日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【天の巻】  七
 目 次      Back     Next 

 前原筑前   諸岡一羽と其弟子   富田勢源   富田重政 
 戸田清玄   吉岡建法   太田忠兵衛 


 
    前原筑前

 前原筑前といふ兵法家は小幡上總守に召し抱へられてゐたが、この前原筑前を座敷の隅に置いて五六人の人が二三間隔つてゐる處から扇を雨の如く投げつくるに、前原が木刀か何ぞを手に持つてゐると、右の雨の如く蝶の如き扇を斬り落して一つも我が身に觸らせない、それから又紙撚を長押に唾でもつて吊つて置いてそれを前原は竹刀で幾つにも切り落した、又六十二間の兜を同じく竹刀で打ち碎いた。
(甲陽軍鑑)

 
    諸岡一窒ニその弟子

 天正の頃常陸の國江戸崎といふ處に諸岡〔もろをか〕一窒ニいふ兵法の名人があつた、鹿島の飯篠〔いひざさ〕家直の刀術を傳へたものであるが、この諸岡一窒フ弟子に土子〔ひぢこ〕泥之助、岩間小熊〔いはまこぐま〕、根岸兎角といふ三人の弟子があつて負けず劣らず稽古を勵んでゐたが、そのうち師の諸岡は重き病氣に臥して(癩風)立ち居も叶はず、岩間と土子とはよく看病したが、根岸だけは師の病氣を見捨てゝ逃げ出した、二人の弟子、さても憎い奴ぢや、師の深き恩を忘れ難病を見捨てゝ逃げ走る奴、いつか思ひ知らせんと矢尻を磨いでゐたが、二人共貧しい身であるから、刀、脇差、着てゐる着物まで賣り拂つて師匠の爲に醫術を盡し、三年が間看護したが、師の諸岡はつひにあの世の人となつた。
 さて又、師の重病を見捨てゝ出奔した根岸兎角は相州の小田原へ來て、天下無双の劍術の名人だと云ひふらした、この者丈高く髪山伏のやうに眼に角があつて物凄く、常に、魔法を行ひ、天狗の變化だといはれ、夜の臥所を見たものが無い、愛宕山太郎坊が夜な夜な來て兵法の秘術を傳ふるのだといつて、微塵流と稱して人にヘへてゐるうち、弟子共が多くなつた、その勢で、武州江戸へ來て大名小名にも弟子が多くあつて、上見ぬ鷲のやうな註Uりである。
 常陸に師を看病してゐた土子泥之助、岩間小熊の兩人はこの風聞を傳へ聞き、憎い奴、愈々以て許し難き奴、師に對しての不仁非義のみならず、師傳の流儀を埋め私流を構へ微塵流などゝよばゝること、先師も草葉の陰にてさぞや憎いと思召さるでござらう、さらば木刀にて打ち殺し、彼が屍を路頭に晒し、恥を與へ天罰のほどを思ひ知らせてくれよう、但、彼一人を二人して討つはうれしくないこと、世間への外聞もある、われわれが手並は根岸奴もかねてよく知つてゐる筈、二人が中で籤をとり、その籤に當つた者が一人江戸へ行つて彼を討つであらう、と、二人はそこで籤をひいたが、岩間小熊がその籤に當つて江戸を指して行くことになつた。
 泥之助は國に止まつてゐたが、時を移さず鹿島明~に詣でゝ願書を奉つた。
敬白願書奉納鹿島大明~御寶前、右心ざしの趣は、某土子泥之助兵法の師匠諸岡一猪S霊 に敵討の弟子有、根岸兎角と名付此の者の恩を讎を以て報ぜんとす、今武州江戸に有之、私曲をおこなひ逆威を振い畢、是に依て彼を討ん爲相弟子岩間小熊江戸へ馳參じたり、仰願くは~力を守り奉る所也、この望足んぬに於ては、二人兵法の威力を以て日本國中を勧進し、當社破損を建立し奉るべし、若小熊利を失ふにおいては、某又かれと雌雄を決すべし、千に一つ某まくるに至つては生きて當社へ歸參し~前にて腹十文字に切、はらわたをくり出し、惡血を以て~柱をことゞとくあけにそめ、惡霊と成て未來永劫、當社の庭を草野となし、野干の栖となすべし、すべてこの願望毛頭私願にあらず師の恩を謝せん爲なり、いかでか~明の御憐み御たすけなからん、仍如件。
   文禄二年癸巳九月吉日                土子泥之助
 と書いて鹿島明~の御寶殿に納めてわが家へ歸つて來た。
 さてまた、岩間小熊は夜を日に次いで江戸へと出て來たが、本來小男で色が黒く髪はかむろのやうで頬髭が厚く生えた中から眼がきらめき、名にしおふ小熊の面魂であつた。
 江戸へ來ると根岸の方へは何とも沙汰をしないで、お城の大手、大橋のもとに先札を立てた、その札の文句は、
兵法望みの人有之に於てはその仁と勝負を決し、師弟の約を定むべし。
   文禄二年癸巳九月十五日           日本無双  岩間小熊
 と書いた、根岸兎角の弟子は數百人あつたが、この札を見て、
 「憎ツくき奴めが札の立てようかな、今天下に隠れなき我等の師、根岸兎角先生が江戸においでになることを知つて立てたのか、知らないで立てたのか、この先札を打ち割つて捨て、小熊といふ奴をわれわれ寄り合つて只棒にかけて打ち殺せ。」
 といつて罵つてゐる處を、兎角が聞いて、
 「おろかな奴、飛んで火に入る夏の虫とは、この岩間小熊とやらが事ぢや、拙者が只一討に討ち殺して諸人の見せしめにして呉れう。」
 と、言ひ放ち、奉行所へその仕合のことを申し出でた。
 そこで、日を定めてこの大橋で兩人の仕合が行はれるといふことになつた。
 奉行は双方の手に弓、槍を持つて警護し、兩人の刀脇差を預つた、さて兩人は橋の東西へ出て來た、その樣を見ると根岸兎角は大筋の小袖に朱子の目打ちのくゝり袴を着て白布を撚つてたすきにかけ、黒はじき草鞋を履き木刀を六角に太く長く造り、鐵で筋金をわたし、處々にイポを据ゑ、これを携げて悠々として出て來た。
 さてまた、一方岩間小熊は鼠色の木綿袷に、淺黄の木綿袴を着、足半〔あしなか〕をはき、餘りあがらぬ風采で常の木刀を持つて立ち出でた。
 さて、兩方より進みかけて討ち、兩の木刀はハタと打ち合ひ、互に押すかと見えたが、小熊は兎角を橋ゲタへ押しつけるや片足を取つて倒さまに川へかつばと落してしまつた。
 小熊は相撲も上手だといふ評判であつたが、成るほどそれに違ゐないと皆々評判した。川へ落された兎角はぬれ鼠の姿になつてその場から何處ともなく逃げのびた。
 この時のこの勝負は一代の人氣を沸したと見え、徳川家康も城のうちにあつて、これを眺めたといふこと、見物の人も多かつたが岩澤右兵助といふ人の言葉に、
 「その節、拙者も奉行のうちに加はつて橋許にあつて勝負をたしかに見てゐた、小熊が出足早く、西から出て、兎角は東から出向つたが、拙者の近くに高山豐後守といふ老人がござつたが、この兩人が出會ひ頭、まだ勝負もない以前にすは、兎角が負けた負けたと二聲申されたのを拙者は不審に思ひ、その後右の老人にその理由を尋ねた處が、豐後守が申されるに、小熊は右に木刀を持ち、左で頭を撫で上げ「如何に兎角」と言葉をかける、兎角は「されば」と云つて、頬髭を撫でた、これでもう、高下の印が現はれたのである、その上兎角はお城へ向つて劍を振ふ、どうして勝つことが出來よう、これぞ運命の盡きる前表である、されば兎角は大男の大力である上に小熊をあなどつて只一討と上段に構へた、小熊は小男であり且無力であるけれども巧者であるが故に合討をしてはかなわないと速妙に機を見て下段に持つてゐる、案の如く、兎角が一討と討つ處を小熊はハタと受け止めて兎角を橋ゲタ(ランカンの事なるべし)ヘ押しつけた、橋ゲタは腰より下にあつたから兎角は川へ倒さまに落ちたのである、すべて兎角は強力を頼みとして是非の進退をわきまへぬ血氣の勇である、小熊は敵強く傲れども吾れは傲らず、敵によつて轉化すといふ三略の言葉も思ひ當るのでござると云はれた。」
 日夏能忠が云ふのに、
 「根岸、岩間が勝負のことを拙者も昔老翁から聞いたが、小熊は小男、兎角は大男であつたが、根岸笠にかゝつて小熊を橋桁へ押しつけて働かせず、小熊あやふく見えたが、どうしたことか、小熊が反對に兎角が片足を取つて橋の下へ落し、脇差を拔いて、『八幡是見よ』と、高聲に呼ばはつて欄干を斬つた。この太刀あとが明暦三年正月の大火の前までたしかにあつたのを見たさうである、又この勝負は家康公も櫓の上より見物したといふことである。」
 この前後の話、少し相違するけれども前の老人の説の方が確かであらうといはれる。
(本朝武藝小傳)

      

 一説に、家康公關東に入らせ給ひし時、江戸に小熊某、渡邊某といふ二人の劍法をヘふるものあり、その門流二つに分れて、互に相競ふ事あり、ある日臺徳院殿を伴はせ給ひ、二人の術を大橋の上にて御覧あり、小熊は長袴、渡邊は赤き帷子きて、兩人共に木太刀をせいがむ[正眼]に持ちて打合ひ、橋の上を追ひつ返しつするほどに、小熊やゝ勝色になり、渡邊を橋欄におし付け、そが足とつて川中へ投げ落せしかば、渡邊は水を多く飲み、辛じて岸に上ることを得たり、人々小熊の捷妙をほめぬものはなかりき。
(見聞集)

      

 ある書には、根岸兎角の門人がその後岩間小熊に向つて師の仇を報ぜんとして相謀りて小熊を浴室の中に入れ、周圍を閉し、熱を加へて生氣を失はしめて、小熊、漸くにして浴室を這ひ出たが、出でると同時に倒れるところを兎角の門人が寄つてたかつて惨殺したといふことが書いてある。

 
    富田勢源

 富田勢源は越前の國宇坂の荘、一乘浄ヘ寺村の人で中條流の名家であつた。眼病の故で父の遺蹟を弟に譲つて髪を剃つて勢源と號して隠居の身となつたが、永禄三年中夏の頃、美濃國へ遊びに出かけた。
 美濃國の其の時の國主は齋藤山城守義龍であつたが、國中に大分兵法が流行つてゐた、その師匠は常陸の國鹿島の住人、梅津といふ者であつた。
 この梅津は關東に於て隠れなき~道流の名人であつた、折柄越前國に名だゝる富田勢源この地に來ると聞いて弟子共に向つて云つた。
 「勢源が來てゐるさうだが、一つ出會つて中條流の小太刀を見たいものだ、勢源が旅宿へ行つて一つ所望して見ようかしら。」
 弟子がこれを聞いて、勢源の方へ行つてこの事を傳へると勢源が答へていふには、
 「愚僧は兵法未熟でござるから、その御所望に應じかねる、強つてお望みなれば越前へおいでになるがよろしい、又中條流には曾て仕合といふことはないものでござる。」
 梅津がこの返答を聞いて云ふよう、
 「我が兵法は關東に隠れもないもので、三十六人の同輩が一人として我が太刀先きに及ぶ者なく、皆んな拙者の弟子になつた、先年この國へ來た時、吹原大書記、三橋貴傳は隨分の師匠でござつたが、それも拙者が太刀には及ばなかつたものでござる、勢源も越前に於てこそ廣言を吐け、この梅津には及ぶまい。」といつた。
 齋藤義龍は梅津が高言をほのかに聞いて此奴は一番勢源と出會はしたいものだと武藤淡路守、吉原伊豆守二人を使として勢源が旅宿なる朝倉成就坊の宅へ遣はして梅津との仕合を所望させた。
 朝倉成就坊といふのは、越前の朝倉殿の叔父坊子であつたが、その頃齋藤の武威が盛んなるによつて朝倉殿から成就坊を美濃國に詰めさせて置いたものである。
 さて兩使が館へ來て勢源に主人の所望を申傳へると、勢源が答へていふことには、
 「中條流には仕合といふものが無いのでござる、その上無uの勝負は嫌ふところでござる。」といつて、承知をするけしきも見えないから兩名の使は歸つて、主君義龍にこの趣を申上げると、義龍が云ふ。
 「勢源が申す處尤であるけれども、梅津が過言他國までの嘲りとなる義であるによつて、ひとへに頼み度いものだともう一遍申傳へて來るがよい。」
 そこで兩人がまた勢源が許へ行つて主君義龍の再度望むところを申聞かせると、勢源がそれを聞いて、
 「この上は辭退いたす儀ではござらぬ、斯樣の勝負は人の怨みを受くることであるによつて拙者に於ては曾て致さぬところであるが國主の命背き難し。」
 と答へた、兩使が急ぎ歸つて義龍へ傳へると義龍大いに喜んで、
 「然らば武藤淡路守宅にて仕合を致させよ。」
 そこで七月廿三日辰の刻と時刻を定められた、勢源は檢分の者を望むにより義龍は武藤、吉原を檢士に申付けた。
 梅津は國主の一家大原といふ者の宅にゐたがその夜からゆがゝりをして信心を始めた。
 勢源がその旨を聞いて、心直なれば祈らずとも御利uはある筈だといつて成就坊が方から供人四五人を召し連れ、淡路守の宅に行き、賣買黒木の薪物の中で如何にも短い一尺二三寸の割木を見出して之を皮で卷いた。
 梅津は大原同道で弟子數十人、木刀の長さ三尺四五寸なのを八角にけづり錦の袋に入れて持たしてやつて來た、見た處、器量骨柄優れてゐるから誰しも必ず勝は梅津のものであらうと云つた。
 梅津は檢士に向つて、願はくは白刄にて仕合を致し度いといふ。
 檢士がその希望を勢源に告げると勢源が云ふ。
 「そなたでは白刄にてせらるゝとも、勢源は木刀でよろしうござる。」
 と答へるによつて、梅津も大木刀に定めた、梅津はソラ色の小袖、木綿袴で木刀を右脇に構へた、その氣色龍の雲を惹き、虎の風に向ふが如く、眼は電光に似てゐた、勢源は柳色の小袖、半袴を着て立ち上つて板縁より歩行して、かの割木木刀を提げて悠然として立つ風情、牡丹の花の下の眠り猫とも見える。
 その時、勢源、梅津に言葉をかけ、進んで勝負を試みたが、梅津どうしたものか小鬢から二の腕まで打たれ、頭を打ち切られ、身體中悉く朱に染まつた、梅津は木刀を取り直して振り上げて打つと、勢源騒がずして、梅津が右腕を打つ、梅津勢源が前に倒れて持つたる大木刀勢源が足下に當るのを一足に踏み折つて飛ぶ、梅津起き上つて懐中の脇差を拔いて勢源を突かんとするを勢源は木刀を打ち上げて打ち倒した。
 その時に檢士が其の間に入つてこれを扱ひ梅津を武藤が宅へ入れて養生し、大原が旅宿へ歸した。
 勢源は淡路守の處に届け、武藤、吉原の兩人が勢源が木刀と梅津が折木刀を義龍の一覧に供し、仕合の樣子を悉細に申述べると義龍が甚だ賞美して末代の物語にとて割木木刀を留め置き、鵝眼萬疋、小袖一重〔ひとかさね〕を勢源に贈られた、勢源が申すには、
 「中條流は斯樣の勝負差止めでござるけれども國主の命背き難きことでござるによつて敢てこれを爲した儀故御賞美とあつて下さるものは受納なり難い。」
 と云つて返納してしまつた、使者再三申したけれども終に受納しなかつた、義龍は甚だ勢源の志を感じて對面をして見たいといふことを申し送られたけれども辭退して行かず、この國にいて梅津が弟子にうらみをうけてはならないと翌朝越前へ歸つてしまつたさうである。
 この勢源と梅津の仕合のことについては、又別に一説がある、それは勢源が兵法修業の爲京都へ出て、黒谷に住んでゐたことがある、この時、梅津といふ劍術家が黒谷へ來て勢源に會つて、富田流の小太刀は物の役に立つものではないとそしつた、勢源がいふに、
 「兵法は何も太刀の長短によるべきものではない、大太刀だから必ず勝つといふのはヒガ言である。」
 梅津が怒つていふのには、
 「然らば仕合をしてその勝負を定めよう。」
 と、勢源辭すること能はず、檢士を乞ふて日限を定め、人をして黒木の一尺四五寸もあるのを尋ね出し、皮でまいてこれを携へることにした、既に其日になると、梅津は弟子共を多く召し連れて、三尺四五寸の大木刀を携へ、勢源よりは先きに來て見物の輩にその剛勢を見せようとて、かの大太刀を打ち振つてゐた、勢源は弟子なく、すごすごと黒木の木刀を持つて來た。
 さて、檢士が立ち會つて、いざ勝負といふことになると、梅津は大木刀を打ちかたげて出で、只一打ちと勢源に打つてかゝつた、勢源は受け流して梅津が眞向をしたゝかに打ち破つた、額から血が走り出した。
 檢士がいふ。「勢源が勝だ。」と。
 梅津がいふ。「いやいや拙者の太刀の方が先きに向ふへ當つてゐる。」
 勢源がいふ。「いや少しも當らない、拙者が十分の勝である。」
 といつて、匆々旅宿に歸つて、湯あみをしてゐる處へ、檢士がやつて來て、
「梅津の太刀の方が先きに當つてゐるといつてどうしても聞かぬ、果して然らば貴殿の何れかに創のあとがあるであらう、それによつてあらために參つた。」
 勢源が答へて、
 「幸ひ丁度、ゆあみをいたしてゐる處でござる、これへおいであつて篤と御覧候へ。」
 といふ、檢士が行つて見ると、身體の何處をあらためても創といふものがない、そこで勢源が勝といふことに決定したといふことになつた、實をいふと、梅津が木刀も勢源の左の甲にしたゝか當つてゐたので黒くあとがついてゐたのであるが、檢士が見た時に右の手でその左の手の甲をおさへて置いて身體中を驗べさせた爲に流石の檢士も遂に發見することが出來なかつたのだといふ。
 また一説には、黒木ではなくて鐵扇で勝負をしたのだと。
 是等の説、皆それぞれ違つてゐるが、最初の富田傳書の説が最も正しいだらうといはれてゐる。
(本朝武藝小傳)

 
    富田重政

 前田利常が或時富田越後守重政に向つて
 「その方が家の藝に無刀取といふ秘術があると聞いたが、これをとつて見よ。」
 と佩刀をスラリと重政の面前に突き出した、重政はかしこまつて、
 「無刀取は秘術でござります故に他見を憚ります、御襖の陰から此方をうかゞふものがござるによつてお叱りを願ひ度い。」
 といつたので利常は思はずうしろを顧みた、その隙に利常の手を強く握つて、
 「無刀取はこれでござる。」
 といつたので、利常もなるほどゝ感心してしまつた。
 重政が、或日家僕に髯を剃らせてゐた、家僕は心ひそかに思ふよう、
 「如何なる天下の名人と雖も斯ういふ場合に刺したら一突きだらう。」
 重政はフト僕の面を見て、
 「その方の面色は尋常でない、然し、思つたことをする勇氣はあるまい。」
 と云はれたので縮み上つた、この重政は中條流で武名を四方に輝かし將軍秀忠の上覧を經て名人越後と呼ばれ、中條流といふものはなく、富田流の祖と呼ばれた人である。

 
    戸田清玄

 戸田彌六左衛門清玄は福島正則の家臣で、戸田流の達人であつたが、この人は人と仕合をする時には殊更に長袴を着けて、一尺九寸の木刀を用ひるので門人達も皆これを眞似てゐた、清玄がいふのに、
 「武士は禮服を着て威儀を整へてゐる場合に異變が起つて刀を振ふことがないとも限らん、そこで常に用心して長袴をつけた時にも狼狽しないやうにしてゐるのだ。」

 
    吉岡建法

 慶長十六年六月二日、禁裏お能の節、町方の者にも南庭にて見物をお許しであつたが、その頃までは町人は脇差、武士は兩刀で參上して御門の切手といふこともなく、自由に出入が出來たのである。
 その頃、京都西洞院三條の末、しやむろ染屋の中、吉岡又三郎といふものが一流の染物を發明して吉岡染といつて賣り出してゐたがこの又三郎斷髪して建法と名をつけた處から建法染ともいはれてゐた、この又三郎職業柄にもにげなく自然と劍術に名を得て吉岡流といふ一流を開いて、京都中にその名が聞えてゐた。
 その劍術は染物の形をつける紺屋糊の引切りやうで太刀の打ち込みを發明して一流をとりたてたといふことである、この吉岡建法がその日お能見物に禁庭へ入り込んで來た處、係りの雜色が來て、
 「あたまが高い。」
 と、いつて持つてゐた金棒で建法の頭を叩いた、これは日頃建法が町人のくせに劍道に秀で名聲が盛んであることを快からず思つてゐたのが打つて出でたものと見える。
 そこで、建法がぢつと我慢してゐれば何のことはなかつたのに、これを怒つて、差してゐた脇差でその雜色を斬つたからさあ大變になつたのである、庭中が遂に騒動し、建法を捕へんとする、こちらは腕におぼえの達人だから當るほどの者を斬りつけて、南門の方の塀を乘り越えて逃げようとした時に、着てゐた袴が塀に引つかゝり、働きかねてゐる處を引き下し、捕へて處刑せられたといふことである。
(古老茶話)

      

 吉岡又三郎が慶長十九年六月二十二日朝廷の猿樂興行を見物に行つた時、雜色があやまつて杖を吉岡に當てたが、吉岡が怒つてひそかに禁門を出で刀を着物の下に隠して來て入るや否や右の無禮なる雜色を斬り殺した、その席騒動して雜色等は大勢で吉岡を殺さうとひしめいたが、吉岡は敢て騒がず、舞臺に登つて息をひそめ雜色等が群り進んで來ると飛び下りてはこれを斬り、又舞臺に飛び上り、又進んで取り圍んで來ると飛び下りて之を斬る、斯の如くすること屡々、多數の雜色がこれが爲に命を落した。
 後、袴のくゝりが解けた爲にあやまつてつまづき倒れた、そこをすかさず多勢かゝつて遂に吉岡を斬り殺したといふことである、その時に吉岡の一族は多くその場にあつたけれども敢て騒がず、皆手を束ねてその働きを見てゐるだけであつた、事が終つて所司代板倉勝重は吉岡一族があの際よく鎮まつてゐたことに感心して敢てこれを罪にしなかつたといふことであるが、事實彼等が氣を揃へて又三郎を助けた場合には大變な騒ぎになつてしまつたろうといふ。
(本朝武藝小傳)

 
    太田忠兵衛

 吉岡拳法が禁庭のお能見物の時に雜色と喧嘩をしでかし、拳法に斬られて手追ひ死人が數多出た時の物語にまた一説がある、その時誰も拳法の手なみに恐れて近寄るものもなかつたが處司代板倉伊賀守勝重の臣で太田忠兵衛といふ者が薙刀の上手であつたがこの騒動を聞いて駈けつけ、薙刀をもつて拳法と渡り合ひ、しばし勝負も見えなかつたが、どうしたものか拳法があやまつて踏みすべり仰向樣に倒れた、忠兵衛それを見て聲をかけ、
 「倒れたものは斬らぬぞ、起き上つて尋常に勝負せよ。」
 と、いつた、さしもの拳法もこれを聞いて、こちらが起き上つて尋常に立合ふまで待つとはやさしい心得だと安心して足を踏み直し、半ば起き上らうとした處を、忠兵衛がすかさずふみ込んで斬り伏せて勝を得た、それを見てゐた人々の評判に、
 「太田殿は大したものだ、拳法が倒れたところこれ幸と斬つた處で相手は拳法のことだからこちらの名折れにはならない、それをわざわざ起して斬るといふのは腕も腹も十分の勝である。」
 といつてほめた、忠兵衛がこれを聞いて大いに笑つて云ふよう、
 「それは拳法を知らぬ者の云ふことぢや、その時拳法は倒れたけれども、こつちをキツト見て太刀を構へた氣にはなかなか近寄つて勝てるわけのものではないと思つたからそこで右の如く聲をかけた處、拳法ほどのものであるけれども少し油斷して立ち上らうとする虚を斬つて勝つたまでゝある、ゆめゆめ我が腕の勝れたる故ではない。」と。
(撃劍叢談)

      

 京都の吉岡建法(或は拳法)騒動のことを常山紀談には次の如く書いてある。
 板倉伊賀守勝重が所司代の時分、慶長七年禁裏に猿樂があつて、貴賤群集した、吉岡建法といふ染物屋は劍術の名人であつたが、無禮の事があつたといふので、雜色から咎められた、建法はそのまゝ外に出て註Dの下に脇差を隠し、もとの處へやつて來て、先きの雜色を一刀の下に斬り殺し、それから縦横に駈け廻つたが固より飽迄手利きである、手を負ふものが數を知らなかつた、所司代勝重は御前間近い出來事に大責任を感じたと見え、御門にゐたが自から眉尖刀〔なぎなた〕を取つて走り向つて來た、太田忠兵衛がそれを見て、
 「あなた樣がお手を卸し給ふはよろしくござりませぬ。」
 と遮り止めて、自分が建法に馳せ向ふを、勝重は、
 「然らば、この眉尖刀を持て。」
 と與へられた、太田忠兵衛は吉岡に向ひ、
 「惡逆無禮の男、首をのべよ。」と走りかゝる。
 吉岡は紫震殿の階に息をついでゐたが、それを見ると、
 「この建法に向つて太刀打をしようといふものはお前でもなければ。」
 と云ひながら階を下りて立ち向つた、太田忠兵衛は、
 「眉尖刀は無uなり。」
 といふまゝに刀を拔くと吉岡は走りかゝつたがどうしたはづみか打ち倒れて了つた、その時太田忠兵衛は大音を擧げて、
 「倒れたのを斬るのは武士の恥である、立つて勝負をせよ。」
 と云つた、吉岡が立ち上る處を飛びかゝつて一刀のもとに斬り殺してしまつた。
 板倉勝重は大いに喜んで忠兵衛に禄を増し盃を與へて後云つた。
 「その方が吉岡が倒れた時に斬らなかつたのは、勇氣餘りある處ではあるが氣象に少し驕りが見えるやうだ、吉岡はたとひ身分賤しき商人であるとはいへ、劍術にかけては無双である、倒れしこそ天の與へであるものをそこを斬らなかつたのは虚を打つ道理を知らないのではないか、成功したからいゝが、やりそこなえば……。」
 と云つた。忠兵衛はそれに答へて云つた。
 「まことに有り難い仰せでございますが、こゝには一つの所存がござります、かゝる場合に普通敵が倒れたのを起しも立てずに斬らうといたしまする故に我が身を忘れて却つてこちらが斬られて、倒れた方が勝となるものでござります、倒れようには虚と實とがござりまして、吉岡が倒れたのは虚でございました、たとひまた實に倒れたといたしましても、容易く斬られる男ではございません、倒れた時は身を防ぐことに氣を取られて虚の樣に見えますけれども近寄らば斬らうとする心持は實でございます、虚にも實にも倒れた者の起き上らぬといふことはござりません、その起き上りまする瞬間は身を防ぎ敵を斬り拂わんとする心が虚になりますので、そこを打つて容易く斬り止めました、斯樣のことは小さい業、匹夫の仕事でござりますから、殿樣などの御承知になるべき筋合でもござりませぬが、大軍を率ゐ、軍馬のかけ引を致す道にも幾らか共通したところがござりまするかと、憚りもなく申上げるのでござる。」
 と云つたので、勝重が大いに感心したとのことである。
 なほ吉岡が劍法に就ては、享保年間に出た漢文の「吉岡傳」といふ書物には吉岡家の劍術を稱揚し朝山三徳といふ九州第一の天流の名人を仕合で撃殺し、その事を傳へ聞いて仕合に來た鹿島村齋といふ荒法師をも撃殺し、宮本武藏も來て仕合をしたが眉間を打ち破られ、改めて仕合をやり直すといふ約束の日に至つて武藏は迹を晦まして逃去つたと書いてある。



 PageTop     Back     Next