日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【天の巻】  八
 目 次      Back     Next 

 齋藤傳鬼   村上吉之亟   松林蝙也   林田左門   家光と御前仕合 


 
    齋藤傳鬼

 齋藤判官傳鬼坊は相州の人である、北條氏康に仕へ、天流或は天道流といふ一流を開いたものであるが、常陸國眞壁郡下妻の城主、多賀谷修理太夫重隆に刀の術をヘへてゐた、なほ諸大名、諸士の入門するものが甚だ多かつた。
 その頃、この地方に霞といふ~道流の達人があつて、その弟子一味も甚だ多かつたが、傳鬼に向つて勝負を決せんことを申込んで來た、傳鬼は直ちに承諾して立合つたが、忽ち霞を撃殺してしまつた、霞の一黨が密かに傳鬼を殺して讐を報いようとした。
 或時、傳鬼は鎌槍を携へて弟子一人を連れて道を通りかゝると霞の一黨が數十人不意に來つてこれを取圍んでしまつた、傳鬼はもう遁れられない處だと觀念して弟子に向ひ、
 「お前はこゝで死ぬに及ばぬ、早く立去れ。」
 弟子が聞かない、傳鬼は強ひて弟子を逃がしてしまつて、それから道の傍らに不動の祠があるのを見かけ、その祠の中へ入ると霞の一黨は急にこれを圍んで周圍から矢をあびせかけた。傳鬼はそこで鎌槍をもつてその矢を切つて庭上に落すこと數十、それから霞の一黨が進んで攻めて來て亂戰となり、遂に衆寡及ばず、そこで傳鬼は一命を落したが、その勇敢筆舌の及ぶところではなかつた、その怒氣が後に至るも消えず、奇怪の崇りがあるといふので土地の者がこれを祭つて判官の祠と稱し今も眞壁郡に存してゐる。
(本朝武藝小傳)

      

 また一説にこんなのがある。
 齋藤傳輝坊は常州眞壁郡井出村の産である、塚原卜傳に就て劍術を學んだが、後鎌倉の鶴ケ岡八幡宮に百日參籠して、天正九年十一月廿一日の満願の日霊夢を蒙り妙境に達しそれより天流と唱へて諸國を修行し、京都に至つて紫宸殿の庭上へ召されて天覧を蒙り一刀三禮と號し左衛門尉に任ぜられた、こゝに於て井手判官傳輝坊と名のり、五畿内中國を遍歴して、本國常州へ歸り、尚關八州を徘徊して、北條家の幕下をはじめ、無數の弟子を持つてゐた、小松一卜齋といふのを第一の高弟とし、多賀谷修理太夫、眞壁安藝守、同姓掃部助、u子筑後守、笠間孫三郎、結城の城主采女正伊野彌太夫と云つたやうな大名株もこれに就て修業し、當世これに過ぎたる術はなしといふほどに見えた。
 時に眞壁に暗夜軒道無といふものがあつた、やはり塚原卜傳の弟子であつたが、この道無が打太刀の高弟に櫻井大隅守といふものがあつて、これが漸く熟練し、傳輝坊の劍術を誹謗するに至つた、傳輝坊、これを聞いて腹に据ゑかね、
 「然らば仕合の勝負を決せむ。」
 と申送つて、眞壁の不動堂を約束の處とし、日限に至り傳輝は弟子二人をつれて約束の處に待つてゐた、暗夜軒がこの仕合の事を聞いて、
 「櫻井は、おれが取立てた秘藏の弟子である、彼に勝負を望むのは即ちこの暗夜軒に仕合を申込むのと同じことだ、本來、あの傳輝めは當家領分の郷士であつて、わが譜代の家の子にひとしい者であるに、近ごろ術に慢じて推參の振舞奇怪千萬、憎い奴、大勢出向いて彼奴を暗討にしてしまへ。」
 と馬廻りの侍十餘人に弓鐵砲足輕を添へて指し向けた。
 その時、傳輝は十文字の鑓を下げ、不動堂の中央に腰かけてゐる、弟子二人は縁側に控へてゐたが、さすがに高名の手利であるから、寄手も左右よりは懸り兼ねてゐると、齋藤萬黙といふものが弓に矢をつがへて、傳輝にさし向け、
 「いかに傳輝、御邊は日頃矢切の太刀といふ秘術を持つて居られるさうな、併しながら斯うなつては最期――是非に及ばず一矢受けて見られよ。」
 傳輝坊これに向ひて微笑し、
 「同姓萬黙ござんなれ、心得たり。」
 弦音高く放たれた矢を十文字でかけ落す、つゞいて射る矢を三本まで切つて落したが、これを相圖に寄手が一同に雨の如く射かけたので、傳輝もはじめは防いだが、その身金鐵にあらざる故に遂に射伏せられてしまつた、生年三十八歳、惜しまぬものはなかつたさうである。
(關八州古戰録)

 
    村上吉之亟

 二階堂流兵法は相州鎌倉の中條兵庫助が末流松山主水から出たものであるが、その子孫が、また松山主水を名乘つて、肥後の細川越中守忠利に仕へた。
 忠利|朝臣は強力で甚だ劍術を好んでゐた故に、この松山主水を寵遇した、主水が劍術は初めに一文字を傳へ、次に八文字、十文字を極意とする、また「心の一法」といつて、敵を働かせない傳がある。
 忠利の近習に村上吉之亟といふ者があつたがこの者が又兵法に心力を注ぎ、拔群と稱せられ、主君忠利と兩人一緒に八文字を傳へられたがその時は人拂ひをして一間の間を堅く圍み、そのうちで傳授したのであるが、外で聞いてゐると、何か知らんどつと倒れるやうな物音がしたが、そこで早速傳授が濟み外へ出た處を見ると越中守も吉之亟も汗びたりになつてゐたので、人々疑ひ怪しんだといふ事である。
 その頃、越中守忠利と父三齋入道との間がとかく面白くなかつた、家來達も隠居附き當殿附と分れて、さながら仇敵のやうであつたが、或時、松山主水が隠居附の侍と舟の中で口論し、下駄をもつてその侍を川の中へ叩き落した、隠居三齋、これを聞いて大いに怒つた、忠利も秘藏の主水ではあるけれども、流石人情國法を破るわけには行かず、當分勘當して近き在郷に蟄居せしめて置いた。
 三齋これを聞いて、愈々安からず、近侍の士に云ひつけて、主水を殺してくるものには望み通りの恩賞を遣はすといふことにまで立ち至つた、併し、一人や二人で打ち取れる主水ではないから、皆猶豫してお受けするものがない、處が只一人の家來が、
 「如何に名人と雖も永い間樣子を窺つて居るうちには隙といふものが無いこともござりますまい、その隙を窺つて彼を討ち、御憤りを晴しまゐらせようと存じます。」
 といつて、主水が住んでゐる邊に行つて一心に窺つてゐたが、討つべき隙とては更になかつた、そのうちにその年も過ぎ翌年の夏に至り、或る日の事眞仰向きに前後も知らず寝入つてゐるのを見た、丁度あたりに人もなし、時節はよしとひそかに近づき寄つて主水が胸を刺し通して了つた、刺された主水は起上り、そのまゝ心の一法で詰め寄り、相手を短刀で刺し貫いていふことには、
 「貴樣は我が寝てゐる處を刺したけれども、この主水を殺さうと思ふ心はエラい、豪傑だ。」といつて其身も其處で息が絶えた。(肥後物語には尚ほ異説がある)
 主水が死んで了ふと吉之亟に及ぶ者はなくこれが門人となるものも多かつた、その頃、宮本武藏が、自分の流儀を擴めようとして九州を經巡り、熊本の城下近くの處の松原で稽古をして見せたが、丁度夏のことであつたので武藏は伊達なかたびらに金箔で紋を打つたのを着て目覺しく装つて、夜な夜な出でゝは太刀打をした、武藏は固より輕捷自在の男であつたから縦横奮戰する有樣が目覺しく、愛宕山の天狗などは斯うもあらうかと評判であつた。
 村上吉之亟がこれを聞いて人を以て勝負を望んだ、武藏はひそかに吉之亟が藝の樣子を聞くと却々自分が敵ひさうもないといふことを悟つたのでそれとなく他國へ行つてしまつたさうである。
 しかし武藏の名は天下に高いけれども吉之亟は知る人もない、これは一方は諸國を周遊して藝を擴め、一方は國中だけで終つた相違であらう。
(撃劍叢談)

 
    松林蝙也

 松林蝙也は通稱左馬助、常州鹿島の人であつたが、弱冠より劍術を好み、精妙に達し、伊奈半十郎忠治に事へて武州赤山に居り、一流を立てゝ願流と云つた。
 後、仙臺侯忠宗(義山)伊奈氏を介して三百石を以て左馬助を招かんとしたが左馬助千石ならばといふ、仙臺侯笑つて、初めより希望に隨うわけにはいかないが、折を得て――といふことで出でゝ仙臺侯に事へた。
 三代將軍家光が武術臺覧の事があつた時、左馬助は、將軍の前で阿部道世入道を相手として仕合を試みた、その時彼が妙手身體輕捷飛動縦横にして、衣服の裾が楣楹〔ひさし〕に當ること兩三度、その樣さながら蝙蝠のかけ廻るに似てゐる、將軍からお褒めの言葉があつたので、それ以來「蝙也」と稱することにした。
 蝙也が年期三年と定めて一人の侍婢を召抱へた、この婢に向つて云ふ事に、
 「何でもゝいから、お前がこのわしを驚かす事をしでかしたならば、その時には三年分の給金をやつた上に、勝手に暇をくれてやる。」
 と云つた、婢もその氣になつて心得てゐる、或時、蝙也が泥の如く醉つて家に歸り閾を枕にして醉ひ倒れて寝てしまつた、婢はこゝぞとばかり頭腦も碎けよと障子を立てきつて見るが障子は動かないで蝙也が目をさまし、平氣な面で、
 「そんな事では、とても三年分の給金は取れぬぞ。」
 といふ、敷居の溝に鐵扇を入れて寝てゐたのである。
 ある時、また蝙也がよそから歸り足を洗はうとして、婢に「湯を持つて來よ。」と云つた、婢はまた心得て、わざと熱湯を桶に満して持つて來た、蝙也油斷せずそろそろと湯加減を試みて、
 「こんな熱い湯を持つてくるやうでは三年分の給金は取れないぞ、水を持つて來てうめろうめろ。」
 と云つた、そこで婢が水を取つて來て、ざんぶと桶の中へうめて、
 「これならば加減がよろしうございませう。」
 と云つた、そこで蝙也が兩足を桶へ入れたが、どうした事か、
 「あつ!」
 と云つて飛び上つた、これには蝙也もやられた、水をうめたと思つたのは、更に熱湯を加へてつぎ込んだのであつた、そこで蝙也が歎息して、
 「誠に敵となつて覘はれてゐると、婦女子にさへも討たれる事がある。」
 と云つて、直ちに約束の如く三年分の給金を婢に與へて暇をとらせたといふことである。
 仙臺城下の染屋町の水邊は螢の名前で涼み客と見物とが群がるのであつたが或年の夏、蝙也も二三の門弟をつれて、涼みに行き、さて集ふ人々の賑やかさと、螢の飛び交ひて水にうつる風情等をながめて餘念なかつたが、その時、一人の門弟が、蝙也の背後からだしぬけに肩をついてかゝつた、これは前同樣、いつ如何なる場合にても我を驚かして見よ、との豫告があつて、今宵こそは、この隙にと門弟がやつたものであるが、蝙也は忽ち前の岸に飛びついて、また悠々寛々としやがんで見物をしてゐる、その川の飛び越しつぷりといふものが、いかにも~速輕易の妙用で、譬ふるに物が無い位であつたといふ。
 それから、ゆつくり愉快に遊んで謡などをうたひながら家に歸つて上機嫌で居つたが、その翌朝、右の門人が拔からぬ面をして訪ねて來て、
 「昨夜は實に先生のお伴で愉快な涼みを致し恭い事でございました。」
 とお禮の言葉を述べると、蝙也が取敢へず、
 「君、何か遺失物は無かつたかい。」
 とたづねる、門人が、
 「いかにも其の事でございます、大切なものを遺失して殘念千萬でございますが、いつどうしてどこで遺失したか、どうしても心覺えが無いので弱つて居ります。」
 と答へる、蝙也がその時、褥の下から白刄を取り出して、
 「落し物はこれだらう。」
 と投げ與へて、油斷大敵のヘ訓をした、つまり、これは昨夜、師の餘念なきを見すまして後ろから突き倒さうと試みた途端に、中味を奪はれたのがわからないで、家へ歸つて見ると鞘ばかり差してゐたといふわけであつた。
 南部で有名な劍術の士があつたが、それが藩でなかなか身分のある家の娘をそゝのかして仙臺につれ出して來て國分町の旅籠に泊つてゐた、本國から捕手が十名やつて來たが、その男、それは賤しいものであるが、腕は並々ならぬものであつた、南部侯からも仙臺侯あてに、貴國をお騒がせして相すまぬ事ではあるが、家柄の者の娘である爲に是非捉へたいものであるとの手紙まで來てゐた。
 そこで、南部の捕手につかまへさすよりは、蝙也に命じて捕へさせた方が隣國への面目もあり本意でもあると思つて、蝙也にその事が命ぜられた、蝙也はそこで、人を縛ることに妙を得た一卒をつれ自分の懐には一塊の鉛を入れて、件の旅籠屋へ行つた。
 隠れてゐた南部の劍士は、蜴也が上つて來たならば一討と眞向に斬りかゝる處を、蝙也は懐中してゐた鉛丸を白刄目がけて投げつけて刄に當てた、劍士は手ごたへがあつたので斬留めたと少し油斷をしてゐる處を、間髪を入れず、蝙也は劍士の足をさらつて樓の下に落してしまつたので、待ち受けた一卒が手早く繩をかけて、それから南部へと引き渡した。
 蝙也が門に集まるものは、男子の門人ばかりではなく、婦人少女までが夥しく、蝙也を佛菩薩の如く信仰して門前市を爲すが如くであつた、~變無量の奇特があるといふので切支丹だとか戸隠明~の權化だとか云はれるやうにまでなつたさうである。
(揚美録)

      

 また一書に、
 蝙也齋、名は永吉、信濃の人とも云ひ鹿島の人ともいふ、諸州を經歴して遍く豪傑に交はり師傳に由らずして其の妙を極め、自ら一派を立てゝ願立といふ。
 慶安四年正月二十五日、將軍家光武術臺覧の時に阿部道是(或は道世或は道豐)を相手にして仕合を試み大に將軍の賞讃を蒙り、安藝右京亮の手で時服三襲を賜はつたが、そのうちの一枚は紅絹の裡〔うら〕がついてゐた、これは特賞のしるしである。
 昔、源義經は柳の枝を切つて、八斷したがまだ水に墜ちなかつた、その云ひ傳へを聞いて、蝙也が試みにそれをやつて見ると、水に墜つるまでに十三に切つたので、見る者が激稱した。
 毎日の日課として、刀を拔くこと千遍であつたが七十五にして死する時まで之を廢さなかつたといふ事である。
(東藩野來)

 
    林田左門

 黒田家の臣林田左門は西の國には隠れなき劍術の名人であつた。
 或時、同家の者五六人寄り合ひの時信田大和守なども來てゐたが、武術談が出ると、そのうちに一人血氣盛りで力も馬鹿に強い男があつたが、それがいふには、
 「兵法は武士のつとむべき道には相違ないけれども、強ちこれを習はなければ武道が成就しないといふ限りもあるまい、一心さへ臆していなければ、假令兵術を知らなくても功名は出來るだらう。」
 と、威丈高になつて云ひ出した、左門はこれを聞いて、
 「如何にもその方の申す處は一應の道理はあるが、心が剛なる上に兵法が優れてゐれば鬼に金棒だらう。」といふ。
 右の若侍はなほ承知しない。
 「いやいや一心さへ動かなければ、たとひ木刀仕合であらうとも、そう負けることはござるまい、ちと、仕合を致して見たいものでござる。」
 といふ、左門それを聞いて、
 「それはよい心掛けぢや、然らばいざまゐらう。」
 といふ、血氣の若武者、
 「心得たり。」
 と早くも座を立つて庭に飛び下りあたりを見ると庭木に添へ木として結びつけた長さ一間ばかりの小丸太があつたのを、
 「これにてお相手を仕らう。」  と引き拔いて、土のついたのを拭い二つ三つ振り試みて待つてゐる。
 左門も座敷を立つて縁を見ると、小木刀があつたのをおつ取つて提げ、庭に下り立つて云ふことには、
 「隨分根限りの精を出し、出來るだけ大力を振つて打ちかゝつて見られい。」といふ。
 「仰せまでもござらぬ。」
 といつて、彼の丸太を打ち振り廻し、左門も小木刀をさげ、そろそろと近く寄つて來たのを、間合ひはよしと、彼の若者が一打ちと力一杯打ち込んで來たのを左門は引き外し、飛びちがひざまに木太刀の先きで、彼のものゝ額を少し打つて、
 「まいつたかな。」と聲をかけた處が、若者、
 「如何にも木刀が當りましたやうでござる、思つたよりも早いお太刀でござる、却々どうも。」と云つて丸太を投げ捨てゝしまつた、その時左門は、
 「殘り惜しくござらばもう一仕合まゐらうか。」といつた處、
 「いやいやもう澤山。」
 といつて若者は止めてしまつた、双方座に歸つてから、左門が、
 「向後は我〔が〕を通しなさることはやめ、我を折るやうになさるがよろしい。」
 といふと、若者は、
 「如何にも心得ました。」
 と最初の勢に似ず悄氣返つて答へたので一座の人々も皆打ち笑つた。
 ところが、彼の若者の額が見る見るうちに少し腫れ上つて來て血もにぢみ出して來た、うはべにはそれを見せなかつたけれども内心にはよほど痛くもあり、無念でもあり、面目も踏みつぶされたわけだが、どうしようもなくてその座を立ち去つた。
 右の次第を主君の黒田長政が夜話の折聞くところとなつて、早々この若者をよび出して、
 「その方はこの間左門と木刀仕合をして負けたといふことだが、果してその通りか。」
 と尋ねられて、
 「御意の通りでございます。」
 と答へた、長政その返答を聞いて、
 「若い者にはその位の勇氣がなくてはならぬ、左門であらうとも、打ち込んでやらうといふ勇氣は感心なものだ、若い時その位の勇氣がなければものゝ用には立たない、して又その方が仕合に負けたからといつて、少しも恥にはならないぞ、あの林田は世間に許された兵法の名人である、その方が素人であるによつてなんと焦つても勝てる筈はない、負けたのは道理であるけれどもいざ合戰となれば劍術の上手が必ず勝つといふわけのものではなく、劍術が下手でも功名は出來るのだからそこは格別のものである、我も昔は柳生但馬守、疋田文五郎に就て劍術を習つたがその方同樣の我意をたてゝ打たれたことが度々あつたぞ、乍併武藝を修行しなければ武士の家に生れた道理に背くこと故、その方もこれから左門の弟子となつて兵法劍道を學ぶがよろしい。」
 とヘへたので、彼の者は有難涙をこぼした、それから直ちに左門の處へまゐつて右の次第を申し、子弟の契約をなし晝夜出精したところから後に上手になつて主君長政のヘ示をむなしくしなかつた。
(良將言行録)

      

 松平筑前守忠之の家士林田左文(或は左門)は戸田派刀術の妙手であつた。鐵砲二十挺の頭となつた、一日足輕六人で人を殺して相共に出奔する事があつた、左文はその折馬に乘つてゐた處へ此事を告げ來る者があつたので直樣馬で追ひかけ途中で追ついた、足輕共がそれを見て心に思ふには、いかに左文と雖も六人一緒になつてかゝられてはたまるまい、彼を返り討ちにするのは容易い事だが、今まで頭として立てゝ來た人ではあり、無事に歸してやらうといふ氣になり、
 「折角お出でにはなつたが、こゝでお目にかゝつたといふ事は他國へ參つても人には語りませぬ故に、このまゝお引取り下さい。」
 と云つた、左文は靜かに馬から下りて、
 「その方達六人同じく人を殺すとへえども必ず罪に輕重があるだらう、六人悉く同罪といふ筈はない、拙者がこゝへ來るのは其の是非を糺さんと思ふが故である。」
 と云つて歩みよる處を一人刀を拔いて斬りかゝる、林田刀に手も掛ず、色をも變へず、足をも動かさず、
 「其方率爾な振舞致すな。」
 と云つて間近くなる時、
 「無分別者哉。」
 と云つて拔くや否や手の下に斬り伏せ、
 「その方達鎮まつて我が言を聞け、敵對する故に斬つたのだ、敵對さへせねば斬りはせぬぞ。」
 といふを、又一人斬つてかゝる、
 「馬鹿者奴が、死者狂ひをするか。」
 と云つてわざと後じさりにしさる、踏込む處を飛び違へ、又此をも斬伏せた、これは皆に氣をゆるめさせ、一度に切つてかゝらせないやうにした作略であつた、斯くして三人斬伏せて今殘る三人、これはもう物の數でもないと又一人斬伏せ、一人に手を負はせ、一人を蹴倒し、手負せたる者と蹴倒したる者とは其帯を以て縛り馬に乘り先にたてゝ歸つた、是程の者なれば一國の士多くは林田に刀術を學んだが、ひとり馬爪源右衛門と云ふ者は鐵砲に熟練して百發百中の名手であり、總ての武藝を好んでゐたが林田が刀術を學ばなかつた、人にその故を問われたが笑つて不應、後林田が罪ありて切腹をした、馬爪が後ひそかに親朋に對して云ふ事には、
 「林田には姦邪の性格がある、何事をしだすかわからない男であつた、その刀術はエライもので學びたいには違ひないけれども、已に師とたのんでしまつては難に臨んで居ながら見て居られない事も出來るに相違ない、見捨てゝは道にそむき見捨てない時は義を失ふといふやうな場合もないとは云へぬ、あらかじめ交を結ばずに置くことが拙者如き愚人の一得である。」と。
(續武將感状記)

 
    家光と御前仕合

 「寛永御前仕合」と云つて講談等に於ても有名であるが、勝[海舟]伯等の著した陸軍歴史にもその記録として次の如く出てゐる。
 三代將軍家光公御代寛永十一甲戌年九月廿二日に於吹上御覧所劍道仕合之面々左之通り

     下谷御徒町住人
       井場泉水軒
 
 負     淺山一傳齋

     播州住人
       竹内加賀助
 
     仙 臺 藩
 負     由井 直人

     芝高輪住人
       佐川|幡龍齋
 
     肥州郷士
 負     關口彌太郎

鎧勝負
       大久保彦左衛門
 
 負     加賀爪甲斐守

       荒木又右衛門
 
 合打  豐前小倉
       宮本八五郎

       初鹿野傳右衛門
 
 負     朝比奈彌太郎

       仙臺黄門正宗
 
 負     秋元但馬守

     和州柳生之住人
       柳生市之亟
 
 負     石川又四郎

     江戸小石川
       石川軍東齋
 
     御取立之御旗本
 負     松前帯刀

     上州之郷士
       樋口十郎兵衛
 
 合打  甲府中之郷士
       中條五兵衛

     備中之郷士
       芳賀一心齋
 
     遠州之郷士
 負     難波一刀齋
      右之通上覧
 併し右は史實としては疑ひがあるが、「大猷院殿御實記附録」に次の如くあるは信憑するに足るべし。
慶安四年春の頃より何となく御病氣勝ちにおはしければ、御心地慰ませ給はん御爲めにとて、諸人の武技御覧あり、二月二十六日に、越後の處士山本加兵衛久茂が無遍流の槍法を御覧ぜられ、其後奥殿にて大番頭池田帯刀長賢、先手頭久世三四郎廣當、書院番組頭岡野權左衛門英明、筒持頭坪内半三郎定次、持弓頭兼松又四郎正尾等が劍法をも見給ふ、三月二日、又加兵衛久茂が槍法及船手頭溝口半左衛門重長、柳生内膳宗冬が劍技を御覧あり、同じ六日には肥藩の劍士木村助九郎、居合拔多宮平兵衛を御座所に召して御覧じ、兩人に時服、銀かづけらる、十日、又肥藩の石野市藏、原田多右衛門が槍法を見給ひ、是も賜物例の如し、同じ十四日には諸家の陪臣槍劍に達せるものゝ姓名註記して奉るべしと仰下され、十八日には水藩伊東孫兵衛、木内安右衛門が劍法を見そなはし、其頃劍法に妙を得し尾藩の柳生兵庫が子二人封地より召寄すべしと仰下され、廿四日には藤堂大學頭高次が家士内海六郎右衛門、澤田甚右衛門が槍術、永井信濃守尚政が家士山崎兵左衛門、同源太郎、桂原四郎右衛門が劍法御覧ありて、各服、銀下さる、廿五日、松平陸奥守忠宗が家人松林左馬助が劍技ありて其敵手せし道與にも賜物あり、四月五日には先に召されし尾藩の柳生兵庫が二子茂左衛門、兵助が劍法見給ひし後、兩人に服、銀かづけらる、同じ六日にも重ねて兩人の技を御覧あり十一日には小笠原大膳太夫忠眞が家人高田又兵衛其子齋宮、弟子和光寺七兵衛の槍術を御覧に供へ、例の如く下さる、斯く御大故に近くならせ給ふまでも、武道を忘れさせ給はで、その技を見そなはし、もてはやさせ給ふにぞ、下が下までも自ら奮勵して怠慢する事能はざるに至らしむるは、實に治に亂を忘れ給はぬ御心捉にていと畏き御事にぞ。




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