日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【天の巻】  弐
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 柳生宗嚴   柳生宗矩   柳生五郎右衛門   柳生宗章   柳生三嚴 
 柳生利嚴   柳生家家風   相  討   肋 一 寸   新陰の極意 


 
    柳生宗嚴

 柳生宗嚴〔むねとし〕[現在一般には「むねよし」と読ませる]は晩年或る事の爲に人に怨まれその者は如何にもして宗嚴を討ち果さうとしたが名にし負ふ名人のことであり、家臣も多いので手のつけやうがなかつた、宗嚴或る時病氣にかゝり門弟二三人を連れて攝津の有馬の湯に行つた、某はひそかにその後をつけて行き日夜宗嚴の動静を窺つてゐたが或時宗嚴只一人小刀を携へたまゝで宿屋の南の日當りのよい處に坐つて愛養の隼鷹を拳の上に置いて餘念なく可愛がつてゐる、某はこれを見て、こゝぞと思つて刀の鞘を拂つて宗嚴の頭上を目がけて斬りつけたが、その時早く宗嚴は拔く手も見せず腰なる小刀を拔いて敵の急所に突き込んだので某はあへなくその場に斃れたが、その時宗嚴の拳の上の隼鷹はもとのまゝ身動きもしなかつたさうである。

 
    柳生宗矩

 徳川三代家光は若い時分から柳生但馬守宗矩〔むねのり〕に就て劍術を學び、非常に優遇されてゐたが、世間の人は柳生はたゞ劍術だけで將軍家のお覺えがめでたいのだと皆思つてゐたが、その實は劍道によりて政治をヘへて居られたものと見え、家光は常におそばの人に、
 「天下の政治は但馬守に學んで我れはその大體を得たのだ。」
 と云つたさうである。
 宗矩が老病重かつた日、家光はわざわざその家に行つて病氣を見舞はれたことがある、正保三年三月、柳生が亡くなつた時は、その頃にためしのない贈位の恩典があつて、従四位下に叙せられた、宗矩が死んで後、家光は事に觸れては、
 「宗矩が世にあらば尋ね問ふべきを。」
 と、歎いて絶えずあとを慕つてゐたといふことである。
(常山紀談)

      

 柳生但馬守宗矩は父但馬守宗嚴〔むねとし〕にも勝れる劍術の上手であつた、徳川三代將軍家光の師範となり一萬五千石にまでのぼつた人であるが、武藝のみならず才智も勝れ政道にも通じてゐた。
 或時、この宗矩、稚兒小姓に刀を持たせて庭の櫻の盛んに咲いたのを餘念なく見物してゐたが、その時、稚兒小姓が心の中で思ふよう、
 「我が殿樣が如何に天下の名人でおゐで遊ばさうとも、こうして餘念なく花に見とれておゐでなさる處をこの刀で後ろから斬りかけたらば、どうにも遁れる途はござるまい。」
 さういふ心がふとこの稚兒小姓の胸のうちに浮んだのである。
 さうするとその途端に但馬守宗矩はきつと四方を見廻して座敷に入り込んでしまつたが、尚不審晴れやらぬ體で床の柱にもたれ物をもいはずに一時ばかりぢつとして居る、近侍の面々が皆怖れあやしみ、若しや發狂でもなされたのではないかと陰口をきくものさへあつたが、やがて用人某が漸くすゝみ出で、
 「恐れながら先刻よりお見うけ申すに御けしきが何となく常ならぬやうに拜見いたされます、何ぞお氣に召されぬ事でもござりましたか。」
 それを聞いて宗矩が答へていふ。
 「さればよ、自分は今どうしても不審の晴れやらぬことが起つたので斯うして考へてゐるのだ、それは自分も多年修練の功によつて自分に敵對するものがある時は、戰わざるにまづ向ふの敵意がこちらへ通るのである、ところが先刻庭の櫻をながめてゐるとふと殺害の氣が心に透つた、ところが何處を見ても犬一匹だにゐない、たゞ、この稚兒小姓が後ろに控へてゐるばかりで敵と見るものは一人もゐないのに斯ういふ心がわれに映るのは我が修練の功いまだ足らざるか、それを心ならず思案してゐるのだ。」
 といふのをきいてその時稚兒小姓が進み出で、
 「左樣に仰せらるればお隠し申すことではございませぬ、恐れ入りました儀ながら、先刻私の心に斯く斯くの妄念が浮びました。」
 と云ひ出したので、宗矩の氣色も和らいで、
 「あゝ、それでこそ不審が晴れた。」
 といつて、はじめて立つて家へ入り、何の咎めもなかつた。
 この宗矩は猿を二疋飼つて置いたがこの猿ども日々の稽古を見習つてその早わざが人間にも勝つたものになつた、その頃槍術をもつて奉公を望む浪人があり但馬守の許へ心易く出入してゐたが、或時宗矩の機嫌を見合せ、
 「憚りながら、今日は何卒お立合下さつて、某が藝のほどをお試し願ひ度い。」
 と所望した、宗矩が答へて、
 「それは易きことである、まずこの猿と仕合をしてごらうじろ、この猿が負けたらば拙者が立合を致そう。」
 といはれたので浪人は身中に怒りを發し、
 「如何に我等を輕蔑せられるとも、この小畜生と立合へとは遺恨千萬である、さらば突き殺してくれん。」
 と槍をとつて庭に下り立つと猿は頬に合つた小さい面をとつて打ち被り、短い竹刀をおつとつて立ち向つた、浪人はこの畜生何をと突きかゝるを猿はかいくゞつて手許に入り丁と重ね打ちをした、浪人愈々怒つて、今度は入らせるものかと構えてゐる處へ、猿は速に來て飛びかゝり槍にとりついて了つた、浪人はせん方なく赤面して座に戻つた。
 宗嚴[「宗矩」の誤記]は笑つて、  「それ見られよ、その方の槍の手並察するところにたがはず……」
 と、嘲られたので浪人は恥入つて罷り歸り、久しく但馬守の許へ來なかつたが半年餘りたつて又やつて來て、宗矩に向ひ、「今一度猿と立合をさせていたゞきたい。」
 といふ、宗嚴[「宗矩」の誤記]それを聞いて、
 「いやいやけふは猿を出すまい、その方の工夫が一段上つたと思われる、最早それには及ばぬ。」
 といつたが、浪人は是非々々と所望した、それではといつて猿を出したが、立ち向ふとそのまゝ猿は竹刀を捨てゝ啼き叫んで逃げてしまつた、宗嚴[「宗矩」の誤記]が、
 「さればこそ云はぬことではない。」
 といつてその後、この浪人を或る家へ膽煎〔きもい〕りして仕へさせたとのことである。
(撃劍叢談)

      

 徳川家光は劍術を柳生但馬守に習つてゐた、或る時、家光が但馬をそば近く召して頭を疊へつけて拜禮してゐる處を但馬まゐると氣合をかけた途端に但馬守が家光の坐つてゐたしとねをあげたので家光は後ろへこけてしまつた。
 また柳生但馬が或時お城で敷居を枕として寝てゐた處へ、若侍共これを驚かさうと雙方から障子をヒタと立てつけた處が一尺ばかり間隔を置いて障子が動かなくなつた、但馬は眼を醒して敷居の淵[溝か?]から扇をとり出したといふことである。
(異説まちまち)

      

 徳川家光品川御殿に遊行し、近侍の者等が劍術の仕合を爲すを見て興がり、御馬方諏訪部文九郎を召し、仕合を命ぜられた、時に文九郎、
 「馬上にての仕合ならば負けまじきを。」
 と獨語を云つた、家光が之を聞き、馬上の仕合をとなり、近侍の面々馬を乘り出し、文九郎と仕合をしたが、悉く打たれたので、家光大いに感じ、
 「文九郎は馬上達者なる故、近侍中一人も勝つ者なし、この上は柳生但馬出て仕合ふべし。」
 とのことである、但馬守、
 「畏り候。」
 とて馬上にて立合ひ、南方より乘り出し其間合ひ三間程になつた時、馬を駐めて文九郎が乘り來る馬の面を一打ち打ち馬の驚いて起つた所を乘寄せて文九郎をはたと打つた。
 家光、之を見て、
「眞〔まこと〕に名人の所作、時に臨んでの働き尤も妙。」
 と感心したとの事である。

 
    柳生五郎右衛門

 但馬入道の第四男――即ち宗矩の兄――に五郎右衛門と稱する勇士があつたが、後伯耆の國飯山城に客となつてゐる頃、上州横田内膳を助けて中村伯耆守の多勢を引受けて勇戰し武名を響かしたが、慶長八年十一月十五日城陥るに及び五郎右衛門は城より打つて出て新陰流の古勢「逆風の太刀」をもつて甲冑武者十八人を斬り伏せて遂に戰死したが、伯州の民五郎右衛門の武勇に感じ社に祀つたといふことである。
(柳生流兵法と道統)

 
    柳生宗章

 柳生十左衛門宗章は但馬守の弟であるが矢張り柳生新陰をもつて旗本の師範をしてゐた、或時松平出虫迺シ政の邸へ訪れた時に、丁度そこへ某といふ有名な劍術の上手が參り合せて宗章に向つて是非にと仕合を所望した、十左衛門宗章はそれを迷惑がつて斷つたけれども相手の劍客は聞かない、斯ういふ機會を外しては柳生家と立合ひは望まれないと思つたのだらう、是非々々と所望すること故宗章も已むことを得ず立合ひを承諾し、相手が竹刀を取るところを言葉をかけて拔き打に斬つてしまつた。
 さて、衣服を改めて座に着き、出虫轤ノ向つて云ふよう、
 「それがしこそ劍術は未熟でござるが、兄但馬守は將軍家の御師範役である、拙者がもし此の處に於てこの男に負けるやうなことがあらば、流儀に疵がつき申すのみならず、將軍家の御兵法未練なる流儀お稽古などゝ風聞が立つやうになつては、公私に就ておもしろからぬ義と存じ、不憫ながら手討ちにいたし候。」
 といはれたので、一座が肅とした。
(明良洪範)

 
    柳生三嚴

 宗矩の子十兵衛三嚴(一に宗三)は父に劣らぬ名人であつた、若い時微行を好み、京都粟田口を夜半にたゞ一人通つた處、強盗が數十人出て來て各々拔刀を携げて、
 「命惜しくば衣服大小渡して通れ。」
 と罵りかゝつた、三嚴は静かに註Dを脱ぎにかゝると盗賊共は着物を脱いで渡すつもりだらうと心得て近々に寄るところを十兵衛はまづ一人を手の下に斬り伏せた。
 「こは曲者よ。」
 と賊共一度に斬つてかゝる、輕捷無双の三嚴は或は進み或は退き、四方に當つて戰つたが、太刀先に廻る者は悉く薙倒され遂に十二人まで命を落したにより、殘る者共今は叶はじと逃げ去つた。
 三嚴或時、さる大名のもとで劍術をもつて世渡りする浪人を一人紹介された事がある、その時、右の浪人が、
 「憚りながら一手お立合ひ下され候わば光榮の至。」
 と所望した、三嚴はそれを承知し各々木刀をもつて立合つて打合はれたが相打ちであつた。
 「今一度。」
 と浪人が所望したので、また三嚴が承知して立ち上ると又相打ちであつた、その時三嚴が浪人に向ひ、
 「見えたか。」
 といつた、その心はつまり勝負が見えたか、どうだ恐れ入つたらうといふ意味である。
 それを聞いて浪人が、大いに怒つて、
 「兩度とも相打ちでござる。」
 といつた、三嚴こんどは主人の方に向つて、
 「如何に見られたるか。」
 と問いかけた處が、主人も、
 「如何にも浪人の申す通り相打ちとお見受け申した。」
 この挨拶であつた、すると三嚴は、
 「この勝負が見分けられないやうでは、どうも仕方がない。」
 といつて座に着いた、浪人は愈々せき立つて、
 「さらば眞劍にてお立合ひ下されたし。」
 と迫つて來た、三嚴冷然として、
 「二つなき命である、眞劍立合ひ要らぬこと、やめにせられよ。」
 といひきる、浪人愈々いきり立つて、
 「さ樣に仰せられては拙者明日より人前へは立て申されませぬ、是非々々お立合ひ下さるべし。」
 と地團太を蹈んで躍り立つた、それを聞くと三嚴は静かに眞劍をさげて下り立ち、
 「いざ來られよ。」
 浪人もまた長劍を拔いて立合ふや前二回の木刀の時と同じ形に斬り結んだが浪人は肩先き六寸ばかり斬られて二言ともなく斃れた、三嚴は無事に座に歸つて主人に向ひ衣服をくつろげて見せると着用の黒駐重の小袖下着の綿まではきつ先き外れに斬り裂かれたが下着の裏は殘つてゐた、主人に之を示して三嚴がいふよう、
 「すべて劍術の届くと届かざるとは半寸一寸の間にあるものでござる、單に勝つだけならば如何樣にしても勝つことは出來ようけれど最初から申した處の違ひないことを御覧に入れる爲に斯樣に不憫な事をいたしてござる。」
 といはれた、主人は感じかつ驚いた、柳生流を學ぶ者のうちにも殊にこの人は重兵衛殿といはれて仰ぎ尊ばれた名人である。
(撃劍叢談)

      

 柳生十兵衛三嚴の劍術は飛騨守にも勝れたりといふことである。
 或時、無頼漢が拜み打ちに打つてかゝつたがその男の手の中へ入つて左右の髭を捕まえ、顔に唾をしかけたといふ。
 十兵衛は常に赤銅の鍔を用ひてゐたが、赤銅の鍔といふものは時として斬り落されることがある、兵法家にも似合ないと人が云ふと、十兵衛答へて、
 「拙者に於ては鍔を頼むことはない。」
 と云つた。
(異説まちまち)

      

 柳生三嚴は宗嚴の孫で宗矩の子、術にかけては父祖にも秀れ天下無敵の人であつたが、若い時に片眼を失つた、といふのは三嚴の父宗矩が我子の腕を試さうとして、不意につぶてを投げつけた、それを受け損じたのであるが右の眼へ當てられると同時に左の眼を隠したといふやうな逸話がある。
(逸 書)

 
    柳生利嚴

 柳生但馬守平宗嚴は、晩年嫡孫柳生兵庫助平利嚴〔としとし〕[現在一般には「としよし」と読ませる]に一國一人の印可相傳を授け、新陰流兵法正統第三世たらしめたが、これより先き、永禄八年利嚴が年二十五歳で肥後領主加藤清正に客將として赴き三千石を喰んだ比か但はそれより數年前に屬することか分らないが、祖父但馬入道は丁度掌中に握り込める位の大きさの紅紙に片假名を以て左の一首を書き、これを利嚴に與へてゐる、利嚴はこれを後年授けられた大部の傳書類と共に秘藏して印可相傳の書中に含め、後世に相傳した。
     切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ
        たんだ蹈み込め~妙の劍
(柳生嚴長氏著「兵法劍道」)

      

 柳生兵庫助平利嚴が肥後の國主加藤清正に懇望されて、その家臣となつたのは二十五歳の時であつた、祖父石舟齋は利嚴を推薦する時清正に對して、
 「兵介義は(利嚴の初名)殊の外なる短慮者でござるによつて、たとひ如何樣の義があらうとも三度までは死罪を御許しありたい。」と約束した。
 慶長八年利嚴の肥後に赴くに當り、石舟齋(宗嚴)は兵法奥旨二卷の書を授けたが、後利嚴は加藤家を去り諸侯の招聘を辭し回國修業すること九年に及んだ。
 慶長十一年二月上旬、石舟齋宗嚴年七十八もはや死期の迫れるを自覺して利嚴に印可を與へて曰く、
 「子供及び一族は多いけれども何人にも傳へない、斯の如き義はその方一人に之を授くるものなり。」
 と、いつて上泉伊勢守相傳の秘書類を悉く兵庫介利嚴に授け了つた、そこで利嚴が新陰正統第三世を繼いだことになるのである。
 この兵庫介利嚴が又尾張の藩祖徳川義直に劍道をヘへてゐる。
 家康は柳生流を徳川の兵法指南とすると共に一刀流の小野二郎右衛門忠明を召して、稽古を受けた。
 家康が曰く、「小野流は劍術であるけれども柳生流は兵法である、大將軍たるものはすべからく大將軍の兵法を學ぶがよい。」
 と遺訓されたといふことで、柳生一流は代々徳川將軍の劍として「お流儀」と稱ばれてゐた。
(柳生流兵法と道統)

 
    柳生家家風

 柳生家は代々將軍の師範であつたからお流儀と呼ばれてゐたのは尤である、この門に入つて學ぶ者、業なつて免許を取つた上は、おのれが弟子を取ることも苦しくはないが、その者から又免許を出すことは出來ないことになつてゐる、その又弟子が熟して人に傳へようと思ふ時には、改めて柳生家へ入門して學ぶことになつてゐる、邊鄙では代々承け傳へて柳生流と稱するものもあるけれどもそれは皆正傳ではないといふことである。
(撃劍叢談)

 
    相  討

 徳川時代に於て、幕府の御流儀として最も隆盛を極めたる柳生流を始め、新陰流の諸流派がヘゆる所の趣旨は相討なり、即ち敵を斬ると同時に、己も亦敵刄に倒るゝ決心をもつて打込むことをヘゆ、かくてこそ眞の勝利を得るものなり。
(下川氏著「劍道の發達」)

 
    肋 一 寸

 柳生流に「相討」といふ言葉はないが、これは眞によくわが流の極意を説いてある、我が流の太刀は一切「相討」である、然し「轉〔マロバシ〕」の道を認得しないものは、我れからも討ち、敵からも討たるゝ――世間俗に云ふところの相討になり、斬合の道の愚拙に陥る、これは「せんだんの打」と稱して戒めるところである、我が流に「肋〔あばら〕一寸」といふヘがある、敵刀我が肋骨一寸を切り懸る時我刀早くも敵の死命を制する劍である。
(柳生嚴長氏著「兵法劍道」)

 
    新陰の極意

 敵から斬り懸つても懸らぬでも、我が方は唯一打に、一調子に勝を攬〔と〕ることは新陰流の極意であります、我が方の構を頼み、一と敵の懸るを待つて、二と敵刀を防ぎ拂ひ、三と敵に勝つこと――世間これを「三の數」と稱へて兵法の根本條理でありますが、この條理を超越し敵の斬り懸るに(同時に)我方から一調子に打込むことが新陰流の極意であります。
(柳生嚴長氏著「兵法劍道」)



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