日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【天の巻】  六
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    宮本武藏

 宮本武藏政名は播州の人、二刀の名人である、十三歳の時に播州に於て有馬喜兵衛と勝負をし、十六歳の時に但馬に於て秋山と勝負をしてこれを撃殺し、後京都に於て吉岡と勝負を決して勝ち、後彼船島に於て、巖流を撃殺した、凡そ十三歳より勝負をなすこと六十餘有度、一度も後れをとつたことがない。
 吉岡と勝負を決した時は當時扶桑第一と稱してゐた吉岡の嫡子清十郎を蓮臺野に於て木刀の一撃の下に打ち斃して眼前にて息が絶えたが、門生達が板に乘せて運び去り療治を加へたので漸く回復したけれども、それから劍術を捨てゝ髪を切つてしまつた、その後一族吉岡傳七郎とまた洛外に於て勝負を決するの約束をした、傳七郎は五尺餘の木刀を抱へて來たのを武藏その期に臨んで彼の木刀を奪ひ、これを打つて地に伏せしめた、たちどころに死んでしまつた。
 吉岡の門生は、これはとても術をもつて相敵するわけには行かぬと、吉岡又七郎は門下數百人に兵器と弓矢を持たせて武藏を謀殺しようとした、それを敵の意表に出でゝ武藏は一人で悉く追ひ拂つてしまつた。
 中村守和といふ人の話に、巖流と宮本武藏の仕合のことを或る年寄から聞いたといふところを次に記して見る。
 既に仕合の期日になると、貴賤見物の爲船島に渡るものが夥しい、巖流もしのびやかに船場に來て船に乘り込んだ、さうして渡守に何氣なく訊ねていふ。
 「今日は大へんに人が海を渡るやうであるが、何事があるのだ。」
 渡守が答へていふのに、
 「あなた樣は御存知がないのですか、今日は巖流といふ兵法使ひが、宮本武藏樣と船島で仕合をなさる、それを見物しようとてまだ夜の明けないうちからこの通りの始末です。」
 巖流がいふのに、
 「實はおれがその巖流なのだ。」
 渡守が聞いて驚いて、さて小さな聲でいふには、
 「あなた樣が、巖流樣でいらつしやるならばこの船をあちらの方へつけますから、このまゝ早く他國へお立去りになる方がよろしうございます、よし、あなた樣が~樣のやうな使ひ手でいらつしやらうとも、宮本樣の味方は人數が甚だ多數でございますから、どちらにしても、あなた樣のお命を保つことは出來ますまい。」
 巖流それを聞いていふ。
 「お前のいふ通り、けふの仕合、さもありさうな事だが、拙者は必ずしも生きようとは思つてゐない、且堅く約束したことであるから、たとひ死すとも約束を違へることは出來ない、拙者は必ず船島で死ぬであらう、お前、我が魂を祭つて水なと手向けてくれ。」
 と、いつて懐中から鼻紙袋をとり出して渡守に與へた。
 渡守は涙を流して巖流の剛勇に感じ、さうして船を船島に着けた。
 巖流は船から飛び下りて武藏を待つてゐた、武藏もまた此處に來て勝負に及んだ、巖流は精力を勵まし、電光石火の如く術を振うと雖も不幸にして一命をこの島に留めてしまつた。
 この物語をした中村守和といふ人は十郎左衛門といつて侍從松平忠榮に仕へ、刀術及び柔術に達した人である、この話によると巖流の器量が却々優れて見える。
 もう一つの説に、武藏が巖流と仕合を約束して船島に赴く時に武藏は水棹の折れを船頭に乞ひうけて脇差を拔いて持つべき處を細くしそれをもつて船から上つて勝負をしたといふことである、巖流は物干竿と名づけた三尺餘の大刀をもつて向つたといふことである。今に船島には巖流の墓がある。
(本朝武藝小傳)

      

 武藏流は宮本武藏守義恒(諸書に皆正名につくる、今古免許状によつて改むるなり。)
 武藏守は美作の國吉野郡宮本村の生れである、父は新免無二齋といつて十手の達人であつたが、武藏守もこの術に堪練し、後つらつら思ふには十手は常用の器ではない、我が腰を離さゞる刀を以て人に勝つ術こそ膽要であるといつて、改めて新たに工夫し、二刀の一流を立てた。
 岸流といふものと仕合した時、船頭に篙を乞ふて二刀とし、岸流は眞劍で勝負をし、遂に武藏が勝つて岸流を撃殺したこと、悉[委?]しくは碎玉話に出てゐるからこゝに説かない。
 又一説に宮本武藏、佐々木岸柳と仕合をすることに決つたが、相方の弟子共甚だ恐れあやぶんだ、武藏の弟子の山田某といふ者が岸流の第子の市川といふものと話の序に相方の師匠の得意の點を物語つたが、武藏の弟子山田がいふには、
 「うちの先生の仰有るのには岸流殿は秀れて大太刀を好みなさる由、然らば打ちひしぎて勝たうといつて木太刀を拵へました。」
 岸流の弟子の市川がいふには、
「うちの岸流先生は虎切りといつて大事の太刀がござる、大方、この太刀で勝負をなさるのでせう。」
 山田がこの由を歸つてつぶさに武藏に告げると、武藏が聞いて、
 「虎切りは聞き及びたる太刀である、さぞあらん。」
 と、いつて勝負の日になつたが、武藏は輕捷無双の男であるから、岸流に十分虎切りをさせて飛び上り、皮袴の裾を切られながら飛び下り岸流が眉間を打ち碎いて勝つた。
 又一説に、武藏は京都將軍の末に、都に上り、兵法の吉岡拳法と仕合打ち勝つて天下一の號を將軍より賜はつたといふ、この拳法と勝負の時も岸流と仕合の時も、共に一刀で、二刀は用ひなかつたのだとも云はれる、是等の説が眞であるかどうか、この流儀の免許状などに天下一の印を捺し、又天下一宮本武藏義恒とも書いてゐるが、武藏夢想の歌として、
     なかなかに人里近くなりにけり
         あまりに山の奥をたづねて
 武藏流は一般に稱へるところであつて、この家では流名を圓明流と稱へるのか免許状等にすべて圓明流と見えてゐる。
(撃劍叢談)

      

 古老茶話といふ書物によると、宮本武藏が小笠原領、豐前の小倉で佐々木眼柳といふ劍術者と同船したが、船の中で仕合のことを申出し、武藏は擢を持ちながら岸に上る、眼柳は眞劍をもつて、武藏が上る處を横になぐる、武藏が皮袴の裾を凡そ一寸通り横に切つた。
 武藏は持つたる擢をもつて眼柳を打つてその船の中へ打ちひしいだ、これよりその島を眼柳島と名づけた、「武藏は一生の間に七十五度仕合して殘さず勝つてゐる」と書いてある。
(古老茶話)

      

 京都北野の七本松で宮本武藏と吉岡兼房とが仕合をすることになつた、その刻限を双方朝五時と約束した、兼房は早く起きて刻限に北野に行つたが、武藏は遲參して晝時に及んでもまだ出てこない、使ひを遣つて見ると武藏はまだ寝てゐる。
 「急ぎ出で向き候へ。」と申すと、
 「心得候。」といつてまだ寝てゐる、從者が、
 「如何でございます。」といふと、武藏は、
 「勝を考へてゐるとまだ氣が満たない、追つゝけ出かけよう。」
 と、いつて、漸く袴肩衣で北野に出かけて行つた。
 吉岡がそれを見て、焦立つたる心持で、
 「待ちかねてゐた。」
 といふと、武藏が、
 「ちと不快にて遲參いたした。」
 と答へて立ち上つて仕合、吉岡は木刀、武藏は竹刀にて相打ち、吉岡鉢卷のうち左の小鬢〔びん〕、武藏左の肩衣の肩の後のところを打たれた。
 これは武藏がわざと吉岡に氣を屈させようと、悠々と時を延ばしたのである。
(古老茶話)

      

 武藏が吉岡と仕合をした時、武藏は柿手拭で鉢卷をしたが吉岡は白手拭で鉢卷をした、吉岡が太刀、武藏が額に當る、武藏が太刀も亦吉岡が額に當る、吉岡の方は白手拭だから血が早く見え、武藏は柿手拭であるが故に、暫くして血が見えたといふことである。
 また一説には、この時吉岡はまだ前髪で二十に足らず、武藏より先立つて弟子を一人召し連れ、仕合の場に來り、大木刀を杖について武藏を待つてゐた、武藏は竹輿でやつて來たが、少し前門で輿より下り、袋に入れた二刀を出して袋で拭い、左右に携へて出る、吉岡大木刀をもつて武藏を打つ、武藏之を受けたには受けたが鉢卷が切れて落ちた、武藏沈んで拂ふ木刀で吉岡が着た皮袴を斬つた、吉岡は武藏が鉢卷を斬つて落し、武藏は吉岡が袴を斬つた、いづれ勝り劣りのあるまじき達人と見物の耳目を驚かしたといふことである。
 また或る説には武藏は二刀使ひであるけれども仕合の時はいつも一刀で二刀を用ひない、吉岡と仕合の時も一刀であつたと、どれが本當かわからないが聞くに任せて記して置く。
(本朝武藝小傳)

      

 吉岡との最初の爭の時、武藏、つくづく思ふよう、我曩に清十郎、傳七郎と仕合をした時は、いつも後れて行つた、今度はそれに引きかへ、先に行かうと、鶏鳴の頃一人で出かけて、道に八幡の社がある、武藏おもへらく、
 「幸ひに~前に來た、勝利を祈つて行かでは。」
 と社壇に進んで、~前に下つてゐる鰐口の緒を取り、將に振り鳴らさうとして、忽ち思ふに、
 「余は常に~佛を尊んで、~佛を頼まずと心に誓つてゐる、今この難に臨んで、いかに祈るとも~樣が受け容れたまふ筈がない、我ながらおぞましい心を起したものだ。」
 と、慚愧して社壇を下つた處が、後悔の念忽ち至り、汗が流れて足の踵に及んだ、即ち直に馳せて一乘寺の下り松の處まで來たが、夜がまだ明けず四方寂々、依て松陰に暫く休んで待つ處に、又七郎案の如く門弟數十人を率ゐ、提燈を照して歩み來り笑ひながら、
 「武藏は此度も亦遲れて來るだらう、心にくき彼の松陰、いざや、あれで休まう。」
 と云ひ云ひ近づいて來るを、武藏、
 「やあ又七郎待ちかねた。」
 と大聲に呼ばゝり、大勢の中に割つて入る、又七郎驚きあわてゝ拔き合はせんとする處を眞二つに斬り殺す、門弟等狼狽しながら、槍又は半弓を以て突きかゝり、射放ち、劍を拔いて切りかゝるを、武藏は悉くこれを薙ぎ拂ひ、追ひ崩し、何れも命からがらにて逃げ去つた、この時武藏は矢一筋を袖に止めたのみで小疵だに負はず、威を震つて歸つた、武藏後にこの事を人に向つて云ふには、
 「事に臨んで心を變ぜざるは六つかしい、自分ながらあの時は危くも~明に頼らうとした。」
 と云つた、これで吉岡家は斷絶したのである。

      

 二天記によると、岸流島の仕合は吉岡に勝つて後慶長十七年四月二十一日[十三日の誤記]の事である。
 そもそも巖流事佐々木小次郎は越前國宇坂の庄浄ヘ寺村の生れで、富田勢源の門人であつたが天性非凡に加ふるに幼少より稽古を見覺え、長ずるに及んで、勢源が打太刀を勤めた、勢源は一尺五寸の小太刀を持ち、小次郎に三尺餘の太刀をもたせて、常に仕合をしたが、小次郎やうやうその技熟するに至り後には勢源が高弟等一人も小次郎に及ぶものなきに至り、一日勢源が弟治部左衛門と勝負をしたが、これにも亦打勝つたので、小次郎大いに我が技能の勝れたるを誇り勢源が許を驅落して、自ら一流をたて巖流と云つた。
 この時の仕合は武藏の方から細川家の家老長岡佐渡を通じて希望したものであつた、斯くて小次郎(巖流)は太守細川三齋の船で、武藏は家老長岡佐渡の舟で、決闘の場所向島へ渡される事になつたのだが、其の前の夜になると武藏の行方がわからなくなつた、中には、さすがの武藏も巖流に怖れをなして逃げたのだらうなどゝ噂をするものもあつたが、長岡佐渡が心配に堪へず探しに出ると、下の關の問屋小林太郎左衛門といふ者の家にゐた、そこで武藏は長岡佐渡に手紙を書いて御心配なかるべき由を通じた。
 翌朝になると日が高くなるまで武藏は起き上らない、亭主も心配し小倉からも使があつて、小次郎は最早定刻島へ渡つたとの事である。
 武藏はゆるゆると起上り、手水し、飯を食ひ、亭主に請うて櫓[櫂?]を求めて木刀を削つた、そこへまた小倉から急使が來た、武藏漸く絹の袷を着、手拭を帯にはさみ、その上に綿入れを着て小舟に乘つて漕ぎ出た、召しつれるのは宿の僕一人である、さて船の中で紙捻をして襷にかけ、彼の綿入をかけて寝こんでしまつた。
 島では警固特に嚴重であつた、武藏の舟が着いたのは巳の刻近い頃であつた、舟を洲崎にとゞめ、着てゐた綿入を脱いで、刀は船に置き、短刀をさし、裳を高くかゝげて、彼の木刀を提げ、素足で舟から降り、波打際を渉ること數十歩、行く行く帯に挾んだ手拭を取つて一重の鉢卷をした。
 小次郎の方は猩々肌の袖無註Dに染革の立附を着し、草鞋をはき、備前長光の三尺餘の刀を帯びて待ち疲れた體であつたが、武藏の影が向ふに見ゆるや、憤然として進み、水際に立つて、
 「拙者は時間に先立つて來てゐるのに、貴殿は約束を違ふこと甚だしい、わが名を聞いて臆れたか。」
 さういふのを、武藏は聞えぬふりをして黙つてゐる、小次郎u々怒り、たまり兼ねたる氣色で、刀をスラリと拔き、鞘を水中に投げ捨てゝ、猶進み寄る。
 その時、武藏は水中に蹈みとゞまつて、莞爾と笑ひ、
 「小次郎、負けたぞ。」
 といふ、小次郎、いよいよ怒つて、
 「何の理由で、負けたといふ。」
 武藏それに答へて、
 「勝つ氣ならば、鞘を捨てるには及ぶまい。」
 小次郎怒氣紛々たるまゝに刀を眞向に振りかざして武藏が眉間を望んで打つた。
 武藏も同じく打ち出したが武藏の木刀が早くも小次郎が額に當ると小次郎は立所に倒れた、最初、小次郎が打つた太刀は、その切先、武藏が鉢卷の結び目にあたつて、手拭が二つに分れて落ちた。
 武藏木刀を提げながら倒たれ[倒れた]小次郎を見つめてゐたが、暫くたつて、また振り上げて打たうとする時、小次郎は伏しながら横に拂つた刀で、武藏の袷の膝の上に重ねた處を三寸ばかり切り裂かれた。
 その時、武藏が撃つた處の木刀で小次郎が脇腹横骨を折られて全く氣絶し口鼻から血が流れ出でた、武藏は木刀を捨て、手を小次郎が口鼻に當て顔をよせて死活をうかゞつたが、やがて遙かに檢使に向つて一禮し、起つて木刀を取り、本船の方へ行きこれに飛びのり供と共に棹さして早速下の關へ立ち歸り、長岡佐渡に手紙を送つてお禮の意を述べた、巖流島の仕合とはこれを云ふ。
(二天記)

      

 ある年正月三日の夜、肥後熊本細川家花畑の邸で、謡初があつて、人々が集まつたが、武藏もやつて來た、規式はまだ始まらない前に、大組頭の志水伯耆といふ人が、上座から武藏を見かけて言葉をかけ、
 「貴殿が先年佐々木と勝負ありし時、小次郎が先きに貴方を打つたのだとの風説がござるが、その實否如何でござる。」
 とたづねた、武藏は何とも返答をせず、席に立てた燭臺を取り伯耆の膝下ちかく、つかつかと進み坐り直して、
 「我等幼少の時、蓮根といふ腫物が出來、その痕がある爲に月代〔さかやき〕がなりがたく、今に總髪にてござるが、小次郎と勝負の時は、彼は眞劍、我は木刀でござつた、眞劍で先に打たれたならば、我等が額に疵痕〔きづあと〕があるでござらう、能く能く御覧下され。」
 と、左の手で燭臺を取り、右の手にて髪を掻き分けて我が頭を伯耆の顔に突き當てた處が、伯耆後ろへ反つて、
 「いやいや一向に疵は見え申さぬよ。」
 といふ、武藏猶もおし寄り、
 「篤と御覧候へ。」
 といふ、伯耆、
 「いかにも篤と見届け候。」
 といつたので初めて立て燭臺を直し、元の座につき、髪掻き撫でゝ自若たるものであつたが、その時には一座の諸士いづれも手に汗を握つて、鼻息するものもなかつた。これ伯耆一生の麁忽なりと、その頃の評判であつたさうな。

      

 或る者が、武藏に兵法修行の上達如何を訊ねたら、武藏は疊の縁を指して、
 「此處を歩き渡つて見られよ。」
 といつた、其の通りにすると武藏が、
 「若し一間ばかり高い所で今の縁の廣さを渡れるか。」
 とたづねた。
 「それはチト難しい。」
 といへば、
 「然らば三尺の幅あらば渡るや。」
 といふ。
 「それならば渡られます。」
 と答へる、武藏此時に頷いて、
 「當時姫路の天守の上から増位山(姫路より南方[北方の誤り]一里にある)の上へ三尺幅の橋を架けたらば渡れるか。」
 と反問した。
 「これはとても渡れるとは申されぬ。」
 といへば武藏合點して、
 「さもあらん、劍法もその如し、疊の閾を渡るは易く、六尺高となれば幅三尺の板に安心を止め、天守増位山の高さとなれば間隔一里に三尺の渡にては心許なく、過失を恐るゝ臆病出で來るが修業の足らぬ所である、始は易く、中は危くそれを過ぎては又危し、始中終の本心が確と備はるときは何の危き所はない、故に精氣を練りて疊のへりを能く踏み覺ゆれば一里高も百丈も怖るゝことなく、三尺の橋桁を踏外づすことはない。」
 と、語つた。

      

 宮本武藏が名古屋に在つた時、或る日門弟二三人を連れて外出した處が、一人の武土が前の方から歩いて來る、それを見て武藏が門弟に向つて云ふことには、
 「この人の歩き方は遲からず早からず、眞に活きた人の態度である、俺は江戸を出てから久し振りで活きた人に出逢つた、これは必ず柳生兵庫であらう、さうでなければ當城下に別に斯樣の人がある筈は無い。」
 と云ひつゝ進んで行くうちにパツタリ行き會つた、さうすると、先方から聲をかけて、
 「宮本先生ではござらぬか。」
 と云つた、さうすると武藏は、
 「さ樣に仰有るあなた樣は柳生先生ではござりませぬか。」
 と答へた、兵庫も武藏もまだ未知の間であつたけれども双方その態度を見てその人を覺つたといふのである、この話は怪しいけれども記して置く。

      

 武藏が名古屋へ來た時に召されて、候の前に於て兵法つかひと仕合した時、相手すつと立合ふと、武藏は組みたる二刀のまゝ、大の切先を相手の鼻の先きヘつけて、一間の内を一ペんまはし歩いて、
 「勝負かくの如くに御座候。」
 と云つた、また一人立合つたが、これも手もなく勝つた、(この仕合は城内虎の間であつたともいふ)武藏は其の後、長野五郎右衛門が柳生流の達人だと聞いて、仕合をしたいとの内談の爲五郎右衛門方へ推參したが、五郎右衛門出迎へて、
 「かねがね御意得度存じてゐた處、ようこそお出下された。」
 とて、もてなし、打ちくつろぎて話す時に、長野は武藏に向つて、
 「何と武藏殿、三十五ケ條と申す書を一覧致したが、あれは其許の御作でござるか。」
 と問ふた。
 「成程、私の作りし書物でござります。」
 と武藏が答へると、五郎右衛門が、
 「近頃粗忽なる申分ではござるが、あの書物はお書き損ひでござつて、嘸かし後悔の事とお察し申す。」
 と長野から達慮なく云はれて武藏が、
 「さてさて、お恥かしき事にて候、未熟の時分作り出し、只今は後悔千萬の作でございます、然し一天下に流布して貴殿まで御覧下さるゝやうになつては、今更如何とも致し難く殘念に候、さても承りしより貴殿は上手、感心仕りました、あの書物を書き損ひと申すは天下に貴殿一人、さりとはお頼もしく存じ候。」
 と云つて、仕合の事は申出でず、快く物語して繪などを書いて歸つた、それから、やがて名古屋を立ち出でたとの事である、武藏この時、方々の仕合に勝ち、尾張には兵法遣ひなしなどゝ云はれては、心外千萬と思つた處、長野が一言で雌伏させたことを君公も聞いて甚だ悦ばれたさうであるが、斯樣な事で、武藏は尾張には召抱へられなかつた。
(近松茂矩「昔咄」)

      

 武藏が出雲國松平出雲守の邸に在つた時分、この家には、強力の兵法者が多かつたが、ある日、出雲守は武藏に命じて、家士の尤も強力の者と勝負をさせた、處は書院の庭上、家士は八角棒の八尺餘なるを横へえてゐる、武藏は常用の木刀二本を提げて、書院の蹈段を徐に降りて來た、この時家士は書院の正面を横身に受け、武藏が來るを待ち受けてゐる、武藏蹈段の二段目より直に中段の位に構へて、面をさす、家士驚いて八角棒を取り直さんとする處を、左右の腕をひじきつきて、強く打つ、打たれてひるむところを即時に打ち倒して勝を獲た、出雲守いたくせきて、
 「余自ら仕合せむ。」
 と望まるゝ、武藏答へて、
 「いかにも自身に成されないと、眞に兵法の御合點は成りがたし、一段然るべき儀と存じます。」
 家人等事容易ならずとおもひ、強ひて諌れども出雲守聽かず、武藏に立向ふ。
 武藏二刀を以て、三度まで追ひ込み、三度目には出雲守を床上に追ひ上げてしまつた、出雲守なほひるまず、木刀を振り直されたのを武藏直に突入り、ねばりをかけて石火の當りでしたゝかに當つた處、木刀二つに折れて、一は天井を打ちぬいた、出雲守は驚怖し平伏して門弟となつた、かくて武藏は暫くこゝに留まりて、劍道を指南したさうである。
(武藝雜話)

      

 ある時、武藏伊賀國にて宍戸某といふ鏁鎌の達人に會し、野外に出でゝ勝負を決す、宍戸鏁を振り出す處を、武藏短刀を拔き投打に宍戸の胸を貫く、宍戸働かむとすれども働かれず、直ちに斬られた、宍戸の門人等之を見て大勢斬つてかゝつたが、武藏は、すかさず斬り崩し、各四方へ遁走するを武藏追ひもせず、悠然として歸り來つたといふ。

      

 或る時、小笠原信濃守の邸で人々打寄り、武藏の兵法を批判してゐたが、この時庖丁人に、少し腕力のある男があつたが進み出でゝ、
 「武藏にもせよ、鬼にもせよ、だまし打にうたば打たれぬ事はあるまじ。」
 と云つた、人々が、
 「だまし打でも打てまい。」と爭ふ。
 「然らば、今夜武藏が來る筈、打ちて見よ。」
 と賭物をかけて約束した、庖丁人がそこで時を計つて暗い所に隠れてこれを待つに、果して武藏が入つて來て、何心もなく過ぎゆくと、やり過ごさせて、うしろより聲をかけつゝ木刀をもつて、ひしと打つた、武藏はうしろざまに身を以て中り、右の手に持つた刀のこじりで、胸板をしたゝかに突いたので、彼の男仰けざまに倒れ、起きむとする處を、武藏更に刀をぬき、むね打に、右の腕を四つ五つ打ちて、刀を鞘に収め、さあらぬ體で次の間に來て坐つた、その後へ大勢立ちよつて氣付よ薬よと騒いだ、信濃守が聞きつけて、次の間に出で、
 「何事であるか。」と武藏を見ていへば、武藏、
 「只今何ものか、御前近く物さわがしき仕方いたしたるにより戒しめて置きましたが、ようも動きは致しますまい。」
 と答へた、その時庖丁人は療治を加へたけれども直らず、遂に暇をつかはされたといふ事である。

      

 武藏、已に名をなして、二刀の法を發明し、家藝十手の法に換へて一家を成したは、何時よりだか分明しない、京都に吉岡と仕合の頃はまだ一刀であつた、杉浦國友の武藏傳には、曾て備後靹津を遊歴の時、海邊の農民夏の炎田に水爭ひがありて、各村闘爭に及びし時、滞留の庄屋何某に頼まれ、援助して木刀を片手に警戒に出張した、路傍に擢のありしを左に執つて待ち受けたる處へ一群の土民得物を執つて押寄せて來た、武藏心得て多勢を迎へ左の擢にて敵の打下す得物を受け止めては右の木刀にて敵を伏せ、一人にて多勢を追ひ散らし、頗る左の擢が頼りになつた、爰に初めて二刀の形を思ひついて工夫研究の結果、一派を立てゐたのだと記してある。

      

 ある日一人の少年が武藏の宅に來り、
 「拙者父の仇を討たむ事を領主に願ひお許しを得ました、既にその場所を設け、竹矢來を結び、勝負は明日の定めでござります、先生願はくば我に必勝の太刀筋を御傳授下さい。」
 といふ、武藏曰く、
 「其許の孝義感ずるに餘がある、その儀ならば我に必勝の太刀あるにより、今其許に傳へてあげる、まず左の手に短刀を取り、眞向に横にさしかざし、右の手に太刀を持ち、まつしぐらにかけこむがよろしい、敵の打つ太刀、我が短刀にがつしと當るを相圖に、右の太刀にて敵の胸先を突くがよろしい。」と云はれた。
 右の傳授を聞いた少年は終夜この太刀の練習をして自得する處があつた、武藏それを賞めて曰く、
 「決勝疑ひなし、又明日その場に至り、腰を掛るとき、自分の足もとの地を心つけてよく見るがよい、蟻が這ひ出ることがあれば必勝の兆である、且拙者は宿に於て、摩利支天の必勝の法を修すによつて、旁々以て心強く思はれるがよい。」
 と云つて少年を歸した、少年その場に到り、地面を見ると蟻の出ることが甚だ多かつた、いよいよ心丈夫に思ひ、勝負に及んだが、武藏のヘへた通り、何の苦もなく強敵を殺し、多年の宿望を遂げたといふことである。

      

 又武藏が播州に在つた時、夢想權之助といふ兵法使ひがたづねて來て仕合を望んだ、武藏は丁度楊弓の細工をしてゐたが、權之助は兵法天下一夢想權之助と背中に書いた註Dを着、大太刀を携へてゐたが、武藏は楊弓の折を持つて立合ひ權之助を少しも働かせなかつたといふ。
(本朝武藝小傳)

      

 細川家の臣、家[脱字・道家]角左衛門といふは武藏の弟子であつたが、一日、西山に遊びその歸途、農夫の馬を取り逃したのに逢つて衣服を破られた、角左衛門大いに怒つて直ちにその農夫を斬殺した、武藏これを聞き、角左衛門を招いて、
 「君は農夫を斬つたさうだが本當か。」
 と詰問した、角左衛門、
 「その通りでござる。」
 と答へた、武藏曰く、  「汝は文武の道をわきまへた武士ではないか、東西をも辨へざる農夫が誤つて馬を逸するならば、どうして速に兵法によつてその傷くべき道を避けないのだ、また衣を傷けられたと云つて農夫を斬殺することがあるか。」
 と、角左衛門が答へて、
 「彼を打果さなければ藩の罰を受ける事でござりませう。」
 武藏が怒つて、
 「藩の罰とは何だ、馬を逸する罪は輕く、人を殺す罪は重い、兵法を穢し、武士道を汚す刀の恥これより甚だしきはない、汝がごときは今日限り名簿を削つて再び見ない。」
 と云つて放逐してしまつたといふ事である。
(武藏顯彰會本)

      

 或る時、武藏が召使の若黨に用事を申つけたが、若黨が口返しをした、武藏が、
 「此方に向つて左樣な事を申すものではない。」
 と云つた、若黨それにも懲りず、また口返しをして慮外な事まで云ひ出したものだから、武藏はそこで持つてゐた五尺の杖を取り直し只一撃にその頭を打ち碎いた、若黨は忽ち息絶えてしまつた、このものは髪の毛あつく、月代伸びた男で、頭は碎けたけれども血は流れ出でなかつたさうだ。
( 同 )

      

 武藏が小倉の小笠原家の家臣、島村十左衛門宅で饗應になつて居り、種々物語などあるうち、玄關取次の者が、
 「武藏樣へ、青木條右衛門と申す者參上、お逢ひ下され候ようにと願つて居りますが。」
 といふ、武藏そこで青木をその席に引き、一通りの挨拶了つて後、
 「兵法はいかに。」
 と尋ねると、青木が、
 「絶えず致して居りまする。」
 と申す、さて表など一覧、ことに機嫌よくて、もはや何方へ參り指南しても苦しからずと褒めた、青木は大いに悦び、次へ退かんとする時、袋に納めた木刀の紅の腕貫のつきたるをちらりと認め、武藏早くも咎めて、
 「その赤いのは何か。」
 と問ふ、青木當惑しながら、
 「これは諸國を廻り候時、仕合を望まれ、已むを得ざる時に用ゐる物でござります。」
 とて、八角の大木刀に、紅の腕貫附けたるをさし示すと、武藏、忽ち機嫌かはり、
 「その方はたはけものである、兵法の仕合などゝは思ひもよらぬ事だ、最前褒めたのは唯幼年のものにヘふるにはよしとおもつたまでゞある、仕合を望む人があらば、早速その處を去るがよい、其方など、未だ兵法の仕合すべきがらではない。」
 と大いに叱り、さて十左衛門が兒小姓を呼んで、飯粒を取りよせ、小姓が前髪の結目に飯粒一粒をつけて、
 「あれへ參り立つて居れよ。」
 と云つて、自らも立上り、床上の刀をおつ取り、するすると拔いて、上段より打ち込み結目につけた飯粒を二つに切り割いて、青木が鼻にさしつけ、これを見よとて三度までして見せた、青木が甚だ驚歎し、一座のもの何れも舌を捲いたが、武藏曰く、
 「この通り手業が熟したりとても、敵には勝ち難いものである、汝等が仕合などゝは以ての外である。」
 と云つて、追ひ返したといふ事である。
( 同 )

      

 武藏、門弟が數多ある中、熊本の寺尾孫之亟は、多年の功を積みて皆傳を得た、或時、武藏の打太刀で、小太刀を入れしめ、かへすがへす指南をしてゐると、小太刀が中より折れて、武藏の木刀寺尾が頭に中ると見えたが、月代のきはにて打止め、少しも頭に疵をつけなかつた、斯樣に手業のきいたことの例は常のことであつた。
( 同 )

      

 或時、長岡寄之が武藏に向つて、
 「差物棹の強弱はどうしてゐためしたらよいか。」
 と問はれた、武藏、
 「竹があらばお出し下さい。」
 といふに、その頃取りよせて置いた竹百本許りをさし出すと、武藏は一々その竹の根を取り、縁端に出て打振ると、皆折れ摧けて、完きもの僅に一本だけ殘つた、そこで之をさし出して、
 「是は大丈夫でござります。」
 と云つた、寄之感賞して、
 「いかにも確かなるためし方であるけれども、貴方の如き力量の人でなければ出來ない檢定法だ。」 と云つて笑つた。
( 同 )

      

 宮本武藏は十三歳より人と劍法を試み、勝負を決すること六十餘場、一度も不覺を取つたことは無い、必ず前かどに定めて云ふ、敵の眉八字の間を打たなければ勝とはいへないと、いつもその言葉の通りにして勝つてゐる。
(瓦礫雜考)

      

 宮本武藏が或る夜、庭の涼み臺に腰をかけ、團扇をもつて涼んでゐた處へ、門弟の一人が武藏の腕を試さうと思つて、不意に短刀を提げて涼臺に飛び上つて來た、その瞬間、武藏はツト立ち上りざま涼み臺に敷いたゴザの片側を掴んでぐつと引寄せると弟子は眞逆さまに倒れて落ちた、武藏は何の騒ぐ色もなかつたといふことである。

      

 武藏自身五輪の書の序に記していふ。
 「我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負をなす、その相手新當流の有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬國秋山といふ強カの兵法者に勝ち、廿一歳にして都に上り、天下の兵法者に逢ひて數度の勝負を決すと雖も勝利を得ずといふことなし、其後國々所々に至り諸流の兵法者に行逢ひ、六十餘度まで勝負すと雖も一度もその利を失はず、その程十三より二十八九までのことなり、三十を越えて跡を思ひ見るに兵法至極して勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて天理を離れざるが故か、又は他流の兵法不足なる所にや、その後猶も深き道理を得んと朝鍛夕錬して見れば、おのづから兵法の道にあふこと我五十歳のころなり云々。」

      

 武藏が眞に江戸に伎倆を試みたとなれば、當時柳生の配下には庄田、木村など錚々たる傑物がある、新陰流には紙屋傳心の如き名人がある、一刀流には小野次郎右衛門が控へてゐる、此他天下の御膝元とあつて、各流の名家が雲集してゐるに拘らず、武藏は之を避けて一人も訪問した形跡が殘つて居らぬ、甚だ不審といはねばならぬ、――武藏の武者修業が吉岡を除く外大家に接觸せぬのは後世より見て武藏の爲め、將た兵法の爲め極めて遺憾のことである。
(山田次郎吉氏著「日本劍道史」)

      

 宮本武藏の眞価に就ては昔から相當に疑問があつた。
 松平周防守の家來に、~谷文左衛門と、心影流の高橋源信齋の高弟で博信齋[傳信齋?]といふ人と或る道場で武藝者の品評をした揚句、宮本武藏のことになつて、文左衛門が、
 「宮本武藏こそは眞に劍道の名人である。」
 と、云つたところが、傳信齋は之に反して、
 「武藏は決して劍道の奥義を極めたものではない、只、術に詳しいだけのものだ。」
 といつたので、文左衛門が大いに怒り、何の理由をもつてさういふ事をいふと反問する、傳信齋は負けてはゐず、自分の研究した處によつて、武藏非名人説を主張する、議論紛々として火花を散し、どうしても納まらない、遂に立ち合つてゐる人達が、
 「然らば論より證據でござる、術の拙ないものは評も亦拙いわけで、腕の優れたものは自然そのいふ處にも自得してゐるものがあるに相違ないから、どうです、二人がそこで立合をして勝負を決して見たならば各々の議論の正邪も分るではないか。」
 そこで兩人は是非なく木劍を携へて道場に登つて仕合をしたが傳信齋が勝つて文左衛門が負けた、武藏非名人説が勝つたのである。
 また一説がある、師の源信齋が、或人の問に答へて、
 「宮本武藏は名人である。」
 と、いつた、さうすると、弟子の一人傳信齋が末席より進み出でゝ、
 「失禮ながら只今のお答へは、拙者には十分に合點がなりかねます、門人の暗いのを明るくしてやるのが名人といひ、導いて上達せしめるのが上手といふと承りましたが、武藏はさ樣ではなく、手頃の者を打ちくぢき、投げ倒し云ひ倒し、自分の力の剛強を恃む癖がある、却々以て上手名人の位ではない、一體武藏は巖流が慢損に比べると潅かに謙uはあるけれども心底を叩けば覇者であり、郷愿に過ぎないものだと思ひます。」
 と、憚る色もなく云つた處が、師の源信齋はそれを聞いて、怒りを含むと思ふと、却つて非常にこの言葉を賞美して、
 「之は名評だ、よく武道の本領を得た云ひ分である、お前のやうな人に譲るこそ本望だ。」
 といつて、極意印可を授けた上に數百の門人もそつくり譲り、自分は伊豆の奥山に引き籠つて仙境に入つたといふ話である。

      

 宮本武藏は尾張へ仕官しようと思つて來たものらしいが、尾張には柳生あつて意を達し難くして去つたやうである、一書に、
 宮本武藏は名古屋を立ちのいて歸りは木曾路を經て何れへか向つたが、尾州家の岐岨の領分を見て、同伴の人へ語つた言葉は、
 「名古屋へ入つては仕合をせず頭から柳生の弟子になつて尾張殿へ仕へる事にしたらよかつたものを、無分別で大兵法を遣ひ損ねてしまつた、生涯の殘念である。」と云つたさうである、胸中にいかなる工夫が有つたのか、いぶかしい言葉である。
(近松茂矩著「昔咄」)



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