日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【天の巻】  参
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    伊藤一刀齋

 伊藤一刀齋が都にゐる時、或る一人が勝負を望んで來たが、忽ち一刀齋に打ち負けて弟子となつたが、この者腹の中では無念殘念でたまらないが、表面は柔順にして仲間四五輩を連れて來て同じく門弟として術を學んでゐた。
 或る夜のこと、各々、酒肴等を携へて一刀齋の許へ來てすゝめもてなしたので一刀齋も機嫌よく御馳走をうけて快く醉ひ伏して了つたから、これ等の者共も暇を乞うてそのまゝ立ち歸つた。
 しかしこれは計略で、かねて一刀齋には一人の愛妾があつて何事も心を許してゐたが、この妾を惡黨共が樣々に欺き賺〔す〕かして味方とし、自分達が一刀齋を酒に醉はせて寝かせて了ふとやがて右の妾に一刀齋の大小を盗み隠させてしまつた、そこで今は心易しと夜中過る頃に一同がそつとやつて來ると、彼の妾は戸口をちやんと開けて置いた。
 そこで直ちに一刀齋が寝所へ斬り込んで行つた。
 折柄夏のことであつたから、一刀齋は蚊帳を吊つて寝てゐた、惡黨共は入りざまに蚊帳の四ツチ丶を切つて落した、驚いた一刀齋は枕許をさぐつたが兩刀が無い、ハツと思つてゐる前後左右より透きもなく斬りかゝるのをこゝにくぐり、かしこにひそみ、やうやう蚊帳を這ひ出し、宵のうちの酒肴の器が手に觸つたところから、當るに任せて向ふものに續け樣に投げうち、そのうち飛びかゝつて一人の惡黨の持つたる一刀を奪い取つてしまつた。
 今まで無手でさへも手におへなかつた一刀齋に今は刀を持たせたことであるから虎に翼を添えたるが如く、當るを幸に斬りまくる、何かはたまるべき、忽ちに惡黨共深手淺手を數知らずうけ、今は叶はじと各々手負ひを助けて逃げ去つてしまつた、裏切りの妾も同じく行方が分らない、一刀齋は類ひなき働きをしたけれども、女に心を許したのを恥かしく思つたのかその日都を出でゝ東國に赴いたといふことである。
 また東國で一人の浪人が「地摺〔ぢずり〕の晴眼」といふ太刀をおぼえ、これに勝つ者は無いと思ひ込んでいたが、有名な一刀齋に會つて、
 「この地摺の晴眼の止めやうがございましたら御相傳下されたい。」
 と所望した、一刀齋は、
 「成るほど、それはある、傳へ申してもよろしい。」
 と請け合ひながらそのことを果さずにまた他國へ出かけて了はうとする容子が見える。そこで浪人が心のうちに思ふには、
 「一刀齋もあゝは答へたものゝ、この太刀を止めることは出來ないからこのまゝで逃げようとするのだ。」
 と思ひ込み、一刀齋の立ち出ずる途中に出迎へして行手に立ち塞がるやうにして、
 「日頃所望の地摺の晴眼の止めやう、御傳授のないことは殘念千萬でござる、只今、御相傳下さるべし。」
 といふまゝに刀を拔いて彼の地摺の晴眼でするすると仕かけて來た。
 その時一刀齋、物をも云はず拔きうちに切ると見えたが、彼の浪人は二つになつて倒れ伏して了つた、地摺の晴眼止めやうの傳授は地獄のみやげにしかならなかつたのである。
(撃劍叢談)

      

 伊藤一刀齋景久は伊豆の大島に生れたが十四歳の時初めて武道によりて身を立てようと志し、板子一枚にすがつて三嶋(伊東の東南半里に在り)に泳ぎ渡つて來た、その時長時間海中に在つたため、恐ろしき形相となつてゐた、村の者は之を見て嶋鬼が來たと騒いだ位である、彼は里人が嶋鬼と呼ぶから自ら鬼夜叉と稱し、三嶋~社の床下を寝泊りする所となし、暫く附近を徘徊してゐた、會々〔たまたま〕富田一放といふ兵法者が村に來つて人にヘへてゐたので、鬼夜叉は試合を申込んだ、一放は頗る達人であつたが、鬼夜叉と出で會ふや、木劍を取つて身構へせんとする處を素速く打込まれ、散々敗を取り夜逃げをしてしまつた。
 三嶋の~主は鬼夜叉が富田一放に勝つたのを見て其の人と爲りを奇とし、我家に養うことゝしその志を問ふた所が、兵法を學び身を立てんと望んだので、これを勵ます爲め、甞て三嶋~社に備前の名工一文字から奉納された刀が、その後年久しく棟木に括り付けてあつて繩が腐つて落ちた時、下にあつた御酒甕を貫き少しも損じなかつた稀代の名刀を出し、鬼夜叉に餞けた、鬼夜叉は大いに喜び、明日は善き師を求むる爲出立せんと云ひやすんだが夜中に至り、五六人の強盗が押入つた、此處に於て~主より貰つた計りで柄拵〔つかごしらへ〕もない一文字の刀を以て渡り合ひ悉く強盗を斬り殺した、(この時一賊が酒甕の中に隠れたのを鬼夜叉飛び懸つてその甕諸共に斬つたところが甕は賊の胴體と共に二つに切り割られたので、その刀を甕割と名づけてu々愛藏し、後之を極意と共に小野忠明に譲つた)~主はu々感じて旅費を彼に與へ出發せしめた。
 鬼夜叉は江戸に至り鐘卷自齋といふ中條流の達人の門に入り修業したが、未だ幾何ならずして技大いに進歩し、諸門弟子誰一人肩を並ぶる者がなかつた、自齋窃に恐れを抱き其技を惜んで傳へなかつた、或る時鬼夜叉自齋に向つて劍術の妙機を覺りたる旨を語つた處が、自齋怒りて、
 「汝が術漸く五年に満たず、妙などゝは以ての外だ。」
 と罵つた、鬼夜叉曰く、
 「妙は一心の妙であつて師傳にもあらず、又年月の長短にも依るべきではござらぬ、疑がしくば自分の覺つた妙を御覧に入れませう。」
 と頻りに仕合を乞うた、自齋は辭することが出來ず木劍を取つて一合したが忽ち敗れた、二度仕合したが又忽ち負け重ねて三度に及ぶも遂に勝つことが出來なかつた、彼は頗る不思議に堪へず、鬼夜叉に對して、
 「吾れ諸國を遍歴し數多の武藝者と立合つたが未だ曾て敗を取らず、天下に知らるゝに至つた、然るに今汝と立合ひ、到底勝つべき見込がない、汝は如何にしてこの~妙の技を得たか。」
 と問ふた、鬼夜叉、
 「人は夢寐の間にも足の痒きに頭を掻くものにあらず、足痒ければ足、頭痒ければ頭を掻くものでござる、人間には自ら機能があつて害を防ぐやうに出來てゐる、今先生が吾を撃たんとせらるゝ心即ち虚にして、吾の防がんとするは人間の本能にして且實であります、今吾の實をもつて先生の虚を打つ、是れ勝を得る所以でござる。」
 と答へた、自齋は大いに感じ、
 「汝は我が及ぶところにあらず、吾は今汝の言により頗る啓發する所があつた、我が年來極意とせるものも今は汝の身に無用ではあらうけれども參考の爲にこれを傳へて置かう。」
 と悉く蘊奥の秘傳を彼に授けた、鬼夜叉は深く師の厚意を謝し是より伊藤一刀齋景久と名乘り、諸國修業に出で、一刀流の流祖古今に稀なる名人となつたのである。
(内田良平氏著「武道極意」)

      

 伊藤一刀齋が、劍術の極意無想劍の場を發明しようとして、多年苦心したけれども、容易にその妙旨を得ることが出來ない、鶴ケ岡八幡宮へ七日七夜參籠したがそのしるしもなく、満願の時~前を引きとろうと思ふ時に何者とも知れぬ一人、一刀齋の後ろに忍び寄つて來たものがある、それは一刀齋を討たうと思つて來たものだか、或は~前の物を盗らうと思つて來たものだかわからないが、一刀齋はその足音に驚き振り返つて見ると怪いものが佇んでゐる故そのまゝ言葉もかけず拔き打ちに拂ひ二つにして引取つた。
 後に一刀齋がこの事を門人に語つて云ふには、
 「われ昔八幡宮參籠の節あやまりて人を殺害したことがある、然し今つらつら考へるにこれぞ無想劍といふものであらう、われ振り返り見て何の思案分別もなく、眼に觸るや否やそのまゝ拔き打にしたがこれぞ全く劍道の極意無想劍の場であらう。」
(劍術名人法)

      

 一刀齋の許へ或夜盗賊が忍び入つたのを一刀齋、太刀を提げてその賊を追ひかけた處が、その賊大瓶のあつたのを楯にとり右より追ひかければ左へ逃げ、左より追ひ廻れば右へ逃げて打ち果すことが出來ない、一刀齋大いにいらつてその大瓶もろ共に打ち込んだ處がその瓶が二つになつて賊も共に二つになつたといふ、その刀を瓶割と名づけ、一刀齋三十三度の眞劍勝負に用ひた名刀である。
 一説にこの刀は一文字の作だともいふ。
(劍術名人法)

      

 一刀齋が妾宅に於て、襲ひかゝる惡黨の中の一刀を奪ひ取りてその刀で危うい處を切り拔けて、それから門人小野次郎右衛門忠明に面會し、その切り拔けた太刀の型を傳へて自分はそれから行方知れずになつたといふのだが、その型が即ち一刀流の佛捨刀或は拂捨刀であると。
(劍術名人法)

      

 一刀流の地摺星眼などゝいふことがあるが、一刀流に地摺星眼といふやうな構はない、全く下段のことを云ひあやまるのであらう。
 一刀流皆傳の箇條に、敵をあとに追ひ込むには、何程太刀を眼中または咽喉につけても敵はあとへは下らぬものである、その節は地上の心といふことがある、この心で敵を攻むれば、如何なる豪敵たりとも次第々々に後に下るものである、その事を地摺星眼とはいふけれども地摺星眼の構といふのはないものである。
(劍術名人法)

      

 中條流の富田次郎左衛門景政の門に鐘捲〔かねまき〕自齋道家といふものがあつた、一派を起して外他〔とだ〕流と稱し高上金剛刀を以て極意として聞えた、この門に伊藤一刀齋景久が現はれた、景久は伊豆の人と干城小傳にあるが傳書によれば西國の産である。
 諺に「登り兵法、降り音曲」といふ事があつて、兵法は東國より上り、音曲は上方が本場といふことになつてゐるが自分はこれを逆に「降り兵法」にすると云つて東國諸州を歴遊し「外他の一刀」と稱して立合を試み、眞刀の勝負七度に及び、其他の試合にも一度も勝を譲つたことはなかつた。
 初め、一刀齋が淀の小舟で大阪へ下つた時に、逞ましい船頭が一人ゐて、一刀齋が木劍を携へてゐるのを見て、自分の力自慢が鼻の先きへ出て、つい、
 「武藝といふものは、人に勝つやうに出來てゐるには違ひないだらうが、持つて生れた地力〔ぢりき〕には勝てまい。」
 と云ひ出した、一刀齋も血氣の頃ではあり、
 「左樣な事はない、力ばかりあつたつて無駄だ、馬鹿力が術といふものに勝てる筈はないのだ、論より證據、陸へ上つて勝負を定めよう」
 と、船頭も云ふにや及ぶといふやうなわけで、船をつけて上陸し、さて互に誓つて死んでも恨みはないといふことを、他人を證人に立てゝ立ち上つた。
 船頭は擢を取つて立ち上り眞向上段に打ち卸ろしたが、一刀齋に身を開いてかはされた爲に、獲物は空を打つて餘る力でしたゝかに擢を大地に打ち込んでしまつた、引直そうとする處を躍りかゝつて木刀で小手を打つと擢を取り落してへたばつた、そこで船頭は謝まり入り、強ひて乞うて一刀齋の弟子になり、諸國を隨行して歩いたがこれが即ち「善鬼」なのである。
 一刀齋が諸國修行中立合ひには、先づこの船頭善鬼を出すのを例としてゐたが、大抵これの手に立つ者はない、元來が卑賤無學の者であるから今は師匠を除けば天下に敵なしと自讃するやうになつた、そこで淺ましくも、師匠を殺しさへすれば自分が眞正の天下無敵になれると考へて、道中の泊り泊りにも、師匠の寝息をうかゞうやうになつた、一刀齋早くもこれを感づいたが、彼を殺すのは容易いが、表面上その名が無いのに苦しんでゐるうち、江戸に着いて、一刀齋の劔術は有名になり、遂に家康の上覧を經て家臣に召抱へられるといふことになつたが、一刀齋はこれを辭して、門人「~子上典膳」(小野次郎右衛門)を推擧したのであつた。
 そこで高弟たる善鬼が憤慨して師匠に迫つた爲に、一刀齋は然らば~子上と立合つた上、勝つた方へ極意皆傳の上仕官を周旋といふことになつて、下總小金ヶ原の立合ひとなつたのである。
 また一刀齋が鎌倉八幡に參籠の事や、妾の事から敵に寝込みを襲はれたといふことは捏造に過ぎない、前後の事情として一流開祖といふべき人の覺悟行動でない。
(山田次郎吉氏著「日本劍道史」)

      

 一刀齋が天下を周遊して上總の國に來た、この國には劍術の名ある者が多かつた、中にも~子上典膳は三~流の劔術に達してその名が聞えてゐた。
 景久は宿につくと思ふ所やありけん、直ちに高札を家の前に立てさせた、その文句には、
 「當國に於て劔術に望みある人あらば、來つて我と勝負せよ。」
 といふ意味のもので、その奥には狂歌のやうなものまで書き添へた、それを見るほどのものが憤慨したが、一刀齋が天下の名人であるといふ名に聞き怖ぢて誰一人出ようといふものがない、これは~子上の外にはない、~子上なれば、せめて相打ぐらゐはやるだらうと、斯くて典膳は一刀齋の宿へ推參して行つた、一刀齋對面して云ふ事には、
 「此の國では、君がよく劔術を使うさうだけれども、我が術に當るといふわけには行くまい、眞劍であらうと、木刀であらうと好きなのを持つが宜しい、君もまだ弱年故、その命を奪ふも大人氣ないによつて。」
 と一刀齋は其處にあつた薪の一尺ばかりなのを提げて立ち向つた。
 ~子上は自分の差科なる波平行安の二尺八寸の一刀を右脇に構へて進み寄つたが、一刀齋景久は、~子上が太刀を奪ひ取りその脇にあつた薪を載せる棚へ置いたまゝで奥の方へ入つてしまつた、典膳は花然として、立ちつくすばかりであつたが、やゝ暫く思案して、また仕合を所望した、景久が出て來て云ふ。
 「若い者は修業がかんじんだから、何邊でも相手になつて上げる、君の身に疵をつけるやうな事はしないから安心して。」
 とまた右の薪で立ち向つた、~子上は三尺許の木刀を持つて、自分が有する限りの力と術とを以て立ち向つたが、一刀齋の衣にさはる事すらも出來ない、打ち落されること數十度、典膳、全く呆れ果てゝ歸つて景久の事を考へると、眞に~の如く、また水の如く、勝てようなどゝは思ひもよらぬ事である、これぞ全く氏~の化身であらう、我が師と頼むべきもの此の人の外になしと、翌日そのあとを追つて行き師弟の契約を爲した。
(一刀流三祖傳)



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