武蔵の出身地はどこか
出生地論争に決着をつける

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武蔵の出生地論争  Back   Next 

 宮本武蔵は『五輪書』冒頭自序部分において、右記のように「生國播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信」と名のりをあげて記している。
 これは自身の名のりであって、疑いようもない言明なのだが、従来、宮本武蔵の「謎」の最たるものは、まさに彼の産地、出生地であるとされてきた。武蔵研究においてこの問題ほど多くの議論を呼んできたものはない。そして無数の素人説を誘発し繁殖させつづけるという点で、一種の「邪馬台国」論争なのである。
 むろん、「生國播磨の武士」とある以上、答えは自明なのだが、武蔵の出身地は「謎」であるという世間の通説・珍説につきあって、武蔵はどこで生れたのか――まさしく、この問題はまだ決着がついていない、としてみよう。我々の研究プロジェクトの目的のひとつは、最終的にこの問題に決着をつけることである。
 武蔵の出生地に関する説は多い。では、まずは、我々の研究プロジェクト以前に、武蔵の出生地に関して、いかなる説があったのか。それを整理したのが、以下の表である。
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也》(五輪書・地之巻)

美作説 1

出生地:
吉野郡宮本村
○出自:平田武仁正家の実子。母・新免氏於政(おまさ)
熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』(明治四十二年)以来、支配的となった「通説」。のちに、吉川英治の小説『宮本武蔵』の絶大なる人気のために信用を得て、現在も一般的に信じられている説。本来は津山藩士・正木輝雄による文化十二年(1815)の『東作誌』に収録された伝説。地元の平田家・平尾家の家譜・家伝により補強される。
【問題点】 「生国播磨」と記す武蔵の『五輪書』他の一次史料との整合性がない。そもそも十九世紀になって出てきた新説であり、現存物証は複製あるいは新造のもので、オリジナルな物証は何もない。
美作説 2

出生地:
吉野郡宮本村
○出自:平田武仁正家の実子。母・別所氏率子(よしこ)
播磨佐用郡平福の利~(りかん)城の城主別所林治(べっしょ・しげはる)に一女あり、田住家系譜に、田住政久の後妻は宮本武蔵の実母なりとする。彼女ははじめ平田武仁に嫁し、故あって離別、のち田住政久に再嫁、武蔵は、少年のころ実母を慕うて平福に来たり、田住家の客となるとする。この説では、武蔵は美作生れだが、武蔵にとって「事実上」生国は播州だったのであろうとの妥協案。
【問題点】 前説と同様に武蔵が記した「生国播磨」という記事との整合性を欠く。現存田住家家譜は明治の文書、史料的意義はない。武蔵生年の天正十二年、当の別所林治の娘はまだ幼女、武蔵を産める年齢ではない。
播磨説 1

出生地:
印南郡米田(米堕)村
○出自:田原甚右衛門家貞の二男。養父・新免無二之助一真
武蔵自身が「生國播磨」と記すところの播磨説。武蔵の出自を播磨国印南郡米田村の田原氏とする。武蔵は田原甚右衛門の二男であり、美作の平田無二=新免無二之助の養子になったとする。また、武蔵は甥の貞次(伊織)を養子にしたとする。伊織が泊神社(現・加古川市)に納めた棟札の記述、および九州小倉の宮本氏の系譜が根拠だという。近年、一部で有力視されるようになってきた説。
【問題点】 泊神社棟札には肝心の宮本武蔵の出自に関する記事はない。小倉宮本氏系譜は幕末近い頃の文書で、史料的価値は低い。田原甚右衛門は天正五年(1577)卒、武蔵が生まれる七年前に死去している。
播磨説 2

出生地:
揖東郡宮本村
○出自:宮本無二之助一真の実子
武蔵自身の「生国播磨」に適う播磨説の一つ。地元播磨の地誌『播磨鑑』(はりまかがみ)に、宮本武蔵は「揖東郡鵤の辺、宮本村之産也」とあるのが典拠。近代では、明治の剣客、直心影流十五世・山田次朗吉の『日本剣道史』(大正十四年)が、宮本武蔵遺蹟顕彰会本『宮本武蔵』を批判して、この説を唱えた。のちには近世書誌学の森銑三が、これを享けて戦時中、吉川英治の「武蔵」を批判してこの説を提唱した。
【問題点】 武蔵が宮本無二之助の子だという記事は『播磨鑑』にない。また、『播磨鑑』は地元播磨の文書であり、美作説が依拠する『東作誌』より成立は半世紀以上早い。武蔵死後百年の文書で、地元の口碑を記録した資料。
武蔵複数説

出生地:
新免武蔵は
  揖保郡石海村
(揖東郡宮本村に同じ)
岡本小四郎は
  佐用郡平福村
○出自:新免武蔵玄信は田原甚右衛門家貞の子。しかし、実は剣聖武蔵たる活動をしたのは「第二の武蔵」、岡本小四郎政名(岡本新右衛門義次の子・新免武蔵の従兄弟の孫)だとする。
 綿谷雪が提唱した説。一般に武蔵複数説の根拠は、有名な武蔵にあやかろうとする人物が当時輩出したらしいこと。「武蔵」を普通名詞とする説まである。実際に、宮本武蔵守義恒・宮本武蔵守義経・宮本武蔵守義貞、宮本武蔵守正勝、宮本武蔵守忠躬等々があるという。
【問題点】 諸史料を整合させようとすると矛盾が生じる。それで、武蔵を複数の人物とすれば一見辻褄が合うわけだが、依拠した史料に信憑性がなく、さしたる根拠はない。綿谷武蔵研究の仇花。

 いちおう、以上のような出生地の諸説が存在するが、では、武蔵は本当はどこで生れたのか。
 前に述べたように、武蔵本人が書いている。その武蔵自身の「説」によって最初の絞込みが可能である。すなわち、『五輪書』地之巻冒頭に、こうあった。
 
《生國播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六十》
 
 つまりは「生国播磨」である。とすれば、我々は武蔵の出生地は「播磨」だとする以外にはないのである。武蔵研究史における最大のミステリーは、このように『五輪書』に明記されているにも関わらず、吉川英治らのように武蔵を美作産とする異説の大量発生したことだ。まさしくこれ以上の不可思議はあるまいと思われるのである。
 この『五輪書』の記述部分に対して吉川英治は、次のような曲説を披瀝している。
 
《序文中、生国播磨の武士とあるのは、母方が播磨なので、云つたものか。祖先赤松氏の支流なることを云つたのか、どちらかであらう》(『随筆宮本武蔵』 五輪書と霊巌洞窟)
 
 これはどう見ても、無理やりの強弁である。「生国播磨」というのは、自分が生れた土地を言うのであり、母親の実家や、祖先の根拠地を言うわけがない。ただし吉川のこの説は、むろんオリジナルなものではなく、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』に書かれている考えである。
 もしこの「生国播磨」を認めてしまえば、自分の小説を書き換えなければならないから、こういう露骨な曲解に居直っているわけだ。しかも吉川は、『宮本武蔵』を書き始める前に一度も作州宮本村へ行ってはいない。顕彰会本『宮本武蔵』を専らたよりにして武蔵の少年青年期を書いてしまっていたが、今さら異説あるを知っても、どうにもなるまい。
 『五輪書』に「序文」などはない、「生国播磨」の記事は「地の巻」冒頭の文だということは、別にしても、吉川英治がろくにこの武蔵の著作を読んでいない、あるいは読む能力がない、ということは、かつて森銑三が断論したところではある。
 しかしながら、『宮本武蔵』は『五輪書』など読めなくても書ける種類の小説である。我々に関心があるのは、そうした武蔵自身の記述を裏切ってまで、自身の信じる説に固執する作家たちの信念の固陋が何処に由来するのか、である。
 武蔵自身が生れは播磨だと明記している。にもかかわらず、彼らはそれを否認する。彼らにそうさせるところのものは、いったい何なのか。それはあの否認――フロイト流に言えば――「私は母親にはペニスがないのは十分知っている、しかしそれでもやはり、母親にペニスがあるのを信じる」という否認(Verleugnung)と同じ構造の、知と信の亀裂ではないか。
 この否認、そしてこの不条理に固執させる情念、あるいは欲動こそ、あらゆるイデオロギーの母胎なのではないか。それを一種のイデオロギー批判から却下するよりも、厳密に、言わば実証的に、内在的な批判ができないか。まさにこの問いこそ、我々をして武蔵産地論争に介入せしめた当体なのである。



五輪書写本






旧国制 播磨・美作周辺





Sigmund Freud(1856〜1939)
 それゆえに、我々は今こそ武蔵の出生地について、どこまでわかっているのか、正確に検証しておかねばならない。
 いまここで、これまで武蔵産地についてどんなことが語られてきたか、それを年代順に一瞥しておくのも、無駄なことではない。いかなる説を提起しようと、現在までのところ、これ以外に典拠はないからだ。いつ、どの史料が、どんなことを記していたのか――整理すれば、以下のようなものである。(漢文原文は読下し文に、片仮名文は平仮名に、直してある)

【小倉碑文】(新免武蔵玄信二天居士碑)
         承応三年(1654) 宮本伊織貞次建碑
《播юヤ松末流、新免武蔵玄信二天居士碑》
《播чp産、赤松末葉、新免の後裔、武蔵玄信、二天と号す》
《父・新免、無二と号し、十手の家を爲す。武蔵、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、(中略)乃ち二刀を以て十手の理と為すも、其の徳違ふこと無し。故に、十手を改めて二刀の家と爲す》
(注)武蔵の養子・宮本伊織による武蔵十回忌の建碑。碑文は武蔵伝記の最初史料。伊織自身も「播чp産」の人

【五七階級之巻】 延宝二年(1674)序 三野偸閑著
《豊之前州小縣に於て産す。童名、弁と號す。父入道無二齋、寵遇愛嚴、保養缺ず》
(注)尾張円明流伝書。武蔵を九州豊前産とする珍例。この豊前「小縣」は不詳、小倉か、緒方か。ともかく五輪書の「生国播磨」を知らなかったらしい

【江海風帆草】 宝永元年(1704)序 吉田重昌・勝野清中・宮本重利編
《爰に又宮本武藏といふもの、父名筑前國宮本無二之助といふものゝ子にて、筑前の産なり》
(注)筑前の海路記。巌流島決闘伝説を記録する。武蔵を筑前産とするのは珍しい例だが、これは長門側の巌流島伝説による

【二天一流兵法書序鈔】 宝永四年(1707) 豊田又四郎正剛著
《先生は播州の劔客新免無二が子にして、わかゝりしより兵術を喜み、長ずるに及て、この道いよいよさかんに修行し、都鄙国々を經回し、是を以て生涯の業とせり》
(注)著者豊田正剛は肥後八代の長岡家臣で、武蔵伝記『武公伝』『二天記』著者の父・祖父。「播州の剣客新免無二」とする伝承が興味深い

【兵法備忘譜】 正徳元年(1711) 左右田易重著
《當流の二刀は無二工夫而遣出す。無二を西國無双と云。名字は新免と云。西國の新免と云人の末子也。小太刀は十手にて遺。備中の内宮の森邊に庵を作り住す。故に宮のもとに居を異名のやうに宮本無二と云来る》
《武藏は無二が一子也。故に新免武藏とも、亦宮本武藏とも云》
(注)尾張円明流伝書。新免無二を西国(九州)の人とするのは、前出『五七階級之巻』と同類伝説とみえるが、無二が備中国に住んだというのは新説

【本朝武芸小伝】 正徳四年(1714) 日夏繁高著
《宮本武藏政名は播州人、赤松庶流、新免氏也。父は新免無二斎と號し、十手刀術に達す》
(注)武芸者列伝としては近世最早期の書物。以後長く諸方に影響多大。文中「新免」に「にいみ」と振仮名するのは「新見」と勘違いしたものらしい

【宮本武蔵筆菅公図匣書】 享保三年(1718) 菅原國枝書
《畫人劔客新免玄信、姓藤原、氏宮本、小名辨助、假號武藏、播陽揖東宮本邑之産》
(注)大正期までは現存し展覧会にも出たが、現在所在不明の史料。いうところの「播陽揖東宮本邑」は『播磨鑑』に記す揖東郡宮本村。享保当時の証言資料

【播磨鑑稿本】 享保四年〜宝暦十二年(1719〜62)平野庸脩養甫編著
《宮本武蔵 揖東郡鵤の邊宮本村の産也。若年より兵術を好み、諸國を修行し、天下にかくれなく、則、武蔵流と云て、諸士に門人多し。然れども、諸侯に仕へず》
(注)著者は医師・数学者・天文学者でもある文理両道の人。いうまでもなく、武蔵産地を揖東郡宮本村と明記する播磨地元文献

【兵法大祖武州玄信公伝来】(丹治峯均筆記所収)
            享保十二年(1727) 立花専太夫峯均著
《新免武藏守玄信は播州之産、赤松の氏族。父は宮本無二と号す。邦君如水公の御弟黒田兵庫殿の与力也。無二、十手の妙術を得、其後二刀にうつし、門弟数多あり。(中略)武藏童名辨之助と云》
(注)最早期の武蔵単独伝記。著者は筑前二天流五代。南坊流の茶人・立花嚀拙で、実山の弟。筑前福岡の黒田家臣だったが、兄の失脚に連座して流罪、本書は帰島後の老年期の著作

【吉田家伝録】 享保十八年(1733) 吉田式部治年編著
《武蔵は播州に生れ、中比豊前小倉に下り、浪客となつて在留し、後、肥後熊本に行、細川越中守忠利の扶助を得て同所に歿》
(注)本書は筑前黒田家中の歴史を通覧せしめる史料、しかも自家先祖について播磨に新調査している。著者は福岡黒田家老職で、筑前二天流四代・吉田太郎右衛門実連の親戚

【兵法二天一流相傳記】 寛保二年(1742) 志方半兵衛之経著
《兵法二天一流元祖、新免武蔵藤原玄信先生は、生国播州の英産、宮本無二の男也》
(注)著者は肥後細川家臣。寺尾求馬助信行の孫で、熊本の学校時習館創立時の武蔵流師範の一人

【新免武蔵守玄信之碑】 延享元年(1744) 左右田邦正撰
《爰に有り、播州赤松末裔、新免武蔵守名玄信、号二天居士は、是れ斯の人也。二刀兵法円明一流、実に斯の人を以て元祖と爲す》
(注)尾張円明流の武蔵百年忌記念碑。邦正は、左右田武助邦俊の弟

【播陽万宝智恵袋】 宝暦十年(1760) 天川友親(喬木堂)編
《宮本武蔵政名者播州人、赤松庶流新免氏也》
(注)播磨鑑と同時代文献。ただし「新免」を正記する他は『本朝武藝小傳』に同じ。此文所収の第三十七巻「武名事実記」の喬木堂跋文は明和六年(1769)三月付

【円明実手流家譜并嗣系】 宝暦年間(一七五〇年代)?
《同宮本武蔵守藤原正勝。本氏栗原。字虎之助。正勝は無二之助の猶子也。生國は幡州、揖東の郡瀬の庄にて出生す。本姓は栗原。年僅十四の比より深く兵術を心懸、其十五歳の春古郷を出、坂東に下り、武者の難行を執行し》
(注)鉄人流系統の伝書。宮本無二之助一真の姉の子・栗原虎之助は、播州揖東郡生れ、のち宮本武蔵守正勝となる。武蔵をモデルにした伝説変異を示す珍例

【古老茶話】 明和年間(一七六〇年代)? 柏崎永以著
《宮本武蔵といふ二刀剣術の元祖は、播磨明石の産にして、大猷公の時分歟。小笠原右近大夫へまねきに依て江戸に下り、それより小笠原家の家来と成る。元文四年の比家老役つとめ候宮本八右衛門が四代の祖也》
(注)播磨明石の産、小笠原右近大夫の家来になるなど、伝聞口碑のニアミス例。武蔵四代目・宮本八右衛門とあるのは宮本主馬(実弼)の誤り

【武公伝】 十八世紀後期 橋津彦兵衛正脩著 豊田景英改訂増補
《玄信公、播州赤松の家族也。赤松は貴族なるが故に常には謙退して宮本と云ふ。蓋し兵書等には不避之。天正十二年甲申年暦二月播州に生る。少名は弁介と云。老年に及肥後に來て、泰勝寺春山和尚に參学して道號を二天道樂と云》
(注)肥後系武蔵伝記。著者は八代長岡家臣で、前掲豊田正剛の子。未完成の本書を遺して死去し、この記事にも子の景英による筆が入っている

【二天記】 安永五年(1776)宇野惟貞序 豊田専右衛門景英著
《新免武蔵藤原玄信、其先 村上天皇の皇子具平親王の後胤、播磨國佐用の城主赤松二郎判官則村入道圓心の末葉也。故有て外戚の氏姓宮本に改む。又兵書等には新免と書せり。天正十二年甲申年暦三月播州に生る》
(注)前掲武公伝後継の肥後系武蔵伝記。橋津正脩の子の景英が、武公伝の改訂を放棄して新たに書きおろした別書

【兵法先師伝記】 天明二年(1782) 丹羽五兵衛信英著
《兵法先師新免武藏守玄信は、播磨國の産にて赤松圓心裔孫なり。父を宮本無二之肋と云。無二之助は今筑前の太守黒田侯の中興の祖、勘解由次宦孝高公の臣なり。孝高公播姫路の城より豐前中津の城に移りたまふ時、無二之助も従て中津に來り、二百石を領す》
《先師、天正十二年播рノ生れらる。初名辨之助と号す》
(注)筑前系武蔵伝記。著者は上記立花峯均の孫弟子で二天流兵法7代、福岡黒田家臣だったが、四十代で故あって出奔。本書は後年越後で書かれた

【新免政名碑】 寛政五年(1793) 市川六郎左衛門長之等建之
《宮本武蔵政名は播州人、赤松末流新免氏也。父は新免無二斎と号し、十手刀術に達す。政名は二刀を以て十手に換ゆ》
(注)武蔵百四十九年忌にあたって尾張円明流末裔が建碑した。十八世紀後期になると円明流でも宮本武蔵「政名」とするようになったらしい

【筑前新免氏系譜】 十八世紀後期
《則種の家臣宮本無二之丞は、十文字の鎗術を胆練せり。於赤田ヵ城無二之丞一人にて敵七人に出合ひ、十文字の鎗を以勝利を得たり。依之則種より新免の氏を許すと云伝ふ。無二之丞男・新免伊織は、細川越中守忠興公に仕ふ。其子武蔵は劔術に名を得たり。是より武蔵流の劔術、世に伝来せり》
(注)筑前の新免氏末裔による系譜。遠方の九州へ流れた子孫のことゆえ、伝説変形が著しい。武蔵を伊織の子とする珍例

【宮本村古事帳写】 白岩家文書 時期不明(十八世紀後期か?)
《此村之内、宮本と申所ニ構之跡有り。いにしへ宮本武仁居と申者居申候。其子武蔵迄は右之構ニ居申候。是は天正より慶長迄之様に被存候》
(注)武蔵が宮本村に生れたとまではしないが、武蔵を美作に関係づける最初の伝説記録。日付は元禄二年三月だが、原本はなく写しであり、後世の仮託文書

【撃剣叢談】 寛政二年(1790) 三上左太夫元龍著
《武藏流ハ、宮本武藏守義恆[諸書に皆政名に作る。今古免状ニ依て改之]が流也。武藏守ハ、美作國吉野郡宮本村の産也。父ハ新免無二斎と号して十手の達人也。武藏守此術に鍛錬し…》
(注)本書は剣豪逸話集。著者は岡山の池田家臣。美作國吉野郡宮本村の産也とする美作説。播州龍野の円明流伝書を見たか、宮本武蔵守「義恆」を主張

【東作誌】 文化十二年(1815) 正木兵馬輝雄著
《宮本武蔵 姓源[或は藤原]、平田無二の子なり》
《輝雄按ずるに、武蔵が姓系、墓誌には赤松末流新免と見え、一本には平尾氏なる由を記し、又平田系圖を閲れば前に書る如し、孰か是なることを不知》
《輝雄云、平尾・衣笠・宮本・平田等、系譜混沌として甚だ分ち難しとす。猶可考合》
(注)美作東部六郡の地誌で、武蔵産地美作説の原典。著者は津山松平家臣で軍学師役。当時幕領や他領だった地域にも廻村して現地調査。武蔵伝説を採取したが、物証はなく、諸家系図は矛盾混沌という

【武蔵円明流口授書】 文政年間(1820年代)か 鱸武允時惟著
《夫當流之元祖ハ、村上源氏赤松之庶流、備中蘆森之城主岡本三郎義次、後新免無二齋ト号シ、十手之刀術を以家業とす。右無二齋之嫡子、初名岡本小四郎、後宮本武藏守政名と改め、始て二刀一流を発明す》
(注)因幡鳥取の武蔵円明流の兵法書。備中蘆森城主・岡本三郎義次が、城没落後、新免無二斎と号し播州加古郡泊八幡宮本村に住んだ、またその無二斎の嫡子・岡本小四郎が後に宮本武蔵守政名と改めたとする珍例。伝説変異が大きい

【新撰武術流祖録】 天保十四年(1843) 鋳ケ耀C他編
《播州の人にして、赤松の庶流新免氏也。父を新免無二斎と号す》
(注)江戸後期の代表的な武術諸流流祖事蹟集。「二刀政名流」とあって流名奇怪だが、記事は上掲『本朝武芸小伝』に拠る

【宮本氏歴代年譜】 弘化年間(1840年代) 宮本伊織貞章編
《玄信 田原甚右衛門家貞二男。新免無二之助一真の養子と為る。天正十壬午年の出生。号宮本武蔵。初め新免氏、后宮本氏に改む。劔術を以て名世に鳴る》
(注)宮本伊織の子孫・貞章の代に小倉宮本家の系譜系図を作成した。武蔵を伊織実家の田原氏一族に引っ張り込んだ十九世紀の新説。ただし、これを証する武蔵伊織当時のオリジナル史料はない

【美作略史】 明治十四年(1881) 矢吹弓斎正則著
《是歳(慶長五年)、吉野郡人宮本政名九州に往く。[武藝小傳。撃劍叢談。元禄期明細帳] 政名[撃劍叢談、義恒に作る]武蔵と稱す。宮本村[吉野郡]の人なり》
(注)本書は古代からの美作国通史。著者は明治元年に津山藩士となり、廃藩後、神社の禰宜をしたり郡書記などをつとめ、郷土史研究において多数著述あり。その武蔵美作出生説は息子の金一郎に継承された

【宮本武蔵伝】 明治四十二年(1909) 矢吹金一郎正己著
《宮本武蔵は美作國英田郡讃甘村大字宮本の人(舊吉野郡宮本村)。父太郎左衛門、同郡名族平尾氏より出て、同郡竹山城主新免伊賀守宗貫に屬し、城下に居り平田無二と稱す》
(注)矢吹金一郎は前掲矢吹弓斎の息子。津山町長を勤めるなど地元の名士にして郷土史家。前掲東作誌の刊行にあたり校訂の任にあたった。その武蔵美作出生説は、後掲宮本武蔵遺蹟顕彰会編『宮本武蔵』が依拠するところとなった

【宮本武蔵】 明治四十二年(1909)宮本武蔵遺蹟顕彰会編 池邊義象著
《武蔵はその生年月は明ならざれども、作州産なることは誰も疑を挿まざらむ。然るに武藝小傳、二天記等には、播州人と傳へ、旦つ小倉なる武蔵の碑文にも、播州英産とし、五輪書の序にも、生國播州ノ武士と記せり、碑文は、武蔵歿後九年に、義子伊織が建てしものにて、文は武蔵の親友肥後國泰勝寺春山和尚の筆に成り、五輪書は武蔵自筆の物今に存せり、或は疎漏ありともいひ、自筆の書に、自分の生國を誤るべくもあらず、蓋し二天記、武藝小傳等に、播州人と記せるも、その基く處はこゝにあるべし。然るに、この頃、播磨佐用郡平福村々長田住貞氏方傳來の系圖を得たるによれば、武蔵の母は、別所林治といひし人の女にして、初め美作の平田武仁に嫁して、武蔵を生み、後離別して播磨に歸り、田住政久に再嫁せり。(中略)無二齋の妻於政は、無二齋の後妻にして、武蔵の實母にあらず、又武蔵は幼にしてかく母に連られ來りしが故に、後に美作の父のもとに歸り、劍道など修業せしも、みづからは播磨の人と思ひ居りしにや、又祖先の系は、本播磨赤松の支族なるが故に播州の武士と記せるにや、猶よく考ふべし》
(注)宮本武蔵遺蹟顕彰会は肥後熊本の民間団体。ローカルな顕彰運動が意外にも、その武蔵伝は近代において最大の影響力をもった。その武蔵美作出生説は前掲矢吹の所説に依拠するが、爾後武蔵評論と小説の素材はほとんど本書から出る。むろん「吉川武蔵」の種本

【水南老人講話 宮本武蔵】 明治四十三〜四年(1910〜11) 楠正位著
《余が見た傳書には、無二齋は村上源氏赤松持貞の裔田原久光の子で、初め宮本無二之助と稱し後新免氏を繼で無二齋と稱した、住所は播磨國揖東郡宮本村で、三木の城主別所小三郎長治に屬して居たが、十手の名人で二刀流を始めた、別所家滅亡の後別所の浪人は多く黒田家に仕へた、無二齋の親族田原六之進、新免伊賀守、山崎茂兵衛等皆黒田家に仕へた、無二齋は黒田官兵衛孝高の弟兵庫助利高の所望に依り事あるときは利高に與力する事になつた、是より無二齋は黒田家に出入した、其重臣の舟曳刑部とは最懇意であつた事や野口佐助久野四郎兵衛抔多數の人が無二齋の教を受けた事が書てある》
《余が見た傳書には、作者の所謂宮本系圖と稍相似てしかも夫より確實と思われる者がある。八五郎の伊織は播州國印南郡米田村の郷士岡本甚兵衛の二男で、母の姓氏は書てないが、別所長治の家臣の娘で武藏の従妹に當る者である、三木落城の後娘の父が米田村に住したので甚兵衛に嫁した、武藏は甚兵衛の妻即八五郎の母との縁故はあり、甚兵衛もまた武藝を好むだので、度々甚兵衛を訪ふて其家に滞留した、其内八五郎が幼少より骨格が逞く才氣もあるのを見て特に寵愛した、八五郎も亦能く武藏に懐いた處から武藏は終に八五郎を所望して養子にした》
(注)著者は京都裁判所の検事・判事、退職後は大日本武徳会本部の活動を担った。この機関誌連載武蔵論は、前掲顕彰会本武蔵伝が参照していない伝書に注意を喚起し、美作説には批判的距離をおく

【日本劔道史】 大正十四年(1925) 山田次朗吉著
《武蔵の祖先は播州赤松氏の族で、新免伊賀守と謂て、揖東郡林田の城主であつた。武蔵の父は其苗裔で、宮本無二之助一眞と呼んだ。(遺跡顯彰會の宮本武蔵傳に由れば作州英田郡宮本村を出生の地とし、同地に存せる墓碑平田武仁少輔正家同人妻於政とあるを無二齋の墓と断じ、其歿年の天正八年四月廿八日とありて、武蔵出生の天正十二年と叶はざるを不審り、十八年の誤刻ならんと説き、旦つ武蔵が五輪の書に、自ら生國播摩の武士と書けるをも疑を存したれど確證とし難く、且つ此墓も果して無二齋なるや覺束なし、况して石碑の歿年誤刻など云に至ては殊更牽強に近き説也)いほ川の支流淵岸宮本村の人で、赤松圓心の曾孫別所長治に事へて、十手の術の妙手と稱せられた。別所は天正八年正月十七日信長の爲に亡され、家系茲に絶ちしかば、無二之助は浪人となつて諸國を徘徊した。(中略) 武蔵は天正十二年宮本村に出生し、幼名を辨之助といつた。父無二之助が浮浪中の生兒である》
(注)著者は明治の剣客榊原鍵吉の門弟で、直心影流十五世。本書は著者の代表作で剣術の近代的歴史研究の嚆矢。前掲顕彰会本の武蔵産地美作説に対する最大の批判者であり、明確に播磨説をとる









新免武蔵玄信二天居士碑
北九州市小倉北区 手向山





二天一流兵法書序鈔




本朝武藝小傳




地志播磨鑑
平野庸脩自筆題簽





兵法大祖武州玄信公伝来








円明実手流家譜并嗣系




武公伝



二天記



兵法先師伝記




宮本村古事帳 白岩家文書






岡山県立図書館蔵
東作誌 吉野郡







小倉宮本氏系図
玄信(武蔵)を家貞二男に配置






矢吹金一郎『宮本武蔵傳』



宮本武蔵遺跡顕彰会編
『宮本武蔵』









武徳會誌 第1号 明治43年1月
水南老人講話宮本武蔵連載開始












山田次朗吉『日本劔道史』覆刻版
 以上が、武蔵産地について述べた史料のほぼすべてである。採り上げるべきものは、現在までのところ、これ以外にはまず存在しない。
 このうち後世のものほど伝説変形による謬説が多い。そのそれぞれ個別の論評については、資料篇はじめ本サイト所載の諸論文の役目として、ここでは、以下の点だけは注意しておくべきであろう。
 すなわち、上記諸史料を一連概観するに、十八世紀までは、武蔵は播磨生れ、播州人というのが「通説」であったが、十八世紀後期から十九世紀にかけてこれに異説が発生、美作説が出てきたこと、言い換えれば、武蔵は美作生れとする説は江戸後期の新説であったこと、それが一つである。
 もう一つは、播磨説においても、従来の揖東郡宮本村説に加えて、十九世紀半ばに、小倉宮本家文書のように、武蔵を養子伊織の実家を出自とする異説が登場したことである。
 いづれにしても、十九世紀半ばには、すでに今日の産地論争の構図が完成したのであり、これを享けて、明治以後の論議となる。――以上が武蔵産地論争史の予備知識というものである。

 整理してみよう――武蔵の出生地に関して我々が検討すべきものとして、「美作」説と「播磨」説がある。
 「美作」〔みまさか〕という国名の地域は、だいたい現在の岡山県北東部であり、「播磨」〔はりま〕という国名の地域は、現在の兵庫県南部大半の西寄り部分になる。
 美作説の出生地は、吉野郡宮本村(現・岡山県美作市宮本)*である。播磨説の出生地は二つあって、印南郡米田村(米堕村、現・兵庫県高砂市米田町米田)、および、揖東〔いとう〕郡宮本村(現・兵庫県揖保郡太子町宮本)の二ヶ所である。
 したがって我々は、武蔵の出身地をつきとめ特定するにつき、以上の三ヶ所に絞って検証していこう。

*平成の町村合併で、地名の変更がある。平成十七年の町村合併で「美作市」という行政単位が生まれ、美作説の作州宮本村は現在はそこに属している。美作市は、英田郡の大原町、東粟倉村、美作町、作東町、英田町、及び勝田郡勝田町、以上の6町村により構成された新しい自治体である。本サイト諸論文は順次訂正して行くが、「英田郡大原町宮本」とあるのは、「美作市宮本」と読み替えていただく必要がある。










三つの武蔵出生地


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