記して奉るべしと仰下され、十八日には水藩伊東孫兵衛、木内安右衛門が劍法を見そなはし、其頃劍法に妙を得し尾藩の柳生兵庫が子二人封地より召寄すべしと仰下され、廿四日には藤堂大學頭高次が家士内海六郎右衛門、澤田甚右衛門が槍術、永井信濃守尚政が家士山崎兵左衛門、同源太郎、桂原四郎右衛門が劍法御覧ありて、各服、銀下さる、廿五日、松平陸奥守忠宗が家人松林左馬助が劍技ありて其敵手せし道與にも賜物あり、四月五日には先に召されし尾藩の柳生兵庫が二子茂左衛門、兵助が劍法見給ひし後、兩人に服、銀かづけらる、同じ六日にも重ねて兩人の技を御覧あり十一日には小笠原大膳太夫忠眞が家人高田又兵衛其子齋宮、弟子和光寺七兵衛の槍術を御覧に供へ、例の如く下さる、斯く御大故に近くならせ給ふまでも、武道を忘れさせ給はで、その技を見そなはし、もてはやさせ給ふにぞ、下が下までも自ら奮勵して怠慢する事能はざるに至らしむるは、實に治に亂を忘れ給はぬ御心捉にていと畏き御事にぞ。
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