坐談・宮本武蔵
播磨武蔵研究会萬珍放談会

Home Page
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。 (五輪書・地之巻)
01 INTRO_DUCTION  Next 
Go Back to:  目次 
――この「坐談武蔵」は、宮本武蔵のことなら何でも、しかも言いたい放題語っていただこうというページです。武蔵をテーマに、いろいろなお話が期待できますが、まず何から始めますか。何でもよいのですが。
――武蔵についてはほとんど無尽蔵というほど話題が多いが、では、余計な哲学談義はさておいて、武蔵の顔の話から入ってみようか。何より最初に語るべきは、この男の顔なんだ(笑)。
――いまや、武蔵の「実像」がどうのこうのという本が多いが、そもそも、武蔵はどんな人物だったのかというより、どんな顔貌の人物としてイメージされてきたか、ということですな。
――武蔵を描いた肖像は、武蔵生前のものは現存しないが、後世に制作されたものなら、それこそ無数にある。いわゆる剣豪とされる人物に、これほどの数の絵が生産されたという例はないな。
C――武蔵は大衆文化の虚構空間の中でヒーローになってしまったからね。ただしそこでは、剣豪という側面は強調されていない。実父の仇を討った忠孝の士というわけだ。そこで、演劇や読本と平行して、英雄武蔵を描いた浮世絵・錦絵の類が数多くある。
A――豊国やら国芳やら、その他たくさん残っている。
B――そういうポップカルチャーの武蔵像に対して、かたや武蔵流の内部で祖師像が制作された。だから、武蔵流末孫がどういう武蔵像を伝承しておったか、それをみると、武蔵流末の武蔵イメージも知れる。
C――ところが、これがかなり面白い。面白いというのは、きわめて特異な祖師像を武蔵流では伝承したようだから。

個人蔵
忠孝名誉奇人伝 宮本武蔵
一勇斎国芳画

島田美術館蔵

島田美術館蔵
島田美術館蔵



熊本県立美術館蔵
熊本県立美術館蔵



個人蔵
個人蔵
B――そこで、まず挙げてみたいのは、この有名な武蔵像(島田美術館蔵)。作者不明だが、その昔、武蔵自画像だという説があった代物。いまだにそんな妄説を受け売りしておるやつもいる(笑)。けれど、とにかくまず、これだな。どうかね。
A――これは、やはり何かもの凄い顔だね。何度見ても、どう見ても、マッドなものを感じますがね。
C――人物像として面白い画だな。これは悟り澄ました顔じゃないね。とくにこの眼だな。人間の眼ではないし、動物の眼でもない。
B――これを、いやな眼つきだとして嫌悪する者さえある。が、そうではないね。人間でも動物でもない、何だね、この眼は。死神の不吉な眼か。
C――それに近いとは思うが、死の視線ではない。もっと生きたもの、そうだね、凶暴な殺人者の眼、暴力それじたいの眼差しだね。
A――その目つきは異相を強調しようとする意図が明白だが、どうしてこういう目つきの顔になったか、それが興味深いですな。
C――目つきが破滅的に変形されていて、凶暴さが抑制されずに露呈している。武蔵のイメージをラディカルにした絵だな。凶暴さやマッドなところが強調されている。老年の男だが、どこか途中で悟達したというより、一生過酷な闘いを持続してきた現役の戦闘者の顔だね。
B――酷薄で、ある意味でひどい顔だよな(笑)。人間でも動物でもないという話が出たが、これは殺人を繰り返してきた顔だ。同類を殺す動物は人間以外にもいるが、同類を殺す哲学をもった動物は人類だけだ。これはまさに「人間の顔をした暴力」だね(笑)。こんな顔をした奴が、いくら悟り澄ましたことを言ったとしても、誰も信じないよ、という顔だね。
A――この顔を見て、禅門というより、親鸞の悪人正機の逆説を想起するが。もちろん、このばあいの「悪」は、邪悪ということと、中世の、やたら強いという意味の「悪」、そして「悪党」の「悪」だろうね。善悪の彼岸としての悪ですな。
C――老年期で円満化するのではなく、かえって凄惨になっているところが興味深いね。この顔が『五輪書』を書いたんだ、というわけだ。
B――まったくね。だから『五輪書』は面白いのだ。しかしねえ、こんな爺さん、お近づきになりたかねえ、という相手だ(笑)。とてもまともじゃないよ、という感じだ。それだけに凄みがある。
C――強いとか、豪いとかじゃないね。凄惨だな。武蔵流末裔が、ある時期以後、こんな武蔵像を作りはじめたというのが、面白いところだ。
B――最も有名な武蔵画像だが、もちろん、これを武蔵の実像だと思ってもらっては、こまる。そんな錯覚をする奴が昔から多いが(笑)。
A――これは立像の方だが、次はやはり、熊本県立美術館蔵の坐像ですな。
C――こちらはさっきの絵より若い。かなり控えめだが(笑)、ディテールをとくと見れば、やはり眼が尋常ではない。
B――そうだね。こっちは調律され抑制された画法だが、かえって凄みがあると言えば、あるね。この切れ長の大きな眼には、凶暴なものがあってそれをきちんとレギュレート(統整)してあるという眼だな。
C――よくできた絵だ。この眼は一見、仏眼に似ている。しかし違うね。内奥に撓められている大きな応力を感じる。
B――その点では、もう一つ、あまり出てこない肖像がある。これは個人某氏蔵で、構図絵柄は、先ほどの県美所蔵のものとそっくりだが、より頑丈な風貌に描いている。どうだ(笑)。
A――これは初見だが、なるほど、なるほど。こちらはもっとリアル。顎の無精鬚まで書き込んでおる。島田美術館蔵のは、マッドな目に描いているが、こちらはまともに描いている(笑)。
C――目つきという点では、後世、とんでもないものが出てくるが(笑)、この段階では、武蔵の目つきはこういう思索的なものだという認識があった、ということだね。
――いつごろの作品でしょうね。
B――十八世紀には入っていないだろう。十七世紀後期と見ておく。つまり、武蔵の現物を見た人間がまだ生きていた頃だ。武蔵が二重まぶただというのを知っておる(笑)。
C――顔は一見したところ、馬面の公家顔のステロタイプだが(笑)、よく見ればそうでもない。アジア的な英雄型の大きな耳朶をもつ豪傑顔に描いて、目つきは知的。もっと言えば、その強力、暴力性が透明な昇華に至ったという顔だ。これが武蔵の顔だったということなら、それも腑に落ちる。
A――この武蔵肖像を参照すると、県美の画は少しハンサムにしてみましたというところ(笑)。
B――ホモセクシャルな色気があるね。そちらへイデアライズして崩した。二つ並べて見ると、この第三の画の方が原型のように思われる。県美のは、これを模写したようだ。
C――そうかもしれん。県美の画は、リアルからイマジナリーな方へ移りつつある。第三の武蔵肖像をみると、武蔵の目つき顔つきは、当初はこんなふうだったのじゃないか、と思わせるよ。
A――これが肥後で出たとすれば、矢野派かな?
C――しかし、肥後は武蔵晩年だ。それに対して、この画は、壮年期の武蔵を知っている者の画だ。作画は肥後時代よりかなり以前、だから肥後の画家が描いたものではない。
B――この肖像の描線をみると、現代の日本コミックの技法は江戸期にすでにあると知れる。とにかく、このイラストレーションは、肖像画史の中でもかなりいい線を行っている。
C――それに、体つきの方は、頑丈で豪傑形だな。この肉体、これはどうだ。圧倒的な肉体の現前を感じるが。
B――青年ではなく中年だが、筋肉質で、かなりよく鍛えられた肉体だ。首肩の筋肉は大きく発達して、しかもことのほか柔軟のようだ。剣術者は上体が発達するが、これは現代ではレスラーに似た肉体だね。柔道家でも剣道家でもない、レスラーの肉体だ。
A――身の丈五尺七八寸、顴骨高く、無髯、眼中黄色を帯びる。髪は総髪で壮年には帯を過ぎるほどの長髪で、老年に至つて肩の辺に垂れておったという話もあるが。
C――山田次朗吉(日本劔道史)だな、それは。肥後の二つの肖像を見ると、これは見てきたような嘘だ(笑)。武蔵の背丈はどれくらいだろう。
B――『丹治峯均筆記』などは、背丈は六尺(1.82m)あったというね。立像の方のプロポーションをみれば、たしかに六尺はあろうというものだ。いずれにしても当時の日本人としては巨躯だ。
A――『太平記』の登場人物のように七尺の肉体とまではいかないが、六尺はあった。だとすれば、これは当時としては、かなり巨大な肉体だ。そういうことですな。
C――そう。秀吉の朝鮮侵略、壬申倭乱ののとき、先方の眼には日本人の身長は低いと映ったらしい。東アジアでは背は低い方だった。とすれば、武蔵の身長六尺は当時の日本人としては巨大なものだろう。
B――今でいえば、身長二mちかい巨躯に相当するな。この巨大な肉体が鍛錬されて、猛烈な速度の運動能力を獲得したとすれば、剣や棒などもっていなくても、これはかなわん(笑)。
島田美術館蔵 熊本県立美術館蔵 個人蔵
B――顔の話にもどるが、この三つを並べてみると、よくわかることがある。今日世間で一番知られているのは、左の島田美術館蔵の肖像だが、真中の県立美術館のも近年よく見かける。右のはあまり出ないから知られていないが、これが原型に近いだろう。目つきの描法をみれば、たしかに、右から左へと、事態は進行したとみえる。
C――それに、右の第三の画の顔は、大陸的で、巨躯もつ顔貌だ。巨体を顔でよく表現しているな。それも、右から左へ次第に崩れる。英雄型の大きな耳朶は退化して、代りに目つきが突然異様になる。
A――しかし、左のは目つきだけではなく、髯が多いし顔もスリムになっておって、何か、突然変異ですぞ(笑)。
C――たしかに、ここで武蔵肖像は変った。このデフォルメ(変形)は何だ、ということだよ。何が起こったんだ。ここまで異相にするのは、わけがあるだろう。かりにこれが、新しく生じた武蔵のイメージだったとすると、それはそれなりに面白い。
B――異相じゃないと武蔵ではない、ということになってしまったんだ。武蔵は異相だったという説が新興して、それならどこまで異相なんだ、これくらいか、いやもっとデストラクティヴだと(笑)。
A――そうなると、武蔵異相の究極のイメージは、凶暴な殺人者、しかし冷酷で冷血な殺人者の面貌ということですわな。
B――凄惨な武蔵イメージなんだ。むろん誇張があって、劇画調ではあるが(笑)。
C――こういう劇画化は、これは武蔵のイメージが変ったとき生じた。リアリズムから離脱して、イマジナリーなこんな凄惨な武蔵像への逸脱だった。とくに目つきがマッドに脱線しておる(笑)。
A――これで、一流末孫どもの武蔵イメージがわかる(笑)。
C――武蔵の異相化は、この目を剥いた武蔵像のラインで、漫画みたいな祖師像が多数生産された。どれも、ほとんど言語に絶する画だ(笑)。
島田美術館蔵 島田美術館蔵 牧堂文庫蔵 個人蔵
島田美術館蔵 熊本県立美術館蔵 牧堂文庫蔵 個人蔵
C――おそらく、それらの武蔵肖像は、武蔵流兵法末孫の周辺で、相伝にからんで制作されたものだろう。武蔵の肖像はこう画けというマニュアルみたいなイラストもあったな。
A――眼を異様に強調するのが特徴だけど、やたらめったら、眼を剥いておる(笑)。
B――まったく、『五輪書』の「観」と「見」、二つの目つけどころか、「うらやかに見ゆる顔」とはまったく正反対だぜ。
A――この種の武蔵像は素人の作画で、しかし、下手というより、祖師像として見れば、かなりひどい(笑)。
C――祖師崇拝からすると、理想化された図像容姿になるはずが、どうも、それとは逆だね。ある意味で、ムチャクチャな顔だ。
B――これを、柳生流の先師像と比較してみれば、おもしろい。柳生流の但馬守宗矩、兵庫助利厳、連也斎厳包の肖像があるが、むろんこれはどれも後世の作画だが、共通しておるのは、おっとりした顔つきだな。



*【五輪書】
觀見の二つあり。觀の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の專なり》(水之巻)
《身のなり、顔は俯むかず、仰がず、傾かず、ひずまず、目を見出さず、額に皺をよせず、眉間に皺をよせず、目の玉の動かざるやうにして、瞬きをせず、目を少しすくめるやうにして、うらやかに見ゆる顔、鼻すじ直にして、少し頤を出す心なり》(火之巻)
芳徳寺蔵
柳生宗矩像
個人蔵
柳生利厳像
個人蔵
柳生厳包像
C――柳生流の肖像群は、どういうわけか、コロコロとした体格で、いわば童形に描く。そういう描画の伝統があったのだろう。それにしても、この柳生のおっとりした顔貌と比較するとよくわかるが、武蔵流祖師像は、それらとはまったく対照的な面相だな。かなり特異だ(笑)。
B――特異すぎる(笑)。だから、そこが興味の沸くところだな。
A――何ゆえに、武蔵流末の祖師像は、こんなにひどい顔になったのか(笑)。そこが興味深いですな。
B――そのあたりを突っ込んでみれば、図像学的に何か面白いことが出てくるかもしれない。いうまでもなく問題は、その時期に、武蔵は演劇や読本でヒーローになった、そうして、ヒーローだから美男の顔を獲得していたことだ(笑)。もちろんイデアルに類型化された美男顔だがな、いわばポップカルチャーの局面では、武蔵は文字通り絵に描いたような美男の顔でまかり通っている。
A――そういう美男顔の武蔵と、武蔵流内部でのひどい面相と、この対照的な二系列の武蔵イメージが、江戸時代後半には並立しておったということ。社会的現象としての宮本武蔵像という点で、これは興味深きことです。
C――世間の大衆文化のシーンでは、美男武蔵のイメージが量産され、かたや、武蔵流内部ではマッドで醜悪な祖師像が再生産されていた。これほど極端なイメージ分裂も珍しいというべきだろう。
A――世の中では武蔵は英雄で、美男にしてくれたのだから、武蔵流祖師像も、美男とまではいかなくとも、少しはまともな顔になってよかろうに、まったく逆の、破滅的な顔の祖師像を描き継いで、崇拝しておったということ(笑)。
C――むろん、まず武蔵流内部で、「武蔵は異相の人だ」という伝説が生じた。ところが、十八世紀になってからのことだろうが、この異相の意味を、武蔵流末の連中は誤解した。そのあげくが、この祖師像群にみられるイメージだ。
B――異相というのは、人並みはずれてすぐれた相だというポジティヴな意味だが、武蔵流内部の伝説過程でそれが反転して、ネガティヴな意味になってしまったんだな。
A――人並みはずれて、まではよいが、人並みはずれて醜悪な相、ということになってしまった(笑)。
B――少なくとも、こういう素人画の祖師像を見るかぎりにおいて、いかに異相武蔵とはいえ、これはひどすぎる(笑)。一流末孫らのイメージはほとんど無惨としかいいようがない。《天仰實相圓満兵法逝去不絶》、逝去して絶えず、だが、師父(Master-Father)としての武蔵の死後、彼の遺産としてのイデアルな境位は実質的に壊滅したのじゃあないか。
C――ふむ、この図像群をみると、一流末孫らは祖師武蔵を誤解していた、としか思えないか。まさに、(五輪書)空之巻の《その目その目のひずみ》だな。真実の道に背くものなり(笑)。
A――『嬉遊笑覧』で有名な喜多村信節〔のぶよ〕の『瓦礫雑考』に、猪狩氏所蔵「赤松武蔵肖像」というものを模写した絵が収録されている。あれもひどい顔貌でしたな。
C――十九世紀に入ると、このように一部で武蔵は「赤松」武蔵になってしまったようだが(笑)、これの刊本は文政元年(1818)、美作ではちょうど正木輝雄が『東作誌』を書いていたころだ。喜多村信節が採取模写した武蔵像は、これもやはり二刀を手にした像で、武蔵流内部から巷間に流出した例だろう。
B――『瓦礫雑考』の模写画は下手糞だが、面貌は武蔵流祖師像と同じ系列のものだろうな。そこで、喜多村信節が模写した十九世紀前期までに、この系列の祖師像はできあがっていたとみなせる。つまり、十八世紀後半には、武蔵流内部では祖師武蔵像をこういうひどい顔貌に描くようになっていたと知れるというわけだ。
A――文字通り、武蔵の「実像」はこれだ、武蔵像は目を剥いた顔じゃないといかん(笑)、というわけだ。
B――例の島田美術館蔵の目を剥いた武蔵像が初期モデルになったようだが、反復模写されるうちに、どんどん崩れた。異相が、とんでもない滑稽なマンガになってしまった(笑)。
C――だから、それを復元する必要があろうね。
B――それは以前から云うておることだが、『五輪書』の観見二つの目つけというその線で、原型を参照して画像の目つき顔つきを仮想復元してみれば、こんなぐあいだろう。






新編歌俳百人撰 宮本武蔵

列猛伝 宮本武三四 国芳画





*【五輪書】
《實の道を知らざる間は、佛法によらず、世法によらず、己れ々々は慥か成る道と思ひ、善き事と思へ共、心の直道よりして、世の大がねに合せて見る時は、其身々々の心贔屓、其目々々のひずみによる、實の道には背く物なり。其心を知て、直に成る所を本とし、實の心を道として、兵法を廣く行ひ、正敷〔まさしく〕明かに、大き成る所を思ひ取て、空を道とし、道を空と見る所也》(空之巻)





赤松武蔵肖像部分
喜多村信節 瓦礫雑考

A――左が手術前、右が手術後で(笑)、復元像ですな。これで、武蔵も、かなりノーマルな顔になったではないか(笑)。
B――ノーマライゼーション(笑)。もちろん整形手術前の面相は、すでにデフォルメされているから、手術後なのに復元と云うんだが、これは我々の勝手なシミュレーション操作で仮想的に描いたというわけだ。
C――しかし、武蔵流祖師像も、せいぜいこれくらいにしておいてもらわないと、品がなくなる(笑)。そこでだ、目を剥いた、ああいう劇画調の一連の祖師像群に対し、もう一つ踏み込んで、ここで、別系統の、まったく違う種類の武蔵像を対置しておいてもよいな。
A――レンブラント(Rembrandt van Rijn)が描いた武蔵肖像ですな、これは(笑)。
B――もちろん、レンブラントはオランダ人だが、武蔵と同時代人(1606〜1669)だから、こんな絵もありうる。なんと武蔵は、アムステルダムへ行っていたのか(笑)。
A――いやいや、借金が嵩んだレンブラントが債鬼から逃げに逃げて、とうとう極東まで来た時に、長崎で黄金三枚で描いたという絵だな(笑)。
C――おいおい、そんなことを言うと、真に受けて本気になって誤解するやつが出てくるぞ(笑)。これは我々の研究プロジェクトにおける一連の所産のひとつ、《Musashi by Rembrandt》はこの絵のサブタイトルなんだよ。近世日本画、狩野派流で描くのもよかろうが、武蔵と同時代の西洋画なら武蔵をどう描けるかというシミュレーションの、モダンアートだ。
B――というわけで、冗談はさておいてだ(笑)、この武蔵像は老年期で髪鬚は半白、堂々たる体格で、容貌には古武士の威儀風格があるし、粗いタッチがこの男の修行生活の痕跡を示す。問題の眼も、これはなかなかよいではないか。
A――この顔とにらめっこしてみればわかるが、こちらを吸い寄せ、動揺させ不安にさせる目つけですな。
C――そりゃあ、こいつとやってやろうという気があるからだ(笑)。降参して弟子になった気になれば、けっこう頼りがいのある師匠顔だよ。
B――オリジナルなきシミュラクル(simulacre)という作者の韜晦はあるが、一口では要約できない味があって、武蔵の凄みも、その境位もよく出ている。
C――さてと、武蔵の顔はどんな顔だ、ということになると、明確な材料はないが、少なくと目を剥いたあの一連の顔じゃない(笑)。初期と思われる例の第三の画像の顔から復元のヒントは得られるだけだ。武蔵の顔つき目つきということでは、思想者としての顔。前に善悪の彼岸という話が出たが、カント流に言えば、「至高悪」が武蔵の思想的主題だな。
B――至高善じゃなくて「至高悪」。暴力の思想というものがありうるとすれば、そういうことだろう。そこを通過しなければ、第三の画像のような顔つき目つきにはなるまい。






菅幡山画 武蔵像
武蔵像

菅幡山画 武蔵像
同上 部分
――武蔵の肖像の話に関連しての話、劇画というか、コミックの話になりますが、どういうわけか宮本武蔵がまたちょっとしたブームになっています。
A――もう宮本武蔵は、爺さまの間でしか話題にならないと思っていたけど(笑)。
C――ところが、最近書店でも宮本武蔵のコーナーができたりして、なんだか武蔵ブームなのだね。それは毎年恒例化したNHK大河ドラマの副産物だな。しかし、それも、実はこの間の『バガボンド』の影響だ。
B――そうだね。あの漫画のヒットがなければ、武蔵はNHK大河ドラマにもなりそうにない。それほど忘れられておったのよ、武蔵は(笑)。
C――忘れられて当然だろうな。むろんそれは、吉川英治の小説と同義の「宮本武蔵」ということだが。戦前戦後を通じて吉川版武蔵があれだけ大ヒットしたのだが、この「吉川武蔵」はもう時代遅れになって、およそ三十年以上経つ。
B――吉川英治はもうほとんど売れなくなっていた。時代小説というジャンルのなかで時代遅れになってしまっていた。若い人は小説さえ読まなくなっているが、もちろん吉川英治なんて知らない。
C――いや『バガボンド』があれだけ売れても、やはり吉川英治は知らないのじゃないかな。小説『宮本武蔵』のあの恐るべきナイーヴさは、読むに耐えないと思う。少なくとも70年代、80年代のシニカルな感覚を通過した後では。
B――しかし、『バガボンド』も恐るべきナイーヴな話だよ。ある意味で、かつての『巨人の星』に似ているところがある。
C――すると、なんだね、七〇年代、八〇年代までのシニシズムは、どこへ行ったのかね。消えちまったのかな。長期にわたるこの平成不況とともに(笑)。
B――そうじゃなくて、シニカルな部分はやはり残っていると思う。現実に対し距離をおいているというスタンスは変っていない。だから『バガボンド』を大笑いして読む部分もあるわけよ。語の正しい意味での「コミック」としてね(笑)。あれがストレートに受容されているとは思えない。
A――すべてがゲームになって久しい。そこでは、事態が深刻になればなるほど、シリアスになればなるほど、それを見て笑ってしまう。そういう感性だね。
C――ただし、シニカルであるためには、どこか余裕がなきゃいかんのよ。少なくとも食うには困らないとか。そんな富裕性がどこかにあってはじめてシニカルになれる。
A――だから、まだシニカルであることはできる。しかしそろそろ余裕がなくなってきた。ある意味で、リアルな世界から報復を受けるというめぐり合わせ、その予感がある。
C――ちょっと整理をすれば、とりあえず、シリアス/シニカルという対立の線で話が進んできたね。
B――まあ、そう要約していい。
C――すると、シニカルな部分はまだあるとしても、もうシニカルなだけではやっていけなくなって、シリアスな、リアルな、そういう局面が露頭してきた、と。
A――たしかにそうだね。それは、NHKのオヤジ番組「プロジェクトX」のノスタルジックな回顧指向と無関係ではない。あれは一貫して「喪失」の物語だね。
B――昔はよかった、昔は我々はこれほど凄かった。しかし、もう今は、それが失われてしまった。そういう状況認識だね。
C――まだまだ未来があって、将来があって、まだぐんぐん伸びるぞ、という感覚じゃないね。もう、頂点は過ぎてしまった。あとは下り坂、衰退する一方だ。そういう時代の直覚が背景にあるね。
B――戦いは終ってしまったのだよ。もう現役じゃない。退役軍人の自慢話のようなもの。日本は戦いの前線にはいない。そういう感じだね。
A――だから昔の栄光をノスタルジックに語る。一九八〇年代を頂点として、「Japan as No.1」と讃えられた時代もあるのだよ、とね。
B――戦いは終ってしまった。ある意味で第二の「戦後」なんだ。そういう意味で、武蔵のアナクロニックな再浮上というのもわかる。
A――ある意味で新しい「内向」の時代にさしかかりつつある。海外雄飛して一時は世界を制覇しそうだった社会だが、急速に縮退している。落ち目になって、昔の栄光を回顧するしかない老人だ。
C――日本人の平均余命、寿命は世界一だね。高齢者の社会なんだ。平均年齢というのがあるね。日本人社会の総平均年齢は四十代で、これも世界最高だ。世界で最も老いた社会だ。
B――なんだ、まだ世界一があるじゃないか(笑)。
C――そう、世界一なんだ。戦後の高度成長を経て、そこまでやって来れたわけだ。この世界一は、別の意味で未曾有の社会形態の段階に進入したとも言えるわけよ。しかし、世界一の健康長寿が何を犠牲にして得られているのか。たとえば、健康のためによいという植物性油脂ね、これはヤシ油だ。これを南洋で栽培させている。我々の社会が強迫的に健康を追求するその反面は、たとえばボルネオの環境破壊だ。
A――熱帯森林を大規模に伐採してヤシ油を供給させる。我々の社会では、みんなエコロジストになってしまったが、植物性油脂を大量に消費することによって、こういう他国のエコロジカルな破壊を生産している。そのことには気づかない。というよりも、みんなそれを知っていて、口ではいけないと言いながら、自分はそれを消費している。
B――環境に優しいエコロジストは、過敏であると同時に、途方もなく鈍感である(笑)。知っていてやるのだから、これは救いようがない。そういうグローバルなリンクがあるが、中国で農薬づけの野菜を作らせている。そうして安いお買い得な野菜を毎日食べる。ところが、このお買い得品は、じつは有毒だとか(笑)。
C――それがグローバルなリンクの因果応報というものだ(笑)。プランテーションがもたらす環境破壊は、帝国主義の初期からあった。帝国主義本国の人間には、植民地の苦痛はわからない。戦前の日帝と、現在の日帝のふるまいと、どれだけ差異はあるか、というとあやしいな。
A――ただ、このグローバルな世界システムのなかで、日本だけが勝手に離脱はできない。だから失墜、下降、没落という感じしかない。
B――いや、このグローバリズムのなかで、やがてそのうち一種の「鎖国論」が出てくるよ。それがまだ出ないのは、現在のところアジア諸国を搾取できているからだ。つまり、価格破壊の後、続いて現れた百円ショップの隆盛。この商品たちは中国製だ。電化製品もそうなりつつある。
A――いずれ車だってそうなるだろう。安い、安い、と言って買えているうちが、華なのよ。ところが気がついてみると、キリギリス。今は最後の奢りの時代だね。奢れる者久しからず(笑)。











森の人
B――「鎖国論」が出てくるというのは、そういう国際貿易のなかでの賃金格差による恩恵を享受できなくなった時だね。たとえば高度成長を遂げて経済大国なった中国の風下に立って、生きていかなければならない逆転状況になって、国際貿易のメリットを失ったときだ。それは思ったより遠い将来ではなさそうだ。
C――大東亜共栄圏の夢は中国共産党が実現する、か(笑)。現在、漠然として存在する予感というのは、そういうこと総体の予感、全般的な没落の予感だね。そうすると、百年前の西欧の没落というあの感じの反復だね。
A――あれは新興国アメリカの急成長を目の当たりにした反応だった。百年前にはすでに、多くの点で西欧はアメリカに追い越されてしまっていた。二十世紀はアメリカの世紀という予感があったが、まさにその通りになった。
B――そしていまや、世界警察どころか、世界のキングのつもりだ。結局、帝国主義はアメリカの覇権で極まったね。ミイラになったレーニンは泣いているだろう(笑)。
C――レーニンの『帝国主義論』も百年前だ。いまや反米帝闘争はムスリム(イスラム教徒)しか担えない。
B――それも、レーニンの歎きだ(笑)。歴史は何とアイロニーに満ちていることか。
C――そういう世界史的状況から、日本社会はどんどん隅の方へ後退している。アメリカン・グローバリズムの雛形は、いうまでまなく日米関係だ。アメリカにとって日本は「NOと言えない」国だ。イエスマンの国だ。アメリカは全世界をそういう日米関係のような対米従属関係にしてしまおうとしている。悪しきモデルだ。
A――そういう意味では、日本は実質的に主権国家であることを抛棄している。ある意味では、ポスト国民国家である。ところが、この脱国家とは、実は米帝支配下のコロニアリズムに他ならず、何も新しいものはない(笑)。
B――今度の対イラク戦争でもそうだ。卑屈にへらへらと追従するだけの阿呆だというイメージだね。笑っている場合ではない。
C――だからね、金さえありゃあ世間からバカにされないと思って、必死にがんばってきたが、その根性は貧しいままだったということだ。日本はまだ世界のGDPの六分の一を占める経済大国だ。だけど、ようするに成金だったのだよ。それが落ち目になったうえに、相変わらずの卑屈な根性ではだれもまともに相手にしてくれない。
B――そういう卑屈な根性と、もう一方の武士道の日本というイメージ、これはもう、まるで正反対だね。こんな矛盾したイメージを、戦前ルース・ベネディクト(『菊と刀』)は日本人の行動原理をなんとか統合しようとしたが、天皇制さえ遺せば占領統治はうまくやれるというアメリカの結論は、日本人の卑屈さを知っていたからだ。
A――それは、ハリウッド映画の典型的日本人を見ればわかるね。出っ歯で近眼で小太りのずんぐりした体型の無様で下品な男ね。あのような男の国なら、決して本土決戦など徹底抗戦はせず、手のひらを返すように卑屈に擦り寄ってくるということ。占領政策の根本は、アメリカ人大衆の偏見にみちた日本人像を踏まえたものだ。
B――地方都市への原爆2発で降参してしまったのだからね。連合国も拍子外れで意外だったろ う。占領政策の根本は、アメリカ人大衆の日本人像を踏まえたものだ。ところが結果的に見れば、その偏見にみちたイメージが正しかったというわけだ。
C――うん、だからね、まさに誤りを犯すことによって成功した(笑)。二十一世紀初頭の今が第二の「戦後」だというのは、そこだね。傲慢と卑屈の両極を往復した、その往復を反復した。それが現在の状況だ。とすれば、宮本武蔵の浮上も反復されるというわけだ。
A――そうだよ。でも、これじゃ、いつまでたっても武蔵の話になりそうにありませんな(笑)。武蔵の話をしよう。
***************************************************
――そこで、戦前の、というか、もう戦中期ですが、吉川英治の小説『宮本武蔵』があれだけ大ウケにウケた、そのわけですが、それはどういうことでしょう。
C――吉川版武蔵、「吉川武蔵」が登場する前までは、武蔵は決してあのように書かれたことはなかった。武蔵は剣豪列伝の一人だった。それも、たぶん最強の剣術者だとね。ようするに、だれが一番強いか、それは武蔵だという話だね。これはずいぶん子供じみた話でしかない。
B――直木三十五と菊池寛の例の論争があるね。これにしても、やはり、剣豪論路線を一歩も出ていない。直木はつまらない剣豪小説を濫造したがね。
C――自分はいっぱし、剣道史研究家だと自認していたふしがあるね。しかし、武蔵の二刀流は邪道で、実戦で切りつ切られつしている時代には二刀流などバカバカしくて使えるものじゃない、とその非実用性を批判したつもりだ。ところが、まさにここが、直木は実は『五輪書』も「兵法三十五箇条」も読んでいないという馬脚を露呈してしまったところだ。
B――あれほど明確に、『五輪書』に、両手に太刀を構えることは実の道ではない、二刀を持たせるのは、太刀を片手でも使いなれるようにするためである、と書いているのにねえ(笑)。まあ、直木に限らず、作家たちが『五輪書』を読んでいない、もしくは、読めていない、という傾向はずっと続いているが。
A――吉川英治なんぞは、『五輪書』に「万理一空」と書いてある、なんぞとアホなことを書く。どんなヴァージョンの五輪書なんだ、それは(笑)。
C――日本に限らず、東アジアの地平においてみれば、どこでも片手で大太刀を振っている。両手で一刀を持つなんて方が、異例だぜ。それこそ邪道だ(笑)。
B――武蔵が、両手で太刀一本をもって構えることは実の道ではない、というのは歴史的根拠がある。古代から武器を片手にもって戦っていたのは、考古学資料でもわかる。日本でもそうだった。しかし近世ようやく実戦から乖離するようになって、道場剣法が普及して刀を両手で持つ型が一般的になった。しかも明治以後、一刀流が支配的なってしまった。江戸時代主流だった柳生流ですら往昔の姿はない。直木は、近代剣道の偏見に毒されているわけだよ。
A――直木は、武蔵なんて世間が思っているほど、強くもなければ偉くもなかったと言う。これは偶像破壊ですな。世間の常識とは違う武蔵を措定する。
B――もちろん、それ以前に、斎藤茂吉が菊池寛とやっていた。武蔵は卑怯だ、ズルいという。
A――「ますます私は武蔵のペテン術鍛錬法を憎悪したのであった」。それで、本を床に投げつけることもあった(爆笑)。
B――その本たるや、例の池辺義象が書いた顕彰会本(『宮本武蔵』)らしい。あそこには、武蔵が遅刻して相手を待たせたとある。『二天記』の記事だな。それを、相手を待たせてジラせる卑怯な心理戦と誤解して、激怒したのが斎藤茂吉(笑)。
C――もちろん、斎藤茂吉は、『丹治峯均筆記』に、武蔵の方が先に来て小次郎を待っていたという記事があることは、とんとご存じない。顕彰会本なんぞという中途半端な本を一冊読んだだけで、勝手に憎悪して憤激しておるわけよ(笑)。
A――斎藤茂吉は、それに限らず、ときどき、かなりトチ狂って暴走するところがある(笑)。ドイツ留学もした精神科医だが、あっちで何を勉強したのかね。
B――博士号を取りに行ったのだよ(笑)。で、そうして、斎藤茂吉に味方したわけじゃないが、直木三十五の論戦登場だな。ここで菊池対直木の対戦となる。直木は、武蔵は六十余度勝負して勝ったというが、大した相手と勝負していないじゃないか、というわけだ。
C――あれはね、直木のは、山田次朗吉の『日本劍道史』の武蔵批評の口移しでしかない。直木は山田次朗吉で歴史を勉強したんだ(笑)。
A――直木は次朗吉が開いたパンドラの筥に飛びついた。これに対し菊池寛は、いやいや、やっぱり武蔵は偉いやつだったと反論する。この論争に吉川英治が引きずりこまれそうになった。ところが、そのとき、吉川は武蔵についてあまり研究していないので、勝ち目はないと思った。それで……
B――それで、後日を期して研究して、小説で自説を明らかにしようとした、それが小説『宮本武蔵』だと。――しかし、この話は出来すぎているのよ。
C――そうだね。小説以外の文をみれば、吉川は決して議論が達者ではない。それに、直木の論にしたって、あまり真面目なものじゃない。ただし、吉川は武蔵を書くきっかけを作ってくれたことを、直木に感謝すべきだね。直木はすぐ死んでしまったのだから。
A――従来の剣豪列伝の路線は、いずれにしても、もう時代遅れだったね。吉川が武蔵で新聞連載をやると言ったとき、朝日〔新聞〕の担当者は、「今どき、そんなものを」といって反対したそうだ。たしかにその当時、武蔵も剣豪列伝路線ではすでにアナクロニックなイメージしかなかったわけだ。
B――それは直木・菊地論争の内容をみればわかる。こんな話はじつはもう時代遅れだったのだね。読者が求めていたのは剣豪武蔵ではない。しかし、朝日の担当者も、吉川に武蔵を書かせるハメになったが、まあ、半年くらいでさっさと次へ交替、という肚だった。
A――ところが、連載が始まってみると、人気殺到。当事者の方が信じられないくらいだった。まあ、これは、吉川武蔵がまったく新しいスタイルの時代小説、剣豪小説から脱却した武蔵小説だったということだ。
C――その新しさは、むろん武蔵の人物造形にある。武蔵は世間常識の「偉人」として登場したのではなく、まったく正反対の、野獣として登場したわけだから、みんな不意を突かれてのめり込んだ。






直木三十五(1891〜1934)



菊池寛(1888〜1948)



斎藤茂吉(1882〜1953)





直木菊池論争 挿絵
昭和7年10月27日 読売新聞




 孤剣!
 たのむはただこの一腰。
 武蔵は、手をやった。
 「これに生きよう! これを魂と見て、常に磨き、どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう! 沢庵は、禅で行っている。自分は剣を道とし、彼の上にまで超えねばならぬ」
 と、そう思った。
 青春、二十一、遅くはない。
 彼の足には、力があった。ひとみには、若さと希望が、らんらんとしていた。また時折、笠のつばを上げ、果て知らぬまた測り知れぬ――人生のこれからの長途へ、生々した眼をやった。

(吉川英治『宮本武蔵』) 




『宮本武蔵』初版本 昭和11〜14年
大日本雄辨會講談社
A――ただ、その新しさというのは、従来の剣豪小説路線と比較すれば、新しいというまでで、ほんとうは、大正教養主義の焼直しですな。吉川のバックボーンは、大正期の修養主義だね。『宮本武蔵』は青春小説、もっと言えば明白なビルドゥングスロマン(修養小説)だが、それは古い大正期の精神主義の焼き直しだ。
B――それは昭和初期のモダニズムや社会主義リアリズムを通過していない。それを迂回して、いわばバイパスして昭和に出現した大正教養主義だ。だから、何を今さら、という感じがあったはずだ。
A――《沢庵の上にまで超えねばならぬ、武蔵は、そう思った》と。ほんまかいね(笑)。
B――しかし、《青春、二十一、遅くはない》、泣かせたねえ、これは(笑)。
C――そうだね。「吉川武蔵」のエトスそのものが、大正末期から昭和初期にかけてのあの思潮の激動を素知らぬ顔をして登場した、アナクロニックなものであったことはたしかだ。ただし、ここには、やはりタイムラグ、ずれがあったことを勘定に入れておかなくてはならない。
B――そのタイムラグ、ずれというのは?
C――大正教養主義というのは、やはり一部の知識人のものだった。大衆は、トルストイがどうだと言われても閉口するだけだ。大正教養主義そのものは大正末期・昭和初期の思想的激動の中で消滅するが、それがもっていた修養主義イデオロギーの部分は青年組織運動を通じて生き残った。そういう淘汰が完成するのは、やはり時間がかかるということだ。
A――その修養主義のなかでも、一種の自然主義、もっと言えば野獣主義、一切の制度的桎梏を離れて本能のままに生きよ、というドグマもあったはずだね。
C――大正の(田山)花袋とか、そういう自然主義があって、修養主義がある。野生の美学というロマン主義があって、その野生を飼い馴らす、陶冶する、調教する、というテーマが出てくる。
B――それはフーコー的主題だね。大正期に日本は急速に資本主義化するわけだが、同時に、国家社会へ組織されるようになる。資本主義化と国家動員とは物事の両面だが、具体的には工場・兵営、そして学校だ。
C――野生を飼い馴らす、陶冶する、調教する、というテーマは、資本主義・国家主義イデオロギーの具体的な内容だが、それがまさに昭和期に持ち越された修養主義だった。その意味では、吉川は主流を歩んできたわけだ。
C――彼はそのあたりは目端の利く男で、戦前戦後のブレーク(断絶)でさえ一貫して主流の側にある。それは必ずしも体制順応ということではないね。
B――吉川にあるのは、ポピュリズムだ。大衆主義、人民主義だね。自分は無名の大衆の一員だということね。それは知性からすれば、まったくその通りだった(笑)。ことさら大衆の側に立とうとする必要はない。
A――彼は即自的に大衆の一員だった(笑)。
B――だから、そこには知識人がそう言うときに漂うイヤミたらしさはない。ある意味で、彼ほど大衆とともに歩んできた作家はいない。
C――その通りだ。彼は「大衆」というとき、「お客様は神様です」という感じはなくもない。しかし、大衆の一員として以外にはありえない、非知識人として存在するのだね。
B――こういうやつは、こわい(笑)。しかし、政治家にはざらにいる種類の人間だね。政治家は大衆の代表である。だがだれも政治家を知識人とは思わない。それと同じことが吉川英治という小説家にも言える。そして作家が、知のどんなポジションを占めるか、そういう点では新しいタイプだね。
C――というのも、大正までは小説家というのは、やたら西洋の知を勉強して競い合っていた風がある。口の端から横文字がこぼれるという有様だ。ところが、大正末期から必ずしもそんな知的存在でなくとも小説を書けるようになった。
B――それはプロレタリア文学運動を(否定的)媒介にして出てきたものだ。そしてこれは、ある意味で本来の「小説」が回帰してきたということだ。

連載中の東京朝日新聞紙 昭和十四年
A――それには小説の読者人口が飛躍的に増大するという背景もある。具体的には新聞小説ですね。
C――今でもそうだが、挿絵つきで二枚ほどのわずかな分量を毎日連載する。こういう細切れ連載はむろん長文には慣れない読者向けのスタイル。それが現在でもそうなのは不思議だが、毎日二枚程度なら読めるという読者層を開拓した。新聞の販売部数は連載小説の人気で決まった。そういう意味で新聞というメディアと大衆文学は密接な関係がある。
B――そして、新聞というマスメディアが読者という存在だけではなく、「大衆〔マス〕」という存在を産出したのだね。現在言う意味での「大衆」が日本で出現するのは、大正から昭和にかけての時期だ。いわゆる大衆化社会はここに始まる。
C――もう昔の話になるが、吉本隆明が「大衆の原像」なんて言っていたころ、その「大衆」とやらはどこにいるのか、そんなものはどこにも存在しない理念的対象にすぎない、という批判があったが、それは違う。いまの話の線に沿って言えば、「大衆」というのは新聞を読んでいる連中だ、TVを観ている連中だということだ。つまり、マスメディアと関わりあうかぎりでの「マス〔大衆〕」だね。大衆というのは唯物論的実体なんだ(笑)。
B――柳田國男が徳川貴族院議長と喧嘩して貴族院書記官長を辞めて、その後、朝日新聞の社員になるだろう。彼は昭和初期のあの間に五百本近い社説を書いている。「常民」の柳田は、ここで「大衆」へとその対象をシフトしたわけだ。
C――あのあたりの経緯は興味深いね。あのとき柳田はすごい普選(普通選挙)キャンペーンを張って、アジりまくっている。戦前の普選はむろん男子だけだが、これは大きな改革だった。柳田は社説で書くだけではなく、応援演説までしに出かけている。
A――ところが、そこでヤジり倒されて、腹を立てて帰って来たりする(笑)。
B――柳田は生粋のリベラルで、普選開始にあれだけの熱意を見せた。彼は新聞紙上で語りかけることで、大衆と向き合っている実感があったのではないか。
C――だから、その大衆は、プロレタリア運動によってではなく、新聞というマスメディアによって組織された。それは「定義により」そういうことなのだよ。だから「マス」(大衆)は「ネーション」(国民)とは違うわけだ。大衆が国民として国家に組織されるとは言えても、国民は大衆として組織されるとは言えない。両者にはそういう関係がある。
A――新聞が大衆を産出し大衆を組織するというとき、何によって組織されるかというと、これはまさしく言葉によって、だね。メディアが自身が産出した大衆にいかにウケるか、それは大衆が欲する言葉を供給できるかどうかにかかかっている。
C――まさにそういう意味で、吉川武蔵は言葉を供給したわけだ。しかもそれは、戦争の言語だった。
B――昭和九年(1934)に、倉田百三や白鳥省吾と「日本青年文化協会」というのを、吉川は始めるね。雑誌『青年太陽』を発刊する。これはやはり対象は青年たちだ。農村青年の精神飢饉というようなことを言っている。つまり、精神的飢饉状態にある農村青年に言葉を供給するという任務だね。
A――そういう意味では、まさに『宮本武蔵』には、精神飢饉に対する慈雨をもって任じるようなところがある。今の青年たちが読めば、とてもクサくて読めないような言葉が、一種のテーゼのようにして並んでいる。ところが、当時はまさにその言葉が新鮮で輝いてみえた。
C――吉川武蔵は説法集なんだよ(笑)。純文学と大衆文学を分ける弁別線は、説教の有無なんだ。ふつう純文学と大衆文学というと、大衆文学はエンタ(entertainment)に徹して、理屈っぽいのは純文学だと思っている人があるが、そうじゃない。理屈っぽいのは大衆文学の方なんだ。それは吉川武蔵を一頁でも読めばわかる。
A――そうだね。作品の文学性をブチこわしても、延々とチープな理屈を重ねてくる。それで、その大衆文学の「大衆」がいう台詞は、「勉強になる」(笑)。
C――その「勉強になる」という性格は、講談からの遺伝だね。講談には啓蒙性があった。「勉強になる」というのは教えの機能があるということ、そういう側面は、今日の大衆小説でも同じだ。
B――「日本青年文化協会」の設立趣旨に「堅実な文学的趣味と娯楽と修養」および「モダンな日本人精神と郷土文化の発揚」というやつがあった。小説『宮本武蔵』とは、まさにこれだね。とくに「モダンな日本人精神」というコピーが、実は私のお気に入りだが(笑)。
C――まさにそれ、その「モダン」じゃなかったのかな。今では爺さんにしかウケない言葉たちだが、当時は、まさしく若者たちにウケる言葉だった。吉川は自分はモダンな武蔵を書くから、と朝日に言ったのだろ。
A――そうだったね。まさしく「吉川武蔵」はモダンな武蔵だった。それが今では忘れられている。
C――「吉川武蔵」の新しさと若者へのウケ方というのは、今日ではよくわからないことかもしれないが、しかしね、そのウケ方というのでみると、吉川英治は、今日でいうと、村上春樹なんだよ(笑)。
A――たしかに、両方とも教訓と能書きが好きなタイプだ(笑)。
B――修養小説という点で、吉川英治は戦前の村上春樹だったのだよ。
A――当時の若者へのウケ方を理解するには、村上春樹のウケ方と並べたらいい。
B――たしかにそうだが、そういうモダンさが、ふつうならすぐに陳腐になるのに、よくまああれだけ長い期間世間にウケたことだ。ということは、その間本質的に社会のエトスは変らなかったということか。
C――少なくとも、戦前戦後を通じて変らなかった。というよりも、戦後社会は、戦時体制で構築されたシステムを基本にして戦後の高度成長を実現したのだからね。戦争で敗北しながら、政治体制は変化しながら、それにもかかわらず、社会のエトスは戦後20年は根本的には変化しなかった。
B――「吉川武蔵」に一貫して底流しているのは、精神飢饉だ。精神的貧困だ。諸君はまさにその危機状態にある。よろしい、武蔵が諸君とともに自らそれを癒し、さらには勇気を与えてくれるだろう。こういう需給システムが確立されてしまえば、あとは拡大再生産あるのみだ(笑)。
C――だから『宮本武蔵』は同じ主題を無限に変奏する構造をもっている。その主題は単純なものだ。しかし、この主題こそが扇情するものだったのだね。それは、「死を惜しむな、いかによく死ぬか」という主題だ。たとえば、《生命を愛すると云ふことは、死にたくないといふ事とはたいへんに意味がちがふ…》。その後は?
A――《…無為な長生きをするといふ事ではさらさらない。いかにこの捨てたら二度と抱きしめる事のできない生命を意義あらしめるか――価値あらしめるか――捨てるせつなに鏘然〔そうぜん〕とこの世に意義ある生命の光芒を曳くか》、と書くね。
C――そうだね。この主題に遭遇するたびに、皮膚が粟立つほど心が戦慄する。当時の青年たちは、当初漠然とした予感でしかなかった死が年を追って切実になるのを感じていた。まさにその時期に、死を惜しむな、死こそ最高の自己実現なり、という託宣を聞くわけだ。
B――だから、これは健全な青年修養ではなく、やはり退嬰的な死への泥みではなかったか。精神飢饉は、まさに戦場でのリアルな死という結末を提示され、そこに向かって鼓舞されるわけだ。
C――それが、時局迎合であったか、なかったか、戦後問題化する連中が出てきたが、それはどうでもいいことだ。むしろ大衆が欲する言葉を吉川は提供したまでだ。とすれば、そういう「死を惜しむな」「いかによく死ぬか」という主題をめぐって変奏される言葉を欲望した、当時の大衆をこそ解析しなければならないだろう。
A――日米開戦のとき(昭和十六年)、あれはこれから何かすごいこと、未曾有の奇蹟が起きるのではないか、という期待が大衆の中にあったのは事実だ。
C――日本は今朝から、これまでとは違う日本になったのだ、とね。太宰(治)の「十二月八日」なんてのは、一主婦の日記風の体裁をとった短編だが、まさに日米開戦はこのように迎えられた、ということだね。
A――強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ、というのはわからないでもないが、しかし、この至福感、すごい感覚ですなあ(笑)。
C――あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらを胸の中に宿したような気持とかね。日本浪漫主義というよりも、これはまるでパラノイア、(フロイトの)シュレーバー症例だね(笑)。
B――シュレーバーのパラノイア症例には被害感があるよ。ところが、こっちは至福だ(笑)。
C――思えばしかし、知識人もそういう大衆の一人に他ならぬことを暴露していたな。ここに山田風太郎の『同日同刻』というアンソロジーがあるが、いろんな人間が「十二月八日」を語っている。特別神聖な日だったんだ、この日は。そういう線で読めば、これはおもしろい。任意に挙げてみると、








《しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ、あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらを胸の中に宿したような気持。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ》(「十二月八日」昭和16年)

高村光太郎 頭の中が透きとおるような気がした。世界は一新せられた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。
横光利一 先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことがついに顕れてしまったのである。
伊藤 整 私は急激な感動の中で、妙に静かに、ああこれでいい、これで大丈夫だ、もう決ったのだ、と安堵の念の湧くのをも覚えた。この開始された米英相手の戦争に、予想のような重っ苦しさはちっとも感じられなかった。方向をはっきりと与えられた喜びと、弾むような身の軽さとがあって、不思議であった。
青野季吉 みたみわれとして一死報国の時が来たのだ。飽まで落付いて、この時を生き抜かん。無限の感動に打たれるのみ。
島木健作 妖雲を排して天日を仰ぐ、というのはこの日この時のことであった。
火野葦平 新しい神話の創造が始まった。昔高天原を降り給うた神々が、まつろわぬ者どもを平定して、祖国日本の基礎をきずいたように、その神話が、今より大なる規模をもって、ふたたび始められた。
坂口安吾 涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。







B――今も昔も、戦争が人間をファナティックにする、という事実は、まさにこれが証言している。
A――転向左翼も、これじゃあ立派な右翼だ(笑)。大衆が知識人を決して信用も尊敬もしないわけだ。
C――むろんこういう転向は、一九五〇〜六〇年代の転向論で批判されたが、じつはもっと根底的な転向は、むしろ一九七〇年代以後に実現したと言うべきだろう。我々は総転向後の世界を生きておる。
B――しかし考えてみると、戦時中、吉川版武蔵を読んで感激する読者層というのは、やはり真面目な部分だね。戦争に対して真剣に突入して行ったクラスだ。他はアイロニカルに、戦争への道にしぶしぶ追従して行ったんだ。だから、「吉川武蔵」を読んで感動する読者大衆というのは、戦争イデオロギーの体現者であり、戦争の大義を死を賭して信奉するという点ではあまりにも純粋な部分だった。
C――それは戦争指導者よりもはるかに戦争主体だったと言えるね。
A――だから、戦後の『宮本武蔵』のあからさまなリライト(書き直し)で裏切られた思いをした読者も多かったのだろう。殺人の道具でしかない剣がついには「愛の剣」になってしまうという、驚愕の弁証法だねえ(笑)。
C――《武蔵の剣は、殺でなく、人生呪咀でもない。護りであり、愛の剣である》というやつね。これは戦後版のはしがきだね。《かれが、剣から入つて脱却した究極の哲理は、たつた二字の極意につきてゐた》。
A――「無刀」。
C――そう、「無刀」。ところがそれが、《つまり刀無しといふことだつた。かれも、戦争を抛棄したのだ。そして晩年には、刀のいらない不壊の体と、生命の平和とを、日々に愛した》という話に落着する。
B――「無刀」というと山岡鉄舟の「心外無刀」を思い起すがね、この「無刀」はそれとは違う意味づけだ。
C――しかし無節操だねえ(笑)。戦前『宮本武蔵』を読んで、「よく死ね」と鼓舞されて、死んだ者は浮ばれない。ただし、そういう無節操ぶりこそ、日本人大衆のエトスだったとすれば、これは何も吉川英治に限ったことではない。彼のような種類の凡庸な精神こそが、最も真剣な戦争主体だったからね。
A――だからね、真面目さと無節操は別のものではない。そのつど真面目で真剣だから、状況が変ると一貫性がなくなる、節操がないという結果になる(笑)。
B――そうなると、昭和十四年の、この吉川英治という従軍記者のファッションはどういうものかね(笑)。隣の吉屋信子が花束などもっておるが。
C――佐藤信夫や菊池寛はファッションは戦時中としてはノーマルだがね、吉川英治のファッション、これは何だか恐るべきセンスだねえ(笑)。ある意味で吉川のズレ方がわかる。
B――これは小説『宮本武蔵』の読者のイメージを完全に裏切るファッションセンスだぜ。ちんまりした矮小な肉体だが、それよりも矮小なる精神というべきか。これで吉川英治が何者か、よくわかる。
A――だから写真はこわい。

佐藤春夫・菊池寛・小島政二郎

従軍記者たち 昭和14年 羽田空港

吉屋信子・吉川英治
B――さっきモダンな武蔵という話が出たが、吉川版武蔵は、いわゆる「近代の超克」の文脈で読まれた部分もあるのではないか。「余りにも末期的な唯物文化に偏重した意識へ、本来の祖先精神を輸血してみたい」とかいうのは、唯物主義対精神主義の凡庸な対立だが、こういう構図は今でも流通している図式だね。モダンというのはつねに自己否定するポジションだ。
A――その自己否定が、「いかによく死ぬか」「死を惜しむな」という主題になる。死とはもっとも充実した生であると。
B――しかし、この「実存主義」の弁証法(笑)は、戦後の六十年代まであっただろ。
C――それはたしかにあった。ただ「吉川武蔵」展開の戦後版は、もっと欲望主体だね。もともと『宮本武蔵』は、修養小説であり、いわば人生向上の物語だ。ようするに吉川版武蔵は、サクセスストーリーさ。サクセスしたヒーローの立身出世譚だ。吉川が従来の剣豪小説ではなく、モダンな武蔵を書くと言ったのは、こういう普遍的な立身出世への欲望に対象を供給したからだね。
B――それがもっと行けば、経営哲学としての武蔵になる(笑)。『五輪書』は経営者の指南書になった。
A――とすれば、マックス・ウェーバー派社会学は「資本主義の精神と宮本武蔵の倫理」を書かなくてはいけなかった(笑)。
C――だから言ってみれば、戦後の『五輪書』読みは、プロテスタントの倫理を通して武蔵を読んでいるわけよ。それは我々からみれば、お笑いなんだよ。まったくの冗談でしかない(笑)。
B――だけど、どうだったんだ、高度成長期真ん中の司馬遼太郎は。司馬の主人公たちも立身出世するサクセスストーリーなのだが、司馬のあの予定調和的世界は、小説本来の《development》がなくて、ある意味で退屈だったな。
C――司馬の主人公は、そもそも最初から余人とは違っているのよ。それを得々と説明しているうちに事が成就する。だから、説得力があるようでいて、実はまったくない。さまざまな能書きを垂れているうちに話は終ってしまうから、読者は結局、司馬の薀蓄を聞かされてお終いになる。
B――ああいう退屈な世界がウケたというのも、ある種安心できる世界だったからだね。出世はしても、決して司馬的主人公は秩序を撹乱しない。ある意味で吉川よりも秩序志向性は高い。もはや「吉川武蔵」のように見苦しく苦悩したりしない。
A――たしかに、今と違って、あの高度成長期には、自殺したりする中年男は、まずいなかった。
C――そういう時代だった。それに司馬は、プチブル的安定志向だね。渡辺幸庵を引っ張り出した小説(「真説宮本武蔵」)があるが、だいたいは倣岸不遜な武蔵という像を描くだろ。司馬的世界では傲慢不遜は敵のキャラクターなのだね。それに対し、謙虚が主人公側のキャラだ。武蔵のもつあの無頼性が何より魅力として描かれなければならないのに、それが倣岸な武蔵になってしまう。それというのも、無頼な武芸者というのは司馬的秩序世界に対するストレンジャーでしかないからだ。
B――司馬的世界は〈他者〉が不在である。ナルシシズムはどちらかというと、吉川より司馬の方が強い。
C――となると、高度成長期の日本でサラリーマンにあれだけ読者を得た司馬作品は、リアリティから一時避難するナルシシスティックな秩序世界でしかなかった。武蔵は、司馬のナルシシスティックな秩序世界には組み込めない。だから司馬の武蔵小説は、吉川武蔵の偶像破壊という意義しかない。ほとんど司馬が自身の悪意を投影した妄想に終始している。
A――まったく、司馬遼太郎の武蔵小説は、武蔵はいやな奴だということしか書けていない(笑)。言い換えれば、武蔵を理解できないと表白しているにすぎない。
C――それも当然。司馬が武蔵を書けず、愚劣な妄想投影に終始したのは、武蔵が理解できなかったからよ。ナルシシスティックな秩序世界には、本質的に闘争はない。武蔵は秩序世界には回収不能な異物だ。『五輪書』とは畢竟、「戦いの哲学」、戦闘の実践哲学なのだよ。
B――その意味では、武蔵を理解していた稀有な事例は、小林秀雄だった。『五輪書』は、いかにして戦いに勝つか、という指南書だ。小林は武蔵を実践哲学、行為の哲学としてベタ褒めしていた。
C――「私の人生観」だね。小林が武蔵を評価するのはわかるよ。小林は無頼だよ、本質的に。
A――そういえば、亭主が自慢の茶碗で茶を出されて、その亭主の見ている前で、小林は吸っていた煙草をその茶碗にいきなり突っ込む、という逸話があるね。青山二郎の話でしたか。
C――そういう、とんでもない奴なんだよ(笑)。だけど言うが、小林のベルグソン理解というのは、ある意味で極めて日本的だ。具体性の哲学というが、ベルグソン本来のマテリアリズムが、どうしても抽象化して美学になるねえ。武蔵をプラグマティズムの文脈で捕えるのはいいとして、これは新しいと評価する。
B――そのばあい、小林秀雄は世間の凡庸な精神主義的な武蔵理解への反措定をやっているのだ。行為哲学、具体的な実践哲学としての武蔵というのは、やはり精神主義的武蔵像へのアイロニカルな批判としてある。
C――「私は、武蔵という人を、実用主義というものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人だとさえ思っている」という小林秀雄の鑑定はね、しかし間違っているよ。行為、行為といいながらつい思索と言ってしまうのも小林の欠点だが、何でも最初だの最高だのとランキングしなければ気がすまないのも困ったものさ。しかし、小林が間違っているのは、彼が言っているような実用主義は、何も武蔵に始まるものじゃないということ。本来武士という暴力集団に特有なものだったということだ。「暴力哲学」というものがあるとすれば、武士の実践哲学がそれだ。武蔵は一種の遅れてきた兵法家だが、それより一世代前までの兵法家には、精神主義なんてかけらもない。小林のいう実用主義者だ。したがって、武蔵はそういう実用主義を思索した最初の存在ではなく、反対に最後の存在だと言える。
A――まったくその通り。武蔵は暴力の実用主義を体現する最後の世代ですな。そういう意味で、武蔵は暴力を具体的な殺人技術として語りえたのだね。
C――しかし、小林は《culture》と《technique》を区別して、前者につくだろ。しかし、武蔵のいう「器用」というのは、まさしく《technique》の領域のものだ。殺人のテクノロジーという肝腎なところで、小林の言葉は失敗して、逆に武蔵を「文化」へ回収してしまうわけだ。それはベルグソン的じゃないね(笑)。
A――直木三十五と菊池寛の武蔵論争にしても、結局、武蔵と上泉伊勢守とどっちが偉いか、という精神論だ。まったくおかしいのは、でたらめな史料で両人が勝手にそれぞれのイメージを作りあげていることだ。
C――小林は両人よりはるかに頭がいいから、そんな話はしない。けれども、武蔵の「器用」という語に独特の触覚を働かせながら、それをテクノロジーの言語ではなく、実用と美という文化的文脈でしか語れない。それでは武蔵を語ったことにはならない。しかし言うまでもないが、小林の武蔵論は今でも出色であることには変りはない。



小林秀雄(1902〜1983)

私は、武藏といふ人を、實用主義といふものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人だとさへ思つてゐる。少くとも、彼の名が、軍國主義や精~主義のうちに語られた時、私は、笑はずにはゐられなかつた。兵法家が、夢想~傳に假託して流儀を説く事は、當時普通の事で誰も怪しまなかつた。又、澤庵の樣な、禪を以て剣を説く坊さんがゐた樣な時代で、見識ある兵法家は、奥義秘傳の表現に、禪家の語法を借りるのも、一般の風であつた。武藏には、禪も修した形跡があるが、さういふ風潮からは超脱してゐた。自分の流儀には、表も裏もない。「色をかざり花をさかせる」樣な事は一切必要ない。たゞ「利方の思ひ」といふものを極めればよい。さういふ考へから、當時としては、恐らく全く異例な、兵法に關する實際的な簡明な九箇條の方法論が生れたのであるが、その中に「諸職の道を知る事」といふ一條がある。又「諸藝にさはる事」といふ一條がある。「道の器用」は剣術に限らない。諸職の道にそれぞれ獨特の器用がある。又「目に見えぬ處を悟つて知る事」といふ一條がある。器用といふ觀念の擴りは目で見えるが、この觀念の深さ、樣々な異質の器用の底に隠れた關聯は、諸藝にさはる事によつて悟らねばならぬ。武藏は、出來るだけ諸藝にさはらうと努め、彼の言葉を信ずるなら「萬事に於いて、我に師匠なし」といふ處まで行つた。今日殘つてゐる彼の畫が、彼のさはつた諸藝の一端を證してゐるのは言ふ迄もないが、これは本格の一流の繪であつて、達人の餘技といふ樣な性質のものではない。技は素人だが、人柄が現れてゐて面白いといふ樣なものではない。彼は、自分の繪の器用が、自分の劍の器用に及ばぬ事を嘆いたが、餘技といふ文人畫家的な考へは、彼には少しもなかつたと思ふ。それも、器用といふものの價値概念が、彼にあつては、まるで尋常と異つてゐたからだと思ふのです。(「私の人生観」昭和24年)


《武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」という覚悟を、これが剣法の極意でございますと、言っているけれども、然し、武蔵自身の歩いた道は決してそれではなかったのである。彼はもっと凡夫の弱点のみ多く持った度し難いほど鋭角の多い男であった。彼には、いつ死んでもいい、という覚悟がどうしても据らなかったので、そこに彼の独自な剣法が発案された。つまり彼の剣法は凡人凡夫の剣法だ。覚悟定まらざる凡夫が敵に勝つにはどうすべきか。それが彼の剣法だった。》
《武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」覚悟を剣法の極意だと言っているが、彼自身の剣法はそういう悟道の上へ築かれたものではなかった。晩年の著『五輪書』がつまらないのも、このギャップがあるからで、彼の剣法は悟道の上にはなく、個性の上にあるのに、悟道的な統一で剣法を論じているからである。
 武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆に之を武器に用いる剣法である。溺れる者藁もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、之を利用して勝つ剣法なのだ。
 之が本当の剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たねばならぬ。妥協の余地がないのである。こういう最後の場では、勝って生きる者に全部のものがあり、正義も自ら勝った方にあるのだから。是が非でも勝つことだ。我々の現下の戦争も亦然り。どうしても勝たねばならぬ。
 ところが甚だ気の毒なことには、武蔵の剣法は当時の社会には蓉れられなかった。形式主義の柳生流が全盛で、武蔵のような勝負第一主義は激しすぎて通用の余地がなかったのだ。
 武蔵の剣法も亦、いわば一つの淪落の世界だと僕は思う。世に容れられなかったから淪落の世界だと言うのではないが、然し、世に容れられなかった理由の一つは、たしかにその淪落の性格のためだとは言えるであろう。》(「青春論」昭和17年)

B――これはそれより前、戦時中になるが、有名な「青春論」で坂口安吾が、一種の武蔵批判をやっているのも、吉川流の武蔵、世間一般の精神主義的武蔵像を相手にしているのだろ。武蔵はそんなに偉いか、という偶像破壊だね。
A――武蔵は「凡夫の剣」だとかね。『五輪書』がつまらないのも、「悟道的な統一」で剣法を論じているからだと。
C――おもしろいのはね、安吾がそういうとき、悟道論として『五輪書』を読むという当時の一般的傾向に汚染されておることだね。かたや凡夫論、個性的な武蔵というのは、これは吉川流武蔵が拓いた地平だね。
A――ただし、「世に容れられなかった武蔵」という戦後一般化したイメージは、すでにここに出ていますな。
B――安吾の武蔵論は、戦時中、吉川武蔵の大流行に対し掣肘したものだし、戦後の武蔵小説や武蔵評伝は、安吾の敷いた路線で書かれてきた。そういう意味では、安吾武蔵論の影響は大きかったと言える。それはしかし、大してユニークなものじゃない。すでに戦後的感覚を先取りした面はあるけれど、やはりそもそもは、直木三十五だね。
C――直木流が戦後の武蔵イメージを支配してきた。唯一の例外は、小林秀雄だね。安吾が「淪落」を嗅ぎとって指弾したところを、戦後、小林秀雄が、武蔵の「実用主義」として救拔、逆に復権せしめた、というわけだ。安吾の武蔵論は、本当はまだ悟道論のエリアを踏み越えていないのだよ(笑)。
B――何か武蔵の一般的なイメージがあって、その像に対して尊敬したり批判したり、ということだね。ところがだ、そういう武蔵像を形成する元の史料たるや、まったくいい加減なものでしかない。
C――「虚像を撃つ」という点では、どれも似ている。
A――安吾は、吉田清顕(眞傳宮本武蔵)あたりがネタ本で、勝手にイメージを脹らませたというわけね。
B――あの当時は、それが吉川版武蔵の影響を受けたイメージだった、とは必ずしも言えないね。一応ああいう求道的精神修養の文脈ではなく、別の筋だが、やはり史料はせいぜい『二天記』どまりだろう。そんな怪しい史料に依拠して勝手に武蔵をイメージするというところだ。
C――だから、武蔵について語る時、これこれのことしか判っていない、あとはみんな伝説だということをはっきりさせなくてはいけない。もし『五輪書』しか武蔵を知る史料がないなら、それはそれでいいじゃないか。あとはみんなフィクションだ、虚像だ、と言えばいい。
B――その『五輪書』だって自筆本は存在しない。後世の写本だ。岩波版はかなり勝手な校訂をやっているし。「兵法三十五箇條」にしたって、原本は失われている。
A――宮本武蔵顕彰会はそいつをどこへやっちまったんだ(笑)。
B――「独行道」はどうだったかな。
C――あれも末尾の年月日・署名・落款は、明らかに本文の手とは違う。これは武蔵自筆だというけれど、それもわかったものじゃない。武蔵の贋物は大量に生産された歴史がある。高値で売れたからね。
A――贋物を造る職人からすれば、書体を真似るなど容易いことだ。現代の研究者など簡単に欺ける技術があった。武蔵真筆というのは、書簡二通があるだけですな。
B――とすれば、いつまでも書体や紙質で鑑定するといった骨董屋みたいなレベルじゃなく(笑)、考古学者のようにもっと年代測定を科学的にできる方法を開発しなくてはならない。そのあたりが、どうももどかしいところだね。
C――そう言えば、『甲子夜話』の松浦静山ね、彼は昔、武蔵が出した印可状と目録を所有していたと書いている、火事で燃やしてしまったのだけど。その免許状は、家臣が先祖代々もっておったのを、俺にくれといって巻き上げたものだ(笑)。その話を思い出して書いているのだが、この印可状、どうも贋物らしいのだよ(笑)。
B――あれは武蔵玄信ではなくて、れいの「政名」名義だろ。贋物に決まってるが、もうこの当時では武蔵の諱は「玄信」よりも「政名」が常識で、そうでなければ信用されないものだったらしい。だから「政名」名義の印可状が出回った。
A――武蔵の伝記資料ということでは、吉川英治が言っていたように、確実な史料はまったく少ない、漢文体にすればたかだか百行ほどしかない、という事情は六十年経っても変っていない。それ以後発見されたという史料は、研究者がありがたがっているほど信憑性のあるものではない。
C――結局、この百年ほどの間、播磨の発掘史料として意義があったのは、泊神社棟札の再発見(兵庫県加古川市)くらいなものだろう。ところが、これを昭和三十五年に「発見」された、新発見史料だと誤認しているバカな研究者が最近増えている。困った連中だ(笑)。もちろん、棟札じたいは昔から知られていた。しかも、大正はじめの『印南郡誌』には棟札の表裏、全文が活字化までされておる。
A――あれは大正五年(1916)刊行でしたな。そんなことも知らずに、戦後「発見」されたと錯覚しておる(笑)。
C――困ったものだ(笑)。これが四十年ほど前、社殿屋根を改修して以後、世間が注目するようになったのだね。これがこれまで播州で出た中で最高の第一級史料であることは疑いを容れないが、それにしても武蔵に関する情報は微々たるものだ。
B――泊神社棟札は、武蔵の養子になった宮本伊織の実家田原氏の記事がほとんどだね。伊織は故郷の神社再建の願主になって、自分の実家のことを書いているだけだ。むろん、義父・武蔵がどこで生まれたか、どこで育ったか、なんて情報はない。
A――ところが、武蔵評伝を書きたがる者はそれだけじゃ納まらなかった。この棟札の記事から、武蔵が伊織と同じ米田村田原氏の生れだということがわかる、と言い出した。しかし、そんな話は棟札には一言も書いてないのにね。ようするに、武蔵産地米田村説は、九州の宮本家系図に依拠したものだ。この棟札には関係のない憶測だ。
B――そんなレベルの妄説が横行しているわけだ。それは系図に対する史料批判が欠けている。まあ、系図を見せてもらったら、もうそれ以後は、その系図に批判めいたことは言えなくなる、そんな研究者ばかりになった。これじゃ、客観的な武蔵研究などできないわけだ。
A――それは美作説の支配的だった時代からそうだね。福原浄泉などは平田家系図を振りかざして、研究者を平身低頭させたじゃないか。ところが、この系図たるや、明治の新作で、史料批判に耐えないものだった。
B――それは九州の宮本家系図でも同じことだ。系図というプライベートな事物を貶すと、名誉毀損になりかねない。そんな暗黙の圧力のある環境では、客観性のある研究はできない。系図はその家にとって大事なものだ。《symbolic identification》に関わる宝物だ。それ自体を否定するのではない。ただその系図の史料としての価値は客観的な鑑定を受けなければならない。
C――それはこういうことだろう。たとえばある家で、家宝として伝えられてきた軸があった。その軸が仮に狩野派のもので、眞物だとすれば一千万はする。そう思って大事にしている。ところがあるとき、何かのきっかけで専門家に鑑定してもらう。すると、まさに贋物で、一千万どころか一万だって買う者はあるまいと言われたとする。その場合、この家宝をどうするかだね。捨ててしまうか。しかしこれを捨ててはいけないと思うね。家宝というのはそういうものじゃない。
B――交換価値で決まるような物ではないということだね。家宝は家宝だ。先祖伝来だというなら、それを伝えてきた「歴史」が大事だ。物の真贋が問題ではない。だから系図もそういうものなのだ。真贋が問題なのではない。それを伝えてきたプロセスが大切なのだ。というのも、それが《symbolic identification》を保証してくれるものだからね。書かれた物は、誰かが書いたものだ。その起源が問題なのではなく、これを伝来した過程を大切に思うことだね。それがまさしく真の家の歴史なのだから。そのことと系図そのものの史料的価値とは別問題だ。

泊神社棟札





小倉宮本氏系図


戸伏太兵『剣豪・虚構と真実』
現代教養文庫 昭和33年
戸伏太兵は綿谷雪の筆名




福原浄泉『宮本武蔵の研究』
大原町宮本武蔵顕彰会
昭和48年 増補再版
表紙と中身の題名が違う珍本
C――そこで、面白いのは、綿谷雪という爺さんだったな。この人は、明治三十六年和歌山生れで、淡路育ち、そして神戸二中かどこかだね、神戸でも育った。いずれにしても、あのあたりの生れ育ちだ。早稲田に入ってその後関東で作家生活で、食うための駄本も多いが、武蔵研究書もいくつか出している。綿谷は明確な播磨出生説で、「元祖」米田村田原氏説だが、あるとき美作の福原浄泉に会うね。そして自説を開陳すると頭ごなしに否定された。美作説が支配的で、播磨説など異端もいいところ、という時代だった。
B――昭和三十年代だろうが、この両人の対決というのは、武蔵研究史における巌流島だ(笑)。
A――福原は福原で、綿谷の播磨説を読んで、仕事などそっちのけで武蔵研究に深入りするようになったというしね。彼の本業は、郵便局長さんでしたな(笑)。
C――それで、この綿谷説は、武蔵複数説だね。武蔵は二人いたとするわけだ。こういう説が出てくるのは、彼があちらの系図、こちら系図と見て回り、そしてそれらを総合しようとするわけだね。これも系図信仰が残存する世代の行動パターンだ。明治生れまでは、系図というと何となく頭から尊重してしまう、そんな傾向があるよ。
B――系図の無批判な取り込みは、昔からある弊害だ。むしろ、今の若い研究者だってそうだ。一度系図を拝見させてもらうと、もう、それを無批判に前提した説を立てて羞じない。それが他人から見れば、いかに偏向した姿勢に見えるか、気がつかない。そういう意味で、最近の若い奴ほど研究者としての倫理性を失っているよ。
C――そうかね、だとすれば、これはたいへんだ(笑)。しかし、いま、綿谷や福原に匹敵しうるまともな武蔵研究者などいるのかね(笑)。
B――残念ながら、いないね。見当たらないよ。アホな本を書いて、バカを丸出しにしているやつばかりだ。研究者として評価できるやつはいないねえ。地元はどうなんだ。播磨の地元は。
C――地元播磨のことはよくわからない。よくわからん地域だよ、あそこは(笑)。だいたい『播磨鑑』という肝腎な文献が存在しているのに、それもろくに研究していない。地元ほど、自分のところにある物の価値がわからないものだが、まさにそういう法則が適用可能だね。だから、宝の持ち腐れ(笑)。そのくせ、九州小倉の宮本家系図に依拠した米田村出生説が播磨では支配的という、まさに倒錯的事態だよ。
B――まあ、しかし、いまだに小説家どもは、「作州牢人、宮本武蔵」と武蔵に名のらせておる。世間では、明治末の顕彰会本『宮本武蔵』の支配力はいまだに続いておる。これも困ったことだな。
C――その「作州牢人、宮本武蔵」は、結局、作家どもの不勉強のしるしだよ。だから読者は、「作州牢人、宮本武蔵」と書くやつは、武蔵のことをロクに知らないと自分で宣言している、と思えばよい(笑)。
B――播磨の武蔵を研究する我々のこのサイトは、ようするに、「作州牢人、宮本武蔵」と書いてしまう、世間の無知な小説家どもを啓蒙し救済しよう、という慈善事業でもあるな(笑)。
C――作家に限らず、宮本武蔵に関して知恵遅れ、知的障害の物書きを救う、善意の慈善事業なんだよ(笑)。
A――それで、ちょっと言うと、この「播磨武蔵研究会」ね、どうもネーミングが悪かったのじゃないか、世間では、これが播磨在住の郷土史家たちのグループだと思われているらしい(爆笑)。ほんとうは、「播磨の武蔵」を研究する会だ。「生国播磨」と武蔵が書いているのに、今まで研究が手薄だった「播磨武蔵」をね。
B――しかも、その「播磨武蔵」には出典がある。
A――そうそう、それを言っておかなくては。桶居山〔をけすゑやま〕、まずは天川友親でしたな。
B――喬木堂・天川友親の『増補播陽里翁説』(宝暦八年)に、桶居山の天狗伝説で「播磨武蔵」が出てくる。別の箇処では「宮本武蔵ハ佐土〔さづち〕桶居山にて天狗に兵法を習ふ」とも書いている。喬木堂は天川友親の号、「天川」(あまかわ)と名のるからには、これは飾東郡御着村の人だね。桶居山の近所だね。平野庸脩『播磨鑑』には類似の伝説採集記事があるが、喬木堂のこの記事も知った上で書いておるとわかる。
C――喬木堂が引用した『武将感状記』の武蔵記事を、庸脩は言及のついでに、間違いだと訂正しておるからね。
A――そうでしたな。で、その『播磨鑑』には「此山至テ嶮難ノ岩山也」とある。だいたい、最近の武蔵図説本は、桶居山の写真がなっていない。どれも里の方から山並みを撮っているだけで、「此山至テ嶮難ノ岩山也」という桶居山の姿形を撮っていないやつばかりだ。
B――この山は、数年前に大きな山火事で丸焼けになったが、かえって姿がよくわかるようになった。槍ヶ岳みたいに、桶居山の山容は突出したファリックな格好だな。縦走路を東の方へ行くと高御位山の麓には鹿嶋神社があるしね、天狗伝説は、剣豪にはなじみの主題。桶居山にはこういう話が出る条件はそろっている。ようするに、ファルス(phallus)のコノテーションだ(笑)。
C――喬木堂の断片記事では伝説変態して何もわからないが、さすがに平野庸脩のスタンスは違う。庸脩が見た『武将感状記』は、現在我々の知っているテクストとは明らかに異なるヴァージョンだな。この「播磨武蔵」という名は、そこにあったらしいと知れる。これが「播磨武蔵」の出典の出典だ(笑)。こういうふうにインターテクスチュアルにしか存在しない言葉、それが面白いところだ。
A――そういう話は、地元郷土史家もふくめて(武蔵産地)播磨説の書き手から聞いたことがない。『播磨鑑』の天狗伝説しか知らない。そのうえ、孫引きだから「播磨武蔵」すら知らないのがほとんど。喬木堂の『里翁説』も知らないし、まして『武将感状記』にまつわる「播磨武蔵」のそんな一件は知らない。
C――だから、播磨説の連中は元来不勉強だ、と我々は言うのさ(笑)。
B――ところでだ、その「播磨武蔵」という、インパクトのある、何かムチャな名前だがな(笑)、これに、我々は不意打ちに遇ったように「おう」と感応するものがあった。面白いじゃないか、と。それで、これをネームとして頂戴したというわけだ。
A――「播磨武蔵」という語の典拠はそういうこと。これを「播磨の武蔵」を研究する会の名としてパクった。ところが、この名の典拠をほとんどだれも知らないから、こうやって説明しなければならない(笑)。ようするに「播磨の武蔵」、これを研究するから播磨武蔵研究会。それが、どういうわけか、播磨在住の郷土史家集団となる。
C――まあ、誤解されているなら、それもいいじゃないか。我々がご当地の郷土史家に見えるとすれば、それは我々の勲章だ(笑)。それだけご当地に深入りした研究をやっておるということだから。
B――我々のご当地というのは、現実には非在の場所だ(笑)。どこにも存在しない、ヴァーチャルな場所。我々のご当地は、インターネット上のサイトにしかないわけだ。

桶居山の山容
兵庫県姫路市別所町佐土新


*【播陽里翁説】
《佐土深志野の堺なる桶居へ山に、播磨武蔵といふ兵法者住す。此山にて天狗に兵法習ふと云々、天正頃にや》
《宮本武蔵ハ佐土桶居山にて天狗に兵法を習ふ。
 武将感状記に、宮本武蔵ハ二刀を好む、細川越中守忠利に仕ふ》

*【播磨鑑】
《桶居山 佐土ノ地内北ノ山佐土新村ノ北、上ノ山嶺少シ平也。此山至テ嶮難ノ岩山也。
 此山ニテ古へ宮本武蔵天狗ニ兵法ヲ習ヒシ處ト云。武將感状記ニ、「宮本武蔵ハ二刀ヲ好ム。細川越中守忠利公ニ仕へ五千石ヲ賜リテ家老職ト成。其前兵法修行ニ天下ヲ巡見セシ人也。又播磨武蔵ト云、明石ニテ兵法ノ仕合有」ト云。此武蔵ハ揖東郡鵤ノ宮本村ノ産ナル由、細川家ニ仕フルト有ハ非也。小笠原家ニテ客分トナリ無役ニテ五千石ヲ賜ハリシト也》

――そうでしたね。そのインターネットというメディアなのですが、このたびの武蔵サイトの立上げにあたり、このインターネットというメディアを活用する点について、皆さんのお考えを。
A――我々はこれを一種の「作業空間」、ワークショップとして活用しようとしている。考え方を整理すれば、Webサイトは研究のための作業空間、現場ですな。またそれは、作業プロセスの公開ということで流動的な様相をもつもの。これに対し、ハードコピー版の書物は、作業に一応の区切りをつけたもので固定的様相がある。そこで我々としては、研究を書物として公開するのと違ったロジックで、これを機能させる。
B――それに加えてだね、その作業現場における研究主体の、単一性ではなく複数性ということ。「研究会」というと、何だか秘密結社みたい、と言われるが(笑)、これは作者の個人性ではなく集団性を、研究主体の単一性ではなく複数性を、さしあたりこの研究プロジェクトの綱領にしているというわけだ。
C――秘密結社と思われていいよ(笑)。ただし、やっていることを隠すのではなく、(作業)内容を公開する秘密結社、というパラドクシカルな話だが。
A――播磨武蔵研究会、略して「播武会」ですが、「○○会」と称するとなるととたんに、右翼か暴力団みたい、とも言われる(笑)。
B――ようするに、「○○会」と称して、主体の単一性・個人性ではなく複数性・集団性ということになると、とたんに秘密めいたものになる。まあこれも、個人という実体を妄想確信する近代社会のイデオロギーにすぎないが。アカデミズムに限らず、現代社会では集団には自由な現実の場所がないのだね。そこで、いわば「武蔵学」のために、インターネット上でヴァーチャルな場所を構築しようと。
C――播磨武蔵研究会は、播州の郷土史家ではなく、シュルレアリストの残党なんだ(笑)。インターネットという環境で、シュルレアリスムを復活させようという陰謀だな、これは(笑)。
A――なるほど、プロジェ・シュルレアリスト、そういうことね。インターネット上の研究プロジェクトとして、何かシュルレアリスト特性があるとすれば、ようするに、固定ではなく流動、単一性ではなく複数性、個人ではなく集団、秘密ではなく公開性ということ。
C――むろん、書物・印刷物というメディアは現実的な制約が多い。インターネットというのは、研究のサイト(現場)としてみれば、書物では不可能なことが可能になる。そこが我々の期待するところだ。
B――そういうことで、この「播磨武蔵」というテーマは、まだまだ深化できる。やればやるほど、新しい発見がある。新しい課題が浮上する。そういう意味で、この研究プロジェクトはもっと拡張できるね。
A――拡張もできるし深化もできる。それのきっかけは、泊神社の伊織棟札と『播磨鑑』の研究と読解だったわけね。これを起点として、我々のプロジェクトは展開していくわけだ。
C――方法論を開発しながらね。
――ということで、今回はお開きにいたします。次回はまた、武蔵をめぐって別のテーマでお話しいただきましょう。
(2003年2月吉日)


 PageTop   Back   Next