日本武術神妙記

・・剣豪武術家逸話集・・
【玉 石】  弐
 目 次      Back     Next 

 京 八 流   鹿島七流   さ と り   無  心   武藝と人格 
 一流網羅   浮船と浦の波   二刀の仕方   念  流   一方流の勝負 
 新流の勝負太刀   水  車   拂ひ斬り   義 經 流   心 貫 流 
 武國の風俗   行  合   木刀と鞱   道具の起り   二矢を持たぬ事 
 間  合   許さぬ處   打ち抜き   無  刀 


 
    京 八 流

 兵法家鬼一法眼は堀川の人である、軍法弓馬劍術をことごとく人にヘへ、鞍馬の衆徒八人に傳へた、劍術に京の八流といふのはこの鞍馬八人の衆徒が傳へた流儀である、源義經も其八人の弟子のうちの一人であるといふ、天狗に劍術を授かつたといふのは固より嘘である、このことは貝原u軒の知約といふ抄本のうちにある。
(桂林漫録)

 
    鹿島七流

 關東の七流といふのは、鹿島の~官から出でたものである、凡そ劍術の流儀は京都八流、鹿島の七流より外は無いといふ、これも貝原u軒の「知約」の説。

 
    さ と り

 或る樵夫が深山に入つて、木を伐つてゐると、そこへ、さとりといふ眼が一つ角が一つの珍獣がやつて來たから樵夫は此奴珍しい奴がやつて來た、何とかして生捕つてやりたいものだな、と思つてゐると、そのさとりが、
 「その方は心中に我れを生捕りたく思つてゐるな。」
 といはれたので、樵夫はこれを聞いて大いに驚き、おかしな奴だと考へてゐると、さとりがまた云ふ。
 「その方は、おれがその方の心の中を悟つたことを不思議に思つてゐるな。」
 と、云ひ當てる、樵夫ますます驚いて、心の中で此奴この化け物め、この斧で一打ちに撃ち殺してくれようか、と思ふ途端、さとりに、
 「その方、その斧を以てこの我を殺したく思つてゐるな。」
 と云はれてしまつた、樵夫があゝあゝ斯う一々自分の思ふことを悟られてしまつてはとても仕方がない、もとのやうに一心に木を伐るに越したことはないと仕事にとりかゝると、さとりがまた云ふ。
 「その方、もはや致し方なき故に仕事にかゝつたな。」
 樵夫がもう相手にならず一心に木を伐つてゐると、その斧が自然に飛び拔けてさとりの頭を打ち碎き、さしもの珍獣も二言もなく死んで了つた。
 このことを劍術の譬によく應用する、心に物ある時は殘らずさとられて了ふが、無念無想の時ばかりは如何なるさとりも豫知することも豫防することも出來ない、劍の妙所もその邊にあるとたとへられてゐる。

 
    無  心

 或人が、猿を飼つて置いたが、竹刀を持つて突くと、飛び上つたり、くゞり入つたり又は竹刀の先をつかまへたりなどして、却々突くことが出來ない、或日また猿を突かうとして心構へしてゐる處に急用があつて召仕への女が來て、
 「もし。」
 といひかけられたので、
 「おい。」
 と返事をしながら突いた處が、何の苦もなく突けたといふことである。

 
    武藝と人格

 士ニハトカクニ武藝ニ精ヲ出サスベキナリ、ヒロク世ノ人ヲ見ルニ、武藝ヲ好ム人ハ人カラノアシキ人ハスクナシ、學者ハ大カタ人柄惡シキ、學問スル人ノ中ニ偏屈ナル人ハ迂遠ニナリ、才氣アル人ハ放蕩ニシテ、文人無行ト云ヤウニナル、軍法者ノ片クナナレドモ、人柄ハ學問シタル人ヨリハ大カタハヨキ也ト云へリ。
(文會雜記)

 
    一流網羅

 讃州高松でお流儀と稱するものは讃岐守頼重が武術を好み、居合、太刀、柔、取手、槍とも一緒に合せて一流に組合せて臣家の面々へ相傳せしめたものである。
(撃劍叢談)

 
    浮船と浦の波

 戸田流の「浮舟」といふ太刀は、太刀を中段にして敵の鼻先へ突き當てゝ行き、敵が打ち拂ふ色を見て、以て開いて打つ太刀である。
 「浦の波」といふのは太刀を下段に構へするすると敵に寄り、左の方へ見せて速かに右へかはり得る太刀である。
(撃劍叢談)

 
    二刀の仕方

 未來知新流の極意に飛龍劍といふのがある、これは刀を右の手にさし上げて持ち左の手で脇差をふり廻して敵に近づき、間を見て短劍を向ふの顔に打ちつけて直ちに長劍で斬つて勝つのである、この短劍を手裏劍に打つことは圓明流、一方流、寶山流等すべて二刀の極意この仕方を傳へてゐる。
(撃劍叢談)

 
    念  流

 念流には數多の流儀があるが、その本旨といふのは一念を以て勝つことを主とする、右の手を斬らるれば左の手で詰め、左右の手が無ければ噛り付いても一念を徹すといふ傳授である、その稽古する樣は上略中略下略といふて三段の構をもつて敵の太刀に打合せてひしとつけるのである、はじめつけたる太刀は甚だ強く修行がつむと太刀の先きに米一俵をかけ或は梯子をかけて人をのぼらせなどすることも出來る、又突くことも甚だ速かにして中り難いといふ、この流儀は江戸をはじめ諸國に廣く行はれ、上州では樋口の念流が名高い。
(撃劍叢談)

 
    一方流の勝負

 難波一方流は、太刀、杖、槍、長刀何れにもあるが、その勝負する有樣を亂曲、拂ひ斬と名づける、大太刀を下段に構へ、地にひらみて敵のから脛を拂ひ斬りにし、上より打つ時は引きざまに持つてかへして斬ることをする。
(撃劍叢談)

 
    新流の勝負太刀

 新流の勝負太刀にえんび身の金といふものがある、これは太刀をさげてすらすらと敵に寄つて一つ誘ひ太刀を打つて燕の通るやうに後へ引くのである、敵がつけ込んで打つ時に飛びたがへて身のかねをもつて打つのである、また、蜻蛉〔とんぼ〕がへりともいふ。
(撃劍叢談)

 
    水  車

 彌生流といふのは小太刀であるがこの流儀の勝負太刀、水車と名づけ、敵の構に不拘、小太刀を片手でくるりくるりと廻し近寄るのである、敵討つ時は外して討つことを專らに習はせる。
(撃劍叢談)

 
    拂ひ斬り

 卜傳が門人、松岡兵庫助は家康の師範になつて其の名が高い、その末流に大太刀を中段に構へ、敵に近づいてズンとひらみて向ふの臑を横なぐりにし、直ちに返して手首を切るわざがある、これを卜傳流の拂ひ斬り、なぐり斬りとも笠の下ともいふ。
(撃劍叢談)

 
    義 經 流

 義經流といふのは、何れの頃から行はれたかよく分らないが、この流儀の勝負する樣は右の手に太刀をかざし左の手を差出して敵を引き起し左の手を打たせて置いて代り打つのである。
 又、傳へには鞘に註Dでも手拭いでもかけて敵の面に打ちつけ、相手がそれを斬り拂ふところを代りて打つ、その勝負の有樣を見てゐると、牛若丸が鞍馬山で天狗共と仕合をする繪に左の手に陽の出た扇、右に太刀を持つた處を描いてゐるが、それから出たものかも知れぬ。
(撃劍叢談)

 
    心 貫 流

 心貫流といふのは又心拔流ともいふ、上泉伊勢守の門人、丸目藏人の弟子奥山左右衛門太夫といふ者のたてた流儀であるが、西國筋にこの流儀を傳へるものがまゝある、この流儀の稽古の仕方は甚だ珍しいもので、二派があるが一つは紙で張つたザルを擔いで敵に存分頭を叩かせて向ふの太刀の來る筋の遠近を見覺えさせるのである、この方は短いしなへをもつて進み出るばかりで業をしない、眼が明かになつて後勝負太刀を授けるのだといふ、今一派は、背に圓座を背負つて同じく短刀をさげて身をかゞめ、背中を打たせて進み寄るのである、勝負は手許に行つて勝つことを專らとする。
(撃劍叢談)

 
    武國の風俗

 本朝の儀は異國にかはり、如何程輕き百姓町人職人體の者たりとも、似合相應に錆脇差の一腰づゝは相嗜み罷在候、これ日本武國の風俗に候。
(大道寺友山「武道初心集」)

 
    行  合

 田宮流は居合であるが、この流の古傳に刀を拔かずして左の手は鯉口を持て右の手は脇差の柄にかけて敵へ詰め寄り、敵の太刀おろす頭を先に、刀の柄にて敵の手首を打ち、その拍子に脇差を拔いて勝つことを專らとする流儀がある、これを「行合」といふ。
(撃劍叢談)

 
    木刀と鞱

 柳生流盛時の頃は、劍術の稽古といへば、木劍を以て相對する故に、敲く、突くなどの危險は避けて、手にも當てず木太刀を叩き落すか、此方の木太刀にて敵の鍔元まで詰め寄つて勝負を分つたものだ、然るに本柳生流では稽古に一切木太刀を用ひず、鞱〔ふくろしなひ〕にて敲き合つた、其意は木太刀で敵の肩なり、小手なりを打つ眞似して擦りおくは眞劍の場合に役に立たぬ、云はゞ、劇の立廻りに等しい、これに反して橈〔しなへ〕打は眞劍の意味で、遠慮なく打つ、而も木太刀の振よきに比べて、橈はたはみて遣ひ惡い(現今の竹刀とその製異り)受けても先づ曲つて中る、常に此遣ひにくい物に手を慣せば眞劍の場合は甚だ自在だといふ理窟があるのである、この時代は主に小手を打つを趣旨とした、本流に二星の働き、或は二星の勝など、兩拳をさして言つたものである。
(日本劍道史)

 
    道具の起り

 今を去る凡そ百四十餘年江戸に長沼庄兵衛なる人あり、この人斯道の熱心家にして之を學ぶ上に於て素面素小手の頗る危險にして往々人を傷くることあるを患ひ、種々工夫して遂に一種の道具を工夫し出せり、今の面、籠手はこの長沼の工夫になるものにして、稽古道具としては便利なものである、然れども長沼氏工夫以前に既に面金は藤を以て製したる簡易なる道具ありたりとの一説あり、とにかく劍術道具の完全したるは明和年間のことなりと知らる。
(内藤高治述「劍道初歩」)

 
    二矢を持たぬ事

 或る人が、弓射ることを習ふに、二つの矢をたばさんで的に向ふとそれを見て師匠がいふ。
 「初心の人は二つの矢を持たぬがよろしい後の矢を頼んで、初めの矢になほざりの心がある、毎度、たゞこの一矢と定めて置けば得失がないものぢや。」
 この言葉は萬事に亙るおもしろいヘ訓である。
(眞佐喜のかつら)

 
    間  合

 宮本武藏が人と仕合をするを見るに、相手の打込む太刀先きや突出す太刀先が殆んど武藏の前頭部に中るか腰部を擦るかと思ふほどであつても一度も中つたことがない、隨つて武藏は身を開いて避けもせねば受留めることも拂ふこともせず、相手が立直る處へすかさず附込んで勝を取るか或は相手を惱ますので、門弟中の少し出來るもの等が不思議に思つて一日其譯を質問すると武藏はにつこり笑つて、
 「それはよい處へ氣がついた、其處が太刀先の見切と云つて仕合にも眞劍勝負にも最も大切なことである、平生よく修業して置かぬと大事の時に間に合はぬ、又五體の働きは自由自在にせねばならぬが大事の仕合等に相手の太刀先を避ける爲め餘り五體を動かすと其動く爲めに五體の備に透きが出來て相手に附込まれる故太刀先の見切に因つて無駄に五體を動かさぬやうにするのである、しかし初心の内は五體の働きを充分に修行せねばならぬが、あらまし出來たらば次には太刀先の見切を修行して大事の時には無駄に五體を動かさぬやうにせねばならぬ、そこでこの見切の仕方はいかにするかといへば、相手の太刀先と我身との間に一寸の間合を見切るのである、一寸の間合があると見切れば、相手が打ち下しても突て來ても決して我が身に中るものではない、又一寸以上の間合があると見切れば固よりどうするにも及ばず、若し一寸の間合を見切ることが出來ねばその太刀先は我身に中る故受けるとか脱するとか覺悟せねばならぬ、しかし最初より一寸の見切は出來難いであらうから、まづ五六寸位の見切を修業して四寸になり三寸になり追々縮めて終に一寸の見切の附くやうにするがよい、さて一寸の見切といへば隨分細かいに相違ないが、一體劍術は大きい仕事を細かにするが持前であるからその心持で修業すれば自然に其見切のつくやうになるものである、是からそれをヘへてやる。」
 とて門弟中、足の運びの出來る者をヘへる時には門弟の打つて來るか突いて來る太刀先を見ては、それは一寸それは二寸又は三寸四寸と聲を掛ける、自分より打つたり突いたりするに態と太刀先を控へてこれは一寸、これは二寸と聲をかける、斯くしてヘへたので門弟の中にも追々此の見切の附く者が出來たとのことである、武藏の門弟中に於て或る一派は此見切の事を色を見ると稱した、色とは有餘る意味で一寸の色を見れば二寸の間合があるといふ類である。
(劍術落葉集)

 
    許さぬ處

 劍術に許さぬ處が三つある、一つは向ふの起り頭、二つは向ふの受け留めたる處、三つは向ふの盡きたるところである。
 この三つは何れものがすべからず、その儘たゝみかけて打ち、突きを出さねばならぬ。
(劍術名人法)

 
    打ち拔き

 突きを入れた時は、いつも向ふの裏へ二三尺も突き貫く心持で突く、柔術稽古中人を投げるに疊の上に投げると思うてはとても人は投げられぬ、ねだを打ち拔き土の中へ三尺も投げ込む心持で投げること、一刀流の海保帆平曰く、「こちらから上段より向ふの面を打つ時は必ず向ふの肛門まで打ち割る心持で打つ。」
(劍術名人法)

 
    無  刀

 人の本體は無刀が第一である。
(常靜子劔法)



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