『乱菊物語』は、昭和5年(1930)春、朝日新聞夕刊に連載された。この作品の直前には、『蓼食う虫』『卍』があり、またこの作品の直後には、『吉野葛』『盲目物語』『武州公秘話』がある。谷崎にはいくつか転換点があるが、この時期はそのひとつであろう。
この作品についてことさらに大衆小説だと言挙げもしたのは、いわば反文壇的な振舞いであった。しかし谷崎には大正期に探偵小説の試みもあるのだから、この大衆小説はそう縁遠い試みでもない。自由にのびのびと筆の行方を伸長してみようというところか。
谷崎は和辻哲郎と若い頃からの長い親交があり、播磨のことはよく聞いていたものらしい。この小説の女主人公は、花漆という室君の伝説から採ったもので、舞台は時代を変えて戦国期の室津である。小説中の小箱とか蚊帳とかの逸話は、谷崎の独創ではなく、『播磨鑑』の記事を題材にしたのである。ただし作家は素材を加工して独特な世界を構築するのであって、連載当時、「多少は歴史家に叱言をいはれても、首尾よく羽根を伸ばし切れることを望んでゐる」と書いていたのである。
年譜によれば、この作品執筆のために、谷崎は昭和5年2月に播州へ来て、室津から家島諸島を取材している。町は小五月祭の準備が始まっていて、夜になると謡や囃子の練習が聞こえていたはずである。そのとき滞在したという室津の宿は木村旅館といい、昔からの船宿のスタイルで、いまの漁協の近所にあったらしい。この旅館は場所は替わって、上の国道沿いに今でも営業している。
谷崎が室津に滞在したときの逸話はいくつかあるが、谷崎評伝のどれにも記録していない話を一つ。彼が室津に滞在していたとき、馴染みになった芸妓があった。彼女はもと大阪でカフエの女給をしていたが、4年の年季で当地へ来ていたのである。当時としては長身のスラリとした美人であったというから、これは谷崎好みのタイプである。
彼女はその後すぐに、当地を去り、縁があって夫となった人と一緒に満州大連に渡って、そこでキャバレーみたいな遊興場を開いた。それが大当たりで成功者となった。当時の大連は国際的な植民地都市、国内の町にはない雰囲気があった。山本五十六などが部下を連れて彼女の店によく来たという。しかし敗戦で引揚げ無一文になって帰国。ところがその後、彼女は室津にまい戻って来て戦後を過ごすのである。若いとき室津に居たのは、ほんの数年だが、よほど気に入った土地だったらしい。大きな家があったが、子供相手の小さなお好み焼き屋を開いて、この数奇な人生を歩んだ女性は、それを老後の愉しみとしていたという。
ともあれ、谷崎のこの『乱菊物語』は未完に終った。これが『盲目物語』『武州公秘話』の方へ収斂したとの見解もあるが、そうではあるまい。理由はたんにネタが不足したことにある。この作品は谷崎のもう一つの可能性、ことに追求されずに放置された方向、それを示すものである。そういう意味では、この未完成は惜しい。
ここに「資料」として、その一部を掲載したのは、戦国期の室津の雰囲気がよく出ているかと思うからである。とりわけ室津の小五月祭例のスペクタクルなシーン、室君の「かげろう御前」の姿が鮮明である。ここではこの作品中の「小五月」の一部を抽いてみた。『乱菊物語』は文庫本でもいまだに重版刊行されているので、関心ある人は改めて全編を通読されたい。
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三味線を弾く谷崎 昭和初期
*【播磨鑑】 揖西郡室津条
一 此室の津に昔花漆と云美女有。先祖何人とも不知。嘗て遊戯好色をわざとせり。元より所の長成けれは室君共云しと也。是日本傾城の権輿也と云傳ふ。室君のよめるとて、
花うるしぬる人もなき今宵哉
室ありとても頼まれはせす
又金葉集に
はな漆こやぬる人のなかりけり
あなはなくろの君かこゝろや
寔に室君は世にかくれなき遊女にて、かく歌にも讀れ末の世まても名を残されぬ。曾て此所に五ヶの精舎を建立せり。其來由を尋るに、昔唐船此津に舟かゝり時、唐人より室君へ四寸四方の箱の中に八畳つりの蚊帳を入ておくる。室君奇なりとして、即禁中へ捧奉りぬ。其御褒美として黄金千兩拝領し、其金子を以て菩提の爲、室津中に五ケ寺を草創有しと也。其後宮木、友君、大柄杓、小柄杓なと云遊女有し也。委クハ室記[尾の町記、遊郭之記]なと云ものに有之。
此所の遊郭を尾の町共云、又ハ斧町共書。此室君を普賢菩薩化現成共云、又ハ性空上人此津に來り玉ひ、普賢菩薩にあひ玉ひて、西天に飛去り玉ひしを、名残をおしみ玉ひて、乗玉へる白象の尾を引とめられしかは、其尾きれてとゝまる。此故に尾の町と名付侍ると也。其外説々多し。一ツも信用しかたし故に不載。

谷崎潤一郎『乱菊物語』挿絵
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