武蔵の出身地はどこか
出生地論争に決着をつける

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美作説に根拠なし  Back   Next 
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。 (五輪書・地之巻)
 宮本武蔵『五輪書』に記された「生國播磨」という言明にもかかわらず、武蔵産地は美作だという説が興行されてきた。これは、いったい、いかなることであるのか。この珍現象もまた、武蔵研究において興味深いものである。
 まず、明治末にすでに現地(現・岡山県美作市宮本)に碑が建立されたように、二十世紀前期からこの地を出生地とする説が先行した、という経緯がある。
 それには、熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』(明治四十二年)の「宮本武蔵伝」の影響が大きかった。ここで提示された肥後系武蔵伝記『二天記』が具体的な記述を多く含むことから、その信憑性如何以前に、多くの者がこの顕彰会本宮本武蔵に平身低頭してしまうという状況であった。
 しかもそこで、『二天記』が武蔵を播磨生れとするにもかかわらず、美作の地誌『東作誌』の記事に依拠して武蔵産地美作説が提唱された。本来なら、これはローカルな異説として、それで事は終りのはずだったのだが、思いがけず情勢が変ってしまった。
 それは昭和の戦時中、吉川英治のベストセラー小説『宮本武蔵』が出て、国民的人気を博したことだ。その結果、武蔵は美作産だという観念が「国民」に刷り込まれてしまったのである。つまり、武蔵は美作生れだというローカルな異説が「国民」に広く信じられるようになってしまったのである。「武蔵は美作生まれ」とするのが、世間では排他的通説となってしまった。
 かくも、異様な事態となったのだが、そもそも顕彰会本『宮本武蔵』には、奇怪な記事が少なくない。第一、顕彰会本には、「子武仁父の跡を嗣ぎ、新免及平田を稱し、又平尾と稱し、無二齋と號す」などという、唖然とする記事がある。平田武仁は、新免を称し、また平尾と称したというのだから、大混乱である。
 むろん、そんなことを書いた文書も口碑も美作には存在しない。美作では、平田氏系図には「平田武仁」であり、平尾氏文書では、平尾太郎右衛門が「宮本無仁」と号したとある。
 しかも諸家の系図は、それぞれ話が違う。それを全部横断して、新免も、平田も、平尾も、すべて称したというのは、まったくデタラメな話だった。
 顕彰会本は、一種いいかげんな、やっつけ仕事だったようで、「武蔵はもと播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流、平田氏に出づ」などと、わけのわからないことを書いている。
 この出拠は美作の古記ではなく、『美作畧史』(明治十四年)の矢吹正則の説であろう。それには、政名は武蔵と称す、宮本村の人で、その先祖は赤松氏の族、衣笠氏より出る、播磨平尾村に住し平尾をもって氏とし、政名に至ってまた邑名宮本を以て氏となす、その父太郎左衛門、新免宗貫に属し、十手の術を以て世に聞え、新免無二斎と号す、とある。
 この『美作畧史』は、「平尾太郎左衛門」が新免無二斎だという憶測から、この説を展開しているのだが、それは、『美作畧史』の矢吹正則が『東作誌』の記事を誤読した結果である。『東作誌』の正木輝雄は、平田氏と平尾氏を弁別して書いている。
 ところが、『美作畧史』は、平田無二と平尾太郎左衛門を同一視して、平田氏と平尾氏の分別を混乱せしめた。しかもそれだけではない。平尾氏起源伝説に婿として出てくる衣笠九郎次の記事から、根拠もなく、平尾氏の先祖が衣笠氏とみなした。その結果が、武蔵の先祖は赤松氏の族、衣笠氏より出る、という説なのである。
 しかし、さすがに『美作畧史』でも、平田氏先祖が衣笠氏だというバカなことは書かない。これは、美作の事情を知らない顕彰会本の作者の踏み外しである。ようするに、平田氏の祖が衣笠氏だというのは、美作ではありえない謬説である。
 『東作誌』の校訂者、矢吹正巳は正則の息子だが、彼が注記するには、『東作誌』に掲載する各家の旧記系譜は、各家が焼失した後に、各家において推測し、作成したものなのである。その『東作誌』の段階から、美作の史料はすでに怪しいわけだ。
 美作で出た資料はすべて、「各家ニ於テ推測作成シタルモノ」であって、オリジナルは一つも存在しない。それを、まず最初に認識しておくべきである。
 また別に『東作誌』の校訂者が述べているように、旧い記録を参照し、また実地を調査したが、遂に解決を得なかった。美作の諸家系図には相互に矛盾がある。その混乱を収拾することは不可能である。それが、この矢吹のような明治の美作説論者の認識であった。その意味で、当時はまだ健全な認識があったと謂うべきである。
 この事実を忘れての妄説が、顕彰会本『宮本武蔵』で発生して、その後、吉川英治の小説を通じて世間で急成長し繁茂したことが、おそらくはこの美作説の地元にとっての不幸だったのである。





宮本武蔵遺跡顕彰会編 宮本武蔵
明治四十二年(1909)


*【顕彰会本宮本武蔵】
《傳ふる處に據れば武藏はもと播磨赤松氏の族、衣笠氏の支流、平田氏に出づ、明應文龜の頃、平田將監といふものあり、劔道及十手の術に通じ、美作に來り吉野郡竹山城主新免氏に仕へ、下荘村に居住す、新免伊賀守宗貫厚くこれを用ゐ、文武の師範とし、遂にその氏を與ふ、子武仁父の跡を嗣ぎ、新免及平田を稱し又平尾と稱し、無二齋と號す、殊に十手の術を極め、性頗る剛勇なり、宗貫また厚くこれを用ゐたり[平田氏系圖](中略)武藏は即ち當時武勇の聞ゑ高かりしこの無二齋の子なり、その剛勇なる基く所あるを知るべし[摘取新免家侍覺書、東作誌、及碑文]》




美作畧史 明治十四年(1881)




*【東作誌・校訂者註記】
《本書ニ載スル各家ノ舊記系譜ハ、各家燒失後各家ニ於テ推測作成シタルモノナレハ、符合セサルモ亦已ムヲ得サルナリ》



美作説のご当地「武蔵の里」遠景
 本題に入る。
 重要なことは、武蔵が美作で生まれたという証拠がないことだ。むしろ、彼自身が『五輪書』で「生国播磨」と書いているし、また他の一次史料によって否定されるからである。
 すなわち、武蔵の養子・宮本伊織が建てた小倉の武蔵碑(北九州市小倉北区赤坂)の墓誌部分の文字は、
   《播юヤ松末流、新免武蔵玄信二天居士碑》
とある。「пv字は「州」に同じで、播州の赤松末流、新免武蔵玄信、そして「二天」が武蔵の号である。赤松氏は播磨が根拠地だが、美作・備前の守護職でもあった。以来、美作にも赤松支流が存在する。
 また、同じ小倉碑文の本文に、
   《播чp産、赤松末葉、新免之後裔、武蔵玄信》
とある。ここでは武蔵は「播чp産」、播州の英産、つまり播州生れのすぐれた人物、と明示されている。もし武蔵が美作生れなら、碑文はどう書いたであろうか。言うまでもなく、これを「作чp産」、作州の英産と記したはずである。
 しかし、小倉碑文には「播пvという文字はあっても、そもそも「作пvの文字がどこにもない。そうである以上、美作出生説は、この碑文の「播пvの二字によって否定されよう。

 では、武蔵や伊織によるこうしたプライマリーな史料ではなく、他の二次史料ではどうか。
 享保十二年(1727)の「兵法大祖武州玄信公伝来」(丹治峰均筆記所収)は武蔵伝記としては早期のテクストである。それには、
  《新免武蔵守玄信ハ播州ノ産、赤松ノ氏族》
とある。「播州の産」、つまり、武蔵の産地は播州だとするのである。
 あるいは、それより早い書物では、まず現在までのところ最初の武蔵伝記事とすべき、日夏繁高の『本朝武芸小伝』〔干城小傳〕がある。これは正徳四年(1714)刊行の書であるが、こう記す。
  《宮本武藏政名者播州人、赤松庶流新免氏也》
 つまり、宮本武蔵政名は播州人で、赤松庶流の新免氏なり、というのである。この記事は、武蔵の諱を「政名」名とする早期の異伝であるが、やはり、武蔵を「播州人」とする点では変りはない。しかも、この書では、
  「宮本武蔵墓誌曰」
として、小倉碑文を全文引用し、そのなかに「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」「播州英産赤松末葉新免之後裔武蔵玄信」という記事を写すのである。
 ちなみに、本書が武蔵の諱を「政名」とすること、新免を「にいみ」=新見と誤ることなど、これらに関してはここでは直接関係がないので説明を省く。本サイトの資料篇で、いずれ本書について論じられるであろう。
 この史料二点は、肥後系伝記『武公伝』『二天記』よりも半世紀早く、最早期の武蔵伝とすべきものだが、ともに武蔵を「播州人」「播州産」とする。これらの典拠は、いずれも小倉碑文であるとみえる。
 しかし、これに対し、美作説文献が登場するのは、それよりかなり後のことなのである。


宮本伊織建立の武蔵碑
北九州市小倉北区赤坂


*【小倉碑文当該部分】
《 兵法天下無双
播юヤ松末流新免武蔵玄信二天居士碑
正保二乙酉暦五月十九日於肥後國熊本卒
于時承應三甲午年四月十九日孝子敬建焉 (以上右下墓誌部分)
(以下本文) 臨機應變者良將之達道也講武習兵者軍旅之用事也游心於文武之門舞手於兵術之場而逞名誉人者其誰也播чp産赤松末葉新免之後裔武蔵玄信号二天想夫天資曠達不拘細行蓋斯其人乎爲二刀兵法之元祖也父新免号無二爲十手之家武蔵受家業朝鑚暮研思惟考索灼知十手之利倍于一刀甚以夥矣雖然十手非常用之器一刀是腰間之具乃以二刀爲十手理其徳無違故改十手爲二刀之家》


京大図書館蔵 谷村文庫
本朝武芸小伝
 ご存知の通り、美作説の根拠は『東作誌』という書物であり、すべてはこれに記された武蔵関係記事に発する。
 書名の「東作」というのは、現在の岡山県東北隅の部分に相当する作州東部六郡のことである。本書の撰述者は津山藩士の正木兵馬輝雄、書上げたのは文化十二年(1815)である。武蔵死後百七十年の十九世紀の文献であり、いうまでもなく武蔵関係史料としては成立は遅い。
 (本サイト[資料篇]に『東作誌』所収記事の詳しい読解と評価が記載されているので、それを参照されたい。→  Enter  )
 『東作誌』の吉野郡宮本村之記には、こうある。美作説発生の根拠史料なので、念のため現代語訳しておく。

宮本武蔵  姓は源[あるいは藤原]、平田無二の子である。[『武芸小伝』並びに墓誌(小倉碑文)に播州人とあるのは間違いである] 父無二は剣術および十手の達人である。武蔵が幼年の時、荒牧の~社に遊んで太鼓を打つ有さまを見て、二本の撥(ばち)で左右の音が同じなのに感じて悟り、十手から二刀へ替えたのである。空の室に杵を釣っておいて、これを撃って腕を磨いたという。十三歳にして播州に行き、有馬喜兵衛と勝負を決し、但馬で秋山と勝負して打殺し、後京都で吉岡に打勝ち、また豊前の舟嶋で佐々木巖流と仕合いをして打殺す。およそ十三歳の時から勝負をしたこと六十余度、自ら「日下開山~明宮本武藏政名流」という。関ヶ原・大坂の役に戦功あり、寛永年間の島原一揆の時は細川家に属して(戦場に)赴いた。正保二乙酉年五月十九日、肥後熊本で死んだ。謚(おくり名)は玄信二天。

 武蔵が「平田」無二の子だとか、荒牧~社で太鼓の撥さばきを見聞きして、十手を二刀へ替えたとかいうような、他の諸伝にはないユニークな伝説を書き留めている。それは後で検討するとして、この記事をみれば、著者が『武芸小伝』を参照したことは明らかである。《寛永年中、肥前島原一揆、属細川家赴之》という『武芸小伝』の間違いまで、そのままそっくり反復している。「墓誌」といって小倉碑文にも言及しているが、これは『武芸小伝』の引用掲載文によるものである。
 しかも、『武芸小伝』との相違で注意すべきは、「佐々木巌流」という名があることだ。この「佐々木」姓の巌流は『武芸小伝』にはない。どこに典拠があるかというと、歌舞伎・浄瑠璃など演劇や小説である。東作誌の著者の認識は、最も後発のものであり、すでに演劇や小説で有名な宮本武蔵の時代であり、流布された巷間俗説が背景にある。この点は改めて確認しておく必要があろう。
 『東作誌』の作者は、演劇や小説の虚構世界で、武蔵について自由気儘に想像力が行使された後の世代である。言い換えれば、武蔵について語るに、無制約な「何でもあり」の段階である。かくして、
  《武芸小伝並に墓誌に播州人とあるは非也》
として、武蔵が播州人たることを否定する言挙げが、ここではじめて発生したのである。「播州人」という表現は、まさに『武芸小伝』のそれである。著者正木は、『五輪書』を見たことはなく、また『丹治峯均筆記』や『武公伝』『二天記』といった九州の武蔵伝記を知らない。そうした貧困な情報環境においてこそ、武蔵播州産地説ははじめて否定されたのである。
 しかしながら、この説は、『東作誌』の著者が調査した美作東部の、しかもごく限られた数か村の、極めてローカルな伝説である。そのうえ、物証は何もなく、混乱した系図と複製文書と口碑のみにすぎないという、はなはだ心もとない話ではあった。
 他方、剣術家列伝における美作説の初出は、備前岡山の池田家臣・三上左太夫元龍による『撃剣叢談』である。これは、寛政二年(1790)の書で、こう記している。
《武藏流ハ、宮本武藏守義恆[諸書に皆政名に作る。今古免状ニ依て改之]が流也。武藏守ハ、美作國吉野郡宮本村の産也》
 この「宮本武蔵守義恆」の問題は別の論攷が問題にするだろう。美作国吉野郡宮本村の産ということ、これが美作に隣接する岡山藩士の記述であることに注意しなければならない。美作津山から備前岡山へ、という伝説の伝播である。
 かくして、武蔵伝における美作説は誕生したのだが、前節「出生地論争」で通覧したように、他の諸説に比してかなり後発の、十八世紀末から十九世紀にかけて発生した新説である。
 発生時点をみれば明らかなように、美作説にはこれという確かな早期史料が存在しない。むしろ、大衆文化のなかで虚構の宮本武蔵が登場し、想像力の自由な行使がなされた後で、このように武蔵自身やその養子・伊織によるプライマリーな史料とは矛盾する説が出現した、というのが歴史上の実態である。

岡山県立図書館蔵
東作誌 吉野郡分冊


*【東作誌】
《宮本武藏  姓源[或は藤原]、平田無二の子なり。[武芸小伝並に墓誌に播州人とあるは非也] 父無二は劔術及十手の達人也。武藏幼年の時、荒牧の~社に遊て太鼓をうつ有樣を見、二本の撥を以て左右の音等しきを感悟し、十手を以て二刀に替たり。空室に杵を釣り置き、是を撃て錬磨すといへり。十三歳にして播州に行き有馬喜兵衛と勝負を決し、但馬にて秋山と勝負して打殺し、後京都にて吉岡に打勝、又豐前の舟嶋にて佐々木巖流と仕合て打殺す。凡十三歳の時より勝負をなすこと六十餘度、自ら日下開山~明宮本武藏政名流と云ふ。關ヶ原大坂の役に戰功あり。寛永年中島原一揆の時細川家に屬して赴く。正保二乙酉年五月十九日肥後熊本ニ於テ死ス。謚玄信二天》
《宮本武藏、九十年以前に當村出行仕候。其時分、家の道具系圖證文等與右衛門に渡し、其後九郎兵衛受取、此もの耕作勝手に付、宮本へ十町計下へ罷出農人仕居申候。
一本に、武藏浪人の節、家の道具・十手・三つくさり・すやり・家の系圖、嫡孫與右衛門に渡置候由、六十年以前に九郎兵衛代に燒失仕候》
《輝雄按ずるに、武蔵が姓系、墓誌には赤松末流新免と見江、一本には平尾氏なる由を記し、又平田系圖を閲れば前に書る如し、孰か是なることを不知》
《輝雄云、平尾・衣笠・宮本・平田等、系譜混沌として甚だ分ち難しとす。猶可考合》



美作国周辺図  西作・東作


 しかしながら、我々は美作説のために今一度、その余地がないか、検討してみよう。検証の対象にしうる史料は、美作説にはないのか。結論を言えば、それは存在しない。それゆえ、美作説の淵源、その初期史料を再検分しておくしかない。
 美作説の初期の史料とは、元禄二年(1689)の日付を有する吉野郡古事帳の二文書、宮本村古事帳写(白岩家文書)と下庄村古事帳写(平尾家文書)である。
 これらは原本ではない、後世の写しである。ただしここで仮に、武蔵死後四十四年という早期の日付を有する文書であることを一応尊重してみるという条件で、これを検討してみたい。
 まず、その内容はどうか。しかしながら、当該文書の内容は、当地にはこんな伝説があると報告した文書である。すなわち、宮本構に関する平尾家の伝説を記したもので、後世の史料である。宮本武蔵家の相続者だ、有名な武蔵の「末孫」と主張する者が存在したのである。しかし、いずれにしても伝説上のことである。
 (本サイト[資料篇]に、古事帳二文書の原文・訳文・註解が掲載してあるので、詳細はそちらを参照されたい。→  Enter  )
 古事帳二文書のうち、宮本村古事帳写(白岩家文書)をとってみれば、その記事は以下に引用する文言で、全てである。これ以外の情報はない。

此村之内、宮本と申所ニ構之跡有り。いにしへ宮本武仁居と申者居申候。其子武蔵迄ハ右之構ニ居申候。是ハ天正より慶長迄之様ニ被存候。其後中絶、元和九年ニ武蔵末孫下庄村より上り、構之上之畑ニ居住仕候。同名與右衛門・同九郎兵衛・同七郎左衛門、嫡子ハ九郎兵衛、本家下庄之屋敷ニ置、二男七郎左衛門、同弟仁右衛門迄ハ当地ニ居申、宮本武蔵家相続仕候。武蔵牢人之節、家之道具、十手・三ツくさり・すやり、家之系図、姉孫・與右衛門ニ渡し置候由、六拾年前ニ九郎兵衛代ニ焼失仕候。

 つまり、伝説の本体はこうである――現代語訳して云えば、「宮本と申す所に構〔かまえ〕の跡があります。その昔、宮本武仁が居たと申す者が居ります。その子・武蔵までは、右の構に居りました。これは、天正より慶長までの間のように思われております」ということである。ここで「申者居申候」「之様ニ被存候」という表現が示す伝承の曖昧さに気づかない者はいないはずだ。
 この文書から得られる伝説内容は、以下の四点である。
(1) 武蔵の父は、「宮本武仁」という者であること。
(2) この武仁が宮本構に住んでいたと云う者がある。その子武蔵までこの構居に居て、それは天正から慶長までの間のように思われていること。
(3) 武蔵の後「中絶」したが、元和九年(1623)に「武蔵末孫」がやってきて、宮本構の傍に住むようになり、代々「宮本武蔵家」を相続してきたこと。
(4) 武蔵には姉があり、その姉の孫・与右衛門が、武蔵から証拠の品を譲られたが、六十年前に焼失してしまって、物証は存在しないこと。
 そして、以上四つの伝説要素の起点は、この宮本村古事帳写によるかぎり、武蔵「姉孫」の与右衛門である。そして、この与右衛門の子・九郎兵衛以下の家系が「武蔵末孫」と称し、代々「宮本武蔵家」を相続してきた。つまり爾後一切の美作説の源泉であり、担い手である。
 すなわち、先祖の与右衛門はあの宮本武蔵の姉の孫である。それが証拠に、武蔵自身から譲渡された家の道具・武具・系図等の品があった。宮本構には、宮本武仁とその子武蔵が住んでいたのだから、この土地は自分たちに権利がある。――と言いはじめたものらしいとが知れる。
 そこで、我々が一次史料とみなす泊神社棟札及び小倉碑文とつき合わせてみよう。別に示すごとく、泊神社棟札は武蔵の養子・宮本伊織が一人称(「余」)で撰述した文である。また、小倉碑文は、同じく伊織が小倉に建碑した武蔵碑の碑文である。













吉野郡宮本村古事帳写
白岩家文書






宮本構





宮本構址 昭和三十年代
岡山県美作市宮本
 (1) 武蔵の父は「宮本武仁」だというが、小倉碑文では、「父新免、無二と号す」とあって、無二は「新免」氏である。宮本ではない。また泊神社棟札によれば、神免(新免)は天正年間に九州の筑前秋月城で死去。しかも彼は後嗣なく死んだ。武蔵はその家を継いで、後に「宮本」を名のるようになったとのことである。すなわち、武蔵の代で、
     「新免」 → 「宮本」
と変えたのである。武蔵が「父」から継承した家は「新免」であり、「宮本」ではありえない。つまり、古事帳の伝説が知らないのは、武蔵の代になってから宮本を名のるようになったこと、つまり無二は「宮本」ではないことである。
 もしかりに父無二がこの宮本構にいたとしても、彼は新免氏であって宮本氏ではない。この「宮本家」は、後に「宮本」武蔵が有名になってからの我田引水であり、事後的に構成された伝説口碑である。
 美作説の特徴は、現地の伝説に「新免」無二が出てこないことである。少なくとも一次史料は無二を新免氏とし、武蔵はその新免の家を嗣いだとするのだが、その「新免無二」が現地では不在なのである。
 その代わりに『東作誌』が採取したごとく、地元の平田家系図には、「平田武仁正家」という者と、その子「平田武蔵掾二天」という奇怪な名をもつ武蔵が存在する。父は「平田武仁」、子は「平田武蔵」なのである。武蔵を平田氏にしてしまうとは、まさに露骨な我田引水というべきであろう。こちらは、古事帳よりも新しい段階の資料である。
 また、『東作誌』の著者・正木輝雄が書写した吉野郡川上村の「新免家記」には、「平田無二」という者が出てくる。この無二は新免家に属して、驍勇万人に卓越し軍功は比類なく、刀術の達人で、延徳三年(1491)栗井近江守景盛との合戦以来、戦功目覚しくその数は算えきれない。しかも天正十七年(1589)、竹山城主新免宗貫の上意により本位田外記之助を殺し、文禄の役には朝鮮で戦ったという人物なのである。つまりこの人物は、延徳年間から文禄年間まで、百年にわたり歴戦武勇の人であって、その超人ぶりはまさに「無二」と云うべし、である。
 他方、平田家系図の「平田武仁正家」は、墓碑によれば天正八年(1580)歿、享年五十三。したがって、新免家記の「平田無二」が、平田家系図の「平田武仁正家」と同一人とすれば、彼は生れる前から合戦に武功を挙げ、また死後も本位田外記を暗殺し、朝鮮へ出陣したのである。しかし、だれがそのようなことを信じるのか。『東作誌』の著者も、訳がわからんと困惑の態である。
 まさにこういう伝説の人物が、作州の無二である。「平田武仁正家」は天正八年(1580)歿、むろん天正十二年(1584)生れの宮本武蔵と関係がありそうもない。

 ちなみに、この地域の特徴をいえば、十九世紀に宮本武蔵に関する活発な伝説生産があったことである。しかもそれが口碑ではなく、諸文書の記録に「宮本武蔵」という名を残しているのである。
 たとえば、以下に示すように、『美作逸史』が記す新免伊賀守御家中侍覚には、「宮本武蔵」という名が堂々と記されている。また、『美作太平記』には、天正期の美作地方の合戦に「宮本武蔵」という名が登場する。




【泊神社棟札当該部分】
有作州之顕氏神免者、天正之間無嗣而卒于筑前秋月城。受遺承家曰武蔵掾玄信。後改氏宮本。亦無子而、以余為義子。故余今称其氏。余比結髪、元和之間、信州生仕小笠原右近大夫源忠政主于播州明石、今又従于豊之小倉也。
[資料篇]  泊神社棟札 








平田武仁夫婦の墓
天正八年の刻字がある


美作逸史 新免伊賀守御家中侍覚 平田武仁と武仁子・宮本武蔵

美作太平記 天正六年・天正七年に「宮本武蔵」出陣?
 『美作逸史』の新免伊賀守御家中侍覚では、宮本村の「平田武仁」の子として、「宮本武蔵」が記録されている。天正八年に死んだはずの「平田武仁」に、天正十二年生れの「宮本武蔵」という子があったわけで、しかも天正年間の侍帳にその「宮本武蔵」なる名を記すのである。
 また、『美作太平記』では、もっと荒唐無稽なことに、天正六年(1578)の西粟倉庄合戦と天正七年(1579)の草刈合戦に、「平田無二」の名とともに「宮本武蔵」が登場する。つまり武蔵は、何とその出生以前に合戦に出陣していたのである(!)。これは武蔵と別人でなければ、およそ小説物語の類と変わりがないフィクションである。
 武蔵産地美作説は、武蔵に関する記録史料があると主張するが、ようするに、こうした後世の捏造物を真に受けて信憑するという蒙昧な性向があった。もちろん、日本全国他の地域では、こんな念入りな贋造記録まで作ったりすることは、まずありえない。その意味で、十九世紀美作吉野郡では、きわめて特異な気運行動があったと云うべきである。

 (2) この武仁・武蔵の父子は、天正から慶長にかけて、宮本の構居に住んでいたという伝説である。平田家系図では、「平田武仁」は天正八年(1580)吉野郡川上村で歿とする。
 ところが伊織棟札によれば、新免無二は、天正年間に九州の秋月城で死んでいる。むろん、古事帳の伝説はそのことを知らない。
 天正年間に武蔵の「父」なる新免無二が九州で死んだとすれば、この「父」の新免家は、それより以前に九州にあったとしなければならない。そしてその家は、彼の死によっていったん断絶するのである。すなわち、伊織棟札によれば、彼は「無嗣にして卒す」とある。もし武蔵という子があれば、まさしく「無嗣にして卒す」とはならない。
 古事帳の伝説が知らない最も重大な事実は、武蔵が新免無二の実子ではなかった、ということだ。武蔵は無二の死後、相続人となって、このいったん絶えた「新免」の家を嗣いだのである。
 美作の史料はどれも、武仁・武蔵の父子を実の親子とし、武蔵が無二の実子ではなかったことを知らない。言い換えれば、実際の新免無二について知らないのが、美作の伝説の特徴なのである。
 ただし、古事帳が記録した伝説では、宮本構に宮本武仁がおり、またその子・武蔵も居たということだが、武蔵がここで生まれたとは一言も書かれていない。この点についても注意すべきだろう。
 これは宮本にある構居遺蹟に関する伝承記事なのだが、まさしく、古事帳の伝説には、武蔵の出生に関して一言も語っていない。この事実は、明確に承知しておかねばなるまい。
 武蔵は無二の実子ではないという事実を知らない環境では、当然、武蔵の「父」は武蔵の実父である。そこから、その父の父、つまり祖父まで現れ、美作での武蔵の系譜出自が系図上で構成されたのである。
 古事帳の記事を読めばわかるように、宮本武仁が宮本構に「居た」という伝説はあっても、宮本武仁が何者か、だれの子かを記した伝説内容ではない。武蔵とともに親まで美作生れにしてしまうのは、古事帳の段階ではなく、後世の伝説発展によるものである。

 (3) 武蔵で「中絶」した家を、「武蔵末孫」が相続したということだが、これも奇妙な話である。問題の一つは、武蔵在世中なのに「武蔵末孫」が登場することだ。
  《元和九年ニ武蔵末孫下庄村より上り、構之上之畑ニ居住仕候》
とある。実はこういうところに、伝説のポジションが、図らずも露呈してしまっているのである。つまり、ボロが出てしまっているわけだ。
 美作の「武蔵末孫」が現地に姿を現すのは、元和九年(1623)と不思議に具体的な記事である。これは、「武蔵末孫」が下庄村から入植して宮本村開発にあたったという伝説のようである。言い換えれば、宮本村の開発地主になった者は「武蔵末孫」だったという伝説である。
 元和九年というと、そのころ武蔵は播州にいて、姫路の本多忠政や明石の小笠原忠政の客分になっていた時期である。この年だと武蔵は四十歳のころである。武蔵が生きている時期のことだから、「武蔵末孫」が存在するはずもあるまい。
 武蔵在世中なのに「武蔵末孫」が登場するのは、むろん相続の正当性を主張せんがための心から出たものだが、そもそも武蔵が何年に死んだか頓着しないというのが、伝説口碑の特徴である。
 第二点は、宮本家が「中絶」していたという奇妙な話である。ところが実際には、宮本武蔵家は播州の姫路と明石の二箇所にあったのである。
 一つは姫路の宮本家。これは養子の三木之助を据えて創った家である。三木之助が本多忠刻に殉死して、その後は三木之助の弟・九郎大夫がその家と名を嗣いだ。もう一つは、明石の小笠原忠政家臣・田原貞次を養子にして、明石で創始した家で、貞次は宮本伊織と称する。したがって当時、宮本家は播州の姫路と明石にあって、「中絶」するどころか「創設」されていたのである。
 むろん古事帳の伝説には、こうしたことは反映されていない。そんな事実とは無関係に、美作で固有に発生した伝説なのである。

 (4) 宮本村古事帳では「姉孫」という文字がある。すると、武蔵には姉がいたことになる。この姉から「武蔵末孫」伝承が生じるのだが、一方、下庄村古事帳(平尾家文書)の方は、この相続人を「無仁の妹」の子とする。つまり、武蔵にとっては叔母の子、先方にとっては武蔵は母方の従兄弟という設定である。姉孫と従兄弟では、世代が二世代も異なる。つまり古事帳同士の間で、鍵となる女性の伝承が、かなり喰い違っているわけだ。
 姉孫であれ、叔母の子であれ、いずれにしても同地域におけるかほどの伝承の差異は、いかにも伝説それ自体の恠しさを表現している。しかし、どちらが正しいのか、という問いは愚問と言うべきであろう。どちらも事後的に形成された口碑伝承にすぎないからである。
 さて、宮本村古事帳によれば、姉孫の与右衛門は、武蔵から家督を相続した。この与右衛門は平尾与右衛門正重である。寛永元年、六十七歳で歿、とする平尾家系図もあるから、武蔵よりかなり年長で、むしろ父親の世代である。そんな世代の人物を、武蔵の姉の孫にしてしまっているのが、宮本村古事帳の武蔵伝説である。
 与右衛門はいつ武蔵から家督を相続されたのか、これについて、宮本村古事帳は「武蔵牢人之節」とあって、時期は明かではない。「牢人」は浪人ということで、禄を離れたというわけだが、古事帳の伝説は、武蔵が一生仕官しなかったことを知らないから、こんな表現になったものらしい。
 ところが、もう一方の下庄村古事帳では、相続人与右衛門は武蔵の従兄弟だが、九十年ほど前(武蔵は十六〜七歳頃にあたる)という武蔵出郷のおり、この従兄弟に証文その他を渡して家を譲ったということになっている。姉孫に渡すのと、従兄弟に譲るのとでは、時期は二世代違う。
 ところが、それより問題は、古事帳二文書の伝説がともに、与右衛門が武蔵から渡されたという物証の品は存在しないとすることだ。その理由は、与右衛門の子の九郎兵衛の代に、焼失してしまったというわけである。
 ここが伝説の伝説たるところである。武蔵から得たはずの証拠の品は、六十年も前に消えたのである。この物証の焼失=消滅とは、すなわち物語の完結である。
 かくして、話のループは閉じ完結するのだが、古事帳の時点からすると六十年前は、寛永六年(1629)前後、むろん武蔵生前のことである。武蔵は四十代半ばで播磨にいた。にもかかわらず、あたかも後世の出来事のように、古事帳の伝説は物証の消滅を語って話を完結させてしまう。もちろん、武蔵生前に「武蔵末孫」を登場させてしまうのが古事帳の伝説である。




【美作太平記】
《長重一族、新免治部左衛門、同主水正、其子三之亟、家臣には、本位田外記、平田無二、宮本武蔵、平尾与右衛門、横野、船曳、春名、長谷川等出陣して、防ぎ戦ふ》(草刈景継最期之事)
《新免伊賀守を大将として、小高遠江守、和氣因幡守、竹内中務、宮本武蔵、平尾弥十郎、平田久右衛門、勇士三十人、足輕廿人ニ鉄炮を爲持》(西粟倉庄合戦之事)




下庄村古事帳写

【下庄村古事帳写】
一、下庄村宮本在家中ニ、構屋敷跡御座候。三拾間四方ニ見へ申候。古宮本無仁住居仕候 。構石垣ハ天草一乱之時分、御公儀御意ニテ取崩申候。則、無二筋目当所ニ御座候。書上ケ申候。
  (系譜部分略・資料篇参照)
一、宮元武蔵九拾年已前、当国出行仕候。其時分、家之道具・系図・証文等、与右衛門ニ渡シ、其後、九郎兵衛請取、此者耕作勝手ニ而、宮本村ヨリ拾丁斗下へ罷出、農人仕居申候。六拾年已前ニ、火災ニ右道具焼失仕候。(後略)






宮本構周辺地図





明石城






武蔵姉の子孫(?)平尾家


*【宮本村古事帳の筋目】

○宮本武仁┬―(姉の子)┐
     |       |
     └宮本武蔵   |
 ┌―――――――――――┘
 |姉孫
 └与右衛門┬九郎兵衛
      |
      ├七郎左衛門
      |
      └仁右衛門


*【下庄村古事帳の筋目】

○┌宮本無仁―宮元武蔵
 |
 └無仁妹
    ├――宮元与右衛門┐
 衣笠九郎次郎      |
 ┌―――――――――――┘
 └九郎兵衛―七郎左衛門―┐
      ┌――――――┘
      ├七郎左衛門
      |
      └仁右衛門

 以上の四項目についてみれば、古事帳文書に記録された武蔵伝説には、誤伝あるいは信憑性の欠けるところがあると知れよう。
 そしてこのことは、文書の記された時期、この地にすでに武蔵伝説が形成され存在したという事実のみを示すものである。
 しかも、古事帳の二文書を対照させれば、肝腎部分にかなりの喰い違いがある。同じ場所・同じ時期にもかかわらず、そうなのである。これはどちらが正しいかという問題ではなく、伝説そのものが活発に成長してきたということを示すものであろう。
 古事帳写が複製である以上、その作成時期が武蔵死後四十四年の元禄二年とは特定できない。むしろその内容からして、文書作成時期は十八世紀後期を遡るものではない。
 おそらく宮本構の伝説発生は、そもそもは、土地の権利関係というまったく経済的な問題であったと推測しうる。放棄されて無主となった構居の占有権を主張する家系が現れた。自分の先祖は「武蔵末孫」だ、あるいは「無仁筋目」の者だと主張したのである。
 しかしその証拠があるかというと、それはない。元祖与右衛門の子・九郎兵衛の代、六十年前に、肝心の文書と物証を焼失してしまった、というのである。
 この点は看過してはならないところである。というのも、『東作誌』以前に、美作説の根拠文書たる古事帳写が、口碑のみあって物証なきことを明記しているのである。この事実を知らない者が、近代、美作には武蔵生誕の物証が多いという謬説を興行したのである。
 改めていえば、古事帳二文書の日付が元禄二年(1689)、その六十年前となると、寛永六年(1629)あたりである。武蔵は播州明石で伊織を養子にして宮本家を設けており、そしてまだ播磨にいる。にもかかわらず、なんと美作の宮本村に「武蔵末孫」が存在するばかりか、子孫証拠の遺品までも「すでに失われていた」のである。
 この荒唐無稽ぶりは、「喪失に先立つ所有はない」というフロイト=ラカン的なテーゼの典型例である。何も持っていなかった者は「所有」より先に、まず「喪失」していなければならない。すなわち、喪失した(と主張する)者は、喪失以前に何も持っていなかったのである。喪失伝説によってはじめて(過去の)所有が発生するのである。こうした伝説形成のモデルを体現しているのが、古事帳の武蔵伝説なのである。
 ともあれ、古事帳文書の伝説内容を綿密に遡及して行けば、武蔵の痕跡は消えてしまう。しかも『東作誌』が採取した平尾家系図には、「無仁」も「武蔵」もその名は出てこない。この事実は、武蔵産地美作説の消点(vanishing point)を示すであろう。
 ようするに、美作説の起源となった『東作誌』を書いた正木輝雄は、当地で武蔵伝説や系図や文書を採取したが、最終的には決め手となる証拠物を入手できなかった。正木が発見したのは、物証の「不在」そのものだったのである。
 『東作誌』では、古事帳の伝説からさらに伝説が成長した経過が認められる。
 たとえば、播州姫路で武蔵が三木之助を養子にしたことが、『東作誌』では、武蔵「三男」の三木之助は、実は新免宇右衛門の子だとする。つまり、武蔵の養子・三木之助は実は新免宗貫の孫という我田引水である。しかし事実は、三木之助は水野勝成家臣・中川志摩之助の三男で、それを武蔵が養子にしたのである。
 そのように、流伝してきた伝説の説話断片を組み合わせて、美作の武蔵伝説が形成されている。「高尾孫之進」「高尾求之助」といった他のケースも同様で、右の例のように、武蔵ファンの著者・正木輝雄が寄せ集めた、「どこかで聞いたような話」が『東作誌』の記事なのである。ただし、訛伝誤伝以上のものではない。
 もとより十九世紀前期の伝説記録である。もはやこの時期となっては、『東作誌』は武蔵史料としては遅いし新しすぎるのである。当時すでに十九世紀、武蔵は演劇や読本で、全国的な大衆的ヒーローになってしまっており、伝説口碑というより、もっと活発な武蔵物語が生産されていたのである。言い換えれば、昭和の日本で小説の吉川武蔵に世間が影響されるのと、あまり大して違わない状況が生まれていた。
 そういう一種の武蔵ブームのなかで、『東作誌』が書かれたということを念頭におく必要がある。『東作誌』は、宮本三木之助を新免一族に我田引水したが、もとより、その我田引水の最たるものは、宮本武蔵を美作産にしてしまったことである。





播磨関係地と作州宮本村




【宮本村古事帳写】
《武蔵牢人之節、家之道具、十手・三ツくさり・すやり、家之系図、姉孫与右衛門ニ渡し置候由、六拾年前ニ九郎兵衛代ニ焼失仕候》

【下庄村古事帳写】
《宮元武蔵九拾年已前、当国出行仕候。其時分、家之道具・系図・証文等、与右衛門ニ渡シ、其後、九郎兵衛請取、此者耕作勝手ニ而、宮本村ヨリ拾丁斗下へ罷出、農人仕居申候。六拾年已前ニ、火災ニ右道具焼失仕候》






姫路城

*【東作誌】
《考るに武藏の子三人あり。嫡伊織細川侯に仕へて千石を知と云、二男主馬小倉侯小笠原家に仕へ宰臣となり、三千石を知と云。三男三木之助、實は新免宇右衛門の子、姫路侯本多家七百石を知。[新免家系に詳なり]。
 武藏一弟子、高尾孫之進[二百石]、二弟子高尾求之助[島原の役に戰功あり在り、表遣ひ萬事器用なりしと云ふ]、古橋總左衛門[二百石細川家右筆。一二の弟子より劔術劣る。江戸にて死せり]
 武藏姉あり。衣笠九郎治と云ふものを平田無二養子として家を繼がす。委くは平尾系圖に見ゆ。武蔵子孫今にあり。現名甚右衛門。其家より分れて、立石村左平次、下町村與平治、皆宮本の子孫なりと云ふ》


宮本屋敷現状  岡山県美作市宮本

 『東作誌』の著者正木輝雄が発見したのは、物証の「不在」そのものだったと述べたが、美作説はそうした不在に先立つ喪失を穴埋めするかのように、実体を生産してきた。それが美作説の運動の特徴である。
 御当地には武蔵の生家なるものがある。地図にも記載がある。かようにも美作説は、なお強力なのであるが、墓地には武蔵の父母の墓――そして、いささかやり過ぎで馬脚の現れるところかもしれぬが――武蔵の墓の隣に、その父母墓が建つのである。
 この光景を見て人々は武蔵がこの地に生まれたと確信する。ところが、この墓たるや、武蔵の墓が小さすぎるとして、明治三十一年に新しく建立したものなのである。
 また当地には平田家系図というものがあって、武蔵の父を「平田武仁〔むに〕」とする。平田武仁は平田将監の子である。武蔵は武仁・於政夫婦の子である。こうなると、武蔵自身が名のる「新免」はおろか、「宮本」ですらないわけだ。
 しかしまた、この平田家系図によれば、武蔵の祖父・平田将監の死後二十五年経って、武蔵の父・平田武仁が生まれ、さらに武仁死後四年経って、武蔵が生まれたことになっている。このミステリアスな系譜を信憑しうるのは何ゆえなのか。
 我々が一般に系図というものに信をおかないのは、それが「現在」のためにたえず改竄される余地のある「生き物」であるばかりではなく、史学上の厳密なテクスト・クリティーク(史料批判)に耐えないという理由である。
 古事帳二文書がともに誌すように、系図・証文その他物証は「焼失して」当時すでに存在しないのである。物証は無いという、ある意味でのこの「証言」を、何者も否認することはできない。
 しかるに、この古事帳文書以後に事後的に作製された系図その他文書に依拠する言説が、今なお見受けられる。それは、ある意味で現実否認にもとづく倒錯行為であろう。なぜなら、彼らが根拠史料とする古事帳二文書こそが、物証無きことを明記しているからだ。
 また同様にして古事帳二文書は、構居に武仁(無仁)と武蔵の父子が住居していたという伝説を記録する反面、武仁(無仁)の墓があるとも、また武蔵の墓があるとも誌していない。つまり、この古事帳(写)作成の時点では、当地のどこにも未だ武仁(無仁)と武蔵の墓は存在しなかったのである。
 このことに現存遺跡を照らしてみるに、武蔵父子等の墓は、これより後世の建立であるのは、明白である。言うならば、それは明治四十四年建立の武蔵生誕之地碑と性格を同じくするモニュメントであり、伝説の実体化・物質化にほかならない。それゆえ、武蔵父子の墓碑をもって物証となしうるかといえば、それはどう見ても不可能であろう。
 今のところ、明治の武蔵生誕地碑をもって武蔵産地の証拠とみなす者は、まだどこにもいないだろう。昭和四十六年に創設された武蔵神社や、またそにある佐々木小次郎の墓をもって、佐々木小次郎が当地・作州宮本村で死んだとする者はいないだろう。しかしながら、江戸後期以来、伝説によって事後的に建立された武蔵父子のモニュメントをもって物証とするのは、それと同類の倒錯なのである。
 ようするに、美作説を支える文書・物証は、すべてこの古事帳二文書のもたらした伝説の実体化・物質化であり、またその派生物以上のものではない。

 以上、いくつか検証をして事態を洗い直してみたのだが、ここで、美作説に対する我々の見解を要約しよう。すなわち、
 (1) 武蔵産地美作説を実証する史学上確実な史料が存在しない。
 (2) 武蔵に関するオリジナルな遺跡・遺品は存在しない。
 (3) 武蔵(および養子・伊織)が、播磨生れを明確に記述している。

 これによって「美作出生説に根拠なし」が当面の結論となる。語呂合わせではないが、本来、「検証」すべきことを、たんに「顕彰」してしまうようなことは、あってはならないはずだ。
 この一帯には生誕地碑や略伝碑が建立されており、さらに、戦後になって武蔵道場・武蔵神社が創られ、武蔵の銅像・五輪坊・武蔵武道館など、武蔵名所と各種施設が「整備」されている。しかも、3セク鉄道・智頭急行には、なんと「宮本武蔵駅」まである。念の入ったことである。
 この土地の人々に、武蔵についてこれほど熱心にさせたのは、もとより「吉川武蔵」の人気であろうが、やはり見苦しいとする人もある。だがそれも、「吉川武蔵」のテーマパークとみれば愛嬌である。宮本武蔵は、いまや「観光資源」なのである。それはこの美作説ご当地に限ったことでもない。
 しかしそれでもやはり、武蔵自身(および子・伊織)の記した生国を播磨とする文言を打ち消すだけの確実な美作説新史料が発見されないかぎり、「美作」にいくら立派な施設を造っても、文字通り、砂上楼閣にすぎないであろう。
 もう一度、吉川英治の言を引用しておこう。

そういう正史面からの武蔵研究と、小説宮本武蔵とが、いつか一般の人の武蔵観に錯雑と混同してゆく惧れがある。これは大いに私の罪である。私はいつかそれを正しく区画整理しておく義務がある。そこで随筆武蔵は、もつぱら、その責任を果たすために書いたとしておけば、いちばん無難な理由にはなる。 (『随筆宮本武蔵』再版はしがき)

 とすれば、吉川英治はまだその区画整理する「義務」を果たさず逝ってしまったことになる。あとに残された美作説の主張者らは、どうすればいいのか。虚構に依拠するつもり(でない)なら、
 ――吉川英治の小説『宮本武蔵』でおなじみの…
とだけ、言い続けるほかあるまい。美作説の根拠は、史実にあるのではなく、実は吉川英治の小説なのだ、と。それなら事実であるからだ。
 しかし、それもこれも、地元の人々が考えるべきことであろう。偏狭な地域ナショナリズムには真実はない。
 もとより、武蔵自身を裏切るところに「宮本武蔵の真実」は存在しない。それは、吉川英治や司馬遼太郎といった「国民的作家」にも言えることなのである。


「宮本武蔵生家跡」を記載する地図


武蔵の「生家」 美作市宮本


武蔵と父母の墓 明治三十一年整備
左が武蔵、右が武仁と於政





武蔵の里 武蔵道場
当地のニ天一流は戦後の誘致



武蔵神社 美作市宮本
昭和四十六年創設の「神社」



智頭急行 宮本武蔵駅 美作市今岡
全国初の個人名の駅とか



武蔵武道館 美作市今岡
平成十二年竣工



武蔵の里 巌流島決闘演技
 美作説に関連して最後にもう一つ、明らかにしておきたい根本的問題がある。それは、武蔵の当時、そもそも、美作の吉野郡に「宮本村」なる村があったのか、という問いである。
 今日では「作州宮本村」という表現が世間に流布しているから、武蔵の当時、「宮本村」なる村が美作国に存在したのは、問うまでもなく、自明のことだと思われている。しかし、その自明は錯覚だったのである。その存否を確認した論説がこれまで出なかっただけである。
 わかりやすい話から入る。そもそも宮本という地名はいつ生れたのか。宮本という地名は一般に神社の傍の集落の名である。すると、その神社とは、現在「讃甘神社」と呼ばれ、往時は荒牧大明神といった神社である。その神社の傍にあるから「宮本」という。
 しかるに、この神社がこの地にいつできたか、はっきりした記録がない。十九世紀始め現地調査して記録した『東作誌』によれば、実はこの神社、近くの山にあったが、天正の頃に兵火に焼かれた。それをここへ遷移したとある。
 天正の頃の兵火というと、天正五〜八年あたりに合戦が連続するから、その頃であろう。それが落着いて、現在の地に神社を移設再建したらしい。となると、それ以後、ここに「宮本」という地名が生じたものと思われる。
 『東作誌』によれば、「宮本」武仁=「平田」武仁という等式だが、この人物は天正八年歿である。となると、彼が死去したという天正八年には、神社はまだここに移設されていなかったということになろう。神社がまだなかったとすれば、神社のそばを意味する「宮本」という地名は出来ない。古事帳のいう「宮本」武仁なる人物も出ようはずがない。さらに、「宮本」武仁の子・「宮本武蔵」などという者も出てくるはずがない。どちらも後世の付会である。

 この件に関してもう一つの資料は、前掲の古事帳である。宮本村古事帳写(白岩家文書)の記事によれば、もともと宮本村は、下庄村から分村して新しく設けた村である。それが三十二年前だという。この古事帳の日付は元禄二年(1689)三月となっているから、それを一応基準にすると、ここで云うところの三十二年以前とは、明暦年間になる。
 つまり、古事帳の記事によると、「宮本村」と呼ばれる村ができたのは、明暦年間、むろん武蔵死後のことである。言い換えれば、武蔵生存中には、そもそも美作に「宮本村」は存在しなかった。――これが結論である。
 しかし、我々の所見では、問題はそこに停留しないのである。ようするに、上記の古事帳は本当に元禄年間に書かれたのか、という根本的な問題が残るからである。
 それというのも、その元禄二年より八十年ほど後の明和年間(一七六〇年代末)の美作国絵図をみると、下庄村や中山村はあるが、宮本村はまだ記載がない。したがって、この明和年間の国絵図によって知れることは、少なくとも十八世紀後期までは、「宮本村」は存在しないということである。つまり、武蔵死後百年以上たっても、美作国には「宮本村」は存在しないのである。
 これに対し、『東作誌』(文化文政期)当時の美作国絵図(文政十二年再刻)になると、宮本村が登場している。これは再刻絵図だから、初版絵図はもう少し以前の制作であろう。おそらく、十八世紀末あたりに宮本村が新設されたのである。
 このことから導かれる問題は、下庄村と分村して「只今宮本村と申候」と記す宮本村古事帳の「元禄二年」という日付は信憑しうるか、という問題である。「只今宮本村と申候」と記しうるのは、十八世紀末の状況を反映しているとすれば、宮本村古事帳の現在=元禄二年は疑わしい。宮本村古事帳の記事は、元禄二年よりももっと新しい。およそ百年後の状況を反映しているとみなしうる。
 そうしてもう一つの問題は、武蔵死後百年以上たっても、美作国には「宮本村」は存在しない、という点である。すなわち、この点に関するかぎり、天正生れの武蔵が、作州吉野郡の「宮本村」なる村に生れることはありえない。まだ存在しない村には、武蔵といえども生れることはできないのである。
 これは、武蔵は「作州宮本村」に生れたとする美作説にとって、案外な難問であり、また同時に決定的な覆滅材料であろう。武蔵は「作州宮本村」に生れたとする美作説は、形式的操作によっても、謬説たることは明かである。
 言うまでもなく、武蔵の当時、美作国吉野郡に「宮本村」なる村が存在しなければ、「武蔵は作州宮本村に生れた」という言説は成立しない。この成立不能の言説を何びとも維持することはできない。それは架空のファンタジー、つまり小説の虚構世界以外の場所では、語りえない言説である。

 しかし、それにしても、戦後になって、小説家たちは考証能力を欠如するようになったらしく、妙な記述が発生するようになった。
 吉川英治の段階では、「現在、岡山県英田〔あいだ〕郡讃甘〔さぬも〕村大字宮本といふ所が、彼の生れた郷土である」(随筆宮本武蔵)と、現在地名表記で書いていたものが、戦後の作家になると、孫引きのうえ誤認して、その地名村名を間違うようになった。
 たとえば、司馬遼太郎の小説が述べるところ、そこには、
  《美作国吉野郡讃甘村宮本にうまれた》(真説宮本武蔵)
  《武蔵が生れたのは、美作国讃甘郷宮本村という在所である》(宮本武蔵)
とある。まったく、半可通のいい加減な記述で、思わず苦笑せざるをえない。
 ようするに、このうち、「美作国讃甘郷宮本村」なる村は、上述のように、武蔵の当時存在しないから、この言説は偽(false)である。
 またもう一つ、「美作国吉野郡讃甘村宮本」とあるが、吉野郡讃甘村というのは、明治二十二年(1889)に生まれた新設の村である。その市制町村制施行によって、六ヶ村(西町村・今岡村・宮本村・中山村・下庄村・小原田村)が統合され、「讃甘村」が誕生したのである。
 そのように明治になって生れた「讃甘村」に、天正生れの武蔵を出生させるわけにはいかない。明治に旧国制は廃されるから、「美作国」と「讃甘村」とは両立不可能な要素である。したがって、武蔵が「美作国吉野郡讃甘村宮本」に生れたという言説は、誤(error)である。
 これは現代の小説家たちに通有の謬説の例であるが、その偽(false)と誤(error)は明らかである。ようするに、武蔵の当時、「美作国讃甘郷宮本村」という村も、「美作国吉野郡讃甘村宮本」という地名も存在しないから、これは架空の村名・地名である。
 ここで古地図を見たのだから、蛇足ながら、一点付け加えるならば、鎌坂(釜坂)峠のことである。鎌坂峠は、宮本村と中山村の間にあって、美作と播磨の国境の峠だと書く者がいまだに多い。武蔵は故郷の宮本村を去るとき、国境の鎌坂峠を越えて、播磨へ向ったというわけである。鎌坂峠は、「国境の峠」としてシンボリックなステイタスを与えられてきた。
 しかるに、右掲各図を見れば明らかなように、中山村は播磨国の村ではなく、美作国吉野郡内の村である。したがって、宮本村と中山村の間の鎌坂峠が、美作と播磨の国境であるというのは、明白な謬説である。
 明治中期、讃甘村が誕生した当初、むろん中山村は宮本村と同じく吉野郡讃甘村に統合された。ところが、その後、岡山県と兵庫県の県境線引き変更がなされ、中山村が岡山県から兵庫県に編入された。これが錯覚の原因である。
 後世の者は、播磨は兵庫県、美作は岡山県という思い込みがあるから、宮本村と中山村の境界の鎌坂峠は、美作と播磨の国境であると勘違いしたのである。明治の地図には、県境に鎌坂峠の名はなく、松本峠となっている。よってこの点、とくに作家諸君に注意を喚起しておきたい。
 そうした初歩的な誤謬は論外だとしても、――繰り返せば――もとより、武蔵の当時、美作国吉野郡に「宮本村」が存在しない以上、
  「宮本武蔵は美作国吉野郡宮本村に生れた」
という言説は、そもそも成立しえないのである。国境の峠、鎌坂峠というのが、小説空間の内部でのみ存在しうる架空の峠であるのと同じく、武蔵は美作国吉野郡宮本村に生れたという言説も、それじたい根拠なき架空の言説である。
 ようするに、吉川英治の小説の力は強大なものであった。今日の武蔵小説や武蔵評伝の多くは、いまだに「吉川武蔵」のフレームを打破できないでいる。吉川英治曰く、《現在、岡山県英田郡讃甘村大字宮本といふ所が、彼の生れた郷土である》(『随筆宮本武蔵』)。しかし、吉川英治のこの託宣じみた定言は、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の言説の反復にすぎない。
 しかし、反復行為そのものが、言い伝えを史実に転化してしまうのである。そうして、吉川英治の小説『宮本武蔵』がベストセラーになり、ロングセラーになった過程を通じて、それこそ無数の誤謬反復が世間で行われた。その結果、顕彰会本『宮本武蔵』段階では根拠薄弱な仮説だったものが、「動かせない事実」に昇格してしまったのである。これが錯覚だということに気づかないかぎり、以下の我々の論説には相対できないであろう。





讃甘神社
岡山県美作市宮本


*【東作誌】
《當社は實近山にあり。天正年間兵火に焚れ、今の所に遷す。古は總社と稱して、大社なりしと云ふ》









*【宮本村古事帳写】
《宮本村之儀、右ハ下庄村と一村ニ而御座候。卅二年以前ニ下庄・宮本之間ダニ大川御座候、高水之時分御用等指支申候ニ付、御断申上ゲ、弐ヶ村ニ罷成、只今宮本村と申候》




岡山県立図書館蔵
宮本村はまだ存在しない
美作国絵図 明和年間(1760年代末)



岡山県立図書館蔵
宮本村が登場 (矢印)
美作国絵図 文政十二年(1829)再刻





岡山県立図書館蔵
讃甘村誕生以前
岡山県三国地図 明治十八年(1885)


岡山県立図書館蔵
讃甘村の誕生
岡山県市制町村制区域三国全図
明治二十二年(1889)


岡山県立図書館蔵
中山村は兵庫県へ編入
岡山県新地図 明治四十三年(1910)



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