日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【天の巻】  五
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    塚原卜傳

 塚原卜傳は、常陸國鹿嶋郡塚原村の人、父を新左衛門といい、祖父を土佐守平安幹と云つた。
 安幹兵法を香取の飯篠長威に學び、新左衛門に傳ふ、その頃鹿嶋氏の家に杉本(松本)備前守尚武といふ者があつて、長威の弟子で劍法の蘊奥を究めてゐたが、新左衛門もこの人にもヘを受けたのである。
 卜傳は父と祖父との業を繼ぎ、十七才の時、京の清水寺に於て太刀を以て仕合して敵に打ち勝つてから其名が世に知られはじめた、或時、近江の蒲生の家で、屏風の側を行き過ぎた時、其の陰から躍り出でつゝ刀をもつて打懸る者がある、卜傳飛びのき樣に脇指拔くと見えたが、その者は既に討たれて死んだ、これは落合虎右衛門といふ者であつて、京に在りし頃、卜傳と木刀の仕合ひをして負けた事を怨みての仕業であつた、この時、卜傳は三尺計りの太刀をさしてゐたが、間合ひを慮つて脇指を用ひたのだと云つた、卜傳は、
 「刀は人の長さによりて長さ短かさを定めるがよろしい、鍔の臍を越すやうなのは指してはいけない。」
 と云つてゐたが、平常は二尺四寸の刀を帯び、事ある折は三尺計りの刀であつたさうである、時により處にもよりて長刀をも槍をも用ひたが、槍はどういふのを用ひたか、長刀は必ず刄の二尺四五寸なのを持つた、卜傳戯れに一尺四五寸の脇指を片手に拔き持つてゐる處を人が大太刀で力の極み切つても打つてもいさゝかも動かなかつたさうである。
(「塚原卜傳」)

      

 卜傳は武州川越に於て下總の住人梶原長門といふ薙刀の名人と勝負を決した事がある、此長門は刄渡二尺四五寸の長刀を以て飛んでゐる燕を斬つて落し或は薙、鴨などの地にあさるを自在に薙ぎ倒すばかりか切り籠りや放し打など、幾度となくやつて、あらかじめ聲をかけて置いて相手の左手、右手、それから首と言葉通りに敵を斬り落す手際の鮮かなことは身の毛もよだつ程であつた、仕合のことを聞いた門人は、さすがにこの時ばかりは心配の餘り卜傳にこの仕合を思ひとまらせようと諌めた、卜傳は、
「道理を知らぬ者共かな。」
 と弟子共を叱つて云ふよう、
「鵙〔もづ〕といふ鳥がある、自分より四五倍も大きい鳩を追廻すほどの猛鳥だが『ゑつさい』といふ鳩の半分に足らぬ鳥に出合ふと木の葉笹陰に隠れて逃げるものだ、その長門といふ男は、まだ己れ以上の名人に出合つた事が無いのだらう、卜傳に於ては薙刀は常に使わないけれども、兵法といふものは皆同じ理法のもので、薙刀はもとより太刀間も二尺も三尺も遠くにあるのを切る爲のもの故、刄が長くなければ用をなさぬものである、三尺の太刀でさへ思ふ圖に敵は打てぬものを、一尺許りの小薙刀で六尺外の人の左右の手を二度に斬り落すなんどゝいふ事は鳥獣の類か、さもなければ武術を知らぬ奴を相手としたからだ、九尺一丈の槍で突き拔かれてさへ、當の太刀は相手を打てるものだ、まして薙刀などで突かれたからとて何程の事がある。」
 斯くて卜傳は二尺八九寸の太刀を指して仕合の場に赴いた。
 梶原長門は例の小薙刀を携へて來合はせたが、兩人互に床几を離れて近寄ると見る間に、薙刀は鍔もと一尺許り餘して斬り落され、長門は只一刀に斬り伏せられた。
(塚原卜傳)

      

 塚原卜傳が下總の國にゐた時分、梶原長門といふ薙刀の上手が卜傳に仕合を申込んだ、卜傳の門人共は常とちがつて、これを甚だ怖れあやぶんでゐた、といふのは、長門は聞ゆる上手なる故、殊に薙刀のことであるから(俗に薙刀と太刀とは二段の差があるといはれる)流石の我が師も勝負のほども如何と心配してまず師の卜傳の許に行き、
 「こんどの仕合、如何思ひ給うや承り度候。」
 といふと、卜傳は格別氣にもとめない體で、
 「長刀と雖も身は二尺に過ぎない、我が刀は三尺あるによつて何のあやふきことがあらう。」
 と、いつた、さてその日になつて見ると、かねてその評判を聞き傳へたものだから見物が雲霧[誤植・雲霞?]の如く集つて各々勝負如何と固唾を呑んで見物したが、卜傳は前日の言葉の如く長門が左の腕を斬つて落して勝を制した。
 この卜傳は門人が多きのみならず、國々に豐富の弟子共が多くつきまとつてゐたから、かりそめに處を移すにも、鷹を据ゑさせ、馬を牽かせなどして、外より見ると、さながら大名のやうな體で往來してゐたといふことである。
(撃劍叢談)

      

 塚原卜傳は、常州塚原の人で父を塚原土佐守といひ、飯篠長威齋に從つて天眞正傳を傳へた、卜傳はその後野州へ行つて上泉伊勢守に學んで心要を極め、後京都に至つて將軍足利義輝及び義昭に刀槍の術を授けたのであるが、諸大名諸士卜傳に從つて武術を習ふものが多かつた、伊勢の國司、北畠具ヘ卿の如きは卜傳の門下として、最も傑出してゐた一人で、卜傳はこれに「一の太刀」を授けた、松岡兵庫助といふのも、その道の妙を得たが後家康にこの「一の太刀」を授けて褒賞に預つたことがある。
 この卜傳の極意、「一刀の太刀」を使ひ出したものは松本備前守である、この人は鹿島香取の仕合に槍を合すこと二十三度、天晴れなる功名の首數二十五、並の追首七十六、二度首供養をして結局首一つ餘つたといふことである。
 或る時卜傳が或る上手の兵法使ひに仕合をしかけられて承知いたしたと返事をし、それから門下の者共にこんど相手の兵法人がこれまで數度木刀で仕合に勝つた作法と樣子を尋ねて見ると、
 「さ樣でございます、構は左立で、さて勝負に相成ると右か左か、必ず片手で勝をとるといふ仕方でございます。」
 それを卜傳が聞き取ると、どういふつもりか相手の方へ使を立てゝ、
 「左立の片手勝負といふものは勝つても卑怯である故に御無用になされよ。」
 と、十度も使を立てゝ云つてやつた處が、先方から十度びながらの返事、
 「左立ち片手で討つのを嫌と思召しになるならば、勝負をしない前に貴殿の負とせられるがよろしい。」
 といつて來た。
 が、卜傳はそれを聞き捨てにして仕合に出ながら、
 「見て居られよ、拙者の勝利は疑ひなし。」
 といつて立ち合ふや否や相手の顙[「くび」のルビは誤り・ひたい]から鼻、唇を打ち裂いて卜傳が勝利を占めた。
(本朝武藝小傳)

      

 卜傳は諸國修業の後に故郷の常陸に歸り、いよいよ最後の時にその家督を立てようとして三人の子供を呼び、それを試すことにした、まず、木の枕をとつてのれんの上に置き、第一に嫡子を呼ぶと、嫡子は見越しの術といふのを以てそれを見つけその木枕をとつて座に入つて來た。
 次に次男を呼ぶと次男が帷を開いた時に木の枕が落ちて來た、そこで飛びしさつて刀に手をかけてから謹んで座に入つて來た。
 こんどは第三男を呼ぶと、三男はいきなりのれんを開く途端に木枕が落ちて來た、それを見るより刀を拔いて木枕を勇ましく斬り伏せて座へ入つて來たので、卜傳が大いに怒つて木の枕を見てそんなに驚く奴があるかと叱りつけた。
 そこで嫡子の彦四郎の擧動が最も落ちついてゐたので、それに家督を譲ることになつたが、その時云ふよう、
 「父が一ノ太刀を授けたのは天下に只一人しかない、それは伊勢の國司北畠具ヘ卿である、その方行つて具ヘ卿に就て習へ。」
 と云ひ終つて死んでしまつた、つまり彦四郎は家督は譲られたけれども一の太刀は終に傳へられなかつたのである、そこで、父の遺言に從つて遥々伊勢の國へ出かけたが、自分が長子でありながら傳へられない「一ノ太刀」は如何なるものかヘへていたゞきたいと云ひにくゝもあり云つては具ヘ卿から拒絶されるか知れないといふことを慮つて、わざと國司に向つて言つた。
 「拙者も父の卜傳から一ノ太刀を譲られましたがあなた樣へ父の御傳授申上げたのと異同を比べて見たうございますが。」
 と云つた。
 具ヘ卿がそれを聞いて「一ノ太刀」の秘術を見せた爲に彦四郎はそれを知ることが出來たといふことである。
(本朝武藝小傳)

      

 卜傳が、江州矢走の渡しを渡ることがあつて、乘合六七人と共であつた、その中に三十七八に見える逞しい壯士がゐた、傍若無人に兵法の自慢をし天下無敵のやうなことをいふ、卜傳は知らず顔に居眠りをしてゐたが、遂に餘りのことに聞き捨てにしかねたと見え、
「貴殿もなかなかの兵法家のやうでござるが、われ等も若年の時より型の如く精を出して兵法を稽古したけれども、今まで人に勝たうなどと思つたことなく、只人に負けぬやうに工夫する外はなかつた。」
 といふ、右の男これを聞いて、
 「やさしいことを云はれるが、して貴殿の稽古された兵法は何流でござる。」
 と尋ねる。
 「いや、何流といふほどのことはござらぬ、只人に負けぬ『無手勝流』といふものでござる。」と答へた、右の男がいふのに、
 「『無手勝流』ならばそなたの腰の兩刀は何の爲でござる。」
 卜傳これを聞いて、
 「以心傳心の二刀は敵に勝つ爲にあらず我慢の鋒を切り、惡念の兆しを斷つ爲のものでござる。」
 右の男それを聞いて、
 「さらば貴殿と仕合を致さうに、果して手が無くてお勝ちにならしやるか。」
 と、卜傳が曰く、
 「されば、我が心の劍は活人劍であるけれども、相手をする人が惡人である時にはそのまゝ殺人劍となるものでござる。」
 右の男、この返答を聞いて腹に据ゑかねて船頭の方へ向き、
 「如何に船頭、この舟を急いで押し着けよ、陸へ上つて勝負をする。」
 と怒り出した。
 その時卜傳は、ひそかに眼をもつて乘合と船頭に合圖をして云ふことには、
 「陸は往還の巷であるから、見物が群がるに相違ない、あの辛崎の向ふの離れ島の上で人に負けぬ無手勝を御覧に入れよう、乘合の衆何れもお急ぎの旅にて定めて御迷惑の儀と存ずるが、あれまで押させて御見物されたい。」
 といつて船を頻りに押させて、さて彼の島に着くとひとしく自慢男は、こらへず、三尺八寸の刀をスルリと拔き、岸の上に飛び上り、
 「御坊の眞向、二つにゐたしくれん、急ぎ上り給へ。」
 と、のゝしり立つと卜傳がそれを聞いて、
 「暫く待ち給へ、無手勝流は心を靜かにせねばならぬことでござる。」
 といつて、衣を高くからげ、腰の兩刀を船頭に預け、船頭から水桿を借りうけ、船べりに突立ち、その水桿で向ふの岸ヘヒラリと飛ぶかと見ると、さうではなくて棹を突張つて船を沖へ突出してしまつた。
 島へ上陸した男がこれを見て、
 「どうして貴殿は上陸なされぬのぢや。」
 と足ずりをする、卜傳之を聞いて、
 「どうしてそんな處へ上れるものか、くやしくば水を泳いでこゝへ來給へ、一則授けて引導をしてあげよう、我が無手勝流はこの通り。」
 と高聲に笑つたので、彼の男は餘りの無念さに、あしゝきたなし、返せ、戻せといつたけれども、更に聞き容れず、湖水一丁ばかり距てゝから扇を開いて招きつゝ、
 「この兵法の秘傳を定めて殊勝に思はれるのであらう、執心ならば重ねてお傳へ申さん、さらばさらば。」
 と云ひ捨てゝ山田村にぞ着きにける。
(本朝武藝小傳)

      

 塚原卜傳は前原筑前のやうに奇特のことはなかつたけれども、諸國を兵法修行して廻る間大鷹を三窒熕ゑさせ、乘り替の馬を三匹も曳かせ上下八十人ばかり召し連れて歩いた、斯樣な修行振であつたから皆々一方ならず尊敬するやうにもなつた、卜傳などは兵法の眞の名人といふべきである。
 山本勘助或はなみあひ備前等は長刀を以て我は一人敵は二百人ばかりあるを七八十人斬つて、その身は堅固に罷り退いたことがある。
 小幡上總守は兵法を三つに分けて第一を兵法使ひといひ、これは最初の前原筑前の如きを稱し、第二は塚原卜傳の如きを兵法者といつて名人に數へ、第三の山本勘助、なみあひ備前守を兵法仁と稱してゐる、これは實際の兵法にかけては上手でも名人でもないけれども、その臨機應變の働きによつて名人以上の手柄を立てたものを云つてゐるらしい。
 名人の卜傳は一つの太刀、一つの位、一太刀と云つて太刀一つを三段に分けて極位としてゐたさうである。
(甲陽軍鑑)

      

 塚原卜傳が十七才の時、京の清水で眞劍の仕合をしてより、五畿七道に亘つて眞劍勝負十九カ度、軍の場を蹈むこと三十七度、木劍の仕合等は無數であるが、疵は一ケ所も被らない、只矢疵は六カ所あつたが敵の物の具がわが身に當つたことはない、戰場仕合を合せて敵を討取る事二百十二人といふことである。

 卜傳は何事にても人の藝能の至り顔をするを見ては、いまだ手をつかひ申すといつたさうである。
(武道百首奥書)

      

 關八州古戰録には、卜傳が一つの太刀の極意を傳へたのは伊勢國司北畠|權中納言具ヘの外、京都で細川兵部大輔藤孝にも傳へたとある、一の太刀といふのは、
凡そ一箇の太刀の中三段の差別あり、第一一つの位とて天の時なり、第二は一つの太刀とて地 の利なり、是にて天地兩儀を合比し第三一ツの太刀にて人物の巧夫に結要とす當道心理の决徳なり――。
とある。



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