宮本武蔵 資料篇
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剣客・新免玄信、一手ごとに一刀を持ち、称して曰く、「二刀一流」。その撃つところ、また指すところ、縦横抑揚、屈伸曲直、心に得、手に応じ、撃てば則ち摧く、攻れば則ち敗る。謂ふべし、「一剣は二刀に勝たず」と。まことに是、妄にあらず、幻にあらず (林羅山・新免玄信像賛)
[資 料] 林羅山 新免玄信像賛 Go back to:  資料篇目次 



個人蔵
林羅山








国立国会図書館蔵
藤原惺窩








岡山県立美術館蔵
武蔵筆周茂叔図

岡山県立美術館蔵
同上 林羅山画賛
 林羅山(道春)が依頼をうけて、宮本武蔵の肖像画に賛を寄せた。武蔵と羅山とは同時代人というより、同世代の者同士、両者の興味深い接点を証言する史料である。
 この賛のついた新免玄信像の原本は現存していない。あるいは、戦後まで現存していた(名古屋の那須家蔵)という話もあるので、もしそうだとすれば、行方不明である。いづれにしても、今日の我々は、新免玄信像のオリジナルを見ることはできない。
 ところが、羅山死後の寛文二年(1662)に編纂された『林羅山文集』があって、そこに羅山による新免玄信像賛が収録されているのである。すなわち、羅山文集の卷四十六と卷四十七の2巻に、羅山があちこちから依頼されて作った賛が編輯されており、そのうち卷四十七の末尾に、この新免玄信像賛が収録されている。かくして、我々は、羅山による賛を確認することができるのである。
 ちなみに林羅山(1583〜1657)のことをいえば、これは周知の近世初期の儒家である。家康以来4代にわたって将軍の侍講を勤めた儒者で、江戸幕府の体制確立時のイデオローグであった。というようなことは、教科書ならだいたい書いていることである。
 羅山は京都の人で、生歿年からすると、武蔵とほぼ同世代である。幼少から学才を顕し、建仁寺で学ぶが、出家を拒んで家へ戻った。慶長九年(1604)二十二歳のとき、吉田(角倉)素庵の仲立ちで、藤原惺窩(1561〜1619)の門人になったが、すでにそのとき、抜群に学識のある青年であった。当時の新しい宋学文献はあらかた読んでいたようである。なかでも相当朱子学に入れこんでいたことは、朝鮮儒学の影響もあるが、当時新しい学風であった。藤原惺窩は、寺院文化から離脱して儒家の自立を図ろうとしていた先駆者であり、羅山は惺窩に呼応するところがあった。惺窩も若き羅山を別格として扱ったようである。ただ惺窩の朱陸いづれも捨てずの包摂的姿勢に対し、羅山は朱子への純粋化を志向した。そのラディカルな合理主義を鼓吹して、新世代の思想家たちの旗手となったのである。
 その「羅山」は惺窩が与えた儒者としての名である。これに対し、「道春」というのは法号で、これは幕府に仕官したおりのフォーマルな名号である。儒者といえど、この当時は剃髪して身も名も僧体である。廃仏を主張しつつ、身は僧体というところが、過渡期の開拓者の姿を象徴している。羅山がはじめて先聖及び十哲を先聖殿に釈菜できたのは、寛永十年(1633)、羅山五十一歳のときである。幕府に仕えて数十年、ここでようやく儒家としての振舞いができるようになったのである。外交文書は伝統的に仏僧の管掌するところであったが、ようやくこの時期、儒家としての羅山の仕事になった。
 つまりは、近世を通じて儒教思想が支配的であったと言われ、あるいはその元凶として林羅山の名が挙げられるのだが、それは若年期から数十年かかって羅山が切り開いた地平なのである。荻生徂徠をはじめ後学からは、羅山はネガティヴに扱われるのであるが、それも開拓者としての模索のプロセスに対して同情的ではないのである。後世の者には当然のことが、開拓段階ではいちいち試行錯誤を繰り返してようやく獲得できたことである。中世から近世への過渡期に、その両方を跨ぐ者の複合的な相貌は、それなくしては近世的なものの出現しようのない必然の様相であった。
 武蔵と羅山が同世代であることは、もっと注目されてよい。彼らの世代は、戦国期の中世末期を知っているし、親世代が受容した西洋の切支丹思想も、そして仏僧の思想的堕落も知っている。それらを否定したところに、近世朱子学の出立があった。今日の通俗的武蔵理解では、禅思想を拔きに武蔵を語れないほどになってしまったが、それはいわば近代の妄想と謂うべし。武蔵の思想を読むには、近世初期の思想史的背景を知る必要がある。
 ともあれ、羅山の新免玄信像賛は、武蔵と羅山の接点を示す史料である。羅山には道臣命以下の日本の武将の略伝を書いた「本朝武将小伝」があり、また彼ら三十人のための賛を作っているし、後述のように本多政勝の求めに応じて、源義経の賛も作っている。しかし、これは強調しておいてよいことだが、羅山が当代の「剣客」のために賛を作った例は、この新免玄信像賛以外にはないのである。だが、これだけでは両者の関係はわからない。
 そこで云えば、武蔵像ではなく、武蔵作の画に林羅山が賛を寄せた例があることを忘れてはなるまい。周茂叔図(岡山県立美術館蔵)がそれで、《聖人正統属濂翁/秋月明々胸宇中/雲路光風開不闔/舂陵門是廣寒宮》の四句偈があり、「後學林道春謹賛」とある。こちらは、画像が宋学の開祖とされるかの周茂叔(1017〜73)であり、それゆえに、武蔵像のために作った賛詞とはちがって、規格正しい詩文である。
 武蔵作画に賛を寄せたものとしては、他に「遊鴨図」の烏丸光広賛、「蓮池翡翠図」の文礼周郁賛などがある(ともに岡山県立美術館蔵)。また武蔵作画に烏丸光広(1579〜1638)のような人物が賛を寄せるとすれば、武蔵の人脈には京都の芸術文化ネットワークがあり、林羅山が武蔵像のために賛を書くのもその一環であり、ことさら異例のことではないのである。
 この点に関説して云えば、我々の所見では、実際には、林羅山と武蔵はすでに以前から知遇があった。それは慶長九年(1604)あたり、場所は京都である。つまり武蔵が二十一歳のとき上京して吉岡一門を破ったという経緯があるが、この二人が二十一、二歳のころで、この両人を結ぶ媒介者は、播州龍野所縁の藤原惺窩であろう、という見当である。武蔵は惺窩周辺の友社に出入りしているうちに、同世代の羅山と知り合ったものであろう。すぐ後にみるように、この羅山の新免玄信像賛はユーモアを交えた至極くだけたもので、旧知の間柄を示すであろう。
 要するに、この新免玄信像賛のケースは、たまたま依頼を受けて、よく知りもしない「剣客」の像ために酔狂で賛を書いたというのではない。両者の間には、いわば文化人としての通交が以前からあって、羅山は武蔵像に賛を寄せたのである。
 ところで、羅山賛のある新免玄信像というのはいかなるものであったか。上述のように、そのオリジナルが現存しない、あるいは行方不明なので、我々はそれを見ることはできない。しかし一方で、その模本なるものが後世多数作成されてきたという経緯がある。
 一般に武蔵肖像画というのは、下に二刀をもった武蔵の像を描き、上に賛詞を書くもので、右のようなものである。この羅山賛武蔵肖像画は人気が高く、後世模本が多く作成されたようである。それも武蔵流末ではなく、他流派の者や剣術に無縁な人々にも愛好されたのである。
 江戸後期の代表的な剣客の一人、平山行蔵(1759〜1828)は子龍と号し、著書多数ある学者でもあった人だが、彼も羅山賛武蔵肖像画を所蔵していたらしい。その武蔵肖像画は、「首は禿髪にて、左右の手に大小刀を携ふ。身は胴服を着て袴もなし、立て居る図なり。其上に林羅山の賛あり」という。とすれば、これも一連の流布摸本の一つであっただろう。
 それが実際に、武蔵流道統に属する門流末裔の中でどのように扱われてきたか、それを証言するのが、筑前二天流の丹羽信英が越後で書いた武蔵伝記『兵法先師伝記』(天明二年・1782)の記事である。
 これによれば、武蔵が江戸に居た時、羅山子道春と親しく交際した。ある時、武蔵が、出入の絵師に「我が像を描けよ」といって、二刀を拔いて立ち、姿を写させた。道春はこれを見て、直ちに賛を作ってその像に書いた、とある。丹羽信英はその讃を引用し、そうして云う。――その武蔵真像は、寺尾(孫之允)信正より柴任(三左衛門)美矩が受け伝え、代々に譲り継いで、自分が師匠の立花(弥兵衛)増寿から譲り受けて、今これを祭っている。自分の歿後、道統を伝える門人たちよ、日々拝し祭って、これを怠ってはならないと。
 こうしてみると、羅山賛武蔵像は、寺尾孫之允から柴任三左衛門経由で筑前に流れ、立花峯均→立花増寿→丹羽信英と受け継いで、いま丹羽信英の手元にあるということになる。
 しかし、羅山賛武蔵像原本を寺尾孫之允が譲り受けたというのも異な話で、後に述べるように話が違う。これは他と同じく模本であろう。しかし、柴任美矩が「これは寺尾孫之允から譲り受けたのだ」という武蔵像が筑前に伝えられた、ということはありうる。それが代々伝承されて、丹羽信英の手元に現在するというわけである。
 丹羽信英は、その武蔵像を祭って毎日礼拝しているという。それが、この羅山賛武蔵像の本来の用法であるようで、『兵法先師伝記』はそれを証言しているのである。

 さて、武蔵研究の方では、この羅山賛武蔵画像はどう語られてきたか。従来の武蔵解説本では、林羅山が武蔵の肖像のために賛を寄せたことは認識されているようである。しかし、それが『二天記』に書いてあるなんぞというタワ言を記す武蔵本もあるから、いまだに啓蒙の必要な段階であることは云うまでもない。
 では、一般に武蔵本が依拠する『二天記』に、この新免玄信像賛についていかなる記事があるか。それをここで確認しておきたい。
 『二天記』は、新免玄信像の制作逸話を記している。すなわち、石川左京という人が、武蔵に兵法の道を学んでいたのだが、武蔵と江戸で別れる時、武蔵の像を画いて、これを信仰した。その賛を林道春(羅山)に頼んで、それを書いた。羅山文集にそれが見える、云々とある。
 しかるに、この話は『二天記』に先行する肥後系武蔵伝記『武公伝』に出ている。つまり、話の初出は、むろん『武公伝』の記事の方であり、『二天記』はそれを継承したのである。
 その『武公伝』によれば、情報のポイントは、
   (1)武蔵門弟の旗本・石川左京が、武蔵の姿を写して、
   (2)その画賛を、林道春(羅山)に頼んだ。
   (3)この件について、板坂卜斎が仲介したそうだ。
という三点である。『武公伝』にはこう書いているのだが、では、作者はどこからこの情報を得たのか。――ただし、この設問をした武蔵研究はこれまでなかったし、またこの点について明らかにした武蔵論は、これまで出たことがない。それゆえ、ここでまずそれを明確にしておく必要がある。
博多 東林寺蔵
林羅山賛武蔵画像例


*【兵法先師伝記】
《先師、江戸ニ居ラレシ時、羅山子道春ト親ク交ワラレケル。或時、先師出入スル繪師ニ、「我像ヲ圖セヨ」トテ、二刀ヲ拔持立テ、形ヲ寫サセラル。道春先生是ヲ見テ、直ニ賛ヲシテ自其像ニ書ル。其賛如左。
旋風打連架打者、異僧之妄話也。袖裏青蛇飛而下者、方士之幻術也。劔客新免武藏玄信、毎一手持一刀、稱曰二刀一流。其所撃所又捔、縦横抑揚屈伸曲直、得于心應于手、撃則摧攻則敗。可謂一劔不勝二刀、誠是非妄非幻也。庶幾進可以學萬人敵也。若推而上之、則准陰長劔不失漢王左右手、以小譬大豈不然乎
        夕顔菴道春
右先師ノ眞像、柴任美矩、寺尾信正ヨリ受傳ラレシヲ、段々譲リテ、予則チ立花増壽師ヨリ譲リヲ受テ今是ヲ祭ル。予歿シテ後、道統ヲ傳タラン門人、謹テ日々ニ拜シ祭テ怠ル事有ベカラザル者也》


*【二天記】
《石川左京卜云人、武藏ニ因テ道ヲ學ブ。武藏江府ニ別ルヽ時、像ヲ畫シテ、是ヲ信仰ス。其讚ヲ林道春ニ請フテ書之。羅山文集ニ見エタリ。此ノ書ノ奥ニ出ス》


*【武公伝】
《武公門弟數輩ノ内、御旗本石川左京、武公ノ眞ヲ写シテ讃ヲ林道春ニ憑マル。板坂卜斉、价タルヨシ。其語詞、羅山文集ニ出。今コヽニ抄出ス》


個人蔵
林羅山賛武蔵画像例
 申すまでもないことだが、この『武公伝』の話の出所は、固有伝説ではない。誰かから聞いた口碑なのではなく、話の出所はまさに羅山文集なのである。
 すなわち、羅山文集(寛文二年版)所収の新免玄信像賛を見るに、そのタイトル「新免玄信像賛」の下に割注してあるのは、《石川左京某求之。板坂卜齋爲之价》という記事である。すなわち、石川左京某がこれを求めた、板坂卜斎がこの仲介をした、とある。
 そうなると、上記の『兵法先師伝記』の、この先師真像が寺尾孫之允から柴任美矩へ伝えられ、云々という記事はあやしい。これは石川左京某が羅山に賛を依頼したもので、当然この石川左京が所持して伝えたはずだから、それが寺尾孫之允経由で伝えられたというのは無理がある話である。なるほど、『兵法先師伝記』の話には、この石川左京は出てこないから、武蔵が自分でこれを所持していて、それを寺尾孫之允に与えた、とでも理解しているようなのである。
 ところで、肥後系伝記『武公伝』には、石川左京はむろん板坂卜斎のことまで書いている。となると、こちらの伝説は、羅山文集を見たところから生じたと知れるのである。
 しかるに、羅山文集には「石川左京某」とのみあったものが、『武公伝』では、その石川左京に「武蔵門弟」および「旗本」という属性が付与されている。また、羅山文集ではたんに、石川某が賛を求めた、とあるにすぎないのに、その石川左京が、武蔵の姿を写した、つまり武蔵像を描いたのは石川左京自身だという話になっている。つまり、石川左京がだれか画工に像を描かせたという制作状況ではない。もとよりこれは、武蔵流兵法末孫が祖師像を描くという後年の風習を反映したものである。総じていえば、『武公伝』の記事は、肥後における伝説の発生と増殖を示すものである。
 さらに説話論上興味深いのは、『二天記』ではさらに伝説が変異して、石川左京が「武蔵と江戸で別れるとき」、武蔵の像を描いたとあって、制作の具体的な場所と状況について物語るようになっている。そして、武蔵像を「信仰」したとあるのは、門人として師匠の像を礼拝したということであるから、その画像作成の用途まで想定している。他方、『武公伝』が記した「旗本」石川左京という属性は消えているし、また、『武公伝』が羅山文集によって記した、板坂卜斎がこの仲介をしたという経緯情報は抹消されている。その分だけ、根源の羅山文集から遠ざかって、伝説が一人歩きしはじめたということである。
 そこで興味深いのは、上記の筑前系武蔵伝記『兵法先師伝記』の記事である。これには、肥後系伝記のように、石川左京の名は出ない。つまり、原本か模本かは別にして、丹羽信英は羅山賛武蔵画像を所持していて、それによってのみ書いているのである。石川左京の名が出ないということは、羅山文集を見てはいないのである。したがって、肥後系伝記のように、石川左京について旗本だどうだのという伝説もない。
 その代りに、――武蔵が江戸に居た時、羅山(道春)と親しく交際した。ある時、武蔵が、出入の絵師に「我が像を写せよ」といって、二刀を拔き放って立ち、姿を写させた。道春はこれを見て、直ちに賛を作ってその像に書いた、――という伝説を語る。それゆえ、これは肥後系伝説とは別系統の、筑前の伝説であったとみなしうる。
 そこでは、先師武蔵画像の祭祀礼拝を語っている。それに対し、肥後系伝記では、自分たちがそのような祭祀礼拝をしているとは記さない。これが大きな相違である。
 肥後では筑前の伝説と違って、羅山文集を参照したことから、石川左京に関する説話を生じたのである。そして『武公伝』『二天記』という連続する系列の伝記において、上述のような説話の相違が生じている。これはすなわち、本来は羅山文集の注記に発した情報が伝説化したものだが、肥後における伝説がまだ定型に至らず、生成途上にあったことを示している。つまりは、
     羅山文集 → 武公伝 → 二天記
 この三つの資料における記事をそれぞれ見れば、伝説化進行のプロセスを確認しうるであろう。羅山文集のわずかな註記から、あれこれ伝説が沸き立ったのである。伝説生産がいかに行なわれるか、このプロセスにその顕著な事例を見出せる。
 しかるに今日、武蔵解説本などで語られているのは、『武公伝』と『二天記』の記事を混合したような話。つまり、江戸に武蔵門弟の旗本・石川左京がいて、武蔵が江戸を訪れたとき、武蔵の肖像を描いた。さらにその像に林羅山の賛を得て、これを日々礼拝した、云々というようなことである。これは現代における物語生成に他ならない。
 もう一つは、ここに名が出た「石川左京」を、播州龍野の円明流系譜や、三河武蔵流伝書にある「石川主税」とわけもなく混同したもの。つまり、武蔵の初期門流に、本多家家臣と思われる「石川主税」なる人物の名がある。それを見つけて、これを『二天記』の「石川左京」と同一視して、一連の説話生産に及ぶのだが、むろん何の根拠とてもないことである。ところが、『二天記』に先行する『武公伝』の「旗本」石川左京とあって、そうである以上、これは本多家家臣ではない。かくして収拾不可能な矛盾を曝すのだが、ようするに、これら論者が『二天記』しか知らなかったためである。
 そして言えば、羅山文集にその武蔵像賛が収録されているとまでは書いても、それが羅山文集のどこに入っているか、それを明記した武蔵解説本も見当たらないという始末である。ましてや、新免玄信像模本あるいは『二天記』引用の羅山賛と、羅山文集のそれとの詞文の異同のあるなし如何、というようなことさえも語られたことがなかった。我々が武蔵研究は未開の荒野に斉しいというのは、それやこれや、その種のことが多すぎるためである。
 こうした戦後の武蔵論の混乱と悪しき傾向に対しては、改めて伝説の根源に遡って、羅山文集を武蔵関連史料としてきちんと読んでおく必要があろう。それが、本稿の趣旨である。

 ここで参照するのは、寛文二年(1662)刊の林羅山文集。羅山一代の詩文全集にして、百五十巻六十冊からなる。編集は向陽軒林恕、すなわち羅山三男の林鵞峰(1618〜80)で、寛文元年孟秋朔旦の序文がある。その内訳は、文集が七十五巻に目録一冊、詩集は七十五巻に目録二冊・付録五巻、合計六十冊というものである。そのうち、羅山による新免玄信像賛は、文集卷四十七の末尾に収められてある。
 以下は、賛詞原文とその現代語訳に、武蔵研究からみた読解評註を加えて、閲覧者諸君の便利に供するものである。なお、原文は当然改行なしであるが、適宜段落を分けたことを断っておく。

 
 新免玄信像賛 (1)
    石川左京某求之。板坂卜齋爲之价 (2)

旋風打連架打者、異僧之妄語也。袖裏青蛇飛而下者、方士之幻術也。(3)
劔客新免玄信、毎一手持一刀、稱曰二刀一流。其所撃、所又捔、縱横抑揚、屈伸曲直、得于心、應于手、撃則摧、攻則敗。可謂、一劔不勝二刀。誠是非妄也、非幻也。(4)
庶幾進可以學萬人敵也。若推而上之、則淮陰長劔、不失漢王左右手。以小譬大、豈不然乎 (5)
  新免玄信像賛
     石川左京某がこれを求めた。板坂卜斎がこの仲介をした

 「旋風打、連架打」は、異僧〔普化〕の妄語である。袖裏の青蛇の飛んで下るは、方士〔呂洞賓〕の幻術である。
 剣客・新免玄信は、一手ごとに一刀を持ち、称して曰く「二刀一流」。その撃つところ、また捔(刺)すところ、縦横抑揚、屈伸曲直、心に得、手に応じ、撃てば則ち摧く、攻れば則ち敗る。謂うべし、「一剣は二刀に勝たず」と。まことにこれは(異僧のような)妄ではない、(方士のような)幻でもない。
 ねがわくば、さらに進んで、万人の敵(兵学)を学んでもらいたいものだ。もしこれをおし進めていえば、すなわち淮陰の長剣、漢王は左右の手(両将)を失わず、である。小をもって大に譬えれば、まさにそうではないか。

  【評 注】
 
 (1)新免玄信像賛
 宮本武蔵ではなく、ここでは新免玄信である。「宮本武蔵」は通称である。それに対し、「新免玄信」の方はフォーマルな名に近い。つまり、武蔵の兵法者としての正式な名のりは、「新免武蔵守藤原玄信」である。これは、新免無二の兵法の家を武蔵が嗣いだ時からの名称である。このケースでは、「藤原玄信」というのだから姓は藤原である。これは新免氏が、藤原北家の徳大寺実孝を始祖とすることによる。武蔵が新免無二の家を嗣いだとすれば、藤原姓となるわけである。
 新免「武蔵守」といえば、国守大名の官職名だから、武蔵がそんな名のりをするわけがないという、無知な見解もかつてあった。これは当時の職人慣行を知らないからである。刀工から大工、神職に至るまで、後々まで「○○守」を名のる習俗があった。兵法者も芸能者であって職人の一種であり、兵法者新免無二の家を嗣いだのだから、武蔵もこういう職名を名のったまでである。
 なお云えば、慶長期までは、地方武士に○○守を名のる例が多かった。新免氏本拠の作州では、当主の新免宗貫が伊賀守を称し、またその一門家老たちには、新免伊予守や新免備中守があるし、本位田氏は駿河守を称した。主人の新免宗貫が5千石ほどの家督だから、その家老となると数百石クラスの武家である。そういう連中でも、伊予守や備中守、あるいは駿河守を名のったわけだ。
 言い換えれば、地方武士や職人たち、これらによって全国規模では夥しい数の○○守が存在した時期があったのである。数が多いから、武蔵が武蔵守を名のったとしても、それは排他的な職名ではない。全国いたるところ武蔵守は多数いたのである。
 武蔵が晩年の『五輪書』記名にまで「新免武蔵守玄信」を名のっていたとすれば、武蔵はそういう旧式の時代慣行を、新時代になっても譲らなかった人である。武蔵の兵法者としてのフォーマルな名は、死ぬまで「新免武蔵守玄信」だったのである。
 羅山賛の「新免玄信」は、そのかぎりにおいて、兵法者としてのフォーマルな名に近いが、職名「武蔵守」を脱落せしめている。これは幕府権力確立過程で官職体系の一元化が進む中で、林羅山のような政治思想家からすれば、そういう民間慣行は誤れる弊風であり、「武蔵守」を入れるには遠慮があったと思える。ということは、
    新免武蔵守玄信 → 新免武蔵玄信 → 新免玄信
という縮約コースがそれだが、ただし、必ずしもそうではなく、たんに漢流に姓と字(あざな)の組合せで記したにすぎないであろう。しかもそうであるとすれば、「新免玄信」という表記には、羅山と武蔵の親しい関係が反映されていると言うべきである。フォーマルに「新免武蔵守玄信」と記すケースでもないのである。それは羅山賛の内容の調子を見てもわかる。
 そして羅山賛が「新免」玄信という名で呼んでいることに注目すべきである。武蔵は、十代で新免無二家を相続して、その後、播州姫路で三木之助を、明石で伊織をそれぞれ養子にして、宮本家を創設して宮本氏を名のるようになる。武蔵の出自にかかわる最初の氏姓は不明だが、順序からすれば、
    (氏姓不明) → 新免 → 宮本
というコースである。ただし、武蔵の産地が播磨国揖東郡だとすれば、いづれにしてもその出自は赤松末葉の武家であろう。
 武蔵は自身の代に宮本氏を名のるようになり、それが通称となるが、それは世俗の事柄で、兵法者としてはある種の出家修行者と同じ生活を送り、そのようにして新免氏を名のる者として生きたのである。武蔵のダブルネームには、世俗と脱俗者の二重性を維持した彼の生き方が現れている。羅山が呼応したのは、云うまでもなく、「新免」を名のる武蔵の方である。  Go Back





新免武蔵守藤原玄信





吉川英治記念館蔵
自筆記名 宮本武蔵
寛永15年有馬直純宛武蔵書状





 
 (2)石川左京某求之。板坂卜齋爲之价
 新免玄信像に賛を依頼してきたのは、石川左京某という者で、その仲介をしたのは、板坂卜斎であるということ。羅山文集が書き付けた註記の情報は、他の賛と同様に、その程度のものである。
 ところが、ここから発して、肥後において新免玄信像制作伝説というべきものが発生したこと、またそれによって今日でさえも、そうした説話が再生産されていること、それは上述の通りである。
 そこで、そこでこの註記にある二人の名、石川左京某と板坂卜斎とは何者か、それを述べてみよう。
 まず、この件の仲介役をした板坂卜斎は、周知の人物とまではいかないかもしれないが、それでも、まずまず歴史上有名な人物だから、さして困難はない。すなわち、板坂卜斎(1578〜1655)は、二代目卜斎、号如春。林羅山よりも5歳ばかり年長で、家康に仕えた。医師であるが、教養人として御伽衆の一人である。
 祖父は武田信玄の侍医・板坂宗徳。父の板坂卜斎宗高も信玄に仕えた。信玄の御伽衆の中に、小笠原慶安斎・山本大林・寺島甫庵・岡田賢桃斎・小俣清甫らの名とともに、板坂法印・板坂卜斎の名がみえるのは、板坂宗徳、宗高父子であろう。武田氏滅亡後、卜斎宗高は家康に仕えた。著書『板坂卜斎覚書』『慶長年中卜斎記』で知られる人である。
 息子の卜斎如春も、家康に侍医・御伽衆として仕えた。父の卜斎宗高を、息子の二代目卜斎如春と混同する例が歴史学者に見られる。誤りは匡すべきであろう。息子の卜斎如春の歴史に残る業績は、日本最初のオープンな図書館・浅草文庫を設立したことである。これは正保元年(1644)、武蔵の死の前年である。卜斎は浅草寺あたりに住んで医業もやっていたらしい。
 卜斎を葬ったという医王院も、林信篤撰文の卜斎碑があったという修善院も、今は市街地となって現存しないが、もとは東沿いの馬道を挟んで向う側にあった。
 羅山文集の註記には、板坂卜斎とのみあって、それが卜斎宗高か、2代目卜斎如春のいづれか不明である。だが、ここは世代からして、二代目卜斎如春の方であろう、としておくのである。
 さて、以上のように板坂卜斎という名の人物については杲らかであるが、さらにいま一人、羅山の賛を頼んだ「石川左京某」とある人物は不明である。「某」とあって諱の記載もないから、雲をつかむような話である。
 林羅山と親しかった人物に、京都の詩仙堂で有名な石川丈山(1583〜1672)がいる。その石川丈山の係累にこの「石川左京某」がいたのかもしれない。それが最もありそうなことである。
 ところが、肥後系武蔵伝記『武公伝』には、上記のように、それが「武公門弟」の「御旗本石川左京」という者だとある。つまり、『武公伝』の段階で、この石川左京某なる人物について、「武蔵門弟の旗本」という情報増補が生じていたのである。この差分が肥後における説話化要素である。
 『武公伝』のいう「武蔵門弟の旗本」とは、むろん、本来は羅山文集に《石川左京某求之》とのみあったのを、臆測によって増幅したものである。『武公伝』の伝説環境において、その臆測の展開プロセスはこうである。――武蔵肖像賛を頼んだくらいだから、この「石川左京某」は武蔵門弟だろうし、羅山は幕府に仕えた人だから、これは江戸での話だろう。旗本には石川家は複数あるから、羅山文集にある石川左京某は旗本の石川氏だろう、と。こういう臆説の筋道がまず出て、そしてさらにそれが伝説化したのである。かくして、肥後における伝説過程で、「石川左京某」は武蔵門弟の旗本だということになっていたようである。それが『武公伝』の段階。
 しかるに、後継『二天記』の段階になると、武蔵門人という属性は温存されたが、「旗本」という属性は消える。また、仲介役の板坂卜斎の話も削除されてしまう。その代りに、江戸という場所と、武蔵が江戸を立ち去るとき、という時の設定がある。こうしたことは、既述のごとく、肥後における伝説変異過程を示すのみである。
 実際に旗本で石川家は複数ある。しかし、どれも「石川左京」ではない。となると、「左京」名ではないものの、実際に旗本で石川家は複数あるから、それらの親族のうちにこの石川左京を名のった者があったと考えてもよい。
 ただし、それも『武公伝』のこの伝説の名に拘泥するかぎりにおいてである。他方、これを伝説とみれば、必ずしも「旗本・石川左京」という名を追いかける必然はない。旗本に石川左京なる該当者がみえないのだから、しからば、肥後系武蔵伝記の説話に構わず、別の方向を探らねばならない。この石川左京某とはいかなる人か。
 そこで、意外なところから連絡がつける者があって、たとえば綿谷雪などは昭和三十年代から、『二天記』の「石川左京」を、龍野円明流伝書にその名が見える、本多家家臣「石川主税」と同一視したのである。その余地があったというのも、『二天記』は『武公伝』と違って、「旗本」石川左京とは書いていないからである。
 武蔵門弟の石川主税が、後に本多家を致仕して江戸へ行ったという可能性もあるが、ところがこれは傍証するものがない。石川主税が本多家を致仕したという証拠はないのである。むしろ、大和郡山時代の本多家分限帳(内記政勝公御家中分限帳)によれば、千百石取りの石川主税の名がみえる。とすれば、石川主税を名のる子孫が、以後も本多家中に存続していたのである。したがって、龍野円明流伝書の石川主税を、肥後系武蔵伝記に現れた石川左京と混同すべきではあるまい。もともと石川左京を江戸住にしてしまったのは、肥後系伝記である。
 石川左京を、龍野円明流あるいは三河武蔵流伝書の石川主税と同一視するのは、ようするに杜撰な混同であって、何の根拠もないことであった。ところが、この綿谷説亜流が多く出て、今日でさえ、石川左京を石川主税と混同して論じる武蔵評伝が迹を絶たない始末である。これは武蔵研究のためにも矯正すべき傾向である。
 羅山文集が記録した「石川左京某」なる人物の探索については、すでに以前[サイト篇]龍野城下のページで明らかにされていたことがある。寛永八年(1631)本多忠政が没すると、二男政朝が本多家を相続して姫路城主となった。そのおり、本多甲斐守政朝が江戸から姫路の本多家重臣に送った書状があり、無事家督相続を認められたから安心してくれという内容である。その書状の宛先、本多家重臣らの顔ぶれの中に「石川左京殿」という名がある。このことからすると、本多家に仕えていた武家に「石川左京」を名のる人があったのである。
 以上の検討結果から、羅山文集に「石川左京某」とのみある記事の地点に復帰すれば、必ずしも「武蔵門弟で旗本」の石川左京という『武公伝』の記事に拘泥する必要はない。それよりも、むしろ、寛永8年の甲斐守(本多政朝)書状に名が見える、本多家重臣の「石川左京」の線が浮上するのである。
 同じ羅山文集に収録された賛の中に、《本多内記政勝求之》と註記のある源義経賛がある。羅山は、浅野因幡守長治の求めで日本武将賛も作ったらしい。日本百将を擇んで、羅山はそのうち、道臣命から豊臣秀吉まで三十人分を作っている。源義経賛はそれとは別のもので、本多政勝の求めに応じたものである。
 この本多政勝(1614〜1671)は、武蔵に縁の深い姫路城主・本多忠政の甥にあたる。寛永八年(1631)本多忠政歿して二男政朝が姫路城主を嗣ぐが、これも七年ばかりで寛永十五年(1638)死去、政朝の嫡子・政長が幼かったので、政朝の従兄弟である政勝が本多家の家督を相続して姫路城主になったのである。
 しかし当時本多政勝は二十五歳、この若輩では姫路城主はつとまらぬとされたか、翌年大和郡山に転封、交替に、大和郡山居城二十年のベテラン松平忠明(1583〜1644)が姫路城に入った。大和郡山へ移った本多政勝は、寛文十一年(1671)に江戸で死ぬが、それまで三十年以上の長期間、大和郡山城主であった。
 本多政勝は、本多忠政の甥であり、若いころ播州姫路で武蔵を直接見知っていた人である。それゆえ、本多政勝が羅山に義経賛を依頼したというあたりが興味深い。本多家関係者が羅山に賛を頼んだ例は、羅山文集には、この本多政勝と石川左京の2例ある、ということになるからである。
 かくして、羅山文集にある「石川左京某」が、どの世代の石川左京なのか不明であるが、本多家中の重臣に石川左京の名があることに改めて注意すべきである。従来の武蔵研究が気づかなかった人物だが、この本多家重臣の石川左京が、板坂卜斎を仲介役にして、羅山に画賛を頼んだという可能性もあることを、ここで強調しておきたい。
 つまり、冒頭述べた石川丈山の係累に石川左京なる人物がいたという可能性と、もう一つは、石川丈山の係累なら板坂卜斎を介するまでもなかろうとすれば、それとは別の人物、つまりこの本多家家臣の石川左京である。当面の可能性としては、この二人に限られるであろう。
 もうひとつ言えば、この羅山賛新免玄信画像の制作時期が不明である。羅山文集の卷四十六と卷四十七に、羅山があちこちに書いた賛をまとめて収録している。そこには賛を書いた年を明記しているケースもあるが、本多政勝が頼んだ上記の義経賛と同じく、新免玄信像賛にはその記載がない。
 したがって、羅山がこの像賛を書いた時期を、羅山文集からは直接知ることはできないのである。では、これはいつの時期と想定しうるか。原本が現存していれば、その肖像から武蔵の年齢の見当がつくが、残念ながらそれは行方不明である。
 しかるに後世作成された多くの模本では、たいていは武蔵老年の姿である。したがって、そこから原本の肖像も、老年期の武蔵であったろうと推測できるが、それとてもさして説得力がある見方ではない。後世の模本はハイブリッドに諸要素を複合してしまうからである。羅山賛と老年武蔵像を組み合わせれば、流布模本の体裁になるのである。いづれにしても我々が見知るのは、後世の模本にすぎない。
 となると、原本の肖像が武蔵老年期のものではなく、壮年期の像だったと考えられないこともない。このように羅山が賛を入れたのは壮年の武蔵像だったとすれば、我々はこのラインの結論として、かなり早い時期を想定している。つまり、武蔵壮年の元和年間、あるいは寛永前期だろうと。これは、武蔵が上方や播州にいた時期である。
 すでに述べたように、我々の所見では、実際には、林羅山と武蔵はすでに以前から知遇があった。とすれば、石川左京某が羅山に武蔵像賛を頼んだとして、羅山がそれを引き受けたのは、羅山が武蔵をよく知っていたからである。そしてこの一件の場所は、江戸ではなく、むしろ京都であろう。羅山の本拠は京都にあり、江戸と往還していた。彼が江戸へ移住するのは寛永11年(1633)と、かなり後である。
 しかし、『武公伝』に見られるような、「旗本」石川左京というような制作説話が発生したのは、羅山は幕府御用学者であるから、これは江戸での話だという後世の錯覚によるものである。江戸の話なら、石川某は旗本だろうという推測回路を経由して、この伝説は出来上がる。
 こういう臆測伝説が発生するというのも、後世になって林羅山賛武蔵肖像画の模写、コピーが多数出回っていたからである。その粉本武蔵像にまつわる伝説として、これが発生する理由があった。伝説というものは、こうした事物にまつわる由来潭として出現するものである。伝説とは、それじたいすでに解釈であり説明なのである。  Go Back









江戸切絵図 浅草寺


*【武江年表】
《名如春。浅草寺中医王院に葬す。林信篤撰す碑は修善院にあり。卜斎、浅草砂利場の辺に文庫を建て、和洋の書籍を収め、諸人に繙かしむ。これを浅草文庫と云》






*【武公伝】
《武公門弟數輩ノ内、御旗本石川左京、武公ノ眞ヲ写シテ讃ヲ林道春ニ憑マル。板坂卜斉、价タルヨシ。其語詞、羅山文集ニ出。今コヽニ抄出ス》










*【二天記】
《石川左京卜云人、武藏ニ因テ道ヲ學ブ。武藏江府ニ別ルヽ時、像ヲ畫シテ、是ヲ信仰ス。其讚ヲ林道春ニ請フテ書之。羅山文集ニ見エタリ。此ノ書ノ奥ニ出ス》








*【綿谷雪】
《これは宮本武蔵の古い門弟であった石川主税清宣が、紀念のため武蔵の画像を知人の画工に描かせ、それを幕府の儒官林羅山にたのんで賛を書き加えてもらったと『二天記』に出ているもので、そのときの羅山の文章は『羅山文集』におさめられて残っているが、(後略)》(考証武芸者列伝・昭和57年)

*【龍野円明流系譜】
○宮本武蔵玄信┐
┌――――――┘
├落合忠右衛門光経
├多田半三郎頼祐
├山田淤泥入
石川主税
├市川江左衛門
├寺尾孫之丞――寺尾求馬
└柴任道隨重矩┬吉田太郎右衛門
       ├立花専太夫
       ├川村弥兵衛
       └多田源左衛門祐久
        (多田円明流祖)

*【本多甲斐守書状】
一筆申達候。仍而昨十八日爲上使雅樂殿〔酒井忠世〕・大炊殿〔土井利勝〕・讃岐殿〔酒井忠勝〕・信濃殿〔永井尚政〕被下、美濃守樣〔本多忠政〕御跡式之儀無相違被仰付、能登殿〔忠義〕一万石、内記〔政勝〕に四万石御知行被下、御目見之儀者吉日次第可罷出旨上意に候。仕合無殘所候間、心安可被存候。謹言
 閏十月十九日    甲 斐[花押]
  林逕休老 中根平左衛門殿
  梶金平殿 松下河内殿
  都築惣左衛門殿 長坂太郎左衛門殿
  梶次郎兵衛殿 河合又五郎殿
  佐野治左衛門殿 佐野市郎右衛門殿
  長坂血槍殿 石川左京殿
  古澤五郎左衛門殿 服部彦左衛門殿


*【本多家略系図】

○本多忠勝┐
 ┌―――┘
 ├忠政┬忠刻
 |  |
 |  ├政朝―政長=忠国→
 |  |
 |  └忠義―忠平
 |
 └忠朝─政勝─政利



*【林羅山文集】
《源義經賛 [本多内記政勝求之]
丹青在手、煥風雲于南宮、甲冑省躬、奏軍旅於北關、自匪疾撃不意、爭有早立、大功曾陥鵯越、我馬玄、譬諸、ケ艾七百里、縋蜀嶮今渉鯨海、義旗白、方之、仲達不盈旬拔新城、野鹿既爲先容、陽侯亦相扶助、近藤寸舌勝浦協聞喜名、高松片煙屋島吹欝攸燼、到赤間關遂殲平氏、彷彿克R幼帝覆舟、參華洛内彌興源家、孰與楚國覇王衣、錦三尺秋水所向無前、一隻虹霓〔にじ〕忽發必中、其容則、曁曁詻詻、乃武而、赳赳桓桓、八陣好強、千歳永誉》(卷四十七)




熊本市立博物館蔵
老年武蔵像と偈詞の組合せ例
「運は天に有り、勝は人に有り」

 
 (3)旋風打連架打者…
 さて、ここから羅山賛の本文である。ここでまず、漢文の語詞を読み下してみれば、以下のような内容である。
「旋風打連架打」は、異僧の妄語なり。袖裏の青蛇の飛て下るは、方士(道士)の幻術なり。剣客・新免玄信、一手ごとに一刀を持ち、称して曰く、「二刀一流」。その撃つところ、また捔す(刺す)ところ、縦横抑揚、屈伸曲直、心に得、手に応じ、撃てば則ち摧く、攻れば則ち敗る。謂ふべし、「一剣は二刀に勝たず」と。まことに是、妄にあらず、幻にあらず。ねがはくば、進んで以て万人の敵を学ぶべし。もし推して之を上ずれば、則ち淮陰の長剣、漢王の左右の手を失せず。小を以て大に譬れば、豈に然ずや。
 むろん、これだけでこの賛詞を理解できる人は、現代日本では少なかろう。しかし従来の武蔵研究では、これを解説したものがない。それゆえ、要望もあるので、ここでその内容を解読してみよう。
 まず、「旋風打、連架打は、異僧の妄語なり。袖裏の青蛇の飛んで下るは、方士の幻術なり」とあるところは、当時特別なものではなく、禅学や文芸の一般的教養を背景にしている。「旋風打、連架打」や「袖裏青蛇」という語句を見て、それがどの故事の話か、すぐに分かるという仕掛けである。
 「旋風打、連架打」は『臨済録』の普化の逸話にでてくる。普化の禅的風狂奇行がいくつか記されているが、なかでも、普化が市中を鈴(鐸)を振り鳴らしながら歩き回っていたというあたりに、そのとき普化が唱えていたという四句偈が、
    明頭来明頭打  暗頭来暗頭打
    四方八面来旋風打  虚空来連架打
 したがって、羅山賛の「旋風打、連架打」は、『臨済録』のこの「四方八面来旋風打 虚空来連架打」を踏まえての導入である。「異僧」というのは、普化のことである。
 『臨済録』の話はこうだ。――普化はいつも市中で鈴を鳴らして唱えていた、「分かったやつが来れば賢者打ち。分からないやつが来れば阿呆打ち。四方八面から来れば旋風打ち、盲滅法で来れば連打して打つ」と。臨済は侍者をやって、普化に問わせた、「そのどれでもなく、やって来たらどうする?」。普化は侍者を突きとばして云った、「明日は大悲院で飯にありつけるんだ」と。侍者が帰って報告すると、臨済は云った、「おれは以前からあの男を疑っていたんだ」と。ようするに禅問答の応酬だから、へたな解説は無用である。
 しかし、羅山賛の最初になぜ普化が出てくるのかといえば、いわゆる「洞山供真」のシーンが伏線にあるのだろう。つまり、その「衆に示して云く、描不成、画不就、普化は便ち斤斗を翻し、龍牙は只半身を露はす。畢竟那んの人ぞ。是れ何の体段ぞ」が伏線にあってのことである。盤山順世に当たり、衆に告げて云く、「我が真を邀し得るや否や」。衆写すところの真をもってす、山肯ぜず、普化出でて、翻斤斗、という話である。羅山賛は武蔵肖像画のことだから、「描不成、画不就、普化は便ち斤斗を翻し」の、普化が出てくるというわけである。
 なお、日本では道元はじめ諸師提唱のある「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」の方が定着したようである。また普化は、尺八のいわゆる虚無僧の先師となったが、それは後世のことで、羅山の賛とは無関係である。
 次の「袖裏青蛇」は、これも有名な八仙の一、呂洞賓の詩による。すなわち、
    朝遊北越暮蒼梧  袖裏青蛇膽氣粗
    三醉岳陽人不識  朗吟飛過洞庭湖
 呂洞賓は、中国人社会では現在でも民衆の信仰篤い道教の神仙であり、神話的伝説の人物。とくに神仙ながら禅も学んだという伝説から、儒仏道三教一致の体現者ともされる。
 しかしながら、それだけでは、羅山賛の興趣は理解できない。なぜ、普化と呂洞賓なのか、それは「旋風打、連架打」における「打つ」と、「袖裏青蛇」を通約するある物、道具にかかわる。すなわち、それは刀剣である。
 青蛇が刀剣の隠喩であるとは見やすい道理だが、八仙がそれぞれシンボルを有するうち、この呂洞賓のシンボルはまさに宝剣である。伝説によれば、呂洞賓は師匠の火龍真人(あるいは鍾離權)が課したシャーマニスティックな数々の試練を克服し、遁天剣法を伝授された。神仙だから不死で、怪物(咬龍)を退治をして民衆を助ける。そこで、呂洞賓像には背中に剣を負う姿のものまである。
 ともあれ、ここで羅山は、普化の「旋風打、連架打」と「袖裏青蛇」の呂洞賓を出して、武蔵を語る道筋をつける一方で、それらは「異僧の妄語」であり「方士の幻術」だと断破する。異僧の禅仏教も、方士の神仙道教も却下する。
 ただし、このあたりのニュアンスは、リゴリスティックではなく、気分はユーモアである。羅山は羅山を演じているのである。朱子の徒・羅山らしく、三教一致を否定するわけであるが、ここは両方一度に斬り捨てる二刀流の振舞いを見せるのである。  Go Back















*【臨済録】
《因普化、常於街市搖鈴云、「明頭來、明頭打。暗頭來、暗頭打。四方八面來、旋風打。虚空來、連架打」。師令侍者去、纔見如是道、便把住云、「總不與麼來時如何」。普化托開云、「來日大悲院裏有齋」。侍者回、擧似師。師云、「我從來疑著這漢」》


金龍山一月寺旧蔵
普化禅師立像


*【正法眼蔵】
《知は、覚知にあらず、覚知は小量なり。了知の知にあらず、了知は造作なり。かるがゆえに知は不触事なり、不触事は知なり。遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず。その不触事といふは、明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なり。坐破孃生皮なり》(坐禅箴)


洛陽永楽宮
永楽宮純陽殿壁画 呂洞賓
 
 (4)劔客新免玄信、毎一手持一刀、稱曰二刀一流
 異僧の妄語と方士の幻術を二刀流で斬り捨てて、さて、「剣客新免玄信」の登場である。ここでは、「宮本武蔵」ではなく、「新免玄信」である。この点に注目すべきであることはすでに述べた。
 この「新免玄信」とあるのは、兵法者としての武蔵のフォーマルな名のり、「新免武蔵守藤原玄信」に対応する名である。しかし、ここは像賛であって、さして堅い文章ではないので、通称の「宮本武蔵」でもよいわけだが、羅山はそうしていない。ということは、これは「宮本武蔵」が世間の通称となる以前の作ではないかと思われる。すなわち、武蔵壮年の頃の像賛だろうという目星である。
 さて、ここは武蔵称揚の段である。すなわちこう叙述する。――剣客・新免玄信は、一手ごとに一刀を持ち、称して曰く「二刀一流」。その撃つところ、また刺すところ、縦横抑揚、屈伸曲直、心に得、手に応じ、撃てばすなわち摧く、攻めればすなわち打ち敗る。まさに謂うべし、「一剣は二刀に勝てない」と。まことにこれは、異僧の妄ではなく、方士の幻でもない…。
 これは羅山の念頭にあった武蔵のイメージである。それが二刀流のスタイルであること、そのことに注意したい。新免玄信といえば、二刀流。それが当時一般のイメージ、素人がイメージするところの武蔵像だったようである。
 武蔵の強さは語られる通りだが、自流を称して「二刀一流」、羅山はこれに呼応して、「一劔不勝二刀」(一剣は二刀に勝てない)というテーゼを記す。これはニヤリと笑いを生じるところで、羅山の賛詞のユーモアと言うべき様相である。
 武蔵が「二刀一流」を称したとのことだが、これに関連していえば、周知のごとく、五輪書地之卷の「此一流二刀と名くる事」にこうある。――二刀を主張するのは、武士は武将・士卒ともに、二刀を直に腰につける役だからだ。この二刀を、昔は太刀〔たち〕・刀〔かたな〕と云い、今は刀〔かたな〕・脇差〔わきざし〕と云う。武士たる者がこの両刀を持つことは、細かく書あらわすまでもない。我国において、そのわけを知る者も知らぬ者も、腰に二刀を帯びることが武士の道である。この刀二つの利点を知らしめるために、「二刀一流」というのである、云々。
 武蔵の二刀流解説は、武士が刀・脇差の二剣を帯びるのはどうしてなんだ、という考現学的注目からはじまる。それはダテで腰に差しているのではない。その両方を同時に使うためだ、というわけである。
 そうすると、それぞれ片手に一刀をもつから、二刀流というのはようするに片手流だということ。すなわち、一命を捨てる時、道具を残らず役に立てずに腰に納めたまま死ぬというのは、決して本意ではないはずだ。けれども、両手に物を持って、左右ともに自由に扱うのはむずかしい。だから、二刀を持たせて鍛錬させるのは、太刀を片手でも使いなれるようにするためである、と。話は明解である。
 鑓・長刀など大きな武器は、両手で持つのは当然だが、刀や脇差のという刀剣はもともと片手で持つ道具である。戦場では、左手に弓や鑓その他どんな道具を持っていても、すべて片手で太刀を使うものであるから、両手で太刀を構えることは本当のやり方ではない。一刀流は太刀本来の用法ではない、とするのである。
 それも臨機応変のことで、もし片手で太刀をもって打ち殺すのが難しいばあいは、両手で持って打ち留めるとよい。手間のかかる事でもないはずだという。ただし、戦場では片手で太刀を扱うのが本来の戦闘法である。二刀一流とは、片手で太刀を振り慣れるようにするために、二刀をもって太刀を片手で振るのを覚えるのである。
 人はだれでも、はじめて持った時は、太刀が重くて振り回すことができないけれども、それは太刀に限らず、何でも最初始めた時はそうだ。弓も引きにくいし、長刀も振りにくいものだ。しかしその武器に慣れると、楽に扱えるようになる。太刀も振り慣れると、道の力を得て、楽に振れるようになる。
 二刀一流では太刀の長さを定めない。他流のように、刀は長いほうがよい、短い小太刀がよいと、その長短にこだわることはしない。太刀は広い所で振り、脇差は狭い所で振る。状況に応じて使い分けるのである。ようするに、武蔵はスタイルにこだわらない。あくまでも実戦における効用が問題なのである。言い換えれば、スタイルにこだわらないから、結果として二刀流なのである。
 羅山賛の謂うところの、剣客・新免玄信、一手ごとに一刀を持ち、称して曰く「二刀一流」、というのは、そういうことなのである。この「二刀一流」という名は、五輪書段階の武蔵晩年のこととみなす向きもあるが、実際はそうではなく、武蔵若年のころからすでに用いていたものであろう。
 さらにいえば、武蔵が継承した新免無二の兵法の家には、二刀術がすでにあった。これは武蔵以後も「無二流」として諸所に行われていた。小倉碑文のように、無二の十手術を武蔵が改良して二刀術を独創したというのは、一種の武蔵伝説であって、本来は、新免無二の段階ですでに二刀術はあった。武蔵はその技術を洗練させたというのが実際のところである。したがって、「二刀一流」は、新免無二→新免玄信の初期から興行されていたのである。
 羅山の賛は、武蔵の二刀の芸術を述べて、「一劔不勝二刀」(一剣は二刀に勝てない)と措定し、そうしてさらに、「まことにこれは、(異僧の)妄ではなく、(方士の)幻でもない」と記している。つまり、ここで、冒頭の「旋風打、連架打」の普化や、「袖裏青蛇」の呂洞賓を再び想起せしめて、武蔵の剣術は驚異的なものだが、それは妄でもない、幻でもない、――言い換えれば、まさに真であり実であると、その芸術を称揚するのである。

 ここで蛇足ながら、従来の武蔵研究では指摘されたことがないので、ひとつ諸氏の注意を喚起しておきたいことがある。それは、寛文版羅山文集を参照すればわかることだが、多くの武蔵像羅山賛や『武公伝』等武蔵伝記が引用した賛詞には一つ異字がある。それは、
     羅山文集 「可謂、一劔不勝二刀」
     武公伝等 「所謂、一劔不勝二刀」
 つまり、「謂うべし」とあるところが、「謂うところ」もしくは「いわゆる」になってしまっている。これでは文意が弱いのである。
 武蔵画像のなかには、右のように、この部分を「可謂」とするものもあり、武蔵画像の羅山賛がすべて「所謂」とするわけではない。「所謂」とするものもあれば、羅山文集の通り「可謂」とするものもある、ということである。
 もし『武公伝』が羅山文集を参照したとすれば、これは単なる誤写であろう。しかし、後継『二天記』も同じ誤記を示しているので、おそらくは、彼らは羅山文集刊本を見たのではなく、刊本から書写した抄出文書が流通していて、それを写したのだが、それが間違っていたということであろう。
 しかしながら、必ずしもそうとばかりも思えない。というのも、この語詞引用は、羅山文集を直接参照したというよりも、武蔵肖像模本の羅山賛の方を見て書いた、ということかもしれない。
 羅山賛武蔵肖像は多数複製され流通していた。しかもその画賛を正しく記す例はほとんどない。右掲の「可謂」と記す事例も、「稱曰、二刀一流」とあるべきを、「稱曰、二刀流」と誤記している。ことほど左様に、武蔵画像の羅山賛はどこかに必ず誤記があるものである。
 『武公伝』のケースでは、「可謂」ではなく「所謂」と記す武蔵肖像模本を見て書いたのである。『武公伝』の作者はその模写複製物を見て、そこにあった羅山賛から引用したものらしい。とすれば、『武公伝』はこの賛詞を羅山文集から抄出したというが、実はそうではなく、世間に流通していた武蔵肖像模本の語詞によったらしい、と知れるのである。
 ところが、『武公伝』や『二天記』の羅山賛記事に言及してきた従来の武蔵研究では、この異同が気づかれたこともなかった。それがそのまま看過されて、今日に至っている。従来の武蔵研究がいかに杜撰なものであったか、という一例である。  Go Back





新免玄信提二刀像




*【五輪書】
《一 此一流二刀と名くる事  二刀と云出す處、武士は將卒ともに直に二刀を腰に付る役なり。昔は太刀・刀と云ひ、今は刀・脇差と云ふ。武士たるものゝ此兩刀を持つ事、こまかに書顯すに及ばず。我朝に於て、知るもしらぬも、腰に帯る事、武士の道なり。此二つの利を知らしめんために、二刀一流と云ふなり。鑓・長刀よりしては、外の物と云ひて武具の内なり。一流の道、初心の者に於て、太刀・刀兩手に持て道を志し習ふ事、實の所なり。一命を捨る時は、道具を殘さず役に立てず腰に納めて死する事、本意にあるべからず。然ども兩手に物を持つ事、左右ともに自由には叶ひがたし。太刀を片手にて取りならはせん爲なり。鑓長刀、大道具は是非に及ばず。刀脇差に於ては、いづれも片手にて持つ道具なり。太刀を兩手にて持ちてあしき事は、第一馬上にて惡し。沼、ふけ、石原、嶮しき道、人ごみに惡し。左に弓鑓を持ち、其外何れの道具を持ても、皆片手にて太刀を使ふものなれば、兩手にて太刀を構ふる事、實の道にあらず。若し片手にて打ころしがたき時は、兩手にても打留るべし。手間の入る事にても有るべからず。先づ片手にて太刀を振りならはせん爲に、二刀として、太刀を片手にて振り覺ゆる道なり。人毎に初て取る時は、太刀重くして振まはしがたきものなれども、其は太刀に限らず、萬初て取付る時は、弓も彎きがたし、長刀も振りがたし。何れも其道具々々に慣れては、弓も力つよくなり、太刀も振りつけぬれば、道の力を得て、ふりよくなるなり。太刀の道と云ふ事、早く振るにあらず。第二水の卷にて見るべし。太刀は廣き所にてふり、脇差はせばき所にてふること、先づ道の本意なり。此一流に於ては、長きにても勝ち、短きにてもかつに依て、太刀の寸を定めず、何れにても勝つ事を得る心、一流の道なり。太刀一つ持たるよりも、二つ持て善き所、多勢と一人して戰ふ時、又取籠り者などの時に、よきことあり。斯樣の儀、今委しく書顯すに及ばず、一を以て萬を知べし。兵法の道、行ひ得ては、一つも見へずと云ふ事なし。よくよく吟味あるべきなり》(地之卷)












博多 東林寺蔵
個人蔵
「可謂」とする事例
 
 (5)庶幾進可以學萬人敵也
 かくして、ねがわくば、さらに進んで万人の敵、大軍の合戦を学んでもらいたいものだと書く。これは武蔵に剣術から進んで軍学を学んでほしいとの意味ではない。この万人に敵するというのは、『五輪書』にも類似表現のあることで、武蔵が常々講話で述べていたことであろうが、羅山もそれを知っていて書いているふしがある。
 それはどういうことかというに、もしこれを推して上ずれば、――すなわち、ちょっと大げさになるが、淮陰の長剣、漢王の左右の手を失せず、と述べる。
 この「淮陰の長剣」「漢王の左右の手」とあるのは、『史記』にある有名な故事のことで、韓信に関する話である。
 「淮陰の長剣」というのは、淮陰の人・韓信がまだ若いとき、悪ガキどもにからかわれる。「お前は図体がデカくて、いつも刀剣を離さないが、本当は臆病なんだろ」。さらに衆人の中で侮辱して云う、「信よ、死ぬ気でおれを刺してみろ。死ぬ気になれないなら俺の股下をくぐれ」。韓信はこの者をじっと見つめて、そして這いつくばって股下を潜って身を伏せた。街中の人々は韓信を臆病者だと笑いものにした――という逸話。大望ある者はむやみに争わない、という教訓である。
 ここには《長大好帶刀劒》とあって、《好帶長大刀劒》ではないから、「淮陰の長剣」というのは当らないが、いつのまにか韓信は、長大な刀剣を帯びているということになったらしい。
 次に「漢王左右手」とあるのは、こういう話である――韓信は項羽の下を離脱して漢王劉邦の下へ走った。丞相蕭何は王の劉邦に韓信を推挙した。しかし劉邦に用いられず、逃亡した。韓信の逃亡を知った蕭何は、無断で韓信の後を追った。劉邦は蕭何が逃亡したと聞いて、大いに怒ったが、左右の手を失ったようであった。つまり、韓信と蕭何の二人を失ったというわけだ。
 ところが、数日して蕭何が帰ってきた。劉邦は「お前はなぜ逃げた」と聞く。蕭何は、逃げた男を追いかけていたと答える。「それは誰だ」と劉邦が訊くと、韓信だという。蕭何が云うに、韓信は国士無双(国家的人材)、他に得がたい人材である。王がいつまでも僻地の漢王で満足なら、韓信を用いる必要はない。しかし天下を取るつもりなら、韓信以外に用いるべき人材はいないと。そこで蕭何の意見を聞き入れた劉邦は、韓信を部将にしようと応じた。しかし、部将にしただけでは、韓信はまた逃げるだろう、と蕭何が云うので、とうとう劉邦は、韓信を大将にすることにした。
 『史記』の話はまだまだ続いて止めどがないが、ここは《上大怒、如失左右手》とあるところに注目である。蕭何が逃げたなら、片腕を失った、でよいのだが、ここは「如失左右手」であるから、蕭何のほかに韓信も失ったとの含みがある。しかし結果は、蕭何が戻り、劉邦はそのうえ国士無双の韓信を失わなかったということで、「不失左右手」である。
 これはくだけた調子の画賛のことだから、決してタイトに読む必要はない。この「左右手」は両手、武蔵の「二刀一流」のイメージ連鎖である。「二刀一流」といえば両手、「左右手」といえば、漢王の「如失左右手」である。そこで、韓信の「長剣」となって、一連の詩句が出来上がる。
 そうすると、羅山賛の《淮陰長劔、不失漢王左右手》の述べるところは、「一剣は二刀に勝てない」というテーゼに対応した話である。二刀を左右の手にもつ武蔵流を、漢王劉邦の左右手(韓信・蕭何の両将)に拡大してみせる。小をもって大を譬えれば、まさにそうではないか。――つまりは、羅山はこの讃で、兵法の両義、剣術と兵術、少分の兵法と大分の兵法をアナロジーによって横断する。
 羅山がこうしたことを書くのは、武蔵の兵法論、つまり少分の兵法と大分の兵法をアナロジカルに横断するその兵法論に、羅山が応じてみせたという格好である。またこれによって知れるのは、武蔵が『五輪書』で述べるような兵法論は、壮年期にすでに人々に知られていたということである。

 以上要約していえば、羅山はここでは一貫して、洒脱な詩人の振舞いをみせている。
 最初の「旋風打、連架打」における普化の風狂、「袖裏青蛇」における神仙呂洞賓の遁天剣法、それらの仏禅と神仙道教を二刀流で斬り捨てて、三教一致を否定する朱子学派儒家の鮮明な身ぶりを演じ、そして剣客新免玄信の驚異的な二刀一流、「一剣は二刀に勝たず」の理を述べ、さらに淮陰の長剣、漢王の左右の手を失せず、と話を拡張して、蕭何が国士無双として韓信を挙推した故事に倣うかのように、武蔵流を称揚する。
 そうして、これらはいづれにしても、ユーモアのある清遊の境位が、羅山と武蔵との間にあってのことである。  Go Back








白滝神社
韓信の股潜り


*【史記】
《淮陰屠中少年、有侮信者、曰。「若雖長大好帶刀劒、中情怯耳」。衆辱之曰、「信能死刺我。不能死出我袴下」。於是信孰視之、俛出袴下蒲伏。一市人皆笑信以爲怯》
《信度何等已數言上、上不我用。即亡。 何聞信亡、不及以聞、自追之。人有言上曰、「丞相何亡」。上大怒、如失左右手。居一二日、何來謁上。上且怒且喜、罵何曰、「若亡、何也」。何曰、「臣不敢亡也。臣追亡者」。上曰、「若所追者誰」。何曰、「韓信也」。上復罵曰、「諸將亡者以十數。公無所追。追信詐也」。何曰、「諸將易得耳。至如信者、國士無雙。王必欲長王漢中、無所事信。必欲爭天下、非信無所與計事者。顧王策安所決耳」。王曰、「吾亦欲東耳。安能鬱鬱久居此乎」。何曰、「王計必欲東、能用信。信即留。不能用、信終亡耳」。王曰、「吾爲公以爲將」。何曰、「雖爲將、信必不留」。王曰、「以爲大將」。何曰、「幸甚」》(淮陰侯列傳第三十二)


野村美術館蔵
与謝蕪村 草蘆三顧蕭何追韓信図屏風



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