宮本武藏
宮本武藏政名は播州の人、二刀の名人である、十三歳の時に播州に於て有馬喜兵衛と勝負をし、十六歳の時に但馬に於て秋山と勝負をしてこれを撃殺し、後京都に於て吉岡と勝負を決して勝ち、後彼船島に於て、巖流を撃殺した、凡そ十三歳より勝負をなすこと六十餘有度、一度も後れをとつたことがない。
吉岡と勝負を決した時は當時扶桑第一と稱してゐた吉岡の嫡子清十郎を蓮臺野に於て木刀の一撃の下に打ち斃して眼前にて息が絶えたが、門生達が板に乘せて運び去り療治を加へたので漸く回復したけれども、それから劍術を捨てゝ髪を切つてしまつた、その後一族吉岡傳七郎とまた洛外に於て勝負を決するの約束をした、傳七郎は五尺餘の木刀を抱へて來たのを武藏その期に臨んで彼の木刀を奪ひ、これを打つて地に伏せしめた、たちどころに死んでしまつた。
吉岡の門生は、これはとても術をもつて相敵するわけには行かぬと、吉岡又七郎は門下數百人に兵器と弓矢を持たせて武藏を謀殺しようとした、それを敵の意表に出でゝ武藏は一人で悉く追ひ拂つてしまつた。
中村守和といふ人の話に、巖流と宮本武藏の仕合のことを或る年寄から聞いたといふところを次に記して見る。
既に仕合の期日になると、貴賤見物の爲船島に渡るものが夥しい、巖流もしのびやかに船場に來て船に乘り込んだ、さうして渡守に何氣なく訊ねていふ。
「今日は大へんに人が海を渡るやうであるが、何事があるのだ。」
渡守が答へていふのに、
「あなた樣は御存知がないのですか、今日は巖流といふ兵法使ひが、宮本武藏樣と船島で仕合をなさる、それを見物しようとてまだ夜の明けないうちからこの通りの始末です。」
巖流がいふのに、
「實はおれがその巖流なのだ。」
渡守が聞いて驚いて、さて小さな聲でいふには、
「あなた樣が、巖流樣でいらつしやるならばこの船をあちらの方へつけますから、このまゝ早く他國へお立去りになる方がよろしうございます、よし、あなた樣が~樣のやうな使ひ手でいらつしやらうとも、宮本樣の味方は人數が甚だ多數でございますから、どちらにしても、あなた樣のお命を保つことは出來ますまい。」
巖流それを聞いていふ。
「お前のいふ通り、けふの仕合、さもありさうな事だが、拙者は必ずしも生きようとは思つてゐない、且堅く約束したことであるから、たとひ死すとも約束を違へることは出來ない、拙者は必ず船島で死ぬであらう、お前、我が魂を祭つて水なと手向けてくれ。」
と、いつて懐中から鼻紙袋をとり出して渡守に與へた。
渡守は涙を流して巖流の剛勇に感じ、さうして船を船島に着けた。
巖流は船から飛び下りて武藏を待つてゐた、武藏もまた此處に來て勝負に及んだ、巖流は精力を勵まし、電光石火の如く術を振うと雖も不幸にして一命をこの島に留めてしまつた。
この物語をした中村守和といふ人は十郎左衛門といつて侍從松平忠榮に仕へ、刀術及び柔術に達した人である、この話によると巖流の器量が却々優れて見える。
もう一つの説に、武藏が巖流と仕合を約束して船島に赴く時に武藏は水棹の折れを船頭に乞ひうけて脇差を拔いて持つべき處を細くしそれをもつて船から上つて勝負をしたといふことである、巖流は物干竿と名づけた三尺餘の大刀をもつて向つたといふことである。今に船島には巖流の墓がある。
(本朝武藝小傳)
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