B――その意味では、武蔵を理解していた稀有な事例は、小林秀雄だった。『五輪書』は、いかにして戦いに勝つか、という指南書だ。小林は武蔵を実践哲学、行為の哲学としてベタ褒めしていた。
C――「私の人生観」だね。小林が武蔵を評価するのはわかるよ。小林は無頼だよ、本質的に。
A――そういえば、亭主が自慢の茶碗で茶を出されて、その亭主の見ている前で、小林は吸っていた煙草をその茶碗にいきなり突っ込む、という逸話があるね。青山二郎の話でしたか。
C――そういう、とんでもない奴なんだよ(笑)。だけど言うが、小林のベルグソン理解というのは、ある意味で極めて日本的だ。具体性の哲学というが、ベルグソン本来のマテリアリズムが、どうしても抽象化して美学になるねえ。武蔵をプラグマティズムの文脈で捕えるのはいいとして、これは新しいと評価する。
B――そのばあい、小林秀雄は世間の凡庸な精神主義的な武蔵理解への反措定をやっているのだ。行為哲学、具体的な実践哲学としての武蔵というのは、やはり精神主義的武蔵像へのアイロニカルな批判としてある。
C――「私は、武蔵という人を、実用主義というものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人だとさえ思っている」という小林秀雄の鑑定はね、しかし間違っているよ。行為、行為といいながらつい思索と言ってしまうのも小林の欠点だが、何でも最初だの最高だのとランキングしなければ気がすまないのも困ったものさ。しかし、小林が間違っているのは、彼が言っているような実用主義は、何も武蔵に始まるものじゃないということ。本来武士という暴力集団に特有なものだったということだ。「暴力哲学」というものがあるとすれば、武士の実践哲学がそれだ。武蔵は一種の遅れてきた兵法家だが、それより一世代前までの兵法家には、精神主義なんてかけらもない。小林のいう実用主義者だ。したがって、武蔵はそういう実用主義を思索した最初の存在ではなく、反対に最後の存在だと言える。
A――まったくその通り。武蔵は暴力の実用主義を体現する最後の世代ですな。そういう意味で、武蔵は暴力を具体的な殺人技術として語りえたのだね。
C――しかし、小林は《culture》と《technique》を区別して、前者につくだろ。しかし、武蔵のいう「器用」というのは、まさしく《technique》の領域のものだ。殺人のテクノロジーという肝腎なところで、小林の言葉は失敗して、逆に武蔵を「文化」へ回収してしまうわけだ。それはベルグソン的じゃないね(笑)。
A――直木三十五と菊池寛の武蔵論争にしても、結局、武蔵と上泉伊勢守とどっちが偉いか、という精神論だ。まったくおかしいのは、でたらめな史料で両人が勝手にそれぞれのイメージを作りあげていることだ。
C――小林は両人よりはるかに頭がいいから、そんな話はしない。けれども、武蔵の「器用」という語に独特の触覚を働かせながら、それをテクノロジーの言語ではなく、実用と美という文化的文脈でしか語れない。それでは武蔵を語ったことにはならない。しかし言うまでもないが、小林の武蔵論は今でも出色であることには変りはない。
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小林秀雄(1902〜1983)
私は、武藏といふ人を、實用主義といふものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人だとさへ思つてゐる。少くとも、彼の名が、軍國主義や精~主義のうちに語られた時、私は、笑はずにはゐられなかつた。兵法家が、夢想~傳に假託して流儀を説く事は、當時普通の事で誰も怪しまなかつた。又、澤庵の樣な、禪を以て剣を説く坊さんがゐた樣な時代で、見識ある兵法家は、奥義秘傳の表現に、禪家の語法を借りるのも、一般の風であつた。武藏には、禪も修した形跡があるが、さういふ風潮からは超脱してゐた。自分の流儀には、表も裏もない。「色をかざり花をさかせる」樣な事は一切必要ない。たゞ「利方の思ひ」といふものを極めればよい。さういふ考へから、當時としては、恐らく全く異例な、兵法に關する實際的な簡明な九箇條の方法論が生れたのであるが、その中に「諸職の道を知る事」といふ一條がある。又「諸藝にさはる事」といふ一條がある。「道の器用」は剣術に限らない。諸職の道にそれぞれ獨特の器用がある。又「目に見えぬ處を悟つて知る事」といふ一條がある。器用といふ觀念の擴りは目で見えるが、この觀念の深さ、樣々な異質の器用の底に隠れた關聯は、諸藝にさはる事によつて悟らねばならぬ。武藏は、出來るだけ諸藝にさはらうと努め、彼の言葉を信ずるなら「萬事に於いて、我に師匠なし」といふ處まで行つた。今日殘つてゐる彼の畫が、彼のさはつた諸藝の一端を證してゐるのは言ふ迄もないが、これは本格の一流の繪であつて、達人の餘技といふ樣な性質のものではない。技は素人だが、人柄が現れてゐて面白いといふ樣なものではない。彼は、自分の繪の器用が、自分の劍の器用に及ばぬ事を嘆いたが、餘技といふ文人畫家的な考へは、彼には少しもなかつたと思ふ。それも、器用といふものの價値概念が、彼にあつては、まるで尋常と異つてゐたからだと思ふのです。(「私の人生観」昭和24年)
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